2011-04-24

"形而上学(上/下)" アリストテレス 著

例のごとく難解な書を手にすれば、思考が勝手に暴走をはじめる。一つ一つの文面が論理的であっても、それらが複雑に絡み合ううちに矛盾らしきものが顕わになる。そこに一貫性があるのかも疑いはじめ、ついには複雑な体系らしきものが亡霊のごとく浮かび上がる。
単独で存在する光子が粒子性を示す間は、まだしもニュートン力学で説明できるが、、群をなして押し寄せる光が波動性を示せば巨大エネルギーの塊と化し、もはや人間の手には負えない。難解な書とは、まるで不確定原理を体現するかのようだ。
難解な文章がBGMのごくと流れ去れば、そこに自由気ままな解釈を加えずにはいられない。したがって、ここで述べる事がアリストテレスの意図したものかどうかは知らん。詭弁論ならいくらでも語ってやるぜ!

本書は「形而上学」と題されるが、この言葉は本文のどこにも見当たらない。一つの哲学用語であろうが、日本語にあてがうために無理やり作り出した翻訳語のようにも映る。そこには「第一の哲学」と表わされ、その学問は「存在としての存在の研究」としている。形而上学とは、人間精神の持つ基底認識についての論考とでも言おうか、自己や精神といった形として存在することを超越した普遍的原理としての存在を研究する学問とでも言おうか。
「真理も友もともに敬愛すべきであるが、友より以上に真理を尊重するのが、敬虔な態度である」
アリストテレスは、真理の探究は困難であるが、ある意味では容易であるという。真理を的確に説明しようとすれば、ほとんど不可能だ。しかし、だいたいこんなもんだろうという程度であれば、誰にだって真理っぽいことは言える。それで失敗することもあまりない。真理ってやつは絶妙な距離感を保ちやがる。しかも、原理や原因性を説明できなくても、絶対的な神の存在を仮定すれば、すべて神のせいにできる。自分の犯した罪ですら。何かにすがっている間は、真の自由意志を獲得することはできないだろう。
実体と本質の違いとは何か?そこに真理がどのように絡むのか?すべては真理かもしれないし、そもそも真理なんてものは存在しないのかもしれない。証明できないということは、どうにでも語れるということだ。多くの真理が日常に溢れながら、同時に誤謬が存在する。これが認識能力を獲得した生命体の宿命であろうか。判断力の実践において、最も簡単な解決法は多数決に委ねることだ。だが、同時に真理から遠ざかることを覚悟せねばなるまい。真理は感覚的なものであると同時に、精神から最も遠いところにあるような気がする。
ならば、たとえ答えが見つからなくても、真理を探究することで精神が癒されるならば、それでええではないか...などと主張すれば、宗教と何が違うのか?と疑問がわいてくる。無条件に信じるのと思考を続けるのとでは全く違う!と強調したところで、脳停止状態にする方がはるかに高度な技に映る。精神の内にある存在認識を探究するということは、思考の根本原理を解明しようとすることであろう。ゆえに、人間の発明した言語を超越した世界に踏み込むことになり、自己矛盾に陥ることは避けられない。一つの言葉の多義的で含蓄のある言い回しは、国語辞典さえも無力化してしまうだろう。もはや、定義できることは数学の領域にしか存在しないのか?真理とは沈黙することなのか?天才は泥酔した読者を弄びやがる。

本書は、ピュタゴラス学徒やプラトン学徒への批判書でもある。その構図は、イデア対エイドスといったところか。ただし、エイドス(形相)という言葉でも、両者の解釈には微妙に違いがあるようだ。プラトンは、イデアという純粋原型のような普遍的実体を前提とし、数学的対象のように数字の大小関係のみで平等に存在するようなものをエイドスとしている。対してアリストテレスは、肉体と精神の結合体をエイドスとし、その多様性から質料も形相も平等に実体としている。あえて言えば、プラトンが普遍主義でアリストテレスが個体主義となりそうだが、そう簡単には片づけられない。原型と多様性の対立、質料と形相の対立、物体優位性と精神優位性の対立...んー、どれもしっくりとこない。もともと、アリストテレスはプラトンの弟子であり、自己批判に陥るところも多分にある。プラトンが数学的対象を重視しているのに対して、アリストテレスは精神的対象を重視しているようでもある。実際に、アリストテレスがローマ教会やスコラ学に影響を与え、その歴史的背景から批判の対象にされることも珍しくない。天動説の側にあったのも事実だし、科学界ではなにかと議論の出発点とされるので、批判の矢面に立たされる。アリストテレスは、あらゆる議論よりも感覚的経験を先に置いていると評されることもある。だとしても当時の科学レベルと比較しても仕方がないし、それで蔑む気にはなれない。少なくとも、論理学の最初の理解者としての地位を損なうものではない。
過去の偉大な思想家が、後の影響の仕方によって、ほとんど言いがかりのような批判を受ける例は実に多い。その偉大さを強調する弟子たちによって、かえって落とされるから滑稽である。宗教団体がビックバン説を支持したところで、量子論学者たちがその宗教を支持するわけではない。宗教とは、都合良く科学を取り入れながら、その優位性を強調するものであるからして。
精神優位性を持ち出せば、霊感主義者を勢いづける。だが、アリストテレスは客観的な存在を否定しているわけではない。ピュタゴラス教団が信奉した「万物は数である」という思考は、プラトンと同じくアリストテレスも受け継いでいる。精神の実体については、形相と単なる素材の結合体との境界線を探究しながら、思惟する実体、認識する実体としての質料、あるいは精神の最小単位のモナド的な存在を論じている。ここには科学や数学の思考の原点を見つけることができ、デカルトも、ニュートンも、ライプニッツも、その影響を受けているものと思われる。ただ、アリストテレスは、プラトンがあまりに数学を研究し過ぎると批判した。数学は哲学であるという信条があるからこそ、プラトンの方が好きなんだけど...

「すべての人間は、生まれつき、知ることを欲する」
あらゆる存在の原理と原因性を説明しようとすれば、まず自己の存在を前提しなければならない。では、自己の存在の原理と原因性とは何か?相対的な認識能力しか持てない人間にとって、自ら思惟する意志の存在を説明しようとすれば、何か絶対的な基準となる存在を前提するしかない。その絶対的な存在を、科学は宇宙の起源に求め、宗教は神という創造主の存在に求めてきた。人類はいまだ自己の存在が何であるかを知らないでいる。自己を理解しようとすれば、自己の存在を信じずにはいられない。しかも、自己の意志を正当化しながら、存在意義という妄想を膨らませる。既得権益にしがみつき、必死に自己の存在感を強調しながら、あらゆる正当性も自己の介在なしでは認めようとしない。死んでもなお、銅像などの偶像の建設を願う者までいる。人間にとって自己の存在を否定されることほど不愉快なものはないだろう。それはすべて自己防衛本能の原理に従う。
思惟するとは、認識するとは、何を意味するのか?思考するからには対象が存在する。いや、存在と非存在にかかわらず、そのように思い込むだけのことかもしれない。思い込みとは、欲望のことか?存在には煩わされ、非存在には夢と希望を描く。その一方で、過剰な欲望に対抗して理性を働かせる。そこには、節度と欲望の葛藤がある。夢や希望は無限に思い描くことができるが、現実を見つめれば限界に苛む。理性とは、現実を受け入れることなのか?そして、夢や希望を捨て去れば、限界を感じずに自由でいられるのか?思惟せずに、認識せずにいられれば、最高の自由を獲得できるというのか?そこに最高の幸福が見えてくるのか?人間は、自ら思惟することで精神の囚人として生きている。ならば一旦、自己の存在を無と仮定してみてはどうだろう...

