2014-03-23

"バロック音楽名曲鑑賞事典" 礒山雅 著

二十年前はモーツァルト以降にしか興味がなかったが、ここ数年はバロック音楽ばかり。だが、バッハ以前となると、あまり知らない。そんな初心者のために、西洋音楽史の専門家が百曲を厳選してくれる。話題が豊富でまったりとしながら、それでいてしつこくない。BGMを聴きながら本を読むことはよくあるが、本の方がバックグランドを演じてくれるのも悪くない。BGMには微妙な存在感が要求される。インパクトがありすぎても、感動しすぎてもいけない。しかも、思考のリズムが合わなければ気分を害す。さりげなく肩の力を抜いてくれるような存在でなければ...
さっそく購入検討に入る。カッチーニ、モンテヴェルディ、ヘンデル、ラモー、コレッリ、ジェミニアーニ、タルティーニ... 書籍もそうだが、音楽のToDoリストが溢れてやがる。セネカよ、やはり凡庸には、いや凡庸未満には人生は短い!

音楽が精神において大きな役割を果たすとすれば、音楽の観点から歴史を眺めることにも意味があるはず。音楽は、戴冠式、軍事、斬首刑、葬儀、礼拝、祭典など、政治的にも社会的にも欠かせない道具とされてきた。好きな音楽を聴きながら死にたい、という人もいる。敬虔な人は違う。死が来世への旅立ちだとすれば、葬儀に音楽という祝福は欠かせないらしい。自分のための葬送曲を、当代一の音楽家に依頼するなど贅沢な話よ。
だが、自己存在を永遠に刻もうと目論んだところで、神から祝福されるのは偉大な芸術を残す作曲家の方である。西洋史におけるクラッシク音楽は、宗教音楽として発達してきた。政治が腐敗すれば、音楽に祈りを込める。それは現在とて同じ。音楽家の本質的な役割は、ここにあるのかもしれない。
しかしながら、バロックいう言葉には「いびつな真珠」という意味がある。カトリック教会の目には、宗教心から離れて世俗化していく音楽が、秩序を乱すものに映ったことだろう。対抗宗教改革のさなか、社会全体が極度に寛容性を失うと、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じた。ルネサンスってやつだ。バロック音楽には、その精神を受け継ぎ、過剰な宗教心から脱皮を図ろうとする意志を感じる。モノローグな独り善がりにも映るが、むしろ聡明な対話と捉えるべきかもしれない。宗教的な説教は鬱陶しくてかなわないが、普遍的な音楽となると話は別だ。言葉の布教には頑なに耳を覆っても、自然な音楽には素直に耳を澄ますことができる。やはり、あのナザレの大工の倅は余計な事を言わなかったに違いない...

ここに選考されるCDやDVDは、ピリオド楽器(古楽器)によるものを優先したという。具体的な楽器を想定して作曲されるだけにオリジナル楽器に注目しないと、真の着想は見えてこないだろう。ただ、現代楽器によるアレンジも悪くない。古楽器が認知されると、逆にモダン楽器による演奏が再評価される。
おいらのバロック音楽観賞は、パッヘルベルの「カノン」に始まる。有名なだけに様々な形式で演奏される。弦合奏、オーケストラ、管楽合奏... はたまた、電子演奏から携帯の着信音まで。本書は、この曲は味付けすればするほどムード音楽になってしまうと指摘している。それが人気の源泉でもあろうけど。いま、50弁オルゴールで聴きながら記事を書いている。うん~、たまらん...
ところで、この手の書に触れると、いつも思うことがある。それは「アリア(Aria)」という用語について。英語で言えば、air... 空気のように奏でるといった意味であろうか。どうもマリア(Maria)と重ねてしまう。宗教音楽という印象が強いからであろうか?あるいは、単なる語呂であろうか?聖女の名とされるのも、空気のような自然回帰の意味が含まれるのではないか、などと考えるわけだ。そして、ガイア(Gaia)も同じ音律を奏でる。ヘシオドスが大地の母としたやつだ。なぁーに、駄洒落好きというだけのことよ...
さて、アリア曲といえば、三大アヴェ・マリアであろう。最初に知ったのは、バッハとグノーのアヴェ・マリア。シューベルトのアヴェ・マリアも悪くないが、やはりカッチーニのアヴェ・マリアは絶品!その日の気分で変わるのだけど...
尚、「G線上のアリア」がなぜアリアなのかは、バッハのオリジナルに由来する。タイムスリップしてバッハに直接「G線上のアリア」は素晴らしいと感想を述べたところで、なんじゃそりゃ?って答えられるのがオチだろう。アウグスト・ウィルヘルミが、管弦楽組曲第3番(BWV1068)の第二楽章をヴァイオリンの独奏曲に編曲したのは19世紀後半。ニ長調をハ長調に変え、第一ヴァイオリンの主旋律をオクターブ下げて、一番低い弦のG線のみで演奏するようにした。よって、チェロのような太く朗々とした曲想となる。しかし、原曲は弦合奏と通奏低音のために書かれたという。しかも、原曲の素晴らしさは格段上にあるとか。四声の弦の精妙で陰翳に富んだ絡み合いがこの曲の生命線で、その肝心な絡みがヴァイオリンとピアノの編曲では読み取りにくいという。空間の深みが違うらしい。そういえば、頻繁に聴くわりには、原曲の方は聴かない。
ちなみに、演奏中に、確実にG線を切断するには300万ドルが相場だと聞く。演奏者にもヴァイオリンにも傷ひとつ付けずに。ゴルゴ13「Target.7 G線上の狙撃」より...

