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2023-12-31

介護歴七年目!ようやく喜びが感じられる境地に...

介護とは、日々気が狂いそうになる自分との闘いである。いや、もう狂っちまったか...

要介護 4 の婆ヤと要介護 2 の爺ヤと共に、七年目に突入!
パーキンソン病で難病指定を受けた婆ヤに、アルツハイマー型痴呆症の爺ヤに... 当初、怒りを爆発させてトイレットペーパを投げたりもしたが、今では笑い草。ゲンコツで開けた壁の穴はあえて補修せず、今では語り草。
そして、婆ヤが逝った。
これで少しは楽になるかと思いきや、爺ヤがパーキンソン病を患い、要介護 4 に昇格して集約された格好、あまり代わり映えしない。いや、今まで婆ヤが爺ヤを叱って緩衝材になっていたので、それがなくなると辛い!
それでも、七年目にして辿り着きつつある境地がある。いや、地獄を見るのはこれからだ!

婆ヤはもともと穏やかな人だったが、爺ヤは少し怒りっぽい人。老いていくと怒りっぽくなると聞くが、うちの場合、なぜか?どんどん穏やかになり、可愛くなっていく。おいらは、イタズラ好き。息子に可愛いと言われて、どんな気分よ?と言うと照れ笑いがまたいい。もっと喜ばせてやろう!って気分になる。ケアマネジャーさんには、相乗効果でしょう!と励まされる。
そして疑問に思う。介護士さんたちは、なりたくて選んだ仕事だろうか?と...

どんな仕事でも、なりたくてなる、仕方なくなる、成り行きでそうなる... それぞれ事情があろう。おいらの場合、好きで技術屋になった。介護士さんもなりたくてなったとしたら、喜びを感じる部分があるはず。訪問介護士さんや訪問療法士さんたちにも聞くのだが、老人たちの笑顔に救われるという。単純な気持だけど、それが実感できるようになってきたのは、五年を過ぎたあたりであろうか。
例えば、クリスマスにサンタクロースの帽子をかぶって写真を撮ってもらったり、訪問看護師さんたちにいじられる爺ヤの笑顔は微笑ましい。歯が抜けて尚更。
チーフ看護師さんには、お宅は介護施設なみの介護ルームに、プロの介護士以上に介護士さんやってますねぇ!と冗談まじりに励まされる。

福祉施設が乱立しても、まともな介護士や看護師が雇えなければ機能しない。実際、機能していない施設をちらほら見かける。どの業界も優秀な人の負担は増えるばかり。それで、丸投げ家族の苦情に晒されては、ますます成り手がいなくなる。
人口の膨れ上がった社会では、ある程度、自前でやっていかねばなるまい。今、介護力が問われている。

しかしながら、介護をやっているというだけで、頭ごなしに不幸のレッテルを貼る輩がいる。しかも、こうした方がいい!こうすべきだ!などと安直な判断を下し、大きな悩みに直面している人を追い込む。それで助言した気分になってりゃ、世話ない。そういう輩は視界から抹殺!やたらと絆を強いる社会では、孤独に救われることが多い。ヘルパーを呼べばいい!施設に入れればいい!... などとという助言はまったく役に立たないばかりか、腹が立つ。一般論なんぞクソ食らえ!そして、こっちがクソ食らう。
考えてみれば、排泄処理さえ克服できればなんとかなる。おまけに痔で、摘便テクを要する。看護師さんは、なんでもやりますよ!って言ってくれるけど、やはり悪い気が... 結局、人間なんてものは単なる熱機関か。喰って排泄するだけの存在か...

介護と仕事の両立はすこぶる難しい。だが、不可能ではない。しょんべんまみれで御飯を作り、ウンコまみれでキーボードを叩く。このマルチタスクは、なかなか手ごわい。介護マネジメントは、プロジェクトマネジメントの要領に似ている。
我が家は、2階がオフィス、1階が介護ルーム。おいらの場合、個人事業主で周りの理解もあり、かなり恵まれている。介護保険で適用される住宅改修を利用し、玄関や風呂場やトイレに手すりを設置。家を建てる時は介護なんてまったく想定していなかったが、理学療法士さんによると、廊下が広く、バリアフリーで、わりと介護向けの構造になっているらしい。
福祉用具は、車いす、シャワーチェア、トイレとベッドに補助手すり、あちこちに突っ張り棒と、ジャングルジム状態!
あとは、ナースコール、監視カメラ、音声感知、人体検知と、24 時間稼働中!
介護自体は大変だが、介護システムの構築は結構楽しい。おかげで、福祉関係者の見学コースに...

外部環境にも恵まれている。通所介護や病院など同系列の医療法人を利用し、ケアマネージャさんをはじめ、訪問介護士さん、訪問看護師さん、訪問理学療法士さん、栄養士さん、福祉用具屋さん、お医者さん... ついでに食堂や売店のおばさんたちの連携が素晴らしい。さらに、訪問歯医者さんに、訪問美容師さんに...
プロとはいえ、いつも笑顔で彼らの仕事ぶりには頭が下がる。感謝以外に言葉が見つからない。医療現場といえば、たいてい医師が主導する立場にあろうが、逆に、介護士さんや看護師さんたちが率先し、お医者さんは後ろから支えているような位置づけ。
こうした組織構造は、実に民主主義的で、上の命令がなければ動けない大企業や官僚組織とは違う。彼らこそ日本企業の組織の在り方、意識の在り方を問うているような気がする。
延命医療はいらない。一流医療もいらない。いかに穏やかに人生を完結させられるか、これが最大の関心事である。

おまけに、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと、プロジェクタで大画面動画を上映中。コンセプトは、動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!
空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を緊張させ、疲れさせてしまうところがある。
老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう!と考え、例えば RelaxationFilm.com を... 実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと、ちょっとしたデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。
そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリング中!
ついでに、介護する側も癒やされる、今日このごろであった...

2023-12-24

"外骨という人がいた!" 赤瀬川原平 著

こんな時代に、こんな人がいたとは... 今宵は、明治の時代へタイムスリップ!
日露戦争の機運が高まり、日本国中に軍国主義が充満していく中、「滑稽新聞」なる刊行物が創刊されたそうな。タイトルからして、反骨精神に満ち満ちていることが伺え、天の邪鬼にはたまらん。
書き手の名は、宮武外骨。外骨というペンネームも薄気味悪いが、どうやら本名らしい。この名で説教され、怒鳴られでもすれば怖そう。自分の名前が珍しかったり、面白かったりすると、馬鹿にされたり、からかわれたりと、幼き頃から捻くれた人生を背負わされることがある。おいらも珍しい名字のせいで、ずいぶんと捻くれちまった。子供は残酷なものだが、大人はもっと残酷!陰険で、策謀的で、おまけに政治的で...

ここでは、言論の自由というものを改めて考えさせられる。言葉遊びに、パロディに、文字のツラで世界をぶった切る。こき下ろす相手は、批判精神を失った新聞屋に、ユスリ・タカリがまかり通る財界に、賄賂の警察署長さんに... お上に至っては、テんで話にならぬ大馬鹿者!テ柄にもならぬ事を威張る!などと、そのしつこさはケタ外れ。伊藤博文や明治天皇にも臆することなく、露骨即物精神をぶちまければ、案の定、投獄される羽目に。入獄四回に、罰金と発禁で二十九回と...
当時の検閲の厳しさや権力批判への圧力は、21世紀の現在とは比べ物になるまい。だがそれでも、誹謗中傷が弱者を襲い、政界や財界に忖度するマスゴミといった構図は、あまり変わらんようだ。言論の自由を盾にすれば、裁判も、牢獄も、同じことなのやもしれん...

赤瀬川原平は、遺品の眼鏡や着物を拝借して外骨に扮し、その書きっぷりも、当人が乗り移ったかのように、えげつない。反骨精神に満ちた外骨を紹介しようと、外骨の知識に飢え、骸骨になっちまったか。そして、こう言い放って外骨講義を始める...
「人類はみな外骨の話を聴く権利がある!」

外骨先生の主著には、「スコブル」という雑誌もあるそうな。スコブル念入りに、スコブル苦心し、スコブル猛烈で、スコブル慢心で... それが、スコブル面白いか、スコブルつまらないかは別にして、スコブル馬鹿げた表現力に、スコブル吸い込まれて、スコブル爽快!とくれば、読み手の方が、スコブル変になりそう。
外骨先生のスコブルぶりは、文面だけではない。挿絵や図板の存在感が、これまたスコブル強烈!絵は文章の背景にあるだけでなく、それ自体が言語機能をもってやがる。
そして、外骨講義は、「滑稽新聞」に掲載される図板をスライドで投影しながら、効果音とともに流れていく。しかも、妙にエログロ!R-18 指定か...

例えば...
ケツの穴が小さい... という言葉があるが、まさに、ケツの穴の大きさを比較しながら、なんと下品な官僚批判!
カシャン!
糞で書いた「法律」という文字は、いかにも臭ってきそうな。司法界には、糞法で溢れているってか。
カシャン!
露と露とが舌でもって接する。接吻とはそうしたものだそうな。そして、表面張力が破れちまった日にゃ、とろ~り合体!お子ちゃまの目に触れぬよう...
カシャン!

漢字論が飛び出せば...
「婆」という字を「波」+「女」に分解して、時代の荒波にもまれてきた女性ってか。
カシャン!
「口」から「耳」へ「囁く」のに、男から女へ向かうのが鉄則らしい。逆方向は、なんで禁句なの?
カシャン!
「襖」の「奥」には「衣」がどっさり隠されているとさ。衣服の整い具合で、その家の格式が決まるのかは知らんが。
カシャン!
ついでに本書にはないが、「信者」と書いて「儲かる」ってのはいかが。「酒」に「落ちて」「お洒落」ってのもいかが。いや、棒が一本足らんよ。
カシャン!

言葉遊びでは、隠語も、禁語も、なんでもあり!
「身体で飯を食ふ人」シリーズでは、口で飯を食ふ人... 落語家、目で飯を食ふ人... 鑑定家、鼻で飯を食ふ人... 香道家、喉で飯を喰ふ人... 義太夫、あたりで軽く流し、腕で飯を食ふ人... 無頼漢(ゴロツキ)、他人の耳で飯を食ふ人... 音楽家、他人の目で飯を食ふ人... 眼科医、とくれば、他人の肛門で飯を食ふ人... 痔疾医、とグロテスクに...
カシャン!
社会は分業と言われるが... 看病する役に、人を殺す役に、人を弔う役に、人を焼く役に... と軽く流せば、子を仕込む役に、子を孕む役に、子をおろす役に、子を挹(く)む役に、とドぎつくなっていき、出征する役に、戦死する役に... と、すべての役が等間隔で静かに流れていく。
カシャン!

思考の動きをそのまま言葉にすると、こうなるのだろうか。その場限りの使い捨て表現のオンパレード!極めて消耗的な力量でありながら本質的!お洒落にフランス語風に言えば、シュールレアリスムか。いや、スーパーモダンか。いやいや、あまりに規格外でスコブル恐ろしい...

さらに、外骨先生と赤瀬川氏の対談も見逃せない。もちろん架空だ。
外骨先生をパラノ人間とすれば、精神だけは元気なもんで!
これに負けじと、赤瀬川氏がスキゾ人間を自称すれば、「いいか、本当のスキゾ人間ってのは体なんてバラバラにしてなくしちゃってるもんだよ!」と反駁を喰らう。
パラノとは、パラノイア、つまり偏執人間。スキゾとは、スキゾフレニア、つまり分裂型人間。類は友を呼ぶと言うが、パラノ人間とスキゾ人間は、すこぶる相性がよいとみえる...

2023-12-17

"日本美術応援団オトナの社会科見学" 赤瀬川原平 ☓ 山下裕二 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、冒頭の一文に誘われる。凡人は、日常の幸せにも気づかないもの。観察力を研ぎ澄まし、情緒を感じながら... そんな生き方をしたい、と思いつつも...

「日本美術応援団の対象とするものは、その名の通り日本の美術である。それがなぜ社会科見学なのか。それは、時として社会も美術だからである。たとえば国会議事堂というもの。その中では与党と野党が口角泡を飛ばして論争をしている。その論争の陰で、居眠りしているものもいる。それを報道陣が撮影していて、書記官は書記官でせっせと記録をとったりしている。そんなリズムの響き合いに、美術の可能性が秘められている。かどうか、とにかくそのみんなに共通していることは、給料をもらっているということである。金のためだけではない、ということはあっても、この世で金は重要である。それが社会というもので、その社会のてっぺんにある国会議事堂、これがふと、雪舟の水墨画に見えることはないだろうか...」

アリストテレスは、人間を「ポリス的動物」と定義した。ポリス的という言葉は、様々な解釈を呼ぶが、精神的に最高善を求める共同体、その一員としての合目的的な存在といった高尚な意味も含まれよう。
しかし、人間ってやつは、どんな社会であろうと、その集団性と無縁で生きられるほど強くはない。社会と何らかの関係を持ちながら生きているとすれば、日々社会勉強ということになる。これぞ、オトナの社会科見学!
そして、介護士の振る舞いや理学療法士の身体の使い方にも、美術を観る眼が養われるやもしれん。ひょっとしたら、御老体の排便姿に向けた怒りの眼差しにも...

日本美術応援団を結成するのは、この二人。超前衛派を自称する美術家赤瀬川原平と、美術史家山下裕二。現実主義者は、何事も手に触れてみないと気が済まないと見える。そのはぎゃぎ様はまるで修学旅行!それで、暗黙に節度を守りなさい!というのが、オトナの態度というものか。
しかし、童心に返らないと、純真な美術鑑賞は難しい。ましてや脂ぎったオトナには...

本書は、国会議事堂に近代美術を見、東大総合研究所博物館に文化資源廃棄物を見、東京国立博物館に侮れない常設展を見る。ド素人の美術鑑賞家は、大々的に宣伝される展示会の方に目がいってしまうが、真の美術鑑賞家は日頃の展示品に愉悦を覚えるらしい。
そして、観光客で賑わう鎌倉ではあえて一歩路地に入って静寂に浸り、長崎では歴史と商業のチャンポン都市を探訪し、奈良では世界遺産の宝庫ぶりを堪能する。美術の眼で眺めると、当たり前のように見えた社会も面白く見えるから、摩訶不思議!

しかしながら、すべてを肯定的に観るのでは、芸がない。現物主義なら予備知識なしで臨みたいが、新進気鋭の作風だから注目を、最新の理論だから勉強を、というのでは、せっかくの好奇心も萎える。国宝などと言われて臨む態度もあろうが、天邪鬼な性癖が条件反射的に漏らす。なんで、こいつが国宝なの?って。義務教育で教わった歴史建造物にも疑いの眼が...
例えば、世界遺産に登録される法隆寺は、長安からの直輸入品だそうな。こいつを、日本の心!などと崇めれば、くすぐったくもなる。戦時中、坂口安吾はこう漏らしたそうな。「法隆寺が焼けてしまったら停車場にすればいい。それよりも、バラックに灯るあかりのほうが美しいんじゃないか!」って...
とはいえ、本場中国に遺らず日本に遺ったということは、歴史的建造物であることに違いはない。文化ってやつは、計り知れぬものがある。原産地で評価されないものが輸出先で評価され、逆輸入されることも。輸出先の文化とうまく融合して、独自の文化を育むことも... 

芸術家も計り知れぬ、生き急ぐタイプが多い。だから、自画像を描かずにはいられないのか。芸術作品には、主語が重要だ。いい意味での独裁でなければ...
しかし、やたらと自己アピールし、存在感が強調される社会は、やはり息苦しい。多情多感な芸術家となれば、尚更。
絵を描くことが、極楽となるか、地獄となるか。芸術は長く、人生は短し... と言うが、芸術家も泡沫の如くでなければ、やってられんらしい。
おまけで、本書には「羅漢応援団」も結成されるが、狩野一信の「五百羅漢図」にも芸術家のアドレナリンを感じ入り、生きる勇気を与えてくれる...

ところで、「社会人」という表現は、日本独特のものだそうな。そういえば、英語に訳してもピンとこない。成年や未成年といった用語は、海外でも法律で規定されるが、社会人となると、責任ある立場、自立した個人といった意味も含まれる。それで、すべて自己責任で!と、人のせいにしてりゃ、世話ない。
実際、子供じみた大人もいれば、大人っぽい子供もいる。駄々を捏ねる大人に、成熟した言葉を発する子供に、どちらも見ててくすぐったくなる。
しかし、こうした対照的な立ち位置が逆転しちまうと、それが芸術の要素になるから面白い。もともと芸術とは、人間模様を滑稽に炙り出し、それが芸術の域に達してきたところがある。世阿弥の「花伝書」にしても、モノマネや滑稽芸に日本の伝統芸能の源泉を見る。おそらく人間を自然に描くと、そうなるのだろう。人の心知らずして何が芸術か...

2023-12-10

"マクロプロス事件" Karel Čapek 著

原題 "Vĕc Makropulos"
Vĕc(ヴィエッツ)という単語には、なんとも掴みどころのない意味が含まれているようだ。翻訳機にかけるとチェコ語で「もの」という訳語がひっかかるが、もっと曖昧で思わせぶりな... あえて訳すなら、マクロプロス家に伝わる、意味ありげなモノ(物)... といったニュアンスであろうか。
これの邦訳版の表題は、いろんなパターンを見かけるが、どうもしっくりこない。秘密、秘法、処方箋... では、あまりに直接的で翻訳しすぎの感もある。分かりやすさを求める風潮では、その方がいいのかもしれんが、せっかくの思わせぶりが... 翻訳界でも悩ましい表題のようである。
本書は、「事件」としている。うん~... これが比較的合ってそうか。
そして物語は、遺産相続事件を発端に、美貌の女性の正体をめぐってサスペンス風に展開され、モノ(封印書)の中身が明らかにされた時、終幕を見る...
尚、田才益夫訳版(八月舎)を手に取る。

時は、三百年ほどさかのぼる。16世紀、神聖ローマ皇帝ルドルフは、侍医に不老不死の秘薬を所望した。侍医が秘薬の完成を告げると、試しにお前の娘に飲ませてみぃ... すると三日三晩、娘は高熱で意識を失い、侍医は皇帝の逆鱗に触れ、投獄されたとさ。それから三百年も生きてきたなんて、どうやって証明するの?
そして、不老不死の処方箋が焼かれた時、やっと死ねるわ!

「老いしもの、もはや来たらず!栄華の夢も、灰燼に帰するなり!」

人類は、何千年も前から不老不死の妙薬を夢見て、迷信とともに様々な処方箋をこしらえてきた。三千年紀が幕を開けた今日でも、長寿で、いつまでも健康でいたいと切望して止まない。人生を十分に謳歌するには、どのくらい生きればいいというのか...
医学は進歩し、寿命は着実にのびていく。幸若舞「敦盛」には、人間五十年... と詠われ、現在は人生百年時代と言われる。健康でいられるなら、いつまでも生きていたい。不老不死なら、これにまさる希望はない。
しかし、だ。長く生きれば、それだけ有意義な人生が送れるだろうか。それだけ幸せな人生が送れるだろうか。それだけ人間というものを悟れるだろうか...

「死後の生、霊魂の不滅への信仰は、人生の短さにたいする激しい不満の表明以外の何でありましょう...」

夭逝した偉人は多い。病死、戦死、刑死、獄中死、自殺... 二十歳で死を覚悟した大数学者は、理論の着想に、僕にはもう時間がない!と走り書きを添えた。
死と向かい合って、ようやく生と向かい合えるということもあろう。生の有難味を、死が教えてくれるということもあろう。生を浪費する人間には、時間と死の概念が必要だ。
セネカは、人間のどうしようもない性癖の一つ「怒り」を抑える方法として、果敢ない死を思え!と説いた。ガンジーは、明日死ぬと思って生きよ!不老不死だと思って学べ!と説いた。死と隣合わせだから、生にも迫力がでてこよう。死を覚悟するから、覚悟した生き方もできよう。

人間社会は、奇妙なものだ。死がありふれれば、生を崇め、生がありふれれば、死に思いを馳せる。生死にも、希少価値という経済原理が働くようだ。
誰とでも繋がろうとするソーシャルメディアが猛威を振るう時代では、むしろ煩わしい関係を徹底的に切っていく方が楽ということもあろう。巷では、孤独死が不幸の象徴のような言われようだが、実は、孤独死こそ理想的な死ということはないだろうか。
老化にも意味がある。死を覚悟する時間を与えてくれるのだから。痴呆症にも意味がある。歳をとる恐怖心を和らげてくれるのだから。
何百年も生きられる時代となれば、人口問題と直結し、少子化問題などと言ってはいられまい。皮肉なことに、戦争や疫病が人口増殖の抑制に寄与している。あとは、安楽死ビジネスが盛況となるか。あるいは、地球外への移住を加速させるか。やがてヒューマニズムが命ずるやもしれん。そろそろ死ななきゃならん!と...

「いいかね、ほとんどの有用な人間の使命は、ひとえに、無知なるがゆえに可能なのだ!」

2023-12-03

"R.U.R. ロボット - カレル・チャペック戯曲集I" Karel Čapek 著

カレル・チャペックの小説「山椒魚戦争」は、知能の発達したオオサンショウウオが、やがて人類の総質量を上回り、知能をも上回り、地上の支配者であった人類を滅亡させちまうという物語であった(前記事)。人類が様々な種を絶滅させてきたように...
自然界で進化した生物が発見されると、これを人身売買のごとく商品化し、繁殖までさせて労働力にしちまう。シンジケートまがいの経済システムは、まさに人類の発明品!

ここでは、人間が大量生産したロボットが、同じ役を演じる。R.U.R. とは、ロッサム・ユニバーサル・ロボット社。当社が開発した万能ロボットは、人間よりも安く、完全に従順な労働力を提供致します!
こいつぁ、人造人間か!バイオノイドか!人間を装うなら、少しは気違いじみていなくちゃ...
尚、本書には、二つの戯曲「ロボット」と「白疫病」が収録され、栗栖継訳版(十月社)を手に取る。

1. R.U.R. ロボット
「ロボット」の語源は、この物語に由来するそうな。元々はスラブ語らしいが、チェコ語の "robota" は賦役、苦しい労働を意味するという。強制労働のための機械というわけか。
この物語は、アラン・チューリングやフォン・ノイマンが提起した問題にも通ずるものがある。それは、コンピュータが意思を持ちうるか?という問い掛けである。

しかし、これは本当にロボットの物語であろうか。産業革命以降、世界中に工業化の波が押し寄せ、大量生産の時代ともなると、機械的な仕事が急激に増え、否応なしで命令に従う労働者が求められる。やがて植民地主義が旺盛になり、なりふり構わず人種や民族も一緒くたに労働力の集約にかかる。これぞ、生産合理性!
組織に隷属し、人間に隷属し、社会保障制度に縋る人々。自分で思考することを放棄し、情報を鵜呑みにする大衆。生産と消費を高めることでしか経済が回らない社会では、その成員がロボット化することで経済合理性がまかなわれる。うんざりする仕事は誰かに押し付けて、われわれは楽をしようではないか。そんな理想郷に思いを馳せるも、意志を持っちまった徒党が、そんな地位にいつまで甘んじてくれるやら。
世間には、非人道的な人間がわんさといる。これからの社会は、ロボットらしくないロボットも増えていくだろう。それは、 人工知能が暗示している。
そして、ロボットに戦争というものを教えてしまったら最後、人間よりもはるかに合理的な方法でやってのけるだろう。いや、わざわざ教えなくても、人間を観察していれば、いずれ知ることに...

「われわれは人間の弱点を知ったのです。人間のようになろうと思えば、殺しかつ支配せねばなりません。歴史を読むがいいのです!人間の書いた本を読むがいいのです!人間になろうと思えば、支配しかつ殺さねばなりません!」

2. 白疫病
熱病にかかったように軍備拡張が広がる世界で、今にも戦争をおっぱじめようとしている元帥がいる。その時、新たな疫病が蔓延!これはペストではない。ペストは全身が黒くなって死んでいくが、この病は白くなった肉の欠片がぼろぼ落ちていく。
しかし、ナショナリズムの熱病も同じことやもしれん。戦争は人口増殖の抑制に寄与する。疫病もまた...

そんな最中、貧しい人々を献身的に診察していた一介の開業医が、この白い病の治療薬を発見する。侵略戦争をきっぱりとやめ、恒久的な平和条約を結ぶ国にのみ、この治療薬を提供致します!
医者の倫理からすれば、どんな患者にも治療薬を提供するのが道理だが、あえて政治家の論理を通す。平和テロか!
元帥は、医者の要求を頑固として拒否し、愛国心に燃える大衆がそれを後押し。人間ってやつは、一旦、権力欲に憑かれると、民衆の苦痛を見ても、立ち止まる勇気が持てなくなる。そして、大衆もまた熱狂から抜けられなくなる...

「きみは、平和は戦争にまさる、と信じているが、私はね、勝った戦争は平和にまさる、と信じている。戦争に勝つ機会を国民から奪う権利など、私にはないのだ。戦死者たちの血によってこそ、ただの国土が祖国になるのだからね。戦争あってこそ、人間の集まりが国民になり、男たちが英雄になるのだよ。」

こう主張する元帥も、いざ白い病が自分に感染して死が迫ってくると医者の要求を受け入れ、治療薬を提供してもらうことに。だが、医者が元帥邸へ治療薬を届ける途中、大衆にリンチされて命を落とす。この国賊め!元帥万歳!戦争万歳!いつの時代も、大衆(体臭)に付ける薬はない...

