2018-09-30

"ユートピア" Thomas More 著

理想も、現実も、ちょいと距離を置くのがいい。どちらもすぐに暴走するのだから。自由社会の暴走の激しさときたら... いや、管理社会の暴走だって負けちゃいない。何かを犠牲にしなければ、繁栄できない世界。貪欲と競争が豊かさをもたらす世界。これが人間社会である。ユートピアとは、「どこにも無い」という意味のトマス・モアが編み出した造語で、しばしば非現実を皮肉る代名詞とされる。共産主義という言葉が登場するのは、まだずっと先のことで、彼に共産主義のレッテルを貼るのはちと酷であろう。
ルターにしても、モアにしても、良心の自由と宗教の権威とが対立し、ローマ教皇のもつ二重性に疑問を持たざるをえなかった時代を生きた。イタリアという一国家の君主が、同時に全ヨーロッパの精神的主権者であるという現実を。
そして、理性と信仰の調和を信じ、国家と宗教の和解を信じたものの、モアは斬首刑に処せられる。この事件は「法の名のもとに行われたイギリス史上最も暗黒な犯罪」と称される。本書は死の抗議書と言うべきか...
尚、平井正穂版(岩波文庫)を手に取る。
「吠える六頭女怪(スキュラ)だの、狂乱の半人半鳥女怪(セリーノ)だの、人を啖う人喰巨人(リーストリゴン)だの、こういった途方もない怪物くらい、容易に見つかるものはない。ところがこれに反して、公明正大な法律によって治められている国民となると、これくらい世にも珍しく、また見つけるのに困難なものはない...」

ここに描かれる理想郷は、理性的で、合理的な人々の集まり。住民たちの職業は、最低限の衣食住を確保するためのものと、技術によって知識を高めるものばかり。農業、毛織業、亜麻織業、石工職、鍛冶職、大工職以外にこれといったものは見当たらない。怠けることを知らず、無用な仕事や知識に手を出すこともない。わずかな時間に合理的に生産し、余暇を有意義に過ごそうと。知識伝導のための技術として印刷術と製紙術にのみ敬意を払い、人間性を高めるための意思を持続させようと。人口が溢れれば、それだけ仕事を用意しなければならないが、土地空間に適した人口制限も自然に働く。
「学問的素養に富んだユートピアの知識人たちは、生活を豊かにし幸福にするのに少しでも役に立ちそうな工夫を考え出す点においてはまさに天才的である。」

ここでは、なによりも自由精神が重んじられる。それは、自立と自律をともなう自由である。この理想郷を去りたければ、誰も引き止めはしない。だが、この理想郷を侵害する者には容赦しない。戦争で得られる名誉ほど不名誉なものはないと考える一方で、自存自衛のための防衛意識が極めて高い。俗世間の目には触れさせてはならぬシャングリ・ラを彷彿させるような...
「思うにこの国は、単に世界中で最善の国家であるばかりでなく、真に共和国(コモン・ウェルス)もしくは共栄国(パブリック・ウィール)の名に値する唯一の国家であろう。」

このような自立した世界においても、役人は必要なのであろうか。首長は必要なのであろうか。行政は、政(まつりごと)を円滑に行えるよう指導する立場。指導する立場には自ずと上下関係が生じ、権威が寄生する。権威は人を変える。命令する立場であるがゆえに。しかも、一度獲得した地位を絶対に手放そうとしないのが人間の性癖。そして官僚的腐敗を助長する。権威が存在するところには、必ず法が必要というわけか。権威に結びつく権力を制限するための...
ユートピアといえども、法律は必要らしい。では、人間社会における最低限の法律とはなんであろう。ここには私有財産という概念がない。あるのは、すべて共有財産との考え。
しかしながら、共有を崇めると... 私のモノは私のモノ。あなたのモノも私のモノ... となるのが、これまた人間の性癖。こと政治の世界では、共有の概念は官僚的腐敗とすこぶる相性がいいときた。自由と平等はしばしば対立し、下手をすると平等は人間の能力差までも否定する。
共和国、共栄圏、公共繁栄といった言葉は古くから賛美されてきた。だが、人が本当に求めているのは自己繁栄であって、公共の利益は自分が犠牲にならない程度に求めるに過ぎない。自己が他に優越し、自分の属す集団が他の集団に優越し、それで自己満足が得られるのは、いわば人間の本質である。こうした性癖を完全に放棄すれば、それは人間なのであろうか?
では、所有の概念をどう処理するか?誰のモノにするか?この世のすべては、神からの借りモノとでもするか。すると、神に起因する宗教も必要となる。神の存在を持ち出せば、神の代弁者と名乗る者が現れ、魔術や呪文の類いが蔓延る。結局、人間の解釈によって人間の支配する世界となり、神に捧げるはずのものが、強者に生贄を捧げることに。
人間社会には、パラドックスが溢れる。一人の人間の中でさえ利己主義と利他主義が共存する。最も知識に優れた政策立案者が編み出した策定が、しばしば逆効果になるのも道理である。理想郷といえでも、やはり法律は必要なものらしい...
「あらゆる種類の動物が餓鬼のように貪欲になるのは、実に欠乏に対する心配であり、特に人間においては虚栄心である。」

2018-09-23

"ビヒモス - ナチズムの構造と実際" Franz Leopold Neumann 著

さらにさらに流れ弾...
生涯で一度は読んでみたいと考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、海の怪物に手をつけたがために、陸の怪物にも看取られてしまう。そして今、トマス・ホッブズからフランツ・レオポルド・ノイマンという流れ弾まで喰らっちまった。乱読とは、自由精神の体現だ!などと言っている場合ではない。それは、単に感化されやすいってことだ...