1. バロック史
17世紀初めから18世紀前半にかける音楽史はルネサンスの流れを汲む。やはり中心はイタリアであろうか。それは、ブルボン家の初代王アンリ4世とフィレンツェのマリア・デ・メディチの婚礼を記念して、ヤーコポ・ペーリのオペラ「エウリディーチェ」が上演されたあたりから始まる。実際、バロック時代の幕開けの象徴的作品で一般的に挙げられるのが、このオペラだそうな。1600年というキリのいい年に、フィレンツェのピッティ宮殿で初演されたという。しかし、まだ実験的な色彩が強く、本格的な幕開けにはジューリオ・カッチーニを推し、その歌曲「アマリリ麗し」を薦めてくれる。
また、初期バロック音楽の流れでは、声楽曲がクラウディオ・モンテヴェルディに代表されるならば、器楽曲、特に鍵盤楽曲はジローラモ・フレスコバルディを頂点にするという。そのライバルに、北方オルガン音楽の源流ヤン・ピーテルスゾーン・スウェーリンクを位置づけ、対して、フレスコバルディから南方のオルガン/チェンバロ音楽の流れが発したという。この二つの流れは、後にバッハによって総合されることになる。
個人的には、イタリアの情熱をヴァイオリン曲に感じる。コレッリの「クリスマス協奏曲」や「ソナタ集作品5」などに。おまけに、イタリア風のソネットが付せられると文学的に演出される。ヴィヴァルディの「四季」のように。この曲は、四季おりおりの風物を嗜む日本文化とよく適合する。
一方で、ドイツが中心という印象は、日本の義務教育の影響であろうか。音楽史におけるアルプスという境界は、なんらかの関係があるのかもしれない。ドイツにしても、フランスにしても。ドイツ音楽の父と呼ばれるハインリヒ・シュッツは、意外にもコラールを民衆的な形で使った作品がないという。対して、ミヒャエル・プレトーリウスにはコラールの素朴な編曲がたくさんあるらしく、舞曲集「テルプシコーレ」を紹介してくれる。
ところで、ヨハン・ヨーゼフ・フックスという名を聞かないが、音楽文献では重要な人物らしい。ハプスブルク家の宮廷楽長を務め、代々の皇帝の信望も厚く、大看板という言うべき音楽家だそうな。「グラドゥス・アド・パルナッスム(パルナッソス山への階梯)」と題する対位法の理論書を書いた権威者だとか。モーツァルトも、作曲のレッスンにフックスの課題を用いているという。

2. フランス音楽史
時代背景には、アンリ4世がナントの勅令によって宗教融和を図り、続くルイ13世が国力を蓄えながら芸術の発展にも乗り出し、ついに太陽王ルイ14世の下で最盛期を迎え、その後の衰退...という流れがある。宗教的なコラールが組織される時代でもあり、ヨーロッパの王侯たちがフランスかぶれとなった時期と重なる。
フランス音楽史を紐解くと、至るところでフランス派とイタリア派の対立をめぐる記述に出会うという。フランス派の筆頭はルイ14世時代の宮廷音楽家ジャン = バティスト・リュリで、イタリア派の筆頭はマルカントワーヌ・シャルパンティエ。シャルパンティエはヴェルサイユの要職に就くこともなかったという。国家の威信を背景にする批判があり、イタリアで純粋に学びたい音楽家たちは圧力をかいくぐって活動していたとか。
また、フランスにおけるクラヴサン音楽(チェンバロ音楽)の発展の前提に、リュート音楽の流行があるという。17世紀前半、フランスでは貴婦人のサロンが発展し、その花形楽器がリュートだったそうな。ロマンスには、ギター風の伴奏で歌うエール・ド・クール(歌曲)が欠かせない。クラヴサンに取って代わったのは、11本から20本以上の調弦を絶えずやらなければならないリュートの煩わしさにあるという。だが、手間をかけて雅を育むことで、高級芸術の雰囲気を醸し出すということはあるだろう。興隆時代のリュート音楽を代表するのはドニ・ゴーティエだそうだが、作曲家ではロベール・ド・ヴィゼを紹介してくれる。社交や舞踏の場にもギターが進出しつつあった時期に出現し、国王のギター教師でもあったという。

3. バッハの幾何学的構想
バッハの楽譜が図形的な美しさを持つことは、広く知られる。クロスしながら戯れる線の軌跡には、相似形、回転形、拡大縮小形といったユークリッド幾何学が現れる。いったい幾何学が、音楽とどう結びつくというのか?本書は、その様子を「ゴルトベルク変奏曲」で紹介してくれる。バッハの鍵盤作品中で際立って華麗な技法を連ねているのが、この曲だそうな。両手はしばしば交差され、名技性を高める。カノンのような厳格な対位法が随所に用いられ、それを3の倍数の変奏に割り振ったりと、数学的な構成が歴然であるという。目で見て秩序あるものが、耳に自然な自由を与えてくれるとは...
バッハは音楽を耳のためだけに書いたのではないようだ。知覚能力において、目と耳には何かつながりがあるのだろうか?感動する音楽や絵画に出会うだけで鳥肌が立つのも、なんらかの周波数を感じ取っているのだろう。人は芸術を味わうために五感を総動員する。幾何学や数学に美を感じるのも、そうした類いであろう。バッハは、人間のために音楽を捧げたのではなく、心の中に描いた彼自身の神に捧げたとでもいうのか。バッハが思考のBGMに合うのは、そのあたりにあるのかもしれん...

4. バッハの無伴奏チェロ組曲
チェロの独奏曲さえ稀であった時代、バッハは無伴奏による大曲を六曲セットで書いた。チェロはバイオリンほど小回りがきかないから、重音の乱舞するフーガだの、大きく積み重なるシャコンヌだのが登場しないという。サラバンド楽章ほどの重音で落ち着いた場面においても、たっぶりと多声的であるという。単音をかけめぐらせるだけのように見えるジグにおいても、複数の旋律を隠すような形で対位法的な仕掛けが施されているとか。
尚、ちと補足すると、無伴奏チェロ組曲は、プレリュード(前奏曲), アルマンド, クーラント, サラバンド, メヌエット, ジグ(終曲)という形式をとる。
バッハは、チェロという楽器そのものが和声的な効果を内包していることをしっかりと洞察していたという。低音域に発する豊富な低音が響きを融合させるのは、女性合唱よりも男性合唱の方がよくハモるのと原理は同じであると。無伴奏チェロ組曲第1番ト長調(BWV1007)は知名度が高い。だが、本書は第3番ハ長調(BWV1009)を薦めてくれる。フラウンス風の壮麗さとは、こういうものをいうのであろうか...

