2015-08-30

"義務について" キケロー 著

ベランダで心地よく純米酒をやっていると、大きなランドセルを背負った女の子から、おはようございます!と挨拶され、照れくさく答える。まるで堕落人のショーウィンドウ...
そんな我欲に憑かれた酔いどれが、なに故こんなものを読んでいるのか?なぁーに、気まぐれってやつは誰にでもある。ところで、気まぐれな善意と周到な悪意とでは、どちらが厄介であろうか...

この哲学書は、ペリパトス派(逍遙学派)の所説とあまり違わないようである。それも、ソクラテス派であり、プラトン派であり、アリストテレス派であることを表明しているように映る。その根底思想には、不死の魂から導かれる自然的な叡智の継承がある。
義務とは、高貴さを備えた生に対して生じるもので、それが私的であれ、公的であれ、人々が係わり合う社会で必然的に生じ、けして免れることのできないものだとしている。しかも、徳を伴わなければ、友情も、正義も、寛大さも、けして尊重することはできないと。
また、ストア派の義務論が賢者のみ実行可能であるため、これを一般人にも実行できるよう換骨奪胎することを表明している。弁論と判断の力を大衆に植え付けようとは、とてつもない義務をキケロー自身に課している。
ただ、最高善を唱えるからには、そこに絶対的な義務が定義できるというのか?道徳的な高貴さとはどんなものなのか?そんなに硬苦しく構えず、ゆとりや柔軟性をもって自然に構えたい。人間、無理をしすぎると碌な事にならない。
「真理への探求と追求は、人間に特有のものである。従ってやむをえない仕事や心配がないとき、ひとは当然何かをみたりきいたり、また習い添えることをのぞみ、浄福の生活をととのえるに必要なものとして神秘的または驚嘆すべき事がらの知識を求めるのである。これをとっても、真実、単純、純粋なものは、人間の本性にもっとも強く訴えるものであることがわかる。」

さて、義務とはなんであろうか...
この言葉には、なにやら高貴で崇高なものを感じなくはないが、同時に、慣習や虚栄に惑わされやすい印象がある。これをやるのは義務だ!などと雄弁者が語れば、それなりに説得力を持つ。それ故に正義と同様、悪用されやすい。
一般的に、社会人は働いてい収入を得ることを義務付けられ、学生は勉学に励むことを義務付けられる。こうした慣習は、自立や自律と相性が良さそうに見える。だが、仕事や学問の内容について問われることがあまりない。自分の仕事は、自然的な義務を果たしているのか?自分の学問は、はたして自然の理に適っているのか?実は、やってはいけない仕事、やってはいけない学問があるのではないか?潰すべき組織があるのではないか?
人は、常に何か意義らしきものをやっていないと落ち着かない。収入源となる何かに対して役に立っていないとなれば、尚更。日々の仕事で、納期を守れ!約定を守れ!などと使命感を強要されながら、今を生きるために仕方なくやっているだけのこと。あるいは、地位や役職を欲し、多数派の支持を募ることばかりに執着し、自己存在を強調せずにはいられない。こんなブログですら何年も続けていると、やらないと罪悪感とまでは言わなくとも、サボった気分に襲われる。いつも読んでます!などと励まされると、強迫観念に駆られるがごとく、ジャンク長文を書き続ける羽目に。
そして、義務は自己正当化の手段に成り下がる。叡智への純粋な欲望は脂ぎった欲望へ変貌し、かつての高邁さは高慢の内に沈んでいき、あらゆる手段の下で義務は後付けされる。世間には、悪意の詐欺だけでなく、善意の詐欺も余すところなく健在ときた。悪意を自覚できるだけ、まだマシであろうか。この泥酔者は半世紀も生きながら、義務がどんなものか?いまだに見えないでいる...
プラトン曰く、「正義を欠く知識が英知よりむしろ狡智といわれるべきであるのみならず、危険を待望する精神もまた、もしそれが利己的な欲望に駆られ公共の利益を忘れるとき、勇敢よりむしろ兇敢の名を持つべきである。」

1. キケローという人物
この人物が、政治家よりも哲学者としての印象が強いのは、残した書籍によるものであろう。共和制を堅持する保守派で、共和制ローマへの奉仕と貢献を常に念頭に置く実践家であったようである。カエサルとキケローは、ローマ共和制末期における相抗争する二つの巨星。キケローが討伐したカティリーナの謀反における処罰をめぐっては、カエサルと対立。彼に対抗する反貴族的な革新勢力は、カティリーナ、カエサル、クローディウス、ポンペイウスなど古い貴族出身者であったことも皮肉な構図である。共和制から独裁制へ移行する時代では、どちらが革新派なのか分かりにくい。おまけに、彼らの死がこぞって横死したことも、共和制の終焉を暗示している。
最期の大演説「ピリッピカ」では、カエサル暗殺後、後継の座に就こうとするアントニウスを弾劾するも、暗殺される。これを契機に共和制を守ろうとする支柱を完全に失い、アウグストゥスの帝政へと向かう。キケローの目には、この独裁制というべき帝政が非道的なものに映ったようである。
「もし英知が最大の徳だとすれば、協同の意識から導かれる義務こそ最高でなければならない。というのは、自然を認識し省察するだけでは欠陥があり完全ではないからだ。それを完全にするためには具体的な行為が伴わなくてはならない。」

2. 四つの徳から生じる四つの義務。
義務とは、人類の普遍性において自然との調和によって育まれるものらしい。そして、道徳的に高貴であるかは、四つのいずれかに起因するとしている。

一つは、真なるものへの洞察と通暁に存立するか。
二つは、社会の維持と人々のために、自分に課せられたものを寄与、約定された事柄における誠実さに成立するか。
三つは、高邁にして不屈の精神の持つ偉大さと強力さに起因するか。
四つは、謹慎と自制を生むところの言行における秩序と中庸に存在するか。

「ここにいう義務とは、人間として、また市民としての道徳的任務の完遂を意味する。」
アリストテレスは、人間はポリス的動物だとした。共同体を育むことができるのは、優れた動物の証であると。それ故に社会的地位に対して異常なほどの野心を抱く輩は多く、しばしば義務は過剰な領域で野望となってきた。したがって、節度をともなわない地位や権力は、社会にとって厄介この上ない。
歴史を振り返れば、義務は国家体制と結び付けられ、強要されてきた経緯がある。愛国心旺盛な人々は、自分の意にそぐわない者を非国民!と罵ってきた。国家の根源的な意義は秩序にあり、それ故に歪んだ政体では秩序もまた歪む。人間社会は無知であり続け、誤謬を犯し、狂気する。しかも、それに気づかないときた。歴史の意義はそれを気づかせることにあるが、いつの時代も現世を生きる者には分からない。そして、国家体制の下で罪悪感を煽って犠牲を強いる。そう、歴史とは犠牲の上に成り立つものだということだ。
それでもなおキケローは、感謝によって結びつく関係ならば、絆をいっそう強くするという。感謝をともなう議論では、批判ですら建設的な関係を築くと。しかしながら、議論は往々にして憎悪とヒステリックの内にある。
「善行も所を得ざれば悪行ぞ。」

3. 道徳的な高貴と有利
人は誰でも、集団における有利さを求めてやまない。物欲、金銭欲、名誉欲といったものは、この有利さに隷属したものだ。いくら高貴な有利さを求めても、醜悪な有利さが社会を席巻しているのが現実。学問の動機にしても、ビジネスや就業で有利となるからである。だが、そうした欲望が、庶民生活を豊かにしてきたのも、これまた現実。人間社会には、脂ぎった動機も必要であろうし、むしろ実践的な解はこちら側にあるのかもしれない。最初の動機がどうであれ、脂ぎった欲望はいずれ純粋な動機に薄められていくかもしれない。
そこで、キケローは永続的な動機から、どちらが有利であるかを自然的調和から問う。他人を不利益で害することで有利となることが、自然的であるはずがないし、義務であるはずがないと。強権が有利さから生じたとはいえ長続きせず、正義を狡猾に利用する者の権威も長続きはしないだろう。人間社会が、本当にそういう方向にあるとすれば、捨てたもんじゃない。
しかし、キケローの生きた時代から二千年以上経った今では、どうであろう?政治屋は抑圧欲に駆られ、法律もまた狡猾さと悪意な解釈で執行されることが多々ある。そして、「最高の法は最高の不法」というローマの格言も、いまだ意味を持つ。自分の利益を除外視してまで、他人の利益を真剣に考えることは難しい。自分に利害が及ぶからこそ、深刻にもなれる。遠くで起こっている戦争ですら、他人事と思うのが普通である。何人も害さず、公共の利益を守ることが義務だとしても、公共の利益が自分に回ってこなければ憤慨する。おまけに、権力、名声、肩書に憑かれ、正義を怠るばかりでなく、巧みに利用するときた。
「事実を秘匿する人が非難されるべきだとすれば、空言を申立てるものたちについて、われわれはどう評価すべきであろう。」
どんな立派な法を持ち込んでも、社会の慣習と結びつかなければ、ものの役には立たない。義務が慣習と結びつきやすいとなれば、善き慣習を人間社会に植え付けるしかあるまい。そして、義務は自律的、自制的となるはず。しかしながら、この善き慣習というやつが一向に見えてこない...

