2012-12-30

"アンティキテラ古代ギリシアのコンピュータ" Jo Marchant 著

1901年、マレア岬からクレタ島の間に位置するアンティキテラ島沖の沈没船から、奇妙な機械の破片が引き揚げられたそうな。調査が進むにつれ、少なくとも30個の歯車を組み込む洗練された技術の凝縮であることが見えてくる。沈没船の方はというと、地中海でローマ支配が強まる紀元前1世紀頃、戦利品を運ぶ途中に沈んだと推定されるという。そうなると、歴史の矛盾にぶつかる。なにしろ、ルネサンス期の天文時計まで待たないと出現しないような代物なのだから。千年もの歴史の空白の謎は21世紀になった今、ようやく正体を見せつつある。
ところで、古代技術に信じらないほどの水準を魅せつけられると、必ず登場するのが異星人の仕業とする説である。アンティキテラの機械もその例に漏れない。しかし、太陽暦や太陰暦は地球の住人にしか意味をなさないはず。異星人がしばらく地球に滞在する必要があって、そのためにこしらえたというのか?そうかもしれん。あるいは、歴史の空白があまりにも長ければ、古代人はもはや異星人のような存在と言っていいのかもしれん。そして、現代人が新発明と騒いでいるあらゆる技術は、古代人から学んでいることに気づかず、踊らされているだけのことかもしれん。

「神よ、時を知る方法を最初に見つけた人間を呪いたまえ!この地上に日時計をもたらし、わが日々を無残に細かく切り刻んだ者をも呪いたまえ!」...マッキウス・プラウトゥス

人類は、時を刻む方法を天文に求めてきた。ヘシオドスの著書「仕事と日」には、農夫たちが星座を眺めて作業の拠り所にしたことが記される。年周期は黄道十二宮をもとに12等分され、やがて太陽や月の軌道周期が基準とされる。間接的には、潮の満ち干きやナイル川の氾濫などに現われる周期性がこれに従う。時間についての知識はこれほど古いにもかかわらず、機械仕掛けの時計が登場したのは、ずっと後の中世ヨーロッパとされる。そして、周期的な機械構造は、歯車を要としてきた。
では、歯車の物理的、数学的な意味とは何か?差動歯車は、二つの歯車の回転数の差ないし和に相当する速度で回転する。二つの入力歯車が同じ方向に回転すれば足し算となり、逆方向に回転すれば引き算となる。差動歯車の発明によって、手で紡ぐよりも上質な綿糸がより速く安価に大量生産され、自動車の動力伝達装置にデファレンシャルギアが用いられてきた。エニグマ暗号機は、複数のローター連結で構成される。つまり、歯車式の機械構造は、演算器、角速度変換、あるいはエネルギー変換として機能させることができる。そして、蒸気機関や製粉機や機織り機の道を開き、産業革命の引き金となった。
そこにある最も基本的な抽象概念は、周期性である。時を刻む方法は、振り子時計、水晶振動子を用いたクォーツ、電磁波の周波数スペクトルを用いた原子時計へと進化させてきた。今日のデジタル機器も、振動子や発振器がなければ駆動できない。何かを数えるという単純な作業でさえ、ある自然数を底にした記数法が用いられるが、これも一種の巡回群である。
人間ってやつは、時を過ごすにしても、数を数えるにしても、周期性を好み、それを等分に刻まずにはいられない。生理的には心臓の鼓動に現われる不整脈を嫌い、心理的には無理やりにでも規則を設けて時間厳守という日々の義務を課す。何の意味があって周期性とやらに縋るのか?確かに、電磁波は無限の安定直進性を示す。周期性に囚われると不老不死に近づけるとでもいうのか?あるいはニーチェの言う永劫回帰を求めているのか?ただ、赤い顔をした鏡の向こうの住人は、行付けの店でいつものお姉さんを前にしながら、チェンジ!チェンジ!...と小声で繰り返している。おいらには、この専門用語の意味が分からない。

1. どこで作られ、どこへ運ばれていたのか?
アンティキテラの機械を載せた船は、紀元前70年から紀元前60年頃にローマを目指して小アジアのペルガモンを出航し、おそらくアレクサンドリアに寄港し、確実にロードス島に立ち寄ったと見られているそうな。ヘレニズム時代、アレキサンダー大王の東方遠征にともない、ギリシア文明はアレクサンドリアやアンティオキアといった東の都市で融合し開花した。一方で、後にローマの支配下となるギリシア本土では、知識が停滞したと考えられているという。
紀元前86年、ローマの将軍コルネリウス・スッラがアテネを侵略した。スッラにも増して強欲だったのがポンペイウスで、紀元前61年に凱旋パレードを行い、戦利品を港に運んだ船は700隻、行進に2日もかかったという。ポンペイウスがローマに帰還した頃、ユリウス・カエサルが台頭しつつあった。こうした背景から、アンティキテラの機械はローマの戦利品だったと推測している。
ローマに対して友好的に振る舞った都市の一つにロードス島があり、ギリシアの学者がさほど妨害されずに仕事ができたという。ロードス島には、古代最高の天文学者に数えられるヒッパルコスとポセイドニオスがいる。アレクサンドリアには、機械仕掛けの名人、ヘロンの公式で知られるヘロンがいる。さらに、キケロは、アルキメデスが天体を表す道具を作ったと伝えている。アンティキテラの機械に記される月名を調べると、その呼び名を使っていた都市が見つかっているという。それはロードス島のものではなく、都市国家コリントスの植民地で使われていたと。コリントスの本土でどのような暦が使われていたかは不明だが、ギリシア西北部のイリュリア、エペイロス、コルフ島、そして、もう一つ重要な植民地にアルキメデスの住むシチリア島のシラクサがある。コリントスとエペイロスは紀元前2世紀のローマの侵攻によって壊滅状態になっていたが、シラクサは紀元前212年ローマの将軍マルケッルスに征服された後、紀元前1世紀になってもなおギリシア語を使い、かなり繁栄していたという。重税を課せられるものの友好的に振る舞ったとか。作られたのがシラクサかロードス島か、あるいはその双方かは知らんが、本書はシラクサ説を推している。技術そのものは、イスラム世界で受け継がれ、水や水銀で動く時計について書き残され、アルキメデスの時計と記されるものもあるとか。とはいえ疑問は残る。なぜ2号機、3号機が作られなかったのか?

2. 歯車の起源とアストロラーベ
歯車に関する最古の文献は、紀元前330年頃のアリストテレスの論文だと言われているそうな。噛み合う2つの車が反対方向に回転しながら、互いに押し合う仕組みについて。ただ、歯に関する記述はないらしい。アリストテレスはアレキサンダー大王の家庭教師であり、東方遠征によってバビロニア数学の影響を受けたことが推測できる。
道具として実践した最初のギリシア人は、紀元前3世紀の発明家クテシビオスとアルキメデスだという。クテシビオスは、アレクサンドリア博物館の初代館長とも言われる。彼自身は記述を残していないが、後のローマの建築家ヴィトルヴィウスによると水時計を作ったと記されるそうな。あのネジが無限に回転する仕掛け、アルキメデスのスクリューは有名だ。アルキメデスがクテシビオスの元で仕事をしていたのは、ほぼ間違いないという。ヘロンも、大きさの違う二つの歯車によって仕事量を変換できるアルキメデスの原則について記しているという。彼もまたクテシビオスの弟子だそうな。ヘロンが図解つきで説明するバルールコスは、順番が大きくなっていく歯車を連動させて、小さい力で重い物が持ち上げられる機械だという。ただ、これが実現できるほどの強靭な歯車は、当時作れなかっただろうとする学者も少なくない。ヘロンの機械に、ディオプトラという照準儀もある。
また、古くから「星をとらえる物」という意味の道具「アストロラーベ」がある。一つの円盤がもう一つの円盤の上で回転する仕組みで、地球から見える天空が二次元に表される。アストロラーベに関する最古の文献は6世紀のものだという。実物は9世紀以降のものしか残っていないとか。ただ、2世紀、プトレマイオスがアストロラーベらしき物を作るための数学を記述し、その道具で観測結果を残しているという。一方で、アストロラーベの発明者は紀元前2世紀のヒッパルコスとも言われる。プトレマイオスの著書「アルマゲスト」には、ヒッパルコスの天体観測の結果や理論が数多く引用されるという。

3. 黄道十二宮とメトン周期... デレク・デ・ソーラ・プライスの研究成果
天文時計の誕生は、中国では11世紀頃、ヨーロッパでは13世紀頃と言われる。だが、イギリスの野心的な学者プライスは、時計誕生の定説を覆したという。
アンティキテラの機械の文字盤の縁には二重円で目盛が刻まれる。内側の目盛は12等分され、更に30に刻まれ、合計360。縁には十二の星座が時計回りで並び、黄道十二宮を刻みながら天空を駆ける太陽の年周期を示しているのだとか。外側の目盛は365に刻まれる。一月を30日とし12ヶ月に分かれていて、そこに微調整のごとく5日追加され一年が365日になる構成。古代ギリシア・エジプト暦には閏年がなく一年が365日で一定だそうな。ヘレニズム期に愛用されたという。だが、実際は短めで不便なので、使い手が外側の円盤を回して、4年に一度調整したのだろうと推測している。
さらに、X線撮影によって8層もの未知の歯車が浮かび上がる。歯の並びは不規則だったり、中心点がばらばらだったり。箱の外のハンドルを回すと、冠歯車が回転して他の歯車の動力源になっていることで、これを「動力歯車」と名付けている。動力歯車の表側には黄道十二宮が刻まれ、裏側には月の運行とメトン周期が刻まれているという。太陽の位置から月の位置を算出するのは、すぐに運行時間が同期しなくなるので簡単ではない。月が地球を回る周期は恒星月と呼ばれ、約27.3日。満月から満月までの周期は朔望月と呼ばれ、約29.5日。古代ギリシア人は、19年に一度、月と太陽がまったく同じ位置になることを知っていたという。19年は朔望月で約235ヶ月、この間に月は空を254回めぐる。これが、メトン周期。紀元前433年、メトンはこの現象を理解した最初のギリシア人だが、彼がバビロニア人から知識を得たことはほぼ確実だという。メトン周期で一年は、254/19 恒星月。6つの歯車の歯数は、順に65(64か66の可能性あり)、38、48、24、128、32 あるという。その回転比率を数式で表すと、かなり誤差がある。

  65/38 x 48/24 x 128/32 = 260/19

無理やり1枚目を64、5枚目を127とすると、こうなるけど。

  64/38 x 48/24 x 127/32 = 254/19

月の位相、すなわち満ち欠けの計算は基本的に朔望月と同じで、満月を基準にするか新月を基準にするかの違いはあるにせよ、235 と 254 の差を埋める差動歯車として機能したと推測している。これで太陽と月の運行を同期できるというわけか。

4. プラネタリウムとカリポス周期... マイケル・ライトの研究成果
ロンドンの科学博物館で工学を担当するライトの研究室に、オーストラリアのコンピュータ科学者アラン・ジョージ・ブロムリーが訪れたという。ブロムリーは、コンピュータの祖父と言われるチャールズ・バベッジの生誕二百周年にあたる1991年に1台制作してみようと持ちかける。いわゆる、階差機関と呼ばれるやつだ。そして、アンティキテラの機械で意気投合し、二人の共同研究が始まる。結局、ブロムリーは研究成果を一人で発表したために、ライトと険悪になるのだけど...
さて、X線撮影が最初からやり直され、映像の質もかなり改善され、プライスが見落としていた歯車が発見される。そして、プライスが差動歯車としていたものには入力が一つしかなく、差動ではなく惑星の運行を示すものと考えたという。かつては沢山の歯車があって、1個の土台となる太陽の円盤の上を惑星の歯車が回る、ある種のプラネタリウムというわけだ。内惑星と外惑星は、速度を変えたり、停止したり、蛇行したりと、規則正しい軌道にはならない。そのため、惑星の語源であるギリシア語のプラネテスには、「さすらい人」や「放浪者」という意味があるそうな。そこで、ターンテーブル上で再現する各惑星の運行は、遊星歯車で構成される。
地球中心の宇宙観が全盛の時代、天動説にもいろいろあるが、二つの体系に大別できる。一つは、エウドクソスの同心天球モデルで、アリストテレスの哲学体系に組み込まれる。もう一つは、アポロニウスの周転円モデルで、それを進化させたプトレマイオスの体系がある。時代的には、アポロニウスの周転円と重なる。周転円 = 遊星歯車というわけか。
また、機械の裏側に螺旋の文字盤を発見したという。同心の多重円ではなく一つの螺旋を描いていて、5回まわりきると235になるように目盛が付いている。メトン周期の朔望月だ。この文字盤のすぐ脇についている小さな歯車は、4つに区切られているという。古代ギリシア人は、メトン周期の他にカリポス周期という暦も使っていたそうな。カリポス周期は、4メトン周期(19年 x 4 = 76年)に相当する。となると、エジプトの太陽暦を、何種類もの太陰暦に置き換えることができる機械ということか。
しかし、歯車の歯数を書きだしてみても、遊星歯車が何を計算しようとしたものかが分からない。ターンテーブルには、他の歯車と噛み合わない223の歯がついているという奇妙な点があるという。さらに、二つの歯車の中心がわずかにずれていて、ピンが穴の中を上下して中心に近づいたり離れたりする仕掛けがあるという。この時代に楕円軌道という概念があったのか?ヒッパルコスは、太陽と月の軌道を説明する方程式で、ゆらぎの考えを取り入れていたという。その研究成果では、裏側下部の文字盤が交点月(約27.2日)の4ヶ月を表し、半日単位で218の目盛が刻まれているとしている。交点月とは、地球から見た太陽の軌道と月の軌道が交わった時から、次に同じ交点に戻るまでを1ヶ月と数える暦である。
なるほど、日食を予測するのに便利か。ただ、半日単位で刻まれる意図が分からない。そして、破片やX線写真から歯数を読み取るだけでも大変だというのに、せっかく223と読み取りながら218としたのは、結果的に強引だったことになる。

5. サロス周期とエクセリグモス周期... トニー・フリース率いる最強の布陣
映画製作者フリースは、名だたる研究者、CT撮影、最新のCG技術ともタッグを組んでいたという。カーディフ大学の天文学者マイク・エドマンズに、アテネ国立考古学博物館とテサロニキ大学が祖国の遺産のために協力。カリフォルニアの優秀なCGクリエーターは、ヒューレット・パッカード研究所。X-テク社のCT技術は鮮明なX線画像を見せる。機械の裏側に操作説明らしき長いリストがあることは以前から分かっていたが、その二万語近くあるものから二千語の文字が解読される。
さて、ライトの結論で、半日単位で218の目盛というのはいささか不自然。正確に読み取ると、やはり223だったという。食を予測する時の周期にサロス周期がある。1サロス周期は約18年、すなわち223朔望月。月の通る道(白道)は太陽の通る道(黄道)に対して約5度傾いているため、食は白道が黄道と交差する新月か満月の時に起こる。食の周期は、朔望月(約29.53日)の周期と、交点月(約27.21日)の周期の最小公倍数で一巡する。その周期は、朔望月で223ヶ月、交点月で242ヶ月に相当する。
他にも、サロス周期の利点があるという。月の軌道は楕円で、月の大きさと速度は一定には見えない。近地点(約27.5日)は一周ごとに約3度動き、約9年で地球を一周する。1サロス周期は、239近点月に相当する。ピンが穴を上下する仕掛けは、月の楕円軌道を表しているというわけか。ただ、サロス周期には問題がある。1周期の日数が整数にならず、6585 + 1/3日になってしまう。日食の見える場所が、西へ120度(360度 x 1/3)ずつずれる。そこで、古代ギリシア人は3サロス周期、すなわち54年を1周期とすることを考えたという。これを、ギリシア語で回転を意味するエクセリグモス周期と呼ぶそうな。669朔望月に相当。
ライトの218の歯数を持つ歯車の謎に対して、フリースは歯数を223とし、そのすぐ脇に別の歯車を据えて一気に解決した。孤独に戦うライトはフリース率いる最強の布陣によって負かされたことになり、ライトとフリースはいがみ合う。いくら争ったところで、最大の功労者が古代ギリシア人であることに変わりはないのだけど。古代人の知識を奪い合うことが現代人の姿だとすれば、人類は進化しているのだろうか?

2012-12-23

"マーミン 量子コンピュータ科学の基礎" N. David Mermin 著

量子コンピュータといえば、ハードウェアの実現性の難しさを想像してしまう。だが、本書はハードウェアの書ではない。まず、物理的に実現できることを前提とし、可能となる数々の事実を数学的に明らかにしたソフトウェアの書であることが宣言される。実現性の制約から思考を解放すれば、哲学的に新たな発見があるかもしれないし、古典コンピュータの本質を見直す機会にもなろう。この書には、そうした思惑が隠されているのかもしれない。
マーミンは、2000年から2006年にかけて6回、コーネル大学で量子計算に関する講義を行ったという。本書は、その講義ノートを進化させたものだそうな。とはいえ、物理的構造を想像せずにはいられない。実現不可能なものをいくら理論武装しても、技術屋にしてみればやはり興味を欠く。おまけに、本書には物理的構造を巧みに匂わせているところがある。尚、断っておくが、この記事はハードウェア構造をいい加減に想像しながら書いているので、注意されたし!

読者に求められる前提は、複素数体上の有限次元線形空間(複素ベクトル空間)に精通していることだという。こんな宣言をされると、数学の落ちこぼれには辛いが、あまり心配はいらない。付録には、ベクトル空間の性質とディラックの表記法などが解説される。基本となる演算系は、アダマール変換とユニタリ変換であって、それに cNOT演算子、NOT演算子、スワップ演算子、Z演算子、射影演算子を作用させるぐらいなもの。古典的なビット演算子で言えば、AND、OR、NOT、NAND、XORのような位置づけといったところか。古典コンピュータでは、NANDゲートだけですべての演算を実装できるが、量子コンピュータでは、ユニタリゲートとcNOTゲートがあれば最も単純な量子ゲートが構成できそうだ。
ただ、従来の論理回路では、FF(フリップフロップ)素子が重要な役割を果たす。すなわち、一時的に状態を保持できる仕掛けがなければ、多段演算を形成することができない。というより、FFには初期状態を与えるという重要な役割を同時に持っており、これがなければ回路検証はほぼ不可能である。量子コンピュータにおいて、その役割を担うのが量子レジスタということになろうか。だが、量子ビットが重ね合わせ状態として存在すれば、測定不可能となるから頭が痛い。
また、なんといっても数学的に最も重要な概念は、正規直交系である。これに演算子を合わせて眺めれば、対称性に射影的な幾何学操作でほとんど事足りることが見えてくる。複素空間で言えば、複素共役の性質、すなわちエルミート行列を検討することになる。そして、量子力学の角運動量との絡みをイメージさせてくれる。
さらに、量子の重ね合わせ状態を一気に平面空間に展開される様は、いかに行列式が並列演算と相性がいいかを味あわせてくれる。そして、数式を眺めているうちに、Σ や Π といった演算記号が量子の重ね合わせに見えてくる。
なるほど、線形代数学の参考書としてもなかなかだ。とはいえ、量子コンピュータはやはり手強い!

さて、量子コンピュータとは何か?それは、量子の重ね合わせ状態をとる量子ビットを利用することで、超並列演算を可能にするアイデアとでも言っておこうか。だが、量子の振る舞いは尋常ではない。量子状態に観測系が関与すると、たちまちデコヒーレンスに陥り状態自体を破壊してしまう。おまけに、複製不可能定理がつきまとい、光子の偏光状態を複製することすらできない。量子状態が測定不可能となれば、それを実現する量子ゲートを、どうやって検証できるというのか?測定という概念そのものを考え直す必要がありそうだ。不確定性原理とは、自己矛盾の法則であったか。
だからといって、そんなに悲観することもないのかもしれない。現在、ほとんどの機器が電子制御されるが、その根幹にあるトランジスタが電子の流れを完璧に制御できているわけではない。あるエネルギー準位において統計的に多数決の原理が確実に働けば、ON/OFFスィッチとして作用できるというだけのこと。しかも、半導体の歩留まりは、通常の製造ラインの感覚からすると信じられないほど低い。歩留まり60%なんて当たり前だが、自動車の製造ラインで40%が欠陥車となれば大騒ぎになるだろう。自動車のブレーキシステムが半導体制御となれば、こんなものに命を預けている。おまけに、集積設計の自動化が進めば、技術者はトランジスタが何であるかなど漠然としか知らなくていい。したがって、本書が量子力学の知識において極度にソフトウェアに重点を絞ってくれるのは、理に適っているのかもしれない。
その感覚は、実現性では一歩先を行く量子暗号技術に垣間見ることができる。量子暗号では、光子の直線偏光を利用して符号化される。垂直偏光、水平偏光、あるいは対角に±45度の偏光を量子状態に対応させるといった具合に。4つの偏光状態を識別できるだけでも、量子ビットの多様性、いや多次元性と言った方がいいかもしれないが、はるかに従来のビット構造の情報量を凌ぐ。本書は、最低限の回路構造であっても、強力な暗号システムが構築できることを教えてくれる。実験レベルでも、かなりの成果を上げているらしい。量子暗号が実用化されれば、RSA暗号をはじめ従来の暗号システムはことごとく危険に曝されるだろう。素因数分解が簡単に解けるとなれば、素数の正体までも明らかになるのだろうか?素数分布と深く関わるとされるリーマン予想までも?さらに、真のランダム性の正体までも?そして、計算の概念までも変革されるのかもしれん。量子暗号技術だけが実用化され、量子コンピュータが実用化されないとなると、それは幸か不幸かは知らんが...

1. ディラックの表記法と基本的な思考
本書は、古典的なビットをCビット(Classical)と呼び、量子ビットをQビット(Quantum)と呼んでいる。ちなみに、qubit という用語が幅を利かせているそうだが、著者はこの呼名を嫌っている。
ポール・ディラックは、ベクトルをケット(ket)と呼び、ボックス "| >" で表記した。ベクトル表記するものなら、なんでもボックスに入れられるという。
例えば、|5cm 北西に水平な方向> などと書いてもいいと。
数学のベクトル表記では、記号の頭に矢印を書き、記号の添字が次元的な意味を持つ。物理学では次元的な意味が重要であり、φ7798 と書くよりも、|7798> と書く方が合理的というわけか。数学者の中には、こうした記法をよく思わない人も少なくない。おいらも毛嫌いしてきたが、本書のお陰で抵抗感が薄れた。垂直棒と折れ線で囲むのが、三次元の物理空間をイメージさせるんだとか、んー?そうは見えんが...
また、元の空間ベクトルをケットベクトルと呼び、双対空間のベクトルをブラベクトルと呼んで区別している。<φ|ψ> と表記すれば、左半分がブラベクトルで右半分がケットベクトル。要するに内積を表している。
さて、重ね合わせの状態を持つQビットの最も単純な形は、Cビットの二つの直交関係として列ベクトルで表される。

  |0> = [1; 0], |1> = [0; 1]

尚、octave風に行列を [ ]、行の区切りを ; を用いて表記している。
2次元空間の2つの直交ベクトル |0> と |1> を4次元に拡張すると、

  |00>, |01>, |10>, |11>

ベクトル同士のテンソル積として、より厳密に記述すると、

  |0> ⊗ |0>, |0> ⊗ |1>, |1> ⊗ |0>, |1> ⊗ |1>

基本的な思考は、2-Qビットエンタングル状態(量子のもつれ)に見ることができる。アダマール(Hadamard)を作用してから、cNOTを作用するといった具合に。

  |ψ00> = (1/√2)(|00> + |11>) = C10H1|00>

一般化すると、

  |ψxy> = C10H1|xy>

4つの状態 |xy> は正規直交系で、アダマールとcNOTはユニタリ。4つのエンタングル状態 |ψxy> も正規直交系。これを、ベル基底と呼ぶそうな。量子の重ね合わせ状態には、とりあえずアダマールを施してから考えようといったところか。

2. 測定ゲートとボルンの規則
量子の重ね合わせ状態を測定しようとすれば、状態そのものを破壊してしまう。おまけに、ユニタリ変換などとは違い、測定ゲートの作用を元に戻すことができない。測定の不可逆性に対して観測者ができることと言えば、確率を決定するぐらいであろうか。量子状態から情報を抽出する規則は、マックス・ボルンによって述べられたという。
n-Qビット状態 |Ψ> を 2n 個の基底状態で展開した場合、

   |Ψ>n = Σ αx|x>n , (0 ≦ x < 2n)

この状態において、全Qビットの測定から得られる 0 と 1 の列が x となる確率 p(x) が与えられる。

  p(x) = |αx|2

この式によると、振幅の持つ役割は特定の出力に対して確率を決定することになる。
「量子計算の芸術的な能力は、巧みに構成されるユニタリー変換を通じて、ほとんどの振幅 αx をゼロまたはきわめてゼロに近くすることで、有用な情報をもつどれかの x が測定で表示されるように十分大きな確率をもつような重ね合わせ状態にすることにある。」
確率を 0 か 1 に十分に偏らせる仕掛けこそが、量子コンピュータの実現の鍵というわけか。
ところで、一般的な計算過程では、入力値 x に対して、出力値 f(x) を計算することになる。古典的な計算では、その精度は 2k で規定される。対して、量子コンピュータでは、k個のQビットに対応する計算基底状態で表現されるという。そして、nビットの値 x と、mビットの値 f(x) を扱うために、入出力の双方でレジスタを装備する必要があるという。その理由は、逆変換できるように考慮されている。実は、n + m よりも多くのQビットレジスタを必要とするのだけど。
さて、アダマール変換は、Qビット状態のどちらが標的になるかを交代する効果があるという。そして、初期状態 |0>n にある入力レジスタの全Qビットにアダマール変換を作用させるだけで、関数 f(x) の 2n 個の評価ができるという。このような巨大スケールで瞬時に保存できるのは、量子並列性によって実現されるというわけだが、いきなりそう言われても狐につままれた気分になる。まぁ、物理構造には目をつぶるという前提だから...

