2011-06-26

"人口論" トマス・ロバート・マルサス 著

人口の推移には、古くから非線形の問題がある。そこで、実践的な方法として、政治算術という統計学的手法がある。最初の科学的分析は、ジョン・グラント著「死亡表にもとづいた自然的政治的観察」(1662年)あたりであろうか。これは、ロンドン市で死者数を集計することによって、ベストの流行を予測しようとしたものである。彼は、死亡だけでなく出生についても研究し、人口増加は64年ごとに倍増すると結論付けた。実際には、非線形的でもっと抑えられ、環境の変化で人口増加率も変動する。
一方、T.R.マルサスは、人口増加率は人口自体に依存すると主張した。そして、人口は幾何級数的に増加するが、食糧生産は算術級数的つまりは一定の公差しか増加しないとした。すなわち、人口増加がいずれ食料増加を上回り、深刻な食料危機が訪れるとしたのである。マルサスは、貧困の原因を人口問題と絡めた。しかし、多くの経済学の書はマルサスをいまや過去の遺物として扱う。それは、爆発的な人口増加が引き起こした産業革命を経て、技術革新によって莫大な人口を養うことができたからであろう。ただ、経済学が、伝統的に失業問題を疎かにしてきた根源がこのあたりにあるように思えてならない。
地球空間に限りがある以上、人間社会はどこまでの人口増加を許容できるのか?このまま人口増加を続ければ、あらゆる土地は農地とされ、人々は高層ビルに押し込められるだろう。土地の有効活用においても、農地もまた地下深く潜り、あるいは高層化するだろう。あるいは富裕都市は浮遊都市となるのか?
いずれにせよ、いつかは限界に達し、食糧危機、資源不足、エネルギー不足に喘ぐだろう。そして、人間社会は秩序を失い、原始時代へと回帰するのか?その魔のサイクルから逃れるには、技術革新によって宇宙へ飛び出すしかあるまい。かつて先進国が海を渡って植民地を追い求めたように。人類はいまだ消費を煽るだけの経済政策しか見いだせず、持続可能な経済システムを作り出せないでいる。やはり永久機関の実現は不可能なのか?

経済学の系譜を遡れば、マルサスはアダム・スミスを受け継ぐ過渡期に位置づけられる。このあたりの古典派時代は、宗教改革の余韻が残り、倹約を善とし浪費を悪とする思考が強いようだ。倹約といっても、私欲のために財貨を貯めるという意味ではなく、経済循環に貢献するような効率的に金を使うということである。自由放任的な思想も、啓蒙思想に対する反発という形で現れ、極端に自由を崇めるような感覚ではないようだ。
同時代を生きた経済学者では、デヴィッド・リカードと対立的に論じられるのを見かける。実際、二人は対立していたそうな。そして、リカードの方が重要人物として扱われるようだ。確かに、リカードの「比較優位説」を知った時は目から鱗が落ちる思いであった。だが、「人口論」も称賛に値するだろう。それは、現在の社会問題を語っており、その先見性に感服せざるを得ないからだ。「人口論」という題目からしても社会学に属すと言った方がいい。その内容も資本理論や経済循環について語っているわけではなく、経済学に社会学的観点を与えたとも言える。マルサスには、資本理論に没頭した経済学者には見えないものが見えていたようだ。

人類史において、自主的に人口抑制をかけた例はあまりない。戦争や大量殺戮や流血革命、あるいは疫病や気候変動といった人間の不徳と運命的な不幸によって抑制がかけられてきた。現在では、アフリカなどの途上国で人口抑制政策がとられているが、これも国家による強制である。政治的な抑制は奇妙な思惑が絡むので好ましいとは思えないが、こうした風潮は広まるかもしれない。先進国で高齢化社会を迎えて人口安定期に向かう一方で、なおも発展途上国の飢餓が共存する。ただ、富の増加が必ずしも生活環境を良くするわけではない。家族が扶養できないとなれば、結婚をためらうか、子供をつくることをためらうだろう。老後の面倒をみさせるために子孫を残す者もいるだろうが、そんな思惑はだいたい外れるものだ。そして、自主的な傾向として晩婚化や非婚化といった現象が生じる。資本が雇用しうる人口に比して過剰となれば、経済も圧迫される。「人口論」の原理は、まさしくこうしたところにある。
人口が増加するということは、無理やりにでも仕事を創出しなければならない。犯罪の存在は、それを監視する仕事を創出する。ネット社会でウィルスが蔓延すれば、セキュリティ業界が繁盛する。戦争の根絶は、その代替として周期的な飢餓をもたらすだろう。そして、善悪が共存する中で、弱肉強食によって経済循環をもたらす物騒な社会となる。未来社会では、経済刺激策として、影で犯罪やテロや戦争を仕組むことになるかもしれない。いや、既に過去にもあったかぁ...

1. ゴドウィンとコンドルセの批判
本書の特徴は、ゴドウィンとコンドルセの批判書にもなっている。というより、その性格の方が色濃い。名指しせずに皮肉っぽくするとか、もう少し抽象的に綴れないものか。わざわざワイドショーに付き合うこともなかろうに、ちと惜しい気がする。まぁ、読んでる分にはおもろいけど...マルサスは、啓蒙的理性で徹底的に論駁されたようだ。啓蒙思想の全盛時代、よほど感情的風潮に嫌気がさしていたのだろう。後に、カントが三大批判書で攻撃する分野でもある。
科学界ではニュートンの影響力が強く、あらゆる宇宙現象はいずれ科学が解明するだろうと言われた。その意識は現在でも受け継がれるが、科学の進歩は永遠で、ムーアの法則が永遠に続くと考えられた。これを精神面で拡大解釈すると、人間の認識能力は永遠に高められ、いずれ神に登りつめるだろうとなる。身体は次々と病原菌を凌駕しながら寿命を延ばし、ついには人間は完全な理性と身体を獲得して社会は完成するだろうと考える。経済学的に言えば、自由放任思想によって、いずれ経済システムは自然法則によって完成するというわけだ。ゴドウィンとコンドルセの思想の根源には、「人間の完成可能性」なるものがあるという。そして、嫉妬、悪意、復讐という類いの精神は、すべて制度の産物としているそうな。いささか乱暴な議論である。
対して、マルサスは、あまりに完全で理想的な模範は、改善を促進するよりもむしろ阻害するという立場をとる。そして、社会の必要労働を全員に仲良く配分することは不可能としている。
ここでは、人口増加による人間社会の枯渇が、収穫逓減の法則を語っているようにも思えてくる。そして、その先にケインズ的思考が見えてくる。実際、ケインズはマルサスがセイの法則を否定したことを高く評価したという。資本主義は、資本の循環による自然増殖システムとして成り立ってきた。いや、自転車操業システムと言った方がいいか。その循環システムの中で、人間精神は本当に進化しているのか?人類は、神に近づこうとしているのではなく、悪魔になろうとしてはいないか?そもそも、人間という有機的な構造体に無限論が適応できるのか?本書はこうした疑問を投げかけているような気がする。

