2013-07-28

"イノベーションのDNA" C. M. Christensen, J. Dyer, H. Gregersen 著

クレイトン・クリステンセン教授に感銘を受けたので、もう一冊。前記事「イノベーションのジレンマ」では、持続的イノベーションと破壊的イノベーションを区別し、破壊的発想にこそ真の変革の可能性を匂わせてくれた。だが、一般的に、変革、改革、改善と呼ばれる類いのものは、持続的発想からくるものであろう。破壊的発想となると天才的な思考を予感させる。進化論風に言えば、離散的な突然変異にこそ真の進化の道があるとでもしておこうか。凡人には、いや凡庸未満の酔っ払いには、過去を引き摺りながら生きるしかないように思える。
ところが、本書の研究成果は、そんな凡庸未満にも一筋の光を与えてくれる。イノベータはよく右脳型とか生まれつき才能を持つと言われるが、そんな考えをバッサリと斬り捨て、創造性においては生まれよりも育ちや経験が優先されるという立場を表明する。そして、イノベーションの能力は、方法さえ分かれば誰にでも体系化して習得できるものとし、けして個人プレーで成就できるものではないという。ここに紹介されるイノベータたちは、自己の能力不足を冷静に分析し、それを補う人材を幅広く集め、ワクワクするような挑戦的なプロセスを組み込み、そしてなによりも、チームに哲学的な共通意識を植えつけて実行力のあるチームを仕立てあげる。発想力と実行力は別次元にあるというわけだ。
「革新的なアイデアを生み出す能力は、知性だけでなく、行動によっても決まる。」
彼らは概して自問することに長けており、その意味で哲学者である。天才と凡人を分けるものとは、ちょっとした努力の違い、ちょっとした発想の違い、ちょっとした視点の違い、そして、その慣習的行動の積み重ねが結果を大きく変えるだけのことかもしれん。離散的な突然変異にしても、長年に渡って蓄積されたエネルギーがある閾値を超えて爆発した結果なのだろう...

本書は、破壊的イノベーションで必要な5つのスキルを提示してくれる。それは、発見力に欠かせない「質問力」「観察力」「ネットワーク力」「実験力」と、これらを結びつける「関連づけ思考」である。また、イノベータにも得意技があり、スタートアップ起業家、企業内起業家、製品イノベータ、プロセスイノベータの4つに分類している。これだけ複雑で多様な能力を必要とすれば、やはりチーム力が物を言う。ただし、ここで言うチームとは、同一思考の集団ではなく、多様な価値観の融合した集合体を意味する。ちなみに、著述家フランス・ヨハンソンは、価値観の交流による創造的な現象を「メディチ現象」と名付けた。いわゆる、メディチ・インパクトというやつで、ルネサンス期、メディチ家が科学者、哲学者、彫刻家、詩人、画家、建築家など幅広く人材をフィレンツェに結集させたことから、なぞらえた名である。
しかし残念ながら、凡人には創造的で独創的な人材の見分けができない。それどころか、異端と見なし葬ってしまう。そういう才能を嗅ぎつける能力もまた、創造的で独創的でなければなるまい。類は友を呼ぶと言うが、独創的な人の周りに独創的な人が集まるものであろう。なのに、お偉いさんはよく部下の愚痴をこぼす。枠に囚われない考え方をしろと。だが、囚われない考え方!これこそが知りたいことなのだ。笑われるぐらいでないと、斬新なアイデアは期待できない。そこにヒントが隠され、周りの人々によって優れたアイデアに育てられる可能性だってある。一つの斬新なアイデアに出会うためには、その10倍以上のバカバカしいアイデアを相手にすることになる。にもかかわらず、価値観から逸脱した提案は馬鹿にされてお仕舞い。創造性や独創性を求めるお偉いさんほど、この呪縛に嵌る。過去の栄光を振りかざすだけでは建設的な思考は生まれない。緊張感を煽っても思考の柔軟性を抑圧するだけ。破壊的イノベーションを必要とする場面では、実績や自己存在を一旦否定してみるような試みが必要である。
... などと言えば、凡庸未満の酔っ払いには過去の栄光などというものがないので、相性が良さそうに映る。いや、相性がいいのはイノベーションではなく、自己破壊の方よ。

1. 関連づける力と思考の試行センス
イノベータたちは、新たなものをゼロから創出するわけではない。コンピュータ技術にとらわれ過ぎてもいけない。最新技術に頼り過ぎてもいけない。メディアに流されてもいけない。もちろん、過去にとらわれすぎてもいけないが、現代人が古代人を凌駕したわけでもない。利便性が根源的な人間の欲望を満たしているわけでもない。異質なアイデアは、多種多様な存在を認めた上で、関連づけという思考実験から生じるものかもしれない。アインシュタインは、創造的思考を「組み合わせ遊び」と呼んだそうな。巷で騒がれるイノベータといえばスティーブ・ジョブズ氏、彼は「創造とは結びつけること」だと語ったという。
「創造的な人はどうやってそれをやったのかと聞かれると、ちょっとうしろめたい気持ちになる。実は何をやったわけでもなく、ただ何かに目を留めただけなのだ。...さまざまな経験を結びつけて、新しいものを生み出すことができたのだ。」
まったく無関係に見えるものを、ちょっと違う視点から繋げてみる。こういう思考は簡単そうで難しい。イノベータたちは、思考の試行センスが優れているようだ...

2. 質問力と馬鹿になる覚悟
質問という行為には、遠慮という考えが働きやすい。特に日本文化でありがち。レベルの低い質問は自己の能力を露呈することになり、恥と考える。だが、向上心とは、恥をかくところから始まる。素朴な質問に対処するのは面倒で鬱陶しい。だが、説明を疎かにすると本質を理解していないことを露呈する。子供が最も素朴な哲学者と言われる所以だ。無難な質問よりも型破りな質問こそが、互いの向上心を刺激しあう。
しかし、質問という行為がデリケートであることも確かで、用い方を間違えると揉め事へ発展する。質問が建設的な方向に向かわせるとすれば、それが質問力というやつか。実際、解答よりも問題を提起することの方が重要であることが多い。ピーター・ドラッカーはこう言った。
「正しい答えを見つけることではなく、正しい質問を探すことこそが、重要かつ至難の問題だ。誤った質問に対する正しい答えほど...危険とまではいわないが...無駄なものはない。」
イノベータにとって質問することは、知的トレーニングなどではなく、息をするように自然なことだという。そして、いつでも 5W1H をたたみかけるという。彼らには、常識を常識とする考えが、あまりないようだ。
ところで、議論の最中、メンバーたちは本当にこの仕事を理解しているのだろうか?と思うことがある。そんな時、チームに馬鹿を演じられる奴が一人いると助かる。冗談まじりの質問が、その場の雰囲気を和ませるばかりか、意思疎通を再認識させる役割を自然に演じてくれる。暗黙に能力を認められた人物の為せる業で、チームの潤滑油のような存在となる。そういう人物が見当たらない時は、マネージャ自身がバカバカしい質問をしてみるのもいい。質問力とは、馬鹿になる覚悟をすることであろうか。ブレークスルーの本質は、疑問を適切な質問で再構築することにあるのだろう。
「答えは頭で考えるものではない。...適切な質問を探すことによって...答えのベールをはぐのだ」

3. 観察力と理解力
イノベータのほとんどが熱心な観察者で、観察行為は感覚器官を駆使して行われるという。よく観察しなければ、疑問もわいてこない。「用事を片付ける」、これが観察なのだそうな。つまり、片付けるべき用事を理解するということ。どんな用事にも、機能的、社会的、感情的側面がある。用事をコンピュータに処理させるなら、コンピュータの得て不得手を理解することになる。これが観察というわけである。もっと言うなら、用事を片付けるとは、欲望を理解することであり、人間の本質を理解することになろうか...

4. ネットワーク力と寛容性
個人で思考しても限界がある。イノベータたちは、人々との出会いを精力的に求めるという。業界などの枠組みにとらわれることなく、分野にこだわらないネットワークを。ネットワーキングを得意とする人とは、アイデアネットワーカーであり、資源ネットワーカーではないという。イノベータは、資源や出世のためにネットワーキングすることがあまりないらしい。新しいアイデアや洞察を引き出すために、いろいろな考えや視点を持つ人と話すそうな。
現代社会にはSNSなど繋がる手段が溢れている。だが、得てして知識だけで繋がるような資源ネットワークは、似たような考え方が集まり、むしろ思考を偏重させる。専門家どうしで集まっても、却って視野を狭めるかもしれない。アイデアネットワークでは、寛容性の高い能力を求める。イノベータたちは、思考の柔軟性に敏感に反応する。知らない人に近づけないのは、自分に自信がないからだという。
しかし、それだけだろうか?どんなに興味のある思考の持ち主でも、やはり人間的に合わないこともあろう。こちらが好んでも断られることもある。やはり凡人との違いは、多様性に対する寛容性の違いであろうか。自信は傲慢とも相性がよく、それよりも柔軟性や寛容性の方が本質的に思える。しかも、凡人の最も苦手とする資質だ。ついでに、凡人は寛容さと優しさを混同する。
ネットワーキングは、異なる社会的ネットワークに属する人たちとの対話を生み出す時、画期的なアイデアを誘発するという。そして、様々な産業、企業、国、民族、年齢集団などに属する人たちと対話することを奨励している。また、TED(Technology Entertainment Design) のようなアイデア会議への参加を呼びかける。だが、政治や宗教的な思惑は勘弁願いたい...

