2014-09-28

"人間不平等起原論" Jean-Jacques Rousseau 著

プラトンは、イデアという精神の原型のような存在を唱えた。ルソーは、かつて人間は自己保存という欲求の元で、ほとんど不平等のない自然状態にあったと説く。だが、社会進歩の過程で堕落し、人間の根源的な状態を忘れ、ついに「徳なき名誉、知恵なき理性、幸福なき快楽」だけを求めるようになったと嘆く。
そして、二つの不平等を定義する。一つは、自然的、身体的不平等。二つは、約束に依存する社会的、政治的不平等。本書の主題は、後者の不平等について、その起源は何か?またそれは、自然法において容認できるか?である。人間社会は、暴力に対して権利で対抗し、悪徳に対して理性で対抗し、これを法の下で実践する上で正義の概念を編み出した。法ってやつは、正義との癒着が強いだけに、乱用されやすいことに留意したい。
また、この書が「社会契約論」の下地となったように、教育論「エミール」でもそうであったようである。教育論ってやつは、理性をまるで欠いた酔いどれには、まったくもって煙たい存在であるが、いつの日か、その禁書にも挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、「人間不平等起源論」の翻訳版がいろいろある中で、本田喜代治、平岡昇訳版(岩波文庫)を手にとる。

ロックは知性論の中で、すべての観念の生得性を否定した。さすがの賢人の主張も、ここだけは、ちとひっかかる。対してルソーは、人間の根源的意識に自己保存の欲求を位置づけ、自己愛を結びつける。さらに、自尊心を自己愛と区別し、自尊心はむしろ利己心に近いものとして自然状態から遠ざける。
アリストテレス曰く、「自然というものを、堕落した人々の中にではなく自然に従って行動する人々の中に、研究しなければならない。」

ところで、物心がつくとは、いかなる状態であろうか?既に純真な心を取り戻すことのできない状態であろうか?ルソーが問題とするのは、既に社会状態にある人間が、いかに自然人に立ち返ることができるかである。社会が形成され、集団規模が大きくなるにつれ、その中で生き抜くために自己を改善せずにはいられない。世間では、社会の適応能力と呼ばれる。だが、知識を知らなかった頃の自分が、何を考えていたかを思い出すことは難しい。外的要因ばかりを研究すれば、その外的要因によって変質し、もはや自己の姿すら見えなくなる。人間ってやつは、自分自身にどんなに関心を持とうとも、内的な自己には無知であり続け、外側の方がよりよく見えるようである。人間社会を賛美し、ばかげた傲慢と権威に憑かれ、なんとも知れない空虚な自己礼賛に陥り、自己を偏見へと誘なう。そして、理性を発達させることが、自然人を窒息させるのかは知らん...
「もっとも痛ましいことは、人類のあらゆる進歩が原始状態から人間をたえず遠ざけるために、新しい知識を蓄積すればするほど、ますますあらゆる知識のなかでもっとも重要なものを獲得する手段をみずから棄てるということであり、またわれわれが人間を識ることができなくなっているのは、ある意味においては人間をおおいに研究した結果だということである。」

1. 自然法について
国家の強制は、どこまで容認できるだろうか?政府が法律を国民にゴリ押しするような国家では持続性が危ぶまれる。法が神聖であるための条件は、いかに自然に適っているかが問われる。そして、自然法のもとで、常に政治システムは検証されなければなるまい。ルソーはもう少し踏み込んで、法律が自然法から逸脱するから、国家が不合理な不平等を生み出すとしている。
うん~... そもそも社会状態が、自然状態とは相容れないように映るのは気のせいであろうか?いくら自然法に近づけても、集団の規模が政治の許容範囲をとっくに超えているような気がしてならない。おそらく人口に適した政治の規模というものがあるのだろう。地方分権は機能しているだろうか?もしかして人間社会を生きること自体が、自然状態を放棄していることになりはしないか?
つい最近、スコットランドの独立を問う住民投票が行われた。現在の近代国家の枠組みが大方出来上がったのが18世紀前後で、まだ歴史は浅く、普遍的な枠組みと呼ぶには程遠い。今後も、国家という概念に対して疑問を投げかけられるであろう。
確かに、法を尊重できるかどうかは、誰もがある程度納得できるものでなければならない。法律が、私利私欲やご都合主義、あるいは支持者への利益供与のために編み出されては尊重されるわけがないし、すぐに改変されるような法律では人々に蔑まれる。改善するという口実で慣習を排除すれば、新たな悪行へ導く。現実に、時限立法と称しては支持を集め、しかも有効期限が過ぎても都合よく延長させ、却って社会を混乱させている。悲しいかな、悪徳は法の網を巧妙にかいくぐり、法律は悪徳の進化にともなって進化し、複雑化してきた。人間社会のエントロピーを元に戻そうとすれば、一旦リセットして再契約しなおすしかなさそうだ。氷河期や地軸変動といった地球規模の環境変化は、契約をチャラにしようという神の魂胆であろうか...

2. 自然社会と文明社会
「結論を述べよう、... 森の中をさまよい、器用さもなく、言語もなく、住居もなく、戦争も同盟もなく、少しも同胞を必要としないばかりでなく彼らを害しようとも少しも望まず、おそらくは彼らのだれをも個人的に見覚えることさえけっしてなく、未開人はごくわずかな情念にしか支配されず、自分ひとりで用がたせたので、この状態に固有の感情と知識しかもっていなかった。自分の真の欲望だけを感じ、見て利益があると思うものしか眺めなかった。そして知性はその虚栄心と同じように進歩しなかった。
偶然なにかの発見をしたとしても、自分の子供さえ覚えていなかったぐらいだから、その発見をひとに伝えることは、なおさらできなかった。技術は発明者とともに滅びるのがつねであった。教育も進歩もなかった。世代はいたずらに重ねていった。
そして各々の世代は常に同じ点から出発するので、幾世紀もが初期のまったく粗野な状態のうちに経過した。種はすでに老いているのに、人間はいつまでも子供のままであった。」
ルソーの描く自然人は、現代的な個人主義とは相容れない。自然人ほど臆病な存在はないのかもしれない。それだけに、知覚は極めて敏感で、危険の察知能力に優れる。文明化によって知覚能力は衰え、仮想空間に認識を求めれば、いずれ空想だけで生きていけるようになるのだろうか?食糧という実体ですら、サプリメントの進化で栄養分は集積化され、それで食べた気になれるとすれば、排泄の必要もなくなるのだろうか?性交の必要もなく遺伝子を伝播させることができれば、愛という幻想は精巧(性交)ロボットへ向けられるのだろうか?だが、生命体である以上、寿命という時間的な実体からは逃れられない。いや、肉体から完全に分離した精神だけで、生命を自覚できるような状態がありうるのだろうか?などといえば、霊媒師が喜ぶ。
文明社会では、寿命の対処においてですら不平等が生じる。権威者や金持ちは最先端の医療が受けられ、貧困層は放置される。いくら政治が平等を唱えても、食糧も、医薬品も、社会サービスも、文明が高度化するほど格差は広がる。はたして政治は自然の産物であろうか?
しかし一方で、文明社会が理性を育み、共同生活を安住の地とさせてきたことも事実である。弱者に対してそこそこの憐れみや施しがあるからこそ共存できるのであって、単純な弱肉強食の社会では持続できない。その意味では、個人の徳と悪徳は、集団性においてなんとか相殺されている。理性を高めるには、悪徳というリスクを避けられないのかもしれん。尚、ユスティヌスの歴史書には、こんな句があるそうな。
「ある人々にとって悪事を知らないことは、他の人々にとっては善事を知っていることよりも有益である。」