2023-11-26

"山椒魚戦争" Karel Čapek 著

カレル・チャペックは、チェコの作家...
チェコというと、重々しい歴史を背負った印象がある。それもステレオタイプであろうが、歴史を遡ると、やはり重々しい。フランツ・カフカの場合、ちと異質な世界を魅せてくれたが、暗い感触は、やはり重々しい。

首都プラハは度重なる戦渦に巻き込まれてきた。神聖ローマ帝国の時代には「黄金のプラハ」と形容されるものの、「プラハ窓外放出事件」を発端に、ローマ・カトリックと改革派の衝突から三十年戦争に至る流れがあり、この地にプロテスタントの源泉を見る思い。しかも、チェコ語禁止などの文化弾圧を受けてきた。
ナチス占領下には、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒ暗殺の報復として、リディツェ村の住民が老若男女問わず殺害され、村の存在そのもが抹殺された。戦後、リディツェと名のる町があちこちに出現することに...
東西冷戦時代には、「プラハの春」と呼ばれる変革運動が、ソ連主導のワルシャワ条約機構に弾圧され、チェコスロバキア全土を占領下に置いた。
チェコという地には、自由を求める不屈の精神が育まれると見える。本書も、その影を引きずるかのように...

本物語が諷刺であることは、疑いようがない。実際、ナチスがプラハを占領した時、いち早くゲシュタポがチャペック邸にやってきたそうだが、幸か不幸か、チャペックは既に病死していたそうな。

さて、人類がまだ知らぬ未開の地に、高度の知能を備えた生物の世界があるとしたら...
科学的に地球の構造を外観すると、中心には核があり、その周囲にマントルの層があり、その上に地殻が乗っかっていることになっている。だが、それだけだろうか。この地球で、人類にだけ与えられたとされる進化エネルギーが、他の生物にも... という可能性はないのだろうか。物語は、海底奥深くに棲む黒々とした生物との遭遇に始まる。山椒魚に似た姿から魔物と怖れられたが、実は高度な知能の持ち主であったとさ...
尚、栗栖継訳版(ハヤカワ文庫)を手に取る。

生物の種が、この地上を支配するための要件とはなんであろう。知能か。数の原理か。宇宙の重力法則に従えば、一つの要件として、おそらく種全体の総質量が物を言うであろう。アリやハエがいくら繁殖したところで、人類の総質量には遠く及ばない。文明の発達が人口爆発を引き起こし、地上の支配者へ加速させた、ということは言えそうだ。人類に、その資格があるかは知らんが...
では、人類の総質量を上回るほどに繁殖した生物がいたとしたら。しかも、人類に劣らず知能を発達させて...

「もし人間以外の動物が、文明とわれわれの呼んでいる段階に達したとき、人間と同じような愚行を演ずるだろうか。同じように、戦争をやるだろうか。同じように、歴史で破局を体験するだろうか。トカゲの帝国主義、シロアリのナショナリズム、カモメあるいは、ニシンの経済的膨張を、われわれはどんな目で見るだろうか。もし人間以外の動物が、『知恵があり数も多いおれたちにのみ、世界全体を占拠し、すべての生き物を支配する権利があるのだ』と宣言したら、われわれはどう言うだろうか。」

生産と消費を高めることで経済が成り立つ世界では、労働力こそが鍵。文句も垂れず、従順な働きアリは貴重な存在だ。人間は人間を奴隷にしてきた。
一方で、珍種は金になる。しかも、進化した山椒魚は賢く、うまく飼いならせば、人間以上に儲かりそうだ。奴隷商人はどこにでも湧いて出る。動物愛護団体の目を掠め、山椒魚シンジケートが裏社会を牛耳る。選りすぐりの山椒魚は売られ、買われ、交尾させられ、人類をはるかに超える数に繁殖させられる。
しかし、賢い山椒魚は奴隷の代役だけでなく、ご主人様の代役も務まるときた。そして、奴隷叛乱のごとく人間に襲いかかる。
戦争となると、人間を相手にする方が、はるかにやりやすい。同族同士であれば、相手が何を考えているかも分かるし、なにより互いに殺し合うのは人間の得意とするところだ。
21世紀ともなれば、気候温暖化で海面が上昇し、山椒魚の水陸両用体質の方が優位となろう。山椒魚相手では掴み合いにもならないし、海中に向かって銃剣突撃もできない。人類の肉体も海中で生きられるまでに進化させなければ...
そもそも、山椒魚は戦争というものを知らない。だからこそ、合理的に支配し、合理的に抹殺する手段を考案できる。最終的解決ってやつか。知能の発達は恐ろしい。実に恐ろしい。もはや人類は、AI の支援を仰ぐほかはない。それで、AI の奴隷になってりゃ世話ない!

「現在、地球上には、文明化した山椒魚が、約二百億住んでいる。それは全人類のほぼ十倍である。このことから、生物学的必然性と歴史的論理によって、次の結論が出てくる。すなわち、山椒魚は、抑圧されているがゆえに、解放されねばならず、同質であるがゆえに、団結せざるを得ず、そしてこうして、世界始まって以来最強の勢力になった暁には、必然的に世界の支配権を握らざる得ない、ということである。そのとき、山椒魚は人間の存在を許すほどおろかだ、と諸君は思うだろうか。征服した民族や階級を絶滅させないで、奴隷にしたことによって、常におかした人間の歴史的誤りを、山椒魚がくりかえす、と諸君は思うだろうか。人間はエゴイズムから人間と人間とのあいだに新たな差別を、永遠につくり出し、その後、寛容の精神と理想主義から、ふたたび、そのあいだにかけ橋を渡そうとしたのだが、山椒魚も、そのような誤りをくりかえす、と諸君は思うだろうか。」

そしてついに、この長編の最終章で、著者は自問自答しながら山椒魚(サラマンダー)の正体を論じて魅せる...

「チーフ・サラマンダーは、人間なんだ。本名は、アンドレアス・シュルツといってね。第一次大戦当時は、曹長だったんだ。」

チーフ・サラマンダーとは、山椒魚総統のこと。その総統が第一次大戦で曹長だったとなると。盲目的に襲いかかる山椒魚どもはナチス軍団か。
ノルマンディー沖でフランス巡洋艦が山椒魚に魚雷攻撃を喰らえば、U ボートの襲来だ。ただ、海の怪物だけあって、航空機の操縦は苦手と見える。
山椒魚どもは、哲学や芸術というものを知らない。しかし、ボスのお気に入りとなれば、それを収集にかかる。ナチス高官どもの絵画略奪のごく。
そして、本能的な虚栄心と征服欲を剥き出しに山椒魚ダンスに熱狂し、最大のエロチックなイリュージョンを演じる...

「山椒魚には、もちろん精神はない。その点、人間に似ている。」
... G・バーナード・ショー

「マルクス主義者でさえなければ、山椒魚でも、なんでもよい。」
... クルト・フーバー

「きょう私は自作のユートピア小説の最後の章を書きおえた。この章の主人公はナショナリズムである。すじはまったく単純で、世界ならびに人間の滅亡。これは論理のみに基づいた、なんともうとましい一章である。そう、しかし、こういう結末のつけようしかないのである。人類を滅ぼすのは、宇宙の災害ではまずなく、国家・経済・面子といったもろもろの要因だけなのだ。諷刺作品を書くのは、人間が人間たちに向かって語ることのできる最悪のことである。これは、人間たちを非難するのではなく、彼らの実際の行動と思考から単に結論を引き出すだけのことなのである。」
... 付録「異状なし」より

2023-11-19

壁に動画を同化させ、絵画のように鑑賞す... by EH-LS800B

介護ルームの壁を賑やかにし、ボケ老人の頭を少しばかり活性化させようと美術品を物色する。いくつか候補が上がり、うん~... なんとか簡単に差し替えられる方法はないだろうか... などと思案していると、プロジェクタという選択肢を思いつく。おかげで、汚れた壁をせっせと掃除する羽目に...

コンセプトは、「動画を壁に同化させ、絵画のように鑑賞す!」
空間心理として、境界線がしっかりとしたテレビやスクリーンなどで繊細な大画面を眺めていると、鑑賞者を疲れさせてしまうところがある。第一の目的は、リラクゼーション!
老人施設では映画やドラマを上演したりするが、痴呆症患者は内容についていけず、すぐに眠ってしまう。どうせ眠っちまうなら、気持ちよくなる映像を流したらどうだろう... と考え、例えば、RelaxationFilm.com あたりをターゲットに。実際、海外の風景を流していると、これは近くのどこどこの山だ!どこどこの川だ!などと一種のデジャヴのような感覚に見舞われるようである。物理学的な観点からしても、自然風景というものは、地球上のどこでも大した違いはないのかもしれない。
そして、認知症予防学会のお医者さんたちと連携してモニタリングしているうちに、うちでも思い切って投資してみることに...
ついでに、痴呆症を相手にしていると、怒ることも、押し付けることもできず、こちら側のストレスもほぐすことに...

まず、要求仕様は...
  • 設置場所は部屋の隅っこに固定したい。専門用語で「超短焦点」と言うらしい。プロジェクタの位置ズレはかなりシビアで、その度に調整するのでは介護ストレスを増幅させちまう。
  • 明るさは、3000 lm 以上。我が家の介護ルームは西日がきつい...
  • 解像度は、4K 相当。大画面ではある程度の画質が欲しい。
すると、EPSON EH-LS800B が浮上する。
超短焦点に、4000 lm に、4K 対応に... モノはいい!だが、コスパが悪い!
画像性能だけなら半額以下で買えそうだが、超短焦点は外せない。
おかげで、真面目に NAS 環境を検討してみたくなる、今日このごろであった...




1. Android TV 搭載 
オンラインの WiFi 環境さえあれば、YouTube などが流せて、とりあえず遊べる。
但し、仕様には WiFi 5 とあるが、なぜか?5GHz 帯が拾えない。うん~... 伝送方式や暗号方式をいろいろ試してみたが。2.4GHz 帯では重いデータがたまにコマ落ちする。アクセスポイント側で帯域を広げれば、ギリギリ許せるかなぁ...
尚、アクセスポイントは、BUFFALO WXR-11000XE12 を Wireless Bridge モードで運用中。電波状況も、すこぶるいい!Ethernet の口があれば中継機に接続して、プロジェクタに関係なく、6E でも飛ばせるんだけどなぁ...
ちなみに、EH-LS800B のファームには「有線 LAN」という設定項目がある。

2. Chromecast built-in
chrome ブラウザから全画面キャストを流せば、なんでもあり!ってのは大袈裟にしても、たいていのことはできる。プレゼンソフトでも、動画再生ソフトでも。
例えば、スライドショーをやるには、愛用の画像ビューワ IrfanView を使って風景画でも、日本画でも...

3. USB メモリから動画再生
"MoviePlayer" というアプリが既にインストールされ、USB 外部メモリから動画が再生できる。ファイル形式は、webm, mp4, mkv などに対応。
但し、mkv では、オーディオトラックが Dolby Audio 形式の場合、手動で切り替えないと音がでない場合あり。認識してくれるのだから、自動で切り替わってもよさそうなものだけど...
さて、YouTube は広告が、10分か、20分置きに割り込んできて、Relaxation Film を流してもリラックスできない。1 分間も流された日にゃ、従来の民放と何が違うのやら。その度にスキップボタンを押すのでは却ってストレスになる。おまけに、アカウント作るといいことあるよ!みたいなメッセージが鬱陶しい。広告ブロック撲滅キャンペーンかは知らんが...
なので、動画を手元に落とし、USB SSD(NTFS)経由でオフライン再生する。

4. その他
YAMAHA のスピーカ 2.1ch が搭載され、音質はまあまあ。
画面の境界線にぼかし機能があって、壁に同化しやすい。但し、もう少しぼかせると、もっと馴染みそうで、ぼかし効果の段階設定があるとありがたい。
スクリーンサイズは、150 インチまでの仕様だが、我が家にそんな壁はない。もったいないけど、120 インチ弱に抑えて...

5. おまけ
ストアでブラウザアプリを探しているが、操作性がイマイチ。テレビ対応のブラウザなどいろいろと試してみたが、リモコンの方がショボいのかも。わざわざニュースなどに特化したアプリをインストールしなくても、ブラウザの操作性が良ければ、なんでもあり!ってことになりそうなんだけど。いや、パワフルなモバイル機器とリンクすれば、なんでもあり!ってかぁ...

2023-11-12

"その言葉、異議あり! - 笑える日米文化批評集" Michael S. Molasky 著

「本書は、不良学者の無駄な時間の産物... まず役立たないという、へそ曲がりの意向から成り立っている。」こう宣言するマイク・モラスキーさん。
それでも、「逆説的に、このような、単なる遊びのつもりの非実用主義の姿勢こそ、知的な発見に不可欠」と自ら鼓舞する。いや、開き直りか。未練は男の甲斐性よ!
副題に「笑える日米文化批評集」とあるが、笑えるというより苦笑か。いや、冷笑か。アメリカ人の目で日本を観察し、日本ツウの目で祖国アメリカを振り返り、疑問に思うことを皮肉まじりに物語る。やはり文化ってやつは、距離を置いて眺める方がいい。それで文化論に遠近法が成立するかは微妙だけど。
それにしても、アメリカと日本を往き来する曖昧な立ち位置は、居心地が良さそう...

「どちらの社会の完全なるインサイダーでもアウトサイダーでもない、そのような立場だからこそ、想像力を刺激され、批評眼が磨かれる。」

モラスキーさんには、ジャズ喫茶論(前記事)と居酒屋文化論(前々記事)にしてやられた。この大学教授ときたら、自ら「フーテンのモラ」と名乗り、日本全国をハシゴ。これを文化研究などと称し、思うままに日本探訪記を綴って魅せる。それこそ、日本人よりも日本人っぽい文脈をもって...
本書は、所々で英語のニュアンスを日本語で要約してくれるものの、あまり英語の勉強にはならない。むしろ、和製英語や日本語の使われ方に違和感を持つエピソードの方が興味深く、日本語の勉強になるから、語彙の逆輸入現象!とでも言おうか...
そういえば、むかーし、日本人のくせに着物も着れへんのか!とガイジンさんに大阪弁で馬鹿にされことがあったっけ。おかげで今では、出かける時は必ず和服である。

本書の言葉遊びは愉快!実に愉快!
語彙の乏しいおいらだって、言葉に関しては、いろいろ思うところはある。言語は使いやすく、分かりやすい方向へ流れ、意味合いも時代に流されやすいのは確か。この柔軟性こそが言語システムを進化させ、人類を進化させてきたのも確か。ただ、ネアンデルタール人のおいらが、現代語についていけないだけのことである。

言葉の乱用が、言葉を安っぽくさせるところがあるのも確か。本書とは関係ないが、例えば、謝罪や所信表明で見かける「真摯に受け止めます!」といった言い回しのおかげで、「真摯」という用語は、おいらの頭の中で胡散臭いという意味に変調される。
差別用語ともなると、有識者や教育家どもがこぞって目くじらを立てるが、それを禁止したおかげで、もっと具体的で過激な言葉を浴びせるのでは、差別を助長しているように見える。しかも陰湿に。昔の映画を鑑賞していると、なんでこれを禁止用語にせにゃあかんのか、と思うこともある。差別意識を問題提起する映画も成り立たなくなるのでは...
そもそも、差別のない社会ってあるのか。言葉を禁ずるより、言葉をどう意識するかの方が問題であろうに。そんなことを考えながら読んでいる読者も、かなりのへそ曲がりということであろう。

「検閲官のようにあれもこれも使用禁止語とするような『政治的に正しい』ならそれでよしとする、安易なポリティカル・コレクトネスはつまらないと思っている。いや、はっきり言えば、差別用語だからといってある表現を禁止する行為自体は怠け者のやり方だと思う。それよりも、その単語に付着しているイデオロギーや、それが含む偏見的発想などを、なるべく印象に残るような形で明るみに出せば、少なくとも良識ある人ならば、もう少し自覚して使うようになることを期待できると思う。あるいは初めてその問題点を意識した人は、その表現を使わないようになるかもしれない。」

さて、いつも長過ぎる前戯はこのぐらいにして、数多い体験談の中からちょいと気に入ったところを拾ってみよう...

1. 盲人に道を教えてもらう超方向音痴!
モラスキーさんは、超人的な方向音痴だそうな。自分の子供から「ザ・U ターン・キング」と嘲笑されるほどに。東京で迷子になった時、 なんと!盲人に道を教えてもらったという。相手が白い杖を手にしていることにも気づかず。すぐに謝ろうとしたが、丁寧に道順を教えてくれたそうな。
目が見えるから、本当に見えているとは限らない。真理ともなると、盲人よりも見えていない事が多い。ただ、見えた気になっている事も多いので、それで相殺され、うまくバランスされるのだろう...

2. 取扱説明書はホラー映画?
日本の家電品の取扱説明書は、古典的なホラー映画に似ているという。その構造は、こんな感じだそうな...
まず、表紙デザインで読者に安心感を与え、油断させる。次に、危険!警告!事項によって脅し、そして、穏やかな注意!お願い!でやや安心させ、ようやく本題である使い方の説明で、さらに安心させる。だが再び、故障や異常などの対処で不安に陥れ、最後に、アフターサービスの説明で再び安心させて、完結!オーブントースターひとつとっても、爆発しそうで使えねぇじゃん!
しかし、契約書ともなると、欧米のドキュメント文化の方が詳細に仕組まれていそうである。近年、日本でも通信サービスや保険などで事細かく記載されるようになったが、安易な宣伝パンフレットで決めちまう習慣は如何ともし難く、まともに契約書を読んでいる人はごくわずかであろう。
尚、携帯の解約を、本書では奴隷解放宣言と称している。

3. SPAM vs. spam
日本語で "spam" といえば、迷惑メールのことだが、アメリカで "SPAM" というと食料品をイメージするそうな。それは、すでに調理された保存肉のことで、冷蔵庫がまだ普及していない時代に人気を博したとか。第二次大戦中の兵士の糧食にあやかって、これから死んでいく人間に喰わせる肉!といった意味にもなるらしい。
ジャンクメールにジャンクフードをかければ、同じスパムってかぁ...

4. Bush & Rice
Bush とは、ジョージ・W・ブッシュ元大統領。Rice とは、コンドリーザ・ライス元大統領補佐官。二人の対照的な人物像は、アメリカという国の二面性を反映しているという。それぞれの出身地から、テキサスなまりの強烈な白人男性と、南部なまりをまったく見せない黒人女性という配置。
ブッシュは、マッチョな言葉遣いで乱れた英語を多用し、挑戦的なフレーズを好む。
対して、ライスは、言葉を慎重に選び、外交官のように正確さと曖昧さを織り交ぜる芸達者ぶりは、馬鹿にされるような隙を与えない。ブッシュは、父親も大統領なら、裕福な家系を後ろ盾に。ライスは、人種的なハンディを克服する上で完璧な英語を操り、完璧な仕事をする必要があったと見える。
このような人物配置は、アメリカ民主主義を語る上で、あるいは、政治的メッセージとして重要な意味を持つ。
では、日本は?閣僚に女性を何人配選ぶかで騒いでいるようでは、女性に失礼であろう。やはり個々の能力を語らないことには...

5. 日本人の日本人論
日本はユニークだ... 日本語は難しい... 日本は島国だから... 日本は単一民族だから... といった類いの日本人論に物申す。昔から馬鹿げていると指摘されてきた議論だが、それも優越主義の表れか。
片言の日本語を喋れば、言語障害者のように見られ、それで見た方はというと、まともな日本語を喋っているのかも怪しい。近年、「おもてなし」なんて用語も、日本文化特有の意識として使われる傾向があるが、世界を見渡しても、もてなさない文化の方が珍しい。
人間ってやつは、帰属意識のようなものが自然に身につくもので、他に対して何かと優越したがるものである。
しかし、皮肉はなかなか厳しい...
「単一民族論は純血幻想に依拠しているイデオロギーであり、論理的に極限まで追求したら『近親婚こそ理想的だ』という結論に行き着くはずである。」

6. 大と小の体験!
初めて来日し、トイレで流そうとしたら、「大」と「小」の文字に戸惑ったそうな。漢字の意味は知っていたという。しばらく考えて、突然、意味を悟り、無事に難を逃れたとさ...
「初めて異文化に接する時、まさにこのような小さな体験が大きな比重を占めるようになるものだ...」

7. せめて名前だけでも幻想を...
アメリカの街づくりでは、自ら破壊した自然を道路などの名前だけで復活させるような自然回帰幻想があるという。
対して日本では、密集した住宅状況からの解放願望が、マンションやアパートの名前に反映されているとか。
"mansion" を辞書で引くと大邸宅や豪邸といった意味がひっかかる。これを集合住宅という意味で用いるのは日本だけらしい。
日本では、マンションに限らず、横文字がオシャレと言わんばかりに多用される。それで飽きてくれば、イタリア語に。ダサいとなれば、おフランス語!そして、学者までも横文字を乱用。高級そうな用語で実体を誤魔化そうとするのは、どこの世界も同じか...

2023-11-05

"ジャズ喫茶論 - 戦後の日本文化を歩く" Michael S. Molasky 著

前記事では、日本人よりも日本人っぽい居酒屋文化論にしてやられた。青い目のガイジンさんと呼ばれるのを嫌い、千鳥足放浪記を夢見て...
ここではジャズ喫茶論を熱く語ってくれる。ジャズ喫茶未経験者の門外漢が読む本ではないかもしれんが、こんな描写に、おいらはイチコロよ!

「ドアをあけてみると、さらなる異様な世界が展開される。思わず耳をふさぎたくなるほどの大音量で音楽が鳴っている。アメリカで聴きなれたジャズの生演奏や、自宅にある安っぽいオーディオやラジオで聴いてきた音量とは雲泥の差で、むしろそれは、ロック・コンサートを思わせる爆音である。店内の風景も実に異様に映る。霧がかかった夕暮れのごとく、目を凝らさないと何も判別できない。店内は暗く、しかも青い煙が重々しく漂っている。徐々に目が慣れてくると、椅子に座る人たちの姿が浮き上がる。その様は人間の死体かミイラのようで、首をたらし不動のまま点在している...」

ジャズ喫茶というのは、日本独特の文化だそうな。ジャズやカフェといった要素は輸入品でも、これらを融合したカルチャーとなると、日本のものということになるらしい。著者は、自らこう名乗る...

「私、生まれはアメリカ、東京は葛飾にひところ暮らし、現在このニッポン列島を放浪している者でございます。姓はモラスキー、名はマイク。人呼んで『フーテンのモラ』と発します!」

そもそも、「ジャズ喫茶」とはなんであろう。戦後を背景にした映画などで耳にしたことはある。1950年代頃に始まり、90年代にはほぼ廃れ、この異様な空間を体験することは、おいらの年代では難しい。ジャズバーなら見かけるが、ジャズ喫茶となるとなかなかイメージできない。本書は、「客にジャズ・レコードを聴かせることが主な目的である喫茶店」と定義している。そのまんまやんけ!
バーと喫茶店の違いを言えば、夜の店か、昼の店か、ぐらいなもの。夜と昼では大きな違いかもしれん。お酒が出てくれば、法的に年連制限も加わるし...
音源が、レコードか、CDか、でも論争があり、こだわりは半端ではなさそうだ。レコードに針を落とす行為が、しべれるとさ。
しかし、個人経営で、こだわりがないという方が珍しい。呑み屋であれ、小料理屋であれ、寿司屋であれ、はまたま、物書きであれ、芸術家であれ、ついでに技術屋であれ... フーテンのモラさんのこだわりも、なかなかのものとお見受けする。そもそも、こだわりのない人間っているのだろうか。いや、いるやもしれん。公平無私と呼ばれる人も見かけるし...

但し、こだわりが強いからといって、正真正銘の通とは限らない。ジャズ喫茶が、自信たっぷりのオヤジが説教を垂れる場となれば、若者たちの足が遠のくは必定。
本書には「ジャズとはなんぞや」を答案用紙に書け!と命令するカルトまがいなマスターまでも登場し、これを「硬派なジャズ喫茶」と呼ぶ。それもごく稀なケースで、たいていは話しやすく快い店主ばかりであったと回想しているものの、あまりにインパクトが強く、「ジャズ喫茶人」などと呼称すれば、ステレオタイプで見ちまいそう。文章の切れが良く、描写があまりにリアルということもあろうか。当時は、ジャズ喫茶のマスターは威張っていて怖いというイメージが定着していたようだ。
ちなみに、東京四谷のジャズ喫茶「いーぐる」のマスター後藤雅洋は、このイメージに皮肉をこめて「ジャズ喫茶のオヤジはなぜ威張っているのか」という本まで出しているそうな。
しかし、説教好きなオヤジはどこにでもいる。呑み屋にも、職場にも、家庭にも... そうしたことを差し引いても、一匹狼風で、変わり者が多いことは確かで、個人事業主のおいらも、この手の人種に属すのは間違いあるまい。そして、この多様化の時代だからこそ、のさばることもできよう...

