Contents
- 2026-04-01 男と女の不平等物語...
- 2025-04-01 異次元めぐり... 俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ!
- 2024-04-01 リンゴの力学... 存在の重さは何グラム?
- 2023-04-01 堂々と冗談の言える日に、こっそりと嘘を論じてみる...
- 2022-04-01 心を握ります!気色わるぅ~
- 2021-04-01 賢者たちの結婚談義...
- 2020-04-01 ジョークの言える日に、真面目にファルス論でも...
- 2019-04-01 人生の操作性は、軽いアンダーステア...
- 2018-04-01 超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...
- 2017-04-01 今年は2017年... トリ返しがつかない上に、酉年なんて申します...
- 2016-04-01 2016年さるどし、いまだ進化の道は遠ごザル...
- 2015-04-01 まったく動かない時計と1日1分遅れる時計では、どちらが良い時計か?
- 2014-04-01 大きな愛... 小さな気持ち...
- 2013-04-01 史上最強の哲人「じゃりン子チエ」
- 2012-04-01 永遠の夢想郷発見!それはハーレムであったか!
- 2011-04-01 泥酔論的弁証法による「神の実存証明」
- 2010-04-01 「勝ち逃げの死神」と呼ばれた雀士
- 2009-04-01 酔っ払いの持つ合理性とは
- 2008-04-01 "困ります、ファインマンさん" Richard P. Feynman 著
- 2007-04-01 "ご冗談でしょう、ファインマンさん(上/下)" Richard P. Feynman 著
2026-04-01
男と女の不平等物語...
2025-04-01
異次元めぐり... 俺に言わせりゃ、ロマンに欠けるなぁ!
2024-04-01
リンゴの力学... 存在の重さは何グラム?
2023-04-01
堂々と冗談の言える日に、こっそりと嘘を論じてみる...
2022-04-01
心を握ります!気色わるぅ~
物理的には、脳の中に位置づけられると思われる。おそらくそうだろう。そうに違いない。
しかし、人が「心」と言うと、胸を押さえる。つまりは、ハートを。つまりは、心臓を...
心のサイズは分からなくても、心臓のサイズなら分かる。重さも分かる。画像診断もできる。なによりも鼓動が、その存在を実感させる。これを握ります!ってか。気色わるぅ~
そして、トロを握られ、鯛を握られ、穴子を握られ... これが、あなたの心です!なんて、えげつなく言われた日にゃ、かっぱ巻きにしてよ...
そもそも、そんな証明は可能であろうか。人間ってやつは、心の正体を知らなくても、それがあるかのように振る舞うことができる。考えてみれば、凄い芸当だ!
それは、心というものを、おぼろげにでも定義できるからである。ならば、定義できるものすべてが存在するってことか。ユニコーンは定義できる。ゴジラも定義できる。そんなものが本当に存在するというのか?いや、存在する。少なくとも、ぬいぐるみもどきが。心なんてものは、ぬいぐるみのようなものであろうか...
オートマタにも、ホムンクルスにも、向こうがどう思っていようが...
犬型ロボット AIBO は子供たちの人気者。ちょいと故障して足を付け替えようものなら、子供は虐待しているかと思い、大人を白い眼で睨みつける。だが、こいつはロボットだ。
映画「ターミネーター」では、シュワルツェネッガーの腕を切るシーンに目を覆う。だが、こいつもロボットだ。いや!シュワちゃんの腕だから気色わるぅ~
心の存在証明とは、心を定義すること。心を定義するということは、人間を定義すること。そして、定義した通りに振る舞えば、そこに存在することにできる。考えてみれば、凄い芸当だ!
... Q.E.D.
2021-04-01
賢者たちの結婚談義...
今日、四月一日...
小雨ちらつく中、しとしとぴっちゃん気分でお決まりの古本屋を逍遙していると、本棚の奥で、なにやら「談義の幕」が開いた様子。
それは、ソクラテスの言葉に発した。
「とにかく結婚しなさい。良妻を得れば幸せになれるし、悪妻を得れば哲学者になれる。」と...
そして、クサンティッペは思いっきり偉大な悪妻を演じきり、夫を思いっきり偉大な哲学者に仕立て上げたとさ。よっ、良妻賢母!
「歳をとったら女房の悪口を言っちゃいけません。ひたすら感謝する。これは愛情じゃありません。生きる知恵です。」
... 永六輔
まず、キェルケゴールが口火を切った。
「結婚だって!?君は結婚しなかったことを悔やむだろう。そして結婚すればやはり悔やむだろう。」と...
ヘンリー・ルイス・メンケンは断じた。
「真の幸せ者は結婚した女と独身の男だけよ!」と...
フランシス・ロッドマンは独り酒瓶に向かってぼやいている。
「結婚とは、花屋に払っていた勘定が、乾物屋に回っていく過程のことよ。」と...
釣られて、シリル・コノリーが愚痴る。
「孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ。」と...
ラ・ロシュフコーは自ら慰めている。
「よい結婚はあるが、楽しい結婚はない。」と...
モンテーニュは閉塞感を漂わせている。
「結婚は鳥カゴに似ている。外にいる鳥は必死に入ろうとし、中にいる鳥は必死に逃げ出そうとする。」と...
エルバート・ハバードは教育論まで持ち出す。
「女を教育してやろうと思って結婚する男も、また、男をよくしてやろうと思って結婚する女も、共に同じ間違いの犠牲者になる。」と...
ベンジャミン・フランクリンは、彼らに助言を与えている。
「結婚前は両眼をぱっちり開けてよくみるがよい。しかし、結婚後は片眼を閉じたほうがよい。」と...
ソーントン・ワイルダーも応酬に加わる。
「結婚生活の最良の部分は喧嘩である。あとはただ可もなく不可もない。」と...
そしてついに、バルザックは悟ったのだった。
「あらゆる人智の中で結婚に関する知識が一番遅れている。」と...
結婚に関する名言は枚挙にいとまがない。これほど所有の概念と強く結びつくものがあろうか。所有とは、支配欲の源泉。結婚(けっこん)と血痕(けっこん)が同じ音律なのは、偶然ではなさそうだ。運命の糸が血の色というのも...
談義の締めくくりに、サマセット・モームが所見を述べた。
「結婚はすばらしいことだが、結婚という習慣をつけたことはミステイクだと思う。」と...
そしてついに、寡黙なニーチェが重い口を開いた。
「偉大な哲学者たちの誰が結婚したというのか!?ヘラクレイトス、プラトン、デカルト、スピノザ、ライプニッツ、カント、ショーペンハウアー... 彼らは結婚しなかったではないか。のみならず、彼らが結婚する姿を想像することすらできない。結婚した哲学者は喜劇ものよ。これは私の教条だ。そして、ソクラテスのあの例外はどうかと言えば... 意地の悪いソクラテスのことだ。わざわざこの教条を証明するために、反語的に結婚したらしい。」と...
おやおや!なぜか?この場にアリストテレスの姿が見当たらない。友より真理を愛した彼なら、なんと答えるだろう。Philosophia... 哲学の語源は、「知を愛する」ということ。哲学者ときたら、これほど貪欲な人種が他にあろうか。金や名声なんぞでは満たされない。愛情や憐憫なんぞでも満たされない。もっと高次な、もっと高尚な、もっと崇高なものを貪り... そして、真理という幻想に憑かれ、疲れ果て、死んでいったとさ。
そして、劇作家ビバリーニコルズのピロートークで「談義の幕」は閉じた。
「結婚... 第一章は詩で書かれ、残りの章は散文で書かれた一冊の本。」
今日、四月一日。酔いどれ天の邪鬼は、賢者たちに屁理屈屋の末路を見たのだった...
2020-04-01
ジョークの言える日に、真面目にファルス論でも...
今日、四月一日は、堂々とジョークの言える日。巷では、そういうことになっている。
しかしながら、エイプリルフール禁止令をあちこちで見かける昨今。フェイクの拡散が日常茶飯事となれば、あえて、そんな日をつくる必要もないか。毎日がエイプリルフールなら、まったくおめでたい世の中。冗談の言える日ぐらい、真面目に語ろう!いや、エイプリルフール禁止令そのものがジョークということもある。
現代語辞典では、ジョークの定義も随分と変容したようだ。真面目に語って笑えるなら、それこそ真のジョークなのやもしれん...
「笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである。」... ニーチェ
世間では、笑いよりも涙の方が高尚とされる。だが、人間の情念は涙を誘うよりも笑いを誘う方がはるかに難しい。悲しみには人類の共通観念があり、死や命の儚さを匂わせればたいてい涙を誘う。
一方、笑いほど文化や慣習に影響されるものはない。笑いは否定をも肯定する。おまけに、涙をも乗り越える。故に、戯作をもって笑劇を演じることが、高尚な生き方ということになろうか。今日では、苦悩を笑い飛ばす能力が問われる。人間の滑稽を見て、これを笑い飛ばせるかどうか。これこそ真の道徳論なのやもしれん。少なくとも、理性をストレス解消のために用い、いつも憤慨する道徳論者よりはましか...
