2014-06-29

"数について" Richard Dedekind 著

かつて、数(かず)というものに対して、ここまで率直に考えさせられたことがあったであろうか?その最も単純な概念は、「より大きい、より小さい」という関係で言い尽くせる。リヒャルト・デーデキントは、有理数の最も重要な性質をこう述べる。
「順序よく整った集合体で、二つの相反する向きに無限に延びた一次元の領域を作っていること。」
そして、「切断」の概念を用いて数の連続性を規定し、無理数の正体に迫ろうとする。連続性を規定できる便利な道具といえば、微積分であろう。微積分の導入時に幾何学的な直観に助けを借りるのは、幾何学と連続性の相性の良さを示している。だが、デーデキントは、連続性に対する科学的見地が甘いと指摘する。
「科学においては証明なしに信頼すべきではない。この要請がこんなにも明白であるように思われるのに、私の信ずるところでは、最も単純な科学、すなわち数の理論を取り扱う論理学の部分の基礎を研究するに当ってさえも、最近の叙述によってさえも決して満たされているとは見なせないのである。」
彼の言う科学とは、ユークリッド原論が幾何学の公理と証明を示したように、代数学にも同様な要請をすることであろう。実際、本書は集合の観点から公理的に語り、集合論こそが数の概念の抽象化した姿であることを実感させてくれる。集合論の創始者と言えばカントールであるが、デーデキントの貢献が大きいことは言うまでもあるまい。
尚、本書には「連続性と無理数」と「数とは何か」の二篇が収録される。

数論とは、「数える」という最も単純な行為から発する必然的な結果であろう。だから、整数論とも呼ばれる。人間が思考する数の性質は、極めて離散的である。しかし、数を図形で表そうとすれば、直線や曲線などの連続性に支配される。はたして精神空間において、離散性と連続性のどちらが居心地良いであろうか?おそらく適度な連続性ということになろう。忌々しい出来事にはアルコール濃度で忘却の渦に連続性を絶ち、小悪魔とのひとときには永遠の連続性の中で夢想を続ける。
ピュタゴラス教団は「万物は数である」という思想を崇拝し、すべての数を自然数で規定しようとした。分数を定義すれば、分子と分母を限りない自然数で規定でき、どんな二つの有理数の間にも第三の有理数を埋めることができる。二つの有理数の間には必ず大小関係が生じ、これを数学者は「全順序集合」と呼ぶ。そうなると、有理数で数直線上のすべての隙間を埋め尽くすことができる、と信じたのもうなずける。だが、聖なる正方形の対角線に √2 という異様な成分が紛れ込んでいることを知ると、彼らを動揺させた。
一方で近代数学が、このような数の信仰に憑かれていないと言い切れるだろうか?最新鋭のコンピュータをもってしても、実数演算には冪乗の壁が立ちはだかり、実際、分子と分母の関係から便宜上の近似値を与えているではないか。アルキメデスは、円に内接する多角形と外接する多角形の関係を考察し、円周率が 22/7 と 223/71 の間にあることを見出した。もっと良い近似値では、355/113 で代用される。
確かに、数学は有理数では表せない数があることを証明した。だがそれで、無理数の意義まで知ったことになるのだろうか?無理数とは、ピュタゴラス教団が唱えたように理性を失った状態なのだろうか?自然数によって世界のすべてを表そうとする古代人たちの野望は途絶えた。自然数の欠点は、減算や除算を行うと答えが自然数の系からはみ出すことにある。算術によって系が閉じられない現象は、数の概念を整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。そこに集合論が結びつくと多項式までも呑み込まれ、体、群、環、イデアルへと抽象度を高めてきた。
しかしながら、どんなに数の概念が高度化しようとも、すべての数が大小関係によって規定されることに変わりはない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体は、何かを認識しようとすれば何かと比較せずにはいられない。人間社会では、数の大小関係はそのまま地位の上下関係と結びつき、収入や資産や知識の量で競い合う。人間ってやつは、大小関係という意識に幽閉された存在というだけのことかもしれん...

そして、読み終えると、いつもの愚痴が蘇る...
現代数学では、実に多くの微分方程式が解けないという事情から、大小関係によって迫る方法が編み出された。ε-δ論法が、まさにそれだ。このヘンテコな理論が大学初等教育で扱われるのは、数学の偉大さに屈服させようという魂胆か。やはり、酔っ払いを落ちこぼれにするための陰謀であったか...

1. 無理数と称すべきか?無比数と称すべきか?
連続性の問題は古代からある。尤も、離散性という意識があったかは知らん。自然数を理性の象徴として崇めれば、数では表せない存在に困惑する。神は不完全な世界を創出したことになるのだから。古代人は、1 + 2 + 3 + 4 個の順に並んだ点の正三角形の配列を崇め、10 を宇宙秩序を表す完全な数とした。テトラクテュスってやつだ。尚、今日で言う完全数とは違う。
1 から 10 までの自然数には奇数と偶数が同数ある。ついでに、素数 {1, 2, 3 , 5 ,7} と合成数 {4, 6, 8, 9, 10} も同数ある。ちなみに、鏡の向こうには「十の時が流れる」という名を持つ野郎がいると聞く。ヤツはテトラクテュスの申し子か?いや!単に顔が赤いだけらしい。
それはさておき、{1, 3, 5, 7, ...} を平方に配列したものを四角数と呼び、{1, 4, 7, 10, ...} を五角形に配列したものを五角数と呼ぶ。そして、六角数、七角数... と続く。これらの配列の組は、三角数では自然数、四角数では奇数、五角数では初項 1, 公差 3 の等差数列となり、図形との関係を表す重要な数とされた。こうした発想から、無限級数が考察されるようになる。オイラーが解いたバーゼル問題を眺めれば、無限和が固定値に収束することに数論の神秘を感じる。その答えに円周率という無理数が含まれることがミソだ。
ピュタゴラスの和音理論による視覚と聴覚の調和は、数の哲学の真髄である。そして、宇宙は音響調和の元で構築されていると考え、真円の下で正多角形が崇められ、真球の下でプラトン立体が崇められた。そういえば、無理数という用語は邦訳の誤りという意見を耳にする。比で表せないから無比数とすべきだと。なるほど...

2. 代数学の意義
方程式の解を求めようとすれば、有理数に頼るだけではすぐに限界に達する。数学者たちの野望は、2次方程式、3次方程式、...、n次方程式へと向けられた。直線定規とコンパスによる作図法は、代数学では2次方程式の解に相当する。言い換えれば、3次方程式以上の解は幾何学的には求められない。それを人類が知ったのは17世紀頃。代数学には、直線定規とコンパスだけでは作図できない領域があり、その本質は、数では表せない数を探求することにある。もし円周率が有理数ならば、すべての図形は四角形に帰することになり、古代人は幸せを謳歌できたであろうに...
自然数にしても、実数にしても、特定の数の体系を崇めたところで、それは人間のご都合主義というもの。神は数の概念を区別しないはずだ。人間のできることと言えば、十分に大きいか、十分に小さいか、それを規定するぐらいであろうか...
「無理数の理論は、有理数の領域に生ずる現象に基づくもので、それに私は"切断"という名をつけてはじめて精密に研究したし、実数の新たな領域の連続性の証明でその頂点に達した。」

2014-06-22

"ピタゴラスの定理" Eli Maor 著

いまさら感のあるピタゴラスだが、あらゆる建築術の礎がここにあることに変わりはない。定理そのものの美しさは誰もが認めるところであろう。ただ、あくまでも直角三角形という特殊ケースを扱ったに過ぎない。
ところが、ちょいと変形してみると、何かの呪縛から解き放たれるかのように拡張性を発揮しやがる。三平方の定理や斜辺定理、はたまた鉤股弦の法など様々な呼び名があるように、内包される意味や解釈はいまだ広がりを見せる。幾何学だけでなく、代数的な解釈も豊富で、三角関数といった周期性と結びつくと、公式が無限にあると揶揄される。幾何センスがゼロの泥酔者には、対数螺旋やサイクロイドと結びつくだけで崇高な気分になれる。いや、目が回る。幾何学のバイブル「ユークリッド原論」I47(第I巻、命題47)にも記載される。尚、原論はあくまでも証明集であって、ユークリッド自身がどこまで証明をやってのけたかは不明だが...
証明法に至っては実に400を超えるとされ、本書は、幾何学的証明と代数的証明の分類や、最も短い証明と最も長い証明などの観点から、いくつかを紹介してくれる。ルジャンドルやアインシュタインによる証明、あるいは、プトレマイオス、ダ・ヴィンチ、アメリカ大統領J.A.ガーフィールド... など。無名少女アン・コンディットに至っては、大数学者たちが誰一人としてやらなかったことをやってのけた。定理が単純ならば、解釈も多く、乱用もしばしば。数学的な思考に、アマとプロの境界がないことを改めて意識させてくれる。
「答が宇宙なら質問は何か?はい、それは a2 + b2 = c2。それを証明する方法はおよそ400通りある。それでは他に何かいうことがあるか?たくさんある。なぜだかはよく分からないが、ピタゴラスの定理ほど多くの注釈、変種、応用、珍本を作り出した定理はかつてない。」