2. 二つの公準
本書は、二つの公準から組み立てられる。一つは、人間の生存には食料が欠かせないこと。二つは、男女間の情念は自然であり必然であるということ。この二つは人間が生きる上で不変であるとしている。ここでは情念と表現されるが、情欲と言った方がいいかもしれない。情欲と理性ではどちらの方が強いかと問えば、そりゃ情欲だろう。人間社会で最も理性が高いとされ、しかも、それを自負する政治屋たちですら脂ぎった欲望を公然とみなぎらすのだから。一方で貧乏だからといって、性的欲求が減るわけでもない。貧乏子沢山と言われるが、昔は子供も労働力の一員であったから、それなりに合理性はある。避妊対策も貧乏ほど難しい。人間は、世界を愛し、人間を愛し、子供を愛し、...と、あらゆる愛を美徳とする。そういえば、バリバリの実業家は不倫する確率が高いという話を聞いたことがある。創造欲と性欲の根源は同じということか。避妊技術が進化すれば、情念が衰えなくても望まない出産は減るだろうけど。
人間の情念は、人口増加の方向にバイアスをかけるだろう。生物学的には、過去に存在した動物や種族が、性欲を減退させて自然消滅した例がある。生活環境が劣悪となれば、人類もそうなるのかもしれない。寿命が短く流産や夭逝も珍しくない時代に早婚が奨励されたことは、それなりに合理性がある。寿命が延びれば結婚年齢が上昇するのも、それなりに合理性がある。ゴドウィンは、男女間の情念はいずれ理性的に消滅すると主張したという。本書は、二つの公準から次の帰結を導いている。
「人口の力は、人間のための生活資料を生産する地球の力よりも、かぎりなく大きい。人口は、制限されなければ、等比数列的に増大する。生活資料は、等差数列的にしか増大しない。」
生存手段が豊かになれば人口は増加傾向を示し、その結果、人間社会に不均衡が生じ、なんらかの抑制する作用が働くという。その作用とは、紛争や伝染病といった人間の不徳と不幸である。そして、そう遠くない将来、人口を生活資料の水準に等しく抑制する必要に迫られるとしている。

3. 農業と工業の優劣
農業と工業はどちらも商品を生産する産業である。だが、人間が生きる上では喰うことが最優先なので、農業の方が優位であっても良さそうな気がする。
しかし、工業の方がはるかに付加価値が高く、軍備に直結するので、手っ取り早く国力を増大させる。そして、先進国は工業化を推し進め、農作物を輸入に頼る傾向がある。工業化は、工業労働者の所得を上昇させ、農業労働者の所得を虐げてきた。ただ、この時代では、特にフランスのエコノミストたちから、生活必需品を生産する農業は生産的労働とされ、工業は不生産的労働とされ、工業労働者を見下した感覚が残っているようだ。当時の工業市場が不安定なのに対して農業市場が比較的安定していたこともある。第一次産業と第二次産業で分類されるのも、その余韻であろうか?「不健康な製造工業」と表現するあたりは、マルサスの資本者階級への嫌悪感が表れている。
食糧不足はそのまま社会問題となるので、伝統的に政府が使命感を持って農業に介入してきた。それだけに、その性格も保守的になりがちで、現在では余計な政治介入が癒着と化す。地球の未来像を想像すれば、農業優位に回帰し、保守と革新という性格も入れ替わるかもしれない。

4. 救貧法批判
いつの時代も、新興市場は保守派から批判的な目で見られがちだ。産業革命期では、工業の勢いが資本者階級を勢いづけ、労働者をますます隷属的にし、階級間の対立を激化させた。社会不安が蔓延すると、金儲けや金持ちは悪徳とされ、平等を崇める社会主義的な活気が沸き立つものである。そして、生活補助などの社会保障制度の整備が叫ばれる。ちょうどこの頃、フランス革命の気運がイギリスにも伝播したという。
本書は、イングランド救貧法が穀物価格の高騰と貧困を助長する元凶だと指摘している。特に教区法を廃止すべきだと訴えている。この法律は、部分的な成功はあっても独立精神を損なう傾向が強く、自由と平等の真の原理を破壊したという。教区の食糧を期待して結婚したり、自分の子供に不幸を与えながら他人に依存するような風潮が現れたそうな。
また、経済循環を弱めることなく極端な層を一定程度に減少させることは、不可能かもしれないとも言っている。餓死寸前の困窮の存在は、人口過剰の警告として作用するとしている。
「われわれは社会から富と貧困とを排除することをおそらく期待しえないけれども、それでも極端な層の数を減少させ、中間層の数を増大させる統治様式を見いだすことができれば、それを採用するのは、うたがいもなくわれわれの義務であろう。」
生活保護のような政策が、ある程度貧困層の救済に役立つのは間違いないだろう。だが、自立精神を促すものでなければ、再起する意志までも砕かれる。ここが補助金政策の難しいところで、下手をすると単なるバラマキ政策となり財政を圧迫するだけで終わる。また、貧困層の生活が多少なりと改善されれば、物価を高騰させるだろう。そうなると貧困層を拡大するという負のスパイラルに陥るかもしれない。貧乏が明日の活力を生み出すところもあるので、必ずしも悪とは言えない。自立を目指す貧乏ならば名誉であるが、他人にたかる貧乏は不名誉といったところであろうか...

2011-06-19

"サムエルソン 経済学(下)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

上巻の続き...

経済学は「おニュー」がお好き!
「新古典派」って新しいんだか?古いんだか?「新自由主義」ってどんな自由なんだか?「ニューケインジアン」なんて、ほんの少し改良されたぐらいにしか見えない。それを言い出したら、「ニュープラトン」や「ニューデカルト」など世間は騒がしくしょうがない。「ニューニュートン」なんて言い出したら、ろれつが回らない。大して新しくもないから、わざわざ強調するのか?合理性を強調するのも、そこに大した合理性がないからか?はたまた、他人の出資までも含めておきながら、「自己資本」とはこれいかに...縄張りを強調しているのか?経済学者は寂しがり屋なのだろう。そういえば、80年代頃に流行した「ニューハーフ」という言葉は今も使われるのだろうか?ちなみに、アル中ハイマーは「ニューボトル」に弱い!

時代背景に照らせば、過去の経済学者たちの考えはそれなりに納得できる。
重商主義は、封建的束縛から民衆が解放されつつある時代に、主観の強すぎる価値観に若干の客観的視点を与えた。そして市場メカニズムが、君主の影響や世襲制の強い管理経済の下で、正当な価値をもたらすと考えた。投機行動は、対象となる商品や企業に特別な思い入れがあるわけではなく、その価値が増加することにのみ関心を抱く。投機が機能すれば、企業や政府の思惑を排除した、より客観的な価値が得られるかもしれない。機能すればだけど...
新古典派は古典派を進化させて、経済成長の主な要因は資本と技術革新にあるとした。それは近代経済の根幹でもある。だが、資本投入や経済成長が永遠に続くと考えて、需要よりも供給が優先されるところに弱点がある。すべての発明が公平に満遍なく起こるわけではない。発明が資本や労働に対して有利に働くこともあれば、労働機会を圧迫することもある。当時の識者たちは資本主義を実質賃金の変動で判断した。これは、現在でも残っている傾向であり、実質利子率とインフレ率との関係ばかりを凝視する風潮がある。
その一方で、市場が暴走する様子を見せつけられれば、そこに不完全性があると考えるのも自然であろう。ケインズ理論は、「恐慌」の処方箋としての政府介入の必要性を唱えた。だが、ピラミッドでもなんでも造ってしまえという政府支出は、一部の業界と癒着して無駄な公共投資を助長する。
結局、経済問題は、複合的な方策で臨機応変に対応するしかないのだろう。経済学には、そのために偉人たちの残した多くの遺産がある...はずだが...