「人が死んでも、人生は依然として可笑しく、人が笑っても、人生は依然として深刻である。」... バーナード・ショー
笑いの世界にも、大衆の目には晒してはならない領域がある。大衆は臭い。どんなに良いことでも、同じことをする人が多すぎると、なにかと問題になるのが人間社会。どんなに良い人でも、集まりすぎると集団的悪魔に変貌する。俗人どもが、こぞって自己肯定に奔走しているのに対し、芸術家どもは自己を侮辱することによって自我の魔術性を露わにする。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうる。芸術精神は自己の滑稽に発し、自己の風刺によって自らの悪魔性を炙り出す。自己否定に陥ってもなお愉快でいられるなら、真理の力は偉大となろう...
「ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、怒りであれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。」... 坂口安吾
パスカルが言ったように、人間は狂うものらしい。狂わなければ、まともな笑いにもありつけない。人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、武士の仮面をかぶれば武士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であれば生きる糧とし、いかに達者を演じきるか。人間なんてものは、物狂いを演じながら生きるぐらいの存在か。自己を見つめているだけで自然に笑みがこぼれる... そんな人生はいずこに...
「人生は近くで見れば悲劇だが、遠目に見れば喜劇である。」... チャールズ・チャップリン
2019-04-01
人生の操作性は、軽いアンダーステア...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...
すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。
知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。
そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...
2018-04-01
超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...
ポータルサイトを訪れては、右から左へ流れていく情報の群れ、群れ、群れ... そして、じっと手を見る。我、退屈なり!
物憂い小春日和が、すべてを物語っているではないか。劇的なドラマなどあろうはずがないと。ちょっとした変化に期待しても、想定外の変化は迷惑千万!最後の砦を頑なに守ろうと必死だ。自我という砦を...
すべてを曝け出し、自然体でいることが、如何に難しいか!これを素直に実践できれば、思考の柔軟性を富ませるであろうに...
おいらはポーカーフェースが苦手だ。シリアスな顔は1分ともたない。慣れない筋肉を使えば、顔の筋肉がつる!自然体を体現するには、まずは力まないこと。まずもって自己を欺瞞しないこと。だが、自分に嘘をつかないで生きることが、如何に難しいか!そもそも嘘をついていることに、自分自身が気づかないでいる。
むかーし、ノーパン喫茶というのがあったと聞く。ノーパンしゃぶしゃぶってのも耳にした。そんな専門用語を羅列されても、おいらには何のことやら?まったく縁がない!決してない!断じてない!
ちなみに、「忘れっぽい嘘つきほど、気の毒なものはない。」とは、F・M・ノールズの言葉だ。
自己とはなんだ?交通事故の類いか?欺瞞とはなんだ?銀杏の類いか?夜の社交場で出会い頭に店に入ると、いつも乾き物をつまんでいる。
すべてを曝け出し、自然の姿のままでいることが、如何に難しいか!いくら仕事場が完全個室で、生まれたままの姿でいられるとはいえ、玄関のチャイムが鳴るとパンツを履くのに大慌て。実に果敢ない!思考が集中していれば、我を忘れてスッポンポンでお出迎え。その時に限って女性のセールスときた。いや、セールスお断りを強烈にアピールできれば、OK!ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない!
1. フル思考とフルチン志向
ゲシュタルト崩壊を起こした今、夢も現実もごっちゃ。妄想に耽り、妄想が妄想を呼び、妄想の産物が煩悩を神格化させる。それでもなお、ナマの女体に遠く及ばないとは、どういうわけだ?
思考を自由に解放することが、如何に難しいか!思考の制御は実に手強い。集中力ってやつは、いつも気まぐれときた。思考の方向性を誘導することはできても、難題を本当の意味で解決するためにはフル思考を要請する。最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろう。無我の境地に達することができれば、雑念が完全に消え去り、時間や空間を超越した快楽へ導かれる。
ただ奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間は、思考しようという思惑から解放された場面に遭遇する。トイレで遭遇するという人もいるが、おいらの場合はお風呂!気分転換にスパでオイルマッサージを受けていると、突然解決策が頭に浮かび、メモに走る。かのアルキメデスには、叫びながら浴場から素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。ヘウレーカ!フル思考とフルチン志向はすこぶる相性が良いと見える...
2. 裸体族を夢見て...
かつて人間社会は自然界の一員であった。現在もそうなのかは知らんが、自然回帰への憧れとして、ヌーディスト祭りなるものが出現した。それは、現代社会がもはや自然には戻れないという絶望感の現れか?どこかに人工的文化に歯止めをかけないとまずいとの考えからか?ナチュラリストと呼べば聞こえはいいが、ヌーディストと呼ばれると赤面しちゃう。
自由な身体の文化は、十八世紀末にドイツで始まったと聞く。それは、工業化や近代化に反発する形で現れた。その伝統は、1927年に公開されたサイレント映画「メトロポリス」に通ずるものがある。近未来批判ってやつだ。ナチス時代に廃止されるものの、その後、アーリア人の身体を語る文化として復権したらしいが、七十年代の旧東ドイツで盛んになったとか。FNN ビーチなどは伝統精神を守っているようで、一度誘われたことがあるが、その精神が健在とはいえ、若者離れが進んでいるとも聞く。
やはり生まれたままの姿は、自然とすこぶる相性がいい。家の中でもフルチンでいたいが、家族がいればそうもいかない。一人暮らし時代の、あのぶーらぶらな生活が懐かしい...
3. 自然学は、やめられまへんなぁ...
天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
アリストテレスは、「自然学」という大作を成立させ、形而上学を第一の哲学、自然学を第二の哲学とした。彼の運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発しており、実際、物質的存在を強烈に印象づける物理量が「重力」ってやつだ。命の重さを問うたところで、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。ひたすら自己存在の重さをアピールし、女性は天空の聖母に憧れて体重計の御前で存在の軽さを演じる。人間ってやつは、なにごとにも存在を意識した途端に、その存在意義を求めてやまない。そして、精神という得体の知れない存在を、形而の上に位置づけるのである。人間の存在が自然界の合目的に適っているか?って、そんなことは知らんよ。
そういえば、ある作家が、こんなことを言ったとか、言わなかったとか...
さて、諸君は自然哲学者と宗教家との違いをご存知だろうか。自然哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、真理が見つからないと嘆いては、弁証法級の屁理屈を並べて自己満足に浸る連中。宗教家とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、それを見つけたと豪語しては、信じる者は救われると吹聴して回る連中... と。
ちなみに、「信じる者」と書いて「儲かる」となる。自然学にせよ、信仰にせよ、やめられまへんなぁ...
「満足は、自然の与える富である。贅沢は、人間の与える貧困である。」... ソクラテス
「自然によってつくられた、人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって、人間と人間との間にできるものである。」... ジョン・アダムズ
「すべては自然が書いた偉大な書物を学ぶことから生まれる。人間が造る物は、すでにその偉大な書物の中に書かれている。」... アントニ・ガウディ
2017-04-01
今年は2017年... トリ返しがつかない上に、酉年なんて申します...
朝っぱらから場末の角打ちで一杯ひっかけていると、角の隅っこで酉年のお人が何やらつぶやいている。
2017年は、酉年!
とは申しましても、鳥のごとく大空へはばたくことも叶わず、コケコケコッコと騒ぐが精一杯!人生に説得力なければ、言葉に信憑性ともなわず、いくつになっても、まったくヒヨコのままのチキン野郎でして...
ところで、人間の身体って、すべて金でできてるって言われまんなぁ。
頭は頭金、眼は元金、借金の肩に手つけを払って、耳は揃えて返しまひょ。足はお姉ちゃんの足代、鼻は芸者遊びで花代、そして、指は高い高い指名料とくれば、へそくりでもしてお腹を温めなはれ。宮仕えは首にでもなったら、ワヤ!おまけに、酉年には借金とりに追われ、首が回りまへん。ベンジャミン・フランクリンという人は、うまいこと言いなはる...
「お金と人間は持ちつ持たれつ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる。」
シメを飾るは真打ちでして、これを「とりを務める」なんて申します。人生のとりを飾るは、トリカブトでっか。夫婦喧嘩もほどほどに。終わりよければすべてよしと申しまして、人生をどう完結させるか苦心する次第。ただ、とり返しのつかない上に、これを世間では酉年と申します。神も仏も無情でんなぁ。バーナード・ショーという皮肉屋がうまいこと言ってましたわ...
「人が死んでも人生は滑稽であり続け、人が笑っても人生は深刻であり続ける。」
現世に幻滅しつつも、一月一日ともなれば、新年明けましておめでとう!なんて皆々合言葉を交わしよる。せめて年明けぐらいは夢を見ていたい!というのが本音でありましょう。
一方、四月一日は、世間ではエイプリルフールなんて申しまして、堂々と冗談の言える日ということになっておりますが、実は、本音が存分にぶちまけられる日のようでんなぁ。ただし、嫁さんへの本音は、保険金を惜しまず掛けてからにしときなはれ。コミュニケーションには言葉のキャッチボールが大切なんて申しますが、すぐさま言葉のドッジボールと化し、やがて言葉のビーンボールが頭をかすめよる。
ちなみに、完璧な仕事料の相場は、300万ドルと聞きましたわ。ゴルゴ13... 奴を狙撃しろ!
ジョージ・ムーアという人は、うまいこと言いなはる...
「現実は夢を壊すことがある。だったら、夢が現実をぶち壊したっていいではないか。」
2016-04-01
2016年さるどし、いまだ進化の道は遠ごザル...