ピタゴラスの定理を言葉で表すと... 直角三角形において、直角をなす二辺の平方和は斜辺の平方に等しい... となる。お馴染みの代数的な記述は極めて単純!ちょいと見方を変えるだけで、こうなる。

  d = √(x2 + y2)

喫煙 x と深酒 y といった不摂生が平方で祟ると、寿命ディスタンス d は平方根で縮むという寸法よ。だが、このような形で表されるようになったのは16世紀頃で、ピタゴラスの意図したものではない。代数学には、これに似た恒等式が亡霊のようにつきまとい、ちょいと次元を増やしてみようかという衝動に駆られる。n次元に抽象化された「フェルマーの最終定理」が問題提起されたのは17世紀。オイラーは3次元に憑かれ、ワイルズによって解決されたのはほんの1994年のこと。既に2500年もの歴史がある。
しかしながら、ピタゴラスが最初の発見者ではない。少なくとも千年前にバビロニア人は知っていたし、中国人も知っていたと推測されている。インドにも証明の痕跡が見つかっているそうな。エジプト人も知っていたかもしれない。でないと、あれほどの精度でピラミッドを作るのは難しいはず。となると、実に4000年も遡ることに...
紀元前1800年頃のメソポタミア文明の遺跡は、一辺を 1 とする正方形の対角線の値 √2 のかなり高い精度の近似値を得ていたことを示しているという。「YBC7289(イエール大学のバビロニア・コレクション銘板番号7289)」には、傾いた正方形に2本の対角線の図形が描かれ、d = a√2 の関係を60進法の楔形文字で刻まれているとか。中国最古の数学書「周髀算経」にも、柱と影の長さに関する記述があるという。三辺(3, 4, 5)の説明図とともに。古代ギリシア人のお好きな「グノーモン」ってやつか。やはり人間は、自分の影を引きずりながら生きる運命にあるようだ...

結局のところ、数学とは思考の産物であろうか?自然の産物であろうか?人間とは独立した存在だとすれば、その記述は人間のご都合主義によって編み出されることになる。
ゲーテ曰く、「数学者に何を言っても、彼らは自分自身の言葉に書き換える。そしてそれは直ちに何かまったく違ったものになる。」
数学そのものが信仰や哲学から派生したものであっても、やがて純粋客観へ近づこうとする。ヒルベルトの時代になると、すべての現象は数学で完全に説明できるかに見えた。しかし、不完全性定理の登場で人間の野望は打ち砕かれ、哲学に引き戻された感がある。著者エリ・マオールはこう語る。
「私が考えるには、数学の本質は、型を探し、構成と規則性を探し、一見何の関係もないように見えるものの間の関係を探すこと、現実的であろうと抽象的であろうと問題ではない。この意味で芸術とまったく同質である。とくに音楽に近い。音楽では、ある主題の型、リズムの型が繰り返し繰り返し現れるが、それと同じように、ある代数式が数学のいろいろな分野で繰り返し現れる。」

1. ピタゴラス教団
若きピタゴラスが老師タレスに学んだ可能性は十分に考えられる。ただ、数学が極めて宗教に近い時代、いや占いの類いか。ピタゴラス学派は「万物は数である」という信仰を崇め、古代ギリシア哲学には数を幾何的に記述する伝統が育まれた。プラトンのアカデメイアの門には、「幾何学に精通せざる者、我が門に入るべからず!」と刻まれる。
さて、ピタゴラスの発見に音響学に関するものがある。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、和音の理論が構築された。音楽が数の法則に従うとすれば、宇宙もまた数に支配されると考える。天体運動を数学で説明できれば、天空の音楽理論が構築できる。彼らの数への執念が整数論を育んできた。調和平均、調和級数、調和関数なども、ピタゴラス思想の継承を感じる。
しかしながら、妥協のない数至上主義は、狂信的ですらある。対称美や調和を崇めるあまりに、物理学の進化を妨げた。天文学はあまりにも真円を崇めたために、現実世界が見えなかった。ピタゴラス学派は五芒星形の美しさに魅せられて紋章とし、古代ギリシア人はすべての算術を幾何的操作に頼る。積は面積で代替でき、平方根は対角線で代替できる。言い換えれば、作図不能な算術はできないことになる。ユークリッド原論もこの原則に従う。アルキメデスのような現実主義者は、あまり重要視されなかったのだろう。完全を崇めれば、不完全が見えなくなる。プラトン立体の美しさに憑かれ、やはり人間は美人に目がない。
ところが、聖なる正方形の対角線に √2 という無理数が存在すると知ると、整数にこそ理性の存在を認めていたピタゴラス学派を動揺させた。彼らは秘密主義を誓うが、ヒッパソスが世間に暴露しようとすると仲間たちに船から放り出された、という逸話が伝えられる。やはり、宇宙は... 社会は... 人間は... 適度に不完全とする方が健全なようである。

2. ピタゴラスの亡霊たち
ピタゴラスの定理の源泉を遡れば、バビロニア、中国、インドなど、実に多くの地で見かけることができる。しかし、ピタゴラスが一際輝いているのは、厳密な証明が残されるからであろう。ここに客観性の威力を魅せつける。
ちなみに、イライシャ・スコット・ルーミスという人が、著作「ピタゴラスの命題」で371個もの証明法を分類しているという。数学界では、あまり知られていない人物らしい。大まかに代数的証明と幾何的証明の二つに分け、さらに、四元数的証明と力学的証明に分けているとか。四元数とは、何のことはない。複素数(i)を三次元(i, j, k)に拡張した概念で、その特徴は乗法の交換法則が成り立たないこと。ハミルトンによって提唱されたが、今ではベクトル空間で抽象化される。非可換という性質が、物理現象を扱う上で都合がいいのだ。
さて、ピタゴラスの定理は、無限や微積分といった概念とも結びついてきた。無限級数といえば、リーマンのゼータ関数を思い浮かべる。

  ζ(x) = Σ(1/ns)

オイラーは、ζ(2) = π2/6 に収束すると宣言した。いわゆる、バーゼル問題である。無限和がある数に収束する上に、πという無理数が絡むところに神秘がある。だが、最初に無限積で表す公式を編み出したのは、16世紀のフランソワ・ヴィエトという人だそうな。

  2/π = Π xn, (1 ≦ n < ∞)
  ただし、x1 = √(1/2), xn+1 = √{(1 + xn)/2 }

本書は、これを導出する過程で、円周上を移動する直角三角形の頂点との関係を示してくれる。ピタゴラスの定理は、真円上で振る舞うと周期性と相性がいい。平方根は周期性と調和させるための概念、とするのは言い過ぎだろうか...

また、点(x1, x2)と、点(y1, y2)の間の線分の長さ s はこうなる。

  s = √{(x1 - x2)2 + (y1 - y2)2}

そして、ピタゴラスの定理の微分版がこれだ。

  ds2 = dx2 + dy2

さらに、対数螺旋やサイクロイドとも相性がよく、ちょいと座標系の視点を変えて、半径 r と角度θの関係からも規定できる。

  ds = √{(dr)2 + (rdθ)2}

双曲線正弦(ハイボリックサイン)や双曲線余弦(ハイボリックコサイン)など、実に多くの曲線で応用できる。ユークリッド言論、VI31(第VI巻、命題31)には、こう記されるという。
「任意の直角三角形において、二つの辺の上に立てられた円の面積の和は外接円の面積に等しい。」
つまり、直角三角形の辺の上に立てる図形は、正方形である必要はないということだ。相似形にさえなれば、多角形でも、円でも、それ以外の任意の図形でもいい。図における、面積Aa, Ab, Ac の関係は、こうなる。

  Aa + Ab = Ac






「ヒポクラテスの月」と呼ばれる図形も、ピタゴラスの亡霊に憑かれている(下図)。中心O、半径OA(= OB)の円の4半分OABにおいて、ABを直径とする半円を描くと、外側に三日月の領域ができる。そして、その面積は三角形AOBと同じになる。円周率と関係しそうな面積が、二等辺直角三角形で代替できるとは...




