2017-06-25

WUuu... の呪いは、酔いどれ愚者を創造者へアップデートできるか?

SM 狂の十字架バージョンでは...
記念日に呪われ、非生産性な騒動に巻き込まれた。ようやく平和が訪れ、仲間内で合言葉となっていた WUuu... の声も聞かれなくなった。
ちなみに、WUuu... とは、Windows Update の略で、うぅぅ... と唸りながら発声する。

今度は、Creators Update...
ある仕事場の環境で新規に一台購入すると、既に Creators Update 版であり、こいつがなかなか安定している。なので、残りの Win マシン10台をアップデートに踏み切った。
おぉ~、安定してそうじゃないかぁ... 気持ち悪いほどに... こんな当たり前のことで感動させてくれるとは... なるほど、これが SM 狂戦略であったかぁ...
そして、酔いどれ愚者の生産性までも高め、創造者へアップデートしてくれるってかぁ?
しかしながら、これで「WUuu... の呪いは解けた!」と宣言する自信は、まだ持てないでいる。出来の悪い子ほど... と言うが、安定さえしちまえば、Win10 群もなかなか可愛い連中である。ただし、これで仕事をした気分になってはいけない。環境に翻弄されているということは、本来の仕事が疎かになっているということだ。

猛省!実に、エンジニアらしくない...
今回は、ファイル共有で嵌ってしまった。結論から言うと、帯域系に問題を抱えていた。具体的には、 受信時のウィンドウ幅である。なのに、ひたすらファイル共有を疑い、あれこれ設定を試した挙句徹夜してしまう。この手のトラブルはシステムの根本的な問題なので、最初に気づきそうなものだが...
Win10 の一連のアップデートは、ある教訓を与えている。目先の現象に囚われ、エラーメッセージを冷静に捉えることができず、設定を感覚的にいじっている。とにかく動けばいいってな感じで躍起になっているのだ。
経験を積めば、蓄積された知識の方が先立ち、改めて現象を観るという基本的な思考が疎かになる。思い込みってやつだ。歳をとるとせっかちになるのか。問題を抽象化することが悪いことではない。ただ、思い込みと紙一重だということも忘れてはなるまい。
そして、WUuu... の呪いは、この酔いどれ愚者に一つの教訓を与えてくれた。それは... まず観ることだ!

さて、酔いどれ愚者の思考の流れを追っておこう...

1. バージョン 1703, ビルド 15063.413...
ぱっと見た目には、すっきりした感がある。スタートメニューのタイルをグループ化して、まとめることができる。iPhone のように。鬱陶しいアプリ一覧も非表示にできる。
しかーし、例のごとく、関連付け、キーバインド、規定の IME などの設定がチャラ。しかも、マシンによって症状が違うときた。おっと!プリンタが使えない。再設定すればいいのだけど...
こうした些細なものがボディブローとして利いてきて、生産性を思いっきり低下させる。吹聴される大型アップデートってやつは、そもそもアップデートと呼べる代物なのか?
... こうして、まずは愚痴るのであった...

2. ファイル共有でトラブル?いや、犯人はチューニングレベルだった...
あれ?おいら愛用の Surface Pro3 だけが、ファイル共有できない。しょっちょう外部環境に曝しているので、よそ者とでも認識されたのか?とはいえ、同じ SM 狂の製品だよ。
症状は、時間がかかった末に、マシンが見つかりません!ときた。外からマシン名は見えていて、ping も通るし、アクセス権も問題なし。ファイアウォールも問題なし。この手のトラブルは、バージョンが混在した時に、マスターブラウジングの問題でよく見かける... などと思い込み、マシンの起動タイミングや共有設定をあれこれ試す。
そして、半ば諦めかかった、その時...
気分転換にネットサーフィンをやっていたら、通信負荷が異常なほど重い!iPhone 経由のテザリングでも、やはり重い!もしかして、本当にタイムアウト?素直にエラーメッセージを受け取れば、早々に気づいていただろうに。
... 要するに、ファイル共有の問題ではなかった...

3. TCP の自動チューニングレベルで通信負荷を改善!
通信負荷が問題だとすれば、ハードウェアに根本的な問題を抱えているかもしれない。そして、ドライバのバージョンを確認、再インストールも試みたがダメ!WiFiルータとの相性か?
あるいは、IPv6 と IPv4 の混在が問題なのか?とはいえ、今更 v4 に統一するのも時代錯誤だし、v6 に完全移行するにもバックボーンが v4 で、結局は中途半端。
いやいや、ずっとずっと単純に Windows 側の TCP/IP 系の設定がおかしい?そして、TCP のパラメータを確認すると...
受信ウィンドウ自動チューニングレベルが、通常は、"normal" に設定されるようだけど、Surface だけが "experimental" になっている。なんじゃこりゃ?Surface は実験台か?
help を読むと、最も賢い設定のようにも見えなくはない。どうやら、受信ウィンドウをどんなシナリオにも最適にしてくれるらしい...

C:\> netsh int tcp show global

TCP グローバル パラメーター
----------------------------------------------
Receive-Side Scaling 状態             : enabled
Chimney オフロード状態                : disabled
受信ウィンドウ自動チューニング レベル : experimental
アドオン輻輳制御プロバイダー          : default
ECN 機能                              : disabled
RFC 1323 タイムスタンプ               : disabled
初期 RTO                              : 2000
Receive Segment Coalescing 状態       : enabled
非 Sack の Rtt 回復性                 : disabled
SYN の最大再送信数                    : 2
Fast Open                             : enabled
ペーシング プロファイル               : off
----------------------------------------------


C:\> netsh interface tcp set global ?

  ...
autotuninglevel - 次のいずれかの値を指定します:
  disabled         : 受信ウィンドウを既定値に固定します
  highlyrestricted : 受信ウィンドウの既定値を少しだけ超えて拡大できるようにします。
  restricted:      : いくつかのシナリオで制限されますが、受信ウィンドウの既定値を超えて拡大できるようにします。
  normal           : 受信ウィンドウをほとんどすべてのシナリオに合わせて拡大できるようにします。
  experimental     : 受信ウィンドウを極端なシナリオにも合わせて拡大できるようにします。
  ...