5. ヘンデルの開放感
ヘンデルの特徴は、なんといっても野外的な大らかさと開放感。その有名な逸話がある。イタリア留学を終えてハノーファー宮廷に招かれ楽長となり、その一年後、楽長在任のままイギリスに渡ってロンドンに定住。ところが、イギリス国王が交代し、ハノーファー選帝侯がドイツからジョージ1世を称して乗り込んできた。慌てたヘンデルは一計を案じ、舟遊びの際、美しい音楽を提供して、主君との仲直りに成功したとさ...
近年の研究では、この逸話が成立しないことが定説になっているそうな。それでも、水上の音楽が国王の舟遊びのために作曲され、テムズ河で演奏されたのは確からしい。高原風でもあるが、あくまでも水上の音楽とういわけか。
また、ヘンデルのオペラには難しい問題があるという。その理由の一つは、ナポリ派の流れを汲み、レチタティーヴォを挟むアリアの連続として書かれていることに起因するという。重唱は稀で、合唱もほとんど現れないため、短調な印象を与えかねない。個々のアリアは美しい旋律で綴られ、演奏効果も申し分ないが、完成度が高い分、羅列という印象も生まれやすいという。
さらに、ほとんどアリアが高音部譜表で、高声用に書かれているとか。それは、主役にカストラート歌手を使うため、どこまでもソプラノやメゾソプラノのアリアが続くということらしい。だからといって、男性役にテノールやバリトンを当てては、華やかさが失われる。したがって、ヘンデルのオペラ上演には、優れたカウンターテナー歌手が欠かせないという。そして、演出家が、それを強調してセックスアピールのある舞台を作り出す傾向があり、そのことがヘンデル人気を後押ししているという。
本書は、英雄オペラから「ジュリアス・シーザー」、魔法オペラから「アルチーナ」を紹介してくれる。ちなみに、ヘンデルは同じ歳のアレッサンドロ・スカルラッティと、ローマで鍵盤の腕比べをしたという逸話もある。

6. タルティーニの逸話「悪魔のトリル」
ジョゼッペ・タルティーニのヴァイオリン・ソナタト短調「悪魔のトリル」をめぐる逸話を紹介してくれる。夢の中で悪魔と契約したタルティーニは、悪魔がヴァイオリンを熟練と知性とをもって演奏しているのを聴いたという。だが、目を覚ますと、その曲を思い出そうにも思い出せない。彼は、自分の最上の作品を作曲し、それを「悪魔のソナタ」と呼んだという。そして、悪魔の演奏に遥かに及ばなかった、とつぶやいたとか、つぶやかなかったとか...
この逸話は、フランスの修道士の回想録に基づくもので、事実の裏付けはないそうな。

2014-03-16

"モーツァルト = 二つの顔" 礒山雅 著

モーツァルト論には、小林秀雄の有名な「ト短調」をキーワードにしたものがあるそうな。対して本書は、「ト長調が綴る飛翔のイメージ」こそが、モーツァルトの真髄であると主張する。だからといって、ト短調論に対してト長調論をもって反駁しようなどという意図はないようである。モーツァルトの生きた時代は、音楽史上、最も長調が優勢であったという。その背景には、進歩を奉じて幸福を追求する啓蒙思想があり、積極的な社会風潮があるのも確か。だからこそ却ってシリアスな短調を洗練させるところがある。個人的には、ト短調の方に魅力を感じる。三代交響曲に魅せられたのは中学生の頃であろうか。仕事中のBGMで最も活用してきたのが、交響曲第40番ト短調である。交響曲第41番ハ長調「ジュピター」も最高だが、BGMには少々明るすぎる。チャイコフスキーの交響曲もそうだが、昔から短調系が肌に合うようである。どこかの音階が半音下がるだけで気分が変わる。このあたりに気まぐれの制御法があるのではないかとずーっと模索してきたが、アルコール濃度で半音分解する方が手っ取り早いようである。今度、バーテンダーに「短調カクテル」でもリクエストしてみるか...
それはさておき、おいらは、交響曲こそクラシック!というベートーヴェン的な考えに感化されてきた。ところが、ここではモーツァルトの本質を主にオペラへ向けられ、新鮮な感覚を与えてくれる。モーツァルト時代、シンフォニーはまだ主役ではなかったようである。これから始まる演奏は何々調です!と宣言されるぐらいの前座の役割でしかなかったとか。ファンファーレやフィナーレのような形式であろうか。本書は、悲劇物語を明るい調子で演出する洒落やユーモアを、オペラや歌曲の中に見出してくれる...

モーツァルトが類い稀な天才であったことは言うまでもない。しかし、それは彼一流の演技でもあったという。彼の才能振りでは、言語脳と音楽脳を使い分けたという話を聞く。妻と会話をしながら作曲をし、相互能力を触発させたという逸話もある。
一度書いた楽譜をまったく修正しないといった伝説は、どうやら誇張らしい。モーツァルトといえども、スケッチをやり、手直しをし、捨てるべきを捨て、時間をかけて作曲したようである。偉大な才能に一面的な讃美を与え、人物像を神話化してしまうことがある。鑑賞者は身勝手な理想像を描くものである。
一方で、才能をひけらかせば、敵意や嫉妬から根も葉もないことを言いふらす者がいる。オペラ作品には数々の女性が登場し、しかも特定の女性歌手のために書かれた曲も多いとくれば、女癖の噂は絶えない。大衆ってやつは、なにかとスキャンダラスな話題がお好き。天真爛漫かつ下品といった印象は、映画「アマデウス」の影響もあろうか。
借金まみれであったのも、個人的な問題もあろうが、社会的な問題も大きいようである。共同統治者女帝マリア・テレジアの崩御を受けて、その長男ヨーゼフ2世が単独統治を行い、啓蒙専制君主が改革をもたらす。民衆王と呼ばれながら対トルコ戦争が致命傷となり、ウィーンでは経済恐慌に陥る。貴族とて音楽どころではなく、モーツァルトの作品も激減したという。そんな時代であっても、登場率や演奏率の下降は見られないらしいけど。見栄っ張りで浪費癖であったのも確かなようで、気前よく、呑気で、無頓着で、ビリヤード好きだったとか。ギャンブラー説には、多くの学者が異論を唱えているけど。
杜撰で自己管理のできない人物と思われがちだが、正反対な性格も見せる。父レーオポルトが几帳面で管理主義の権化のような人物だったそうで、その血を受け継いでいるところがある。お馴染みのケッヒェル番号は、モーツァルト自身が目録を作成していたお陰で実現できたという。600曲を超える作品を第三者が整理するとなると至難の業。1862年、ルートヴィヒ・フォン・ケッヒェルは、成立年代順の番号を振った全作品の目録を出版。おかげで、その番号は作品の顔となり、マニアともなればケッヒェル番号で作品をそらんじる。それでも、目録に記載されない作品もあるそうな。大曲や知名度の高い曲でさえ。目録と自筆楽譜の食い違いもあるという。モーツァルトがフリーメイソンだったことは広く知られる。そのためかは知らんが、目録にも神秘が満ちているようである...