隣人が太ると、嫉妬深い人は逆に痩せてしまう... とは、ホラティウスの言葉だ。
嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難だ!... とは、ラ・ロシュフコーの言葉だ。
自己に欠点がなければ、他人の欠点を探そうとはしないはず。嫉妬に理由なんぞない。単にストレス解消の手段とするだけだ。そして、自我の激情に疲れ果て、精神をまいらせてしまう。自業自得ってやつだ。
とはいえ、妬み、怨み、辛みの類いは、人間の情念から永遠に葬り去ることができないだろう。それが進化の糧となってきたのだから...
今、ラジオから嗚咽を帯びた BGM が流れてくる。中島みゆき... うらみ・ま~す♪
猿が読むのだと思って書け!... とは、福澤諭吉の言葉だ。しかし、書く側が猿ではしょうがねぇなぁ...
2015-04-01
まったく動かない時計と1日1分遅れる時計では、どちらが良い時計か?
鏡の向こうの住人で、容姿端麗、理知でリッチな紳士が、腕組みをして思い悩んでいる様子。ただ、なぜか顔が赤い!?その御仁が申すには、でけぇツラした餓鬼を連れて冥府魔道を生きる浪人風情が、なにやら問いかけてきたという。
「ところで、其処許に尋ねたい。まったく動かない時計と1日1分だけ遅れる時計では、いったいどちらが良い時計であろうか?我ら親子、この問いに答えんがために冥府魔道に入り申した。しかるに、其処許のその目はありありと軽蔑の色を浮かべておる。先刻の女人はそうではなかった。真摯な瞳をしておられた。よいか!心して聞かれよ!
女人はこう申しておった... 1分ずつ遅れる時計は2年に1回しか正確な時間を示さないが、止まっている時計は1日に2回ずつ正確な時間を示す。したがって、止まっている時計の方がよい時計だと...
しかし、それが正確な時間であると、どうして知ることが叶うであろう。時計は始終同じ時間を指しているというのに...
あぁ、分からん!いかようにしても、分かり申さん!参るぞ巨大五郎! ~ ちゃん!」
... うる星やつら「第百鬼話、ダーリンが死んじゃう!?」より抜粋。
それでは、世俗邪道を生きる酔いどれ風情が、答えてしんぜよう...
人間認識とやらは、相対的な運動によって生じるもの。静止を感知したところで、周りの運動を基準にしながら静止を定義しているに過ぎず、いまだ人類は絶対静止なるものを知らぬ。
さて、時計とは、なんであろう?その定義について思慮すると、今宵も眠れそうにない。正確な時刻を示す道具とするならば、どちらも役には立つまい。だが、ちょいと視点を変えて、時の間隔を測るものとしたらどうであろう。例えば、湯を沸かす時、程よい頃に火を止めたいといった場合。動いているものであれば、なんとか役に立てそうである。
1日1分遅れるということは、再び正しい時刻を示すためには、長針と短針が共に整数周回分の遅れを示す時。長針だけでも、60日間(= 1日 x 60分)は狂いっぱなし。そこに短針がうまく出会う最も身近な機会は、720日後(= 60 x 12)に訪れる。つまり、約2年間で正規の時間と同期する計算だ。
しかしながら、1日をきっちり24時間で定義する必要が、どこにあろう。単位系が狂っているなら、別の単位系で定義し直せば良いだけのこと。結局、人文(じんもん)の都合で決まる。いや、天文(てんもん)の都合か。せいぜい言えることは、ある規則性が別の規則性と馴染むかどうかということぐらい。時間ってやつは、周期的な繰り返しに過ぎず、そこに何の根拠が求められよう...
一方で、人間精神とやらは、せわしい日常において静謐、静穏、静寂といったものに安らぎを求める。絵画や美術品には静の魔力が宿り、巨匠の手にかかれば、静の手段を持って動よりもはるかに動的な物語を語らせる。おまけに、心臓の鼓動が絶えず動いている俗界の生は、冥界の静に恋焦がれてやがる。人が死を恐れるのは、それが得体の知れぬ静止というだけのことであって、死への衝動はやまない。その証拠に、裕福な暮らしをしてもなお自殺しおる。あるいは、熱中したり、エクスタシーを得たりすると、時間が止まったようだ!と表現するのは、そこに真理が隠されているからかもしれん。
ここで、静止を再定義しておこう...
それは、相対的に自我と同化した状態、之即ち、ホットな女性の膝枕という神聖な地に脳の居場所を与えた状態なのじゃよ。
ちなみに、目の前にあるアバンギャルドな置時計は、書類が風で飛ばぬよう重石として重宝しておる。電池が切れて何年も動いていないというのに。地球儀を形取るボディラインと重量感が、妙に色っぽいのでごじゃるよ!
かくして俗界の酔いどれには、あぁ、分からん!いかようにしても、分かり申さん!
... ハーレム星のひめごと「第四十八手話、女王様にやられちゃう!?」より抜粋。
2014-04-01
大きな愛... 小さな気持ち...
1オクターブ低い声で... 君に酔ってんだよ!(小さな気持ち = 手抜き記事)
Copyright(C) 2014年4月1日限定 "ピロートークに翻弄される男" All Rights Reserved.
本日四月一日、某出版社から地域限定で「大きな愛の指南書」が発行されると聞いた。さっそく書店に行くも、既に売り切れ!この幻の指南書は永遠に手に入るまい...
男運のない女のことをカンガルーが笑う!って言うんですって。
「警部補・古畑任三郎スペシャル 笑うカンガルー」より...
2013-04-01
史上最強の哲人「じゃりン子チエ」
「ウチ、誰やと思うてるねん!ただの不良少女やないで、テツの子供やで!」
「おとなの相手して、いつも傷つくのは少女の方やねん!」
赤貧チルドレンと呼ばれ、小学生にして経営者、そして、父親の保護者。そこには憧れの少女像がある。おいらも、テッちゃんになりたい!そして、朝っぱらからホルモンと純米酒を喰らうのであった...
1. 不幸の法則
「うちのオバアはん、嫌なこと頭こぶりついたら運動したらええ言うとった。運動してくたくたになったら、嫌な事もくたくたになるんやて!」
オバアはん「長いこと生きてますとな、ほんまに死にたいちゅうことが何回かありますのや。そういうとき、メシも食べんともの考えると、ロクなこと想像しまへんのや。
おまけに、さむーい部屋で一人でいてみなはれ。ひもじい、さむい、もお死にたい、これですわ。
いややったら食べなはれ、ひもじい、寒い、もお死にたい、不幸はこの順番でやってきますんやで。」
ヨシ江「一人で生きてゆけるなんて思ってると、辛抱せなあかんときに辛抱がきかんようになったりもするんよ。」
地獄組のボス「おまえはチルドレンやから今の苦労が後々ビクトリーしちゃうこともある。そやけど、ワシらみたいに年がオールドしちゃうとなあ、もお人生のレースにカンバックできんのや。...
人間がびびる時はなぁ。なんか守るものがある時なんじゃ!」
2. 大物の悩み
テツ「わし!今、大物として悩んでるんや!」
チエ「どこが大物やねん!裸になって踊ったくせに!しらふで踊ってたん鉄だけや!」
テツ「しらふでやれるから大物なんや!酒飲まんとやれんような奴は根性なしや!」
...
テツ「知らんかった!大物て退屈やなぁ!ひょっとしたら、わし友達おらんようになったんとちゃうか。...
金がのうて退屈やったら、死にたなるなぁ!」
チエ「そやけど、悩んでるみたい!」
花井「悩んでるんやない。悩み方、知らんから困ってるんや!」
花井「なあ、なんとなく形がぎこちないやろ!」
チエ「ヤクザな金は身につかんてオバアはんがゆうとったど」
テツ「金を差別すな、バチあたりが」
テツ「女房に逃げられるのを恐れて男が勤まるかい!」
チエ「テツ、あんまりアホに自信持ってると風邪ひくど」
3. 猫の人間観察
小鉄「あり余るシアワセは、時として苦痛を伴うものなのさ!...
人間と付き合うと苦労するよ!」
小鉄「ヤクザ(テツ+お好み焼き屋) + 警察 = ?」
ジュニア「かっこがはいると難しいな、テツがお好み焼きをくいすぎると豚になるど。」
小鉄「それや!二人とも豚箱行きや!」
2012-04-01
永遠の夢想郷発見!それはハーレムであったか!
ヘシオドスは問うた... 死を運命付けられた者どもにとって、幸せとは何か?
ホメロスは答えた... そもそも生まれてこなければ、幸せであったろうに。
ヘシオドスは問うた... 生まれたからには仕方があるまい。
ホメロスは答えた... ならば、生まれてから一刻も早く地獄へ落ちることじゃ。
ヘシオドスは問うた... そう悲観せずとも、生きることで祝えることが何かあろう。
ホメロスは答えた... 美酒に酔い、美女に囲まれ、愉楽の極致を尽くすこと。そぅ、永遠の夢想郷ハーレムじゃ!ハーレムじゃ!