4. 孤独の有用と自然の理法
プーブリウス・スキーピオーは、常々こう語ったという。
「自分はひまなときほど、ひまがなかったときはなく、ひとりでいるときほど、ひとりでなかったことはない。」
暇にあっても公事を考え、孤独にあっても自分と語るを常とし、他人と語る必要性すら感じなかったとは。余人にとっては退屈病にさせ、怠惰とさせ、不安に陥れる孤独や暇を、哲人は喜んで招き入れる。それを義務とするかのように。哲学とは、叡智への熱愛に他ならないというわけか。真の自由人とは、孤独や暇を存分に謳歌できる人を言うのであろう。キケローは、こんな原理を要請してくる。
「道徳的に高貴なもののほかは、何ひとつとしてそれ自身のために求められるべきものはない。」
最高善は、しばしば有利さと背反するように見えるが、人類の普遍性において、けして矛盾しないという。富があり裕福であることに越したことはないが、それよりもはるかに優先すべきものがある。ただ凡人は、その優先順位を逆転させる。自然に順応して利益を得る者が、他人を害すようなことはすまい。道徳的な高貴さを備えた有利性を否定するならば、共同社会を否定するようなもの。ダーウィンの自然淘汰説は、なにも弱肉強食を正当化したものではあるまい。地上に豊富な生命を溢れさせ、共存するには、生命体が多様性に富む必要がある、というのが真意だと思う。ただ、その多様性も、普遍性においては価値観を共有する必要がある... などと言えば、凡庸な、いや凡庸未満の泥酔者には高貴過ぎる!
そもそも政治が、不自然な存在ということはないのか?実際、毒を以て毒を制すの原理でしか機能せず、有害物質の有機体のような存在ではないか。しかしながら、悪があるからこそ善が覚醒する。善と悪、道徳と不徳は、鶏が先か卵が先かの関係にある。相対的な認識能力しか発揮できない人間にとって、脂ぎった動機も、純粋な動機も必要なのであろう。それとも、不利益なこと、すなわち道徳的高貴に反することを、一度もやったことがない聖人のような人間が、過去に居たというのか?偉人たちは崇拝者によって神話化され、もはや最高善は空想の中にしか見当たらない。自分の悪に気づかないとすれば、罪も感じられない。ならば、善人だと思っている者ほどタチが悪いということはないのか?罪を自覚できる者の方が、はるかに自然の理法に適っているのでは...

2015-08-23

"友情について" キケロー 著

友情などという言葉に照れ臭さを感じるのは、魂が腐っている証であろう。「老年について」(前記事)の姉妹篇ということで、つい手を出してしまう...

人は、なにゆえに友情を欲するのか?寂しがり屋だからか?SNS の旺盛な社会では、友人を作ることも手軽となった。だがその分、たった一人の親友をつくる難しさを思い知る。小さな友情を集積すれば、エネルギー保存則では同じか。はたして自分の周りに、親友と呼べる者が一人として存在するだろうか?悪友と呼べる奴ならいるんだけど...
有識者たちは、友情の掟のようなものを唱える。自分とまったく同じ立場で考え、互いの思いは共有すべきだと。そして、苦しい時だけ分かち合うことを望み、都合よく頼りにし、それに応じなければ裏切り者呼ばわれ。そういう輩ほど、絶大なる信義と正義を持ち出し、平等対等の立場を強要する。友情の生贄を差し出せというのか。あるいは、自分にない才能の持ち主を友人にせよ、と勧める輩は実に多い。友人から見返りを求めよ!というのか。友情も愛情も似たようなもの、愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない...
「友情は実益のためにあると言いなす連中は、最も愛すべき友情の絆を捨て去るもののように、わしには思える。友人によって得られる実益より、むしろ友人の愛そのものが嬉しいのだから。」

では、友情とはどのようなものか?キケローは、生きるに値する人生を問いかけながら、こんな掟を制定する。
「恥ずべき事は頼むべからず、よし頼まるとも行うべからず」
本書は、友情を育む人を、賢者とは別に「秀れた人」と表現している。そして、友情の資質に徳を持ち出し、徳こそが友情を結びつけ、保ち得るものとしている。徳には万物の協調があり、不動、安定の節義があると。
なるほど、善き友情を育むには、まずもって自分自身が善く生きよ!というわけか。賢者の類いであることは間違いなさそうだし、別段、賢者と呼んでも差し支えあるまい。友情が徳であるならば、実に多くのことを含んでいるはずだし、徳を知ろうとする自己愛は、啓発された自己愛でなければなるまい。結局、友情とは自分の人間性と向き合うこと... というわけか。だから、類は友を呼ぶということも自然に起こる。
「それなくしては友情もありえぬ徳というものを尊び、徳以外には友情に勝るものはないとまで考えよ、と君たちには勧めておく...」

1. 「友情について」
「老年について」では大カトーの聞き手であった若きガーイウス・ラエリウスが、今度は熟年の語り手となって登場する。キケローによると、人生を語るべき人物が大カトーだとすれば、友情を語るべき人物がラエリウスというわけだ。
場面は、無二の親友、小スキーピオー(スキピオ・アエミリアヌス)の死後、ラエリウス邸に二人の娘婿を招いて友情談義に浸る。二人とは、ガーイウス・ファンニウス・ストラボー(紀元前122年執政官)と、クイントゥス・ムーキウス・スカエウォラ(紀元前117年執政官)。キケローは、父親からスカエウォラに弟子入りさせられ、ラエリウスの噂話を耳にしたようである。つまり、自分の師が師と仰ぐ人物を語り手に据えた物語というわけである。その根本信念には「老年について」と同様、魂の不死を置く... 友人は死んでも友情は死なず!
「友に死なれた場合、大抵の人を苦しめることになるあの間違った観念から自由であるという慰藉がある。スキーピオーには何ら悪いことは起こらなかったと思う。起こったとすれば、わしに起こったのだ。但し、それを己の不幸として余りにひどく苦しむのは、友の身ならぬわが身を愛する者のすることだ。」

2. 友情の掟
友情には、絆の強制執行よりも、どこか遊び心がほしい。柔軟な豊かさとでも言おうか。似たもの同士であっても、何か違うものを持っているし、尊敬できる部分がある。思いを共有しなければならない息苦しさなんぞ、人間の多様性を否定しているようなもの。そして、友情に疲れ、愛情に疲れ、恨み、妬みを募らせていく。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求めるではないか。本書は、第一の掟をこんな風に唱える。
「友人には立派なことを求むべし、友人のためには立派なことをすべし。頼まれるまで待つべからず、常に率先し、逡巡あるべからず。敢然と忠告を与えて怯むことなかれ。善き説得をなす友人の感化を友情における最高の価値とすべし。勧告にあたりてはその感化を率直に、かつ必要に応じて峻厳に用い、感化の及びたる時は従うべし。」
過度な友情は煩わしい。完全に心の許せるような人物に、これまで出会ってきたであろうか?親兄弟ですら鬱陶しいというのに。仲の良い友人ほど、うまく距離を保ちながら付き合ってきたような気がする。離反したくないという意識が、本能的に働いているのだろうか?
一方で、無条件で信頼しているところがある。互いの生き方に共感しているからであろう。友人の生き方が刺激となることは多々あり、どこか張り合っているところがある。自分をさらけ出せない世界で、どうして真の友情が育めよう。そして、酒を酌み交わしながら互いに醜態を晒し、いっそう心地よい存在となり、十年ぐらい顔を合わせていなくても身近な存在であり続ける...