1. アリストテレス
アリストテレスは、プラトンの学園アカデメイアに入門し、アレキサンダー大王の家庭教師となったことは広く知られる。忠実なプラトン学徒でありながら反プラトン主義を開化させるとは、なんとも皮肉だ。彼は、プラトン学徒から離れ自ら学校を創設し、神殿に因んでリュケイオンと名付けた。その学徒たちはペリパトス学徒と呼ばれた。ペリパトスとは「散歩する人々」という意味で、毎朝学校の並木道で散歩しながら哲学論議に耽るのが習慣だったという。
アリストテレスは、ギリシャ文化こそあらゆる文化より優越すると考え、世界の支配国家となるべきだと唱えた。しかし、アレキサンダー大王は、その意に反してアジア遠征でバルバロイ(異民族)との相互融和、東西文化の交流を企図した。大王の死後、アテネで反マケドニア運動が蜂起し、ソクラテスと同じように国家の神々に対する不敬罪を問われる。そして、母の故郷カルキス市に逃亡して、その場で病死したと伝えられる。
彼の功績は、自然学、生物学、霊魂術、弁論術、論理学、政治学、倫理学、教育論など多岐に渡るが、その多くは失われているそうな。それでも作品がかろうじて残るのは、アリストテレス研究者たちの努力によるものらしい。晩年の作品には「ニコマコス倫理学」があり、息子ニコマコスが編集したとされる。こちらも、いずれ挑戦してみたい。
本書は、理論哲学は、自然学と数学と神学の三つのうちにあるとし、中でも神学が最も尊いとしている。霊感的な思想に頼っていた時代だから、神学を中心に置くのもうなずける。プロタゴラスやゴルギアスやプロディコスといったソフィストたちの弁論術が優勢な時代でもある。
ちなみに、プラトンは、ソフィストの術を非存在を対象とする部門に分類したという。ソクラテス、プラトン、アリストテレスと受け継がれた時代は、理論哲学の創世期とも言えよう。そして、若干の客観性を取り入れつつ進化してきたのが、学問ということになろうか。現代思想と比較しても、客観性の抽象レベルで若干の違いを見せるぐらいなものか...

2. 公理と真理
公理は自明の真理であって、けして証明できない。公準のように自明でない真理もあるが、いずれも証明できない。公準によって別の公準が証明できても、それは純粋な証明ではない。自然社会には、こうした受け入れるしかないものが山ほどある。だからといって、これを宗教と言えようか?点や線や面といったものは数学上の概念であって、幅のない点や線、厚みのない平面なんて存在しない。線は点の集まりで説明でき、面は線の集まりで説明できるだけのこと。そして、あらゆる物体は、点や線や面の集合体として説明できるだけのこと。
存在しない概念から存在が説明できるとなれば、既に自己矛盾に陥っている。よって、存在の真理を探究すれば、非存在を無視するわけにはいかない。だから、存在するものは必ず消滅に追い込まれるのか?そこで、単純化した思考が提示できる。それは、そもそも実存なんて幻想に過ぎない!ということだ。人間社会は現実社会を放棄しながら、仮想社会へと向かい、あらゆる実体を誤魔化そうとする。破壊のカオスへ喜んで進むかのように。なるほど、人間の最も幸せな精神状態というのは、現実逃避ということか。
それにしても不思議なのは、完全性や絶対性を知らないくせに、不完全性や相対性を認識できるのはなぜか?死がなんであるかも分からないのに生へ執着するのはなぜか?などと疑問を持ちはじめると、本当に認識できているのか?と疑いたくなる。そして、存在とは人間認識の産物でしかないことになる。人間は思惟する悪魔なのか?自然界にとって、人間認識ほど厄介なものはないのかもしれない。

3. 存在と非存在
認識論でいう「充実体」と「空虚」の違いとは何か?一般的には、前者が存在で、後者が非存在ということになろう。つまり、非存在という存在を認識していることになる。そして、認識できるものはすべて存在すると解釈すれば、デカルトのような神の存在証明が成り立つだろう。人間は、愛という妄想に憑かれ、根拠のないものほど信じやすい。そして、理性の存在が幻想であると悟った時、はじめて理性という現象が生起するのかもしれない。となると、無もまた存在なのか?「何かが欠如している」と言えるということは、欠如した状態が認識できるということだ。自己の存在を前提しながら、その属性については非存在を認識しているという奇妙な関係がある。
ところで、精神が無い状態って、どんな状態であろうか?宇宙空間にとって最も自然な状態なのかもしれない。モナドロジーを信奉する人たちは、あらゆる物質に精神が宿ると考える。彼らは、物質を構成する最小単位が物理学的な素粒子などではなく、形而上学的な精神原子のようなものを想像する。物事を総体として眺めようが、個々の構成要素に注目しようが同じく存在する。にもかかわらず、人間はその違いに格付けを与える。人間が動物から進化する以前から物質は存在したはずだが、その時系列的な解釈で生命体が高尚化すると信じている。
また、誤謬という奇妙な認識も非存在と言えるかもしれない。だが、人間は誤謬を真理と区別なく認識できる特技を持っている。この認識能力は神ですら及ばないだろう。そして、自己の存在を前提できなければ、あらゆる認識論は脆くも崩れる。人間の存在とは、実に果敢ないものである。となれば、誤謬を犯している間は幸せということか。

4. イデア対エイドス
本書は、プラトン学徒が単純物体の存在や非物体的存在は説明しても、運動の原因を見落としていると指摘している。ここでいう運動とは、精神の運動であろうか?更に、原型が本質だとしても、原型から派生した実体があり、これまた存在の本質であるという。
「エイドスを語る人々は、それらを離れて存在するものと説いているが、いやしくもそれらが実体である限り、この点では正しい、しかし、かれらは多くのものの上に立つ一つのものがエイドスであると説いている点では正しくない。」
プラトンは、イデアを本質とし、更に数学的な対象である数字の大小関係のようなものだけをエイドスとし、これら属性を実体と解釈したようだが、アリストテレスは、多様性としてのエイドスをすべて独立した実体としているようだ。それが理想的な存在であろうが、現実に存在するものであろうが、どちらも実体ということなのだろう。いや、イデアのような原型は、実体ではなく理想的な雛形に過ぎないと言っているのだろうか?プラトンは、ある実体を前提しないと存在できないものがあり、同じ存在でも前後関係や先後関係があるとしている。対して、アリストテレスは、属性や付帯的な存在、あるいは偶発的な存在も、等しく実体だと主張する。理性的存在で語るならば、プラトンは理想の原型が実体として存在すると考えるのに対して、アリストテレスは人間が理性の持ち主であるならば、人間の数だけ理性が存在するといったところであろうか。
そもそも、絶対的な理性を獲得したわけではないので、理性の原型を持ち出されても、その正体が分かるはずもない。もし理性の原型が存在したとしても、性格や形相が遺伝子的に受け継がれながら悪徳を身に付けていき、もはや純粋な認識能力がとこにあるかも分からない。それでも、あらゆる物事は無から生じるような気がするのはなぜか?その無が何か原型のようなものを持っていると前提しなければ、実体が生じるとも想像しにくい。よって、イデア論も捨てがたい。ただ、基体なるものを真の実体とし、その基体に属する形どったものは、実体ではないとするのも抵抗がある。
そして、どちらに軍配を上げるかは、状況に応じて都合良く使い分けることになる。質料から実体を演繹する方が、物理学的な物体を元素の集合体と説明するのに似ていて、実体と属性を分ける方が分かりやすいという点ではプラトンか。質料も形相も同じ実体とし、社会学的に多様性を認めているという点ではアリストテレスか。結局、あらゆるものの本質である不滅な実体を示すことはできないし、普遍的なモナドのような実体を示すこともできない。
ただ!確実に言えることは、夜の社交場におけるアル中ハイマーの幽体離脱説を説明するには、イデア論の方が都合がいい。

5. 存在の原理
存在を、消滅しうるか消滅しえないかで分類すると、その実体が少し見えてくるかもしれない。イデア的な存在で消滅しないものがあるとすれば、DNAのようなものか?宇宙空間で消滅しないものがあるとすれば、素粒子のようなものか?何か体系をなして存在しているものは、いずれ消滅するだろうし、宇宙自体が消滅しそうな気がする。実体とは、消滅するものでなければならないのかもしれない。
何かを定義できるということは、何かの原理から演繹されるか、あるいは帰納されるかである。すべての実体が平等に存在するとなれば、数字の大小関係のように相互関係から演繹するぐらいであろう。数は他の数から定義できても、その数自体は証明できない。となると、基準が見えない。数の中にイデア的な存在があるのか?公理が証明できないように、存在もまた証明できないのか?あらゆる存在を数に還元すれば、すべての実体は、関係においてのみ定義できるだろう。だから、あらゆる財産は貨幣で換算され、命ですら貨幣価値で算出される。なるほど、「万物は数である」といわけか。
あらゆる存在は、何らかの関係によってのみ説明できそうだ。いや、そう信じたいから、「君のために俺がいる!」なんて浮いた台詞が吐ける。無を認識できるから有が認識できる。幻想に憑かれるから実存らしきものが見えてくる。存在の原理は、すべてこれで説明できるだろう。ただ、説明できるからといって、それが真理とは言えないけど...
そして、酔っ払いの存在は「なぜ酒を飲むのか?」と問えば、「そこに酒があるから」と単純化できる。これが、純粋な、いや純米な存在の原理ではなかろうか...