3. トフォリゲート
Qビットゲートは、ユニタリ変換のみが、物理的に実現可能な制約であるという。とはいえ、現状では、1-Qビットや2-Qビットでも難しく、3-Qビットともなると、その実現は絶望的なようだ。
可逆演算のできる古典的な論理ゲートの最小構成は、3-Cビットゲートである。要するに、3入出力回路。演算するからには2入力は必要だし、桁上りにも対処したりと、そうした万能性を踏まえて可逆性を考慮すれば、最低限の論理ゲートはそんな構成になるだろう。量子計算で、これに対応する一例として、トフォリゲートというものを紹介してくれる。これは、制御-制御 NOTゲート(ccNOTゲート)とも言われる。なんと、トフォリゲートのQビットへの線形拡張は、2-QビットcNOT ゲートと、1-Qビットのユニタリゲートの組み合わせで構成できるという。

  T|x>|y>|z> = |x>|y>|z ⊕ xy>

4. ショアの周期発見アルゴリズム
周期関数 f(x) = ax (mod N) の周期を高速に計算する方法は、RSA暗号の解読を可能にする。ただし、N = pq で、p, q は十分大きな素数で構成される。この関数は、s が周期の倍数の時のみ、 f(x + s) = f(x) が成り立つという単純な性質がある。ただ、データ群が正弦波や余弦波のような連続関数であれば、周期性を見出すことはそれほど難しくない。実際、フーリエ変換が連続性に対して強力な道具となる。だが、暗号で扱うデータ列は極めてランダム的な離散群であり、ここから周期性を見出そうとすれば、半端なサンプル数では済まない。そして、ランダムに与えられる x に対して、f(x)を計算しながら、再び f(x) に等しくなるまで評価を続けるというようなことを繰り返す羽目になる。しかも、ビット数 n が増えれば指数関数的に演算量が増大する。
ところが、1994年、ピーター・ショアは、量子計算を用いると n3 よりもほんの少しだけ増大する時間で周期が求まることを発見したという。周期を求めるアルゴリズム自体は古くからある。そぅ、フェルマーの小定理から起因する問題として知られるやつだ。
それは、xr を N で割った時、余りが 1 となる最小値 r を求めるという考え方である。

  xr ≡ 1 (mod N), (x < N)

x を適当に決めながら、r が偶数であれば、因数分解できるのは明らか。

  xr - 1 = (xr/2 + 1)(xr/2 - 1)

よって、xr/2 ± 1 と N の最大公約数は、ユークリッド互除法で求まる。ユークリッド互除法自体は単純で、大きい方を小さい方の数で割り、余りでさっきの除数を割るという繰り返し。余りがゼロになった時点で終わる。
しかし、r を高速に求める方法が見つかっていなかった。フーリエ変換ではかなり手間がかかり、FFTでも n ビットに対して、だいたい 2n 回の演算が必要である。ヘタすると、しらみ潰しに余りが 1 になる r を求める方が早い。

さて、ショアのアルゴリズムの核心部分はここから...
両辺に xm を掛けて拡張すると、

  xrxm = xr + m =  ≡ xm (mod N)

これは、x の累乗を N で割った余りにおいて周期性が現われることを示している。除算の余りとは、除数に対する巡回演算でもあるのだから当たり前だけど。
ショアのアルゴリズムとは、多重周期性を確率的に多項式によって一気に計算してしまおうという考え方のようだ。その中核には超高速な量子フーリエ変換が関与する。それは、単純に全Qビットに対してアダマールを作用させるだけ。

  UFT |x>n = (1/2n/2)Σexp(2πixy/2n) |y>n , (0 ≦ y ≦ 2n - 1)

まず驚かされるのは、ユニタリ変換で定義されることである。ちょっと考えれば、驚くほどでもないけど。言うまでもないが、フーリエ変換が三角関数を基底にするのに対して、アダマール変換は矩形波を基底にする。なるほど、位相 exp(πi/2n) を多段シフトするようなゲート回路を考えればよさそうだ。量子計算は、周期性を多重化するような演算には、とびっきり強いということは言えそうか。とはいえ、振幅の確率分布でしかない。まぁ、奇妙な量子の振る舞いを振幅の確率分布で示せるというだけでも感動ものか。しかも、アダマールとユニタリだけで。
また、量子フーリエ変換は、n重アダマール変換と類似しているという。参考までに、n重アダマール変換も記しておく。

  H ⊗ n |x>n = (1/2n/2)Σexp(πix・y/2n) |y>n , (0 ≦ y ≦ 2n - 1)
  ただし、H ⊗ n = H ⊗ ... ⊗ H (n回)

原理的な違いは、n重アダマール変換でビットごとのx・y の内積の部分が、量子フーリエ変換では xy の通常の積になっている。

5. グローバーの探索アルゴリズム
データ検索に思いっきり時間がかかるのは古くからある問題で、ヘタすると比較一致処理を全データに施すことになる。
ところが、量子コンピュータでは (π/4)√n 回程度で、1 に非常に近い確率で検索できるという。ランダム検索よりも因子 1/√N だけ効率よく探索できるというのがミソ。そのアルゴリズムは、ロブ・グローバーによって発見されたという。
さて、n ビット整数 x が、目的の a かどうかを伝える量子探索サブルーチンが利用できると仮定すると、その値は f(x) で与えられる。

  f(x) = 0, (x ≠ a); f(x) = 1, (x = a)

そして、1-Qビット出力レジスタに作用するユニタリ変換 Uf を利用するという。

  Uf(|x>n |y>1) = |x>n |y ⊕ f(x)>1

まず、Uf を適用する前に、1-Qビット出力レジスタにアダマールを作用させておく。

  H|1> = (1/√2)(|0> - |1>)

Uf の作用は、x = a の時だけ、-1 を掛けることになる。

  Uf(|x> ⊗ H|1>) = (-1)f(x) |x> ⊗ H|1>

すると、n-Qビット入力レジスタ上の計算基底状態の作用が、次のユニタリ変換 V の作用と同じ効果を得るという。

  V|x> = (-1)f(x) |x> = { |x> (x ≠ a の時) , -|a> (x = a の時) }

まず動作に入る前に、n-Qビットの初期状態を、起こりうる全状態の一様な重ね合わせとしておく。

  |φ> =  H ⊗ n |0>n = (1/2n/2)Σ|x>n , (0 ≦ x ≦ 2n - 1)

さらに、ユニタリ変換 W を加えて、V と W を次のように与えている。

  V = 1 - 2|a><a|
  W = 2|φ><φ| - 1

尚、|a><a| と |φ><φ| は射影演算子。
ここまでは非常に複雑なプロセスである。ところが、ユニタリ変換 V と W を仮定した途端に思いっきり単純になるから、これまた狐につままれた気分になる。初期状態 |φ> にある入力レジスタに、積 WV を何度も適用させるだけという仕掛けに変貌するのだから。V と W は一見関係ないようにも見えるが、|a> と |φ> がほとんど直交していることがミソのようだ。そのなす角度をγとすると、

  cos γ = <a|φ> = 2-n/2 = 1/√N

さらに、|φ> と θ = 2π - γ をなすような、|φ> と |a> の実線形結合による規格化されたベクトル |a⊥> を用いると便利だという。

  sin θ = cos γ = 2-n/2 = 1/√N

そして、√N が大きい時、θはほとんど正確に次のように与えられるという。

  θ ≈ 2-n/2

平面上で角運動を繰り返せば無限になる。そこで、最終的には、

  (π/4)2n/2

に近い回数を適用すればいいとしている。積 WV を適用する回数で、θの整数倍になるという仕掛け。グローバーのアルゴリズムとは、角運動的な作用のループで構成できるというわけか。

6. 量子誤り訂正
本書で紹介される単純化した例はイメージしやすい。1-Qビット状態に対して、3-Qビット符号を適用している。


この図は、単一ビットのフリップエラーが生じると仮定した場合の量子誤り訂正回路の一例を示している。
まず、α|0> + β|1> を α|000> + β|111> へ拡張する。破損していない状態は、|000> と |111> だけ。Qビット状態は、ボルンの規則により |α|2 の確率で、|000> に、|β|2 の確率で |111> になる。さらに、巧妙な手段として、初期状態 |0> にある二つの補助Qビット |x> と |y> を付加する。図のMは測定ゲートを示している。つまり、補助Qビット経由で間接的に測定すれば、出力 α|000> + β|111> に影響を与えないという仕掛けだ。|x> と |y> で構成される4つの状態で、符号語のどのビットがフリップされたかに対応させている。
Qビット同士の相互関係のみを抽出することで、重ね合わせは維持されるということだが、補助Qビットだって測定した瞬間に破壊されるのではないか?どう転んでも測定が関与する限り、自己矛盾に陥るのではないか?確率的に定められる何らかの方策があるのか?Qビット状態とCビット状態を変換するような仕掛けがあれば、ありがたいのだか。あるいは、光子の直線偏光の位相差で、ほぼ確実に定められる方法があるのか?そのあたりを量子暗号の説明で匂わせてくれる。

7. 量子暗号
どんなに強力な暗号システムを構築しても、理論的には解読の危険性が常につきまとう。ランダム列を用いるバーナム暗号は、完全に解読不能とされる。使い捨て暗号方式(One-time Pad)とも呼ばれるやつだ。それでも、遠隔地へ暗号鍵の配送が必要で、暗号通信において重要なのは、いかに鍵を秘密裏に送れるかにかかっている。
では、通信経路が量子システムで構築されていたらどうだろうか?盗聴するということは測定することなので、必然的にデコヒーレンスに陥り、データは破壊される。となれば、受信者は伝送路で介在している奴がいることに気づくかもしれない。
こっそり測定装置を設置したところで意味がないとなれば、堂々と伝送路をジャックしてしまえばどうだろうか?盗聴者は伝送路に細工することができても、受信者の装置を遠隔操作したり、送信者になりすましたりするのは難しい。送受信者の間では、通信プロトコルによってソフトウェア的に経路が確立されるはずで、テレビ放送のように一方的な受信とはならないだろう。
さて、量子暗号は最も実用化に近いテクノロジーだそうな。それは、Qビット1個ずつで機能し、1-Qビットゲートだけで済むからだという。少なくとも最も簡単なプロトコルでは、cNOTゲートなど必要としないらしい。物理系は非常に単純で、単一光子による直線偏光で、Qビットの状態を担う。1984年 BB84 として知られるアイデアはチャーチル・ベネットとジル・ブラサールによって発明された。
ここでは、暗号鍵の受け渡しに絞って記述してみる。
|0> および |1> を垂直偏光と水平偏光に対応させ、これをタイプ1としよう。
状態 H|0> = (1/√2)(|0> + |1>) と H|1> = (1/√2)(|0> - |1>) を±45度の対角に偏光させ、これをタイプHとしよう。
受信者は、Qビットを受け取ると、アダマールを作用させるかどうかをランダムに決める。受信が終了した時点で、送信者は Qビットがタイプ1かタイプHかを伝える。
だが、タイプ1が |0> と |1> で、タイプHが、H|0> と H|1> だということはまだ伝えない。送信側で、タイプ1とタイプHがランダムに切り替えられるならば、受信側で当てすっぽに選んでも、ほぼ半分の確率で情報は読めるだろう。
次に、受信者は、どのQビットから等しいランダムビットを共有できるのかを送信者に問い合わせる。そして、受信者と送信者でタイプが異なる約半分のデータを捨てる。共有した等しいランダム列から使い捨て鍵を作るわけだ。
確かに、Qビットが保存できるならば、理に適っていそうだ。しかしながら、光子の偏光状態を保持することは無理だと、散々聞かされてきた。位相が90度もずれれば確率的になんとか識別できるということか?いや、わざと二つのタイプに分けることにミソがあるのか。

2012-12-16

"自己組織化と進化の論理" Stuart Kauffman 著

ダーウィン以来ほぼ1世紀、生物の進化は自然淘汰と突然変異の二つの骨格で組み立てられてきた。だが、約5億年前のカンブリア紀に見られる生物種の爆発的出現は、これらの法則だけでは説明できそうにない。今日の生命の秩序を構築するには、あまりにも薄い偶然性に頼らなければならないからだ。そこで、ジョンジョー・マクファデン著「量子進化」では、量子力学の重ね合わせの原理を持ちだして多宇宙論で補完しようとした。その突飛的な洞察力に、頭は既に Kernel Panic!
対してスチュアート・カウフマンは、量子力学に頼らなくても、数学の最適化の原理で説明がつくという。その数学モデルは極めて単純で、ブール代数で構成されるネットワーク。それは「NKモデル」と呼ばれる。大雑把に言えば、システムの構成要素が手に負えないほど複雑な場合においても、入力状態と出力状態に制限を与えるような最適化が生じれば、適当に変化可能な柔軟性と崩壊に陥らない程度の恒常性を兼ね備えた自発的なシステムへ向かう性質があるというのである。尚、入力状態と出力状態を関連付けるブール関数はランダムに生成される。
では、最適化のための外部入力は誰が与えるのか?そこは偶然性でも構わないようだ。「カオスの縁」と呼ばれる秩序とカオスの狭間で、ほんのわずか秩序側に振れれば、たちまち法則性に向かうという。カウフマンは、生命組織が秩序を獲得する過程で、「自己組織化」という補助的機構があるのではないかと提案する。そして、集団的な自発性の法則を「創発理論」と名付け、遺伝分子の巨大ネットーワークが個体発生に必要な秩序をもたらしたと主張する。おそらく、自発的複製に対して触媒能力を持つ化学物質の系こそが、生物の核心にあるのだろう。
しかし、だ。自己触媒系がそんなに単純な数学モデルで説明がつくならば、実験室でゼロから生命が作れてもよさそうなもの。近代科学が酵素なしで自己複製できる分子が作れないのはなぜか?あえて倫理的に拒んでいるのか?それとも、カンブリア紀のような億年単位の時間スケールが必要なのか?もし、人間がまったくの新種をこしらえることができれば、しかも、その細胞が人間組織を成す細胞よりも優れていたら、人類は人工物によって滅ぼされるのかもしれん。これが自然淘汰というものか。
ここに提示される法則はにわかに信じがたい。だが、生物学の入門書としてはなかなか。また一歩、ダーウィンに近づけそうな気がする。

確かに、カオス理論にはアトラクターという現象がある。ランダム状態にあるはずのシステムが、時間の経過とともに周期性やいくつかの安定状態に落ち込み、ある種の不動点に収束することがある。宇宙空間で言えば、ブラックホールに吸い込まれるような。ブール代数で設計される電子回路やプログラムにおいても、想定外の入力信号によって抜けられない状態に陥ることがある。ギガスケールのゲート素子で構成すれば、ほとんど無限に近い多段トランジスタ回路を形成するため、想定外の外部要因に対して、とんでもないエネルギーが蓄積され暴発することもある。よって、設計者は、主論理の間違えよりも例外処理による思いがけない振る舞いの方が、はるかに怖いことを知っている。
また、社会学や経済学においても、人間社会の集団性はべき乗則に従うと言われる。小集団による些細な動機づけから始まったものでも、数量的にある閾値を超えた途端に、バタフライ効果のごとく巨大エネルギーの波となって民衆運動を引き起こすことがある。こうした方向性には、集団の意思のようなものを感じる。
しかし、個人には意思があり、人工物には人間の思惑が仕込まれるが、原子レベルではどうだろうか?意思のない集団であっても、方向性なるものが見出せるのだろうか?そもそも、原子はなぜ分子構造をとろうとするのだろうか?原子核と電子軌道は、引力と斥力の安定エネルギーで維持される。だが、それ以上のエネルギーが周辺に余っていれば、それに反応せずにはいられない。その反応は閾値超えという極めて離散的であり、原子と原子が電子軌道を共有しながら強力な分子構造を形成していく。さらに、異物同士の分子が集まって、物質代謝でエネルギーを燃焼しながら細胞なんてものに成長していく。エントロピーの法則に従うならば、ある程度結合できたとしても、次には分離し、そのサイクルを繰り返すであろう。結合と分離だけに支配された世界、ここにどんな方向性があるというのか?なぜ、分子は自己形状を維持しようとするのか?なぜ、生命は不可逆性のリスクを冒してまで進化しようとするのか?
非平衡状態における細胞は、体積が増えると自発的に分裂する傾向があるという。細胞分裂は自己複製のために必要不可欠。だが興味深いのは、精子と卵子が作られる過程で生じる減数分裂の方である。父方と母方の細胞のどちらかが選択されるという仕組みは、より優れた細胞を選ぶことを可能にし、進化の可能性を与える。同時に組み換えミスのリスクを背負い、天才や障害を生む可能性も生じる。どうやら物質というやつは、単独でいるのを嫌う性質があるらしい。それは自己にエネルギーを持つからであろうか?エネルギーのあるものは、互いに影響し合わないと気が済まないものらしい。結合するからには相手が必要だし、分離するからにはこれまた相手が必要だ。なるほど、原子の集合体である人間どもが、群れたがるのも道理というものか。物質はみな、さみしがり屋よ!ちなみに、結婚エネルギーよりも離婚エネルギーの方がはるかに大きいと聞く。ここにエネルギー保存則が成り立たないのは、至る所に暗黒物質なるものが潜んでいるからに違いない。その時、暗黒エネルギーは慰謝料という形で精算されるらしい。結合には、常にリスクをともなう。精神が知識や認識と結合するのにも、学問や学習というエネルギーを放出する。いつも退屈しないほどの刺激で向上することを望み、同時にこれ以上酷くならないほどの生活の安定を求める。この範疇でならエネルギーのやりとりを惜しまない。一旦、自己触媒と自己複製の技を習得しちまえば、それを頑なに守ることに執心する。
おそらく、結合と分離から自己組織を維持するための必要最小限の複雑さや規模というものがあるのだろう。その結合エネルギーは、地球の重力に対して算出できそうか。エドガー・アラン・ポーは、著書「ユリイカ」で、物体の本質を引力と斥力の二つの要素だけで情熱的に語った。実は、分子レベルの結合と分離という単純な反応こそが、自己存在という意識の源泉なのかもしれない。

1. 非平衡状態と創発理論
一般的に物理学が扱うのは、平衡状態である。物体は、重力作用によって高い所から低い所へ運動する性質があり、やがて位置エネルギーの最小点で停止する。ウィルスが形成される過程にも、似たような現象が見られる。水に富んだ適当な環境下では、DNAやRNAの分子と構成要素のタンパク質が、最もエネルギーの低い状態を探して集まることによってウィルス粒子が作られるという。一旦、低エネルギー状態に落ち着けば、外部からのエネルギーが関与しない限り安定状態を維持する。つまり、この平衡状態は閉じた系ということができ、ある種の秩序が保たれる。しかし、外部からエネルギーが供給されると、たちまち平衡状態が崩れる。生命を形成する細胞はそのような状態にある。
では、非平衡状態における秩序は、どのようにして形成されるのか?それは、物質とエネルギーが継続的に散逸することによって維持されるという。木星の大赤斑のように、巨大な暴風システムが維持される仕組みと同じであると。人体で言えば、食べて排泄することを死ぬまで繰り返すといったことか。開いた系において秩序を保つには、外部要因の継続性が欠かせないというわけか。面白いことに、細胞の中には物質代謝しない非活動状態のものもあるという。だが、ほとんどの細胞にとって平衡状態は死を意味する。
本書は、化学物質の混合物が十分に複雑化すれば、自発的に結晶化して、自身を合成する化学反応のネットワークを形成し、集団的に触媒できる可能性があるという。分子の多様性が増加しながら複雑さがある閾値を超えた時に生命現象が創発すると。これが、創発理論というものらしい。
例えば、コンピュータは数学的計算アルゴリズムに支配され、その基本論理は平衡状態から生じる。だが、ネットワークノードが無数となった途端に単純な通信システムは、非平衡状態へと生産性をアップさせる。十分に複雑化した集団では、自己触媒系を形成し、自分たち自身を維持し複製する能力を持つようになり、まさにこれが、生物の物質代謝と呼ぶものに他ならないという。

2. 生命の最小限とプロイロモナ
自由生活を営む生物のうち、最も単純なものは「プロイロモナ」と呼ばれるものだという。非常に単純な細胞だが、細胞膜、遺伝子、RNA、タンパク質、そしてタンパク質構成機構など標準的な要素をすべて持つらしい。プロイロモナの遺伝子の数は、およそ数百から千と見積もられている。ちなみに、大腸菌は三千と見積もられているそうな。プロイロモナよりもはるかに単純なウィルスは、実は自由生活を営んでいないという。ウィルスはあくまでも寄生者であって、宿主の細胞を侵略し、細胞の物質代謝を利用した上で細胞から抜け出し、さらに他の細胞を侵略する。自由生活を営む細胞は、少なくともプロイロモナに具わる分子の最小限の多様性を持つという。これを生命というのかは知らんが、生命を形成する下限というものがありそうだ。

3. NKモデル
本書は、著者のグループの30年間の研究成果を披露してくれる。NKモデルなんて大層なネーミングだが、K個の入力信号とN個の電球をブール代数で接続するというオモチャじみた回路モデル。要するに、ランダムな論理式で構成される巨大ネットワークが、深遠なカオスを説明しうるというのだ。生命構造が分子の結合と分解という単純な化学反応で形成されるなら、単純なモデルで説明できても不思議はないのかもしれない。
Kの値は、1 で状態が凍結するだけ、2 で周期的な現象が生じ、4 か 5 でもカオス的な振る舞いをするという。ここまでは面白いところは何もない。だが、K = 2, N = 100,000 とすると、かなり滅茶苦茶な配線が予測されるが、しばらくすると状態が落ち着き、√100,000 ≒ 317 個の状態を循環するという。ここではヒトゲノムは約10万個のタンパク質を暗号化していると言っているが、現在では2万とも3万とも言われる。N = 100,000 という値はそれなりに説明がつきそうだが、K = 2 は小さい値でそれほど説得力があるようには思えない。
そこで、さらに出力状態、すなわち電球が点灯するパターンの偏りを示すパラメータ P を導入する。Pは電球が点灯する数の割合を示し、0.5 近辺であれば点灯する電球に偏りが少なくカオス的となり、1.0 に近づけば偏りが大きく規則的となる。シャノン流に言えば、情報量を表している。Kの値が大きくても、Pの調整で周期性が得られるという仕組みだ。
では、出力状態の偏りはどうやって生じるのか?臨界的なPの値が、カオスの縁にあるにはどうすればいいのか?NKモデルでは、秩序が様々な形で顔を出すそうな。近くの状態同士は状態空間の中で互いに近づき合い、類似した初期パターンは同じ引き込み領域の中にいる可能性が高いという。複雑度が増すと、系はいくつかのアトラクターに落ち込む確率が高くなるということらしい。それは、宇宙の複雑度が増すと、ブラックホールの数が増えて、そこに吸い込まれる確率が高くなるようなものか?宇宙法則では、カオスがますます複雑度を増し、ある閾値を超えると、ランダム性から解放されるというのか?宇宙のクラスタ化を説明しているようにも感じる。
また、K = N においては、極端なバタフライ効果を得るという。そして、状態数が平方根に落ち着くものらしい。とはいえ、100アミノ酸しかないような比較的小さいタンパク質でも、20種類のアミノ酸に対して20100となる。K = 20 だとしても、Pの調整だけではかなりの時間を要するだろう。結局、時間スケールに頼るのは変わらないような気がする。それでも、億年スケールなら説明がつくのだろうか?

