2021-12-26

"古寺巡礼" 和辻哲郎 著

紅葉香る並木道に沿って古本屋を散歩していると、古寺を巡る印象記なるものに出逢う。この記録に沿って、奈良の地を逍遙してみるのも悪くない。リュケイオンの徒のごとく。てなわけで、この書を観光の手引きとして眺めている。
しかしながら、美術品を理解することは難しい。骨董品ともなると、美的感覚を超えた何かがあり、歴史の重みに威圧感、恐怖心までも呼び寄せる。芸術性を味わうには、こうした造詣味ある解説書でも伴わないと...


若き日に印象に残ったことを記録しておくことは、なかなか面白そうだ。数十年後の自分へのメッセージとして。歳を重ねていくと感動が薄れていく。羞恥心への負い目からか、脂ぎってしまった心は、もはや純真な頃を思い出せないでいる。まったく、汚れちまった悲しみに... といった心境である。
「この書の取り柄が若い情熱にあるとすれば、それは幼稚であることと不可分である。幼稚であったからこそあのころはあのような空想にふけることができたのである。今はどれほど努力してみたところで、あのころのような自由な想像力の飛翔にめぐまれることはない。そう考えると、三十年前に古美術から受けた深い感銘や、それに刺戟されたさまざまな関心は、そのまま大切に保存しなくてはならないということになる。」


若き日の和辻哲郎は、唐招提寺、薬師寺、法隆寺、中宮時など奈良近辺の寺々に遊び、日本文化の源泉探しの旅へといざなう。通常、日本のお寺や仏像を論じる場合、中国文化やお釈迦さまの影響を考察するものだが、もっと西方のガンダーラやペルシア、さらにはギリシアへ至る道筋からその原点を探る。
イデアに看取られた旅行記とでもしておこうか。プラトンは、精神の原型のようなものをイデアと呼んだが、そんな純真な存在を現代社会に見つけることは叶うまい。おそらくプラトンが生きた時代ですら。
アレキサンダー大王は、小アジア、エジプト、ペルシアを征服し、その地の統治者に現地人を多く採用したと伝えられる。それは家庭教師アリストテレスの助言か、あるいは、よそ者が統治するより合理的と考えたのか。大王の東方遠征はインドに至り、ヘレニズム文化とオリエント文化の融合を想像させる。
そして、中国を経て日本へと通ずる壮大な旅を、奈良時代や平安時代の歴史観光から紐解くという試みである。


ギリシア神話には、実に多種多彩で人間味溢れた神々が住み着いていた。その代表は、主神ゼウス。全能者みずから動物に化け、女神たちに近づいてはあちこちで孕ませ、人間の美女にまで手を出して多くの半神半人を生み出す始末。その女ったらしぶりときたら、まったく懲りない雷オヤジよ。ゼウスの子供たちは様々な得技を持ち、神といえども得手不得手を心得ていた。この主神ゼウスを理想化し、一神教にまで崇めたのが、キリスト教やイスラム教である。その理想高すぎ感は、不完全な人間ゆえの憧れというものか...
神に近づくための修行にも段階が規定され、聖職者にも階級制度が設けられる。それは、キリスト教、イスラム教、仏教のいずれにも見られる現象で、神の声を聞くには資格がいるらしい。
ヴェーダを聖典とするバラモン教やヒンドゥー教は、死に至る様々な道をこしらえた。地獄道、餓鬼道、畜生道、修羅道、人間道、天上道といった六道輪廻を。死の世界には、現世の生き方がそのまま投影される。差別好きで、優越感に浸りたがる人間のことだ、生き方にも格付けがなされる。
そして、精神の段階を置き去りにし、名声や肩書に目を奪われようとは。それは、宗教の世界だけでなく、人間社会に蔓延るあらゆる集団や組織において...
「しかし浄土の幸福が現世の享楽の理想化に過ぎないという点は動かせない。不完全な人間存在が完全な生への願望を含むところに深い宗教的な要求の根がある。それは官能的悦楽のより完全な充足を求める心としても現われ得るだろう。」