モラさんは、ジャズ喫茶が醸し出す不気味な空気から「行動文法」を読み取る。
まず、クールに振る舞うこと。次に、お喋りは最低限、そして、レコード鑑賞に陶酔しているというボディランゲージをはっきりとアピールすること。さらに、レコードジャケットやライナーノートを手にとり、たまにはリクエストしてみる... これが、60年代から70年代前半の暗黙のルールだそうな。
ちなみに、ルール破りでは、山下洋輔の武勇伝を紹介してくれる。平気でペチャクチャ喋って「会話禁止!」の紙を目の前に突きつけられたそうな。イエローカードか!一発レッドか!
これに似た光景は、バーやクラブでも見かける。いや、ジャズピアニストとしての反発心の表れか。モラさん自身もピアニストであり、ジャズ喫茶非国民!の同胞が見つかったと安堵した様子。ジャズミュージシャンが従順なジャズ喫茶オタクになることは、かなり難しいと見える。
とはいえ、こうしたルールのおかげで、内向的な性格や自閉症が救われるということもある。レコードという音源技術が、鑑賞者を集団から解放し、そのために疎外させ、私的な行為へと走らせる。
そして、その技術は、デジタルメディアからネットワーク共有という道筋を開き、さらに自己を見つめる機会を与え、孤独愛好家を増殖させる一因ともなる。まさに現代の縮図だ!

本書は、ジャズ喫茶の変遷を物語る上で、日本文化研究者エクハート・デルシュミットの論文を引き合いに出す。
  • 50年代は「学校」... ジャズを勉強する場。マスターが教師となって。
  • 60年代は「寺」... オーディオ装置が整い、店内を暗くし、大音量でレコードをかけ、禁欲的な瞑想の場と化す。
  • 70年代は「スーパー」... フージョンやロックが流行り、客離れ対策として店内を明るくし、流行音楽をかけるようになる。
  • 80年代は「博物館」... ウォークマンや CD が発明されると、わざわざジャズ喫茶で音楽を聴くまでもなく、古い LP やジャケットなど過去を保管する場へ。

モラさんは、このデルシュミット論を元にジャズ喫茶興亡記を論じている。特に、ジャズ喫茶とダンスホールとの関係、あるいは、学生運動や反体制精神との繋がりは興味深い。
そして、ジャズ喫茶の出現から盛衰の歴史を辿ると、概ね三つの要素で説明できるという。三つの要素とは、「欠如」「距離感」「希少性」であり、これを「3K原則」と呼ぶ。
欠如とは、一流のライブやジャズ専用のラジオ放送局がなかったこと。
距離感とは、ジャズの本場アメリカからあまりに遠いこと。それは、地理的な要素だけでなく、文化的にも、精神的にも。
希少性とは、生演奏の代替物となる高音質のオーディオシステムが一般人には手が届かなかったこと、あるいは、輸入盤のレコードの入手が難しかったこと。
そして、この 3K が満たされるとともに、ジャズ喫茶は衰退していったとさ...

それにしても、こうしてジャズ喫茶の興亡記を眺めるだけで、戦後の日本社会が外観できようとは。ジャズ喫茶というちっぽけな文化にも、それだけの多面性が備わっていたということであろう。ジャズ喫茶の衰退に、その時代を生きた人間を重ねると、過去の遺物を美化し、懐古したくもなろう。しかし、時間は無常だ!

「結局、私自身がジャズ喫茶とともに歳をとり、周りのオヤジ客にすっかり溶け込む年齢に達してきたわけである。この歳になると、余生よりもすでに生きてきた年月の方が長いという自覚と喪失感が、突然迫ってくることがあるのは、私だけではないだろう。そのせいか、ジャズ喫茶を含め青春時代を振り返るとき、甘美な懐古感に浸かりたくなることは自然な衝動なのかもしれない。あるいは、ジャズ喫茶が消滅していくこと自体が、まるで自分の死期を暗示しているかのように感じる、と言ったら大袈裟だろうか...」

ところで、こんなに熱く語ってくれるフーテンのモラさんには大変申し訳ないが、本書の中で最も感服する文章はジャズ喫茶論とはまったく関係のないところに見つける。それは冒頭にあるこの文章で、おいらが美青年だった頃の記憶が蘇る。やっぱり、日本人よりも日本人っぽい文章を書くお人だ!

「電車が新宿に近づき、おもしろそうな町だから降りてみようじゃないか、と思った瞬間、車両のドアが開き、そのまま人ごみに飲み込まれ流されてしまう。流れに逆らっても身動きできそうにない。魚群のなかの一匹の小魚に化けたと想像する青年は、即座に状況を分析し、対策を講じる... 周りの魚と一定の距離を保ちながら同じ速度で進めば、きっと大丈夫だろう... と。それから、考えることを一切放棄し、流れに身を任せる。徐々に流れと一体化してくると、するすると前進できることに気づき、奇妙な陶酔感さえ覚えはじめる。だが改札口から吐き出されると、突然、魚群も一気に解散してしまう。また陸に足がついたようだ、とふと我に返る。」

2023-10-29

"日本の居酒屋文化 - 赤提灯の魅力を探る" Michael S. Molasky 著

居酒屋というと、大勢でワイワイやってるイメージ。こっちときたら騒がしいのが大の苦手で、独りでチビチビやりたいもんだから、どうも馴染めない。
高度な情報化社会では、静かに呑み歩くのも難しい。食べログや口コミといったサイトで評判が広まり、それで常連客が逃げ出すようでは、せっかくの隠れ家も台無し!
大衆酒場ですら赤提灯をぶら下げている所もあって、カテゴリも当てにならない。
しかし、ここで言う居酒屋は、独りでぶらりと立ち寄れるような、それこそカウンタでチビチビやるイメージ。カウンタとは、もてなす側ともてなされる側とを隔て、駆け引きする場、勝負する場... というのが、おいらの持論である。バーしかり、小料理屋しかり、寿司屋しかり... 癒しの場で緊張感を煽ってどうする。もう三十年になろうか、和装女将がもてなしてくれる小料理屋風の呑み屋に通い詰めた記憶が蘇る。いろいろと社会勉強させてもらったっけ。口説き文句は大失敗に終わったけど...

「地元に根付いた個人経営の赤提灯こそ日本の呑み屋文化の核心だと思っている...
居酒屋は味と価格だけではない、五感をもって満喫する場所である、というのが私の持論である。さらに、居酒屋は『味』よりも『人』である、と確信している...」

こう主張するマイク・モラスキーさんって、どちらの御出身?
アメリカ中西部生まれのれっきとしたガイジンさん!なので、ネイティブライターのような洗練された文章は書けない... 編集作業では細かい修正で余分な手間を取らせてしまった... などと謙遜しているが、どうしてどうして!
いま、日本人よりも日本人っぽい日本文化論に出会えた喜びに浸っている。やはり文化を論じる場合、ちょいと距離を置く方がよさそうだ。
四十年もの居酒屋体験談。自ら「居酒屋愛好家」、あるいは「赤提灯依存症」と称し、北海道から沖縄まで、角打ちから割烹まで... 角打ちの真髄に至っては「最低の価格、最小限のもてなし、最大限の癒し。」と...
彼は何を求め、そこへ足を運ぶのか。おそらくこの書も、鯵のさしみや〆鯖を肴に、日本酒をチビチビやりながら書いたに違いない。こっちも負けじと、純米酒をやらずに読むわけにはいかない...

本書は、「地の味わい」「場の味わい」、そして「人間味」という三つの観点から居酒屋探訪記を物語ってくれる。経験を積んだ居酒屋からは、貫禄を感じさせられることがあるという。
「貫禄」という言葉を国語辞典通りに、身に備わった風格や威厳... とするのでは足りない。それでも大まかな共通点が見受けられる。店主にせよ、店自体にせよ、気取らず、飾らないところ、あるいは、自分自身や店に自信を持ち、自然に醸し出す雰囲気があるところ。そして、店の味わいを守るためには、客に好かれなくてもええ!という覚悟をもって営業方針を貫いているところ。要するに、淡々と仕事をし、店を大事にしているだけだが、こういうシンプルな動機に人生哲学を魅せてくれるのも、居酒屋の魅力としておこうか...

「小ぢんまりしたローカルな居酒屋であればあるほど、多面的な機能を秘めているように思う。だからこそ常連客にとって、行きつけの居酒屋はまるで『聖地』のように感じられ、それゆえに、彼らはその店独自の雰囲気が壊されないように、侵入してくる一見客をしばらくは番犬のごとき注意深さで『見張っている』わけだ。」

2023-10-22

"ソネット集" William Shakespeare 作

シェイクスピアをまともに読んだのは、五十を過ぎてからのこと。ちょいと言い訳するなら、初めてのシェイクスピア体験は義務教育の文化祭あたり。学生時代は劇場にも何度か足を運び、モチーフにした映画も多く、直接触れずとも、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。
ゲーテは、カントをこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。
筋書きを知っていれば、小説を読むのも億劫になるが、媒体が違えば、違った光景を魅せてくれること疑いなし。なんとなく体裁が悪いと思いつつ、四大悲劇に手を出せば、ハムレットには、気高く生きよ!このままでいいのか?と問い詰められ、リア王には、道化でも演じていないと老いることも難しい!と教えられ、マクベス物語に至っては魔女どもの呪文にイチコロよ。おいらは暗示にかかりやすいときた。そして、「ソネット集」には、人間とは、こうも滑稽な生き物なのか... と。
ここまで来るのに、半世紀も生きねばならなかったとは... 怠惰な詩神よ。真実をなおざりに、沈黙の言い訳はよせ!
尚、高松雄一訳版(岩波文庫)を手に取る。

ソネットとは、ルネサンス期イタリアに発する十四行詩のこと。この形式がイギリスに渡ると、ひときわ異彩を放つソネット文学が生まれた。シェイクスピアの「ソネット集」がそれである。
但し、この作品について知られている事実は、ごくわずかだという。詩作した人物がシェイクスピアであることは間違いなさそうだが、刊行となるとトマス・ソープなる人物が浮かび上がる。しかも、校正の状態などから推して、シェイクスピア自身は目を通していないようだとか。なかなかの謎めいた作品である。
詠われる人物にしても、美貌の男子に、黒い女(ダーク・レディ)とくれば、シェイクスピア自身の愛の遍歴か。黒い女とただならぬ関係を歌えば、小悪魔か、高級娼婦か。美男子への愛を熱く歌えば、同性愛説も囁かれる。登場人物の身分や実名を追えば、謎が謎を呼び、興味が興味をそそり、想像が想像を掻き立てる。作者がシェイクスピアというだけで文学史上の問題となり、専門家の間で様々な説が飛び交う。

しかしながら、天邪鬼な読み手には、そんなことはどうでもええ。背後に潜む事実関係なんぞに興味はない。目の前の字句を素直に追うだけだ。
とはいえ、その解釈となると、やはり天邪鬼。愛の讃美歌が、どこか皮肉まじりに響く。文壇では神と悪魔の相性はすこぶる良いと見え、慰安と絶望が交差し、天国と地獄が表裏一体で仕掛けてきやがる。
天使は悪魔のごとく真実を覆い隠し、股ぐらから梅毒を撒き散らす。愉快!愉快!
のぼせ上がった美貌への愛に無慈悲を喰らわせ、黒衣裳をまとって愛の喪に服す。愉快!愉快!
かくして愛は道化に成り果て、犬にでも喰わせちまえ!これで犬儒学派に鞍替えよ。シェイクスピア文学は、こうでなくっちゃ!

シェイクスピア自身も、あの世で専門家たちの論争を尻目に、単に思いついた言葉を形式的に整えてみただけよ!って笑い飛ばしているやもしれん。詩人は文章を整えるだけでいい。それで学識は優雅な美しさを飾りたて、粗野な無知を知識と同じ高さに引き上げてくれる。愛の十字架を背負う者に慰めはいらぬ。醜い姿になる前に、ご自分を蒸留しちまいな!ってか。
さらに、愛の讃美歌を拾うと...

「愛がつくる最良の習慣は、信じあうふりをすることだ!」

「盲目の愚か者、愛の神よ、私の眼に何をしたのだ。この眼は見てはいるのに見ているものが解っていない。美とは何か知っているし、どこにあるかも見ているのに、最低のものをこよなく優れていると思い込む。私の心も、眼も、まこと真実なるものを見あやまり、いまはこの迷妄の苦しみに憑かれて生きているのだ。」

「愛していなくとも、愛していると言うがいい。いらだちやすい病人でも、死期が近づくと、医者からは良くなりますという言葉しか聞こうとしなくなる。もし私が絶望すれば、狂乱におちいり、狂乱の最中におまえを悪しざまに言うかもしれない。すべてをねじまげる当世の堕落ははなはだしいから、狂った男の中傷でも、狂った聞き手が信じてくれよう。」

2023-10-15

"君あり、故に我あり - 依存の宣言" Satish Kumar 著

サティシュ・クマールは、9 歳にジャイナ教の修行僧となり、18 歳に内なる心の声に従って僧を辞めたという。内なる心の声とは、ガンジー思想への目覚めであろうか。
彼は、無一文でインドから欧米に渡り、8000 マイルもの平和巡礼を行ったことでも知られる。核保有国の政治指導者に「平和のお茶」を届けたのである。その途中、フランスでは牢獄に放り込まれ、アメリカでは銃を突きつけられ...
この行動は、バートランド・ラッセルに触発されたものらしい。ラッセルの非暴力運動は合理主義と両立させ、人道主義をも超越しているという。日本でも平和行進に参加し、東京から広島まで 45 日かけて歩いたそうな...

本書はジャイナ教で彩られている。そして、インドの賢人ヴィノーバ・バーヴェ、自由の預言者ジッドゥ・クリシュナムルティ、数学者で合理主義者バートランド・ラッセル、解放者マーチン・ルーサー・キング、環境経済学者 E.F.シューマッハーと過ごした喜びを物語ってくれる...
尚、尾関修, 尾関沢人訳版(講談社学術文庫)を手に取る。

「この本は心の旅である。私はこの本の中で、多種多様でしかも相互に関連するネットワークとして世界を理解するに至ったインスピレーションの源泉を辿っている...」

サンスクリットの格言に「ソーハム(彼は我なり)」というのがあるそうな。サティシュは、これを「君あり、故に我あり」と解し、デカルトの言葉「我思う、故に我あり」に対抗して魅せる。
そして、西洋の世界観を近世からグローバリゼーションに至る流れを追い、その源泉にデカルト哲学を見る。それは、分割と分離といった二元論的世界観である。我思う... ことにより自己を意識し、故に我あり... と、他との差異で自己を確認する。自己存在を強調し、そのために自己肯定感に苛むとすれば、まさに現代病がそれだ。

本来、多様性を受け入れるはずのグローバリズムは、少数派を次々に飲み込み、価値観を一本化しようとしてきた。すると、これに反発して対極的な価値観が勢いづき、世界は二極化していく。その過程で、対極にあるはずの個人主義と利己主義が結びつき、これに愛国主義が相まって、経済的生産競争や軍備拡張競争を激化させる。
超エリートの政策立案者たちは、いまだ消費を煽る以外に方策が見つけられないでいる。生産と消費に邁進すれば、環境破壊や自然破壊へ突き進むは必定。資本主義と共産主義は、互いにい対立するかに見えるが、自己の利益を優先し、国益を追求する点では同じ。資本主義は資本を喰い潰し、共産主義は個人を喰い潰す。そして、文明人は地球資源を喰い潰し、いったいどこへゆこうとしているのか...

「我々が個人的恐れを精神的に克服できないなら、外部の敵を恐れるように仕向けることは政府や軍事指導者にとってはやさしいことだ。彼らは毎日、敵について語りかける。彼らは恐怖を作り出し、我々をその中に置こうとする。我々は、恐怖に支配されてしまう。隣人を恐れ、ヒンズー教徒を恐れ、イスラム教徒を恐れ、キリスト教徒を恐れ、外国を恐れるようになる。さまざまなグループに分断され、誰かを恐れるようになる。自分の妻や夫、子供すら恐れるようになる...」

しかし、だ。こうした問題すべてを、デカルトのせいにするわけにもいくまい。信仰的に思考するスコラ哲学から脱皮し、主体を客体化して科学的な思考を試みた点は評価できるし、また、それが必要な時代でもあった。それは、サティシュも認めている。彼が主張せんとしていることは、そろそろ新たな世界観へ脱皮する時代が来たのでは... そろそろ人間中心主義から脱皮しては... ということである。
主義主張の対立、イデオロギーの対立、そして何より宗教の対立は、もっと古くからあり、こうした対立構図は、むしろ人間の本質と見るべきであろう。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体は、他との対比や対立から自己を認識するほかはない。デカルトだってあの世でぼやいているに違いない。すべては自己責任で!と... 
しかしながら、自己責任ってやつは、これを実践しようとすると、なかなかの難物。巷では、この用語は、お前が悪い!という意味で使われている。自立という概念にしても、人間には高尚すぎるのやもしれん。
ならば、もっと謙虚に何かに依存しなければ生きられない、とした方が現実的やもしれん。少なくとも地球上を棲家とする生命体は、地球環境に依存している。人類は、自然に依存しなければ生きられないってことだ。
アリストテレスが定義したように、人間がポリス的動物である、というのが本当なら、ポリス、すなわち社会にも依存するほかはあるまい。但し、ポリスとは単に社会を営むだけでなく、最高善を求める共同体という高尚な意味も含まれており、現実社会はそんな大層なものではあるまい。
サティシュは、完全なる依存を宣言する。自己を知らずして自立もあるまい。自己を見つめずして自律も叶うまい。自立や自律ってやつは、必要な依存を受け入れてこそ成り立つ概念やもしれん。自己責任!などと片意地はらんと、もっと自然体に...

「ガンジーにとって知識とは、謙虚さと真実を学ぶための手段だった。ガンジーは『知識は力なり』という考えを捨て去った。知識は奉仕のための道具である、とガンジーは考えた。傲慢さをもたらす知識は真の知識ではないのだ。」

また、平和宗教を論じる上で、イスラム教の思想家マウラーナー・ワヒドゥディン・カーンとの対話は、なかなかの見モノ!
宗教が、しばしば暴力の根源となってきたのも事実。考え方や信条が異なり、信仰が異なるのは、いわば人間の本質であり、これらの差異が対立や紛争を生む。
サティシュは問う。イスラム教の真髄とは何か?と。それは、理論や哲学ではなく、生き方であると。そして、状況が平和である時に、平和な気持ちでいるだけでは不十分だとし、「いかなるときも怒らないようにしなさい!」と説く。
イスラムとは、「平和に」という意味があるそうな。ならば、ジハード、すなわち、聖戦という概念はどう説明できるというのか?ジハードの意味は無惨なまでに誤解されているという。しかも、学殖があり、理性ある人々が、その意味を歪めていると。非暴力思想の根底には、怒りの克服があるらしい...

ジャイナ教について言えば、ジャイナとは、勝利を意味するそうな。ジャイナ教の開祖マハーヴィーラとは、偉大なる戦士を意味するとか。だが、その言葉に反し、ジャイナ教ほど非暴力と平和に重きを置く宗教はないという。では、誰に対する勝利か?それは、自己に打ち勝つことであり、自我の克服であると...
これと同様、イスラムの教祖マホメットも偉大な将軍だったそうな。ジハードは、戦いを意味するのではなく、葛藤を意味するんだとか。最大の葛藤は、自我と戦い、怒りに勝ち、自尊心を克服すること。そして、不公正や強者による弱者の搾取と闘わなければならないという。しかも、非暴力的に。これが本来のジハードだそうな。それ故、マウラーナー・ワヒドゥディンは、こう唱える。
「良きイスラム教徒であるためには、我々は同胞のイスラム教徒だけでなく、ヒンズー教徒、キリスト教徒、ユダヤ教徒、その他すべての人々を愛する必要がある。困難なことかもしれないが、そのようなビジョンがなければ宗教にはなんの意味もない。」

うん~... 仏陀も、他人を傷つけることは自分自身を傷つけること!と説いた。イエスも、汝の敵を愛せよ!もう一方の頬をも向けなさい!と説いた。
しかしながら、どんな高尚な思想を唱えようと、どんなに高い理想を掲げようと、人間ってやつは言葉でいかようにも操れる。未だ人類は、すべての真理を言い表せるほどの言語システムを獲得できていない。愚人は、なにかと言葉を欲する。具体的な言葉を欲する。そして、言葉は厄介となる。だから、あのナザレの大工のせがれは、沈黙のうちに十字架刑を受け入れたのであろう。民衆が沈黙で悟れるほど賢くないとはいえ。その意図の理解に、数千年の歳月がかかろうとも...

「ヒンズー教徒の非二元論の信念は、ジャイナ教徒の非絶対論に相当するものである。非二元論は時として、現実の単一性と理解されてきた。しかし、ゴーパールジー(サティシュの師)は次のように信じていた。... 非二元論は、自己か他者か、ということより、宇宙の多面的な性格を表している。多様性とは分裂や断絶ではなく、言葉では完全に言い表すことの不可能な、相互に関連した全体のことなのだ。人が何かを話すとき、真実の一側面について語ることはできても、真実全体を語ることはできない。だから我々は、少なくとも言葉や心によって、全体的で絶対的な理解を完全に手に入れることは不可能だ、ということを認めるべきなのだよ。言葉は真実の一側面に近づくことくらいしかできない。その向こうには、ただ沈黙があるのみだ...」

2023-10-08

"エリザベスとエセックス" Lytton Strachey 著

リットン・ストレイチーは、"Portraits in Miniature (邦題: てのひらの肖像画)"と題し、18 篇ものささやかな人物像を通して、イギリスの一時代を炙り出した(前記事)。
この伝記作家は、自分自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪い、過去の時代に思いを馳せたのか。ここでは、歳の差の恋愛物語を通して、エリザベス朝の時代を物語ってくれる。
生涯独身を通し、聖母マリアのごとく処女として崇められた女王エリザベス一世。スペイン無敵艦隊に大勝利した英雄。だが、彼女とて一人の女であった。いつまでも女であった。しかも平凡な。愛人の噂も絶えず...
53 歳にして、20 歳にも満たないエセックス伯爵と出会ったことは不幸だったのか。熟年の恋は始末が悪い。人間ってやつは、自由よりも束縛にこそ真の自由を見るのやもしれん。そして、禁断にこそ真の恋を...
尚、福田逸訳版(中央公論社)を手に取る。

「エリザベス朝の人々に見られる一貫性の欠如は、人間に許される限界を遥かに越えている... 狡猾かと思えば純真、繊細かと思えば残忍、そして敬虔かと思えば好色、かかる存在に筋の通った説明を与えるなど一体可能であろうか... それはバロックの時代であった。そして、恐らく彼らの内部構造と外部装飾とのずれこそ、エリザベス朝人の神秘の原因を最も端的に物語るものなのだ... まさにバロック的人物と言える存在が、他でもない、エリザベスその人である。」

エリザベスの治世は、二つに分けられるという。スペイン無敵艦隊を撃破するまでの三十年と、その後の十五年。前者は、いわば準備段階で、その結果、イングランドは統一国家となり、後に大英帝国となって七つの海を支配することになる。
エリザベス女王は、精神の支柱にイングランド国教会を据え、民衆に国家という概念を植え付けた。そして、スペインの横暴を撥ねつけ、ローマの圧力にも屈せず、イングランドを帝国へと導いた。
だが、こうした功績は英雄的な資質の為せるわざではなかったという。激動の時代を生き抜くには、何よりも政治的手腕と慎重さが肝要で、むしろ、のらりくらりとかわした結果であったと...

「変化に富むがゆゑに自然は麗し」... これは、エリザベスが好んだ格言だそうな。彼女自身の振る舞いも自然に劣らず変化に富む。ある時は気の荒い貴婦人、ある時は厳しい顔つきの実務家、ルネサンスの教養に溢れ、六カ国語をこなし、優れた音楽家で舞踏も得意、会話はユーモアのみならず気品と機知に溢れ、確かな社交感覚の持ち主とくれば、こうした変幻自在な振る舞いが、外交手腕と結びついて、激動の時代を生き延びたという見方もできる。
ストレイチーは、この女王の多芸ぶりと優柔不断ぶりを、エセックス伯爵という一人の男を通して物語る。この若き男子も、熟女の寵愛の受け方をよく心得ている。人に支配されるのを好まず、最高権力者である女王の寵愛という特権を掌握し、軍隊の後ろ盾に支えられ、またそのことを十分に承知していればこそ、国家にとって危険な人物となる。宮廷内では警戒心が広がる。数々の戦場で無能ぶりを曝け出し、名誉挽回でアイルランド総督に任命されるも、アイルランド叛乱の鎮圧に失敗して失脚。ついにはクーデターを起こし、反逆罪。かくして女王の寵臣は、首斬り役人の斧によってその首を斬り落とされたのだった... 享年 34 歳。
真実を悟った老婆は、すでに67歳。どちらが弄び、どちらが弄ばれたのか。互いの引力が運命を弄んだのやもしれん...