バビロニアに起源をもつ終末論には、二つの怪物があると聞く。海を支配するリヴァイアサンと陸を支配するビヒモス。前者は雌、後者は雄とされ、こと悪魔の世界では対で存在することが収まりをよくする。黙示録によると、恐怖の支配をもたらす怪物どもは世界の終末直前に現れ、神に亡ぼされることになっている。他説では、同士討ちになるというのもあるが、いずれにせよ亡びることに。かくして正義と公明の意志の日がやってくるとさ。ところが、海と陸に住む動物たちはそれぞれに恐怖の大王を主と崇め、王国再興を祝う饗宴で双方の肉を喰っちまう。
この伝説は、ユダヤの終末論、ヨブ記、予言書、聖書外典などで言及され、実に多くの解釈を呼び、しばしば政治状態の比喩とされてきた。聖アウグスティヌスはビヒモスの肉にサタンを見たという。ホッブズは、イギリス革命で暴走する大衆の意志をリヴァイアサンと重ね、議会が迷走するアナーキーな様相をビヒモスと重ねて魅せた。そして、ノイマンは、国民社会主義をビヒモスと呼ぶに相応しいと語る...

注目したいのは、これが書かれた時期である。1942年、ロンドンで出版。1944年、「大ドイツ帝国」を加筆。既に原稿は、ドイツのソ連侵攻時には書き上げられていたという。
著者の名からユダヤ系であることは想像に易い。ノイマンは早々アメリカへ亡命する。ヒトラーが経済政策をあっさりと片付け、ドイツ民族の誇りを取り戻してくれたと大衆が熱狂している最中、彼はナチズムの本性を暴いて見せる。政治哲学なき政治、経済理論なき経済と。それは、単なる民族意識を支柱とする文化的体系で、政治、経済、軍事の方面で、これを売り物にしているというのである。不安を煽って安心を提供する手口、これがセールス心理学の鉄則だ。ゲーリングの結合企業群が雇用を支配し、ゲッペルス文学博士の巧みな言葉でプロパガンダの威力を見せつけ、ヒムラーの魔術的思想が不気味さを植え付け、大衆を受動的な生贄にする。経済政策は単なる金持ち批判に発し、政治体制は単なる共和国批判に発し、感情論を煽る。それゆえ、ここには政治哲学も、経済理論も存在しないというのである。現在でも、これほどの考察はなかなか見当たらない。やはり人生の醍醐味は、寄り道、道草、回り道、そして流れ弾の方にあったか...
ちなみに、ノイマンはソ連の諜報員でアメリカで活動していたという説もあるが、真相は知らん...

1. 国民社会主義と国家社会主義という訳語
ナチズムを語るなら「国家社会主義」とする方がよさそうな気がするが、本書はあえて「国民社会主義」という訳語をあてている。それは、アドルフ・ワグナーたちが持ち出した言葉との混同を避けるためだそうな。
また、他にも意図があるようである。ナチズムがイタリアのファシズムと一緒くたに語られるのをよく見かけるが、そのような通念から「国家社会主義」という用語が出回ったところもある。ノイマンは、イタリアの国家至上主義とは異なるナチズム観を強調している。
尚、岡本友孝、小野英祐、加藤栄一訳版(みすず書房)を手に取る。