E.B.ホワイト曰く、「民主主義とは、人々の半分以上が二度に一度以上は正しいという点に、繰り返し気付くことである。」
この言葉は、多数決の限界と民主主義の不完全性を唱えている。民主主義の欠点は、徐々に変化するしかない、変革しずらいシステムということである。経済状況は刻々と変化するために、多くの場合で刺激策を投じた時は手遅れとなる。即座に対応するには、流血革命しかないのか?
市場経済が曝け出す最大の問題は、恐慌であり、極端な貧困と不公平の創出であろう。市場経済が野獣と化すたびに政府は存在感を増す。だが、多くの先進国で政府介入の是非が議論されるのは、しばしば経済政策が失敗するからである。そして、レーガンやサッチャーのように小さな政府を唱える方向と、その後の反発が繰り返されてきた。ただ、こう度々政策転換されては、どの政策が成功して、どの政策が失敗したのかも分からなくなる。そして、ますます論争が激化し、人間社会は経済政策の実験場と化す。
ほとんどの経済分析や巷での討論は、インフレや失業、政府や日銀の政策転換、あるいは自動車産業や半導体産業の景気動向といった短期的な関心事に焦点をあてる。本書は、この手の関心事は長期的な経済成長の潮流の中のさざ波ほどでしかないと指摘している。政府の短期的な政策がうまくいったように見えても、しばしば長期的には悪影響を及ぼす。経済運営や安定社会で求めれるのは長期的視野であろう。だが、世論は目先の方策に注目し、しかも移り気が早い。

1. 経済史の流れ
経済学的な思考の始まりは、既にアリストテレスに見られる。初期の教義は、正当な価格が真の価値を教えるとした。その思想を継承したスコラ学派たちは、貸付金に対する利子を法外な高利として反対した。高利の禁止は、現在においても法律として残っている。
経済学という学問が現れたのは、17, 18世紀の重商主義のあたりであろうか。重要主義者たちは、当時台頭しつつあった民族国家の枠組みの中で、軍事力や経済力を支援した。特に、イギリスやフランスで金銀を信奉する連中が強力で、後にアメリカ革命の引き金となる。デイヴィッド・ヒュームは、重商主義の分析で、「金流動メカニズム論」を提起したという。重商主義は、商品価値を市場メカニズムに委ねるという若干の客観性を与えた。重商主義に強く反対したのが、重農主義で、農業だけが経済的余剰の源泉とした。人間が生きるためには食糧が最も重要であって、重農主義的な考えも分からなくはない。
その頃、経済学を最初に築いたのがアダム・スミスと言われる。善意から法律や規則によって経済を改善しようとしても、世襲的意識や地主の権限などで客観的な裁きはできない。そこでスミスは、むしろ利己心を自由放任のもとで飼い慣らす方が合理的だとし、「神の見えざる御手」に委ねる自然原理、すなわち完全競争市場こそが真理だとした。それも一理あろう。政治家の善意というものは公平性に欠けるのだから。君主制が優勢である時代に、政府の介入を否定したのだから、スミスが庶民的立場にあったとも言えそうだ。
次に、自由放任経済が失速しつつある時、収穫逓減の法則が発見された。その頃、マルサスやリカードが登場する。マルサスは賃金鉄則なるものを言いだし、人口増加が不可避的に労働賃金の水準を押し下げるとした。リカードの貢献は、経済的レントの性質の分析で、その説は今日でも生き残っているという。二人とも、産業革命で資本主義が絶好調にある時、収穫逓減の法則に賭けたようだが、こうした思想は社会主義者たちを喜ばせたことだろう。だが、産業革命をはじめとする技術革新が、収穫低減の法則を凌駕することになる。
続いて、経済学は、新古典派とケインズ派で分裂する。需要曲線を無視して、ひたすらセイの法則を信奉する古典派を継承したのが、新古典派である。だが意外にも本書は、新古典派経済学者たちが、自由放任の信奉者であったと速断してはならないと指摘している。一部はそうだが、大部分では資本主義の不平等性に批判的だったそうな。新古典派は、需要が限界効用に依存するという考えを加えて、市場メカニズムの理論を進化させたという。ワルラスは一般均衡分析の手法を創り上げた。シュンペーターは、一般均衡論を発見したワルラスこそ最も偉大な経済学者だと讃えたという。
その頃、世界大恐慌が発生して資本主義は信用を失い、マルクスの資本論が社会主義者たちを勢い付ける。そして、ケインズ革命が、市場メカニズムの不完全性に対して政府介入を唱え、経済循環におけるマクロ経済学が始まった。ただ、それで自由放任思想が消えたわけではない。自由市場における自由意思論者や、合理的期待形成論者が、それだという。

2. 人口論
T.R.マルサスの「人口論」は、前々から目を付けていたが、本書のお陰で余計に興味がわく。マルサスは、人口増加が経済を圧迫して、労働者を最低生存水準にまで落とすと考えた。その理論によると、賃金が生活水準を上回るたびに人口が増え、やがて生存水準以下の賃金となり、死亡率を高めて人口減少を招くとしている。つまり、賃金が生存水準に等しい時にだけ均衡が得られるというものである。
経済学では、マルサスの評価が意外にも低いようだが、それはなぜだろう?マルサスが産業革命による技術革新の奇跡を予見できなかったのは仕方があるまい。皮肉なことに、産業革命期に爆発的な人口増加が始まる。そして、技術革新が失業を上回る勢いで賃金を高騰させ、急激な経済成長を続けることになる。こうなると、マルサスの理論も廃れてしまう。しかし、現代社会になんらかの警鐘を鳴らしているような気がしてならない。
現在でも遺伝子改良などの農業技術が人口増加傾向を支えているが、エネルギー問題や環境問題が経済成長の足枷になっている。いずれ技術革新で克服されるかもしれないけど。となると、人類は永遠に発明と技術革新からは逃れられそうにない。人類はやがて居住地を地球外に求めるしかなくなるだろう。

3. 比較優位の理論
デヴィッド・リカードは、この理論を発見しただけでも賞賛に値するだろう。とても古典派だと蔑む気にはなれない。各国が共存して国際貿易が成り立つのも、この理論のお陰と言っていい。
絶対優位のメカニズムでは、得意とする分野に特化して生産を拡大すれば効率的な経済が実現できるとしている。しかし、あらゆる物品が対外優位性だけで成り立つとすれば、先進国の効率性がすべての利益を独占してしまうだろう。
対して比較優位のメカニズムでは、対外優位性のない国でも、国内における相対的に能率の良い分野で輸出し、相対的に能率の悪い分野で輸入すれば、国際貿易に充分に参入できるとしている。これは、国々が産業分野において、だいたい特化するようになっていることを説明している。
本書は、そのメカニズムを弁護士と秘書の関係で説明している。ある町で一番有能な女弁護士は、同時にその町一番のタイピストでもある。ここで、なんで性別が関係あるのか知らん?さて、彼女はタイピストとしての秘書を雇って分業すべきか?雇わずに自らタイプの仕事もやった方が効率が良いか?その答えは、秘書を雇うべし!女弁護士の報酬は秘書の給料よりもはるかに高いので、法律に専念した方がより多くの報酬を得ることができるというわけだ。それは、絶対的な関係ではなく相対的な関係からの能率性で結論付けている。
なるほど、この理論で、先進国の慢性的な財政赤字も比較優位性で説明できるかもしれない。まず、発展途上国は、海外投資を受け入れ経済成長を拡大するために債務国となるだろう。やがて、経済が成熟してくると、過去の借金に対して配当や利子が増え、生産も限界に近づく。そして、途上国への投資も必要となり、貸し借りが均衡化し、やがて債権国となるだろう。更に、債権国として成熟すると、対外投資が貿易赤字と均衡し、収支赤字が慢性的になる。したがって、慢性的な財政赤字は先進国の宿命であろうか。逆に言えば、金融投資能力が強力とも言えるのだが。
比較優位の理論は、経済学の相対性理論的な存在なのかもしれない。

4. 保護主義と自由貿易
比較優位の理論は、国々がどのように特化し、いかに国際分業から利益を得るかを教えてくれる。にもかかわらず、政府は保護政策をとり続けるのはなぜか?関税や数量割り当ての形で輸入障壁をつくるのは、絶対優位性を信じているからであろうか?アメリカの自動車産業の衰退が、日本での雇用を生みアメリカに大量失業をもたらした現象を眺めるだけでも、絶対優位性を信じるのに充分ではある。だが、為替変動などのリスクを抑えたり、生産効率を高めるために現地生産という方法を用いれば、現地の雇用問題は結果的に解決するだろう。そもそも現地の人々に収入がなければ商品の購入もできない。また、価格競争において、優劣を極端にしてしまうような関税政策が、経済循環にとって良いはずがない。現実に、政府の奇妙な補助金政策が国内産業を衰退させる。業界が官僚的体質に陥っては経済活動を硬直させるだろう。偏重した政策による国内生産の煽りは経済のどこかに歪みが生じる。
その一方で、保護主義的な政策は、経済人にとっては一般的に否定的であろう。それも一理ある。より公平で効率的な流通機構を持っている国は、その流通システム自体を輸出し、海外の消費者に還元するだろう。ただ、自由貿易の行き過ぎが、独占や寡占を生みだすのも事実である。
極端な自由化は競争の原理を暴走させ、極端な平等化は自国産業を衰退させる。現実に、選挙活動が利益供与を求める政治団体と化し、政治家は平等を掲げながら利益供与政策を公然と実施する。報復のための関税や、対輸入救済策などと叫びながら...