1. オペラに見るモーツァルト思想
「フィガロの結婚」(K.492)を人間愛の讃美としながら、「ドン・ジョヴァンニ」(K.527)をモーツァルトの最も暗いオペラと評される。「フィガロの結婚」には、貴族の専横を打破しようとする平民の心意気が満ちている。そのことが、啓蒙的改革への情熱と呼応して皇帝の支持を受ける反面、オペラ受容層の貴族たちに不快を招くことに。ウィーン上演が早々に打ち切られ、しばらく日の目を見なかったという。
しかし、プラハで圧倒的な人気を博す。この作品に張り巡らせた反体制思想が、ハプスブルク家の支配にあえぐプラハ市民に熱烈に受け入れられたようである。その後、「ドン・ジョヴァンニ」が成立し、ここにもプラハへのメッセージが込められているという。それは、強烈な性的、実存的な訴えかけで、キェルケゴール的な直接的でエロス的な段階であると。覆面の主人公たちが農民たちとジョヴァンニ邸に集い、自由万歳!と叫べば、ドン・ジョヴァンニは死を選ぶ自由に酔いしれる。そして、啓蒙社会における抑制エネルギーの蓄積から下克上を予感させる。ウィーンで受け入れられなかったモーツァルト思想は、プラハで開花したというわけか。
ちなみに、交響曲第38番ニ長調「プラハ」(K.504)もいい...

2. モーツァルトの女性観
本書は、モーツァルトの人間好きを指摘している。幼児の頃から人なつこく、人見知りせず、どんな人ともすぐに友達になれる性格で、終生変わらなかったとか。その反面、人と距離を置くことが苦手で、貴族にことさら遜ったり、聖職者を敬ったりができなかったという。
人間好きなのか、女好きなのかは知らんが、オペラ作品の中に女性遍歴を垣間見ることができる。「コジ・ファン・トゥッテ」(K.588)に道徳者の伝統的な批判が付きまとうのも、女性の貞操観念を堕落させていく物語の宿命であろう。登場する二人の姉妹フィオルディリージとドラベッラは、本当の愛を味わっていると思い込んでいるものの、まだ幼い憧れの空想段階にある。だが、男たちの激しい求愛が混乱へ陥れる。しばしば、フィオルディリージの方は、ドラベッラと対照的に、最後まで貞操を貫こうとしたと解釈される。だが、それは間違っていると指摘している。それもそのはず、結局「女はみなこうしたもの!」と歌われるのだから。やはり女性はロマンスに弱い。ましてや、戦地に赴く男どもに、どこまで義理立てする必要があろうか。モーツァルトは、女性ばかりに押し付けられる貞操観念の重さに、不自然さを感じていたようである。
一方で、「コンサート・マリア」という歌劇とは別の独立曲がある。モーツァルト研究では後回しにされがちな分野だそうな。9歳(1765年)から最期(1791年)にかけて書かれ、モーツァルトの成長を伺うのにかっこうなジャンルだという。それは、コンサート用に独立曲として書かれたものと、他の作曲家のオペラに挿入するための代替曲として書かれたもの、の二種類あり、いずれも特定の歌手が想定され、存分に個性が発揮できるように配慮されているという。マンハイムで知り合った初恋の人アロイージア・ヴェーバーは傑出したコロラトゥーラ歌手で、その妹で妻となるコンスタンツェもソプラノ歌手で、彼女らに捧げた曲もある。独自のマリア像を、世俗の女性関係に求めたのかは知らんが、コンサート・マリアには、生涯をかけてモーツァルトの女性関係が刻まれているのかもしれん...

3. 歌曲に見る堕落論
歌曲は、ほとんど制約のないジャンルで、ひねりを利かせ、ユーモアを忍ばせ、時には正攻法で意表を突き... そんな多彩な仕掛けが張りめぐらされているという。あまりにも洒落ていて、意識されないほどに。ただ、そんな自由なジャンルなのに、30曲ほどしかない。
歌曲「すみれ」(K.476) の詩はゲーテが綴る。一般的には、すみれの花と羊飼いのイメージから可憐という印象を与え、民謡風の純真な可愛い曲と評される。しかし、その実態は、牧場で人知れず起こった惨劇だという。美しいすみれが無残に踏み潰される、あっという間の出来事を、ゲーテが何食わぬ顔で晴朗に歌い出しているとか。やってきた娘が、すみれに目もくれず、踏み潰して... それを見て喜んでいた自分が死ぬのも、彼女によって... といった具合に。本書は、挿入される物語と曲の調子が不均衡で、美化して歌われ過ぎだと指摘している。これも、芸術家の遊び心であろうか。ファウスト博士が、メフィストフェレスと戯れるかのような。ゲーテが大のモーツァルト愛好家だったのも、作風に通ずるものがある。
また、歌曲ならではの恋愛物語には、思いっきり男性諸君のエゴイズムを演出する。接吻やら、抱きしめるやらと、女体をむさぼる姿を、のどかな恋愛物語に変えてしまうほどの音調によって。幸福像に、さりげなく死霊を重ねると言えば大袈裟であろうか。いや、勝手に聴衆が幸福と思っているだけのことかもしれん。単純な長調が天真爛漫な気分を煽る。天真爛漫とは、自己主張の根源であり、エゴイズムの源泉と解することもできそうか。そして、これらを克服することこそ、すなわち、堕落の道にこそ、真理の道があるとでもいうのか...

4. 三大交響曲
交響曲第39番変ホ長調(K.543)、交響曲第40番ト短調(K.550)、交響曲第41番ハ長調「ジュピター」(K.551)、これらは言うまでもなく、モーツァルトの交響曲においてピークの作品である。そういえば三曲を順番に聴いてしまうが、本書はそれもそのはずだと教えてくれる。変ホ長調のみが堂々たる序奏を持っていて最初に置かれることに意味があり、ハ長調の壮大なフーガがフィナーレとなって、これらにト短調がうまく対比されながら真ん中で座り心地が良い... といった構想になっている。
「終結フーガをもつ彼の偉大なハ長調シンフォニーは、すべてのシンフォニー中、第一のものである。この種のどんな作品にも、天才の神々しい火花が、これほど明るく、美しく輝くものはない。すべてが天上の妙音であり、その響きは、偉大な光栄ある行為のように心へと語りかけ、心を感激させる。すべてがこの上なく崇高な芸術であって、その威力の前に、精神は身を屈して驚嘆するのである。」
ジュピター神のごとく、天上の芸術というわけか。しかし、おいらには40番が一番思考のBGMに合う...