2011-04-17

"嘔吐" ジャン=ポール・サルトル 著

「LA NAUSEE (ラ・ノゼ)」とは、ブランデーの銘柄にあってもよさそう。やはり吐くほどの強烈な酒ということになろうか。その訳は、「嘔吐」とするのは誤りで、「吐き気」とするのが正しいという。活字的に座りが悪いことから、この題名になったそうな。ルビを振って「嘔吐(はきけ)」とする話もあったとか...
サルトルというと共産主義者という印象があるので、いまいち読む気がしなかった。しかし、本書はイデオロギーに毒されたところがなく、純粋な文学作品に仕上がっている。そして、実存主義的思考から生じる不条理と対峙する。あらゆるものは偶然的に存在し、それに対して人間は無力だ。その無力感を酒を飲みながら楽しむか、嘆いて絶望感に浸るかは好きにすればいい。もう一つの選択肢として、無意識無想の概念を加えたいところか...
本書が綴るのは、精神に静かに忍び寄る実存的病魔といったものである。人間が思惟したり認識したりする根本的原因は、自己の存在認識にあろう。人間は生涯この基底認識から逃れられない。それは精神を獲得した生命体の宿命であろうか?その正体が見えないだけに、あらゆる悩みの根源となり、慢性的に吐き気に襲われる。
吐き気が永遠に続くとしたら...嘔吐できるものがあれば、まだましというものか。

主人公は、図書館と場末の酒場に通うアントワーヌ・ロカンタンという男。彼は、中央ヨーロッパ、北アフリカ、極東方面を旅行した後、ド・ロルボン侯爵という18世紀の人物に関する史的研究を完成させるために、フランスの港町ブーヴィルに滞在している。そして、いつ日か精神の内に忍び寄る病魔を感じるようになる。ちょっと変で少し窮屈な感じ、ただそれだけのこと。だが、一旦精神の内に適当な場所を見つけたら、静かに収まって動こうとしない。それは思い過ごしに違いない。そう言い聞かせるが、疑う余地がない。やがて明確な形として現れてくるのだから。
仕事としての歴史研究、酒場のマダムとの色事、彼女との甘い思い出、ヒューマニスト独学者との出会い、そのすべてが吐き気を誘う。日常の変化になんとなく居心地が悪い。そう感じるのは、自分が変わったせいだと納得しようとする。なんと不愉快な解決法であろうか。
歴史では社会の閉塞感から大変革をもたらす。人間精神もまた内面の倦怠感から変革を起こすのだろう。ぎくしゃくしたものが一貫性を欠き、その矛盾に苛む。いったい精神の内で何が起こっているのか?思考は言葉と結びつかず、支離滅裂を繰り返し、意識が朦朧としていく。
彼は、ついに悟る。誰の意識の中にもアントワーヌ・ロカンタンなんて人物は存在しないと。それは単なる抽象的な概念のようなものに過ぎないのだと。意識しなければ存在すらできない。人の存在とは、そんなものかもしれない。だから、政治屋や報道屋は自己の存在感を強調しようと大声で叫ぶ。まったく鬱陶しい奴らだ。彼らが存在しなければ、世間は静かになるだろうに...
ところで、自分自身を余計者と考えるのは過失であろうか?社会への絶望、人間への絶望、そして自己への絶望などと膨らませていくと、存在するすべてのものが恥ずかしいものに見えてくる。その苦しみから逃れる術とは?あらゆる存在を否定するしかないのか?そして、苦しみすら存在しないと。
しかし、あらゆる存在は苦しみとの関係において余計なもの...と考えたところで、吐き気は収まらない。そうなると、存在の不条理を覆い隠すために、別のことを見出すしかあるまい。人生は死までの暇つぶしというわけだ。そのためには、自己を欺くことになりそうだが...

「人間が自分の理性を籠絡しておいていかに偽ることができるかに、私は感嘆する。」
人間は本来的に孤独である。あの世へは一人で旅立つしかないのだから。それでも、周りの人々と幸福や不幸を共有しているうちに、孤独ではないと信じられるようになる。いや、信じたいと願っているだけのことかもしれない。実際に、あなたは一人ではない!と励ましてくれる人たちがいる。だが、一人だと思い知らされた時、彼らを詐欺師だと思うだろう。一人かも知れないし、一人ではないかもしれない。どちらも精神にとっては、良くも悪くも作用する。結局、都合良く受け入れるしかあるまい。いずれ周りの友人や同世代の人々が去っていき、孤独に苛まれる日々が来るだろう。
自己の存在を崇めるほど、孤独という反動が返ってきそうだ。ならば、存在を無に還元できれば、真の自由が獲得できるだろうか?それでも孤独を感じるだろうか?世間は孤独を悪のように言うが、そもそも孤独は精神にとって厄介なものなのか?...などと自問しながら、老人病を患っていくのだろう。精神と正面から向き合うということは、孤独を覚悟することなのかもしれない。
有頂天になっている時は、充実感を満喫できて吐き気など催さない。人生で最も自信の持てる時期とは30代前後であろうか。それなりに経験も積み、仕事では中心的な存在となる頃。だが、周りが見えてくると、根拠のない不安に駆られ吐き気を催す。自信を構築してきた知識が、自信を崩壊させていくとは。失敗の可能性が見えてくると、それを極端に恐れるのは、そこに脂ぎった欲望が絡むからであろうか?しかし、それが通り過ぎると気楽になれる。記憶力や思考力の衰えにも諦めが生じ、いい加減さを楽しむようになる。恐怖心よりも精神の麻痺が優勢となれば、絶望ですら感じなくて済む。そして、知に対する純粋な渇望とは、無我の境地ということになろうか。

1. ド・ロルボンという人物の歴史研究
ド・ロルボンは醜男だったという。王妃マリー・アントワネットから面白がられるほどに。だが、宮廷のあらゆる女性をものにした凄腕の持ち主。首飾り事件で怪しい一役を演じて失踪した後、ロシアに現れパーヴェル1世の暗殺に関与したという。続いてインド、シナ、トルキスタンなどでスパイ活動に従事。パリに戻ると、ダングレーム侯爵夫人の唯一の相談役として権力を掌握する。70歳には18歳の美女と結婚。そして、反逆罪に問われ5年の牢獄生活の後に死んだという。ロシア皇帝のために高級スパイを演じながら、ナポレオンのためにアレクサンドルを裏切るという陰謀家。
その隠された歴史を調査するからには、証言の整合性を欠いて苛立つ。証言者たちが、サディズム的魔術師、あるいは理性を失った半狂人といった悪魔的人間に見えてくる。そして、謎めいた人物の存在を研究しているうちに、虚像を追いかけているような感覚に見舞われる。陰謀家には友人らしき者もいない。その孤独感を自分と重ねるかのように人間嫌いに陥る。ロカンタンにとって、自分の存在を正当化できる唯一のものが、研究対象であるド・ロルボンの存在だったのだ。彼は、自らの誤りをド・ロルボンを甦らそうとしたことだったと悟る。
過去の人物を研究すれば、そこに自分の居場所を見つけることができるのか?歴史家とはそうした性分を持った連中なのか?過去に自分の居場所を見つけるとは、なんとロマンティックな。言い換えれば、現在に居場所がないということか。未来に居場所を見つけるよりは確実かもしれないが...