5. 為替レートと国際金融制度
国際金融の歴史は、破綻と再建を繰り返してきた。市場を為替レートが支配する一方で、金融制度で暴走を防止してきた。だが、現在では金融制度がそれほど効果を上げていないように映る。金融制度は民主主義と同じくらい不完全なのかもしれないが、人類はそれに勝る方策をいまだ発見できないでいる。外国為替市場が為替レートを決定する要因は、基本的には貨幣に対する需要と供給の関係にある。貨幣の信用は、貨幣発行者である国の信用でもあって、その国が経済危機となれば暴落するだろう。
かつて為替は金本位制で運営されたが、やがて変動為替相場で運営されるようになる。為替は、生産、インフレ、外国貿易など国家間の主要な項目にかかわってくるので、不完全な市場に委ねるにはあまりにも無神経であろう。そこで、管理された変動為替相場というのが現実的となる。
国際金融制度は、第二次大戦後に急速に進化した。それは、世界恐慌と大戦によって国際経済が破壊された経験とも言えよう。具体的には、GATTとブレトン・ウッズ体制ということになろうか。ブレトン・ウッズ体制が、IMFや世界銀行、あるいは為替率体制を確立する。IMFは、国際的貨幣制度の管理をし、世界銀行は国際的借款のための資本を蓄える。よく耳にするのが、IMFは世界経済の安定を使命とし、世界銀行は貧困層の撲滅を使命とする...ということであるが、ほんまかいな???
第二次大戦後の30年間は、事実上アメリカドルが基軸通貨の役割を果たす。ブレトン・ウッズ体制では金がドルと同等の地位にあったが、1971年にニクソンが公式にドルと金のリンクを切り離してブレトン・ウッズ体制は終焉する。現在は完全に為替率が国際機関によって管理されているわけではない。ほとんどの国で屈伸的な相場を保ちつつ、なんらかの政府管理を共存させている。実際は、世界世論によって国内政策に影響を与えるので、準グローバル化といったところだろうか。アメリカ経済が健在な時代はドルが基軸通貨の役割を果たしてきたが、現在では移り気が多いようだ。だが、経済ニュースを眺めていると、いまだに円高や円安は対ドル相場が強調される。本当に経済情勢に興味のある人は、ユーロやポンドなど、多くの相場を眺めているのだろうけど。
ところで、ギリシャ危機は同じ通貨で統一することの危険性を警告しているように思える。つまり、為替変動が経済リスクを吸収する役割もあるということだ。一国の経済が破綻したとしても、独自貨幣が存在していれば、貨幣の相場が暴落するだけで国外への影響を最小限に抑えられる。イギリスがいまだにポンドを保持している理由は、ユーロ圏への信用格差の問題であろうか?国債がGDP比に対して膨大になろうとも、それを引き受けているのが国内で閉じていれば、国際社会から締め出されるだけで国際的リスクは回避できるだろう。となれば、社会的、経済的リスクを分散する意味でも、価値観の多様性というのが人間社会の実践的方法であろうか。

2011-06-12

"サムエルソン 経済学(上)" P.A.Samuelson & W.D.Nordhaus 著

しばしば、経済政策は富める者を一層豊かにし、貧しい者を一層貧困に追い込む。そして、特定地域に飢餓まで生みだしてきた。現在の市場経済が、金融支配を強めていると感じている人も少なくないだろう。経済が奇妙な方向へ向かってはいないか?と疑問を持ち始めたのは10年ぐらい前であろうか。そして、最も毛嫌いしている学問の書を少しずつ読むようになった。市場経済を少しでも理解するために株式投資にも手を出し、泥酔者心理が投機的行動に向かいやすいのも実感している。
科学的分析とは、現象を説明する時に余計な解釈を排除し、ひたすら真理の探究に努めることであろう。しかし、エコノミストたちは、わざわざ余計な解釈を持ち込んで混乱させやがる。せっかく過去の偉人たちが、優れた着眼点やアプローチ法を提案してきたにもかかわらずだ。その根底には、イデオロギーから脱皮できない複雑な思考回路があるからに違いない。経済学ほど「合理的行動」という言葉を強調する学問も珍しいが、自ら合理性を放棄するかのようでもある。人間は、金が絡むと本性を剥き出しにして冷静さを失うというわけか。実にもったいない学問である。
...というのが経済学の印象である。
ところが、本書はそんなイメージを少し変えてくれる。
経済学系の書を眺めていると、時々サムエルソンを讃える言葉を見かけるので、前々から目を付けていた。しかし、分厚い大百科事典の風貌が威圧感を与える。それでも、図書館で恐る々々近づいてみると、意外にも嵌ってしまった。なるほど、経済学の教科書と言われるだけことはある。用語の説明が丁寧なのがいい。経済学は用語の定義を疎かにしがちだが、その意味で異質である。ケインズの「一般理論」が、経済学を専攻した人ほど読み辛いというのは本当かもしれない。
「経済学とは、さまざまの有用な商品を生産するために、社会がどのように希少性のある資源を使い、異なる集団のあいだにそれら商品を配分するかについての研究である。」
最初に出会うべき書であった。随分と遠回りしたものだ。この書が絶版中とはなんとも惜しい!