5. 聴衆を超えた幻想芸術
コンツェルトは、本書ではあまり触れられないが、モーツァルトの最高のジャンルの一つであろう。ピアノ協奏曲第20番ニ短調(K.466)は、モーツァルトが一連の快活なコンツェルト人気の流れを突然断ち切った、最初の短調協奏曲だそうな。モーツァルト芸術が聴衆を超え、難解な世界へ踏み込む一歩となったということか。もっとも、その後の長い受容の歴史が、この作品を最高の人気曲の一つへ押し上げることになる。ピアノ協奏曲第26番ニ長調「戴冠式」(K.537)よりも...
また、「フィガロの結婚」の創作の合間をぬって作曲されたピアノ四重奏曲ト短調(K.478)には... これは騒音だ!とても楽しめない!という感想さえ記録されているという。
「訓練を受けていない耳では作品の中の彼についていくのはむずかしい。かなり経験を積んだ耳でも、何度も聴かなくてはならない。」
こういう感想を意外に思うのは、現代ではモーツァルトの高級芸術が庶民化している証であろうか。確かに、複雑で疲れる。だが、おいらの大好きな曲の一つで、精神空間がぐちゃぐちゃにされるような幻想感がいい。
現代思想に飽きれば、逆に古典に新鮮さを感じる。ルネサンス期に古典回帰を懐かしんだのも、そこに新鮮な解放感があったからであろう。いつの時代でも、現在の自分を嘆けば昔を懐かしみ、単純さに退屈すれば複雑さに救いを求めるものである。

6. バッハとモーツァルト
バッハとモーツァルトは、通常バロック派と古典派で区別されるが、近年の研究では二人の連続性に注目されるという。18世紀を通じて、弦楽器や管楽器に大きな変化が見られないからだそうな。鍵盤楽器は別だけど。むしろ、モーツァルトとブラームスらのロマン派とを区別するのであろう。ブラームスやブルックナーで定着する豊かで長いレガートは、まだモーツァルト時代には存在しないという。本書は、モーツァルト時代を味わうには、古楽器演奏を勧めてくれる。古楽器が普及し認知されると、逆にモダン楽器による演奏の再評価という流れになるのだけど...
さて、19世紀的な「歌う原理」に対して、「語る原理」がまだ有効であったと捉えるそうな。だからといって、モーツァルトが18世紀の革新者であることを否定しているわけではない。素人感覚で眺めても、バッハとモーツァルトの間にはなんらかの境界がありそうだし、バッハから異質な変化を見せるのも明らかだ。おまけに、作風は正反対ときた。バッハのカンタータと言えば、神やら愛やら接吻やらを大袈裟に歌い、真面目臭く、説教じみて聞こえる。バッハを素直に聴けるようになったのは、30代半ば頃であろうか。対して、モーツァルトは照れくさそうに茶化すところが昔から肌に合う。
しかしながら、晩年の作品にはバッハの模倣に通ずるものがあるらしく、精神的な共通点が見出せるという。皇帝ヨーゼフ2世から音譜が多すぎると批判されたのは、オペラ「後宮からの逃走」(K.384)に関するものだったと思う。だが晩年は、信じられないほど簡明な転換が著しいという。難解な作品を残してきた天才芸術家が、晩年になって自然へ回帰し、簡明な作風を露わにするのをよく見かける。これが人間の普遍性というものであろうか...

2014-03-09

"ヒトはなぜ戦争をするのか?" Albert Einstein, Sigmund Freud 共著

この組み合わせに目を疑った... アインシュタインとフロイト???
1932年、国際連盟はアインシュタインに、ある依頼をしたという。
「人間にとって最も大事な問題をとりあげ、一番意見を交換したい相手と書簡を交わしてください!」
そして、とりあげた問題は戦争、相手はフロイトだったとか。ナチズムに握り潰され、長らく忘れ去られてきた二人の往復書簡が甦る。それは、憎悪と攻撃性という人間本性を巡っての対話であった。アインシュタインは、権利と権力の関係から議論を求める。フロイトは、これに賛同するものの、権力より暴力という、もっと剥き出しにした言葉を用いたいと提案する...

翌1933年、アインシュタインはナチズムに追われアメリカに亡命。彼が有識者こそ暗示にかかりやすいと主張したのは、まさにヒトラーの演説に狂気した群衆心理を物語っている。真理を探求するには、科学だけでは不十分だということを痛感したのであろう。ここに、科学者と心理学者を結びつけることに。
1938年、フロイトもまたロンドンに亡命。第一次大戦の教訓から発足した国際連盟は、人類史上初の試みであり、世界から戦争をなくすための唯一の希望であった。しかし、独立機関として機能せず、第二次大戦の勃発で失敗に終わり、20世紀は大量殺戮の世紀と化す。その思想は国際連合に受け継がれるものの、各国の思惑が絡むことに変わりはない。
司法機関を権力と分離させることは極めて難しく、国際機関でさえ正義の下で機能させることは不可能なほど難しい。それは、正義という言葉があまりにも美しい印象を与えるわりに、普遍性や客観性からは程遠いことにある。歴史を振り返れば、脂ぎった権力ほど正義を巧妙に利用してきた。しかも、彼ら自身が正義者だと信じ込んでいる。人間ってやつは、自分の道徳観に自信を持つと、ろくなことにならないようだ。そこで、現実的な対策として実践されてきたのが、モンテスキュー式権力分立の原理である。人間社会ってやつは、毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないというのか?そいつは、真理の探求という普遍原理よりも優るとでも... そうかもしれん。

1. アインシュタインからフロイトへ
「ナショナリズムに縁がない私のような人間から見れば、戦争の問題を解決する外的な枠組みを整えるのは易しいように思えてしまいます。すべての国家が一致協力して、一つの機関を創りあげればよいのです。この機関に国家間の問題についての立法と司法の権限を与え、国際的な紛争が生じたときには、この機関に解決を委ねるのです。」
ところが、すぐに問題にぶつかる。司法は人間が創り出したもので、周囲の様々な圧力を受け、正義はすぐさま宣伝やパフォーマンスに置き換えられる。自由や平等、あるいは友愛や博愛といった響きの良い言葉ほどタチの悪いものはない。
アインシュタインは、国際平和を実現しようとすれば、各国が主権の一部を放棄しなければならないと主張する。そして、人間の心に問題があるとし、第一に権力欲を放棄することができない特質を挙げる。教養のない者を導けばいいというものではなく、むしろ知識人の方が暗示にかかりやすいと。机上の言葉を頼りに、複雑な現実を安直に捉えようとするからだと。教育者、報道屋、宗教屋たちが、政治的に扇動される当時の様子は... 今もあまり変わらんようだ...