奈良には、観音と呼ばれる像だけでも多種多彩なものがある。ギリシア神話の神々のごとく。写真で紹介されるものでは、三月堂本尊不空羂索観音、聖林寺十一面観音、百済観音、法寺十一面観音、薬師寺東院堂聖観音、夢殿観音、中宮寺観音... 等々。
ギリシア風の芸術家は、自然主義的な写実を好む傾向があり、例えば、聖母マリア像には、母の慈愛と処女の清らかさという女性の理想像が伺える。
一方、インド風の芸術家は、一つ一つの人体を精巧に描きながら、自然をまったく無視したやり方も厭わないようで、観音菩薩の穏やかな表情に慈悲と威厳を感じるものの、人間離れ感が強い。
そして、日本風の芸術家はというと、人間味溢れた作品も多く、インド風でありながらギリシア風でもあるという。
鬼や悪魔までも神格化し、不思議な生気を感じて思わずたじろぐことも。いずれも偶像崇拝の類いではあろうが、超人的な存在でなければ崇拝も叶うまい。
とはいえ、芸術作品には、人の精神を高め、人の心を浄化し、自省までも促す力がある。皮肉なことに宗教よりも...
和辻哲郎は、薬師寺の吉祥天女について、こう感想をもらす。
「誇大して言えば少し感性的にすぎる。細い手や半ば現われたかわいい耳も感性的な魅力を欠かない。要するに、これは地上の女であって神ではない。ヴィナスに現われた美の威厳は人に完全なるものへの崇敬の念を起こさせるが、この像にはその種の威厳も現われていないと思う。しかし単に美人画として見れば、非の打ちどころのないものである。」

2021-12-19

"風土 - 人間学的考察" 和辻哲郎 著

こいつぁ... 人間精神の風土哲学とでも言おうか...
文化論とは、比較の論とも言える。故に、理解への道は二つ。他文化との差異において自文化を位置づけるか、他文化を摂取する過程を通して自文化を受け止めるか。人間は、単に過去を背負うだけでなく、魂に根付いた土着をも背負って生きている。この時間軸が自己に与える影響は、想像しているよりもはるかに大きい...

「風土」は、古くは「水土」と呼ばれ、土地の気候や地質、地形や景観などの総称であったり、文化の形成や精神に影響を及ぼす環境であったり、あるいは、宗教的風土や政治的風土といった言い方をする。人間は、自然環境だけに影響されて生きているわけではない。むしろ、社会を通して人間同士の影響の方が強いかもしれない。
文明人ってやつは、最も依存しているはずの自然との付き合い方を忘れちまうのか。書物、メディア、技術などあらゆる社会的産物が人格形成に影響を与え、教育がより高度な偏見をもたらす。利便性に憑かれ、意思力が養われない教育が、精神を堕落させるのかは知らんが、ジョン・アダムズは、こんなことを言った...「自然によってつくられた人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって人間と人間との間にできるものである。」と...

1. 風土とは...
和辻哲郎は断じる。「風土とは、人間の精神構造の中に刻みこまれた自己了解の仕方に他ならない...」と。風土の現象は、芸術、信仰、風習などに露わになる、いわば、人間生活の表現様式であるという。個人的でありながら社会的でもある二重性格の内にある自己了解という行為は、同時に歴史的であり、歴史と離れた風土もなければ、風土と離れた歴史もない... と。
カントは、ア・プリオリな認識に空間と時間を規定した。すなわち、自己存在という認識原理は、空間性と時間性に発すると。風土とは空間性であり、歴史とは時間性であり、まさに、自己存在という認識契機を自己了解において論じている。
こうして眺めていると、「風土」という用語もなかなか手ごわい。あまりに広範な意味を含み、単なる自然環境や社会環境などでは足りない。存在認識の仕方など、人間の認識能力すべてを飲み込んでしまうような。
自己を満足させようとすれば、自己言及の群れが押し寄せてくる。自己啓発に自己実現、自己陶酔に自己泥酔、自己欺瞞に自己肥大... そして、自己嫌悪に自己否定とくれば、ついに自我を失う。人間の認識能力なんてものは、すべて自己了解の仕方に過ぎないのやもしれん...
「かくのごとく風土は人間存在が己れを客体化する契機であるが、ちょうどその点においてまた人間は己れ自身を了解するのである。風土における自己発見性と言われるべきものがそれである。我々は日常何らかの意味において己れを見いだす。あるいは愉快な気持ち... あるいは寂しい気持ち... このような気持ち、気分、機嫌などは、単に心的状態とのみ見らるべきものではなくして、我々の存在の仕方である。」

2. 三つの類型
和辻哲郎は、人間の風土的な多様性を「モンスーン、沙漠、牧場」の三つの類型で抽象化して魅せる。やや、こじつけ感も否めないが、なかなか興味深い。マリア様がモンスーン的か、牧場的か、はたまた沙漠的かは知らんが...