3. 自己愛と自尊心
本書は、自然人の固有の感情は自己保存の欲求とし、これが自己愛の根源だとしている。そこから派生する同胞への憐れみの情念が人間愛となり、やがて隣人愛や祖国愛へと広がると。対して、自尊心は、人間社会の腐蝕作用によって、自己愛が利己心へ変質した情念だと考えているようである。自己愛が自然的感情であるのに対し、自尊心は人為的感情ということか?自己愛も自尊心も利己心と相性が良さそうだし、言葉の堂々巡りのようにも映る。このあたりは用語のニュアンスの違いもあろうし、翻訳の難しさが伺える。
いずれにせよ、善人と悪人を区別しないような社会は、いまだかつて存在しない。ヘシオドスは、人間の進化を、黄金の種族、銀の種族、青銅の種族、英雄の種族、鉄の種族の五世代で物語った。黄金の種族は、クロノスが支配する時代で、人間は神々とほぼ同じ生活をし悩みや労苦を知らずに暮らす。銀の種族は、ゼウスが覇権を握った時代で、スケベえな雷オヤジが、あらゆる女神の寝所に忍び入っては子を孕まし、その子供たちが神々への敬意を忘れて争いを起こすようになる。青銅の種族は、さらに暴力的となって青銅製の武器を用いる。英雄の種族は、トロイア戦争で活躍した英雄たちの時代で、戦争をやるから英雄という概念も生まれる。鉄の種族は、正義や希望のない悪事が横行して退廃を極めた段階、すなわち、現世。
やがて、政治的な強者と弱者、経済的な富裕層と貧困層、社会的な知識人と無知人など、あらゆる面で二極化していく。物流と情報が発達すれば、都市と地方で差がなくなるかと思いきや、密集化と過疎化はむしろ顕著になる。情報社会が高度化すれば、誰でも平等に情報が得られそうなものだが、情報意識や情報収集意欲の格差が拡大し、情報主権が民衆へ移ってきた。あらゆる面で主権が民衆へ移行すると、能動的に生きる者と受動的に生きる者の意識格差は拡大するものらしい。
ならば、不平等を嘆くよりも個人の能力を自然に伸ばすように仕向け、最低限の自己存在の保障を規定する方が、よほど実践的であろうに。不完全な人間をエゴイズム的な完全像で描こうとするから、メフィストフェレスに付け入る隙を与える。そして、誰もが尊敬を受ける権利を主張するやかましい世の中になろうとは...
「各人は他人に注目し、自分も注目されたいと思いはじめ、こうして公の尊敬を受けることが、一つの価値をもつようになった。もっとも上手に歌い、または踊る者、もっとも美しい者、もっとも強い者、もっとも巧みな者、あるいはもっとも雄弁な者が、もっとも重んじられる者となった。そしてこれが不平等への、また同時に悪徳への第一歩であった。この最初の選り好みから一方では虚栄と軽蔑とが、他方では恥辱と羨望とが生れた。そしてこうした新しい酵母によってひき起された醗酵が、ついには幸福と無垢とにとって忌まわしい合成物を生み出したのである。」

4. 私有と共有
「ある土地に囲いをして、これはおれのものだ!と宣言することを思いつき、それをそのまま信ずるほどおめでたい人々を見つけた最初の者が、政治社会(国家)の真の創立者であった。」
本書は、社会的不平等の起源を私有制度に求める。ロックの格言に、「私有のないところに不正はありえない」というのがあるそうな。確かに、人間社会のすべての構成員に、私有の意識がなければそうかもしれない。しかしながら、自己保存の欲求の根源には、自分の身体は自分のものという意識がある。私有意識だけ明確に持ちながら、無理やり共有しようとすれば、むしろ不正の餌食となろう。共産主義的搾取の類いだ。現実に、すべての財産を共有すると宣言すれば、すべての管理は政府が担うことになり、そこに権力が集中し、癒着が生じ、搾取が始まる。あるいは、無条件な平等によって恩恵が受けられるとなれば、怠け者ほど得をする。純粋な自然状態に相応しい善は、社会状態では適合しなくなり、悪の道具となるばかりか、善自身が悪徳へと変質するだろう。
また、才能は誰のものか?と問えば、圧倒的多数が個人の努力の賜物と答えるだろう。真理に近づいた天才の中には、人類の叡智と答える者もいるが、人間社会の構成員の圧倒的多数は凡人である。才能が社会において有利となりうる条件だとすれば、ここにも不平等の起源がある。才能が優れていれば、それをもっと伸ばす環境を整えるべきだし、そのことが人類の叡智を保存することになろう。だが実際は、人類の叡智に貢献するよりも、はるかに経済的な成功者の方が評価される。勝ち組と負け組とは、まさにそんな概念だ。人類の叡智に貢献する者ですら負け組に種別される。もっとも本人に、そんな意識はないだろうけど...
所詮、そんなグループ分けは、他人よりも優位な立場に位置づけて、優越したいという欲求でしかない。経済に隷属すれば、貨幣量でしか価値判断ができない。知識に隷属すれば、知識量でしか価値判断ができない。土地の大きさに満足を求め、支持者や人気の数を競うのも、同じ原理であろう。身分と財産の格差、情念と才能の相違、有害な技術、つまらない学問といったものから、無数の偏見が生まれる。経済的な貧困と精神的な貧困では、次元が違うようである。どちらが高次にあるかは知らんが...
本書は、人間社会の構成員が国家という枠組みに組み込まれると、集団的な殺戮や復讐がより顕著になり、血を流すことが名誉や美徳となり、恐ろしい偏見が生まれるとしている。その偏見は、同胞ですら犠牲にする。今日、グローバル化の進む中で国家の枠組みが曖昧になり、経済交流や文化交流が戦争のリスクを軽減している。だがその一方で、帰属意識の不安からか?ナショナリズムが高揚し、その意識も二極化する傾向にある。自国民を優越させたいという欲求は、自尊心の類いから発す。その優越意識はオリンピックなどの祭典にまで及び、個人の名誉を国家の名誉と言わんばかりに罵り合う。政治家同士のネガティブキャンペーンのごとく。公私混同の甚だしさは、人間の悲しい性(さが)というものか...
名誉、友情、美徳を誇りとする情念は、いまや悪徳を誇りとする秘訣を見出す。愚者が賢者を指導し、大多数が飢えているにもかかわらず、ほんの一握りの者たちが奢侈に溺れるとは、これいかに?自ら犬と称したディオゲネスは、最も人間性に優れた都市アテナイを歩き回るものの、一人も人間を見出すことができなかった、と豪語した。社会状態とは、もはや不自然な集合体に成り下がる。人間の潜在意識に、狂いたいという欲求があるはずがないと、どうして言い切れよう...