5. 実験力と失敗力
「失敗などしていない...うまくいかないやり方を一万通り見つけただけだ」...トーマス・エジソン
質問、観察、ネットワーキングは、過去と現在についての考察を与えてくれる。だが、将来の考察について手がかりを得るには、実験に勝るものはないという。仮説を実証するには試してみるのが一番。あらゆる新規事業は試行錯誤の繰り返し。インターネットがビジネスチャンスをもたらしたのは、過去の実験者たちによる財産である。失敗から学ぶことができれば、それは失敗ではなくなる。失敗を放置するから、永遠に失敗の痕跡に憑かれる。そもそも、人間社会そのものが、試行実験の場に過ぎない。政治システムにしても、経済システムにしても、社会的システムにしても。そして、失敗すれば、反対派の餌食にされるだけのことよ。
「新しい経験をすることは、望ましい学習成果に直接結びつかなければ、時間の無駄だと感じる企業幹部が多い。」
実行志向型の幹部は、目の前の問題を効率よく解決することに重点を置くため、課題と直接関係のない行動を時間の無駄と考えるという。対して、発見志向型の幹部は、新しい経験に挑むのは双方向的学習であって、実践に役立たないかもしれないことを承知しているという。研究分野は、ほとんど実を結ぶものではなく、それだけに、地道、根気、こだわり、といった資質が求められる。ちなみに、むかーし、おいらがある研究所に配属された時、上司から研究部門は、発想力よりも根気の方がはるかに重要だと助言されたものだ。あらゆる分野において、ほとんど日の目を見ることなく、人柱となってきた研究者が大勢いる。だからといって、研究を疎かにすれば未来が細る。やはりイノベーションには、ギャンブル的な性格がある。優れたイノベータが三流経営者と評されることも珍しくない。そこで、賢明なリスクのとり方を検討することになる。適切な構造をもった少数精鋭のプロジェクトチームを数多く用いたりと。スマートリスクこそが、失敗力ということになろうか...

2013-07-21

"イノベーションのジレンマ" Clayton M. Christensen 著

「自宅で読めるハーバードビジネススクールの精髄!」
惚れっぽい酔っ払いは、この宣伝文句にイチコロよ。破壊的技術によって市場に激変が生じると、業界をリードしてきた優良企業はなぜ失敗をするのか?これは、その法則を探求する物語である。
大企業の失敗原因でよく耳にする指摘と言えば、慢心、官僚主義、血族経営の疲弊、長期計画の欠乏、近視眼的な投資、能力や資源の配分ミス、あるいは不運などであろう。確かに、そういう企業もある。しかし、ここではエクセレントカンパニーやビジョナリーカンパニーと呼ばれた企業が対象である。そして、経営陣が正しく振る舞うがために、あるいは、輝かしい成功を収めてきたがゆえに、陥る罠があるという。やはり、その根幹にあるものは技術的な問題であり、イノベーションの問題であったか。尚、ここで言う技術とは、エンジニアリングや製造プロセスに留まらず、マーケティング、投資、マネジメントなど、あらゆるプロセスを統括するものであり、そしてイノベーションとは、これらの革新を意味する。

日本社会の閉塞感は未だ出口が見えず、失われた10年は、いまや20年と囁かれる。多くの日本企業は、高度成長とともに最下層から最上層まで上り詰め、行き場を失っている。かつて、アメリカ経済を牛耳ってきた自動車産業のように。社員たちが業界をリードしてきた大企業に見切りをつけ、ベンチャー的な事業を設立して市場の最下層からやり直そうとする動きもあるにはある。
だが、一般的には、安全志向の強すぎる国民性が指摘される。アメリカの強みは次々に新企業や新産業が出現することにあるが、日本では出現しにくい体質的な問題があるのだろう。企業の伝統にしがみつき、業界体質にしがみつき、官僚体質が蔓延し、技術者たちの移動もあまりない。金融業が新企業や新産業に投資することも少ない。
はたまた、世界人口で2%にも満たない日本人が総額保険料の20%近い保険料を支払い、保険好き!と外国人から皮肉られる始末。欧州では年収500万円程度でも、別荘を持って有意義に生きている人たちがいるというのに、日本では年収1千万円の家庭に子ども手当を与えることが真面目に検討される。年収900万円の所得制限で高校授業料の無償化を訴えたところで、義務教育でもないのに大義名分が見当たらない。日本経済は本当に疲弊しているのか?お金の使い方を知らないだけではないのか?自己投資のやり方が分からないだけではないのか?
ところが、だ。ここに紹介される失敗事例は、そんな愚痴など軽くあしらう。競争感覚を研ぎ澄まし、顧客の意見に注意深く耳を傾け、新技術に積極的に投資し、それでもなお、市場の優位性を失うというのだから。識者たちは、よく時代の変化に対応できないと主張する。だが、ここでは、市場の変化が速かろうが遅かろうが、最先端の電子技術に基づこうが旧式の機械技術に基づこうが、製造業であろうがサービス業であろうが、同様に起こる現象だとしている。やはり、閉塞感を打破するものは、破壊的モデルに縋るしかないのかもしれない。この書は、破壊と創造の原理が存分に味わえる一冊...とでも言っておこうか。ただし、ウォール害(街)式破壊は勘弁したい。

注目したいのは、「バリューネットワーク」「資源依存理論」という二つの観点から迫っていることである。バリューネットワークは、リチャード・S・ローゼンブルームと著者クレイトン・M・クリステンセンが導入した概念だそうな。大雑把に言えば、価値観の共有ネットワークで、共通するニーズを持つ顧客層と、そのニーズを提供する企業群によって構成される集合体である。この集合体は、自社や既存顧客はもちろん、サプライヤ、流通事業者なども含め、生存価値を認め合う生態系として生息する。そして、彼らの共通価値観が信仰レベルにまで到達すると、破壊的イノベーションに対して無力となる。なにしろ、破壊的イノベーションってやつは、新たな価値観を吹き込むのだから。
また、資源依存理論は、組織の存続に欠かせない人材や資材や資金や組織能力への依存、あるいは、他社や顧客への依存といったあらゆる依存性から分析する立場である。成功してきた企業は、従来の顧客層を捨ててまでのリスクを負うことはできないので、過去の依存性と共存しながら新たな価値観に対処する必要がある。
したがって、本書は優良企業の足場を形成してきたバリューネットワークと資源依存性こそが妨げとなって、業界をリードしてきた地位までも奪われてしまうと論じている。既存組織が大規模なほど改革は難しく、特に破壊的な創造においては無から有を生む方がはるかに容易い。共通価値観によって集合体を形成するのは、自己存在の主張であり、ある種の防衛本能が働いている。人間ってやつは、権益を一度手にすると、それを頑なに守ろうとするために、思考までも硬直化させ、ある種の宗教原理が働く。自分の生活圏や枠組み、そこから少しでもはみ出そうものなら、すべてが失われるんじゃないか?そんな不安に駆られる。
新たな価値観を分析するには、一旦、既存の価値観を否定してみる必要もあろう。つまり、一旦、自己存在を否定してみることである。ただ、新たな価値観が必ずしも正しいとは限らない。価値観のネットワークは、ソーシャルネットワークにも見られる現象で、仮想的な生態系だけに破壊も容易い。この存在否定の概念こそが、イノベーションのジレンマに対抗する方策ということになろうか。
...などと解釈してみたものの、そんな勇気は持てそうにない。

1. 会社は誰のものか?
イノベーションには大きく二つのものがあるという。「持続的イノベーション」「破壊的イノベーション」である。持続的イノベーションとは、現存製品に対して改良、改善によって進化していく変革。一般的に目が行きがちなのは、こちらの方であろう。対して、破壊的イノベーションとは、突如として出現する技術によって市場バランスを崩壊させるほどインパクトのある変革である。いわば、前者は連続的変化で、後者は離散的変化である。
連続的であれば予測可能であり、巧みな市場調査が功を奏すだろう。顧客アンケートといった手法もそれなりに機能するはずである。成功してきた企業には、顧客の言葉によく耳を傾けよ!という至極まっとうな思考が働く。お客様は神様です!という企業精神は、老舗から培われてきたもの。そして、技術や製品は、顧客の感覚とともに進化を遂げることになる。経営陣は自らの自由采配によって事業戦略を練ることができると考えがちだが、実はそれは提案でしかなく、顧客や投資家の承認の上で投資行動や資源配分を決定することになる。
しかし、こうした振る舞いは、持続的イノベーションにおいて効果を発揮するものであり、破壊的イノベーションにおいては、むしろ妨げになるという。破壊的イノベーションでは、顧客にも想像できない技術によって市場が形成され、そもそも市場調査が通用しない。既存の市場を侵食し、ひょっとしたら業界ごと頓死させることだってありうる。そこで、破壊的技術の前では、まったく別の価値観を持つ顧客層を開拓する必要があるという。従来の顧客層と企業の間には、長年培われてきた事業戦略によって飼い馴らされてきたところがある。企業が顧客を飼い馴らすのか、顧客が企業を飼い馴らすのか。
市場の激変期においては、企業にも顧客にも価値の多様化を認める必要があり、ますます複雑な事業戦略が求められるだろう。要するに、破壊的イノベーションの局面では、経営陣だけが開拓精神を持っても機能せず、顧客層までも囲い込んで共に開拓精神を持たなければ、企業は成長できないということである。破壊的イノベーションでは、企業側にも顧客側にもワクワクするような空気が欠かせない。会社は誰のものか?と問えば、お客様のもの!というのはそれなりに真理を含んでいるだろう。ただし、売り手にも客を選べるという余地を残しておきたい。