2. カフェ・マブリーのマダム・フランソワーズとの色事
なにかと母港のようにカフェに通う。会話はなんの役にも立たず、ひたすら肉体をむさぼる。これが、憂鬱から解放される唯一の方法なのだ。愛という形のないものよりも、肉体という実体にしがみつくというわけか。だが、ふと現実を振り返ると、吐き気へと引き戻される。
ちなみに、夜の社交場の放浪者は、帰宅した途端に虚しくなり、どっと疲れがでる...と聞いた。

3. 昔の彼女アニーの思い出
過去の甘い思い出が癒してくれるとは限らない。むしろ、その反動で苦々しくなることがある。アニーと音沙汰がなくなって5年が経った。ロカンタンは記憶が甦るたびに吐き気を催す。いつのまにか、その微笑すら思い出せなくなる。そんな時、会いたいという手紙が届く。しかし、会ったところで愉快になれるかは分からない。彼女は高飛車で小悪魔的な存在。その強気の性格から喧嘩をふっかけられるかもしれない。ただ、手紙をもらった瞬間から、忘れていた彼女の微笑が甦る。なんだかんだと言いながら、結局会いに行く。呼び起された情愛を感じたいから...男とは、つまらぬものに期待をかけるものだ。

4. ヒューマニストの独学者
どちらが生を演じるにせよ、ド・ロルボンとロカンタンは互いの存在を必要としている。歴史家が研究を放棄すれば、歴史に埋もれた人物が甦ることはない。ロカンタンは、図書館で研究をしながら、過去の人物と現在の自分との存在関係で苛む。その側には、量子論だろうが進化論だろうが、ひたすらアルファベット順に読み漁るヒューマニスト独学者がいる。退屈を紛らわすことこそ精神の安住と言わんばかりに。
ヒューマニストにもいろいろなタイプがあるようだ。
「責任感の強いヒューマニスト哲学者、人間をあるがままの姿で愛するヒューマニスト、人間をあるべき姿で愛するヒューマニスト、同意を得てから救済するヒューマニスト、意に反しても救済しようとするヒューマニスト、生を愛するヒューマニスト、死を愛するヒューマニスト...」
彼らは互いに憎みあう。それは、個人としてであって人間としてではない。彼らは等しく有識者と呼ばれる。
「ヒューマニズムは、反主知主義もマニ教の善悪二元論も神秘主義も厭世主義も無政府主義も自己中心主義もすべて消化した。」
独学者は、実存と対峙し、自らの存在価値と対峙し、自己嫌悪に陥る。誰も相手にしようとしない哀れなヒューマニスト。教養の夢、協調の夢、そうしたものが一挙に崩壊し、恐怖心は嫌悪感となり、人間嫌いとなって孤独の殻に籠る。おまけに、図書館で触り魔事件を引き起こす助平野郎になりさがった。実存から逃避すると変態行為に及ぶのか?自己の存在を否定し自棄になれば、犯罪を正当化できるというわけか。独学には孤独の修行が欠かせないようだ。
実存を肯定しようが否定しようが、何かに従順になるということは精神を怠惰にするだろう。その一方で、真の自由を求めて思考を続けたとしても、精神の存在は見えてこないだろうし、そのまま居場所を失うだろう。精神とは、怠惰に向かうか居場所を失うかしかないのか?そうなると、精神病患者とは、あえて精神の限界に挑んだ勇気の持ち主ということになりそうだ。
「私は自由である。つまり、もはやいかなる生きる理由も私には残っていない。」

2011-04-10

"時" 渡辺慧 著

名著と呼べるほどの古書が絶版となってそのまま埋もれていく。世の中にはそんな惜しい本が数多くある。本書を知ったのは、木村敏氏の著書「時間と自己」で紹介されていたからである。そこには、物理現象の不可逆性の正体について語ってくれるとあった。それがエントロピーに関するものだということは想像に易い。復刊しそうな気配がまったくないので図書館を利用することにした。

本書は、物理現象に哲学的な解釈を加えるもので、物理学の書というよりは哲学の書である。まず、著者の専門は理論物理学であると述べ、哲学的素養は一常識人に過ぎないと断っている。にもかかわらず、相対性理論に対するベルクソンの考察では、その貢献と誤謬に関する解釈は見物だ。日本には有名な哲学者が見当たらないことから哲学後進国と揶揄されることがあるが、どうしてどうして...物理学者にこそ純粋哲学を観る思いである。
ところで、哲学を論じるのに玄人も素人もなかろう。哲学という分野は、ひたすら自己精神を探求するものであって、歴史的背景や専門的知識の影響を比較的受けにくいように思える。有名な哲学者の多くが同時に科学者や数学者であったのは、この学問が自然学に根ざしているからであろう。その代表例といえば、ニュートンの著書「プリンキピア」の正式名称「自然哲学の数学的原理」が示している。
いや、それだけに留まらない。文学作品では庶民的な哲学で魅せられるし、歴史学や社会学などあらゆる学問において哲学的思考で魅了される。哲学を構築するのに職業の差別もない。一流のスポーツ選手が哲学を見出し、バーテンダーが一流の哲学を披露することも珍しくない。哲学とは一つの生き方を提示するものであって、真理を探究することに分野の垣根などあろうはずがない。そして思考が深まれば、作者の生き様のようなものが顕わになるのは至極自然であろう。

時間という要素が、物理現象にとって根幹をなすことは言うまでもない。時間がしばしば厄介なのは、一方向性だからであろう。逆戻りできない現象は、他の次元とは明らかに異質である。
古典物理学は、ニュートン力学とマクスウェル電磁気学の二大派閥で形成されてきた。その違いは、点の力学と場の力学という運動観測の立場にある。点の力学とは、不連続性に立脚する観測であり、質点力学、相対性理論などがこれに当たる。場の力学とは、連続性に立脚する観測であり、電磁場の法則、波動方程式、重力場の法則などがこれに当たる。
両派閥の矛盾は、運動の相対性と光速の一定性にある。現実にドップラー効果による赤方偏移や青方偏移の現象が生じれば、光速が一定とは考えにくい。そこでアインシュタインは考えた。光速を不変量と仮定して相対性を説明するには、時間と空間の方を可変量にするしかないと。そぅ、時空の曲率を持ち出して統一理論を提示したのだった。つまり、時間は一方向性の上に「一定に刻まれない」と主張したのだ。おまけに空間まで歪みやがると。主観性においては、精神空間の歪みを感じ、精神時間が一定に刻まれないことを感じながら生きている。更に客観性においてすら、物理空間が歪み、物理時間が一定に刻まれないとなると、宇宙はカオスへ向かうしかあるまい。時空とは、なんと厄介な存在であろうか!
あらゆる現象は、瞬間という時間において観測の場が設けられて、はじめて物理学を導入できる。つまり、観測するとは人間が認識することを意味する。客観的であるはずの観測は、人間認識を媒介して主観的でもあるわけだ。物理現象を複雑にしている最大の原因は、人間が介在するからかもしれない。主観的認識は、時間軸を過去、現在、未来で分解する。だが、純粋な物理法則に従うならば、過去と未来を区別しないはず。いや、すべての時間は現在に融合されて、瞬間的認識だけで済まされるだろう。そうならないのは、人間が相対的価値観に囚われ、絶対的価値観に永遠に到達できないことを示している。物体が空間に対して様々な方向へ移動できるのに対して、人間認識だけが一方向性を示すのは奇跡かもしれない。しかし、それが前提されなければ、あらゆる存在が説明できない。実存という概念には不可逆性の真理のようなものを感じる。もしかしたら、時間という次元が加えられるのは、人間が自意識の存在を強調しているだけのことかもしれない。となれば、宇宙の真理は意識よりも無意識にあると言わねばなるまい。

物理法則に現れる基本的性質は、可測性、回帰性、可逆性であるという。
しかし、だ!物理の基本法則が可逆性を唱えたところで、実際の現象のほとんどが不可逆性を示すのはどういうわけか?物体の落下運動は簡単に観測できるが、逆転した上昇運動を観測することは難しい。地球の裏側から観測すれば上昇運動をしているとも言えなくはないけど。電気エネルギーで熱水が得られても、逆に熱水からまったく同じ電気エネルギーは得られない。記憶は時系列に失われれば可愛げもあるが、忌まわしい過去ほど強く残りやがる。経済現象では名目利率がマイナスになるのを見たことがない。おまけに、世の中の情報量は蓄積されるばかりで、群衆は惑わされる一方だ。
さて、物理学はこれらの現象をどう説明するのか?そこに実験的な解として登場したのが熱力学の第二法則である。そぅ、この法則のみが不可逆性を主張しやがる。物体の落下は運動エネルギーであるが、上昇しない現象は熱運動のポテンシャルエネルギーで説明すればいい。本書も、「非弾性的衝突」や「オームの法則」も、力学や電磁気学とは無縁であることを仮定するが、それが許されるのは熱力学の第二法則のおかげだと語っている。あらゆる不可逆性は、力学や電磁気学に熱力学を結び付けて説明できるというわけか。
そして、これを数学的に説明するのがエントロピーの概念である。エントロピーといえば、たいていの物理学の教科書で、ただ「増大する」とだけ記される。それは、あまりにも自明な現象だからであろうか?アインシュタインは、「エントロピーはすべての科学にとって第一の法則である。」と語った。尚、ボルツマンやエーレンフェストといった著名な物理学者の自殺が、不可逆性の矛盾を嘆いた結果かどうかは知らん。

