2015-12-27

"7つの言語 7つの世界" Bruce A. Tate 著

プログラミング言語を効果的に習得する方法は、その言語の得意とする問題を記述してみること... そんな当たり前にも思える学習モデルを実践することは意外と難しい。優れた思想ほど宗教化しやい側面があり、開発組織は政治的な思惑に支配される傾向がある。言語信奉者に自己存在を問えば、宗教熱にも拍車がかかる。愛着のある言語の柔軟性を自負して、他言語を迫害するのであれば、使い手の思考の柔軟性はいったいどこへ。まさか思想の開祖が、弾圧を目的としてきたわけではあるまい。自由と柔軟性は相性がいい。柔軟性をともなわない自由は、窮屈なものとなろう。どんな言語にも、哲学、思想、文化といったものが育まれる。言語システムがある程度の妥協を受け入れてきた理由を理解するには、その言語が辿ってきた歴史を知らなければならない。こうした背景を単なる記述の手段として片付けるのは、あまりにも惜しい。概念、言語、パラダイム、技法に直接触れてみることの重要さは、いくら強調しても足りない。
しかしながら、一つの言語を習得することは、一つの文化を学ぶことを意味し、生半可な覚悟では済まない。その根底にある動機はプログラミングを楽しむこと、そして、最終的に自分自身の言語を見つけ出すことになろうか。自然言語が人間魂の投影であるならば、プログラミング言語は技術魂の投影とでもしておこうか...

"Ruby, Io, Prolog, Scala, Erlang, Clojure, and Haskell"
ここでは、Java, C++, Python などの人気言語が意図的に外されるが、むしろ惚れっぽい天の邪鬼にはありがたい。商用プロジェクトにどっぷり浸かっていると、新たな言語に触れる機会は著しく限られ、新たな概念を持ち込もうとすれば、激しい抵抗にもあう。おまけに、プログラミング言語の評価では、勝者と敗者に振り分けて語られる風潮がある。人間社会がこれだけ多様化しているにもかかわらず、多数決が正義とされるのは、この分野に限った話ではない。ドメイン固有とは、多様化した人間社会における居場所を求めることに他ならない。真に汎用言語というものは、それが長所であると同時に短所となりうる。これといったキラーアプリケーションがないことを意味するのだから。おそらく相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体が、万能な言語を編み出すことなど不可能であろう。
また、Ruby が比較対象とされるところも、個人的に馴染みやすい書となっている。各言語とも三日間の講習コースとして計画され、21日 + αというわけだが、読破するのに1ヶ月以上かかってしまった。
本書の不思議なところは、掲載されるコードをそのまま入力し、同じ結果が得られるかどうかを確かめるだけで、何かに挑戦してみたいという気分にさせてくれることだ。新たなスキルを身につけようとする時、最初に良き教師に出会えれば幸運である。ただ、教師は人とは限るまい。書籍も素晴らしい教師となりうる。とはいえ、学問の道で最短距離を駆け抜けることは至難の業。学ぶ側から高みに昇っていき、良き教師、良き書籍を嗅ぎ分ける眼力を養うしかない。そのために、失敗を受け容れるしかなさそうだ...

「プログラミングを学ぶことは、泳ぎを覚えるのに似ている。いくら理論を学んでも、プールに飛び込んで、息をしようと喘ぎながら水の中で手足をばたつかせる経験には代えられない。最初水中に沈んだときはパニック状態になるが、水面にひょいと顔を出して空気を飲み込むと、うれしい気分になる。自分は泳げる!と思えるからだ。 ...
禅の指導者は、数学が出来るようになりたければラテン語を勉強せよと言うだろう。プログラミングでも同じだ。オブジェクト指向プログラミングの本質を深く理解するには、論理プログラミングや関数型プログラミングを勉強する必要がある。関数型プログラミングに上達したければ、アセンブラを勉強する必要がある。」
... Erlang の作者 Joe Armstrong

1. 7つの言語とその人物像
言語の性格を語るのに、映画とその登場人物を重ねながら、多分に文学的な要素を交える趣向(酒肴)もなかなか...

Ruby は、メリー・ポピンズ。
乳母という仕事から考え得る限り情熱を引き出すことで、家事を効率的なものにする。スプーン一杯の砂糖があるだけで、苦い薬も飲めるのよ!まさにシュガーシンタックスこそが抽象度を高める。コレクション操作におけるシンプルなループ構文や直感的な範囲指定など豊富な API によって...
「オブジェクト指向の設計哲学における重要な教義は、実装ではなく、インタフェースに合わせてコーディングするというものだ。ダックタイピングを導入すると、ほとんど何の作法もなしに、この設計哲学を簡単に適用できる。」

Io は、フェリス・ビューラー。
何でも一度はやってみるタイプで、若くて、ずる賢く、分かりやすいが、まったく予測不能ときた。柔軟性が高いがゆえに、少しおかしな動きをする。
「問題は何をするかではない、何をしないかだ!」
商業的には成功していない言語だが、コルーチン、アクター、フューチャに基づく並行性構文を絶賛している。

Prolog は、レインマンのレイモンド。
要領の悪い自閉症だが、型にはまると超人的な能力を発揮する。確かに古い言語で、洗練されているとは言い難いが、条件の厳しい専門性において強力。
「この言語は驚くほど利口な場合もあれば、それと同じくらいイライラさせられることもある。素晴らしい答えが得られるのは、質問の仕方が分かっている場合だけだ。」

Scala は、エドワード・シザーハンズ。
はさみを持つ人間と機械のあいのこは、まさにオブジェクト指向型と関数型の橋渡しをするハイブリッド。世間から非難される幻想的なキャラクターは、時にはぎこちなく振る舞い、時には驚くほどの能力を見せる。厳密に言えば、純粋な関数型ではない。C++ が純粋なオブジェクト指向型ではないように。

Erlang は、マトリックスのエージェント・スミス。
仮想世界マトリックスの人工知能プログラムであるスミスは、姿形を自由に変え、複数の場所に同時に存在できる。この言語は並行性における分散処理と耐障害性という特徴を有し、そこには「クラッシュさせろ!」という哲学があるという。普通とは真逆の発想だが、信頼性に自信がある裏返しか。それも、副作用なしという前提で初めて機能する哲学だ。
「Erlang のような謎めいた言語はほとんど見かけない。Erlangは、難しいことを簡単にし、簡単なことを難しくする並行処理指向言語だ。」

Clojure は、スターウォーズのヨーダ。
賢明なカンフーの達人、丘の上に立つ預言者、謎めいたジェダイの指導者。見た目は地味ながら非常に高い能力を秘め、ありとあらゆる生命体に遍在するエネルギー、すなわちフォースを自在に操る。Lisp 方言の一つで、マクロや高階構文を使いこなすには、フォースを見抜く修行が必要というわけだ。おまけに、話し方は語順が逆で理解しづらく、前置記法ときた。

Haskell は、スタートレックのスポック。
論理と真理を崇拝し、世代を超えて愛されるひたむきな純粋さ。
「Haskell は、関数型プログラミングにおける多くの純粋主義者にとって、純粋と自由の象徴である。その機能は豊富で強力だが、それには代償が伴う。Haskell では、関数型プログラミングを少しかじってみるといった安易な考えは許されない。とにかく関数型プログラミングという料理を余すことなく完食することを強制される。」

2. 関数型とオブジェクト指向型の相互運用
プログラミング言語の進化が、コンピュータ科学の中で比較的ゆるやかなのは、頭の固いアル中ハイマーとってありがたい。歴史を振り返れば、二十年くらいのサイクルで大きなパラダイム変革が生じている。現在では、並行性と信頼性が中心的な話題であろうか。
ここでは、Ruby と Prolog を除く5つの言語が並行性モデルを採用している。並行性におけるオブジェクト指向型言語の問題は、副作用から生じる可変状態を許すことにある。複数のスレッドやプロセスが同時に発生すると、この可変状態の管理が極端に複雑になる。
とはいえ、状態を持つことはモジュールの抽象度を高める効果があり、オブジェクト指向では根幹をなす概念の一つである。
一方、純粋な関数型は、同じ関数を何度呼び出しても、同じ入力に対して必ず同じ答えを返す。まさに数学の関数概念だ。副作用なし!これを保証するだけで、競合状態における複雑さが解消される。このタイプには、Scale, Erlang, Clojure, Haskell が属す。
しかしながら、オブジェクト指向との関わり方では、大きく戦略が違うようだ。関数型とオブジェクト指向型の共存を目指すものもあれば、オブジェクト指向と完全に決別するものもあり、あるいは、現実的に共存を認めながら最終的に決別しようというものもある。
Scala のアプローチは共存方針で、強い関数型の性質を用いながらオブジェクト指向を混入している。
Clojure のアプローチは互換性重視だが、「OOPは基本的に一部欠陥がある」という考え方が根底にある。JVM上で構築され、Javaオブジェクトを直接利用できるメリットがあるが、Javaとの相互運用性の方が重視され、Clojure という言語自体を拡張することが目的ではないようだ。
Erlang と Haskell は基本的にスタンドアロン言語で、オブジェクト指向を一切許容しない。
ちなみに、Ruby はオブジェクト指向型でありながらコードブロックによって関数型の概念を少し導入しているものの、これらの並行性からは程遠いようである。

3. 並行性構文のコンポーネント
本書は、並行性構文で鍵となる三つのコンポーネントを挙げている。それは、コルーチン、アクター、フューチャ。その基盤を成すのがコルーチンで、プロセスの実行を自由に停止し、再開できる機構だという。複数の入口と出口を持つ関数のようなものか。
Java や Cベースの言語は、プリエンプティブ・マルチタスクの概念が用いられる。この並行性概念に、変更可能な状態を持つオブジェクトが組み合わさると、予測が極端に難しくなる。
対して、コルーチンは従来方式とは異なり、協調的マルチタスク(ノンプリエンプティブ・マルチタスク)に不可欠な機構で、非同期でメソッドが呼び出せるという。
アクターは、メッセージの送信、メッセージの処理、他のアクターの生成を行う並行性プリミティブで、複数のメッセージを同時に受信してキューに登録し、その内容をコルーチンで処理していく。
メッセージは、sender, target, arguments の三つのコンポーネントからなり、リフレクションを実行するためのメソッドが多数用意されている。尚、アクターは、理論上スレッドより有利だという。
フューチャは、非同期のメッセージを呼び出しによって返される結果オブジェクトのこと。他からの問い合わせは、結果値が使用可能になるまでブロックされるという。
本書は、こうした並行性概念を、Io の事例で味あわせてくれる。というのも、シンタックスが、コルーチン、アクター、フューチャの実装にマッチしているからだという。
Io のシンタックスは、なかなかの感動モノ!母音二文字の名が象徴するように、単純でローレベルに設計されている。それはメッセージを単純にチェーン連結したもので、クラスとオブジェクトを区別しない。メッセージそのものがオブジェクトで、ルートオブジェクトからひたすら実体を複製していく(クローニング)。このクローンがプロトタイプと呼ばれ、プロトタイプベースの言語というわけだ。非同期のメッセージを送信すると、アクターそのものがオブジェクトになる。しかも、Io のフューチャは、デッドロックを自動的に検出する機能を備えているという。シンタックスは、Lisp のように単純で、セマンティクスは強力で柔軟。
しかしながら、Ruby のように動的な性質を実現した代償として、単一スレッドではパフォーマンスが悪い傾向にあるという。乱暴に言えば、すべての知識や経験は関連付けで成り立っている。DNAの螺旋構造もまたチェーン連結のごとく増殖していく。プラトンが唱えたイデアのような精神の雛形は、いわば理想像。理想なんてものは暇人の考えることで、実体はすべて実践の関連付けのみで構築されることを暗示しているのだろうか。
尚、もともとは、Steve Dekorte がインタープリタの動作を理解するための練習で書いた、いわば趣味レベルの言語だそうな。
アクターの機構は、Scala や Erlang も継承し、パターンマッチングを用いて着信メッセージを照合し、条件分岐させて実行するという。その高度なパターンマッチングの方法としてユニフィケーションを紹介してくれる。ユニフィケーションは、パターンマッチングの親戚のようなもので、実は、Prolog の備える機構だという。
さらに、Erlang とその仮想マシンは堅牢なモニタリング機能を備えるため、異常な兆候を察知した時点で、通知したりプロセスを再起動したりできるという。
いまや、スレッドやプロセスを開始してセマフォを持つような仕組みでは不十分で、アクターやフューチャなどの高機能な並行性構文の必要性が高まっているようである。

4. ソフトウェアトランザクションメモリ(STM)
並行処理にとって可変状態は、オブジェクト指向に潜む悪の根源。これに対処するため、Io と Scala はアクターベースのモデルを用いて、変更不能な構文を用意している。
Erlang は軽量プロセスを用いたアクターと、効果的なモニタリングと通信を可能にする仮想マシンによって、比類のない信頼性を実現している。
一方、Clojure のアプローチは他とは異なり、STM を使う。
ところで、データベースではトランザクションによってデータの整合性を保証する、二つの制御方法を見かける。一つはロックで、競合するトランザクションが同時に同じ行にアクセスするのを防ぐ。二つはバージョニングで、各トランザクションが競合データのコピーを保持できるように複数のバージョンを用意して、互いの干渉を防ぐ。Java などでは、競合スレッドから保護するためにロックを用いるため、こちらの方が馴染みがあろうか。
しかし、ロックは並行制御のための作業が負担となり、なかなか耐え難いものがある。
対して、STM の戦略では、複数のバージョンを用いて一貫性と整合性を維持するという。Clojure で STM を用いるのは、スレッド間の一貫性を保ちながら可変状態を実装できるということらしい。STM は、共有リソースに対する分散アクセスをトランザクションでくるむ方法で、参照状態を変更する時はトランザクションのスコープ内で行う必要がある。その意味では、Clojure はデータベース言語にも見えてくる。Clojure では、dosync関数でくるみ、複数のスレッドやプロセス間での整合性を維持するという。Lisp方言の Clojure は、こうしたアプローチに理想的な言語だという。Lispは、マルチパラダイム言語だから。
尚、STM は比較的新しい概念で、人気のある言語でも採用され始めているようである。

5. リスト内包表記とモナド
Haskell は、本書に登場する唯一の純粋な関数型言語である。Scale、Erlang、Clojure も関数型ではあるが、命令型の概念を少し取り入れている。Haskell にそのような逃げ道はない。純粋とは、同じ関数に同じ入力を与えれば必ず同じ結果が得られるという意味で、けして副作用を許さず、書き換えることのできる状態がどこにも存在しないってことだ。
そのために、I/O処理やエラー処理といった簡単な処理が難しくなる。その対処法として、Haskell では「モナド」という概念を用いて状態を保持する方法を紹介してくれる。
ところで、リスト内包表記は、Python など他の言語にも広まりつつある表記法ではあるのだけど、極めて数学的な表現であることを改めて実感させてくれる。つまり、カリー化や高階関数を表記する上で効果的だということを。カリー化とは複数の引数をとる関数を渡す表記法で、高階関数とは戻り値に関数を返したり、引数に関数を受け取る関数のこと。どちらもラムダ計算のような理論モデルに欠かせない概念だ。この表記法によって、再帰処理がリスト処理によって強力になる。ちなみに、Ruby は高階関数の代わりにコードブロックを使う。
リスト内包表記は、複数の概念をまとめて一つの強力な構文を作り上げる。これを適合しやすい演算は、フィルタ、マップ、直積といったところであろうか。
さて、モナドの方だが、それは精神融合のようなものか。ライプニッツ風モナドロジーが頭に浮かぶ。それは、副作用のない関数群という安定性に着目し、型の異なる関数を融合するという考え方である。モナドの構成要素は、以下の三つ。
  • コンテナになるものの型を変数に取る型構成子。コンテナとして使えるものは、変数やリストなど値を保持できるもので、ここに関数を収める。
  • 関数をラップしてコンテナに格納する return 関数。
  • 関数をラップするバインド関数(>>=)。関数を数珠つなぎにする。
そして、モナド m, 関数 f, 値 x に対して、以下の三つのルールを満たす必要があるという。
  • ラップした値はそのまま関数に渡すことができる。
    return x >>= f = f x
  • 情報を失うことなく値をアンラップおよびラップできる。
    monad >>= return = monad
  • バインドをネストした場合と、それらをシーケンシャルに呼び出した場合とで結果が同じ。
    (m >>= f) >>= g = m >>= (\x -> f x >>= g)
さらに、命令型を書くための do 記法を紹介してくれる。それは、モナドを記述するためのシンタックスシュガーである。
しかしながら、モナドが柔軟性が高いとはいえ、高度な知識が必要という意味では融通が利かない。

6. おまけ... 強い型付けと静的な型付けの混同
強い型付けと静的な型付けの混同しないように!と注意を促される。実は、おいらもよく見失う。
大雑把に言うと、強い型付けは、2つの型に互換性があるかどうかを検出し、互換性がなければエラーを投げるか、型の強制変換を行うという意味。
本書は、表面的には、Java と Ruby はどちらも強く型付けされているとしている。ただし、この見解は単純化しすぎると断りつつ。
一方、アセンブラや C言語は、弱く型付けされている。整数値か文字列かなどは、コンパイラは意識しない。だから、書き手が意識することになる。
静的な型付けと動的な型付けは、また別の問題である。静的型付けでは、型の構造体に基いてポリモーフィズムが行われるという。つまり、遺伝的な青写真によってアヒルかどうかを判定するのが静的型付けで、鳴き声や歩き方によってアヒルかどうかを判定するのが動的型付けであると。
静的型付けは、コンパイラとツールがコードに関する情報を保持し、エラーを捕捉したり、コードを強調表示したり、リファクタリングしたりできる点では有利だが、そのために作業量が増え、制約が生まれる。このトレードオフをどのように感じるかは、プログラマの経験やセンス、あるいは好みや設計分野にも左右されるだろう。

2015-12-20

"プログラミング作法" Brian Kernighan & Rob Pike 著

次のような経験をしたことはないだろうか... と、いきなり問いかけてくる。見透かされたかのように。どうせ、おいらはすべて経験済みさ!
  • 間違ったアルゴリズムでコーディングしてやたらと時間を無駄にした
  • 使用するデータ構造が死ぬほど複雑になった
  • プログラムをテストしたのに明白な問題点を見落としていた
  • 5分もあれば見つかるはずのバグを1日がかりで探し回った
  • プログラムを3倍速くしメモリ使用量も減らしたいと思った
  • ワークステーションとPCの間でプログラムを移植するのに苦労した
  • 他人のプログラムに少々変更を加えようとした
  • さっぱり理解できないプログラムを書き直した

問題解決のための手段の一つに言語があるが、その選択は目的次第。おそらく、すべての問題を同時に、効率よく、解決できる言語は存在しないだろう。なんでもやれることを望めば、低水準へ向かうことになる。だがそれでは、ソフトウェアの本質である簡潔性、効率性、移植性が維持できるはずもない。相対的な価値観しか持ち得ない知的生命体が、万能な言語を編み出すことなど不可能であろうから。それでもなお、ソフトウェア工学に普遍観念なるものを求めるとすれば...
「どんな言語で書くにせよ、プログラマとしての読者の任務は手もとのツールを使ってベストを尽くすことだ。良きプログラマは貧弱な言語や使いづらいオペレーティングシステムを克服できるが、悪しきプログラマを救うのはたとえ最高のプログラミング環境だろうと不可能だ。読者の現在の経験や実力がどの程度であれ、本書を参考にして実力を向上させ、プログラミングの楽しみをもっと感じられるようになれば幸いだ。」

本書で紹介されるコード事例は、C言語族が中心で、やや古臭さを感じないではない。現在では、メモリ容量やプロセッサ性能など豊富なリソースを前提にした慣習が根付いている。しかし、哲学的な作法はあまり変わらない。ガベージコレクションのような自動化機構の性能がいくら高まっても、完全に頼るわけにはいかないだろう。ここには、数々の教訓が鏤められる。とりあえず、気に入ったものを三つ挙げておこう...
「悪いコードにコメントをつけるな、書き直せ!」
「最適化の第一の原則は最適化するな!」
「簡潔性と明瞭性は何よりも重要だ。これ以外のものはすべてここから派生すると言っても過言ではない。」

これは、C言語や UNIX の開発で知られるブライアン・カーニハンとロブ・パイクのベル研コンビが綴ったプログラミングの王道を問う物語である。

「人が歴史から学ぶことができたなら、歴史は我々にいかなる教訓を与えてくれるだろうか。だが、我々の目は感情と利害に覆われ、経験のもたらす光明も船尾にともるカンデラにすぎず、我々の背後に遠ざかる波を照らすだけなのだ。」
... Samuel Taylor Coleridge 「Recollections」

さて、本書の内容を大まかに拾うと...
  • 良きプログラミングには、良きスタイルが不可欠。美しく書けば間違いも少なくなり、デバッグや修正も楽になり、最初からスタイルを意識することになる。
  • 単純なアルゴリズムと単純なデータ構造を選択せよ。
  • 簡潔性と関連することの多い概念に一般性があり、その次に進化がある。
  • インターフェイスは、プログラミングにおける戦いのかなりの部分を占める。その最も当たり前のケースはライブラリだ。
  • 自動化は過小評価されている概念である。テストを系統的に整理し、自動化せよ。テストやデバッグだけでなく、コードの自動生成も含めて検討する価値がある。
  • 記法も過小評価されている。記法は、単にプログラマがコンピュータに作業を指示する方法ではなく、様々な種類のツールを実装するための有機的な枠組をもたらし、プログラムを記述するプログラムの構造を導き出す。
しかしながら、内容よりも数々の名文句に目を奪われる。こちらは、ちと細かく拾ってみよう...