こうして、ヘシオドスはホメロスに帰依していった。だが、ホメロスが死に顔を曝すと、ゴージャスな夢が泡と消えちまったぜ!と愚痴ったとさ。
この対話篇の教訓は、幸せとは夢を見ている間だけということであろうか?夢が実現した瞬間から不幸が訪れる。そして、新たな夢を模索せずにはいられない。幸せとは麻薬中毒ごときものかもしれん。
精神を獲得した知的生命体は、思惟するように運命づけられる。思惟するからには絶えず悩みに襲われる。悩みは...避けても、避けても...やはり悩みならぬものが悩みとなる。まるで悩みの無限地獄!悩みがないことまで悩みにしてしまうのであれば、もはや救いようがない。
一方で、幸せとはあらゆる犠牲の上に成り立っている。裕福な社会を実現するために、目に入らない領域に餓死する社会を形成する。いまや経済格差なしに経済循環は成り立たない。不完全な遺伝子コピーのいたずらが、普通には生きられない人々を創出する。夭折の運命を背負う人、生命維持装置に頼るしかない人...どうしても避けられない量子論的確率に支配される人たちがいる。神はサイコロを振らない!というのは本当か?自然災害とは、まさに神のいたずらよ。「自然災害」という言葉も奇妙だ。自然は単なる変動現象に過ぎないのに、人間はこれを災いと解したり、神の怒りと解したりする。そのくせ自然の恵みには、自己の能力を認める。痴呆症や障害者を社会の隅っこに追いやり、親戚連中からも不幸のレッテルを貼られる。そうなると天災も人災となる。
いまや、孤独死も珍しくない。女優大原麗子が孤独死したと報じられたのはいつだったか。これほどの著名人までも。CMのフレーズ「すこし愛して、なが~く愛して!」は、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。
孤独死を覚悟し、共同墓地に入ることを覚悟し、そんな覚悟と死ぬ瞬間まで葛藤する人たちがいる。そんな覚悟を自然に受け入れられる境地に達してこそ、何かが見えてくるのかもしれん。死して屍拾う者なし...
地球上の生命体において人類の繁殖だけは限りがない!なんてことはないだろう。極端な増殖は絶滅を早めるかもしれない。となれば、普通という価値もいずれ逆転するだろう。歴史を振り返れば、価値観が逆転することはよくある。幸せな家庭を自慢したところで、幸せな悩みを披露したところで、その裏で犠牲になっている人々の存在に誰しも気づかない。有徳者でさえ幸せの押し売りをする。善人なおもて往生をとぐ...とは、そういうことであろうか。そして、無神経なアル中ハイマーは、幸せを謳歌しながらますます口が悪くなるのであった...
人間社会では、愛こそが最高善の幸福へ導くものだとされる。あらゆる情念の中で愛だけが特別扱いされる。ヘシオドスは、エロス(愛)をガイア(大地)と同等、すなわちカオス(混沌)から生じた原初の神とした。主神ゼウスですらエロスに惑わされ、あらゆる美神と交わる。なるほど、雷オヤジよりも権威がありそうだ。神々の世界から現世の世界に移ってもなお、友愛者や博愛者どもが勢いづく。
しかしながら、愛は憎との関係から生じる。愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。人間は、本能的に人を愛し、物質を愛す。いや、肉欲や物欲の方がはるかに優勢か。ただ、愛にも様々な種類と段階がある。人間の愛は、なによりも自愛が優先される。実存論的な思考では、肉体である固体にはなんの意味もないとし、魂の不死を唱える。だが、そこに自愛が絡むと不老不死の媚薬を求める。
一方で、プラトンは、最高愛を具現する者を、知性や知識を愛し求める者、すなわち愛智者とした。修行僧たちは、あらゆる苦行を試しながら自ら肉体に試練を与え、精神の高まりを求める。日夜、見返りを求めず、知識を求める努力をするのも精神修行に似たり。となると、自虐に追い込むことで、自愛を悟ることができるのだろうか?
しかし、どんなに優れた知識を身に付けても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。有識者どもは、それは考え過ぎ!と悩める子羊たちに助言を与える。それも一理ある。分かった気になるぐらいが、もっとも幸せであろうから。だが、考え過ぎとして思考を止めるのであれば、知識が知性へ昇華することは期待できない。
いくらリスクを嫌い、いくらギャンブル的な生き方を嫌っても、人生の方から次々に判断を迫ってくる。ギャンブルってやつは、勝てると自信を持っていても負ける場合がある。おまけに、負ける予感はほぼ確実に的中しやがる。それは、心のどこかでいつも不幸を想定している証しであろう。人生というギャンブルを生き抜くには、知性や知識を蓄えることをいつも心がけながらも、なお、自分の直観に頼るしかない。いわば、知性とは直観力を磨く術!ということになろうか。
たとえ人生の敗北者であっても、世間にそう言われようとも、永遠の夢までは誰にも否定できまい。では、永遠の夢とは何か?世間が言うように愛が最高善であるならば、愛を金で買うことこそ、最も有意義な金の使い方ということになる。酒に溺れ、女に溺れ、そして、自惚れる。どうして女たちは、こんなにも優しくしてくれるのか?世間が彼女らに冷たいからか?小悪魔たちが席を取り囲み、よってたかって、人見知りの強い、赤面した気の弱い男を、廃人へと誘なう。俗世間では快楽に耽ることもまた悪とされるが、永遠に続けば享楽地獄となる。怠惰に浸ったところで、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は...避けても、避けても...やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、怠惰にせよ、人間にとって持続とは最も縁遠きものかもしれん。凡人は享楽ですら挫折を繰り返す。天才の能力とは、持続する力であり、執念の力であろうか。
いや、凡庸未満の泥酔者にだって永遠に愛する自信はある。ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。そこで、無理性なアル中ハイマーは純粋な平等主義を悟る。それは、ホットな女性の数だけ愛があるということさ。
おっと!例のごとく桜祭りの案内状が届いた。そして、知的なボディラインを求めて和服見学と洒落こむのであった...
2011-04-01
泥酔論的弁証法による「神の実存証明」
「四海王矛盾 梅原酒」なんじゃこりゃ?梅酒も原酒となると強烈やなぁ...その酔いっぷりは、矛盾というやつと戯れたい気分にさせやがる。
ところで、精神の問題を分析する論理的態度に弁証法なるものがある。もし、この世に矛盾の概念が存在しなかったら、弁証法という思考方法そのものが成り立つだろうか?
[大前提]
「アルコール度数とは、精神の破壊度数を意味する。ゆえに、スピリタスを飲むと96%の人格が失われる。」
これが世に言う「スピリタス効果」というやつだ。
[小前提]
「矛盾ほど心地よく酔えるものはない。だから、アル中ハイマーはアンチノミーちゃんのファンである。」
ちなみに、外人パブのお姉ちゃんの名前ではない。
[正命題]
「完全なる神は存在しない。」
人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間はただ生まれて死んでいくだけの存在でしかない。となれば、人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。しかし、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら認識することができない。認識できるとしたら、自らの生まれる瞬間や死ぬ瞬間の前後を認識できることになるからである。いや、もしかしたら死ぬ瞬間を認識できるのかもしれない。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけのことかもしれない。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として生活保護が受けられずに餓死する事例がある。昔々楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪も自殺もしないわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした者が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神が成長する可能性を示している。寿命が延びたからといって、現代人の精神成長が古代人より優れているわけではない。昔の特攻隊員の残した遺書を読むと、とても10代や20代の青年とは思えないほど、言葉に力がある。むしろ死と背中合わせに生きている方が、精神力を発揮するのかもしれない。
スピノザは、理性と知性で鍛錬すれば、死をも恐れぬ崇高な精神に達することができると語った。それは、時間との闘いであり寿命との闘いである。人間は、死に至るまでの時間を自我の空間と結びつけながら生きている。そして、気になる存在に対して重力や時空の歪みを感じている。精神という無形化した世界では、虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神は泥酔していくのを待つのみ。人生とは、無力な存在を思い煩いながら、寿命という刑を務めるようなものだ。
しかし、人間は「忘れる」という最高の能力を持っている。怖ろしい結末を知りながら、それを一時的に忘れ、今という瞬間に価値を見出すことができる。この能力は神ですら敵わない。おそらく神は、それができないために慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから、つい魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。神は後悔しているだろう。そう、神ですら完全ではなかったのだ!神でさえ自らの能力に限界があることを悟っているのかもしれない。
- Q.E.D.
[反命題]
「完全なる神は存在する。」
スピノザは、真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならないと語った。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはず。なのに宗教は、神はすべての人間を愛する!と教える。なんと不合理であろうか。神がどんな罪人でも愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するだろう。どんな暴力も、どんな残虐も、すべてを愛してくれるのだから。したがって、宗教に憑かれた地域ほど紛争が多いのも道理というものである。
「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈るということは、神の意志を自己のエゴで支配できると考えているようなものだ。天災が発生するたびに神が罰を与えたなどと考えるのも、神の意志を人間が理解できると宣言しているようなものだ。もはや、神の存在を否定している。こうした矛盾する行動様式によって精神が不安から解放されるならば、それもよかろう。神は人間を救済するために、どうしても矛盾の概念を必要としたのだ。暴走する不完全な生命体ですら救済してくれるとは、神の寛容さは完璧である。神の創出した矛盾の概念は、人間の認識できる完全性や不完全性といった区別すら抽象化してしまうような純粋完全性を意味している。
宇宙空間はあらゆる対称性に見舞われる。対称性の原理が真理だとすれば、不完全な人間に対して、完全なる神が存在しても不思議ではない。
- Q.E.D.
