2019-10-27

"芸術の非人間化" José Ortega y Gasset 著

「我は、自分自身が生きていることを自覚した時、これらの肉体的もしくは心理的事柄において、自分自身を所有する。」

19世紀から20世紀初頭にかけて、産業革命に発する近代化の波は、富や資本を再分配させ、思想観念を解放していった。イデオロギー時代の幕開けとでも言おうか。自由主義を旺盛にさせると、王侯貴族のものであった政治や経済がブルジョアジーを経由して市民の手に渡っていく。大衆時代の幕開けとでも言おうか。同じようなことが、芸術の世界でも起こった。いや、むしろ芸術が先導してきたと言うべきか...
芸術ほど思想観念との結びつきが強く、また、芸術的な創造意欲ほど自由精神と相性のいいものはあるまい。しかし、かつての宗派間の闘争がイデオロギー闘争にすり替わっただけで、伝統的な階級が廃止されてもなお、新たな階級を生み出すのが人間社会。いつの時代も、多数派は少数派を飲み込もうとし、あわよくば抹殺にかかる。そして今、多数派に属すことに命をかけることが民主主義の弱点として露わになる。
大衆は臭い!いくら自由になっても、人の多様な行動には寛容でいられない。いくら階級を崩壊させても、差別癖は治らない。こうした性癖こそが人間性というもの。
では、題目にある「非人間化」とはどういうことか。空想的な人間性ということか。皮肉まじりに言えば、理想的な人間ということか。確かに、理想的な人間ってやつは人間離れしてやがる。こうした解釈が、本書の意図したものかどうかは知らんが、おいらの天の邪鬼な性癖は治りそうにない...
尚、本書には芸術に関する論文「芸術の非人間化」、「小説についての覚え書」、「芸術における視点について」、「内側からのゲーテを求めて」、「自己と他者」の五篇が収録され、川口正秋訳版(荒地出版社)を手に取る。
「概念と世界とのあいだには、絶対的な距離がある。... ところが、人間には、現実とは心が考えるところのものそれ自体であると臆断し、現実と概念とを混同する傾向がある。現実に対するこの執念が、無邪気な現実の理想化をもたらすのである。これが人間の先天的素質なのである。しかし、もしこの自然の手続きを逆にしてみるなら、つまり、現実と断定したものに背を向け、概念を単なる主観的な模型 - をそのまま採り上げ、やせて骨張っているけれども純粋で透明なその状態において生命を与えてみたなら、つまり故意に概念を現実化してみたら、われわれは概念を非人間化 - いわば非現実化したことにはならないだろうか...」