ピタゴラスが周期性に囚われると、平方根 √1, √2, √3,... もまた螺旋状に幽閉される(下図)。





3. ピタゴラスと相対性理論
三次元座標系の原点にある光源から球面波が放出され、光速 c で伝播して時間 t 後に点(x, y, z)へ達するとすると、

 x2 + y2 + z2 = c2t2

これは、観測者が点(x, y, z)にいる場合で、別の観測者が一定の速度 v で動きながら点(x', y', z')にいるとすると、空間次元 + 時間の座標系において以下の関係がある。

  x2 + y2 + z2 - c2t2 = x'2 + y'2 + z'2 - c2t'2

ここで注意すべきは、c にはダッシュがつかないこと。光速はどんな観測系でも一定だから。相対性理論は、なんといってもローレンツ変換が基本!座標系(x, y, z, t)と座標系(x', y', z', t')への変換はこうなる。

  x' = (x - vt)/√(1 - v2/c2)
  y' = y
  z' = z
  t' = (t - (v/c2)x)/√(1 - v2/c2)

ここで、√(1 - v2/c2) は特殊相対性理論の中核をなしている。アインシュタインの有名な公式は、E = mc2 の形で知られるが、実はこうなるわけだ。

  E = {m/√(1 - v2/c2)}c2

4. ピタゴラスの3数
ピタゴラスの3数とは、直角三角形の三辺が(3, 4, 5)になるような整数の組のこと。二つの整数(u, v)において、u > v で、 u と v が互いに素(共通因数を持たない)で、偶奇が逆である時、整数 a, b, c において、

  a = 2uv, b = u2 - v2, c = u2 + v2

が成り立つならば、既約なピタゴラス3数をなす。
また、二つの平方数の和にも不思議な関係があることを紹介してくれる。二つの平方数の和とは、こういうもの。

  2 = 12 + 12, 5 = 12 + 22

そして、次の定理が成り立つという。
「正の整数 a が二つの平方数の和となるのは、a ≡ 3 (mod 4) でないときだけである。すなわち、a を 4 で割った時のあまりが 3 にならないときだけである。」
もっとも、これが与えられるのは、1つの数が二つの平方数の和であるための必要条件で、十分条件ではないとしているが。
3 という数に何か意味があるのか?それとも、mod 4 の方に意味があるのか?必要十分条件の方は、こうなるという。
「ある整数 a が二つの平方和であるための必要十分条件は、a の素因数分解の中に 3 に mod 4 で合同な素数が偶数回登場することである。」
そして、完全平方数が二つの平方数の和である時、ピタゴラスの3数(a, b, c)が得られるという。

2014-06-15

"天秤の魔術師 アルキメデスの数学 " 林栄治, 斎藤憲 著

前記事「解読! アルキメデス写本」では、歴史の面から数学の醍醐味を味わった。今宵は、もう少し専門的に突っ込んで、アルキメデスの考え方や意図といったものを味わうことにしよう。ギリシア数学は、一般的に命題と証明という形で書かれ、その代表に「ユークリッド原論」がある。証明に至った思考プロセスについては、ほとんど触れられないために、数学は無味乾燥な学問とされがちである。
ところが、アルキメデスの著作の中でも「方法」だけは異質で、思考プロセスが記述されるという。彼の著作群が残される写本は、ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによってA写本、B写本、C写本と名付けられ、9世紀から11世紀頃、東ローマ帝国(ビザンチン帝国)のコンスタンティノープルで作成されたとされる。A写本とB写本は、古くから発見され、ルネサンス期の巨匠たちの目にも触れたようである。
一方、C写本が発見されたのは、1906年と新しい。おまけに、一度行方不明になりながら、1998年クリスティーズのオークションに再出現したという謎めいた経緯がある。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるが、あくまでも中身は再利用された祈祷書であって、C写本は上書きされた中に埋もれていた。そのために当初、貴重なものとは見なされなかったようである。著作「方法」は、このC写本にのみ記載されるという。本書は、この「方法」の解説を中心に据えながら、アルキメデスの思考原理がニュートンやライプニッツより二千年も先んじていた可能性を匂わせてくれる。

人間の叡智は、いかに無駄なプロセスを辿ってきたことか。その多くは宗教戦争や政治紛争の類いで抹殺されてきた。古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は何度焼かれたことか。あるいは、結論だけ知っていても、それを存分に使いこなせなければ、無駄な知識に終わる。知識とは、なんらかの目的や欲望から生じるものであろう。それを編み出す過程の奥に秘められた哲学を学ぶことは、知識を深遠なものにするとともに、応用力を高めることになる。
しかしながら、発見や思考のプロセスが疎かにされるのは、いつの時代も同じ。現在とて、管理職にある者は結果ばかりを求め、目先の解決策を示さなければ発想力がないと愚痴を垂れる。人の考えを発展させて自分で具体化しようとしないとなれば、どちらが発想力がないのやら?人は皆、面倒臭さがり屋よ。近道をしようとすれば、却って遠回りをする。しかも、そのことに気づかなければ幸せになれるという寸法よ。それでも、いつも道草ばかりで、はしご酒する酔っ払いよりはマシか。
それはさておき、アルキメデスが既知の理論の発見法を残してくれるのは、学問に対する姿勢が伺える。研究者の中には、この時代、純粋に真理を探求するのではなく、相手を蹴落とすために論理武装し、成果を最大限に見せることにしのぎを削っていた、とする意見もあるらしい。今もあまり変わらんような...
肝心な箇所の記述が欠落していることが、「アルキメデス意地悪説」をくすぶらせる。「方法」の序文には、挑戦的な一文があるという。
「アレクサンドリアにいる君たちや将来の学者に、私の方法を利用するだけの能力がありますかな。」
これは、皮肉であろうか?あるいは、次世代の研究者に託した言葉であろうか?

注目したい思考法は、比例関係を重視していることである。ギリシア数学の理論体系は、面積や体積を表す公式を導くことではなく、既知の身近な図形との比較によって大きさの関係を明らかにすることだった。実際、ユークリッド原論やアルキメデスの著作の中に、三角形の面積が底辺掛ける高さ割る2、などというお馴染みの公式を見つけることはできない。せいぜい、平行四辺形は三角形の2倍、といった定理を見つけることぐらい。そこで、相似形や等積定理といった概念が鍵となる。
最も重要な概念は、図形の切り口とその総和の関係を、つり合いの原理に持ち込んでいることである。細かく刻んだ図形を足し合わせとして眺めれば、自ずと重心が計測でき、物事の関係が見えてくる。本書は、この思考法を「仮想天秤」と呼んでいる。面積の切り口は直線となり、体積の切り口は面となり、アルキメデスは次元を落とす術を知っていたことになる。次元という意識があったかどうかは知らんが、おそらく比を問うことで代替しているのだろう。積分的思考とは、総和という思考で代替できる統計的観測というわけだ。
「方法」の対象では、放物線、楕円、双曲線といった円錐曲線の議論を避けることはできない。やはり、基本図形は三角形であろうか。もっと言うなら、底辺と高さの関係、すなわち対象までの距離の考察である。三角形の一辺を軸に回転させれば円錐ができる。いきなり命題1には、放物線の回転体と円錐の関係が示される。
「放物線のすべての切片は、同じ底辺と等しい高さをもつ三角形を3分の1だけ超過する。」
ところで、物理学にはモーメントってやつがある。支点からの距離と重さの積で表される物理量だ。モーメントの和が支点の左右で等しくなれば、物体はつり合うと考えることができる。対して、アルキメデスが利用しているのは、距離と重さの逆比例関係であり、まさに天秤の原理だ。立体の重さの比を、天秤の支点との距離という直線の比で測る。つまり、求積問題が、一次関数の問題に置き換えられている。なんと、導関数という概念を自然に取り入れているではないか。重心を求めることが、回転体の体積比を求めることになるという寸法よ。なんでも吊るしちゃえ!なんでも回転させちゃえ!という思考実験こそが、アルキメデスの思考原理であろうか...