2. 全体主義的独占資本主義
ヒトラーが利用した経済システムは、ワイマール共和国の産物だったという。独裁政権下で原動力となるカルテルやトラストなどの形態は、ワイマール共和国の下ですでに完成していたと。ドイツ人労働者は企業の巨大化を望む傾向にあるとしているが、大会社に就職したいといった意識はどこの国でも見られる。経済不安となれば尚更だ。こうした独占形態は、自由主義や民主主義とすこぶる相性が悪い。ワイマール共和国の失敗は、共和国という名を掲げながら、経済政策では逆のことをやっていたということか。これは社会主義的な政策でもなければ、共産主義的でもなく、あくまでも資本主義の暴走した形態であり、俗に言う帝国主義なのである。
さらに、資本拡張の動機に、民族主義を結びつけたところがナチズム的である。ゲルマン系民族には、逞しい身体を誇りにするという意識が伝統的にあるという。これに、北欧系の美しさと優秀さを結びつけたのがナチス式アーリアン学説である。
タキトゥスの著作「ゲルマーニア」によれば、アングロサクソンもゲルマン系。優越主義とは、劣等的な存在を定義して初めて成り立つ原理で、人間ってやつは、なにかと格付けがお好きときた。ヴェルサイユ条約以降、叩きのめされてきた民族の誇りをくすぐり、愛国心を刺激するのが大衆を煽る絶好の方法となる。
「大ドイツ帝国」とは、その根底に第一等人種を盟主とするヒエラルキー構想があり、いわば「大東亜共栄圏」とも似ている。ヒトラーの政策は、民族主義とのセット、いや民族主義そのものであって、経済政策と呼べる代物ではないということか。アウトバーン建設や大規模な公共投資は、ケインズ理論の実践と評されることもあるが、本書にはケインズの名は見当たらない。というより、超ハイパーインフレの中でやれる経済政策は、これくらいしかなかったということかもしれない。そして、資本家による独占形態を、党直属の企業を経由して国家による独占形態に変えていく。
全権委任法の成立において、出席議員の必要票数を獲得したことは事実である。だがそれは、多数の共産党や社会民主党の議員が正当な理由もなく逮捕されていた中での出来事。こと政治の世界では、合法的に見せることが合法的となる。ヒトラーはカップ一揆やミュンヘン一揆で悟る。国家権力につくには革命的な方法では不可能であることを。それは、国家機構の助けによってのみ可能せしめることを。そして、すべての権力を合法的に手中に収めたヒトラーは、ワイマール共和国の制度的な民主主義を、儀式的で魔術的な大衆主義に変えてしまう。
政治理論が通用しないとなれば、それは国家なのか?本書は、こう呼ぶことを提案している。「全体主義的独占資本主義」と。なんとも形容矛盾な用語である。「国家資本主義」なんて言葉もよく見かけるが、こと政治体制においては矛盾の方に真理があるのかも。現在でも、経済政策がうまくいけば、大衆は政治家の多少の失態に目をつぶる。逆に、経済政策で失敗すれば、どんなに優れた言葉を発信しても陳腐となる。はたして政治権力が怪物なのか。大衆が怪物なのか。いや人間がそのものが怪物なのか...

3. 反セム族主義
大ドイツ帝国を実現するための最初の課題は、民族団結のための共通の目標をつくること。共通の敵をつくって愛国心を煽るやり方は現在でも見られる政治の常套手段で、優越意識を高めるためにまず格付けをやる。ドイツ人の次は、ウクライナ人、ゴラール人、白系ロシア人で、彼らは特別待遇を受けたという。その次がポーランド人で、その次、つまり最下層がユダヤ人。強制収容所へ送られる順番は、ユダヤ人の後に、ポーランド人、チェコ人、オランダ人、フランス人、そして、反ナチのドイツ人と続く。平和主義者も、保守主義者も、社会主義者も、カトリック教徒も、新教徒も、自由思想家も、あるいは被占領民族もお構いなし。イデオロギー破壊という意味では、見事な平等主義だ。民族に格付けがなされれば、劣等人種からの略奪が合法的となり、純血を守るというスローガンを正当化させる。
労働者寄りの経済政策において最初に標的にされるのは、決まって富裕層。職が奪われていると触れ回り、資本階級で幅を利かせるユダヤ系企業が攻撃対象となる。アーリアン化による独占形態は、銀行業において特に顕著であったという。
国民社会主義の人口政策は、必要な数だけの北欧人種の繁殖を確保するために立法化される。最もうす気味悪いのは、肉体的、生物学的に好ましくないとされた人々の生殖を阻止する立法措置である。SS 隊員の結婚には特別な許可がいる。当時から、ヒムラーは露骨な人種差別論狂信者として知られていたようである。
「国民社会主義は、ユダヤ人の絶滅を唱導した最初の反セム族運動である。しかしこの目標は、『ドイツ人の血の純化』と呼ばれる、より広範な計画の一部分にすぎない。」
反セム族主義は、共通の敵をつくる点において三つの効果をあげたという。
第一に、階級闘争にとって変わる。資本階級への不満を民族闘争にすり替えたこと。
第二に、東部への領土膨張を正当化する。ドイツ人の住む領土は、すべて第一等民族としての主権があると。
第三に、キリスト教批判を抽象化する。反キリスト教の潮流には二つの立場がある。一つは、それがキリスト教的であるがゆえに拒否。二つは、十分にキリスト教的でないがゆえに拒否。
反キリスト教的イデオロギーにおいて、最も強力な感化力を持っていた人物はニーチェだという。ただ、ニーチェは反セム族主義なんぞではないし、それはノイマンも擁護している。哲学思想で都合よく利用された立場は、スコラ神学におけるアリストテレスと似ている。
「反セム族主義は、損なわれた自尊からくる腹立たしさの捌け口をつくり、また新旧中産階級と地主貴族との政治的同盟を可能した。」

