2021-07-25

"ソフトウェアエンジニアリング論文集 80's" Tom DeMarco & Timothy Lister 編

日ごとに歩みを加速させるソフトウェア。まともに相手をしていると目が回る。40年間の歩みで容量や速度は9桁も伸び、単位系は Kiro から Giga 経て、Tera へ。9600ボーは、もはや古代遺跡か。最先端の技術に振り回され、技術から生み出されたオモチャに振り回され、まったく自分の足で歩いているのやら、人の足で歩かされているのやら。仮想化ってやつが、自由意志までも曖昧にしていく...


しかし、だ。ソフトウェア技術がいくら進歩しようとも、コンピューティング哲学が、そうやすやすと廃れることはあるまい。
二千年以上前の自然哲学は未だ健在だし、相対性理論に否定されたニュートン力学だって未だ権威を保っている。そればかりか、ルネサンス風の原点回帰で一役買い、むしろ輝きを増している。
構造化プログラミングにしても、オブジェクト指向にしても、それぞれ、60年代、70年代に考案された方法論だが、80年代に花開き、21世紀の今でも輝きを失わずにいる。手法を盲目的に用いるのではなく、思想観念として独自のスタイルで実践する。哲学とは、そういうものであろう...


原題 "Software State-of-the-Art: Selected Papers"
ここに紹介される論文集は、80年代のもので、「デマルコ・セレクション」と副題される。編集は、「ピープルウェア」や「アドレナジャンキー」のトム・デマルコとティモシー・リスター。このコンビの名だけでも、なんとなく手に取ってしまう。おいらは暗示にかかりやすいのだ。
良いと感じるものは、なんでも真似したくなる。真似したからって、どうなるものでもないけど。真似る価値があるかどうかも、後にならないと分からないけど...
合理的な設計者であることは難しい。プロセスを真似ることすら難しい。あっさりと真似て独自のスタイルにしちまう人は、失敗の経験も豊富なのだろう。おそらく...
達人の書いたプログラムには、書き方を超えた何かがある。エレガントなアルゴリズムは、忘れかけていた何かを思い出させてくれる。おいらはプログラマではないが、ソフトウェア工学の考え方は技術屋の視点から非常に参考になる。生きる上でも...
尚、本書は、二人がセレクトした 31 の論文集から、監訳者児玉公信が 12 を厳選。


  1. 「ソフトウェア工学の超構造化管理」Gerald M. Weinberg
  2. 「銀の弾丸はない: ソフトウェア工学の本質と課題」Frederick P. Brooks, Jr
  3. 「ソフトウェアコストの理解および制御」Barry W. Boehm, Phillip N. Papaccio
  4. 「ソフトウェア研究についての私見」 Dennis M. Ritchie 
  5. 「ソフトウェア開発見積りのメタモデル」John W. Bailey, Victor R. Basili
  6. 「生産性改善のためのソフトウェア開発環境」Barry W. Boehm, Maria H. Penedo, E. Don Stuckle, Robert D. William, Arthur B. Pyster
  7. 「ボックス構造化情報システム」H. D. Mills, R. C. Linger, A. R. Hevner
  8. 「STATEMATE:複雑なリアクティブシステムの開発作業環境」D. Harel H. Lachover, A. Naamad, A. Pnueli, M. Politi, R. Sherman, A. Shtul-Trauring
  9. 「Pascal の問題に対する一解決 = Modula-2」Roger T. Sumner, R. E. Gleaves
  10. 「合理的な設計プロセス: それを真似る方法と理由」David L. Parnas, Paul C. Clements
  11. 「セルフアセスメント手順 IX、コンピュータ利用における倫理に関する...」Donn B. Parker, Eric A. Weiss
  12. 「TeX のエラー」Donald E. Knuth

ソフトウェアエンジニアリングといえば、プログラムの設計、運用、保守といった方法論に目が向くが、ここでは、ちと視野を広げて、マネジメントや開発環境、コストや見積もり、エラーログの有用性、さらには、倫理面にも目が向けられる。
たいていのプロマネは、技術の問題よりも人間の問題の方が深刻だということを痛感しているだろう。日程やコストに追われ、限られた人員で、いかに合理的に仕事を進めるか。たいていは、目先のことに囚われる。悪臭漂う流用モジュールを政治的に押し付けられれば、拒否した時の失敗の責任を考え、成功率の低い方を選択しちまう。品質を犠牲にすれば技術者たちのモチベーションまで下げてしまい、不合理きわまりない。
プロマネがまともに仕事をやろうと思えば、首を賭ける覚悟がいる。しかし、その覚悟は、そんな大層なものではない。自分のやり方を通す方が気楽なこともあるし、生き方もシンプルでいい。政治的な組織は、あっさりとおさらばするぐらいでいい...