[帰結]
「人間は、何事も解釈することができても、永遠に理解することはできない。」
それは、相対的な価値観しか見出せない生命体の宿命である。神が不完全だから不完全な生命体を創出したのか?それとも、神が完全だから不完全な存在ですら寛容でいられるのか?いずれにせよ、人間の解釈はご都合主義と有難迷惑主義に支配される。これが精神の基本原理である。
「信じる者は救われる」とは、宗教の根本原理である。「信じたところで救われるとは限らない」となれば、もはや宗教の意義を失うであろう。人間は、成功すると自分自身の努力を強調し、失敗すると因果な関係を嘆く。「運も実力のうち」と言うならば、「不運も実力のうち」と付け加えなければならない。人間の運命は偶然性に支配される。ならば、失敗すれば運命のせいにすればいい、そして神のせいすればいい。それで、精神の安穏が取り戻せるならば...
神は、宗教を通して人間に義務を与える。これが神学の意義であろう。宗教の矛盾は、神の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?神は恥ずかしがり屋さんなのだろう。
もし、人間が矛盾の概念を凌駕して論理的思考の極致に到達することができれば、そこに神を見ることができるのだろうか?だとすると、凡人の前には、神は永遠に現れそうにない。だが、凡人ほど神の具体的な言葉を欲する。では、天才の前には神が現れるというのか?などと言えば、自ら神の代理人と名乗る者が出現する。神が人間の姿を借りて現れるという思考は、永遠に消し去ることができないだろう。
一方で、科学者や数学者は、神を思いっきり嫌いながら、独自の神学を構築する。強制する神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在はむしろ心地よいものとなる。科学や数学も優れた宗教というわけだ。人間が構築する学問はすべて、宇宙原理あるいは宇宙の創造主の存在を探し求めているということはできそうだ。
2010-04-01
「勝ち逃げの死神」と呼ばれた雀士
「一人勝ちするのは悪い奴!これが、ハコテンの美学というものさ!」
鏡の向こうの住人に、「勝ち逃げの死神」と呼ばれた伝説の雀士がいるという。いつも赤い顔しながら「ああ気持ちええ!」とつぶやくのだそうな。滅多に出会うことができないのだが、今日四月一日、偶然そこを通りかかった。桜祭りに招かれて夜の社交場へ向かうところらしい。そこで、ドサクサに紛れてインタビューを試みた。その、しつこく!まったり!とした言葉を、脂っこく!記述してみよう。
勝ちたいという欲望が、負けたくないという恐怖を掻き立てる。欲望と恐怖は人間の持つ本能であり、そこから逃れることはできない。本能が故に、相手との距離をはかり、間合いはかり、そこに駆け引きが生まれる。恐怖心とは、防衛本能であり、それすら呑み込む力、それが相手に無気味さを与える。つまり、勝負とは、恐怖心のやりとりに他ならない。
となれば、恐怖心を凌駕する方法は、精神を無心、無我の境地に置くしかあるまい。そして、本能のままに、その瞬間を楽しむ快感と喜びを養うことが肝要となる。自分の能力を信じ、迷いを払拭できれば、自らの行動に恐怖を感じることはない。いや!純粋な恐怖を感じることができると言った方がいい。純粋な恐怖は、脂ぎった欲望の裏にある恐怖とは異次元にある。勝負に集中する純粋な精神に、脂ぎった欲望の入り込む余地などないのだ。無意識無想となれば相手に隙を与えない。その狂気こそ無気味の正体である。
博奕打とは、楽をしながら金儲けをする人種である。そのために、情報収集に努め、敵を知り、己の技を磨く奇妙な人種でもある。怠惰を求めるが故に、勤勉に辿りつくというわけさ!
1. 博奕の法則
人間は、理は避けられても、偶然は避けられない。となると、偶然をも味方にすれば無敵となる。合理性は、個人の経験によって育まれる。すなわち、合理性とは、個人の持つ哲学的思考である。相手にとっての不合理性は、こちらにとっては合理性となる。勝負を仕掛けるならば、相手の合理性では計れない領域に誘い込むことだ。相手の思考回路を狂わせるとは、神経戦で精神の風上に立つということである。なんの得もない、ただ無意味に勝負に人生を委ねる。その理不尽こそ博奕の本性!そこには、怠惰を求めて匠を究める精神がある。そうした境地に辿り着いた時、初めて人生の博奕が打てる。
しかし、人間は金が絡むと性格が豹変する。レートが上がれば、勝負の流れを冷静に見極めることができなくなる。すると、精神は、確率論では計り知れない領域へと踏み込む。挙句の果てに、流れを悪くし、自ら蟻地獄へと誘ざなう。博奕とは、賭けるものがあるかないかで、決定的に勝負の性格が変わるゲームである。勝てば賞金が得られるのと、負ければ財産を失うのとでは、プレッシャーの質がまったく違うのだ。失うものがなければ、勝負は単純な能力で決する。だが、失うものが大きければ、純粋な能力を超越した能力が要求される。いくら、相手の手の内が読めても、自分の読みが信じられなくては、既に勝負を降りたことになる。そこには、怯えという防衛本能との葛藤がある。怯えは、精神の論理において最高位にある。怯えに支配された精神は、制御不能に陥る。ここには「負け犬の原理」が働く。つまり、自分の能力に命運を委ねる器量があるかが問われるわけだ。
人間は危機に直面すると、本性を顕にする。人間に完璧な精神力は求められない。完璧な駆け引きなどありえない。もし、完璧な自信に裏付けられる勝負勘があったとしても、それが完璧であるが故に崩れ始めると脆い。もちろん、自らの過信は問題外。強気とは、意地や頑固などではない。それは「強がり」というもので、怯えの裏返しにある。強気の本質とは、流れを読む冷静な判断力である。そこに、博奕のセンスが問われる。
博奕の根底には、人間が生涯に渡って対峙する恐怖心との戦いがある。守るものが大きいほど思い切った行動力が発揮できない。したがって、人生は博奕の最高位にある。
2. 麻雀の原理
麻雀は、先に和了(アガ)ることを競うゲームではない。いかに相手を降ろすかというゲームである。自らのイメージを増幅させた者が勝機を掴む。弱い奴の臭いを嗅ぎつければ、ハイエナのように群がってくる。麻雀とは、神経戦を楽しむゲームである。したがって、打ち筋には人生観が現れる。
打ち筋には、重要な情報とノイズが混在する。その中から重要な情報を嗅ぎ分ける能力と同時に、わずかな偽装情報を絶妙のタイミングで混入させる能力が要求される。これが麻雀のセンスである。勝負の流れを、牌が語りかけてくれる。それに耳を澄まさなければ、はかない誘惑に負け、迷いを見切れず、つい目先の点棒を拾いにいく。麻雀の論理は、一旦流れを失うと、身勝手な合理性に支配され、考えれば考えるほど相手の術中に陥るようにできている。悪い流れで突っ張れば、吸い込まれるように振り込む。これが「絶好のカモの原理」である。
そこで、流れを変える勝負術が必要となる。勝負術で最も重要な前提がブラフだ。それも、単なるブラフでは通用しない。自らの身を削ずるほどの演出がなければ迫力が出ない。まったく採算の合わない愚かな行為に相手は惑わされる。気迫が疑惑を呼び、疑惑が妄想を呼び、妄想が恐怖を呼ぶ。人間は、自分の価値観を完全に超越した不合理性に恐怖を感じる。一度でも場の気配を支配してしまえば、虚もまた実となる。すると、優位な立場にある人間には、安全に打とうとする誘惑が忍び寄る。この誘惑こそ流れを変える好機。一旦流れを呼び込んだら、怒涛のごとく押し潰すのみ。少しでも弱みを見せた相手には、二度と歯向かえないように完膚なきまで叩きのめす。勝負付けは、その場できっちりと済ませておくことが肝要。それで、次の勝負から精神の風上に立つことができる。これが勝負の鉄則である。
麻雀の基本構造は、確率で構成されるように見える。それも間違いではない。だが、賭けるものがあれば心理的要因で構成され、相手の精神を徹底的に捻じ伏せるゲームへと変貌する。牌を狙い撃ちする戦いは、心を狙い撃ちする戦いへと豹変するのだ。そこで、必要となるのが牌の嗅覚と精神の腕力。これは一種の度胸比べにも似た心理があるが、微妙に違う。最終的に、天に身を委ねる度胸を持ち続けられるかが問われる。一度でも精神のバランスを失えば、脆くも崩れ落ちる。
それは、「単騎待ちの原理」が証明している。単に和了(アガ)ることに合理性を問うならば、多面待ちに構えるはず。なのに、わざわざ単騎待ちに構えるのはなぜか?それは、相手に待ちを読ませないための駆け引きである。多くても九連宝燈の九面待ちか、国士無双の十三面待ちだが、単騎待ちは現物以外はすべて当たり牌の可能性がある。スジや牌種による読みは、まったく通用しない。待ちが読めないということは、それだけで相手に恐怖心を植え付ける。恐怖心のやりとりという意味では、これほど合理的な待ちはないというわけだ。
ここには、確率では計り知れない可能性を匂わせば、精神の風上に立てる原理がある。相手の思考を操作するところに麻雀の本質がある。麻雀の原理は、上手い奴が勝つのではない!強い奴が勝つ!