実験では、"normal" が一番速そうに感じるが、ウィンドウ幅を広げる方向にしたいので、"restricted" をしばらく試すことに。「いくつかのシナリオで制限されます...」とあるので、ちと気がかりだけど...
てなわけで、これで解消された!はぁぁ~...

C:\> netsh interface tcp set global autotuninglevel=restricted

そして今、すこぶる安定している。気持ち悪いほどに...
自動化宗教に懐疑的な酔いどれ天の邪鬼は、手動でルータに合わせこんでもいいと思っているぐらいだけど、あまり現実的ではなさそうだ。特にモバイル環境では...

2017-06-18

"全貌ウィキリークス" Marcel Rosenbach & Holger Stark 著

情報告発サイト「ウィキリークス」は、戦争日誌や外交公電など各国政府の機密情報を続々と暴露してきた。ただ、そこに真新しいコンセプトを感じるわけではない。内部告発系では多くの先行サイトを見かけるし、こうした風潮はデジタル時代が生んだ必然性とも言えよう。政治ってやつが、その性格上いかに胡散臭いものであるか、それを長い歴史を通じて印象づけてきたということである。公開された情報の中身を吟味すれば、世間が騒ぐほどセンセーショナルかと言えば、そうでもない。推理小説ファンならば、十分想像できる範疇。むしろ、公式に明るみになったことがセンセーショナルなのである。
映画「コンドル」では、平凡に世界各国の推理小説を読んで報告書を提出するだけが仕事という情報部員が、たまたま中東における陰謀を暴いてしまったために暗殺に追い込まれる。最後に逃げ込んた先はニューヨークタイムズ。しかし、本当に記事になるのか?と疑問を投げかけて終わる。映画公開から数十年後、皮肉なことにイラク戦争が勃発。大量破壊兵器保有の証拠とされているものは虚偽である、とスッパ抜いたのがウィキリークスである。当時の小泉政権は真っ先に米国政府を支持し、日本政府にまともな情報機構がないことを露呈した。情報力がないということは、判断力がないことを意味する。つまり、他人からの情報を盲目的に信じるしかないってことだ。
今日、宗教の重要性が広く疑問視されているように、政治もまたその必要性が疑問視されている。その一因に、政治に対するジャーナリズムが十分に機能していないと広く考えられていることが挙げられる。ネットで情報検索する習慣のある人は、テレビや新聞で報じられるニュースがいかに偏狭であるかに気づくだろう。その分、ネットには極端な情報も溢れているのだけど...
ウィキリークスは各国政府から槍玉に挙げられたが、むしろ彼らの出現は今日のジャーナリズムの在り方を問うている。創設者ジュリアン・アサンジは、こう豪語する。
「ウィキリークスは世界最強の諜報機関になれる... 人民の諜報機関だ!」
ディオゲネスが唱えた世界市民思想から、カントが唱えた国際的平和連合を思わせるような動機。著者の二人、マルセル・ローゼンバッハとホルガー・シュタルクは、ウィキリークスの源泉は、既に啓蒙時代に見て取れると指摘している。彼らは、密着取材を許され、メディアパートナーとして活動を共にしてきたという。そして、ウィキリークスの偉業を讃えるだけでなく、システムの脆さやアサンジ個人の汚点までも浮き彫りにし、友情と失望と裏切りの物語が綴られる。いわば、暴露サイトの裏舞台を暴露するドキュメントである。
「ウィキリークスは世界各国の政府から、政治的な統制力を奪おうとしているのではない。支配とは何かについて疑問を投げかけているのだ。突然、何を秘密にするか決める権利は自分にもあると主張する、新しい役者が舞台に登場したのである。」

ウィキリークスが公開した資料は、半端な量ではない。イラクの戦争日誌では40万件にのぼり、米国務省の外交公電では、1966年から2010年に渡って25万件を超える。米国政府は、ウィキリークスを国家安全保障上の脅威と位置づけ、ビン・ラディンと同一視した。
しかし、本当に国家の敵ならば、情報を秘密裏に敵国に売ることもできたはずである。しかも、とんでもない高額で。密告者たちがウィキリークスに情報を持ち込んだのは、一国家や一企業に憎悪を抱いていたからであろうか?もし暴露対象がアメリカではなくロシアや中国であったならば... いや、アメリカだから、この程度で済んでいるという見方もできるかもしれない。独裁的な国家や抑圧的な国家ならば、諜報員を派遣してまで抹殺にかかるだろう。彼らの事故に見せかける業は超一流だ。とはいえ、密告者たちの社会的な居場所がなくなれば、敵陣営は歓んで迎え入れる。
アメリカが標的にされやすい理由の一つに、言語の問題もあろう。世界の標準言語の地位にある英語圏は比較的狙われやすい。実際、アジアや中東などの独裁政権よりも、欧米の民主主義政府に不都合な情報が多数を占めている。民主主義が機能していれば、不正が明るみになりやすいとも言えよう。情報告発サイトの存在意義は、いかに公平で中立の立場を堅守できるかにかかっているのだが、これは人類にとって永遠の課題となろう...