1. スタイルとデータ構造について
スタイルとは、プログラミング哲学を意味し、これが本書の骨格を成している。アルゴリズムの美しさやデータ構造の単純さは、設計哲学の投影というわけか。

「昔から言われるように、最高の書き手は時にレトリックのルールを無視することがある。ただしそうした場合には、ルール違反を補ってあまりあるメリットがその文を通して読者に伝わるのが通例だ。それに確信が持てない限り、おそらく書き手はできる限りルールに従おうとするだろう。」
... William Strunk & E. B. White 「The Elements of Style」

「結局のところ、具体的な問題に適正に対処する方策はこの分野のツールとテクニックに馴染むこと以外に存在しないだろうし、クオリティの高い成果が一貫して得られるようになるには一定の経験を積む以外に手はないだろう。」
... Raymond Fielding 「The Technique of Special Effects Cinematography」

「私にフローチャートを見せてテーブルを隠しておいたなら、私はずっと誤魔化され続けるだろう。しかしテーブルを見せてくれればたいていはフローチャートなどいらない。一目瞭然だからだ。」
... Frederick P.Brooks,Jr 「The Mythical Man Month」

2. インターフェイスと実装について
「壁を築く前に私はよく自問した。何を壁の内に閉じ込め何を外に閉め出そうとしているのか、自分が誰を傷つけようとしているのか、と。どこかに壁を愛さないものがいる。壁を倒したがっているものが。」
... Robert Frost 「Mending Wall」

「設計の真髄は、競合する目標や制約をバランスさせることにある。小規模な自立したシステムを書いているときにもトレードオフを迫られることは何度もあるだろうが、個々の選択によって生じる影響はそのシステムの中にとどまるし、そのプログラマにしか及ばない。しかし他人に使われるコードの場合には、自分の判断がもっと広範な影響を及ぼす。」

「ライブラリやインターフェイスを一発で正しく設計できる可能性は低い。Fred Brooks がかつて言ったように、"捨てるつもりでいること。どうせ捨てることになるのだから"。Brooks が言ったのは大規模なシステムについてだが、この考え方は実用的なソフトウェアすべてに通用する。実際にプログラムを作成して使ってみるまでは、正しく設計するのに必要な課題を十分に認識できないのが普通だ。」

3. テストとデバッグについて
テストとデバッグはまとめて扱われることが多いが、両者をごっちゃにしてはならないという。大まかに言えば、デバッグは問題があると分かっている時の作業で、テストは正常に動作していると思われるプログラムを破綻させようとする確信犯的でシステマチックな作業... といったところか。

「テストによってバグの存在は証明できるが、バグの不在は証明できないという Edsger Dijkstra の有名な言葉がある。」

自分のコードを他人に説明することも、第三者の目を要請する効果的な方法となろう。コードレビューにしても、共通な書き方を求めるよりも、哲学の共有の方がはるかに重要である。そのために、しばしば雑談会となるが、仕事が楽しめればそれでいい。
例えば、技術問題で悩んでいるメンバーに、ちょっと説明してみてよ!と持ちかけると... ホワイトボードの前で自信なさそうに喋っているうちに、いつの間にか問題の根幹に気づき、解決法を自信満々に語り始める... といったこともよくある。
バグは確実に再現できる時は、恐れるに足らん!問題は再現できない時で、頻度が少なくても、深刻な問題を抱えていることが多い。

「打つ前に読め!効果的なわりに過小評価されているデバッグテクニックのひとつに、"コードを舐めるように読んで、変更を施さずにしばらくよく考えてみること" がある。... 早くキーボードを触りたいという気持ちを抑えること。思考はそれに勝るとも劣らない行為だ。」

「コードを最初から上手に書けばその分バグも少なくなるし、徹底したテストを実行していることに確信が持てるようになる。コーディング時に境界条件のテストを記述することは、くだらないちょっとしたバグを大幅に減らす手段として効果的だ。系統的なテストは潜在的な問題発生箇所を順序正しく調査する方法だが、この場合もやはり境界部分で間違いが見つかることがもっとも多く、手やプログラムでそれを検証できる。
テストはできるだけ自動化することが望ましい。回帰テストはプログラムが以前と同じ答えを出すことをチェックする。小さな変更を施すたびにテストを実行するやり方は、問題の発生源を絞り込むのに有効なテクニックとなる。新しいバグは、新しいコードで発生することが多いからだ。」

4. 慣習と標準化について
「最後に、慣習と同様に標準化も強制に近い形で立ち現れることがある。しかし慣習と違って標準化は近代建築においては現在のテクノロジーの凝縮された結果として是認されてきたが、一方でその潜在的な支配力と非人間性が懸念されている。」
... Robert Venturi 「Complexity and Contradiction in Architecture」

「おそらく人間によるあらゆる創造物の中でもっとも驚くべきものは言語である。」
... Giles Lytton Strachey 「Words and Poetry」

2015-12-13

"高速アルゴリズムと並列信号処理" 谷萩隆嗣 著

十年来、引き戻され続ける書がある。いつも悩まされている事は、ありきたりではあるが、いかに効率よく近似するか、いかに高速処理を実装するか。酔いどれ数学オンチは、この分野で永遠に赤点を取り続けるわけだ。そういえば、鏡の向こうの住人も、いつも顔が赤い!

デジタル信号処理の礎となる数学の概念に、サンプリング定理と直交関数系がある。サンプリング定理とは、再現性の限界を定めたもので、ナイキスト周波数とも呼ばれ慣れ親しんできた。そして、その周波数から生じる位相を数学的にどう扱うかが問題となる。
一方、複雑な演算処理では乗算回数や加算回数が問題視され、アルゴリズムの効率性が問われる。そこで重宝されるのが直交関数系である。直交とは、幾何学で言うところの直角を代数的に抽象化した概念である。これを、加法や乗法で定義された多項式で考察する時、正則性や転置性といった行列式の性質を利用できるように仕組むと、演算量を大幅に減らすことができる。その際、2乗可積分関数の列として捉え、ノルムの収束性が、すなわち平均収束ってやつが正規直交系へ、さらには完備(完全)な正規直交系へと、より甘美な世界へいざなってくれる。ただし、確率論的ではあるのだが...
本書に紹介される数々の方法論もまた、直交の概念に支えられている。解析学にも、任意の物理現象を直交関係にある関数成分に分解することが、基本的な思考としてある。こいつは、線形代数における真理であろうか。やはり、バーへ向かうベクトルとクラブへ向かうベクトルも、ある次元空間上において直交関係にあるに違いない。その証拠に、今宵もまた完備(甘美)な夜の社交場へ直行するのであった...

本書はまず、離散フーリエ変換(DFT)、離散コサイン変換(DCT)、離散ハートレー変換(DHT)、ウォルシュ・アダマール変換(WFT)、カルーネン・レーベ変換(KLT)が紹介され、線形性、対称性、周期性、推移則、合成積則(巡回畳み込み計算)、相関則などの性質から離散型アルゴリズムの有用性を語ってくれる。
また、高速フーリエ変換(FFT)や高速コサイン変換(FCT)などの高速バージョンに加え、高速数論変換や高速多項式変換も興味深い。
そして、並列アルゴリズムでは、多次元FFT、遺伝的アルゴリズム、シストリックアルゴリズムが紹介され、さらに、アレイ信号処理における配置の仕方では、空間スペクトルの非線形性や分解能の考察、そしてパワースペクトルの推定にまで議論が及ぶ。
特に、高速演算を実装するプロセッサの設計において、パイプライン処理の時間的単位と並列処理の空間的配置の組合せは、幾度となくお世話になってきた概念である。シストリックアレイでは、畳込み演算、行列積和演算、IIRフィルタ、多項式除算、逐次最小2乗法に適した構造が紹介され、これらを眺めるだけでも、幸せな気分にさせてくれる...

1. 収束条件
関数列の直交展開において、基底関数に三角関数が選ばれる理由は、区間 (-π, π) において完備な正規直交系であることで、フーリエ級数は平均収束することが知られている。尚、フーリエ級数 f(x) は、よくこの形で表される。

f(x) = a0/2 + ∑(an cos nx + bn sin nx)

これの部分和、fk(x), (1 ≦ n ≦ k) において...

fk(x) = a0/2 +  k

n = 1
(an cos nx + bn sin nx)

任意のε>0 と x に無関係な m を適当に選ぶ。この時、k > m を満足するすべての k と任意の x に対して、|f(x) - fk(x)| < ε が成り立てば、fk(x) は、f(x) に一様収束するという。
ここで、有名な二つの判定条件をメモっておこう。

[Jordan の判定条件]
点 x0 ∈ (-π, π) のある近傍で f(x) が有界変動ならば、f(x) のフーリエ級数は、x = x0 で、{f(x0 + 0) + f(x0 - 0)}/2 に収束する。さらに f(x) が連続ならば、任意のε>0 に対して、区間 (a + ε, b - ε) で一様収束する。

[Dini の判定条件]
Φx(t) = f(x + t) + f(x - t) -2f(x) の時、点 x0 ∈ (-π, π) において、

π
0
   |Φx(t)|

 t 
 dt < ∞

が成立すれば、フーリエ級数は x = x0 で f(x) に収束する。

2. 高速フーリエ変換(FFT)と間引き型アルゴリズム
FFTのアルゴリズムでは、データを間引いて DFT を施し、演算数を大幅に減らすという考え方がある。代表的な Cooley - Tukey アルゴリズムもその一つ。
本書は、時間間引き型と周波数間引き型のアルゴリズムを紹介している。それは、時間方向で間引きするか、空間方向で間引きするかの違いで、基本的な演算方法は同じ。
DFTは次式で定義される。

X(k) =  N - 1

n = 0
x(n)exp ( -j   2πnk

 N 
) , k = 0, 1, ..., N - 1

W = exp(-j2πk/N) とおくと、




そして、時間間引き型と周波数間引き型のバタフライ計算は、こんな感じ...






3. 高速数論変換(FNTT: fast number theoretic transform)
FFTを利用して巡回畳込み計算をする時、次のような問題があるという。
まず、FFTの変換核 WN は、複素数の三角関数で、事前計算や WNn の保存などが必要。また、FFTの計算にはある程度の誤差が生じるという。ただし、複素数体上で巡回畳込み特性を持つ変換は、DFT だけだとか。
そこで、複素数体以外の代数体を調べた結果、整数の mod M での剰余類環 ZM 上に、DFTの構造に似たような性質があることが発見されたという。これが、「数論変換」と呼ばれる。
数論の基本では、整数と素数の関係や、最大公約数と最小公倍数の考察があり、モジュロ演算が重要な役割を果たす。大雑把に言えば、整数を、mod M で同値とみなす思考法だ。オイラーの定理やフェルマーの定理(小定理)が重要な基本定理として君臨する世界とも言えよう。
数論変換は、正の整数 M に対し、mod M での整数環 ZM 上に、次のように定義される...

長さ N の信号系列 {x(n)} (n = 0, 1, ..., N - 1) に対して、{x(n)} ∈ ZM, a ∈ ZM と仮定する。
{x(n)} を変換行列 T




で変換すると、次式が得られる。

X(k) ≡  N - 1

n = 0
x(n)αnk (mod M), (k = 0, 1, ..., N - 1)

逆変換は、次式。

x(n) ≡ 1/N  N - 1

k = 0
X(k)α-nk (mod M), (n = 0, 1, ..., N - 1)

なるほど、FFTと同型であるが、それだけでなく、巡回畳込み特性を持っていることが特徴だという。尚、物理的な意味の薄いアルゴリズムで、応用例は少ないのだそうな。古書なので今はどうか知らんが、興味深い形をしている。

4. 高速多項式変換(FPT: fast polynomical transform)
M(z) を有理数体上の多項式とし、{Pm(z)} (m = 0, 1, ..., N - 1) を有理数体上の多項式の列とすると、次式で定義される。


_
Pl(z)
 ≡  N - 1

m = 0
Pm(z)(αzd)ml   mod M(z), (l = 0, 1, ..., N - 1)

ただし、α は定数、d は正の整数。
また、次の逆変換が存在する場合、可逆多項式変換と呼ばれる。


Pm(z) ≡ 1/N  N - 1

l = 0
_
Pl(z)
(αzd)-ml   mod M(z), (m = 0, 1, ..., N - 1)

可逆多項式変換は、巡回畳込み特性を持つという。尚、本書では有理数体で記述されるが、複素数体に拡張できるようだ。
また、可逆多項式変換であるための必要十分条件は、

St = 1/N  N - 1

m = 0
(αzd)mt

とすると、次のようになるという。

St ≡ 1  mod M(z), t ≡ 0 (mod N)
St ≡ 0  mod M(z), t ≠ 0 (mod N)

5. シストリックアレイ
systolic とは、心臓の収縮を意味する。ホストコンピュータが心臓の鼓動のように規則正しくデータを演算器に供給し、データは演算器の間を血流のように脈動することから、その名が付けられたという。この言葉だけで、高度なパイプライン構造を匂わせ、演算器の配置がアルゴリズムの効率性に関わることを想像させる。ノイマン型コンピュータは、記憶部から読み出した命令コードやデータを演算器で処理し、その出力結果をメモリに戻す、といった工程を踏む。
したがって、演算器の計算能力だけが高くても、メモリとの入出力バンド幅の制限によって、システム全体の性能を引き出すことができない。いわゆる、「フォン・ノイマン・ボトルネック」ってやつだ。
そこで、複数の演算器を直列に配置し、それぞれの出力結果を記憶部に戻すのではなく、次の演算器に伝搬させながら、末端の演算器からすべての結果をまとめてメモリへ戻したり、あるいは、並列に配置して見かけ上の入出力バンド幅を大きくしたり、さらには、演算器と補助メモリを一組で配置するなど、様々な工夫が施される。こうした演算器の配置では、それぞれの処理時間を固定し、順序正しく同期的に処理することで効率を高めるなど、プロセッサの設計では、だいたい時分割処理と並列処理がセットで計画される。近年、マルチプロセッサが搭載されるケースも多く、CPU の数に比例した処理速度を引き出すために、時間的な配置と空間的な配置が重視される。
本書は、一次元シストリックアレイと二次元シストリックアレイの事例を紹介してくれる。
一次元シストリックアレイは、演算器を直列接続した構成で、畳込み演算、FIR/IIR フィルタ、行列ベクトル乗算などに向いているという。そして、演算器にローカルメモリを配置する構造も示している。
二次元シストリックアレイは、直交接続、三角接続、六角接続などが紹介され、行列積和演算には直交接続、逐次最小2乗法には三角接続、LU 分解には六角接続が、ぞれぞれ向いているという。二次元アレイ構造では、高速な処理能力を持つ反面、大規模になるほどクロックスキューや接続数の増加が深刻になり、コストも高くなる。
尚、畳込み演算用、行列積和演算用、IIRフィルタ、多項式除算、逐次最小2乗法の構成イメージは、こんな感じ... これらを眺めているだけでも、構造上のヒントを与えてくれる。












2015-12-06

"自己増殖オートマトンの理論" John von Neumann 著

ジョン・フォン・ノイマン... このプログラム内蔵方式電子計算機の創案者は、情報工学の歴史において最初のページに登場するクロード・シャノンやノーバート・ウィーナーと並び評される。1949年、彼はイリノイ大学で「複雑なオートマトンの理論と構成」と題して、5回の講義を行ったそうな。その概要は、次の3行で始まる。
  • 高速デジタル計算機の論理的構成と限界
  • 計算機やその他の自然オートマトンおよび人工オートマトンの比較
  • 自然に見出される神経系の比較からの推測
本書は、この講義をアーサー・W・バークスが編纂したものである。
「計算機と自然の有機体との間の重要な類似点と、そしてそのような異なるが関係のあるシステムを比較することの発見的な意義とを意識して、彼は、その両者を含む理論を求めた。彼はこのこれからつくる体系的理論を、オートマトンの理論と呼んだ。」

コンピュータ工学を論ずる時、論理学や情報理論が中心的な話題となるのが普通であろうが、ここでは熱力学や確率論といった不確定な性質の方に目が向けられる。特に注目したいのは、生物学との融合を唱えている点である。
「オートマトンの形式的研究は、論理学、通信理論、生理学の中間領域に属する問題である。それはこの3分野のどれか一つだけにとらわれた立場で見たのでは片輪なものになってしまうような抽象化を内包している。」
ここに題される自己増殖とは、神経系の自己複製や自己修復をも含む自立性や自律性といった機能を持つ有機体としての存在である。コンピュータ構造を論理的に記述しようとすれば、λ定義の可能性や一般帰納性との等価性、あるいはチューリングマシンの計算限界性を問うことになろう。
一方で、純粋に神経細胞モデルを構築しようとする研究の立場がある。プロセスを公理化するのではなく、基本細胞をモデル化するだけで、あとは細胞間の振る舞いと自己能力によって機能を進化させようという目論みである。単純系から複雑系への自発的移行、もっと言えば、有限チューリングマシンから無限増殖マシンへの進化とでもしておこうか。複雑な精神構造が、もともと純粋精神の原型なるものから始まったとすれば、プラトン流イデア論にも通ずる。はたして理想化された神経細胞の集合体が、どんな解を弾き出してくれるのか?これは、ノイマン流進化論である。ただし、導かれる帰結が進化か?退化か?はたまた神の創成か?悪魔の創成かは知らん...