プログラムってやつは、簡単に言っちまえば、文字の羅列。その意味では文学にも通ずる。いや、人間の文化そのものが、文字や記号で成り立っている。芸術作品も、建築物も、音楽も、方程式も、形式的な記述によって。宇宙を構成する素材も、ある種の暗号で記述されている。人間にとっての記述とは、解釈の道具ということになろうか。
ならば、ソフトウェア工学は、文学、社会学、生物学、量子力学... など垣根を越えた学際的な学問となろう。開発チームの運営は、極めて社会学的。使い勝手を追求すれば、極めて人間工学的。言い換えれば、ソフトウェア工学は、人間の能力に束縛されてきたという見方もできる。
実際、本書は、コンピュータ工学の書でありながら人間味に溢れている。まさに人間学。ならば、ソフトウェア工学が人間から解放されると、どうなるだろうか...


コンピュータは数学的な構造を持っている。これを動作させるソフトウェアも数学的に記述する方が合理的なはず。少なくとも、チューリングマシンの思考原理は数学的である。
しかしながら、記述するのは人間だ。現実に、人間が理解しやすい形式で記述する方が、合理的なケースが多い。ソフトウェアが複雑化し、大規模化すればするほど、プログラミング言語も人間味を帯びてくる。機械語から、アセンブラ言語、C言語、そして、スクリプト言語へ。人間に近づけば近づくほど高級言語とされる。人間の思考原理が、高級かは知らんが...
AI がプログラミングすれば、わざわざ人間に理解させる必要はないだろう。CPU が直接理解する記述方式の方が合理的なはず。するとソフトウェア工学は、さらに進化を加速させ、人間の理解の及ばない怪物となりそうだ。人間はコンピュータの奴隷になる運命にあるのか...
なぁ~に、心配はいらん。生まれつき奴隷説は、二千年以上前に既に唱えられている。仕事をすべて奪われた奴隷とは、なんと滑稽な。そして、ヘーシオドス風の精神原理に回帰せずにはいられまい。仕事に生き甲斐とやらを求めて...
ところで、生き甲斐ってなんだ???

2021-07-18

"アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論"

古代文化の対決か。それとも、伝統の継承か...
ギリシア代表はアリストテレースの「詩学」、ローマ代表はホラーティウスの「試論」。片や自然哲学者として体系的に論述して魅せ、片や芸能詩人として風俗的に口述して魅せる。詩作という行為を、人間の普遍性に位置づけている点では両者とも同じだが、アリストテレースは、詩を味わうには教養や知性が必要で、大衆に理解できるものではないとし、ホラーティウスは、大衆が親しんでこそ人間の本質が露わになるとしている。
ホラーティウスがアリストテレースの文献に影響を受けたかどうかは知らんが、堅苦しい見識から砕けていくのは、時代の流れというものか。それで、大衆が賢人化していくのか、賢人が大衆化していくのかは知らんが、大衆は臭い!
アリストテレースにしても、師プラトーンが描いたイデア論の理想高すぎ感を、やんわりと砕いて反論した張本人でもある。当時の大衆の意味合いも現代感覚とは大分違うだろうが、ホラーティウスが詩作への意識をやや大衆寄りにしたということは言えそうか...
尚、松本仁助・岡道男訳版(岩波文庫)を手に取る。


音律を伴うものすべてが詩ではない...
当時の語り手は、なんでも音律を伴っていたようである。叙事詩や抒情詩から、悲劇、喜劇、ディテュランボス(酒神讃歌)、アウロス笛やキタラー琴による語り、そして、政治家の演説や医学の論文まで。アリストテレースによると、ホメーロスを詩人と呼ぶに相応しいが、エムペドクレースは自然学者と呼ぶのが正しいとしている。
どんな文章でも、短い句で構成して音律をともなえば、詩のように見える。だが、へロドトスの作品を韻文にしたところで、歴史の書であることに変わりはない。詩は、美しいだけでは足りない。どこか崇高で、心地よく、癒やされるものでなければ...