4. ゲルマン的モンロー主義
モンロー主義は、アメリカ帝国主義のイデオロギー的基礎である。互いの主権を尊重して相互干渉しない... と言えば聞こえはいいが、お前のやることに口を出さないから、俺のやることにも口を出すな!... という姿勢である。
これをゲルマン風に解釈すると... ドイツ人が住む領土には、すべて第一等民族としての主権がある。さらに拡大解釈すると... ドイツ人が移住した場所はすべて「大ドイツ帝国」の領土となる。そして、世界は一つという大国家思想は、民族を階層化することにすり替えられ、人種差別をも正当化させる。現在でも、市民を多く送り込んで議会を乗っ取ろうとする動きは見られるものの、スケールが違う。地政学を民族主義で解釈すると、こうなるのか。これが「人種的モンロー主義」ってやつなのか。
ノイマンは、国民社会主義が民族のアウタルキーを目指して、外国市場を放棄するなどと信じるのは馬鹿げている、と指摘する。それは、国際法の根本原理である国家主権を人種主権に置き換えただけのこと。これを、プロレタリアート的人種帝国主義と呼ぶのでは説得力に欠ける。本書は、「大ドイツ帝国 = ゲルマン的モンロー主義」という形で論じている。
「この帝国主義的な趨勢はいかなる国際法によっても拘束されず、また、どんな正当化も必要としない。帝国が存在する。そしてその事実が、十分な正当化なのである。」

2018-09-16

"ビヒモス" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたいと考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある中、その一つに手を付けたがために、流れ弾に当たってしまった作品も数多ある。酔いどれ天の邪鬼には、寄り道、道草、回り道の類いがたまらないときた。そして、リヴァイアサンという海の怪物が、ビヒモスという陸の怪物へといざなうのである。人間社会という怪物は、神ではなく悪魔に看取られているらしい...
尚、山田園子訳版(岩波文庫)を手に取る。

「リヴァイアサン」は、民主制を唱える群衆が暴徒化する様を一つの人格として描いた作品であった。群衆化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになる。この集団的意志が怪物というわけである。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると何かと問題が起こる。リヴァイアサンとは、コモン - ウェルスの代名詞というわけである。
そこでホッブズは、主権者の下で社会契約によって統制された集団的人格を要請する。教会を痛烈に批判し、集団社会を怪物のように描けば、無神論者とも、異端者とも、絶対王政主義者とも呼ばれ、世間を敵に回すことに...

一方、「ビヒモス」は、イギリス革命によって主権や秩序が崩壊していく様を回想したもので、トマス・ホッブズ最晩年の作品。ここでは議会が迷走し、はっきりとした形としての怪物が見えてこない。無形化してしまったアナーキーな様、集団的意志を失った様、これが怪物というわけか。人間社会ってやつは、どっちに転んでも怪物になるものらしい...
ここでは、ホッブズが怪物を描くに至った歴史観を垣間見ることができ、「リヴァイアサン」の弁明書と見ることもできよう。
物語は、世代の異なる二人の対話形式で展開される。若き法学徒が質問役となり、老いた異端論者が回答役となり。異端者を焚刑処理できないことの論証まで加えているのは、自分自身に向けられる処刑妄想でもあったのだろうか。
教育で導こうとする方法論ではプラトンの対話形式に見て取れるが、ホッブズの叙述姿勢はとても公平とは言えない。もともとイングランド国教会はローマ教会から分裂した異端の立場にあり、国制では王政と議会の共存する混合君主制を敷いている。ホッブズの宗教論もこの立場を継承して、教皇派聖職者をキリストに従わない輩とし、スコラ神学者をアリストテレス的ですらないとし、プロテスタントの方がまだましだと主張する。だが統治論となると、議会派を嫌悪してチャールズ1世を支持するが、それは伝統的な混合君主制を支持するのでもなければ、議会制民主主義を擁護するものでもなく、ひたすら王を絶対主権者とみなし、王への服従を民衆に求めるのである。世襲の正当性を六百年続いたということだけを根拠に、それで契約を結べというのでは、あまりに薄弱な論拠!
「君主の職務遂行に絶対必要なものは、臣民の服従」と訴え、それはその通りだろう。しかしそれは、主語を「君主」から「法」に置き換えれば、民主制も、貴族制も、君主制も同じこと。おまけに、王を賛美し、王の敗北を素直に認めない記述に、ややうんざり...
それでも、宗教家批判には頷ける点が多く、船舶税をめぐって民衆を煽る議員や有識者たちの様子にも、近年、国民投票で EU 離脱を表明するに至った経緯と重なって映る。スペイン無敵艦隊を破ったとはいえ、まだ制海権を掌握するまでには至っておらず、海岸線に憂いを残していた時代。常に扇動者は言う、税負担を軽くしてやる!と。これに乗せられる無知な怪物という構図は、いつの時代も変わらない...