4. 驚異的な遺伝回路
個体発生、すなわち卵から成体への成長は、一つの細胞である接合子(受精卵)から始まる。接合子は、およそ50回の細胞分裂を繰り返し、250 ≒ 1000兆個の細胞を作るという。さらに、接合子では細胞の型は一つだったのに、成体になると約256種の細胞の型へと分化するという。肝臓の腺細胞、神経細胞、赤血球、筋細胞などである。成長を制御する遺伝的な指令は、細胞核にあるDNAに書かれる。すべての型の細胞で遺伝子の組はほぼ完全に同じ。各々の細胞が異なるのは、活性化される遺伝子の組が異なり、様々な酵素やその他のタンパク質が作られるためである。遺伝子、RNA、タンパク質による複雑なネットワークは、互いにスイッチを入れたり切ったりして活性化部分を変えながら個体を発生させる。ブール代数で言えば排他論理で形成される仕組み。赤血球にはヘモグロビンのコードが現れ、免疫系には抗体分子のコードが現れ、骨筋細胞には筋繊維を形成するアクチンとミオシン分子のコードが現れ、神経細胞には細胞膜内に特定のイオン伝導チャンネルを形成するタンパク質のコードが現れ、消化管の細胞には塩酸の合成と分泌を導く酵素のコードが現れ...といった具合に。まるでプログラマブルデバイスの回路モデル!一つの論理セルが多数集積され、セル内では必要に応じて配線をつないだり切ったりしてカスタマイズし、全体回路を構成するのに似ている。あるいは、オブジェクト指向プログラムで、活性化する部分だけをインスタンスとして生成するのにも似ている。
しかし驚くべきは、すべての細胞が接合子の持つ完全な遺伝情報を持つだけでなく、多少の修正の余地を持つことだ。例えば、免疫系の細胞では染色体を再配列し、侵入者を退治するための抗体を作るために、わずかに修正を受ける。そこには、自己複製だけでなく、自己組織化の仕組みがある。
では、遺伝子を活性化するスィッチを、誰が制御しているのか?タンパク質の合成には、それを暗号化した遺伝情報をDNAからRNAに転写される。そして、遺伝暗号に対応したmRNA(メッセンジャーRNA)が、タンパク質に翻訳される。大腸菌とラクトース(乳糖)の反応実験では、遺伝子のスィッチはmRNAに転写する段階で行われることが観測されたという。ラクトースを分解する酵素βガラクトシダーゼは、大腸菌の細胞に十分な濃度がない。ところが、ラクトースを加えて数分後に、大腸菌はβガラクトシダーゼを合成しはじめ、細胞の成長と分裂のためにラクトースを使いはじめるという。DNAの中にタンパク質が結合する短いヌクレオチド鎖というのがあって、オペレーター・タンパク質(作動遺伝子)と呼ばれる。オペレーターに結びつくタンパク質は、リプレッサー・タンパク質(抑圧子)と呼ばれる。フランソワ・ジャコブとジャック・モノーは、リプレッサーがオペレーターに結合していれば、βガラクトシダーゼの遺伝子の転写が抑制されることを発見したという。リプレッサーは、遺伝子転写の抑制フラグのような役割をするのか。
さらに、ここからが魔術... ラクトースが大腸菌の細胞に入ると、リプレッサーと結合するという。厳密には、ラクトース分子とではなく、アロラクトースと呼ばれるラクトースの物質代謝による誘導体と結合するそうな。リプレッサーは形を変えるために、もはやオペレーターとは結合できない。これで、オペレーターが自由になり、隣接するβガラクトシダーゼの遺伝子の転写が始まり、すぐにβガラクトシダーゼ酵素が生成されるという。なるほど、ラクトースが大腸菌の遺伝特性を変質させるわけか。そうなると、たまたま生成に対する抑制機能を阻止する細胞が入り込むと、遺伝情報を変質させる可能性がある。これを遺伝の自由度としている。

5. 遺伝回路のNKモデルへの適応
ジャコブ - モノー型の遺伝回路におけるフラグ制御は、電球回路のオンオフ制御と同じイメージで構成される。リプレッサー・タンパク質をオペレーターへの分子調節入力とし、オペレーターをβガラクトシダーゼ遺伝子の活性化のために調節入力とし、オペレーターはリプレッサーとアロラクトースの両方によって制御される。アロラクトースがリプレッサーに結合してリプレッサーをオペレーターから切り離さない限り、リプレッサーとオペレーターは結合したまま。よって、オペレーターはブール関数の not if で制御される。βガラクトシダーゼを生成する遺伝子は、アロラクトースが存在しなければ不活性のまま...といった具合に。
そして、このモデルから大規模な秩序が発見されたという。ネットワークのあらゆる状態は、状態循環アトラクターに引き寄せられるというのだ。アトラクターの数、安定する場所が多いほど複雑な生物ということか。そうなると、チューリングマシンでも生命になりうるということか?ちなみに、チューリングマシンには停止問題という本質的な問題を抱えている。対角線論法で自己停止できるマシンは存在しないことが証明されたが、ある種の不完全性定理と解することもできよう。停止問題は、細胞が物質代謝を自己停止すると、平衡状態になり死を招くことを意味しているのかもしれない、というのは解釈しすぎか?
さて、生命誕生の問題が複雑さと時間スケールにあるとすれば、分子の多様性を爆発させるような超臨界スープが作れるだろうか?量子力学と化学の法則によって引き起こされる化学反応は、どの時点で臨界点を超えるのだろうか?それを統計的に見積もることは可能であろうか?それは、多くの種類の有機分子と抗体分子を混ぜたスープを作ることになる。触媒抗体のことをアブサイムと呼ぶそうだが、アブサイムのデータによると、ランダムに選んだ抗体分子がランダムに選んだ反応を促進する確率は、ほぼ100万分の1 だという。
そこで、有機分子の多様性と抗体分子の多様性の関係における臨界曲線を示してくれる。例えば、1万種の有機分子と100万種の抗体分子があるとすると、1対1で反応するとすれば、反応数は 1万 x 1万 となる。これに触媒となりうる抗体100万種を掛け、反応を促進する確率を10億分の1 とすると、臨界点の期待値は、10万になるという。有機分子の種類数を1000と少なく見積もっても、有機分子の種類の数を増やせば臨界点を超えるのはそれほど難しくないようだ。この臨界点の仮説が正しければ、生態系は手に負えない大爆発ではなく、分子の多様性が制御された形で増殖されることになる。つまり、ランダム的な爆発ではなく、秩序を保ったままの増殖ということらしい。へー...

2012-12-09

"量子進化" Johnjoe McFadden 著

通常、物理学が対象とするものは、無数の粒子による秩序なき運動である。そこには、統計的な法則性が見られても、個々の分子にはカオスがあるだけだ。しかし、生命は違う。けしてカオスの産物などではない。細胞の内部には、あらゆる生物の形を決める1個の分子に至るまでの秩序がある。それは、DNAと呼ばれるたった1個の高分子によって監督、指揮された高度に組織化されたシステムなのだ。
シュレーディンガーは、著書「生命とは何か」の中で、生命を扱う力学と無生物を支配する力学はまったく違うと主張した。ジョンジョー・マクファデンは、シュレーディンガーの著書に触発されて、この書を綴ったという。酵素となった著者が、偉大な量子学者に触媒として反応した結果とでも言おうか。本書は、意思とは何か?なぜ生命は進化しようとするのか?この疑問を量子力学で説明しようとしたものである。そして、量子力学や生物学の入門書としてもなかなかの感動モノで、いつかダーウィンを読んでやる!という気にさせてくれる。生命の誕生や進化をもたらしてきたのは、化学反応の積み重ねによるものであろう。少なくとも、近代科学はそう考えている。化学反応を支配するものは熱力学である。だが、熱力学には方向性や指向性、すなわち意思なるものが欠けている。このギャップを量子力学が、どうやって埋めるのかは見物!だからといって、すっきり説明されると期待してはいけない。

人は何かをきっかけに突然目覚めることがある。自ら酵素となり、いつも触媒される何かを探しながら、現状に満足できず変化を追い求める。こうした変異の方向性なるものが、進化の根元にあるのだろうか。すなわち、生命たる意思が...
では、この方向性はいつ獲得されたのか?生命が誕生する前、まだ分子構造であったアミノ酸のレベルではどうか?やはり自ら酵素となり、触媒される何かと反応したのだろう。それが多重連結しながら、タンパク質へと成長していく。ただ、進化するためには、現状を知る必要がある。そうでなければ、次の段階へ移行できない。そこで、自己保存を企てる重要な仕組みが自己複製構造、すなわち遺伝子が鍵となる。タンパク質は、DNAという高分子構造を形成し、それを媒体としながら自己複製コードを獲得してきた。
一方で、地球上の環境は刻々と変化する。気候変動や生命どうしの原子資源の奪い合い...タンパク質は、分子配列の組み合わせを微妙に変えながら、より環境に適応してきた。配列を組み替えるからには、配列ミスのリスクを背負う。遺伝子が誕生した当初は、複製ミスも多かったことだろう。複製ミスを極力避けるために、結合力の高いエネルギー構造を持つ、複雑な高分子へと成長したことは想像できる。これが変異の方向性というやつか?だとすると、タンパク質のレベルで既に意思に近いものを獲得していたのだろうか?そして、生命と無生物の境界は、自己複製と変異の方向性の双方を獲得するかどうかのあたりにあるのだろうか?これらを、それぞれ意識と意思と言っていいのかも分からんが...
しかしながら、生物がすべて自己複製できるわけではない。ラバは子孫を作らないし、混成種の園芸植物の多くも実を結ばない。確実に生きている細胞にもかかわらず、複製できない神経細胞などの細胞型もたくさんあるという。それでも、人間はなんとなくそれが生物か無生物かを識別している。その感覚は経験だけで説明がつくのか?あるいは、生物同士で分かち合える何かがあるのか?おまけに、人間は生物でないものにまで魂を感じる。実際にアニメの登場人物の葬儀が行われたりと。ラテン語の anima を語源とするアニメーションは、本来物体に魂を吹き込むという意味がある。物体と精神は分離できるのか?という哲学論争は、プラトンやアリストテレスの時代から受け継がれる難題だ。生命とは何か?という問いは、人類に課せられた永遠のテーマなのかもしれない。そして、そこに答えが見つかった時、人間はもはや生命ではなくなっているのかもしれない。

ところで、量子力学と古典力学の境界はどこにあるのだろうか?微小な量子は、粒子性と波動性の二重性を持つ。では、境界はスケールにあるのか?いや、人間だって群衆化すると巨大な波のうねりとなる。70億もの人口に兆スケールのネットワークノードが後押しして、些細な民衆運動からバタフライ効果をともない巨大エネルギーの塊と化す。もはや、人体を構成する60兆個もの細胞と同等レベルなのかもしれない。実際、社会現象や経済市場の分析に波動関数が導入される。では、境界は数や量にあるのか?いや、それだけでは心もとない。重要な鍵は、光速に近い運動ができるかどうかにかかっている。人間が宇宙船に乗って個々に光速に近い運動ができるならば、人間にも量子力学が適応できるのかは分からんが...
さて、量子力学には、実存性に反する詐欺のような技がある。それは、重ね合わせの原理だ。光の二重スリット実験は、奇妙なことを教えてくれる。二つのスリットを通る光から生じる干渉現象は、二つの光によって重ね合わせの状態として存在する。光源は一つなのに、まるで光源が二つあるかにように振る舞う。確かに、同波長、同位相の干渉現象を説明する都合の良い概念にコヒーレンスというものがある。だからといって、これを一つの光子に着目すると、どちらのスリットにも存在することになるのか?さらにスリットの数を増やせば、何倍にも光子が存在するというのか?存在するものすべて、もしくは、それを意識するものすべては、影響し合わないではいられない。これが、コヒーレンスの正体かは知らん。
そこで、この疑問を解決するために、量子論は多宇宙論を持ち出す。量子レベルでは、複数の宇宙に存在しうるという仮説だ。光速が絶対速度だとすれば、光速で運動する量子は時間の概念を抹殺することなる。一方で人間は、時間軸上で微妙に人格を変えながら生きている。
では、一人の人間が光速運動ができて、時間を失うとしたらどうだろうか?時間軸が細かくスライスされ、多重人格が同時に現われるというのか?おまけに、成功と失敗、生と死が同時に存在するというのか?そしてその時、個人の意識は干渉しあうのか?まさにパラレルワールド!これがシュレーディンガーの猫が暗示するものだ。そもそも、シュレーディンガー方程式の示す存在確率が時間の関数であるところに、奇妙な解釈を生じさせるのかもしれない。波動を三角関数で単純化しても、現実には存在するかしないかのどちらかなので、インパルス応答のように一点に集中することになる。結果論を持ち出せば、すべての確率予測は結果に集約されるのだから当たり前だ。この現象を、波が集中するから波動関数の収縮と表現することに、どれだけの意味があるのかは知らん。つまり、波動方程式は、あくまでも予測の道具であって、結果までは責任が持てん!と告げているだけではないのか。その意味で、予測である未来と結果である現実を完全にパラレルワールド化している、と言えなくはないか?
しかーし、これだけ懐疑的なアル中ハイマーであってもだ!不思議なことに、多宇宙論を一旦受け入れてしまうと説明が簡単になるから恐ろしい。科学が信奉する、単純こそ真理!というのは本当なのか?いや、認識できるから存在するというデカルト的発想にも似たり。そりゃ、神の存在を一旦認めちゃえば、すべての苦悩は単純化できるさ。
それはさておき、意識は時間の概念を必要とし、DNAコードは完全に時間に支配されている。記録するということは、時間を頼りにするということだ。となると、時間とは意識の産物でしかないのか?そうかもしれん。存在という意識もまた時間に幽閉され、生命とは意識によって意識を幽閉し続けるだけの存在なのかもしれん。では、時間の感覚が完全にぶっ飛んだ精神分裂症は、脳内に形成される電磁場、すなわち精神の重ね合わせの結果であろうか?これを自由電子や自由エネルギーで説明できるならば、精神の自由は精神異常者の方にあるのかもしれん。

1. 酵素の研究から還元主義へ
1853年、リールの醸造業者は、ルイ・パスツールを雇ってワインが酸っぱくなる原因を調べさせたという。当時、発酵は純粋な科学反応とされ、酵母は生物と認識されていなかった。醸造酵母は、ブドウ糖をアルコールに転換するのを促進する単なる触媒であると考えられた。パスツールは、酒石酸の結晶が鏡像の関係にある左手型と右手型の二つの形をとることを示す。しかし、生物組織から酒石酸を抽出すると、成長する結晶は必ず左手型になるという。生体系はキラルであって、単純な化学反応では説明できない。こうして生命科学は還元主義へ向かう。

2. 呼吸の必要性
人間には呼吸が欠かせない。だが、呼吸することが害となる生物もたくさんいるそうな。嫌気性細菌は空気呼吸せず、それどころか、空気過敏性で酸素に露出すると簡単に死んでしまうという。なんと、大便の80%以上は嫌気性細菌だそうな。すべての生物にとって有害なことに、酸素は反応性が高いという。したがって、空気呼吸する生物は、防御酵素の兵器を持っているという。
では、酸素がこんなに有害なのに、なんでわざわざ酸素呼吸するのか?酸素を使った呼吸のプロセスで食物を燃やすからである。食物から電子が集められ、酸素にいたる一種のエネルギーカスケードを流れ落ちるという仕掛けがある。食物の高エネルギー電子と酸素中の低エネルギー電子との差が捕らえられて、細胞にエネルギーを提供する。酸素呼吸は食物から最大限のエネルギーを抽出する非常に効率的な手段で、ほとんどの高等生物において嫌気性代謝にとって代わったという。なるほど、リスクを冒してまでも高エネルギーを得る手段を獲得したわけか。
細菌に至っては、様々な無機物で呼吸することができるという。鉄で呼吸する細菌までも。発酵の過程では、まったく呼吸をせず、食物の分子を小さく切り分けて、通常は単純な酸またはアルコールにすることよってエネルギーを得るという。生命にとって息をすることが必須ではなく、酸素がなくても生命はうまくやっていけるらしい。
確かに、酸素濃度の低い時代から生命は発生しているだろうし、好気性生物が生じたのは、光合成植物や微生物が地上に酸素を放出しはじめてからのことであろう。光合成する植物は、二酸化炭素と反応して大気中に酸素を供給する。酸素呼吸する動物は、酸素と反応して大気中に二酸化炭素を供給する。動植物は、地球の自然界にうまいこと共存している。

3. 遺伝リスクと多様性
自然淘汰によって生命が進化を遂げるならば、多様性の余地を残す必要がある。そして、進化のリスク、すなわち自己複製の失敗を伴うことになる。遺伝情報の媒体であるDNAの鍵となるのは、核酸塩基の順番と組み合わせである。その基本構造は、リン酸基によって結合されたデオキシリボース糖の連なりの重合体である。それぞれの糖には、グアニン(G)、シトシン(C)、チミン(T)、アデニン(A)の4つの塩基がついていて、一本のDNA鎖を辿ると、塩基の直鎖状の配列、すなわち遺伝コードを読み取ることができる。
生体の一般的なアミノ酸は20種類ほどあるとされるが、塩基は4つしかないので、1対1でコードすることはできない。だが、コドンという塩基の三量体という仕掛けが、うまいことコード化しているらしい。例えば、GCCというコドンはアラニンというアミノ酸を、GGCというコドンはグリシンというアミノ酸をコード化する。タンパク質は、これよりはるかに複雑なコードによって表されるが、原理は同じようだ。DNAは、タンパク質の合成を指示することによって、細胞全体のすべての活動を編成し、身体を組織化できる。こうして、犬の細胞は犬の形の作り方を知り、樫の細胞は樫の木の作り方を知り、人間の細胞は人体の作り方を知る。DNAがタンパク質をコード化し、タンパク質がDNAも含めてすべてのものを作るとは、なんとも自己循環に陥った感がある。
DNAの二重螺旋の特徴は、片方の鎖にある塩基に対して相補的に存在することだという。AはTと、GはCと対になっているそうな。相補的な塩基対は、水素結合によって保たれるという。水素結合は、一方の塩基の正に帯電した陽子と、相補的な塩基の負に帯電した電子との間に存在する電磁力によって維持される。要するに、コードは重複されるわけだ。進化にとって都合が良いのは、鎖の複製がそれほど完全ではないことだという。
1つの親DNA二重鎖から1対の娘二重鎖が形成され、DNA二重鎖の対のうち一方が娘細胞の一つに入り、他方の二重鎖は別の細胞に入るという。DNAはタンパク質をコードするが、タンパク質を作るわけではない。その仕事をするのはリボソームと呼ばれる物体だという。リボソームは、ばらばらのアミノ酸をつなぎあわせて一本の鎖にする。アミノ酸の鎖は、短ければペプチド、長ければタンパク質と呼ばれるだけのことのようだ。リボソームがランダムにアミノ酸を数珠つなぎにすれば、それこそ無数の種類のタンパク質を作ることができる。ちなみに、100アミノ酸しかないような比較的小さいタンパク質でも、20種類のアミノ酸に対して 20100 になる。全宇宙の原子数は、1080 ほどと言われるが、アミノ酸の配列パターンはこれよりずっと多いことになる。とても統計的確率や偶然性などで説明できそうにない。リボソームの仕事には、なんらかの意思が働いているのか?
また、DNAがタンパク質の合成を指示するためには、物理的な問題を克服する必要があるという。DNAは動物細胞の核の中に保たれるが、リボソームはその外側の細胞質にあるからだ。解決策の一つは、DNAが核膜を通リ抜けてリボソームに接触すること。だが、DNAは何百万や何十億という塩基を持つ巨大な分子で、膜の小さな穴を通り抜けることは容易ではないらしい。そこで、もっと小さくて動きやすいRNAというDNAの類似体に複製されるという。RNAは、DNAとちょっと違った構造を持っていて、チミン(T)の代わりにウラシル(U)という塩基を使う。背骨となる糖は、デオキシリボースではなくリボースになるので、DNAからRNAとなる。そして、DNAとRNAの混合二重螺旋が形成されるという。更に、RNAポリメラーゼという酵素が、数千塩基ぐらいのRNAの複製版、メッセンジャーRNA(mRNA)を作り、リボソームに告げるという仕掛け。mRNAは、DNAの必要な情報を選別、あるいは分割して転送しているのか?は知らんが、デジタル通信回路の制御モデルを彷彿させる。
DNA複製機構の仕事は、親DNA鎖から完璧な複製を作ること。だが、時には間違った塩基を挿入したり、タンパク質のアミノ酸配列を変えることも、変えないこともある。こうした間違いが、突然変異となる。もし、突然変異が重要なタンパク質の機能を妨害すれば、有害となり死に至ることもある。遺伝病で知られる鎌型赤血球症は、主に血液ヘモグロビンのグロビンタンパク質の中のたった一つのアミノ酸を変える突然変異によって起こると聞いたような気がする。ごく稀には、突然変異が宿主に対して利益をもたらす場合もある。自然淘汰では、より多くの子孫を残すことができるように有利な突然変異をもつ遺伝子が選ばれる傾向にあるという。親よりも生存に適した突然変異を持つ子供を選択することによって進化するようだ。突然変異のほとんどは、DNAの複製の際に生じるという。

4. 大腸菌の培養実験
ハーバード大学公衆衛生大学院のジョン・ケアンズは、ラクトース(乳糖)を食べるために必要なβ-ガラクトシダーゼという酵素を持たない大腸菌の実験を行ったという。
細胞にラクトースしか与えなければ、飢餓すると予想される。だが、大腸菌を殺すことは難しく、細胞が定常状態のまま何週間も生き延びたという。更に、酵母抽出液を与えた細胞と、ラクトースしか与えない細胞とで比べると、前者は酵母抽出液を食べて飢餓を免れる。だが、ラクトースしか食べるものがない細胞の方が突然変異を起こす割合が高かったという。生存危機に迫られると、細胞は適応変異を起こしやすいということか。それにしても、たった一世代で突然変異が起こるとは恐るべし生命力!
ところで、脊椎動物には獲得免疫系なるものがあり、分子レベルでは中立進化説というものを耳にする。自然淘汰に対して有利でも不利でもなく中立的というわけだが、この実験は、単細胞生物であっても獲得形質の遺伝が生じることを示しているように映る。これも変異の方向性であろうか。

5. 生命の自発運動とミトコンドリア
無生物が運動するには外部からの作用を必要とする。だが、生物は自己作用によって運動する。筋肉を動かすには、ミオシンというタンパク質が関与するという。ミオシンは数千個のアミノ酸でできた非常に大きなタンパク質。筋繊維は、ミオシンとアクチンというタンパク質で構成され、これらが互いに作用することによって筋収縮を行うという。これらのタンパク質を作用させる鍵は、ミオシンが酵素として働き、ATP(アデノシン三リン酸)分子と水との反応を起こさせることにあるという。すなわち、加水分解によってATPを分解し、ミオシン酵素はその化学反応で得られるエネルギーの一部を捕らえて、筋肉が伸び縮みするエネルギーとする。ATPは細胞内の化学エネルギーを貯蔵する小さなバッテリーとして働き、加水分解によって放出されるエネルギーが筋肉の機械的な動作に変換されるという仕掛けか。人体は1日にざっと 2 から 3 kg のATPを作って消費しているという。加水分解が重要となれば、生命に水が必須というのは確かなようだ。
では、この自発運動を引き起こすものとは?筋肉を動かすには、脳からなんらかの電気信号によって指令されるはず。その指令はどうやって発せられるのか?ここで極めて重要な化学反応、酸化に行き当たる。酸化は、空気中で紙や木やグルコース、すなわちブドウ糖を燃やした時に起こり、電子の移動をともなう。グルコースは生物が活動する時のエネルギー物質。細胞は、酸化で代謝燃料を燃やし、ATPという形で化学エネルギーを得る。この一連の反応が呼吸である。燃焼と同じように、呼吸も酸素を必要とする。グルコースの酸化から得られるエネルギーの約38%をATPとして捕らえるという。細胞機関はなかなか効率の良い熱機関のようだ。残りは熱として放出されるため、激しい運動をすると体が熱くなる。
呼吸は、細胞内のミトコンドリアというオルガネラ(特定の仕事を行う細胞内小器官)で行われるという。ミトコンドリアの構造は驚異的だ。それは、内膜、リボソーム、自身のDNAなど、細胞全体の特徴の多くを持っていて、しかも細胞とは独立して分裂することができるという。ミトコンドリアは二枚の膜が重なりあって結合し、その間には水の入った空間があり、電子の輸送はこの膜で行われる。膜に挿入された呼吸酵素は、電子を動力源とする陽子ポンプとして作用するわけだ。シトクロムオキシダーゼやシトクロムcといった別の酵素を電子リレーとして働かせ、電子を伝播させる。そして、電子の流れを動力源にして、陽子を組み上げ、約0.15Vの電池が生じるという。
続いて、ミトコンドリアの電池が、ATP合成の動力を供給する。それにかかわる酵素は、ATPシンターゼまたはATPアーゼと呼ばれ、分子モーターの作用をするという。だが、ATPシンターゼとATP合成を結びつける正確なメカニズムは、まだ明らかになっていないそうな。呼吸のメカニズム、すなわちこの陽子ポンプが、体内にあるすべての生細胞に動力を供給しているというのは、宇宙の神秘と言わねばなるまい。

6. 量子測定と量子コヒーレンス
生命の起源を原始スープに遡る。スープの成分には、アミノ酸や単純な糖、もしかすると核酸なども含まれていたかもしれない。これらの成分がなんらかの方法で組み合わされ、自己複製する何かを発生させたと考えることはできるだろう。
今、話を簡単にするために、最初の複製物質はアミノ酸配列の短いペプチドだったと仮定する。とはいえ、このペプチドは32アミノ酸の長さをもち、自己複製するための必要条件は途方も無いことを教えてくれる。アミノ酸同士がペプチド結合しかしないとしても、20種類のアミノ酸に対して32長を形成するには 2032 パターンもある。つまり、1041 スケール。原始スープでそれぞれのペプチドを合成すると総量は約1018Kg になり、現在の熱帯雨林にある有機炭素の総量よりもずっと多いという。そんな規模の原始スープの池が、地球上に存在できるはずがないというわけか。確かに、アミノ酸が20次元の空間をさまよいながら、自己複製のチャンスをうかがっていたとは考えにくい。おまけに、ペプチドは生命ではない。ここから自己複製物質を進化させて、やっと生命なるものが見えてくるはず。
では、ランダム性から突然変異への方向性は、どうやって誘導されるのか?そのプロセスの源泉が量子測定だという。原型細胞は、量子系をいつまでも環境から保護することができなかっただろう。ある時点で何が起こっているか気づき、その量子系の測定に迫られる。そして、量子系が環境に不可逆に結合されていき、デコヒーレンスが起こったとしている。そりゃ、量子測定が機能すれば話は早い。だが、測定から方向性はどうやって転化されるのか?
また、周囲環境を効果的に結合する分子は酸素である。ペプチドは酵素になりうるのか?短いペプチドでも、弱いが酵素活性を持っているという。ならば、これを含んだ原始酵素を形成し、さらに酵素能力を持つタンパク質へと進化したと考えることができそうか。ペプチドが単一分子であるからには、いつでも量子領域に戻ることができる。そして、量子測定を繰り返しながら、短いペプチドを最小単位とした酵素形成が何度も繰り返されたのかもしれない。ペプチドが酵素となって、結合と分離を繰り返しながら、古典力学の領域と量子力学の領域を行き来して量子測定を促進し、ついに自己複製を覚えたのか?一旦、古典力学の領域に踏み込めば、不可逆性に支配される。まさに遺伝子は不可逆性の領域にある。要するに、なんらかの酵素的な存在が生じて、不可逆な領域まで成長すれば、後は簡単ということか?そして、物質代謝という魔法の循環が始まるというのか?
さて、ここまでは熱力学的確率論の域を脱していない。いよいよ変異の方向性の説明になるわけだが、量子力学は意思なるものの誕生をどう説明するのか?解決策の第一弾は、量子の重ね合わせである。量子力学によって、1041 パターンを瞬時に同時に発生させたというわけだ。干渉をおこしやすくする方向性に、量子コヒーレンスという概念を持ち出す。確かに、電子の波動性を活発化させるために、超伝導性なるものがあるにはあるのだが。つまり、なんらかの条件下で電気抵抗をゼロにすれば、小規模な原始スープの池であっても都合のいいパターンが生じるというのか?しかし、どうやって地球上の空間に収めるのか?
なぁーに、解決策の第二弾が用意されているので心配はいらない。そぅ、多宇宙論だ。つまり、量子レベルでは変異の方向性などはなく、すべての状態がそれぞれの空間に存在するというわけだ。人類が住むこの宇宙は、その一つの空間に過ぎないということか?突飛過ぎて、もはや頭は Kernel Panic !!!
いずれにせよ、量子力学はハイゼンベルクの不確定性原理の呪縛から脱せないでいる。しかも、量子レベルの位置と運動量を同時に確定することは不可能というだけでなく、他の相補的な特性の測定も制限しやがる。エネルギーと時間を同時に測定することも。偏光の方向と、電子や陽子のスピンによる角運動量の測定も。その原因は観測系が加わるからかである。なるほど、人間が関与するとろくなことがないらしい。そもそも、量子の塊で構成される人間が、量子を測定すること自体、自己矛盾を孕んでいる。いや、人間という個体が量子力学の領域から飛び出して、古典力学の領域に入ってしまったから、そうなるだけのことかもしれない。エントロピーが増大するのも、たまたま不可逆な空間にいるだけのことであって、量子の領域に引き戻されれば、エントロピーは一定でいられるのかもしれない。すると、エントロピーが減少する宇宙がどこかに存在してもよさそうか。多宇宙論と言っても、単に空間が時間で結びつけられると考える方が筋かもしれんが。
あらゆる量子測定は、二つの関連する相補的な特性で構築されている。この測定に制限を受けるのであれば、もはや何を測定しているのかわからない。生命の正体を知るためには、観測者が量子の領域に戻るしかないのかもしれん。映画「ミクロの決死圏」のような...