2. 破壊的技術か?持続的技術か?
持続的技術において、率先して技術開発をしてきた企業が、出遅れた企業よりも明らかに優位に立つという事実はないという。実際、二番煎じ、三番煎じが成功したという事例が多い。
一方、破壊的技術においては、先んずる技術力が圧倒的な優位性を持つという。破壊的な価値をもたらすとは、競争相手の予測不能な領域で勝負ができるということである。とはいえ、破壊的イノベーションは、だいたい小さな市場から始まるので、大企業にとって採算がとれない。よって、市場規模に適応した組織を作り、リスクを抑える必要がある。斬新的な取り組みでは、従来の企業精神から逸脱するような、あるいは、ブランドイメージを捨てるような、独立組織を作るのが手っ取り早い。ただ、破壊的イノベーションを企てられる能力の持ち主は、ごくわずかな人たちであろう。一般的に、改革と呼ばれる殆どの施策は、持続的イノベーションに属す。実際、新技術が模倣なのか発明なのか、設計者自身ですら判断することが難しく、特許紛争では、真の発明元が誰かも分からないまま、政治的にうまく振る舞った者が勝利する。
また、持続的と破壊的のどちらを選択するかは、企業の能力にかかわる問題で、ほとんどのケースで選択の余地がない。あるいは、持続的技術なのか破壊的技術なのかを区別することも難しい。
例えば、電気自動車は破壊的技術と言えるだろうか?自動車はそれ自体が凶器となる代物で、最も重要な機能は安全性にある。電気かガソリンかという動力源の違いで、基本的意義までも変えることはできまい。それに、人や企業の立場によっても解釈が変わってくる。エンジン設計者から見れば破壊的技術かもしれないが、組立工員から見れば持続的技術かもしれない。エコ意識の強いユーザから見れば経済的破壊かもしれないが、走り屋から見れば破壊的と言うには物足りないだろう。
では、携帯業界を賑わすスマートフォンは破壊的技術であろうか?市場への投入タイミングと一気に資源を集中させる韓国メーカの勢いを見ると、市場に与えたインパクトは大きい。製造技術としては持続的であっても、マーケティング戦略では、やはり破壊的と言わざるを得ない。
一方で、日本の家電メーカが得意とする液晶技術はどうだろうか?製造技術としては破壊的かもしれないが、マーケティング戦略では、いまいちインパクトに欠け、持続的技術に留まっている。
必ず、良い製品が、良い技術が、良い仕様が、良い規格が、市場を制するわけではないことを、過去にも実証されている。1990年代、ビル・ゲイツが勝利したのは、MicrosoftのOSが他社より優れていたわけではあるまい。GUI環境を先駆けたのは、Macintoshであって、技術者の間ではこちらの方がお洒落とされた。かつて一世風靡したウォークマンにしても、オーディオ機器の携帯化と言えば、なにも破壊的技術には見えないが、市場破壊を企てるには十分なインパクトがあった。もはや、技術力は総合的な観点に立たなければ評価できない。人や企業によってイノベーションに対する見方が多様であれば、事業戦略も多様化するだろうし、そこに解があるのかも分からない。そして、技術における成功と失敗の基準も多様化することになろうか...

3. 品質の観点から見た破壊的イノベーションの威力
いつの時代でも、品質は製品やサービスにとって本質的な意味がある。しかし、破壊的イノベーションでは、市場が未開拓であるがために、どうしても品質が疎かになりがちである。使いこなすユーザでさえ、当初の粗悪な品質に愚痴を垂れることが多い。それでも、破壊的イノベーションに威力があるのは、新たな価値観の可能性を示し、ユーザをワクワクさせることにある。初期ユーザが人柱となって、新たな価値観の伝道師となるわけだ。
対して、成功してきた企業の強みは、長年培われてきた品質管理の技術にある。抱えた顧客も品質には特にうるさい。おまけに、大企業ほど品質で叩かれ、マスコミの餌食とされる。
いくら破壊的な価値観を吹き込んでも、人はすぐに慣れ、すぐに飽き、すぐに退屈病に襲われる。いずれ新興企業も、市場の成長とともに品質向上に力を入れる必要に迫られるだろう。そして、新興企業の看板を降ろし、成功した企業の仲間入り。破壊的に登場した彼らもまた、破壊的に登場する新興モノと競争する運命にある。過去の成功者は、いつでも今日の失敗者となりうる。だが、ずーっと失敗者であり続ければ、いらぬ心配よ。安心してアルコールで自己破壊を続けることができれば、それが幸せというものであろうか...

2013-07-14

"リュベンス" Kristin Lohse Belkin 著

「ルーベンス展」の余韻に浸りながら、もう一冊。酔っ払った美術オンチには、名画を読み物としてくれる、このような書はありがたい存在である。尚、ここでは、本書にならってオランダ語発音で「リュベンス」と表記する。

ペーテル・パウル・リュベンスは、第一に画家であったが、学者でもあり、絵画や古代彫刻の熱心なコレクターでもあったという。さらに、外交官としてスペインとイギリスの講和にも尽力し、世を去る時には荘園領主になっていて、野心的で好機を掴む才能に長けていたという。
リュベンス自身が下絵を描いて制作したものと、他人に制作を委ねて監督したものとを合わせると、絵画、銅版画、木版画の全部で3000点余りにのぼるとか。多様な作品群と、その圧倒的な生産力は驚異的!装飾画の連作や大画面の祭壇画をはじめ、肖像画、神話画、歴史画、寓意画などの視覚ボキャブラリーの豊かさは、一つの絵画的言語を形成している。そこには、芸術の才能の上に、ヨーロッパの王族や貴族と個人的な面識を持つ、一代で財を築いた成功者の姿がある。
しかし、彼の人生は順風満帆であったわけではない。幼少期には、宗教迫害のために亡命生活を余儀なくされる。南北で分裂したネーデルラントにあって、絵画という手段を用いて平和を唱え続けるが、落胆せざるを得ない状況に追い込まれる。それどころか、全ヨーロッパが三十年戦争へ向かうのであった。粛清の時代には、直接の批判を避け、遠回しで皮肉じみた文化が育まれる。彼の晩年の作品には、歴史の激動期に裏付けられた寓意に満ち満ちている。

宗教の役割とは何であろう?カトリック教が寛容さを失えば、異教弾圧を激化させる。罪人に寛容でも異教徒に厳しいとは、これいかに?そもそも、神を厳密に規定する必要があるのか?俗界の住人に分かるはずもないのに...
そして、ルネサンス期に生じた古代回帰の思想は、一神教への批判と解するのは行き過ぎであろうか?というのも、ギリシア神話やローマ神話には、神々の自由な振る舞いが生き生きと描かれる。少なくとも、厳正で抑圧的な一人の神より、欠点を持った人間味溢れる多くの神々の方が賑やかで楽しかろう。生命体は多様性に満ちており、それぞれに欠点を補いあう神々の世界の方が現世に適合していそうである。
リュベンスの晩年の作品にも、神話や聖書に反して、物語に微妙なアレンジを加えたものが現れる。彼は古典文学者としても知られるので、無知がそうさせているのではなく、世情に対するメッセージが巧みに組み込まれている。本書で注目したいのは、その作風の変化を、心境の変化と歴史に照らし合わせながら紹介してくれるところである。
さて、リュベンスの作品でまず目につくのが、豊満な肉体と官能的に描く人物像である。キリスト受難では、痩せ細った悲壮感よりも、むしろヘラクレスの英雄的な肉体美を重ねるかのように。女性像では、露出した乳房をふくよかに描き、ヴィーナス像を重ねるかのように。イタリア時代、ローマで古代ギリシア・ローマ彫刻の模写を続けた修行が、作風にはっきりと見て取れる。もっとも、17世紀前半フランドルの慣習的な美の構想に、ふくよかな女性像があったそうな。
ただ、リュベンスの場合はそれだけではなさそうである。なんと、53歳で16歳の女性と再婚!この頃から作風に変化が見られるという。晩年の作品とは、この時期以降を指す。人物画家として名声を博していたが、風景画にも重きを置くようになる。人間と風景を一緒に描く場合、残虐行為では人間どもが主役になり、穏やかな光景では風景が主役になるとは、これいかに?人間をいくら巧みに描いても、自然と同化できなければつまらない、とでも考えたのだろうか?もともと女性や幼児に平和の象徴としての役割を与える作風ではあるが、それがはっきりとしたメッセージとなっていく...