本書で、まず気づかされたのは、経済学用語が異質だということである。
例えば、「限界」とか「性向」といった言葉のニュアンスが、本来の日本語とまるっきり違う。
「限界」は、ある一単位の増加に対して、何かが増加する量を示す場合に使う。限界というよりは「より均衡」ぐらいでいいだろう。「限界費用」で言えば、生産量を一単位追加する時、その分の追加費用を意味する。これは、単位生産量に対する費用の変化量であって、関数の傾きや勾配を示している。そして、導関数で簡単に求められることがすぐに分かる。つまり、費用関数の微分が「限界費用」である。「限界消費性向」で言えば、消費関数における単位あたりの勾配ということになる。本当に限界に達するという意味では、傾きや勾配がゼロに近づいて関数が平らになる部分ということになる。
「性向」は、精神的傾向というよりは比率の意味合いが強い。「消費性向」で言えば、消費に向かう意欲といった精神的傾向に思えるが、実は可処分所得のうちの消費の割合を指す。つまり、消費性向 + 貯蓄性向 = 1 の関係にある。単に、可処分所得に対する消費率や貯蓄率で良さそうなものである。ただ、精神的傾向を数字で表すとなれば割合ということになるのだろう。それも、分からなくはないが...
ちなみに、国会討論で消費性向の議論がされると、酔っ払いにはチンプンカンプン!彼らの議論から乗数効果との関係がまったくイメージできない。本書は、このあたりも説明してくれる。そして、「インフレ」にも専門家によって解釈の違いがあることを指摘している。インフレ率が明確に定義できてもインフレそのものの判定は、消費者物価指数や生産者物価指数、あるいはGDPデフレータなどでなされ、しかも、これらの指数は前年度比で示されるに過ぎない。したがって、指数自体にどこまで妥当性があるのかを判別するのは難しく、インフレかデフレかも様々な見解が入り混じる。そして、明らかにインフレ、明らかにデフレとなって見解の一致をみるので、経済政策は手遅れになりがちとなる。こうした曖昧な解釈が氾濫した状況でインフレ懸念といった議論がなされるから、経済政策が混乱するのも仕方があるまい。
...なるほど、本書を読めば、チンプンカンプンな経済討論がだいたい翻訳できそうだ。ちょいと前までは、マネーサプライを貨幣供給量と表現することにも違和感があった。「選好」や「効用」といった言葉もとっつきにくい。「好み」と「満足」でだいたい表現できそうだが...
本書の翻訳では、spending(支出)やcrowding out(押し出す)などをカタカナのまま残すという配慮がなされる。やはり微妙にニュアンスが違うようだ。経済学はほとんど欧米からの輸入であり、用語を日本語に当て嵌める難しさがある。それは、どの学問でも見られる傾向であるが、特に経済学では普通の言葉が奇妙な専門語化しているところに、より混乱を招く要因があるように思える。経済学者の感覚が一般から乖離していて、それが翻訳語にも現れているのか?それとも、経済学者は、普通の言葉に風変わりな意味合いを持たせながら、専門の縄張りを築こうとしているのか?一般人を締め出すには最高の方策ではあるが...

経済報道がチンプンカンプンなのは、経済学の専門性が高いのだろうと思った時期もあった。だが、ちょいと考えてみれば、経済ほど日常生活に直結するものはない。所得がなければ生活もできないし、収入があれば消費と貯蓄の割合を考えるのは当たり前だ。あらゆる流通や職業は、需要と供給の関係から生じる。実は、経済学ってあまり専門性がないんじゃないかい?
人々は、家計や所属する企業など個々の構成体としてミクロ経済学と直接的に拘わり、財政赤字や税制や国際貿易など選挙の争点でマクロ経済と間接的に拘わる。したがって、マクロ経済の方が専門性が高く、政治屋や報道屋によって欺瞞されやすい。おまけに、情報の偏りは思考を偏重させる。結局、民主主義は報道の奴隷になるしかないのか?
政治屋たちは、互いの経済知識がないことを罵り合い、国会は経済用語の試験場と化す。しかし、考えようによっては、それで経済政策が先送りされるのは最善策かもしれない。基本的に経済政策への期待度は乗数効果的なものが大きい。つまり、失策もまた乗数効果を発揮するだろう。くだらない経済政策を実施するぐらいならば、何もしない方がマシということになりそうだ。そして、自由放任思想は永遠に活気づくわけか。大方の経済政策は、需要と供給のメカニズムに対する善意によって実施されるが、それが未熟なためにしばしば非効率を生み出す。特定業界へ利益をもたらしても社会全体として不況になるばかりか、優遇したはずの産業ですら打ち上げ花火で終わり、産業自体を壊滅させてしまうことも珍しくない。おまけに、再建意欲までも失わせ、補助金をたかる構図が完成する。
それは、重商主義時代からの経済政策の伝統であろうか。マクロ経済学は、いまだ失業のメカニズムを説明できないでいる。人間社会が高度化、複雑化するほど、インフレと失業が同時に克服できないのは、それが真理だからであろうか?政府の経済政策は、迷走を続けるしかないのか?おまけに、国が富めば財政赤字は慢性化するしかないのか?それは、時間の収支や人生の収支が常に赤字であるように...

1. 経済学のパラドックス
マクロ経済の現象が、しばしばミクロ経済では正反対の現象になる。個人や企業体にとって好ましいことが、社会全体としては好ましくない方向に作用することは珍しくない。
本書は、それを「節倹のパラドックス」「合成の誤謬」で紹介する。マクロ経済学で分かりにくいのは、貯蓄が投資と一致するという考え方であろうか。貯蓄が増えることは個人的にはありがたいことだが、全体ではそれが投資に向かわなければ経済循環は硬直化する。家計(ミクロ的)では、貯蓄した分がすべて投資に回ることはない。貯蓄が増えれば投資も増える傾向にあるだろうが、通帳の残高を眺めて快感を得る人もいるだろう。投資量が貯蓄量と同じになるという考えは、安易過ぎるような気がする。
しかし、マクロ的には、その年度の投資の追加量から貯蓄の追加量が決定され、政府支出が総投資量へどのように刺激されるかという議論が盛んに行われる。それは、国の貸借対照表からある程度は理解できる。実際に、行政は予算の全額を消化しなければならないと思っている。ただ、経済政策を決定する政府与党を選択するのは有権者であり、ほとんど家計感覚で経済政策を眺めているだろう。民衆が、まともにマクロ経済学を勉強するわけがないのだから。となれば、政治屋や報道屋は、民衆にいかにミクロ経済との違いがあるかを説明する義務があろう。しかし、当選しか考えない政治屋は良いことしか言わないし、それを信じて民衆は一票を投じる。結局、国家財政は悲惨な方向に向かうしかないのか?国債の累積赤字がGDP比200%になるのを知れば、世論はなんとなく増税の必要性を認めるだろう。海外からも増税を指摘されるとなれば、デフォルトの危機か?と不安にもなろう。昨年6月のサミットで財政赤字目標が掲げられ、日本が例外扱いされたのは不名誉であるが、そんなことは言ってられない。だが、大震災に遭遇してもなお、相変わらず国会は揉めている。これぞパラドックスだ。

2. 経済学の基本原理を抜粋すると、こんな感じであろうか...
(1) 経済循環の源泉は貨幣
貨幣が登場してから経済学が誕生したと言ってもいいだろう。貨幣は交換の潤滑油となり、仮想社会を構築した。古代から、偽造貨幣を製造して敵国の経済を破綻させようと目論んできた。現在では、電子マネーの登場などで更に利便性を高め仮想化を拡大する。金融社会は、貨幣供給に乗数効果をもたらし、ますます実態経済を曖昧にする。

(2) 基本的な原理は、需要と供給の関係
求める者がいなければ、価値という概念も成り立たないだろう。

(3) あらゆる傾向は、「収穫逓減の法則」と似た状況にある
限界効用も逓減の法則に従うという。成長はいずれ息切れし、資源や資本もいずれ枯渇するだろう。人口も増加傾向にある。こうしたことを相殺してきたのが、産業革命などの技術革新であった。では未来は?

(4) 乗数理論的な現象
莫大な人口社会では、経済効果は善し悪しにかかわらず乗数的な傾向を見せる。それは世論の反応も同じだ。

(5) 莫大な人口増加に対応するためには、無理やりにでも職を生みだす必要がある
利便性が高まれば仕事が減って楽になりそうなものだが、その分失業も増える。高度な情報化社会が利便性をもたらせば、情報漏洩やコンピュータウィルスなどの高度な社会問題が生じる。いまやセキュリティ対策は当然だという風潮があり、無防備な者が悪いと煽りながら強迫観念にまで押し上げて、セキュリティ業界が繁盛する。これも必要悪なのか?まさか、ウィルスをばらまいているのは、セキュリティ部門じゃねぇだろうなぁ...