2014-09-21

"社会契約論" Jean-Jacques Rousseau 著

おいらは、説教じみた話が嫌いだ。ルソーといえば教育者の印象が強く、避けてきたところがある。ただ、モンテスキュー思想に批判的な立場であることを知ると、ちと興味がわく。おまけに、モンテスキューの「法の精神」は禁書目録に加えられ、ルソーの主著「エミール」もまた禁書に指定された。それだけで反社会分子には、ルソーを読む理由となる。彼はこう釘を刺す、「注意を払おうとしない読者にわからせる方法を、わたしは知らない。」と...
尚、「社会契約論」の翻訳版がいろいろある中で、桑原武夫、前川貞次郎訳版(岩波文庫)を手にとる。

これは人民主権論を説いた書である。当時、政治理論の多くが支配者の立場から語られたのに対し、ルソーが民衆の立場から語ったことは注目すべきであろう。その観点が、ロックを継承しているのは間違いなさそうだ。必然的に、統治者たる資格を持つ崇高な道徳観を求めるよりも、俗的な意志に則した政治体制が議論されることになる。とはいえ、立法者の資格に限っては、超人的能力を求めているものの...
その精神はフランス革命の引き金になったと評され、日本においても自由民権運動に影響を与え、近代デモクラシーの宣言書とも呼ばれる。本書は、国家は個々が結合した状態で、互いの自由と平等を最大限に確保するための契約によって成立するとしている。はたして社会の運命は、契約などという人の力で変えられるや、否や。いずれにせよ、人の意志につられる運命と、運命につられる人生とがあるように思う。
「いかなる人間もその仲間にたいして自然的な権威をもつものではなく、また、力はいかなる権利を生み出すものでない以上、人間のあいだの正当なすべての権威の基礎としては、約束だけがのこることになる。」

モンテスキュー式権力分立は、立法、執行などの政治機能を同列に配置する並列型機構である。対して、ルソーは立法能力を国家形成の根幹に位置づけ、他の機能に対して優越すべきだとし、その下に執行などを従属させる階層型機構を唱える。そして、「一般意志」という概念を持ちだして、ルソー流「自然状態」と絡めながら意志の階層化を暗示している。個人の意志から集団の意志へ、さらに究極目的たる国家の意志へ昇華させるといったところであろうか。
個人的意志は目先の欲望に吸い寄せられる傾向があり、しばしば社会的意志と大きく乖離する。では、人間の自然状態とは、どの意志の段階であろうか?理性は自然状態に含まれるだろうか?政治学の伝統には、人間は社会的市民であるといったアリストテレス的な考えがある。社交的な性質が生まれつき具わっているとすれば、理性は自然状態に含まれることになろう。
しかし、ルソーは、社会関係は個人の利害関係から生じるものであり、これに対抗すべく道徳観念が生じるのは、既に自然状態から社会状態へ移行した結果だとしている。生まれたばかりの子供は、野心や邪心の欠片もない純粋な状態にある。対して、大人とは、どういう状態であろうか?歳を重ね、経験を積んだからといって、理性的になるとは言えまい。むしろ、頑固になり、せっかちになり、僻みっぽくなり、おまけに嫌味の一つでも言わないと気が済まないとくれば、説教することでストレスを発散する。熟練した政治家ですら、しばしば憤慨するではないか。集団に属すことで安住し、慣習に従っていれば思考せずに済むとは、まさに奴隷状態!社会状態とは、堕落の象徴とでも言うのか?そして、一旦自然状態へ回帰し、新たな契約を結び直せとでも言うのか?... そうかもしれん。
「人間は自由なものとして生まれた、しかもいたるところで鎖につながれている。自分が他人の主人であると思っているようなものも、実はその人々以上にドレイなのだ。どうしてこの変化が生じたか?わたしは知らない。何がそれを正当なものとしうるか?わたしはこの問題は解きうると信じる。」

1. 自然状態と社会状態
最も自然な社会は、家族で構成される。ただ、子供が親に結び付けられるのは、自分自身を保存する上で親を必要とする間のみ、この状態は家族という暗黙の約束によって維持され、ここに法的な服従と義務の関係が結びつくという。服従も義務も自然的自由の下で成り立ち、運命的自由、あるいは人間本性的自由と言うべきかもしれない。そもそも人は生まれる国や両親を自由に選べない。生まれる地すら与えられない人もいる。自然淘汰的な競争原理において、人間の存在意識が防衛本能と結びつくのは自然であろうし、最も原始的な掟は自己保存に対する配慮となろう。ただ、親子の絆は血縁や愛などで結びつくが、支配者は民衆に対して愛を持たないばかりか、支配行為を快感とする。
では、国家と個人の結びつきは、何に頼ることになろうか?ルソーの政治論では、それが契約というわけだが。契約は人格と人格の結びつき、すなわち信頼によって成り立つ。国家はその信頼に値する存在であろうか?そこで、人間社会に課せられる最も素朴な権利が問われる。個人が国家を信頼するには、自己存在の保障が原則となる。そう、基本的人権の類いだ。
しかしながら、約束とは破られるもので、聖書との契約ですら心もとない。どんなに優れた政治理論をもってしても、最終的に縋るものが人間性だとすれば、政治家不要説が燻る。ルソーの描く国家像も、ブルジョワ的な立憲君主国家や議会主義国家などではなく、全人民を主導者とする革命的民主制、もっと言うなら、人民独裁国家に映らなくもない。革命ばかりでなく、暴力的な政治運動までも正当化されそうな。実際、フランス革命では、支配者が民衆の自由を奪ったのと同じ原理によって、民衆が自由の権利を取り戻したが、その反動に恐怖政治が訪れた。僭主による権利剥奪も、民衆による権利剥奪も大して変わらない。いや、集団性による専制の方がタチが悪いかもしれない。言葉が乱用される社会では、ささやかな事に目くじらを立て、言葉の揚げ足をとることに執心し、正義ですらストレス解消の道具とされる。
自然状態が自己保存における権利の保障に基づくとすれば、社会状態は集団的な保存における権利の実践ということになろう。それは秩序の上に成り立つ権利であって、自由奔放という意味ではなく、当然ながら自由も平等も制限されることになろう。主権者とは、社会契約を結んで一体となった人民全体のことを指すのであって、決して一個人を指すものではないという。
「精神的な事がらにおいては、可能性の限界は、わらわれが考えるほど狭いものではない。限界を狭くしているものは、われわれの弱さ、悪徳、偏見である。」