ウィキリークスの評価では、デジタル社会らしく、賛成派と否定派が両極端にある。奇妙なのは、大手メディアがこぞって否定的なことだ。ジャーナリズム魂は失われたのか?確かに、彼らの行為は無謀だし、アサンジの言動にしても偏執狂的で、生理的にも受け入れがたい面がある。
しかしながら、アクの強い政治屋どもには、アクの強い存在でしか対抗できない。こと政治の世界では、純粋な観念の持ち主ほど排除され、思想観念ではるかに劣っていても、巧妙に振舞うことの得意な人物が生き残る。歴史事象は理性と責任から生じるのではなく、疑念や不徳、いかがわしい性格や不十分な悟性によって生じてきた。毒を以て毒を制すの原理に縋るしかないとすれば、まさにこれが政治の矛盾である。
ウィキリークスがやったことは、正義なのか?情報テロなのか?否定派は言う... 機密文書の公開が民主主義を脅かす... と。だが、それは本当だろうか?これは、無政府思想という一種のアンタッチャブルを示唆している。そもそも国家は必要なのか?国家という概念も、プラトンが唱えたものから随分と変容したようである。
ジョージ・オーウェルは、小説「1984」の中で無限の力を持つ監視国家を題材にした。アサンジは、この小説に描かれるような独裁国家の対極にある世界を実現しようとしたのだろうか?国家が完全にコントロールを失った社会とは、まさに無政府状態。だが、理性ある市民社会であるならば、無宗教でも、無政府でも、問題はないはずだ。従来のメディアは、政治システムの安定が崩れることを恐れて政権の側に立とうとする。それが民主主義を守ることなのか?アサンジは逮捕できても、情報は逮捕できない。
「学問はよりよい目的のために使わなければならない。世界に欠けているのは理論の知識ではなく、政治を実際にどう機能させるかという知識だ。」

ところで、"Wiki" を名乗るからには、ウィキペディアと混同される。アサンジは、ウィキペディアとのリンクを意識して、この名を用いたようである。ただ、コンセプトがちと違う。ウィキリークスが、提供される秘密文書をそのまま公開するのに対して、ウィキペディアは、情報の内容をめぐって討議し、より客観性に近づけようとする。
ちなみに、ウィキペディアで「ウィキリークス」を検索すると、しっかりと「ウィキペディアを運営しているウィキメディア財団とは全く関係ありません」と記載されている。ジミー・ウェールズから、一緒にせんでくれ!との声が聞こえてきそうだ...

1. ハッカーたちのサブカルチャー
本書の主要舞台は、ハッカーのサブカルチャーである。自由に対する独自の価値観と倫理観を持ち、権威を嫌い、分権化を促進する人種の集まり。その意味では、科学者や数学者によく見られるアナーキスト的な感覚を持っている。
ハッカーと世界主要政府の間における自由をめぐる争いは、1990年代にエスカレートした。いまや世界標準となった暗号化プログラム PGP をめぐっては、米国政府は NSA ですら破れないコードが気に入らず、禁止しようとした。だが、オープンソース化を一国の政府が規制することはできず、仕様は RFC に公開されている。このフリーなハッカーの一員に、アサンジも参加していたという。
しかしながら、サイバー攻撃に晒される今日、ハッカーという言葉は悪いイメージを与えている。もともとは高度な技術のイメージがあったはずで、技術系の書籍に Hacks... といったタイトルをよく見かける。かつてアサンジは、通信会社ノーテルのネットに侵入したことがあるという。少年時代には NASA をハッキングしたとか。スティーブン・レビーの著書「ハッカーズ」には、すべての情報は自由で利用できるようにするべきだ!というプログラマ魂が語られている。だがそれは、あくまでも人類の叡智という立場であって、けして他人に迷惑をかけるものではないはずだ。
ウィキリークスの情報を平等にそのまま公開するという方針が、スティーブン・レビーの思想を受け継いでいることは頷ける。とはいえ、歴史を振り返ると、科学や技術の世界に政治的思惑が入り込むと、ろくなことにはならないことが見て取れる。政治的思惑とは、世界を支配しようする野望である。人間ってやつには、誰にでも誇大妄想化する性癖が潜んでいる。おまけに、実体の正義にうんざりすれば、仮想世界で正義を旺盛にさせる。楽観的に始めたプログラマの腕試しは、やがて情報は権力であるということを目覚めさせ、情報の主権を握る者が正義であるという妄想にかられる。コンピュータの脆弱性もさることながら、人間の理性ほど脆弱なものはない。
かつてプログラマだったアサンジもまた、政治的な振る舞いで天才的な才能を開花させた。アサンジという人物が、ビジョンとカリスマ性を具えていることは確かなようである。だが、資金集めや政治的態度がグロテスクになっていくと、もはや技術者ではなく、政治活動家の顔がそこにある。
そして、組織の No.2 であったダニエル・ドムシャイト=ベルグを失望させた。彼は、割の合わない仕事を大量にこなしているだけでなく、個人資産までもつぎ込み、エキセントリックで一貫性を欠くこともあるアサンジに対して、客観的かつシステマチックなやり方で、うまくバランスをとってくれる存在だったという。持ち前の愛想のよさで組織の潤滑油ともなっていたとか。彼が去れば、才能豊かなプログラマ・アーキテクトも去っていくばかりか、かつての仲間たちが批判的な立場へ導かれていく...