(6) 自由と平等の綱引き
どちらも美しい言葉だけに憑かれやすい。

3. マクロ経済学
ジェームス・トービン曰く、「総じて経済の目的と言えば、現在または将来の消費のための財貨またはサービスの生産である。私は思うに、挙証責任は常に、生産増加でなく減少をはかるもの、利用できるはずの人間なり機械なり土地なりを遊ばせておくものの側にある。この種の無駄を正当化するために如何に数多くの理由が発見できるかは驚くばかりだ。たとえば、インフレの心配、国際収支の赤字、予算の不均衡、国の過大な負債、ドルへの信頼の喪失などの理由がそれである。」
マクロ経済学を本格化させたのは、経済に対して政府介入の必要性を認めさせたケインズ革命である。マクロ経済が右肩上がりの成長を続けていれば、民衆は個々の構成体のミクロ経済だけを気にしていればいい。だが、経済が息切れをすると、政府介入が必要となる。とはいっても、政府介入の度合いを決めるのは難しい。政府に積極的な役割を求めるか静観を求めるかは、経済学派で最も意見の分かれるところであろう。景気動向によっても介入レベルが変わってくる。景気動向の指標では、GDP、雇用率、インフレ率、輸出額などに注目する。
今日よく見かける議論は、潜在的生産力との比較でGDPギャップであろうか。尚、本書は、時代からしてGNPを用いている。ただ、GNPだけでなく、経済純福祉の概念を取り入れているところに注目したい。経済的に豊かになると余暇の時間が増える。人生としては、こちらの方が贅沢であろう。だが、福祉度が上昇して心理的に満足しても、GNPは下がることになる。これを経済指標としてマイナスと捉えるのはいかがなものか、と疑問を呈している。
更におもしろいのは、GNPの議論で、通常の経済学では扱われないアングラ経済の重要性を指摘している点である。ところで、GDP指標には、アンダーグラウンド的な領域はどこまで反映されているのだろうか?麻薬取引やマネーローンダリングなどを加えると、病院や弁護士の需要が高まるだろうから間接的に含まれているのだろう。いや、裏社会はほとんど表沙汰にならないはずなので、それらを加えるとGDPが倍に跳ね上がったりして...政治屋が、ここぞという時に根拠もなく名目GDP目標を高く設定できるのは、裏社会を体験的に熟知してのことか?

4. 経済政策
主な政府政策は、財政政策、金融政策、対外関係、所得政策の四つだという。
財政政策は、政府支出と課税の調整である。政府支出は、公共事業などで雇用を創出する場合など、経済全体の支出にも関係する。景気刺激策として課税を減らせば、消費意欲を刺激できるだろう。租税項目で、投資課税優遇措置などで減税の特典を与えれば、投資誘導もできるだろう。
金融政策は、貨幣量を調整することにより間接的に利子率を変動させ、GDPの縮小やインフレ抑制をする。
対外関係は、通商政策によって自国の貿易に影響を与える。その主な手段は為替レートの調整である。
所得政策は、より正確には賃金物価政策と呼ばれるという。インフレを抑制する伝統的な方法は、政府が財政政策や金融政策を用いて経済活動を減速させ、失業率を高めるという荒療法であった。だが、民衆の支持は得られないので、政府は失業率を抑制しながらインフレ抑制を模索してきた。賃金の引き下げは労働者が抵抗する最も厄介な方策であり、今日ほとんど耳にすることはない。
ところで、アメリカの政策担当者は、極端にインフレを恐れる傾向にあるように映るのは気のせいか?インフレ傾向が生産や雇用を過剰にし、いずれしわ寄せがくるのは明らかで、資産価値を目減りさせる恐れがあるので、その気持ちも分からないではない。とはいえ、アメリカは高い失業率を維持してきたという現実がある。
「指導者が、合衆国で民主党員であるか共和党員であるかの別なく、イギリスでは保守系、フランスでは社会主義系という違いがあっても、国は、失業とインフレーションとのあいだの短期的な競合的選択を免れることはできない。すべての国民が学んだことは、物価と賃金が自由市場で決定される経済においては、インフレ率を削減する政策のためには高失業率と大GNPギャップという高い代償を払わなければならぬという教訓である。」
経済が成熟するほど、インフレと失業を同時に克服できないのは、それが真理だからかもしれない。

5. 乗数理論と貨幣供給の仕組み
乗数モデルは数学的には単純である。
例えば、追加的所得に対して、3分の2が常に消費されるとすれば、乗数連鎖の合計は以下のようになる。

 1 + 2/3 + (2/3)^2 + (2/3)^3 + ... = 1/(1 - 2/3) = 3

この乗数効果は、投資と産出の関係にも適応される。
更に、銀行の貨幣供給の仕組みが乗数効果と絡むと、興味深いことになる。銀行の準備金は、預金の支払いに対して備える金額で、実際には3%から12%で規定されているという。仮に10%としよう。ある人が1,000ドルを預金すると、銀行は100ドルだけ準備金として保持し、900ドルをどこかに投資して利子率を稼ごうとする。投資先がその900ドルを更にどこかの銀行に預けると、その準備金で10%だけ保持しながら90%をどこかに投資できる。それを繰り返せば、数学的には貨幣供給量がたちまち10,000ドルになるという。

 $1,000 x (1 + 9/10 + (9/10)^2 + (9/10)^3 + ...) = $1,000 x (1/(1-9/10) = $10,000

なんとも奇妙な話だ。少なくとも財務表では、貨幣量は増殖することになるのだから。金融業は一般企業とは違った対応が必要なのだろう。だが、現実には政治的に癒着しやすい構造がある。無理やり国債を引き受けさせられるという気の毒な面もあるけど。
貨幣量の仮想化が加速すれば、政府の貨幣政策も効果を失うだろう。そうえいば、中国は金融引き締めのために、銀行準備金を史上最高水準まで引き上げたりしているなぁ。別の仮想化の思惑があるのかもしれないが...
ところで、貨幣の発明者は偉大である。なにしろ、価値を永遠に増幅させる仕組みを作り出したのだから。人間は、価値を知らないから、無理やり価値評価して満足感を得ようとする。そりゃ、実体のないものに憑かれるわけだ。人間社会が仮想化に邁進するのは、それが精神の本質だからかもしれない。
オスカー・ワイルド曰く、「冷笑家(シニック)とはどんな人間か。それは、あらゆるものの価格を知っていて、何ひとつ価値を知らぬ人間のことである。」

下巻へ続く...

2011-06-05

"価値と資本(I/II)" John Richard Hicks 著

岩波文庫版の「価値と資本(上/下)」を本屋で見かけたのは、三、四年前であろうか。それが貴重な機会だったことを後で知ることになる。復刊したと思ったら、すぐに絶版になるのだから。手に入らないとなると、欲求は余計に駆り立てられる。ということで、図書館をあさってみた。
本書は、岩波現代叢書版の全二巻で、I巻が1952年発行、II巻が改訂1965年発行というアンバランス。I巻は旧漢字で少々悩まされる。こういう古典こそ電子書籍に期待したい。