悲劇と喜劇の格付け...
人間の普遍性を探求するに、意識の格付けなんてナンセンス。ただ、悲劇と喜劇の格付けでは、アリストテレースも、ホラーティウスも、似たような意識を見せる。悲劇は優れた人間の再現で、喜劇は劣った人間の再現... といった意識である。そんな感覚は現代でも色濃く残っており、お笑い芸能が低俗に見られがち。
しかしながら、動物学では、笑うのは高等な動物の証とされ、喜劇の原理こそ、まさにそれである。歌舞伎や能といった伝統芸能にしても、元を辿れば滑稽芸。世阿弥の風姿花伝にしても、滑稽を芸術の域に高めた結果。
人間の情念ってやつは、死を思わせれば、だいたい悲しみを誘うが、笑いは、そうはいかない。実に多様で、実に文化的で、その人の生き様を反映し、道化を演じるには高等な技術を要する。一度も笑いの得られない日があれば、無駄な一日を過ごしちまったと損した気分にもなる。あの世でニーチェあたりが愚痴ってそうだ... 笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものだ... と。


最も重要なのは「筋」...
アリストテレースは、詩で最も重要な構成要素に「筋」を挙げている。今風に言えば、シナリオか、物語性といったところか。そして、普遍性と必然性によって説得力を与えると。
自然な合目的性こそ、高度な精神体現というわけか。喜劇では、矛盾も、不合理も、不自然さも利用する。ゆえに、悲劇の方が技術的には高尚という見方もできよう。
ホラーティウスは、やや砕けて全体のバランスを重要視しているが、矛盾や不自然さとなると抵抗があるようで、「分別を持つことが詩を正しくつくる第一歩!」としている。
しかし、だ。詩人に道徳的義務を背負わせるのはどうであろう。読み手だって、そんなものを押し付けられれば、息苦しくなる。矛盾も、不合理も、不自然さも見せない人間なんて、むしろ味気ない。やはり芸術には狂気の沙汰がなければ。詩には救われる。欠点だらけの狂気の詩人に、親しみを感じ、癒やされる。詩人に人間を救え!社会の模範となれ!などと、ふっかける気にはなれんよ...


人生はドラマチックに...
詩人が狙うは、有用性か、喜びか、あるいは、その両方か。詩に人間の本質を見るという意味では、哲学と目的を同じにする。つまりは、人生論の語り手として。
アリストテレースは、詩の要素の一つに、驚き、あるいは、ドラマ性を挙げている。感動するということは、ある種の意外性が含まれる。人生には、飽き飽きする日常を盛り上げてくれる何かが欲しい。
ちなみに、ドラマ(ドラーマ)の語源は、ドラーン(行為する人)からきているらしい。詩とは、「行為する人の再現」というわけである。
やはり、人生にはリズムと調べが欠かせない。そして、ドラマチックに生きたいものである。日々、新たな発見があれば幸せになれそうだし、詩人でなくても詩人のように生きてゆけそうだ。しかし、凡人は目の前の幸せにも気づかない...

2021-07-11

"九鬼周造随筆集" 菅野昭正 編

随筆はいい。達人の書く随筆はいい。小説や詩のような枠組みに囚われず、気の向くままに筆を走らせる。まさに自由精神の体現。書き手にとって、これほど愉快なジャンルはあるまい。奴らの無造作な書きっぷりときたら、まるで浴衣を袖まくりした湯上がり気分。読み手だって負けちゃおれん。純米酒をやりながら、喜びのおこぼれを頂戴するまでよ...