1. 民衆蜂起の要因
ホッブズは、内戦の原因を七つ列挙している。
第一の堕落者は聖職者、特に長老派。神の代理人と称し、教会の統治権を神から委ねられたと主張する輩。
第二に、ローマ教皇によって統治されるべきとする教皇主義者。
第三に、宗教の自由を求める人々。
第四に、古代ギリシア・ローマ共和国時代の書物を読んで知識をまとった人々が、君主制を批判したこと。
第五に、オランダ商業の繁栄を称賛した人々。宗主国スペインに反逆して自由を勝ち取った栄光を讃えて。
第六に、財産を浪費した怠惰な人々。
最後に、義務に無知な人々。義務とは、王への服従義務のことで、この根拠を擁護する気にはなれない。ただ、民衆蜂起では、必ずと言っていいほど、おこぼれにあずかろうとする輩が出現する。名声を得ようとする者や一旗揚げようとする者など。穏健派は急進派に抹殺される運命にある。
ホッブズが穏健派だったかは知らん。単に絶対君主制支持者だったかもしれないし、その性格は「リヴァイアサン」よりも「ビヒモス」の方が鮮明になってくる。それでも無神論者という批判は当たらないだろう。ある種の群衆論として眺めれば、歴史的背景が傍観できる。
「場所と同様、時間にも高低差があるとしたら、時間の頂上は1640年から60年の間にある、と私は確信している。悪魔の山から見下ろすかのように、この時間の頂上から世の中を見下ろし、とくにイングランドの人間の行動を観察すれば、この世で見ることができる限りのありとあらゆる不正と愚行を、一望の下におさめられるだろう。不正や愚行が人間の偽善や自己欺瞞からどうやって生み出されたのか... 偽善とは不正に不正を、自己欺瞞とは愚行に愚行を重ねることだ。」

2. 世俗的権威の暴走
内戦勃発までにはややこしい経緯があるが、その動機は単純だ。教皇派から異端と呼ばれたイングランド人。ローマ教会では異端は最高の罪であり、迫害対象となる。領土から異端者をすべて追放しろ!と命じ、従わない王を退位させる。教養ある者が聖書を読めば、様々な解釈が生まれ、教会権力に少しでも疑問を呈する者はすべて異端とされる。アカデメイア派、逍遙学派、エピクロス派、ストア派などが異端とされた。アリストテレスを都合よく解釈するスコラ神学者は、もはやアリストテレス的ですらない。
神の言葉を解釈する資格を持つ者とは、どういう人物を言うのか。主権者の分別は、勝手な解釈を広める連中を罰することにあるのか。当時の有名大学が、スコラ派に毒されていた光景を物語る。
「聖書がギリシア語やラテン語で封じ込まれ、説教者が聖書から引き出したことだけを人民に教えるところでは、起こるべくして起こる。」
さて、教皇が世俗的権威を獲得したのは、いつ頃であろうか。ホッブズは、その起源を4、5世紀頃の北方民族の大移動から掘り起こす。怒涛のごとくローマ帝国を襲えば、ローマ市民は教会に救いを求める。教皇は教会権力の装いの下で、君主の世俗的権利を侵害し始め、8世紀から11世紀の教皇レオ3世からインノケンティウス3世の間に教皇権力が最高潮になったという。レオ3世は教会権力を取り戻したカールを大帝にし、以来、教皇が皇帝をあつかましく作りあげるようになったと。
教皇がキリストの代理人だとすれば、皇帝よりも上の存在というわけである。誰のおかげで国を統治できるのか?それが王にとって戒めになるなら、良い慣習かもしれない。
しかしながら、教皇や教会もまた暴走する。教皇は権力を強めるために信仰箇条を追加する。
「聖職者の結婚は不当。」
王は世継ぎがなければ世襲が続かないので、正統な後継者を広く知らしめるために正式な王妃が必要である。それは、王には聖職者になる資格がないことを意味する。聖職者の結婚禁止は、教皇グレゴリウス7世とイングランド王ウィリアム1世の時代に導入されたとか。
さらに、こう定めた。
「司祭への口頭告解が救いに不可欠。」
人々は、世を去る前に告解と赦免がないと救われず、司祭から赦免をもらえれば永遠に破滅しないというわけである。こうした信仰箇条が教会を通じて浸透していくと、人々は王よりも聖職者を恐れる。
そして、イングランド王エドワード3世までの間に、第二の謀略がはじまったという。宗教を一学問とし、アリストテレスの形而上学や論理学に基づく道徳的かつ自然学的な議論によってローマ教会を擁護する。大学が設置され始めたのがカール大帝の頃で、大量のスコラ神学の書物が出回るようになったとか。アリストテレスにとっても迷惑な話であろう...