1. 亡命から画家への道
リュベンスは、ドイツのジーゲンで生まれる。彼の両親は、もともとネーデルラントのアントウェルペン(アントワープ)出身。大航海時代、アントウェルペンは国際貿易の中心地であり、思想と情報の発信源であった。父ヤン・リュベンスは、アントウェルペンの市参事会員に選ばれるほどの法律家であったが、カルヴァン派に属していたため1568年異端の嫌疑で告発され、リュベンス一家は20年近い亡命生活を余儀なくされたという。生涯に渡って和解と平和を信条にしたキリスト教的な人文主義者であったのも、こうした経験からくるのだろう。
ネーデルラントは、ハプスブルク家の権力争いに振り回される。1556年、カール5世が退位して修道院に隠遁すると、神聖ローマ帝国は東西に分裂。東のオーストリアは弟フェルディナント1世が統治し、ネーデルラントを含む西は息子のスペイン王フェリペ2世が統治する。フェリペ2世は強烈なカトリック信者で、ネーデルラントに好意を持っておらず、スペインの専制支配を押し付けた。彼の厳格な宗教政策とスペイン軍のネーデルラント駐屯が、反スペイン感情を刺激する。教会や修道院の破壊や略奪は、カルヴァン派の神学思想だけで生じたものではなさそうである。民衆の抗議運動では、単なる政治体制への反感が民族や宗教感情と結びついて、同一視されることが現在でもある。ここでは、スペインとカトリック教会が同一視される。つまり、自由を迫害するもの全てが敵となる。フェリペ2世は、司令官アルバ公爵フェルナンド・アルバレス・デ・トレドを派遣して報復し、恐怖政治を布く。1566年、ついにオラニエ公ウィレム1世が挙兵し、1581年、ユトレヒト同盟によってオランダ共和国の独立となる。当初、南部も北部と組んで抵抗したが、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に降伏。
さて、リュベンスは、しばしばカトリック系の芸術家と見なされるが、それは便宜上の改宗であったのだろうか?両親の影響でプロテスタント的教育を受けたのは確かであろう。経済的に余裕がなかったにせよ、母親は高い社会階級に属していることを強く意識していたという。ラテン語が政治や学問などで国際語であった時代、リュベンスは人文主義教育を受け、ラテン語と古典文学を学ぶ。そして、可能な限り原典に立ち返り、ラテン語やギリシア語の原文で読む習慣を貫いたという。オウィディウスの「変身物語」やウェルギリウスの「アエネイス」などの文学作品、あるいは、ウァレリウス・マクシムス、プルタルコス、プリニウス、リウィウスといった古代ローマの歴史家の著述を... こうした原語へのこだわりが、独創的な発想を生み出すのに重要な意味があったという。
また、家族が困窮する中、小姓に出されるなどしたが、画家としての才能が優ったようである。風景画家トビアス・フェルハーフトに師事した後、アントウェルペンの有名な画家アダム・ファン・ノールトに師事し、さらに、アントウェルペンで最も称賛されたオットー・ファン・フェーンに師事し、1598年には親方資格を取得したという。ただ面白いことに、リュベンスは、芸術家としては大器晩成型かもしれないという。というのも、初期作品があまりにも少ないそうな。滅多に著名しなかったそうで、作品の判定では様式的な基準に頼るしかないらしい。後の多作ぶりを考えれば、作者不詳の作品に混じって美術館の収蔵庫に眠っている可能性は否定できないという。真の芸術家とは、作品を残すことに命をかけ、名を残すことにあまり興味を示さないものなのかもしれん。
...Cheers for unknown!, Hurrah for Mr. Nobody!

2. ローマ修行
1600年、リュベンスは、弟子のデオダート・デル・モンテとともにイタリアへ行き、マントヴァ公ヴィンチェンツォ1世・ゴンザーガと出会う機会に恵まれ、まもなく宮廷画家に迎えらる。ゴンザーガ家では、視覚芸術だけでなく、音楽や詩、そして学問も重んじられたという。リュベンスの滞在中、クラウディオ・モンテヴェルディが宮廷音楽家を努め、ガリレオも少なくとも2回はマントヴァを訪れているという。これだけ素晴らしい文化環境にあっても、公爵自身は、真の芸術愛好家ではなかったそうな。公爵の芸術庇護は、貴族としての威信を保つだめだったとか。リュベンスが雇われたのも、宮廷の女性たちを描くためだったかもしれないと。リュベンスは主君に従ってフィレンツェへ赴く。メディチ家の公女マリアとフランス王アンリ4世の代理結婚式に参列するために。マリア・デ・メディチは、後にリュベンスのパトロンになる人物。
また、公爵のためにコピーを制作するという名目でローマに赴き、古代ギリシア・ローマの芸術に触れ、美術品の模写を徹底的にやりまくったそうな。彫刻の「セネカの胸像」や「ラオコーン像」などは、後の人物画の影響に見て取れる。徹底的な基礎訓練の反復が、やがて独自の技術として開花することになる。これが独創性の正体なのかもしれん。模写と猿真似の違いは、オリジナルをヒントに独自に解釈して、自分のものにしてしまうということであろうか。リュベンスは古典だけでなく、レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロの作品にも触れ、模写しまくる。システィーナ礼拝堂では、ミケランジェロの天上画の預言者や巫女のポーズ、そして比類なき裸体青年のポーズを写し取ろうと、何時間も仰向いたであろうという。
しかしながら、イタリア滞在中の作品で最も顕著なのは、ティツィアーノ、ヴェロネーゼ、ティントレットらのヴェネツィア派の画家たちの影響だという。特にティツィアーノの影響は、晩年の作品にも再び目立つようになる。
ヴェネツィア派の特徴は、色彩の用い方と筆さばきにあるという。一方、フィレンツェ = ローマ派の特徴は、デザインないし「ディセーニョ」を強調したことで知られるという。ちなみに、ルネサンスの美術理論における「ディセーニョ」という用語は、完成作の土台に素描を用いるやり方を指すそうな。対照的にヴェネツィア派のやり方は「コローレ」と呼ばれ、カンヴァスに直接絵具を塗りつけるそうな。ヴェネツイア派の作品は、素描による複製には向かないということか。ディセーニョによって作品を生み出したミケランジェロのような美術家は、生身のモデルや古代彫刻のような理想的なモデルの写生を通して訓練し、人体の複雑なポーズを考案するという。対して、リュベンスの特徴は、模写の際、輪郭線に影付けを強調し、立体表現を際立たせていることだという。ほとんどの仕上げで、黄色、黄土色、バラ色、白などのハイライトを水彩あるいは油彩で点じているとか。なるほど、リュベンスは、ディセーニョとコローレというルネサンスの二つの伝統を融合させたということか。
また、イタリアの修行で最も重要なのは、カラヴァッジョとの出会いだという。カラヴァッジョの革新的な特徴はリアリズムで、カラヴァッジョ作「キリストの埋葬」の模写に表れている。さらに、ドイツ人画家アダム・エルスハイマーにも魅了されたという。サイズや効果など作品の性格は異質だが、しばしばエルスハイマーの光と影の用い方を取り入れているとか。
これほど芸術溢れる魅力的なローマとはいえ、対抗宗教改革の中枢にある都市、リュベンスにとっては複雑な心境だったかもしれない。あるいは、芸術を通しての真理の探求は、政治的な感情を凌駕していたのだろうか?

3. 普遍的な構想
1609年、12年間の休戦協定が調印され、ネーデルラントの平和に希望の光がさす頃、アントウェルペンへ帰郷する。スペイン宮廷の反対をものともせず休戦を推進したのは、アルブレヒト大公とイサベラ大公妃だったという。イサベラ大公妃は非凡な人物で、政治情勢に精通し、自立した判断力と強い性格の持ち主だったとか。リュベンスは、「女性の美徳をすべてに恵まれた高貴なお方」と評したという。人情味溢れる良心的な大公夫妻に敬意を払い、まもなく宮廷画家となる。こうした人脈が工房を成功へと導くことに。
対抗宗教改革は、その目標の多くを達成しつつあった。16世紀末には、ヨーロッパの半分がプロテスタント国を表明していたが、1650年には、5分の1にまで減り、多くがカトリックに復帰する。カトリック教会の改革運動の推進は、大半が才能豊かな個人によって行われたという。イエズス会を創設した聖イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会士で東洋へ布教に赴いた聖フランシスコ・ザビエル、オラトリオ会を創設した聖フィリッポ・ネーリ、カルメル会を改革した聖女テレサといった人たちである。リュベンスは、これらの修道会からも注文を受けたが、最も関わりの深いのがイエズス会だったという。宗教思想を煽るのに、ダイナミックな視覚効果による宣伝ほど有効なものはないだろう。しかも、大画面で等身大の迫力で。そのうってつけが、リュベンス工房というわけである。リュベンスは、光と影の強い対比を用いて、キリスト像に英雄的なイメージを植え付ける。光源が人体の上で戯れる様子は、ミケランジェロには見られなかったものだが、カラヴァッジョの影響で典型的なバロックの特徴を与える。ルネサンスの作品には、ここまでの迫力はないらしい。
「キリスト昇架」には、両腕をあげて天を見上げる筋骨たくましいキリストの姿がある。痩せこけ、衰弱してうなだれるイメージとは、まったく正反対。力強く生きておられるという願いが込められているのか?なんとなく復活を予感させる。ヨハネの福音書(1:14)には、「言(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」というのがある。この作品は「肉となった神」にほかならないというわけか。
リュベンス絵画には、世俗的なリアリズムが宿る。大柄で肉付きのよい男性像、露わな胸に裸の子供を抱き寄せる母性像、豊満で官能的な女性像、興奮した犬... こうしたものは大袈裟にも映る。信仰心を掻き立てるだけなら、禁欲的で物質感のないものの方がよさそうな気もする。だが、彼の作品には物理的な物質関係までも描かれ、霊的な法悦や天上の物語でさえも、ニュートン力学上の出来事であるかのようである。リュベンスは、本当にカトリック的な信仰心を煽ろうとしたのか?熱烈な宗教心に対して、ちょっと冷静になれよ!と訴えているように映るのは気のせいか?
「キリスト降架」には、ぐったりした死せるキリストが、人々の手で十字架から降ろされる姿が描かれる。聖母マリアとマグダラのマリアの悲しむ姿など登場人物に強い光をあてて背景を暗くしていることが、悲壮感を強調する。この作品を見て、とても残虐な弾圧を支持する気にはなれない。リュベンスは、神を崇める前に、人道としての感情を呼び覚まそうとしたのでは?と解するのは行き過ぎであろうか?
「リュベンス芸術の最大の功績の1つは、彼以前のミケランジェロの功績と同様、ギリシア・ローマ神話であるか聖書であるかを問わず、いにしえの物語から普遍的真実を抽出したことだった。異教世界とキリスト教世界の硬直した区別を超えた真実である。かくして、ラオコーンの死はキリストの受難へと転じた。」