2. 一般意志と国家
自然状態において、すべての人間は生まれながらにして自由と平等が与えられる、とはよく耳にする。世界人権宣言にも似たような事が綴られる。だが、社会状態において自由と平等が制限されるということは、主権が制限されることになる。
では、個人が主権の制限を受け入れる動機は、どんな理由から発せられるであろうか?本書は、それは国家を作る根本原理、すなわち公共の幸福を求める「一般意志」だとしている。この用語は多数決的なニュアンスを与えるが、むしろ普遍的な意志と解すべきであろう。人間社会が不完全であるとはいえ、秩序なるものが自然に育まれてきたのは、義務の声が肉体の衝動を抑え、欲望を権利に置き換え、だいたいの方向性において集団的な理性が働いているからであろう。
しかしながら、公共利益を普遍性において定義することは、絶望的なほど難しい。集団の意志は、しばしば個人の意志と大きく乖離する。代議士は、本当に民衆の代弁者となっているだろうか?選挙運動は、純粋に政策を議論するよりも、血縁や地元出身を推したり、あるいは宗教的活動となりやすい。自分で思考することを放棄すれば、民主主義の義務を放棄しているようなもの。だからといって、立候補者の人格など分かるはずもない。結局、利益供与という動機が、票田とたかり屋の構図を生み出す。多数決の原理を本当の意味で機能させるためには、公共的な悟性の下で普遍的な意志を持つ側を多数派とするしかないだろう。だが、既に絶望的な状況にある。人間社会はいろいろな意味で格差が拡大する。経済格差、知識格差、認識格差... 民衆の意志は二極化し、おまけに報道屋が対立構図を煽り、世論はそれを面白がる。いまや国家は、国の枠組を超越した一つの概念のような存在であり、政府の意志で決定できるような単純な存在ではない。

3. 立法者の資質
「立法者は、あらゆる点で、国家において異常の人である。彼は、その天才によって異常でなけれならないが、その職務によってもやはりそうなのである。それは、行政機関でもなければ、主権でもない。共和国をつくるこの職務は、その憲法には含まれない。それは人間の国とは何ら共通点のない、特別で優越した仕事なのである。」
ルソーは、立法者に無の権威者となることを求める。人を支配するものが法であるならば、やはり人が法を支配してはなるまい。実際、日本国憲法第41条によると、国会は国権の最高機関で、国の唯一の立法機関とされ、これも一理ある。
しかしながら、立法者とて神ではない。国会議員は人間を超越した存在とでもいうのか?彼らは、司法の支持に従って、彼ら自身が当選してきた選挙制度を、中立の立場から不利な方向に修正できるだろうか?絶対的な安定多数を確保すれば、ドサクサに紛れて他の法案まで通過させてしまうような連中が。法を編む者、あるいは、それに口出しする者が、現実に執行権と結びついている。三権分立なんてものは、民衆の御機嫌とりのためのものか?ローマの十二表法を起草した十人委員会ですら、自らの権威を掲げるほどあつかましくはなかったという。そして、民衆への提案をこう語ったとか。
「君たちの同意がなくては、何一つ法とはなりえない。ローマ人よ、君たちみずから、君たちの幸福を生み出すべき法の作成者となれ。」
完全な立法においては、個人的意志は皆無でなければならないという。そりゃそうだろうが、主観が作用する意志において自己を排除することなどできようか。正義の根源ですら主観的に発するではないか。実際、有識者たちの憤慨する姿を見て、これが全体の意志に映るだろうか?普遍的な意志においては全体と個人は一致するのだろうが、そこに自信を深めた時、人格は暴走を始める。論理的な検証を怠り、意思決定を急ぐところに、ろくでもない条文が大量生産される。やはり、ルソー式階層型機構より、モンテスキュー式並列型機構の方が凡人に適っていそうな気がする。好みの問題かもしれんが...

4. 法の慣習性と硬直性
法には大まかに三つの種類がある。一つは、主権国家として規定される憲法。政治法や根本法とも呼ばれるそうな。二つは、構成員の相互関係や、社会との関係を規定する民法。三つは、これらの違法行為に対する罰則を規定する刑法。さらに本書は、四つ目の種類として最も重要な概念を加える。それは、市民の心に刻まれる規定で、いわゆる慣習法である。
特に民主政において、執行権が立法権と結合していることが弱点であると指摘している。権力との癒着構造が政治の腐敗を招くのはどんな政体でも同じだろうが、政府が法律を乱用する方がまだしも弊害が少ないとしている。どっちもどっちのような気もするが。裁判官の判決が世論の御機嫌伺いとなれば、もはや法治国家ではない。感情論に振り回されては、魔女狩りの類いとなんら変わらない。
「国家が解体するときには、政府の悪弊は、それがどのようなものであろうと、アナーキーという共通の名前で呼ばれる。これを区分すれば、民主政は衆愚政治に、貴族政は寡頭政治に堕落する。つけ加えれば、王政は僭主政治に堕落する。」
政治制度を強固にしようと欲するあまりに、その働きを停止する力まで失ってはならないという。古代スパルタでさえ自ら法律を休ませたことがあるそうな。ただし、公共の秩序を変えるような危険を冒してよいのは、最大の危機の場合だけと釘を刺しながら。最大の危機とは祖国の存亡にかかわる事態で、それ以外は法の神聖な力を止めてはならないという。
「法の非柔軟性は、事が起ったさい、法がこれに適応するのを妨げ、ある場合には、法律を有害なものとし、危機にある国家をそれによって破滅させることにもなりうる。形式の秩序と緩慢さとは、一定の時間を必要とするが、事情は時としてこれを許さない。立法者が少しも考えておかなかった場合が無数に起りうるから、人はすべてを先見することはできない、ということに気づくことが、きわめて必要な先見なのである。」

5. 政教分離
本書には、政教分離の原理を匂わせる部分がある。いや、絶望しているのか?支配者たちは世論を支配するために、しばしば神を利用してきた。改宗の義務までも、法によって被支配者に課してきた。人間の欲望は、土地を侵略するだけでは飽きたらず、精神までも征服せずにはいられない。その原理は、分かりやすい説得力や宣伝力を駆使して洗脳にかかる多数決の原理に受け継がれる。政教分離は古くから唱えられてきたが、本当の意味で政教分離を果たした国家は、まだ出現していないようである。
「市民的不寛容と神学的不寛容とを区別する人々は、わたしの意見によれば、まちがっている。この二つの不寛容は、分けることができない。のろわれている、とわたしたちが信じる人々とともに平和にくらすことは、できない。彼らを愛することは、彼らを罰する神をにくむこととなろう。彼らを正しい宗教につれもどすか、迫害するかが絶対に必要である。宗教的不寛容が認められているところでは、どこでも、それは市民生活に何らかの効果を生まずには済まない。そういう効果が生まれるやいなや、主権者はもはや、世俗的な事がらについてすら、主権者ではない。」

2014-09-14

"動物の心臓ならびに血液の運動に関する解剖学的研究" William Harvey 著

医師ウィリアム・ハーヴェイは、ガリレオやデカルトの時代を生き、解剖学で尊敬を集めた人物だそうな。ジェームズ1世やチャールズ1世の侍医だったというが、一般的にはあまり知られていないようである。ハーヴェイ贔屓の人々によると、目立たぬように振る舞うことで悦びを感じるような人物だったとか。真理を語る者にとっては、目立つと災いの降りかかる時代。科学的観点はことごとく宗教論争に巻き込まれ、案の定、ガリレオは宗教裁判にかけられ、デカルトは自由国オランダへ逃れた。全人類を敵に回すぐらいの覚悟がなければ、宗教的教説を打破することはできない。ハーヴェイは心臓と血液の運動についての画期的な理論を提示するが、これまた多大な批判を浴びたようである。本書には、アリストテレス主義の亜流に対する批判が多分に込められている。名指しはしていないが、スコラ学派あたりか。アリストテレスには敬意を払いつつも...
当時の解剖学は、ローマ帝国時代の医師ガレーヌスの学説が一般的だったという。つまり、ルネサンスに至る1500年もの間、この分野は進歩していないと苦言を呈しているわけだ。人体解剖は倫理的に攻撃されやすい分野だが、記録はヒポクラテスよりも前に遡る。言い換えれば、古代ギリシア、ローマ時代の智がいかに偉大であったかを示しているのだけど...