いつの時代も、新しいものには抵抗勢力がつきまとう。伝統を頑なに守ろうとする派閥と、それをぶち壊そうとする派閥。これに世代間対立が加わるものの、両派とも歳を重ねて時間が経てば、ちょうど折り合いの良いところで落ち着く。かつて激しく対抗していた浪漫主義と自然主義も、近代化にともなって急速に距離を縮め、写実主義の下で融合をはじめる。写実主義とは、見たまんまを映し出そうとする主張で、つまりはリアリズムの追求。伝統的な画壇では、信仰的な崇高さや人間救済といったテーマが象徴的に描かれてきたが、近代の芸術家に、人類を救え!などとふっかけても仰天してしまうであろう。
科学が相対主義を立証すれば、相対的な人間性、すなわち多様性というものに焦点が移る。そして、誰もが分かる芸術から、分かる人にしか分からない芸術へ。それは、概念の解放と解することもできよう。分からない人には、芸術家が高みに登ってこいと暗示しても、相変わらず「作者は何が言いたいのか?」などと最低な感想をもらし、無力感をさらけ出す。そして、政治から芸術に至るまで、分かる人は優越者となり、その他大勢との差別化によって身分の再編成が始まる。こうした様相もまた新たな階級闘争なのかもしれない。ただ、分かる人だって、どういうふうに分かるのかが分からないでいる。言葉で説明できるからといって理解していることにはならない。ここが人間の理解力の奥深いところ、むしろ沈黙の方に真の理解があるのかもしれない。
実は、人間の認識能力では現実と非現実の区別が厳密にできないってことはないだろうか。夢の中にでてくるありえないシチュエーションに対しても、妙にリアリティを感じて必死にもがき、目を覚ましてやっと夢だったと安堵する始末。現実主義とは、言い換えれば、現実っぽく見せること。芸術家は、けして現実に忠実である必要はない。人間の感覚は真理よりも真理っぽいものを欲する。大衆は真実っぽいフェイクニュースに群がり、嘘もまた本当になってしまう。観客はますます刺激を求める。ますます感覚が贅沢になり、芸術家にとことん芸術性を求めてくる。空想的な世界に飽きるとリアリティを求め、神々に見守られた理想世界に飽き飽きすると、悪魔的な本性を剥き出しにした現実世界を覗こうとする。
フューチャリズム(未来派)は、社会諷刺を題材にしてファシズムに受け入れられた。風刺とは、ある意味、人間の悪魔性を投影している。
キュビスム(立体派)は、ルネサンス以来の単一焦点による遠近法を放棄し、構成要素の極端な解体、極端な単純化、極端な抽象化の流れをつくった。人間の素朴な叫びは、ピカソの作品「ゲルニカ」に体現される。それは、数学に着眼した観念論とでもいおうか。絵画芸術に立方体、円筒体、円錐体が現れ、プラトン風イデアへの回帰にも映る。主体性の強い芸術が、客観性を帯びると、こうなるのであろうか...
「芸術は自己を侮辱することにおいてほど、その本来の魔術性をあらわにしたことはなかった。この自殺的行為によって、芸術は芸術たり得ている。自己否定において、芸術はその存続と、そしてその勝利とを奇蹟的に自己にもたらしたのであった。... 芸術の使命は、その魔術によって想像の世界を出現させることにある。」

では、非人間化を指摘したホセ・オルテガ・イ・ガセット自身は、どちらの派閥に属すのであろう。彼は、世代的にも、分からない!側に属すとしながらも、なかなか物分りのいいオヤジぶりを披露する。近代芸術にけして否定的ではなく、自然の流れとして受け入れるというのだから。本音は運命論としての諦めの境地にあったのかもしれんが...
そして、オルテガが生きた時代の後、シュルレアリスム(超現実主義)が出現し、さらにポップアートなるものも出現することになるが、それでも彼は寛容でいられたであろうか...
「作品への嫌悪感が理解不能によるとき、人は何となく自尊心を傷つけられたように思い、この種の劣等感は胸中の憤懣をぶちまけることで鎮めるほかはない。若い人の作品はただそこに存在するだけで、平均人に、自分がまさに平均人であり、芸術の神秘に心を打たれることもなく、純粋美を知る目も耳も持たぬ者であることを痛感させる。」