1. 観測者とは
観測の意義とは、客観的実存の追求といったところであろうか。だが、相対性理論が示す通り、観測者を絶対的な立場に置くことはできない。マクスウェル方程式があらゆる観測者に等しく成立するならば、真空中の電磁波の伝播速度はあらゆる観測者に等しくなるはず。だが、実際にはそうならないことをマイケルソン・モーレーの実験が示した。等速運動している物体の長さは、静止しているときの長さに比べて、運動方向に短縮して観測される。いわゆるローレンツ短縮である。これは、観測者と被観測者の相対的な運動状態によって観測結果が異なることを示している。
観測というからには、観測者と被観測者が存在し、両者を結び付ける観測過程なるものが形成される。ここで、観測者の問題を観測する必要があると考えるかもしれない。観測者の観測、そのまた観測者の観測...もはや無限循環論だ。観測過程を観測しようとすれば、物理学の対象から乖離していき、それは観測過程ではなくなってしまう。観測者を観測過程から完全に分離しようと考えれば、不確定性原理に見舞われる。物質は、どこまで微小なのか?素粒子はどこまで素粒子なのか?と自己矛盾に陥るかのように、観測者がどこまで純粋に客観的な存在でいられるか?が問われる。不確定性原理は客観性の限界を示しているのかもしれない。
となれば、だ!アル中ハイマーは逆説を唱えたくなる。観測しなければ、不確定性なんぞに惑わされずに宇宙の秩序が保たれるではないかと...認識しなければ、精神が存在しなければ、あらゆる物理量はただ存在するだけの真の客観性を得るだろうし、宇宙は完全な状態でいられるではないかと...
その帰結は、物理現象とは人間認識の産物でしかないということになる。時間の流れとは観測者の自我の流れであり、空間とは観測者の自我の実存空間ということになる。そして、人間が実存認識を放棄すれば、あらゆる物体は現在の瞬間だけにしか存在し得ないことになる。
なんと!あっさりと現在という瞬間だけの絶対的価値観に到達するではないか。人間は「三次元 + 時間」という空間で生きている。あらゆる知的生命体は「認識できる次元 + 時間」という空間で生きているのだろう。観測者とは、物理現象に余計な次元を加えるだけの存在でしかないのか?だとすると、無理やり認識したり解釈したりするのをやめ、あらゆる現象をそっとしておいてあげたい。

2. エントロピーとは
エントロピーとは、一般的に乱雑さを示す指標として使われる物理量である。対して本書は「一口でいうと我々の知識の不正確さを測る量」としている。エントロピーとは知識の蓄積というわけだ。知識とは観察の結果である。知識の蓄積には時間の変化をともない、知識の停滞した時間はエントロピーの増減がない。古典物理学は、観測結果の過去の知識から未来を予測する意味で、時間を逆にしても同じであるから、決定論的とすることができよう。対して、量子物理学は、予測結果が確定的ではないという特質がある。
ボルツマンは、H(エータ)定理を提示して、エントロピー増大の法則を読み取ろうとしたという。波動力学では、不確定性原理で制限される以上の精度では、位置や運動量を同時に定めることができないとする。電磁場の法則では、場の中心点から光の速度で伝播していき、粒子と粒子の相互関係は伝播する粒子の運動によって定まるとする。そして、現象を逆転させるには、粒子の運動におけるポテンシャルの遅延を考慮しなければならない。電荷粒子は常に摩擦力を受け、摩擦が発生すれば熱が発生し、もはや可逆性を実現することは不可能に思える。
しかし、本書は量子論も時間について基本的には可逆にできているという。ただし、一つ不可逆なのは観測過程だとしている。量子の世界が可逆性であれば、量子レベルの記憶素子が形成しやすくなり、量子コンピュータの実現も夢ではない。完全な可逆性が実現できなくても、部分的に可逆性に近い現象が得られれば、従来のコンピュータよりもはるかに高性能な演算器を実現できるだろう。
ところで、エントロピーが常に正というのは、哲学的に何を意味するのか?正確には、対象系においてエントロピーが減ることもあるが、同時に観測システムのエントロピーが増えるので、観測過程全体としては減らないと言うべきかもしれない。それは、知識が蓄積される分、誤謬の入り込む余地を増幅させるということか?そういえば、エリートたちが知識を高めた結果、奇妙な自信を深める現象がある。政治屋が祭り事を混乱させ、経済学者が経済危機を招き、平和主義者が戦争を呼び寄せるのは、彼らの知識が邪魔をしているのか?そして、英雄伝説は次々に忘れ去られ、くだらない歴史だけが繰り返されるわけか?おまけに、政治屋は自らの行動を英雄伝説と重ねながら自画自賛するという滑稽な現象まである。不可逆性の原因が知識の蓄積にあるとすると、自然界においてこれほど邪魔なものはあるまい。知的生命体は悪魔へ進化する運命にあるというのか?

3. 時間認識と自然観
聖アウグスティヌス曰く、「時間とは何か?人が問わなければ、私はそれを知っている。問う人に説明しようとすれば、私はもはやそれを知っていない」
時間は客観的な物理量のはずなのに、人間の立場によって違った性格を見せる。心理学者は心理的時間を観察し、生理学者は生理的周期を持ち出し、歴史学者は社会諸相の変化を論じる。哲学者はそれを自我であると言い、宗教家は永遠の愛を熱弁しやがる。
相対性理論の説明でよく聞かれるのが、光速に近づけば年をとるのが遅くなるという時間のパラドックスである。だた、これは物理的時間の問題であって、心理的時間には何も影響を与えない。物理時間が変化したところで、認識に変化がなければ、なにも人生が豊かになるわけではない。現実に、情報化社会が進化し利便性が高まるにつれて仕事を片付ける速度が上がるが、なぜか?仕事量が増える。時間の機嫌をとったところで、精神は自由になれない。それどころか、機嫌を損なう場合の方がはるかに多い。タイムリミットは早まる一方で、時間の収支は常に赤字だ。それは、人間の欲望に限りがないことを意味するのか?人間精神にとって、最もストレスを感じる要素が時間であろう。したがって、最大の幸福とは、時間を永遠に感じられる瞬間ということになろう。
精神分裂症は、精神時間の連続性が失われると聞く。癲癇病患者は、時間の停止を感じながら崇高な気分を味わうと聞く。しかし、正常と呼ばれる人々でも、時間の遅速を普通に感じているではないか。誰もが精神病を患っているということか?
本書は、しばしば哲学者は時間と空間を分離して論じるが、そこに欠点があると指摘している。ローレンツ変換を学べば、時間と空間を分離することは不可能であることに気づき、ミンコフスキー空間を思考すれば、空間と時間とは幅と長さのような関係にあることに気づくという。物理学的には、時間と空間を媒介しているものは光速にほかならならい。実際にローレンツ変換を試みると、空間座標の中に時間座標が混入し、時間座標の中に空間座標が混入してきやがる。おまけに、時間を完全に空間に、空間を完全に時間に変換できるわけでもない。
ところで、音楽は、速めると早く聞こえるだけではなく、音質そのものを変えてしまう。音の高低が周波数で定まることを知っていれば当たり前だが、改めて考えると不思議な性質かもしれない。映像を速めると、物体を持ち上げる動作は軽々しく見える。演劇で物体を重く見せようとする時、時間をかけて演じれば苦労しているように見える。
これらの現象は、物理式「力 = 質量 x 距離 / 時間^2」で表わされるように、時間が1/2になれば力が4倍になることから説明できる。
また、あらゆる国の言葉で、空間的な前後と時間的な前後が混同される傾向にあり、これは重要なことを教えてくれるという。日本語で「先」と表現すれば未来を指すが、「先立つ」とか「先祖」などと過去を指す場合もあってややこしい。にもかかわらず、互いにうまいこと調和させて、混乱を招くことはない。ただ、自動車など移動する物体で前後と表現する時は、進行方向に対して一義的である。人体においても、顔や胸のある方を必ず前とする。おしりフェチなら、前後が逆転してもよさそうなものだが...