2012-12-02

"生命とは何か" Erwin Schrödinger 著

量子力学の立場には、シュレーディンガーの波動力学とハイゼンベルクの行列力学がある。波動力学はアインシュタインと同じく連続性を重視する立場。その量子論学者が生物学を語るのだから、なかなかの見物!生物学は科学の中で最も避けてきた領域であるが、物理学者が語るとなればアレルギーも鎮まる。
古代から受け継がれる学問の本来の姿は、総合的な能力の結集であった。だが、専門知識の高度化が進むに連れ、知識の交流が疎かになりがちである。専門に囚われ過ぎると、学問の意義や知識の方向性を見失うことにもなろう。あるいは、自ら積極的に専門馬鹿になることを受け入れ、人柱となってきた研究者も少なくない。
一方で、科学者というものは専門知識を徹底的に追求する人種で、十分に精通した領域でなければ口に出してはならないという掟のようなものがある。シュレーディンガーは時代のジレンマを感じつつ、あえて自らの専門を放棄すると宣言する。又聞きで不完全にしか知らなくても、また物笑いの種になることを覚悟してでも、そうするしか他に道はあるまい。彼の学問哲学には、人類の意義を問うことが根底にあるようだ。本書は、量子力学を通して生命の意義を追求したものである。

物体において生物と無生物を区別するものとは何か?双方とも原子構造を持つのは同じなのだから、物理学で説明がつくはず。しかし、シュレーディンガーは、統計物理学の観点から生物と無生物とは構造が根本的に違うと主張する。
ニュートン力学では個々の物体の運動を扱うが、量子力学では原子や分子などを統計的に扱う。その顕著な例は、常磁性に現われる。すなわち、ある空間に磁場を与えると空間内の物質が一方向に磁化される。だが実際には、磁場によって分子の向きを揃えようとする傾向は、分子の熱運動によって絶えず妨げられているという。熱運動は分子にでたらめな向きを与えようと働くが、磁場と拮抗した結果、すべての分子が完璧に磁化されないにしても、双極子の軸に対して鋭角に磁化した分子が多数派となる。温度を下げれば熱運動を弱め、磁場が分子の向きを揃えようとする。量子力学における物理法則は、このような統計に基づいた近似的なものに過ぎない。それは、人間社会における群衆運動、あるいは多数決の原理に似ている。群衆が冷静さを失えば、暴徒と化す。どんな微小空間であれ、社会の反抗分子というものが生じるものらしい。
つまり、物理法則の精度は多数の量子の参与によって決まる。実際、分子数の平方根の法則(√n法則)なるものがある。それは、ある容積に気体分子が n 個あるとすると、現象を観測するのに √n の誤差が生じるというものだ。安定現象を求めるならば、サンプル数を無数にとって誤差を小さくしようとする。
ところが、だ。生物の根幹を成す遺伝子は、物理法則に反してせいぜい1000個程度の原子から成っているという。確かに、安定状態を保つには少な過ぎる。本書は、生物細胞の最も本質的な部分である染色体繊維は非周期性結晶であるとし、その安定構造をエネルギー準位で解き明かす。特に、エントロピーの法則によって生命体が崩壊して平衡状態になるのを、負のエントロピーを食べることによって免れているとするところは感動モノ。ちと反論したくもなるけど。
ただ意外なことに、生命の根幹に遺伝子を据えながら、タンパク質やDNAという言葉がまったく登場しない。あえて避けているのか?刊行が1944年で、ちょうど遺伝子の正体がタンパク質かDNAかで論争の巻き起こった時期と重なる。遺伝子を暗号コードという観点から語られるので、ここではタンパク質というよりはデオキシリボ核酸(DNA)と見るべきであろう。物理学で注目されやすいのは周期性結晶の方で、その単純な規則性が研究者を魅了する。対して、一つの非周期性結晶と見なせるDNAの螺旋構造は、まさに人類の進化によって培われた芸術と言うべきものかもしれない。
さて、遺伝子暗号はどこまで個人の運命に関与するだろうか?そして、例外の意義とは?本書は、これを問うているような気がする。

「自由な人間が、死ほどおろそかに考えるものはない。自由人の叡智は、死ではなく生を考えるために在る。」...スピノザ

また、「統計的 = 決定論」という図式を表明しているところに、量子論的確率論の解釈を垣間見ることができる。量子論の不確定性は、生物学で重要な役割を演じていないという。確かに、統計的偶然性だけで、生命の構造や進化を説明するには不十分であろう。ただし例外として、減数分裂や、自然発生的および X線によって誘起される突然変異などの現象においては、ある程度の偶然性を認めているようだけど。
非周期性結晶を精神活動に結びつけるといった記述は見られないが、エピローグで唐突に自由意思の存在を持ち出すのは、読み手としてギアチェンジが難しい。古代インド哲学の聖典「ウパニシャッド」を引用しながら、なんとなくデカルト的実存論と重なる。デカルトは、生物が機械仕掛けで動くものとしながらも、人間だけは神の存在を意識できる特別な存在とした。結局、生命の意義を論じるには哲学に、いや、神に縋るしかないということか?

1. 四次元型の染色体
生物学には、「四次元的な型」というものがあるそうな。それは、卵細胞が受精してから、成熟して生殖を行いはじめる成熟期に至るまでの個体発生の全期間に関するもので、四次元型の全体は、受精卵ただ一個の細胞構造をしているという。その本質的な構造は細胞の核にあって、正常な休止状態では細胞の中の一部に拡がっていて染色質の網目として見え、重要な細胞分裂、すなわち有糸分裂と減数分裂の期間は一組の粒子からできているように見えるという。普通は紐状の形をしていて、染色体と呼ばれるやつだ。
染色体の数は、2 x 4, 2 x 6, ..., 2 x 23, ... といった具合に二組で構成され、人間の場合は46本とされる。一組は、母(卵細胞)からできたもので、もう一組は父(受精される精子)からできたもの。そこには、将来の発展と成熟したときの身体の働きの型の全部が、一種の暗号文として組み込まれているという。
現在では、染色体の構成要素は DNA とヒストン(タンパク質の一群)とされる。あえて厳密性を避けているのは、当時は DNA の役割がはっきりしていなかったのだろう。

2. 有糸分裂と減数分裂
染色体は、運命を記録した暗号文とするだけではなく、それ自身が定められた成長発育の道具として機能するという。人体の中で、法典と裁判官の両方の役割を担うようなものらしい。そして、生物体は染色体の有糸分裂によって成長する。ただ、そんなにちょくちょく分裂が起こるわけでもないらしい。最初のうちは成長は速く、人体のすべての箇所で起こるわけでもないから、すぐに数の規則は破られるという。
有糸分裂では染色体も二つになり、暗号コードも複製される。個体の成長が始まるとすぐに、一群の細胞が後の配偶子を作り出すために別に保管されるという。それは場合によっては精子だったり、卵細胞だったりするが、成熟してから個体が増殖するのに必要なものだ。
そこで、例外的な分裂に減数分裂があるという。配偶子がつくりだされる際の分裂で、すぐに接合される。受精においては、46本ではなく、23本だけ暗号を受け取る。普通の細胞は二倍体だが、配偶子は一倍体である。接合の時は、それぞれ一倍体である雄性配偶子(精子)と雌性配偶子(卵)とが合体して受精卵をつくるので、受精卵は二倍体になるという。ここでは分かりやすく省略した過程が示されるが、実際は、減数分裂はただ一回の分裂ではなく、二回の分裂が続いて起こり、一体になったものらしい。その過程で染色体が一回だけ倍加されて、結果的に一倍体の配偶子が2個ではなく4個できるらしい。
さて、そうなると、受精よりも減数分裂に遺伝的な重要な意味を持つことになりそうだ。配偶子が二倍体ならば両親の遺伝子コードを忠実に受け継ぐかもしれない。男女の性の意味もなくなりそうな気もする。しかし、接合によって遺伝子コードの部分的な入れ換えができる仕組みにこそ、進化の可能性を匂わせる。それが一倍体であるがゆえに、コード入れ換えの失敗リスクを同時に抱えている。
では、減数分裂の前のコードを保存することができれば、コード入れ換えのミスをやり直せるだろうか?いや、失敗したかどうかなんて細胞自身に判別できるはずもないか。人間社会に適合するかどうかなんて結果論に過ぎない。天才の出現だってコード入れ換えのミスかもしれない。では、コード入れ換えを医学的にやれるとしたら、障害者は恩恵を受けられるだろうか?それも怪しい。なにしろ人間の欲望は悪魔じみている。遺伝子操作に自由が与えられた時、人間の尊厳までも失われるのかもしれん。

3. 突然変異と自然淘汰
突然変異とは、統計的には例外的な現象と捉えることができよう。では、例外の意義とは何か?遺伝子は、進化の過程で自然淘汰の原理を働かせることによって偶然変異という異物を排除してきた。しかし、あらゆる現象の連続性には、不連続性が紛れ込む。突然変異が生じるのも、遺伝の結果である。
量子論では、不連続なエネルギーの移動を量子飛躍で説明する。ただ、突然変異が有用で好都合な方向に起こるのか?という疑問はある。天才が出現する一方で、障害者が生まれる確率がある。先に述べたように、減数分裂が進化の可能性を与えているとすれば、不都合な現象は進化のリスクと解するべきだろう。最も幸せを感じられるのは凡庸さかもしれん。ただ、優性変異が新たな思考をもたらす一方で、劣性変異が人間の弱さを教えてくれるならば、最も劣悪な存在は凡庸さかもしれん。となると、幸せな状態とは、劣悪な状態なのか?
さて、突然変異には二つの法則性があるという。それは、単一現象であることと、限られた範囲で起こるということ。突然変異の誘起される確率を支配する法則は、極めて単純でしかも示唆に富んでいるという。そして、身体組織におけるイオン化作用の総量と密度が重要だとしている。実際、あるエネルギー磁場によって人為的に原子現象に偏重をきたす場合がある。例えば、X線が癌や不妊症の原因とされる。ちなみに、股間に電磁波を浴びると女の子しかできないという説がある。ある研究室では、股間用の防磁グッズが常備されていたものの、先輩方の子供は女の子ばかりだった。ただ、Hが下手だと女の子ができるという説もあり、こちらの方が説得力がある。
ところで、近縁交配が有害となりやすいのはなぜか?劣性変異は異型接合にとどまっている限りは、それが基になって自然淘汰が起こることはないという。異型接合においては偶然変異は遺伝しないという。突然変異はしばしば有害となることが多いが、根絶や死にはなりにくいと。不利な遺伝子が集まっても、直ちに害になるというものでもないらしい。例えば、白色の金魚草と紅色の金魚草が交配すると、その子はすべて中間色の桃色になるのだそうな。
二つの対立因子が、その影響を同時に現す場合が、血液型に見られる。どんな遺伝子にも、わずかながら変異因子が紛れ込むとすれば、異型交配によって排除しようとする。だが、同型交配では、変異因子はもはや変異因子ではなくなり、それを倍化させる危険があるということか。バッハ家族のように音楽的才能に恵まれた家系が生じる一方で、ハプスブルク家には顎と下唇の奇形に遺伝が見られる。名門同士で650年にも渡って濃縮した血縁は、まさに異様!近親相姦が古くから禁じられてきたのは、生理的な防衛本能が働いているのかもしれない。
突然変異種は安定性の低い場合が多く、不安定な遺伝子を自然に排除する仕組みが備わっているというから、とても統計的偶然性などでは説明ができそうもない。劣性の対立因子が異型接合の場合、優性の対立因子により完全に支配されて害が認められないというのは、実に驚くべきである。
では、自然淘汰は最適な種を生み出そうとしているのか?安定な遺伝子を選ぶ機能があるとして、それが正常な因子と判別できるのか?突然変異の確率がイオン化作用を持つ放射線によって増加するとすれば、大気中の放射線や宇宙線の影響も考えられる。地球の磁場が不安定な時代では、とてつもない進化や退化が起こるのかもしれない。
一方で、遺伝子の優劣、人種の優劣、民族の優劣、学問の優劣、地域の優劣など、あらゆるものに優劣を唱えれば、自己の優位性を過信することになる。医学的に遺伝操作が許されるならば、人々は優れた因子に群がるだろう。人間も自然物のはずだが、はたして人間の意思は宇宙法則に支配された自然淘汰の原理に従っているのだろうか?

4. 負のエントロピー
生命というだけにある特徴とは何か?一塊の物質が生きているとはどういうことか?自発的に運動することを言うのか?ただ、年を老いていくと、薬漬けにされ、無理やり寿命が延ばされ、無理やり生かされている感がある。自律神経系だって植物性機能と言われる。やがて身体はエントロピーを増大させ平衡状態になる。これが死というやつか。
運動すればエネルギーを消耗するが、体内器官は適当な運動をしないと機能不全に陥る。はたまた食べ過ぎれば栄養過剰となり、肥満や糖尿病などを誘発する。人体とは、なんと矛盾に満ちた悪循環な熱機関であろう。消費と供給で生きながらえる物質、これが生物の正体か?その均衡が崩壊した途端に危機が生じる。まるで経済サイクルよ。
さて、生物体は急速に崩壊して平衡状態になることを免れているという。それが、負のエントロピーを食べるということらしい。エントロピー S は、次式のようになる。

  S = k log D

k はボルツマン定数。D は物体の原子的な無秩序さの程度を示す値。収束時間の違いはあれど、いずれエントロピーは増大し、活動のない状態へ近づく。だが、生命体は死から逃れようと必死だ。D が、無秩序の目安とすれば、逆数 1/D は秩序の目安となる。1/D は対数に負の符号をつけたものだから、こうなるという。

  -S = k log (1/D)

これが、負のエントロピーの考え方である。
しかし、だ。食べるという行為は、食物に含まれる有機化合物の秩序をそのまま取り入れているわけではない。消化によって有機化合物の分子構造を破壊しているし、おまけに、余計な遺伝情報までも排除しているではないか。要するに、体温を保つこと自体がエントロピーを増大させている。そして、熱力学の第二法則は自由エネルギーが減少することを告げている。んー...やはり違和感は拭えない。

5. 遺伝子を保持するエネルギー準位
遺伝子が原子1000個程度の高分子構造であるならば、それを維持するエネルギーはどこから生じるのか?それは、異性体のエネルギー準位から解き明かされる。異性体とは、分子を構成する原子構造が同じでも配列が違うもの。例えば、プロピルアルコール(C3H8O)は、3個の炭素(C)、8個の水素(H)、1個の酸素(O)とからなるが、異性体では O の位置が違う。この構造で遷移しようとすれば、O を引き抜いて他の位置に差し込まなければならない。そのような操作には、量子飛躍の観点からも非常に高いエネルギーを必要とする。高分子構造の異性体の仕組みが、遺伝子を維持しながら、しかも配列の多様性をもたらすというわけだ。となると、遺伝コードを入れ替える減数分裂においても、かなりのエネルギーを消費するはず。セックスやると眠くなるのも道理か。
エネルギー準位を引き上げるのに最も簡単な方法は、熱を帯びることである。そこで、異性体の偏移を起こす確率を決定するものは、W/kT の比が重要な役割を果たすという。k はボルツマン定数、T は絶対温度、W は遷移のためのエネルギー。ちなみに、理想気体で原子1個の持つ運動エネルギーは、(3/2)kT になると教わった。ここでは、「ハイトラー - ロンドン結合」と呼ばれる理論で説明される。
W/kT の比が大きいほどエネルギーが引き上げられる確率は小さくなり、突然変異の起こる期待時間は長くなるという。W/kT = 30, 50, 60 に対して、その期待時間は、1/10秒、16ヶ月、3万年になるそうな。そして、T が室温の時の閾値 W は、それぞれ 0.9eV, 1.5eV, 1.8eV(エレクトロンボルト)になるそうな。このエネルギーを身体に換算すると、どのぐらいになるのだろうか?落雷でも突然変異が起こりそうか?ん...よく分からん。尚、突然変異の起こる期待時間 t は、W/kT の指数関数になるという。

  t = τe(W/kT), (τは、10-13 ないし10-14 となる定数)

突然変異の期待時間は温度を上げると短くなり、変異の頻度は増加するという。指数関数であることが、少しの温度差でも大きな影響を与えそうだ。安定性の高い分子構造で変異の起こる頻度が低いものの、温度に対する変化は著しいものがある。寒冷地方の方が遺伝子の安定性は高いのだろうか?その気候が、そのまま生きる上で快適とも言えないだろうけど。生物の進化は、地球の気象変化とも関係があるのは確かなようだ。
熱力学の第三法則では、絶対零度に近づくにつれ、分子の無秩序は物理現象になんら影響を与えないようになる。だが、ネルンストの定理では、室温でさえもエントロピーの演ずる役割が驚くほどわずかだとされるという。確かにエントロピーは対数特性なので、そうかもしれん。冷蔵庫の中でも、非周期性結晶が真空で絶対零度に近い振る舞いをしても不思議ではないか。

2012-11-25

"科学と方法 改訳" Henri Poincaré 著

科学の方法論に、数学が関与しない道理はない。アンリ・ポアンカレは、物理学と数学とで証明の方法が違っていても、発見の方法はすこぶる似ていると語る。そして、数学的推理の基本は紛れもなく帰納法的思考にあるとし、大発見に至った自己の心理分析までも披露してくれる。事実から普遍化へ至る思考は直観から始まるというが、それは芸術家のごときものであろうか。直観の偉大さを情熱的に語るところは、科学書というよりカント風の哲学書という感がある。とはいえ、真の哲学者に数学をやらない者はいないと思っているので、まったく違和感はない。その哲学論争を遡れば、プラトンとアリストテレスの対立しかり、カントとライプニッツの対立しかり... ポアンカレもまた、ヒルベルトの形式主義やラッセルの記述理論だけでは、真の科学は構築できないと対立的立場を鮮明にする。客観を構築するために主観の関与が重要だとするところは、まさに直感を直観へ昇華させようとする目論見であろう。それにしても、本書には「気まぐれ」という言葉があちこちに鏤められる。実にらしくない。ただ、気まぐれ崇拝者はニヤリ!なにしろ、ア・プリオリを崇高なる気まぐれと解釈しているぐらいだから...

「視よ、而して正しく視よ。」
これがポアンカレのまずもっての助言である。そして、科学の方法は観測と実験にあるとしている。下手に見るぐらいなら見ない方がいい。そこで、見るか見ないかが最初の選択となる。人間の思考が主観性に偏りがちなのは、自我の主体性、すなわち自己存在を意識するからであろう。そこで、主体を打ち消そうと努力し、精神の均衡を保とうとする。学問するとは、そういうことであろうか。学問の方法では、最初に知識を身に付けようとする。それも間違いではあるまい。
しかしながら、学問とは、学んで問うと書く。教育とは、知識を詰め込むことではあるまい。いかに新たな観念を受け入れる心構えを具えるか?これが問われる。常に自我を検証し、新たな思考を試す癖が身につけば、知識の方から自然にやってくるだろう。だが、いくら知識を深めても、やはり誤謬を犯す。はたまた多くの事実を知ったところで、幸せになれるわけでもない。知識を得ることは、あくまで手段でしかないのに、それ自体が目的化すると思考が硬直する。知識の豊富な者が思考停止に陥った状態ほど、質ちの悪いものはない。これが宗教の弊害というやつか。大量破壊兵器にしても、大規模な環境破壊にしても、残虐なテロリズムにしても、科学と強く結びついた結果である。ならば、あえて歩みを止める。これも選択肢としてあってもいい。おそらく無に帰することも真理なのだろう。これが死の意義なのかは知らん。科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にあると主張する。それは詭弁であろうか?科学者の中にも人格劣等者がいる。だからといって、科学を捨てて道徳のみを研究すればいいということにはなるまい。
いずれにせよ、思考の第一歩は疑問を持つことにある。生に対しても死に対しても、歩みを進めるにしても立ち止まるにしても。この性質こそ、子供が最も素朴な哲学者と言われる所以である。科学の方法とは、まさに子供心を育てることであろう。

さて、この手の本を読むと悪い癖がでる。それは、心地よさそうに思考が勝手に暴走を始めることだ。科学という客観的な書を読んでいるはずなのに、読んでいる当人は客観とは程遠いところにいる。まったく困ったものよ。この記事も思考が暴走した結果である。したがって、ポアンカレが言わんとした事が何かは知る由もない。

1. 数学の意義とは
現実に数学の理解を拒む人は多い。この学問には、それが何に役立つのか?と絶えず疑問がつきまとう。他の学問は人間社会への貢献を具体的に掲げる。物理学はエネルギーを発明し、経済学は価値を創出し、音楽は心に安らぎを与え、哲学は生き方を教える。本来の目的を見失って害をなすこともあるけど。対して数学ときたら、ひたすら美しい理論や法則を探求するだけ。まさか、素数の発見者が今日の暗号システムに利用されるなんて考えもしなかっただろう。実益を直接求めない学問、その最大の強みは、なんといっても客観性のレベルが他の学問よりも格段に高いことである。だから、分析の道具として威力を発揮する。市場原理や社会現象はいまや数理解析や統計解析なしには語れないし、保険会社は数理モデルを放棄した途端に倒産に追い込まれるだろう。
現実を生きる技術者は夢想する数学者に、この微分方程式を積分しておいて!とお願いする。だが、多くの微分方程式が解けないことは周知の通り。そこで、近似という手法を巧みに用いて誤魔化す。極限の大小関係から迫れば、ε-δ論法風の思考も必要となる。相対的な認識能力しか持てない人間にとって、比較によって迫る思考は相性が良さそうなものだが、やはりヘンテコな不等式は数学者に任せておくのが賢明だ。実益者から見れば、数学者は何かを編み出してくれるブラックボックスのような存在に映る。よっ便利屋!いつもお世話になっているのに乱暴な事を言ってごめんなさい!今度、ボトル持っていきますんで...
また、特殊な言語を操るところに、数学者の宇宙人たる所以がある。そこには詞句はなく、奇妙な記号の羅列があるだけ。言語を巧みに操るという意味では文学にも通じそうなものだが、門外漢はひれ伏すしかない。ただ、問題の性質を正しく理解するためには、その場面に特化した言語を用いるのが合理的である。実際、プログラマは人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語など用途に応じた言語を次々に編み出す。
しかし、こうした合理的な思考だけで数学が成り立つわけではない。あらゆる定理や法則が論理的に演繹できるわけでもない。いくら高度な客観性を具えていても、数学が数学自身を構築するには、どうしても感覚に頼らざるをえない。公理だけではいずれ行き詰ることをカントールが示した。いや、ヒルベルト自身が暗示したと言った方がいいかもしれない。そこで、ポアンカレは数学的推論の原理を帰納法に求める。しかも、その正体は直観であると。数学は、リーマンのような直観派によって進化を遂げてきたのも事実。感覚だけでは人間精神は簡単に暴走するが、論理だけでもやはり暴走する。人間は、知識を蓄えながらもなお、直観に頼って生きるしかない。それは、知識が無限だからであろう。人間が操るもの、あるいは操ろうとするもので、信仰から逃れることはできないのかもしれん。
「人は直観に信頼してきた。しかしながら、直観は吾々に厳密性を与えない。さらには、確実性さえも与えない。人は次第次第にこのことを悟ってきた。直観はたとえばすべの曲線は接線をもつこと、いいかえれば、すべての連続関数は導関数をもつことを吾々に告げる。しかもこれは謬まりなのである。」

2. 定義とは
人は、何かを説明する時に都合よく定義を持ち出す。定義によって公理を導き、最高級の定義に公準が位置づけられる。この方法は、ユークリッドの時代から容認されてきた。論理崇拝者は、あたかもユークリッドが公準に対して容認したのと同じことを数学的帰納法にも容認する。一旦定義しちまえば、それを前提にいくらでも論理構築ができ、歴史的な難題が定義を前提に展開されてきたケースは多い。その過程で素晴らしい発見があると、定義はいつのまにか公理へと崇められる。定義とは、麻薬のごときものか。しかし、前提が崩壊した途端に努力は無と化す。数学者の人生とは果敢ないものよ。
では、人はなぜ定義をするのか?その定義を何かに利用したいからであろう。定義は直感によってなされる。それが、それらしいとなれば、同調する人が群がる。まるで権利を主張するかのように。これが、人間社会を構成する基本的動機ではないだろうか。論理崇拝の道ですら、同じ轍を踏む。学問に定義はつきもの。定義を重んじるからには言葉を大切にする。だが、こうも定義が氾濫すると、社会は騒がしくてしょうがない。学問とは、騒ぎたいがためにやるのか?まるでお祭りよ。神が沈黙しか教えないとすれば、宇宙法則に反する行為のようにも映る。いや、人間が騒いだところで宇宙がどうにかなるわけでもないから、神は黙って見ておられるのかもしれない。
定義は規約のごときものであるが、それを押しつければ反抗心が湧く。言葉の押し付けは文化の押し付けとなり、暴動の引き金になる。不正確でお粗末な定義ならば、やらないほうがいい。定義が認識過程において必要なのかは知らん。ただ、人類は単に言葉を増産してきただけで、実は、ユークリッドが示した五つの公準以外に進化させてきたものは何もない、ということはないだろうか?