1. 「方法」という表題
「方法」と呼ばれるのは、ハイベアが校訂版を出版する時、ラテン語のタイトルを「Methodus」としたからだそうな。ギリシア語の「メトドス」に由来し、英語の method に相当。ギリシア語写本の表題は「エフォドス」というらしい。どちらも「道」を意味する「ホドス」に前置詞がついた語だという。ただ、微妙なニュアンスの違いがあって、エフォドスは、アプローチ、入り口、攻略といった意味があって、メトドスは、体系的方法という意味があるとか。デカルトの「方法序説」を真似て、体系的方法を好んだ時代でもあろうか。
しかも、エフォドスという語は、標題にあるだけで、本文中には一度も出てこないという。アルキメデスは、「トロポス」という語を使っているそうな。英語では、way と訳される。なるほど、「方法」というより、「やり方」あるいは「道」と言った方がよさそうである。現代風に言えば、攻略本といったところであろうか...

2. アルキメデスの比例論、いや、つり合い論
「方法」の導入部は、序文と、その後に続く11個の補助定理で構成されるという。その記述は、重心とつり合いの関係がかなり意識されていることが伺える。
例えば、円錐や円柱や角柱といった図形の重心と中点の関係を述べたり、二つの量に対して合計の重心と各々単独の重心の関係を述べたり、任意の個数の重心が同一直線上にあるならば、合計量の重心も同一直線上にあるとしたり... 複数の比例関係から対応する項の和をとっても比例関係が成り立つ条件を述べるという形で、記述が始まる。
そして、最初の命題1には、アルキメデスの基本的な思考が表れている。まず、放物線の切片ABGをとる(下図)。AGは、必ずしも軸に垂直である必要はない。Gにおける接線GZを引き、Aを通って放物線の軸DEに平行な直線AZを引く。そして、AG間の任意の点Cを通って軸DEに平行な直線COMを引く。




すると、以下の比例関係が成り立つという。

  CM : CO = AG : AC

この関係は直観的に想像できる。アルキメデスはこの証明のために以下の図形を設定しているという。放物線の性質より、DB = BE となる。直線GBを延長して、GK = KQ となるようなQをとる。そして、三角形AGZと、三角形ABGのつり合い関係を観察する。
「放物線の切片ABGを点Qに移すと、もとの位置に残した三角形GZAと点Kに関してつり合う。」




3. 球の切片
命題2で現れる球の体積は、アルキメデスが最も誇りをもった成果であろうか。というのも、墓に刻まれた。

  V = (4/3)πr3

アルキメデスは、これを二つの表現で示しているという。
「球は、その大円を底面としその半径を高さにもつ円錐の4倍である。」
「球の外接円柱は、この球の1倍半に等しい。」
内接円錐、半球、外接円柱の体積比を眺めるだけで、アルキメデスがこれらの図形に魅了された気持ちが分かる。

  円錐 : 半球 : 円柱 = 1 : 2 : 3

さて、おいらを魅了するのは命題7の方だ。この法則を眺めるだけで、本書に出会った甲斐があるというもの...
命題7の主張は、こうだ。
「球の半径r、切片の軸をh、切り取られた切片の軸をh'とすると、球の切片ABDは、これに内接する円錐ABDに対して、次のような比例関係を満たす。」

  切片ABD : 円錐ABD = (r + h') : h'




直観的にはもっともらしいが、ほんまかいな???
これを積分法で計算してみる。球の切片軸上の任意の点Sにおいて切断する(下図)。




この時、円の方程式は中心点O(r, 0) において、

  (x - r)2 + y2 = r2
  y2 = 2rx -x2

切断面の面積S(x)は、

  S(x) = π(2rx - x2)

切片ABDの体積Vは、

  V = ∫S(x)dx
    = π∫(2rx - x2)dx = (1/3)πh2(3r - h), ただし、(0 ≦ x ≦ h)

次に、内接円錐ABDの体積をV'、底辺の半径をRとすると、

  R2 = 2rh - h2

であるから、

  V' = (1/3)πR2h = (1/3)πh2(2r - h)

よって、

  V : V' = (1/3)πh2(3r - h) : (1/3)πh2(2r - h)
         = (3r - h) : (2r - h)

さらに、2r - h = h' だから、

  V : V' = (r + h') : h'

なるほど、安心して眠れそうだ!

4. 爪形と交差円柱
アルキメデスが扱った図形で、もう一つ興味深いものがある。しかも、主役のような扱い。
正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断すると、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形図形が切り取られる。




アルキメデスの主張はこうだ。
「爪形の体積は、外接する四角柱の6分の1に等しい。」
なぜ、こんなヘンテコな図形に憑かれたのだろうか?この図の摩訶不思議なところは、縦にスライスすると、直角二等辺三角形が大きさを変えながら移動することだ。つまり、縦横の比が常に同じということ。その求積手順は、まず命題12と13で仮想天秤によって決定され、命題14では天秤を利用せず、無限個の平面の切り口から同じ結果を得て、ようやく命題15で外接図形と内接図形の関係から厳密な証明が与えられる。命題14には、無限小という概念が用いられ、それを正当化しようとする工夫が見られるという。ただし、欠落部分が多いとか。んー、残念!

命題12では爪形と半円柱のつり合いが、命題13では半円柱と三角柱のつり合いが論じられる。垂直にスライスしながら、三角形の集合体として捉えて重心を求めるといった具合に。この際スライス方向は、平行だろうが垂直だろうが、どっちでもよかろう。思考法の問題なのだから。
さらに、本書は球との関係を指摘している。この関係は、今まで見落とされてきたと指摘している。
「爪形と球は、同じ相対質量分布をもつ。」
また、命題14では、「不可分者」という用語を用いて解説される。この用語は、17世紀、カヴァリエーリが名づけたものだそうで、著作「不可分者による連続体の幾何学」で使った言葉だという。ここでは、三角形の面積を求める時、底辺に平行な直線で上から下までスライスするようなイメージで、直線の比を議論の対象とする。無限分割の連続体として捉えている。
では、無限個の切り口を、どうやって足し合わせたのか?アルキメデスの求積の議論では、体積や面積をいくら細分化したところで質量のある物理的イメージは残される。
ところが、命題14だけは、厚みや幅のない切り口によって思考される。2001年に明らかになったことは、なんと無限個の切片に対して「個数が等しい」という言葉を用いているとか。そのために、古代ギリシア数学において、実無限という概念を使用していたという可能性が注目されているという。二次元の面積を、直線の比という1次元関数に置き換え、三次元の体積を、三角形の比という2次関数に置き換えているとすれば、被積分関数を変形して積分するというイメージが出来上がっている。
しかしながら、補助定理では有限個の項に適用され、無限個の項に利用するのには、ちと無理がありそうだ。アルキメデスが、無限を正当化しようとした努力は想像できても、厳密な水準に達しているとは言い難いようである。命題14の意義は、つり合いの原理だけでは、無限個の項を扱うことに限界を感じたということであろうか?
では、なぜ、ここだけ都合よく情報が欠落しているのか?わざとか?序文の皮肉が甦る。

また、命題15で紹介される思考法は、ちと抵抗がある。というのも、あの忌々しいε-δ論法に映るからだ。そのイメージは、三角柱P、爪形Uとすると、次の三つのパターンで最初の二つが矛盾し、3つ目が成り立たざるを得ない、という具合に議論される。

  U > (2/3)P, U < (2/3)P, U = (2/3)P

本書は、これを「二重帰謬法」と呼んでいる。残念ながら、命題15も途中で終わっているらしい。既知の情報から比較関係によって迫ろうとする思考法は、解けない微分方程式の前で大小関係によって迫る考えにも似ている。おいらを数学の落ちこぼれにした野郎だが、その幾何学版にも映るわけだ。
さらに、球、交差円柱、爪形の共通性へと議論が進む。そこで、ちょいと三つの図形を重ねて描いてみると...