本書に示される血液循環の理論は、現代医学では当たり前とされる。それは... 血液は左心室の搏動によって動脈を介して身体全体に供給され、同様に右心室の搏動によって静脈を介して心臓へ戻す。そして、右心室から肺動脈を通して肺臓と接続され、肺静脈を通って右心室に入る。... といった血液経路である。
特に重視している点は、血液が運動を必要とするだけでなく、再び心臓へ戻ってくることが必要だとしていることである。この理論を証明するために、ハーヴェイは約128種もの動物解剖を行ったというから、その執念には凄まじいものがある。誇張することなく、真理を静かに物語ることが、研究者魂というものであろうか...
また、解剖を通して生命組織を解明しようするだけでなく、病理学の視点も忘れていない。医師の本能であろうか...
「真理への愛と、知識欲に燃えている真の哲学者は、その真理がたとえ誰からこようとも、またいつこようとも、それに対して道をあけないほどに自分が聡明で豊かな知識をもっているものでないことをよく知っており、また彼ら自身の感覚からいっても、決してそれほどに知識に富んではいないのである。」

従来の理論では、右心室は肺臓のために栄養を供給する役割があり、左心室は身体全体に血液を供給する役割があるとされ、血液は肝臓あたりで作られ、一方通行で身体の各部でそのまま消費されると考えられていたという。アリストテレスの時代から、血液の供給を生気の供給と呼んでいたそうな。動脈には生気がみなぎっており、赤々とした赤血球こそが生気の源とし、赤が生、青が死の代名詞とされてきた。生気とは極めて哲学的な表現だが、生気を酸素と読み替えるだけで、医学書っぽくさせる。尚、本書には、酸素や二酸化炭素という用語は登場しない。呼吸に関する空気と生気で区別されるぐらいか。
ハーヴェイは、右心室と左心室で役割が違うことに疑問を持った様子から語り始める。しかしながら、機能的な対称性を信じたとしても心臓の位置は左に偏っているし、実際に右心室と肺臓が接続されていれば、アリストテレスの構造論もそんなに悪くはあるまい。問題は、それを実証もせずに鵜呑みにすることであろう。想像や予測はできても、それを実証することこそ自然科学者の使命である。
とはいえ、凡庸な酔いどれときたら、こうした研究者たちの主張を鵜呑みにするしかない。ほとんどの知識は自分で確かめたものではなく、本を読んでお茶を濁すことぐらいしかできないのだ。それでも、手も足も出ない知識の渦の中に身を投じると、それが快感になってくるから困ったものである。ハーヴェイは、老人(プビリウス・テレンティウス・アフェル)が書いた喜劇の中に、こんな格言があることを紹介してくれる。
「ただ年齡(とし)をとり、経験をつむことは、なんら新しい変革をもたらさない。知っていると思っていることも、本当に知っているのではない。至上のものとして大切にしていることも、身をもってためしたうえでなければ、それを信じない。... このように、まったく理性を以てその生涯を、よく生きぬいた人は、いまだかつてみられない。」

1. 停止メカニズムと起動メカニズム
人体組織の構成を観察するだけなら、死体を解剖すればいい。だが、生命のメカニズムを解明するとなると... 動物愛護団体から集中砲火を浴びそうだ。
ハーヴェイは、心臓が停止する順序を手で触りながら克明に綴っている。最初に左心室が搏動をやめ、次に左心耳、ついに右心室が停止し、最後に死亡が確認されているにもかかわらず、右心耳はなお搏動し、生命は右心耳において最後まで残留するという。そして、心臓が漸次死に近づきつつある間に、心耳の二搏、三搏した後に、心臓はあたかも再び覚醒したかのように時折反応し、やがて緩やかになると。心臓が搏動を停止した後も、心耳がなお搏動している間は、心室中に搏動が認められるらしい。心耳が搏動するということは、血液の放出も見られるということであろうか。
なるほど、停止メカニズムを逆に辿れば、起動メカニズムを想像することもできそうである。ここには、デカルトの機械論をより具体化しようとした印象がある。人間機械論的ですらあるけど...
鼓動メカニズムがポンプの原理である以上、一時的に停止しても蘇生できる可能性がある。つまり、鼓動がたまーに乱れたり、瞬時に停止してもおかしくないほど、際どい関係から成り立っている。そこに呼吸作用が関与する。
では、呼吸の正体とはなんであろうか?赤血球が二酸化炭素を放出して、代わりに酸素を取り込む。化学では酸化と呼ばれるやつだ。こんな単純な交換作用によって、生命が維持されるとは... これを宇宙の奇跡とするか、神の仕業とするか、あるいは、何億年もかけて獲得した進化の産物に過ぎないとするか、まぁ、好きにすればいい...
注目したいのは、心臓の運動に心耳が関与していることを重視している点である。尚、心房という用語が登場しないのは、心室で抽象化しているのだろうか?
左右の心耳は同時に運動し、左右の心室も同時に運動するが、それぞれの系統は同時に起こらないという。心耳が先行して心臓の運動がこれに続くという。心耳が起動タイミングを作っているということか?心臓がポンプ運動を起動しているのは確かなようだが、一旦起動を始めると、身体全体が惰性的な周期運動を続ける。血液の放出からの圧力、すなわち、左心室側から主導されるということになろうか。そうなると、心耳には、物理的な連動波、鼓動波や周期波の伝播、ひいては、リズムを整える役割があるのだろうか?心耳と呼ぶからには、受動的な伝播運動なのかもしれない... などと解釈してみたものの、ん~... よく分からん。実は、それほど重要でない組織ってことはないの?ハーヴェイ先生!
まぁ、モノの有難味ってやつは、失った時に実感できるもの。その機能を排除した時、どうなるか?それを実験してみれば明らかになろう... おっと、動物保護団体の眼が怖い!
「肺臓と心臓とは、血液のための倉庫、源泉および宝庫であって、血液がそこで完成されるための実験場である。」