3. 偶然とは
偶然... 現象を扱う上でこれほど厄介な存在はない。まさに法則と対立する存在。確率的な現象であることは確かであろう。ソクラテス流に言えば、無知者にとっての偶然は知識者にとっては偶然ではないことになる。偶然とは、無知を測る尺度とすることができるのかもしれない。ただ、すべてを法則で説明できたとしても、絶対的決定論とするには抵抗がある。
一方、人間社会には、知らぬが仏という原理が働き、偶然の幸せというものがある。無知だから感動を呼ぶ。完璧な予測は人生を色褪せたものにするだろう。となると、知識を得るほど感情を奪うのだろうか?いや、そんな心配はいらない。知識は無限なのだから。
ところで、偶然には客観性があるのだろうか?πやネイピア数は偶然に数字が羅列された結果なのか?素数は偶然の産物なのか?偶然現象の最たるものは天才の出現であろう。あの女性と知り合ったのは?この世に生きていることは?などと問い詰めれば、偶然は主観性に支配されるとは到底思えない。出くわしたい偶然もあれば、出くわしたくない偶然もある。ギャンブルでは偶然に頼る。それは無知に頼るということか?気まぐれもまた、精神内に起こる偶然現象ではないのか?現象が気まぐれなら、それに劣らず観測も結果も気まぐれよ。完璧な観測が精神を退化させるのかは知らんが、幸せの原動力は偶然、すなわち無知の方にあるのかもしれん。しかし、直観が気まぐれを原動力にするならば、神に通ずる道が無知だとも思えん。神は本当に幸せに導こうとしているのか?

4. エーテルと絶対認識
仮にエーテル充満説が正論だとすると、エーテルは宇宙空間において絶対静止をしているのだろうか?もしそうならば、不動のエーテルに対して、絶対速度なるものが定義できるかもしれない。だが、物体が運動をすれば、周辺のエーテルもまたなんらかの反作用を受けるだろう。そして、マイケルソン・モーレーの実験はエーテルの存在に否定的だ。
光速が陰極線とラジウム放射の助けによって観測されると、マクスウェル理論が脚光を浴びる。ラジウムは、α線、β線、γ線の三種類を放射することが知られるが、発見もさることながら放射測度を計測したのだから尋常ではない。しかし、絶対速度の存在を認めれば相対論と矛盾が生じる。それを解消したのがローレンツ圧縮で、光の進む方向に対して空間の方が歪むとすれば説明がつく。絶対速度を規定したところで、観測系と同じ空間にある光の速度変化に気づかないのも道理というものか。いくら光速を 3.0 x 108m/s と具体的に定義したところで、人間の尺度でしかない。だから、精神空間の歪んだ人間が自我を認識するために、別の精神空間の住人を必要とするのだろう。では、歪む空間において、作用と反作用が等しいという関係はどうなるのか?相殺は不完全ということか?電子に質量がなければ、相殺は完全になりうるかもしれない。ただ、肝心な質量の正体が見えない。アインシュタインは、E = MC2 で質量とエネルギーの等価性を示した。では、物質と空間の関係はどうなるのか?物質とは、空間に対して歪を与えるだけの存在なのか?物質は必ず質量を持っていると言えるのか?点電荷とは、空間に対してどういう存在なのか?んー...物質の概念そのものを疑ってみる必要があるかもしれない。
近年、宇宙物理学者はダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーという仮説を持ち出す。観測とは、認識を意味する。認識できないものは無とするしかない。だから、エーテルを無としてきたのか?しかも、それが宇宙の96%を占めるというから、いまだ宇宙のほとんどが解明できていないことを意味する。まぁ、地球の多くが解明できていないのだから、それも当然か。そこで、ポアンカレは測地学を進化させることが、まずもって科学の進むべき道だとしている。人類の住む大地を理解せずしてなんとする?というわけか。ただ、フランスの測地学を称えて、国家予算を投入せよ!と政治色を見せるところに違和感がある。そういえば、従弟のレイモン・ポアンカレは第三共和政時代の大統領だったっけ。
さて、絶対速度の存在とは何を意味するのか?光速に近づくほど、運動エネルギー、運動量、質量は限界を越えて増大し、光速となった途端に無限大となる。つまり、いかなる物体も光速を超えることはできないとされる。そうだとしても、疑問は残る。運動している自分が、光速に近づこうとしていることが認識できるのか?光速で運動する観測者にとって、光はどう見えるのか?そこに絶対停止なるもの、すなわち神でも見えるというのか?相対性原理は、まったく自問ってやつが苦手よ!相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己矛盾に陥るのも当然か。絶対運動なるものが認識できたとしても、すべてが無意味となり、空虚となるだけのことかもしれん。

5. 慣性と浪費
電流は感応現象、特に自己感応を起こすという。自己誘導と言った方が馴染みがある。電流が強くなると自己感応の動電力が現れて電流に反抗しようとし、弱くなると電流を持続させようとするという。慣性の原理のごとく、電流はそれ自身の変化を妨げようとすると。電流を生じるには、慣性を打ち破らなければならない。
一方で、人間は飽きっぽく、集団化すると移り気も激しい。安定とは適当な変化を繰り返すことになろうか。自然は偏ることを嫌うようだ。長距離送電では電流源は適当に揺れる交流の方が都合がよい。だが、人間が直接扱うとなると直流の方が思考しやい。電流と電圧の奇妙な位相差を吸収することが難しいからだ。電流ゼロ状態が電圧ゼロ状態とならないだけでも厄介。よって、交流は電力や実効値といった統計的方法で捉えることになる。
デジタルシステムの根本原理にトランジスタのオンオフ制御がある。電流が流れるか流れないかのスイッチング特性は、まさに直流思考。これを交流で思考すると頭が爆発し、機器も爆発するだろう。自己誘導もまた自己矛盾の餌食となる。細かい制御を、交流のまま制御できれば変換ロスが抑制でき、人間社会の省エネルギー化も進むだろう。だが、熱力学は永久機関をつくりだすことは不可能だと教えてくれる。あらゆる運動においてエネルギーロスがあると。宇宙の真理が浪費にあるのか、無意味にあるのかは知らん。そうだとしても、人間が生きるには、なにがしか意味があるとしておかなければ、やっとられん。これも思考の浪費か?どうやら神は浪費家のようだ。

2012-11-18

"異端の数ゼロ" Charles Seife 著

単純過ぎるがゆえに正体の見えない高貴な御方。それは、知性の破綻を予感させる。長い間、人類はゼロの存在を認めようとはしなかった。それが無を意味するからである。人の認識に無の概念の入り込む余地はない。いや、無ですら存在にしてしまう。大デカルトですら、認識できるものすべてが存在するとし、神の存在までも証明してしまった。今日、ゼロの存在を認めているのは、それが便利な道具だからであって、自己の無を受け入れたわけではない。やたらと自己存在を強調するのは、それが幻想であることにうすうす気づいているからであろうか?だから、人間社会は仮想化へと邁進するのだろうか?本来モノの価値とは、足るか足らぬかで測られるはず。パンを無限に食すことはできない。なのに、貨幣という仮想価値を編み出した途端に欲望は無限と化す。なるほど、無と無限は相性が良さそうだ。タダより高いものはない!タダほど怖いものはない!などと言うのは、真理かもしれん。
宇宙が無から創生したのであれば、いずれ無へ帰するであろう。だがそれでは、魂の永遠不死を否定することになる。無限宇宙を認めては、地球を中心に据えたアリストテレス宇宙観はたちまち崩壊し、それを支柱にしてきたカトリック教会の信頼も揺らぐ。西洋数学が本格的にゼロの研究を始めた時期が、宗教改革やルネサンス期と重なるのも偶然ではあるまい。人は空虚や無意味を極度に恐れる。一旦、無意味と定義づけると行動すらできない。だから、哲学することを恐れる。しかし、真の学問とは、有益だからだとか、高収入を得ようなどという動機でやるものでもあるまい。おそらく真理なるものは、無意識、無心、無想、無我といった境地にこそ姿を見せてくれるのであろう。無意識とは、純真無垢な欲望を意味するのかもしれん。したがって、なぜ酒を飲むのか?と問えば、そこに純米酒があるだけのことよ。

古代ギリシア幾何学には数を形で表す基本思考があり、直定規とコンパスで描ける図形にこそ意味があるとされた。逆に言えば、形に表せない数は数ではない。中でも辺の比が重要視され、ピュタゴラス教団はシンボルに五芒星形を選んだ。正五角形の神秘性は、各頂点によって形成される五芒星の内側に形成される五角形が逆立ちして形作り、しかも無限に形成されること。そしてなによりも、自然界の美を支配する黄金比が含まれることにある。比が重んじられるからには、a/b という整数比の関係が重要となる。そこにゼロの概念が入り込む余地はない。ピュタゴラス教団は、整数比で表せない無理数の存在を隠蔽し、バレそうになると暴力に訴えた。だが、最も身近なところに無理数が現われた。一辺を1とする正方形の対角線は √2 だし、黄金比そのものが無理数である。
一方、古代バビロニア数学は、単に数を数えることによって、なんなくゼロに役割を与えた。数を単なる記号の羅列として捉え、10, 100, 1000, ...など桁に空位を与えることによって、あらゆる数を表すことができる。それでも、ゼロが単独で出現することはない。さらに、バビロニア人は引き算によって負数の存在を認め、あっさりと数直線上の正負の境界にゼロの居場所を与えた。
しかし、奇妙な性質が露わになる。ゼロは足しても引いても元の数に変化を与えない。それどころか、掛けるとゼロに吸収され、さらに酷いことに、ゼロで割ると数の体系そのものを破壊する。ゼロ除算は悪魔じみている。これを回避するには、人間の編み出した定義という技に縋るしかない。今日、IEEE 754 には、-0(マイナスゼロ)までも定義され、コンピュータの暴走を抑止している。
となると、紀元前と紀元後の境界にゼロ年がないのは、人間社会の暴走を抑止できなかった結果なのか?ミレニアム論争では、イエスは紀元前4年に生まれたのだから、1996年(= 2000 - 4) を2000年目にするべきだとする論調があった。だが実際は、1999年目だ。0歳を考慮しても西暦0年がない。そういえば平成0年がない。なぜ暦は0年を拒むのか?2000年当時、21世紀の始まりは2000年とする方が分かりやすいよ!という議論が、ごく身近でなされた。神が全能者であるなら、神のできないことは無となる。しかしながら、悪魔のやることを神がやるとは思えない。となれば、悪魔の正体こそが無ということか?世紀末をゼロ、すなわち世界が無に帰するとすれば、そこに絶望論を重ねる。なるほど、人間社会は、永遠に千年紀の亡霊から逃れられないという仕掛けか。
ところで、年齢では数え年という慣習が廃れ、0歳から数えるようになったのは、一歳でも若くいたいからか?アラサーなどと言うのは、年代の定義を少しでも曖昧にしたいからか?そして、アル中ハイマーは、年齢表記を16進数からモジュロ演算に変えようと目論む。これがニーチェの永劫回帰の正体よ。

1. ニュートンのまやかし微分法
微分の起源を辿れば、ゼノンのパラドックスに行き着く。それはアキレスと亀の競争による命題で、先に出発した亀にアキレスは永遠に追いつけないことを証明してみせた。微分とは、儚いものよ。いくら近づこうとしても、永遠に到達できないのだから。
さて、微分法と言えばニュートンだが、彼の微分法は流率を巧みに表現しているという。
今、方程式 y = x2 + x + 1 について、微小値 0y, 0x だけ流れたとしよう。

  (y + 0y) = (x + 0x)2 + (x + 0x) + 1
             = (x2 + x + 1) + 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

そして、y = x2 + x + 1 を代入して、両辺から同じ量を引くと、

  0y = 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

ここで、0x は限りなく小さく、(0x)2 は更に小さいからゼロにできるとしている。

  0y = 2x(0x) + 1(0x)

ん...確かに答えは合っているが、なんで微小値を二乗したらゼロにできるのか?これが本来の微分法ならば、数学に幻滅する。しかし、心配はいらない。導関数の一般方程式は、ニュートンの亡霊を排除してくれるのだから。

  f'(x) =  { f(x + ε) - f(x) } / ε, (ε → 0)

この一般式に、f(x) = x2 + x + 1 を適用すると、

  f'(x) = {(x + ε)2 + (x + ε) + 1 - (x2 + x + 1)} / ε
       = (2εx + ε + ε2) / ε
        = 2x + 1 + ε

ここではじめて、εをゼロに近づけると、

  f'(x) = 2x + 1

視点をちょいと変えただけで、こんなにもすっきりするとは...やっと眠れそう。
しかし、ε が限りなくゼロに近づくというだけで、安易に完全なる無としていいものか?というのも、宇宙法則には無による悪魔じみたエネルギーの存在がある。空間ゼロにおけるやつと、質量ゼロにおけるやつだ。ん...やっぱり眠れそうもない。

2. 無限遠点と射影幾何学
無限を絵画から打破したのが遠近法。万能人とされるレオナルド・ダヴィンチは、アマチュア数学家でもあった。写実的な消失点は無限遠点を表し、線は点に集積し、無限小の無をイメージさせる。ゼロと無限が消失点で結びつくのは、偶然ではあるまい。
ケプラーは無限遠点の考えを一歩進め、楕円には中心、すなわち焦点が二つあるとした。楕円が細長いほど焦点は離れている。そして、すべての楕円に共通の性質を備える。楕円形の鏡の一方の焦点に電球を置けば、楕円がどれほど細長くても、光線はすべてもう一方の焦点に集まる。そこで、焦点が無限に遠ざかるとどうなるか?楕円は、突然放物線になり、閉じられた片方の曲線が開放されて平行線になる。放物線は片方の焦点が無限遠にある楕円であり、実は、放物線と楕円は同じものだというわけだ。ここに射影投影学の始まりがある。ユークリッド幾何学では、二点があれば一つの直線が定まる。だが、ジャン=ヴィクトル・ポンスレは、無限に離れた点を受け入れて、二本の直線から一点が定まることを発見したという。

3. リーマン球面とi(愛)の概念
n次の多項式で、n個の解が得られるのは、虚数を受け入れた時である。ガウスによって導入された複素平面は、ガウス平面とも呼ばれる。
i と x の関係は90度、i を2乗すると180度の x 軸上に現われ、3乗すると270度、4乗すると360度となり、角は、2倍、3倍、4倍と変化する。だが、これは半径 1 の単位円における現象である。半径 1 の内側にあるか外側にあるかで状況は一変し、n 乗していけば螺旋を描く。例えば、i/2 を、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら原点へ向かう。2i は、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら外へ向かう。複素平面は、見事に幾何学上の概念となった。i(愛)は何乗しようが、愛情はぐるぐる空回り。しかも、実数(実体)上に現われた時、i(愛)が消えていて、おまけにマイナスよ!
さらに、リーマンは複素平面に射影幾何学を融合させた。球の全体が複素平面に投影されるとどうなるか?球の南極を原点とすると、赤道は円に投射され、北極はケプラーやポンスレが想像した無限遠点となる。リーマンは、複素平面と球は同じものだと気づいたという。すなわち、複素平面上で球の歪みや回転する仕方を分析することによって、複素数の掛け算、割り算、そしてもっと複雑な演算ができることを。複素平面とは、ある種の計算尺というわけか。
i を掛けるには、時計回りに90度回転させればいい。関数 f(x) = (x - 1)/(x + 1) は、北極と南極が赤道のところにくるように球を90度回転させるに等しいという。やはり興味深いのは、f(x) = 1/x であろうか。それは、球を逆さまにして、鏡に映るのに等しい。そして、北極と南極を入れ替えると、突然ゼロが無限大に、無限大がゼロになりやがる。ゼロと無限は同等でありながら、互いに反発するかのような存在というわけか。
おまけに、ゼロと無限は、あらゆる数を飲み込み続ける。まるでブラックホールの幾何学モデル!やはり悪魔であったか。これが、ホーキングの言った虚時間、いわゆる無境界仮説の正体であろうか?

4. カントールと無限天国
f(x) = 1/x のような関数は、x = 0 で特異点が生じる。特異点にも様々な種類があるらしい。曲線 f(x) = sin (1/x) は、x = 0 において真性特異点があるという。何が真性かは分からんが、この手の特異点に近づくと、正負の間を行き来しながら、曲線がどうしようもなく暴れだすという。いずれにせよ、特異点は無限との結びつきが強いようだ。
無限を手懐けた人物といえばカントール。彼は、二つの集合を比較する時、要素を1対1で単純に対応させることを考えた。そして、対応できない要素が生じれば、そちらの集合の方が大きいとした。実に当たり前の思考だ。では、無限集合ではどうなるのか?整数と整数の集合を比較する。片方の数を減らしても、やはり対応付けは無限にできる。奇数をすべて取り去っても、やはり同じ。ならば、整数の集合と奇数の集合は、同じ大きさと言えるのか?いくら数を減らしても、集合の大きさは変わらない。これがカントール流の無限の定義である。そして、整数、奇数、偶数は、大きさの同じ無限集合ということになる。これをヘブライ語の最初の文字にちなんで「アレフ0」と名付けた。これを数えられるという意味で、可算集合と呼ばれる。実際は、無限に時間がなければ、数えられないけど。要するに、有理数で表されるのが可算集合ということになり、カントールは無限の中にうまいこと有理数の居場所を与えた。
こうなると数の概念そのものを見直す必要がある。幾何学は、辺の長さや角度といった概念を取り去り、位相幾何学を受け入れた。代数においても、数の大きさではなく、要素を対応させるだけの位相的な思考が必要なのかもしれない。次に、無理数ではどうなるか?カントールは、実数の集合が有理数の集合より大きいとした。この手の集合は、「アレフ1」とされる。不可算無限だ。実際は、連続体無限ということになろうか。無理数を有理数に対応させることは不可能であることは直感的に分かるが、証明することは難しい。それを、ポール・コーエンが、ゲーデルの不完全性定理によって証明したという。そして今日、多くの数学者が連続体仮説を真理だと受け入れている。ただし、非カントール的超限数の研究もあるらしい。
無限集合でありながら、集合の大きさが違うとは、これいかに?複数の神々がいて、それぞれ得意技も違うということか?まるで、一神教からギリシャ神話へ引きずり戻された感がある。カントールは、見事に無限の階層を描き、無限に存在する有理数が数直線上でわずかな空間しか占めないことを示した。
一方、無理数は数直線上を埋め尽くす。無理数から見れば、有理数なんて無のようなものか。人は日常生活で自然数でしか数えない。それは幸せかもしれない。数量に位相なるものがあるとすれば、1か多で抽象化できるだろう。これが無限たる天国の正体か?なるほど、飲む時、一杯をいっぱーいで抽象化すれば、幸せになれる。

5. 悪魔じみたエネルギーと無の真理
相対論は、空間ゼロでありながら、無限質量のブラックホールなるものが存在すると主張する。量子論は、質量ゼロでありながら、零点エネルギーなるものが存在すると主張する。
相対論では、宇宙船が光速に近づくと、時間の流れがどんどん遅くなり、ついには時間が止まるとされる。同時に宇宙船の質量は無限大へ。究極の時間ゼロは、無限エネルギーを生む。時空という概念を用いれば、時間ゼロは、空間ゼロへ還元できる。時間が歪めば、空間も歪む。アインシュタインは、引力の正体を時空の歪で説明した。だが、アインシュタインの重力場方程式には、絶対速度である光ですら逃れられない絶対質量の存在を予感させる。パウリの排他原理を適用すれば、物体は一点に潰れなくて済む。大雑把に言えば、二つのものが同時に同じ場所を占めることはないという原理だ。しかし、チャンドラセカールは、パウリの排他原理の及ばない領域があることに気づいたという。太陽の1.4倍の質量があれば、恒星はパウリの排他原理を打ち破ることができることを。
だが、そんなものは、宇宙のあちこちに散らばっているではないか。あまりに重力が強いため電子は恒星の破壊を食い止められず、電子は陽子に突っ込んで中性子をつくり、巨大な中性子星となる。さらに質量が大きくなると、構成要素がクォークに分解して、クォーク星になるとする考えもある。だとしても、これが最後の砦だ。さらにさらに質量が大きくなると、空間ゼロの点となる。ゼロ次元の無限質量とは、どういう存在なのか?光すら飲み込むのだから、暗黒点となるのだろう。銀河系の中心には、数百万から数十億太陽質量のブラックホールがあるとされる。
一方、量子論では、真空中の絶対零度においても零点振動が生じるとされる。しかも、無限エネルギーがゼロであるかのように振る舞うのだとか。プランクの法則によると、波長が短くなるにつれて、電磁波の放射は急激に無限大になることはないという。エネルギーは、波長が短くなるにつれて、どんどん大きくなるのではなく、再び小さくなるのだとか。ハイゼンベルグは、量子運動の不確かさを不確定性原理で説明した。この法則は、量子の位置と速度を同時に正確に測定できないことを告げる。位置を測定しようとすれば、観測者が量子の運動になんらかの関与をすることになるからだ。人間が認識しようとすると、宇宙法則を破壊するのかもしれん。それは、人間精神そのものが、量子によって構成されていることを示しているのだろうか?
「波動関数を、粒子がどこに現われるかについての確率を示すものと考えると、助けになることがある。電子はそれぞれ空間に拡がって存在しているが、それがどこにあるかを特定する測定をおこなったとき、空間のなかのある点にそれが見つかる確からしさは、波動関数で決まる。」
量子の波は、弦の原理とそれほど違わないという。ギターの弦が、可能な範囲の音をすべて奏でられるわけではない。自然に支配された禁じられる音がある。ピュタゴラスは弦の奏でる音に許される音と禁じられる音があることに気づいたという。
同じように禁じられた素粒子の波がある。ヘンドリック・カシミールは、素粒子がいたるところで、パッと生まれては消えるのだから、禁じられた素粒子波が真空中の零点エネルギーに影響するだろうと考えたという。真空中において、微小な距離で二枚の金属板を近づけると、その間に現われる許されない粒子があるとすれば、内側よりも外側のほうが粒子が多いことになる。そして、金属板は真空の中でぴったりとくっついてしまう。いわゆるカシミール効果というやつだ。これを真空の力というのかは知らんが、外部の力から内部の力、すなわち有から無を誘発したようにも映る。このあたりにダークマターの正体が隠されているのか?人間社会で言えば、無抵抗主義のパワーのようなものか?カシミール効果は、真空にもなんらかのエネルギーがあると告げているようだ。
もし、真空に無限エネルギーなるものが潜んでいるとしたら、それを少しでもいじると宇宙が崩壊してしまうかもしれない。やはり、真空はそっとしておいた方が良さそうか。無はそっとしておいた方が、真理もそっとしておく方が賢明かもしれん。

2012-11-11

"確率論の基礎概念" A. N. Kolmogorov 著

確率論といえば、ギャンブルの公理化というイメージがある。まぁ、それほど的外れでもあるまい。実際、事象が移り行く中で、その選択と結果によって成り立つ理論である。それが人為的であろうが、偶発的であろうが。過去の負けを引きずればマルコフ性を見失い、大局ではエルゴード性を示しながら賭け筋の本質、いわば性格や癖を露わにする。すべての結果を同時に体験することはできないし、いつも時間の方から判断を迫ってくる。うっかりしていると時は無意味に流れ、やり直しもきかない。まさに人生そのもの。そして、こんな不等式がいつも成り立ってやがる。

  人の欲望 ≧ 生きる時間

不等号が絶対に逆向きにできないのは、エントロピーの仕業かは知らんが、時間の収支が常に赤字であることははっきりしている。
さて、これを数学的に言うと、集合論の延長、いや、集合論の特化した理論とすることができよう。そこには、二つの重要な概念がある。一つは、独立性。事象の選択において、存在するかしないか、あるいは複数の状態に対してどちらかに転ぶということ。すなわち、事象族は和集合に限定でき、積集合にはならないということである。二つは、事象族が集合体をなすこと。すなわち、加法定理の世界に閉じられるということである。確率空間が集合体で定義されるのは都合がいい。結果も条件もすべての事象が有限加法族に属すとできるのだから。ただし、「条件つき」という概念が絡むと一概には言えないかもしれない。分布関数では条件別に検討しながら積で連結することになり、乗法定理を無視するわけにはいかない。たとえ、これら二つの概念によって完璧に説明できないにしても、確率論を基礎概念の観点から眺める上で、この方面からアプローチするのは取っ付きやすい。そして、有限空間から無限空間への拡張を論じることになる。また、集合論から特化できる法則が完璧に提示できるわけでもない。少なくとも、確率論は集合論の部分集合とすることはできそうか。
「2回またはそれ以上の回数の試行が、互いに独立であるという概念は、ある意味で確率論の中心的課題となるものである。実際すでに見てきたように、数学的観点に立てば、加法的集合関数の一般論をある特殊な場合へ適用したものが確率論である。」
本書には、アンドレイ・コルモゴロフの論文「確率論における解析的方法について」が併録される。ただ、基礎概念まではなんとか付いて行けるものの、実践例として紹介される解析的方法論に突入した途端に暗闇へと放り込まれる。やはり、数学の落ちこぼれを再認識させられる運命は変えられそうにない。

一般的な分布モデルは、時間の関数と捉えることができるだろう。そして、瞬間 t1, t2,... において、t0 ≦ t1 < t2 < ...の関係で考察することになる。また、事象の独立性の強弱、すなわちマルコフ的かどうかが重要な判断基準となる。あるいは、試行回数への依存性、すなわちエルゴード性を検討することも欠かせない。こうした考察は、「大数の法則」の適用限界から論じられる。
さらに、確率論には「抽象ルベーグ積分」が欠かせないという。期待値を抽出する上で積分的な思考が鍵となるのは想像に易い。極限の存在する集合体であれば、積分操作を可能にするのだから。ここでは、リーマン積分をかなりの部分で改善した考え方を提示してくれる。しかし、確率空間で連続性を前提にしているが、現実には積分不可能な領域もあろうに。ユークリッド空間上に存在する集合体であれば、なんらかの測度で幾何学的に記述できると仮定しているのだろうか?抽象ルベーグ積分の性質を眺めていると、なんでもありに見えてくる。実際、「すべての有界な確率変数は積分可能である。」と断言している。
また、「0-1法則」が付録されるのは、極限確率が 0 か 1 になるケースが基本ということであろうか?確率過程の生存定理として眺めれば、そうかもしれない。
本来、数学とは解釈の余地を与えないものであるが、基礎概念のレベルで解釈しようと躍起になっているところに数学のセンスの無さを思い知らされる。さて、分布関数が連続積分で定義できるならば、ラプラス変換に持ち込めて話は早い。とはいっても、変換表に頼るしかないけど。どうせ数学の落ちこぼれには、結果を鵜呑みにして使ってみるぐらいしかできないのよ。工学系とはそういう世界ではあるのだけど。理屈を知らずに実践することの恐さというものを痛感してきただけに、なんとかしたいものだが...
現実の世界では、ほとんど条件つき確率に支配されるだろうが、その条件の抽出が難しい。限られた条件で推測しようとすれば、極限の大小関係を考察することになる。そして、あの忌わしいε-δ論法的な思考が要求される。ここに登場する数式も不等式の山!おっと、アレルギーが...

