2007-01-30

"はじめて読むドラッカー: 技術編" Peter F. Drucker 著

4冊目: 技術編 - テクノロジストの条件
本書は、シリーズに新たに加えられたもので、前作と少々重複したところがある。要点を簡単に記すと、こういったところだろう。
文明を作るのは技術であり、テクノロジストである。
テクノロジストこそ、知識と思考を夢に終わらせないために、マネジメントが必要である。

過去の技術革命から学ぶべきものとして、歴史を紐解くところから始まる。
「今日、7000年ぶりに遠い祖先が灌漑文明の時代に経験したものと同じ状況にある。古代シュメール人や古代中国人が今日の技術を見れば唖然とするだろう。しかし社会制度や政治制度に対しては親近感を抱くだろう。」
今日の制度は、古代と大差がないと語っている。
人間社会の爆発的変化は科学の進歩であると通常は答えそうなものである。
しかし、本書は少々異を唱えて、「人類が最も進化させたものは技術の体系化である。」とも述べている。

IT革命は産業革命になぞって語られている。
「IT革命の問題は情報そのものではない。eコマースの影響である。1万年前狩猟と採集の時代から農耕と牧畜の時代に入ったように、予想もつかない産業が生まれる。既にバイオテクノロジーが生まれた。今後20年間で相当数の新産業が生まれるだろう。しかも、それらの多くがIT、コンピュータインターネット関連ではない。」
そういえば、産業革命で鉄道が生まれた時代には、印刷革命が起こり郵便、新聞、銀行など多種にわたるサービス産業を引き起こした。なかなか視野の広い分析である。

「テクノロジストを遇するのに金銭で懐柔するこは不可能である。今日のように株主利益を最優先する経営では10年ともたない。知識産業の基盤は、どこまで知識労働者を惹きつけ、いかにやる気を起こさせるかにかかっている。つまり、従業員としてではなくパートナーとして遇さなければならない。」
多くの会社で技術者の流出を防ぎきれないでいる。しかし、おいらは技術者が一定の場所に居つくより、ある程度循環した方が凝り固まった文化に染まらなくて良いと考えている。技術者は会社同士の関係ではなく個人の繋がりの方が大きいのである。

「今日かかえる大企業の官僚的、保守的体質はイノベーションの障害となる。しかし、中小企業でも同じである。最も起業家精神に乏しくイノベーション体質に欠けているものはむしろ小さな組織である。イノベーションや起業家体質は規模には関わりがない。その障害は既存の事業である。」
どんな組織であれ、起業家精神を持続することは難しい。一度成功すると惰性的になりがちである。人は楽な方向や心地良いところに居続けたいからである。
アル中ハイマーは、今が最高に心地良い状態にある。そして、惰性的に夜の社交場へ足が向く。まさに今、絶滅への一歩を踏み出したところである。

「イノベーションの機会は、あらゆる社会変化に対して可能性を模索できる。例えば人口構造に目をつけたのは日本の企業だった。少子化構造を予測し、あらゆるところでロボット化が進んでいる。」
日本を褒めている文面は珍しいので目に留まる。しかし、少々褒めすぎである。ロボット化については、人件費を節約するための企業努力であり、社会現象の先を見越した政策ではないのである。
人口減少、高齢化社会は、むしろイノベーションの機会と見るべきであろう。
資本主義は、人口増加と共に自然増殖してきた。しかし、いつかは、地球資源も枯渇する。このまま地球だけに住み続けるならば、いつかは歯止めが必要である。人類に生物的防衛本能が働いても不思議はないのである。いったい日本人口はどのくらいが適正なのか?そして世界人口は?地球資源は限られ、しかも日本にはほとんどない。更に農業政策によって食料の自給自足もままならない。1億も人口のある先進国は、アメリカの広大な国土を別にすれば日本ぐらいなものである。それだけのために少子化担当大臣を設置し、しかも政策は"子供を生みましょう!"という始末である。グローバル化した社会、住み心地が良ければ移民でもなんでも集まるのが自然の理である。将来に大きなツケを残す政策を続けているのだから、その結果も自然の理である。