しかしながら、自由に書くということが、一番の難題やもしれん。自己を思うままに吐き出せば、自ら心の中をえぐる。まるで自殺行為。自己を糾弾すれば、自己言及の群れが次々に押し寄せ... 自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めたところで同じこと。自我を覗くには勇気がいる。それを曝け出すとなれば覚悟がいる。体裁なんぞ、クソ喰らえ!良識なんぞ、クソ喰らえ!羞恥心への負い目から、まず凡人にはできない芸当だ。
九鬼自身も、小説のような形式の方が書きやすいかも... みたいなことを言っている。小説の中なら、架空の人物に自分自身を重ねることも、大袈裟に演出することも、嘘八百を並べることも、なんでもあり。厚顔な自己正当化までやってのける。自己に囚われないという意味では、むしろ小説の方が自由なのやもしれん。
いずれにせよ、自由に生きるには才能がいる。自己を自由にできるのは、自分自身でしかないのだから...


尚、本書には、「根岸」、「藍碧の岸の思い出」、「外来語所感」、「伝統と進取」、「偶然の産んだ駄洒落」、「祇園の枝垂桜」、「書斎漫筆」、「青海波」、「偶然と運命」、「飛騨の大杉」、「一高時代の旧友」、「東京と京都」、「自分の苗字」、「故浜田総長の思出」、「回想のアンリ・ベルクソン」、「岩下壮一君の思出」、「音と匂」、「小唄のレコード」、「上高地」、「かれいの贈物」、「秋」、「秋の我が家」、「ある夜の夢」、「岡倉覚三氏の思出」の24篇が収録される。


1. 地中海の浜辺を逍遙するがごとく...
本書は、コート・ダジュールへの思いに始まり、明治から昭和にかけて西洋かぶれしていく風潮を皮肉り、偶然と運命の板挟みになった無常な人生に思いをめぐらし、岡倉天心との親交やベルクソンとの対話を回想する、といった具合で、まるで逍遙するがごとく。
九鬼は、コート・ダジュールに「藍碧の岸」という言葉を当てている。この地には、冬でも空と海とが藍碧の色を見せているところに、名前の由来があるのだとか。ニーチェは、「ツァラトゥストラ」の一部分をニースやマントンで書いたという。ギュイヨーが逍遙しながら「将来の無宗教」の幾項を書いたという浜辺もあるそうな。
なるほど、地中海の地に思いを馳せる芸術家は多い。ガウディはバルセロナを聖地とし、ヴァザーリはトスカーナに格別な心情を告白し、ヴァレリーは地中海に宿る精神ついて熱く語ってくれた。
「人間存在の構造契機としての風土性を生の哲学者の中に目撃しようとするならば、その風土性は恐らくは藍碧の岸の官能を帯びたものであろう。」


2. 哲学者とは...
九鬼周造は、哲学者として知られる。ウィキウィキ百科にも、そうある。ただ、彼の印象となると、著作「いきの構造」で感じ入った春風駘蕩たる文人とでも言おうか。どこか風流な、情緒あふれた、心の余裕を感じさせるような... そんな文章に、粋に生きたい!などと刺激されたものである。これほど小説家のような風情をまといながら、小説のような作品を一つも書いていないのは、ちと意外。詩や短歌の方は、数多く残しているそうな。そして、この一句にイチコロよ...

「灰色の抽象の世に住まんには濃きに過ぎたる煩悩の色」

そもそも、彼は哲学者か?それに、哲学者ってどうやってなるの?単に自称すればいいの?少なくとも、文才がなくては哲学者にはなれまい。真理の探求プロセスでは、言語に頼らざるを得ないであろうから。論理的な思考アルゴリズムも要求され、自問に耽ればナルシシストな一面も覗かせる。
九鬼は哲学科を専攻したらしいが、真理の探求に専門も糞もあるまい。むしろ、科学者や数学者、社会学者や心理学者、芸術家や音楽家など、学際的な知識人の中に哲学者を見かける。一流のスポーツ選手やバーテンダーが一流の哲学を披露することだって珍しくないのだ。哲学とは、生き様のようなもの。九鬼は、ベルクソンの言葉を引く。