3. 類は友を呼ぶ
「人間の本性ほど自分に似たものを強く求め、渇望するものはない。」
善き人に善き友人ができることは、自然の法則であるという。真の友人とは、第二の自己のようなものであろうか。真に学問を愛する者、真に真理を愛する者、真に人を愛する者は、見返りを求めたりはしないものらしい。ではなぜ、そんなものを求めるのか?真理とやらは、よほど心地よいものらしい。
しかしながら、大抵の人は自分にないものを持った人を求めるし、どうしても損得勘定が頭から離れない。学問をするにしても、報酬や役職を求めてやまない。あるいは、同じ苦悩を抱えているというだけで、仲間意識を持ちたくなるものである。財力、能力、権力を持ち、あらゆるものを手に入れながら、友情が手に入らないとは、なんと馬鹿げていることか。
友人を選ぶためには、互いに手探りをし、試さざるを得ない。だが、友情という言葉を崇め、美化するあまりに、判断よりも先に試す機会を潰していく。
ちなみに、カトーの言葉に、こんなものがあるそうな。
「ある人にとっては、優しそうな友人より辛辣な敵の方が役に立つ。敵はしばしば真実を語るが、友人は決して語らぬから。」
友情の在り方は多種多様な上に複雑で、疑いや立腹の原因はいくらでも転がっている。そして、多くの前兆があるにもかかわらず、目を背ける。「世辞は友を、真実は憎しみを生む。」とは、よく言ったものだ。友情が見えなくなるということは、自分自身が見えなくなるということか。恋は盲目と言うが、その類いであろうか...

2015-08-16

"老年について" キケロー 著

Cicero(キケロー)は、現代イタリア語では「Cicerone(チチェローネ)」となり、「観光案内人」という意味になるらしい。この雄弁家は、人生の案内人にでもなろうというのか。なるほど、ポジティブ老年論というわけか...
「人生の行程は定まっている。自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれの時にふさわしい性質が与えられている。少年のひ弱さ、若者の覇気、早安定期にある者の重厚さ、老年期の円熟、いずれもその時に取り入れなければならない自然の恵みのようなものを持っている。」

キケローは問いかける... 生あるものは、いつか老いる。それは惨めなことであろうか?はたして老年は幸福を妨げるものであろうか?
幼年期に青年期を迎え入れるよりも、壮年期に老年期が忍び寄る方が、はるかに速く感じられる。長く生きるほど相対的に時間を短く感じさせるのか、あるいは、迫り来る死への焦燥感がそうさせるのか。やがて心配症を募らせ、僻みっぽくなり、頑固になり、嫌味の一つも口にしないと気が済まない。説教することがストレス解消の手段にされるとは。愚か者ほど己の欠点や咎を歳のせいにするものらしい。死への嫌悪が、人生を無駄に過ごした諦めがたい失望に対して比例するとしたら、それを老齢で悟るのは辛い。人生の目的は目的ある人生を生きることだ!と励ませばなおさらである。
「幸せな善き人生を送るための手だてを何ひとつ持たぬ者にとっては、一生はどこをとっても重いが、自分で自分の中から善きものを残らず探し出す人には、自然の掟がもたらすものは、一つとして災いと見えるわけがない。何よりも老年こそ、そういった種類のものなのだ。」

言葉で自己弁護をしなければならぬ惨めさは、なにも老年のものだけではあるまい。興奮と激情のうちに心を乱しやすいのは、むしろ若者の方である。奉仕と訓育の精神のうちに、整然と穏やかに語られる言葉にこそ諭す力がある。多くを学びながら老いていく、これを喜びと感じることができれば、これほど幸せなことはあるまい。熟成された美酒に価値を求めるように、老年だからこそ見出せる価値がある。いくら青年の体力を欲しても、青年時代に獅子や虎のごとく体力を欲したわけではあるまい。最初から体力には限界があり、行動範囲も限られていることを承知しているではないか。下を見ては慰め、上を見ては羨むだけのこと。人間はいつまでも餓鬼のままであり続け、何かを欲してやまない。飢えと渇きの中をさまようがごとく。
孔子は... 十五で学問を志し、三十で自立し、四十で迷わず、五十で天命を知り、六十で人の言葉を受け入れ、七十で思うがままに生きよ... と人生戦略を語った。人生とは、死ぬ瞬間をいかに生きるかの準備期間ということであろうか。
人が必要以上に心配症を募らせるのは、対象の正体が見えない時である。死という得たいの知れないものが確実に近づくと知れば、恐怖に慄き、慌てふためくのも自然な反応であろう。だからこそ、その準備を怠らないようにしたい。常に何かを知り、学ぼうとする意欲を持続させる、それは年齢に関係ない動機であろう。
「節度があり気むずかしさや不人情とは無縁の老人は耐えやすい老年を送るが、苛酷さと不人情は、どの世代にあっても煩わしいものなのだ。」

本物語は、古代ローマの政治家、大カトーことマルクス・ポルキウス・カトーが、文武に秀でた二人の若者小スキーピオー(スキピオ・アエミリアーヌス)とガーイウス・ラエリウスを自宅に招き、自ら到達した境地を語る対話篇。その議論は、老年が惨めだとされる四つの理由を列挙し、これを論駁する形で展開される。四つの理由とは、公の活動から遠ざけられること、肉体を衰弱させること、快楽を奪われること、そして、死に近づくこと。
今、流行りのごとく口にされる「高齢化社会」という言葉には、暗いイメージがつきまとう。老いると目や耳が衰え、思考や記憶が鈍り、生きることも難しくなる。しかし、老年が精神の成熟した姿であるとすれば、どうして社会的弱者と見なせようか。
ここには、ソクラテスの魂「善く生きる」が受け継がれる。では、善く生きるとはどういうことか?誰しも、老年の重荷を軽くしたいと願う。名声や肩書といった過去に縋って生きるとすれば、それは既得権益に縋るも同じこと。目指すものがなくなったと言うなら、それは人間を悟ったと自負しているようなもの。人類の目的が叡智を伝承することにあるとしたら、それに励みたい。魂の不死と永劫回帰を信じつつ。
... などと書いてはみたものの、泥酔者には叡智が何たるか?一向に見えてこない。いや、見えないからこそ心地良いのかもしれん。真理を悟ってしまえば、残りの人生は色褪せてしまうだろう。自然に服従し、自我に服従するしかないということか...

2015-08-09

"室町の王権" 今谷明 著

「室町時代は、天皇の権力を圧伏しようとする動きが極限に達した段階であるとともに、権力・権威をいったんは喪失した天皇が、新たな権威、つまり既成権力よりも高次の調停者としての地位を得て、不死鳥のように復活してくる時期でもあった。」
なぜ天皇家は存続し得たのか?それは千古の謎である。網野善彦氏は著書「無縁・公界・楽」の中で、民俗学や人類学の観点からこの難題を問うた(前記事)。伝統の力に対する精神的な後ろめたさのようなものを。今谷明氏は、政治権力や政体構造の正面からこれを問う。どちらが王道かと問えば、学術的にはこちらの方ということになろう。しかしながら、王道ってやつは、邪道と調和してこそ映える...

日本の歴史は、天皇を超える実力者を数多く輩出してきた。平清盛や源頼朝、あるいは北条氏、足利氏、徳川氏など。彼らは真の国王になろうと思えば、いつでもなれたはずだ。この手の議論では天皇神職説なるものをよく耳にする。民衆にとって、神のような存在であったことは確かであろう。だがそれは将軍とて同じで、やはり雲の上の人であったに違いない。では、天皇と将軍を区別するものとはなんであろうか...
西洋の歴史にも、類似の現象が見られる。神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、いくら権力を振りかざしたところで、教皇グレゴリウス7世に破門だけは赦してくれ!とカノッサ城の門前で三昼夜泣きついた。フランス王フィリップ4世は、ローマ教皇をアヴィニョンに幽閉したものの、教皇制の根絶には至らなかった。
人間社会には、権力や武力だけでは征服できない何かがある。僭主的、専制的な政体が一時的に出現しては衰退し、最終的に世俗慣習として根付いてきた側が勝利してきた。人間ってやつは抑圧が激しいほど信仰心を強め、私欲的な圧政に対抗しては人間本性的な自由精神を覚醒させる。かつて天皇や将軍を超越し、信仰を超越し、人々の精神までも征服できた君公が一人として出現したであろうか。
社会秩序を構築するには、どこかで伝統の力や慣習の力に縋ることになる。政体や法律が完全な客観性で説明できるならば、過去に頼るまでもない。だが、人間社会が絶対的な価値観に達し得ない限り、過去と現在を比較しながら相対的な価値観を育んでいくしかあるまい。但し、人間の学習能力がどれほど当てになるかは知らん...