4. 輪廻性と周期性
「神学においては歴史的イエスの考え、哲学においてはヘーゲルのごとき弁証法的発展、生物学においてはダーウィンの進化論、物理学においてはエントロピー原理、これらすべて「一方向向きの時間」を原理とするものである。」
本書は、フーリエ変換を、ニーチェが「ツァラトゥストラ」で提示した「永劫回帰」の数学的表現と言っている。フーリエ変換は、正弦波と余弦派の直交性を利用しながらあらゆる関数を分解できるとしている。とはいっても、完全な可逆性を見いだせるのはごく稀な条件が整った時だけで、結局は近似の域を脱せない。あらゆる物理現象は、輪廻性や周期性で説明できそうな気がするが、現実には、ほとんど輪廻性、あるいはエルゴード性ということになろうか。
東洋では輪廻の思想があり、ギリシャ哲学では共通な環状時間といった回帰的な時間思想がある。更に、キリスト教では終末観的教義による新しい時間思想が導入される。その観念は、ユダヤ教から受け継がれる「最後の審判」「神の国の実現」に関する信仰だという。そこには、現在までの清算と未来への希望があり、しかも未来を選択できる仕組みまである。生命の観点から、一度チャラにするという思考は、時間的断絶を意味する。人間は、しばしば、いままでの行いをチャラにしたいと夢を見る。借金がすべてチャラにできれば、どれだけの人間が救われるだろう。髪の毛が戻り、肌の張りが戻り、不幸な結婚が逆戻りできれば、どれだけの人間が救われるだろう。人間が時間の断絶を求め、精神病に救いを求めるのも自然なのかもしれない。精神病を患わない方が精神異常というわけか。

5. ベルクソン批判
ベルクソンの著書に「持続と同時性 - アインシュタイン理論について」というのがあるそうな。哲学者でこの書を読む人は少ないと指摘している。科学知識に劣等感を持つ人が読む本ではないということらしい。この書は、物理学の教科書の中に入れたら、模範的な説明になる個所があると誉めている。ただし、誤謬もあるとしながら...
ベルクソンは、客観的な物理時間と、内的な真実の持続との間に本質的な相違を認めたという。そして、相対性理論に矛盾しないように自説を唱えようとして、「普遍唯一の時間」という概念を持ち出したという。物体の存在を認識できるのは内的時間の連続性であり、純粋持続のような認識が精神の根底にあるのかもしれない。ベルクソンは、物質世界自体に持続があり、その持続は多種ではなく唯一であるとしたという。これは、宇宙時間の唯一性を想定しているようだが、絶対時間なるものを唱えているのか?しかし、相対性理論は、観測点の違いで物的時間の刻み方にも多種性を示す。時間の方向性だけを言えば、人間認識は共通だし、もしかしたら生命体のすべてが同じ方向認識を持っているかもしれない。だが、内的時間の刻み方は多様である。
光のような波の進み具合を認識できる生命体は、その波を共通認識とできるのかもしれない。これは一種の同時性を示している。では、光を認識できない深海動物では、音波が基準となるのか?更に、光も音も認識できなければ、なんらかの周波数成分を媒介にしながら同時性を認識するのか?なるほど、初対面の酔っ払い同士で意気投合できるのは、アルコール成分の振動によるというわけか。んー!ますます絶対時間なるものから遠ざかっていく。
ローレンツ変換は、ミンコフスキー空間における時間を虚数座標とすることにより、ユークリッド空間の形式で表現する。時間に虚数を用いて初めて空間と同格に扱えるわけだが、時間と空間の相違を忘れる原因にもなると指摘している。ベルクソンは、四次元空間をユークリッド空間のごとく扱った結果、時間的な誤謬を犯したということらしい。
本書は、ベルクソンの感覚を誉めながら、彼の主張する「普遍唯一の時間」を批判している。あらゆる時間観測は、観測者の系によって決まるのだから、多数時間であることは明らかである。ならば、心的持続が物的持続と同一歩調を取らないと仮定すれば(そうとしか思えないけど...)、認識の数だけ、精神の数だけ、宇宙は存在しても不思議はなかろう。すなわち、愛という精神空間と精神時間はホットな女性の数だけ存在するのさ。そして、精神の理想郷とはハーレムということになるのさ。

2011-04-03

"新訂 孫子" 孫子 著

「孫子」十三篇は、中国最古の兵法書。他に「呉子」、「司馬法」、「尉繚子」、「李衛公問対」、「黄石公三略」、「六韜」を加えて「武経七書」となる。中でも「孫子」は各段に優れていて、他の兵法書はすべて亜流と言われるほどだ。
成立時期については、春秋末期とする説と戦国初期とする説があるそうな。作者は、紀元前500年頃の春秋時代、呉王の闔蘆(こうろ)に仕えた孫武だとされている。だが、本書に付録される「史記」の「孫子伝」の挿話は、訳者金谷治氏が指摘するように出来過ぎの感が否めない。そこで一時期、学問的に孫武だとする見解は否定されたそうな。「孫子伝」には、戦国時代の斉の孫臏(そんひん)のことも記される。孫臏は孫武の子孫で、その言葉も「孫子」と似通っていたので、作者は孫臏であろうという説が有力になったという。
しかし、1972年「孫臏兵法」が発見されると、「孫子」の方がはるかに古いことが明らかになり、今のところ孫武が有力とされる。「孫子」の名は書物の名前と同時に、孫武あるいは孫臏の尊称でもある。

兵法書というからには、好戦的なものを想像する人も多いだろうが、そんな印象はまったくない。むしろ戦争を最後の政治手段として戒め、国家防衛の観点から人生のあり方や哲学の領域にまで踏み込む。要するに、兵法書が、まず戦うな!と主張しているのだ。そして、自然を味方につけ、将兵に誇りを持たせ、あらゆる後ろ盾に法が存在するような国家システムを唱えている。兵法がいかに国家論と結びつくか、これが孫子の戦争観、あるいは政治観であろうか。戦争を政治手段に位置付ける哲学はクラウゼヴィッツの「戦争論」と同じだが、二千年も先んじているとは...
「兵とは国の大事なり、死生の地、存亡の道、察せざるべからざるなり。」
戦争とは、国家の存亡の分かれ道であるからして、よくよく熟慮せよ!というわけだ。戦争の観点から考察するのだから、極めて実践的な人生訓が内包され、時代や地域を超越した普遍性なるものが備わっている。そして、すべての戦略的思考において、主導性の原理を唱えている。すなわち、勝負事では絶対に欠かせない精神の風上に立つ!という原則である。
「百戦百勝は善の善なる者に非ざるなり。戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり。」

「戦争とは詭道」、すなわち正常なやり方に反した「しわざ」だという。その真の極意は「戦わずして勝敗を知る」にある。たとえ勝利しても国家財政が窮乏に陥るのであれば、国家がなりゆかない。ゆえに、国力の消耗を考えて長期戦を否定する。
「兵は拙速なるを聞くも、未だ巧久なるを睹(み)ざるなり。」
そして、百戦百勝を得ることが最も優れているわけではないとしている。敵を傷つけずに降伏させるのが上策で、敵を討ち破るのはそれに劣るというわけだ。
「上兵は謀を伐つ。其の次ぎは交を伐つ。其の次ぎは兵を伐つ。其の下(げ)は城を攻む。...善く兵を用うる者は、人の兵を屈するも而も戦うに非ず。」
また、戦術論の基本には「虚実の理」がある。実体を把握することが主導性の鍵であり、味方の実で敵の虚を撃つことになる。こうした戦略を実現するために最も重要なのが、最終章「用間篇(第十三)」で語られる。用間とは間諜を用いること、すなわちスパイ活動である。軍事行動で最も悲惨なことは、無駄な兵を動かし無駄な死を招くことである。したがって、情報戦で既に勝負が決していると言えよう。
「彼を知りて己れを知れば、百戦して殆(あや)うからず。」
備えあってはじめて戦争が避けられる。あらゆる危機に備えがあるからこそ平和が保障される。不安を煽る社会では、外敵を必要以上に恐れ、闘争心に逸ることになる。幻想の平和主義からは虚しさしか伝わらない。
「故に用兵の法は、其の来たらざるを恃(たの)むこと無く、吾れの以て待つ有ることを恃むなり。其の攻めざるを恃むこと無く、吾が攻むべからざる所あるを恃むなり。」
戦争の原則では、敵がやってこないことを頼みとするのではなく、いつ来てもいいような備えが頼みとなる。また、攻撃されないことを頼みとするのではなく、攻撃できないような態勢を保つことが頼みとなる。国家を脅かすのは軍事面だけに留まらず、外交や経済、はたまた災害などあらゆる方面に目を配らなければならない。したがって、情報活動が重要とされるのは今も昔も変わらない。ここには、戦略なき国家は亡びるという強い教訓が示される。
国家安全保障とは、基本的人権を守ることにある。この機能を放棄すれば、国家という枠組みに何の意味があろうか。究極の人間社会において、国家という枠組みが必要かどうかは分からん!ただ、世界中で政治不信が蔓延しつつあり、政治家の存在がどんどん余計なものに見えてくる。
...などと綴っていると、ごく身近で情報力に疎く国際的諜報機関を持たない某国を皮肉っているように聞こえてくるのは気のせいか?