3. 勝ち逃げの法則
振り込めば楽になるという精神こそ肝要だ。死ねば助かるという気持ちが失せた時、勝ちの気配が死んでいく。そして、ただ助かろうとする。これは、博奕で負けが込んだ人間が、最後に陥る思考回路である。こうなると、自ら積み上げてきた合理性はすべて失われる。怯えは、まず、気のはやりや焦りという形で姿を現す。やがて、牌の語りかけが聞こえなくなり、手変わりの気配も見えなくなり、ついには精神のバランスを崩す。勝ち急ぎの気配を見せれば、後は相手のミスをじっと待てばいい。流れが見えれば、見えない振りをするのは簡単であるが、流れが見えなければ、見える振りをするのは難しい。集中力の持続こそ、博奕の生命線。安全に打とうとすると、防御一辺倒となり、完璧に読み切ろうとする迫力が薄れる。おまけに、希望と期待が追い打つをかける。希望ってやつは、危機が迫ると、願望となり、やがて祈りへと変貌する。希望とは弱さであり、期待とはご都合主義に陥ることを意味する。希望や期待は、幻想という形で精神に忍び寄り、精神が錯乱したら、後は地獄へまっしぐら。
相手が恐れるのは、こちらの狂気!だから、先制攻撃で脅しをかけてくる。その反面、脅しがきかなくなると崩れるのも早い。読みが当たったり、シナリオ通りに仕掛けがうまくいっても、その手柄を自慢しては全てが台無しとなる。あくまでも偶然性を装い白痴に振舞う。派手な手を地味に見せる。巧みな技を凡庸に見せる。
迷うから精神の起伏が現れる。迷いとは欲である。和(アガ)りたいという欲、裏をかきたいという欲、勝ちたいという欲、これすべて私欲。私欲の前では目が曇るのみ。欲が大きければ、それに反して、自己矛盾に陥り、自らの退路を狭める。目先の欲を捨て、無我の境地へ到達する集中力をまとわなければ、自我を克服できない。どうせ死ぬなら、強気に打って死ねばいい。常にその揺るぎない精神状態を保つことが鍵となる。これは、「どうにでもなれ!」といった心理に似ているが、無謀とはまるっきり質が違う。博奕の基本精神は、いかに泥酔者の精神が持続できるか、ここに集約される。
認めたくないが、人間は必ず老いる時が来るように、いつかは落ち目が来る。それを冷静に見極めることが肝要。それが引き際ってやつだ。自分の能力が信じられなくなったら、場から降りればいい。そして、伝説の雀士は何かを悟ったかのように雀卓から去ったのあった。これが「勝ち逃げの法則」である。
4. 博奕と市場原理
博奕の法則には、一種の経済学がある。あぶく銭に人生を委ねる点では市場原理に似ている。合理性の根拠を群集心理に求めながら統計学に熱中する。いまや、株式売買でプロとアマチュアの差別化も難しい。ネットが進化した現在では、トレーディングルームを自宅に構築することは容易い。情報格差において、インサイダー情報でもない限り、プロとアマチュアは急速に接近している。
では、どこに違いがあるのか?それは市場への参加を強いられるかどうかの違いである。プロは、他人の資産を運用するために、期限付で成果を出し続けなければならない。株価の上昇局面か下降局面かなど関係なく、常に成果が求められる。だが、経済情勢の複雑化の中で、常に儲かるように仕組むのは至難の業だ。だから、必至に逆ポジションといったテクニックを駆使する。安定した運営を試みるならば、資本力は大きい方がいい。そして、無暗に資金集めに熱中する。だが、資本力が巨大化し過ぎると制御不能に陥り、一旦、負債を抱え始めると後戻りできなくなる。ノーベル賞級のプロ集団でさえ、大規模な破綻は避けられない。逆に言えば、自己資金のみで運営するアマチュア投機家は、彼らよりも精神の風上に立っていると言えよう。リスク局面では静観していればいいのだから。十年に一度の絶好期に市場に参加すればいいぐらいの気持ちでやれば、気楽なものだ。この原理は、博奕の法則に基づいている。あぶく銭を稼ぐための心理構造は、いずれも基本原理は同じである。
2009-04-01
酔っ払いの持つ合理性とは
1. 精神の合理性
「物事を客観的に観察して判断する」とは、よく聞かれる台詞である。数学的公理のような考察が可能であれば明らかに客観的判断と言えよう。だが、深い思考を呼び込むためには主観的考察も疎かにはできない。最初から客観性だけに頼っていては、現象をただ羅列するだけの貧弱な考察で終わるであろう。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。そもそも、人間精神の解明において弁証法なるものが現れるのも、精神が持つと信じられる客観的悟性が完全ではないと疑っている証ではないのか。成功のプロセスには偶然性が潜む。結果的にうまくいけば判断能力があると評価される。だが、純粋な判断力の存在を説明できるわけではない。一人の人間の理念には、一つの精神によって一つの宇宙が形成される。人間社会における客観性は、ほとんど個々の主観性に基づいた多数決によって支配される。そして、人間は永遠に占い師であり続けるのかもしれない。永遠に結果論で理由付ける評論家であり続けるのかもしれない。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。ある事象を認識し思考を働かせた時点で精神は主観の領域に入り込む。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。精神では主観性が強い分、客観性を強調するぐらいでちょうど均衡が保てるのであろう。そして、主観と客観の双方を統制する更なる高尚な価値観の構築が必要なのかもしれない。それが理性ってやつか?ただ、高尚な理性を構築するには、人生はあまりに短すぎる。神は人間を永久に不完全なものに留めておきたいのかもしれない。まるで神自身が優位性を保つかのように。強靭な理性の持ち主は精神を死の恐れから解放させ、死までの時間を静かに待つことができるという。ただ、欲望という本能も捨てたものではない。理性を獲得するには知性への欲望を必要とするのも確かである。皮肉にも強靭な欲望は、理性の欠乏を補って精神の安定をもたらすという不思議な関係も成り立つわけだが。
ちなみに、象の知能と感情の豊かさには定評があるらしい。
「象はなぜ?死を覚悟した時、群れから離れ、死に場所を探す旅にでるのだろうか?俺にはできない。一人孤独のまま姿を消すことはできそうにない。」
...映画「象の背中」より...
2. 運命の支配力
デカルトが人間の持つ知覚を「私は存在する」という一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。これは、人間の知覚は空間に関係し、一切のものは空間に存在すると言っているようなもので、まさしく先験的実存論を表している。ただ、認識できるものがすべて実存するとなれば、愛という妄想をどう説明するのか?「言葉のキャッチボール」は、いずれ「言葉のドッジボール」へと変貌し、ついには「言葉のビーンボール」が頭をかすめる。愛情が愛憎に変わるのに、大して手間はかからない。ちなみに、完璧な仕事の依頼料は300万ドルが相場だという噂だ。
「ゴルゴ13、奴を狙撃しろ!」
そして、暗殺を恐れた独身主義者は、実存主義者の「なぜ結婚しないのか?」という問いに、裏返った声で「それは理性を失わないからさ!」と錯覚論を展開するのであった。なるほど、スピノザは、誤謬の原因は人間認識の欠乏によって生じると語った。どうりで、「できちゃった!責任とってね!」と迫られると、唯物論者は唯心論者へ鞍替えするわけだ。
錯覚論者であるアル中ハイマーは、九連宝燈...国士無双...大三元...と呟きながらスーパーヅガンな人生を謳歌する。ちなみに、ゲーテは、想像力は芸術によってのみ制御されると語った。そう、芸術にこそ合理性が潜み、玄人(バイニン)技にこそ運命を操る支配力がある。中でも、飛び切りの芸術は「積み込み」である。そして、絶望論者は起死回生を願って呪文を唱える。「天が味方するから天和(テンホウ)なんだが...さて、明日も晴れるかなぁ...」
3. 酔っ払いの持つ合理性とは
物事の持つ合理性とは何か?それは、物事の本質を見抜くことであり、その本質の持つ合理性にこそ王道がある。
では、人間の持つ合理性とは何か?精神には、気まぐれや直感と、これに反するかのように好まれる論理的思考の両面がある。いわば、主観と客観の共存、欲望と抑制の共存、感情と理性の共存。主観性には、精神の高まりを呼び起こし、思考の深さを牽引する役割がある。客観性には、理性を研ぎ澄まし、精神と知性の均衡を保つ役割がある。この両面を凌駕することこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
人生はギャンブルか?ギャンブルの本質は確率論に持ち込まれる。この確率論には運と能力が微妙に絡む。ギャンブルで勝利したければ、時には奇策を用いるのも悪くはない。だが、ギャンブルの持つ本質にこそ合理性がある。確率を無視しては、神に逆らうようなもの。本質という合理性を否定していては、いずれ長いギャンブルに敗れるだろう。
そして、アル中ハイマーは人生のオーラスで地獄の単騎待ちに賭ける。しかも、海底(ハイテイ)だ!そう、不合理性に身を委ねてこそ、酔っ払った人生というものだ。
「誰かが金を無くすから博奕になるんだが、まあ、勝ったり負けたりってとこだろうよ!」
「勝ち続ける人もいるでしょう!」
「いるかもしれねぇ。だが、そういう奴は金の代わりに体無くしてる!そういうもんだ!」
「勝ち続けて丈夫な人もいるんじゃないの?」
「そういう人はきっと、人間を無くすんでしょうなぁ!」
...映画「麻雀放浪記」より...