本書には挑戦的な副題が付せられる。「足利義満の王権簒奪計画」... この推理小説ばりの文句にイチコロよ。注目したいのは、天皇制の存続を官位や官職とセットで捉えている点である。つまり、律令体系を利用して取り巻き連中を格付けすることが、いかに首長の地位を安泰せしめたかということ。
古代中国では官位制度は王朝が交替する毎に改変されたそうだが、日本では8世紀に確立し、千年以上も連綿と続いてきた点で、世界に例をみない特殊な構造であるという。地方の有力者の中には、異常な執念を燃やし、官位獲得に大金を投じる者も数知れず。現在とて、あらゆる組織において肩書や名目上の権威を欲する風潮があるが、その意識の源がこのあたりにあるのかもしれない。
公家はもとより武家も、国司や守護など地方の実力者も、この体系に組み込まれていく。そして、武力集団の頭領に対しては、征夷大将軍という地位に押し込めた。下克上を掲げる戦国大名ですら勅命には逆らえない。実力者に世俗的な権力を認めつつも、叙任権や祭祀権といった信仰的な儀礼にまでは口を出させないという寸法よ。
しかしながら、こうした慣習に逆らおうとした実力者が、いなかったわけではない。本書は、足利義満が叙任権や祭祀権、すなわち精神の体系までも巧みに支配しようとしたことを物語ってくれる。最高権力者として相応しい待遇と儀礼を要求したことが、「義満の僭上」と言われる所以か。
義満の宗教観には、中国崇拝思想があったという。しかも、神祇、神道に否定的な観念の持ち主で、信仰心に乏しいとか。この中国かぶれは、中国皇帝の封禅の儀を強く意識し、陰陽道の下で盛大な祈禱体系を作り上げていく。封禅とは、皇帝が政治上の成功を泰山で天地に報告する国家の祭典で、秦の始皇帝に始まり、漢の武帝、後漢の光武、唐の高宗と玄宗、宋の真宗などが莫大な財源を投じて行った盛儀である。日本では、泰山府君祭がまさにそれか。
義満の派手好きは、金閣寺にも見て取れる。将軍はあくまでも世俗権しか持ち得ないので、これを超越するために、神道に疎い人物があえて出家する。外交政策においては、中国では律令体制における最高位が国王と見なされるため、天皇を超越する官位を模索する。実際、義満は明帝から「日本国王源道義」の封号を受けている。こうして国内外に既成事実をこしらえ、天皇と将軍を超越して真の国王になろうとしたというのである。
「天皇制度を、なんらかの意味で改変するには、外来思想を借りることが必要で、外来思想を拒否したとき、必然的に神国思想 → 天皇へともどるしかなかったのだと思われる。」

はたして、義満の野心が「王権簒奪計画」と呼べるほどのものであったのか?誰でも一度は、子供心のままに出世物語を夢見るものであろう。社長になりたい!大統領になりたい!といった類いである。ましてや、それが目の前にぶら下がっているとなれば...
結果的に、義満の急死によって野望は途絶え、天皇家はなおも存続することになる。義満が示したことは、国家として一つにまとめるためには、世俗権力だけでは不十分だということ。すなわち、社会の構成員に浸透した信仰や慣習をも取り込まなければならないということであろうか。
明治維新政府もまた、西欧列強国と対抗するために、幕府体制では国家は一つになれないことを熟知していた。封建社会の象徴天皇と民主社会の象徴天皇とでは、その意味も意義も大きく違うであろうが、いかなる宗派にも、いかなる党派にも属さないからこそ、高次の調停役になりうることに変わりはあるまい。にもかかわらず、現在ですら天皇家を政治利用しようとする動きは後を絶たない...

1. 治天の君
天皇が実際に政務を執らず、代行者を置くという例は枚挙にいとまがない。古くは推古天皇における聖徳太子の摂政など。それは、あくまでも例外的、臨時的措置であって、やはり親政が基本にある。
ところが10世紀頃、摂政や関白の方が定着し、天皇不執政という恒常的な慣習転換をもたらす。摂関政治の本質は、中国漢王朝にも見られる外戚政治にあるという。廷臣の最上層を構成する藤原北家が、女子を入内させて天皇の舅となって実権を握るという仕組みだ。とはいえ、恒常的な律令官僚と公卿の議定政治の枠組みは健在で、形式とはいえ天皇が百官に君臨していたことに変わりはない。
11世紀になると、律令的太政官制の原理を根本から覆す宮廷革命によって、本格的な院政が成立する。歴史の教科書あたりでは、白河上皇の退位1086年から平家滅亡の1185年頃までが院政と呼ばれるが、本書は、南北朝末期の後円融上皇が死去する1393年まで三百余年を指している。院政を布く上皇は「治天の君」と呼ばれ、白河上皇が譲位して幼帝の堀河天皇を後見し、「太上天皇」という形が定着したという。院政が天皇を上皇が操る傀儡政権であるならば、さらに武力で実権を握った幕府政治は傀儡の傀儡という形を帯びてくる。権力の二重構造に、影の二重構造。
平家一門が都落ちした時、平氏に擁立された安徳天皇は拉致され、神器とともに西海に沈んだが、治天の君である後白河上皇は京に居座り、神器抜きでも後鳥羽天皇を立て、王統の延命を図ることができた。本書は、天皇家が、治承、寿永の乱、すなわち源平合戦を生き抜いた要因に、この皇統の二重構造を挙げている。
院政の最大の利点は、責任の所在を曖昧にできることにある。失策や危機に際して、トカゲの尻尾きりで権力の延命を図るとは、まさに現在の企業組織や官僚組織で見られる構造だ。黒幕政治の好きなお国柄は、このあたりからきているのかは知らん...

2. 親政の失敗が意味するもの
しかし、いつも責任回避が成功したわけではない。天皇家あげて鎌倉幕府に対決した承久の乱は、未曾有の危機であったという。北条泰時は、治天の後鳥羽院以下、三人の上皇を島流しに処し、廟堂から反鎌倉派を一掃。だが、止めを刺すことはできなかった。北条氏は源氏ほどの威厳はなく、天皇家に取って代わるほどの統治能力もない。摂政、関白、大社寺など討幕計画に関与しなかった荘園領主や権門は依然として健在で、これらの勢力を天皇の尊厳なしで統治することは難しい。泰時は父義時と謀って、皇位の経験のない持明院宮守貞親王を治天に立て、その子、後堀河を擁立して王統の再建を図る。形式的に天皇を置いて、遠隔操作する方が現実的というわけだ。
鎌倉幕府は、鎌倉殿と全国の御家人との主従関係で成り立つ東国国家。その統治能力は、いかに御家人たちを支配するかにかかっている。巨大な外敵が現れれば、国家はいっそう団結が求められる。蒙古襲来で、いざ鎌倉!を発令。その外交処理では、モンゴルの使節に対して、外交の顔は天皇とする建前は崩さない。
だが、鎌倉幕府の打倒にも天皇は利用される。1321年、後醍醐天皇は院政を廃止して親政を取り戻し、1333年、建武の新政を樹立。後醍醐の構想は封建王政を目指したとも、中国宋朝型の皇帝専制支配を模範にしたとも言われるが、武家の支持を得られず、おまけに中央集権的官僚制を構築しようとして、公家や寺社などの既得権益を奪ったために離反され、短時日に崩壊。後醍醐の失敗は後を引き、天皇家の存続が許されるならば、象徴的な存在でもいいよ!という印象を強烈に与える。
足利家は再び院政を復活させ、持明院統の光厳上皇を治天に立て、その弟、光明天皇を即位させる。つまり、幕府の都合で北朝側の天皇を擁立した。だが、尊氏の弟直義派と、嫡男義詮派で対立し、それぞれ南朝と北朝の天皇を取り込もうとする。
1352年、南軍による三上皇と廃太子の拉致事件が起こる。北朝側の義詮の政治を困惑させようという狙い。後継者を失い、万策尽きた幕府は、後伏見上皇の女御、老女広義門院(西園寺寧子)を治天に立てた。つまり、皇家ではなく、しかも女性だ。老女院は光厳の実母でもあり、光厳の末子、弥仁を新帝に擁立する案を出す。弥仁は仏門に入っていたので、拉致を免れていたのである。老女院は、二度の要請を蹴っているという。幕府にとって天皇は、形式上、征夷大将軍を任命する存在に過ぎないが、いかに切羽詰まっていたかを物語っている。
こうして院政史上初めて、女性の治天の君が登場したわけだが、称徳天皇以来、六百年ぶりの女性国王誕生であるという。ちなみに、従来の院政研究では、広義門院を治天の歴代に数えないという。太上天皇の尊号も持たないのだとか。その段取りでは、神器を持ち去られていたことが問題となる。神器なき地位は正当性に欠け、北朝の権威を低下させたという。天皇に依存しない武家政権の樹立が、将来的な課題として明確になったとも言えよう...