オートマトンの理論には、複雑系に立ちはだかる二つの問題を抱えている。それは信頼性と自己増殖性の問題で、両者はトレードオフの関係にある。信頼性が複雑度の限界を決定することになるが、自己増殖性の機能を有するにはかなり複雑なオートマトンを要する。その構成には、必要最小限の器官組織と適切なサイズというものがありそうだ。人体の大きさや複雑さ、あるいは人口においても、地上で人間社会を営む上で、しかも秩序の維持と犯罪の発生確率との均衡において、適切な規模を保とうとしている。おそらく民主主義が機能しやすい規模や限界というものがあるのだろう。それが、地表面積や重力との関係から決定されるのかは知らん。
本書では、信頼度については、確率性の観点から有機体の組み立て可能性を論じ、自己増殖については、論理性の観点から最小単位である細胞構造を論じている。さらに、細胞組織の議論に論理的万能性の追求があり、こう結論づけている。
「したがって、von Neumann の 29 状態細胞構造中に、万能 Turing 機械の計算を行うことができ、かつまたそれ自身を増殖できるようなオートマトンを埋め込むことができる。」
進歩には自己触媒的な側面を持つわけだが、論理的にたった 29 の状態で万能細胞を構築できるとは、にわかに信じがたい。数学的には、非線型の問題と特異点の問題に着目し、非線型偏微分方程式に大きな役割を与えている。
実際、連続解だけが存在すべきとされる中で、突然、不連続解に重要な役割を与えることがある。生物学で言うところの突然変異ってやつだ。連続した意志エネルギーの蓄積から生じる開眼のような。連続性と離散性の協調にこそ、その真意が内包されていそうである...

1. お馴染みのコンピュータ構造
基本的な考察は、お馴染みの...
構成要素については、高速記憶装置、中央演算装置、外部記憶媒体、入出力装置、および中央制御。プログラミングについては、高度に帰納的な手続きと再帰的手続きのコード化、そしてサブルーチン化やライブラリ化といった構造的方法、及び言語系の階層構造。設計については、回路素子を速度、寸法、信頼度、エネルギー消費の面から考察し、インダクタンスやコンダクタンスが生み出す非線型な物理特性を数学的にどう扱うか。
...といったところであろうか。
本書は、理想化された計算素子を採用することに、二つの利点があるとしている。一つは、設計者が計算機の論理設計を回路設計から分離できること。二つは、オートマトン理論の方向への第一歩、つまり、理想的な神経細胞、記憶器官の採用にほかならないこと。人間がいかに自分自身を論理的に設計できるか?これが自然オートマトンの投げかける問いである。
とはいえ、オートマトンの理論には、素子の故障確率までも含まれる。数理論理学では、理想化されたスイッチと遅延素子の完全性、すなわち決定論的な操作しか扱わないが、現実世界では、故障や誤動作への対処の方が重要となる。
したがって、連続的数学と離散的数学の双方を扱うことになり、解析学的にならざるをえない。具体的には、アナログ制御とデジタル制御の協調、そして、複雑な連立非線型偏微分方程式を解く能力を自己に問うこと。今日、デジタル時代と言われながら、設計現場では、微小信号の検知、高周波制御、省電力設計などで高度なアナログ技術が要求される。すべてをイエスかノーかの二項対立というビット概念で制御できればいいが、しばしば回路素子の遅延が問題となる。プラグラミングとは、スイッチの関数表を構築するようなもので、遅延は厄介な問題だ。位相の小さい信号に対しては、制御が容易であっても、一旦発振が始まると、高度な安定発振の状態に陥り、制御不能となる。ただこれを、神経系の応答時間としてモデル化することはできそうか...

2. 五つの自己増殖モデル
ノイマンは、オートマトンモデルを論理の側面と組立の側面から追求している。そして、論理的万能性、組立可能性、組立万能性、自己増殖性、進化性の面から論じ、五つのモデルを考案している。

[運動学的モデル]
プロセスやアルゴリズムなどの処理手順の観点から、運動、接触、位置決め、融合、切断などの幾何学的運動を扱う。尚、力やエネルギーの問題は無視。その基本構造は、感覚的要素(知覚のような)、運動的要素(筋肉のような)、論理的要素(分岐)、記憶要素(遅延)などで構成され、情報を蓄えて処理する。

[細胞モデル]
論理学的、数学的に扱うには、運動学に着目するよりも、細胞に着目した方が構成がイメージしやすい。全く同じ有限オートマトンが各細胞に組み込まれ、無限空間において自己増殖を促し、次世代の生成を促す。各細胞は 29 の状態を持つ有限オートマトンで構成され、隣接する四方の細胞と直接に1単位時間か、それ以上の遅延を伴って通信し合う。数学的には、行列でモデリング。

[刺激 - 閾 - 疲労モデル]
細胞モデルを基礎とする。無限構造の細胞モデルに 29 状態のオートマトンを採用し、疲労と閾値の機構を追加。より現実組織に近い神経細胞モデルとして、絶対不応期と相対不応期の概念を組み込む。神経系に、ある刺激によって活動電位が一度発生すると、二度目の刺激では反応が低下し、興奮も和らぐ。この時期が不応期であるが、全く興奮しない時期が絶対不応期で、多少の興奮をともなう時期が相対不応期である。相対不応期の活動電位は、振幅が小さく、伝達速度も遅い。疲労度によって興奮する閾値が変化し、抑制能力も変化するという仕掛け。スイッチ作用、出力の遅延、作用を制御するための内部記憶、そしてフィードバック作用を組み合わせた構成。

[連続モデル]
まだ未完成のモデルだが、液体中の拡散過程を示す連立非線型偏微分方程式を採用する予定だったようである。解析学の技法を用いて、自己増殖の連立偏微分方程式を、刺激 - 閾 - 疲労モデルと結びつける構想だったとか。数学的な問題は、神経細胞の興奮作用、閾作用、疲労作用を記述する偏微分方程式を定式化すること。神経細胞は、他の神経細胞からの入力によって刺激され、これら入力刺激の合計が神経細胞の閾値に達すると、細胞体の外から内へナトリウムイオンが流れて興奮させる。イオンの流れ、すなわち拡散によって細胞体が脱分極される。この拡散と脱分極が軸索、すなわち神経繊維を伝わって神経細胞の発火となる。発火後、カリウムイオンが神経細胞の内から外に拡散して、神経細胞を再び分極する。ナトリウムとカリウムの化学平衡は、やがて回復する。化学的な拡散が基本的な役割を演じるという仕掛け。ノイマンは、連続モデルと称しながらも、非線型な拡散型偏微分方程式を選んだという。
それは、離散性から連続性への回帰という道筋が示されるかのような。あるいは、連続系の微分方程式を離散系の差分方程式で置き換え、デジタル計算機によって近似解を求める道筋とも言えようか。いずれにせよ、偏微分方程式の境界条件が重要な役割を演じることになる。連続モデルと細胞モデルの対比は、アナログ計算機とデジタル計算機の協調という見方もできよう。

[確率的モデル]
ノイマンは、生涯を通じて確率論の応用に興味を持っていたという。状態遷移が決定論的に決まるのではなく、確率的であるようなオートマトンとは?自己増殖、すなわち進化を論じるからには、やはり突然変異を無視するわけにはいかない。とはいえ、自然淘汰説の定量化とは途轍もない構想と言わねばなるまい。状態の考察では、論理学では真と偽、神経細胞では興奮と静穏、そして、入出力、刺激と応答、枝分かれ... といった具合に展開され、こららの論理積、論理和、否定などの基本操作で、単純なステートマシンを構築するイメージ。静穏検出では、興奮可能性と興奮不能性を区別し、機能不全をも含み、さらに潜像状態が考察される。潜像を持ち出すのは、幻想や幻覚の類いまでもモデル化しようという魂胆か?そして、効率の悪い単純で弱いオートマトンが、効率の良い複雑で強力なオートマトンにいかにして進化できるかを問う。

3. 29状態オートマトンの雰囲気を記述してみよう...
まず、単純な二次元正方格子から、状態の関係を時間と空間において定式化する。座標 θ = (i, j) によって指定される領域を、ベクトル空間上で加法的量として捉える。その最近隣は、(i±1, j), (i, j±1) の4点と、斜め隣りの (i±1, j±1) の4点。状態遷移は、この二次元空間を無限に動き回る。

  ν0 = (1, 0)
  ν1 = (0, 1)
  ν2 = -ν0 = (-1, 0)
  ν3 = -ν1 = (0, -1)
  ν4 = (1, 1)
  ν5 = (-1, 1)
  ν6 = -ν4 = (-1, -1)
  ν7 = -ν5 = (1, -1)




しかしながら、細胞構造の論理的万能性を、ひたすら二次元空間に求めている点は、ちと抵抗を感じないではない。各細胞の連結を三次元空間で構想すれば、遷移の方向を立体交差で考察でき、より細胞器官モデルに近づけられるはずだが。あるいは、伝達関数を簡略化するための戦略であろうか?ノイマンは、どうやら自己増殖オートマトンを二次元で構成したかったようである。

次に、普通刺激を T0、特別刺激を T1 といった具合に記述し、伝達状態、合流状態、興奮不能状態、潜像状態を定義する。

伝達状態 Tuae
  u = 0, 1 : 普通刺激と特別刺激
  a = 0, 1, 2, 3 : 右、上、左、下
  e = 0, 1 : 静穏状態と興奮状態

合流状態 Cee'
  e = 0, 1 : 静穏状態と興奮状態
  e' = 0, 1 : 次に続く静穏状態と興奮状態

興奮不能状態 U

潜像状態 S
  ∑ = θ, 0, 1, 00, 01, 10, 11, 000




さらに、これに加えて次の∑に対する S が定義される。
  ∑ = 0000, 0001, 001, 010, 011, 100, 101, 110, 111
尚、これは、Tua0 と C00 を T000, T010, T020, T030, T100, T110, T120, T130, C00 の順にとったものと同じ。




そして、全部で、伝達状態 16(2 x 4 x 2)、合流状態 4(2 x 2)、興奮不能状態 1、潜像状態 8 の 29個になるというのである。へ~...

4. 遷移規則の雰囲気を記述してみよう...
有限オートマトンは、前述のように 29 状態を持つとされる。無限オートマトンは、この有限性に初期状態を与え、その後は、単位時間 t における細胞状態と4つの直隣りの細胞状態への遷移だけで拡張されていく。そして、時刻 t+1 における細胞状態は、遷移規則によって決定している。その遷移の概略はこんな感じ...

種類名称記号個数遷移規則の概略
興奮不能U1 直接過程は U を潜像状態に変えて、その後、Tua0 か C00 へ。
逆過程は、Tuae や Cee' を殺して U へ。
普通刺激合流Cee'4 自分に向いた T0ae から論理積で受け、自分に向いていないすべての Tuae へ2倍の遅延で発信。
自分に向いた T1a1 によって殺されて U へ。殺す作用は受信より優先。
伝達T0ae8 自分に向いた T0ae から及び Cee' から論理和で受け、出力方向へ。
  a) 自分に向いていない T0ae へ、および Cee' へ、
  b) U または潜像状態へ、直接過程として、
  c) T1ae へ、逆過程で殺すために、
単一の遅延で発信。
自分に向いた T1ae によって殺されて U へ。殺す作用は受信より優先。
特別刺激T1ae8 自分に向いた T1ae から及び Cee' から論理和で受け、出力方向へ。
  a) 自分に向いていない T1ae へ、
  b) U または潜像状態へ、直接過程として、
  c) T0ae または Cee' へ、逆過程で殺すために、
単一の遅延で発信。
自分に向いた T0ae によって殺されて U へ。殺す作用は受信より優先。
潜像S8 これは直接過程の中間状態(参照図:中間状態における遷移)。
U に向いた Tua1 は Sθ へ。その後、S は、
  a) 一つでも Tua1 が自分に向いていれば、S∑1 へ。
  b) それ以外は、S∑0 へ。
そして、Tua0 または C00 になることによって直接過程は終了(参照図:直接過程における遷移)。

2015-11-29

"確率の哲学的試論" Pierre-Simon Laplace 著

ピエール=シモン・ラプラス... 数学オンチのおいらは、この名を聞くだけで蕁麻疹がでる。ラプラス変換ってヤツのために。微積分における線形変換系のことで、回路方程式を解く上で欠かせない数学の道具であるが、酔いどれにできることといえば、作用子の変換表を鵜呑みにすることくらい。おかげで、アナログ回路設計という物理数学の世界から、デジタル回路設計という論理学の世界、いや屁理屈の世界へ逃避する羽目に...
ここでは、拒絶反応を少しばかり抑えて、ラプラス哲学に触れてみる。本書は、確率を誤差の振動と捉えれば、解析学に通ずることを教えてくれる。それは、再帰級数の応用と、最も単純な周期性を示すπとの関係であり、フーリエ級数のような三角関数によって近似値が得られる原理を匂わせてやがる。そして、解析学でよく目にする数式と出会えたことに感動するのであった...

ここでは、ラプラスの決定論的世界観を垣間見ることができる。すべての命題は、普遍命題へ向かう。それは、確率が 1 になることを意味する。ラプラスの崇拝するものはニュートン力学で、この時代、すべての知識は科学で説明できるとされた。なるほど、確率論とは、冷徹なほどに虚無をまとった形而上学であったか...
「したがって、われわれは、宇宙の現在の状態はそれに先立つ状態の結果であり、それ以後の状態の原因であると考えなければならない。ある知性が、与えられた時点において、自然を動かしているすべての力と自然を構成しているすべての存在物の各々の状況を知っているとし、さらにこれらの与えられた情報を分析する能力をもっているとしたならば、この知性は、同一の方程式のもとに宇宙のなかの最も大きな物体の運動も、また最も軽い原子の運動をも包摂せしめるであろう。この知性にとって不確かなものは何一つないであろうし、その目には未来も過去と同様に現存することであろう。人間の精神は、天文学に与えることができた完全さのうちに、この知性のささやかな素描を提示している。」

現在でもなお、どんなに複雑な、どんなにカオスな、どんなに不完全な現象でも、そこに宇宙法則が潜んでいるに違いないという研究者の執念が、科学を支えている。目的因や偶然性で説明しようとするのは、真理を知らないことの証拠と言わんばかりに。ラプラスの知性は、地道に知識を積み重ねてきた連続性のテーゼによって支えられ、まさに永劫回帰と呼ぶべきものであろう。彼の唱える連続性が、解析学の根幹をなす微積分と相性がいいのもうなずける。
しかしながら、ラプラスの決定論は、なぜ不確かさが生じるのか?という問いには答えてくれない。無知ゆえに不確かだとすれば、無知をどう打破するというのか。結局、ソクラテス流の問答に回帰する。決定論と確率論は、本当に矛盾しないのか?と...
帰納法的な確率も、統計的な確率も、決定論で説明しようとすれば、もはや現象の解釈は主観に委ねられる。条件付き確率を唱えたところで、条件となりうる原因は多義的にならざるをえない。誤差の概念を持ち込んでも、誤差とは可能性であり、その可能性の解釈もまた確率で論じることになる。経験の積み重ねによって、確証の正解率を増大させるかもしれないが、無知もまた増大させる。物理現象を人間が認識するとは、純粋な物理系に観測系が関与することを意味するのであって、すでに主観と客観の狭間で自己矛盾に陥っているではないか。そして、決定論が理想像に崇められた時、もはや自問することをやめ、偉大な知性が暴走を始める。「ラプラスの悪魔」と呼ばれる所以だ。したがって、知性は、健全な懐疑主義と啓発された自己主義によって支えられている、としておこうか...
「確率は一部はこの無知に相対的であり、一部はわれわれの知識に相対的である。」

1. 確率の一般的原理
本書には、十の原理が羅列される。十戒のごとく。これらが、主観の原理によって支えられていることは確かであろう。注目したいのは、第三原理において確率と錯覚について言及している点、第八、第九原理において有利さの概念、すなわち好都合や、利益と損失の関係から期待値が心配値に変質する点、第十原理において人間存在の価値に言及している点である。つまりは... 偶然に関する理論は、事象の存在確率を問うことであり、好都合の比率こそが可能性の正体であり、分子は好都合の場合の数で、分母が可能な場合の総数であるような分数に他ならぬ... というわけだ。そして、物的期待値もあれば、精神的期待値もあるということを付け加えておこう。
尚、確率の公理の簡潔な数学的記述は、20世紀のコルモゴロフの登場を待つことになる。

[第一原理]
第一の原理は確率の定義にほかならない。確率とは、すべての可能な場合の数に対する好都合な場合の数の比である。

[第二原理]
ところが、第一原理は異なる場合が等しく可能であると前提している。もしそうでないなら、それぞれの場合の可能性をまず決定する。これを正しく評価することが偶然性の理論で最も微妙な点の一つである。この時、確率は各々の好都合な場合の可能性すべての和である。

[第三原理]
確率論において最も重要な点の一つであり、しかも最も錯覚を呼び起こしやすいのは、いくつかの確率が互いの組み合わせによって増加したり減少したりする仕方である。もし複数の事象が互いに独立であるならば、それらの事象がともに生じる確率は個々の確率の積である。

[第四原理]
二つの事象が互いに依存する場合、それら二つが複合した事象の確率は、第一の事象の確率と、その事象が生じたものとして第二の事象が生じるであろうという(条件つき)確率との積である。

[第五原理]
すでに生じた一つの事象の確率と、予期されるもう一つの事象とこの事象とを合わせた複合事象の確率とがアプリオリに計算できるものとしよう。この時、第二の確率を第一の確率で割ったものは、すでに観察された事象のもとでその予期された事象が生じる(条件つき)確率である。

[第六原理]
一つの観察された事象について、それを生み出しうる(そして互いに両立しない)原因がいくつか考えられるとしよう。この時、各々の原因が存在すると仮定した時にその事象が生じる(条件つき)確率が大きければ大きいほど、その原因(が当の事象の本当の原因であること)の確率も大きい。かくして、これらの原因の各々が存在する確率は、分子としてその原因を仮定した時にその事象が生じる確率をとり、分母として同様の確率をすべての原因にわたって合計したものをとった分数である。もしこれらの原因がアプリオリには等確率でない場合は、各々の原因を仮定した時の当の事象の確率の代わりに、その確率とその原因自体の(アプリオリな)確率との積を取らなければならない。これが、偶然性の分析のうちで、事象からその原因へと遡る推論の分野での基本的な原理である。

[第七原理]
未来の事象の確率は、観察された事象に基づく各々の原因の確率と、その原因が存在すると仮定した時のその未来の事象の確率との積をとり、それらの積すべての和をとったものである。

[第八原理]
この有利さがいくつかの事象に依存する時、数学的期待値は、各事象の確率とその事象が生じることで得られる利益との積を合計したものである。

[第九原理]
確率をともなう一連の事象のうち、あるものは利益を生み出し他のものは損失をもたらすとしよう。この時、全体からもたらされる有利さは、各々の好都合な事象の確率をそれがもたらす利益に乗じてそれらの積を合計したものから、各々の不都合な事象の確率をそれにともなう損失に乗じてそれらの積を合計したものを差し引くことによって得られる。もし、後の合計が前の合計より大きければ、利益は損失となり、期待は心配に変わる。

[第十原理]
無限に小さい額が持つ相対的な値は、その絶対値をそれと利害の関わりを持つ人の全財産で割ったものに等しい。これは、どのような人もなにがしかの財産を有しており、その価値は決してゼロではありえないと想定している。実際、無一文の人でも、自分の存在に対して、少なくとも彼が生きていくためにどうしても必要なものと等しいだけの価値は常に与えている。

2. 異常と誤差
異常とは、稀な事象を言うのか?あるいは不都合を言うのか?人間社会では、自分の属すグループの側を正常と呼び、それ以外のグループを異常と呼んで蔑む。ここには、ある種の排他論理が働いている。嘘もまた条件つき確率として振る舞い、集団性によって巨大な流言と化し、欺瞞の巧みな者がしばしば勝利する。アプリオリな決定の限界、すなわち主観判断の限界は、既にカントによって唱えられている。
ところで、統計学には正規分布というものがある。ガウス分布とも呼ばれるやつだ。これを正規と呼ぶことに少々違和感はあるものの、平均値を中心に左右対称の釣鐘型の曲線を描くという意味では、美しい関数特性を持っている。
また、近似モデルの一つに最小二乗法がある。誤差の2乗をとることで、プラスとマイナスで対称性をなす特徴があり、最良の誤差を数学的にどう捉えるかという観点から、正規分布と相性がいい。
こうした特性をラプラスは、死亡表と出生率などの事例から説明してくれる。わずかな幸福も、利益の可能性と無限の願いとの積からなるというわけか。そこには、医療福祉政策や年金制度を合理的に決定できるというメッセージが込められている。
しかしながら、無差別の原理を決定論でどう説明するか?という問題は、相変わらず残されている。これがラプラスの弱点であり、確率論の永遠のテーマなのかもしれん...