「技術格差についての説明には大部分が間違っている。アメリカが優位に立っているのは政府予算のためであるという説明にいたっては完全に誤りである。政府予算が技術や頭脳に対して役割を果たすことは稀である。ヨーロッパでも研究の成果は上がっている。しかし、技術格差が生まれるのは、研究成果を製品化できていないことである。」
科学上の成果を経済的な事業に転換する能力、つまり、マネジメントとマーケティング能力は金では買えないのである。
日本においても政府の起業家支援ブログラムが横行して補助金がばらまかれている。こうした補助金を頼る企業は自立性を失う危険性がある。更に第三者の資本が入ると、経営者によっては投資家の方向に目が行き、従業員や事業の方向に目が行かないなど、もはや誰の会社なのか分からなくなるといった深刻な状況になる。補助金や資本が入ると一時的に経営が改善されるように見えるが幻想に過ぎない。
という話を、アル中ハイマーは友達の友達から聞いたことを思い出すのである。

「イギリスの頭脳流出の原因の1つはオックスフォードとケンブリッジの存在にある。フランスがアメリカとの技術格差を生んだ原因の1つはグランゼコールにある。これらはエリート養成機関としては優れた教育を行う。しかし、両国でリーダーの地位につけるのは、これらの機関の卒業生だけである。特定の機関以外の人間に道を閉ざすことは、知識の本質と相容れない。いかなる大学で習得した知識であっても5年で陳腐化するからである。」
知識社会では、もはや上り詰めていく道を制約する余裕などないということなのだろう。
また、いかに高度な知識を習得しても5年しか持たないと言い切られるのは、おいらには辛過ぎるのである。アル中ハイマーには、もはや知識が無いと断言されたのである。"真っ白だぜ!"

「今や知識は、資本と労働をさしおき、最大の生産要素となりつつある。しかし、われわれの時代を知識社会と言うには時期尚早である。今のところ知識経済をもつに過ぎない。とはいえ現在の社会が資本主義社会でないことは間違いない。」
本シリーズを読んで、1909年生まれのドラッカーじいさんの分析が、現在でも通用するところがすごいと感心させられるのである。いまや21世紀、既に知識社会へ突入していると考えねばなるまい。まさしくポスト資本主義が到来しているのであるが、適切な言葉が生まれないのも不思議である。それだけ捉えどころの無い社会ということなのだろうか?
新語が出ても、アル中ハイマーにはどうせ覚えられないのである。

2007-01-24

"はじめて読むドラッカー: 社会編" Peter F. Drucker 著

3冊目: 社会編 - イノベータの条件
本シリーズでは、本書が一番好きなのだ。歴史書としていけてるからである。しかし、まとめるのは大変である。主だったフレーズのメモだけでも1000行を超えてしまった。本シリーズを1つの記事にまとめられなかった理由は、本書を簡潔にできなかったことが大きい。
困った挙句、勝手に以下の3つのテーマに分けてみた。
なぜかって?そこに純米酒があるから。

1. イデオロギー
「今日、ルソーの啓蒙主義とフランス革命が自由のルーツのように語られるが、間違いである。あらゆる全体主義がリベラリズムから発している。ルソーからヒトラーまでは真直ぐに系譜を追うことができる。その線上にマルクス、スターリンがいる。彼らの全てが、時代の理性を万能とする理性主義の失敗から生まれた。」
理想崇拝は社会を破滅させてきたという人類の経験を解説しているのだが、ルソー自身が絶対理性を持っているというのだ。
自由主義の根幹は独裁主義なのかもしれない。なぜならば、自由と言われる最近でさえ、独裁的体質を持った組織をよく見かけるからである。
学校の社会科とは随分違う印象を受ける。ただ授業中はぐっすりだったので記憶があろうはずがない。おっと!授業中、金縛りになり笑われた記憶が蘇えった。こうしてアル中ハイマー病の治療が進むのである。