3. 天皇家最後の国王 vs. 将軍家最初の国王
源氏の鎌倉幕府は御家人の支配を重視し、王朝に対しては不干渉路線をとったという。対して、北条氏の鎌倉幕府は皇位継承に介入しているようだ。さらに室町幕府は、しばしば王朝の裁判にも介入しているとか。上皇の裁判機関「院の評定制」は、14世紀後半にはほぼ廃絶し、わずかに「勅問制」によって寺社僧官の人事などが細々と決定されたという。この時代には、治天の君は世俗の裁判権をほぼ喪失しているようだ。朝廷の諸機関がほどんと形骸化する中、検非違使庁だけが南北朝末まで京都の警察権を保持していたぐらいだとか。
朝廷の権限を接収する人物として、将軍足利義満と管領斯波義将が重要な役を演じる。後円融天皇が践祚したのは14歳の幼年で、義満も同年。この頃、幕府は管領細川頼之が動かしていた。頼之は、公家や寺社の荘園を保護する半済令を発布するなど、対公家協調路線をとり、公武関係は比較的安定していたという。
だが、寺社勢力に妥協するあまり、禅宗などの新興教団に犠牲を強い、五山に気脈を通じた斯波義将ら強行派と衝突。1379年、頼之は康暦の政変で失脚する。この事件で斯波義将が管領となり、後円融と義満も成人に達し、公武関係は融和路線から一気に緊迫した時代を迎える。
1382年、後小松天皇が践祚し、後円融が治天となって院政を布く。征夷大将軍足利義満は、左大臣に昇進。祖父尊氏、父義詮はともに大納言まで昇ったものの、義満はそれ以上の実質的な称号を求めたという。
ところで、義満と後円融には、意外にも血縁関係があるそうな。ともに母親が姉妹であり、紛れもなく従兄弟。幼い頃から同族意識があり、天皇家に対する劣等感やコンプレックスといったものがない。宮中万般の作法を習い、宮中の最有力者たちが義満に肩入れすれば、廷臣たちも追従する。義満が美しい妻女を所望しては側室に容れる、というのは有名な話である。公卿中山親雅の妻加賀局、義満の弟満詮の妻誠子、日野資康の妻池尻殿らはみな、義満に差し出された妾だそうな。差し出す側も栄達を得るためで、妻を取られたという惨めさは微塵もないのだとか。消極的ながら反抗する者もいたらしいが、地位を略奪されるとなれば、まさに恐怖政治!持明院基明のように出家遁世を余儀なくされ、没落した者は数知れず。義満のやり口は、公家の建前を大切にしながらも、巧妙に内々で処理する政略家だったという。幕府から奏聞があれば、よほどの事情がない限り治天の側で承諾するのが、慣例になっていたとか。
しかし、後小松天皇の践祚に際して、後円融は突っぱねた。結局、摂政二条良基と将軍義満の協議によって、上皇の勅許なきまま即位の段取りが決められるのだが...
そして、後円融はスキャンダル沙汰に晒される。「後愚昧記」の著者三条公忠の娘三条厳子は、後円融の上臈局で後小松の生母。彼女が出産のため三条家に里帰りし、無事出産を終えて内裏に出仕した時、後円融はなにを逆上したか?厳子を峰打ちし、大怪我を負わせたという。これが流言となり、上皇は御没落されたという噂が広まったとか。
今度は、上皇の妾按察局(あぜちのつぼね)が出家したという事件。按察局が義満に密通していると告げた人物がいるらしい。これに激怒した後円融が内裏を追い払ったというが、真偽は不明だそうな。そうすると、三条厳子も義満と密通していたために逆上したのか?などと疑いたくもなる。
女性たちの義満との密通は、後円融の被害妄想だったのか?義満に女を寝取られた惨めな上皇というイメージを世間に与える。側近が将軍が上皇の配流を考えているなどと進言すれば、自殺してやる!と喚き立てる。これが自殺未遂として噂が広まるという前代未聞の珍事まで起こったという。ますます権威を失墜させ、上皇は孤立していく。こうした逆上事件は、豊臣秀次を切腹に追い込んだ事件に重なって映る。情緒不安定な上皇を精神的に揺さぶり、とうとう後円融は義満と対決する気力を失い、沈黙したという。だがこの時点では、まだ天皇家の格式は据え置きしたまま。いくら上皇の権威が失墜したとはいえ、権力だけでは宗教的な権威までも奪うことはできないという課題をつきつける...

4. 叙任権と祭祀権の簒奪
後円融の死後、最大の公家人事は、南朝の後亀山院に対する太上天皇の尊号宣下であったという。幕府にとって南朝は「不登極帝」、すなわち皇位に就いていないダダの人。この宣下は、義満の内意によって行われたとか。
官位や官職は慣例により公家が独占してきた。武家がそこに割り込むには、賄賂のような姑息な手段を要する。既に義満政権は、官位、官職の人事権を掌握していたようである。義満は、寺社官の裁判権(安堵権)をも後円融から受け継ぎ、僧侶や神官の形式的な任命権の領域にも踏み込んでいるという。
地方寺社の僧官、神官の人事権の一部が早々武家に帰した理由は、既に鎌倉時代にあるらしい。1232年の御成敗式目には、関東御分国、すなわち鎌倉幕府直轄の知行国、関八州と九州の一部に限り、御家人武士らに「神社の祭祀」、「仏事の勤行」を義務付け、東国では地方祭祀権が早くに幕府に握られていたという。さらに、追加法で守護大名に仏神事興行を命じるようになり、「管国内寺社」に関する権限が付与されたとか。流鏑馬などは武士の行事に映るが、祭礼と結びつけて主催されたようである。
そして、足利家による顕密寺院の門跡独占は、義満の死後、子の義持の執政期に至って、ほぼ目的を達したという。足利家は黄金時代である義持の代で、五山と北嶺、東密などの有力寺社を配下に組み入れたが、摂家入室を鉄則とする南郡の興福寺だけは、室町時代を通じてついに武家の入室を拒み続けたという。
また、祭祀の実行ですら武家に介入されたにもかかわらず、依然として律令祭祀の大宗は維持されている。天皇家もまた、祈禱の儀式によって鎮護国家の一部をなしている。律令祭祀を上回る武家の祭祀、あるいは国王の祭祀というべき新たな宗教的権威を、いかに構築するか?
当時の国家的祈禱には、朝敵や謀反人の追討、天下静謐、地震や彗星などの天変地妖を祓う修法があるという。修法は宗派によって異なるが、代表的なものには台密や東密で重視される「五壇法」がある。台密とは天台宗に伝わる密教で、東密とは真言宗に伝わる密教のこと。秘密に教えられる高貴な段階というものがあるのか、悟った者にしか教えられない境地というものがあるのかは知らん。
この崇められる祈禱の領域に踏み入ることこそ、義満の目指すところであろうか。そして、征夷大将軍という俗界の官位を捨てて出家しなければ、最高権威である祈禱権を得ることはできないということか。義満は太政大臣に昇ると、将軍位を子の義持に譲るが、実権は手放さず院政を敷き、西園寺氏の山荘を接収し、壮麗な北山第を造営したという。金閣寺の名で親しまれている鹿苑寺である。今日、金閣寺を義満の山荘跡と呼ぶのはまったくの誤りで、山荘どころか国家の中心的な政庁、宮殿であったという。そして、叙任権と同様、祈禱という名の祭祀権を治天から継承したことは、公武を超越した国王の祈祷という位置づけであったと指摘している。
義満の真骨頂は、あからさまに命令せず、伝奏や側近に自発的に提案させるように仕向けることだという。権力をふりかざして脅すのでは、それこそ暴君であり、むしろ権威は半減する。その典型例として、相国寺大塔供養におけるものを紹介してくれる。義満一代のうちで、最大規模の儀式であったという。
応永元年(1394年)、火災で相国寺が全焼し、応永6年に七重大塔の供養が行われた。供養式は、亡父義詮の三十三回忌と、義満自身42歳の重厄祈禱を兼ねていたという。相国寺は京都五山の寺格。異例だったのは、五山禅宗の建立にもかかわらず、供養の呪願師は仁和寺永助法親王、導師は青蓮院尊道入道親王と、顕密の最高僧侶を招いたことだという。つまり、宗派を超えた国家レベルの大セレモニーというわけだ。人々を驚かせたのは、義満の行列が出立にあたり、永助、尊道の両法親王が扈従を申し出たことで、さすがに義満も辞退したらしいが、この辞退の効力が抜群だったとか...