ところで、「非人間化」というからには、人間的とはどういうことかを問わねばなるまい。人間はきわめて主観性の強い動物。それは、自己存在という根底意識に支えられている。人間社会は、主観性の強すぎる時代から、若干の客観性を加えながら発達してきた。客観的な視点が自己を解放してきたのである。
その行き着く果てが非人間化ということか。人間は、自己を解放することによって、自己を見失おうとしているのか。自己を知ることは至難の業。自己を知るということは、無知を知ること。それはソクラテスの時代から問題とされる難題中の難題。オルテガも人間を定義するなら、「無知な愚かな人」とするのが適切だと言い放つ。
しかしながら、無知ということにこそ人間性を見い出すことができよう。自己を知るために自己から距離を置く。これが客観的な視点。人間を忌み嫌い、厭うべき存在として眺めてみなければ、人間の神聖さも見えてこない。それは人間嫌いの傾向か。自我という偶像を破壊しなければ、到達しえない領域が確かにある。遠近法を放棄すれば逆遠近法へと導かれ、あまりにリアリズムを追求しすぎると、逆に現実逃避へ向かわせる...
「ワグナーにおいてメロドラマは一つの頂点に達した。さて、芸術形式は頂点までのぼりつめると、反対側へとのめり込むことが多い。ゆえにワグナーの楽劇では、人間の声は主役であることをやめて、壮重な管弦楽の中に埋没されている。だが、これ以上の変化がその後に続いた。音楽はプライベートな情緒の重荷から解放され、模範的な客観化の過程をへて浄化された。この仕事をしたのがドビュッシーである。ドビュッシーのおかげで、われわれは恍惚や涙の心配なしに、平静な気分で音楽に耳を傾けることができるようになった。ここ数十年の音楽の発展は、ドビュッシーという天才が開拓した新しい超世界的世界において進転している。主観主義から客観主義へのこの転向は、その後に起こる分化・派生がそれほど重要とは思われなくなるほど、決定的であった。ドビュッシーは音楽を非人間化し、これにより音楽に新時代をもたらしたのである。」

2019-10-20

"ドン・キホーテに関する思索" José Ortega y Gasset 著

人間は、あらゆる物事に意味を求めてやまない。単純な事柄にさえ深みがあると信じきる。演劇の登場人物がたとえ滑稽であっても、読み手は深く読み取る自己の能力に酔い痴れる。まさに道化!
人の一生とは、狂言のようなもの。猿の仮面をかぶれば猿に、騎士の仮面をかぶれば騎士に、エリートの仮面をかぶればエリートに、サラリーマンの仮面をかぶればサラリーマンになりきる。あとは、幸運であれば素直に波に乗り、不運であればそれを糧とし、いかに達者を演じて生きてゆけるか。そもそも生というものが抽象的で不確かな実在であり、だからこそ、そこに意味を求めるのであろう。そんなものはありはしないと薄々気づきながらも、あると信じてないとやってられんよ...
では、書き手の方はどうであろう。単に物狂いをお笑いネタとして描いただけということはないだろうか。深い意味なんぞこれっぽっちもなく、気ままに筆を走らせた結果ということはないだろうか。もはや作者の手を離れ、作品が独り歩きを始める。セルバンテスは、あの世で嘲笑っているやもしれん。自ら仕掛けた人間喜劇にまんまと引っかかった深読みする読者たちを。まさに諷刺劇の達人!
ところで、深い!とはどういう意味であろう。ここでいう深みとは、きわめて複合的で曖昧なものらしい。互いの人間の性質が絡み合った環境の産物とでも言おうか。それは、五感を総動員しなければ、けして味わえないものらしい。てなわけで、今宵は、ボウモア蒸溜所の Deep & Complex で深酒に落ちるとしよう...

「何をお考えですか。人間は考えるべきではありませんや、考えると老けこみますからね。ひとつごとにこだわっちゃいけません、そうでないと気違いになってしまいます。千の考えを入れて、頭を混乱させておく必要ありです。」
... イタリア旅行中、ゲーテの道連れとなったある大尉の忠告より