1. シビリアンコントロールの矛盾
将軍は国家の助け役であり、それゆえ君主と将軍は親密でなければならないという。軍事行政では、情勢が刻々と変化し、臨機応変の対処を必要とする。したがって、一般行政のように行われれば現実から乖離し、兵士たちの信用を失うことになると指摘している。
しかし、だ。武官の軍部統制によって、政治的暴走という事態を招いた歴史がある。現在では、選挙で選ばれた文官が防衛大臣になるケースが圧倒的に多い。つまり、危機管理の素人が権力を握っている。ここにシビリアンコントロールの矛盾がある。現代の政治観では、文官と武官のバランス感覚が求められる。国際政治が複雑化すれば、政治家に求められる能力も多様化するだろう。
国家危機に直面すれば、権力者に説明して納得させている間に民衆が死んでいく。危機の時には武官が最高権限を執行できるように法律で定めたところで、危機の解釈は政治的思惑に左右される。逆に、条文の論理性に頼れば自己矛盾に陥る。それは、想定外の場面でマニュアル人間が、無力化するのと原理は同じだ。文官が自らの能力を素直に認め、自分に説明するのは後にして、まずは行動を起こせ!と命令すれば済むこと。だが、権力を振りかざす政治家には絶対にできないことで、これまた自己矛盾に陥る。政治主導の意味を履き違えると悲劇だ。多くのマネージャは、形にこだわったトップダウンが硬直化の要因になることを経験的に知っている。結局、法を用いる人間の資質と柔軟性で決まることになる。まずは危機意識を徹底させるためにも、国会議員になる資格として半年ぐらい自衛隊入隊を義務付けて、国家防衛の勉強をさせるぐらいのことをしてもよかろう。それ以前に、文民の政治家たちが国民生活を知らないという実態乖離の方が問題であろうか。

2. 不敗の地
「善く戦う者は不敗の地に立ち、而して敵の敗を失わざるなり。是の故に勝兵は先ず勝ちて而る後に戦いを求め、敗兵は先ず戦いて而る後に勝を求む。」
優れた将軍は、勝ちやすい機会を待った上で軍事行動を起こすので、人目を惹くような勝利も、智謀に優れた名誉も、武勇に優れた手柄もないという。そして、人心を統一するような政治を立派に行い、軍制をよく守るという。
最も優れた戦法は、味方を不敗の立場に置くこと。戦闘では、定石どおりの正法で、不敗の地に立って会戦を始め、情況の変化に適応した奇法によって討ち勝つという。将軍の資質には、定石と臨機応変のバランス感覚が求められるというわけだ。
戦闘の勢いには、正法と奇法の二つの運用しかないが、その組み合わせは無限にある。
「乱は治に生じ、怯は勇に生じ、弱は強に生ず。治乱は数なり。勇怯は勢なり。強弱は形なり。」
混乱は整った政治から生じ、臆病は勇敢から生じ、軟弱は剛強から生じ、それぞれに動揺しやすく互いに移りやすいという。乱れるか治まるかは部隊の編成や数の問題であり、臆病になるか勇敢になるかは勢いの問題であり、弱くなるか強くなるかは軍の態勢や形の問題であるとしている。だから、数と勢と形に留意してこそ、治と勇と強が得られるという。
それにしても、互いに熟慮すればどちらかに勝算が得られるわけで、誰もが防御に専念すれば戦争はなくなってもよさそうなものだが...人間の性質は、国家や民族の優位性という幻想に憑かれるということだろうか?...人間の防衛本能は、不安に駆られれば先に攻めずにはいられないということだろうか?...どこかに必ず博奕好きの無謀な指導者が存在するということだろうか?...

3. 無形こそ最強の陣形
「夫れ兵の形は水に象(かたど)る。水の形は高きを避けて下(ひく)きに趨(おもむ)く。兵の形は実を避けて虚を撃つ。水は地に因りて流れを制し、兵は敵に因りて勝を制す。故に兵に常勢なく、水に常形なし。能く敵に因りて変化して勝を取る者、これを神(しん)と謂う。」
軍の形は水のようなもので、流れの高い所を避け、低い所へ走るがごとく、実を避けて虚を撃つ。水は地形に従って流れ、軍は敵情に従って勝利を得る。ゆえに、軍には決まった形がなく、水にも決まった形がない。形が決まっていなければ弱点も見えない。したがって、陣形で最強なのは無形ということになる。

4. 風林火山
「故に兵は詐を以て立ち、利を以て動き、分合を以て変を為すものなり。
故に其の疾きこと風の如く、其の徐(しずか)なること林の如く、侵掠すること火の如く、動かざること山の如く、知り難きこと陰の如く、動くこと雷震の如し。
郷を掠(かす)むるに衆を分かち、地を廓(ひろ)むるに利を分かち、権を懸けて而して動く。迂直の計を先知する者は勝つ。
此れ軍争の法なり。」
戦争は、敵の裏をかくことを主とし、利のあるところに従って行動し、分散や集合で変化の形をとっていく。主導性の戦略には「遠近の計」なるものがあるという。遠道を近道に転ずる計りごとを為せば、主導権が握れるというわけだ。
ちなみに、武田信玄がまず戦う前に道を作ったという話は有名だ。いわゆる「棒道」と呼ばれるやつだ。優れた武将は、相手の鋭い気力を避けて、その萎えたところを撃つ。これが精神の風上に立つということであろう。

5. 孫武 -- 「孫子伝」(「史記」巻六十五)より
孫武が呉王の闔蘆(こうりょ)にお目見えしたエピソードが記される。
闔蘆は、この十三篇をすべて読んでも、実戦で役立つか疑問だと言う。そこで、宮中の美女180人を集めて試すことになった。孫子は、左右二隊に分けてそれぞれ隊長を任命し、太鼓の合図と取り決めを言い渡す。だが、最初の命令で女たちは笑った。
孫子曰く、「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍たるわたくしの罪だ。」
二度目の命令でも女たちは笑った。
孫子曰く、「取り決めが徹底せず、申し伝えた命令がゆきとどかないのは、将軍の罪だが、すっかり徹底しているのに決まりとおりにしないのは、監督役人の罪だ。」
そして、左右の隊長を殺そうとすると、呉王は二人の愛姫を殺さないでほしいと言う。
孫子曰く、「わたくしは今や御命令をうけて将軍となっております。将軍が軍中にあるときは、君主の御命令とてもお聞きできないことがあるのです。」
そして、二人を斬殺して見せしめにした。次の隊長を任命すると、今度は太鼓の合図とともに整然と動いた。だが、呉王は二人の愛姫を失った悲しみで、軍隊どころではない。
孫子曰く、「王様はただ兵法の言葉づらを好まれるだけで、兵法の実際の運用はおできにならないのですね。」
そして、孫武は呉の将軍になったとさ。