5. 勘合貿易(日明貿易)と権威工作
いくら明帝から国王の封号を受けたところで、明帝がどんなものか、一般社会にはあまり認知されていない。義満は、建文帝の返詔を安置した机の前で焼香を行ない、三礼した後、跪いて返詔を拝見するというパフォーマンスを見せたという。そして、自ら明帝に「臣」を表明する。天皇にも見せない儀礼を見せれば、民衆にも重みが伝わるであろうか。外交的には、明帝に足利家の家督を日本国王と認めさせたことで、自動的に朝鮮でも認められ、日朝間の外交ルートが成立したという。勘合貿易の成立が、義満に貨幣発行権をもたらしたという見方もできそうか。
平安末期以来、宋、元、明の中国銭を貨幣としてきたのは、中国貨幣が国際通貨として東アジアで卓越していたことを物語る。だが、民衆はそんなことに無頓着だ。ましてや、この時代に海外と直接交流のある商人も限られているだろう。はたして義満の権威工作が、民衆にどこまで浸透していたのか?もっとも権力者に民衆感覚なんぞ関係なかろうが...

6. 百王説
義満は、「百王の墜緒」について尋ねてまわったという説があるそうな。その意味は、古事記にある。文字通り解釈すれば、王が百代で滅亡するということだが、百年安泰や千年王国という言い方をするので、むしろ長く続くという意味が込められている。
しかし、義満の問うたのは、古事記ではなく、野馬台詩にある「百王流畢竭」の方だという。「百王の流畢(おわ)り竭(つ)き...」とは、ある種の終末論か。
天皇歴代の数え方は種々あり、鎌倉初期の僧侶、慈円の「愚管抄」にはこう記されるという。
「神の御代は知らず、人代となりて神武天皇の御後、百王と聞ゆる。既に残り少なく、八十四代にも成りにける中に...」
八十四代を順徳天皇にあてると、後円融天皇が百代になるのか?だが南朝が絡むとややこしく、後小松天皇が百代になるのか?いずれにせよ、義満が卑俗的な説を求めたのは、百王の後を受け継いだ充足感か?英雄伝を確実なものにしたかったのか?あるいは、王権簒奪の正当性に自信が持てなかったとしたら、義満といえども後ろめたさのようなものがあったのか?野馬台詩は梁の宝誌の作とされ、これまた中国思想に救いを求めている点では、義満の思想観念は一貫しているようだ...

7. 三代目の宿命と象徴天皇の宿命
お家は三代目の力量でその後の運命が決まると、よく言われる。企業組織などでも。二代目は、創業者の権威がまだ残っているので、素直に従属するタイプが相応しいとされる。だが、三代目ともなると安定期に入り、体制が真に確立されるかが問われ、トップが遊びホケて潰すといった例は多い。本書は、義満を典型的な三代目と評している。だが、遊びホケる方ではなく、祖父尊氏に似ても似つかぬ野望の持ち主であると。
ただ義満の死後、数奇な運命に弄ばれた子弟が多いのは、陰謀の反動か?三代目の直系が呪われているのか?次男義嗣は、還俗して親王に擬せられたが、権大納言となった後、上杉禅秀の乱に連座して死刑。三男義教は、長男義持の死後、クジで将軍となり、嘉吉の乱で暗殺。義昭(義満の子息の方)は、還俗して後南朝に擁されたが、義教に叛し、日向で死刑...
ここで興味深いのは、鳴かぬホトトギスの句で喩えられる三人の中で、最も温厚な性格とされる家康が、極めて義満路線に近いと指摘している点である。比叡山を焼き討ちにした信長ですら、本願寺との和睦で天皇に仲介を求めた。ただ、権威を利用するだけ利用するという方針だったのかもしれんが。
信長、秀吉、家康は、ともに一向一揆に悩まされてきたが、ここにも天皇家が関与しているらしい。家康と石田三成が争った関ヶ原の戦いでも、和平調停を試みているとか。さらに、秀頼を大坂城で包囲した冬の陣でも、家康の老体を案じた文面を示しながらも、強硬な和平勧告を与えたという。
こうした騒乱は、公家から見れば武家の内輪揉めに過ぎない。それでもなお平和を望んだとすれば、まさに王者の権威ということになりそうだが、はたしてどうだったのか?
江戸幕府は、天皇の調停役を抑えこむために腐心する。禁中並公家諸法度の交付、紫衣事件など次々に管理強化を打ち出し、天皇が一切の政治的行為ができないよう目論む。フランス王が教皇をアヴィニョンに幽閉したように、徳川家もまた天皇を土御門内裏に幽閉したというわけか。いわゆる「陽尊陰抑主義」を打ち出し、表向きは天皇家を尊びながら、実際には厳しい規制を加え抑圧したということらしい。
さらに、その意志を最も強く受け継いだのが、これまた三代目の家光だったという。
「外来思想を排除排撃する場合、当時の日本が、神国思想を対置するしか方法がないとすれば、秀吉のキリシタン禁制を復活させた徳川家光の場合も同様であろう。」
しかしながら、徳川家をもってしても、天皇家を潰すには至らなかった。天皇は、幕府だけでなく公家や寺社など荘園領主を含めて、すべての上に君臨する象徴的な権威で、この建前は長い時間をかえて尊厳にまで昇華させてきたようである。その存在感は国王というより、むしろ権門相互間における統合的な調整役という色彩が強いようである。となれば、武力だけで天子様を滅ぼすには、後ろめたさのようなものがあるのかもしれん。やはり気分の問題であろうか...

2015-08-02

"無縁・公界・楽" 網野善彦 著

無縁(むえん)、公界(くがい)、楽(らく)とは、およそ結びつきそうにない概念であるが、本書は、こいつらを思想観念において見事に抽象化して見せる。いずれも仏教用語であることは想像に難くないが、もっと人間根源的なものがありそうである。
「無縁の原理は、未開、文明を問わず、世界の諸民族のすべてに共通して存在し、作用しつづけてきた、と私は考える。その意味で、これは人間の本質に深く関連しており、この原理そのものの現象形態、作用の仕方の変遷を辿ることによって、これまでいわれてきた世界史の基本法則とは、異なる次元で、人類史、世界史の基本法則をとらえることが可能となる。」