2023-10-01

"てのひらの肖像画" Lytton Strachey 著

イギリスの本屋には、伝記コーナーがしっかりと設けられているそうな。古本屋ともなると、年季の入った、それこそ歴史を感じさせる区画を演出しているらしい。昔から伝記が読み物として親しまれてきたお国柄というわけか...
一人の人物を語るということは、その人物が生きた時代を語るということ。人類の歴史を個人の歴史の集合体として眺めれば、まさに本書がそれを体現してくれる...
尚、中野康司訳版(みすず書房)を手に取る。

「過去に関する事実を、芸術の力を借りずにただ集めただけでは、それは単なる事実の寄せ集めにすぎない。もちろんそういうものが役に立つこともあるが、それは断じて歴史ではない。すなわち、バターと卵と香草を寄せ集めてもオムレツにならないのと同じである。」

原題 "Portraits in Miniature"
これに「てのひらの肖像画」という邦題を与えた翻訳センスもなかなか。ここで言う肖像画とは、単なる人物像ではない。スナップ写真のような静止画でもない。もっと連続的で動的な... ある人物を遠近法で眺めながら、自分自身に返ってくる何かを感じるような...
リットン・ストレイチーは、18 篇ものささやかな人物像を連結して、16 世紀から 19 世紀頃のイギリスの社会風潮を炙り出す。彼は、遠い昔に思いを馳せ、彼自身が生きたヴィクトリア朝の時代を呪ったか。18 世紀頃の文才には柔和に美点を持ち上げ、19 世紀頃の文才には辛辣な批評を喰らわす。
例えば、デイヴィッド・ヒュームには、中世の神学的思考を一掃し、理性を純粋に発揮して公平無私の精神を実践したと、神わざのごとく称賛し、エドワード・ギボンには、節度ある理性と調和という天性の資質の持ち主として憧憬する。
一方、トーマス・カーライルには、度の過ぎる道徳癖によって自らの芸術的才能をぶちこわしたと手厳しい上に、カーライルに私淑したジェイムズ・アントニー・フルードに至っては、偏狭なプロテスタンティズムに幼稚な倫理観と切り捨てる。

「盲目はつねに悲劇を招くが、巨大な力を暴走に変え、高邁な夢を妄想に変え、巌のごとき自信を当惑と悔恨と苦悩に変えてしまう盲目は、まことに悲惨かつ哀れである。」

ヴィクトリア朝の時代といえば、産業革命によって国家経済を進展させ、帝国主義へ邁進していく時代。文学や芸術までもが、やがて訪れる偏狭な愛国主義へ傾倒していく。ストレイチーは、そんな兆しでも感じ取ったのだろうか。「文体は精神を映す鏡」としながら、雄弁家の文体には「もはや繊細さや洗練を期待しても無駄!」と言い放つ。芸術精神の持ち主だからこそ、時代の変化に感じ入るものがあるのやもしれん。特に、世界が狂気へ向かう時は...

「この世にはもはやかつての面影はなかった。何かがおかしくなっていた。あの騒乱と、あの改革と、それからまた改革の改革。まともに相手にする必要はなさそうだ。居眠りをしていたほうがよさそうだ。」

また、6 人のイギリスの歴史家を論じながら、歴史学のあるべき姿についても断片的に暗示している。6 人とは、ヒューム、ギボン、マコーリー、カーライル、フルード、クレイトン。
まず、歴史家の素質には、三つあるという。一つは、事実を吸収する能力。二つは、吸収した事実を叙述する能力。そして三つは、視点である。だが、三つ目を備える歴史家は、なかなかいないと苦言を呈す。
「歴史はなによりも物語」という。だが、書き手が語り手となり、歴史家が雄弁家となれば、それは悲劇の時代か。雄弁家の困ったところは、聴衆を自由にさせないことだ。歴史家が道徳を説く必要もあるまいが、雄弁家は道徳や倫理に血眼になる。まるで聖職者!
歴史書が道徳臭を漂わせれば、トゥキュディデスの神秘的な智慧やタキトゥスの迫力に思いを馳せる。主題を本当に理解している歴史家は、そうはいないという。それでも仕事を成し遂げられるのはなぜか。自分自身を知り、自分自身の限界を知り、その上で自己の中に調和を保ち続ける能力。これこそが、歴史家の資質というものか。客観的な立場を保つには、批判的な視点が欠かせない。ストレイチーは、ギボンを内面的調和を保つ名人!と称賛する...

「明確な視点をもつということは、対象に共感を抱くということではない。むしろ逆だと言ってよい。不思議なことに、偉大な歴史家は自分の題材と敵同士みたいに睨み合っている場合がじつに多い。たとえば、洗練された冷笑家のギボンは『ローマ帝国衰亡史』において、野蛮と迷信の叙述に二十年を費やした...」

2023-09-24

"ダーウィンの警告(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 10 弾、邦訳版は 0 から数えるので、第 9 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。
しかし、推理モノはいかん。ちょいと手を出すと、かっぱえびせん状態。特に、作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは。おかげで、徹夜明けのブラックコーヒーが美味い...

原題 "The Sixth Extinction"
第六の絶滅とは、何を意味するのか。進化論を唱えたダーウィンの警告とは... それは、人類は本当に進化しているのか?という問い掛けでもある...

「絶滅が規則であって、生存は例外である。」... カール・セーガン

古生物学者たちの推定では、地球上の生態系は、過去に五度の絶滅を経験しているという。一度目は、約四億年以上前のオルドビス紀末、ほとんどの海洋生物が姿を消した。二度目は、約三億年以上前のデボン紀末、三度目は、ニ億五千年前のペルム紀末、陸と海の双方で 90% 以上が死滅した。四度目は、約ニ億年前の三畳紀末、そして五度目は、六千五百年前の白亜紀末、恐竜が絶滅した。原因については、地球規模の気候変動やプレートの移動、あるいは、隕石の衝突などが考えられている。
おかげで、人類は大手を振って生きられる時代を迎え、いまや地上を支配するに至った。だが、かつての原因に加え、大量生産や大量消費で人口増殖を爆発させ、自らこしらえた深刻な環境問題に直面している。過去四百年で実に多くの生物種が絶滅し、かつての絶滅率と比較してもかなり高い割合で進行しているようだ。
そして現在、科学者たちは、地球上の生態系が六度目の絶滅へ向かっていると結論づけたという...

「この惑星上の生命は常に微妙なバランスのもとに成り立っている。それぞれがつながり合った複雑な関係性は、驚くほどもろい存在である。主要な構成要素を取り除けば、あるいはただ変化させただけでも、その複雑な網はほつれ、破れてしまう。」

物語は、カリフォルニア州の軍事研究施設から、爆発とともに謎の物質が流出したことに始まる。施設から発信された最後のメッセージは... 殺して!私たち全員、殺して!
謎の物質とは、なんらかの生命体か。その遺伝子構造からは、必須元素であるリンの代わりにヒ素が検出された。ヒ素を必要とする生命体の生物圏が、地球上のどこかに存在するのか。遺伝子の螺旋構造が、糖のデオキシリボースを根幹としていないとすると...
真相を知るはずの研究所長は拉致され、その行方を追っていくと、南米奥地で環境保護者がやっていた禁断の遺伝子実験と、南極大陸に潜む「影の生物圏」とが、あるキーワードで結びつく。そのキーワードとは、「XNA(ゼノ核酸)」
それは、情報貯蔵生体高分子として、DNA や RNA の代替となる合成物質。地球上の多種多様な生物種は、A, C, G, T というわずか四つの遺伝文字に基づいている。スクリプト研究所は、この配列に人工の塩基対 X, Y を加えた細菌を作り出すことに成功した。しかも、DNA より耐性があることが証明され、理論上はすべての生物の DNA と置き換え可能だという。かつて地球上の生物は、XNA の方が優位を占めていたと考えられているらしい。
本書は、DNA を「利己的」と形容し、XNA を「破壊的」と形容する。そうした生命の生き残りが、人類より優れた遺伝構造を持ち続け、今もどこかで...

"Life will find a way.”
「生命は生きるための道を見つける。」
... 映画「ジェラシック・パーク」より

また本書には、氷で覆われていない南極大陸と思われる古代の地図が何枚か登場する。これらの地図は、実在するそうな。古代人は現在考えられているよりもはるか昔に、世界中の大洋を航海していたらしい。南極大陸には、まだまだ人類の踏み入れたことのない未開の地が残されているのだろうか。
しかし、古代知識の宝庫であったアレクサンドリア図書館は、ずっ~と昔に破壊された。過去に数々の図書館が焼かれ、どれほどの知識が灰燼に帰してしまったことか。現代人が知識の再獲得に乗り出したところで、まだその序章ということか...

「人類の歴史を通じて、知識は増加と減少、隆盛と衰退を繰り返している。かつて知られていたことが、時間の流れの中で忘れ去られ、時には何百年もの長い歳月を経た後に再発見されることもある。」

環境主義にもいろいろあろうが、本書に登場する環境保護者の言い分は、なかなかの見もの...
彼が作ったものとは、プリオンの一種か。プリオンとは、タンパク質からなる感染性因子。ある種の殻のようなもの。しかも、とびっきり頑丈な。ウィルスの DNA の一部を切り取り、外来の XNA と入れ替えると、その遺伝子配列が殻を開く鍵のような役割を果たすという。
そして、感染力の強いノロウィルスの遺伝子を操作し、致死性の高いプリオンを短時間で広範囲にばらまくようにしたのか。いや、この合成物が人間や動物を殺すことはない。感染性蛋白質に手を加え、認知障害をもたらそうという企てか。
しかし、頑丈な殻に収納されたウィルスが、人間の神経機能を破壊し尽くすのでは。いや、怖がることはない。致死性を取り除き、おまけに一定の段階に達したら自己破壊するように手を加えた... ってさ。

「ある種の贈り物だよ。この贈り物を受け取った感染者は、より質素な、より自然と調和した形で、高次認知機能から解放されて残りの人生を過ごすことができる。言葉を変えれば、我々を動物と同じ状態にするというわけだ。それによって地球はよりよい環境になる。非人道的な行為こそが人類のためになるのだよ。もはや我々は、倫理を振りかざすだけの獣(けだもの)も同然じゃないか。我々が宗教や政府や法律を必要としているのは、その卑しい本性を少しでも抑えようとしているからにほかならない。私の意図は、知性という名の疾患を取り除くことにある。人類こそがより力強い存在で、この惑星にとってよりふさわしい存在だ、などという思い違いをさせるような欺瞞を排除することにある。」

歪んだ正義、暴走した正義が、テロリズムを覚醒させる。人間ってやつは、自己主張や自己存在の正当化のためには、いかようにも理屈づけをやる、特異な存在なのであろう。
現実に、森を焼き払い、海を汚染し、氷冠を融かし、二酸化炭素を大気中にばらまいてきた。人類こそが大絶滅を引き起こす原動力で、人類自身が絶滅の危機にある... という主張も否定できない。人間にとっての天国は、自然界にとって地獄なのか。それとも、自然界にとっての天国は、人間にとって地獄なのか。今、人類は自然との付き合い方が問われている...

「社会というのは支配のための破壊的な幻想であって、それ以上の何物でもない。」

2023-09-17

"チンギスの陵墓(上/下)" James Rollins 著

本書は、シグマフォースシリーズ第 9 弾。邦訳版は 0 から数えるので、第 8 弾となる。このシリーズは、いつのまにやら第 14 弾まで足を伸ばし、なかなか追いつけずにいる。おいらにとって推理モノは、読書の基本ジャンルとはいえ、手を出すには勇気がいる。つい徹夜で一気読みしちまい、翌日は、まず仕事にならん。まるで麻薬!作家ジェームズ・ロリンズと翻訳者桑田健のコンビは、特にタチが悪い。やめられまへんなぁ...

原題 "The Eye of God"
なにゆえ、こいつの邦題が「チンギスの陵墓」となるのか?それが、読者に課したテーマである。「神の目」に映った未来と、その墓の暴かれし日が時空でもつれ合う時、世界は終わりを告げる...

物語は、米国の軍事衛星が彗星の尾に接近後、地球に墜落したことに始まる。衛星に搭載された観測用の水晶には、彗星が地球に衝突した後、廃虚と化した都市群が映し出された。
一方、ローマに送りつけてきた考古学的な頭蓋骨にも、世界が滅びるとの予言が記されていた。しかも、水晶が捉えた映像と頭蓋骨に記された期日は、同じ四日後が刻まれている。
頭蓋骨は誰のもので、予言の主は?という疑問は置いといて、衛星は時空をさまよって、時間を先取りしたというのか。衛星の名を、IoG(Interpolation of the Geodetic Effect: 測地線効果内挿)とし、こいつの語呂合わせで Eye of God. では、ちとこじつけ感が...
ちなみに、「神の目」は実在するらしい。科学者たちは、これまでに四つの完璧な球体の水晶を生成しているという。これらは、重力観測衛星のジャイロスコープとして、地球周辺の時空の曲率の計測に使用されているとか。神の目が複数存在するとは... 宇宙は多神教であろうか...

「過去、現在、未来の違いは、頑固なまでに消えることのない幻想にすぎない。」
... アルバート・アインシュタイン

量子の世界では、過去、現在、未来の順番を問わない。生と死を同時に体現しちまう、まったくシュレーディンガーの猫のような奴ら。神の目とは、猫の目のようなものか...
すべてを知り尽くした全能者ともなれば、過去も、現在も、未来も、時間という一つの次元に収まった同列の概念に過ぎない。それを尻目に、過去を悔い、現在で藻掻き、未来に翻弄されるのは、時間の矢に幽閉された知的生命体の宿命。そして、死んだと思われた登場人物が、ことごとく生きていたとする展開は、シュレーディンガーの猫を夢見る人間どもの滑稽な願望が透けて、ちとこじつけ感が...

とはいえ、歴史と科学を融合させるロリンズの手口は、相変わらず切れてやがる。
ざっとキーワードを拾うと、歴史の観点から... 使徒トマスの十字架、フン族の王アッティラ、モンゴル帝国初代皇帝チンギス・ハン。
科学の観点から... オールトの雲、量子力学、ダークエネルギー... といったところ。

まず、彗星はどこからやって来るのか?それは、太陽系の誕生と関係する。ざっと太陽系を外観すると...
お馴染みの八つの惑星の外側には「カイパーベルト」と呼ばれる氷を主成分とする破片の大群が周回しており、はるか遠くの外縁には「オールトの雲」と呼ばれる領域がある。そこには氷を主成分とする彗星が無数に存在するとされている。まるで彗星の貯蔵庫!
しかも、これらすべてが同一円盤状に配置されていて、衝突の脅威となる彗星は黄道面からやってくるというわけだ。
近年、仮想的な面「空黄道面」ってのも耳にする。彗星がやってくる軌道は、この二つの面に集中するらしい。太陽系の果てに、魔物の棲家でもあるのか...

そして、やって来る彗星に、使徒トマスの聖遺物が絡む。トマスの十字架は、約2800年前に、隕石を彫って作られたとされる。東方のネストリウス派の司祭の手によって...
こいつに、ダークエネルギーが潜んでいるのか。現在の科学では、宇宙の質量とエネルギーに占める割合は、通常の原子などの物質が 4.9%、ダークマターが 26.8%、ダークエネルギーが 68.3% と算定されている。つまり、人類の知らないダークな領域が、95% 以上もあるってことだ。
ずーっと昔に衝突した隕石と、今、衝突しようとしている彗星が、同じオールトの雲からやって来たとすれば、同種のエネルギーを帯び、互いに引き寄せ合っている... というのが筋書きである。この聖十字架にダークエネルギーを持った別の物質を反応させて対消滅させれば、彗星の軌道が逸れて、地球への衝突が避けられるって寸法よ。
したがって、シグマの使命は、量子のもつれを断ち切れ!落下した衛星の破片、すなわち、神の目がダークエネルギーを帯びているはずなので、こいつを回収し、十字架に重ねて量子エネルギーを対消滅させよ!

「私たちは星屑(ほしくず)でできている。私たちは宇宙が自らを知るための一つの方法なのである。」
... カール・セーガン

ところで、題目にあるチンギス・ハンといえば、中国北部、中央アジア、東ヨーロッパなどを次々に征服し、人類史上最大規模のモンゴル帝国を築いた人物。当時、世界人口の半数以上を統治したと言われる。彼には血に飢えた暴君のイメージがある一方で、先進的な考えの持ち主でもあったという。初めて国際的な郵便制度を確立し、外交特権という概念を取り入れ、政治の場に女性を登用し、それまでに類を見ないほど宗教に寛容であったとか。
彼が使徒トマスの聖遺物を大切に身に着け、墓場まで持っていったという筋書きも、もっともらしい。チンギスの死後、臣下たちは葬儀や墓の建設に関わった者を全員抹殺したという。そのために、陵墓の所在地は現在に至るまで謎のまま。陵墓には征服した土地から奪った財宝が隠されているとの噂が...

驚くべきことに、全世界の男性の二百人に一人が、チンギスと遺伝的関係があるという。モンゴルの男性にいたっては十人に一人が。これは、ハプログループ C-M217(Y染色体)を構成する 25 の遺伝子マーカーから実証されているそうな。一夫多妻制や数多くの国々を征服したことの痕跡が、遺伝子の征服にも現れているとは...

フン族の王アッティラの墓にも、チンギスと似たような状況があるらしい。アッティラの埋葬に携わった人々も全員抹殺されたとか。西暦 452 年、アッティラはローマへ侵攻したが、ローマ法王レオ 1 世と会見し、勝利を目前にしながら陣を引き払ったという。これは、歴史的にも謎とされているそうな。法王レオ 1 世は、ローマ救済のためアッティラに財宝を献上したかどうかは知らん。それも、強力な呪い?強力な魔除け?
そして、チンギス・ハンが征服の道のりでアッティラの墓を発見し、密かに財宝を受け継いだという筋書きである。結局、シグマの御歴々は、トマスの聖遺物に振り回されたってわけか。真実に翻弄され... 現実に愚弄され... 

「真実とは何か?過去について考えると、これは答えるのが難しい質問である。ウィンストン・チャーチルは、かつて『歴史は勝者によって書かれる』と語った。その通りだとすれば、本当に信用できる歴史的文書などありうるのだろうか?」

「現実とは何か?答えるのが極めて簡単であると同時に、極めて難しい質問でもある。この問題は長年にわたって哲学者と物理学者の双方を悩ませてきた。プラトンは著書『国家』の中で、本当の世界とは洞窟の壁に揺れる影にすぎないと述べた。奇妙なことだが、それから二千年以上を経て、科学者たちも同じ結論に達している。」

それは、量子のゆらぎってやつか...

2023-09-10

"条件なき大学" Jacques Derrida 著

小雨降りしきる中、古本屋で宿っていると、ある一文に引き寄せられる。おいらは暗示にかかりやすい...

「今からお話しすることは、おそらく、信仰告白のようなものとなるでしょう。あたかも自分の習慣を守らない許可を、自分の習慣を裏切る許可をみなさん方に求めるかのように振る舞う、そんな教師の信仰告白のようなものになることでしょう。」

「条件なき大学」とは、なんと大胆な題目であろう。ユートピアにでも誘おうというのか。ジャック・デリダは、自前の教育論で大雑把なテーゼを掲げる。それは、大学への信、特に、人文学への信である。大学は真理を公言し、真理に対して際限のない誓約を約束する、と...
真理の世界では、真実や真相が鍵となる。だが、なんでも議論の対象にでき、なんでも問い掛けができ、なんでもありの世界でなければ、深淵な思考は促せまい。思考を高めるためには、真実や真相だけでは足りないってことだ。それを尻目に文学の世界では、フィクションが大手を振って、まるで湯上がり気分の王子様気取り。悪魔や悪徳までも主役に仕立て上げる。デリダは、すべてを言う権利を文学調レトリックで唱えて魅せる。おまけに、きわめて難解な文体で、推理小説バリの演繹力を要請してきやがる...
尚、西山雄二訳版(月曜社)を手に取る。

「私の目からみると、文学はある種の特権を保持しています。文学はエクリチュールの出来事からこの特権を主題化するからです。また、文学はその政治的な歴史を通じて、『すべてを言うこと』を原理的に説明することに結びついているからです。『すべてを言うこと』によって、文学は独特な仕方で、真理、虚構、模像、学問、哲学、法、権利、民主主義と呼ばれるものに関係します。」
... ジャック・デリダ「中断付点」より

大学には自由なイメージがあり、大学は自由な研究の場であるべき、との主張にも頷ける。しかし、研究にはカネがいる。予算が貧弱だと、ろくな研究もできまい。では、スポンサーは?国が予算をつければ、国家や官僚が主導することになる。自由を信条とする大学が政治権力の影響下にあるとは、これいかに。現実に、大学は独立を主張することができずにいる。無条件を原則としたところで、同じこと。結局、教育論ってやつは、合目的性なんぞとは程遠く、市場原理やナショナリズムと結びつく。

自由主義社会だからといって、なんでも言えるわけではない。発言の自由には、社会的な責任がともなう。カントは、自分の理性を公的に使用する時は、いつでも自由でなければならない、といったことを主張した。私的に使用する時は、極めて制限されるべきとしながら。カントが生きた時代は、教会権力や国家権力による露骨な検閲制度があったが、21世紀の今、そんな制度は殆ど見かけない。少なくとも民主主義国家では。
だからといって、検閲もどきの機能がなくなったわけではない。ネット社会では、理性の検閲官どもがリアルタイムで監視し、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。
人は、自分の自由を主張しながら、他人の自由には厳しい。特に、批判的な態度に対して。となれば、例えばヘーゲル哲学を理解しようとすれば、ヘーゲル的な方法と非ヘーゲル的な方法を同時に用いるような、そんな二重思考を試みることも必要であろう。それには、健全な懐疑心、あるいは、健全な批判精神が求められるわけだが、これを実践するにはよほどの修行がいる。
カントの批判哲学は、自らを対立する立場に置くことで、デリダ流の「脱構築」を図ったという見方もできよう。同じやり方で、条件なき大学を論じれば、同時に、条件付き大学を論じることになる。そして、理想と現実のギャップを埋める作業に追われ、ついには、自ら理想高すぎ感を認めざるを得ない。
だから、冒頭の宣言のように「信仰告白のようなもの...」というわけか。だからといって、人文学に教育を救え!などと責任を押し付ける気にはなれんよ。デリダ先生!

本書は、教育論を通じて労働説にも触れている。デリダには、マルクスの労働価値説に対して強い意識を感じる。労働価値説そのものは、政治算術という考え方を提示したウィリアム・ペティに発し、マルクスは労働の剰余価値に着目して、これと利潤との関係を論じて発展させた。現実に、労働が経済的価値を生み出すが、経済的に豊かになってくると生活の余裕を感じ、労働意欲にも差異が生じる。かつて多くを支配してきた強制的、受動的な労働と、わずかに経済的に余裕のでてきた能動的、積極的な労働との間にも、利潤や合理性に差異が生じる。
デリダは、労働の終焉によって目的を成す、といった見方を提示する。もっといえば、従来の労働は終焉し、これから真の労働が始まる... とでも言おうか。大学の研究を従来型の労働と見なすなら、これからの大学の研究は新たな形の労働によってもたらされる。それが、真の人間らしい生き方を意味するのか知らん。人生に合目的なんてものがあるのかもわからん。
ただ、デリダ流に言えば、労働という概念の再構築を促し、労働の「脱構築」ということになろうか。そして、いまだ真の労働は生じておらず、労働の終焉が起源説になるといった表現となり、本書に提示される「労働の終焉 = 目的」という図式になるのではないかと... こんな勝手な解釈では、デリダ先生に叱られそう。
それにしても、これほど読み手に様々な解釈と想像を強いる書き手も珍しい。M には、たまらん!

2023-09-03

"精神について" Jacques Derrida 著

原題 "De l'esprit"
ドイツ語では "Geist"、ラテン語では "Spiritus"、英語では "Spirit"、そして、日本語では「精なる神」と書く。これらの用語は、人間性を表明する重要な意味を持つが、同時に、得体の知れない存在であることを黙認している意味もある。
同じ母国語を用いる人々の間でも、この用語のニュアンスは微妙に違うであろう。時には情熱的に、時には狂乱的に、時には哲学的に、時には弁証的に... それで議論が成り立っているのだから、やはり人間ってやつは、得体の知れない存在である。翻訳するのも困難であろうが、そこは慣例によって、だいたい一対一の語で定義づけされる。でないと、議論も成り立つまい...
尚、港道隆訳版(平凡社ライブラリー)を手に取る。

「De l'esprit` これは大いにフランス語的なタイトルだ。Geist の le geistige や le geistliche(精神的なもの)を聴き理解できるようにするには、あまりにもフランス語的にすぎる。しかしだからこそ、ひとはおそらく、それをドイツ語としてもっとよく聴き取ることになるだろう。おそらく、いずれにせよ、その語を翻訳の試練にかけるべく一外国語の方から鳴り響かせておくならば、いやむしろ語の翻訳に対する抵抗を試練にかけるなら、われわれはこの語のドイツ性にもっと的確な形で敏感になるであろう。そして、われわれが自分の言語(ラング)を同じ試練に従わせるならば...」

副題には、「ハイデッガーと問い」とある。
ジャック・デリダは、ハイデッガー相手に、どんな対決姿勢を見せるというのか。ハイデッガーは著作「存在と時間」の中で警告したという。「いくつかの用語を避ける(vermeiden)べきである」と。それは、回避や否認という意味ではなさそうだ。存在を論じるには存在という用語から距離を置け!といった意味であろうか。翻訳できない用語があることを知れ!といった意味であろうか。そして、「精神」という用語も...
デリケートな用語を文章に直接流し込むと、文体のバランスを欠く。そうした用語から距離を置く記述のテクニックに、引用や原注といったやり方もある。
「精神」とは、神に近づきたいという切望から生じた用語であろうか。神を論じたければ、神という概念を創出した人間を論じる方が合理的かもしれない。それで存在を論じるのに無を論じるってか。自由意志を本望とする書き手は、自らの自由を拘束する。哲学ってやつは、チラリズムに看取られているらしい...