ところで、確率ってやつは、基礎理論は単純でも、それを用いるとなると手強い!いくら立派な公理化を示しても、実践した途端に主観に支配されギャンブルに引きずり込まれる。条件を抽出するのは人間の直感なのだから。あらゆる科学的研究がこのジレンマに陥る。気象予測や市場予測といったあらゆるシミュレーション結果が思惑から大きく乖離すると、研究成果に疑問が持たれ予算がつかない。そこで、研究者は条件パラメータを微妙にいじりながら、思惑の範疇に結果を収めようとする。実際、世界最高レベルのコンピュータが弾き出した結果ですら、政治的思惑で揉み消される。人間とは、賭け事となると豹変し、目の前にある不都合な条件が見えなくなる生き物らしい。いまだ人類は、主観と客観を調和させることができないでいる。それが重要だと知りながら。確率論とは、直感を直観に昇華させる試みとでも言っておこうか。直観を研ぎ澄ますことができれば、あるいは確率論を決定論的モデルへと昇華させるかもしれない。そして、神の思惑が見える?かは知らん。

1. 公理系とベイズの定理
まず、確率空間を定義する。要素ωの集合をΩ とし、Ωの部分集合を要素とする集合族を とする。この時、ωを根元事象、Ωを標本空間、 の要素が確率事象である。

Ⅰ. は集合体である。
Ⅱ. の各集合Aに、非負の実数P(A)を定め、これが事象Aの確率である。
Ⅲ. P(Ω)= 1
Ⅳ. AとBが共通の要素をもたないとき、P(A + B) = P(A) + P(B)

上記公理を満たす3つの組 (Ω、、P) が確率空間である。
がΩと空集合からなるとすると、P(Ω) = 1, P(∅) = 0 となる。
しかしながら、この公理系は完全ではないという。実践してみると、様々な例外的な確率空間が考えられるようだ。
確率論では、現実世界に対して、ある事象が起こる確率と起こらない確率で抽象化する。しかも、確率は、何回でも繰り返し、階層構造として捉えることができる。この特徴は独立性と相性がいい。
A, B, ... , N が互いに排反であれば、加法定理が得られる。

  P(A + B + ... + N) = P(A) + P(B) + ... + P(N)

ここで、P(A) > 0 の時、条件付き確率を定義する。

  P(B|A) = P(AB) / P(A)

すると、次式が得られる。

  P(AB) = P(B|A) P(A)
  P(A12...An) = P(A1) P(A2|A1) P(A3|A12) ... P(An|A1...An-1)

つまり、条件付き確率は乗法定理で定義できる。
さらに、ごく当たり前の操作で変形していくと、次式が得られる過程を示してくれる。

  P(AB) = P(A|B) P(B)
  P(A|B) = P(A) P(B|A) / P(B)

これはベイズの定理に他ならない。

2. 確率変数
基礎集合 Ω = A1 + A2 + ... + Am と、関数ξ(ω) を対応させる。

  ξ(ω) = Σ xAi(ω), (1 ≦ i ≦ m)

Ai は集合の定義関数で、
  ω ∈ Ai ならば、Ai(ω) = 1
  ω ∈ Aic ならば、Ai(ω) = 0
尚、Aの補集合を、Ac で表す。この時、ξを有限個の値 x1, x2, ..., xm を確率変数と定義する。さらに、変数ξの期待値を次式で定義する。

  Eξ = Σ xP(Ai), (1 ≦ i ≦ m)

また、確率密度は分布関数 ξ(x)の導関数で定義される。

  fξ(x) = dξ(x) / dx

もちろん、微分可能であればだけど。変数列が収束すれば確率も収束し、確率が収束すれば期待値も導けるという仕組みであろうか。

3. 無限確率空間とボレル集合体
無限確率空間では、連続性の公理を前提すると宣言される。そして、公理Ⅴが定義される。

Ⅴ. の事象の減少列 A1 ⊇ A2 ⊇ ... ⊇ An ⊇ ... について、
    積集合 ∩An = ∅ ならば、lim P(An) = 0

しかしながら、加法定理からすると、次式が成り立つ。

  P(A) = P(A1) + P(A2) + ... + P(An) + P(Rn)

尚、Rnは、Rn = ΣAm (m > n) で抽象化したもの。
ん???独立な無限確率空間では、確率が 0 に収束しながら、加法定理に留まるということか?有限界では無矛盾に見えても、無限界に拡張した途端に完全な公理系ではないことを匂わせる。このあたりが確率論を難しくさせるところであろうか。
そして、「ボレル集合体」が紹介される。すべての開集合から生成される完全加法族で、集合ωの部分集合からなる集合体 に含まれる集合Anのすべての可算和 ΣAn もまた に含まれる集合体のことだそうな。その公式は、こうなる。

  和集合 ∪An = A1 + A21+ A32c1c + ...

尚、Aiの補集合を、Aic で表す。

4. 抽象ルベーグ積分とチェビシェフの不等式
条件付き期待値を、乗数の精度内で積分と一致させるようなことを考える。抽象ルベーグ積分の性質では、すべての有界な確率変数は積分可能だという。というより、そのように持ち込むのだろう。そして、次のことが導かれるという。

Ⅰ. |Eξ| ≦ E|ξ|
Ⅱ. ξ(ω)が積分可能として、0 ≦ η(ω) ≦ ξ(ω) であれば、η(ω)も積分可能で、Eη ≦ Eξ
Ⅲ. inf ξ(ω) ≦ Eξ ≦ sup ξ(ω)
Ⅳ. 実数 K, L において、E(Kξ+Lη) = KEξ + LEη
Ⅴ. 級数 ΣE|ξn| が収束すれば、E(Σξn) = ΣEξn
Ⅵ. ξ, η が同値ならば、Eξ = Eη
Ⅶ. すべての有界な確率変数は期待値をもつ

また、チェビシェフの不等式を紹介してくれる。実変数xの非負の関数f(x)において、x ≧ a の時、f(x)の値は、b > 0 より小さくなることはないものとする。すると、任意の確率変数ξ(ω) について、期待値Ef(ξ)が存在すると仮定すると、次式が成り立つという。

  P{ξ(ω) ≧ a} ≦ Ef(ξ) / b

さらに、特別に重要なケースは、f(x) = x2 の時だとし、次式が導かれる。

  P{|ξ(ω)| ≧ a} ≦ Eξ2 / a2

これが、チェビシェフの不等式と呼ばれるものらしい。確率変数ξ(ω)に対して確率の下限が規定できるということか。んー...証明はにわかに信じがたいが、結果は貴重である。

5. 大数の法則
確率変数の列 η1, η2, ..., ηn, ... において、任意の正数 ε に対し n → ∞ の時

  P{|ηn - dn| ≧ ε} → 0

となる数列 d1, d2, ..., dn, ... が存在する時、確率変数 ηn「安定」であるという。
また、すべての期待値 Eηn において

  dn = Eηn

とおくことができる時、安定性は「正規」であるという。
「有界な変数列の安定性は正規でなければならない。」
また、ε に対して n → 0 の時、確率変数 ηn - dn が 0 に収束するような、すなわち、次式が成り立つような場合

  P{lim(ηn - dn) = 0} = 1

確率変数 ηn「強安定」であるという。ここでは、試行回数への依存性を検討していることになる。個々の試行が、大きな試行回数 n に対して、依存が小さい時、変数 ηn は安定していることになる。つまり、マルコフ的。これは、エルゴード性の評価に使えそうだ。そして、生命保険会社は、大数の法則を当てにする。

6. 0-1法則
0-1法則とは、極限確率が 0 か 1 に限られる一般定理のことらしい。
任意の確率変数 ξ1, ξ2,... において、f(x) = f(x1, x2,...) は、変数 x = (x1, x2,...) のベール関数とする。そして、最初の n 個の変数 ξ1, ξ2, ..., ξn が既知であるとする。
これらの条件の下での関係
  f(x1, x2, ..., xn, ...) = 0
が成立する条件つき確率
  P{f(x1, x2, ..., xn, ...) = 0 | ξ1, ξ2, ..., ξn}
が、各 n について、絶対確率
  P{f(x1, x2, ...) = 0}
に等しいとすると、絶対確率は、0 または 1 になるという。
結果的に、確率が極端になるケースはよくある。存在するか存在しないかという問題も、0 か 1 に収束する。しかし、これを予測の段階で断言することは難しい。断言できるいくつかの事例が、レヴィによって発見されているそうな。

7. 確率過程と正規分布
「なんらかの物理システムにおいて、ある時刻 t0 での状態 X0 がわかるとき、時刻 t > t0 にとりうるこのシステムのすべての状態 X の確率分布がわかるのであれば、この物理過程(システムの変化)は"確率的に規定される"という(この過程を確率過程という)。」
確率過程という用語は当たり前のように使っているが、意外と説明するのが難しいことに気づかされる。通常、確率過程は、時間で区切った離散系列と見なすところがある。実際、出来事をスナップショットのように思い浮かべる。しかし、ここでは時間の連続性が暗示される。連続過程を前提するから、微分方程式に持ち込めるのだけど。
本書は、ラプラスの正規分布は自然で無理のない簡潔なものだという。そして、論文「確率論における解析的方法について」の中で、ラプラスの一般公式からポアソン分布を得る事例が紹介される。そして、級数
  a = ΣkPk, b2 = Σk2k
が絶対収束すれば、次のラプラスの一般公式の適用可能性の条件が問題になるとしている。

  Pkp = 1 / {b√(2πp)} exp [- (k - pa)2 / 2pb2 ] + o(1 / √p)

この式が正規分布の確率密度関数を予感させると言えばそうなんだけど、自然で簡潔な形と断言できる感覚は宇宙人か?確率過程の基本モデルが正規分布にあるにせよ、拒絶反応を増幅される結果に終わるのであった。はぁ~...

2012-11-04

ポータルサイト変更...GさんからYaさんか?いや、Neちゃんとバイブする!

夏頃であろうか、Gさんサービスが次々と抹殺される中、iGoogleの終了(2013年11月1日)がアナウンスされた。一年以上前から宣言してくれるのは助かるが、愛用してきただけに痛い!まさか、Blogger の廃止なんてこともありうるのか?覚悟しておく必要はあるかもしれない。いつサービスやサイトが閉鎖され、一瞬のうちに大企業が消え、それどころか、産業ごと頓死しても不思議ではない時代。Gさん依存を見直すのに良い機会か。その前に、コンピューティング依存が問題か。だが、人間は何かに依存しなければ生きてはいけない。
ちなみに、アルコール依存のリスク管理はバッチリだ!スコッチ、ブランデー、ラム、純米酒、焼酎、たまにフルーティーなカクテル...これだけ分散させればヘベレケで幸せ!

さて、次の入り口をどこにするか?まず、My Yahoo! を一ヶ月ほど試行してみる。んー、そんなに悪くない。巷では、Netvibes もなかなからしい。おフランス育ちだけに恐る恐る近づいてみると、ほとんど日本語化が進んでいる。軍配を上げるなら、Netvibes であろう。レイアウトの自由度とコードを埋め込める柔軟性が気に入った。対して、My Yahoo! の広告の仰々しさは、Yaさんの押し売りか。
色分けすると、運用効率を目指す Netvibes、ショッピングやオークションまでも含めた統合環境を目指す My Yahoo! といったところであろうか。ユーザ囲い込みの観点から、哲学的に惹きつけようとするのに対して、大々的な広告塔になりきろうとする、といった違いであろうか。とりあえず、コード集めの視点から Netvibes、コンテンツ集めの視点から My Yahoo! で併用してみる。おかげさまで、i(愛)のあるGさんはいつでも葬れる。もちろんメインは、おNeちゃんに決まってるやん!おフランス娘に、Yaさんがバックにつけば最強よ。これで毎日バイブす...やめられまへんなぁ~

1. Netvibes
レイアウトの自由度、コンテンツの柔軟性、運用の効率性、そして、ユーザの自立性といった哲学がうかがえる。サービスなんてものは、サービス会社に提供してもらうものではなく、利用者自身で構築するものかもしれん。I/F設計さえちゃんとしていれば、パーツを集めてくればいいので、コンテンツにこだわる必要はない。こういうのを魅せつけられると、コンテンツにこだわっていた自分が馬鹿らしくなる。その特徴はこんな感じ...

  • ウィジットの柔軟性が高い!この仕掛だけでも、かなりの可能性が見えてくる。
    「HTML」や「HTML editor」で Javascript やブログパーツが直接埋め込める。
    「Web Page」でURLが指定でき、いざとなればどこのサイトでもコンテンツ化できる。
    ちなみに、マーケット情報は次のサイトから株価やチャートを埋め込んでいる。
    http://www.invest-jp.net/
    http://finance.mvon.net/tool/makeboard.html
  • 検索エンジンがオン・オフできる。これは意外と大きい機能で、表示スペースが効率化できる。 ポータルサイトでは、検索エンジンを目立つところに配置する文化が根付いている。 ほとんどのブラウザが検索I/Fを持っているというのに。こんな当たり前なことを気づかせてくれる。
  • レイアウトの自由度が高い!タブ別にコンテンツを横4列まで配置可。横幅も自由に変えられる。
  • コンテンツが豊富!Googleカレンダーや Google Map などGさんサービスとの連携もなかなか。
    「E-mail Wizard」は、GMail, Yahoo!mail, Hotmaiil、その他POPに対応。
    「SNS Wizard」は、Facebook, Twitter, Linkedin との連携に対応。
  • RSSリーダとしてのユーザビリティはかなりいい。未読数も一目瞭然!
  • しかし... ちと重い!記事のリアルタイム性を重視している模様。
    日本人向けのコンテンツもいまいちか。天気予報は地域設定ができるものの、国内予報と微妙に違う。

2. My Yahoo!
広告の鬱陶しさだけで、ヤル気が失せる。なので、最初にブラウザ側でやる作業が、アドオン「Adblock」でPRの抹殺!その特徴はこんな感じ...

  • 日本人向けのコンテンツでは、Netvibes よりもいいものがある。天気予報や電力使用率など。Yahooファイナンスのポートフォリオがコンテンツとして用意されるのがありがたい。
  • 背景テーマは少ないが、タブごとに選択できる。
  • しかし... レイアウトをはじめ自由度が低い。分かりやすいとも言えるが。
    検索エンジンが当然ながら Yahoo!

3. ついでに、iGoogle
コンテンツでは「ピンポイント天気予報」と「雨雲レーダ」がお気に入りだったが、おかげでこだわりは薄れた。
さて、Gさんについて何か書こうとすると、Blogger の愚痴が始まった!
...ラベル数の値が一致しないことがあった。...統計情報はチャラにされたこともあった。数値そのものもあてにならない。...作成した文章に奇妙なhtmlタグが入ることもあった。おかげで、必ずhtmlモードでコードを確認する癖がついた。...
このような細かな不具合がユーザの気づかない所で頻繁に起こっている。また、新機能の品質の悪さは当たり前という感覚が定着し、半年は近寄らないことが習慣となった。圧倒的多数が気づかなければ、なんでもありか?これが、Gさん式民主主義なのか?
とはいえ、自由度が高いのも確かで、Gさん依存は相変わらず高い。所詮、俗世間の酔っ払いはサービスの奴隷よ。

2012-10-28

"幾何学入門(上/下)" H. S. M. Coxeter 著

マンデルブロは、著書「フラクタル幾何学」の中で自己アフィン性について熱く語ってくれた。次は、基本に戻ってハロルド・スコット・マクドナルド・コクセターに挑戦してみる。しかし、これが入門書とは...手強い!
本書は、ユークリッド幾何学から、アフィン幾何学、射影幾何学、位相幾何学(トポロジー)、そして、四次元幾何学すなわち多胞体までを概観してくれる。20世紀になると代数学や解析学の発達により、幾何学は補助的な地位に追いやられた。コクセターは、幾何学の名誉回復の趣旨で、この書を記したという。そして、古典への回帰とその重要性を仄めかす。
「本書全体の流れる統一的な筋は、変換群の思想、一言でいえば、シンメトリー(対称性)である。」

幾何学の歴史には、ユークリッド原論の第五公準をめぐっての攻防がある。それは平行線公理と呼ばれ、五つの公準の中で、こいつだけが明らかに異質だ。ここに、ユークリッドは非ユークリッド幾何学の可能性を示唆していたと想像するのは、考え過ぎだろうか...などと発言すると学生時代に笑われたものである。
ここでは、第五公準を境界にして、アフィン幾何学と絶対幾何学とで区別される。アフィン幾何学とは、第五公準を崇める立場にあり、ひたすら平行移動で変換系を構築しようとするもの。逆に言えば、第三公準や第四公準で示される円や角といった概念を無視する。いや、疎かにするぐらいか。対して、絶対幾何学とは、最初の四つの公準だけに依拠する立場にあり、平行性の概念を無視するもの。こちらは完全無視か。いずれも非ユークリッド幾何学に位置づけられるが、どちらが抽象度が高いかは知らん。アフィン幾何学は、特殊相対性理論で適用したミンコフスキーの時空にも成り立つという。幾何学的操作の基本には鏡映、回転、併進があり、線対称や点対称といった対称性の原理に見舞われる。そして、ベクトルが強力な道具となる。

「ベクトルと平行移動とは、呼び名はちがっているが、事実上は同じものである。」...ヘルマン・ワイル

図形を分割して順序に着目すると、そこに連続性のなんたるかが見えてくる。分割単位を無限小にすれば微分に結びつく。
「ふつうに行われている平行の概念は、少し拡張して、2直線は共通点をもたないか、2点以上を共通するとき平行としておく方が何かとつごうがよい。」
連続の公理については様々な記述があろうが、一つはコーシー点列が極限を持つということは言えそうか。となると、ユークリッド幾何学の多くの命題はアフィン幾何学に属すのだろう。ただ、絶対幾何学と名付けるからには、こちらの方が高尚さを匂わせる。なんとなく聖書にも通じそうなネーミングだから。トポロジーのドーナツとコーヒーカップが同じ形だなんて宇宙人の発想としか思えないし、射影幾何学にしても透視図法(いわゆる遠近法)やケプラーの無限遠点は芸術の視点だ。デザルグの定理に関する記述は、まさに芸術家の眼を物語る。
「2つの三角形が1点を中心として配景的なら、それは直線と軸としても配景的であり、また逆に、直線として配景的なら、点を中心としても配景的である。」
しかし、いくら非ユークリッドを主張したところで、双方ともユークリッドの部分幾何学であることに変わりはない。物理空間であろうと、精神空間であろうと、どんなに空間概念が進化しようとも、ユークリッドの亡霊からは逃れられない。やはり、ユークリッドの作品と後世に渡って構築されてきた完璧な証明群は、人類最高の記念碑と言わねばなるまい。

「数学は真理であるばかりでなく、最上の美でもある。数学は、ちょうど彫刻のそれのように、冷たく厳しい美であって、われわれの弱点をひきつけることは絶対ない。数学は、この上なく純粋で、最高の芸術のみが示しうるあの強固な完璧さに達することができる。」...バートランド・ラッセル

解析幾何学で、絶対に欠かせないのが座標の概念である。おかげで、方程式が導入でき、あらゆる変換系が説明できる。行列式は一段と輝きを放ち、三角関数もまた生きるというもの。方程式を単純化して事物の本質に迫ろうとすれば、座標系の方に手を加えることだってできるし、幾何学的な形そのものが座標系になることだってできる。円錐曲線の性質は、放物線を特別な形状空間に幽閉する。まさに相対的な認識能力しか持てない人間の技である。座標系を勝手にいじるなんて、絶対座標系を持った神には思いつきもしないだろう。
「解析幾何学というのは、n 次元の空間の点を、座標という n 個の順序のついた数の組で表わす方法であるといってよい。」
精神空間が歪んでいれば、真っ直ぐなものも曲がって見えるだろうし、曲がったものが真っ直ぐに見えることもあろう。実際そういう言い方をする。心が曲がっているなどと。数学は直線を好むが、芸術心は曲線美を好む。美を競う女体は至る所に曲線を魅せつけ、女どもはくびれ作りに執心だ。男どもは男どもで右曲がりのダンディズムを目指す。精神空間に曲率があるとしたら、心が曲がっている方が正常なのかもしれん。そして、精神になんとなく角度があることを感じながら、三角形に憑かれる。ピタゴラスの定理やヘロンの公式を眺めるだけで落ち着くのは、三角形に心のふるさとを感じるからであろうか?二体問題は完璧に解けるのに、三体問題になると途端に解けない。だが、人は皆、複雑で退屈しない空間がお好き。だから、三角関係や三面記事を好むのか?やはり心が曲がってそうだ。
非ユークリッド空間に馴染めば、2平面が交わっても直線を共有しないことがあると言われても、まごつくことはないだろう。しかし、主観には様々な曲率が混在しているように思える。曲率の違った空間を複合して精神空間を形成すれば、それは何幾何学と呼ばれるのだろうか?多重人格の正体は、多重曲率空間であったか...