2. フロイトからアインシュタインへ
「むき出しの現実の力を理念の力に置き換えるなど、今でも無理なのです。失敗するのは必至です。法といっても、つきつめればむき出しの暴力にほかならず、法による支配を支えていこうとすれば、今日でも暴力が不可欠なのです。このことを考慮しなければ、大きな過ちを犯すことになります。... 人間から攻撃的な性質を取り除くなど、できそうにない!」
今日、世界中の民族を支配しているのは、ナショナリズムという理念であろうか。フロイトは、ナショナリズムこそがすべての国々を敵対させる原因だとしている。そして、原始時代に遡って考察し、人間の本性を暴こうとする。
一般的には、権利と暴力は正反対のものと思いがち。だが、権利の行動は、暴力と深く結びついてきた。人と人の間には利害の衝突があり、ほとんど力関係で決着がつけられる。人間とて動物なのだ。文明の発達が、腕力競争を武器競争へ変化させ、やがて科学戦争、経済戦争、情報競争といった頭脳戦へと移行させてきた。唯一の救いは、人間の場合、暴力の前に意見や思想の対立があることだ。極めて抽象的なレベルで意見が衝突することもある。フロイトは、こうした特質のおかげで、暴力以外の解決策の可能性があるとしている。
実際、暴力による支配から法による支配へと変化してきた。法を編み出したのは、多くの弱い人々が結集し、権力者の強大な力に対抗して権利を認めさせた結果であろう。
しかし、今度は集団性が暴力を剥き出しにする。狡猾な政治屋どもは、腕力よりも集団性を利用する方が効果的だということを熟知している。君主制を打倒した共和制の下で恐怖政治が行われると、民衆は強烈なリーダーシップを持つ政治家の登場を願う。その結果、再び独裁者の台頭を許す。対立や衝突の生じない社会は存在しない。神の前で誓った二人ですら、利害関係から敵対心を剥き出しにするではないか。相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己存在を確認するには、その対象を必要とする。愛の情念は、憎の情念との相対的な関係から生じる。実は、正義と暴力は相性がいいものなのかもしれん...

3. 共同体を形成するものとは
共同体を支えているものは、感情の結びつき、あるいは一体化ないし帰属意識というやつであろうか。もっと言うならば、哲学的な共通意識とでもしておこうか。だが、手段に目を奪われれば、絆などという心地よい言葉だけがひとり歩きを始め、感情的な行為に及ぶ。
汎ギリシア理念では、バーバリアン(野蛮人)より優れているという自負があった。その意識はアンピクティオニア(隣保同盟)、信託、祝祭劇などにはっきりと現れ、ギリシア人同士の争いが熾烈をきわめずに済んだ。だが、争いを根絶することはできない。ライバルを蹴落とすために、一部のギリシア都市は、天敵ペルシアと手を組んだ。ルネサンスにおけるキリスト理念では、多くの人がキリスト者としての一体感を強く感じていた。にもかかわらず、大小のキリスト教国が互いに衝突すると、イスラム教のスルタン(君主)に助けを求めた。人間ってやつは、いとも簡単に戦争に駆り立てられるものである。
アインシュタインは、憎悪に駆られるのは人間の本能であり、相手を絶滅させようとする欲求が潜んでいるとしている。フロイトもこれに同意し、攻撃性を戦争に結び付けないために、他に捌け口を見つけることが重要だとしている。
そして、人間の衝動には二つあるとしている。一つは、保持し統一しようとする衝動で、エロスや性的本能である。権力者は性欲が強いとよく言われるが、英雄色を好むというやつか。二つは、破壊し殺害しようとする衝動で、攻撃や破壊の本能である。
両者とも愛と憎しみの対立から生じる。物理学的に言えば、引力と斥力の関係にある。だからこそ、これらが釣り合うように精神のバランスを求める。片方を悪として排除すれば、他方が暴走を始める。愛もまた独占欲から生じる。憎しみを悪として排除すれば、愛が暴走を始め憎しみ以上にタチが悪い。自己愛が自分を主役にしたいと欲すれば、そこにも攻撃性が生じる。愛を崇め過ぎれば、愛を安っぽくさせるだけよ。
しかしながら、衝動もまた人間には必要な情念である。芸術とは、まさに衝動の爆発した結果である。悪意や攻撃性こそが、革命や創造性を掻き立てる。そして、情念の行き過ぎを意識できるから、抑制しようとする意識も働く。これが中庸の原理というものであろうか。そもそも人間の本性を排除しようとすることが、宇宙法則に逆らっていると見るべきではあるまいか...
「共産主義者たちも、人間の様々な物質的な欲求を満足させて人間たちの間に平等を打ち立てれば、人間の攻撃的な性質など消えると予測していました。けれども、このようなことは幻想にすぎません。今、ボルシェヴィキの人たちはどのような有様を呈しているでしょうか。武装化に余念がなく、実に入念な武装化をはかっています。そのうえ、ボルシェヴィズムを信奉しない人間への激しい敵意と憎悪こそ、彼らを一つに結びつける大きなものとなっているのです。」

2014-03-02

"精神分析学入門(I/II)" Sigmund Freud 著

精神科医ジークムント・フロイトは、第一次大戦下でシェルショックが社会問題となった時代を生きた。現在では、戦闘ストレス反応(combat stress reaction)と呼ばれる。塹壕で手足を失い、化学兵器で目や耳や顔面を失い、アメリカ赤十字社によって作られたパリのアトリエには、傷を隠すための義肢やマスクが作られ数多くの人が訪れた。
フロイトは、従来の催眠術から決別し精神分析療法を確立する。本書は、1915 - 16年と、1916 - 17年の冬学期の二期に分けて行われた講義記録である。ただ、「精神分析学」と題しておきながら、精神病という言葉が数えるほどしか見当たらない。精神分析というと、素人感覚では心理学と結びつけてしまうのだが、どうやら鬱病や躁病の類いとは違うようである。
「ノイローゼ論は精神分析そのものなのです。」
神経症(ノイローゼ)と心身症の違いも微妙に見えるが、ここで扱われる題材が心の病であることは間違いなさそうである。まぁ、分類や定義は専門家に任せるとして、重要なのは治療法としての心の接し方であろう。
注目したいのは、自由連想や夢判断の観点から無意識を徹底的に扱っている点と、エゴイズムよりもナルシシズムを重視しながら、心的エネルギーの本質を性的欲動に求めている点である。この本能的エネルギーを「リビド(Libido)」と呼んでいる。対して、死への欲動を「タナトス(Thanatos)」と呼ぶらしい。生への活力は性欲より発するというわけか。暗示にかかりやすい酔っ払いは、さっそく夜の社交場へ繰り出すのであった...