「私の知る限り、ハイデッガーは一度もこう自問しなかった。精神とは何か?と。」

デリダは熱く語る。「精神とは火、炎、燃焼である」と。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間とは精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身に関係する関係の... と、精神の正体をあらゆる総合的な関係で語った。
関わるものに対する情熱によって、あるいは、情熱をもって関わることによって自己が形成されていく。自己実現も、自己啓発も、自己陶酔も、自己泥酔も、なんらかの情熱に導かれ、精神あるところに、熱エネルギーを感じずにはいられない。
しかし、デリダの熱には、もっと重い意味が込められているようである。彼は、ホロコーストの時代を生きたアルジェリア出身のユダヤ系フランス人。古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。集団的な情熱が大衆を煽り、集団的な狂気が非人道的な行為へ走らせる。精神ってやつは、危険である。燃え上がると、更に危険である。
ハイデッガーは、精神を悪と認めつつ、その内にある純粋性を救おうと苦悶したようである。しかも、非キリスト教的に。だが西欧人にとって、キリスト教の呪縛から逃れることは容易ではあるまい。西欧哲学の弱点が、ここにあるのやもしれん。デリダは、それを指摘しているのだろうか...

「私は、亡霊と炎と灰とについてお話しようと思う。そして避ける(éviter)が、ハイデッガーにとって、何を言わんとするのかについて...」

デリダが唱える「エクリチュール」という概念は、なかなか手ごわい。とりあえず、思惟する主体の言明、あるいは、書き手の本質の言明、とでもしておこうか。
主体を言明する有効な方法に、書くという行為がある。書くことによって、思惟する自己を確認することができる。主観を観察するのに、客観的な視点は欠かせない。
だが、あまり文体や書き方に集中すると主体そのものを見失い、今度は思惟する自我と対決することになる。エクリチュールという概念をもってしても、やはり自我は手に負えないと見える。ならば、自我を避けるしかあるまい。だが、避けようにも自我の実体すら見えてこない。
ところで、デリダの文体は、翻訳の手口を拘束すると見える。翻訳者の愚痴まで聞こえてきそうな...

「翻訳は常に危険と裏腹だ。翻訳は文化の豊かさに寄与することもあれば、その足を引っ張ることもある。功罪の危うい活動である。そこに、我有化の欲望を持ち込むなら、デリダのテクストそのものを読んでいないという結果を排出するしかない。自ら著名をしたい欲望に突き動かされるのであれば、それ自体を私は否定しないが、そのことがデリダの問いかけを逸する確率を高くする。また翻訳するたびに、翻訳の政治性を改めて考えることを強いられる。『私はまだ読まれていないのではないか』という、不遜との印象を与えかねないデリダ最後のインタヴューでの発言も改めて真摯に受け取りたいと思っている。沈黙と饒舌との間に介在する沈黙の中で...」
... 港道隆

2023-08-27

"ジャック・デリダ入門講義" 仲正昌樹 著

精神を相手どれば、難解な認識論に放り込まれ、次々と造語が編み出される。哲学とは、そうしたものか...

人間の意思には、認識できる領域と、認識できない領域とがある。後者は思いのほか広大であるばかりか、精神そのものが得たいの知れない存在ときた。
そこで、疑問に思う。
「精神」という用語に、誰もが同じイメージを抱いているのだろうか、それで論争は成り立っているのだろうか、と。「精なる神」と書くぐらいだから、なにやら霊感的なものを感じる。おそらく、こいつを論ずる者は、人間は心のある生き物!魂のある生命体!といった定義が前提されるのだろう。それも確信をもってのことかは知らんが...

精神を相手どれば、どんな言語を用いるにせよ、言語体系の限界に挑むは必定。ある時は、ニュアンスの違いを穴埋めするために。ある時は、まったく違う概念を説明するために。またある時は、論争相手を追っ払うために。すべての中立な立場にあるメタ言語なるものが、この世に存在するかは知らん。あるとしたら、数学ぐらいであろうか...

デリダの場合、脱構築、差延、代補、現前の形而上学、エクリチュール、痕跡、パルマコン、コーラ、パレルゴン、憑在論... といった定義の難しい用語のオンパレード。おまけに、 文学風レトリックが多重に絡み、まるでゴルディオンの軛。それは、マニアックな読者を誘うための演出か。あるいは、上っ面な論者を排除するための技法か...
難解な書ってやつは、ほんの一部分だけでも理解した気分になれれば、それだけで達成感が得られ、その感情連鎖がたまらない、麻薬のような存在ではあるのだけど。いや、無力感もなかなか。おいら、M だし!
それにしても、こいつが入門書だというのだから、頭が痛い...

「従来の左派的なテクストは、文体や用語は難しくても、批判の対象とゴールがはっきりしていたので、一定の国語力さえあれば何となく理解することができた。しかしポストモダン系のテクストは、そもそも何をテーマにしているのかさえ分からないことが少なくない。」

さて、ジャック・デリダは、アルジェリア出身のユダヤ系フランス人。ホロコーストの時代を生き、民族を焼き尽くす炎に、精神の内から燃え上がる炎を重ねて論じて魅せる。
古来人類は、街を焼き、建物を焼き、書物を焼き、そして、人間を焼いてきた。三千年紀が幕を開けると、そうした焼却行為の伝統は、仮想空間での大炎上として受け継がれる。人体を焼くよりマシか。いや、手段が巧妙化しているだけに、余計に厄介やもしれん...

「ヨーロッパの知識人は、その『精神』の名において、ナチスとかファシズム、唯物論、ニヒリズムなどの『野蛮』に対抗しようとしてきたわけですが、それに対してデリダは、その『精神』というのは、実は、『炎と灰』をもたらす『神の霊』、ユダヤ人を燔祭の犠牲として要求した『霊』、ヨーロッパに取り憑き、祓ったはずなのに何度も何度も戻ってくる『亡霊』と同じではないか、と示唆しているわけです...」

1. 音声中心主義と差延
言語学で見かけるラングとパロールという用語は、それぞれ言語と語り言葉といった意味がある。ソシュール言語学では、ラングを社会的な規約に基づく言語体系、パロールを個人的な使用による言葉といった関係にある。
デリダの場合は、書かれた言葉、あるいは書く行為を意味するエクリチュールに注目し、パロールとの関係において論じているという。これを「音声中心主義」というそうな。音声というからには、書かれた言葉というより、語られた言葉という意味合いであろうか...
人間は、何かを明確に認識しようとする時、言語化を試みる。記述することによって、確実な知識にもなる。その記述の差異によって物事の存在を確実に認識でき、物事の再現では言語化や記号化に頼るわけだ。
しかしながら、一旦確認済みの差異も、時間の経過とともに認識の差異が生じる。人間ってやつは、時間とともに変わっていくものだ。それが進化か、退化かは知らんが...
デリダは、差異と時間的な遅延を組み合わせた「差延」という用語を持ち出す。この語は、著作「声と現象」(前記事)でも遭遇したが、音声中心主義では重要な位置づけにあるらしい。認識対象を言語で代弁するなら、時間とともに代弁に差異が生じ、代弁の代弁が必要となり、さらに代弁の代弁の... と。これが「代補」ってやつであろか。ニーチェの永劫回帰にも通ずるような...
すると、「脱構築」という用語もおぼろげに見えてくる。それは、構築物を再構築し、さらに再構築物を再構築し... すなわち、破壊と創造の輪廻ということになろうか...

2. エクリチュールと責任
書く行為、あるいは語る行為を「エクリチュール」というそうな。パロールは、語り言葉という意味だが、さらに語り手の意思を込めた用語のようである。
自ら文体を構築しようとすると、ある種の自己陶酔に見舞われる。主体が文体に乗り移り、逆に、文体が意思や思考を誘導するってこともある。言語で自己を形成する限り、エクリチュールの支配は免れまい。
たいていの書き手はエクリチュール内で帳尻を合わせようとするが、デリダはそんな努力にあまり興味がないようである。矛盾に出くわせば、それを自然に受け入れる。
しかしながら、言葉を発すれば、そこに責任がつきまとう。一貫性がなければ、猛烈な批判にも晒される。精神を相手取るのに、そんなことを気にしても、しょうがないといえば、そうかもしれん。
この世には、心に響く言葉がある。そこに理屈はない。一貫性も期待できない。それでも心に響くのはなぜか。究極の言葉に、沈黙という行為もある。ナザレの大工の倅は、沈黙によって磔刑を受け入れ、すべての責任を背負った。デリダは幼い頃、神霊的な熱狂の言葉が危険であることを、ゲッペルス文学博士によって目の当たりにしたことだろう。お喋りな理性屋どもが言葉を安っぽくするのも道理である...

2023-08-20

"声と現象" Jacques Derrida 著

声を中心に据えた哲学とは、如何なるものであろう...
どうやら現象学の視点から論じたものらしい。現象といっても物理現象とは、ちと違う。それは、極めて主観的な感覚に発するもの。人間の知覚能力は、その対象が客観的で物理的な存在と一致すれば、明らかな現存を認識できるが、その一方で、空想や幻想、あるいは錯覚までもリアルな意識にしちまう特性がある。しかも、この特性が、自我と結びついてしまうと、眠っていた誇大妄想癖をも呼び覚ます...

哲学書によく見かける現象に、用語が多義化するところがある。精神を限界まで探究すれば、言語の限界に迫ることになり、難解な用語が入り乱れるのも致し方あるまい。それだけに哲学者の個性が露わになる。
ジャック・デリダの場合、自我に劣らず手ごわい。まず、文体や用語からして難解!「現前」に、「現前性」に、「再 - 現前」に... なんのこっちゃ!
présent, présence, présentation, re-présentation という語を邦訳すると、こうなるらしい。
さらに、差異と遅延から「差延」という造語を編む。人は物事を認識する時、差異を感じ取って言語化を試みる。しかし、その差異を確認したにもかかわらず、時間の経過とともに、認識そのものに差異が生じる。差異の差異、そのまた差異の差異... 過去の自分は、もう自分ではないのだ。
対象を認識する時、言語によって再現するしかないとすれば、言語は実体の代替物となる。すると、実態と認識にも差異が生じる。対象を記述する文章化の過程で、誤謬を犯すこともしばしば。アンチノミーを前に、帳尻を合わすこともできない。言語は手ごわい。文体が主体の中に入り込み、意志や思考をごちゃ混ぜにしちまう。しかし、言語を介して自己を形成する限り、言語の支配から逃れることはできまい...
尚、高橋允昭訳版(理想社)を手に取る。

「してみれば、現象学的『沈黙』をもとの姿で構成しうるのは、二重の排除もしくは二重の還元を経ることによってにほかならない。すなわち、指標的伝達における、私のなかでの『他者との関係』の還元と、より高次な意味層の外にある事後的な層としての『表現の層』との、二重の排除がそれである。この二つの排除のあいだの関係においてはじめて、声の審級はその奇妙な権威を聞かせるであろう。」

声というからには言語を論じ、言語というからには記号を論じることになる。言語や記号といった実存性も、アニマにも似た感覚がある。
本書の趣向も、まず記号論に触れ、言語論を通じて、音声論へと向かう。そして、言語機能が備える二つの特性「表現作用」「指標作用」を区別しながら、声が演じる精神作用を物語ってくれる。表現と指標の区別は、意味を伴うか伴わないか、意志が伴うか伴わないか、といったこと。

まず、声には言語と同様、情報伝達の機能があり、伝え手の意図と受け手の解釈が一致しないという問題がつきまとう。情報理論の父と呼ばれるシャノンは、情報の意味ではなく、ひたすら量を論じた。そうすることによって数学で記述でき、確率論に持ち込むことができる。うまいこと割り切ったやり方である。

では、伝達手段としての音声を精神現象として眺めると、どうであろう。音声には、物理的な周波数特性とは別に、心に響く声というものがある。しかも、それは言語化されているとは限らない。
巷では、声が大きいほど注目され、言葉巧みに存在感が演出される。まったく騒々しい社会である。
実存を強調すれば、表現の仕方や意味の与え方を重視することになる。淡々と表記する指標は、おまけか。いや、冷静な目を向けると、客観的な実存という見方もできよう。人を惑わすのは、表現の方か。いやいや、客観を装った指標ほどタチの悪いものはあるまい。例えば、論者が持ち出す統計的指標ほど当てにならないものはない。
小説家ともなると、巧みな文章で行間まで読ませようとする。言うまでもなく、行間には文字がない。つまり、無に実存性を与えようと仕掛けてくるわけだ。
ナザレのお人は黙って磔刑を受け入れ、その解釈を巡っては三千年紀の幕が開けても論争が絶えない。彼は、沈黙によってすべての責任を背負ったのか。だとすると、真の説得力は、沈黙の方にあるのやもしれん。言葉を安っぽくしているのは、お喋りな理性者どもか...

記号や表現は、まばたきをしている間に過ぎ去ってゆく。まずはじっくりと、沈黙の声に耳を傾けるべし。だが、神は何も語っちゃくれない。ならば、己の声に耳を傾けてみるべし。それでも、周りの声を己の声と勘違いするのがオチ。神の声を聞くのに資格がいるのかは知らんが、己の声を聞くのにもよほどの修行がいる。声の哲学とは、結局は沈黙の哲学を言うのであろうか。そしてそれは、古来、自然哲学者たちが唱えてきた「己を知る!」ということになろうか...

「デリダによれば、プラトンからアリストテレス、ルソー、ヘーゲル等を経てフッサールにまでいたる西洋の哲学は、現前の形而上学を基軸として展開された『ロゴスとフォネーの共犯』の歴史である。それは、絶対的な『自分が話すのを聞きたい』であり、そのため、つねに書字を貶め軽んじて内面的な声(フォネー)に特権を与えてきた。この動向は、形而上学を批判すると称するフッサール現象学にも同じく認められるところである。」
... 高橋允昭

2023-08-13

"ギボン自伝" Edward Gibbon 著

自伝を書くには、勇気がいる。自我を客観の天秤にかけ、冷静でいられるはずもない。見栄っ張りにもなろう。独り善がりにもなろう。人生の回想録は、自分自身への言い訳にもなる。
歴史家ともなれば真実を信条とするだけに、政治家や文芸家が書くのとは、ちと意味が違う。記憶ではなく、情報に基づいて記述すべし!と表明したところで、空想上のアダムのように自我を完璧な姿に仕立て上げる。健全な懐疑主義を保つには、自己検証を怠るわけにはいかない。エドワード・ギボンは、「ローマ帝国衰亡史」を著した大家だが、彼ほどの人物でも葛藤の中でもがく...
尚、中野好之訳版(筑摩書房)を手に取る。

「もっと本格的な歴史記述の最高の徳目である真実、ありのままの何一つ隠し立てせぬ真実こそがこの個人的な報告の唯一の取柄でなければならず、それ故に文体も素直で親しみ深くあるべきであろう。しかし文体は性格の鏡である以上、正確に書く習慣は特別な労苦もしくは企図なしにも技巧と彫琢の外観を呈するかも知れない。自分の楽しみが私の動機であり報酬である故に...」

「ローマ帝国衰亡史」が、ToDo リストに居座って、十年が過ぎた。如何せん大作!お茶を濁そうと、代表的な章を掻い摘んでくれる「ローマ帝国衰亡史 新訳」(中倉玄喜編訳、PHP研究所)を手にしてみたが、まだまだ消化不良感は否めない(前記事)。
それでも軽妙なリズムに乗せられるのは、ギボンの文体に翻訳者が乗せられるところもあろう。本書にも似たような感覚が...
生涯を賭けられるものを見つけられるということが、いかに幸せであるか。ギボンは、十八世紀の悠々たる暮らしぶりから様々な分野の書物を漁り、自己の中で解釈の統一を図りながら大ローマに至った喜びを物語ってくれる...

「現在は流れすぎる一瞬であり、過去はもはや存在せず、そして我々の将来への展望は暗く不透明である。今日という日がひょっとして私の最後の日かも知れないとはいうものの、全体としては極めて正確ながら個々の場合には極めて当てにならぬ確率の法則は、私になお十五年ほどの余命を残している。」

一つの国家を物語る時、重要な要素に信仰や宗教がある。というより、国民の精神的支柱となる何か、とすべきか。ローマ帝国の場合は、キリスト教である。歴史書としてのキリスト教のくだりでは、聖職界から猛攻撃を喰らい、改稿せざるをえなかった苦悩を露わにする。かつて新興宗教で迫害される側にあったキリスト教は、秘密主義の下で密かに勢力を拡大し、やがて公認、国教化され、自らキリスト教徒となった皇帝の下で迫害する側に回る。
ギボンは、こうした歴史背景に重ねるかのように、自らの改宗体験を告白する。プロテスタントの家で育つも、オックスフォード大学在学中、宗教論争の末にカトリックへ改宗。すると、父親から退学させられ、スイスのローザンヌの地へ送り込まれる。勉強をやり直して来い!と...

「私が今日有する才能もしくは学殖或いは習慣はその一切がローザンヌにおける産物である。彫像が大理石の塊で発見されたのは実にこの学園においてであり、私自身の宗教上の愚行と私の父親の盲目的な決断は最も考え抜かれた叡知の結果を作り出した、と言える。しかし唯一の悪影響、それも我が国民の目には取り返しのつかぬ深刻な悪影響がスイスでの私の教育の成功から生み出された。つまり私はイギリス人たることを止めてしまっていた。」

そして、哲学を学び、歴史を学び... 再びプロテスタントへ改宗。というより、哲学的論考や懐疑主義に帰着したという言うべきか。クセノフォンを読み、ヘロドトスを読み、キケロを読み、テレンティウス、ウェルギリウス、ホラティウス、タキトゥスなどを読み漁っては、解釈の突き合わせに努め...

「全実体変化の教義を否定する哲学的論証を発見した時の孤独な陶酔を今に忘れない。」

ローマ帝国衰亡史の執筆にもローザンヌを拠点とし、田園、湖水、山脈の景観を見渡すアカシア並木に身を委ね、リュケイオンを逍遥するがごとく構想を練る。完璧な準備と知識で身を固め、ハンニバルの足跡を辿ろうと。巡礼先は大ローマだ!
そして、カピトリーノの丘で着想を磨き、その昔、ロムルスが立ち、キケロが弁じ、カエサルが倒れた記憶すべき場所、フォールムの遺跡で何を思う。人間五十年... というが、ギボンは五十歳にして衰亡史の最後を、こう締め括ったという...

「昔は野蛮だった遥かな北方諸国からの新しい巡礼者の種族も今日では英雄の足跡に、そして迷信ならぬ帝国の遺物に恭しく参詣している。この種の巡礼者そして読者諸賢は、恐らくローマ帝国の衰微と滅亡の過程に関心を唆られるであろう。... 私がそれ以後二十年近く我が生涯を楽しませ拘束させる運命になったこの著述の構想を最初に抱いたのは、私がカピトリーノ神殿の廃墟に立った時であり、たとえ自己の本来の願望に照らしてどれほど不満足にせよ、今これを最終的に読者公衆の好奇と温情に委ねる。」
... ローザンヌにて、1787年6月27日

2023-08-06

"ローマ帝国衰亡史 新訳" Edward Gibbon 著

「すべての道はローマに通ず」という古い格言があるが、三千年紀が幕を開けても尚、色褪せるどころか輝きを増してやがる。「ローマは一日にして成らず」というのもそうだが、本書に限っては、軽妙な文章に乗せられ、一日で読み干しちまった。なんて、もったいないことを...
ローマ帝国史といえば、エドワード・ギボンの名を耳にする。だが、彼の著作「ローマ帝国衰亡史」はいかんせん大作で、ToDo リストに居座ったまま。そこで本書は、この大著から代表的な章を掻い摘んでくれる。それでも、八百ページもの重み。やはり一日にしてしまってはもったいない。じっくりと読み返すとしよう...
尚、中倉玄喜編訳版(PHP研究所)を手に取る。

「昇るものは沈み、生まれるものは死に、朽ちるべきものは朽ちる。」... モハメッド

偉大なローマ帝国は、いかにして滅亡したのか。歴史家の間でも、様々な意見が飛び交う。義務教育では、ゲルマン民族の大移動がその原因だと教わったが、それではあまりに皮相的だ。直接の原因が外敵であったにせよ、様々な要因が複雑に絡んだ結果であることは免れまい。だからこそ多面的な教訓となる。タキトゥス著「年代記」によると、早々繁栄期に自壊の道を辿っていたことが見て取れる。
もともと共和国であったローマは、、初代皇帝アウグストゥスの時代から帝政へと移行した。当初の皇帝たちは、共和国の理念を引き継ぎ、あるいは、引き継いだように見せかけ、元老院も体面上の役割は果たしていたとさ...
共和国の伝統は、古代ギリシア文明を吸収しながら、異文化の中に優れたものを見つければ、積極的に取り入れる。占領地でも風習や宗教などに寛容で、周辺地域の部族から見れば、ローマは憧れな存在でもあったとさ...
やがて、僭帝たちは支配欲と領土拡大欲に憑かれ、伝統的な共和国精神が失われていく。かつての寛容性は影を潜め、血なまぐさい権力闘争に、異教徒の迫害に、蛮族と呼ぶ人々へのあくどい仕打ち... と。人が至福にある時、その背後に迫りつつある衰運を見抜くことは極めて難しい。帝国の臓腑には、慢性的な平和による害毒が徐々に広がり、人心は次第に画一化していったとさ...

「繁栄が衰亡の原理を動かしはじめ、衰微の要因が征服の拡大とともにその数を増やし、やがて時間や事件によって人工的な支柱がとり除かれるや、この途方もない構造物は、みずからの重みに耐えきれず倒壊したのだ。ローマ帝国滅亡の過程は、しごく単純にして明らかである。むしろ驚きを禁じえないのは、何ゆえにかくも長く存続することができたのか、という点にある。」

1. 東西分裂から滅亡のカウントダウン
ローマ帝国の滅亡時期となると、東西分裂後、西ローマ帝国の滅亡をもって... とする意見も見かける。ローマ帝国と呼ぶからには、首都はローマでなければ... という見方はできよう。東ローマ帝国は、ローマらしくないローマ帝国である。というより、ローマからコンスタンティノポリスへ遷都した時点で...
国民の構成も、ローマ人からギリシア人が主流に。そこで、ビザンティン帝国というオリエンタルな呼称がある。ギボンも、西ローマ帝国の滅亡で筆を置こうとした節があるらしい。
しかし、ビザンティン人は、自らをローマ帝国の正統な後裔と位置づけたという。ローマ精神は失っていないというわけか。
国家建設を論じる時、アイデンティティは重要な位置づけにある。そもそも東西に分裂した意図も、あまりに巨大化した帝国を効率よく統治するための政策の一環であり、権力闘争などによる内部分裂ではないようである。しかも、東側の統治者の方が、西側より優れた皇帝を輩出したという経緯もある。そして、コンスタンティノポリスの陥落物語は、衰亡史のクライマックスを飾るに相応しい...

2. キリスト教の存在感と一神教の影響力
国家の形成を論じる時、宗教や信仰を無視できない。共和制の時代、ユピテル神を頂点に多くの神々を崇拝していた。それは、国家的祭儀の形をとりながら、国政とも強く結びついていた。領土拡大とともに、他国の新たな神々が入ってくる。この多神教の世界が、他の神々を受け入れる寛容性となり、共存、融合するようになったという。
かつては、蛮族同士の争いからローマに庇護を求め、そのまま帝国領地に定住するといったケースも多く、すでに蛮族大移動の種が蒔かれていたようである。
しかし、一神教を崇めることによって皇帝の神格化がはじまり、キリスト教が国教となる。一神教は寛容性を欠く側面がある。なにしろ、他の神を認めないのだから。そして、異教徒迫害が正義となる。ニ世紀、リヨンの司教聖エイレナイオスが「異端反駁」で四つの福音以外を異端とした。もともと異端の側にあったキリスト教は、秘密主義を通して多くの福音が点在したはずだが...
四世紀、コンスタンティヌス帝はキリスト教を公認したが、それは政治が混乱する中でキリスト教徒との妥協であったのだろうか。当初はそうかもしれんが、コンスタンティヌス帝はローマ皇帝として初めてキリスト教徒となり、ニカイア公会議ではアタナシウス派を正統とし、アリウス派を異端とした。ここから、異端派の排除が一気に加速する。
善悪の対立構図は、大衆を扇動するには実に分かりやすく、効果的である。絶対的な神の存在は、相対的な認識能力しか持ち合わていない知的生命体にとって荷が重すぎるのやもしれん。人間味あふれる不完全な神々と戯れている方が身の丈であろう...
そして、この時代の正統派と異端派の分裂は、後のローマ・カトリック教会とギリシア正教会の二大宗派、さらに、プロテスタント宗派を加えるという流れに通ずるものがある。
また、信仰や宗教の教訓としては、政治を司る者が中立を保つことの大切さと、その難しさを物語り、政教分離といった近代政治思想へも通ずるような...