J.R.ヒックス著「経済史の理論」には、彼がノーベル経済学賞を受賞した時、次のように語ったと解説されていた。
「そこからすでに抜け出してきた仕事に対して栄誉を与えられたことについては、複雑な心境である。」
経済学者が自らの業績を皮肉るのも珍しい。自分の研究を検証し改めることは、自己否定にもなるので勇気のいることだろう。なんとなく彼の前半の作品「価値と資本」に興味がわく。副題には「経済理論の若干の基本原理に関する研究」とある。この「若干」というところに控え目な様子がうかがえる。
「最後にわたくしは、必要とされる種類の世界観を理論だけから形成することができるとは考えない。われわれが案じて採ることのできる経済哲学に到達しうるまでには、あらかじめわれわれの動学的過程を、資本主義の発展に関するわれわれの歴史的知識と対決させることが特に必要である。」
本書には、至る所に「不完全」という言葉が躍る。経済現象を法則化できないと言い訳めいても映るが、それが現実だ。あらゆる価格が需要と供給の均衡で決まるならば、健全な交換システムが構築できるだろう。だが、需要曲線にしても供給曲線にしても、商品個々によって違えば、経済状況によっても曲線が左右に移動し、厳密には決定できない。方程式が決定できないとなれば体系的理論も色褪せる。そして、できることといったら条件を前提しながら、傾向を示すぐらいか。
一般的には、商品需要が高まれば価格は上昇し、利率も多少なりと上昇する傾向があるぐらいのことは言えるだろう。貨幣の限界効用を不変と仮定すれば、商品価格の下落が需要を高めるぐらいのことは言えるだろう。しかし、現実はそう単純ではない。一次的効果が的確に予測できても、だいたいにおいて二次的効果は逆方向に作用したり、直接的効果と間接的効果で相殺したりする。貨幣は、あらゆる取引の代替物として価値の指標とされるが、貨幣そのものの価値が変動する。本来、貨幣価値と商品価値の間に一定の比率が認められてもよさそうなものだが、これまた将来価値という予測不能な評価が加わる。これらすべては主観的傾向が強い。
更に、価格予想はあらかじめ市場に盛り込まれたりと様々な形で作用する。例えば、証券から貨幣への需要の移動を助長しても、利率の過敏な反応が商品価格の上昇を抑制するかもしれないし、商品需要の増加が貨幣需要と相殺して利率は上昇しないかもしれない。はたまた、富裕層では価格上昇がかえって需要を誘発するかもしれない。おまけに、エコノミストたちが自身満々に語る経済予測が、多くの選好や効用に影響を与えやがる。
となれば、「不完全」を連呼して、愚痴ってないとやってられない。
本書は、「所得効果などの現象から一般的に言えることは何一つない!」とまで言っている。

本書の流れは...
前半部は、欲望と満足の関係から主観的価値を論じながら、ワルラスやパレート流の理論を吟味する。そして、従来の乾燥的な議論が現実の経済から乖離してきたことを回想する。
後半部は、動学的経済学の基礎を扱い、貯蓄と投資、利子と物価、ブームとスランプを対比させながら限界効用を論じる。そして、動学的均衡の結論は、ケインズ理論に近いと認めている。
また、一般均衡経済学において、動学的理論を持ち出したサミュエルソン教授の貢献を讃えている。さっそくサミュエルソンの「経済学」を検索してみると、これまた絶版中か。流れに任せて、次に借りてくるかぁ...

本書の主題は、貨幣、貯蓄、投資の総括的な変化が、価格、生産、利率に及ぼす効果についてである。それは、ミクロ経済の観点から生産、消費、投資などの行動を考察しているが、マクロ経済の足掛かりになりそうだ。
その特徴は、時間概念としての利率の扱いであろうか。つまり、動学的な分析である。長期間で観察すれば、静学的に捉えるのもそれなりに合理性があろう。しかし、経済現象には、過敏に反応する要素、そこそこ柔軟な要素、硬直化した要素など、あまりにも性質の違うものが複雑に絡む。投入と生産、収入と支出、契約と遂行、貸付と返済などを対応させても、同時に施行されるわけではない。時間の経過は価値の変化をもたらし、それを吸収する役割を果たすのが利率ということになる。利率は危険度の指標としての役割もあるが、時間的リスクと捉えてもいいだろう。ちなみに、ケインズは「利子率は流動性をある一定期間手放すことに対する報酬である。」と語った。
ところで、名目利率が常に正を示すのはなぜか?限りなくゼロに近づくことはあるが...利率は人間の欲望を写しだしているのか?何をやっても時間の収支は赤字なので、その慰めのために編み出した仕掛けなのか?いくらGDPがプラス成長をしても、人生の豊かさがプラスになるとは限らない。人間が経済現象を解釈しようとすれば、自然現象から乖離していく。需要と供給は相変わらず非対称性のままだ。実質利率の計算式が機能しているのかも疑わしい。そもそも、真の利率を人間が算出できるとしたら、経済現象は完璧に説明できるのではないか?今日、利率は崇められるほどの信用は得ていない。それどころか、経済学を批判する立場の人々からは悪魔とされる。熱力学ではエントロピーが正になると主張するが、経済学では利率が常に正を示す。人間認識が関与するあらゆる物理現象は、エントロピー増大の法則に従いカオスへ向かうというわけか。

人間が生きるということは消費を意味する。したがって、消費動向を測定することは意義深い。消費者の行動は、欲望と満足によって測られるが、これらを数値化することは難しい。経済学用語で言えば、消費者需要と限界効用ということになろうか。主観性を数値化できるということは客観性で測定することであり、既に矛盾している。これが経済学の最大の問題であろうか。
価値判断とはまさしく人生観を表わしている。それは所得や家族構成などによっても影響され、更に人生観の多様化が進む。したがって、平均的な家庭を対象にした経済政策を施しても特定の所得層にだけ効果を与えるだけで、むしろ不公平を助長することになろう。GDPのような経済指標は、あくまでも平均値に過ぎない。一様分布を示すような状況ならば平均値の意味も大きいが、多様化の進む状況では平均値の意味を汲み取ることは難しい。ましてや格差の大きい社会では平均値はずっと上方にあり、平均値を過信すれば経済刺激策の対象は高所得層に向けられる。富裕層が牽引役となって貧困層を活性化させるという意見もあるが、効果が行き渡る前に不況局面に突入するのが経済サイクルというものである。
一方で、平等という癒し系の言葉に憑かれ、すべての所得層を対象とした経済政策を施そうなどという思考は、社会分析や経済分析を放棄したと言えよう。不況局面であっても、すべての産業が不調なわけではない。好況局面であっても、すべての産業が好調なわけではない。成長する産業があれば衰退する産業もある。経済危機とは、あらゆる財が下落し代替財が存在しないような状況であって、まさしくこうした状況に経済政策を必要とする。
しかし、ケインジアンを自称する政治屋たちは、どんな経済局面であっても不況政策を実施しろ!と叫ぶ。その裏で、特定団体への利益供与、あるいは政治屋と民間団体の癒着構造が見え隠れする。おそらく、ケインズはあの世で呟いているだろう。「私はケインジアンではない!」と...

1. 消費者余剰と限界効用
消費者心理は所得効果の影響が大きいという。必需品に対する購買意欲は一般的な傾向を示すだろうが、所得の違いは代替品の選択幅を変える。
本書は、経済理論のあらゆる法則において、所得効果がなんらかの不完全性をもたらすという。商品の価格設定が高いか安いかという評価にも個人差がある。評価以上に高いと思えば購入を控えたり、あるいは、購入後に後悔したりするだろう。販売側も、ボランティアでない限り、商品を過小評価して販売するケースはごく稀だ。となれば、総効用と総市場価格とのあいだにギャップが生じることになり、消費者は支払い価格よりも効用の余剰を享受することになる。商品が増えれば有難味も薄れ、限界効用は逓減するだろう。需要曲線が右下がりになる根拠がここにあるようだ。贅沢品は限界効用逓減の法則が顕著に現れやすいだろう。必需品は最初から限界に近いだろうから。景気が低迷して物価が高騰しても、必需品なら買うしかない。消費者は奴隷化し、仕舞いには暴動を起こすしかあるまい。いずれにせよ、消費者余剰の総収支は消費者から見て赤字になりそうな気がする。