「モンスーン」とは、季節風のこと。特に、熱帯の大洋から陸に吹き付ける夏の風を指し、アラビア語由来とされる。気候面では、暑熱と湿気が同時に押し寄せる特性があり、生活面では、暑さより湿気の方が耐え難く、暑さより湿気の方が防ぎにくいといった特徴がある。それ故、自然に対する抵抗力が弱いという。運命論を受け入れる傾向にあるのも、そうした風土的な要件によるものであろうか。春風駘蕩の哲学を育むのも...
尚、モンスーンの型どおりの土地柄といえばインドだが、支那や日本もこの型に含めている。日本の場合、さらに台風や地震などの災害が多く、地母神ガイアで象徴される母なる大地への想いも、ちと複雑やもしれん...

「沙漠」とは、"desert" の訳語だが、意味するものがちと違う。地域的には、アラビア、アフリカ、蒙古などに広がる不毛の地。雨量の欠乏した乾燥を本質とし、自然には生気がない。荒々しく空虚な場。人間性をも捨象するような...
渇きの生活が水源の奪い合いとなり、死を目の当たりにしながら、闘争心や対抗心を育むという。こうした土地柄が、人間の絶対服従を求めるヤーヴェのような人格神を必要とするのであろうか。
とはいえ、現代社会を見渡せば、世界はことごとく乾燥そのもの。街中に植えられた少しばかりの樹木を除いては、人工物で埋め尽くされる。巨大モニュメントは、渇ききった人間の象徴か...
「自然への対抗が最も顕著に現れているのはその生産の様式である。すなわち沙漠における遊牧である。人間は自然の恵みを待つのではなく、能動的に自然の内に攻め入って自然からわずかの獲物をもぎ取るのである。かかる自然への対抗は直ちに他の人間世界への対抗と結びつく。自然との戦いの半面は人間との戦いである。」

「牧場」とは、wiese や meadow の訳語だが、家畜を囲う場、あるいは、家畜の飼料を栽培する土地といった意味を強める。機械的で疎外的な現実としての工場も、牧場の延長上に配置して...
ちなみに、ヨーロッパには雑草がないと言われるそうな。ほんまかいな?夏の乾燥と冬の湿潤という安定した気候サイクルが、雑草を駆逐して全土を牧場たらしめるという。日本の梅雨のようなジメジメした気候では雑草との戦いを強いられるが、ヨーロッパにはそんな苦労がないとか。ほんまかいな?まぁ、雑草の程度の問題なのだろうけど...
規則正しい循環雨季の到来が、農作物を安定供給する。安定した気候ゆえに、人間の目には自然が従順に見え、自然合理性が人間合理性と結びつき、ホッブズ、ロック、ルソーらが自然状態を論じてきた伝統も分かるような気がする。安定した土壌は、冒険心を駆り立てる。大航海時代がヨーロッパに発したのも、そうした土壌があるからかもしれない。
そして、活動の自由、精神の自由が哲学を育むという。ゴシック文化や啓蒙主義、あるいは、人文主義的な思想が発達するのも、合理的精神や論理的思考を育むのも、そうした風土との関係からであろうか。ヨーロッパの自然科学は、牧場的風土の産物だという...
「牧場的風土においては理性の光が最もよく輝きいで、モンスーン的風土においては感情的洗練が最もよく自覚せられる。」

ちなみに、ヘーゲルも三つの自然類型を規定したそうな。
一つは、広い草原や平地を持った水のない高原。遊牧の掟や族長政治といったものの影響力が強いが、発展性が乏しい。
二つは、大河の貫流し灌漑する河谷の平野。移り行きの国土。安定した土壌で農業と国家が発達し、文化の中心となり、君主と隷属の関係が著しい。
三つは、海に隣接する海岸の国土。海路によって世界を結びつけ、商業が発達し、征服欲や冒険心がわきあがり、市民の自由が自覚される。

なるほど、和辻哲郎の三つの類型は、ヘーゲルからのアップデート版のようだが、旧バーションも捨てがたい...

2021-12-12

"イシ 北米最後の野生インディアン" Theodora Kroeber 著

自由に生きるとは、どういうことであろう。自然と戯れながら生きることができれば... 孤独とは、どういう状態を言うのであろう。集団の中にこそ、それがある...