3.母関数と級数展開
一つの変数 x を持つ関数 A が、変数の累乗の大きさを昇っていく順に並べられた級数に展開される時、これら累乗の任意の一つ xm にかかる係数は指数関数となり、その係数を cm と表す。

  A(x) = ∑cmxm

この A(x) が母関数である。これは形式冪級数であり、係数が確率の質量を表すかのように振る舞う。x0項, x1項, ... を考察することによって、確率関数が記述できるという寸法よ。そして、これを有限界で解くことによって実用性をもたらしてきた。
しかしながら、数学者の興味は、無限へと向う。実際、無限における非連続性こそが、複雑な近代社会を投影するかのようである。金融危機や疫病の蔓延、突然勃発するテロや紛争などは、物理学的ブラックホールや数学的アトラクターといった力学系を持ちださなければ説明できそうにない。ラプラスも、極限の原理を導入することを示唆している。尤も連続性においてであるが...
「有限から無限に小さいものへの移行は、微分計算の形而上学に多大な光を投げかける。この移行により、微分計算は、不定な微小量だけそれぞれ増加させた指数の関数を級数展開し、その級数のなかで微小量の同じ累乗の係数を比較することにすぎない。」

ところで、解析学には、サブタンジェント(接線影)という概念がある。曲線 y = f(x) のサブタンジェンは、サブセカント(割線影)が絶えず近づいていく直線と考える。そして、サブセカントの二つの交点が累乗に従って展開された級数の第一項として記述し、これをテイラー展開する。こうした思考は、近似法において、すこぶる有効である。




ここで重要なのは、サブセカント s と y の関係である。

  y/s = ⊿y/⊿x ...(1)
  s = y⊿x/⊿y ...(2)

次に、y = f(x) において、⊿x → 0 で収束する様子を見る。

  y + ⊿y = f(x + ⊿x) ...(3)

この右辺を、⊿x の冪級数にテイラー展開すると、

  f(x + ⊿x) = f(x) + ⊿xf'(x) + ...

そして、(3)から y = f(x) を引き、両辺を ⊿x で割ると、この形になる。

 (y + ⊿y - y)

 ⊿x 
 =   f(x + ⊿x) - f(x)

 ⊿x 
 =   f(x) + ⊿xf'(x) + ... - f(x)

 ⊿x 

極限値を決定する上で重要なのは、第二項である。右辺の第二項は ⊿x で割り切れて f'(x) となり、左辺の第二項は ⊿y/⊿x となり、(2)より s の極限値は導関数 f'(x) で決定づけられる。

  ⊿x → 0 の時、s = y/f'(x)

これが、近似法におけるだいたいの主旨であり、結局、角θにおけるサブタンジェント(接線影)を問うことになる。
なんと!本書はこれを確率の視点から考察している。つまり、収束するか否かを。ただし、難解!その確率を求める計算式は、こんな形になるそうな...

 ⊿n{s(s - 1)...(s - r + 1)}i

 {n(n - 1)...(n - r + 1)}i 

尚、この場合の s は、最終的に 0 なるべき内部変数だとか。詳細はラプラス著「確率の解析的理論」を参照とのこと。確率とは、存在するか否かを問うことであり、存在するとは、影を引きずって生きることを言うのかもしれん。
ラプラスは、自らの方法論を「母関数の計算」と名づけている。
「定積分の極限が実数であり正であると仮定した場合に到達する級数は、その極限を決定する方程式が負あるいは虚数の解しか持たない場合にも同様に生じるということである。この正から負、そして実数から虚数への移行を利用したのはわたしが最初であるが、さらに、それによって、わたしはいくつかの特異な定積分の値を得ることができた。」

4. 大数の法則に見る哲学的意義
ラプラスは、ヤコブ・ベルヌーイの功績を称えながら、哲学的試論の意義を語る。
「理性、正義、および人間性の永遠の諸原理においてさえ、それにいつも伴う好都合な見込みだけを考えて原理に従えば大きな利益があり、原理から逸脱するなら重大な不都合を招く... こういったことを、人は疑いなく興味を持って理解することであろう。このような見込みが、富くじにおける有利な見込みのように、偶然性の揺れのなかでついには大勢を制するのである。」
実際、日常の経験に基づいた確率や、期待と心配によって誇張された確率は、純粋に計算で導かれる確率よりも強く作用する。そして、これは、大数の法則の極限的な表現である。
「観察と実験が限りなく繰り返されるならば、生じるはずの種々の事象の比率は、それぞれの事象の可能性の比率に、絶えず収縮する区間の限界内の差で近づき、この区間は与えられたどんな量よりも小さくすることができる。」

5. ド・モアブルの方法とスターリングの定理
ド・モアブルは、積分を極めて好都合に用いた方法論を見出したという。二項公式に基づいた方法で、その特徴は再帰級数の応用にある。
まず、以下の幾何(等比)級数を考える。

  a + ar + ar2 + ar3 + ...

n番目の二項の関係において、

  xn - rxn-1 ...(1)

添字 n を n-1 で置き換え、定数 k をかけると、

  kxn-1 - rkxn-2 ...(2)

(1) から (2) を引くと、

  xn - (r + k)xn-1 + rkxn-2 ...(3)

次に、公比が k に等しい別の幾何級数をとる。

  b + bk + bk2 + bk3 + ...

同じ手続きを繰り返すと、以下の三つの式が得られる。ただし、かける定数を最初の級数の公比 r とする。

  yn - kyn-1 ...(1')
  ryn-1 - rkyn-2 ...(2')
  yn - (r + k)yn-1 + rkyn-2 ...(3')

そして、二つの級数の項ごとに和をとると、

  (a + b) + (ar + bk) + (ar2 + bk2) + (ar3 + bk3) + ...

つまり、(3) および (3') と同型である。

  zn - (r + k)zn-1 + rkzn-2 ...(3'')

さらに、再帰級数で抽象化すると、

  c0 + c1t + c2t2 + c3t3 + ...

つまり、二つの幾何級数の和として記述でき、二つの解はこれらの級数の公比に他ならないというわけだ。これは、物理現象を解く上でしばしば見かける形であり、次元を思わせるような魔力を感じる。

さらに、ド・モアブルは、二項式の高い累乗においてスターリングの定理を利用したという。その特徴は、円周が半径に対して持つ比の平方根 √(2π) を導入する点にある。ちなみに、現代の記法では以下のようになる。この近似値はしばしば重宝してきたが、こんなところで出会えるとは...

  x! ≒ √(2π)・x(x + 1/2)・e-x

2015-11-22

"確率の哲学理論" Donald Gillies 著

確率論は人間社会にとって有用な道具であり、なによりも人生の選択が確率に支配されている。そう、人生はギャンブルだ。ギャンブルってやつは、賭けるものによって決定的な違いを見せる。勝てば単に賞金がもらえるのと、負ければ財産を失うのとでは、まったく意味が違ってくる。おまけに、過去を引きずるかどうか、という根本的な問題を抱えている。ベイズ的か、ランダム的か、それは極めて主観的な判断だ。負け癖がつけば、マルコフ性を超えた条件の暗示にかかる。大局ではエルゴード性を示しながらも、人生の成功には確率以上の嗅覚が求められる。人間の判断力を最も左右するものは、やはり恐怖心か。人生の岐路には、経済的破産と精神的破綻という恐怖が常につきまとう。
では、この精神作用を、どうやって数学的に説明できるというのか。ギャンブルに勝利の法則でもあるというのか。仮にあるとして、その法則をギャンブルの参加者が全員知っていたらどうだろう。もはや主観と客観の葛藤は避けられそうにない。確率論ってやつは、ある事象の存在確率を追求する学問であり、自己の魂の存在すら明確に説明できないのだから、仕方がないことかもしれん...

あらゆる物理現象や社会現象の確率性に関して、コンピュータ科学による一般化や法則化が進められているが、その有用性は確実に証明されておらず、それこそ確率的だ。そこには、確率を利用する帰納法の問題がある。そう、チューリングのテーゼに通ずる道だ。演繹法と帰納法とでは、おそらく前者の方が学問の王道であろう。だが、後者との調和によってはじめて実践的となる。
確率論の実践では、極めて経済学的な視点を要請してくる。世間では、リスク管理と呼ばれるやつだ。ケインズは、自由主義や資本主義がもたらす、経済循環の柔軟性は確率的にどこまで容認できるか、という問題を提起した。本書もまた、確率論に対するケインズの立場を紹介してくれる。同世代のフランク・ラムゼイのケインズ批判とともに。二人とも、元をたどれば数学者。
確率論を数学と呼ぶことに少々抵抗を感じるものの、少なくとも経済学や社会学と数学の架け橋となってきたことは認めよう。ただ、人間行動の不合理性を合理的に説明しようとする時点で、既に矛盾を孕んでいる。パスカルは、神の存在確率を問うた。カントは理性に問いかけても、まともな答えが返ってこないことに絶望した。悟性はいつも問いかけてくる... それは確率なのか、神の仕業なのか... と。勝利を神に祈るならば、同時に敗者の出現を祈ることになる。いつも成功し、いつも欲望を満たしていれば、確率に縋る必要はない。確率論とは、敗者の言い訳のために編み出されたものなのか。堕落した賭博者ほど神が見えるというのか。

現実世界は、あまりにも不完全なもので覆われている。それは、「確か」ではなく、「確からしい」という動機に支配されている。検索エンジンでは、完璧な結果を慎重に出力するよりも、そこそこ正しそうな結果を手っ取り早く出力することが求められる。純粋なランダム生成器を構築することは難しいが、擬似ランダムの生成ならば、すこぶる簡単だ。厳密な計算に要する労力と大雑把な思考法は、常にコストの上で天秤にかけられる。そして、面倒臭いという性癖が、集団的動機にバイアスをかけるという寸法よ。
確率論とは、数学に属しながらもなお、主観と客観の狭間をさまよう道のようである。著者ドナルド・ギリースは、確率論の歴史が、主観的な立場をとってきたことを物語り、古典理論、論理説、主観説、頻度説、傾向説、間主観説といった諸説、あるいは、ベイズ主義と非ベイズ主義、主観主義と客観主義といった立場の違いを紹介してくれる。彼は、どれが正しく、どれが間違っているなどと野暮なことは言わない。状況に応じてうまく調合する多元主義に立脚している。人間が絶対的な価値観に到達できない以上、人間の持つ合理性に近づくためには、主観と客観、双方とも欠かせまい...

1. 確率の解釈
今日、確率に対する主要な解釈は四つあるという。
  • 論理説... 合理的な信念の度合いとする解釈。すべての人間が合理的に行動することを前提。
  • 主観説... 特定の個人がもつ信念の度合いとする解釈。信じる信じないは個人の自由。
  • 頻度説... 長い系列において、事象が起こる有限な度合いを確率と定義する立場。
  • 傾向説... 繰り返される一連の条件に内在する性質や傾向であるという解釈。
さらにもう一つ、「間主観説」を提示している。主観説を発展させたもので、個人的な信念の度合いではなく、社会で合意された集団的な信念の度合いと解釈する。
哲学的には、認識論的な解釈と客観的な解釈で、二分されてきた経緯があるらしい。認識論的な解釈の側は、知識の度合いが違えば個人の信念も変わり、合理的な信念の度合いも変わる。このグループには、論理説、主観説、間主観説が属す。
客観的な解釈の側は、物質論を尺度とし、このグループには頻度説、傾向説が属す。
そして、社会学や経済学には、認識論的な解釈が適合しやすく、自然科学では客観的な解釈が適合しやすい。

2. 確率の源泉
確率の数学理論は、1654年に交換されたパスカルとフェルマーの書簡によって始まったとされるそうな。その中には、シュヴァリエ・ド・メレの問題が含まれている。
サイコロ賭博に溺れた世俗人メレは、厳粛なジャンセニスト(教会改革論者)のパスカルに問う。6のゾロ目が確実に出現するのは何度目か?と。堕落者が神の代弁者に縋ろうとも、確率は平等に与えられる。賭ける回数を増やして出現確率を安定させたところで、無駄な時間を捧げることになる。一瞬の輝きは神にしか見えず、そこには無限の原理が立ちはだかる。
ベルヌーイは、確率に関して初めて極限定理を証明したという。ちなみに、ベルヌーイの功績で、初歩的な法則では、コインの表と裏の出る確率は二項分布として知られる。また、彼は、経験則からやがて理論値へ収束するという大数の法則を示した。

初歩的な確率は、表か裏のどちらが出るかという二項定理において...

  Prob(n 回投げて表が r 回) = nCrPr(1 - P)n-r

最も単純な考え方は、n を無限大にとる。そして、二項定理から、以下の連続分布に至る傾向を持つという。そう、あの有名な正規分布だ。尚、σは標準偏差。

f(x) =   1

 σ√(2π) 
 exp (  (x - μ)2

 2σ2 
)

ちなみに、二項分布が n の増大にしたがって正規分布に近づくことを最初に示したのは、ド・モアブルだという。ド・モアブルの定理は、オイラーの公式に通ずる道である。
もう一つ、数学的に貢献した人物がベイズ。確率の哲学的試論では、ラプラスのものが有名だが、それはベルヌーイ、ド・モアブル、ベイズの示した結果を一般化し、改良したものだという。
社会学で応用される事例では、出生と死亡に関する統計を集めた商人ジョン・グラントの「死亡表に関する自然的、政治的考察」がある。「政治算術」を書したウィリアム・ペティの友人だ。この時代、予防接種の評価や、平均寿命と年金の適正問題があって、ド・モアブルも「生涯年金の論考」を書したという。保険業界を支えている数理統計学は、まさに確率論に支えられている。

3. 確率は魔物か?
ラプラスは、「確率の解析的理論」で、こう書いているという。
「自然を動かす一切の力と、自然を構成する諸々の実体とを把握できる知力が、これらの諸資料を解析するに充分なほど広大無辺であるならば、その知力は宇宙における最も巨大な諸物体の運動も、最も軽微な原子の運動をも同一の公式のうちに包含することができるだろう。この知力に対しては、不確実なことは何ひとつ存在せず、その知的両眼には未来も過去と等しく映るであろう。」
この巨大な知能が、「ラプラスの魔物」と呼ばれる。確率の理想像とは、悪魔なのか?ニュートン力学が崇められた時代、すべての知識は科学で説明できるとされた。だが、科学が宗教的迷信を打破すれば、今度は科学的信念が迷信化する。近代の客観性は、不確定性原理や不完全性定理に取り憑かれ、決定論がいかに無力であるかを思い知らせる。神のような絶対的な存在を、相対的な認識能力しか発揮できない生命体が利用すると、悪魔を蘇らせるというのか。もはや、信念の度合いと合理性の度合いの融合を図るしかあるまい。ハッキングは、こう論じたという。
「確率はヤヌスの面をもっている。一方でそれは統計的で、偶然的プロセスの法則に関わる。他方でそれは知識に関わり、統計的背景とあまり関係なく、諸命題への信念の度合いを理に適った仕方で評価するためにある。」

4. 確からしい公理
本書は、確率論の基本的な公理を三つ紹介してくれる。そこには、コルモゴロフの公理として知られるものも含まれる。

[公理 1]
いかなる事象 E に対して、0 ≦ P(E) ≦ 1。また、全事象 Ω に対して、P(Ω) = 1

[公理 2: 加法法則]
排反な事象 E1, ..., En において、P(E1) + ... + P(En) = 1

[公理 3: 乗法法則]
二つの事象 E, F において、P(E & F) = P(E | F)P(F)

確率論は、表記法において集合論と相性がいい。コルモゴロフの方法論では、確率は集合Ωの部分集合に割り当てられる。コルモゴロフは、こう定義したという。

P(E | F) = def   P(E & F)

 P(F) 
 , ただし P(F) ≠ 0

一方、ベイズ的思考では、確率 P における条件 e によって、h が決まる場合、P(h|e) は e のもとで h の事後的確率とされる。ベイズ学派の目的は、この P(h|e) を計算する方法を見つけることだという。

P(h|e) =   P(e & h)

 P(e) 
 =   P(e | h)P(h)

 P(e) 
 , ただし P(e) ≠ 0

ここに、コルモゴロフの公理とベイズの定理の共通哲学を見出すことができる。
また、加法性の法則は単純なように映るが、実際の現象を扱う場合、可算的な集合を持ち込むと、一様分布で考えることが極端に難しい。収束する無限級数に合致すればいいが、なかなかうまくいかない。そこで、分布モデルに当てはめながら、モデルを組み合わせて、近似モデルを構築することが現実的となろう。ブルーノ・デ・フィネッティは、こう述べたという。
「実際、事象 E1, E2, ..., En, ... が独立で確率 ξ について同じように確からしいとき、包括的事象 E に帰せられる確率が Pξ(E) であるとする。
いま Ei が限定的な分布 Φ(ξ) をもつ可換な諸事象とし、同じ包括的な事象の確率 P(E) は、

P(E) =  1
0
Pξ(E)dΦ(ξ)

である。この事実は、可換な諸事象に対応した確率分布 P は、線形結合の加重を Φ(ξ) であらわした場合に、独立して同様に確からしい事象に対応した分布 Φ(ξ) の線形結合である。」

デ・フィネッティの解釈は、主観的確率と可換性を好んで、客観的確率や独立性の概念を排除しているという。客観主義者が、形而上学的な観念を排除すると、こうなるかは知らん。ただ、客観的確率の独立性を、主観的確率の可換性に還元できるとしており、本書はこの還元説を批判している。ラムゼイよりも主観的動機が強すぎるというわけか。
実際、現象が過去に依存するケースは多く、連鎖グループは階層的な構造をしている。例えば、天気予報は昨日の天気との関連性が強い。独立性と可換性の等価性を主張するのは、ちと強引であろうか。確率の法則は、用いる事象によって効果がまったく違い、その見え方は統計学的ですらある。そういえば... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と語ったのは誰であったか。

5. 確率論のパラドックス
パラドックスの根源は、各事象の出現確率の和が 1 にならないことにあるが、ベルトランの逆説は、いつ見ても奇っ怪!
「ある円を考え、適当に弦を選ぶ。この弦が円に内接する等辺三角形の一辺より長い確率はいくつだろうか。」
この無差別に選択する問題は、三つの解を得る。

[第一の算出法]
円の中心点 O から問題を眺め、無作為な半径 R を選ぶ。内接する正三角形 ABC に対して、頂点 A から辺 BC に対して垂線を引き、交わる点を W とすると、OW = R/2 となる。OW < R/2 であれば、弦 BC は、円に内接する正三角形よりも長く、OW は、区間[O, R] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(OW <1/2) = 1/2




[第ニの算出法]
円の端点 A から問題を眺め、無作為な円周上の点を選ぶ。点A の接線と弦ABのなす角をθとすると、内接する正三角形の一辺より長いのは、60度 < θ< 120度 となり、θは接線との関係から 区間 [0, 180] の間で均一な確率分布を持つ。

  P(60度 < θ <120度) = 1/3




[第三の算出法]
円の内部の点から問題を眺め、同じ中心点 O 上に半径 R/2 の円を描く。辺 BC を等分する 点W が内側の円の内部にあれば、内接する正三角形の一辺よりも長く、W は円の中で均一な確率分布を持つ。

P =   小さい円の面積

 大きい円の面積 
 =   πR2/4

 πR2 
 = 1/4




同じ問題でも、半径、端点、内部の点という観点の違いで、1/2, 1/3, 1/4 という確率分布のパターンが生じる。パラドックスとはいえ、整然と確率分布が編み出される様子は、芸術さえ感じるのだった...