2. ウィキリークスの弱点
民主主義国家では、政治を行う者は選挙によって選出される。では、政治活動が市民に十分に知れ渡っているかと言えば、そんな幻想を描いている人はごく少数派であろう。選挙制度の存在が、政治家にも、民衆にも、民主主義国家だと思い込ませるための手段になってはいないか?だから、選挙に勝利した者やその陣営は、支持されたと思い込んで大々的な勝利宣言を掲げる。実は競争相手が不甲斐ないだけで、仕方なく選ばれた微妙な立場であるにもかかわらず。つまり、ここには消去法が働いている。
政治と民衆の間には、常に情報の非対称性の問題がつきまとう。そこで、ジャーナリズムには第三者の目としての役割がある。大手メディアが政府発表を鵜呑みにした報道しかできないとすれば、大本営が乱立するようなもので余計にタチが悪い。報道番組にしても企業スポンサーに支えられている以上、その企業に不利なことは発言できない。クラブ活動の大好きな記者連中よりも、フリーランスに期待するしかなさそうだ。
今日、多くの人が抱く政治やジャーナリズムへの不満を代弁するメディアとしてインターネットが存在感を増している。常に民衆は情報の非対称性を破る存在を求めている。確かに、インターネットは情報を提供する側に平等な機会を与えている。だが同時に、情報を享受する側が自発的な人と受け身な人で意識が大きく違い、却って情報格差を生み出しているのも確かだ。なによりも情報は真実が重要であって、信憑性とは違う。ウィキリークスに対する最も大きな批判は、真実に対して無責任だということだ。だがそれは、従来のジャーナリズムとて同じではないか...
ウィキリークスの最大の弱点は、情報を検証する能力がほとんどないことだ。相手を陥れるために捏造だって十分に考えられる。公開基準も、政治的、倫理的、歴史的に重要なものとしているが、実に曖昧!おまけに、その決定権はアサンジ自身にあると主張しており、神にでもなったつもりか!との非難は免れない。スクープというものは、それが自分自身の手による取材でなされた場合、ジャーナリスト冥利に尽きるだろう。だが、ウィキリークスがやっていることは、他人が提供したものを公開するだけ。アサンジには、ジャーナリストの誇りなんぞどうでもいいのかもしれない。
また、もう一つ大きな弱点を露呈する。それは、情報提供者の身の安全を確保する能力である。高いリスクを冒した情報提供者に対して、果たすべき義務がある。実際、アサンジだけでなく、情報提供者も逮捕されているし、古くは殺害された者もいるらしい。この能力に欠けることは、内部告発機構として致命的である。後に、こうした弱点を意識して、大手メディアと手を組むことになったのは賢明であろう。伝統的なジャーナリズムには証拠を調査する編集部があり、ウィキリークス単独では、素材のすべてに目を通し、吟味し、評価し、分析するにはあまりにも荷が重すぎる。
尚、ウィキリークスの立ち上げの文章には、こう書かれているという。
「人は政府の真の計画と行動様式を知っている場合にかぎり、その政府を支持しようと本気で決断することができる。歴史的に見て、開いた政府がもっとも生き残れる形というのは、情報の公表と暴露の権利が保護されている形である。こうした保護が存在しないところでは、それを確立することが我々の使命となるだろう。」

3. 右派か?左派か?
どちらに属すかといえば、アサンジ自身が言うように左派といことになろうか。時には、ティーパーティーを組織する保守右派や、キリスト教原理主義者たちの支持を受けたり、人口中絶反対派がそうであったりと、右派ではないとも言えない。少なくとも古典的な左派ではなさそうだ。平和主義者ではなさそうだが戦争には反対しているし、さらに、反権威主義、自由、自己実現、自律という言葉を操り、帝国主義に反対している。
本書は、アナーキストとしての国家軽視と、スターリン主義者の非情さを持っていると指摘している。国家や階級制度に対する深い猜疑心が、アサンジをして政治家にしてしまった理由の一つだとしている。その意味で、マルクス主義的な階級闘争にも通ずるものがある。アサンジ自身は、左翼にうんざりさせられることは多い!と語ったとか。フェミニストや共産主義者にうんざりする気持ちもよく分かる。独裁的な政権の内幕を明らかにすれば、陰謀は権力維持のための重要な要素だということが見えてくる。アサンジは、陰謀者の間のすべての結びつきを切断すれば、陰謀はストップすると主張したようだが、はたしてそうだろうか?理想もまた暴走する性癖がある。ただ、脂ぎった政治腐敗には、これまた脂ぎった理想をもって対抗するしかないのかもしれない。そのために、極右も極左も演じることになる...

4. 情報を敵に回せば...
2008年、プライベート・バンキングを攻撃対象に選んだ。スイスのユリウス・ベア銀行である。ケイマン島支店のルドルフ・エルマーから入手した不正融資行為に関する内部資料の公開。いわゆる、「エルマー文書」だ。キューバから南に300キロほど離れたケイマン諸島の首都ジョージタウンは、世界でも指折りの金融センターになっている。タックス・ヘイヴンだからだ。エルマーは、これに加担する慢性的な金融業界の中にあって罪悪感を持ったようである。ユリウス・ベアは、ウィキリークスを提訴するが、株価が暴落し訴えを取り下げた。
ちなみに、同じタックス・ヘイヴン関係のスキャンダルでは「パナマ文書」があるが、日本の大手マスコミはこちらの方を大きく報じた。
ウィキリークスと一戦交えようとすれば、ユリウス・ベア銀行は敗北に終わる。だが、それは企業だけではない。2008年、BND(ドイツ連邦情報局)の報告書が公開された。そこには、コソボのアルバニア人とコソボ解放軍がマフィアの活動に巻き込まれ、政治腐敗と組織犯罪が横行する経緯が書かれていた。ただ、これは内部告発ではないらしい。BNDは、対応のまずさを露呈する。長官エルンスト・ウーアラウは、情報の消去を要求するとともに、刑法を適応すると脅したのだ。デジタル時代に、BND 長官の権威を振りかざしても顰蹙を買うだけ。おまけに、長官の抗議メールがウィキリークスによって公開されると、報告書が本物であるとお墨付きを与えてしまう。