「イシの足は、幅広で頑丈、足の指は真直ぐできれいで、縦および横のそり具合は完璧.... 注意深い歩き方は優美で、一歩一歩は慎重に踏み出され、まるで地面の上をすべるように足が動く... この足取りは侵略者が長靴をはいた足で、どしんどしんと大またに歩くのとは違って、地球という共同体の一員として、他の人間や他の生物と心を通わせながら軽やかに進む歩き方... イシが今世紀の孤島の岸辺にたった一つ遺した足跡は、もしそれに注目しようとしさえすれば、おごり高ぶって、勝手に作り出した孤独に悩む今日の人間に、自分はひとりぼっちではないのだと教えてくれることだろう。」
... シオドーラ・クローバーの娘アーシュラ・クローバー・ル=グウィン


物語は、未開の地に隠れ住む一人のインディアンが、突然、文明の地に姿を現したことに始まる。その名は、イシ。白人の集団的残虐行為によって、皆殺しにされた部族の最後の生き残り。1911年、彼は飢えに耐えられず、畜殺場のほとりで犬に追い詰められ逮捕された。部族の運命と同じく、死を覚悟して...
ところが、運命とは皮肉なもので、白人の世界に迷い出たことで厚遇と友情に囲まれ、カリフォルニア博物館に迎えられる。天然記念物のようにマスコミに晒し者とされ、原住民の研究材料とされるは必定。それでも、イシは快活な忍耐心で凛々しく生きたという...
尚、行方昭夫訳版(岩波書店、同時代ライブラリー)を手に取る。


「イシと彼の部族の歴史は否定しようもなくわれわれ自身の歴史の一部となっている。われわれは彼らの土地を吸収して自分たちの所有地にしてしまった。それに応じて、彼らの悲劇をわれわれの伝統と道徳の中にとりいれ、それについての責任ある管理人とならねばならない。」
... シオドーラ・クローバー


1916年、イシは亡くなった。それ以来、彼の物語は人々の記憶から薄らいでいく。ようやく一般人にも書き残しておこうという考えが関係者の頭に浮かんだのは、1950年代になってからのこと。
文化人類学者アルフレッド・L・クローバーは、イシと最も親しくしていた人物の一人だが執筆を望まなかったという。それは、暗い歴史を物語ることになるからであろうか。あるいは、イシという人物を晒し者にしたくなかったからであろうか。アルフレッドの仕事は、カリフォルニア原住民の言語や暮らしなどの情報を収集すること。そのために、大量殺戮の目撃者となった。イシの遺体を解剖するという話があった時、こう言い放ったという。
「科学研究のためとかいう話が出たら、科学なんか犬にでも食われろ!と私の代わりに言ってやりなさい。」
そして、イシの物語を書くことになったのは、少し距離を置く妻シオドーラ・クローバーである。本書は、第一部「ヤヒ族イシ」と第二部「ミスター・イシ」で構成され、前半でインディアン種族として生きた運命、後半で文明社会を生きたイシの生き様を物語ってくれる...
「おそらく人間の歴史の感覚というものは、思春期から大人になりかけたときと、老境に達して、人生の永遠の真実を再評価し、熟考し、すすんでそれとかかわりを持つ余裕の生じたときとに、さしせまった鋭いものになるのであろう。」


1. インディアン種族の呪われた運命
それは、1844年に始まったという。メキシコ政府は土地所有認可を濫発し、それを合衆国政府が承認した。インディアン種族の土地は、法の下で、権利を主張する自由主義によって略奪されたのである。
原住民の死因の多くは強制移住によるものだという。抵抗する者は集団虐殺。文明から様々な感染病も撒き散らされた。麻疹、水痘、天然痘、結核、マラリア、腸チフス、赤痢など。売春も知らず、性病とも無縁だった女性たちも...
西部開拓史や西部劇などでは、よくインディアンが野蛮で残虐者として描かれているが、馬や牛を盗んだり、時々殺人を犯すぐらいは、些細な仕返しにも映る。法律用語に「正当な征服」なんてものがあるのかは知らんが...
「孤絶した共同体という現象は人間の歴史上稀であるが繰り返し起こる現象である。社会的、相互交流的、拡散的である人間の性質の故に、こういう社会は呪われた運命にある...」


2. 文明人ミスター・イシ
イシが、文明社会を生きた期間は五年間。たったの五年間。結核というこれまた文明からの死の賜物によって。彼は忍耐強く、不平も言わず、看護師たちに気遣い、世話をかけまいと静かに死を受け入れたという。アルフレッドは、どれほどの悲しみ、どれほどの怒りや責任を感じたことだろう。
文明社会を襲う恐怖心よりも強い孤独感。それは、現代人が抱える病理。死を選ぶ者が、なんと多いことか。仲間意識などという美談は、見返りの舌を垂れてやがる。天然記念物的なイシを見世物にして金儲けを企む者はあとをたたず、映画出演の要請やマスコミの餌食に。イシの目には、文明人とやらが、つまらぬ連中に映ったことだろう。
現代社会を生きるための知識を知らぬということが、無知といえるだろうか。人類は、道具を発明することによって文明を育んできた。だが、その文明人が道具なしで生きる術を忘れちまった。最先端商品に目を奪われ、虜になり、そして依存する。誰にでも使える道具を手にし、思考する面倒から解放され、それが自由の正体か。生物が最も依存しているはずの自然を知らずに生きているのが、人間ってやつか...
「彼の魂は子供のそれであり、彼の精神は哲学者のそれであった。」