「哲学とは、人間的状態を超越するための努力に外ならない。」


3. 苗字コンプレックス!?
九鬼は、苗字に対してコンプレックスのようなものを匂わせる。珍しい名ではあるが、信長時代の戦国武将に見かけるので、それほど違和感はない。
西洋人は、よく名前の由来を聞いてくるらしく、そのエピソードを紹介してくれる。そういえば、おいらも外国人によく聞かれる。おいらの苗字も珍しく、子供の頃、学校でよくからかわれたものだ。生徒だけでなく先生にも。おかげで、馬鹿にされることに慣れちまい、天の邪鬼な性分がすっかり身についちまった。外国人にも馬鹿にされる。そこで、テトラクテュスに看取られた名だ!と反論すると、逆に感心され、今では話のネタにしている。
まぁ、それはさておき、「九つの鬼」というのも、不気味といえば不気味。「クキ」という響きもよくないようで、"Cookie" などと駄洒落も飛び出す。九は、一から数えると終端。それは終極としての死を意味し、不幸不運の数とされる。
一方で、ピタゴラス学派は、3 x 3で権衡を保ち、平等を表すとして正義の数と見做した。要するに、いかようにも解釈できるわけだ。
そして、九鬼の解釈もなかなか。3 の自乗は弁証法とも深く関わり、「九」も「鬼」も形而上学的な色彩を帯びているという...

「鬼神は往来屈伸の義なり。故に天なるを神といい、地なるを示といい、人なるを鬼という...
人死ねば精神は天に昇り、骸骨は土に帰する。故にこれを鬼という。鬼は帰なり...
鬼に三種あり、謂はく無と少と多との財なり。三に各々三を分つ、故に九類となる。」

2021-07-04

"ゲーデル、エッシャー、バッハ - あるいは不思議の環" Douglas R. Hofstadter 著

おいらの ToDo リストには、何十年も前から居座ってる奴らがいる。大作であるがゆえに... 難物であるがゆえに...
それにしても、気まぐれってやつは偉大だ!心の中に蔓延る因習を、チャラにしてくれるのだから。
おまけに、こいつぁ、一度ハマっちまうと、今度はかっぱえびせん状態ときた。765 ページもの厚さが、読み手を熱くさせやがる...
尚、野崎昭弘、はやしはじめ、柳瀬尚紀訳版(白揚社)を手に取る。


通称、GEB...
それは、論理学者ゲーデル 、画家エッシャー、音楽家バッハの頭文字をとったヤツで、広く知られる数学の書である。主題は、不完全性定理をめぐる思考原理、いや、精神原理と言うべきか。
各章の導入部ではアキレスと亀が自由に語り合い、ルイス・キャロル風の遊び心を演出する。どうせなら、アリスにも登場してもらいたいところ。そうすれば、不思議の環を一段と愉快な不思議の国へと導いてくれるであろうに。
ゼノンが提示したアキレスと亀の競争原理では、それぞれの歩調が同期してパラドックスへと導く。そう、永遠に追いつこうとするということは、永遠に追いつけないことの証明なのだ。まさに微分学の美学。
アキレスと亀の対話は、まるで禅問答。永遠に答えの見つからない再帰的議論が、論理形式を超えたフーガを奏でる。バッハにとっての対位法への理解が、人間の理解力を前提にしたものかは知らんが...


「本書は、風変わりな構成になっている。対話劇と各章とが対位法をなすのだ。この構成の目的は新たな概念を二度提示できることにある。新たな概念のほとんどすべては、まず対話劇のなかで比喩的に提示され、一連の具体的で視覚的なイメージを生み出す。そしてそれにつづく章を読んでいるうちに、それらのイメージ、同じ概念のもっとまじめで抽象的な提示の直観的な背景となる。対話劇の多くで、うわべはある一つの観念を語っているかのようであるが、しかし実はうっすらと偽装しつつ、別の観念を語っている。」


ところで、フーガを聴くには、悩ましいところがある。全体を一緒くたに味わうか、各部を区別しながら味わうか。全体論と還元論の対位法とでも言おうか。フーガは、カノンと似たところがある。一つの主題がいくつも形を変えながら出現し、それぞれが独立しながら調和する。ある時は異なるテンポで... ある時は音程を逆さまに... ある時は逆向きに... ぶつかり合う個性が絡みに絡むと、その総体には、元の主題とは別の主題が浮かび上がる。
こうした形式アルゴリズムには、フーリエ変換の近似法を連想させる。基本要素は、三角関数の sin と cos のみ。二つの単純な波が、周波数を変え、振幅を変え、時間遅延を加え、これらの多重波として一つの情報を形成する。フラクタル幾何学にも似た感覚があり、自己相似図形による複写、回転、反復といった単純操作によって、一つの複雑で印象的な図形を創り出す。極めて複雑なカオス系も、単純な要素で解析、分解することによって近似することができるという寸法よ。多重自己回帰モデルとでも言おうか。
そして、さらにフーガにフーガを重ねて多重フーガへ。こうなると、もはや原型をとどめえない。純粋な姿を見失い... イデアな形式を見失い... 精神とは、純真な自我を見失った状態を言うのやもしれん。
ダグラス・ホフスタッターは、ゲーデルの論理形式を自己同型群に写像し、これをエッシャーの再帰的な空間原理に透視しながら、バッハのフーガ調で論じて魅せる。なんのこっちゃ???