5. 情報を編集して鉄則を破る...
ウィキリークスの公開基準には、二つの鉄則があるという。一つは、投稿された証拠品が一定の基準を満たしていれば、それだけで公表する。曖昧な基準だけど。二つは、文書は一切編集しないで、そのまま公表する。
だが、この基本原則を破ってまで踏み切った超弩級素材がある。そう、"Collateral Murder" と題するビデオだ。特別サイトも新設され、YouTube でも閲覧できる。そこには、アパッチ攻撃ヘリのパイロットの会話が収録される... おい、みんな死んだよな...  ああ、見事なもんだ... 証拠隠滅では、生きた証人を完璧に抹殺せよ!... といった台詞は、陰謀映画そのもの。
しかしながら、ビデオに編集を加えたことが、信憑性に欠けるとして非難される。組織内部にも、原則から逸脱したとして難色を示す人たちがいたようである。素材をそのまま公表することは、伝統的なジャーナリズムの有り方を問うものであったはず。編集すれば、意見表明したことになるし、なによりも真実性が半減する。今回は、あまりにジャーナリステッィクすぎた。しかも、アサンジの独断によって。
アサンジ自身は、並行して未編集のオリジナル素材も公開しているので問題ないとしているが、巷では面白おかしく編集された方が広まるもの。特にインターネットの凶暴性がここにある。真実の共有といえば、その理念は美しい。だが、虚偽の拡散となれば、その理念は悪魔と化す。さらに悪いことに、情報提供者の名が漏洩し、逮捕された。ハッカー仲間から漏れたようである。彼を法的に守る手段は、ウィキリークスにはない。
民主主義的な国家であれば、どこの国でも情報公開法の類いがある。賞味期限が過ぎれば情報は公開されることになっているが、政治は今動いている。このような不都合な証拠は抹殺されるだろう。それが、ジョージ・W・ブッシュ大統領時代の事件とはいえ、オバマ大統領時代のホワイトハウスのホームページにおける、この宣伝文句がなんとも虚しい。もう、トランプ氏になっちゃったけど...
「政治の透明性は責任感につながり、政府が何をしているのか、市民に情報を提供します。」

2017-06-11

"たいした問題じゃないが - イギリス・コラム傑作選" 行方昭夫 編訳

たいした問題じゃない... と言えば、そうかもしれない。哲学とはそうしたものだ。しかし、それがなければ人生は味気ない。なにも重々しく構えることはない。思わずニヤリとしてまう文体の群れ、群れ、群れ... 英国紳士風のユーモアを皮肉屋が仕掛けてくれば、酔いどれ天の邪鬼はイチコロよ...

英国には、文学の一ジャンルとしてエッセイの地位が高いという伝統があるらしい。その源泉はシェイクスピアやフランシス・ベーコンあたりに遡るのであろうが、評論とたがわぬ堅苦しさが残る。十八世紀になるとジャーナリズムが勃興し、ジョゼフ・アディソンやリチャード・スティールらが、政治経済だけでなく風俗慣習や身近な出来事などを題材にしたという。十九世紀には、チャールズ・ラム、ウィリアム・ヘイズリット、リー・ハントらが、一段と庶民に親しみやすいものにしたとか。特に、ラムの「エリア随筆」は傑作として名高いそうな。
そして二十世紀初頭、A. G. ガードナー、E. V. ルーカス、ロバート・リンド、A. A. ミルンといった名エッセイストを輩出した。本書は、この四人の選集である。
尚、リンドは二十世紀のラムと称されるそうな。ミルンの児童小説「クマのプーさん」は日本でも親しまれている。

四人とも、ジャーナリストで、作家で、批評家で、文化人で、新聞雑誌のコラムを担当したという似たような経歴を持つ。このようなエッセイ文学が開花した時期が第一次大戦前後と重なるのは、暗い出来事を明るく書いてないとやってられん!とでも思ったのか。彼らは年齢が多少違えば、出身地も背景も違う。なのに、それぞれの作品群には多くの共通点が見出せる。無意識と習慣の奴隷、関心と無関心の境目、忘却と幸福の相性、嫉妬と愛情の癒着、怠惰と迷信の法則、規則と自由のバランス、名誉と偶像の崇拝、動物愛護と人間虐待の矛盾... といった対称的題材を表裏一体として描きながら人間性の滑稽と醜態を暴く。それでいて人間の弱さには温かい目を注ぎ、書き手自らダメ人間を演じて、人間悲劇を人間喜劇として描写する。ちょいと考えてみれば、どれも古代から哲学者たちが論争してきた題材ばかり。ここには、人類の普遍性のようなものが語られているのやもしれん... と言えば、ちと大袈裟であろうか...

読者というのは、自分の思考に近い作品を好むもので、おいらの場合は、特に無意識と無関心についての記述に惹かれる。人の本性が無意識の領域にあるとすれば、概して人間は自我を知らないことになる。心の落ち着く場所が見つからず、魂に余裕がないとすれば、そして、それに気づかなければ、ぼんやりとした不安に襲われ、苛立ちを隠せないだろう。道徳家や有識者たちは、なにゆえ、いつも、けしからん!と憤慨しているのか。せかせかした日常に慣らされてしまえば、本当に大事なことを見失ってしまう。一度死んでみなきゃ、それを見直す機会も訪れないということか。とはいえ、生まれ変わることができたとしても、同じ過ちを繰り返すだけのことよ...
人は誰でも、社会の出来事すべてを引き受けるだけの度量を持ち合わせていない。何かしら専念しようと思えば、無関心の才能が求められる。宣教師は、異教徒を改宗させようとするあまり、金銭なんぞに構っている暇はあるまい。哲学者は、真理を見極めようとするあまり、俗世間の道楽に惑わされている場合ではあるまい。プラトンの記述によると、ソクラテスですら饗宴で酒をあおったようだが、それでもなお無関心な態度を崩さず、思いに耽ったことだろう。酒は心がけよりも、命がけよ...
しかしながら、無関心が必ずしも美徳とはなりえない。幸せを求めれば、何かを犠牲にせざるを得ない。名声不朽の人は、ある程度の人間性を放棄してきたことだろう。歴史上の偉人たちは、世間が大事にする多くのことに無関心でいただろう。人格ってやつは、何について無関心でいられるかで規程できるのやもしれん...

さて、本書には、四人それぞれに八点前後の短篇が収録される。全部で32作品もあるわけで、この中からお気に入りを選ぶのにも骨が折れる。そこで、読んだ記憶を墓石に刻むがごとくお気に入りの骨を、いやフレーズを拾っておこう...