「リベラリズムが必ずしも絶対主義ではない。しかしあらゆる保守主義が反動主義に陥る危険をはらむように、あらゆるリベラリズムが全体主義に向かう要素をはらむ。絶対理性を獲得した者にはそれを実現する権利と義務がある。」
独裁者の理論と紙一重である。人間は経験を積むことにより自分自身の思想に自信を持つ。
社会、組織において、自分の考えや手法に自信があるゆえに主張を押し付ける。これも理性主義のようで全体主義なのかもしれない。自分自身の思想は常に検証し続けなければならないのである。
理想社会を求めるとは恐ろしいものなのかもしれない。
理想とは、しいて言うならば、アル中ハイマー流に、"あらゆる規制を撤廃しながらも、完全な意思統一がはかれる組織"とでも表現しておこう。つまり、組織において、仕事をしていくうちに認識や価値観が自然と一致していき、方向性の意思統一がはかれた時こそ、成果を上げ、安心して酔えるのである。
あれ?逆に、似たもの同士が集まり、知識の進化を妨げる危険性をはらむではないか。議論がグルグルまわっていく。
不完全すぎるおいらは、そこそこ人生を楽しんでいる。ということは、酔っ払いが一番良いということか?アル中ハイマーは酒席での醜態の言い訳を必死に探るが、結論が出せないのである。

「マルクス主義の失敗は、階級のない社会を実現できるかにかかっていたにも関わらず、自由のない硬直的な階級を必然的にもたらしたことにある。資本主義でさえ、自由と平等を実現することは幻想であることは、1848年のヨーロッパ激動期に明らかである。しかし、ごく最近までかなりの人が資本主義を信じていた。」
本書では、既に資本主義は崩壊していると語っている。では、今はポスト資本主義ということだが、どう表現すればいいのだろう?おいらも最近まで資本主義であると信じている一人である。

2. 社会変化
「20世紀の変化の本質。農民と使用人の激減。第一次大戦まで農民は最大の人口を占めていた。やがて、アメリカとカナダを除く先進国が発展途上国による食糧輸入を必要とするのは自明の理とされた。しかし、今日では先進国で食糧を大量輸入しているのは日本だけである。時代遅れの米作補助という農業政策が近代農業の発展を阻んだからである。」
それにしても、食糧の自給自足率が低い国が裕福というのも不思議な世界である。日本社会は、ただの幻想なのかもしれない。
父の田舎は農業をやっているが、減反政策をやっていることを小学生時代に知った。祖母に"どうせ余ってんだから、畑くれよ!"ってせがんだ事を思い出すのである。その頃から、江戸時代からの農家圧制がいまだに続いているという印象を持つのである。

「西洋において過去2度の歴史断絶が起きた。1度目は13世紀に"宗教人"なる概念の崩壊。2度目は16世紀に"知性人"なる概念の崩壊。これらは自由と平等を実現できなかったために崩壊した。今日は3度目の"経済人"なる概念の崩壊である。」
結局、人類は自由と平等を勝ち取れないということなのか?酒が売れるわけである。

「政府自らが実行者となって社会的問題を解決しようとして成果を出したものは1つもない。これに対して、NPOは目覚しい成果を上げている。」
NPOの自然発生的な様子を歴史的背景から語られている。NPOという組織形態が、知識社会に合っているのであろう。そもそも自主的活動はボランティア精神から生まれる。そこに達成感や使命感があれば、能力がより効果的に発揮できるのである。
あらゆる社会、組織において、有能な人材に、このような精神が生まれる環境を用意する必要がある。そのためにアル中ハイマーは、せめて世間の邪魔にならないようにこっそりと生きるのである。