爪形の図形は円柱からも描けるし、交差円柱の交差する部分の球からも描ける。爪形の図形とは、差分の考察に用いようとしたのだろうか?残念ながら、交差円柱の証明も失われているそうな。

2014-06-08

"解読! アルキメデス写本" William Noel & Reviel Netz 著

TED.comを散歩していると、ウィリアム・ノエルという人物の講演を見かけた。それは、アルキメデスの写本に関するもの。アルキメデスの偉大な著作群は辛うじて三つの写本によって伝えられ、学術的に、A写本、B写本、C写本と呼ばれる。A写本とB写本は、ダ・ヴィンチやガリレオといったルネサンス時代の巨匠たちの目にも触れたようである。
しかし、この二冊は姿を消した。B写本は、1311年ローマ北のヴィテルボ市の教皇図書館で確認されたっきり、A写本は、1564年イタリアのとある人文主義者の蔵書として記載されていたのが最後だそうな。
そして、歴史の舞台に新たに登場したのが、C写本。1906年ヨハン・ルーズヴィー・ハイベアによって見出された。アルキメデスの「パリンプセスト」と呼ばれるヤツだ。ハイベアという名はユークリッドの「原論」でも見かけたが、ギリシア数学のほとんどの文献を校訂した人物。1988年、ニューヨークでクリスティーズの競売にかけられ時には、ハイベアがほぼ解読済で新たな発見はないだろうと目されていたようである。220万ドルで落札した匿名の人物は、引退しつつあるIT長者で「ミスター・B」という名で紹介される。ちなみに、ビル・ゲイツではないらしい。なぜかホッ!
早々、ウォルターズ美術館の学芸員ノエルが代理人を通じて接触すると、この大富豪も学術調査を依頼するつもりだったらしく、大乗り気だったという。しかも、惜しみなく資金を提供したとか。多くの偉大な著作が、政治的思惑や宗教的活動によって抹殺されてきたというのに、歴史の役割をよく心得た方の手元に渡るのは幸運この上ない。
ノエルは、まずスタンフォード大学のギリシア数学研究者リヴィエル・ネッツを迎え、世界中から様々な分野の専門家を動員し、解読プロジェクトを結成する。だが、20世紀の研究者たちは薬品を使いまくり、既に状態は最悪。21世紀の光学技術、情報工学、画像処理アルゴリズムなどを駆使することに。本書は、プロジェクトの視点からノエルが、数学の視点からネッツが、章ごとに交互に綴る冒険物語である。一つの目的のために結集する様子は、これぞプロ集団!ボランティアの真髄を感じずにはいられない...

尚、アルキメデスのパリンプセストについては、一年前にも記事にした。斎藤憲著「よみがえる天才アルキメデス」で。立ち読みしていると、飄々とした文面と妙に波長が合い、つい買ってしまったことを覚えている。本書でもケンと呼ばれ、当代きっての数学史家の一人として紹介される。これほどの権威者だったとは知らなんだ。改めて座り直し、心して読み直さなければ...
そもそも、世界中のギリシア数学研究者は20数人ぐらいしかいないそうな。業界で認められた人物という意味であろうが。この分野では、現代西洋語はもちろんギリシア語やラテン語といった古代語まで造詣の深さが求められる。おまけに、歴史の意義を知り、数学の専門知識を要するとなれば、数が絞られるのも当然であろう。斎藤氏は本書の解説も手がけており、照れくさそうに語る文面が、またいい...

さて、アルキメデスの功績は枚挙にいとまがない。
まずは、重心の意義について綴ってみよう...
長らく古代人たちを悩ませてきた問題に、重力の謎がある。地上の物体が地面に落ちるのに、星々は落ちてこない。それどころか、天空で永遠に円軌道を描いてやがる。大地には、何か隠れ住んでいるヤツがいて、落ちるものを選りすぐっているとでも?哲学は大地と対話し、天文学は天空に問いかけ、数学は神の仕業を説明する道具とされた。
しかしながら、アルキメデスの数学は異質だ。神の仕業を問うどころか、人間の実用的な道具とした。アルキメデスがシラクサの戦いで用いた投石機は、ローマ軍の度肝を抜いた。投石機の原理はもっと古くからあったが、ローマ軍が面食らったのは、正確な照準と射程調整にあったという。まさに応用数学の威力というわけだ。人間が地上で実用的な科学をもたらすには、重力と対話しなければならない。アルキメデスの功績の中心は、重力をめぐってのものと言ってもいいだろう。
そこで、三角形の重心が基本的な思考を組み立てる。あらゆる図形は、三角形で分割できる。曲線も、底辺と高さという属性を持った丸みと捉えれば、永遠に三角形で埋め尽くせる。そして、一つの三角形の重心が求まれば、これらの総和によってどんな図形でも、重力と釣り合う点が得られるという寸法よ。ここには造船技術の基礎がある。有限総和の思考こそが無限数学の扉を開き、無限数学こそが実世界を記述する応用数学へと導く。
さらに、円錐の意義についても綴ってみよう...
円錐に魔力を感じる人も少なくないだろう。一点から全世界を見下ろす、神の視界のようなものを感じないではない。ここにはすべての世界が内包されている。切り口次第で、真円にも、楕円にも、放物線にもなり、円も、円柱も、球もすべて円錐からの派生形という見方ができよう。やはり、宇宙は曲率に支配されているようだ。アルキメデスもまた、この魔力に憑かれた一人だったに違いない。その証拠に、あらゆる曲線を含んだ図形の求積を試みている。アルキメデス以前の数学者たちは、あまりに真円を崇め過ぎたために実世界を記述することが苦手だった。だが、世界はちょっと歪んでいるとした方が人間には居心地がよい。アルキメデスは、数学を信仰から解放し、科学の道を切り開いた、究極の現実主義者と言えるかもしれない。円周率をπなどと理想化するより、3.1415... とした方がずっと現実的なのだ。
それにしても、科学や数学の偉大な古典が、科学の光学技術と数学のアルゴリズムで甦るとは。アルゴリズムとは、コンピューティングによって定式化した算法を繰り返して解を求めることであり、まさにアルキメデスのやった可能な限り三角形を詰めて近似するのと同じ思考法だ。アルキメデスの知識もまたアルキメデスの知識によって甦る。すべては、アルキメデスによって仕組まれていたのだろうか。人類は、自ら編み出した謎掛けを自ら解き明かすような、いわば、自己循環の宿命を背負わされているのだろうか...

1. 失われてきた偉大な書群
アテネ大主教の弟ニキタス・ホニアテスは、1204年に起きた大虐殺の光景を書き残しているという。エルサレム解放へ向かうはずの第4回十字軍は、その使命を忘れ、栄華を誇る都市コンスタンティノープルを襲った。聖地パレスチナへ向かうはずだったが、問題はどうやってエジプトへ渡るか?船団はヴェネチア総督が用意したが、十字軍は資金不足。ヴェネチアのために属領を略奪したり、行きがかり上コンスタンティノープルのカトリック教への改宗を約束したりで、余計な残虐行為に及ぶ。コンスタンティヌス帝によって築かれた町は、古代知識の最後の砦であったのだが...
こうした光景は、女性数学者ヒュパティアの運命を思い浮かべる。映画「アレクサンドリア」の主人公だ。アレクサンドリア図書館といえば、古代知識の中心。彼女もまたアルキメデスの知識に触れる幸運に恵まれたことだろう。しかし415年、八つ裂きにされた。彼女の書き記した知識は、現代人の目に触れることはできない。ギリシアの叡智は、ローマ・カトリックにとって異教徒の知識。その古典の多くは不適切とされた。
とはいえ、修辞学のためのホメロスや幾何学のためのユークリッドなどの価値は認めた。アルキメデスの数学は実践的な科学であって、神を記述しようとしたものではない。そのために興味も薄かったのだろう。写字生たちはキリスト教典を書き写すのに大忙し。満遍なく古典を書き写したのが、唯一コンスタンティノープルだったという。
真の価値を見出せる権威者が一人いると、その時代は救われる。アルキメデスの知識がどういう経緯で生き残ってきたかは分からない。A写本とB写本は、ヴァチカンに流れ着く。ダ・ヴィンチもガリレオも、はるか昔、自分を超えた数学者がいたことに驚かされたことだろう。
一方、パリンプセストが発見された地は、、コンスタンティノープル(現イスタンブール)の修道院だった。ただ誤解がないように、こいつは祈祷書だ。なんの祈祷書かは、この際どうでもええ。尚、パリンプセストとは、ギリシア語のpalin(再び)と、psan(こする)から派生した語だという。文字を上書きするために羊皮の表面が削られ、何度も再利用される。当時、パピルスよりも長持ちする山羊皮紙が用いられる。現在でも、長期間残したい証明書や表彰状などは、羊皮紙が使われることがあると聞く。アルキメデスの知識を見るということは、この祈祷書の下に眠るインクを叩き起こすということである。
ちなみに、羊皮紙は、小アジアのペルガモンで発明されたと言われている。国王エウメネス2世がアレクサンドリアに比肩する図書館を作ろうとしたために、紀元前2世紀の初め、プトレマイオス朝はエジプトからのパピルスの輸出を禁止したという。辛うじて、山羊皮によって偉大な知識が伝播されたということらしい。
そして、結果的に一個人の手元へ渡ることに。ノエルは、落札者の考えを代弁している。
「アルキメデスのパリンプセストが落札されたとき、写本が個人の所有物に返ることに憤慨する研究者もいた。しかし、アルキメデスが公のものとして価値があるなら、公の学術研究機関が競り落としたはずだ。そこまでの価値があるとは見なされなかったのである。公の機関は実際に競売で落札された額よりも低い価格を提示し、弾かれた。それが恥ずべきことだと考える人は、あまんじて恥を受け入れるほかない。わたしたちは価値を金額で量る世界に暮らしている。世界的遺産の行く末を案じて政治的にどうこう言いたいのなら、申し訳ないがそれなりの金を出すつもりでどうぞ、というわけだ。」