1. ガードナー
「事実についての自分の解釈を疑ってみるのはよい習慣であり、また、他者の動機についての自分の解釈を疑ってみるのはもっとよい習慣である。十中八、九間違っているものだ。」

「サミュエル・バトラーが言ったように、人は、あるものについて、知っているのを意識しなくなって、初めてそれを知るのだ。それを知っているかどうかなど考えていると、次の瞬間に忘れる。」

「自由を現実のものとする社会秩序を享受するためには、個人の自由を制限することに同意しなくてはならない。自由はただ個人的なものというだけでなく、社会的な契約でもある。利害の調和である。他人の自由を侵さぬ限り、私には好き勝手にする自由がある。」

「無名の人やおとなしい人の権利を守るのは、小国の権利を守るのと同様に大切である。車を乗り回している連中がわざと警笛を大きくならしているのを聞くと、私は煮えくり返る思いがする。ドイツがベルギーを乱暴に蹂躙した時と同じ怒りだ。」

「今の複雑な世界では、我々は完全なアナキストにもなれないし、完全な社会主義者にもなれない - その両方の賢明なごちゃ混ぜでなくてはならない。二つの自由 - 個人の自由と社会的な自由 - を守らなければならない。一方で役人を監視し、他方でアナキストを警戒しなければならない。私はマルキストでもないし、トルストイ的社会主義者でもなく、両方の妥協の産物である。」

2. ルーカス
「ブレイクの詩を、いつものように不正確ながら、口ずさんでいた...
 他人の悲しみを見て
 悲しくならずにいられようか
 いやいやそんなことはあり得ない
 決して決してありえない」

「書くのに難儀すれば、読むのは楽。」

「悪い人たちじゃないけれど... 私のアキモネを根分けさせようという考えに取りつかれているのよ。こんな平和に満ちた庭園にまで、革命的な考え方が侵入してくるなんて、とても不思議な話だわ。」

3. リンド
「厳密な道徳家、少なくともピューリタンにとっては、あらゆる種類の自己耽溺は悪習であり、時間厳守が一種の自己耽溺であるのは疑いようがない。怠惰と面倒を避けたいという願望に根ざしているのだ。イギリス人は、諸民族の中で一番怠惰な民族であるから、もし時間厳守を守っていさえすれば、多くの余計な仕事や心配から免れると知って、時間厳守の教義を説き出したのである。ひどい自己中心主義の分派にすぎない。」

「子供のとき最小の努力で生きてゆく方法を身につけるだけの狡さがなかったおかげで、大人になってから苦労するのである。」

「日常生活では、詩への無関心は人類のもっとも目立つ特徴の一つである。偉大な詩が人類の最大の業績だということを否定する人はほとんどいないのだが、詩を読む人は殆どいないのだ。宗教の重要性が今日ひろく疑問視されているように、詩の重要性はいつか疑問視されるようになるのだろうか?それとも、詩は資産があって詩心のある人に相応しい仕事として尊敬され続けるのであろうか?」

「人間の人間に対する残虐行為は無数の人々を悲嘆に暮れさせており、その数は有史以来どんどん増えているのは確かである。しかし、人間性の気高い矛盾によって、仲間の人間に対しては狼である人間が、他の生き物に対して驚くべき優しさを繰り返し示してきた。」

「忘れっぽい人は人生を最大限に生かそうとする人なので、平凡なことはうっかり忘れることが多い。ソクラテスやコールリッジに手紙を出してくれと頼む人などどこにいるか。彼らは、投函などを無視する魂を持っているのだ。」

4. ミルン
「一般の人は空を見上げて、大空の下で自分がいかに卑小かと思うのだが、占星術の信者は天を見上げて、自分の圧倒的な偉大さを今更のように感知するそうだ。私は自分が信じていなくてよかったと思う。」

「天気の話では熱っぽく議論を戦わせることは殆どない。議論しないのであれば、意見が同じ者同士が親しみを覚えることもない。しかし、食べ物の好みははっきり差があるので、明確に意見の一致があれば、それはあらゆる結びつきの中でもっとも親密なものとなる。」

2017-06-04

"英文快読術" 行方昭夫 著

グローバル化していく社会にあって、英語に無関心でいることは難しい。受験生は仕方ないとして、突然、海外赴任を命じられる事もある。具体的な動機が見つからなくても、せめて英語ぐらいは... と漠然と考えている人も少なくないだろう。欧米人並に操りたいと理想を膨らます人から、海外旅行で道を聞く程度まで、目標設定によって挫折感も違ってくる。日本の英語教育には、入試対策が巧妙化するだけで、中学二年生ぐらいから徐々に落ちこぼれていくという悲しい現実がある。大学は、非常識なほど難しい題材を扱い続ける。その難易度が格付けと言わんばかりに。英語教育が英語嫌いを助長するとは、なんとも皮肉である。

では、学校の教材や参考書が悪いのだろうか?本書は、そうではないと指摘している。日本語の達者なアメリカ人のエピソードでは、日本の学校教育のように要領よく教えれば、文法的に酷い間違いをするアメリカ人も減るだろう、と言ったとか。それで成果は?と問えば、一言もない。楽しんで参考書を読んだなんて記憶はまったくないし、一時的な入試対策では卒業とともに廃棄してしまった。手段ばかりに目を奪われ、本来の目的を見失っていた典型である。そして、最初から教材探しに翻弄する羽目に...
あのシドニーシェルダンのオーソン・ウェルズが演じるシリーズを購入したのは、二十年前になろうか。そぅ、ドリッピーだ!英会話学校へ通えば、外国人講師から broken english を勧められる。最初から完璧に喋ろうとしても言葉が出てくるはずもなく、もっと人生楽しもうぜ!ってな具合に。ルイス・キャロルの「不思議の国のアリス」を題材とした英会話講座に参加すれば、いい歳こいたオヤジが学生に混じって、いまさらアリスもないだろう!と恥ずかしい思いもしたが、実に楽しかった。習うより慣れろ!とは、プログラミング言語と同じ。
そんなおいらだって、そこそこ喋れるようになった時期がある。だが、使わないとやはり衰える。いまだに外国人の前ではジェスチャーが多く、失語症のような感覚に見舞われる。老齢化って言うな!英語で失敗し、恥をかくこと幾度と知れず。どうやら英文と戯れることを、またもや忘れかけているようだ。
本書は、英語再入門のための指南書である。具体的な活用事例として、小説の retold 版を紹介してくれるのがありがたい。著者行方昭夫氏には、サマセット・モーム小説の翻訳で魅せられた。小説と戯れるような感覚で英語長文に触れられれば... この感覚こそ、解読術ならぬ快読術!それは、速読術ならぬ速愛術のようなものか...