3. 混合君主制の意義
君主制と民主制は相容れない政体なのであろうか。国王という称号が権威として残るケースがある。イングランドの制定法には、伝統的な憲章として「マグナ・カルタ」がある。君主制を前提としながら、国王の令状を不正取得する主権乱用者から人民を守るための法である。ここでいう君主制とは、人民を守る立場を堅守することであって、僭主制とはまったく相容れない。国王が権力を乱用するのが君主制の欠点であり、狡猾な議員が無知な大衆を扇動するのが民主制の欠点。国王と議会が並列に配置されれば、一方が暴走した時に他方が監視役となって機能しそうなものだが、そうはならないのが人間社会のカオスなところ。となれば、どちらかが大人になって権力を放棄し、権威を残すという形が落とし所になろうか。
イギリス革命では、クロムウェルが政権を掌握し、彼自身が主権者になる可能性もあっただろうし、国王が滅亡する可能性もあっただろう。だが、国王制は残った。一時的に王が処刑されたとしても、滅亡には至らなかった。なぜ、クロムウェルは王の称号を拒んだのか?そこまで厚かましくはなれなかったというのか?その後、民衆は世襲君主の復活を歓迎することに。
似たような歴史現象が、我が国にもある。天皇制がそれである。幾度となく成立した幕府は、天皇家を抹殺することができるほどの権力を掌握したが、滅亡には至らなかった。同等に争った武家には完全抹殺を図ったというのに。天皇の権威に後ろめたさのようなものがあるのか?それは気分の問題か?
いずれにせよ、どの党派にも、どの宗派にも属さないという権威が必要な場合がある。国家的危機に直面した時、中立的な権威こそが庶民を代表できる資格を持ち得る。それは、権力を放棄した大人の権威となろう...

2018-09-09

"リヴァイアサン (全四冊)" Thomas Hobbes 著

生涯で一度は読んでみたい... そう考え、考え、ずっと尻込みしてきた大作が数多ある。こいつも、その一つ。いくら有名な書とはいえ、イメージが先走り、いまいち気分が乗らない。面倒くさがり屋の心が奥底でつぶやいているのだ。本当に評判どおりのものなのか?と。骨を折ってまで読む価値があるのか?と...
それでも実際に触れてみると、イメージを超えた何かに出会えるかもしれない。期待感とは、見返りを求めることか。それは、宗教と何が違うのだろう。人間そのものが信仰的な存在というわけか。人間ってやつは、何をやるにしても信念や信条なるものの後ろ盾を求めてやまない。つまりは思い込みってやつだ。宗教は、信じる者は救われると説き、信じない者を抹殺にかかる。これに対抗するかのように、信仰の告白は自由を告げる。科学は、疑うことで救われる道を開いてくれた。その意味で、科学もまた相当な宗教といえよう...

「リヴァイアサン」とは、旧約聖書に出てくる海の怪物。トマス・ホッブズは、この怪物になぞらえ政治哲学を著した。それは、自然哲学や形而上学の域を超え、物理学、天文学、幾何学、さらには、修辞学、詩学、音楽... と実に多岐に渡って論じられる。
まず、人間個々の本性を暴きながら、人間社会の自然状態を探る。そのアプローチはロックやルソーに受け継がれるが、今日でも自然状態というものに対する見解や解釈は多く見られる。人間の多様性とは、それほど手強い相手ということだ。そもそも政治という形態は、人間の自然な姿なのだろうか?
ホッブスは、人工的産物だと吐き捨て、戦争状態こそ人間の自然状態であるとし、あの「万人の万人に対する闘争」という言葉が導き出される。この部分だけを読めば、彼が絶対主義者という見方もできなくはないが、全体像を眺めれば、そのような印象は薄れていく。その印象を完全に拭いきれるわけではないにしても...
ちなみに、ホッブズは絶対主権を主張したことで絶対王政主義者とみなされ、痛烈な教会批判をしたことで無神論者とされた。

哲学書の扱いが難しいところは、部分的に言葉を引用しては正反対の印象を与えかねないということ。大作であれば尚更である。
この作品は、イギリス革命の真っ只中に書かれた。ピューリタンの暴動を目の当たりにすれば、権利の主張とは暴動なのか?と嘆き、絶対王政を懐かしむのも無理はあるまい。改革というものは血を流すもの、いわば歴史の必然なのかもしれない。
フランス革命では、ブルボン王朝の絶対王権を倒した直後の共和制が恐怖政治と化すと、ナポレオンの呼び水となった。明治維新でも、血なまぐさい暗殺が横行すると、幕府の方がましという風潮があった。ヒトラーに至ってはワイマール共和国の合法的産物である。
かのアリストテレスは、君主制、貴族制、民主制の三つの政治体制を唱え、中でも民主制は最悪だというような愚痴を遺した。民主国家アテナイの凋落ぶりを目の当たりにし、その救世主を、自ら家庭教師を務めたアレキサンダー大王に託したのかは知らんよ...