文学百選で間違いなく上位に顔を出す「ドン・キホーテ」。17世紀初頭に書かれたこの小説は、当初、滑稽本として受け入れられた。騎士道物語を読み耽け、妄想に駆られた初老の紳士が、古ぼけた甲冑に身を固め、痩せ馬にまたがって旅をする。ひどい時代錯誤に騎士振りと老衰振りのギャップが行く先々で物笑いの種となる、まさに道化物語。当時のスペイン情勢を映し出す、なかなか諷刺のきいた作品である。
しかし、諷刺とは、時代への批判を間接的に表現したもの。おそらく芸術精神は、人間社会への批判や皮肉といった感情から沸き起こるのであろう。疑問を感じなければ、なにも描けない。芸術とすこぶる相性の良い自由精神にしたって、現実社会の束縛から逃れようとする反抗心に発する。滑稽文化が長い時間を経て形式化し、伝統を帯びていくうちに、諷刺芸術として威厳の光を放ち始める。世阿弥の「風姿花伝」にしても、人間の滑稽を自然に演じきる奥義が論じられる。芸の道は人の道であると。
19世紀になると、この道化物語にも新たな読み方が提示され、その流れはドストエフスキーあたりから発しているようである。老紳士が妄想に駆られるのも、ある種の現実逃避。これは、人間の本質を描いた物語である。人間の本性を暴露すれば、ホセ・オルテガ・イ・ガセットのような哲学者たちの餌食となる。
ここに題されるように、「思索」というからには試論である。試論であるからには証明のしようがない。それゆえ、思考を自由に解き放ち、想像を存分に膨らませられる。酔いどれ天の邪鬼は、哲学者たちの評論にいつもイチコロよ。
ところで、狂っているのはドン・キホーテだけであろうか。キホティズムという用語は、良い意味でも悪い意味でも使われる。いつの時代も、大衆は自分の側が正常だと思い込んでいるもの。情報に翻弄される現代社会においても、有識者や道徳者たちの憤慨したコメントほど気違いじみていると感じることはない。いや、そう感じることが狂っている証なのやもしれん...
尚、アンセルモ・マタイス, 佐々木孝共訳版(現代思潮社)を手に取る。

1. 観念の密林
オルテガに言わせれば、「ドン・キホーテ」という作品は「観念の密林」だそうな。木を見て森を見ず... というが、いったい何本の木が集まれば森になるのだろう。読み手の目には、いつも上辺と深さの対立がある。目の前に立ちはだかる木々は、森という総体を覆い隠す。森は、読み手の立ち位置よりちょいと先にあって、一つの可能性を示す。それでも読み手は、本当の森が目に見えぬ木々によって構成されていることを知っている。それは、言葉によって知っているだけであろうか。そうした集合体がなんとなく存在するという感覚が、森の中にいることを確実に意識させる。中心がどこにあるかも知らずに...
「不可見性、隠れてあること、これは単に否定的な性質ではなく、かえって積極的な性質、すなわちある物に注ぎ込まれると、その物を変容させ、それから新しい物を作り出す性質なのだ。... 文字通りに森を見ようとすることは馬鹿げている。森は、それ自身としては隠れたものである。世界が内包する様々な運命 - 尊敬すべきもの、必然的なものも同様 - の多様性を見ない人々に対する、とっておきの教訓がここにある。つまり、明らさまにするなら、亡びてしまうか、あるいはその価値を失ってしまい、反対に隠され看過されることによってその充満性に到達するものがあるということだ。」

2. 環境の摂取
人間の使命として環境を摂取せよ!という。人間は、自己の置かれる環境を十分に意識した時、その環境に溶け込んだ時、自己の能力をフルに発揮できると。環境を通してのみ世界とかかわることができると。環境という寡黙なものたちを、よく観察せよと。神的な力が通っていないようなものは、この世界にはないというが、それは本当だろうか。難しいのは、この力に到達すること。凡庸な読み手は、目の前の幸せにも気づかない。それが幸か不幸か...
「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない。Benefac loco illi quo natus es(生れし場所に祝福あれ)と聖書も言っている。プラトン学派でも、すべての文化のモットーとして次の言葉をうたっている。『外観を救え』。すなわち現象を救えという意味である。われわれの周囲にあるものの意味をさぐれということだ。」