3. ローマ精神と民族大移動
帝国精神は共和国の伝統によって支えられ、蛮族の自発的な臣従に見て取れる。ローマの司法権が及ぶ土地を拡大するにつれ、これに属すことを誇りとする国民精神が育まれていく。東方の遊牧民フン族が西へ移動すると、蛮族が帝国領内に流れ込み、新たな臣民となって割譲された地域に定住するようになったという。このような形でローマ帝国は蛮族を受け入れるようになったとか。
しかし、蛮族は蛮族である。統治者たちの差別意識がむごい仕打ちとなれば、暴力には暴力を。これが、蛮族大移動の原理であろうか。強制された威厳は脆い。これが人間法則というものか。統治の観点からも、自由を排除するより多様性や寛容性といった価値観を受け入れる方が、はるかに合理的であろう。
ローマ帝国史には数々の暴君が出現するが、その都度、改善を試みた賢帝が出現し、そんなところにローマ帝国が長く存続できた要因の一つがありそうである。
そして、この時代の民族大移動が、近代国家の形成を担う民族マップになっていることも興味深い。二十一世紀の今日、欧米諸国で難民や移民を積極的に受け入れる慣習を見かけるが、そこに古典回帰を見る思い。なるほど、すべての道はローマに通ず...

「表向き『共和国』という名称と体面とを維持した初期の皇帝らによる巧妙な政策、多数の軍事僭帝によって引き起こされた国内の混乱、キリスト教の発展と各宗派、コンスタンティノポリスの建設、帝国の分裂、ゲルマン人やスキタイ人の侵入と定着、国内法の制定・編纂、モハメッドの性格と宗教、教皇の現世支配、シャルルマーニュによる西ローマ帝国の復興とその後の衰微、ラテン人による東方への十字軍遠征、サラセン人やトルコ人の征服事業、東ローマ帝国(ビザンティウム)の滅亡、中世におけるローマ市の状況と変遷等々、まことに、各種の原因とそれにつづく現象とが、かくまでに興趣に富むさまざまなかたちをとって現れている歴史はほかにない。しかしながら、この主題の重要性や多彩性を大いに強調する歴史家も、だれであれ、かならずしや自己の力量不足を痛感せざるを得ないことだろう。」
... エドワード・ギボン

2023-07-30

"市民政府論" John Locke 著

右と左に二極化する現代社会において、右往左往する大衆を前に、自由主義や民主主義の在り方を問う。多数派に委ねられる民主政治は、市民の大多数が愚かだと、愚かな政治家どもがのさばり、衆愚政治と化す。アリストテレスは民主制を最悪な政治システムと酷評したが、それも頷けよう。それでも、君主がことごとく僭主となることを顧みれば、独裁制よりはマシか...
市民社会を支える上で、いまや欠かせない自由主義と民主主義は双子の兄弟のようなもの。その根底に立ち返ろうとすれば、避けては通れない人物がいる。そう、人間悟性論を著したジョン・ロックだ。彼の著作では、「完訳 統治二論」加藤節訳版(岩波文庫)に触れたことがある。再読も考えたが、できれば軽く流したいし、どうせなら翻訳者も変えてみたい。そこで、統治二論の第二編(後編)に位置づけられる「市民政府論」というわけである。軽くは流せないけど...
尚、角田安正訳版((光文社古典新訳文庫)を手にとる。

古くから哲学者たちは、人間の本質に根ざした共同体の在り方を思い描く上で、人間の自然状態というものを問うてきた。それは、基本的人権と深くかかわる設問である。ロックは主張する。人は生まれながらにして「生命、自由、財産」を守る権利があると。これらの権利はどんな権力にも制限されるものではないと...
中でも、最も厄介なのが、自由ってやつだ。こいつを野放しにすれば、獣が群れる弱肉強食の社会となり、人権なんぞは虚構に成り下がる。ロックは補足する。「生まれつき理性をそなえているからこそ、生まれつき自由なのである。」と...
しかし、理性なんてものは、最初から備わっているわけではあるまい。共同体の中で、その生活経験から身につけていくものであろう。となると、共同体が先か、理性が先か、といった鶏と卵のような関係を問うことに...
人間の自然状態に、理性は本当に備わっているのだろうか。ただ、これを前提にしないと、人間の尊厳が失われる。いや、経験を積むと、誰もが自然に身につけられるもの、とすることはできそうか...

自然状態には、自然法なるものが暗黙に機能するようである。それは、理性の叫びか、良心の叫びか。耳を傾ければ、理性の声が聞こえてくる。何人も、他人の生命や健康、自由や財産を侵害してはならない、と。それは、自分自身の生命や健康、自由や財産が侵害されることを嫌ってのこと。
人間が単独で生きてゆけるなら、自然法だけで十分であろう。だが、共同体の中で生き、その規模が大きくなるほど、ルールとその成文化が必要となる。価値観の違う人が集まれば、尚更。
人間ってやつは、 何事も明文化しないと落ち着かない、確固たる根拠がないと落ち着かない、いつも共通意識を確認し合っていないと不安でしょうがない、何事も言葉にしないと不安でしょうがない... そんな存在だ。
そこで、実定法なるものが必要となる。とはいえ、締まりのない大量の条文が形骸化していることは周知の通り。どんな法律も、自然法に適っていなければ、機能しないというわけか...

「地上のいかなる権力にも縛られず、人間の意志や立法権の支配を受けず、自然法以外に人間の従うべき準則が存在しない... これが人間の本来の自由である。それに対して、社会における人間の自由というものがある。そのような自由は、国内で同意にもとづいて制定される立法権力に制約される。」

では、国家の正当性はどこからくるのだろう。国家法が後ろ盾になっているにしても、その国家法は自然法に適っているだろうか。たいていの人は、この世に産まれ落ちると、どこぞの国家に自動的に所属させられるという、いわば奇跡的なシステムに組み込まれている。物心ついた頃には、疑問すら持てないほどに。これを自然状態と言えるだろうか。
現在の国家は、その多くが 18 世紀から 19 世紀頃に出現した「近代国家」と呼ばれる枠組みを継承している。既にプラトンの時代には国家論が唱えられ、現在の枠組みは歴史がまだまだ浅いということになる。古来、哲学者たちが論じてきた自然状態からも、かなり乖離しているのやもしれん。自然法の面影も薄れているようだ。
現代人は、所有権を保持するために実に多くの法律を編み出してきたし、さらに、その数を増やそうとしている。共同体の目的は、自らの所有権を保全することなのか。
少なくとも、ロックが唱えた「生命、自由、財産」が保障されなければ、国家ってやつは、その存在意義すら失う。そして、国家を支える「社会契約説」とやらが浮かび上がってくる...

「人間はみな、本来的に自由で平等である。そして、独立している。同意もしていないのにこの状態を追われるとか、他者の政治的権力に服従させられるとかいったことは、あり得ない。本来そなわっているはずの自由を投げ出し、わが身を市民社会のきずなに結びつける方法は一つしかない。それは、ほかの人々との合意にもとづいて共同体を結成することによる。共同体を結成する目的は、自分の所有物(生命、自由、財産)をしっかりと享有し、外敵に襲われないよう安全性を高めるなど、お互いに快適で安全で平和な生活を営むことにある。」

多くの国家は、立法権を国民の代表機関である議会に委ねる。我が国の憲法でも、第四十一条に「国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。」と謳われる。そこで、ロックは主張する。立法部は常設する必要がないと。いや、常設するとむしろ弊害になると。
人間ってやつは、とかく権力を握りたがる性癖を持っている。最高権力を常設すれば、その地位に就こうと躍起になるばかりか、一旦獲得しちまえば、法律を改竄してでも権力にしがみつこうとする。立法権は国家の最高権力では収まらず、ひとたび共同体から委託されると、それを引き受けた者にとって神聖なものとなる。それだけに、立法権は恐ろしい。この権力を一部の人間が独占すると、さらに恐ろしい。人間社会には、神になりたがる奴らで溢れている。専制政治の最大の弱点は、こういうところに露わとなるであろう...

2023-07-23

"スモール・イズ・ビューティフル" Ernst Friedrich Schumacher 著

「人間は小さいものである。だからこそ、小さいことはすばらしい...」

八年ぐらい前になろうか、原題 "Small is Beautiful" については、「人間復興の経済」と題した斎藤志郎訳版(佑学社)を手にした。そんなことも忘れていたのだけど、ブログに記録していたことが功を奏す。
実は、既に買った本を数年後にまた買ってしまい、ブルーになるという経験が何度もあるのだ。今度は、サティシュ・クマールの編んだ「風船社会の経済学」(前記事)に触発されるも、どうせなら別版にトライしたい。そこで、小島慶三、酒井懋訳版(講談社学術文庫)というわけである。邦題の様変わりもあるが、翻訳者が違うと、こうも光景が違うものであろうか。だから、おもろい!時間が経てば読み手の感覚も変わり、さらに違うものがある。だから、おもろい!再読の妙とは、こんなところにあるのだろう...

「人間復興の経済」は哲学書風でちょいと重い感じもあったが、本書は、ちょいと砕いた感じで軽快に読める。今の風潮には、こちらの方が合っているのだろう。ただ、読みやすいと活字に流され過ぎる感あり。文字の大洪水が苦手なネアンデルタール人には、前者のリズムの方が合ってそうか。とはいえ、再読の場面では、文字の流れは軽快な方がいい。おいらにとって読む順は完璧だ!そして、拾う言葉もおのずと違ってくる...

「人間が全体として真実から逃げる一方だとすると、他方では、真実が四方八方から人間に迫ってきているともいえる。真実の一面に触れるには、昔は一生努力しなければならなかったが、今日では逃げないだけでよい。だが、逃げないということは、なんとむずかしいことだろうか...」

技術屋の間では、"Simple is Best" という信仰が根強い。"Small is Beautiful" も、その類いであろうか。物事を必要以上に複雑に考えることもあるまいが、想像以上に適度に考えることも難しい。
おまけに、自意識ってやつは、大きな流れに飲み込まれたいと見える。たいていの人は大多数派に属すことで安住し、就職先では大企業に人気が集中し、ナショナリストは領土拡大欲に憑かれ、独裁者は巨大兵器に幻想を抱き、独占欲の強い奴は愛の大きさを乞う。
だが実際には、コンパクトで小回りの利くものの方が実用的なことが多い。何事も大き過ぎると手に負えなくなるのが道理。
但し、小さきものが美しいとは限らず、醜態の寄せ集めということも十分にありうる。
"Small is Beautiful" という言葉には、適度な規模と適度な技術、そして総合的な視野という思いが込められているようである。何事も美しさの原理には調和が保たれており、E. F. シューマッハーの唱える仏教経済学とやらに中庸の哲学を見る思い...

「唯物主義者が主としてモノに関心を払うのに対して、仏教徒は解脱(悟り)に主たる関心を向ける。だが、仏教は『中道』であるから、けっして物的な福祉を敵視しはしない。解脱を妨げるのは富そのものではなく、富への執着なのである。楽しいことを享受することそれ自体ではなく、それを焦れ求める心なのである。仏教経済学の基調は、したがって簡素と非暴力である。経済学者の観点からみて、仏教徒の生活がすばらしいのは、その様式がきわめて合理的なこと、つまり驚くほどわずかな手段でもって十分な満足を得ていることである。」

経済学は、利潤や生産効率の最大化といったものを主眼に置き、ひたすら合理的な社会を論じる。それは、誰にとっての合理性であろう。経済学者にとっての合理性か。金融アナリストにとっての合理性か。
そもそも、経済学は何を見据えた学問であろう。人間性は、GDP などでは測れない。国民所得の増大や完全雇用を論じても、人間の豊かさには至らない。人間は仕事を失うと絶望するが、それは単に収入を失うからではなく、規律正しい仕事に内包される活力までも失うからである。
本書の意図には、一度、人間に立ち返ってみよ!という要請があるように思える。人間らしい生き方とは... 人間らしい社会とは... そうした観点から経済学を論じよ!と...

「民主主義、自由、人間の尊厳、生活水準、自己実現、完成といったことは、何を意味するのだろうか。それはモノのことだろうか。人間にかかわることだろうか。もちろん、人間にかかわることである。だが、人間というものは、小さな、理解の届く集団の中でこそ人間でありうる。そこで、数多くの小規模単位を扱えるような構造を考えなければならない。経済学がこの点をつかめないとすれば、それは無用の長物である。経済学が国民所得、成長率、資本産出比率、投入・産出分析、労働の移動性、資本蓄積といったような大きな抽象概念を乗り越えて、貧困、挫折、疎外、絶望、社会秩序の分解、犯罪、現実逃避、ストレス、混雑、醜さ、そして精神の死というような現実の姿に触れないのであれば、そんな経済学は捨てて、新しく出直そうではないか...」

2023-07-16

"風船社会の経済学 - シュマッハー学派は提言する" Satish Kumar 編

原題 "THE SCHUMACHER LECTURES"
E. F. シューマッハーといえば、「小さきことの善」を説いた人で、昨日、南米ジャングルから彼の著作「スモール・イズ・ビューティフル」が届いたばかり。本書もまた小さき知の結集といった様相を呈する。叡智とは、多角的な知の総動員!しかしながら、小さきことばかりに目を奪われれば、大局を見失う。ご用心!ご用心!
尚、村山勝茂訳版(ダイヤモンド社)を手に取る。

本書は、E. F. シューマッハーの追悼講演録で、精神医学、歴史学、考古学、言語学、心理学、物理学、未来学、政治哲学といった分野で活躍する八人もの研究者や実践家が入り乱れ、これらをサティシュ・クマールが編む。八人それぞれが専門の枠組みから解き放たれ、地球の在り方や自然との共存を問い、人間らしい社会とは... という観点から社会に物申す。それで新たな見解が得られるわけではないが、知的好奇心とは、それ自体に意義があるのだろう...

「どんな研究分野であれ、新しい着想を得ようとするときに、旧い概念に対する批判や攻撃を加えるという方法は必ずしも有効ではない。垂直に物事を積み上げて、自らにいっそう重い負担をかけて苦しむより、発想を思い切って転換し、要点と思われるところで物事を水平に切って頭を軽くすると新しい着想が得られることがある。」

学問を深化させれば、専門化が進むは必定。だがそれで、専門バカを量産し、知の縦割り社会となるのでは本末転倒である。「風船社会...」と題しているのも、中身は空っぽ!ってかぁ...
しかしながら、現実に目的を求めたところで詮無きこと。この世に合目的なんてものが存在するのかは知らんが、人生に意味を求めずにはいられないのが人間の性(さが)。現代人は、空っぽの中身を連想で埋めようと必死にもがき、仮想化社会にのめり込んでいく。それは、現実に幻滅した結果であろうか...
巷では、リアリティという表現をよく耳にするが、Real と Reality では、ちとニュアンスが違う。現実から現実性へ、実存から実存性へ。精神の実体が自由電子の集合体なのかは知らんが、この塊を魂と呼ぶなら、魂ってやつは、真実よりも真実っぽいものに、本物よりも本物っぽいものに引き寄せられる性質があると見える。そして大衆は、リアルではなく、リアリティに群がる...

「物事はもはや知性ある人間のコントロールを離れ、盲目の権力が敵対する権力に対し、ゲームのルールに従って、両者があらかじめプログラムされたとおりに対応するようになる... そうして、世界権力をめぐる二つの権力のゲームは人間の理性が不在のまま継続し、残された地球の鉱物資源と奴隷的人口の忠誠の獲得を競い、宇宙の覇権とその他もろもろの愚かで自殺的な目標を競うことになる...」

E. F. シューマッハーは、ケインズに師事しつつも、ケインズやマルクスの理論に違和感を覚えるようになったという。今日の経済理論でも、生産力の上昇、国民所得の増大、失業率の改善といったものを論じながら、自然環境の破壊を黙認している。産業革命から続く科学技術の進歩は、莫大な人口増殖を引き起こし、エネルギー危機や資源問題に直面しつつある。人類は、地母神に見放されつつあるようだ。ついでに、月は地球から数センチずつ遠ざかっているとも聞くが、ツキからも見放されつつあるようだ...

「工業経済が中央集権化と資本集約的生産の一定の限界に達してしまったら、今度は横断的情報網と意思決定をより多く用いて、地方分権的な経済活動や政治形態へと方向転換せざるをえない... さもなければあまりにも階級組織化され、官僚化された制度における深刻なボトルネックに陥って、どうしようもなくまってしまう...」

2023-07-09

"啓蒙とは何か 他四篇" Immanuel Kant 著

昔からそうなのだが、おいらには「啓蒙」という用語が、イマイチしっくりこない。押し売りの類いか。宣教と何か違うのか。そんな眼で見ちまう。天邪鬼にも困ったものだ。
辞書を引くと、「人々に正しい知識を与え、合理的な考え方をするよう教え導くこと...」とある。「啓」は、開く、教え導く... といった意。「蒙」は、暗い、愚か、無知... といった意。よって、愚か者を導くといった意味になりそうな... 
しかし、西洋語の "Enlightenment(英)", "Lumières(仏)", "Aufklärung(独)" は、いずれも「光」や「明るさ」といった意味合いが強い。つまり、光を見るのは自分自身の力であること... 誰かの思想に乗っかるにせよ、教え導くのは自分自身であること... といったところであろうか。「開眼」という語に近いような...

17 世紀から 18 世紀にかけて、ホッブズ、ロック、ヒューム、モンテスキュー、ルソーらは、人間の自然状態を盛んに論じた。理性の原因を人間の本性に求め、自然に発する理性の実践によって自立を促すといった目論見である。それで、彼らの啓蒙思想は完成を見たであろうか。いや、まだ始まったばかりか。いやいや、ソクラテスの時代からずっと続いてきたような。カントは大衆を鼓舞する。人の意見を当てにして生きている大人どもよ、大人になれ!と...

尚、本書には、「啓蒙とは何か」「世界公民的見地における一般史の構想」「人類の歴史の憶測的起源」「万物の終り」「理論と実践」の五篇が収録され、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「啓蒙とは、人間が自分の未成年状態から抜けでることである。ところでこの状態は、人間がみずから招いたものであるから、自身にその責めがある。未成年とは、他人の指導がなければ、自分自身の悟性を使用しえない状態である。ところでかかる未成年状態にとどまっているのは自身に責めがある。というのは、この状態にある原因は、悟性が欠けているためではなくて、むしろ他人の指導がなくても自分自身の悟性を敢えて使用しようとする決意と勇気とを欠くところにあるからである。それだから『敢えて賢こかれ!』、『自分自身の悟性を使用する勇気を持て!』... これがすなわち啓蒙の標語である。」

本書で目を引くのは、「世界公民的...」という用語と、成熟した個人の行動に「理論と実践の一致を見る」という観点である。
まず、「世界公民的...」というのは、犬のディオゲネスが唱えた世界市民構想に通づるものがある。現代風に言えば、国民である前に、市民であれ!といったところであろうか。
イギリス革命やフランス革命などの市民革命の連鎖を経て、「近代国家」と呼ばれる政治形態が各地に出現した。現在の国家の枠組みは、この頃の形態をほぼ引き継いでいる。つまり、現在の国家という概念は、三百年ほどの歴史しかないということになる。おそらく、プラトンが唱えた国家論とも随分違うものなのだろう。
やがてグローバリズムの波が押し寄せ、国家という概念も随分と曖昧なものになった。とはいえ、ナショナリズム的な精神高揚は、19世紀頃からあまり変わっていないような。国家の枠組みに囚われた者とハミ出した者とで、世論が二極化するのも無理はない。ただ、自由主義や資本主義は、国家の枠組みから解放させてあげた方が機能すると見える...

次に、「理論と実践の一致を見る」という観点では、理想高過ぎ感は否めない。どんなに立派な理論でも、実践で役立たずでは意味がない。そればかりか、理想が現実を歪めちまうこともよくある。大衆社会では、理論と実践はしばしば矛盾し、たいてい実践が重んじられる。実践は難しい。理論はさらに遠く、道徳原理は遥か彼方なり...
しかしながら、カントは敢えて理論と実践の一致を唱える。理論が実践に近づくのか、実践が理論に近づくのか。いずれにせよ、調和や中庸といった概念を必要とするだろう。例えば、道徳を理論とするなら、義務が実践に位置づけられる。道徳哲学とは、自己が幸福になる方法を教えるのではなく、共同体にとって幸福に値するようなものを教える学を言うそうな。しかも、その学には義務が必然的に伴うとか...
そして、道徳と義務の一致を見る時、最高善という概念が薄っすらと浮かび上がる。アリストテレスのポリス構想にも通ずるような。自己啓発や自己実現といった地道な行動に、啓蒙を見る思い。そのためには、道徳だけでは不十分!ましてや幸福なんぞを目的にしても満たされるはずもない。道徳原理や義務遵守に定言命法を要請してくるとは、なんと酷なことを。凡人は、屁理屈でも唱えてないとやっとられん!

「無知な人が、自分で実践と思いなしているところのものについて、理論はもともと不必要であり無くても済むものだなどと放言しているのは、まだしも我慢できる。しかし利口ぶった人が、理論とその価値とを、(ただ頭脳を訓練する目的だけの)学課としては認めるが、しかしいざ実践ということになると、様子ががらりと変ってくるとか、或いは学校を出て実社会に出ると、これまで空虚な理想や哲学者の夢に徒に追随してきたことをしみじみと感じるとか、... 要するに、理論ではいかにも尤もらしく聞こえることでも、実践にはまったく当てはまらないなどと主張するにいたっては、とうてい我慢できるものではない。」

うん~... 最も理論を実践に近づけているのは、道徳哲学よりも科学やもしれん。客観的な法則は、思い込みの強い人間の思考をねじ伏せちまう。宗教裁判なんぞを鑑みると、時間はかかるにせよ。なので、カントに限らず、啓蒙思想家たちが宗教政策に対して批判的な立場をとったのは頷ける。
本書の影で、啓蒙思想ってやつが近代国家の出現や科学革命の布石に見えてくる、今日このごろであった。そして、おいらも啓蒙されたい。M だし...

2023-07-02

"プロレゴメナ" Immanuel Kant 著

"Prolegomena" とは、ギリシア語で序論を意味し、正確な表題は「およそ学として現われ得る限りの将来の形而上学のためのプロレゴメナ(序論)」となるらしい。ここに、批判哲学の建築スケッチを見る思い。哲学の建設には自省がつきもの。自省の建築には自己否定がつきもの。批判哲学の建築に、健全な懐疑心なくして成り立つまい。自己否定に陥っても尚、愉快になれるなら真理の力は偉大である...
尚、篠田英雄訳版(岩波文庫)を手に取る。

「人間の理性は、たいへん建築好きにできているので、なんべんとなく高い塔を築いては、あとからまたそれを壊して、土台が丈夫にできているかどうかを調べたがるものである。人間が理性的になり賢くなるのに遅すぎるということはない。しかし透徹した洞察をもつのが遅れると、これを活用することがそれだけ困難になるのである。」

カントの三大批判書に触れたのは、十年以上前になろうか。ブログの履歴を辿ると、そういうことになっているが、つい此の間だったような...
その第一弾「純粋理性批判」には形而上学への皮肉が込められていたが、刊行当初、それが形而上学そのものの否定と解され、有識者たちに猛攻撃を喰らったようである。著名な書には曲解がつきもの。難解な哲学書ともなれば、尚更。そもそも哲学とは、抽象的な概念の集合体であり、様々な解釈を呼ぶものだ。読者は、分かったような、分からないような、その境界をさまよいながら、自我の中に眠っていた思考を呼び覚ます。眠らせたままの方が幸せやもしれんが...

本書は、曲解への反駁として書かれているが、カントにしては文体が平明。実に、らしくない!そのためか、形而上学への皮肉が、より冴えてやがる。実に愉快!偉大な哲学者の愚痴が聞けるのもいい。いまだ人類は真の形而上学を手に入れていない!と言わんばかりに。これも曲解であろうか...

カントは、形而上学への道筋を、四つの問い掛けで組み立てる。
一つに、純粋数学はどうして可能か。
二つに、純粋自然科学はどうして可能か。
三つに、形而上学一般はどうして可能か。
そして、学として形而上学はどうして可能か... と。

ユークリッド原論には、五つの公準が規定される。純粋幾何学は、これ以上証明のやりようのない純粋な命題で構築されている。第五公準は反駁されたにせよ...
カントは、時間と空間をア・プリオリな認識として規定した。この二つを、経験に依拠しない、人間の根源的な純粋認識に位置づけたのである。公準も、アプリオリも、人間の認識能力の限界を示しており、直観の限界を暗示している。そして、純粋理性というものを探究すれば、この限界に挑むことになる。
純粋数学の真理は、絶対的必然性を帯び、まったく経験に依拠せず、ア・プリオリ的である。数学的判断と哲学的判断はともに理性的であるが、前者は直観的で、後者は論証的。いや、屁理屈的か。
したがって、純粋理性の建築には、論証だけで組み立てられるものではなく、直観で補完する必要がある。形而上学を学と成すにも、悟性だけでは心もとなく、直観と経験、主観と客観の協調が求められる。しかも、自我という閉じられた空間で。
「学として形而上学が可能か」との問い掛けは、詰まるところ、理性が学問として可能かを問うているようなもの。これも曲解であろうか...