6. 経験法則と不確実性
経験法則は、数学的に反証できないもどかしさがある。コイン投げのような偶然的ゲームから、生物学的な統計学、そして、量子物理学が扱う素粒子現象まで、繰り返し起こる事象や大量現象に対して、ア・プリオリな性質を感じることがある。このような形態を、リヒャルト・フォン・ミーゼスは、「性質空間」と名づけたという。その名は、今日では「標本空間」と変わってきたが、不幸な改悪であると指摘している。
可能性の集合、すなわち性質は、標本化、つまりサンプリングと本質的に関係がないという。サンプル数、すなわち集団性の性質を問うということは、それが極めて経験的であることは確かだが、経験を多く積めば真理に近づけるという単純なものではない。
本書は、デ・フィネッティの独立性を可換性に還元する方法論を批判しながらも、彼のこの言葉に共感している。
「確率と頻度との間の関係を正確にできないのは、ちょうどあらゆる実験科学において、理論の抽象概念と経験的現実を関係づけることが実質的に不可能なことに似ている... こう考えることで批判を免れることができると、しばしば思われている。
しかし私の考えでは、そのような類似性は幻想に過ぎない。たしかに確率以外の科学では、理論が完全に精密であれば、何が起こるかを確実かつ正確に主張し、予見することができる。しかし確率算においては、理論自身はすべての頻度の可能性を認めざるをえないような理論である。それ以外の科学では不確実性理論と事実の関連が不完全なことから帰結するが、反対に確率に関しては、この関連のなかにではなく、まさに理論自体のなかにこそ不確実性が存在する。」

2015-11-15

"解析概論 改訂第三版" 高木貞治 著

三十年来、引き戻され続ける書を、もう一冊。相も変わらず、しつこく仕事に絡んできやがる。お前は酔っ払いか。そして、電磁気学で苦しめられた、あの忌々しい奴らにやられる。そう、ガウスとストークスだ。おいらは永遠に赤点よ!ただ、数学屋ではないし、結果だけ知っていれば、道具とすることはできる。薄っぺらな知識しかなくても、生き方はある...

数学は代数学と幾何学の二大分野によって成し、解析学はその双方を調和する立場にある。物事を解析するには、記号的で論理的な思考も、空間的で感覚的な思考も欠かせない。そして、数式と数式の行間に隠された言葉を読みとる。これが解析学の醍醐味であろうか。
本書は、こうした思考原理が微積法にあることを教えてくれる。物理現象の本質を見極めるには、瞬時な方向性を観察するか、総合的な流れを眺望するか、いずれにせよ極限に迫る必要がある。話題の中心は、変数を複素数に拡張した関数。そう、初等関数ってやつだ。これを初等と呼ぶことに、いまだに抵抗を感じるのであった...

代数学の観点から眺めると...
現象を解析するということは、数学的な法則性を導き出すことを意味する。そこで重要となるのが、級数の概念だ。項を多項式などで抽象化し、無限和や無限積で記述できれば、極限値を得る可能性を匂わせる。級数が収束する性質を持つかどうかが、微分可能か、積分可能かの判定基準になる。そして、テイラー展開やフーリエ変換、あるいはゼータ関数といったものの性質が考察される。こうした概念は、アルゴリズムの実装時に非常に有用である。

幾何学の観点から眺めると...
アルキメデスに始まる細かく切断して足し合わせるという求積法が、直感的な思考法としてある。ここに、定規とコンパスで作図できるかという問いかけが、実数の連続性と結びつく。そこで、最初に登場する概念が、デデキントの切断だ。連続性で保証されるからこそ、大小関係が決定でき、適当なところで切断できる。おぼろげな対象には、大雑把な大小関係から始まり、徐々に目標を絞っていくという考え方が成り立つ... などと言えば、あの忌々しいε-δ論法だ。とはいえ、この思考法は、解析学の王道と言うべきかもしれない。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとって、絶対的な現象を認識することは難しく、なんらかの比較対象を必要とする。そして、認識能力の支柱をなしているのが、時間という連続性だ。精神病患者の多くは、時間の概念を失った状態とも聞く。連続性から大小関係という感覚的に対象に迫るという思考法は、人間にとって自然であり、合理的にも映る。

コーシーは、連続関数の積分和の極限値として、基本的な考察を試みたという。問題は、連続性が保証されない場合である。ルーベル積分の登場で、リーマン積分は中間的な存在になったという。連続性を仮定しなくても積分可能な条件を確定したのがリーマンで、特異点が無数にある場合を扱ったのがルーベルだとか。しかしながら、泥酔者にとって有用なのは有限区間を論じる定積分で、相も変わらずアルキメデスの世界観に幽閉されたまま。その証拠に、酒の力を借りて記憶がぶっ飛ぶと、連続性から解放されて幸せになれる。この現象も、デデキントの切断原理に付け加えておこう...

1. 実数の連続性
入門の概念として、実数の連続性に関する重要な性質を四つ挙げてくれる。

(1)デデキントの切断
実数の切断は、下組と上組との境界として、一つの数を確定する。

(2)ワイエルシュトラスの定理
数の集合 S が上方(または下方)に有界ならば S の上限(または下限)が存在する。

(3)有界な単調数列の収束
有界なる単調数列は収束する。

(4)区間縮小法
閉区間 In = [an, bn] (n = 1, 2, ...) において、各区間 In がその前の区間 In-1 に含まれ、n が限りなく増すとき、区間 In の幅 bn - an が限りなく小さくなるとすれば、これらの各区間に共通なるただ一点が存在する。

いずれも集合論と結びつく概念である。そして、幾何学に投影するために、座標点の距離を観察しながら、それらの大小関係を考察するといった思考を要請してくる。
いま、n次元空間における座標点を、P(x1, x2, ..., xn), P'(x'1, x'2, ..., x'n) とすると、その距離は...

  √{(x1 - x'1)2 + (x2 - x'2)2 + ... + (xn - x'n)2}

そして、三角関係 P, P', P" において、PP' + P'P" ≧ PP" が成り立つ。
さらに、P を中心とする半径 δ となる n次元の球の境界を考察すると...

   |x1 - x'1| < δ, |x2 - x'2| < δ, ..., |xn - x'n| < δ

まずもって数の連続性を想定することが、解析学における基本的な思考となるが、あの忌々しいやつが思いっきり匂い立ってやがる。ちなみに、ε-δ論法風に記述するとこんな感じか...

f(x) が x = a において連続であるということは、
  x → a の時、f(x) → f(a)
であることにほかならず、
  |x - a| < δ の時、|f(x) - f(a)| <ε
となるは必然...

2. 平均値の定理
連続性が想定できれば、平均値を考察するというのは、最も素朴な思考法であろう。そして、平均値を極限に近づけることが重要となる。
まず、微分における平均値の定理では、ラグランジェとコーシーのものが紹介される。

・ラグランジュの平均値定理
f(x) は区間 [a, b] において連続、(a, b) において微分可能とする。然らば、

 f(b) - f(a)

 (b - a) 
 = f '(ξ),  a < ξ < b

なる ξ が存在する。

・コーシーの平均値定理
区間 [a, b] において f(x), g(x) は連続で、(a, b) において微分可能とする。然らば (a, b) 内の或る点 ξ において、

 f(a) - f(b)

 g(a) - g(b) 
 =   f '(ξ)

 g '(ξ) 
,  a < ξ < b 

ただし、g(a) ≠ g(b)、f '(x), g '(x) は区間内で同時に 0 にならないと仮定する。

次に、積分法においては、第一平均値定理と第ニ平均値定理が紹介される。

・第一平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は連続、φ(x) は積分可能で、一定の符号を有するならば、
a < ξ < b なる或る点 ξ において、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  f(ξ) b
a
φ(x)dx

・第二平均値定理
区間 [a, b] において f(x) は積分可能、また φ(x) は有限で単調とする。然らば、

b
a
f(x)φ(x)dx  =  φ(a) ξ
a
f(x)dx  + φ(b) b
ξ
f(x)dx ,  a ≦ ξ ≦ b 

なるξが存在する。

3. 定積分の近似法
積分法を、平均値や総和で考察する観点は、統計学的とも言えよう。ここでは、シンプソンの方法とガウスの方法が紹介される。
尚、どちらも定積分のアルゴリズムとして実装しやすく、幾度となくお世話になっている。

・シンプソンの方法
区間 [a, b] を 2n 等分して、各分点に対応する f(x) の値を y0, y1, y2, ..., y2n とし、
h = (b - a)/2n と置き、近似値として、

 h

 3 
(y2i - 2 + y2i + 4y2i - 1)

を取って i = 1, 2, ..., n 上にわたって統計すれば、

b
a
f(x)dx  ≒   h

 3 
{y0 + y2n + 2(y2 + y4 + ... + y2n - 2) + 4(y1 + y3 + ... + y2n - 1)}

... これが、シンプソンの公式である。

一方、ガウスの方法では、ラグランジュの球関数を利用する。
いま、n - 1 次以下の多項式 Q(x) に関して、

b
a
Q(x)Pn(x)dx = 0

になるような n次の多項式 Pn(x) を求めることを考える。そして、区間 [-1, 1] において関数が定まるという。
Pn(x)  =   1

 2n・n! 
 dn

 dxn 
(x2 - 1)n

... これが、ラグランジェの球関数である。

・ガウスの方法
さて任意の連続関数 F(x) がある時、区間 [-1, 1] において、xv およびそのほか n 個の点、すなわち合わせて 2n 個の点において F(x) と等しい値を有する 2n - 1 次以下の多項式を f(x) として、それを F(x) に代用して、∫F(x)dx の近似値として、∫f(x)dx を取れば、

1
-1
F(x)dx  ≒  n

v = 1
PvF(xv)

n個のF(xv)だけを用いて、近似値が計算されるところにガウスの方法の特色があるという。

4. ガウスの定理とストークスの定理
多変数の積分は、なかなか悩ましい。ここで重要な数学の道具は、発散(div)と回転(rot)の概念である。ここでは、ガウスの定理とストークスの定理を挙げておこう。なにしろ電磁気学で欠かせないのだから。
まずは、ベクトル場の記述から、

  div u = ∂a/∂x + ∂b/∂y + ∂c/∂z
  rot u = (∂c/∂y - ∂b/∂z, ∂a/∂z - ∂c/∂x, ∂b/∂x - ∂a/∂y)

さて、ガウスの定理は、閉曲面 S において、内部区域 K に関する三次元積分を表す。具体的には、(x, y, z) の三つの関数において、

  a(x, y, z), b(x, y, z), c(x, y, z)

が、K において連続的に微分可能とすれば、



S
a dydz + b dzdx + c dxdy = 

K
(ax + by + cz)dxdydz

... これが、ガウスの定理である。
別の表記では、閉曲面 S の各点において、外部への法線の方向余弦を cos α, cos β, cos γ とすると、



K
(ax + by + cz)dω = 

S
(a cos α + b cos β + c cos γ) dσ

dω は K の微小領域、dσ は S の微小面積。
さらに、より簡単な記述は、(a, b, c) をベクトル u の座標とし、法線上に単位ベクトルを n とすると、



K
div u dω = 

S
u・n dσ

次に、ストークスの定理では、ガウスの定理において、div u = 0 の場合を考える。
任意のベクトル v = (a ,b, c) において、

  u = rot v = (cy - bz, az - cx, bx - ay)
  n = (cos α, cos β, cos γ)

と置くと、



S
u・n dσ = 

S
((cy - bz)cosα + (az - cx)cosβ + (bx - ay)cosγ) dσ

結局、曲面 S で面積分したものが、その境界線 C で線積分したものと一致するという。



S
(cy - bz)dydz + (az - cx)dzdx + (bx - ay)dxdy = 

C
a dx + b dy + c dz

... これが、ストークスの定理である。
さらに、C の接線 t と S の法線 n を対応させると、簡略化できる。



S
rot v・n dσ = 

C
v ・t ds

尚、ds は C の微小弧。

2015-11-08

"初等整数論講義" 高木貞治 著

ガウスは、整数論を数学の中の数学と論じたそうな...
整数論は、デジタルシステムを設計する上でも礎をなす道具。そして三十年来、この書にいつも引き戻される。今更感に苛まれながらも古典に縋る思いは、数学に落ちこぼれた者の宿命か、いや幸福か。もとより初等数学と高等数学に明確な境界はないが、有理数の領域に限定してくれるだけで、ちょっぴり安堵する。ここでは、ε-δ論法なんて言いっこなしだ!
しかしながら、素のイデアルを考察する段になると頭痛がはじまり、何度読み返しても最後まで辿り着けたためしがない。それも、プラトンが唱えたイデアという純粋な魂の型を完全に失った泥酔者の宿命であろうか...

デジタルシステムにおける最も有用な概念は、整数論的な近似法であろう。アルゴリズムの実装検討において、変数や定数を抽出し、多項式や微分方程式までは組み上げることができても、そこに解があるかどうかがシステム実現への鍵となる。問題は、解がない時である。解が見つからないから実装できない!などと言って仕事を放棄できればいいが、そうはいかない。人間社会では、じっくりと時間をかけて完璧な答えを得るよりも、思いっきり手を抜いてそこそこ正しそうな答えを得る方が有用な場合が多い。極端に言えば、解の公式よりも、そこに内包される判別式の方が重宝されるということだ。
ではどうやって、そこそこ正しそうな答えに迫るか?まずは数の本質を見極めること、すなわち素(そ)を探求することであろう。物理学が素粒子はどこまで素粒子なのかを求めるように、数学もまた数はどこまで素なのかを求めてやまない。いまや数学の研究対象は数(かず)ではなく、演算の結果、解がどの系に属すかという性質を巡ってのものへと移ってきた。自然数の弱点は、減法や除法によって解が系からはみ出すことにある。演算によって系が閉じられないという現象が、数の体系を整数、有理数、実数、複素数へと抽象化させた。そこに集合論が結びつくと多項式までも呑み込まれ、体、群、環、イデアルへと抽象度を高める。整数の正体を見極めるために素因数分解を試みるように、多項式もまた素となる成分で分解しようとする。
本書は、約数を持たない素数から、共通の約数を持たない互いに素の関係を経て、素のイデアルに迫ろうとする。その過程で、モジュロ世界に幽閉すれば、素の光景も変わって見える。そう、原始根ってやつだ。ある素数を法とする除法の周期性が、あるいは、その合同式が解を有するかどうか... こうした考察が、いかに数の本質を明るみにしてくれるかを味あわせてくれる。

また、二次体の理論において、x2 + y2 = a2 の解にこだわる様子は、複素共役の関係にあるノルムの意義のようなものを語ってくれる。ガウスは、四乗剰余の相互法則を求めるに際し、整数の概念を複素数に拡張する必要性を認めたという。共役な関係を同一の因数と見做せるならば、実装上の演算を極端に減らすことができ、めでたしめでたし!
複素数系における共役は、別の系では、ある単数型を掛けて符号が変わる関係というように単純化できる。そう、同伴の関係だ。i(愛)を賭(掛)けることが同伴を意味するとなれば、二次元愛の虜となろう。整域とは、まさに聖域!さっそく鏡の向こうの住人が、夜の社交場という聖域へ向かって同伴メールを送ってやがる...
そして更に、n次元で抽象化すれば、フェルマーの最終定理となる。解法の基本形式が円の方程式、あるいは、n次元の球の方程式で抽象化できるとすれば、整数がモジュロ世界に閉じられる様子は、まさに幾何学に投影した姿と言えよう。実際、三角関数で非常によい近似を与えてくれる古典的な方法にフーリエ変換があり、あるいは、暗号システムでは素数の原理とモジュロ演算が絶対に欠かせない。自然界は、人間社会で重宝される四則演算よりも、除法における余りの方が重要だと言っている。余り物には福があるとは、よく言ったものだ...