2. 動脈と静脈の対称性、そして、静脈弁の神秘
本書は、静脈の全域に配置されるシグマ字型の弁があることに注目している。つまり、逆流防止機構があることに。動脈には、逆流防止は必要ないのだろうか?血液の放出圧力で制御できると言えば、そうかもしれん。大動脈の入り口には弁があるけど...
弁は、分岐のあるところに明らかに多く見られるが、それだけではないという。頭部など上部へ血液を流れやすくする役割もあろうが、単に重力に逆らうためのものではないらしい。動脈から噴出したものを、静脈を通して必ず心臓へ戻す必要があると指摘している。そして、食物の摂取量から換算して、大量に血液を供給するには、循環路を巡っているとするしか、充満させることはできないという。ハーヴェイは血液の放出圧力と脈拍数から、血液の供給量を算出して見せる。
生命維持のためには栄養は必要であるが、食物を摂取してそれを消費するという工程だけでは説明がつかないのも確かだ。エネルギー保存則の観点からも、エネルギーの逃げ道が必要である。動脈こそが生気を与えるとされる従来の理論に対して、動脈と静脈の対称性こそが、安定した整脈をもたらすというわけである。
尚、静脈内に膜のような弁があることを最初に唱えたのは、ヤコブ・シルビゥスという人だそうな。ただ、弁は発見されたものの、用途が解明できなかったという。
ところで、本書では扱われないが、循環系には血管系とは別にリンパ系ってやつがある。血管系が燃料補給の役割があるとすれば、リンパ系は余分な組織液を排除する役割があるとされる。素人感覚では、リンパ系を静脈で兼用できそうな気もするが、そう単純でもないのだろう。
また、同じく本書では扱われないが、怪我などで身体が異常状態になると、動脈と静脈の間に痩管という連絡路ができると聞く。例えば、硬膜動静脈瘻といった病では、動脈と静脈が直接つながるといったことが起こるらしい。正常状態では、太い動脈から細い動脈へ、更に細い毛細血管を経て静脈へ繋がる。静脈から動脈へ移ることは心臓を経由しない限り不可能なはずだが、循環系に異常がきたすと、こんな補完機能まで具えているとは、生命の神秘どころか脅威すら感じる。
尚、本書は毛細血管までは言及されない。後に、マルセロウ・マルビギィが顕微鏡によって毛細血管を発見することに...

「哲学者が言ったとおり、人間は宇宙の中心だ。マクロの世界とミクロの世界の中間にいる。そのどちらも無限だ。赤いのは赤血球だけだよ。それも動脈内だけ。あとは海水に似た結晶だ。生命の川だな。... 全長10万マイルある。」
... 映画「ミクロの決死圏」より

2014-09-07

"種の起原(上/下)" Charles Darwin 著

生物学に触れるのに、進化論を避けて通るわけにはいかない。ただ、科学の中でも極めて社会学的な印象が強く、遠ざけてきたところがある。自然淘汰説では、自由放任や市場原理と結びつけて、弱肉強食と重ねる経済学者も少なくない。それでも、科学者から芸術家に至るまで実に幅広い分野でダーウィンを称賛する声を耳にするし、遺伝子工学が量子力学と深くかかわる様子から徐々に興味を惹き、いつかはダーウィン!と意気込んでいた。案の定、つまらないイメージを払拭してくれる。尚、多くの翻訳版が混在する中、比較的新しい光文社版(渡辺政隆訳)を手にとる。

「種の起源」は、専門家向けの学術書ではなく、一般読者向けに発行されたそうな。当時、大著「自然淘汰説」の執筆を進めていたところ、諸般の事情から要約を刊行する必要に迫られたとか。確かに、感情的批判の避けられない説ではある。要約にしては大作だが...
この時代、まだ遺伝の仕組みが皆目解明されておらず、ダーウィン自身、遺伝の法則についてまったく分かっていないことを表明している。この真摯な態度こそ自然科学者たるもの。彼はなにも、人類の祖先を猿と言っているわけでもなければ、ヒトの祖先についてすら触れていない。ひたすら飼育栽培や家畜、あるいは野生の動植物を観察しながら、進化の原理を論証しているだけだ。もちろんヒトの種も含めてのことだが、批判を想定し、言葉を選びながら語っている。要するに、あらゆる生物種が共通の祖先を持つと言っているだけで、現存する生物種の優劣を語っているわけではない。
「私は類推から出発して、地球上にかつて生息したすべての生物はおそらく、最初に生命が吹き込まれたある一種類の原始的な生物から由来していると判断するほかない。」
その本旨は、地上を豊富な生命で満たすための条件として、多様性と分岐の性質を主軸に置く。そして、すべての生命は指数関数的に増殖する性質を持ち、そのために生存闘争が生じるのは必然で、数を抑制するために大量絶滅の機会は避けられないとしている。これは、T.R.マルサス風の人口論ではないか。自然淘汰の原理が機能しなければ生物の分布は偏り、地上がこれほど多様な種で満たされることはないというわけだ。
近年、個々の生物種のDNA配列が明らかにされると、すべての生物種に共通点が多いことが発見される。見た目が明らかに違う生物でも、DNAレベルでは驚くほど似通っているというのは、自然の驚異を感じずにはいられない。構造を司る遺伝子メカニズムは、スイッチをオン/オフするだけで多様な形態をこしらえる機能を具えている。まるでプログラマブルデバイスのように。地上に存在する構造体は、すべて選択と分岐で説明がつくのかもしれない。これが偶然性ってやつの正体であろうか。生ってやつは、死を運命づけられてこそ生となる。だからこそ次の生を夢見るのであろうか。しかも、子孫の複製では、ほとんどの動植物が二つの個体で結ばれることを望む。雌雄同体であっても、やはり結合を求める。生の複製だけなら単体で生殖する方が合理的であろうが、遺伝子にはほんの少し変身願望があるようだ。生活環境が不変ではないことが、結合と分岐の原理を育み、適応能力を身につける。この意志こそ進化の正体であろうか。運命には、切り開く運命があれば、逆らえぬ運命がある。双方を調和させる意志こそ運命とうまく付き合う術なのだろう...

「個々の事象は神の力が個別に介入することで起こっているわけではない。神が定めた一般法則によって起こっているのだ。」
... W.ヒューエル「ブリッジウォーター叢書」より

自然淘汰説は、ある種の利益主義と言えなくはない。だが、自然的な利益と人為的な利益を区別する必要がある。個々の生物が具える体制、構造、習性を厳密に精査し、よりよいものを選択しながら保存すると同時に悪いものを排除する。自然の力とはなんと偉大であろう。だが、人間は自然の意志を解しているだろうか?人間精神はそこまで進化しうるだろうか?ダーウィンはこれを問うているようでもある。
人間の意志は、無意識の領域では自然の意志に適っているのかもしれないが、その一方で、意識できる領域ではどうであろう。満腹なライオンは人が側を歩いても襲わない。底なしの欲望を抱いているのは人間ぐらいなものだ。人為的に遺伝子操作された食物ばかり食べていると、その生命体はいずれ報いを受けるのかは知らん。
ところで、進化論といえば、お馴染みのイメージ図がある。腰を曲げて腕を引きずりながら歩く猿から、背筋を伸ばして直立歩行する人類へ段階的に変化していく、あれだ。ダーウィンの生きた19世紀は、すべての生物は神が個別にこしらえたとするキリスト教的な創造説が支配的な時代。人類の住む地球は、既に宇宙の中心でないどころか太陽系の中心ですらないことが証明され、生物の起源は神の御手が介在できる最後の砦であった。当時、ダーウィンは猿になぞらえた風刺画で揶揄される。
現在でもなお、人間の祖先はチンパンジーなどという誤解がある。ヒトに最も近い種といえば、そのあたりではあるが。おまけに、進化論を教育の場に持ち込むべきではないと主張する道徳者どもがいる。人間自身を崇めれば、人類のルーツに敏感に反応する。これも、ある種の民族優位主義のようなものか。人間社会では多数決が崇められるのに、宇宙では生命が存在する地球はごく稀な存在で、変質や奇形の類いとなろう。だが、これまた神の祝福を受けた天体と解す。人間のご都合主義、恐るべし。マスコミ連中が面白おかしく書きたてれば、興味本位で群がる民衆によって真っ当な学説が捻じ曲げられる。単に注目されたいという脂ぎった欲望が、真理を探求したいという純粋な欲望を圧殺にかかる。そんな構図は現在とて変わらないが、はたして自然淘汰の原理に適っているのやら。尤も俗世間に惑わされない資質を持った天才たちが、真の意味で人間社会を支えているであろうし、どんな状況下でも必要以上のドーパミンを発することはないのだろう。ダーウィンは、あの世でつぶやいているに違いない。戯言を科学に持ち込んで人類の叡智を崇める種が祖先だと言うのなら、自分自身は哀れな類人猿を祖先に持つ方がましだと...