2. アルキメデスの人物像
古代における第二次ポエニ戦争は、現代における第二次世界大戦になぞらえられる。科学の進化は、皮肉にも歴史に深い傷跡を残してきた。第二次大戦でアインシュタインの科学が原爆を生んだように、第二次ポエニ戦争ではアルキメデスの応用数学が強力な兵器を生んだ、という見方もできるかもしれない。一時、ハンニバルがローマを征服したかに見えたが、ローマは危機を乗り越え、終戦時には地中海全体を制圧する。シラクサの戦いではアルキメデスの知識が活躍するものの、カルタゴと手を結んだために陥落し、ギリシアの都市国家群は自治を奪われる。アルキメデスは、そんな時代を生きた。
さて、アルキメデスという名は非常に珍しく、しかも、奇妙なほど相応しい名だという。ギリシャ語で、原理、規則、最高を意味する「arche (アルケー)」と、知性、英知、機知を意味する「medos(メードス)」からなる。似たような系統に、デイオメデスという名もあるらしい。「dio(ディオ)」はゼウスの異形だとか。
アルキメデスの人物像は、著作「螺旋について」の序文に顕れるという。その序文は数学者仲間ドシテオスに宛てた手紙になっているとか。しかも、アレクサンドリア図書館宛てに、わざと間違った定理を送っているらしい。そのことから、本書は、温厚な人柄でもなければ生真面目でもなく、いたずら好きで狡猾だったと評している。糞真面目な科学者らしくないというわけだ。
しかし、シラクサはアレクサンドリアから見ればド田舎。研究者の熱意は、孤独と矜持によって支えられるところがある。あるいは、少しぐらい妬みもあったかもしれない。なによりも、科学では子供心が大切だ。これを狡猾と言うのはどうだろうか?
また、著作のなかで、エウドクソスに二度の賛辞を送っているという。エウドクソスを最も偉大な先達と考えていたようだ。ユークリッドの方は主に基礎数学を扱っていたので、それほど高く評価していなかったようである。アルキメデスの哲学には、実践してなんぼ... というのがあるのかもしれん。

3. 史上初の組合せ論?
アルキメデスの遊び心がよく顕れている著作といえば、「ストマキオン」であろう。ストマキオンとは腹痛の意味で、腹が痛くなるほど難しい問題というわけだ。彼は、このパズルで何をしようとしたのか?
本書の解釈はこうだ。決められた十四片で何通りの正方形が作れるかを計算しようとしたのではないか。つまり、人類史上初の「組み合せ論」というわけである。組み合わせという概念は、直感的に分かりやすいが、要素数がちょっと増えるだけで指数関数的にパターンが増える。しかも答えを求める近道があまりない。確率論の先駆けという見方もできそうか。しかし、数字の組み合わせだけならまだしも、図形の組み合わせとなると反転や回転といった作用まで加わり、極端に複雑化する。そして、群論的な思考が求められる。実際、この組み合わせは、17,152通りにもなるという。
「ニュートン科学はきまじめだ。アルキメデスの科学はちがう。アルキメデスは、引っかけや謎掛けやまわり道で知られていた。これは表面的な論述の特徴ではなく、アルキメデス自身の科学的な個性を表している。科学は... 数学は... 人間味のない無味乾燥なものではない。想像力を自由にめぐらせることのできる場だ。アルキメデスも想像力をめぐらせて、ストマキオンと呼ばれる子供の遊びを思いついた。ストマキオンとは、"腹痛"の意味で、十四片を並べ換えて正方形にするタングラム(知恵の板)を言う。アルキメデスは、このパズルにどんな数学が隠されているだろうと考えた。」
同じく遊び心を誘うものに、ホメロス著「オデュッセイア」に因んだ「ヘリオスの牛の問題」がある。オデュッセウスの部下たちは、ヘリオス神に捧げられたトリナキエ島に上陸する。彼らは、オデュッセウスの忠告を聞かず、ヘリオスの牛を殺して七日間も派手に食いまくったために、恐ろしい罰を受ける。この島は昔からシケリア島とされ、ちょっかいをかけない方がいいという警告の物語にも作り換えられたとか。
ちなみに、現在のシチリア島はマフィアの町というイメージがあるが、映画の見過ぎであろうか?
それはさておき、アルキメデスは、計算問題に詩を綴る。黒、白、黄、まだらの四つの群れを、それぞれ牡牛と牝牛に分け、8つの未知数からなる7つの方程式と、2つの追加方程式からなる算術問題をこしらえた。最小の解でも、20万桁を超える。無限数学を思考できるほどの知識があれば、組合せ論ぐらい編み出すことができるかもしれんが...

4. 異質な「方法」の命題14
「方法」の序文には、挑戦的な言葉が綴られるという。
「偉大な数学者のあなたなら、わたしの方法に真の評価をくだせるでしょう...」
ギリシア数学は、厳密性を崇めるがゆえに、パラドックスを避け、無限の落とし穴までも避けてきた。そもそも無理数を忌み嫌う。円周率が無理数だというのに。
本書は、数を好きなだけ大きくしたり小さくしたりすることを「可能無限」と呼び、実無限と区別している。無限の抽象化は、ガリレオやニュートンらによって進められた。だが、代償もある。無限にはパラドックスがつきもの。数学は、強力にはなったが、昔ほど厳密ではなくなった。
古代ギリシア数学は、都合のよい範囲で、無限と戯れていたと考えられてきた。命題1から13には無限個の線分の足しあわせが記述されるが、物理イメージできるような実世界的な思考が見られる。
対して、命題14は違うようである。物理学との組み合わせに頼るのではなく、無限和だけを拠り所にしているという。純粋数学だけで無限を扱っているらしい。尚、ハイベアは命題14を解読できなかったという。
命題14では、円柱の切片の体積を求めようとしている。その図形は奇妙な爪形をしている。正方形を底面とする角柱とこれに内接する円柱において、下底面の直径と上底面の一辺を通る斜めの平面で円柱を切断する。すると、その切片は、半円、半楕円、円柱の側面に囲まれた爪形に切り取られる。しかも、この問題を一般化して、あらゆる平行六面体に当てはめているという。