3. 国家と教育
「福祉国家が誕生し、2つの大戦が国民国家を財政国家へ変えた。交戦国は国民から搾り取れるものはいかなるものも限度がないことを知った。そして、最悪の状況は、ばらまき国家となった。予算編成が歳出からスタートするならば、徴税に節度がなくなる。歳出は政治家が票を買うための手段となる。ばらまき国家が民主主義の基盤そのものを侵食しつつあることは、投票率低下が示している。」
まさしく、いくらでも国民から借金できる某国の国家財政ではないか。こうして、福祉重税国家がますます肥大化するのである。
ちょうど、昨日税務関係の書類が送られてきた。どうせ赤字なので福祉重税国家の肥大化には貢献できないのである。

「知識社会では、学校が枢要な社会的機関になる。知識の競争は激しさを増す。知識は普遍であり成果が上げられないことの弁解ができなくなる。恵まれない国というのもありえなくなる。あるのは無知な国だけである。」
のんびりと構えていられない時代ということである。このことは、あらゆる企業、組織、産業、個人についても言えることである。

最後に、こう締めくくっている。
「今日、われわれの眼前にある新しい現実は、すべて形態的である。したがって、それらの問題を扱うには、概念的な分析とともに知覚的な認識が不可欠である。よって、読者に対して、考えるとともに見ることを求める。」
求められても困るのである。アル中ハイマーには、社会に酔うことぐらいしかできないのである。

2007-01-18

"はじめて読むドラッカー: マネジメント編" Peter F. Drucker 著

2冊目: マネジメント編 - チェンジ・リーダーの条件
まず、マネジメントの定義から紹介しよう。
マネジメントとは、最初の定義が「地位と権力をもつもの」それから「部下の行動に責任をもつもの」と変化し、今では「知識を行動に具体化することに責任をもつもの」と定義する。使命を持つことで初めて行動に焦点をあわせることができる。一流のマネージャは使命すなわち目的の定義に力をそそぐ。とまとめている。
なるほど。人間の潜在意識というのは使命感に勝るものはないのだろうか。アル中ハイマーはいつも只酒につられ、早く酔わねばと使命感を抱くのである。

責任の範囲を明確に。。。
「能力の無い仕事を引き受けるのは無責任である。期待を持たせたあげく失望させる。権限と責任は表裏である。権限を有するものは責任を有し、責任を有するものは権限を要求できる。社会の最大の無責任とは、能力以上の課題に取り組み、あるいは社会的責任の名のもとに他から権限を奪うことによって、自ら機能を遂行する能力を損なうことである。」
おいらは責任の範囲を明確にすることは意外と難しいと思うのである。ある程度のハッタリ営業もしないと喰っていけない事情がある。最終的に信頼関係は正直でないと生まれないと分かっていながら。しかし、アル中ハイマーは無能すぎてハッタリすらきかないのである。
既に権限を手中にしたやからは、自身の存在価値を認めさせようと躍起になる。そして、能力ある人を差し置いた存在となり、組織機能を阻害するのである。自身の居場所を求める生物的本能が働くのかもしれない。アル中ハイマーのような無能なやからは、世間のお邪魔虫にならないように心がけないといけないのである。

プロフェショナルの意識を持つ。。。
「プロであるからといって正しいことをするとは限らない。最善を尽くすのみである。しかし、知りながら害をなすことは許されない。プロは自立しなければならない。私的利害ではなく公的利害によって動かされることを自覚してこそ自立が認められる。」
おいらはプロフェッショナルの倫理感など考えもしないのである。いつも、"やってみなきゃ分かんないよ!" などと到底プロフェッショナルとは思えない台詞を吐くのである。プロ意識を持たねばなるまい。
ところで何のプロだったか思い出せない。詐欺師だったような。こうしてアル中ハイマー病はどんどん進展するのである。