1. 連続性と離散性
自然淘汰説は、想像を絶するほどの長い時間によって徐々に変化する過程を前提にした説である。つまり、連続性の概念によって支えられている。よって、ダーウィン批判は、地質学調査が示す不連続性によって巻き起こる。それは、最古の化石が堆積するシルル紀や、多様な生物が爆発的に出現したカンブリア紀を、どう説明するかにかかっている。
ダーウィンは、地質学的調査の不完全性を指摘する。種の絶滅は、隆起や沈降といった地質学的に保存の難しい状況で生じやすいために、連続的に移行する生物の連鎖を地質学に求めても難しいというわけだ。その信念は、「自然は飛躍せず」という自然史学の古い格言に沿っている。ただ、ちと言い訳じみていて、やや苦しく、かなりくどい言明を感じる。素人目にも、気候の大変動期が鍵になりそうなことは想像できそうなものだが...
そこで、ダーウィンをちょいと擁護してみよう。今では突然変異説ともうまく融和しているので、そんな必要もなかろうが、酔っ払いはお喋りよ...
社会学的、経済学的な観察において、連続性という概念に因われ過ぎるのは、現代とてあまり変わらない。人間の思考力は、記憶や知識といった元手を拠り所にするだけに、連続性とすこぶる相性がいい。その一方で、物理現象の多くがは離散的に生じるのも事実で、それは量子力学が示している。原子構造は、原子核の周りに電子が安定した軌道を描く。引力が一様に働けば電子は徐々に原子核に近づき、いずれ原子核に落ちそうなものだが、実際の電子軌道は整数倍で安定し、電子の存在数まで制限されている。電子に欠落が生じれば、化学反応を起こして安定状態へ戻ろうとする。そぅ、エネルギー状態には安定を求める性質があり、エネルギー準位は極めて離散的だということだ。だからといって、力の作用が離散的というわけではない。力が連続的に加えられながらも、状態遷移では離散的なのである。宇宙における物質分布にしても、均等ではなく、島宇宙や銀河といったクラスター化が生じる。気候の大変革もまた一夜にして起こる。The Day After Tomorrow... 映画の見過ぎか。
社会現象もまた離散的に生じる。革命や金融危機といった類いがそれだ。あれだけ巨大なソビエト連邦ですら一夜で崩壊した。社会学には、ティッピングポイントという用語がある。小さな民衆エネルギーがある閾値を超えた途端に、突如として大きな変化を見せる。今まで見向きもされなかった商品が、口コミによって突然売れ始めることだってある。人間社会では、出る杭は打たれる!の原理が常に働き、既得権益を守ろうとする種が変種への移行を拒み続ける。変種がとって代わるには、種の持つエネルギーの閾値を超えたエネルギーを蓄積する必要がある。微妙な変化を果たした中間的な変種が生まれては、既存の種によってすぐに絶滅させられる。
その一方で、種が限りなく数を増やせば、居場所を拡大するために、形質を分岐させていくしかあるまい。群れる習性が、狂った変種を多発させるのかは知らんが。その避けられない結果として絶滅が多発し、すべての生物は離散的に配列されることになろう。保存しようとする意志も、変異しようとする意志も、エネルギーの塊のごとく機能する。したがって、むしろ進化の過程が離散的であることが、自然淘汰説を後押ししている、と解するのはどうであろうか...
ところで、種と変種の違いとはなんであろう?人間の認識力では、多数派を種とし、少数派を変種とするぐらいなもの。少しぐらい疑問を持っても、多数派で安住する方が楽だ。一人の欲望が支配する独裁主義も恐ろしいが、多数派というだけで正義とされる民主主義も恐ろしい。ならば、頭がおかしいと言われるぐらいがちょうどいいのかもしれん...
「種とはきわめて顕著な特徴をもつ永続的な変種にすぎない。」

2. 性淘汰の原理
飼育下では、雌雄の一方だけに奇妙な特徴が出現し、その特徴が遺伝的に固定される例が多いという。性淘汰は、生存闘争ではなく、異性をめぐる闘争によって決まり、精力絶倫な雄がその場所で最も適合する個体となり、最も多くの子孫を残す。性の勝者だけに繁殖が許され、不屈の闘争心が武器となる角や爪、あるいは腕力を身に付けさせる。こうした形質的な差異が生じるのも、二次性徴の類いであろうか。ライオンの鬣のように見かけで脅す性質もあれば、人間社会では金銭や権威という空虚な武器も生み出される。雄どうしの戦いが熾烈を極めるのは、一夫多妻制への夢が隠されているのかは知らん。
その一方で、嬢王蜂に雄が群がる社会もある。性の同質化が進めば、雄の運動能力が雌に追い越されることもあろう。人間の種では、精神力や腕力で既に逆転した事例がわんさとあり、男性が子を産むという変異が生じる日が来るのかもしれん。
さて、雌と雄に分かれる生物は、子が生まれるにあたって、二つの個体がその都度結ばれることになる。それはそれで不合理に映るが、ことはそう単純ではない。交尾は単なる性的快楽を求めるためだけではない。奇妙なのは、雌雄同体の動植物でさえ受精が起こることで、究極の男女平等社会でもなさそうである。雌雄同体のカタツムリ、ミミズ、ヒルなど大部分のものは二個体間の交尾によって生殖する。遺伝子コピーのために二つの個体が協力しあうとは、何を意味するのか?死を運命づけられたものの生への執着か?いくら子供に夢を託したところで、親の言うとおりにならないのが人の世。
ただ、性淘汰の作用は自然淘汰ほど厳格ではないらしい。死をもたらすわけではないし、単に子孫を残さない選択をするだけ。しかも、二次性徴の変異性は高いという。生命の潜在意識には、命の保障付きで変身してみたいという願望でもあるのか?成長過程も個人差が大きい。人間では、女性の方が二次性徴の発現時期が早いとされる。こうした傾向は、精神的な作用も大きいだろう。子どもの頃は、女子の方が妙に大人っぽかったりする。
また、変異作用が大きいと、遠い祖先に逆戻りする形質も見られるという。しかも、失った形質を取り戻す傾向は、一時的な変種状態となるのではなく、何世代にも受け継げられるとか。人間社会にも、古典回帰といった文化活動が度々起こる。その代表はルネサンスだが、社会に幻滅すれば思想回帰も生じよう。
生命ってやつは、亜変種を試みては形質を戻すという作用を繰り返しているようである。変異とは、生命的危機とのリスクの大きさによって、必要なエネルギー準位で決まる現象とすることはできそうか。だとすると、生命的危機のないところでは、いくらでも変異が生じていることになる。個性ってやつも変異の一種であろうか。現代社会も亜変種の一つであろうか...