「わたくしは、自分が世間の眼にどう映っているかは知らない。けれども自分自身としては、海辺にあそんでいて、時折ふつうよりもなめらかな石や美しい貝をみつけて楽しんでいる子供にすぎないのではないかと思われる。しかも真理の大洋はまるで未知のままに、わたくしの眼前によこたわっている。」...アイザック・ニュートン

本書の話題は、目が回るほど豊富だ。定規とコンパスで作図できる条件とフェルマー素数の関係、等長変換と相似変換、結晶格子学、黄金分割と葉序、テンソル記法とクリストッフェル記号、デュパンの標形、デザルクの定理、完全6点列、有限回転群とプラトン立体の関係、四色問題と六色定理、オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理、多胞体とシュレーフリの公式など...難解ではあるが、眺めているだけでなんとなく癒される。こういう感覚になれるのは...真理の偉大さがそうさせるのか?やはり真理とは、人をMにするものらしい。

1. 完全6点列と調和点列
射影幾何学の最も美しい特質の一つは、双対原理であるという。射影平面上の定理では、「点」と「直線」という語を入れ替えても、定理が依然として成り立つというから驚きだ。共線変換では、直線を直線に、点列を点列に、線束を線束に、完全四角形を完全四角形に変換する。相反変換では、点を直線に、直線を点に、点列を線束に、完全四角形を完全四辺形に変換する。
尚、完全四角形とは、平面上の4つの任意の点を2点ずつ2組に分ける組み合わせは3通りあり、これらの点を結ぶと6本の直線が引け、その4点と6直線とでできる図形である。完全四辺形とは、平面上に4本の直線があり、どの2本も平行ではなく、どの3本も共通の交点をもたない場合、直線どうしの6個の交点からなる図形である。
「完全四角形の2組の対辺がそれぞれ垂直ならば、残りの1組の対辺も垂直である。」
また、無限遠点が特別な役割を果たさないという事実を強調するために、重心座標を放棄するという。具体的には、完全6点列が調和点列になる特殊な例を紹介してくれる。完全6点列とは、完全四角形の6直線を、その頂点を通らない任意の直線で切ってできる図形のことで、6点列が特殊な場合において調和点列をなすという。ちなみに、調和点列では、任意の点 A, B, C, D が直線上にある時、AB : BC = AD : DC の関係になる。
完全6点列の各点は、残りの5つの点から一意的に定まるわけだ。任意の点を直線上以外に選び作図していく様を眺めれば、調和点列は定規だけで作図できることが見えてくる。そして、調和点列を射影座標と見ることもでき、二次元空間を一次元空間に投射していると解することもできる。

射影幾何学の基本定理:
「射影変換は、1つの点列の中の3点と、他の点列の中のそれに対応する3点を指定すれば、一意的に定まる。」

2. 有限回転群と無境界仮説
回転とは、例えば集合 (a, b, c, d, e, f) において、a と b を交換し、 c を d に、d を e に、f はそのままといった変換をする。要するに部分的な巡回置換だ。こうした巡回群を、幾何学的に解釈するとどうなるか?例えば、正三角形を一辺について対称変換を行い、この操作を繰り返せば、正四面体が形成される。このような回転群は必然的に円軌道を描くだろう。しかも有限回に閉じられるはず。なるほど、有限回転群と巡回群は同型の群と見なすこともできそうか。次の記述が、五つのプラトン立体に通ずるのは言うまでもない。

「3次元の有限回転群は、巡回群 Cp(p = 1, 2, 3, ...)、二面体群 Dp(p = 2, 3, ...)、
四面体群 A4、八面体群 S4、20面体群 A5 にかぎる。」

ところで、有限回転群に支配された空間とは、どんな世界であろうか?1点を通るすべての直線が一巡して元へ戻るように、1直線上の点の集合は閉じている。有限の平面に閉じられる点が、直線上を永遠に進めば、元の位置に戻る。すると、回転群をどんどん細かく分割していき、無限集合に拡張しようとすると、直線はやがて曲率を持ち始め、ついには円になるということであろうか?距離の変換によって、直線は円に近づき無限遠となって極限は消滅する。数学的に言えば、集積点が消滅する。第五公準を仮定しなければ、永遠に円の中に幽閉されるではないか。これが宇宙の無境界仮説の正体なのか?んー...そうだと勝手に解釈しても、今度は曲率が負になる空間が説明できない。曲率が負になる空間を、単純に曲率が正の宇宙の外側の空間とすればいいのか?だとすると、宇宙の外側の空間では、二度と同じ位置に戻れないということか?そうかもしれん。これが時間の正体なのか?だから、人はいつも心の外で後悔し続ける。これを客観性と言うのかは知らん。人間が思考するとは、ハムスターが回し車の中で永遠に走っているような状態を言うのかもしれん。

3. テンソル記法とクリストッフェル記号
「有名なリッチの記法を導入しよう。この記法は意味深くもあり経済的である。この助けがなかったとしたら、一般相対論を定式化することはおそらく不可能であったろう。」
テンソルは、多次元の行列として表現できる便利な道具で、線形性を扱う時に病みつきとなる。例えば、ベクトル空間の基底 r1, r2, r3 に対して、双対基底 r1, r2, r3 を用いると、次のように表せる。

  rα・rβ = δαβ

δは、クロネッカーのデルタとして知られる。ただし、αとβは、単なる添字にすぎない。この記法を幾何学に持ち込むと、r1 は、平面 r2r3 に垂直で、長さは、r1・r1 = 1 となる。r2 や r3 についても同様。また、共変テンソル gαβ = rα・rβ と、反変テンソル gαβ = rα・rβ という二つの対称行列の積は単位行列となる。
そして、クロネッカーのデルタと似た交代記号を紹介してくれる。交代エプシロンとかいうもので、なかなか便利そうな形をしている。

  εαβγ = εαβγ = 1/2(β - γ)(γ - α)(α - β)

さらに、クリストッフェル記号を見せられると、ある種の巡回群が見えてくる。

  第一種クリストッフェル記号: Γij,k = 1/2{ (gjk)i + (gik)j - (gij)k }

これが測地線の大定理として紹介されると、精神空間もテンソル記法でモデリングできるのではないかと思えてくる。

4. デュパンの標形とオイラーの公式
デュパンの標形が、曲面率を与えるオイラーの公式になるプロセスは感動モノだ。

デュパンの定理:
「たがいに直交する3つの曲面系では、そのうちの1系の曲面上の曲率線は、かならず2つの系の曲面の交わりになっている。」

リューヴィルの定理:「すべての等角変換は球を球に移す。」

曲面がモンジュの形 z = F(x, y) で与えられると、導関数は次のようになる。

  z1 = ∂z/∂x, z2 = ∂z/∂y, z11 = ∂2z/∂x2, z12 = ∂2z/∂x∂y, z22 = ∂2z/∂y2

そして、マクローリン展開すると、次のようになるという。

  z = z(0, 0) + z1x + z2y + 1/2(z11x2 + 2z12xy + z22y2) + 1/6(z111x3 + ...) + ...
     = 1/2(b11 x2 + 2 b12xy + b22y2)

この平行平面の切り口は円錐曲線の形になっている。デュパンの標形とは次のようなもので、これと相似になるということらしい。

  b11 x2 + 2 b12xy + b22 y2 = ±1

また、標形上で任意の方向での動径の長さは、この方向での法曲率半径の平方根に等しいという。原点からのベクトル r(x, y, z) において、法曲率 k とすると、次の関係が得られるという。

  r = 1 / √|k|

これを極座標系に変換すると、曲面率を与えるオイラーの公式になる。

  k = k(1) cos2 θ + k(2) sin2 θ

5. オイラーの多面体定理とヒーウッドの定理

  V - E + F = 2 (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)

これがオイラーの多面体定理である。任意のコンパクトな曲面上に対して成り立つ公式に拡張すると、次のようになるという。

  V - E + F = χ ≦ 2

χをオイラー - ポアンカレの標数と呼ぶそうな。
また、ヒーウッドの定理は、任意の曲面を塗り分けるのに十分な色数を規定する。
「種数 χ < 2 の曲面上の地図を塗り分けるには、高々 N 色で十分である。」

  N = {7 + √(49 - 24χ)} / 2

ここで種数について議論され、種数 p において次式が成り立つという。

  χ = V - E + F = 2 - 2p

尚、球面は種数0、円環面(トーラス)は種数1の閉曲面となり、この場合の種数は穴の数ということになろうか。ただ、ヒーウッドの公式は、以下の形の方をよく目にする。

  N = {7 + √(1 + 48p} / 2

6. 正多面体と正多胞体
正多胞体とは、3次元の正多面体すなわちプラトン立体を四次元に拡張したものである。正多面体は、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の5種類ある。一方、正多胞体は、正五胞体、正八胞体、正十六胞体、正二十四胞体、正百二十胞体、正六百胞体の6種類ある。これらをシュレーフリ記号で表すと、次のようになる。
尚、シュレーフリ記号は、構成面の正 p 角形、各頂点に集まる面数 q とした時、4次元では {p, q} を胞(セル)と呼び、一辺に集まる胞数 r とすると、{p, q, r} の形で表す。


シュレーフリ記号V, E, F
正四面体{3,3}4,6,4
正四面体(立方体){4,3}8,12,6
正八面体{3,4}6,12,8
正12面体{5,3}20,30,12
正20面体{3,5}12,30,20
  (V:頂点の数, E:辺の数, F:面の数)


シュレーフリ記号N0, N1, N2, N3
正五胞体{3,3,3}5,10,10,5
正八胞体{4,3,3}16,32,24,8
正16胞体{3,3,4}8,24,32,16
正24胞体{3,4,3}24,96,96,24
正120胞体{5,3,3}600,1200,720,120
正600胞体{3,3,5}120,720,1200,600
  (N0:頂点の数, N1:辺の数, N2:面の数, N3:胞の数)

こうして頂点や辺や面や胞の数を眺めるだけで、対称性の原理に秘められた真理の数なるものの存在を予感させる。「万物は数である」と信じても不思議はないか。やはり、幾何学は宗教であったか。

2012-10-21

"フラクタル幾何学(上/下)" Benoit B. Mandelbrot 著

買ったはいいが、一年ぐらい積まれたまま、亡霊のように付き纏う奴らがいる。それは未読エリアと呼ばれ、退治に乗り出しても乗り出しても、部屋の一郭に代わる代わる陣取ってやがる。もはや、混沌とした知識の山が異次元空間に埋もれていくのを、指をくわえて見ているしかない。中でも、こいつは一際手強い。なにしろ数学界の怪物を相手取るのだから...

怪物たちは、非整数次元や非整数微積分という奇妙な空間に住んでやがる。非整数というからには離散性を否定する。しかし、だ。連続性を主張しながら、微分不可能とはどういうわけか?ユークリッド幾何学では、点、線、面...を、0次元、1次元、2次元...に対応させる。つまり、次元は整数で組み立てられる。非ユークリッド幾何学の立場にトポロジー(位相幾何学)があるが、位相においては連続性を保っても、次元の移行ではやはり離散性を示す。徹底的に連続性を崇めるならば、空間次元においても連続性を保ちたい。そこで登場するのがフラクタル次元だ。
フラクタル幾何学とは、ユークリッド幾何学やトポロジーで常識とされる離散的次元を連続的次元に拡張しようとするもの、とでも言っておこうか。尚、ライプニッツは、既に微積分を非整数で一般化していたそうな。その意味で、古典数学に隠された素顔を暴こうとする試みである。ユークリッド空間では、直線は1次元だが、海岸線は平面に拡がるので2次元ということになる。トポロジー空間では、直線も海岸線も同じ線だから、位相で抽象化されて1次元となる。ところが、フラクタル空間では、直線より海岸線の方がどう見たって複雑なのだから1次元より大きく、正方形のように面を埋め尽くすわけでもないのだから2次元より小さいとする。こうした視点は極めて感覚的ではあるが、合理性があるかもしれない。
議論する時、人は「思考の次元が違う」などと言い相手を蔑む。次元は認識空間において自己存在にかかわる重要な問題なのだ。そこで、3次元空間に肉体を置くと知りながら、精神という証明のしようのない空間に救いを求める。やはり次元の違う自我がどこかに存在するのだろうか?精神空間にはフラクタル次元のようなものが形成されているのだろうか?おそらくそうだろう。その証拠に、いつもフラフラよ!千鳥足になってどんなに複雑な軌道を描こうとも、俺は酔ってないぜ!と主張し、真っ直ぐ歩いているつもりでいるのだから。

フラクタル幾何学を実践面から眺めると、まだまだ未知数のようだ。とりあえず統計解析の分野で利用されるのだろう。おいらは、統計学と聞くと拒否反応を示す。というのも、分布モデルに当てはめることに執着し過ぎるように思えるからである。モデリングに失敗すれば、簡単にピント外れな議論に陥り、たちまち誤謬をばらまくことになる。その意味で、数学から程遠く、社会学に近い印象がある。なによりも、型に嵌めようとする考え方が嫌いなのだ。その代表と言えば、ガウス分布。正規分布とも言うが、何が正規なんだか?初等教育で学業成績の偏差を例に持ち出せば、学生は素直にうなずく。しかし、現実社会には非ガウス分布が溢れている。新たな問題が発生すると、とりあえずガウス分布に当て嵌めてみる。その考えが悪いとは思わないが、信仰化する傾向がある。株式市場ですら、ちょいと前までガウス過程を想定してきた。ド素人感覚で言えば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいものをと思うのだが、おそらく複雑系を相手取ると、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。
本書は、統計理論があまりにもガウス過程を信じこんできた弊害を指摘している。ガウス過程に着目して非定常性を想定するために、スケーリング則に持ち込めず、幾何学的な解析ができないと。逆に、定常性に着目して非ガウス過程を受け入れれば、安定した確率過程でモデリングできるという。スケーリングとは、拡大縮小や鏡映や回転などの幾何学的な変換操作とでもしておこうか。その重要な特性に自己相似性があるが、ここでは「自己アフィン性」という用語を持ち出している。
ところで、アフィン変換って、ユークリッド幾何学で言うところの第5公準を中心にした物の考え方じゃなかったっけ?つまり、ひたすら平行移動だけで変換系を説明しようするもので、その中心的概念は合同や相似ということになる。学術的な立場からすると、曲率を中心にしたトポロジーとは真逆な発想で、抽象レベルでは低い方向に映る。
そこで、例のごとく思考が勝手に暴走を始めるのであった...
相似性だけで複雑な現象に追従しようとすれば、拡大縮小、回転、鏡映、反転、ループ、カスケードなどの操作が必要になる。ただ、時間軸と空間軸で同じ相似比ではかなり制約を受けるので、各々の次元で独立した相似比に対応させることになる。連続性を保つならば、どこかに不動点が存在するかもしれない。不動点が存在しなければ単純な平行移動で、不動点が存在すれば逆変換と捉えることもできそうか?つまり、回転操作に対して不動点で簡略化できるということか?その意味では抽象レベルが高い方向なのか?また、スケーリングでは、対数スケールや指数スケールに留まらず、あらゆる関数的スケールまでも含まれるのであろう。ただ言えることは、その根底に対称性の原理があるということ、そして、手に負えない無秩序な現象に対して唯一秩序として引き止めてくれるのがスケーリングであるということ、ぐらいであろうか。
...などと勝手に解釈してみたものの、自分の理解力の乏しさを露呈する結果となってしまった。だが、なぜか心地良い。難解な書とは、M本能を呼び覚ますものなのか?

本書は、最初に多くの知見をまとめたエッセイであることが宣言され、フラクタル理論が完成にまだ遠いことも曝け出す。特定のケーススタディの形式で記述されるのは、まだ結論めいたものが打ち出せないからであろう。分布モデルの型に嵌めるというより型を模索するという意味では、統計学よりも解析学に近いか。抽象化のアプローチとは対立的で、現実からのアプローチという意味では、数学よりも科学に近いか。フラクタルにとって、スケーリングが重要な概念であることは分かる。幾何学的解析には欠かせない視点であろうから。しかし、非スケーリングなフラクタル集合も紹介されるから、訳が分からん。フラクタル次元が複雑度を示すのに有効であることは分かる。ただ、フラクタルかそうでないかの曖昧さは拭えない。一応、このように定義される。
「フラクタルとは、ハウスドルフ - ベシコビッチ次元が、トポロジカル(位相)次元よりも大きくなる集合である。...
非整数Dを持つすべての集合はフラクタルである。...」
次元の索引では、ペアノの平面充填曲線は、D = 2、カントールの悪魔の階段は、D = 1 で、いずれも「予想に反してフラクタルでない集合」に分類される。そうなると、カントールの悪魔の階段をフラクタルとするには、別の概念が必要になりそうだ。んー...フラクタルの定義そのものがぼやけてくる。また、割れたガラスの断面がフラクタルとは似つかないものに対して、石や金属の破砕(フラクチュア)面はフラクタルだという。フラクタル理論があらゆる複雑系を言い当てるほど万能でないことは、確かなようだ。フラクタル性は、純粋ランダム性とも違う次元にありそうか。

1. フラクタルの研究方針...ブラウン運動、非整数次元、くりこみ論
物理的なブラウン運動の幾何学モデルにウィーナー過程があるという。連続的な確率過程で、ランダムウォークを分析する時に重要な概念とされるそうな。意外にも、ブラウン運動は単純な現象だという。直線運動と衝突だけで説明できるのだから、単純と言えば単純か。そして、紹介される事例の多くは、ブラウン運動を修正したものである。
最も基本的な操作は、自己相似形のカスケードで生成される。ある次元 D において、自己相似形に支配されるということは、全体が相似比 r で N個の部分に分割できるということである。その関係は、次式のようになる。

  r = 1 / N1/D

変形すると、

  NrD = 1
  D = log N / log (1/r)

これがフラクタル次元である。ユークリッド次元を E とすると、0 ≦ D ≦ E の関係になる。具体的な事例がわんさと紹介されるが、気になるところをつまんでおこう。
(E: ユークリッド次元, D:フラクタル次元, DT: トポロジカル次元)

・海岸線(リチャードソンの指数)E = 2,D = 1.2,DT = 1
・カントール集合(カントールダスト)E = 1,D = log2/log3,DT = 0
・トリアディックなコッホ曲線E = 2,D = log4/log3,DT = 1
・アポロニウスのガスケットE = 2,D = 1.3058,DT = 1
(正確な上限と下限は、1.300197 < D < 1.314534)
・一様なフラクタル乱流E = 3,D = 2.5 ~ 2.6,DT = 2

しかしながら、フラクタル次元が整数の場合もあるようだ。

・E ≧ 2 における連続的なブラウン軌跡D = 2,DT = 1
・E = 2 における連続的なブラウン関数D = 3/2,DT = 1
・E > 2 における連続的なブラウン関数D = 1 + (E - 1)/2,DT = 1

連続なブラウン運動の軌跡と関数は同値にならないという。だから区別して記述される。尚、ブラウン運動という用語そのものが曖昧だという。確かに、時間的な軌跡と事象的な関数では、観点が違うような気がする。本書の話題は、このブラウン運動を基本に置きながら修正を加えていくことになる。
また、重要な概念に「くりこみ論」がある。くりこみ群の目的は、観測における粗視化の度合いを変えたときの物理量の変化を定量的に捉えることだという。その特徴は、逆変換をもたず、粗視化した状態を与えても一意的に元の状態に戻らないという。例えば、乱流は自己相似的ないくつかの渦に分解され、散逸に終わるという。エントロピーの法則に従うのだろうか?このようなモデリングには、ハミルトニアンを用いる方法があるそうな。有限にくりこまれたハミルトニアンは、ある程度縮小された図形の分布を与えるという。そして、この極限の分布がフラクタル次元を与えるはずだとしている。なかなか手強い研究方針だ。様々なランダム図形の結合確率分布を求めるようなものであろうか?

2. カントールの悪魔の階段
病的とされるカントール集合だが、原理そのものは単純だ。まず、線分 [0, 1] を3等分し、中央区間 [1/3, 2/3] を取り除く。残った部分を更に3等分して、中央区間を取り除く。この操作を無限に繰り返し、残った点の集合である。操作方法を眺めれば、通信回線におけるバーストエラーの分布モデルをイメージさせる。
そのフラクタル次元は、D = log2 / log3 = 0.6309...
1より小さいとは、存在するようで存在しないような...存在確率と相性が良さそうな...
本書は、「カントールダスト」という用語を提唱している。これは、言うまでもなく不連続体である。ところが、カントール関数は単調増加の連続体になるから摩訶不思議。カントール関数とは、カントール集合に質量の概念を持ち込んだようなものらしい。
まず、元の棒の長さと質量をともに 1 とし、横座標 R の値が、0 から R の間に含まれる質量を M(R) とする。ギャップには質量がないので、M(R) が変化しない区間がある。そして、座標 (0, 0) から (1, 1) まで増加するグラフを描くと、なんと!質量の概念を加えるだけで不連続体が連続体になってやがる。しかも、微分不可能ときた。この階段は、一様性が欠落したカントールの棒を、一様で均質なものに写像するという芸当をやってのける。
また、ギャップ(隙間)をトレマと呼んでいる。ギリシャ語では穴を意味するそうな。ちなみに、重要な科学的意味を伴って活用されない最も短いギリシャ語であろうと、笑わせてくれる。
トレマ側が重要なモデリングになることもある。トレマの長さの和は次のようになる。

  1/3 + 2/32 + ... + (2k)/3k+1 + ... = 1

これは、乗数理論モデルをイメージさせる。こうなると、連続性の定義そのものを見直す必要があるかもしれない。そして今、知らず知らずして悪魔の階段を登っているってことはないだろうか?千鳥足で歩きながら記憶がぶっ飛ぶとは、まさに不連続体への写像を体現しているのではないか?

3. 宇宙のクラスター化
膨張宇宙と言われるが、物質密度は均等化するようには見えない。銀河はその集団性を壊そうとはしない。物質の世界では、ポリマーのような重合した巨大分子が、複雑な幾何構造を維持しながらブラウン運動をする。通信回線ではエラーの出現に間欠性が見られ、磁気記憶装置の誤り訂正符号はバーストエラーに対処する。そして、なによりも人間社会は群衆化を好む。どうやら自然界は、均等性よりもクラスター化を望んでいるようだ。完全な分散システムを構築することは、ほぼ不可能なのかもしれん。
宇宙の均等化と言えば、オルバースのパラドックスという有名な逆説がある。天体が一様に分布していれば、すなわち、あらゆるスケールに対して D = 3 と仮定すれば、昼夜を問わず光り輝くことになる。しかし、宇宙のクラスター化を前提にすれば、このパラドックスを回避できるという。たとえ宇宙が無限空間であったとしても。フラクタル宇宙の研究者たちは、そのことに気づいていたという。しかし、歴史は彼らを病的に扱ってきたという。
その功績ではフルニエの宇宙モデルを紹介してくれる。科学界では嫌われ者だそうな。ユグノー教徒を祖先に持ち、唯心論者で宗教的神秘者でもあったというから、そのせいかは知らん。フルニエは、盲人が文字を聞くことができる人工器官を作ったり、初めてロンドンからテレビ信号を送ったりした人物だという。マンデルブロは、ケプラーへの反論として持ちだそうとしなかった議論を、フルニエへの反論として持ち出すことに納得がいかない様子だ。
ところで、宇宙の密度って、どうやって定義するのだろうか?
まず、地球を中心に定義してみよう。半径 R の球内の質量 M(R) とすると、次式で近似できる。

  M(R) / [(4/3)πR3]

R を無限にすると、近似密度が収束する極限値として宇宙密度が定義できるという寸法だ。ただ、宇宙が球形なのかは知らん。過去の観測値では、望遠鏡で観測できる範囲が拡がるにつれ、近似密度は驚くほど規則正しく減少しているという。そして、次式の関係でうまく推測できるそうな。

  M(R) ∝ RD

カントールダストでも同じ結果を得たという。地球近辺から始めれば、最初は3次元が現れることになる。そして、周辺には物質がないから、次に0次元がくるのか?さらに観測範囲を拡げて物質にぶつかると、また3次元に戻るのか?大雑把には、0 < D < 3 あたりの分布になりそうか。フルニエの理論値では D = 1 となるらしいが、最良の推定では D ≒ 1.23 になるという。ただ、宇宙密度が正に収束する必要があるのかは知らん。それに、宇宙が時間とともに膨張しているのなら、フラクタル次元は時間の関数にならなくていいのか?

4. コンピュータ回路の幾何学
複雑なコンピュータ回路では、多数のモジュールに細分化される。多数の要素 C とし、多数のターミナル T を介して周辺機器と接続されるとすると、数%の誤差で次式の関係があるという。

  T1/D ∝ C1/E

いわゆる、レントの法則か。実際、電子回路設計では、これと似た感覚でゲート規模の見積もりをやる。C をモジュール全体の体積、T を分割されたモジュールの表面積の和と捉えれば、幾何学的考察ができるはずだ。モジュールの表面積の和とは、インターフェースの持つ総ビット数、あるいは総情報量という見方をすればいい。ただ、モジュールの質の概念が曖昧で経験的なものが大きい。つまり、勘よ。尚、同じ性能分析が人間の能力においても説明できるかは知らん。例えば、脳のつまり具合や質量やらで。

5. R/S解析とハースト指数
ハロルド・エドウィン・ハーストは、アスワンハイダムの計画にあたり、ナイル川の流量分析から、R/S解析とハースト指数を考案したという。
0 年から t 年までの川の流量を総計したものを X(t) とする。t を 0 から d まで変化させ、d 年目における平均値からの増加量と減少量の累積和を求め、その累積和の最大値と最小値の差を R(d) とする。これは、当面の d 年間を支障なく過ごすために備えるべく貯水量ということになる。そして、次式を導いたという。

  R(d)/S(d) ∝ dH

S(d)はスケーリング因子で、とりあえず標準偏差としておこうか。解釈が間違っていたらごめんなさい。というのも、こう記される。
「0 年からd 年の間の標本の平均流量を各年の流量から引いて調整し、t が 0 から d まで変化するときの調整された X(t) の最大値と最小値の差によって R(d) を定義する。」
この調整というニュアンスがよく分からん。おまけに、各年の流量はガウス型ホワイトノイズに従うという仮定の元では、S(d) は重要でないとしている。実際は重要らしいが、マンデルブロの論文を読めってか。
ハーストは、マルコフ的であることを期待したが、予想外の結果となったそうな。川の流量では、H はほとんど 1/2 より大きくなるらしい。ナイル川は、H = 0.9 で、各年の流量は独立とは程遠い。セントローレンス川、コロラド川、ロワール川は、H = 0.9 ~ 0.5 だそうな。H の範囲は 0 ≦ H ≦ 1 となり、0.5 より大きければ持続性があり、0.5 より小さければ持続性がないことを意味する。実際、ハースト指数は市場経済でトレンド性を分析するために用いられる。

6. 主観的数学か、芸術的数学か
しばしば数学は客観性に富んだ学問とされるが、次元の中間的な按配を求める発想は主観性の強い数学と言えよう。このような思考は、カントに通ずるものがある。カントは、理性を構築するには客観だけでは不十分だとし、主観で魅了した。彼の重視した主観とは、直観と芸術心である。本読は、美術品にもフラクタルが出現する例を紹介してくれる。啓蒙用聖書の口絵、レオナルド・ダ・ヴィンチの「大洪水」、葛飾北斎の「冨嶽三十六景」など。
それにしても、コンピュータが作図した仮想惑星、仮想大陸、仮想山脈は、気味が悪いほどリアル!D = 2.1 から 5/2 のブラウン湖の景観、D = 2.3 のブラウン諸島など。「ガウスの山」と呼ばれるCGを眺めるだけで、自然界に存在する複雑系はすべてガウス過程で説明できると錯覚しても仕方があるまい。だが、現実は非ガウス分布に満ち満ちている。そうなると、ガウス分布を用いる正当性を説明する必要がある。山脈はスケールの不変性という特性を持ち、連続的な起伏をもたらす分布が、ガウス分布と相性がいいようだ。最も簡単な起伏はブラウン関数に支配されるという。そして、「非整数ブラウン関数」と名付けている。ブラウン関数の特徴は、どの部分を垂直に切っても、断面は線分のつながりである普通のブラウン関数になることだという。当たり前か。さらに「非ガウスの山」も紹介されるが、これまた気味が悪いほどリアル!ここに提示される数学は、芸術に近い数学なのかもしれん。コンピュータの観点からの芸術とは、些細なバグによってもたらされる結果であろうか?