ベンチャー企業の行く末について。。。
「起業家たるもの、"何が得意で何が不得意か"の問いこそ、ベンチャーが成功しそうになった途端に直面する問題である。ベンチャーの創業者は外部の客観的な助言が必要である。そのような相手は社内には見つからない。創業者の判断やその強みを評価し、問題にできる人物が必要なのである。軌道に乗りかけてことごとく失敗する要因は、強みを忘れて、財務管理もできなくなり内外から信頼を失う。」
なかなかの指摘である。マネジメントが無い経営は近い将来失速して絶えてしまうということか。好調な時ほど検証が必要かもしれない。

「経営戦略はよく見かけるが、起業家戦略はなかなか見当たらない。重要なのは、総力戦略、ゲリラ戦略、ニッチ戦略、顧客創造戦略の4つ。」
既に大企業として君臨していても、起業家としての認識は欠かせないらしい。つまり、どんな組織であろうと、知識社会では起業家精神が多かれ少なかれ必要だということである。

「顧客は合理的に行動する。メーカーはその事情を知らないから失敗するだけだ。メーカーにとっての製品でなく、顧客にとっての価値を提供する。起業家戦略でマーケティングを行う者だけが市場に残る。」
歴史的に企業は自らの都合により、買い手を啓蒙してきた経緯がある。マーケット戦略は相手の都合から始まることを説いているが、当り前のように聞こえる。このようなことを記しているということは、従来の企業姿勢が、あまりに横暴過ぎたということだろう。

マネジメントを実行するにしても、結局は信頼が無ければ手が出せない。従業員、顧客など誰を相手にするにせよ、相手本位に行動するべきである。しかし、アル中ハイマーは、いつも自分本位で行動する。どうせ相手のことなど考えても分からない。自分を相手の立場に置いてみるぐらいしかできないのである。しかも、その立場は、しばしば勘違いしたものばかりなのである。
夜の社交場で"おいらベロンベロンに酔ってるから、綺麗に見えるねえ"なんて女性を褒めても、ビールをかけられるのが落ちなのだ。女心など難しくて分からないのである。
本書に限らないのだが、最近、なぜか?本を読むと辛い説教を聞いてるような気になる。全く記憶にないのだが、なぜか胸騒ぎを覚える。過去に罪深いことをしたことがあるのだろうか?アル中ハイマーは潜在意識と闘い続けるのである。

2007-01-12

"はじめて読むドラッカー: 自己実現編" Peter F. Drucker 著

1冊目: 自己実現編 - プロフェショナルの条件
本書の要点は、こういったところだろう。
知識社会における自己の目的は成果を上げることである。いかに成果を上げ、いかに成長するかは、自身のマネジメントにかかっている。知識労働者は、全てエクゼクティブ(決定、判断、責任)である。

成果を上げる人の特徴を以下のようにまとめている。
・ビジョンを持つ。努力を続けることこそ老いることなく成熟する。
・仕事に真摯を重視する。誇りを持ち完全を求める。
・日常生活に継続学習を組み込む。
・自らの強みを知っている。
・新しい仕事が要求することを徹底的に考える。
「成長と自己変革を続け、自己啓発と配属に自ら責任を持つ。これは日本においては難しい。組織が責任を持つというのが前提で運営されているからである。」
日本の分析も鋭いものを感じる。日本人には説教に聞こえるであろう。
自分の強みを知るというのもなかなか難しい。大抵は弱みぐらいしかわからないものである。価値観に答えを見出すぐらいしかないだろう。

時間のマネジメントは最も重要であると語っている。
「成果を上げる人は時間が制約要因であることを知っている。時間の収支は常に赤字である。時間を無駄にしている人ほど一生懸命働いているように見える。」
なかなか鋭い指摘である。そもそも無駄な会議が多いのである。会議と言いながら資料にろくに目を通さないから、お偉方の勉強会になることはよくある。