1. 数の体系と方程式系
本書は、不定方程式という伝統的な用語を用いている。ディオファントスの方程式と呼ばれるやつだ。そして、最も単純な一次不定方程式がこれ...

  ax + by + cz = k

この式が、解を有するための必要かつ十分な条件は、k が d = gcd(a, b, c) で割り切れることだという。gcd : greatest common divisor(最大公約数)
言い換えると...

  f(x, y, z) = ax + by + cz

によって表される数は、d = gcd(a, b, c) の倍数の全体である... となる。
そして、ある数の集合の元から加法や減法によって作られる数が、やはりその集合に属するかどうか、こうした性質を考察することが整数論、ひいては集合論の鍵となる。

2. 合同式の概論
人間社会では、四則演算が一定の地位を保ってきた。しかし、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそ、四則演算のすべてを抽象化する能力を持っている。すこぶる単純な概念でありながら、人間の感覚では、ちと馴染みにくいというだけのこと。
例えば、整数 a, b の差が m の倍数であるとき、a と b は、 m を法として互いに合同である。

  a ≡ b (mod m)

こうした合同式は、相等、相似、対等などと同じ範疇に属する関係であるという。
反射的: a ≡ a (mod m)
対象的: a ≡ b ならば、 b ≡ a (mod m)
推移的: a ≡ b, b ≡ c ならば、a ≡ c  (mod m)

こうした性質は、数に対するだけでなく、多項式までも合同式として捉えると、解釈の幅が広がる。仮に、素数の分布に周期性があるとすれば、どの数を法とするか?などと悩む必要はなくなるかもしれない。さらに、ゴールドバッハ予想が正しければ、すべての数は素数と 1 の加法で定義できることになる。
「2 以外の偶数は二つの素数の和として表し得る」

そして、この定理がより一層輝きを放つであろう。
「法 p が素数である時、n 次の合同式 f(x) ≡ 0 (mod p) は、n よりも多くの解を有することを得ない。」

実際、ファルマーの小定理で定義される合同式は、暗号システムで重宝される。
「p が素数で、a は p で割り切れないならば、a(p-1) ≡ 1 (mod p)」

3. 平方剰余の性質
平方数の性質は、例えば... ある平方数を 3 で割った余りは 0 か 1 で、2 になることはない。4 で割った余りもまた、0 か 1 で、2 や 3 になることはない。ここで重要なのは、除数と素数の関係である。そして、合同式、xn ≡ a (mod p) が解を有するかどうか?を問うことが意味を持つ。
これをルジャンドルの記号で表記すると...

(  a

 p 
)  =  +1 or -1 (解がある時、+1, ない時、-1)

そして、次の法則が成り立つという。

「オイラーの基準
(  a

 p 
)  ≡  a(p-1)/2 (mod p)

「平方剰余の相互法則」
(  p

 q 
) (  q

 p 
)  =  (-1){(p-1)/2}・{(q-1)/2}

「第一補充法則」
(  -1

 p 
)  =  (-1)(p-1)/2

「第ニ補充法則」
(  2

 p 
)  =  (-1)(p2-1)/8

こうした性質を利用して、不定方程式の解の範囲を絞り込むという寸法よ。絞り込んだところで、完全な解が得られるとは限らんが...

4. 連分数とミンコフスキーの定理
実数の連分数展開が、有用な近似分数を与えてくれる。そこで、主近似分数と中間近似分数の見極めが重要となる。本書は、その手段として平面格子を用いた思考法を紹介してくれる。座標平面上の格子点が、有理数を表すことはイメージしやすい。
「面積 1 なる正方形を基本とする格子の一点に中心を置いて、面積 4 なる任意の平行四辺形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が必ず含まれる。」

ミンコフスキーは、さらに拡張して平行四辺形を任意の有心凸形で置き換えたという。有心凸形とは、平行四辺形の辺を楕円で膨らませたような、卵型をしている。
「格子点に中心点を置いて面積が 4 なる有心凸形を描けば、その内部または周上に中心以外の格子点が含まれる。」

二次元空間における格子点で不定方程式の解が絞り込めるとすれば、ミンコフスキーの定理は二次体と相性がよさそうである。そして、複素平面も意味深いものとなる。
「二次無理数は、循環連分数に展開される。」

5. 二次体と同伴解
二次方程式 ax2 + bx + c = 0 の解と言えば、義務教育から叩きこまれたこの形...

 x   =   -b ± √(b2 - 4ac)

 2a 

ここで重要なのは、D = b2 - 4ac が判別式として使えること。中学レベルの算数も馬鹿にはできない...
「D が二次無理数の判別式であるがために必要かつ十分な条件は、D は平方数でなくて、D ≡ 0 または 1 (mod 4) であることである。」

そして、整数論において、二次体は重要な意味を持つことになる。
「二次不定方程式: ax2 + bxy + cy2 = k において、
(第一) D < 0  ならば、整数解があるとしても、それは有限個に限る。
(第二) D > 0  で、D が平方数でない時、解があるならば無限の多くの解があるが、それらの解は有限組の同伴解に分かれる。」

複素共役の重要な性質は、互いに掛け合わせると...

  (a + ib)(a - ib) = a2 + b2

つまり、複素数系において共役な関係を同一の因数とみなせば、整数系に引き出される。そして、ノルムに意義を与え、幾何学的には距離を考察することになる。

6. 二次体のイデアル
いま、x + y√m を簡単化するために、K(√m) と表記する。そして、二次体 K(√m) において、整数μで割り切れる整数の全部を一つの集合とすると...

(1) この集合に属す任意の二つの整数α, βの和および差は、やはりこの集合に属す。
(2) この集合に属す整数αの任意の倍数λαは、やはりこの集合に属す。
(3) α1, α2, ..., αn がこの集合に属すならば、λ1, λ2, ..., λn を任意の整数とする時、λ1α1 + λ2α2 + ... + λnαn もこの集合に属す。

(3)は、(1),(2)から導き得るが、(3)は(1),(2)の特別な場合だという。そして、イデアルをこう定義している。
「二次体 K(√m) の整数の集合が (1), (2) の性質を有するとき、その集合を一つのイデアルという。」

さらに本書は、共通の約数を持たない原始イデアル、あるいはイデアルの共役について考察し、素なるイデアルを探求する。互いに共役な二つのイデアルの積は一つの有理整数から生ずる単項イデアルに等しいという。素のイデアルとは、素数を集合論に拡張したようなものであろうか。二次体の判別式を求める段になってもなお、素数がまとわりついてきやがる。既に頭は、素っからかん!またもや最後まで辿りつけないのであった...

2015-11-01

"ロウソクの科学" Michael Faraday 著

マイケル・ファラデー... この名を耳にするだけで、あの忌々しい記憶が蘇る。電磁気学の赤点地獄!俗界の泥酔者は、純真な心を取り戻すために、このあたりから科学をやり直す必要がありそうだ。いや、燃え尽きた炎は取り返しがつかない...
1860年の暮、ファラデーは、Royal Institution(王立研究所)において、少年少女のために6回に渡って講義を行った。このとき七十... 1867年、静かな晩年のうちに逝く。本書は、その講義をウィリアム・クルックスが編纂したものである。ロウソクが如何に科学の夢を抱かせる題材となりうるか... ファラデーのクリスマスプレゼントが歴史を刻む。
尚、いくつか翻訳版がある中、科学のいにしえに浸るために、あえて黴臭い矢島祐利訳版(1956年, 岩波文庫)を手にとる。

人類の炎の歴史は、原始のたいまつからロウソクに至るまで長い年月を要してきた。火の使い手となり、火の崇拝者となり、やがて暗黒を照らす道具は信仰の域に達する。人々がどのような方法で家の中を照らしているかは、文化の尺度とすることができよう。そして近代文明は、イルミネーションという人々の心を動かす技術を開発した。燃焼エネルギーの余力によって。ただ、余力とは、浪費と解することもできる。
人生をロウソクになぞらえるのは、詩人や作家だけの特技ではあるまい。ファラデーは、ロウソクの燃焼原理を人体の呼吸メカニズムと重ねながら、熱機関の寿命としての等価性を熱く語る。主要な登場人物は、酸素、水素、窒素、そして炭酸ガス。中でも、燃えるために重要な役割を演じているのは酸素と水素だ。
しかしながら、本当に重要な役割を果たしているのは、不活性な気体の方かもしれない。本書は、空気中の酸素と窒素の容積比が 20 : 80 となり、総質量比が 22.3 : 77.7 となる様子を情熱的に物語る。つまり、不活性な窒素が圧倒的に多いことが、地上を炎の海に包むことなく、生命体にとって適度な環境をもたらしてくれる、というわけだ。動物が生きるためには酸素を必要とするが、植物が生きるためには炭酸ガスを必要とする。おまけに、動物は植物がなければ生きてはいけず、まったく自立性を欠いている。
何事も共存のためには、不活性な部分が必要である。動物よりも植物の方が圧倒的に多いから、生命体にとって地上は楽園であり続ける。政治論争においても、感情論に走ったり、暴徒化する連中を冷たい目で眺める人々がいるから、社会が成り立つ。この割合のバランスを欠くと、犯罪や武装勢力が勢いづき、緊迫した社会となろう。理性と感情、あるいは知性と衝動の割合は、どちらが多いかは知らん。そして質量比で逆転するのかもしれん。いずれにせよ、集団性において善玉菌よりも悪玉菌の方が感染力が強いのは、確かなようである。ファラデーは、講義の最後をこう締めくくる。
「諸君の生命が長くロウソクのように続いて同胞のために明るい光輝となり、諸君のあらゆる行動はロウソクの炎のような美しさを示し、諸君は人類の福祉のための義務の遂行に全生命をささげられんことを希望する次第であります。」

ところで、ロウソクの性能向上を実感できる場といえば、葬儀であろうか。遺体の前では、ロウソクの火を絶やさぬよう、一晩寝ずの番をする。だが、最近のロウソクは、一晩中消えないよう工夫がなされる。球形で、蝋が溜まる皿が大きくなるように。この原理が分からず、結局一晩、寝ずに考えこむ。とはいえ、科学の進歩は、ロウソクの火を3D映像化させるだろう。自分の身体が仮想空間にあるのかも分からない時代では、生きていることを実感することが難しい...

1. そこの奥さん、ちょっと、みてみてみて!
ファラデーは、実際にロウソクを作って見せる。どこぞの実演販売風に...
ここに取りい出したる、牛の肝臓の脂肪と硫酸。さて、やり方はこうです!まず、獣脂つまり脂肪を石灰で煮て石鹸をつくりましょう。次に、硫酸を加えて石灰を除き、脂肪の中のステアリン酸を取り出すと、グリセリンができました。このような化学反応によって、なんと獣脂からグリセリンができちゃいます。
ところで、そこの奥さん!グリセリンが砂糖にも似た味のある液体というのは、ご存知?さらに、圧出によって油酸を取り除きましょう。圧力をだんだん強くしますと、一緒に不純物が運び去られて固形体が残ります。これを溶かせば、はい!ステアリンロウソクの出来上がり...
尚、物理学の光度には、カンデラという単位があるが、これも獣脂ロウソクという意味のラテン語に由来するとされる。

2. 糸芯ロウソクの原理
ロウソクの原理は、単純そうで、なかなか手強い!ランプの場合は、油だけでは燃えないので、芯の先まで運ばれ、空気と触れて燃える。対して、ロウソクは、芯の先まで何も運ばれないのに、その場を維持して燃え続ける。摩訶不思議?これを、ファラデーは、空気の流動だけで説明してのける...
炎の熱のために、下から上に向かって空気の流れが生じる。外側は冷却されることになるから、炎の縁は真ん中より温度が低い。内側は炎が芯を伝わって下へ行って溶けるが、外部は溶けにくい。したがって、炎の周辺の蝋は、中央が凹んだ皿を作る。重力が蝋の液体を表面張力によって水平に保とうとし、皿から液が溢れ出て落ちる。しかもその溢れ出る外側を溶かす速度で燃え続けるという寸法だ。
言い換えれば、燃える時に、上部で皿を作る性質を持たない物質では、ロウソクは作れない。
また、炎が燃焼物質を捕まえる原理は、「毛細管現象」と同じだという。細い管を水の中に浸すと、水が水面よりも上に管を登る。水銀の場合は、逆に降りる。溶けた蝋は表面張力によって維持され、溶けた脂肪の油が芯を伝わって登っていくというわけだ。上昇気流による冷却と、皿を作る性質というだけで... これほど自然を味方につけた技術があろうか!

3. 燃えないものと燃えカス
燃焼の結果、残るものは窒素で、匂いもなく、味もない。水にも溶けず、酸性でもアルカリ性でもない。人間の感官ではほとんど感じられない、まさに虚無な存在。
酸素はものを盛んに燃えさせるが、窒素は火を加減し、人間の使用に耐えうるよう調節してくれる。人間社会にとって、すこぶる有用な働きだ。まったく無気力な存在が、燃えすぎる存在を抑制してくれる。情報化社会で加熱する世論の中にあって、集団性から距離を置き、ニヒリズムが旺盛になるように。窒素は、酸素の他の物質とも容易に結合しようとはしない。共有や仮想友人で結びつきの旺盛な社会では、なおさら貴重な存在だ。
しかしながら、残るものはそれだけだろうか?残るのではなく、燃焼によって発生するものがある。そう、炭や煙、すなわち、炭素や炭酸ガスだ。動物から見れば燃えカスだが、植物から見れば、まさに生命の源。人間は生きてせいぜい百年だが、植物には何千年も生きるものがいる。有史以来、人間どもをずっと観察してきたヤツもいるだろう。静粛しきった植物だって、なんらかの周波数を発している。そこに言葉がないと言い切れるだろうか。人間の知能で自然のすべてが語れるわけもない。人間が言葉として捉えられるのは、知覚能力で制限される特定の周波数帯域のみ。自然の声を耳にするには、資格が必要なのかもしれん。曇のない魂の持ち主ならば、ひょとしたら聞こえるのかもしれん。植物たちは、動物たちが何をそんなに騒いでいるのか?と冷たい眼で眺めていることだろう。炭酸ガスは、空気よりも重たい気体となるところに意味がある。CO2の多い世界とは、騒がしい世界を少し静かにさせようという神の目論見であろうか...

4. 燃料電池の先駆けを垣間見る
ファラデーは、ヴォルタ電池を使って、燃える原理を説明するための実験を披露する。二枚の白金板を置いて、銅と硝酸からできた溶解液を接触させると、白金板の表面に銅が付着し、電極が形成される。この溶解液に何を用いるかが、科学者の見せ所!
カリウムが水を分解する様子は、ちょうどロウソクが空気から酸素をとるように、水から酸素をとって水素が分離される。カリウム自身は酸素と化合する。水素が分離されるということは、燃えやすい部分を切り離すことを意味する。水素と酸素の混合物を燃やしてみると、その配分によっては、水素が多いと爆発するほどのエネルギーを秘める。ロウソクが燃焼することで、取り出した水素を燃やし、水を作るのと同じ原理だ。そして、カリウム、亜鉛、鉄などにどんな燃焼力が潜んでいるか、化学の成果というべきものを披露してくれる。
「水素はその燃焼の産物として水を生ずるところの、自然における唯一の物質であることを記憶にどとめておくことが肝要です。」
このような物語を眺めていると、今日注目される燃料電池を彷彿させる。燃料電池は、まさに水素と酸素から電力を取り出す原理を利用する。これをロウソクの産物と解するのは行き過ぎであろうか...

2015-10-25

"化学のはじめ 増補訂正版" Antoine-Laurent de Lavoisier 著

化学革命の父と呼ばれるアントワーヌ・ラヴォアジエ。バケガクで赤点の危機にあったおいらには、忘れられない名だ。今日認められる元素のアイデアを確立し、それを分かりやすく整理したものが、この入門書である。
ラヴォアジエは、フロギストン説を打破した人物としても知られる。古代ギリシアの自然哲学者たちは、万物の根源的な存在をアルケーと呼び、四大元素説を唱えた。あらゆる物体は、火、空気、水、土の四つの要素によって構成されると考えたのである。この説を覆したのが、1789年に出版された「化学のはじめ」というわけだ。仮説ってやつは、否定を証明された時、はじめて偏見であったことに気付かされる。18世紀になって、ようやく化学は形而上学からの脱皮を図ろうとする。この間、二千年とは!現代科学が迷信に囚われていないと、どうして断言できようか...
尚、この文句は、化学者フランソワ・ルエルが、実験室の最も目につく場所に大きな文字で書き記したものだという。
「さきに感覚に在らざりしところのなにものも、悟性に在ることなし。」

化学とはなんであろう...
元素の組み合わせや結びつきから、性質の違う物質が生まれる。物質には、人体にとって良いものや悪いものがあり、ちょいと組み合わせを変えるだけで良いものが悪いものに、悪いものが良いものに変わる。まさに化ける様子を学ぶというわけだ。その性質を知るために、構成される元素とその比重を調べ、結びつき方を観察する。実験の考え方そのものは極めて単純!分解と結合を繰り返すだけ。物質を細かく砕き、ふるいにかけ、天秤にかけ... これが化学の基本操作であり、パラダイムだ。... などと言えば、人間関係の極意を語っているようでもある。元素はどこまで元素なのか、素粒子はどこまで素粒子なのか、これは人類にとって永遠のテーマとなろう。
「化学は、分解、再分解さらにその再分解の分解を経て、その目的と完成に向かって進む。」

新たな元素が発見される度に、性質に適合する命名規則を模索する。化学には、まさに命名の哲学が内包されている。言語は、事実を描くものでなければならないと同時に、アイデアを生むものでなければなるまい。道はひたすら単純化することにあるが、人類はいまだ合理的な言語体系を編み出せないでいる。凡庸な、いや凡庸未満の泥酔者には合理性が複雑系に見えるが、天才にはそれが単純化に見えるのであろうか。そして、くだらない悩み事から解放され、真に悩むべき事柄に没頭できるのであろうか...
「われわれは言葉の助けによって考えること。言語は真の分析方法であること。表現のすべての方法に、その目的を満たしてくれる最も簡単、最も正確、最も優れている代数は、一つの言葉であり、また分析方法であること。最後に、論理学はよく整った言語に縮少される。」

1. ラヴォアジエとラヴォアジエ夫人
ラヴォアジエは、科学者としては変わり種だったようである。最高裁判所検事の長男として生まれ、マザランカレッジで法律を学び、区裁判所の弁護士になったとか。徴税管理官や火薬管理官を勤め、農家の貧困と老衰を保護するための保険制度を草案し、「フランス王国の国富について」という報告書を作って、合理的な税制を施すための基礎を作ったという。
科学者としても優れた教育を受け、数学、天文学、化学、植物学、地質学、鉱物学などを学ぶ多彩な天才だったようである。数学者のラグランジュやラプラスらとともに度量衡の単位の改制に務め、その労作は今日のメートル法の基礎になったという。
宗教心の強烈な時代では、これに対抗するために、自然科学をはじめとする普遍の学問を欲するのであろうか。ルネサンス期に多くの万能人を輩出したように...
しかしながら、科学者にとって皮肉な事件が勃発する。フランス革命ってやつが。革命裁判にかけられ、裁判官コフィナルのあの言葉を耳にしょうとは...
「わが共和国には科学者はいらない。さあ、裁判を続けよう。」
税の負担を軽減しようと努力してきた徴税管理官は、不当な掠奪、搾取の罪を問われ、コンコルド広場でギロチンの露と消えた。ラグランジュの残した言葉が響く...
「彼らはたった一瞬の間に、この首を落とすことができたが、これと同じ頭脳を得るには一世紀あっても足りないであろう。」
ここで、ラヴォアジエの実験器具へのこだわりも然ることながら、ボールズ夫人の存在が大きかったことを付け加えておこう。この才能高き婦人は、画家ルイ・ダヴィッドに絵画を学び、本書に添付される実験器具のスケッチや製図は、彼女によるものだという。天才ラヴォアジエの実験助手として科学史に名を留めるべき人物である。地道な実験人生では孤独の闘いを強いられる。化学革命の女神のような存在があったからこそ、偉大な功績が残せたのであろう。彼女の作品は妙にリアリティがあり、木造校舎の理科の実験室を思い出させてくれる。蒸留酒を作るための装置、いや酒蔵のスケッチに見えてくるのは、精神が泥酔しているせいであろうか?いや、君に酔ってんだよ!