3. リアリズムとイデアリズム
人間ってやつは奇妙なもので、フィクションの中にリアリズムを求める。映画にせよ、芸術にせよ、作り話だと承知しながら。小説もまた、虚構の中に事実を発見しようとする。虚構を現実に仕立て上げるという意味では、偶像崇拝の類いか。いや、人間精神そのものが得体の知れない存在なのだから、さして騒ぎ立てることもあるまい。
小説が仕掛けるものの一つに、現実逃避がある。現実と非現実の狭間で葛藤するのは、結構楽しい。そして、自分が発見したものを神のように崇めることができれば、幸せになれるという寸法よ。
一方、純粋な目でしか見えない概念、けして脂ぎった目では見えない概念、といった意味で「イデア」という用語がある。プラトンは数学的な概念を、そう呼んだが、オルテガは、本来、イデアリズムをリアリズムと呼ぶべきものだとしている。
しかし、原型としてのイデアはどこにも見当たらない。それは、ホメロスのような盲人にしか見えないのだろうか。現実を正しく見ることは至難の業。大量の情報に埋もれる現代人には、もはや見えぬ概念であろうか。いや、見えると信じ込めれば、幸せよ...
「芸術は、リアリズムとイデアリズムという二つの無害の言葉をでたらめに使うことによって、ひどい混乱におちいっている。普通一般には、リアリズムは - 物に由来する - ある物の模写あるいは虚構と解されている。だから、現実は模写されたものに相当し、幻想あるいは見せかけが、芸術に相当する。しかしわれわれは、このように仮定された事物の現実を前にして、どのような手を打つべきかを承知しているし、物はわれわれが肉眼で見る通りのものでないことも知っている。人の眼はそれぞれ、異なったものを見るし、時には同一人の中で、両眼が互いに反対しあう... 実現するということは、だから、ひとつの物を写すことではなく、さまざまな物の総体を写すことなのである。そして、この総体は、われわれの意識の中に観念として存在するしかないのであるから、真のリアリストは観念だけを模写する。つまり、この見地からするなら、リアリズムをさらに正確にイデアリズムと呼んでもさしつかえないわけである。」

2019-10-13

"ガレー船徒刑囚の回想" Jean Marteilhe 著

なにゆえ信仰に頼るのか。それは弱さの証。人間ってやつは、自分の願っていることを簡単に信じてしまう。それが希望ってやつか。
人の心は、何かに強制されれば反発心を焚きつける。死刑よりも苛酷な終身刑が、生き地獄を生きよと命ずると、囚人たちの心理は不思議な反応を示す。死ねと言えば生に執着し、希望を持てと言えば絶望に身を委ねる。心の自由が奪われるということは、自己存在が脅かされているに等しい。そう意識した時、人は怯え、攻撃的にもなる。
宗教は、それぞれに良心の在り方を説く。だが、絶対的な良心なんぞ、この世にありはしない。少なくとも人間の世界には。神が人間を選ぶのか。いや、人間が神を選ぶのだ。ならば、選ばないという選択肢もあっていい...