一方、ホッブズは唱える。政治体制はあくまでも手段であって、民意をいかに政治に反映させるかが本質であると...
本書には、「コモン - ウェルス」という用語がちりばめられる。直訳すると「公衆の財産」ということになるが、この目的は、君主制であろうが、貴族制であろうが、民主制であろうが同じというわけである。ローマ帝国は君主制を敷きながら、元老院を置いて民衆的統治を行った。本当に君主が存在するならば、君主制も悪くない。だが歴史を振り返れば、君主はみな僭主と化した。一人の君主がいたとしても、その後継者は僭主となり、長続きしないばかりか、どんどん泥沼化していき、王朝そのものを終焉させるしか手がなくなる。
対して、民主制は一時的には暴走しても、自己再生する力がかすかに残されている。国家元首がころころ変わっても、政治権力を抑制できる柔軟性こそが民主主義の原理としてある。したがって、民主主義は崇めるほどのものではなく、歴史的経験から比較的ましであったということ。それも、改良に改良を加えてきた民主制によって...
但し、ホッブズがそういう意図で書いたかどうかまでは知らんよ。評判どおりの絶対君主制支持者だったかもしれないし、それは陸の怪物「ビヒモス」がより鮮明にしてくれるだろう...
尚、水田洋訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 集団的意志という怪物
「リヴァイアサン... すなわち、教会的および市民的国家の質料、形相、および力」
リヴァイアサンとは、集団的意志とでも言おうか。人間社会では、どんなに良い事でも同じことをする人が多過ぎると、何かと問題が起こる。集団化すると、個々の意志から乖離して別の意志を持つようになり、善人の集団が悪魔化する現象も、そう珍しいことではない。生物界は、弱肉強食の法則を与えても同族の抹殺までには至らないが、人間社会は、同族間の競争の原理によって機能している。やはり怪物か!
伝統的な倫理的問題に、人間は生まれつき善人か、悪人か、という論争があるが、ホッブズは後者側であろうか。ただ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が、善悪のどちらかだけを認識することは不可能であろうし、悪人ほど善人ぶるのが上手いというのも道理である。宗教的な理性の渦巻く時代、ホッブズにしても、マキャヴェッリにしても、人間の醜態という視点から政治倫理を問うた意味は大きい。さて、ここに理性の人工的完成を見ることができるだろうか。そりゃ無理な話よ...
「各人が各人を敵に争う戦争状態こそ人間の自然状態であり、国家とは、平和維持のために絶対主権をもって君臨すべく創出されたいわば人工的人間にほかならない。」

2. コモン - ウェルスと正義
ホッブズは、自然権に生まれながらの平等と自由を唱えながらも、競争からくる争論への愛好や安楽への愛好からくる社会的服従といった性癖を暴き、自惚れからくる虚しい企てや有能という自負からくる野心といった行動パターンを分析する。称賛への愛好から生じる徳性への愛好などは見返りを求める性向で、親切心からくる信任や無知からくる慣習への執着などの見方は、まさに悪魔じみている。ホッブズは告げる。平等から不信が生じ、不信から戦争が生じると。人間は、無知な平和愛好家であり続けるというわけか...
「余暇は哲学の母であり、コモン - ウェルスは、平和と余暇の母である。」
平和主義で最も重視されるのが、正義の概念である。それは、軍事力をも凌駕する力の概念。では、正義とはなんぞや?正義は、自然状態なのか?ホッブスに限らず、正義は理性に反しないというのが一般的な見解であろうが、それは本当だろうか?
歴史を振り返れば、正義を掲げる政治指導者ほど胡散臭いものはない。国家間の争いでは双方の国民が正義を掲げ、外交の場では正義が交換財となる。これを世間では現実主義と呼ぶ。あらゆる論争で打ち負かした方が正義となれば、報道屋はいつも正義漢ぶり、弁論技術をどんどん旺盛にさせる。それは、ソフィストの時代と何が違うのだろう...
「正義と所有権は、コモン - ウェルスの設立とともにはじまる。」

3. 社会契約と国家
「社会契約論」といえばルソーの書として有名だが、社会契約という概念そのもは既に古代ギリシア時代に見て取れる。そこで問われるのが、契約の対象は神か?教会か?それとも国家か?
社会と契約するには、法がその役割を果たす。では、法を作り出す主体は誰か?本書は、生存権を自然権として論じているが、それを保障する法もまた自然法から逸脱した人工物として君臨している。国家という形態は、何をもって正当化できるだろうか?それは、自己存在に対する安全保障が担保されなければなるまい。
本書には、防衛権という言葉は登場しないが、国家権力の絶対性を論じ、他の存在権をも侵さないということを含めて自由の概念を生起させている。イギリス革命の争点の一つに、国家主権が国王にあるか、議会にあるか、というのがあるが、内乱に乗じて教皇主義の復権を目論む連中が見てとれる。ホッブズは教会権威をも国家権力の下に置くべきだとして、法王は全世界の主ではないと釘を刺す。
となれば、宗教の自由を唱えているように見えてもよさそうなものだが、キリスト教の絶対性は堅守していると見える。前半の二冊で人間論と国家論を唱えておきながら、後半の二冊では激烈な教会批判に費やされ、スコラ神学者への攻撃も凄まじい。科学的な視点を加えれば、奇蹟を起こす預言者も減少し、聖書が彼らの地位に取って代わる。しかも、これだけ聖書の言葉が多く引用されれば、説教嫌いな天の邪鬼は、ちとうんざり...
競争原理に対して、ロックは生産の概念を導入することで緩和し、ルソーは歯止めとなる理性の存在を強調したが、ホッブズはあまりにも正面から立ち向かったがために、主権と人権との対立を激烈にしたと見える。いずれにせよ、宗教も、哲学も、なにかの手段に過ぎない。
ちなみに、明治政府の文部省は、この書に「主権論」の邦題を与えたというから、その意図も垣間見る思いである...