言語習得に、単語と熟語、文法、文章読解という三つの力を鍛えることは、いつの時代も変わらない。ただ、英語と日本語は物理的に周波数帯が違うわけで、巷を騒がしている「聞き流すだけで...」といった宣伝文句にも一理ある。
一方で、海外留学をすれば、すぐに身につくというものでもない。却って大量な英語に圧倒されて引き篭もってしまい、そのまま帰国するケースも珍しくない。結局はコミュニケーション能力が問われる。
いずれにせよ学習法は千差万別。自分にあった方法は、いくら遠回りをしても自分で見つけるしかあるまい。具体的な生活の場で会話を訓練すれば規則も自然に身につく、という考えもあろう。実際、英語圏の国では子供でもすらすらと喋っているし、日本人の子供だって立派に日本語を操る。
では、子供と大人とでは何が違うのか?少なくとも、いい大学に入りたい、いい職業に就きたい... などという脂ぎった動機は持ち合わせていないだろう。母親に相手にしてもらいたい、単に興味がある... といった純真な心から発しているように見える。大人どもは、知識でも、技術でも、なんでも手っ取り早く身につけたいと考える。他人の知識や経験を活用し、自分だけは損をしたくないと考える。労力最小の原理に取り憑かれているのだ。人間ってやつは、経験を積んでいくうちに、面倒くさがり屋になっていく動物のようである。
昔から、数ヶ月で英語がものになる!といった宣伝文句を見かける。だが本書は、あえて、じっくりと長文を味わおう!という視点から、英語学習の明るい面を強調してくれる。とはいえ、長文と戯れるのは、やはり骨が折れる。読書体力を養わねば... それは英語に限ったことではない。

1. 誤訳について
日本語と英語では系統があまりにも違うだけに、熟練した翻訳家であっても誤訳はつきもの。そもそも、日本語で会話していてもよく勘違いはするし、客観性を保つべき法律においてすら解釈をめぐってしばしば論争になる。それは、言語システムの特性と言ってもいいだろう。言葉が精神の投影だとすれば、精神を完全に解明されていない今、言語システムには曖昧さがつきまとい、その柔軟性が進化をもたらす。弁証法ってやつは、永遠に廃れることはあるまい。しかも、言語は時代によっても変化し、社会風習との結びつきが極めて強い。
ただ、真のグローバリゼーションな社会であれば、なにも英語にこだわることはあるまい。いまだ人類は、絶対的な言語システムを編み出せないでいるのだから。どんな言語にも長短はある。古代には、ギリシア語世界、アラビア語世界、中国語世界があった。禅の伝道者は、真の数学を追求したければラテン語から学べと説くだろう。ユークリッドは原論をギリシア語で書き、後にアラビア語からラテン語に翻訳された。ニュートンはプリンキピアをラテン語で書いた。太陽王ルイ14世の時代には、知識人はこぞってフランス語かぶれになった。現在、英語が主流となったのは、ナポレオン戦争や二つの大戦の結果だけがそうさせたのではあるまい。大航海時代の宣教師たちの下地があってこそ。
言語に群がる特性は、政治や経済の力関係だけでなく、学問分野や専門職業との深い結びつきがある。英語圏の国は意外と少なく、公用語であっても主要語になっていない国も多い。ヨーロッパ大陸では、ドイツ語、フランス語、スペイン語の方が実用的かもしれない。
そして、多様性という人間の特性を存分に発揮し、翻訳界はますます活況となろう。第一外国語だけでなく第二外国語を学ぶ意義は、言語の長所と短所を互いに認識させることにあるのだと思う。実際、原作者が翻訳版からヒントを得て、改訂版に反映させるというケースもよく見かける。逆に、翻訳が酷すぎるために絶版に追い込まれるケースもある。せっかくの原書を台無しにする罪は重い。解釈をめぐる批判は、人間の多様性を相手取るだけに一筋縄ではいかない。
ぶっちゃけた話、意図的に非難しようと思えば、どんな優れた訳書でも、あたかも間違いだらけのような印象を与えることはできるのだそうな。批判ってやつは、よほど良識をもってやらないと意地悪や難癖となる。ド素人から見れば、専門家レベルの誤訳指摘は五十歩百歩という気もしなくもないのだけど。ただ、日本語力の違いをまざまざと魅せつけ、むしろ日本語の勉強になって、おもろい!

2. オススメの参考書
意外にも、英文解釈のための参考書に、受験参考書をあげている。解説まで施され、一般に英文を正しく読もうとする大人にとって、この上なく優れた教材だという。確かに、高校までの語彙に限定され、専門知識も不要だし、問題作成に膨大なエネルギーが注がれていることは間違いない。しかし、アレルギーが...
当時、ひたすら受験のために要領をえようとしただけで、十分に活用したか?と問えば、そんなことは断じてない。本書で紹介される小説の抜粋は、長文の横に解説が施され、参考書の形式そのものだ。英語学習で最も不足しているのは、平易な英文をたくさん読むことだという。そして、具体的に、こういうものを薦めてくれる。

  • 原仙作著, 中原道喜補訂 「英文標準問題精講」
  • 芹沢栄「英文解釈法」
  • 朱牟田夏雄「英文をいかに読むか」

あれ?「英文標準問題精講」は見覚えがあるような...

3. 気軽に辞書を引こう!
当たり前のことだけど、日本語の小説を読む時ですらしばしば辞書を引く。今ではネット空間に辞書があるので、かなり気軽に引ける。
特に、用例を見よ!と、「ホレーショーの哲学」というものを紹介してくれる。シェークスピアの「ハムレット」にある台詞で...