6. 孫臏 -- 「孫子伝」(「史記」巻六十五)より
孫武が死んで百年以上後に、その子孫の孫臏という人物が出た。孫臏は龐涓(ほうけん)と共に兵法を学ぶ。龐涓は魏に仕えて恵王の将軍になることができたが、自分が孫臏に及ばないことを認めていた。そこで、孫臏を招いて罪に陥れ、両足を切断し罪人の印である入墨をさせて、世に出られないようにした。
斉の使者が魏を訪れた時、孫臏は密かに面会して意見を述べた。すると、斉の使者は彼を奇才だと考えて連れ帰り、斉の将軍田忌(でんき)の客人として重んじられた。
田忌は、斉の公子たちとよく競馬で賭けをしていた。孫臏は、個々の馬には上中下の三等があることを見抜き、田忌の所有する下等の馬を相手の上等の馬に当たらせ、上等の馬を相手の中等の馬に当たらせ、中等の馬を相手の下等の馬に当たらせるように助言する。これで田忌は二勝一敗で千金を儲けた。感心した田忌は斉の威王に推薦し、王は孫臏を兵法の師と仰いだ。
その後、魏が趙の国を攻撃し、趙は斉に救援を求めてきた。「桂陵の戦い」である。斉王は将軍田忌と軍師として孫臏を派遣した。孫臏は趙に向かおうとする田忌に、手薄な魏の都の梁を攻めるように助言する。田忌はその通りに攻めて魏の大軍を破る。
更に13年後、魏と趙が韓の国を攻めると、韓は斉に救援を求めてきた。「馬陵の戦い」である。再び田忌と孫臏が救援に派遣された。魏の将軍は、あの龐涓で因縁の対決となる。前回同様、田忌は魏の都へと進軍した。それを察知した龐涓は韓から攻撃隊を引き揚げさせた。孫臏は、魏の領地で10万人分の竈(かまど)を作らせ、その翌日には5万人分、またその翌日には3万人分と減らし、脱走兵が相次いだかのように偽装した。これを見た龐涓は、軽装の精鋭部隊だけを引き連れ追撃した。孫臏は、道幅の狭い馬陵の地で、大きな樹木の皮を削り「龐涓、此の樹の下にて死なん。」と書いた。そして、道の両側に伏兵を忍ばせ、火の合図で攻撃する手筈を整えた。
夜になると龐涓が到着し、字を読もうとして火で照らすとそれを合図に一斉攻撃が始まった。敗戦を悟った龐涓は自決。孫臏はこの戦いによって名声を広め、その兵法が伝えられたとさ。

2011-04-01

泥酔論的弁証法による「神の実存証明」

今日四月一日、名古屋方面の営業の方(かた)から妙なお土産をいただいた。
「四海王矛盾 梅原酒」なんじゃこりゃ?梅酒も原酒となると強烈やなぁ...その酔いっぷりは、矛盾というやつと戯れたい気分にさせやがる。
ところで、精神の問題を分析する論理的態度に弁証法なるものがある。もし、この世に矛盾の概念が存在しなかったら、弁証法という思考方法そのものが成り立つだろうか?

[大前提]
「アルコール度数とは、精神の破壊度数を意味する。ゆえに、スピリタスを飲むと96%の人格が失われる。」
これが世に言う「スピリタス効果」というやつだ。

[小前提]
「矛盾ほど心地よく酔えるものはない。だから、アル中ハイマーはアンチノミーちゃんのファンである。」
ちなみに、外人パブのお姉ちゃんの名前ではない。

[正命題]
「完全なる神は存在しない。」
人間は本能的に死を感じながら生きている。精神は、無意識に死までの時間を計測し、死へのカウントダウンの中にある。人間はただ生まれて死んでいくだけの存在でしかない。となれば、人間にとってこれ以上のイベントがあろうか。しかし、人間はこの二大イベントの瞬間を自ら認識することができない。認識できるとしたら、自らの生まれる瞬間や死ぬ瞬間の前後を認識できることになるからである。いや、もしかしたら死ぬ瞬間を認識できるのかもしれない。生まれる瞬間も単に記憶が失われているだけのことかもしれない。死という得体の知れないものが近づけば、人間は狂乱する。末期患者が死を宣告されて狼狽する姿を曝け出すのも至極自然であろう。最近の社会傾向として生活保護が受けられずに餓死する事例がある。昔々楢山節考のような貧しい時代があった。考えてみれば犯罪も自殺もしないわけだから、強靭な理性の持ち主なのかもしれない。その一方で、死を目前にした者が想像もつかない超人的な力を発揮することがある。こうした例は、死に近づくことによって精神が成長する可能性を示している。寿命が延びたからといって、現代人の精神成長が古代人より優れているわけではない。昔の特攻隊員の残した遺書を読むと、とても10代や20代の青年とは思えないほど、言葉に力がある。むしろ死と背中合わせに生きている方が、精神力を発揮するのかもしれない。
スピノザは、理性と知性で鍛錬すれば、死をも恐れぬ崇高な精神に達することができると語った。それは、時間との闘いであり寿命との闘いである。人間は、死に至るまでの時間を自我の空間と結びつけながら生きている。そして、気になる存在に対して重力や時空の歪みを感じている。精神という無形化した世界では、虚しくも認識の時計だけが刻まれ、やがて肉体が衰え精神は泥酔していくのを待つのみ。人生とは、無力な存在を思い煩いながら、寿命という刑を務めるようなものだ。
しかし、人間は「忘れる」という最高の能力を持っている。怖ろしい結末を知りながら、それを一時的に忘れ、今という瞬間に価値を見出すことができる。この能力は神ですら敵わない。おそらく神は、それができないために慢性的にノイローゼを患っているに違いない。だから、つい魔が差して「人間」なんて不完全なものを創造してしまったのだ。神は後悔しているだろう。そう、神ですら完全ではなかったのだ!神でさえ自らの能力に限界があることを悟っているのかもしれない。
- Q.E.D.

[反命題]
「完全なる神は存在する。」
スピノザは、真に神を愛するものは、神からも愛されることを願ってはならないと語った。神が完全であるならば、神は愛することも憎むこともしないはず。なのに宗教は、神はすべての人間を愛する!と教える。なんと不合理であろうか。神がどんな罪人でも愛してくれるならば、犯罪者は宗教へ帰依するだろう。どんな暴力も、どんな残虐も、すべてを愛してくれるのだから。したがって、宗教に憑かれた地域ほど紛争が多いのも道理というものである。
「苦しい時の神頼み」というが、自分にだけ不幸が及ばないように祈るということは、神の意志を自己のエゴで支配できると考えているようなものだ。天災が発生するたびに神が罰を与えたなどと考えるのも、神の意志を人間が理解できると宣言しているようなものだ。もはや、神の存在を否定している。こうした矛盾する行動様式によって精神が不安から解放されるならば、それもよかろう。神は人間を救済するために、どうしても矛盾の概念を必要としたのだ。暴走する不完全な生命体ですら救済してくれるとは、神の寛容さは完璧である。神の創出した矛盾の概念は、人間の認識できる完全性や不完全性といった区別すら抽象化してしまうような純粋完全性を意味している。
宇宙空間はあらゆる対称性に見舞われる。対称性の原理が真理だとすれば、不完全な人間に対して、完全なる神が存在しても不思議ではない。
- Q.E.D.

[帰結]
「人間は、何事も解釈することができても、永遠に理解することはできない。」
それは、相対的な価値観しか見出せない生命体の宿命である。神が不完全だから不完全な生命体を創出したのか?それとも、神が完全だから不完全な存在ですら寛容でいられるのか?いずれにせよ、人間の解釈はご都合主義と有難迷惑主義に支配される。これが精神の基本原理である。
「信じる者は救われる」とは、宗教の根本原理である。「信じたところで救われるとは限らない」となれば、もはや宗教の意義を失うであろう。人間は、成功すると自分自身の努力を強調し、失敗すると因果な関係を嘆く。「運も実力のうち」と言うならば、「不運も実力のうち」と付け加えなければならない。人間の運命は偶然性に支配される。ならば、失敗すれば運命のせいにすればいい、そして神のせいすればいい。それで、精神の安穏が取り戻せるならば...
神は、宗教を通して人間に義務を与える。これが神学の意義であろう。宗教の矛盾は、神の言葉によって強制力を発揮するところにある。言葉は人間から教えられるのであって、神からは沈黙しか教えられないはずなのに。その証拠にお祈りの言葉を捧げても、肝心な時に神はお留守をなさる。いったいどんな時に神が現れるというのか?神は恥ずかしがり屋さんなのだろう。
もし、人間が矛盾の概念を凌駕して論理的思考の極致に到達することができれば、そこに神を見ることができるのだろうか?だとすると、凡人の前には、神は永遠に現れそうにない。だが、凡人ほど神の具体的な言葉を欲する。では、天才の前には神が現れるというのか?などと言えば、自ら神の代理人と名乗る者が出現する。神が人間の姿を借りて現れるという思考は、永遠に消し去ることができないだろう。
一方で、科学者や数学者は、神を思いっきり嫌いながら、独自の神学を構築する。強制する神の存在は邪魔だが、自由に想像できる神の存在はむしろ心地よいものとなる。科学や数学も優れた宗教というわけだ。人間が構築する学問はすべて、宇宙原理あるいは宇宙の創造主の存在を探し求めているということはできそうだ。