7. 孤高の英雄たち
今でこそ学問の本流に名を連ねる天才たちだが、彼らが生きた時代には夢想家や異端者とされた人たちが大勢いる。社会から受け入れられるのは、皮肉にも人生の幕を閉じてから。貧乏生活を送り、共同墓地に埋葬された偉人も珍しくない。人類の文明は、こうした孤独の英雄として生きた人々によって支えられる。対して、時代の寵児とされる人たちが、隠れた英雄を覆い隠すかのように生きているのかは知らん。アカデミーや学会などの客観性に富んだとされる団体でさえ、政治的思惑に支配される。あまりにも突飛的な着想がゆえに、審査会から侮辱的な評価を受けたりと。フラクタル幾何学に携わった研究者たちは、まさにそんな人たちの集まりだという。
レヴィ分布のポール・レヴィ、乱流における微分方程式の離散化モデルを提唱したルイス・フライ・リチャードソン、連続時間における確率過程によって株価変動を推測したルイ・バシュリエ、宇宙をスケーリングで説明できるとしたフルニエ、単語の出現頻度の順番と出現確率の関係が反比例するというジップの法則を提唱したジョージ・キングズリー・ジップ、などなど...いずれも、今日もてはやされるロングテール現象やべき乗則を説明するための道具とされるが、その功績はあまり目立たない。真理を探求する匠たちの執念は、けして脂ぎった欲望から生じるものではあるまい。
「現代数学が重視している抽象的な理論からなにか実際の用に役立つことが引き出され得るかという質問に対しては、ギリシアの数学者達が、数時代後に天体の軌道を表現することになるとは思わずに、円錐曲線の諸性質を発見したのは、その純粋な思索が基礎にあったためであると答えておくのがよいだろう...アーメン」

2012-10-14

"美の構成学" 三井秀樹 著

美とは何か?こうした主観的概念への問いは、永遠に繰り返されるであろう。それは、精神そのものが得体の知れない抽象体であることの証であろうか。科学者は単純な理論を美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。芸術家は本質的なものをうまく体現できた瞬間、新たな世界美に酔い痴れる。いずれも真理の探求とその苦悩から解放された結果であろうか。真理とはよほど心地良いものらしい。
何をするにしても、センスが良いというだけで惹きつけられるものがある。ファッションやインテリアばかりでなく、仕事スタイルやライフスタイル、そして思考のスタイルに。金持ち振りを見せびらかすのではなく、さり気なく演出されるしぐさや哲学に。これぞ美学というものであろうか。それにしても、芸術とは奇妙なものである。写生した絵画が芸術的な評価を受けても、実物には目もくれない。オーケストラの奏でる音はとても自然界ではありえないのに、高尚な趣味とされる。極めて人工的なものに目を奪われるのは、自然を征服したとでもいうのか?いや、永遠に満たされない虚しさを表明しているだけのことかもしれん。

人類は、古くから美しい形やプロポーションに憧れ、造形に対して調和の美を求めてきた。美の摂理は、伝統的な様式の踏襲と芸術家たちの直感に支えられてきた。どんなに複雑な形でも、対称性を示すだけでなんとなく和む。なにしろ、人体という入り組んだ形に対して、脚から頭までシンメトリーというだけで美人の概念が成り立つのだから。美に共感が生じるということは、そこになんらかの普遍的な感覚があるのだろう。構成学とは、まさに美の原理体系を学術的に模索しようとするものである。著者は、構成学という学問があまり認知されていないことを嘆く。電子工学や宇宙工学を学ぶためには、基礎である物理学の諸原理を学ばなければ話にならない。ところが、構成学を学ばなくてもグラフィックデザインやファッションデザインはできる。こうした背景が、構成学を魅力のない学問にしていると指摘している。確かに独学型のデザイナーは少なからずいる。国語教育から逸脱した小説家が大勢いるように。だからといって、基本を疎かにすることにはならない。独学ほど能動的な学び方はないだろう。学問には堅苦しい印象もあるが、実は、芸術と同じくらい自由とすこぶる相性がいい。おそらく構成学的な思考は古くからあり、独学的な歩みを遂げてきたのであろう。古代の建造物や美術品には、シンメトリーや黄金比やルート矩形といった数理的原理が多大に盛り込まれる。やはり、人間はユークリッド幾何学の純粋さに居心地の良さを感じるようだ。
しかし、学問として本格的に始まったのは、1919年ドイツの造形学校「バウハウス」からだそうな。そして、色の三要素、色彩対比、配色や単純な幾何学的形体を用いたリズムやコンポジションなどが盛んに研究されたという。ちょうど産業革命後、世界中に工業生産の波が押し寄せた時代と重なる。機械生産からは見出せない美的感覚の必要性から、構成学なるものが生じたという。その理念は、ネーミングからして後の構造主義に通ずるものを感じる。「構成」はドイツ語の「Gestaltung」、英語の「Construction」の翻訳というから、建築的発想を主眼にしているようだ。ちなみに、ガウディは自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家になり、建築家のみが他の芸術を支配する空間を組織できるとした。バウハウスは、ガウディ精神が受け継がれるように映る。

人間の造形に対する美的感覚は、極めて複雑な形を相手にする。人は奇妙な曲線美や不条理な形に芸術を感じる。日本の伝統美では、茶碗にみる釉薬の流れや、滲み、かすれ、あるいは偶発的に生じるひび割れや墨流しのようなパターンまで、わび、さびの表象としてきた。まさに芸術は、理不尽さを見せつける。
一方で、数学には複雑な形を分析する手法にフラクタル理論がある。その基本概念は、自己相似形を用いて、鏡映、回転、平行移動、拡大縮小といった幾何学操作にある。フラクタル幾何学の父ブノワ・マンデルブロは、雲と山の風景をデジタル数値のみで写真のようなリアルな映像を再現して世間の度肝を抜いた。以降、フラクタル・パターンが各国で次々と発見される。フラクタル理論は、どんな複雑系も定量化できる可能性を示唆している。実際、この偉大な数学者は、あるインタビューで経済学者を名乗り、株式市場の分析をやってのけた。構成学にも、鏡映や回転といった幾何学操作によって造形の美を解析しようとしてきた歴史がある。
本書は、バウハウスの理念からフラクタル理論までの構成学の歩みを概観してくれる。構成学とは、人間の美的感覚に数理的秩序を結びつけ、さらに哲学までも結びつけようとする学問というわけか。改めて科学と芸術の相性の良さを感じるのであった...

1. デザイン運動のはじまり
ヴィクトリア朝の時代、大量生産による安価で粗悪な商品が溢れたという。19世紀、産業革命によって引き起こされた工業生産に対抗して、アーツ・アンド・クラフツ運動が起こる。ウィリアム・モリスは画家や工芸家に働きかけた。機械生産は人間性を疎外すると。職人ギルドの造形精神を取り戻せと。しかし、彼は過去の伝統的様式に囚われない。機械生産を否定しつつも革新的なデザイン精神を模索したころから、モリスは近代デザインの父と呼ばれるそうな。デザイン運動はヨーロッパ各地に飛び火する。パリではアール・ヌーボー様式、そのオーストリア版でウィーンで結成されたのがゼセッション、ドイツではユーゲント様式がそれぞれ展開される。この時代、美を工学的に研究する教育分野を必要とした。この頃、工業製品の品質向上と効率化を図るための標準化運動が発生し、やがて規格化運動へと発展する。20世紀初頭に設立されたドイツ工作連盟(DWB)のムテジウスやベーレンスが起こした標準化運動は、日本工業規格(JIS)の原型になっているという。

2. バウハウスとメディアラボ
バウハウスとメディアラボとは、まったく関係なさそうだが、実は血統を受け継いでいるそうな。1919年、国立バウハウスは、ワイマール共和政の元で、世界初の本格的なデザイン教育機関として創立。もっとも19世紀中頃から、イギリスをはじめヨーロッパ各地に、専門的な職能技術を教える学校や工芸学校は存在したらしい。だが、職能に特化したものではなく、美術、建築、工業、手工業、工芸など広範な造形活動に共通する原理や理論が扱われたのは初めてだったという。初代学長ワルター・グロピウスには、芸術と技術の統合の最終的な姿は建築であるという信念があったという。彼もDWBの一員。フォトモンタージュや多重露光による超現実的表現、あるいは、カメラを使わないフォトグラムや、現像途中で故意に光線を入れ画像の反転現象を起こすソラリゼーションなど、光による新たな表現法が登場する。そして、平面から立体への展開、様々なテクスチャの試みなどが、構成教育のカリキュラムに組み込まれていく。タイポグラフィやグラフィックデザインが登場したのもこの頃。こうした試みが今日のコンピュータグラフィックスの礎となる。
ところが、1933年バウハウスはナチス政権下で弾圧され、ドイツを追われた教授陣はアメリカに渡る。その一人モホリ・ナジは、1937年シカゴにニューバウハウス(アメリカンスクール・オブ・デザイン)を設立。1939年シカゴ・デザイン学校に改名し、1949年にイリノイ工科大学に併合。ナジの弟子ギオルギー・ケペッシュは、マサチューセッツ工科大学に招聘され、メデイアラボの前身、高等視覚研究所を設立。こうして、IITとMITが世界の工業デザイン、建築デザインの最先端をいく教育機関として君臨することになったという。ケペッシュは、視覚伝達の重要性を説き、科学と芸術の共生による視覚言語の研究を行ったという。その意志を継ぐMITメディアラボは、マルチメディアの基礎研究を行い、マンマシンインターフェースの概念を生み出すことになる。

3. 黄金比と造形美の原理
「形体は機能に従う(Form follows function)」という機能主義、あるいは実用主義は古くからある。技術業界には "Keep it simple, stupid!" という思想があり、技術屋は不必要な複雑性を嫌う。単純化思想はあらゆる構成的なものに用いられ、美の基本理念とされてきた。古代遺跡にも、ピラミッドや古墳など単純な幾何学的原理が見られる。構成学では、分割やプロポーション、そして、シンメトリー、リズム、バランス、ハーモニー、コンポジションなどの美的原理を理解することが重要だという。そして、造形の中でも、最も重要な原理は分割とプロポーションだとしている。
黄金比は、パルテノン神殿からルネサンス美術など基本尺度とされてきた。
尚、黄金比とは、a : b = b : (a + b) の関係、具体的には、1 : (1 + √5) / 2 となる。
1 : 1 のシンメトリーな関係は安定して動きのない状態をイメージさせ、むしろ威圧的な印象を与える。宗教的な儀式や祭壇の境界の配置などは、すべてシンメトリーであり、これが調和の原点とされてきた。だが、物体の本質は静止よりも運動にあり、動きや変化には黄金比の方が視覚的に心地良いとされる。静止とは相対的に定義できる状態であり、人類は絶対静止なるものをいまだ知らない。古代ギリシア文明は、ユークリッド幾何学をはじめ、黄金比、シンメトリー、ルート矩形など、数理性の研究に優れた功績を残した。ミロのビーナスでは、当時の理想的な女体像を見ることができる。黄金比やルート比は日常にも見られるという。クリスマスカード、手紙や色紙の縦横サイズ、文字のレイアウト、生け花の按配、インテリアやファッションなど。ルート比では、1 : √2 の関係がよく用いられるという。
では、黄金比はなぜ美しく見えるのか?等差数列や等比数列のパターンも悪くないが、グラデーションを実現するパターンにフィボナッチ数列がある。それは、前項と次項を足したものが、その次の項となるような数列で、最初は荒っぽいが徐々に黄金比に近づいていく。おいらは擬似乱数を作る時や、ちょっとした気まぐれなパターンデータを作るのに重宝している。20世紀、生物学者ダーシー・トムソンらが、巻貝の螺旋形、ひまわりの種、サボテンの刺など、動植物の美しく見える配列がフィボナッチ数列になっていることを発見したという。黄金比をもつ相似性には、自然美に通ずるものがあるらしい。人間も自然界の生物だから、そこに美を感じても不思議はないか。ハナミズキの木は、120度ごとに同じ葉が出ていて、3分の1の自己同型になっているという。ホトギスの葉も、中心軸から左右に出て180度ごとに同じ形が現れ、2分の1の自己同型になっているという。
一方、日本文化では、1 : 1, 1 : 2, 1 : 3 といった単純な整数比が美の原理とされる。畳や建築基準も 1 : 2 で構成される。千利休は茶の道を「数奇道」とした。その意味では、日本の伝統美は静止の美と言えるのかもしれない。
ところで、古今東西、美人のプロポーションの探求は止むことがない。プロポーションにも数理的な原理がある。その証拠に、男性諸君は八頭身美人に弱い。これが整数比である意味は、女性は静的で物静かな性格が好まれるということか?ちなみに、昨夜は静かで知的なボディラインを求めて、夜の社交場へ繰り出したはずが...

2012-10-07

"茶の本" 岡倉覚三 著

岡倉天心こと本名岡倉覚三。著書「茶の本」は新渡戸稲造の「武士道」や内村鑑三の「代表的日本人」と並んで、日本人が英語で書いて日本の文化と思想を欧米に紹介した作品として知られる。尚、本書は村岡博による翻訳版。いずれも別の日本人によって翻訳されるという風変わりな経緯がある。自ら英文で記したのは、西洋人の翻訳では真意が伝わらないと考えたからであろうか?欧米で評価され逆輸入される形は現在でも見かけるが、ある種の西洋コンプレックスの顕れであろう。時代は19世紀、欧米では西洋中心主義全盛の時代。天心は東洋文化に対する偏見への悔しさを滲ませる。
「インドの心霊性を無知といい、シナの謹直を愚鈍といい、日本の愛国心をば宿命論の結果といってあざけられていた。はなはだしきは、われわれは神経組織が無感覚なるため、傷や痛みに対して感じが薄いとまで言われていた。西洋の諸君、われわれを種にどんなことでも言ってお楽しみなさい。アジアは返礼いたします。」

これは茶の本ではない。天心が茶道にどこまで精通していたかは知らん。ただ、茶を通じて人生を語り、老荘と禅那を説き、さらに芸術観賞に至るのには感服せざるを得ない。そう、これは茶の哲学である。
「茶道は、美を見ださんがために美を隠す術であり、現わすことをはばかるようなものをほのめかす術である。」
茶道と言えば、堅苦しい礼儀作法や儀式を重んじる印象を与えるが、それだけではない。厳正でありながら、風雅な気質から喜怒哀楽や滑稽を重ね、侘び、寂びを交える世界である。天心は、茶室の建築様式、あるいは茶器などの美術品や華道といった多彩な詩趣との調和の中で、悟りを開こうとする。そして、茶室を「好き屋」、「空き家」、「数寄屋」や「すきや」などと言い換えて、語呂と戯れるかのようにその意義を語る。茶碗は人間享楽を煎じるところ、茶の湯は享楽の涙にあふれ、飲み干せばすぐに乾く、と言わんばかりに。なによりも、惚れ惚れするようなフレーズの数々に、言葉の力とやらを見せつけやがる。

真の美はただ不完全を心の中に完成する人によってのみ見ださせる。...
心は心と語る。無言のものに耳を傾け、見えないものを凝視する。...
われわれは万有の中に自分の姿を見るに過ぎないのである。...

相対的感覚から絶対美なるものを見出し、空虚から実体を語り、不均衡から均衡を導き、そして人間の不完全性から自然美の完全性を求める。これが天心哲学の極意というものか。
「傑作というものはわれわれの心琴にかなでる一種の交響楽である。」
茶が芸術であるならば、絵画のように傑作も駄作もあるはず。その奥底には、自己に向かって微笑むような気高い奥義が秘められている。だからこそ、「茶気」という言葉は「茶目っ気」という俗語で受け継がれ、「茶化す」という余裕を与えるような言葉が生まれるのであろう。これこそが精神の奥行きであり、寛容さであり、人生に美と和楽を授けてくれる。
...などと褒めちぎれば、目の前の茶碗だって照れくさそうにしてやがる。もちろん今宵は、純米酒「天心」をやっている。茶碗に注いで。ちなみに、製造元溝上酒造は地元コース、河内貯水池へ向かう途上にある。

1. 茶道
「宋の詩人李仲光(りちゅうこう)は、世に最も悲しむべきことが三つあると嘆じた、すなわち誤れる教育のために立派な青年をそこなうもの、鑑賞の俗悪なために名画の価値を減ずるもの、手ぎわの悪いために立派なお茶を全く浪費するものこれである。」
茶が粗野な状態から理想の域に達するには、唐朝の時代精神を要したという。8世紀頃、仏教、道教、儒教が混在する時代、茶道の鼻祖とされる唐の陸羽(りくう)が「茶経」を書した。ここに、茶の湯に万有を支配するものと同一の調和と秩序が現れ、高雅な遊びの一つとして詩歌の域に達したという。15世紀、将軍足利義政が茶の湯を奨励し、禅の儀式にまで高められた。茶道は、神聖で背後に微妙な哲理が潜み、道教の仮りの姿であったという。
茶道の奥義は、「不完全なもの」を崇拝することにあるという。人生という不可解なものに照らしあわせる道とでも言おうか。単なる審美主義ではなく、倫理、宗教と合わせて、天人に関するすべての見解を表すもの。そして、清潔を厳しく説く衛生学、複雑な贅沢ではなく純粋な慰安を教える経済学、宇宙に対する比例感を定義する精神幾何学となり、東洋民主主義の真精神を表しているという。

2. 道教と禅道
茶の湯は禅の儀式の発達した形態であり、道教は審美的な理想の基礎を与え、禅はこれを実践的なものにしたという。
まず、道教に目を向けてみよう。
老子曰く、「物有り混成し、天地に先だって生ず。寂(せき)たり寥(りょう)たり。独立して改めず。周行して殆(あやう)からず。もって天下の母となすべし。吾れ其の名を知らず。これを字(あざな)して道という。強いてこれが名をなして大という。大を逝(せい)といい、逝を遠といい、遠を反という。」
天地より先に、カオス(混沌)が生じた。静かで無形で何事にも依存せず、あらゆるところを動き回る。これを母となすべきだが、名も知らない。とりあえず「道」とし、あえて「大」とで呼ぶか。大なるがゆえに果てしなく広がり、果てしなく遠く、はるか遠くに達して戻る。果てしなく先に何かを悟る。これが「道」というものか。まるでヘシオドスの「神統記」を思わせる一節だ。
一定や不変は、成長停止を表す言葉に過ぎないという。
屈原(くつげん)曰く、「聖人はよく世とともに推移す。」
「道」は経路を意味し、宇宙変遷の精神、すなわち新しい形を生み出そうとする永遠の成長というわけか。道教では、絶対的な宇宙観念は相対的だという。倫理学において、道教徒は法律道徳を罵倒したとか。彼らにとって、正邪善悪は単なる相対的な言葉でしかなく、定義は制限になるからである。無限宇宙に矛盾するというわけか。
「社会の慣習を守るためには、その国に対して個人を絶えず犠牲にすることを免れぬ。教育はその大迷想を続けんがために一種の無知を奨励する。人は真に徳行ある人たることを教えられずして行儀正しくせよと教えられる。われらは恐ろしく自己意識が強いから不道徳を行なう。おのれ自身が悪いと知っているから人を決して許さない。他人に真実を語ることを恐れているから良心をはぐくみ、おのれに真実を語るを恐れてうぬぼれを避難所にする。」
道教の考えでは、物事の釣り合いを保って己の地歩を失わず、他人に譲りながら、個人を考えるために全体を考えることを忘れてはならないという。これが、精神の相対性原理というものか。己を虚にし、他人を自由に受け入れれば、すべての立場で自由に行動できるのだろうか?全体は部分を支配できるのだろうか?生の術を極めるとは、虚の美徳を極めるということであろうか。
次に、禅に目を向けてみよう。
禅は、禅那からとった名で、その意味は静慮であるという。精進静慮によって、自性了解の極致に達することができると教える。静慮は、悟道に入ることのできる六波羅蜜の一つで、釈迦牟尼はその後年の教えで特に力説したとされるそうな。禅道もまた相対を崇拝し、真理は反対なものを会得することによってのみ達せられると考えるらしい。悪を知らずして、善を知ることができない。だからといって、悪行を実践するということにはならない。人には、追体験能力や先験的能力というものがある。
また、禅道は、個性主義を強く唱えているという。全体の調和における個精神の美徳である。精神の働きに関係しない一切のものは実存ではないとするあたりは、アリストテレスのモナド的な思考を感じさせる。禅は、しばしば正統の仏道の教えと相反したという。道教が儒教と相反したように。先験的洞察においては、言語はただ思想の妨害になるという。精神の抽象化は、言葉では限界があるということであろう。経験的思考が真理の妨げになると言っているのだろうか?なんとなくカントのア・プリオリな概念にも通ずる。禅の主張によれば、事物の相対性から大小の区別がなく、一原子の中にも大宇宙がある可能性があるとなる。ただ、相対性は単なる人間認識の産物だとすれば、無意識無想こそが真理ということになりはしないか。

3. 花道(華道)
花道が生まれたのは、15世紀頃で、茶道とほぼ同時期だという。始めて花を生けたのは仏教徒だったとか。千利休と同じ頃、織田有楽、古田織部、光悦、小堀遠州、片桐石州らが、競って新たな配合を作る。
だが、生花は、茶室にある他の美術品と同様、装飾の全配合の従属的なものであったという。花の宗匠が現れ、花を花だけのために崇拝するようなことが起こったのは、17世紀中旬。形式派と写実派の二大流派が生じる。池の坊を家元とする形式派は、絵画の狩野派に相当する古典的理想主義を狙っていたという。一方、写実派は、自然をモデルに、ただ美的調和を表現する助けとなるような修正を加えただけとか。
しかしながら、花の宗匠の生花よりも、茶人の生花の方が、ひそかに同情を持つと言っている。茶人の花は、適当に生ける芸術であって、人生と真に密接な関係を持っているから、心に訴えるものがあるという。そこで、形式派や写実派に対して、茶人の花こそ自然派と呼んでいる。
「どうして花はかくも美しく生まれて、しかもかくまで薄命なのだろう。虫でも刺すことができる。最も温順な動物でも追いつめられると戦うものである。...花は皆、破壊者に会ってはどうすることもできない。彼らが断末魔の苦しみに叫んだとても、その声はわれらの無情の耳へは決して達しない。」
人々は、花に癒されながら、花の叫びが聞こえない。なんと不条理な。真の愛とは、見返りを求めいないということであろうか。

4. 千利休(宗易)
日本で偉い茶人は、みんな禅を修めた人だという。
「宗教においては未来がわれらの背後にある。芸術においては現在が永遠である。」
芸術を真に観賞することは、ただ芸術から生きた力を生み出す者によってのみ可能だという。あらゆる状況において平静を保ち、談話は周囲の調和を決して乱さぬようにする。着物の格好や色彩、身体の均衡や歩行の様子、これすべてが芸術的人格の顕れであり、審美主義の禅だという。日本の有名な庭園は、すべて茶人によって設計されたという。人格と芸術の一体感、総合的な調和、これぞ日本式美徳ということであろうか。ちなみに、ガウディは建築家だけが総合的な芸術家になれるとし、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となった。
また、自己を律する道を知らない者は、外観は幸福に努めても、絶えず悲惨な状態にあると指摘している。心の安定を心がけたところで、すぐに荒波に呑まれる。利休は、死刑執行の日でもなお、門人を最後の茶会に招いたとされる。その時、笑を浮かべて残した言葉がこれ。
「人生七十 力囲希咄 吾が這(こ)の宝剣 祖仏(そぶつ)共に殺す」
「力囲希咄」を利休がなんと読んだかは分からないが、「りきいきとつ」という読みは「茶話指月集」にならっているという。その意味も、茶人の間で問題になっていて諸説があるらしい。今泉雄作氏の説では、禅の喝のような一種の間投詞で、「ええんじゃないの」という意味があるんだとか。死に向かう覚悟か?あるいは気合のようなものであろうか?