4. 外交官としての平和への願い
1621年、休戦協定が期限切れとなると、再び戦争が勃発し、やがて全ヨーロッパへ波及する。当時、全ヨーロッパは二陣営に分かれていた。一方は、カトリックを信仰するハプスブルク勢で、スペイン、ポルトガル、ハンガリーの一部、ドイツ諸侯の国々。もう一方は、これらに対抗するイギリス、フランス、デンマーク、スウェーデン。
1618年、ボヘミアのプロテスタントがプラハの王宮を襲い、三人の国王参事官を窓から放り出すという「プラハ窓外放出事件」が起こる。反乱者は、新しいプロテスタント王としてドイツ人フリードリヒ5世を擁立。フリードリヒ5世はイギリス王ジェームズ1世の娘を妃に迎えていたので、イギリスとの講和を期待してのこと。しかし、1620年、フリードリヒ5世はヴァイサーベルクの戦いで大敗を喫し、オランダへ亡命。アルブレヒト大公とイサベラ大公妃は休戦協定の更新を望むが、フェリペ3世はオランダへの軍事行動を再開しようとしていた。折悪しく、大公アルブレヒトは1621年に世を去り、南ネーデルラントの自治権はスペインへ返還される。
こうした混乱期に、いくら巨匠とはいえ、外交官として手腕を振るうとは、驚くべきものがある。宮廷画家には王室に近づきやすいという利点もあり、工作員という目でも見られる。実際、名画は外交の道具とされてきた歴史がある。とはいえ、国家同士のいがみ合いは、文化交流が糸口になるのも確かで、現在では経済交流が戦争リスクを軽減する。政治家が大局を推し量れず、自らの面子ばかりで処理しようとすれば、政治不要説ならぬ政治家不要説が叫ばれ、そこにマスコミという名の工作員が便乗するという構図は、いつの時代も同じか。
芸術の巨匠が、ハプスブルク家の正式な外交官に任命されることは、大きな意義がある。プロテスタント国イギリスは、もともとオランダと同盟している。リュベンスの目論見は、スペインがイギリスと講和すれば、その仲介でオランダとの協定が戻るというもの。いくら反目しあっていても、休戦という状態が大切なのだ。友愛なんてものを押し付けるから、却ってナショナリズムを煽る。人間関係というものは、近づきすぎるとろくな事にならないようである。好き嫌いは人間感情として自然に生じるもので、紛争は隣国で起こりやすく、神の前で誓った永遠の愛ですら長続きしない。ましてや宗教感情となると、交じ合うものではない。互いに存在を認め、そっとしておくこそ肝要。平和裏に共存するとは、距離をはかるという意味であろうか。
ところが、リュベンスにとっての平和とは、オランダがスペイン統治下に復帰することを意味していたという。駐英オランダ大使アルベルト・ヨアヒミは、唯一の方法はスペイン人をネーデルラントから追い払うことだ、と主張していたというのに。リュベンスほどの眼力の持ち主が、オランダが独立を放棄するとか、スペイン支配の下で平和を求めるとか、こんな非現実的な信念を持っていたとは。亡命時代を忘れたわけではなかろうが、カトリック信仰とハプスブルク家に対する忠誠心が強かったようである。というより、イサベラ大公妃への忠誠であろう。だが、イサベラ大公妃の意向とスペイン国王の野心は正反対。リュベンスは、大公妃のために北部諸州と交渉を試みるが、1631年と32年のオラニエ公訪問は不成功に終わる。

5. 理想の女性像とヌードモデル
妻イサベラ・ブラントが死去して4年後、1630年、リュベンスは16歳のエレーヌ・フールマンと再婚する。そして、多くの肖像画を残すだけでなく、彼女を数々の物語に登場させているという。スペイン宮廷が注文した「パリスの審判」では、枢機卿王子フェルディナンドから中央のウェヌス(ヴィーナス)が妻エレーヌにそっくりだと指摘されたとか。それは、トロイア王子パリスが、三人のうちで誰が最も美しいかと審判を求められた物語で、中央のウェヌスとは、トロイアのヘレネで、スパルタ王メネラオスの妻のこと。パリスがヘレネを連れ去ったことでトロイア戦争の原因となる。
「ウェヌスの祭り」や「三美神」もエレーヌをモデルにしているという。なるほど、エレーヌの肖像「毛皮をまとったエレーヌ・フールマン」とそっくり。この作品は、ヘット・ペルスケン(毛皮さん)と通称されるそうな。しかも、古代ギリシア・ローマ彫刻と結びついて「恥じらいのヴィーナス」や「メディチのウェヌス」のポーズが描かれる。
一般的に裸の女性モデルを前に描くことは、19世紀になるまで行われなかったという。1850年まで公的な美術学校では女性モデルが許されておらず、私的な環境でしかありえなかったとか。エレーヌは、リュベンス工房における愛の女神のような存在なのかもしれない
ところで、主要な文学作品にオウィディウスの「変身物語」がある。しかも、女性ヌードを描く恰好の口実だったという。画家たちに最も人気があり、「変身物語は画家の聖書」と呼ばれたほどだとか。アポロに追われたダフネは樹木に変身し、糸つむぎと機織りの腕前を女神ミネルウァと競おうとしたアラクネは蜘蛛に変えられる。ローマ神話の主神ユピテルは、ギリシア神話で言えばゼウスだが、様々なものに身をやつして、汚れを知らないニンフや人間の女を犯しまくる。エロティズムとユーモアあふれる雷オヤジの情熱が、オウィディウスの「変身物語」には満ちている。リュベンスの作品がみだらなものにならないのは、神話に取り組んでいるためだという。それは、普遍的なエロティズムを追求した結果であろうか?

6. 寓意画に見る晩年の境地
再婚した頃から、作風が公的なものから私的なものへ変化していくという。成功と財産を手中にしようとした野心的な時期には、パトロンたちに気に入られようと、大半が公共芸術となる。こうした時期を経て、やがて私的世界へ籠るようになる。富や名声に虚しさを感じるようになったのだろうか?騒がしい日々に嫌気がさし、真の安らぎを求めようとしたのだろうか?開眼のためには、自己の野心をも経験せねばならないのかもしれん。

「ヤヌスの神殿」には、戦争と平和という寓意が込められる。古代ローマの慣習で、ヤヌス神殿は平和な時は閉じられる。しかし、この作品では扉が開かれ、目隠しをして剣と松明を振りかざす男が、扉から出てくる場面が描かれる。
右手には、カドゥケウスを持つ「平和」が両手で扉を閉めようとし、後ろから大公妃と白衣の「敬虔」が力を貸す。「敬虔」は、火を灯した祭壇の上に献酒用の皿をかざしている。そして、ケシの旗と麦の穂とシュロの技を携えた「安全」と「平安」の擬人像が、それぞれ体現される。
一方、左手には、蛇の髪をした「不和」と復讐の女神ティシフォネが扉を開けようとしている。二人の間には、壺が倒れて血が流れ出る。その左から、大鎌を持ち、疫病の松明を掲げたミイラが死へ誘なう。「飢饉」は翼と竜の尾を持つ女面鳥身の怪物として表され、左側の連中の上を飛び回る。
しかしながら、戦争の非道さを最も雄弁に物語っているのは、母親の髪を掴み子供を引き離そうとする兵士の描写であろう。もはや、リュベンス芸術の主役は、宗教の神や歴史上の人物ではなく、罪のない犠牲者の象徴としての母と子へと移っていく。
創造力を刺激した官能的な霊感源が妻エレーヌだとすれば、芸術的な霊感源はティツィアーノだという。イタリアで、ティツィアーノ作品を模写しまくった真の成果が、晩年になって現れたようである。それは、風景の中に、神々を再構築、あるいは再創造するような...
ティツィアーノ作「ウェヌスの礼賛」の模写などは、その典型であろうか。その作品では、ティツィアーノが、矢で狙いをつけられて両手を広げている男の子クピド(キューピッド)を、女の子に変えているという。クピドたちは男の子にだけ翼があることになっている。ギリシア神話では、クピドはウェヌス(ヴィーナス)の息子だから。しかし、あえて女の子にしたのは、リュベンスにとって愛とは本質的に男女の間の現象で、性別は関係ないということらしい。しかも、多産を平和の象徴としているのか?

「ディアナとカリスト」という作品は、復讐の物語を同情によって愛の物語に変貌させているという。ディアナは、ギリシア神話でいうアルテミスのことで、狩りを司る処女神。供をするニンフたちも純潔でなければならないが、ユピテルはディアナに化けてカリストに近づき我がものにする。やがてカリストは身ごもり、ディアナの知るところとなり、罪として熊に変えられる。熊になったカリストは、息子アルカスに追われると、ユピテルはカリストを天上に非難させ、母子ともに大熊座と子熊座になったというお話。
ティツィアーノの作品は、二人のニンフがカリストを押さえつけ、それをディアナがなじるという荒々しい構想。対して、リュベンスの作品では、二人の主役は対等に描かれるという。ニンフたちは、下から覗きこむように慰めているように見え、カリストに対する同情の念を感じる。また、ディアナが結わない髪をなびかせているのが、異教徒的なイメージを体現しているそうな。なるほど、最初どれがディアナか分からなかった。

「平和の寓意」には、和平交渉の成功に鼓舞された楽観論から、平和は容易ではないという悲観論への推移が表れているという。平和の擬人像と愛の女神ウェヌスを融合させるという構想でありながら、妙に暗い印象を与える。中央に「平和」が座り、乳房からミルクを絞りだして赤ん坊にあてがう。赤ん坊は、通常、富の神プルトスと解されるらしい。果実を囲んだ平和な光景に、鎧に身を固めた戦の神マルスと復讐の女神たちが襲う。対して、兜をかぶった知恵の女神ミネルウァが「平和」を防御する。
母性と多産と子供の守り手としての「平和」という考え方は、古代ギリシアに由来するもので、ホメロスやヘシオドスに見られ、アリストファネスの反戦劇にも語られているという。この作品は、チャールズ1世に捧げられたそうな。
「戦争の惨禍」にもウェヌスに役割を与え、ついに「マルスと戦うヘラクレスとミネルウァ」で英雄ヘラクレスと芸術の神ミネルウァを戦の神マルスと戦わせることに...