さて、自我は意識されたものであろうか?いくら自由意志があると信じても、人体活動のほとんどは無意識の領域にある。呼吸を意識的に止めることはできても、心臓は止められない。精神活動では、気分をある程度誘導することはできても、決定的な集中力や思考力は気まぐれに委ねられる。突然アイデアが浮かぶかと思えば、突然ヤル気が失せたりと、思い通りにならない自我にうんざり。夢の中まで攻め倒さないと、思考ってやつはなかなか言うことをきいてくれない。自由意志の本性は、意識の側よりも無意識の側に比重が大きいような気がする。
「自我は自分自身の家の主人などではけっしてありえないし、自分の心情生活のなかで無意識に起こっていることについても、依然としてごく乏しい情報しかあたえられていない。」
普段、間違えようのない作業でも、しくじることがある。冷静に振り返ると、魔が差したり、平常心でなかったり。そんな時、ちょいと言葉に耳を傾け、相槌をするだけでも、心を落ち着かせることができる。自由に言葉を発する機会を与えれば、治療の糸口が見えることもあろう。夢には潜在意識が詰まっている。犯罪科学には、催眠術を利用して記憶を蘇らせる方法もある。自由連想によって精神を解放すれば、潜在意識を顕在化することもできるかもしれない。
しかしながら、無意識な領域を意識するとは、既に自己矛盾を孕んでおり、かなり危険を伴うであろう。自己の防衛本能が、苦い体験を心の奥底に押し込めることもある。あまりにも衝撃的な事故を体験すれば、その前後の記憶が失われるとも聞く。無意識が防衛本能の領域にあれば、それを意識した途端に無防備を覚悟せねばなるまい。精神の内に健全な悟性が最後の判決を下す法廷として認められるならば、大した問題にはならないのかも。
しかし、ノイローゼ患者となると、どうであろうか?知らない方が幸せってこともある。正しい判断が下されない状態では、人は皆ノイローゼということになろうか。とはいえ、どんなに優れた知識を身につけても、やはり判断を誤るではないか。せめてノイローゼ状態を自覚できる者の方が、自我を知る機会が得られ、救われるのではないか。精神の限界に挑む芸術家は、常に精神病の境界をさまよっていることになる。人間には、プライドという奇妙な意識がある。おそらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく知っているのだろう。だが、愚かな自分をけして認めようとはしない。知らない方が幸せだと潜在的に知っているのかもしれん。これは俺の真の姿じゃねぇ!と。プライドに縋って生きれば、プライドが崩れた途端にズタズタになる。人を気にし、世間を気にするようなプライドは、見栄っ張りから意地っ張りへと変貌させる。所詮人間ってやつは、何を拠り所に生きるか?どこに居場所を求めるか?それを探しながら生きているだけの存在。それがはっきりと見えなければ、自らどこかの神経系を遮断せずにはいられない。これがノイローゼの正体だとすれば、ノイローゼを患っていない人間などどこにいるというのか...

1. 夢学
夢占いの類いは古代から伝えられる。英雄誕生伝説で予知夢が伝えられたり、一富士二鷹三茄子が縁起の良い夢とされたり。人間は夢現象を、何かの象徴や予兆にしたがる。それは、未来への不安から生じるのだろう。予知夢が未来願望から生じるとすれば、デジャブのような心理現象は過去への回帰願望であろうか?望郷の念は、心の拠り所、すなわち帰属意識の再確認から生じるのかもしれん。
フロイトは、夢そのものがノイローゼ的な症状だという。
「抑圧された無意識が自我からある程度の独立を獲得した結果として、たとえ自我に依存する対象配備が睡眠に都合のよいようにすべて停止されたとしても、無意識が、睡眠願望には服さずその配置をつづけるものと仮定しなければ、夢の成立を説明することができません。」
夢を見ている間は、眠りが浅いと言われる。熟睡すれば、外界との交渉を断ち、完全に刺激を遮断してくれるが、中途半端な眠りは、なんらかの心的現象をともなう。眠りは、生理学的には休養であるが、心理学的には何を意味するのだろうか?現実逃避か?永遠の眠りの妨げか?はたまた、熟睡を求めるのは、死への憧れか?
いずれにせよ、夢という現象には何らかの意味が隠されているのだろうが、理解不能なほど多義的だ。夢ってやつは見ている間は妙にリアリティがあって、絶対にありえないシチュエーションなのに、意図も簡単に信じ込む。現在と過去の人間関係がごっちゃになっていたり、仮想的な人物や歴史上の人物までも登場させたり、まったく支離滅裂!不安や願望で説明できる単純な夢もあれば、わざわざストレスを求める夢まである。矛盾だらけのシチュエーションに何の疑問を持たず同化できるということは、論理的に物語を感じ取る神経と、リアリティを感じ取る神経は別物ということにしないと説明がつかない。となると、今見ている現実が、どうして夢でないと言い切れるだろうか?まぁ、夢だと信じたところで、同じくらい現実である可能性もあるわけだ。精神そのものが不確実性に満ちているのだから、夢も、現実も、そうなる運命なのかもしれん。もはや、夢の内容を解釈しようなんて絶望的に思える。フロイトも、夢の内容を解釈しようとするのではなく、夢を見る心理状態に着目すべきだと語っている。
「ある心的過程の意識性または無意識性とはその心的過程の一つの属性にすぎず、必ずしも一義的にとらえうる明確な属性ではないと断言することです。」
睡眠状態は、催眠状態と似ている。眠っている耳元で第三者が嫌な事を囁けば、うなされかねない。夢現象を神経系の遮断効果と捉えれば、快感だけを感じ取るような覚醒状態とも似ている。神経系を制御できれば、人間の意志なんて、いかようにも誘導できそうか。人体が量子力学で裏付けられた機械的構造をしている限り、ありえそうな話だ。それどころか、誰もが洗脳状態にあり、人間社会そのものが洗脳しあわなければ成り立たない世界なのかもしれん...