2. 元素表と熱素(カロリック)
本書には、32個の単一物質が紹介される。大まかに分類すると、物体の基本を成す単体(5つ)、酸化する非金属(6つ)、酸化する金属(16つ)、土類で塩となる単体(5つ)の四種。物体の基本を成す単体には、光、熱、酸素、窒素、水素を挙げている。まさかこの時代に、光子の概念があったとは思えないが、熱を含めてある種の力のような存在を考えていたようである。力があれば質量が存在し、そこに物質なるものが存在すると考える。それは、物質と熱との間に、親和力、吸引力、はたまた弾性力を考察している点に見て取れる。
そして、「質量保存の法則」が記述される。化学反応によって元素が増加したり減少したり、他の元素に転化したりはしないと。つまり、光も熱も元素である必要があるという考えである。
固体に熱を加えると、液体や気体になって容積が増加する現象を、熱の素が分離することで説明し、これに「calorique」と名づけている。いわゆる、カロリック説というやつだ。
しかしながら、力の正体については、アリストテレスの運動論以来、インペトゥス、モーメント、トルク、フォースなどと用語が乱立してきた。ニュートンは質量を万有引力で説明し、アインシュタインはあの有名な公式で質量とエネルギーの等価性を示した。ここに、力は質量を通じてエネルギーと結びつき、今日では、熱量と仕事量の等価性からエネルギー保存の法則、すなわち熱力学第一法則で説明される。
だからといって、力の定義の曖昧さが解消されたわけではない。エネルギーってやつは奇妙なもので、質も、量も、力も、運動という概念の中で都合よく抽象化される。その証拠に、人間はあらゆる関係において力が生じることを本能的に知っており、政治の力、金の力、愛の力... などと物質欲の幻想に憑かれている。ラヴォアジエが、熱の正体を物質で説明しようとしたのも道理であろう。カロリックがカトリックと同じ音律に響くのは、偶然ではないのかもしれん。そう、同じ熱病よ!

3. 大気の命名
ジョゼフ・プリーストリーとカール・ヴィルヘルム・シェーレ、そしてラヴォアジエが同時に発見した空気についても言及される。本当のところ、誰が最初だったかは知らん...
当初、ラヴォアジエは、「air éminemment respirable(優れて呼吸に適した空気)」と名づけたという。そして後に、「air vital(活性空気)」と呼ばれるようになったことに、苦言を呈している。空気を分解して窒素と酸素を見出し、呼吸に適するかどうかという性質から迫っている。窒素については、ギリシャ語のゾイ(生命)に否定詞 a をつけて、「azote(アゾト)」と名づけている。
また、ラヴォアジエの名は、酸素の発見者は誰か?という論争でも見かける。歴史上の功績は、プリーストリーということになっているが、シェーレの実験抜きには語れない。そして、命名したのがラヴォアジエということで落ち着いているようである。
本書には、二つのギリシア語、oxys(酸)と genen(つくる)から、oxygen(酸素)と名づけた様子が語られる。酸化についての系統的な命名法を決定して、硫酸、リン酸、炭酸... とし、分子構成と性質によって、お馴染みの、いや!蕁麻疹の出そうな、 oxide...、acide... と命名する様子など。そして、燃える物質という視点から、酸素の飽和度で分類される。例えば、オキソ酸は、ヒドロキシ基(-OH)とオキソ基(=O)の結合によって構成されるが、その種類では、硫酸 H2SO4 や酸素が一つ少ない亜硫酸 H2SO3 で区別されるといった具合に...
当時、「化学命名法」を発表して伝統的な言語系をすっかり変えてしまい、世間から猛烈な非難を受けたことを苦々しく語ってくれる。ラヴォアジエの化学改革を推奨したウプサラ大学のベルクマン教授は、こう書き残しているという。
「不適切な名称はどんなものでも容赦してはならない。それまでにそれを知っている者は、いつまでも覚えていることになるし、まだ知らない者は、ただちに覚え込むであろう。」

4. 酒精発酵と酒の聖霊
アル中ハイマーと呼ばれるからには、「酒精」という用語に反応せずにはいられない。アルコール、エタノール、エチルアルコールなどと呼び方は違えど...
発酵も腐敗も似たような現象である。ただ違うのは、化学反応を起こした結果、人体にとって好ましいかどうか。物体が固体、液体、気体の三態のいずれかで存在しうるのは、世間で常識とされる。
では、それらの魂とはどういう状態であろうか?固体のように頑なになることもあれば、液体のようにドロドロした人間関係もあり、アルコール濃度の高いものと反応すれば、カッとして揮発する。はたまた、腐ったものが、必ずしも悪いものとは言えない。適度に腐れば、それは発酵と呼ばれ、酒の精霊となる。さらに蒸留して熟成すると、記憶までも蒸発してしまう。化学の最大の貢献は、錬金術なんぞではあるまい。魂を聖霊と化すことであろうか。やはり化学実験には、蒸留と濾過は欠かせない。固体と液体を分離する道具では、デカンテーションが紹介されるが、デキャンタと言ってくれた方が親しみやすい。そう、バー用語だ。おまけに、物体が蒸留して固形の状態に凝結することを、「sublimation(昇華)」と名づけている。今宵も、精神を昇華させるために、夜の社交場へ向かう衝動を抑えられそうにない...

2015-10-18

Win 10 にアップして... あっぷっぷ!

十月になって、一段と催促が激しくなったようである。おまけに、事務員さんが、何かの拍子にアップデートが勝手に始まった!と騒ぎよる。仕事が落ち着いたらアップデート計画を立てます... 年内にはなんとかします... と通達してきたが、しょうがねぇなぁ!
結果的に、大した問題はなかったにせよ、精神衛生上よろしくない。コンピュータ業界に限らず通信業界もそうだが、横暴な宗教勧誘は勘弁願いたい。誰か残業代、いや睡眠代を払ってくれ!
... こんな愚痴がこぼれるのも、M性の定めであろうか。ちなみに、M性とは、Mさんの奴隷になってもなお、もっといじめて!とピロートークを仕掛けてくる人のことを言うらしい...

まず、対象マシンは...
  Surface Pro3           : Win 8.1 Pro 64bit
  Dell Studio XPS8100    : Win 7 64bit
  Dynabook Satellite J70 : Win 7 32bit # どうしてもと頼まれた!

とりあえずの心得は、サードパーティのウイルス対策ソフトは削除しておくこと、常駐プログラムはなるべく止めておくこと、そして、ドライバの対応状況を確認しておくこと、ぐらいであろうか。まだまだ情報不足の感はあるが、あとは問題が発生したら考えるとしよう。
いくらなんでも、Surface は問題ないでしょう!Mさん... と思ったら、なんじゃこりゃ!
一方、Dynabook はメモリを増設して無理やり Win 7 を動かしている状態で、しかも他人のマシンなので、ドライバ情報を念入りに調査して挑んだが、まったく問題なく拍子抜け!

1. 64bit系アプリケーションの実体が消えた!
64bi環境では... 64bit系アプリは、Program Files 以下に tools というフォルダを作成して、ここにインストールしている。32bit系アプリは、Program Files (x86) 以下に同じ構成でまとめている。
なんと! Program Files\tools というフォルダだけが、そっくり削除されているではないか。Surface と XPS8100 で同じ現象。"tools" というキーワードが悪いのか???ぶつかっている様子はないが...
[プログラムと機能]で調べると、"既にアンインストールされている可能性があります" だって。ショートカットやレジストリのゴミは、しっかり残っている。
おかげで小一時間、体が固まってしまった。結局、64bit系アプリを再インストールする羽目に...

2. ファイル共有とホームグループが動かない!
いきなりホームグループに参加できなければ、新たなホームグループの作成もできない。これだけで数時間悩む...
先にファイル共有を動かそうとすると、これもダメ!どうやら一旦チャラにして、再設定するとうまくいくようだ。おそらくホームグループもそうだろうと思い、一旦チャラにしようとしても、今度は[ホームグループ設定の変更]以下の項目が一切出てこない。そうこうしているうちに、この項目が出てきた。今がチャンスとばかりに、一旦チャラにして再設定するとうまくいった。そして、一台がうまく繋がると、他のマシンも問題なく繋がるようになる。結局、何が悪かったのか分からずじまい???
トラブルシューティングで最も厄介なのは、再現性がないことだろう...

3. 日本語入力システムの既定が勝手に戻される!
Google IME を既定にして再起動しても、すぐに MS IME に戻される。一旦アンインストールして、再インストールするとうまくいった。Mさんは、Gさんに恨みでもあんの???
尚、ATOKでも同じらしい...

4. Google Chrome のフォントが微妙におかしい!
web コンテンツのフォント設定がきかないケースがある。Chrome を一旦アンインストールして、再インストールすると直った。やっぱり、Gさんに恨みでもあんの???

5. 一週間ほど様子を見て、前バージョンのゴミを抹殺!
無償アップデート後、1ヶ月以内なら前バージョンに戻せることになっている。ということは、1ヶ月後に新たな問題が発生しそうな臭いがする。どうせなら、今のうちに膿を出しておきたい... と思い、disk cleanup やら手動やらでゴミを削除した。Windows.old や $Windows.~BT など...
そして、二週間経つが、今のところ問題はない。
尚、この行為は推奨されていない。こんな衝動に駆られるのも、クリーンインストールするきっかけが欲しい!という意識が心のどこかで働いているものと思われる...

ただし、Surface関係のドライバの削除で手間取る。

  SurfaceAccessoryDevice.sys, SurfaceDisplayCalibration.sys

パスはここ...
  c:\Windows.old\Windows\System32\drivers\
  c:\Windows.old\Windows\System32\DriverStore\FileRepository\

Disk Cleanup でダメ!
rd /S /Q c:\windows.old でもダメ!
所有者を変更してフルアクセス権を与えても、"別のプログラムが開いている" とのメッセージが... まさか、本当に参照されているのか?いや、どこからも参照されている様子がないし、c:\Windows\System32\ 以下にしっかりと実体がある。結局、Cygwin から管理者権限で remove した。これをやれば、出来るとは思っていたが...

所感...
何か問題が発生した場合、一旦削除したり、設定をチャラにしたりで、最初からやり直す!... これでだいたいうまくいくようだ。アップデートに成功したものの、安心できない。やはり、この手のアップデートはクリーンインストールすべきであろうか...
また、Windows update やシステム関係などは[設定]の中にあり、アイコン通知領域の設定を見つけるだけで苦労した。「とりあえずコントロールパネル」という発想は変えた方がよさそうである。
なにかと騒がせるスタートメニューについては、選択肢が増えた点では、ましになったようである。Surface では、その場でタブレットモードに切り替えられる機能はいいかもしれない。しかしながら、デスクトップ環境では、愛用してきた StartMenu X がやめられない。
尚、バッテリ残量がパーセント表示だけでなく、残りまでと充電完了までの目安時間が表示されるようになったのはありがたい。

おまけ...
ウィンドウ枠がほとんどなくなったのは、モバイル環境ではありがたい。だが、タイトルバーが白色しかないのは、ちと寂しい。これらの調整が欲しいという方が結構いるので、ついでにメモっておく...
デフォルトのままでも十分ではあるが、なぜ、このような機能を削ったり隠したりするのか?おいらには理解できない。Win 8 でも感じたことだが、ユーザ環境に自由度を与えないというのはどうであろうか?ユーザインターフェースは、用途や個人によって多様化する方が、自然に適っているような気がする。業界そのものが、ますます宗教に見えてくる...

1. タイトルバーの色変更
尚、Win 10 のバージョン 1511、ビルド10586 にアップデートすると、タイトルバーの色変更ができるようになった。1511 とは、2015年11月という意味らしい。... 2015/11/14追記。

関係ファイルは、二つ。

  c:\Windows\Resources\Themes\aero\aero.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\aero\Ja-JP\aero.msstyles.mui

どうやら、"Aero" というキーワードで管理されていて、\aero 以下をコピーしてリネームするだけでいいようである。この作りもどうかと思うが...
元ネタはここ。

  http://winaero.com/blog/get-colored-title-bars-in-windows-10/

尚、このサイトのホーム(http://winaero.com/)には、「Winaero Tweaker」というツールが紹介されている。これを使うと、"Colored Title Bars" というテーマが追加される。気に入らなければ、同時に、colored というテーマのタネが生成されるので、このタネを対象テーマで直接指定すればいい。

  c:\Windows\Resources\Themes\colored\colored.msstyles
  c:\Windows\Resources\Themes\colored\Ja-JP\colored.msstyles.mui

そして、対象テーマの中にある [VisualStyles]という項目のパスをエディタで直接修正する。例えば、xxxx.theme 内の Path に colored.msstyles を指定する。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ....
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\colored\colored.msstyles
  ....


実際、ツールと手動の両方を試したが、結果は同じ。尚、手動では、"colored" とは別の名前にしてみた(管理者権限が必要)。

2. 色彩を微調整するツール
標準機能だけでは色彩の調整が大雑把すぎるので、隠された微調整ツールを使う。
これを実行すると設定ウィンドウが出現...

  rundll32.exe shell32.dll,Control_RunDLL desk.cpl,Advanced,@Advanced

3. ウィンドウ枠のテーマには、AeroLite ってやつがある

  c:\Windows\Resources\Themes\Aero\AeroLite.msstyles

同様に、[VisualStyles]にタネを指定すればいい。

c:\Users\username\AppData\Local\Microsoft\Windows\Themes\xxxx.theme

  ...
[VisualStyles]
Path=%ResourceDir%\Themes\Aero\AeroLite.msstyles
  ...


しかし、default の幅が太いので、レジストリで細くする。

HKEY_CURRENT_USER\Control Panel\
  Desktop\WindowMetrics\PaddedBorderWidth
# default = -60  -> -20

ただし、スタートメニュー枠の影の部分が透明になって気になる。個人的には枠はほとんどなくていい!

2015-10-11

"科学革命の構造" Thomas S. Kuhn 著

宗教をも巻き込んだ科学革命の大エピソードには、コペルニクス、ガリレオ、ニュートン、アインシュタインといった人物をあげることができる。だがそれは、歴史における便宜上の問題でしかないかもしれない。科学の大転換点は、突如として出現する一人の天才だけのものではない。ささやかな観測技術の発明、細々とした理論、こうしたものが蓄積された結果、ある日、科学体系として開花させてきた。それは、進化論に通ずるものを感じる。継続的な意識がエネルギーの蓄積を伴って突然変異を引き起こすような、連続性と離散性の協調のようなものを。
科学史家トーマス・クーンは、「科学革命」に「通常科学」という用語を対置させる。通常と呼ぶからには、異常について語るということだ。彼は、「パラダイム」という概念を持ち出した人物として知られ、変革時に出現する変則性とその必然性を語る。革命ってやつは、官僚主義に陥った惰性的精神を打倒するために生じるところがある。健全な懐疑心を失った社会に、進化の道はない。
一方で、安定した周期を持つ慣習ってやつが、魂に安住の地を与える。不変の周期があるとすれば、それは世代を超えて持続されてきた知への渇望であろうか。ゲーデルは晩年... 不完全性定理は自分が発見しなくても、いずれ誰かが発見するだろう... と語った。この発言は、おそらく正しい。真理の概念は必然的な存在であり、概念が歴史の道を散歩しているようなもの。誰がその概念を歴史の舞台にあげるかは、大した問題ではないのかもしれない。
すると、人間は何のために存在するのか?人間は真理を暴くための使命を帯びているのか?人口増加とは、その確率を高めるためのものなのか?戦争とは、怠け癖のある人間を尻たたきするためのものなのか?競争の原理とは、その最終目的は宇宙法則を導くことなのか?神は随分と遠回しな思わせぶりを、人間社会に埋め込んだものよ...

知るには、まず観ること!思考の礎がここにある。そして、知識は押し付けがましいところがある。さらに、学ぶには知識の前提が必要である。学ぶとは、受動的な活動が能動的な活動に昇華する過程を言うのであろうか。知性に優れた者ほど寛容さを発揮できるのは、知識を欠いていた頃の自分自身を鋭く観察してきたからであろうか。そんな境地に達してみたいものだが...
科学理論は、後から出てくるものほど真理に近いとは、よく耳にする。アリストテレス力学よりもニュートン力学が、さらにアインシュタイン理論が優ることに疑いはない。科学は着実に客観性を進化させているかに見える。ならば、人間は主観性をも進化させているだろうか?はたまた、客観性が主観性を打倒しようとしているのか?どちらか片方でも失えば、人間を失いそうだ。真理の勝利とは、人間性を失わせることなのか?まさか...
では、真理ってやつは、本当に存在するのか?仮に存在するとして、人間の認識能力で説明できるような代物なのか?それでも真理は存在すると信じたい... などと語れば、科学もなかなかの宗教である。客観性や論理性ってやつは、崇めるに値するものなのか?いや、科学とて論理崇拝主義だけでは心許ない。社会学は心理学を経て生物学に、生物学は化学を経て物理学に還元され、そして自然学へ昇華し、やがて形而上学へ帰するのかは知らん。帰納法と演繹法とでは、どちらが王道なのかも知らん。
真理への道は、はたして抽象化が正しい作法なのか?それとも多様化が正しい作法なのか?仮に、宇宙法則という観点から正しい道というものがあるとして、それは主観的な人間にとって可能な道なのか?やはり邪道も必要である... とすれば、酔いどれだって居場所が得られる。
本書は、科学であっても、たまには社会学的に、心理学的に語ることの大切さを教えてくれる。真理の探求に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなくセクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ...