「嬰児虐殺」では、新約聖書にあるヘロデ王の命でローマ兵たちが、嬰児たちが虐殺される場面。しかし、嬰児だけでなく、市民全体が虐殺されているところに、深刻なメッセージがうかがえる。三十年戦争へ拡大する絶望を描いたのか?あるいは、ヘロデ王の虐殺は、人類史で繰り返される普遍的行為と皮肉っているのか?

リュベンスの作品で、最も残虐な殉教図の一つが「聖ペテロの磔刑」であろう。聖ペテロの殉教は「黄金伝説」の記述で広く知られる。ペテロが自ら望んで逆さ磔にしてもらうのは、キリストと同じ形になることを遠慮したとされる。この作品は、4人の刑吏と、1人のローマ兵が聖ペテロを十字架に釘で打ち付ける場面。身の毛もよだつとは、こういう構図を言うのだろう。

7. 風景画に託す自然への思い
晩年の寓意画には、苦難が満ち、愛に絶望し、争いに裂かれた現実を想起させるものがある。しかし、同じ時期の風景画には、安定した世界があるという。もともと、独立した主題としての風景画は、さほど関心がなかったらしい。展覧会でも強烈な人物画家としての印象が強い。風景画もあるにはあったが。
リュベンスは、ティツィアーノの「カール5世騎馬像」に感銘を受けていたという。ティツィアーノは、カトリック世界の擁護者としての皇帝を描くのに、夕映えの風景を巧みに使っている。リュベンスの「レルマ像騎馬像」の風景は、ティツィアーノの手法に倣ったものだという。人物に威信を与えるために、風景を効果的に利用するのは常套手段であるが、あくまでも人物が中心に据えられる。
一方、晩年の作品では、風景が主役となっているのが見て取れる。歳をとると、故郷の風景に思いを重ねて、懐かしんだりするものなのだろう。普段のなにげない風景に、情緒を感じたりするのは、感受性が豊かになった証であろうか?あるいは、自然を新たな目で観察できるようになるのだろうか?

「虹のある風景」には、自然の中に人間たちと牛たちが溶け込む。そこに歴史物語はないが、妙に癒される。人間は自然と同化してこそ、本来の姿ということであろうか。「羊飼いと羊のいる日没の風景」「月光の風景」など、もはや余計な説明はいらない。「フランドルのケルメス」には、人々が御馳走を食べ、酒を飲み、踊っている光景。人々が描かれるものの、やはり主役は風景。「嬰児虐殺」のように、残虐行為では人間が主役になり、平和の光景では自然が主役になる。
しかしながら、農民の祭りと対照的に描かれるのが、まったく違う社会で繁栄する人々。
「愛の園」には、17世紀の上流階級の集いが描かれる。豪華な衣装に飾られた古典的建築の前で、愛を育む人々。なぜか?こちらは人間が中心に映る。

2013-07-07

"ルーベンス 栄光のアントワープ工房と原点のイタリア" 中村俊春 監修

2013年6月2日... 北九州市立美術館で「ルーベンス展」を鑑賞した。俳優谷原章介氏の声が館内に調和し、至福のひとときを提供してくれる(音声ガイド500円)。そして、余韻を楽しむために図録を購入(本書2,400円)。美術オンチには、このような解説書でもないと味わうことが難しいのだ。おかげで、版画の鑑賞を疎かにしていたことに気づかされる。
鮮やかな油彩画が大画面で押し寄せ、等身大のド迫力に圧倒されると、版画の陰翳芸術が地味に映る。しかし、図録には版画の歴史的意義といったものが語られる。歴史でくすぐられると、酔っ払いの好奇心は疼き、もう一度足を運ばずにはいられない...6月11日
ところで、芸術の愉悦を味わうには五感を総動員したい。視覚と聴覚は揃っている。嗅覚も絵の具の雰囲気が漂う。触覚は図録で我慢するとして、足りないものは味覚だ。ブランデーを持ち込むと怒られるだろうなぁ...と呟きつつ...相棒のヒップフラスコっち...と目が合う。

さて、「ルーベンス展」と銘打っているが、彼自身の作品だけではない。これだけの数の大作を、どうして作り得たのか?それは、アントワープにあるルーベンス工房に鍵がある。芸術の大量生産システムと言えば、大袈裟であろうか。
17世紀頃、画家たちは工房組織によって芸術活動をしていたという。だが、大規模な工房による絵画制作に批判的な意見も少なくない。実際、ルーベンスの工房作品に対して、軽率に描かれるという批判があり、フランスの評論家ロジェ・ド・ピエールも好ましくない作品が多いことを認めているという。芸術の創作意欲は、孤高の天才によって手がけられるというイメージがある。社会の騒音から隔離された静謐な仕事場こそ、芸術に相応しいと思ったりもする。こうした考えは、19世紀のロマン主義時代に定着した芸術像だそうな。工房の役割は絵画制作だけではなく、教育機関としても機能していたようである。
本展覧会では、ルーベンス工房で活躍した5人を紹介してくれる。ヤーコプ・ヨルダーンス、アントーン・ヴァン・ダイク、アブラハム・ファン・ディーペンベーク、ヤン・ファン・デン・フッケ、ヤン・ブックホルスト。尚、ヤーコプ・ヨルダーンスは、弟子というより外注という形で参加していたという。
中でも、ヴァン・ダイクは傑出した存在のようで、イングランド国王チャールズ1世の宮廷画家になっている。彼は、親方資格を取得しながらルーベンス工房にとどまり、助手であり続けたという。その偉大さは、パウルス・ポンティウス作「ルーベンスとヴァン・ダイク」という二人の肖像版画に顕れている。

また、ルーベンス工房に属さない共同制作者の存在が大きい。画家にも得意分野があり、他の学問と同様、専門細分化や分業といった傾向があるようだ。人物画家のルーベンスと、風景、動物、静物などを得意とする専門画家とのコラボレーションは、合理性を追求した結果であろうか。得意分野の集合体として絵画を完成させる手法は、16世紀初頭のフランドルで誕生し、さらに画家の専門化が進み、ちょうどルーベンスの時代に花開いたようである。
特に注目したいのは、動物画と静物画の専門家フランス・スネイデルスと、風景画家ヤン・ウィルデンスで、彼らも自身の工房を構えていたという。ルーベンスが主動的な立場であったのは確かなようだが、彼らとの共同制作には腕比べの意味もあったようだ。
「狼と狐狩り」という作品では、ルーベンスが自尊心を傷つけられたというエピソードを紹介してくれる。注文主のカールトンは、オリジナルの動物を描いたのはスネイデルスだと思い込むが、実はルーベンスが描いたもの。ルーベンスにはスネイデルスに劣らない自負があって、皮肉まじりに弁明している。スネイデルスに死んだ動物を描かせたら天下一品だが、生きた動物を描かせたら自分の方が上だと言わんばかりに。尚、年長のヤン・ブリューゲル(父の方)との共同制作では、ルーベンスの方が客員という立場で描くことが多かったという。その息子ヤン・ブリューゲル(父と同名)の作品にも人物を描いているとか。本展覧会では、彼らの作品も紹介される。
スネイデルス作「猟犬に襲われる猪」には、狩猟者などの人物が登場しない。なのに、猪に噛み付く犬は、人間に飼い慣らされているような妙な雰囲気を漂わせている。白い犬には、ペットの象徴のような先入観があるのだろうか?
スネイデルスの動物画の躍動感は、ルーベンスとの共同作品「熊狩り」に見られる。この作品は、スペイン国王フェリペ4世に依頼された最後の作品で、8点からなる狩猟を題材にした大画面連作の1点だという。どうせなら連作で鑑賞したいものだが、うち6点は火災で失われたそうな。これも横幅3メートルあったものが、右側が失われ2メートルに縮まっているとか。種明かしがなければ違和感はないのだが、下絵の油彩スケッチと比べると、やはり躍動感が違う。芸術とは、部分描写も重要だが、観点や思慮の総合的描写によって決まるということか。尚、「シルヴィアの鹿の死」は、失われた6点の中の下絵として展示される。
失われた作品であっても、下絵や原画を模写した版画が残されれば、いずれ工房で復活する可能性がある。だからといって、ルーベンスが色褪せることはないだろう。真の芸術には、著作権をやかましく主張しなくても、鑑賞者を黙らせる力があるのだと思う。それが、模倣芸術との違いであろう。展示会では、つい本作品に目がいきがちだが、下絵や原画を模写した版画には歴史が詰まっていることを留意しておきたい。そして、解説に目を通していくと、助手たちの「見えざる手」といったものが見えてくる。アダム・スミスではないが、これぞ神の手というものであろうか。したがって、「ルーベンス展」というより「ルーベンス工房展」と呼んだ方が良さそうである。