ベンチャー企業の姿勢についても少々触れている。
「新しいもののために新しく人を雇うのは危険である。新しいものというのは全て賭けであり、門外漢では更に賭けを倍にする。」
まさしく、頭数しか考えないマネージャが仕掛ける手法である。
自らが成長していると実感できないと人材が逃げていく。おいらはエンジニアの業界に属しているが、目的への達成感を重要視し、待遇をそれほど気にしない人も少なくない。しかし、組織に嫌気がさした場合は、どうでも良いことで不平をもらすようになる。給料が少ないだとか、残業が多いだとか、それはそれで重要であるが、本質的なところから離れたところで愚痴を言いたくなるのである。そもそも嫌気がさした組織に対して本音で問題点を指摘するなどありえないのである。しかし、経営者は表面の言葉しか聞かないので気づかないのである。更に悪いことに、同じことを繰り返し人材が減っていく。
という話を友達の友達から聞かされるのである。

カリスマ性はリーダを破滅させると語っている。
「カリスマ性は柔軟性を奪い、不滅性を盲信させ変化不能とする。リーダシップとは仕事であり、組織の使命を考え、それを形で明確にし確立することである。カリスマなどの幻想に取りつかれてはならない。リーダの公言は信念とその行動が一致してなければならない。リーダシップは賢さに支えられるものではない。一貫性に支えられるものである。」
これは痛い事を言われるのである。アル中ハイマーの言う事には全く一貫性がない。そもそも言ったことが覚えられない。リーダシップなど微塵のかけらもないのである。

「"何によって憶えられたいか"これは自らの成長を促す問いである。50歳になっても答えられなければ人生を無駄にしている。これを自問し続けることである。」
と、本書を締めくくっている。
アル中ハイマーは、手のつけられない酔っ払いとして、周りに憶えられている。これぞ人生を無駄にしている典型的な姿なのである。
しかし、そう悲観することもないのである。まだまだ若いのである。16進数で20代なのである。尚、年齢表記にはアルファベットを要する。

2007-01-06

"はじめて読むドラッカー: 全般" Peter F. Drucker 著

この「はじめて読むドラッカー」シリーズは、いつかは読もうと思っていたが、重そうでなかなか手をつける気になれなかった。しかし、ブログネタにでもと思い挑戦してみた。これもブログ効果なのである。

元々3部作だったようだが、「技術編:もの作りが文明をつくる」を加え4冊目が発行された。よって以下4冊について記事を書くことにした。
1. 自己実現編 - プロフェショナルの条件
2. マネジメント編 - チェンジリーダーの条件
3. 社会編 - イノベーターの条件
4. 技術編 - テクノロジストの条件
このシリーズ、多くて1つにまとめられないのかという意見をよく耳にする。そこで当初の試みは、4冊の記事を1つにまとめ上げることにあったが、やはり無謀であった。
よって、「全般」「自己実現編」「マネジメント編」「社会編」「技術編」に分けることにした。なんと4冊の記事のはずが5つに増えているではないか。これは一杯飲んで落ち着くしかない。こうしてアル中ハイマーは病と闘うのである。

では、酔っ払う前に、全般的な印象を語ってみよう。全体的に表現は、同じことを繰り返し異なる言葉で述べられているので頭に入りやすい。また、多くの例題を用いている点も理解を深める。逆にくど過ぎるせいか、翻訳のせいか、読みづらいところも少々ある。おろらく、アホのおいらにでも読めるように考慮されているのである。とてもありがたいことである。どの書も歴史背景と、考えに至る過程を大事にしているところは感銘を受ける。

読み始めると、それぞれの書が、
"これからは知識社会だ。常に自問自答し続け知識を進化させなければならない。自分で考え責任を持つ倫理観が必要だ"
ということが述べられていることにすぐに気づく。しかし、本書の存在意義は、そう簡単には片付けられない。なぜならば、人間環境を観察、分析、その過程の方が困難で重要であることを語っているように思えるからである。
これを社会生態学(造語らしい)と言うらしい。そのように思い始めたのは、3冊目社会編の頭あたりだっただろうか。ゆえに、これだけの多くの書を生み出しているのではないだろうか。