歴史学者網野善彦氏は、教鞭をとっていた頃、学生諸君の二つの質問に悩まされてきたことを懐かしそうに語ってくれる。一つは、いつ滅んでもおかしくないほど衰弱した天皇家が存続できたのはなぜか?二つは、平安末期から鎌倉という時代にのみ、優れた宗教家を輩出したのはなぜか?この二つの問いを考え続けた結果の一部を、一つの試論としてまとめたのが本書だという。だからといって、明快な答えが得られると期待してはいけない。どちらも素朴な疑問でありながら、誰一人として完全な解答を提示できない難題であろうから...
歴史研究では、政治の力関係や権力の側から分析するのが、ありふれた考え方としてあるようだ。どんな学問でも、華々しく目立つ側を追いかけたがるものである。本書は、あえて歴史の裏舞台、すなわち風俗や奴婢下人の側から考察を試みている。百姓という用語を一つとっても、一般的に農民と同一視されるが、実に多様な生活様式が存在したことを物語ってくれる。こうしたマイナーな視点を与えてくれる書は貴重であろうし、王道よりも邪道を行くアル中ハイマーにとって刺激的だ。
「実際、こうした非農業民の中で、最も数多く、農業民に十分比肩しうるだけの役割を日本の歴史の中で果したことの間違いない海民(漁民、塩業民、水上運輸に携わった人々、等々)について、現在、専門的に研究している狭義の歴史家が何人いるのか。五指にも満たない、と私は考えているが、農業民専門の歴史家の数と、この数ほどのひらきが、現実の農業民と海民との間に果たしてあるのだろうか。だれしも否ということは間違いない。にも拘らず、これが現実なのである。有主、有縁の世界と、無主、無縁の世界についても全く同様の関係がある。」
注目したいのは、江戸時代に流行った縁切寺、平安末期から戦国期にかけて出現した市(いち)、あるいは遍歴する職人や芸能民たちの慣習を、無縁という共通精神において説明してくれることである。さらに、古代西洋の聖域アジールと結びつけている点も見逃せない。こうした社会現象の共通した動機には、権力や所有の支配、あるいは主従関係から逃れようとしてきた人々の叫びがある。その根源を自由思想と未開人に求めるあたりは、古来、哲学者が口にしてきた人間の自然状態とも言うべきものを彷彿させる...

ところで、現世に絶望してもなお生きる道があるとすれば、それはどこにあろうか。真のアウトローの進むべき道、俗権力の及ばない冥府魔道、人生の目指すべき普遍の真理... こうした修行の旅路が「無縁」の原理として働き、人間としての尊厳を保ちうる。だが、縁切寺に駆け込んだところで、同じ境遇にある者たちの社会が待っており、集団生活のあるところに逃れられない掟が居座ってやがる。結局、公共の場、すなわち「公界」から逃れることはできないではないか。アリストテレスは言った... 人間は本性上ポリス的な人間である、と...
ならば、真の自由はどこにあるというのか。誰も手出しできないアンタッチャブルな聖域はいったいどこに。もはや、孤独と集団性の双方を凌駕するしかない。孔子は言った... 吾れ十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がう、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず、と...
聖人として完成することができれば、そこに聖なる喜び、すなわち「楽」があるとでも言うのか。そんな超人的な姿を、自分自身に描くことは到底無理な話よ。人生の旅路がニーチェの永劫回帰ごときものであるとすれば、微分学の原理に支配されていると言わざるを得ない。つまり、永遠に近づこうとすることは、永遠に到達できないことを意味する、と...
宗教と哲学は似ても似つかぬものだが、思考の発祥(発症)を辿ると同じに見えてくる。まず、どちらもどこか狂ってやがる。一方は救済を求め、一方は真理を求め、どちらも心地良いときた。違いは、見返りを求めるか求めないかであろうか。いや、人間ってやつは、ちっぽけな努力ですら報われようとするではないか。真理を探求する旅にしても、知性を求め、自己の居場所を求めているに過ぎない。無条件に信じられるかどうかなんて違いも、好みの問題でしかないのでは...
それでも一つ言えることは、根拠のない思想を押し付けられる行為が、いかに苦痛であるか!精神活動が受動的か能動的かの違いは大きい。精神の持ち主は誰しも、どこかに心の隙間を抱えており、幸福の押し売りはそこに入り込むので、自分が不幸だと思っている人ほど洗脳されやすい。いや、不幸を他のせいにしている人ほど。
いずれにせよ人間は信仰の対象を必要とするであろう。これからもずっと。心の拠り所となる何かを。世間では、信頼や信用などと呼ばれるやつか。そして、見返りを求めることから自己を解放しなければ、俗欲に幽閉され続けるであろう...

1. エンガチョと無縁の原理
エンガチョとは、方言かと思ったら、日本全国で見られる民俗風習だそうな。「エン」とは縁のことで、それは縁切りの呪い。両手の親指と人差指で鎖の輪をつくり、誰かに、縁切った!と言って鎖をきってもらうと、エンガチョから解放される。このガキの遊びに、穢れの感染を防ぐための特別な仕草が仕組まれている。生活に余裕が出てくると、除け者や嫌われ者といった意地悪な気持ちが混入し、子供心に深刻な影響を与えることもある。
一方で、仲間はずれの存在が魔力を持つと、これを反発心に変えて逞しく生きることを学び、自立という聖なる力を与える。鬼ごっごにも、社会組織を相手取った反発心を育む機構が組み込まれている。鬼をなすりつけるとは、まさに責任転嫁の原理!子供たちは、既に自由精神がなんであるかを本能的に察知し、それを社会に組み込む術を会得しているようだ。大人の方が子供から学ぶことが多いのも道理である。大人とは、脂ぎった知識を詰め込み過ぎて人間の本性を見失った姿とでもしておこうか。
自由精神は、無縁の原理と相性がよく、独立心を育み、自立、自律、自給自足を目指し、自力救済の精神を働かせる。それが個人レベルか、集団レベルかは別にして。
「自由と平和は、あくまでも原始以来のそれであり、その実体は時代とともに衰弱し、真の意味で自覚された自由と平和と平等の思想を自らの胎内から生み落とすとともに滅びていく。だからこそ、世俗の世界から、この自由と平和の世界に入ることはできても、その逆の道を戻ることは次第に困難、かつときには絶望的と思えるほどになっていくのである。」

2. 縁切寺と自由精神
江戸時代、女性には離婚権がなく、三行半の離縁状を書くのは夫の権利であった。とはいえ、事実上の離婚という形はあったようである。例えば、夫が妻の同意を得ずに質入れするとかで、妻が呆れて親元に帰って、そのまま数年放置すると、妻の離婚の意志は認められたようである。実家に帰らせてもらいます!とは、その名残であろうか。縁切寺への駆け込みもその一つで、積極的で最も有効な手段だったという。役人や主人などの第三者から、三行半を書くように説得されたりと。現在でも、ドメスティックバイオレンスの類いで、駆込寺のような場所を必要とする。三行半とは、女性がつきつけるものというイメージがあるが、やはり愛想をつかすのは女性の方であろうか...
さて、鎌倉松ヶ岡の東慶寺と、上野徳川の満徳寺が、縁切寺であったことは広く知られているそうな。離婚を望む女性が、草履や櫛など身につけたものを門内に投げ入れると、追手は手出しできなくなるという寺法に支えられていたという。東慶寺は尼寺で、比丘尼として三年間奉公すると、縁切りの効果が得られるというもの。将軍吉宗が公事方御定書を制定する以前、東慶寺や満徳寺だけでなく、かなりの尼寺が、こうした機能をもっていたと推定している学者もいるらしい。政治権力や法律では制圧できない人間の精神領域、すなわち救済の道というものが自然に出現するとは、人間社会には計り知れない柔軟な機能が具わっている、と言わねばなるまい。アングラ社会もまたその受け皿としての機能がある。抑圧には必ず反抗心が生じる。どこかに救世主が現れ、アジールのような避難場所を提供する。
実際、どんなに迫害を受けても、キリスト教もユダヤ教も生き長らえた。どんなに強力な権力者であっても、人間社会から自由精神を根絶することは不可能であったばかりか、むしろ専制権力の方が自由精神によって打倒されてきた。権力の及ばない社会が事実上存在することに、幕府も不愉快であったに違いない。しかし、完全に消し去ることができないとすれば、公認して監視下に置く方が支配しやすい。慈悲深い将軍様という評判を得ることもできよう。公認とは特権であり、そこに大名たちが癒着することも大いに考えられる。
実際、幕府の制度も緩和され、東慶寺の機能を認める方向へ転換していったようである。東慶寺も満徳寺も、徳川氏の手厚い保護を受け、どちらも由緒ある寺として知られる。慣習力の強さが、政治制度に事実上の柔軟性を持たせることはあるだろう。社会の補助機関として機能した事例には、寺子屋という教育施設もある。いずれも政治権力とは無関係に自発的に生じた成果だ。親は無くとも子は育つと言うが、政治は無くとも社会は育つということか...