1. 時代背景
中世、カトリック教の強烈な支配で寛容性が失われると、古代ギリシア・ローマ時代の自由意志を懐かしむ風潮が生じ、古典回帰の文化運動が巻き起こる。いわゆるルネサンス。芸術とは、自由精神の開花の結果であり、芸術の爆発とは、抑圧された社会への反動から生じるものなのだろう。レオナルド、ミケランジェロ、ラファエロといった画家が、15、16世紀頃に登場したのも偶然ではあるまい。そして、美術品の収集活動は、メディチ家の断絶後、ハプスブルク家が受け継ぐ。
16世紀以来、ネーデルラントはハプスブルク家の支配下にあった。スペイン国王フェリペ2世の時代になると、新教徒に対する激しい弾圧や経済情勢の悪化のために民衆の不満が高まる。1566年、オラニエ公ウィレム1世が反政府軍を組織し、1581年、北部7州はユトレヒト同盟によってスペイン統治を拒否。一方、南部の諸州はスペインの支配下として残り、カルヴァン派の勢力の強いアントワープも、1585年、アレッサンドロ・ファルネーゼ率いるスペイン軍に制圧される。こうして、ネーデルラントは、プロテスタント国である北のオランダ連邦共和国と、スペイン支配下の南ネーデルラント(フランドル)に分裂した。しかし、スペインは、1648年のミュンスター講和までオランダの独立を認めず、1609年から1621年の休戦期間を除いて、武力衝突が続く。ルーベンスは、ちょうどこの時期、いわゆるバロック期に活躍する。
彼は、芸術の中心がイタリアにあると確信すると、1600年イタリアへ行き、マントヴァ公の宮廷画家となる。8年間のイタリア滞在後アントワープへ帰郷し、1609年、統治者アルブレヒト大公とイザベラ大公妃の宮廷画家に任命される。1623年頃から外交官としての手腕を振るい、スペインとイギリスの和議成立にも貢献したという。
また、古典を基礎に置く教育を受けた人文主義学者でもあったという。ラテン語や古典文学にも造詣が深く、自宅や工房や装飾などを手がける建築家でもあったとか。ガウディは、建築はあらゆる芸術空間の総合であり、建築家のみが統合的な芸術作品を完成することができるとした。天才芸術家の精神というものは、絵画という平面空間にとどまることができず、多次元空間へ飛び出さずにはいられないのだろう。実際、魅せつけられる作品群は、静止画でありながら動画よりもはるかに動的な歴史物語を語っている。魔力を吹き込んだ動的リアリズムとでも言っておこうか。寓意的な描写が多く感じられるのは、激動の時代を生き残るための術であろうか。
ここでは、その時代を象徴する作品を二つ挙げておこう。

「勝利者としてのローマ」
ここには、ローマの元老院と市民 "Senatus Populusque Romanus" を意味する「S.P.Q.R.」が記される。マクセンティウスを打ち破った古代ローマ皇帝コンスタンティヌスが、ローマを暴君から解放し、市民の自由を取り戻したことが描かれているわけだ。ネーデルラントの自由を、ローマの自由に重ねたのだろうか?

「二人の女性寓意像とアントワープの城塞の眺望」
ここには、弾圧に対する反感がうかがえる。いささか生気を欠いた女性二人に、光の陰影効果もいまいちな作品ではあるが...
短剣を抱え、兜と盾の上に足を載せている女性は、戦争と勇気を描いた寓意像で、一緒に抱きあう後ろ姿の女性は、運命の寓意像だという。その背景には、五角形のアントワープの城壁が描かれる。アントワープの城壁は、1568年、スペインがこの地の統治を強化するために、アルバ公爵の命で建造された。だが、1577年、一時的にスペイン支配を脱して取り壊され、1585年、再びスペイン軍に占領されて再建される。この城は、スペイン軍がアントワープへ入市行進を行う出発地でもあったという。ルーベンスは、入市行進式典の芸術監督を務めたことから、その式典に関連した作品と推定されている。
本書は、プロテスタント勢力に対する勝利を象徴しているという解釈を支持している。一方で、武具を踏みしめていることから平和への渇望が描かれているという解釈もあるらしい。確かに、この作品だけを眺めるとネーデルランド色が強い。だが、作品全般を眺めると普遍的な思いを感じないわけではないので、後者の解釈も捨てがたい。一人の人生に一貫性を持たせることは不可能であろうから、作品の時期によっても作者の思いは違うだろう。

2. キリスト物語
ルーベンスの作品群には、キリスト教的な人文主義を信条にしていたことが伝わる。本展覧会にも見事なキリスト物語が蘇る。とりわけ、「ご訪問」、「羊飼いの礼拝」、「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」、「キリスト哀悼」、「復活のキリスト」は、連作として眺めると味わい深い。
「ご訪問」は、長い間不妊であった聖母マリアが、天使から懐妊のお告げを受け、従姉妹のエリサベツのもとを訪れる場面。
「羊飼いの礼拝」は、生まれたばかりのキリストを、聖母マリアが布で包もうとする場面で、キリストに礼拝するためにベツレヘムまでやってきた羊飼いたちが描かれる。
「聖母子と聖エリサベツ、幼い洗礼者ヨハネ」では、幼いヨハネが聖母に抱かれる幼児キリストを見つめている。聖ボナヴェントゥーラ作として普及していた13世紀後半のフランシスコ派の書作「キリストの生涯についての瞑想」には、聖母マリアとヨセフがエジプトからの帰途、幼児キリストを伴ってマリアの従姉妹エリサベツとその子である洗礼者ヨハネのもとへ訪れるが、その際、幼いヨハネがキリストに敬意の念を示したことが記されるという。まさにその場面。
「キリスト哀悼」は、安らぎの象徴、聖母マリアとマグダラのマリアに抱かれて死を迎えようとするキリストの姿。身体を清めたと思われる洗面具や白い布などとももに、左下の隅には、ちと見えにくいが、受難具の釘とハンマーが描かれる。
「復活のキリスト」は、死後3日目に蘇ったとされるキリストが、既に右足を地面に置き、次に左足を地面に置こうとする瞬間。左足親指の立っている角度が妙に生々しい。生に満ちた目は、十字架で絶望の淵にあった目とは対照的。死を克服した者を描いているのだろうか?最後の審判の際の天国への復活を願う信者たちには、とりわけ好まれた作品だという。

ところで、それぞれの人物像にはモデルが実在したようである。妙にリアティがあるのはそのためであろうか?
「アッシジの聖フランチェスコ」の首をかしげている姿は、その辺にいるオッサン!などと感想を漏らせば怒られそう。修道衣を身につけた聖フランチェスコの手と足は、磔刑に処せられたキリストと同じ場所に聖痕を負っている。空から注ぐ聖なる光を帯びて、両手に胸を当てた謙譲のポーズだそうな。しかし、光の質感が粗悪で、聖なる光には見えない。人物像がこれほどリアティで、なぜ背景が粗悪なのか?
さて、男性像に関しては個性を感じるが、女性像に関してはヴィーナスを象徴するような、豊満な乳房にふくよかな肉体像ばかりが目立つ。「9つの頭部」と題してルーベンスの素描も展示されるが、老人の表情など古代ギリシアの哲学者を彷彿させるような繊細さ。一方、「聖ドミティッラ」「毛皮をまとった婦人像」「三美神」など...カトリック的な理想の女性像であろうか?
「悔悛のマグダラのマリア」はヴァン・ダイクの作品ではあるが、その特徴が強く表れている。マグダラのマリアは、キリストに悪霊を追い払ってもらい、磔刑と埋葬に立ち会い、墓前では天使から主の復活を告げられ、復活後のキリストに最初に出会う栄誉を受けた女性。中世、この聖女にまつわる伝説が拡充し、フランスのプロヴァンス地方サント=ボームの荒野に隠棲したという伝承が生まれ、荒野で悔い改める図像が出来上がったという。しかも、この世の財を捨て去った隠棲聖人らしく、ほぼ裸体で表されるようになったとか。豊満な乳房を露出させ、官能性を強調するのは、そういう意味もあるようだ。上を見つめて大粒の涙を流すが、口元は笑みを浮かべ、やや狂乱気味。この作品には伝承の風潮が見て取れる。ただ、隠棲を強調するならば、痩せ細っている方が説得力がありそうな気もするけど。

3. ギリシア神話とローマ神話
ギリシア神話とローマ神話を描いたこの二つの作品を眺めるだけでも、ルネサンス期の風潮が伝わる。

「ヘクトルを打ち倒すアキレス」
トロイア門外で、アキレスに加勢する女神ミネルワが槍を渡し、その槍で喉を刺してヘクトルが崩れ落ちようとする場面。ギリシャ神話の好きなおいらは、この題材だけで見入ってしまう。

「ロムルスとレムスの発見」
ここには、ローマ建国伝説の主役ロムルスとレムスの誕生秘話が描かれる。アルバ・ロンガの王ヌミトルから王位を奪った弟アムリウスは、ヌミトルの子孫によって復讐されることのないように、その娘レア・シルウィアを処女が義務付けられるウェスタの巫女にした。だが、レアは軍神マルスに見初められ、双子の兄弟ロムルスとレムスを産む。双子は、アムリウスの命によりテヴェレ川に捨てられるが、雌狼とキツツキに育てられ、羊飼いのファウストゥルスに発見され引き取られる。ここには、ファウストゥルスが、川辺のイチジクの木の下にいる双子の兄弟を発見した奇蹟の場面が描かれる。