カントは、「純粋理性批判」に至った経緯で、ヒュームが形而上学で持ち出した問題意識に触発されたと告白する。それは、「原因と結果との必然的帰結」という視点だそうな。たいていの認識過程は演繹的に導くことができるが、その必然性を突き詰めたところ、その先に純粋理性、すなわちアプリオリなるものを見たようである。そして、普遍的な原理において、理性の限界を規定するに至ったと。
理性は、自制において機能する。自分自身の理性に自信を持つということは、すでに理性が暴走を始めている。理性の暴走ほど厄介なものはない。信念や信仰を後ろ盾に、残虐行為までも正当化しちまうのだから。やはり、理性にも限界を規定する必要がありそうだ。それは、自分自身の認識能力の限界を知ること。すなわち、己を知ること。そして、ソクラテスの時代から唱えられてきた格言に回帰する... 汝自身を知れ!これも曲解であろうか...

2023-06-25

"天才の精神病理 - 科学的創造の秘密" 飯田真 & 中井久夫 著

精神病理学の応用領域に、「病跡学(Pathographie)」というのがあるそうな。
"Pathographie" という語は、精神医学者メビウスによって編み出され、天才人の精神医学的伝記という意味が込められているとか。
当初、芸術家や思想家が研究対象とされ、科学者はあまり注目されなかったらしい。芸術家や思想家の天才ぶりは独特な個性によるもので、それは極めて主観的であり、精神性の研究にもってこい。
対して科学者はというと、客観的な法則を探究する連中で、一見、精神性に乏しそうに見える。しかしながら、法則や理論に至る過程では強烈な個性が発揮され、科学者のドラマティックぶりも負けちゃいない。
ただ、精神性の探究が精神病へ導くことと紙一重であることに違いはなく、芸術家や思想家同様、自ら命を絶つ者も少なからずいる。いつ何時、ぼんやりとした不安に襲われることやら...

アリストテレスは、こんな言葉を遺した... 狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない... と。天才とは、ある種の精神異常者を言うのであろうか。中には、自ら異常性を認め、あるいは、精神の避難所をうまく見つけ、発病の危機を免れる者もいる。ある者は小説を書くことに、ある者は音楽を奏でることに、ある者は絵を描くことに... それは、人間社会の煩わしさから逃れるためか。そして、科学に取り憑かれる者も...

科学者たちは、数学に没頭し、論理にのめり込む。論理には不意打ちがない。数学の定理にしても、容易く反証できるものではなく、実に安定している。そして、論理と数学で構築された科学の体系は、ある種の宇宙を築き上げる。不安定の渦巻く人間社会への恐怖心が、安定した宇宙法則を欲するのであろうか。
人間にとって想定外はすこぶる恐ろしいと見え、巷では怒号の嵐が吹き荒れる。なるほど、科学の体系は居心地が良さそうだ。孤高な研究室こそが我が聖域!こうして、人間嫌いを加速させていくのか...

科学法則の多くは、数学によって記述される。客観性において、数学は飛びっ切りの学問だ。自己の主観が手に負えないから、客観に逃れるのか...
数には、不思議な力がある。精神病患者や知的障害者は心が落ち着かないと、数を数え始める。ある種の儀式となって。サヴァン症候群のような突飛な能力の持ち主ともなると、数字が風景に見えるらしい。おいらも、デスクトップ上のスキャンカウンタをなんとなく見入ったりする。数には、なにやら心を落ち着かせるものがあるらしい。数は自己治療の処方箋か。万物は数なり!とは、よく言ったものだ...

さて本書は、六人の科学者の気質から「分裂病圏、躁うつ病圏、神経症圏」に分類し、自己形成の過程、独特な学問のやり方、内面から湧き出る創造性といったものを紹介してくれる。
六人とは、アイザック・ニュートン、チャールズ・ダーウィン、ジグムント・フロイト、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、ニールス・ボーア、ノーバート・ウィーナー。
フロイトとウィトゲンシュタインを科学者とするのに、ちと違和感があるものの、フロイトが自然科学者として出発し、科学的な観点から精神分析学を創設したこと、ウィトゲンシュタインもまた数学者ラッセルに惹かれて論理学に傾倒し、論理哲学論考を書したことを鑑みれば、収まりもいい。
尚、著者は「てんかん圏」の科学者を加えることができなかったことを口惜しむ...

そして、それぞれの気質から研究姿勢の特徴を挙げている。
分裂病圏の学者は、直観的、体系的、世界超脱的、革命的といった特徴があり、ニュートンとヴィトゲンシュタインがこのグループに属すと。アインシュタインも、ニュートン力学同様、相対性理論という宇宙体系を構築したことで、このグループに分類している。
躁うつ病圏の学者は、経験的、感覚的、伝統志向的、斬新的といった特徴があり、ダーウィンとボーアがこのグループに属すと。
神経症圏の学者は、境界領域の探究、離れた領域の結合といった特徴があり、フロイトとウィーナーがこのグループに属すと。

分裂病圏の人は、精神的危機を局所化する能力が乏しいという。危機を局所化できなければ、全体に及ぶ。ゆえに、世界全体を創り変えなければ気が済まず、物理法則に体系化を求める才に富むということか。理想郷のようなモデルを夢想したり、誇大妄想や被害妄想に憑かれたりするのも、ある種の現実逃避やもしれん...
躁うつ病圏の人は、分裂病圏のような独自性や飛躍性はないが、まだ現実を見失わず、現実世界に庇護の場を求めて安住を図ろうとするという。勤勉、几帳面、徹底的といった執着気質も覗かせる...
神経症圏の人は、ちと異質で、社会的状況や歴史的背景をもって関連性を模索する傾向にあるという。あらゆる事象に関連性を求めるということは、孤立を極端に恐れているということか。不安神経症、強迫症、恐怖症、ヒステリー、心気症などの複雑な様相は、他との関係から生じる性質で、依存性に執着しているとも言えそうか...

「科学のあゆみを病蹟学の立場から眺めてみると、まず分裂病圏の科学者によって一つの学問の体系が一挙に創始され、躁うつ病圏の科学者はそれを肉づけ、現実化し、発展させたりする。また躁うつ病圏の科学者は科学的伝統の担い手となり、それを次代に継承する役割を果たしたり、ときには先行する学説や事実を統一して総合的な学説を編み出す場合もある。神経症圏の科学者のある者は、かけ離れた事実、異なった学問領域を架橋し、相互の連関をさぐる働きをするという印象がある。このように、科学の発展段階とさまざまの気質的特徴との出会いが人を科学へとみちびき、科学の歴史的発展を担う大きな要因の一つとなっているのではなかろうか。この仮説を跡づけることは、なお今後の研究に待ちたい。」

2023-06-18

"精神科治療の覚書" 中井久夫 著

精神病棟をイメージさせるものに、鉄格子の窓や施錠された扉といったものがある。正気と狂気の境界として。それは、異常者を隔離するためのものか。それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものか。そして、自分はどちらの側にいるのか...


精神病とは、どんな病を言うのであろう。一般的には、心の病と認知されている。心とは、なんであろう。漱石の「こころ」を読めば、それが傷つきやすいものということは分かる。しかし、心ってやつは気まぐれだ。はずんだり、沈んだり、いろいろしやがるし、こいつを正気に保つことは難しい。

身体の持ち主が、一度も身体を病まずに生涯を終えるとは考えにくい。ならば、精神の持ち主が、一度も精神を病まずにいることの方が異常やもしれん...


しかしながら、自分自身の精神が異常だと認めることは難しい。自己の存在否定にもつながる。日本の村社会では世間体も気になるところ。精神科にかかる人は、藁をも掴む思いであろう。

お座なりの精神安定剤を処方して、とっとと追っ払われるに違いないと思いつつも、あなたは何でもない!と追い返されることの少ない科ではある。分かるよ!分かるよ!なんて安易な慰めは、分かってたまるか!と却って意固地にさせる。

患者が口にしていないことまで言い当ててしまう医者もいる。しかしそれでは、すべてお見通しよ!と威圧感まで植え付けてしまう。

あらゆる病気で言えることだろうが、患者が主役でなければ、病に立ち向かうことも難しい。難病では尚更。死にたいと言っている患者の看病は辛い。死を目前にしてホッとすることすらある。

どんなに優秀な医者でも、患者の協力なしでは仕事はできまい。人間の精神を相手取るのにプロもアマもあるまい。精神科医とは、精神から距離を置くことのできる人を言うのであろうか。となれば、人間離れした職業と言えそうだ。精神にのめり込んだベテラン患者の方が当てになるやもしれん。そして、ニーチェやカフカの狂気にこそ救われる...


「病人でいることの方がまだしも幸せで、病気が治ればもっと過酷な運命が待っている人はたくさんいる。そういう人が積極的に治ろうという気を起こさないからといって責めることはできない。いわゆる『二次的疾病利得』と真っ向から戦って勝ち味はない。それは、人間の本性そのものと戦うことであろう。病気は不幸だが、世の中には病気以上の不幸も多いことを医者は忘れがちである。だから、『安心して病気が治れる』条件をつくるように、本人と話し合い、周囲に働きかけ、理解を求めることは、身体病の治癒を早めることが少なくない。」


本書は、患者と家族と医師の呼吸が合うか合わぬかを問題視している。治療は契約ではなく、合意に始まるという。そして、治療のテンポとリズムは、「律速過程」に注視せよ!と。

律速過程とは、いくつかの過程からなる複合的な過程がある場合、その進行速度は最も遅い素過程で決まるというもの。たいていの家族は焦り気味で、医師もそれに釣られる傾向があり、置いてけぼりを喰らうのは、いつも患者本人。分裂病ともなれば自己主張は極めて困難であり、周りの誰か一人が自己主張を強めれば悪循環となる。

問い掛けが、人を追い詰める。論理が人を追い詰める。論理思考の自己管理は意外と繊細で、強要すれば、さらに追い詰める。そして、患者も、医師も、家族も、弁証法的になっていく。つまりは、あらゆる矛盾とどう向き合っていくかってこと。

古くから、医者は哲学者であるべき!という考えもあるが、一理ある。とはいえ、人生の在り方なんそを問えば、回復過程が目的論に、因果論に、運命論に... 侵されていき、人生にうんざりする。

会話では、良き聞き手になれ!との助言をよく耳にするが、「聴く」と「聞く」では態度に違いがあるという...


「『聴く』ということは、聞くことと少し違う。病的な体験を聞き出すことに私は積極的ではない。聞き方次第では、医者と共同で妄想をつくりあげ、精密化してゆくことになりかねない。『聴く』ということは、その訴えに関しては中立的な、というか『開かれた』態度を維持することである。」


注目したいのは、患者と接する態度に「沈黙」を重要視している点である。人間の最も説得力のある態度は、沈黙やもしれん。それは二千年前、ゴルゴダの丘で沈黙のままに十字架刑を受け入れた行動に見て取れる。

だが、この態度が最も難しいことは、三千年紀を迎えた今日の有識者たちの態度を見れば分かる。沈黙とは、孤独においてのみ機能するものなのか。いや、それはそれで独り言がうるさくてかなわん...


「おそらく、患者をことばで正気を証明せねばならないような状況に置くことは、患者の孤独を深め、絶望を生む。孤独な人に対して、それをことばでいやすことはできない。そばにそっといること、それが唯一の正解であろう。患者のそばに黙って三十分を過ごすことのほうが、患者の『妄想』をどんどん『なぜ』『それから』『それとこれとの関係は?』ときいてゆくよりずっと難しいことであるが...

なぜ、患者のそばに沈黙して坐ることがむつかしいのだろう。むつかしいことは、やってみればすぐ判る。奇妙に、しなければならない用事、待っている仕事、などなど思い出される。要するにその場を立ち去る正当な理由が無限に出てくるのである。このいたたまれなさを体験することは、精神科医となってゆくうえで欠かせない体験として人にすすめている。」


何事にもリスクはつきものだが、精神科医でいることにもリスクがあるという。それは、患者に対するリスクと自分に対するリスクであると。

すべての治療行為が試行錯誤のうちに施され、患者に対して負荷テストの意味を持つことは避けられない。患者がいかに好ましいと思っていても、その意味は変わらない。精神とは、それほど得体の知れないものだ。

対して医者はというと、カリスマ症候群に罹るケースも珍しくないらしい。そして、患者とカリスマ者は鏡像関係にあるという...


「患者は思考が吹き込まれる。カリスマ者は自分の思考を人に押し込む...

患者は自分の思考を抜き取られる。カリスマ者は他者の思考を奪う...

患者は自分をとがめる声を聞く。カリスマ者は他人をとがめる声を放つ...

患者は外部から自分が操られる。カリスマ者は自分が他者を操る...

患者は幻影を抱く。カリスマ者は他人に幻影を抱かせる...

患者は被影響体験をもつ。カリスマ者は他人に影響を与える快適な体験を自覚する...」 

2023-06-11

"分裂病と人類" 中井久夫 著

どんよりした薄曇りの中、いつもの古本屋をぶらり。すると、冒頭の一文に目が留まる。「分裂病...」の部分を薄っすら曇らせると、あらゆる場面で教訓となりそうな...

「これは分裂病問題へのきわめて間接的なアプローチにすぎない。しかしこのような巨視的観点から眺め直してみることも時には必要ではあるまいか...」

本書は、人間が本質的に抱えてきた分裂病を、歴史事象に照らして物語ってくれる。それは、思考や言語、知覚や感情などの歪によって特徴づけられる精神病の一つで、現在では「総合失調症」と呼ばれる。
歴史は告げる。文化を融合させてきた地域が、常に先進的であったことを。融合とは、改善、工夫を重ねること。
イスラム文化とギリシア・ローマ文化を引き継いだヨーロッパは、医学を進化させてきた。その背景で図書館が焼かれ、人も焼かれてきたが、この二元性こそ人類の分裂症たる所以。産業革命から疎外が生まれ、生産社会が異常者の許容性を狭め、フランス革命が恐怖政治を呼び込めば、フーコー風の狂気を覚醒させる。人類史に、分裂病の記念碑を見る思い...

「ゲーテの『ファウスト』が今日までヨーロッパの知識人にくり返し読まれているのは、いわばこの書がゲーテ自身の精神の遍歴であると同時に、近代への転機におけるヨーロッパ知識人の集団的自叙伝とでもいうべき含みがあるからではなかろうか...」

人類が地上に出現して以来、地理学的に大きく地球を変貌させた現象には、少なくとも三つあるという。第一に、最初の農民である焼畑工作民の出現で、地上の一次林を漸減し、絶滅へ向かわせたこと。第二に、遊牧民による過放牧で、多くの森林や草原を砂漠に変えたこと。そして第三に、資本主義であると...
人類は獣に狩られる立場から、獣を狩る立場へと鞍替えし、やがて農耕や牧畜を営み、定住するようになった。狩猟、採集の経済から生産経済への転換である。人類が育んできた集団性という性癖は、この過程で増幅させてきたと思われる。
そこで、「農耕社会の強迫的親和性」という用語が持ち出される。慣習の力は恐ろしい。集団性が絡むと、さらに恐ろしい。集団社会で育まれた慣習は、義務に昇華され、強迫観念にまで押し上げられ、村八分社会の誕生を見る。精神病の始まりがいつかは知らんが、集団社会の歩みとともにあったことは確かであろう。
精神の源泉とは何か。心の源泉とは何か。人が真に孤独なら、そもそも精神なんて機能を必要としないのやもしれん。精神を獲得しなければ、精神病を患わせることもなかろうに...

動物は、なんらかの病を抱えて生きている。肉体を獲得すれば、身体に付随する病を患う。一過性の病から慢性的な難病まで。完全な五体満足の持ち主なんて、そうはいない。精神を獲得すれば、精神に付随する病を患う。五体満足でも精神が病めば、そちらの方が深刻である。身体的な病は外面に表れ自覚もしやすいが、精神的な病は内面に籠もり自覚することも難しい。そればかりか、精神を病んでいるのはお前の方だ!と罵る始末。そうでなければ同情こそすれ、どうして腹を立てよう。
分裂病を患えば、そこに狂気が認められ治療が施される。だが、その治療法にも、非人間的に拘束するやり方と人間的に温和なやり方とが現れる。治療を施す医師も、分裂状態ってか...
そこで、精神病の治療には、医師ではなく哲学者があたるべき、という考えが古くからある。というより、医師は哲学する者でなければ、心理学者も、社会学者も、経済学者も、政治学者も... そして、数学は哲学である。さらに、哲学を伴わない科学技術は危険である、とまで付け加えておこうか...

集団社会もまた、あらゆる矛盾が渦巻き、まさに分裂状態!
超エリート経済学者が練りに練った経済政策は、ことごとく外れ、使命感に燃える政治家が案出した政策は、ことごとく裏目。科学の最先端を突っ走る物理学は不確定性に道を阻まれ、厳密性を重んじる数学ですら不完全性に見舞われる。学問全体が、いや、人間社会こそが分裂病を患っているのでは。ならば、個人が分裂病を患うのは、むしろ正気ということは。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!

本書は、分裂病の要因として「執着気質」に注目している。
ドイツではメランコリー型が注目され、怠惰が主な要因とされるらしいが、逆に、日本では勤勉さが要因とされるケースが多い。
人は誰もが、何らかのこだわりをもって生きている。信仰へのこだわり、儀式へのこだわり、ブランドへのこだわり... そして、人の目を気にする自意識へのこだわり、と。こだわりへの許容度が人格の度量となり、そのまま万病のもとに...

「執着気質の人が『頼まれたら断れない』という裏には世俗化された社会から自らを疎んぜられることの恐怖がある。職人根性の人は、むしろ安易な依頼をかたくなに断る。執着気質の人は、自己の作品の是認の基準を究極には周囲の人々に依存する。職人根性の人は、自らあきたらなければ、自己の辛苦の産物をためらうことなく破棄する。」

2023-06-04

"並行コンピューティング技法" Clay Breshears 著

原題 "The Art of Concurrency"
プロセッサの進化は、ムーアの法則に従って勢いづいてきたが、ここへ来て、クロック周波数は発熱と電力の物理学に屈服しつつある。現在ではエネルギー問題とも相まって省電力化を求める傾向があり、ちょいとダウンクロックさせてでも別の道を探ろうとする。
その一つの方向性に、並行コンピューティング技法がある。いまや、マルチコアやマルチスレッドは当たり前。一人の仕事を大勢に割り振れば、すぐに終わる... と行きたいところだが、うまく分担できなければ、むしろ混乱を招く。オーバヘッドってやつは、仕事を割り振る作業や仕事を集約する作業だけでなく、人間関係の衝突からも生じる。人海戦術で、人の海に溺れることはよくあることだ。マルチスレッド戦術を用いたところで同じこと...
本書で注目したいのは、スレッド化の正当性と、その性能評価である。全般的に、まず逐次ソースコードが提示され、これを並行化するというやり方で、それぞれの実装に対して「実行効率、簡潔性、可搬性、スケーラビリティ」の四つの観点から評価するというストーリー立て...
尚、千住治郎訳版(オライリー・ジャパン)を手に取る。

古くから、プロセッサの性能を最大限に引き出すためのコード手法が工夫されてきた。それも芸術の域に達するような...
リソースが思いっきりショボい時代には、アセンブラ言語に勢いがあり、コンパイラ効率もイマイチで、機械語でガチガチに書いたこともあったっけ。C 言語はというと、高級言語の地位にあって、まるで王子様気取り。リアルタイムシステムでは、使えねぇヤツだと囁かれた。それが今では、低級言語に格下げ!
本書のコード事例でも、最小公倍数的な存在として C 言語が採用され、低級な抽象観念しかイメージできないネアンデルタール人には、むしろ馴染み深い。
リソースが贅沢になれば、それをフル活用するための手法が生まれ、マルチコアが目の前にぶら下がっていれば、これに適合したコードが編み出される。そこで、OS がアプリケーション単位で割り振ったり、プロセス毎に切り替えたり、あるいは、ライブラリが暗黙にスレッド分割してくれれば、ありがたい。
但し、OS に任せるにしても、ライブラリに頼るにしても、根本的な仕掛けを知ると知らないでは大違い。
マルチスレッドプログラミングで最も目につく問題といえば、メモリアクセスの衝突であろうか。スレッド群を公平にスケジューリングすれば、各々がどんな処理をしようが知ったこっちゃない。スケジューラが中身を知らなければ、問題の特定も難しくなる。

本書は、信頼性を重視する立場から、実績のあるライブラリの導入を推奨し、汎用的なライブラリとして OpenMP や Intel TBB(Threading Building Blocks)を用いた事例が多く紹介される。なるべくなら、スクラッチでスレッドを作成することは避けたい。手っ取り早くテンプレートを真似るのが無難か。
スレッド単位で扱えば、それなりに危険を伴うであろう。メモリ領域の衝突やデータの競合も生じ、分割の粒度を細かくすれば、オーバーヘッドも増える。ノイマン型アーキテクチャであるからには、どんな処理であれ、どんなソースコードであれ、スレッド分割することは可能であろうが、あらゆるスレッドが並行化できるわけでもあるまい。逐次処理の多くは何らかの形で依存性を持ち、独立した関数コールや実行順序を問わないループが見つかれば儲けもの。スレッドが単独で起動/終了が可能か?スリープ/再開が可能か?スレッド間の依存性はどうか?などと頭を悩ますぐらいなら、最初から OS に委ねた方が賢明やもしれん。

一つの教訓として、並行性はより上位層で実装すべし!というのがあり、本書でも八つのルールの中で二番目に提示される。アプリケーション単独で性能向上を目指すなら、スレッド単位で検討するべきであろうが、ちょいと捻くれた目で、もっと大雑把にアプリケーション単位やプロセス単位でやるのもあり。そして、OS の性能が悪い!と愚痴るのさ。大昔、コンパイラの性能が悪い!と愚痴ったように...
経験則は告げる、いずれリソースが解決してくれる...と。そして、リソース設計者は、いつも下働きを強いられる運命にあるのさ!これも愚痴かぁ。ムーアの法則にも喰ってかかる... このぉ、人間の欲望に見透かされた法則め!

1. 並行アルゴリズムの正当性と性質
M. Ben-Ari というコンピュータ科学の教授が、並行アルゴリズムの正当性と性質を一般化したそうな。それを四つにまとめると、こんな感じ...

  • プログラムとは連続したアトミックな実行文である。
  • 並行プログラムは複数のスレッド内のアトミックなインタリーブである。
  • アトミックな実行文のすべての組み合わせは、ここで検証する並行アルゴリズムのすべての性質を満たさなければならない。
  • どのインタリーブでもスレッドの実行文が不公平に除外されることはない。

しかしながら、スレッドすべての組み合わせにおいて、結果が同じになるようにインタリーブするには、かなりの戦略がいる。それぞれのアプリケーション分野における経験値や勘所も必要である。現実には、処理順が規定されるような前後依存を持つスレッドも多く、どんなに頑張っても隅々まで並行化することはできまい。実は、最も扱いの厄介なものが、「公平性」ってやつかもしれん。人間社会と同様に...

2. タスク分解とデータ分解
ソースコードのスレッド化には、大まかに二つのモデルがあるという。「タスク分解」と「データ分解」である。おいらの場合、並列化というと、タスク分解に目がいってしまうが、データ構造とセットで考える必要がありそうだ。
更新処理が独立していれば、並列化できることはすぐにイメージできるし、既にデータ構造をそのようにしている。オブジェクト指向のカプセル化も突き詰めれば、これに通ずるものがある。画像情報のような連続性を保つ大規模なデータ配列を分割することも、効率性を考慮して既にやっている。フィルタのアルゴリズムでは、チャンク(データ分割)の概念も必要である。ただ、スレッド化という視点が抜けていた。

3. 逐次ソースコードの並行化と、そのストーリー立て...
まず、数値演算が並列化に向いていることを匂わせてくれる。いきなりπを近似する数値積分や帰納変数が飛び出し、ループのネスト構造が線形代数の行列式と重なって見えたり、そのまま DFT, FFT, FIR, IIR などの実装がイメージできたり。個人的には、数値演算ライブラリの BLAS や LAPACK を似たような感覚で利用している。

次に、並列和やプリフィックスキャンで軽く流す。この二つのアルゴリズムは、その単純さゆえに並列化の指標になっているという。

そして、MapReduce 構造に並行化を見る。Map と Reduce の二つの組み合わせは、LISP などの関数型言語、あるいは、Ruby や Python でも見かける手法である。
Map 処理は、入力データを何らかの値と組み合わせて、キーと値のペアを生成する。ペアの生成処理を完全に独立させれば、並行化が見えてくる。
Reduce 処理は、Map 処理の結果を集約して、目的に応じた結果を出力する。この二段階の処理構造によってデータがアルゴリズムから分離され、タスクの独立性が高まることを見て取れる。

さらに、ソートとサーチに主眼を置く。一昔前、CPU 時間の 80% 以上はソートに費やされると言われた。昨今、画像処理系の規模が大きくなったとはいえ、現在でもソートやサーチが重要であることに変わりはあるまい。データベースにアクセスすれば、 クエリの結果が表示され、検索エンジンにキーワードをかければ、URL 一覧が表示され、いつもソートとサーチが暗躍している。
どちらもプログラム入門で題材とされるアルゴリズムだが、スレッド化となると侮れない。ソートとサーチに限ったことではないが、いつもバックグラウンドで動作していて欲しい処理があり、そうしたすべてが並列化の対象となろう...