この物語は、ガレー船徒刑囚として、12年間を過ごした回想録である。プロテスタントであるがゆえに受け入れざるを得なかった運命とは。ただ、回想録が書ける機会があっただけでも運がいい。
信仰に取り憑かれた人間は恐ろしい。実に恐ろしい。彼らが自らの道徳を多数派の道徳として主張しだすと、異なる宗教観や道徳観を持った人々の排斥が始まる。集団化の過程で、自らの価値観を客観的に意識できなくなり、それを他人に力ずくで押し付けようとする。これが、政教一致の脅威というものか。人間ってやつは、神の事を知らなくても、神を信じることができる。この脅威が多数派の心理に飲み込まれた時、民主主義社会の弱点が浮き彫りになる。
本書が、一個人の、一キリスト者の回想録であることは間違いないが、政教分離という現在でもなお未解決な問題をつきつけ、ユグノーの歴史の一端を垣間見る思い。ここに綴られる、きわめて異様な状況!きわめて特異な経験!きわめて生々しい描写!は... ヘタな歴史書で知識をまとうより、当時の光景を恐ろしく目に浮かばせる。
尚、木崎喜代治訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 徒刑囚から解放への旅
「イエス・キリストやその弟子たちや多くの忠実なキリスト教徒たちが、この聖なる救世主の預言に従って迫害されたことを考えるとき、わたしは、かれらのように迫害されている以上、真の救済の道を歩んでいるのだと信じないわけにはいかない...」
時代は、ルイ14世治下のフランス。ジャン・マルテーユは、17歳でガレー船送りの刑に処せられた。そこには、国王とカトリック教会がプロテスタントを侵食していく背景がある。
次々と教会を閉鎖し撤去、牧師の活動を制限し、声高に聖歌を歌うことを禁ずる... プロテスタントの学校を閉鎖し、子供にカトリック教育を強制する... 職業も制限され、社会的地位も奪われ、国王の許可なしに国外へ出ることもできない... おまけに、臨終に際しては、カトリックの聖職者を枕辺に呼んで、カトリックに改宗しないか否かを訊ねてもらわなければならない... 国王の竜騎兵には殺人と婦女暴行以外の行為はすべて許されたそうだが、この二つの条件だけが尊重されるはずもなく、官吏は黙認。カトリックへの改宗を宣言するまで家に居座り、家具を破壊し、衣服を破り、食べ物を喰い尽くし、拷問にかける。そして、略奪するものがなくなるや、別のプロテスタントの家を襲う。狙われる家は、ブルジョア階級のプロテスタント。貧家には奪うものがないから... 等々。
このような光景を見せつけられては、あのパスカルの言葉をつぶやかずにはいられない... 人は良心によって悪をするときほど、十全にまた愉快にそれをすることはない... と。
マルテーユは、典型的なベルジュラックの裕福な商人の家の出。ベルジュラックは、フランス南西部のボルドーに近い小さな町で、古くからプロテスタント信仰の拠点の一つであったという。ガレー船の動力にプロテスタントの奴隷を使い、それでプロテスタント国イギリスと戦争をやるとは、なんとも皮肉な話。フランス軍は味方の監視も怠れない。プロテスタントのガレー船徒刑囚の存在は広く知られ、国際的に避難の的となった。
ユトレヒト講和条約の際、イギリスのアン女王の介入で一部のプロテスタントが解放され、マルテーユもその一人。解放後、プロテスタントの都市で歓迎を受けながら、スイスやドイツを経由してオランダへ旅をする。目的地はプロテスタントの亡命拠点として有名なアムステルダム。マルテーユは、アン女王に感謝し、なおガレー船に残る人々の解放を嘆願するために、代表団の一員としてイギリスに渡り、女王に謁見したとさ...

2. ナント勅令の意味
歴史の教科書が教えていることは、ナントの勅令によって、カトリックとプロテスタントは和解し、プロテスタントにも信仰の自由が保障されたということ。しかし、こうした理解は適切ではないようである。
確かに、プロテスタントの信仰は国王によって承認されたが、そこには条件があったとか。特定の地域でのみ礼拝や結婚や教育活動が承認され、避難地帯や安全地帯が設置されたというから、ある種の隔離政策という見方もできよう。この勅令が、休戦状態に過ぎないという論評も的外れではなさそうだ。
また、プロテスタントの多くは、地方貴族、有力地主、裕福な商人で、独自の守備隊を持つほどの有力者であったといういから、国王にとって目障りな存在であったことだろう。太陽王がわざわざフォンテーヌブローの勅令で、プロテスタントの自由をチャラにすると宣言したところで同じことか。いや、略奪行為が国王のお墨付きとなれば、それは懲罰か、迫害か、と問うても詮無きこと。マルテーユは、「教皇至上主義の誤謬」と表現する。
だからといって、その場しのぎで改宗の意志を表明し、再びプロテスタントに戻ったとしても、今度はプロテスタントの側で裏切り者呼ばわれ。彼らにとって、「正義」という言葉ほど空虚なものはない。裁判などと名乗るのはやめて、国王命令の執行者とでも名乗れ!... といった台詞も飛び出す。
そして、プロテスタントの籠もった城砦都市が、一つの自由都市国家として国家安全保障の概念を目覚めさせ、ここに近代国家モデルの源泉を見る思い... などと解すのは、ちと行き過ぎであろうか...