1. パラダイムとパラドックス
「パラダイム(paradigm)」という言葉の響きには、「パラドックス(paradox)」と同じ音律を感じる... のは気のせいであろうか。アインシュタインは、同時性が相対性であることを示したのか?それとも、同時性自体の概念を変えたのか?同時性と相対性にパラドックスを感じるのは、誤謬を犯しているからか?あるいは、形而下で矛盾するものは、形而上では矛盾しないとでも言うのか?このフレーズを眺めるだけでも、パラダイムという用語に多義性があることが分かる。
「ニュートンの法則は、時にはパラダイムであり、時にはパラダイムの部分であり、時にはパラダイム的である。」
哲学的な用語とはそうしたもので、真理を探求すれば必然的に言語の限界に挑むことになる。言語システムは、真理に到達していない人間が編み出したものだから。にもかかわらず、専門家の間でも用語の解釈で食い違いがあると、理解が足らないと馬鹿にする。露出狂の有識者ほど、その傾向を強めるらしい。明確に定義できないから新たな語を必要とするのであって、人によってニュアンスの違いが生じるのも自然であろうに。そもそも用語を的確に理解している者などいるのか?言葉を編み出した本人でさえも...
例えば、「抽象化」という用語でも、学問分野によってニュアンスが違う。政治屋や経済人は、曖昧さという意味を込めて、具体化しなければ無意味として片付けがちだが、社会学や歴史学では、一般化という意味合いが強いだろうか。科学や哲学では、普遍性という意味合いが強く、コンピュータ工学では、データ構造の隠蔽という意味合いで用いたりする。「客観性」という用語でも、学問分野によって度合いが違い、数学のそれは他を寄せ付けない。「信用」という用語では、道徳家は大切に用いるが、経済人は担保がなければ受け入れられない。
さて、パラダイムという用語は、コンピュータ科学やソフトウェア工学、はたまたマネジメント論やビジネス書でも見かけ、いまや一般的となっている。それは、ある学問分野を席巻する理論の法則性や思考の方向性といった総合的体系を指す言葉と理解している。本書は、こう定義している。
「パラダイムとは、一般に認められた科学的業績で、一時期の間、専門家に対して問い方や答え方のモデルを与えるもの。」
あくまでも科学に発した言葉というわけだが、研究における思考の傾向を示すからには極めて社会学的となろう。実際、論理実証主義者から非難された経緯がある。科学理論が論理的実証の立場から支えられているのも事実だ。おそらく世界は、絶対的な宇宙法則に支配されているだろうし、純粋客観にこそ真の合理性があるのだろう。
しかし、だ。人間の持つ合理性という観点からは、どうであろうか?主観すなわち直観が、思考力を牽引するところがある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、最初から客観性を得ることなどできないばかりか、獲得した客観性ですら主観性に惑わされ、おまけに、それすら気づかないでいる。ならば、人間の持つ合理性は、主観と客観の双方を凌駕するしかないのではないか。だが、どちらも完全に凌駕することは不可能ときた。やはり主観と客観の調和を求めるのが、現実的ということになろうか。
一般的な科学の方法論では、まず仮説を立て、それを検証するものと言えば、もっともらしく聞こえる。だが、研究に携わった経験のある人には陳腐に聞こえるだろう。現場では、極めて直観的な思考を試しては、泥臭くそれを繰り返している。そして、科学的な思考には、芸術的な思考がよく適合するように映る...

2. 科学者集団の社会学
客観性を崇める科学者集団の世界とて、人間社会であることに違いはない。そこには権威や名声もあれば、嫉妬や憎悪も生じる。科学界の論争で醜態を演じたものの一つに、微積分学の功績を巡るニュートンとライプニッツのものがあるが、アルキメデスの功績が明るみになると、彼らも少しは遠慮したかもしれない。
専門用語の揚げ足をとるような論争に巻き込まれると、肝心な用語の定義を忘れ、正論を語ることを怠り、ミイラ取りがミイラになることもしばしば。論争とはそうしたものである。
そこで、仮説嫌いのニュートンに、ちょいと反論しておこう。誤った仮説も全然ないよりはましよ。仮説が誤りであることは、恥でもないだろう。科学者としての恥は、概念が固定化され、広く承認され、一種の信仰告白となって誰も疑うことが許されない風潮を作ることである。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。かつて学問は、総合的で学際的な知に支えられた。現代の聖人は、古代の聖人ほど神秘的である必要はない。現代の芸術家は、古代の芸術家ほど威厳を持つ必要はない。現代の知識人は、古代の知識人ほど迷信的である必要はない。そして、現代の科学者は、古代の科学者よりも知性的である必要はないのかもしれん。実際、劣っていそうだし。だからこそ専門に特化し、そこに人生を賭けることができる。
しかしながら、専門化が進めば視野を制限し、パラダイムの変革を妨げることになりはしないか?深く学ぶことと多面的に学ぶことを両立させることは、まさにパラドックス。だが、どちらも怠ることはできない。したがって、研究のどの立場に身を置くか、これも人生の賭けだ!理論が検証され、否定されたら研究人生も終わるのだから。科学者はそれを覚悟し、研究に没頭する冒険心が求められる。自分の立場を正当化しようと固執するのは、人生の無駄を認めたくないからであろう。しかし、間違いを証明できれば、それはそれで有意義な無駄となる。無駄の概念をちょいと変えるだけで、そこに居場所が与えられるという寸法よ...
真理の探求者は、けして自己否定を拒まないものらしい。真理とは、自己愛や自己陶酔の類いよりも、遥かに心地よいと見える。パラダイムとは、理論体系だけで説明できるものではなく、研究者の意識傾向も含めて体系化された結果であろう。人類の叡智とは、知の永劫回帰のようなもの。それは、思考実験の繰り返しに支えられている。正しいことばかりを求めている人は、まったくリスクを背負えないばかりか、正しいことを何一つ掴めず、他人の後追いをしているに過ぎない... ということになろうか。そして、知識の抗争では、後出しジャンケンの原理に縋って非難攻撃を展開することになる。正しいことを掴んだ者は、多くの間違いを犯してきたはず。失敗をしたことがないと主張する者は、とこか失敗の概念を間違えている... と言わねばなるまい...

2015-10-04

"色彩論" Goethe 著

人類は、光に特別な地位を与えてきた。魂の難題を迎え入れては開眼を求め、絶望の淵にあっては神に乞う。光を与えよ!と。人間が知覚できるものの中で、これほど幻想的で、神秘的なものがあろうか。しかしそれは、闇をともなって、はじめて成り立つ情念。光は盲人を区別しない。俗世間は、相も変わらず眼の前の事象に惑わされる。物事が本当に見えているのは、どちらであろうか。絶望を見た者にしか見えない何かがある。その何かを見るためには、純粋な集中力をともなった精神活動を要請してくる。
一方で、物理学では、光は可視光線と呼ばれ、電磁波の一種に過ぎない。闇は光の存在しない状態、すなわち無であり、光学的に意味をなさない。
だが、芸術の巨匠たちは、闇の方に深い意味を含ませ、光をより効果的に用いて見事な陰影を仕掛けてくる。人間にとって、闇は光の引き立て役なんぞではない。光と闇が対照に配置されると、神と悪魔、あるいは自然と人工が同列に扱われ、物理現象に精神現象が結びついた結果、薄気味悪い無限とやらを彷彿させる。色彩が心象に現れ、ある種の有機体のようなものが生起するのである。その状態は薄明のままに留まり、いつまでも明確な意識として説明できず、もはや自分自身を啓蒙するしかない。それは精神そのものが、幻想的で神秘的な存在だからであろうか。未だ人類は、精神の正体を知らないということか。
ゲーテは、物理的現象と化学的現象に生理的現象を結びつけ、客観的な光学現象を主観的な色彩現象として考察する。無味乾燥な周波数スペクトルだけでは、色彩を語ったことにならないというわけである。とはいえ、いくら陰翳を礼賛したところで、人はみな色仕掛けに弱い...

ゲーテの自然研究は、植物学、動物学、地質学、鉱物学、骨学、色彩学、気象学など多岐に渡る。これらの共通点には、16世紀頃の汎知学に影響された神秘的な自然観があるらしい。この文豪が自然研究に没頭したことは、現在でも毀誉褒貶が絶えない。ニュートン批判に及ぶと、素人が何を言うか!と。
だが彼は、自然は物質的存在であると同時に精神的存在であるという立場を変えようとしない。学問にもそれぞれの立場がある... 利用する人、知識の人、直観する人、包括する人... そして、包括する人を最高位とし、ゲーテ自身その段階を極めようとする。学問は、専門家だけのものでもなければ、専門家が支配するものでもあるまい。科学者も元を辿れば、同じ自然愛好家であったはず。現実に素人の発想が専門知識を補完することはよくあり、専門的な知識が邪魔をして誤謬を犯すことだってある。それ故、全生涯を学問に捧げることができない者であっても、学問に寄与できないなどとは言えまい...
「芸術を高次の意味で考察した場合、願わしいのは、名匠のみが芸術にたずさわり、弟子は厳格に能力をためされ、愛好者は芸術にうやうやしく近づくだけで幸福に感じるということである。なぜなら、芸術作品はほんらい天才から生ずべきものであり、また芸術家は内実と形式を彼自身の存在の奥底から呼び起こし、素材に対して支配者としてふるまい、外面的影響はたんに自己完成のために利用すべきだからである。」

ところで、波という物理現象が人間の感知できるというだけで特別扱いされるのは、視覚だけではない。物理学的には雑音も同じく音波でありながら、人間の魂に何か訴えるものがあると、それは音楽と呼ばれる。music の語源は、ギリシア神話の詩歌の女神ムーサ(ラテン語形の musa, 英語形の muse)に遡る。いま巷で騒がれるハイレゾ音源は、人間の耳の持つ可聴帯域を超え、精神的に安心感や快感を与えるという研究報告がある。光もまた、人間の眼の持つ可視帯域を超えた領域で、身体全体で光線を浴びて感じとっているのだろうか。人間の知覚能力は、五感だけでは説明できないところが多分にある。人体構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な細胞形態をこしらえる機能を具える。とすれば、人体を形成するあらゆる細胞に、なんらかの周波数感知能力が潜在的に眠っている可能性はないだろうか。それが、第六感ってやつかは知らん...
「人間は世界を知る限りにおいてのみ自己自身を知り、世界を自己の中でのみ、また自己を世界の中でのみ認識する。いかなる新しい対象も、深く観照されるならば、われわれの内部に新しい器官を開示するのである。」

1. 光学 vs. 色彩論
本書には激しいニュートン批判が込められている。そこで酔いどれ天の邪鬼は、ニュートンを少し弁護したい気分になる。
そもそもニュートンが研究したのは光学であり、ゲーテが探求したのは色彩論であり、ここに決定的な違いがある。光も色彩も自然現象であり、同じ物理学の研究対象であることに違いはない。
ただ、芸術の観点から色彩は重要な要素であり、光よりもむしろ闇の方に大きな意義が与えられる。それ故、ゲーテが陰影現象に主眼を置くのも道理に適っている。
物理学がいくら客観性を主張したところで、観察するということは人間が認識することを意味する。人間が認識するということは、主観が関与するということだ。科学実験は、客観と主観の仲介役とでもしておこうか。客観性と主観性の重きの置き方に違いはあれど、どちらも興味深い研究であることは間違いなく、互いに補完的な立場に置きたい。学問と芸術はすこぶる相性がよく、けして分離できないものであろうから...
「われらの書きしもの、正誤いずれにせよ、われら生くる限り、それを弁護してやまず。われらの死後、いま遊び戯れる子らが裁き手とならん。」

2. 生理的色彩と陰翳礼讃
医学的に健康とされる眼に映る色彩は、生理的色彩と呼ばれる。対して、病理的色彩というものがありそうだ。それは、有機的に異常に発達した状態、あるいは劣化した状態ということになろうか。
ただ、正常を明確に定義することも難しい。生理的色彩を語るからには、心理的領域に踏み込むことになり、それは、空想的、想像的、あるいは妄想的ですらある。人間の認識が五感だけで説明がつかないとすれば、色覚異常と精神異常を区別することも難しい。いずれにせよ、色彩で最も単純な構造は、白黒画像ということになろうか。そこに物体の像を浮かび上がらせるのも、認識脳の中で物体が再構築されるからである。
人間の知覚能力は、危険との関係、すなわち自己存在との関係から発達させるところがある。生まれつき盲目な人が青年期に手術を受けて視力を回復させても、目の前の像から危険を察知することができない、と聞く。はっきりと何かが見えるのだが、その像が自分にとって何を意味するかが分からないと。ならば、危険を感じない領域では、客観的なものの見方ができるのだろうか。それはそれで、無感動、無価値、無駄、無意味として通り過ぎるだけのことかもしれん...
一方で、認識脳ってやつは、物理現象に享楽が結びつくと、あらゆる幻想を見せる性質を持ってやがる。真理が心地良い存在となれば、光がさすところに開眼や悟りの像を見せる。それは、陰影から育まれる像であって、そこに多彩な色が副次的に結びついて、より豊かな感情を呼び覚ます。色彩を超越した心的エネルギーの覚醒とでも言おうか。バーの空間が薄暗く演出されるのも道理である。余計な情報を排除してこそ味覚も研ぎ澄まされ、五感を総動員しなければ真の愉悦は得られまい。となれば、色彩論の本質はむしろ無彩色の方にあるのかもしれん。
尚、ゲーテは見事なほどのロウソクの妙技を語ってくれるが、このお爺ちゃんが七十を過ぎて二十歳前の娘を口説く時、陰影の妙技を演出したのかは知らん...

3. 色相環の巡回符号
三角形は、数学者によって特別な地位を与えられ、神秘主義者たちは崇拝の源泉としていきた。実際、三角形を用いると実に多くのことが図式化される。正三角形の向きを反転させて重ねると、神秘の代名詞となった。
ゲーテの色彩論もまた、赤(深紅)を頂点とし、底辺に青と黄を配置した三原色論を導入し、さらに、逆三角形の頂点(底点)に緑を置いて、菫と橙を底辺に配置し、赤(深紅)、菫、青、緑、黄、橙の色相環を形成する。そして、最高の深紅色を尊厳ある色とし、その対極の緑を希望の色として、神秘的な解釈を試みる。緑は自然の中で最も始源的な色で、青や黄へ枝分かれしながら精神の高進が始まり、深紅という一致する高貴な対象へ向かうというのである。
確かに、緑は目に優しい色とされ、植物の放つ緑は最も自然的な存在で、心を落ち着かせる。目の悪いおいらは、眼科のお医者さんに、遠くの緑の風景を見るようにするといい、と助言されたことがある。対して、赤は情熱的な色とされ、何か駆り立てるものがある。その段階的な色彩で、古くから階級を区別したり、心理学では精神状態を重ねるといった試みもある。
一方で、色彩現象では、色の混ざり具合によって色相、明度、彩度といった状態が近似され、色の伝達、除去、同化といった感覚的相殺が生じる。実際、錯視という現象がある。同じ物体でも、色の明るさによって大きさが違って見えたり、色の領域がはっきりと区別されても、遠くから見ると一つの色に見えたり。ミュラー・リヤー錯視、ツェルナー錯視、ヘリング錯視... など幾何学的錯視の事例は腐るほどある。
こうした感覚は、認識脳の都合上の問題であろうか。テレビが動画としてそれなりに見えるのは、視覚能力の追従性の鈍感さを利用して、誤魔化しているに過ぎない。そう、残像効果ってやつだ。人間の知覚能力には、認識脳と協調して、うまいこと補完する機能を具えている。それは、誤り訂正能力、いや、都合よく見せる技と言うべきか。宇宙人の眼には、ノイズだらけの情報で熱中する地球人が滑稽に映ることだろう。だから、近づかないようにしているのか?
無限にある色彩の状態は、いまだ精神の過程にあるとすれば、精神状態は常に色彩循環を求めているのだろうか?ちなみに、符号理論では、巡回符号を誤り訂正の手段として用いられる。認識の誤りを色彩循環によって補正しようとするならば、ここには一種の巡回符号が形成されている... と解するのは行き過ぎであろうか。
しかしながら、このお爺ちゃんは深紅を崇めつつ、七十を過ぎてもなおバラ色のテクニックを駆使したものの、二十歳前の乙女の心を射止めるには至らなかった...




4. 像を写しだす境界面と接合芸術
人間の眼に色彩を写しだすためには、ガラス、水面、鏡、スクリーンなどの境界面を必要とする。しかも、その境界面で色を重ねたり相殺したりすると、別の色に見せたり、無色に見せることだってできる。あらゆる色が空気中を浮遊しているにもかかわらず、境界面においてのみ眼に見えるとは、どういうわけか?その境界では、色彩エネルギーが心的エネルギーに変換されるとでも言うのか?
ニュートンのプリズム実験は、光線のエネルギー境界を示したという重要な意味があり、単に屈折を示したわけではあるまい。液晶ディスプレイは、それ自体発光しない液晶組成物を利用して光を変調することによって像を映し出す。太陽の像にしても、目に危険を冒してまで直接見なくても、反射面を利用すれば間接的に観察することができる。実は、色彩の物理的意味は、物事を間接的に観察するってことかもしれん。
さて、色彩現象の度合いは屈折の度合いに比例すると考えられ、屈折の強弱は媒体の密度に依存するとされる。実際、大気中の空気や霧の密度が高まるほど、像の変位の度合いを増す。また、屈折の原因は物質的性質の他に、化学的性質を加える必要があるとしている。屈折の増加は酸性によって規定され、減少はアルカリ性によって規定されると。
本書は、最初に実用化されたクラウンガラスとフリントガラスを紹介してくれる。望遠鏡の設計で欠かせない概念に、色収差というものがある。接眼レンズの設計は、単純に屈折率や拡大率を調整すればいいというものではなく、収色性や余剰色といったものの補正を考慮する必要がある。この点は、光学と色彩論が協調して振る舞う部分である。精度の高い望遠鏡は、見事な接合芸術というべきであろう...
「有色の輪の現象が最も美しく生じさせられるのは、同一の球面に従って研磨された凸レンズと凹レンズを接合させる場合である。私はこの現象を、色収差のない望遠鏡の対物レンズの場合ほどすばらしく見たことはいまだかつてない。その対物レンズの場合、クラウンガラスとフリントガラスとじつにぴったり接触していたに違いなかった。」

5. 自然に恋したゲーテ
「自然!われわれは彼女によって取り巻かれ、抱かれている。彼女から脱け出ることもできず、中へより深く入っていくこともできない。頼まれもせず、予告することもなしに彼女は輪舞の中へ引き入れ、われわれとともに踊りつづけるが、そのうちにわれわれは疲れ果て、彼女の腕からすべり落ちる。
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彼女は比類のない芸術家である。いとも単純な素材から最大の対照物をつくり上げ、苦労のあともなく最大の完成にいたる。緻密な確実さを有しながらつねに何かを柔弱なものでおおわれている。彼女の作品はいずれも独自の存在をもち、彼女の現象はいずれもはっきりと孤立した現実ではあるが、すべては一つをなしている。
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自然は一つの芝居を演じている。彼女がそれを自分で見ているかどうか、われわれは知らない。しかしながら彼女はそれをわれわれのために演じ、われわれは片隅に立っている。
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自然の冠は愛である。愛によってのみ人間は彼女に接近する。彼女はすべての個物のあいだに間隙をもうけたにもかかわらず、すべてのものは互いにからみ合おうとする。彼女がすべてのものを孤立させたのは、すべてのものを引き寄せるためである。愛の酒杯からほんのすこし飲むだけで、彼女は苦労に充ちた生活の償いをする。」

ドイツ語の Natur が女性名詞であることは、偶然ではなさそうである。掴みどころのない永遠の謎!自然の中に生きながら、その正体をまったく知らない。自然は人間を支配し続け、人間は自然ばかりでなく、自分自身ですら支配できない。自然は、常に運動を続け、停滞することを許さない。静止とは、ある種の呪いであろうか。永劫不変とは、永遠に未完成であることを意味する。人間ってやつは、完成の美よりも、はるかに未完の美に恋焦がれる。どうりで男はみな色仕掛けに弱い...