ここで紹介される思考方法は、実に興味深い。まず、立方体の垂直面に平行な任意の平面を考え、この爪形の図形に対して、縦にスライスする。まるでCTスキャンのように。そして、任意の切り口でスライスした平面を足し合わせるという考え方だ。結論は、円柱の切片の体積が、それを囲む立法体の 1/6 になるとしている。どうやって、この結論に達したのだろうか?ただの直感であろうか?
爪形の図形を縦にスライスすると、底辺と高さが連続に変化していく三角形の集合となる。この様子を上から眺めると、放物線、すなわち半円の内接する長方形を横切る線分でスキャンするように見える。三角形の断面は、点かだんだん大きくなり円柱の高さまでくると、そこをピークにしてだんだん小さくなって点に戻る。ここで重要となるのが、スライスされた三角形と、垂直に長方形上をスキャンする線分との比だ。アルキメデスは、こう書いているという。
「三角柱の三角形の面積が円柱の三角形に対するように、長方形の線分は放物線の線分に対する。」
なんと、二次元図形の比が一次元図形の比と同じになるという比例関係を述べているではないか!これは、幾何学的な直角を数学的な直交性に応用していると解釈するのは、行き過ぎであろうか?何かの正体を知ろうとすれば、その構成要素を探る。分解とは、解析学の基本思考であり、近代数学は直交性を重視する。直交性とは、幾何学の直角を代数学で抽象化した概念だ。例えば、フーリエ変換は正弦波と余弦波の直交性を利用して、現象の成分を分解しようとする。こうした直交性を持った成分によって限りなく分解しようとする試みは、微積分学とすこぶる相性がいい。
さらに、こう書いているという。
「三角柱の体積が円柱の切片の体積に対するように、長方形全体の面積は放物線の切片全体の面積に対する。」
つまり、三次元の図形同士の比が二次元の図形同士の比と同じになると言っている。これは、放物線の求積に対する拡張版という見方もできそうだ。
ところで、科学界の有名な醜い功績争いの一つに、ニュートンとライプニッツによる微積分学をめぐってのものがある。彼らはアルキメデスの「方法」に触れることはできなかった。ここにアルキメデスが割って入れば、二人を黙らせたかもしれん。いくらなんでも二千年前の功績にケチはつけられまい...

2014-06-01

"不思議宇宙のトムキンス" George Gamow, Russell Stannard 著

懐かしやトムキンス!物理学を専攻した者で、トムキンス冒険物語の存在を知らぬ者はいないだろう。たとえ読んだことがなくても... 定常宇宙説と膨張宇宙説の論争が旺盛な時代、物理学者ジョージ・ガモフは、時空の歪曲や膨張宇宙といった難解な物語を、初心者向けに書き下ろした。近年、この手の科学啓蒙書は当たり前のように書かれ、おいらも学生時代、ブルーバックス教の信者であった。しかし、その先駆者の存在感は衰えるどころか、むしろ輝きを増してやがる。
本書は、ラッセル・スタナードによる新版で、時代に即してオリジナル版からかなり改訂されている。尚、主人公C.G.H.トムキンスは物理学に興味を持つ平凡な銀行員、イニシャルは光速c, 重力g, プランク定数hに由来する。

さて、相対性理論に触れると、最初にぶつかる疑問がこれであろうか。すべての運動が相対的と言っておきながら、光速だけは絶対速度とは、これいかに?やはり神は存在するのか?なぁーに、心配はいらない!光速が不変ならば、時間や空間の方を可変にすればいい。神だって、ご都合主義よ。
人間は、3次元 + 時間という認識空間を生きている。だが、時間次元だけは明らかに異質だ。こいつだけは逆戻りできない。これを説明するために、アインシュタインは時間と空間を区別しない時空という概念を持ちだした。時間と空間は光速に対して数学的に対称性がある、ということにすれば、双方を入れ替えても物理法則が成り立つという寸法よ。そもそも時間が一定などというのは疑わしい。心地よい事は瞬く間に過ぎ去るくせに、忌わしい事はいつまでも居座ってやがる。死に際には走馬灯を見ると言うではないか。時計なんぞで一定に刻まれるとするから、時間依存症で苛む。
人間が何かを認識するには、なんらかの比較の対象を必要とし、その対象を一時的にスタックする機能が求められる。格納された情報は前後関係で結びつけられ、情報を取り出す順番が時の流れを作る。これが記憶のメカニズムだ。人間ってやつは、事象をなんらかの関係で結び付けないと、思考することすらできない。つまり、時間なんてものは、関係によってもたらされる概念であって、認識の産物に過ぎないとでもしておこうか。物事を時系列で秩序立てると、自己存在の瞬間が確認できて、心が落ち着くわけだ。ならば、何も認識しなければ、人間は自然物のままでいられるのか?と問うても、そんなことは知らん。ただ言えることは、質量を持つものはみな、相対性に幽閉された存在だということぐらいであろうか...

まさに、ニュートン力学は質量を持った物体を対象とする。この世界においては、空間と時間は完全に独立した物理量で定義され、すべての運動は時間の関数で記述される。つまり、あらゆる現象は連続性で説明できるという仕掛けだ。対して、量子力学では質量ゼロの素粒子が登場しやがる。光子やら電子やらがそれで、宇宙空間を自由に飛び回ることができる。電子が気の毒なのは、原子核に縛られることである。いや、M性が病みつきになって、自ら自由を放棄したのかもしれん。もともと自由電子と呼ばれたはずだが...
量子の存在は統計的にしか扱えない。不確定性原理は、位置と運動量といった同時に二つの物理量を決定できないという制約を課す。光が絶対速度で決定されるなら、光子の位置ぐらい決定できそうなものだが、そうもいかないらしい。素粒子などと呼んでいるが、本当に粒子なのか?質量もなければ、まるで霊感のような存在。人体が量子で構成されるからには、霊感の強いヤツがいても不思議はあるまい。
また、アインシュタインのあの有名な公式は、エネルギーと質量の等価性を示している。つまり、無から物質を作ることはできないが、エネルギーからは物質を作ることができると言っているのだ。おまけに、エネルギー状態への移行は、プランク定数の定義で離散的にしか行えないことになっている。つまり、宇宙空間のどこでも、何かが突然湧いて出るかもしれないと言っているのだ。物心がつくとは、そんな状態であろうか?実存観念の本質とは、物質よりもエネルギーの方にあるのかもしれん...

1. 同時性の問題
特殊相対性理論は、一様で一定の運動をする系における、時間と空間の関係を論じている。すなわち、等速運動を唱えている。一般相対性理論は、これに重力の作用を加えて抽象度をあげている。すなわち、重力場と加速度運動との等価性を唱えている。重力場とは、空間が曲がっていることの物理的現れであり、その曲率は光線の曲がり具合を観察すればいい。絶対速度が歪めば、時間も歪む。つまり、二点における時間差は、双方の重力ポテンシャルの差で決まることになる。太陽表面上の出来事は、重力ポテンシャルの違いにより、地球表面上よりもゆっくりと進行するだろう。象さんのように体重が大きくて動作が鈍そうに見えても、時間の長さは同じように感じているのかもしれん。
さて、絶対速度が存在するとは、何を意味するだろうか?光速を超えられないとすれば、宇宙現象の同時性なんぞに意味がないということか?少なくとも時間に幽閉された生命体には、そんな気がする。そもそも運動しているかどうかなど、どうでもいいのでは?いくら生に意義を求めてもいずれ無に帰するし、どんなに足掻いても絶対静止には敵わんよ。しかし、生に意義を求めなければ、人生なんて退屈でしょうがない。なるほど、暇つぶしに意義を与えるとは、絶対速度恐るべし!
宇宙年齢が計測できるのも、絶対速度のおかげである。ビッグバン宇宙論が正しければ、絶対速度を物差しとしながら宇宙の果てから届く光を観測すればいい。観測するということは、認識するということ。もし、完全な同時性が成立すれば、宇宙年齡どころか、自分の年齡すら認識できないかもしれない。
しかし、同時性が成立すれば、後悔せずに済みそうな気もする。何事を知るにも、直接経験しない限り、事後報告によってもたらされるのだから。実際、人間社会では既成事実を作った者が勝つ。事実よりも風説流布の方が、はるかに波動エネルギーは巨大だ。光速を絶対速度に崇めれば、それが神となりうるだろうか?いや、いつも一緒だよ!なんて神の前で誓っても当てにはならない。人間社会にとって、絶対的な同時性なんてものは邪魔な存在かもしれん。あるいは、同時性という自由を放棄したからこそ、認識能力というものが成り立つのかもしれん。