3. ガレー船の有用性
読者を退屈させないように、ガレー船の構造や航行法、乗員組織までも詳細に解説してくれる。この記述は、まるで映画「ベン・ハー」の一場面。
「鎖でつながれた素裸の六人の男たちが腰掛に座り、櫂を握り、足置板に取り付けられた太い棒である足架に片足を乗せ、もう一方の足は前の腰掛の上に掛け、身体を長く伸ばし、腕に力を込め、同じ動作を夢中になってやっている前の席の者の身体の下まで櫂を押し出すのである。そして、こうして櫂を押し出すと、こんどは櫂が海を叩くように持ち上げ、同時に後方に身を投げ、というよりもむしろ、身を落とし、自分の腰掛の上に落ちるように座るのである。」
ちなみに、苛酷な労苦とか労働をする時、「ガレー船徒刑囚のように働く」という言い回しが、当時にはあったらしい。
また、ガレー船の有用性についても言及している。ガレー船の維持に要する出費は重い負担となる。戦時であろうと、平時であろうと、武装解除されている冬季であろうと、武装中の夏季であろうと、常に維持しなければならない。イタリアの共和国諸国が保有するガレー船とも事情が違う。イタリアでは、民間運営によって商売でも利用されていたようである。地理的な事情も違う。地中海は、潮の緩慢がないうえに凪の時間が比較にならないぐらい長いが、大西洋での航行は困難を要し、イギリスの軍船よりはるかに劣る... 等々。
要するに、フランスのガレー船は、軍用兵器というより、むしろ監獄の意味合いが強いということか。

2019-10-06

"職業としての学問" Max Weber 著

「職業としての政治」(前記事)では、1919年、第一次大戦後の混迷したドイツを浮き彫りにし、学生諸君にカツを入れるかのように現実的な政治論を説いて魅せた。ヴェーバーは、敗北の現実を前にし、自虐的な夢想に耽る知識人たちの論調に我慢ならなかったと見える。
ここでは少し遡って、1917年、まだ敗戦が決定的になっていないにせよ、その気配を感じ取った青年たちが、厳しい現実から救ってくれる世界観を欲し、教師よりも指導者を求めた様子が伺える。学生諸君は、宗教倫理や経済精神を論じてきたヴェーバー先生が、世界の意味を語り、どこかへ導いてくれると期待して集まったのだった。
しかし、ヴェーバーは逆に、教師が指導者であってはならず、ましてや扇動者になるのはもってのほかと冷たくあしらい、あらゆる政治思想や価値観から距離を置く立場を表明する。そして、さっさと日々の仕事に帰れ!と叱咤するのだった。世界観なんてものは科学的に説明できるようなものではなく、人それぞれ、人の努力いかんにある... 学問する者の心得は、学問が何かを教えてくれると期待するのではなく、学問することによって自分で自分を導け!と。この講演は、聴衆に脅かすような印象を与えたという...
尚、尾高邦雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