2021-12-05

"青い鳥" Maurice Maeterlinck 著

童心に帰るのは難しい。脂ぎった大人には、さらに難しい。いまさら童話なんぞを... と思いつつ。気まぐれってヤツは、いつやってくるか分からん...


ところで、青い鳥が幸せを運んでくるってのは、本当だろうか...
かの偉大なアニメには、宇宙脱走犯「青い鳥」なんて逸話も見かける。無理やり幸福光線を浴びせかけ、まるっきり的外れな願いを叶えて、みんなを不幸にしちまう凶悪犯。この野郎を、岡っ引きのチルチルとミチルが追うというドタバタ劇である。高橋留美子も、メーテルリンクにはイチコロだったと見える。
それにしても、メルヘンチックなオリジナルより、そちらの方に癒やされようとは、もはや魂の腐敗は止められそうにない。夜の社交場では、おいらが幸せにしてやるぜ!なんて台詞まで飛び出す始末。
アンドレ・ジッドは、こんな言葉を遺してくれた。「幸福になる必要なんかないと、自分を説き伏せることに成功したあの日から、幸福が僕の中に棲みはじめた。」と...


さて、物語は、クリスマス・イブに薄気味悪い老婆が、ティルティルとミティル兄妹の家を訪ねたことに始まる。老婆は見るからに醜いけど、妖精なんだって。その妖精の娘は、ひたすら幸せになりたがる病にかかっちまったとさ。娘を救おうと、どこかに青い鳥はおらんかねぇ... 鳥籠にコキジバトがいるけど、あまり青くないねぇ...
そして、二人の兄妹は、妖精と一緒に青い鳥探しの旅に出るのだった。まず妖精の邸宅を訪れ、記憶の国、夜の城、月夜の森、幸福の館、真夜中の墓地、未来の王国を巡って...
尚、江國香織/訳 + 宇野亜喜良/絵(講談社文庫版)を手に取る。


サンタのおじさんは、お金持ちの家にはやって来る。だが、貧しい家では、ママがお願いに行けなかったから、来年はきっと大丈夫よ!と慰める。来年は遠い。幼い子には、遥か彼方。ティルティルとミティル兄妹には妹が二人いたが、すでに亡くなっている。貧しい家では、子供を無事に育て上げるのも大変。
記憶の国では、この世にはいないお爺ちゃんやお婆ちゃん、妹たちと出会い、過去の思い出に浸る。だが、ここには青い鳥はいない。過去に縋っても、幸福は得られないの?
幸福の館では、様々な贅沢三昧を検分する。金を持つ贅沢、土地を持つ贅沢、満たされた虚栄の贅沢、何もしない贅沢、必要以上に眠る贅沢、ぶくぶく太る贅沢、不幸な人たちを救いたがる贅沢、宇宙の摂理を知る贅沢など。しかし、ここにも青い鳥はいない。贅沢は幸福ではないの?
夜の城や月夜の森では、光が問題となる。月の光に照らされる死んだ鳥たちは誰が殺したの?真夜中の墓地では、みんながみんな天国へ行けるわけではない。未来の王国に希望を託したところで同じこと。偉大な未来に絶望するか。明るい未来に退屈病を患うか。
そして、現実に引き戻される。すべての旅は夢だったの?目を覚ますと、鳥籠のコキジバトが青く見える。これが、クリスマスプレゼントなの?色彩の特性には三原色ってやつがある。色付きメガネで見れば、好きな色に見えることも。色盲なら想像で補うことも。すべては見方次第!凡人は、目の前の幸せにも気づかない...


「なんにも見ようとしない人間がいるとは聞いていたけど、まさかお前は、そんな心のねじれた、無知な人間ではないだろう?でも、見えないものも見なきゃいけないよ!人間っていうのはほんとに妙な生き物だね。妖精たちが減ってしまってからというもの、人間はなにも見ないばかりか、目に見えるものを疑いもしない...」