2. マクスウェルの魔物
第一種永久機関は、外部からエネルギーを受けることなく、仕事を外部に取り出す機関で、エネルギー保存則に矛盾して実現できないとされる。
一方、第二種永久機関は、何もないところからエネルギーを取り出すのではなく、大地や海や大気といった周囲の熱源からエネルギーを取り出すので、理論的にはイケそうな気もしなくはない。例えば、石油や石炭を燃やす代わりに、水から熱を取り出すといったことが。とはいえ、冷たいものから熱いものへ自然に熱が移動するのも考えにくい。案の定、量子力学は、確率が思いっきり低いというだけで、不可能とまでは言わない。それが、マクスウェルの悪魔ってやつだ。本書は「魔物」と呼んでいるが、物語にはこちらの方がしっくりくる。
個々の分子を観察すると、中にはすばしこいヤツがいる。運動方向を自在に変えられるような。熱力学の第二法則、すなわちエントロピーの法則に逆らうようなヤツが、原子や分子レベルで確率的に存在する可能性がないと言い切れるか?という問題提起である。この魔物にかかれば、瞬間的に熱を移動させ、平坦なところにも温度勾配を作ることだってできるかもしれない。宇宙が138億年も存在してきたなら、そんな現象が一度ぐらいあっても不思議ではあるまい。
なるほど、市場原理は、しばしばエントロピーの呪縛を破って、ブラックホールに吸収される。魔物を見たければ、メフィストフェレスがうようよしてそうな人間社会を観察すればよかろう。そういえば、目の前のウィスキーがいつの間にか無くなっている。突然、魔物が蒸発熱を発したからに違いない。

3. M性な電子たち
「偉大なる建築家ニールス・ボーアが建立(こんりゅう)された美しき原子構造の内部には、さまざまな量子部屋がありましてな、遊び好きの電子たちをそれぞれの部屋に正しく住まわせておくことがわたしの務めというわけです。秩序と規律を保つために、同じ軌道には二つの電子しか飛ぶことを許しておりません。三角関係はトラブルのもとですからな。おたがいに逆のスピンをするもの同士がカップルになっているのがおわかりでしょう。性格が正反対の夫婦のようなものですな。部屋がそうしたカップルで占められてしまえば、第三者の乱入は許されません。これは良くできたルールでして、破られたことはただの一度もありません。電子たちも、これが健全なルールだということはわかってくれているのです。」
良くできたルールかもしれんが、自由を謳歌したい者には甚だ迷惑!一般的に、電子殻にはエネルギー準位の低い方から、K殻, L殻, M殻, ... という居場所が用意されている。ナトリウム原子の価電子となったからには、運命を受け入れるしかない。ナトリウム原子核は、電子を11個抱えており、そこに塩素原子が近づくと、M殻に空きを見つけて穴を埋める。そう、心の隙間を埋めるのだ。電子が不足して原子核がカッカしてくれば、マイナスイオンのひとときを差し上げますわ!って。M性同士がM殻で同居するとは、よくできたものよ。
しかも、パウリの排他原理によって、一つの軌道に同じスピン状態の電子が同居できないときた。M性のくせしやがって、独占欲だけは強い。原子核が負担になる余分な電子を抱えれば、移り気が激しく精神が不安定となる。電子はいつも安定社会への引っ越しを求め、数千個に及ぶ原子が結合したりする。中にはDNAってヤツも居て、昔の思い出に縋りながら必至に忘れまいと、二重螺旋構造というバックアップ機構まで具えてやがる。男性諸君もまた女王様を囲む電子のような存在よ。どうりで、簡単には楕円軌道から逃れられないわけだ。だが、心配はいらない。強烈なオーラを放射する小悪魔が近づけば、簡単にスピンアウトできる。ただ、結婚は恐ろしい!と経験者は愚痴っている。法律という紙切れ一つで、生涯の軌道が運命づけると聞いた。
ところで、電子の寿命は永遠ではないらしい。突然消滅したり。物質とは、役目を終えれば果敢ないものよ。光子にしても光を伝え終えれば消滅する。電子の死は、衝突によって生じるという。問題は衝突の激しさではなく、衝突する相手だ。負電荷を持つ者同士であれば問題ないが、中には正電荷を持つヤツがいる。陽電子ってやつだ。ポジトロンなんてニックネームがあるが、まったくポジティブに見えない。普段は粒子として振る舞いながら、電子と出会った途端に「対消滅」を起こす。無理心中か!同じ電子同士だと思って油断していると、えらい目にあう。合体でもしようものなら身の破滅よ。

4. 素粒子はどこまで素粒子なのか?
物質はこれ以上分割できない基本要素から構成されるという考え方は、古代ギリシアの哲学者デモクリトスまで遡る。atomには、ギリシア語で「分割できないもの」という意味がある。また、物理学では、同じ原子構造を持ちながらアイソトープ(同位体)で区別する。原子核における陽子の数が同じでも、中性子の数が違えば質量も違ってくるので、もっともな見方である。
「中性子だけで置いておくと、たしかに不安定なんじゃがの。原子核内にきっちりと詰め込んで周囲を他の粒子で固めておけば、きゃつらもずいぶん安定するんじゃよ。それもまあ、原子核内の陽子の数にくらべて中性子の数が多すぎなければの話じゃが。もしそうなると、中性子は余分な塗料をマイナス電荷の電子として原子核外に放出して陽子に変わってしまうんじゃ。同様に、陽子の数が多すぎる場合には、陽子は余分な塗料をプラス電荷の電子として放出し、中性子に変わってしまう。こうした調節を、わしらはベータ崩壊と呼んどるんじゃがの。ベータというのはこうした放射性崩壊によって放出される電子につけられた古い呼び名じゃ。」
宇宙は広大なのだから、なにも原子核なんてちっぽけな住まいに、ひしめき合わなくてもいいのに。質量あるものは、満員電車を好むらしい。
さらに、陽子や中性子を構成する物質にクォークが発見されると、アイソスピンという回転の仕方で種別される。本当にスピンしているのかも疑わしいが、物理的にスピンしているような性質を持っているということであろうか。少なくとも、量子状態として見ることはできそうである。この状態を「フレーバー(香り)」と呼び、アップ、ダウン、ストレンジ、チャーム、トップ、ボトムの6種類で区別される。なぜ香り(flavor)と言うかは知らんが、気配のようなものであろうか?霊感のような...
ただ、すべてに物質が、クォークからできているわけではない。クォークからできているのは重粒子と中間子で、ハドロンと呼ばれるやつ。ハドロンは強い核力を感じるが、軽粒子と呼ばれるレプトンは感じないという。レプトンもスピンの仕方で種別される。
ところで、スピンのパターンには、驚くべき対称性の法則がある。
「自然界にはSU(3)の対称性が成り立っている」
数学には、対称性を観察するのに、群論という便利な道具がある。中でも角運動量にピッタリなのが、ユニタリってやつだ。数学オンチは、こいつで随分と悩まされてきたのだが...
SU(Special Unitary)群とはユニタリ群の部分群で、(3)とは3回転対称性を表す。つまり、±1/3(120度)、±2/3(240度)、±1(360度)で同じ状態になることを意味する。そして、アップクォーク(u)とダウンクォーク(d)で構成される陽子は(u, u, d)、中性子は(u, d, d)と表記される。スピン状態が離散的であるのは、電子軌道が離散的であるのと同様に、プランクエネルギーの介在を想像させる。もっと言うと、スピン状態の離散性が、量子コンピュータの記憶素子としての可能性を匂わせるわけだ。ただ、状態遷移ではかなりのエネルギーを消費するだろう。量子の世界では、なにかと「ポテンシャル障壁」と呼ばれるエネルギー障壁がつきまとう。
また、人間の対称性への思いは、留まるところを知らない。粒子には必ず対となる反粒子が存在するとされる。質量とスピンを同じとし、電荷を逆転させて存在を相殺させるわけだ。粒子と反粒子が衝突すれば、エネルギー保存則に矛盾なく、丸く収まるという寸法よ。こんな仕掛けで、質量の存在を説明できるのかは知らん。確かに、反粒子だけ消滅すれば、質量が残りそうな気がするが、反粒子の方が残るってことはないのか?いや、あるだろう。人間の認識空間に見当たらないだけで。いずれにせよ、素粒子レベルともなると、スピンの仕方の違いだけで物質の存在を抽象化できてしまう。
さらに、話題が超ひも理論にまで及ぶと、物質の存在は単なる振動でしかないってか。いくら人間の個性や人間社会の多様性を強調したとこで、しょぼい存在よ。人間ってやつは、ヒモという背後霊に憑かれた存在というだけのことかもしれん。社会がヒモになり、組織がヒモになり、家族がヒモになるとなれば、女のヒモになるのを夢見る男性諸君で溢れてやがる...