2. ノイローゼ論
ノイローゼは、オーストリアの生理学者ヨーゼフ・ブロイアーが発見したものだそうな。ヒステリー患者をうまく治癒させたことが発見のきっかけになったとか。彼は、フロイトの共同研究者でもあったが、後に性愛の問題に絡んで決別したらしい。
尚、フランスの精神科医ピエール・ジャネも、同じようなことを証明し、文献ではジャネが先んじているという。偉業は、下地を固めてきた無名の研究者たちの努力の上に成り立ち、その過程で、たまたま名声を得る者がいる。どんな発見も一遍に成し遂げられるものはなく、必ずしも功績が元の発見者に帰するものではない。しかし、そういう研究事情を知りながら、現在でもなお経済的な成功者ばかりが脚光を浴びる。人間には、目の前の現象しか見ようとしない傾向がある。これも、ある種のノイローゼ状態であろうか...
さて、誰だって不安や恐怖を感じるだろうし、その感じ方にも個人差がある。不安や恐怖から逃れるために、妙に怒りっぽくなったり、攻撃的になったりする。強迫観念が神経症レベルにまで高められると、自分とはまったく関係のない考えに囚われ、なんの縁もない衝動に駆られ、しかも、そんな事を実行したところでなんの満足も得られないというのに、どうしてもやらずにはいられない。そこに、集団意識が加われば、社交恐怖、広場恐怖、SNS恐怖となって襲ってくる。そもそも社会や共同体には、個人の欲動を犠牲にする側面がある。だからといって、騒がしい世間に対抗して心を閉ざせば、自ら不決断や無気力を呼び込んでしまう。やがて重大犯罪を犯す誘惑に憑かれたり、神の言葉を実行するといった幻覚が見えたりする。ぞっとした衝動から身を守るためには、自由を放棄するしかない。ノイローゼとは、自由と束縛を極端に自己完結させようとする自我の魂胆であろうか?
強迫ノイローゼの患者は、もともとはエネルギッシュな性格の人で、異常に自我執着が強いことが多く、人並み外れて豊かな知的天分を持っているのが通例だという。たいていは高い道徳水準にまで達し、良心的過ぎて几帳面であると。ノイローゼが性格の特質との矛盾から生じるとすれば、下手に自覚できる能力があるが故に患うということであろうか。ならば、自己矛盾を素直に受け入れ、自己が狂人であることを受け入れるしかないではないか。世間が狂っているならば、馬鹿にされるぐらいでちょうどいい...

3. リビド論
フロイトが人間の最も原始的な動機に、性的欲動を位置づけたのは、第一次大戦という時代背景があるように思える。つまり、大量の死骸を目の当たりにすることによって、遺伝子保存の危機を本能的に感じるということである。... と解するのは行き過ぎであろうか?
人の本性は、極限状態に露わになる。性愛には奇妙な現象があり、自己愛を強調しすぎるために自虐的になることすらある。好きな人にわざと意地悪をしたり、自ら悲劇のヒーローを演じたり。愛欲には、拒否される願望もある。おまけに、障害が大きいほど燃え上がり、成就した途端に冷める。健康的で陽気な人物像はドラマの主人公になりにくい。どこか陰りのある過去を持ち、何かに必死に耐えて生きているような人物に惹かれるもの。健康で完璧な人間を眺めても退屈するだけだ。そこで、自我ってやつがシナリオをでっち上げ、ナルシストを演じさせるという寸法よ。
人間は、快楽動物であろうとすることを蔑み、知的動物であろうとする。だが実際には、快楽を締め出すことはできず、建て前と本音を巧みに使い分ける。羞恥を軽蔑すれば、自我を攻撃し、自我を攻撃できなければ、他人を攻撃する。結局、羞恥のはけ口を求めているだけなのかもしれん。自我が空想を膨らませていくのは、リビドの責任転嫁の結果であろうか?
尚、リビドが空想に逆戻りする症状を、ユングは「内向」と名付けたそうな。内向者は、まだノイローゼではないが、極めて不安定な状態にあるという。リビドが常に別のはけ口を求め、少しでも心の均衡が破れると、すぐに症状に現れるような。だが、一旦ノイローゼに陥ると、心の均衡どころか、現実と空想すら区別できない。リビドが現実で満足が得られないと知るや、内向と結びついて地獄へまっしぐら。これがノイローゼというものであろうか...
ところで、よく少子化問題の議論で、人間は生殖機能が基本であるから、子供を作るのは当然だといったことを言う人がいる。生物学的には、生物には遺伝子を残すという役割もあろうが、地球の表面積に対して保存本能が数の調整を試みるかもしれない。無知性で無理性なアル中ハイマーの遺伝子を残すことは世のためにならんだろうし。
では、心理学的にはどうであろうか?生殖機能だけではキスや自慰行為は説明がつかないし、もはや愛撫も前戯もピロートークも無用となろう。チラリズムなんて嗜好はどこからくるのだろうか?エロティズムは性欲から生じるだけでなく、芸術の領域にも官能性はある。性の世界においては、生殖目的よりも愛欲や快楽の方が優勢なようである。性欲に任せて繁殖を続ける方が社会を崩壊させるだろうし、性欲、食欲、金銭欲、権力欲、名声欲... といったものが自制できるから、人間社会は成り立つのであろう。
一方で、性欲が仕事の活力となっているところがある。「英雄色を好む」説は本当かもしれない。出世とホルモンが関連するという研究報告もあるし、職場での情事は燃えると聞く。だが、仕事ができるから収入も増えるのであって、「金の切れ目が縁の切れ目」説の方を支持したい。性欲の解放は、理性と反するように言われるだけにタブー化されやすく、多くの場合、猥褻や破廉恥で片付けられる。
しかし、これ以上、人間本性的なものがあろうか。性的な話題で照れるのも、本性を隠したいだけかもしれない。一夫多妻を拒否するハーレム主義者は、結婚しなければ矛盾しない。愛はホットな女性の数だけあるとすれば、独身貴族は純粋な平等主義者となろう。おっと、性欲論を語り始めると、独り善がり論へ吸い込まれる。これもノイローゼというものであろうか...

4. 感情転移
医師への信頼が、異性への愛に変化するなどは普通に生じるという。どんなに年老いても。若い女性患者と年配の医師の間で、娘として可愛がられたいといったこともあるそうな。医師は複数の患者を抱えているので、嫉妬が生じる。そりゃ!男性諸君は美しい女医に憧れるだろう。
さて、感情転移が、治療の大きな原動力になりうるという。感情転移には、陽性と陰性があるらしい。医師との間で共同に営まれれば、陽性となって信頼という権威を持つことに。だが、陰性となれば、抵抗して言葉に耳をかすこともないという。愛情が、敵対心に変貌するのも紙一重ってか。愛が深いほど憎しみもひとしお、決着をつけるものもは患者の知的な洞察ではないようだ。知的な洞察は、むしろ邪魔になるという。信頼とは愛から生じるもので、論証といった知的な部分ではないということか。信頼を無条件の愛に転嫁するということか。既に、論理的に思考できるような精神状態ではないのだろう。そうなると、医学よりも宗教の方が救えるかもしれん。
しかしながら、こうした心理的療法はナルシシズム的ノイローゼには通用しないという。ナルシシズム的ノイローゼは、感情転移の能力がないか、あっても不十分だとか。彼らが医師を拒むのは、敵意からではなく無関心のためで、しかも、感化も受けないという。プライドが高く、常に自力で立ち直ろうとするだけにタチが悪い。自我を増幅させた頑固さには、精神分析療法も無力だとか...