"There are more things in heaven and earth, Horatio,/ Than are dreamt of in your philosophy."
「ホレーショー、天と地の間には、いわゆる哲学などでは夢にも考えぬことがあるものだ。」

"your philosophy" とすれば、普通は「君の哲学」と訳されるが、"your" を辞書で引けば、「(通例けなして)いわゆる、かの、例の」といった説明もあるという。
辞書にすべての事例を載せるのは不可能。辞書は万能ではないし、使いこなしてこそ価値がでる。英語だけでなく、日本語にも精通しなくては、いい翻訳は生まれない。そこで、役に立つ表現辞典を紹介してくれる。

  • 中村、谷田貝、両氏「英和翻訳表現辞典」

例えば、"reserved man"「ひっ込み思案の人」と訳しているんだとか。なかなか洒落た辞書のようだ...

また、イディオムに注目せず、正しい英文快読はありえない!と強調している。"you know" とはよく使うフレーズで、「ご存知のとおり」といった意味。しかし、相手が知らないことを皮肉って、「なんじ知れ!」という命令形もよく使われるという。"you see" もよく使うが、これも同じようなものか。
そして、イディオムに重点を置いた辞書も紹介してくれる。

  • 「新クラウン英語熟語辞典」
  • 多田幸蔵「英語動詞句活用辞典」

興味深いところでは、"had better" が命令口調であることを知らずに、えらい目にあった人の事例を紹介してくれる。あるアメリカ人の老教授を案内していて、こう言って機嫌を損ねたという。
"You had better go there by taxi."

こう言えば感謝されたかもと...
"Perhaps it would be better to go by taxi."

こんな実践的な事例は、入試対策を前提とした教育では教わることもないか...

4. 自動詞と他動詞の区別
日本人の英語解釈で問題なのが、自動詞と他動詞の区別ができないことだと指摘している。英語圏の人々は、自動詞と他動詞の違いに敏感なことは分かる。日本人がこの感覚に疎いのは、自己主張の傾向が少ないということもあろう。日本語では主語を曖昧にする傾向がある。英語の方が論理的な言語ともされるし、時制を重視する点も、日本人の感覚になかなか合わないところがある。
例えば、ある日本語を学んだ英米人のエッセイには、「こわい」という語を習って、とても驚き、信じられなかったと書いているそうな。「とてもこわかった」と「それはこわい芝居よ」を英語で言えば、こうなる。

"I was very frightened." / "It was a very frightening drama."

"frightened""frightening" も、日本語では同じ「こわい」で済ますことに納得できないらしい。
さらに、興味深い事例として、ひと昔前の男性化粧品のテレビコマーシャルをあげている。

"For exciting young men."

字幕に「エキサイトする若いきみたちに」と入っていたとか。学生たちに、この宣伝文句の正しい日本語訳を求めると、たいてい「わくわくする青年のために」といった訳をするという。
そこで、女性をわくわくさせたければ、マンダムを使用しなさい!という宣伝ではないのか?と問う。そして、「女性をエキサイトさせるのに、自分がエキサイトしては駄目だ。客を笑わせる落語家は自分自身は笑わないものだよ」と説明すると、「女の子の心をときめかせる若い男性諸君に」という正解を示したとさ...

"You're irritating." 「君はぼくをいらつかせる。」

これには、95% の学生が「君はいらいらしている」と訳すという。ちなみに、ネット上の機械翻訳では、両方でてくるなぁ...

5. 長文を味わう!
本書は、味わい深い四つの作品から長文を抜粋してくれる。参考書風に単語や熟語の解説が施されるので、小説のように読めて、なかなか乙である。だが、ちょいと考えてみると、学生時代にやっていた訓練ではないか!大っ嫌いだったはずだが、こうも自然にやれるとは...
ただ、自分の翻訳が正しいかを検証するために、全訳が欲しい!と思っていたら、最後に付録されていた。それに気づかず、読みきれたのが幸せ...

  • "The Year of the Greylag Goose"「ハイイロガンの春夏秋冬」、動物行動学の創始者ローレンツ博士著
  • "At the River-Gates"「水門で」、児童文学者フィリパ・ピアスの短篇「幽霊を見た10の話」に収録
  • "Introduction to ISHI IN TWO WORLDS" 「イシの序文」、SF作家ル=グウィンが亡母の著書「イシ - 北米最後の野生インディアン」に寄せた序文。
  • "The Summing Up"、サマセット・モーム著

"The Year of the Greylag Goose"
ハイロガンのつがいは、普通、一生貞節な夫婦として添い遂げる。だが、劇的な状況が生じて中断することもある。突然、違った相手と熱烈になったり、不倫も。雄も雌も愛に狂う、まるで人間のような奴らだ。知性の面で動物は劣っているが、感情や情緒の面では... それは、脳の部位や構造によって裏付けられる。

"At the River-Gates"
第一次大戦に出征していった兄貴。塹壕の地獄からの声。兄貴が出征してから、水門を開きに行くのは父の仕事。ある日、嵐の夜、ずぶぬれで悪戦苦闘している父を助けたのは、戦地にいるはずの兄貴だった。そして翌日、兄貴の戦死の電報が... わしは今では老人じゃよ!と弟が懐かしそうに兄弟愛を語る。

"Introduction to ISHI IN TWO WORLDS"
イシの物語は、「ロビンソン・クルーソー」を逆にしたような物語。クルーソーの孤独は、海で嵐という自然の猛威によってもたらされたが、イシの孤独は同じ人間での卑劣な集団行為によるもの。イシは、白人から皆殺しにされた野生インディアンの最後の生き残りとして、家族の惨死を悲しみつつ、何年間も身を隠して暮らした。悲惨な暮らしに耐えられなくなって、白人の世界に迷い出た時、待っていたのは覚悟していた死ではなく、皮肉にも思いやりと友情であった。

"The Summing Up"... これは、一年ぐらい前に記事にしたので省略。