このようなマネジメント関連の書籍には、つい結論やノウハウを先に求めてしまう。ビジネスマンは忙しいのである。よってコンパクトにまとめてもらいたいものだと思ってしまう。しかし、よく考えると第三者に結論だけ求めるのも失礼な話である。せっかく、これだけ丁寧に歴史を調べ上げ過程を大事にしてくれている書物に対して敬意を払ってじっくり読むべきであろう。そう考えると、歴史に対する観察や分析をまるで文学作品のように風景の流れを味わうが如く読み続けることができるのである。その中で語られている結論の方がおもしろい。歴史書としても充分にいけてる。
こうして、おいらは術中に嵌ってしまうのである。
これは1つの記事にまとめられなかった、ただの言い訳なのである。

それにしても、こんな名著が売れているというのに、世間ではすげープロジェクトが続出するというのはどういうことか?
またまた複雑な社会の脱落者は病に陥るではないか。
おかげで、病状は"アル中ハイマー"に加えて、"狂ったキルケゴール"までかかえてしまうのである。ちなみに、"酔っ払ったディオゲネス"は先天的な病である。
尚、キルケゴールは「社会編」のおまけの章で登場する。
「人間の実存はいかにして可能か」の問いに対する答えは「酒樽の中に」である。

2007-01-01

ホームページをリニューアル

gさんのblogger、ちょいとかゆいところに手を伸ばそうとすると、直接スクリプトをいじらないといけないようだ。気軽に始めたつもりのはずが。そう言えばblogger会員さんのページはシンプルなのが多いようだ。ブログとはこういう世界なのかもしれない。

そうこういじっているうちに、昔の記憶が蘇ってきたのである。初めてホームページを公開したのは10年ほど前のことだった。HTMLというマークアップ言語が登場したのが1990年の頭ぐらいだったような。当時は、SGML/HTMLといった書籍が本屋に陳列していたのを覚えている。

ブラウザではmosaicの時代だ。
おいらはビデオのモザイクが消せる画期的な技術だと勘違いし感動したのである。初めてインターネットに繋がった瞬間歓声が上がったのを覚えている。
Netscapeがその頃登場した。それにしても、ここまでIEが普及するとは誰も想像ができなかっただろう。Joelさんはn社を貶しているが、勝者はなんでも言えるのである。
それより昔は、junetなんてものに繋いでた覚えがある。ブログのおかげで記憶が蘇ってくる。これぞアル中ハイマー治療法である。

その頃買った本が、HTML2.0だったような気がする。
HTML3.0あたりだろうか?テーブルやら、フレームやらで感動して、shockwaveなんかも作ったのだが懐かしく思い出される。まだflashなんて言葉すら無かった。
接続手段と言えば電話回線で2400bpsあたりで、9600bpsは感動ものだった。なので、おいらが作った100KBを超えるshockwave画像は遅くて顰蹙を買うのであった。
今、当時を思い出しながら本棚を眺めている。
あれ?HTML関係の書籍が全く見当たらない。捨てたっけ?どうやって勉強したのか?さすがアル中ハイマー。治療はまだまだ続くのである。

今は、HTML4.01かあ。バージョン番号からすると、どこぞのソフトウェアに比べれば大して進んでないように見える。ということで、ブログのおかげで10年間ほったらかしていたホームページをリニューアルする気になったのである。
推奨されないタグなんかたくさんあって、なかなかlintが通らない。ブラウザによっては見え方が違うのだろう。IE,NS,FireFoxで見る限り良さそうである。どこぞのlintサービスで一応100点満点である。これで良しとしよう!
それより問題なのが内容がない。困ったものである。誤魔化すためにXHTMLあたりに挑戦するべきだっただろうか?いまだに自動作成ツールなんて使ったことがない。おいらは喰わず嫌いなのである。

さて、SEO対策は。"アル中ハイマー"に殴りこみをかけるか。
いや、くだらない内容で世間を騒がせてはなるまい。