3. 退化の原理
「自然淘汰は、有益な変異をもつ個体は保存し、不利な変異をもつ個体は排除するという、生と死の使い分けで作用する。」
自然界とは、不要なものが淘汰されるという、そんな単純なものであろうか?少なくとも、その基準が人間の都合で決まるものではあるまい。不要そうに見える器官でも、そうでないかもしれない。確かに、身体の中で必要とされる部分の発達は著しい反面、使用されない部分は劣っていく傾向がある。人間の盲腸は小さく、不用の代名詞のような言われようだが、草食動物にとっては意味があり、そこに微生物を飼ってセルロースを分解させる。そして、微生物のたまり場を虫垂と呼んだりする。痕跡器官ってやつもある。本来の用をなさなくなった器官が、わずかに形だけが残しているような。尾骶骨が、それだ。
「一般に自然史学の研究書では、痕跡器官は "対称性を保つため" とか "自然の計画を全うする" ために創造されたものだという言い方がされている。しかしそれでは何も説明したことにならないと思う。単に事実を言い換えているにすぎないからだ。」
自然条件下よりも飼育栽培下の方が、変異がはるかに生じやすい上に奇形が生じる頻度も高いという。生殖機能は、生活環境の変化に影響されやすく、精神的に、肉体的に乱されると、変異も生じやすい。同じ種であっても、気候や気温の違いで血液の流れ方が違うだろうし、性格や運動機能も違うだろう。器官だけでなく生物体そのものの大きさも、住みやすいように相対的な関係から適切な大きさに保たれるだろう。恐竜が絶滅したのは、その巨大さにあるという説もある。地球の重力に対して、適切な重量と数というのがあるのだろう。
また、知覚能力は、生活環境の危険性との関係から生じる。洞窟や深海など暗闇で生活する動物は視力がほぼ消滅し、その代償に触覚や聴覚を発達させるといった変質をもたらす。アヒルが空を飛べないのは、飼育慣れしたからであろうか。視力や聴力が衰えるのも、恵まれた環境の裏返しであろうか。利便性にどっぷりと浸かれば認識能力を衰えさせ、なんでも周囲のせいにし、他人のせいにし、精神だけが旺盛になるのだろうか。仮想映像ばかり見慣れていると、そのうち実質が見えなくなるのだろうか...

4. 交雑と雑種形成
なぜ、かくも多様な生物が存在するのだろうか?その答えを求めて、ダーウィンは雑種形成にこだわる。このあたりも宗教的批判は避けられない...
雑種を作る簡単な方法といえば、遺伝的に異なる種どうしを交配させることであろう。しかし一般的に、異種間では雑種はできないとされるし、もしできたとしても、雑種個体には生殖能力がないとされる。トラの雌とライオンの雄の間のライガーや、ライオンの雌とヒョウの雄の間のレオポンは、いずれも不稔とされる。ラバやケッティも。それは、人工的に仕向けられたからであろうか?種間によって生殖的隔離があるかどうかは重要である。
ダーウィンは、新種が誕生するのは、既存の変種から独自性を獲得した結果だとしている。そして、雑種に生殖能力がないというのは、自然淘汰の直接的な作用ではなく、あくまでも二次的な作用だとしている。
では、生殖能力が保てる程度においての交雑はありうるのだろうか?人間と他の動物の交雑で子供が生まれるとすれば、ぞっとする社会となりそう。その一方で、血縁が近すぎると奇形が生まれやすいというのは、何を意味するのだろうか?異種間でも、適当に近縁で適当に離れているのが望ましいということはあるかもしれない。ちなみに、人間同士でも相性があるようだ。子供ができないからと相手のせいにして離婚すると、再婚してそれぞれの夫婦に子供ができたという話も聞く。なんのために離婚したのやら?子供を作ることだけが、夫婦の使命でもなかろうに。
それはともかく、自然淘汰説では、祖先が共通であっても、不稔性が生じることが重要だとしている。雑種が生存競争において不利となれば、雑種を作ることを拒む意識が働くだろう。しかし、雑種が有利となる場合もありそうなもの。それが、現存する雑種ということであろうか?偉大な生物史において、雑種が生じる現象も、既に安定時期にあるのだろうか?人間も、猿も、ゴリラも、過去の生物よりもちょいと有利な雑種というだけのことかもしれん。
一方で、植物には容易く交雑できるものがあるという。機能の抽象度という意味では、動物よりも植物の方が高等という見方ができるかもしれない。おそらく、動物よりも植物の方が先に繁栄した時代を迎えたであろう。生命力の逞しさでも、樹齢何千年と生きるものがある。余計な動きをせず、つまらないことも語らず、実にシンプルな生命体モデルだ。無駄な活動をしなければ縄張り争いで揉めることもないし、余計な存在感を示す必要もないし、精神の進化に集中できそうだ。交雑を受け入れる能力においても、多様性の受容能力は、植物の方がはるかに高等なのかもしれない。種子植物がミツバチに花粉を運ばせる受精モデルは、うまいこと動物を奴隷化している。しかも、本能を操って。夜の社交場に漂う美しい花びらや甘美な香りに惑わされるのは、動物の因果な習性よ...

5. 本能の起源
本能と習性は似ているが、起源が違うという。そう言いながら、ダーウィンはこの言葉の定義を諦めている感がある。古来、本能は先験的なものか?経験的なものなか?という哲学的論争がある。本能には普遍的な目的があるのだろうか?判断力の基底になっている直観も本能の類いであろうか?気まぐれとも、ちと違いそうか。習性は本能よりも経験的であろうか。
さらに、経験とはなんであろうか?記憶を根源にしているとすれば、DNAにも情報が記憶されている。本能と習性には、無意識の領域において類似点が多いような気がする。やはり、自然の意志と、人間の意志を区別せねばなるまい。本能とは、習性を昇華させた意志であろうか?もしそうだとすれば、習性を本能にする段階とは、直感を直観に昇華させるような過程であろうか?
習性は生活環境において育まれる。本能が習性の積み重ねから生じるとすれば、環境の変化によって本能もまた修正されるだろう。奴隷狩りや人種差別といった意志が、本能からきているとは思えない。だが、働きアリの奴隷振りはどうであろう?彼らに奴隷という自覚はないだろうけど。植物の意志がフィナボッチ数列や螺旋パターンを求め続ける一方で、人間の意志は十進数に囚われて金銭勘定を毎日繰り返す。こんなところに普遍的な意志が生じるかは知らんが、アリストテレスの生まれつき奴隷説も生あるものの宿命に見えてくる。自律神経系ですら自分の意志で説明できそうにない。自然淘汰説をもってしても、本能の起源を説明するとなると、やはり手強い...