3. 宗教法人と無縁所
禅昌寺は、防長五山の一つに数えられ、法幢山禅昌護国禅寺と言われる寺格の高い寺だそうな。加賀大乗寺の明峰和尚の法系を継ぐ慶屋定紹(けいおくじょうしょう)が開山し、慶屋を崇敬する守護大内義弘は荘園を寄進しようとしたが、慶屋はこれを辞退したという。田畑を持たず、ただ国中を遍歴し、托鉢、乞食を行いたいとの願いを、大内義弘は快く認めたという。以来、この寺は開山の教えを守り、田畑を持たず、寺僧たちが夏と秋の年二回、托鉢によって経済を支えるようになったとか。その後、意志を継いだ毛利元就が、その特権を保証する。ここにも、田畑の寄進を俗権力から受けない無縁の原理が働いている。
一方、若狭の正昭院が、鋳造師、猿楽、山伏などの職人や芸能民から零細な田畑の寄進を受けていることと相通じるとしている。托鉢僧もある種の芸能民で、職人や芸能とは切り離せない関係にあるという。中世、遍歴する職人の中に、関渡津泊(かんとしんぱく)の自由通行を認められ、津料などの交通免除の特権を与えられた人々が多く見出されるとか。要するに関所を自由に通れる特権の保証である。禅昌寺の托鉢僧だけでなく、その荷物までも通行の自由が保証されるとなれば、禅昌寺は俗世間から隔離された無縁所となる。
銭も米も、無縁所に駆け込めば税が免除されるとは、これいかに?寄進された田畑もまた無縁の土地となり、もちろんこの土地の売却益も無縁となり、買った者もうまいことやれば無縁所として引き継ぐことができ、誰からも干渉を受けない土地があちこちに出現する。子孫が土地を受け継ぎ、世襲的に権力の及ばない聖域、まさにアンタッチャブル!身も心も金も土地も洗浄されるってか?
現在でも宗教法人は課税対象にならない収入で賄われ、政治団体への寄付も同一視される。マネーロンダリングも、市場を通じて政治権力の及ばない無縁所を経由するとすれば、同じ原理か。なるほど、権力者は無縁所を禁止するよりも、利用する方がはるかに得というわけか。他の寺がたとえ無縁所であったという証拠がなくても、寺法が明示されていなくても、暗黙的にそうなる可能性はある。むしろ、無縁所や寺法を明確に規定せず、証拠を残さないようにするだろう。
また、弱者の弱みにつけこんで集金力を発揮するだけに、これが金融屋へ変貌する可能性がある。徳政令は、宗教屋がやる高利貸の擁護という見方もできるかもしれない。おまけに、所有が完全に保証され、徳政令も及ばないときた。宗教心に目覚めた偉大な坊主が数えるほどしか出現しない一方で、宗教心に憑かれて俗欲を増幅させる坊主は数知れず。坊主丸儲けの仕組みは、無縁という無限の縁深いところから発しているのかもしれん...

4. 歓進聖の意義と天皇家の存続
阿弥陀寺の清玉は、東大寺大仏殿を再興すべく歓進上人となった。三好三人衆が立て篭もると、松永久秀が東大寺を焼き討ち。その再興のために諸国の助縁を歓進する活動を始め、松永久秀も三好長逸も援助を約束した。この事業の援助には、毛利元就、武田信玄、徳川家康、そして、織田信長ですら名を連ねているという。歓進が聖なる活動であるがゆえに、大名間の遺恨関係をも無縁にできたということはあるかもしれない。とはいえ、歓進聖の特権を与えられたのは優れた坊主だけではあるまい。無縁の特権を持って遍歴する坊主には、裏社会との結びつきが臭う。
ところで、ここには天皇家と無縁の関係に通ずるものを感じる。本書には提示されないが... 平氏や源氏が武家の頭領とはいえ、血筋を辿れば公家に行き着く。武家が軍事行動をする度に天皇の勅命を欲するというのは、気分の問題もあろう。南北朝時代、足利家は後醍醐天皇を吉野(南朝)に追いやって、京(北朝)に光明天皇を擁立した。民衆を支配するのに天皇の威厳が必要とは思えないが、長い時間をかけて育まれてきた伝統の権威を滅ぼしたとあっては、後ろめたさがあるのか。天皇家と将軍家の違いには、権力者にとって精神的に計り知れない重みがあるようだ。伝統の力が正当性を与えるとすれば、慣習力、恐るべし!
ちなみに、比叡山を平然と焼き討ちにした信長が、もう少し長生きしていたらどうなっていたか?などと疑問を持った時、本能寺の変の黒幕は誰か?という陰謀説が未だに燻る。
それはさておき、現在ですら、皇室の人々を「様」付けで呼ぶ風潮がある。せめて、「さん」づけぐらいにして、気楽にさせてやってはどうかと思うが、当人たちはどう思っているのだろうか?もう少し自由に発言する場を与える方が、民主主義時代の天皇として意義があるように思える。永田町が政治利用しようと待ち構えている猛者たちの溜まり場であることは否めない。ならば、住まいを京へ戻すとか...

5. 自由都市と排他原理
中世には、惣(そう)と呼ばれる自治体や共同体が、点在したようである。本書は、この組織の基本構成を「老若 = 公界」という法則で語っている。昔々、長老が集団の掟や知恵袋として機能した。学ぶ機会が平等でない時代、長く生き、多くを経験した者の意見が重宝される。ここには、老者と若衆で組織される意思統一された組織があったことを物語っている。年功序列ではあるにしても。
意外にも、中世の自治組織には、世襲や血縁の贔屓などとの結びつきの弱い事例が、いくつもあるようだ。多数決の制度は無縁の原理に支えられていたという。民主主義の原理は、血縁や地元出身などで支持するような組織では機能しない。ましてや利益供与など。その意味で、真の自治体であったということらしい。
例えば、南伊勢の大湊は、南北朝時代には東国への海上交通の発着地として知られた要津で、戦国時代には会合衆によって運営された自治都市であったという。しかも、公界であったという見方をしている。役人が、すべての地域に目を行き届かせるのは不可能であろうから、特に僻地ではある程度の自治は認められよう。それでも、大湊が本格的な自治都市があったことは興味深い。
自由都市が経済の拠点になりやすいのも確かで、商人の町といえば堺である。宣教師ガスパル・ヴィレラは、本国に「耶蘇会士日本通信」という書簡を送っているという。キリスト教徒にとって堺の町より安全な場所はないと、特別な思いを報告しているとか。ルイス・フロイスは、東洋のベニスと呼んだ。この町が自由と平等を保ち得たのは、会合衆の富力、三好家、松永家など大名間の分裂抗争を利用した政略による。世渡り上手といえば、そうかもしれないが、本書は、その根底に公界、無縁の原理があると指摘している。もっというなら、自由精神の底力である。当初、信長にも屈しなかった町が、結局、秀吉、家康に屈して、彼らの庇護の下で、自由と平和を保つことになる。
だが、自由精神までも放棄したわけではあるまい。権力側もある程度の自治を容認し、互いに妥協を受け入れたと見るべきであろう。博多もまた秀吉の庇護の下で自由都市として生き長らえた。信長のように楽市楽座の特権を与えて、経済力を後ろ盾にした勢力拡大は、まさに自由の力を利用した政略である。
しかしながら、一旦、全国統一の目処が立つと、支配権力は反対方向に舵を切る。そして、堺の精神を代表する千利休は、秀吉によって死を与えられた。専制権力は、自由と平等を利用して民衆を飼いならし、不動の権力となった途端に支配欲の本性を剥き出しにする。現在とて、経済政策をうまくやって支持率を不動のものとすれば、すぐに本性をむき出しにする。鎖国政策を用いた徳川幕府ですら、長崎に特別な自治権を与えた。キリシタン迫害に幻滅し、長崎へ向かった人も少なくない。
ところで、自由精神から育まれた共同体といえども、やはり排他原理が働く。縄張り意識ってやつだ。組織の運営哲学が共有できなければ、自由や平等の精神が却って秩序を乱す。現在でも、うまく機能しているプロジェクトチームは、価値観や哲学を共有しながら、仲間内に合言葉が生まれるといった現象を見かける。優れた集団に属しているという自負心が、ある種の排他原理を働かせるのである。それは、イジメなどという劣悪な意思とは真逆な発想で、単に仲間が欲しいという思惑で無理やり集まった結果でもない。
キリスト教的な秘密主義にしても、俗界と距離を置く場所を提供しながら、そこに真の自由の場を求めたはず。ジェームズ・ヒルトンが記したシャングリ・ラのように、森鴎外が記した寒山拾得のように、俗人の目には晒してはならない神聖な領域が、自由都市には必要なのかもしれん...