1. 専門の意義とは...
教壇に立つ者の使命には、二重性があるという。一つは学者としての資格、二つは教師としての資格。実際、研究の感覚に優れた人と、教える感覚に優れた人がいる。一概には言えないが、後世に名を残すタイプが前者で、現在に熱気を帯びるタイプが後者ということになろうか。
例えば、学者として優れていながら教師としてまったく駄目なタイプに、ヘルムホルツやランケを挙げている。双方に優れた人は稀だが、ヴェーバーがそういうタイプということになろうか。彼は、専門に専念せよ!隣接領域の縄張りを荒すな!と説く。専門に閉じこもることによってのみ、成し遂げられる仕事があると。実に、耳の痛いご指摘である。
しかし、だ。そういうヴェーバー先生が、社会学、政治学、経済学、神学、哲学など幅広く手を出してきたではないか。いや、彼の目には、これらの学問が一つの分野に見えるのかもしれない。学問の真意は、真理を求めること。そのために視野を狭めるのでは本末転倒。専門化の過程はこれからますます続き、熱中する心構えのない人は学問には向かないという。それも研究が進み、知識が深まれば、自然の流れ。一つの研究に没頭すれば、学問上の霊感が自然にわいてくるという。それは、芸術家でも、技術者でも同じこと。自分の仕事に仕える人のみが味わえる領域が、確かにある。ある種のオタク的な感覚だが、現代風に言えば、geek といったところか。
ここで、ちょいと「専門」という表現にこだわってみよう。この時代と現代感覚とでは、抽象レベルが大分違うようである。専門とは、個性から生じるもので、自分で見つけるものと捉えるならば、自分がやれることこそが専門ということになろう。つまり、やるべきことをやれ!やれることをしっかりやれ!と説いているようにも映る。もっと言えば、やれることに専念しながら、けして専門馬鹿にはなるな!とも。こう解すのは、ちと行き過ぎであろうか...
ちなみに、老ミル(ジョン・スチュアート・ミルの父ジェームズ・ミル)は、こう言ったとか。
「もし純粋な経験から出発するなら、人は多神教に到達するだろう。」
知識ってやつは、その人の拠り所とする立場いかんによっては、神の知識となりうることも、悪魔の知識となりうることもある。知識が豊富になればなるほど、調和させる能力が求められ、発散させては元も子もない。老ミルの言葉を持ち出しているのは、学際的な態度を表明している。学問に熱中すれば、多くの神を見るであろう、と...
「学問上の達成はつねに新しい問題提出を意味する。それは他の仕事によって打ち破られ、時代遅れとなることをみずから欲するのである。学問に生きるものはこのことに甘んじなければならない。」

2. 学問の意義とは...
人が学問を始めようとする時、知識を得ようとする時、それは何のためにやるのか?それが何の役に立つのか?と問う。その理由ときたら、高い地位に就きたいから、高い収入を得たいからなどと、たいてい脂ぎった欲望に支配される。最初から純粋に学問に励むことは難しい。ただ、学んでいくうちに、脂ぎった欲望も鎮まりを見せることがある。
確かに、科学は進歩してきた。それで、科学が正しい世界観を示してきただろうか。正しい価値観を教えてきただろうか。むしろ無意味さを教えているのではなかろうか。この無意味さが、脂ぎった欲望を鎮めてくれるというのか。
何をやるにしても、人間は意義を求めてやまない。何をもって意義ある学問とするか、何をもって意義ある知識とするか、それは学問に携わる人の心構えいかんにある。まさにここに、学問の意義があるのだろう。
ヴェーバーは、学問の意義を絶えまない進歩の過程そのものに求める。それは、人類が何千年にも渡って積み重ねてきた合理化の過程である。ソクラテスの時代から哲学者たちが試みてきた主知化によって、認識論一般に通用する手段を編み出そうと。
その手段とは概念である。概念によって抽象化の意義を自覚し、論理的思考を発展させてきた。弁証法もその過程の一部。自然科学は、主観的傾向の強い人間に、ちょいとばかり客観的な視点を与えてきた。人間の思考を魔法や呪術から解放してきた。そこには絶対的な方法論は見当たらない。だからこそ、学問する者には常に健全な懐疑心が要請される。
そして、最大の敵は自己欺瞞ということになろう。せっかく苦労して獲得した知識も、古みを帯びてくるは必定。これを喜びとするには修行がいる。学問上の幸せとは、自ら歳老いていくのを楽しむことができる、ってことだろうか。ガンジーの言葉に... 明日死ぬと思って生きよ。不老不死だと思って学べ... というのがあるが、まったくである。
「学問は自然の真相に到達するための道である。」