この物語には、「自己言及 vs. メタ言及」という構造的な対位法が暗示されている。そして、"TNT(Typographical Number Theory)" と名付けた命題計算を用いて論理形式の限界を模索する。これが、「字形的数論」ってやつか。
ちなみに、この名は、トリニトロトルエンに因んでいる。そう、TNT 火薬の主成分だ。自己言及にのめりこむと、精神を爆発させるってか。数学屋さんは駄洒落がお好きと見える...
まさにゲーデルが提示した不完全性は、自己言及プロセスによるもの。数理論理学が本質的に抱える矛盾は、ある系がその系自身を記述することに発する。
では、系の外から記述すればどうであろう。上位の系から記述すれば。そう、メタ的な記述である。meta... とは、古代ギリシア語に由来し、「高次の...」や「超越した... 」といった意味合いがある。
ソフトウェア工学にも、メタ言語という概念がある。メインの振る舞いを記述するプログラミング言語に対して、定義や宣言といった上位の視点から記述する言語である。ただ、いずれもマシン語系の違う表現形式に過ぎないのだけど...
自然言語においても、日本語の特徴を英語やドイツ語で記述したり、その逆であったり、相互にメタ的な役割を果たすことで言語学を論じることがある。ただ、あらゆる言語系に対して、自国語で記述する形が一番落ち着くようだけど...
形而上学では、理性のような普遍的な認識原理を形而の上、すなわち、感覚や経験を超越した能力に位置づけ、アリストテレスは、これを第一の哲学とした。そんなものが、本当に形而の上と言えるような大層なものかは知らんが...
概して、人間の認識能力には、メタ的な感覚がある。自分自身を上位に置くような。ある種の優劣主義のような。もっとも、自ら「客観的な視点」と呼んだりもするけど...


そもそも、精神の持ち主が精神について言及すれば、矛盾が生じるのも当然であろう。精神の持ち主ですら、精神の正体を知らないでいるのだから、これほど図々しい行為もあるまい。
精神の構造は物理的には電子運動の集合体ということになろうが、そこに意志なるものが生じるメカニズムについては、最先端科学をもってしても説明できないでいる。自己精神をメタ精神で問い詰めれば、精神状態はもうメタメタよ。
とはいえ、このメタメタ感が心地よいときた。それは、いかようにも解釈できるから。いわば精神の持ち主の特技、精神ってヤツが得体の知れない存在であるがために為せる技。しかも、自己完結できちまう。もはや自己満足では終われず、自己陶酔に自己泥酔、自己肥大に自己欺瞞、おまけに、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。これらすべて自己言及を模した自己同型群か...
確かに、自己啓発や自己実現には自問が欠かせない。自己から距離を置き、自我を遠近法で眺めることによって自己分析を試みる。それで正確な分析がなされるかは知らんが、少なくとも自我を支配した気分になれる。
量子現象にも、似たような視点がある。観測プロセスが、それだ。力学を記述する重要な物理量に、運動量と位置の二つがあるが、観測対象が量子レベルともなれば、観測系が加わることによって、もは純粋な物理系ではなくなる。それは、不確定性原理が告げている。運動量と位置を同時に正確に観測することはできない... と。これも、量子現象を量子によって記述するというある種の自己言及プロセスと言えよう。自己言及に発する不完全性こそが、脳に進化の余地を与えているのやもしれん。だからこそ、論理的思考ってやつをじっくりと培養することができるのやもしれん。
本書は、断言する。「TNT は自分自身を呑み込もうとする... TNT は不完全である...」と。