2018-09-02

"遥かなる未踏峰(上/下)" Jeffrey H. Archer 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい風を感じる。
ジェフリー・アーチャー... 学生時代に追尾していた作家の一人だが、社会人になってすっかりご無沙汰。何冊か再読したものの...
推理小説には魔物が住むという。一度手をつけると、つい一気読みしてしまい、朝日が眩しい。おまけに、おいらの読書スタイルの基本が、このジャンルときた。恐々、表紙をめくってみると...
「この作品は実話に触発されたものである。」
こいつが、ジョージ・マロリーを綴った物語だということがすぐに分かる。彼が、そこに山があるから... と答えたかどうかは知らん。確実に言えることは、なぜ読むのか?と聞かれれば、そこに本があるから... と答えるってことだけだ。推理モノに歴史が絡むと、もう衝動を抑えられない...

歴史ってやつは、一つの偉業に対して一人の英雄を欲する。だが、どんな偉業にも、そこに到達するために捧げられてきた生贄たちがいる。ニュートン力学は、なにもニュートンだけの偉業ではあるまい。そこに至るまでの叡智の積み重ねがあったはずだ。ゲーデルはこんなことを言った... 不完全性定理は自分が発見しなくても誰かが発見しただろう... と。この主張はおそらく正しい。真理の概念は必然であり、概念の方が歴史の中を散歩している。人類がずっと努力を続け、その意志を伝承する人々がいる限り、幸運に恵まれる瞬間がある。それが誰の偉業かって?そんなことは報道屋や政治屋に任せておけばいい。興味があるのは、成功からよりも失敗からの方が多くを学べるってことだ...

アーチャーは、登山家マロリーを人類初のチョモランマ征服者として描こうとする。だがそこに、確実な証拠は見当たらない。そもそも、生還できなかったのに登頂と言えるのか。それでも偉大な試みである。イギリスは、スペイン無敵艦隊を破り、さらに産業革命の勢いで世界を席巻し、偉大な戦争と呼んでは愛国心旺盛な時代に、国家の誇りを賭けて挑んだ北極点と南極点の到達で遅れをとってしまった。地球上で残された地点は世界最高峰!国王陛下の民の一人が、栄誉を勝ち得んがために...
アーチャーは、こうした時代背景に、西部戦線の暗い影や、資本主義とマルクス主義の対立といった光景をさりげなく盛り込む。物語では、南極探検家ロバート・スコット大佐の講演会にマロリーが出席する場面がある。スコット隊は犬ゾリにこだわったが、アムンゼン隊はエンジン付ソリも投入するってさ...
「われわれの目的は昔から変わることなく、自然の力に対する人間の能力を、機械の助けに頼らずに試すことにある...」
マロリーは酸素ボンベの投入をめぐって隊員と口論になる。だが、彼自身が投入を拒否したことで頂上を目前に撤退。
「おまえの手縫いの登山靴だって人工的な補助具だろう...」
そして再挑戦では、酸素ボンベが必要だということを悟ったのだった。
ちなみに、スコット大佐の英雄伝は、シュテファン・ツヴァイクが「人類の星の時間」の中で描いている。到達の栄誉はアムンゼン隊に譲ったが、後の科学的情報はスコット大佐の記録によるところが多く、彼は真の研究者であったと。
だが国家の威信を背負い、スコット隊は全滅した。そして、マロリーも。これがジョンブル魂というものか...

マロリーの遺体が捜索隊に発見されるまで、70年以上もの月日が経っていた。物語は、マロリーが残した妻への手紙をちりばめて構成される。最愛のルースへ... 手紙には、SNS ではけして味わえない重みがある。そして、1924年6月7日を最後に... 君の写真を地球で一番高い地点に置いてくるつもりだ!
なにゆえ最愛の妻を残して、狂気へ向かうのか?なにが使命感を焚きつけるのか?男ってやつは、いくつになってもお山の大将を夢見ている、実にしょうのない生き物である。これが冒険家の心理。おまけに、男ってやつは、愛する女の最初の男でありたいと儚い夢を描いている。そして、最初の登頂者となる夢を描き...
マロリーは失敗の汚点を残したままでは死ねない。再び狂気へ向かわせるのも冒険家の本能か。山は一度征服すれば永遠の恋人となるのかは知らんが、恋は成就した瞬間から堕落をはじめる。到達できなければ、永遠に理想像のまま。小悪魔に魂を売るなら可愛いものだが、チョモランマという山の女神は悪魔よりもタチが悪い。深い霧の中、サロメのように七枚のヴェールを一枚づつ脱ぎ、七つの煉獄山が露わになった時、はじめて人間の能力を思い知らされる...

・田舎の教会墓地で詠まれた悲歌(エレジー)...
 どれほど地位を自慢しようとも、どれほど力を誇示しようとも、
 また、どれほどの美と富を与えられようとも、
 死は免れ得ない。
 栄光の径(みち)は墓場へつづくのみである。
 ... トマス・グレイ