4. 版画作品
濃淡と明暗だけの世界に歴史の重みを感じるのは、モノトーンがノスタルジーな精神色彩の基本だからであろうか。版画といっても浮世絵のような木版画ではない。彫刻刀で彫るのではなく、鉄のペンで描くエッチングで、化学薬品などの腐食作用を利用した塑形や表面加工といった技法。だから極めて精細な版画となるそうな。
ルネサンス以降、画家が生み出した構図は、版画を通じて広く普及したという。ラアファエロの素描は、版画家マルカントニオ・ライモンディによって、その構想が伝えられたそうな。ティツィアーノに至っては、油彩画の版刻によって、それを目にできない人々にも構図の観賞ができるよう配慮したとか。版画は、工房に収集され、制作資料となり、若い芸術家たちの素描学習のための手本となる。
ルーベンスもまた自ら監督となり、自作絵画の版画化を進めている。だが、彼自身は版画にそれほど精通していなかったらしく、主に訂正を加えるものだったらしい。それは... まず、下絵素描は工房の画家が行い、ルーベンスがその素描にインクと白のグワッシュで訂正を施す。次に、下絵素描の裏面に黒または赤のチョークを塗り、その面を版刻する原板の上に置き、素描の形態の輪郭線を先の鋭い金属製のペンでなぞって原板に写される。そして、版画家がその輪郭線をなぞって版刻する... といった具合に。
本展覧会では、クリストッフェル・イェール作「エジプト逃避途上の休息」と一緒に、ルーベンスによる加筆訂正版が展示される。美術館へ二度目に足を運んだ時、ここだけで何度往復したことやら...
当時、著作権が十分に保護されないため、ルーベンスの絵画に基いて版画を制作することは誰にでも可能だったようだ。ただ、印刷物である版画に関しては、プリウィレーギウム(Privilegium)という複製を禁ずる独占版権を得ることができたという。国ごとに申請する必要があり、ルーベンスは、南ネーデルラント、フランス、オランダで版権を取得したという。
工房で生み出された版画は極めて質が高く、明暗のコントラストや素材感を見事に再現している。その貢献は、版画家リュカス・フォルステルマンによるものが大きいという。しかし、ルーベンスのこだわりは半端ではなく、フォルステルマンがその厳しさに追い詰められ、暗殺を企てたという噂もあるとか。
ここでは、モノトーンに刻まれた歴史物語をつまんでおこう。

「ホロフェルネスの首を切り落とすユディット」コルネーリス・ハッレ作
旧約聖書外典「ユデイット記」によると、ユダヤの町ベツリアがアッシリア軍に包囲された時、美貌の寡婦ユディットの英雄的な行為が町を救ったという。彼女は民を裏切ったように振舞い、敵の司令官ホロフェルネスに取り入る。魅了されたホロフェルネスは彼女を招いて宴を催すが、酔いつぶれたところを剣で首を切り落とされる。まさに、その切り落とそうとする場面。寝台から滑り落ちそうなホロフェルネスが苦痛で顔をゆがめるところに、ユディットが右手で口を押さえ、冷酷な暗殺者を演じている。その見下した目がなんとも印象的だ。それを4人の天使が見つめているという構図。版画のコントラストが、油彩画には現れない冷酷さを強調するかのようだ。

「アレクサンドリアの聖カタリナ」ルーベンス作
アレクサンドリアのカタリナは、伝説上の聖女。ヤコブス・デ・ヴォラギネの「黄金伝説」によると、カタリナとの結婚を望んだ皇帝マクセンティウスは、彼女にキリスト教の信仰を捨てさせようと、哲学者たちと議論させる。だが、哲学者たちが逆にキリスト教の信者になってしまい、彼らは火刑に処せされる。さらに皇帝は、カタリナを4つの車輪からなる拷問の道具で処刑しようとするが、彼女が縛り付けられると、天から稲妻が落ち車輪は粉砕される。その後、彼女は首を切り落とされ、遺骸は天使たちによってシナイ山に運ばれたという。この作品では、カタリナは勝利の殉教者として描かれる。

「ソドムを去るロトとその家族」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書「創世記(19:1-28)」に記されたロトとその家族が、ソドムの町を去る場面。神は、罪深い人々が住むソドムとゴモラを滅亡させるに際し、ロトと彼の家族だけを救うことにした。かくして天使に導かれ、ロトと妻、二人の娘たちが町を去らんとするが、ロトは苦悩の表情を浮かべ、妻は涙する。ちなみに、その後、後ろを振り返ってはならぬという神の命に背いたため、妻は塩の柱に変えられ、娘たちは子孫を残すために父ロトを酔わせて誘惑するそうな。

「スザンナと長老たち」リュカス・フォルステルマン作
旧約聖書外典「ダニエル書」によると、裕福なユダヤ人ヨアキムの貞淑な妻スザンナが庭で入浴していると、二人の長老が彼女に襲いかかり、言うことを聞かないと若い男と通じていると告発すると脅すが、彼女は脅しに屈せず助けを叫んだ。そのために彼女は虚偽の告発を受けるが、預言者ダニエルにより長老たちの嘘が暴かれる。この物語は、ルネサンス期以降に好んで題材にされたという。

「聖家族のエジプトからの帰還」リュカス・フォルステルマン作
ユダヤの王となる運命を持つキリストが生まれたことを知ったヘロデ王は、王座から追われることを恐れて、ベツレヘムとその近郊の子供たちをことごとく殺害するよう命じる。しかし、マリアとヨセフは、キリストを連れてエジプトへ逃避していたので難を逃れる。この作品は、エジプトから帰還する場面で、キリストは既に幼児ではなく、少年に成長している。

「キリスト降架」リュカス・フォルステルマン作
ルーベンスの最も有名な作品の一つで、キリストの亡骸を十字架から降ろす人々を描いた作品。もはや説明はいるまい。版画には、生々しい血痕が赤く見えない分、余計に迫力がある。まさに陰翳芸術の最たるものか。

「聖母マリアの被昇天」パウルス・ポンティウス作
対抗宗教改革期のカトリック教会では、プロテスタントとは対照的にマリア信仰が重視されたという。マリアの魂と肉体が死後3日後に天に引き上げられるという被昇天の主題も頻繁に描かれたそうな。

「トミュリスとキュロス」パウルス・ポンティウス作
ヘロドトスの「歴史」には、マッサゲタイ族の女王トミュリスによるペルシア王キュロスに対する復讐の物語がある。トミュリス軍を率いる女王の息子スパルガビセスは、キュロスの奸計によってワインを飲まされ、酩酊させられ破れる。捕らえられたスパルガビセスは自害。息子を失った女王は、復讐に燃えてキュロスに勝利し首をはねる。「私は、お前の血への渇きを癒してやると言ったが、その通りにしてやるのだ。」と言ったとか。まさに、キュロスの首を手にした若者が、敵の血で満たされた鉢に浸けようとする場面。豪華なドレスをまとった女王トミュリスとその周囲の者たちが、その様子を冷ややかに見下ろしている。

「キリストの磔刑(槍の一突き)」ボエティウス・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
福音書によれば、キリストは二人の盗人とともに、ゴルゴタの丘で磔刑に処せられたが、そのうちの一人がキリストに罵声を浴びせたのに対し、もう一人はキリストに帰依したとされる。馬に乗った兵士が、槍を持ってキリストの脇を突き刺している。この兵士は、他の福音書にある「まことに彼は神の子であった」と叫んだとされる百卒長と同一視され、後に槍を意味するギリシア語に由来するロンギヌスと呼ばれるようになったという。この作品は「槍の一突き」と通称されるそうな。

「ライオン狩り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
ド迫力!後ろ足で立ち上がった馬から真っ逆さまに落馬するムーア人に噛み付くライオン。そのライオンを後ろから槍で仕留めようとする甲冑を身につけたローマ風の兵士。さらにそれを支援する馬に乗った二人のムーア人。人物と動物が一体化した動感溢れる狩猟のドラマが描かれる。

「ヘロデの饗宴」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
新約聖書「マタイによる福音書(14:6-11)」によると、ヘロデ王は、誕生日の祝いの席で、妻ヘロデヤの連れ子サロメが巧みに踊ったのを褒め称え、彼女の望むものを何でも与えると約束したという。サロメは、ヘロデヤに従って洗礼者ヨハネの首を所望したとか。ヘロデが兄弟ピリポの妻であったヘロデヤを娶ったことをヨハネが非難したため、ヘロデヤはヨハネを憎悪していた。まさに、切り取られたヨハネの首を載せた皿を抱えるサロメが描かれ、それをヘロデ王に見せている場面。ヘロデ王が後退りする横で、ヘロデヤは平然と王に語りかけている。

「奇蹟の漁り」スヘルテ・アダムスゾーン・ボルスウェルト作
「ルカによる福音書(5:1-11)」にある、キリストによる奇蹟の漁りの場面。ゲネサレ湖で、キリストは漁師ペテロに船を沖へ出し、網をおろすように命じる。前夜、何も取れなかったペテロは、いぶかしく思いつつ網をおろすと、大量の魚がかかる。別の船でヤコブとヨハネも手伝うが、ともに船が沈みそうになるほどに。その時、キリストはペテロを諭してこう言ったという。
「恐れることはない。今からあなたは人間をとる漁師になるのだ。」

「酔っ払ったシレノス」クリストッフェル・イェール作
オウィディウスの「転身物語」で語られるシレノスの逸話。アル中ハイマーを名乗るからには、通り過ぎるわけにはいかない作品だ。酒神バッカスの師シレノスが泥酔してよろよろ歩くところを、フリジアの農民たちに捕まりミダス王のもとに連れられる。王は、バッカスの育ての親シレノスを歓迎し十日十夜の宴を催す。シレノスはすっかり酔っ払い、自然の精霊サテュロスと農耕の精霊ファウヌスに抱えられる場面。ヘシオドスの物語「仕事と日」を思い浮かべながら、朝っぱらから飲んでないで仕事しろ!と説教が聞こえてきそうな...