2. 補完財と競争財
ある商品が、補完財となるか競争財となるかは、個人の価値観で違うだろう。また、価格の変化が、それが補完財になったり競争財になったりと消費者の意識を変えることもあろう。富裕層はより高い質を求め、貧困層はより低価格な代替品を求めるといった傾向もある。はたまた、どんな代替品ですら買えない困窮もある。贅沢さの指標も個人差が生じる。
となれば、商品科目によって経済政策の重みが違ってもよさそうなものである。昔々、米価が経済指標として使われたのはそれなりに合理性があった。現在では、消費税があらゆる物品に対して同率というのが、はたして合理的なのかは疑問だ。ただ、消費税だけで社会の多様性に追従できるほどの指標を示すことは難しいだろうが...
中世では、教育格差、情報格差、経済格差など、あらゆる格差が生まれつき存在していた。個々に能力差があるのは自然であるが、それが運命付けられるのは経済循環の観点からも合理的とは言えない。近代化はあらゆる運命的格差を排除してきた。しかしまた、逆戻りの感がある。競争と協調、自由と平等は、振り子のように揺れ動く。自然界において、あらゆる状態を継続しようとすれば、周期的運動が必要なのだろう。

3. 動学的均衡
静学的に扱う間は明らかにならなかった事が、動学的に扱うと明らかになった事があるという。それは、投入量と産出量の関係で表わされる生産関数が、中間生産物の数量に依存することだそうな。
では、中間生産物の数量や資本量はいかに決定されるのか?それは利率を通じて決定されるという。なるほど、低い利率は、より長い中間過程を促し、中間生産物の数量も大きくなるというわけか。中間生産過程における資本量が利率との関係を与えると言ってもいいかもしれない。
動学的均衡では、利率や為替レートなどリアルタイム的に変動する要素が重要な役割を果たす。ただ、貯蓄と投資が時間的に均衡するのは、ほんの一瞬であろう。長期的な生産計画は安定的な運営をもたらし、長期的な低利率が経済均衡に近づけるのかもしれない。しかし、現実には、低利率のまま低迷した経済が継続中だから頭が痛い。しかも低利率だからリスクも低いとも言い切れない。
本書は、時間的要素を排除してきたことが、利子理論の妨げになってきたと指摘している。
マーシャル流に言えば、こういうことらしい。
「すべての商品について一時的均衡を与えうるほどの短い期間はまず存在しない。
すべての商品の供給がその期間内に調整できるほどの長い期間はまず存在しない。」
経済学は、短期と長期という変数を加えて、ますます混沌へと向かうわけか。政府の打ち出す景気刺激策は打ち上げ花火で終わることが多く、その後の経過ではむしろ悪影響を与えるのもうなずける。となると、ちょっとぐらいの不況では余計な経済政策はやらない方がいいのだろう。普段は国会で揉めてるぐらいで丁度いいのかも。刺激というからには瞬間的に煽るということなのだが、経済危機ともなれば多少の経済的暴力も必要となろう。
ところで、現在では、情報化社会がリアルタイム性を高め、投機行動を煽り不均衡が顕著化する。高度な情報化社会では、情報の優位性が失われ均衡へ近づきそうなものだが...市場に参加するプレイヤーは経済人的価値観が強く、一般社会の価値観ほどには多様化が進んでいないのか?いや、人間の欲望は一方向性が強いだけのことかもしれん!
そもそも、価格変動が予測しやすいのは不均衡状態という矛盾がある。バブル経済では株価が上昇し、経済危機では株価は下落するのは、アル中ハイマーなド素人でも予測できる。したがって、投機屋が不均衡状態を好むのも自然であろう。均衡状態がすべての人々にとって合理的とは言えないのだ。いや、バブル経済が永久に継続するならば、すべての人々にとって合理的だろう。長続きせず、簡単に弾けてしまうから困ったちゃんとなる。しかも、弾力性の許容範囲を軽く超える。その時期を予測することもほぼ不可能で、確率論に頼るしかない。つまり、博奕なのだ。
投機行動を悪魔のように言う評論家もいるが、投機にも経済循環の役割がある。投機行動は、対象物への思い入れを排除して価格の高下のみに反応するので、機能すれば客観的な価値を与えるかもしれない。機能すればだけど...そうなれば、群集心理を出し抜いて儲けようなどという恣意的な影響も薄れるかもしれない。アノマリーな現象も減るかもしれない。クリスマスのようなイベントは景気刺激策としての役割も大きいのだが...

4. 利子と流列
経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているわけではない。証券取引所では、休日もあれば取引時間外もあって、その間にエネルギーが蓄積される。商品では、投入から生産までの過程を通さないと市場に現れないので、必然的にタイムラグが生じる。投入では、労働力や設備投資などが絡むため、生産計画は将来予測を盛り込んだ緻密なものとなろう。在庫管理はそれだけで企業存亡にかかわるので、生産者はリスクを考慮して市場動向をうかがいながら投入量と生産量を決めることになる。タイムラグがあるにせよ一度の投入が一度の生産に対応するような単純な関係であれば、まだしも手に負えそうだが、現実には一対多、多対一、いや、ほとんど多対多という関係であろうか。
そこで、流列の概念が導入される。ちなみに、流列とは、資金の正味額を時系列に並べたような関係とでも言おうか。設備投資などの効果を評価するためには、投入時点や収入と支出の差額の流れなどを時系列で追うようなことが求められる。その特性を眺めていると、微積分が有効な手段となりそうだ。動学的現象の静学的考察といったところか。企業でいう「資本効果」は、消費者でいう「所得効果」に位置付けられるかもしれない。人員や設備投資などの投入は生産工程以外の要素にも絡むので、かなり複雑な関係がありそうだが...
また、利子変化の理論は価格変化の理論よりも、はるかに困難な事情があるという。価格は、現在価格と予想価格の間で断続的に変化する。それは、売られる時期からずれることによって生じるぐらいなものか。対して、利子はあらゆる継続期間の貸付に対する割引率の変化だという。割引価格の系統的な変化はあるだろうが、資金調達などが絡むと借入利率も考慮しなければならない。

5. 不完全な安定性
本書は、一時的という条件付きで「不完全な安定性」を唱える。そして、企業単体や私的個人を分析することによって、それが経済全体系の分析に移行できるとしている。基本的にはミクロ経済の延長上にマクロ経済があるのだろうが、にわかに信じ難たい。
とはいっても、10年前なら簡単に納得していただろう。経済学拒否症のおいらが、独立して少しづつ経済学を勉強するようになると、しばしばミクロ経済とマクロ経済で逆方向のエネルギーが働くことに気づかされる。個人の行動は容易に予測できても、群衆化するとまるで予測できない干渉現象のような別のエネルギーが生じるのだ。物理学で言うと、素粒子単体では運動力学で説明できるのに、群集では波動性を持ち出さないと説明できないのと似ている。現実に、超エリートたちが考案した経済政策はしばしば裏目になる。経済現象を形成するすべての要素が同等の弾力性を持っているならば、本書が言うように不完全性でありながらも力学的には均衡へと向かうだろう。そして、利率の変化が、ある許容範囲においては不安定を抑制する方向に働くだろう。価格の変化も、需要と供給の関係も、ある程度は均衡化に寄与するだろう。
しかし、いくら価格や利率に柔軟性があっても、労働賃金は硬直化する。実質賃金では低下することもあろうが、名目賃金の低下を労働者は絶対に許さない。そうなると、賃金変動は失業者の変動で調整するしかない。だが、安易に労働者をクビにすれば企業イメージを悪くする。したがって、ある程度の自発的失業は社会にとって不可欠となろう。
ケインズは失業と経済均衡の関係を考察した。悲しいかな!安定要因の一つに失業の存在は必要という考えは、本書も認めている。人間に欲望がある限り、新たな工夫を創出し続けるだろう。そして、失敗を繰り返さなければ成長もありえない。経済成長を促すには、ある程度の景気変動は必要であろう。だが、ケインズはすべての財が一斉に暴走することを示した。ユートピアな世界を構築しようとすれば、あらゆる欲望を放棄し、あらゆる認識を放棄するしかなさそうだ。そして、麻薬漬け人生こそ幸福というものか...