最後に、データの関連性を視覚化するグラフアルゴリズムに並行化を見る。二次元空間に配置されるノードとエッジからなる有限集合を想定し、これらをツリー構造で図示し、各ノードの関係を隣接行列で記述する。ノードは要素、エッジは二つのノードを連結する枝。
そして、エッジの重みの合計を最小とするアルゴリズムを並行化する。そう、グラフ理論でよく見かける最小スパニングツリー(MST: Minimum Spanning Tree)ってやつだ。MST の有名なアルゴリズムに、Kruskal 法と Prim 法がある。本書では両方の逐次コードが紹介されるが、並行化では、Prim のアルゴリズムが採用されている。どちらも重み行列と連結成分で構成されるが、Kruskal のアルゴリズムはスレッドセーフなヒープの実装が必要など、ちと面倒なようである。

4. スレッド設計の八つのルール
本書は、スレッド設計モデルに適用すべき八つの単純なルールを提示している。単純なだけに、すべてを守るのも難しそうだ。ルールは破るためにある... とは、誰の言葉かは知らんが...

ルール1: 真に独立した処理を特定する。
ルール2: 並行性はより上位で実装する。
ルール3: コア数増加に備えスケーラビリティ対応を早期に計画する。
ルール4: スレッドセーフなライブラリを使用する。
ルール5: 適切なスレッドモデルを採用する。
ルール6: 実行順序を前提としない。
ルール7: ローカル変数を使用する、できなければロックで保護する。
ルール8: 並行性向上のためのアルゴリズム変更を恐れない。

5. 性能指標
本書は、性能指標に高速化率と実行効率を挙げている。高速化率は、逐次実行と並列実行の実行時間の比率である。
実行効率は、リソースの消費効率を示し、高速化率をコア数で割って算出される。
高速化率では、 Amdahl の法則と Gustafson-Barsis の法則が紹介される。前者が、逐次ソースコードを並列化することで達成できる高速化率を予測するのに対して、後者は、既存の並列ソースコードからダイレクトに算出する。

[Amdahl の法則]

  高速化率 ≤   1
 (1 - pctPar) + pctPar/p 

  (pctPar: 並行実行時間の割合, p: コア数)

逐次実行時間を 1 とした時、並列化前の実行時間 1 - pctPar と並列化後の実行時間 pctPar/p の合計を分母に配置して、その割合で高速化率の限界を予測する。

[Gustafson-Barsis の法則]

  高速化率 ≤   p + (1 - P)s

  (p: コア数, s: 並列化できない部分の逐次実行時間の割合)

コア数の増加に伴い、データ量も増加することを考慮している。コア数が増えれば、処理したいプログラムの規模が大きくなり、データ量も増えることは予測できる。

現在では、コア数とスレッド数の関係も微妙だ。当然ながら、コア数をはるかに超えるスレッド数の要求もあれば、Intel の THyper-Threading のように、1つのコアで複数のスレッドに対応する仕掛けもある。高速化率と実行効率は、コア数に対してどのくらいの量のスレッド数を起動するのが割りに合うか、という指標にはなる。
しかし、いくらタフな計算を要求されるによせ、システムが完全に乗っ取られるのは、どうであろう。内部からのイベント要求もあれば、外部からの割り込みも発生する。昔から、CPU 資源は周辺機器との取り合いの中にある。
スレッドの公平性は、あらゆるスレッドを受け付ける方向で調整するように仕組まれる。だが実は、総合的な観点から不公平性にこそシステムの合理性があるのやもしれん。いずれにせよ、システムリソースの使用率は、常に余裕を持っておきたい。人間と同様に...

2023-05-28

"Beautiful Visualization" Julie Steele & Noah Iliinsky 編

シリーズものでは、コレクションしておきたものがある。それで読まれず、書棚の片隅で専門書どもが愚痴ってりゃ、しゃあない...

オライリー君のビューティフル・シリーズでは、まずコードに誘われ、アーキテクチャ、セキュリティ、データとくれば、データの続編がビジュアライゼーション。
こうして外観していると、「美しい」という表現もなかなか手ごわい。主観的な像として現れるだけに、さらに手ごわい。見た目だけでなく、構造的な合理性や設計思想の一貫性といったものにも現れる。そして、デザインされるものには、デザイン哲学なるものが露わになる。哲学とは、まさに美学だ!
コードでは、シンプルでエレガントな振る舞いに、それを見、ソフトウェア・アーキテクチャでは、信頼性、移植性、再利用性を保持する構造化手法に、それを見た。セキュリティでは、善悪の両面からそれを見、侵入の手口が鮮やかならば、それをさりげなく葬り去るのも鮮やか。データでは、収集、分析、処理、さらに可視化によって新たな視界が広がり、データの自己発見パラダイムにそれを見た。
そして、ビジュアライゼーションでは、データの視覚化に絞って、アートの領域へといざなう。やはり、設計には芸術性を求めたい。とはいえ、可視化の技術だけで、これほど多くを語れるとは。人が見た目に惑わされるのも無理もない...

視覚情報は、脳を刺激しやすい。グルグル検索に好みのキーワードをかけて、画像情報を見て回るだけでも刺激される。YouTube の自動再生機能にキーワードをかけて、演奏動画を垂れ流すだけでも刺激される。空間イメージが広がれば、思考も広がりそうな気分になれる。気のせいかもしれんが。思考空間には照明効果も絶大で、壁紙の色を変えるだけでも気分は変わる。気のせいかもしれんが...
そうなると、まったく違う分野に造詣を持つことにも意味があろう。美術品を観賞すれば、潜在意識が活性化されるかも。気分が変われば、新たなアイデアを生み出す機会ともなろう。論理的なデータに視覚的な作用が加わると、違った意味が見えてくるかも。全体像を見えやすくする視覚効果は、総合的な判断をしやすくさせる。
例えば、古典的な視覚化データに元素の周期表がある。周期的に出現する元素の複雑な特性をシンプルに二次元配列し、これほど有用なビジュアライゼーションもあるまい。マトリックス表現の叡智とでも言おうか。ランタノイドやアクチノイドの拡張表現では苦労しているようだけど...

注目したいのは、ビジュアライゼーションでは空間意識に目を奪われがちだが、時系列との関係にも触れている点である。空間と時間は、カントがアプリオリな概念として提起したものでもあり、人間の存在意識に深く結びつく。つまり、ビジュアライゼーションに美しさを求めるということは、多分に自己意識が強調されるということだ。
ただ、データの本質は、主観性をできるだけ排除し、客観性を見出すことにある。人間ってやつは、何事においても、やりすぎる感がある。理想が高ければ、尚更。新たな技術を身に着け、新たな知識を獲得すると、すぐにそれを曝け出したくなる。新規性を強調するあまり、静的なビジュアライゼーションに動的なアニメーションを導入し、それでデータ構造を破綻させては本末転倒。設計では、設計思想の破綻を避けることが第一の方針となる。さりげなさを、さりげなく演出する。それが芸術というものか...

本書は、視覚化されるデータの美しさに、四つの要因を挙げている。「新規性、伝達力、効率、そして、芸術性」である。
また、ビジュアライゼーションは、「データマイニングと車の両輪」だという。
インターネットの世界では、データの群れが巨大な集合知として押し寄せてくる。こうした状況下で、データを効率的に解析し、合理的に処理することは至難の業。ビジュアライゼーションを複雑系の分析法として、あるいは、問題解決やリスク低減を目論むための方法論として眺めれば、なかなか興味深い。
ここでは、20 もの事例が紹介され、目移りしてしまう。アスキーアート、地下鉄路線図や飛行機の航路図、国勢調査や選挙の投票状況、無秩序なソーシャルパターンの洞察、オンライン事典のデータ管理手法、検視や法医学研究、ネットワークトラフィック、サイバー攻撃をリアルタイムに監視するインシデント分析センター(nicter)など、画像データを眺めるだけでも、何かのヒントになりそうな...

しかしながら、これらの事例に法則性は見当たらない。すべては様々な試行錯誤から生まれたアイデアで、多様な世界をさまようかのように。
マルチモーダルな知の結集は、まさに五感の総動員。データに問いかけ、文脈を読み取り、物語を語る。物語を語れば、時系列が見えてくる。時系列が見えてくれば、説得力が増す。美しいビジュアライゼーションとは、データで物語を語ること、とでもしておこうか。
とはいえ、客観的に物語を語るというのは、どうであろう。芸術における客観性とは、普遍性を意味するのであろうが、それでは理想が高すぎる。情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンは、情報の意味を無視し、ひたすら情報の量に着目して数学理論を構築した。情報の意味を解するのは、その送り手と受け手に委ねるほかはない。データもまた然り。ビジュアライゼーションもまた然り。「美しい」という表現は、やはり手ごわい...

2023-05-21

"Beautiful Data" Toby Segaran & Jeff Hammerbacher 編

こいつを入手したのは、十年ぐらい前になろうか...
買ったはいいが、それで満足しちまう。そんな専門書どもが本棚の片隅で、たむろしてやがる。シリーズものではコレクションしておきたものもある。それで、もったいない病が疼けば、しゃあない...

オライリー君のビューティフル・シリーズでは、まずコードに誘われ、アーキテクチャ、セキュリティときて、そして今、データに手を出す。コードには、それこそ美しいものがあり、コード哲学が露わになる。では、データはどうであろう。
例えば、言葉を集めただけの国語辞典に美しさを感じるだろうか。笑える語釈にでも出会えば、そんな感覚も湧くやもしれんが、データそのものは数字や記号と類似で無味乾燥、ただそこに存在する。
コードを書く行為は主体的で能動的だが、データは、収集し、分析し、処理するといった一連の行為に見舞われ、客体的で受動的である。解釈できる点では、統計とも似ている。
データは、それを活用する人によって生き生きし始めるのであって、誰にでも美しく見えるものではあるまい。これを美しく見るには、データとうまく付き合う必要がありそうだ。
数学も無味乾燥とされるが、方程式には美しいものがある。オイラーの等式は、超越数のπと e が、虚数を介して冪乗で絡むと自然数に収束することを告げ、ここに新たな世界観を感じずにはいられない。データにも、こうした感覚を持つ人がいるのだろう。活用する側から見れば、関連付けや階層といったデータ構造に哲学を見ることはできる。整理の美学と言うべきか。
本書を眺めていると、構造化されたデータの集合体が図書館に吸い込まれていくかに見える。データ構造がデザインされれば、そこにデザイン哲学が露わになる...

「データの美しさは、奥深いところにある。美しさは、それまで隠れていた構造やパターンが姿を現したときに出てくる。パターンの出現で、データに関する新しい考えや疑問がわく。アイデアがひらめき、探索してみようという気になる。物事の本質を見抜く力が与えられる。そして、空間的な広がりのあるところに、地理的な美しさが現れる。... 美しさとは、広い意味で実体が与える喜び、意味、満足感といった特徴を表すものだ...」

今日、データ駆動型(Data Drivenn)が盛んに議論され、開発設計の場でも、問題解決のための意思決定プロセスで重要視されている。データの収集、分析、処理、さらに可視化によって、以前と異なる光景が見えるようになれば、新たな価値観を生み出すであろう。本書は、データの自己発見パラダイムを紹介してくれる。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間は精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身の関係に関係する関係の...などと支離滅裂なことをつぶやいた。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体が自己を認識しようとすれば、その周囲の関係から迫るしかあるまい。データの自己発見もしかり。データが別のデータと関連づけられ、その連鎖が新たな価値観を生む。そして、データは検索される宿命を背負う。誰が検索するかって?もはや人間は無用のようだ...

「美しいコードは、リストを並び替え、連立一次方程式の解法、フーリエ変換の実行といった非常に明確な目的を持つ場合が多い。コードの美しさは、どれだけ目的に合っているかによる。美しいデータの場合は、このような目的はそれほど明確ではないかもしれない。データの探索は、科学的試みの重要な部分を占め、これによって洞察、検証すべき仮説、従来の理論の検証が導かれる。美しいデータには探索が必要である。このようなデータにはパターンや構造、例外が含まれる。これらは、探索してもすぐには見つからないが、内側の奥深くに潜むものを掘り当てた褒美として現れる。」

ところで、高度な情報化社会は、本当に進化へと向かっているだろうか。ネット上に情報を公開すると深刻な結果を招くことは、ユーザがよく知っている。スパム、炎上、ID盗難、ジャンクメール... おそらく進化の過程は、単純増加ではなく、退化の時代もあったであろう。では、現在は?
データの設計とは、信頼をデザインすることでもあるはず。しかしながら、いまや個人データを保護することは難しい。ネット通販で商品を購入すれば、まったく関係のない広告メールがわんさと飛んでくる。新型コロナに感染し、行政サービスに携帯電話番号を登録すれば、アルバイト勧誘のショートメッセージがすかさず飛んでくる。
あらゆるサービスがデータ化されれば、犯罪もまた然り。無味乾燥のデータに、データ以上のものが見えてくる。データは人生を表し、データが物語を語り始める。まさに高度なデータ化社会!現代人は、データに右往左往させられるばかり...

「そう遠くない昔のこと、ウェブは情報の共有、発信、配布の場だった。しかし時代は変わった。ウェブはいま、個に向かっている...」

2023-05-14

"πと微積分の23話" 寺澤順 著

πと言えば、円周率。こいつが、どんな値になるか、古代人は正確には知り得なかったであろう。無理数だから無理もない。
だが、数直線上で、直径 1 の円を転がせば、その周の長さが 3 より、ちょいと大きいぐらいは小学生でも分かる。
三千年記を迎えた今日でも、πに魅せられる人は少なくない。何万桁も暗唱して、ギネスに挑戦する人たちまで。
スパコンで計算中とはいえ、その精度となると、IEEE754 に従って暗黙に定義せざるをえない。要するに、実際に用いるには、近似するしかないってことだ。無理数だから無理もない。
無理数の存在が、極限へ迫ろうという数学者たちの野望を目覚めさせ、挫折感を喰らわせてきた。
一方で、図形を眺めながら極限へ迫ろうとした数学者たちがいた。アルキメデスに発する微分や積分といった思考法である。ここに、数学者という人種が、微積分学を通じて、πと戯れる物語が始まる。おいらも、おっ!パイと戯れたい...

代数学が等式で関係を記述すれば、解析学は不等式で関係を記述する。連続関数において明確な答えが見つからなければ、その前後で大小を比較しながら、より目ぼしい値へと近づいていく。それは、ε-δ論法が告げてやがる。おいらを数学の落ちこぼれにした奴が...
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が真理を探ろうとすれば、その周辺の関係から迫るしかあるまい。数学の極限に、人間の認識能力の極限を見る思い。
そして、微分方程式が解けない場面にちょくちょく出くわせば、近似法に縋る。本物語は、極限に迫るための裏技として、漸近的近似、テイラー展開、フーリエ級数などに触れ、極限に迫る数学的性質では、一様収束、連分数、ゼータ関数、ガンマ関数などに注目する。近似法でπが演じる重要な役割を暗示するかのように...

コーシー列の収束性を魅せつけられれば、こいつを近似に利用しない手はない。代数の循環性もまた然り、2/π に見るヴィエタの公式に見惚れ、π/2 に見るウォリスの公式に見惚れ、その背後に二大巨匠と謳われるオイラーとガウスの手招きを感じずにはいられない。
そして、連分数に見る黄金比に見惚れるのであった。曲線と戯れる数学者たちの曲芸に、人生の曲芸を見る思い。混沌とした物理現象を目の前にして最も有用となる理論は、近似法といってもいいだろう...

1. 古代の叡智にπを見る!
古代エジプト人たちは、「9分の1法則」なるものを編み出したという。直径 d の円の面積を求める時、d から 1/9 を引いたものを平方するという近似計算である。

  π(d/2)2 ≒ (8d/9)2

そして、πは...

  π ≒ (16/9)2 = 3.16049...

アルキメデスは、単位円に正 6 x 2n 角形で、外接と内接の両面から近づくことを考えたという。単位円の円周の長さ 2π に対して、正 6 角形をベースにすれば、内接する周の長さは、6辺 x 1 = 6 となり、こうなることは一目瞭然。

  2π > 6、つまり、π > 3

あとは、n を限りなく増やしていくだけ。そう、取り尽くし法ってやつだ。
円の面積が分かれば、楕円の面積も簡単に導ける。xy 座標において、半径 (a, b) の楕円には、円の面積を b/a 倍すればいい。

  b/a・πa2 = πab

しかし、楕円の周の長さとなると、かなり手ごわい。楕円関数論という理論体系が生まれるほどに...

2. レムニスケートに単位円の同型を見る!
楕円積分では、「レムニスケート」ってやつがある。リボンのような形をした摩訶不思議な図形である。
本書は、こいつに、単位円の円周の長さ 2π との同型を感じさせてくれる。
x軸とy軸に対して線対称で、原点と交わる接戦は、y = x と y = -x となり、特に、x軸と交わる √2c, -√2c を標準形とする。




その極座標方程式は...

  r2 = 2c2 cos 2θ

この図形に対して、数学者たちは、ϖ= 2.622...(パイ・スクリプトと読む)という定数を定義し、その全長を 2ϖで表記した。しかも、πも、ϖも、超越数というから、意味深げ。これらを同型と見るなら、新たな非ユークリッド幾何学が創設できそうな...

3. ビュフォンの針... 確率論にπを見る!
確率問題に、「ビュフォンの針」というのがある。
机上に一定間隔 d で区切られた多数の平行線を引き、そこに長さ L < d の針を無作為に落とす。この時、針がいずれかの直線と交差する確率に、なんとπが顔を出すというから摩訶不思議!

  P = 2L/πd

宇宙がこのような姿になった確率は、πに看取られているのか。そりゃ、パイに見惚れるのも無理はない...

4. スターリングの公式... 漸近的な近似に超越数を見る!
n! という数は、n が少し大きくなっただけで爆発的に大きくなり、なかなか正体が掴めない。これの近似となると、πと e(ネイピア数) という超越数が絡むから摩訶不思議!

  n! ~ √(2πn)・(n/e)n

超越数とは、無理数の中でもとびっきりの存在で、代数的な解にもなりえない数だ。カントールは集合論によって、大部分の実数が超越数であることを証明した。これには、数学者たちを驚愕させたことだろう。宇宙は、超越数に看取られているのか。そりゃ、大部分の微分方程式が解けないのも無理はない...

2023-05-07

"気まぐれ数学のすすめ" 森毅 著

穏やかな春風に誘われ、いつもの古本屋を散歩していると、ある言葉に足止めを喰らう。気まぐれ... おいらはこの言葉に弱い!

こいつぁ、数学の書か。いや、数学者が世を問うた書と言うべきか。題名で期待を外しておきながら、内容で期待に応える。これぞ、論理学の極意というものか。いや、屁理屈の極意というものか...
随筆はいい!達人の書く随筆はいい!書きっぷりは、まさに気まぐれ!
戦時中を回顧しながら、軍事教練をのらりくらりとかわした非行少年期を振り返り、逍遙学派のごとく、散歩でもするかのように様々な論議に首をつっこむ。文化論に、進化論に、反戦論に、教育論に、受験のあり方に...

数学教師の目線で、高校が中学化し、大学が高校化していく現代社会に苦言を呈し、その天の邪鬼ぶりも見逃せない。
受験戦争には、ホドホド派とカリカリ派がいるという。社会風潮が、受験は歯を食いしばって、カリカリせねばならぬ!と煽り、みんなで苦しみを共有して不安から逃れ、教師も親も生徒をカリカリさせることで安心できる。まさに、戦時教練と同じ構図か。
数学の授業では、分かる派と楽しい派に分類できるという。ただ、楽しいといっても、人それぞれ。命令されるのが楽しい、管理されるのが楽しい、ド M ともなれば、イジメられるのが楽しいってのもある。いずれにせよ、楽しいだけでは長続きしない。著者は「易しさよりも優しさ」を強調する...

「数学の力というのは、その数学が自分の心のなかの景色として、どれだけひろがっているかだと思う。まちがったときは、その景色にそぐわない。迷ったって、だいたいの見当がつく。しかし、この力は、迷ったり誤ったりするなかでつく。地図の正しい道だけでは、正しい道から迷ったり、つまずいたりしたときには、回復できない。『正しい道』は通れるが、『正しい道』しか通れない。数学の得意な学生を見ていると、迷ったりまちがったりするのがうまい。それは、だいたいの景色の見当がついているからでもある。その見当がつくようになったのは、迷ったりまちがったりしたからだろう。この点で、自分の世界が貧しいと、こわくて地図以外の道が通れなくなる。『正しい道』だけにしがみついて、景色がますます見えなくなる。」

人間の文化で最高のものの一つに「数」があり、人間の思考原理の一つに「数える」という行為がある。それは、存在意識と深く結びついてきた考えであり、物事が複数で存在しなければ、数なんて必要ない。
おまけに、一つ、二つ... と数え上げる序数(順序数)と、1, 2... と量を測る基数(集合数)とでは、ちと性格が違う。人類は、数えるという行為によって自然数、整数、実数などと数の体系を拡張してきた。だが、数への思い入れは人それぞれ。

自然数の捉え方だけでも、ゼロを含めるか含めないかで流儀が分かれる。人類は数直線を編み出し、連続体という概念を生み出した。数直線上にゼロが配置されなければ、なんとも締まらない。連続体とは、無限への道であり、この道においてアキレスはいつまでも亀に追いつけずにいる。
お経の文句にも、「ガンジス河の砂の数だけのガンジス河があったとして、その砂の数ほどの...」ってのがあるそうな。無数の砂粒に無限のアトムを見、不定形の平方ガンジスを想起するとは、お釈迦様も洒落てやがる...

「発生的認識論では、序数は系列性に起源をとり、基数は類別に起源をとる。系列の順序での位置をしるすのが序数であり、類のなかでの個の多さをしめすのが基数である。... 歴史的にも、十九世紀は序数主義の色彩が強いし、二十世紀は基数主義の色彩が強い。... ポアンカレは序数主義に傾斜し、ラッセルは基数主義に傾斜していた。」

思考法の進化過程を辿れば、魔術的な想像力が、論理的な創造力を覚醒させてきた。占星術と天文学の明確な線引きは難しい。錬金術と化学の境界は未だぼやけたまま。かのニュートン卿が錬金術に執着したのも無理はない。ライプニッツも最初、古代の叡智として魔術を駆使した秘密結社「薔薇十字団」に所属していたそうな。
医師だって魔術師のようなもの。かつて名医たちは、瀉血を信仰し、血を抜き、知を抜いた。水銀を与えては下痢をさせ、嘔吐させたうえに皮膚に熱いカップを押しつけて血を含んだ水膨れをつくり... そして、ジョージ・ワシントンは死んだ。
では、三千年紀を迎えた現在はどうであろう。インチキなオカルトが、インチキな科学を利用する構図は変わらない。
いや、インチキとは言い切れないところもある。科学にはまだまだ未知数が多く、宇宙の 90% 以上は暗黒物質に覆われたままだ。現実主義者のデカルトも、神秘主義者のパスカルも、未だ輝きを失わずにいる。
そもそも、ホモ・サピエンスが魔術的な存在なのやもしれん。いや、悪魔的な存在か。だから、神を夢想し、自らこしらえた虚構に恋い焦がれるのか。現代人が仮想空間に身を投じるのも無理はない...

著者は、非国民の反戦論をぶちまける。国家ってやつが、たわいもないものだということを、あの戦争で誰もが知ったと。戦争ってやつは、愛国心と正義がセットでやって来る。ならば、まず国民ではなく、市民であること。市民に国境はない。ネット社会ともなれば尚更。わざわざ海外へ行かなくても、世界を知ることはできる。正義は、強いモラルによって高揚する。むしろ弱い心を認める方が、当てになりそうである...

「戦争というのは人殺しだから、人間の生死に関する感覚は鈍くなるものだ。焼跡で人間の死体を蹴っ飛ばしても、鼠の死体と変わらんような感覚になる。それを戦後になって、『戦争の悲惨』と言うのは、なにかピッタリこない。空襲警報が出て空襲がないと、台風警報で台風が来なかったような気分である。それでいて、ぼくなど勇壮と縁どおい臆病者で、そのうえに国家政策に背を向け、意味もなく殺されるアホラシサに、だれにも遠慮せずにガタガタふるえて卑怯に逃げまわっていたのだけれど。」

また、「パラノ対スキゾ」という見方が、いろいろと便利だと教示してくれる。パラノとは、パラノイア、つまり偏執症のこと。スキゾとは、スキゾイド、つまり分裂症のこと。
例えば、本を読むにしても、論理の展開に多少なりと怪しげなところがあると、目くじらを立てるのがパラノ人間で、そんなことを気にせずに読むのがスキゾ読書法というものらしい...

「現在の学校化社会がパラノ社会であることは確実だろう。ぼく自身はスキゾ人間らしいが、パラノ人間にとってもスキゾ人間にとっても、この二つの型について考察しておくとよい。だだしスキゾ人間はパラノ人間を理解できるが、パラノ人間はスキゾ人間を認めたがらないのが、パラノイアたるゆえんであって、これが困ったところでもあるのだが。でも、学校がパラノ社会であるからには、なんとかしてスキゾ過程を導入しないと困る。それに、教師とは本来スキゾ人間が向いているはずなのに、とかくパラノ人間が幅をきかすのも困ったものだ。」