2008-04-01
"困ります、ファインマンさん" Richard P. Feynman 著
著者は、最後に、科学の価値とは?全身全霊を打ち込んできた科学とは?その疑問への答えを導こうとする。原爆作りに携わった人間として、間違った使い方をされた科学の恐ろしさを告白する。その中で、進歩を重ねるためには、自分の無知を悟り、疑問の余地を残すことが重要であると語る。少々意外であるが仏教の言葉も飛び出す。
「人はみな極楽の門を開く鍵を与えられているが、その同じ鍵は地獄の門をも開く」
社会貢献という言葉をよく耳にする。科学者は社会に及ぼす影響を考えるべきだと説教する人々がいる。科学は人間の知的欲求から成り立つ。科学の発展は新しい世界観をつくる。それをどういう世界観にするかは人間次第である。そもそも社会の役割とは何か?社会は人間のエゴのために存在するのか?生物の存在すらほんの一瞬の宇宙現象に過ぎないのかもしれない。もし、人類に宇宙を解明をする使命があるならば、まだまだ人類は存続し続けなければならない。
今宵のブランデーは濃厚なマイルド感を醸し出す。気持ち良く千鳥足で章立てて見よう。
1. 生い立ち
著者は、ユダヤ系の家庭で育った。父親の教えに次のようなものがある。
「権威なんぞというものには頭を下げてはならない。どんな立派な人間が発言しようとも、それが理にかなうかどうかを自問することだ。」
父親から科学することを学び、母親から人間の精神の到達できる形は笑いと人間愛であることを学んだと語る。少年期は、大人の教える奇跡が許せなかったようだ。サンタクロースが一夜のうちに一人残らずプレゼントを配るという奇跡はまだ可愛い話である。しかし、モーゼが杖を投げると、これが蛇になってニョロニョロと這い出すなんぞは許せないと力説する。ラビの教説は最たるもので、ユダヤ教会の日曜学校では子供達にいろんな奇跡を話して聞かせる。異端審問でユダヤ人が拷問にあって苦しんだ話では、ルツという特定人物を持ち出す。ルツの話は、実は作り話であったことを知ると、以来宗教というものが信じられなくなったと語る。
2. 夫人の不治の病
夫人の家系で唯一許せない習慣があるという。それは、善意から出た嘘ならいくらついても構わないというものだ。著者は言う、こっちがどう思っていようが、どうでもいいことではないのか。この点は、意見が一致し、互いに嘘をつかないと誓いあう。婚約したばかりの彼女が不治の病であることを、本人に告げるかどうかをめぐって家族会議で苦悩する。著者は嘘をつくべきではないと譲らない。説得されて一旦は隠し通すが、彼女に見抜かれてしまう。彼女は、誓いを破ったにも関わらず、家族に追い詰められたことを気遣う。そして一層の絆を築き結婚する。ロスアラモス時代、入院中の夫人との冗談のやりとり、検閲を遊びに使った手紙のやりとり、むしろ夫人の方が冗談は巧みだったようだ。夫人が重病人であるにもかかわらず、そこには悲壮感がない。しかし、読んでいるとそれがむしろ悲壮感として伝わる。夫人は、著者の定義できないというだけで信じないという主張に、美的バランスを教える。美には決して定義できないにも関わらず、ある定まった何かがあることを。著者は美術にも興味を持つようになる。そして、いよいよ最期を迎える。
3. 名前を覚えるのが苦手
ロスアラモス時代の旧友からハーマンという人物が亡くなったことを知らされる。どうやら友人らしいが思い出せない。適当に話を合わせ、葬式で棺を覗けばわかるだろうと高を括る。しかし、見てもお目にかかったことすらない。とうとう我慢できずに旧友にハーマンって誰?って聞く。話によると、旧友とハーマンが親友で、旧友と著者が親友で、ハーマンと著者はロスアラモスに居た時期が入れ違いで、旧友が知り合いだと勘違いしたというオチである。おいらは10年くらい前の出来事を思い出す。川崎駅で高校時代の知人に偶然会った。名前が思い出せない。話しているうちに、とうとう我慢できなくなって、名前を聞く。もう少し我慢すれば、卒業アルバムで確認できたのに。おいらは正直ものである。また、仇名は覚えていても本名を覚えていないことが多い。アル中ハイマーは、人の名前を覚えることが大の苦手である。ただ、クラブ活動で横に座ったホットな女性の名前を覚えるのは天才的である。
4. 時間の意識
人間は、ある程度同じ速度で数を数えることができるという。では、その速度は何で決まるのか?心臓の鼓動か?著者は階段を駆け回り実験する。同僚からは大笑いされる。熱運動法則に従って、体温が高いと数える速度も変わるという仮説も実験する。著者の結論はこうだ。ものを読みながらでも数えられる。喋りながらは数えられない。だが、それも間違っていた。喋りながらでも数えられる同僚がいた。そいつは読みながらは数えられなかった。つまり、数え方が違う。著者は頭の中で数を唱える。同僚は、数の書いてあるテープが回っているのを頭の中に思い浮かべる。著者は唱えてるから、喋りながら数えられない。同僚はテープを見ながら数えているから、読みながら数えることができない。数える速度を変化させるものは、数える作業を中断させるような、脳が他のことを考える場合に起きる。んー!当り前のような気がするが、天才は当たり前と決めつけずに実証するところが偉大である。数を数えながら、できることとできないことを分析すれば、その人の脳の働きが分析できるのは確かだろう。
5. 教科書「ファインマン物理学I」
教科書の一節。これはメモらずにはいられない。
女性が運転する自動車が白バイに捕まった。
警官曰く「奥さんは時速60マイルで走っていましたね。」
女性曰く「そんなはずはありませんわよ。まだ7分しか走ってませんもの。1時間も走ってませんから。」
警官曰く「いや、あなたがこのまま走りつづけたら、1時間で60マイル行くだろうということです。」
女性曰く「私はアクセルを踏んでいませんでした。ですから60マイルも行くはずがありません。」
この話は、女性蔑視だ!という抗議デモに発展したという。わざわざドライバーを女性にすることはないだろうと言うのだ。もちろん著者は反論する。
「女性が警官をへこましたんですよ!警官の方が馬鹿に見えるのは気にならないんですか?」
すると抗議している一人の女性が叫ぶ。
「警官なんてみんな馬鹿に決まってるじゃないの。あの連中はみんなとんまな豚野郎なんだから」
著者もやり返す。
「やっぱり気にされた方がいいですよ。ああ!言い忘れましたが、その警官、実は女性なんですよ。」
6. チャレンジャー号爆発事故調査委員会
著者は、チャレンジャー号爆発事故調査委員会のメンバーである。その会議のお粗末さを暴露する。公開会議では、NASAのお歴々が一般的なシャトルの説明をする。メンバーは自然科学の学位を持った優れた連中なので、発表者が答えられないような突っ込んだ質問をする。すると、委員長のロジャース氏は「後ほど詳しい情報を提供します」と決り文句を繰り返す。著者は、期待どおりに独自行動を取る。ジョンソン基地に行くことや、技術者を集めるなどの手配をすると、ロジャース氏はメンバーが秩序正しく行動しなければならないと反対する。彼が手配したケネディ宇宙センターの見学にしても、視察と称したどこぞの議員一行様のようである。口論が続く中、話題を変えて「ファインマン先生は滞在しているホテルがお気にいらないようで、別のホテルを手配しましょう」という始末。偉人の愚痴も庶民のレベルとあまり変わらないようだ。
シャトルの問題は、技術的問題以外に運営の問題も明るみになる。通常より打ち上げ時の気温が低すぎると知りながら、わざわざリスクを犯したのはなぜか?噂では、その夜レーガン大統領の年頭教書演説がある予定だった。演説中、搭乗していた女性教師と宇宙から会話する筋書きになっていた。現場の技師たちが危険性に警告を発しているのに、管理職が安全基準を甘くし、問題が発生しても原因究明すらしない。ただ、技術屋は専門的な問題を話し合うのが好きな人が多い。著者の感心なところは、技術調査で最も味方につけなければならないのは、現場の技術者であることを見抜いていることである。NASAの高官連中は金を倹約するためにテスト回数を減らしたいと考えている。調査報告書に至っては、改ざんされた上に骨抜きにされる。委員会のメンバーが、自らの報告書を持ち寄って意見交換するような会議をしない。国家レベルの委員会ですら、所詮そんなものらしい。要は、政府を批判にさらしたくないという陰謀に過ぎない。著者の報告書は付録で決着する。真実を語ろうとすることと、政治家の面子は、互いに反発しあうようだ。地位の高い連中は、部下の抱えている問題は見知らぬふりをする。しかし、著者は、実は本当に知らないまぬけな連中かもしれないと語る。
7. NASAの実態
戦争中、ロスアラモスでは皆が一丸となって原爆を作ることに努力した。一人がうまくいかない問題を抱えれば、その困った人を皆で知恵を持ち寄って解決しようとする。著者は、そうした感覚は初期のNASAでもあったのではないかと推察している。人類を月に送り込もうと途方もない夢を描いた時代、同様に緊張感、切迫感があったにちがいない。ところが、大きな目標が完了するとNASAはいつのまにか大所帯に膨れ上がっていた。これだけの人材を突然解雇するわけにはいかない。常に予算を取り続けるために議会を説得する必要がある。シャトルは経済的で何度でも飛ばせる。安全であると誇張する。一方で技師たちは、そんなに何回も飛べるわけがないと叫んでいた。飛ばし続けるためには、管理職がそうした声を封印しなければならない。そして、硬直した大官僚組織の出来上がりというわけか。著者は、少なくともNASAで働く優秀な連中は、自分が何をすべきかを十分熟知していることを感じ取ったと述べている。彼らをいち早く軌道に戻すためにも、NASA組織の正常化は急務であると主張する。
x. 中洲追突事故調査委員会(おまけ)
本項は、本書とはなーんも関係がない。アル中ハイマーは中洲のとあるバーでスコッチを飲んでいた。すると、隅の方で数人の刑事と思われる連中が愚痴をこぼしていた。聞き耳を立てていると、どうやら事件の話をしているようだ。その一人が、すっかり酔っ払って近づいてきた。一杯おごるから捜査に協力しろという。その中でボスと思われる人間が、荒っぽい剣幕で捲くし立てることからアラケンと呼ばれていた。彼が言うには、事件は単なる追突事故でつまらないものらしい。凄腕の刑事からするとやりきれないようだ。被害者とされる人物は大勝(オオカツ)とかいう当たり屋で、その道では有名で胡散臭い。その相棒が雑餉に潜伏しているのは確かで、闇崎(ヤミザキ)とかいう人物である。彼は韓国人女性と一緒のところを一度パクられたが、藤西(トウサイ)という人物の手引きで脱走したらしい。とりあえず犯人と目される指名手配中の人物の写真を見せてもらった。その名は司馬懿(シバイ)といい三角関係を好む。まあ、三国志も国の三角関係であるのだが。1年前の情報では、アレックスとかいう外国人に変装して博多湾の埋立地方面に潜伏中という話だ。その姿といったら、上半身は白いYシャツに黒いネクタイ、下半身はパンティーに裸足で黒い革靴、黒いソフト帽をかぶり、得意技はメキシカンダンスを踊るという。おいらはある店で見かけたと証言した。その店に案内すると、なんと大勝氏と闇崎氏が二人揃って内股で歩いていた。おいらは、てっきり自動車事故だと思っていたが、接触したのは生身の体だったようだ。状況証拠からして、当たり屋が当たりにいったら、逆にやられたというのが真相である。こんな事件の担当ではアラケンが愚痴りたくなるのもわかる。犯人は間違いなく司馬懿氏だろう。しかし、行方不明。ここまで追い詰めながら迷宮入りか?本日2008年4月1日をもって時効を迎える。尚、登場人物は96%実名である。捜査員たちは締めにスピリタスを飲み干していた。
2007-04-01
"ご冗談でしょう、ファインマンさん(上/下)" Richard P. Feynman 著
1. 脳の視覚部門と感覚部門のつながりについて分析した時の話。
「僕が夢を観察した一つの理由は、目を閉じていて、何も外界からの刺激が無いとき、いったいどうやって人の姿などのイメージを夢の中で見ることができるだろうということに、非常に興味を持っていたことに始まる。」
絶えず眠りにつく時の自分を観察しようと努力したとある。
この発想で、おいらは大学時代を思い出した。講義中、寝てる時に自分の意識を自覚しようと努力したことがある。そして金縛りになった。皆からは良く笑われたものである。金縛り中、頭元に霊が存在するかのような感覚に陥って初めは恐怖を感じるが、慣れるとおもしろい。そして、力が抜け過ぎて金縛りになれなくなった。楽しみを一つ失うのである。
今では、医者から処方してもらった睡眠薬を飲んで、眠くなった状態でどこまで長く起きていられるか。という遊びを覚えた。楽しみを一つ増やすのである。
2. 「本質的対象とは何か」という哲学的議論をした時の話。
彼は「電子は本質的対象か?」という質問から始める。そもそも「本質的対象」という言葉を理解するところから始めたかったわけだ。
実は電子とは仮説なのだ。これが自然のしくみを理解する上で、ほとんど実在しているというぐらい便利なものである。そこで、理論上の構成物を本質的対象と考えるかという質問から始める。すると、あーでもないこーでもないという議論に発展して、哲学ではありがちな混乱で締めくくる。
結局「本質的対象」とは何かという定義すら誰も理解していなかったというオチだ。これでは、深夜の討論番組「朝まで生ビール」である。
3. 原爆の話。
著者がノーベル賞物理学者なので、このエピソードは外せないだろう。ロスアラモス時代、マンハッタン計画に参加した頃、数々の有名人に囲まれた会議の風景を物語る。つまり原爆を作る会議である。ここでは少々長いが、印象に残ったのでそのままの文章を引用する。
「誰か一人が意見を述べると今度は違う者がそれに対し異なる意見を説明する。という形で進行する。そこで気になるのが、最初に意見を言った人間が繰り返し強調しない。この会議のメンバーは皆それぞれに新しい事実を考えに入れて実に様々な意見を発表しながら、一方でちゃんと他の連中が言ったことを覚えている。しかも最後には一人一人の意見をもう一度繰り返さなくても、それをちゃんとまとめて誰の意見が一番良いと決めることができるのである。これを目のあたりに見て僕は舌を巻いた。本当に偉い人とはこういう連中のことを言うに違いない。」
目的意識が完全に共有できた賢者の会議というものがひしひしと伝わってくる。
一方で、外部との情報のやりとりに検閲が入る不自由な環境において、夫人への手紙で、わざと暗号っぽい数字を並べるなどのいたずらをしたことなどは微笑ましい。また、夫人もわけのわからないアルファベットを並べた手紙を書いたりと、よくできた女性のようだ。下手すると反逆罪で捕まる緊張感のある時代にこうした冗談がやれる人間性は洒落てるのである。
また、原爆実験が成功した時、皆が興奮して喜んだ中、開発者の一人が「どんでもないものを造ってしまった」と言ったことに対して、無我夢中で働いてきて、考えるという機能が停止してしまっていたことを語っている。数学者フォン・ノイマンの「今生きている時代に責任を持つ必要はない」という忠告で「社会的無責任感」を感じるようになり、それ以来幸福な男になった。と言っているが、悩み悩んだ照れ屋が無理に語っているように思える。
4. 優雅なバー「アリバイ・ルーム」での話。
アル中ハイマーとして反応しないわけにはいかない。
ある常連客がミルクを注文する。この客が胃潰瘍であることを皆が知っているから哀れむ。これを見て、彼は次からコーラを注文し、つまらなそうな顔を作ってみせた。すると他の連中がたちまち彼をとりかこんで同情しはじめたという。
試しに、おいらも行付けのバーでやってみた。しかし、殺人カクテルが出てきた。ちなみに、このバーでオーダーが通った試しがない。
また、女性を口説く手ほどきを受ける。基本法則はこうだ。
「男は紳士と思われたいのが普通だ。礼儀知らずの野暮な奴と思われたくないし、ことにケチと思われるのが一番こわい。女の子達はこれを見抜いているから、思い通りに操られるというわけだ。よって、どんなことがあっても紳士であってはいけない。女の子を頭から軽蔑してかかること。しかも第一のルールは、女の子に決して何も買ってあげてはいけない。」
おいらは、ベロンベロンと、うぬぼれのデュアルバイアスがかかっているので見事に操られる。
かつて、女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。
さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入った。
どれを選んでよいかわからないので少々悩む。店員は真剣に選んでいると思ったのかもしれない。
「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」と近寄ってくる。おいらは、即座に逃げたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。おいらにオーラでもあるというのか?「女の子に決して何も買ってはいけない」という教訓が身にしみるのである。
本書は、他にもたくさんのエピソードがあり、全てに突っ込みを入れたいが、今日はこのぐらいにしといてやろう。ただ、出てくる話はトップレスの店やら、バーでの出来事など、ただのスケベおやじである。ノーベル賞物理学者ってこんなもんかあ。妙に親しみを感じる。
まさしく馬鹿と天才は紙一重である。アル中ハイマーは前者であるという証明である。
おいらもそれなりに人生を楽しんでいるつもりであったが、楽しみ方が足らないと反省するのである。こういう本に新鮮さを感じるということは、おいらの根は真面目過ぎるのだ。
おっとくしゃみが「ヘークション!どこぞの女が俺の噂をしてやがるぜ!」
とドスの利いた声でつぶやくのである。
ここで、本書とは関係ないがロスアラモスでの出来事を追記しておこう。
かつて、相対性宇宙論の世界会議がロスアラモスで開催された。
アル中ハイマーは「重力場における時間の歪と相対性理論による実証」と題して論文を発表した。
「ホットな女性と一緒にいると時間が短い。そうでもないと時間が長い。オーラとは、重力による空間の歪であり、時間は美貌の波長に左右される。」
もちろん、オッペンハイマーの目に留まったことは言うまでもない。
オッペンハイマー&アル中ハイマー、なんとなく語呂合わせが良い。こうして記念に造られたワインが「ハイマースハイマー・ロゼ」である。このワインは、市場の不完全性パラダイムを体系化したハイマー理論に基づいて製造されたため、激辛と強烈なつんとくる酸味からは信じられない、濃厚でボリュームたっぷりの甘味を醸し出す。
また、会議のあまりの盛況ぶりに、どこかで噂を嗅ぎつけたクラブから、桜祭りの招待状が届いたことを付け加えておこう。アル中ハイマーはクラブ活動にも余念が無い。
すっかり、意気投合してしまったオッペン君は、カクテル「アトミック・ボンブ」を一気に飲み干した。そして、実証実験と称して「もう1軒行こう!」と言い出した。
おいらも、つい口癖で応酬する。「しょうーがねーなあ!」
以上。19XX年4月1日の出来事である。


