2019-01-27

マネー!マネー!マネー!

お金が人を狂わせるのか、そもそも人が狂っているのか...

お金ってやつは、享楽の前では愛と同列であり、不安の前では死と同列である。こいつの前では、いつも人間は近視眼であり、永遠に人生のアマチュアであり続ける。経済学がお金の流れを追いかける研究分野であるからには、金融工学やファイナンス理論を旺盛にしていくのも、その顕れ。
お金に関する金言は、愛のものに匹敵する。ベンジャミン・フランクリンは、こんなことを言った、「お金と人間は持ちつ持たれつだ。人間は贋金をつくり、金は贋の人間をつくる」と。お金に対する愚かさは、愛に対するものより強烈やもしれん。金狂家は主張するだろう... 愛にうんざりしても、詩にうんざりしても、お金だけは裏切らない... と。資本主義というお金を自然増殖させる奇跡的なシステムを支えているのは、投資という行動原理である。しかしながら、投資の哲学的意義なんぞを問うても上の空。浪費家は主張するだろう... 金は天下の回り物... と。金融屋は主張するだろう... 金融商品を買おうという客で溢れているのに売らない手はない... と。その影で投機屋は、サヤ取りに明け暮れて元の鞘に収まるのかは知らん。

貨幣流通の最大の役割は、金儲けの平等化であろうか。人類は価値の概念に弄ばれてきた。価値の指標を探し求めた挙げ句に貨幣を発明し、価値の概念を自由に解放してしまったがために仮想化へまっしぐら。パンドラの箱を開けちまったか。精神ってやつが得たいの知れない実体だけに、仮想的な存在とすこぶる相性がいいと見える。つまり人間は、長い長い歴史経験をもってしても、真の価値を知らずにいるということか。いや、経済哲学を身にまとうには、まだまだ経験が足らないというのか。
いまや仮想化の波は現金を抹殺にかかる。時代はリアル貨幣の最期を迎えようとしているのか。あるいは、一連の金融危機によって、紙幣や硬貨を絶滅の危機から救おうとしているのか。その影で、お金はお構いなしに自由に振る舞う。
今、ラジオからあの懐かしい ABBA の曲が流れてくる。Money... Money... Money...

1. 贋金崇拝!
古くから、お金は崇められてきた。贋金で敵国の財力を奪う戦略は、既に古代の記録にある。贋金の歴史は、賢い人間のことだから、おそらく貨幣の発明とともに始まったのだろう。犬のディオゲネスとあだ名された哲学者は、価値の本質を問い、貨幣の真の存在を問うて貨幣偽造に及んだがために、国外追放をくらった。この御仁にしてお金の犬になったのかは知らんが、彼に陶酔する酔いどれ天の邪鬼が子猫ちゃんの犬であることは確かだ。
やがて科学の時代が到来するが、仮説を嫌ったニュートンでさえ錬金術に嵌った。金に目がくらみ、金で遊んでいるつもりが、金に弄ばれ、堕ちていく。天国と地獄の区別もつかんと。豊かな社会で貧しいよりは、貧困な社会で貧しい方がましやもしれん...

2. お客様は神様?
価格の決定権は誰にあるか?生産者側の価格競争がある程度は機能するにしても、その主導権が消費者側にあるというのは疑わしい。消費者が欲しがらない物を生産しても意味がない、といえばその通りだろう。では、消費者は何を欲しがっているのか?実は、消費者にも分かってない。それを提案するのが生産者であって、選択肢は常に生産者側が提供しているし、消費者は単なる批評家に成り下がる。
一方で、生産者の提案がヒットする場合もあれば、不発に終わる場合もあり、消費者側にも選択の自由が残されている。となると、誰に主導権があり、誰が神様なんだか?とんと分からん。
生産者責任は問われても、消費者責任は問われないのは不公平。やはり神様は、沈黙を守ってこそ威厳があるというもの。神様とクレーマーを同一視することはできない。大勢の神様がいるならば、自己主張の強すぎる神様を黙らせなければ。こと人間社会においては神様ってやつは、一神教でなければ、なかなか機能しないものらしい...

3. お金は手に余る...
貨幣は、国家の信用度を裏付ける存在として君臨してきた。では、国家の信用は、どこから発しているのか?造幣局は、なにゆえ信用に足るのか?それは、単に慣習がそうさせるのか?あるいは、信じたいという願いがそうさせるのか?お金ってやつは、ますます神秘性をまとい、人類を迷信へと駆り立てる。
やはり人間にとって、お金は手に余る... 自由に泳がせておくのが一番... そう考えて編み出されたのが市場原理である。市場に人間の苦手な客観的価値の指標を委ねたのである。だが、市場もしばしば暴走し、価値を歪ませる。その度に金融政策や財政政策が発動されて国家の存在感を強めるが、そこに余計な思惑が働いて、これまた価値を歪ませる。市場は、しばしば政策立案の思惑とは真逆の反応を示す。人間どもにお金の正体が一向に見えてこないだけに、結局はイデオロギー論争にすり替えられる。しかも、持つ者と持たざる者の闘争という形を装って。これが、マルクスの言う階級闘争なのかは知らん...

2019-01-20

悪魔と和解を...

迷える子羊にさえ、いつも沈黙をなされる神様よりも、お喋りな悪魔と和解する方が得策やもしれん。生きたいか、死にたいか、それが分かるまで、生きてみるしかあるまい...

「生ある限り、全てが試練である。」... ニーチェ

悪魔との和解が急務...
宗教に疎いおいらは、昔からプロテスタントという用語の扱いが微妙だと感じてきた。ルター派もあればカルヴァン派もあり、反カトリックという意味では英国国教会を含む場合もある。カトリックからの分裂派という意味で、東方教会やロシア正教会までは含まないようだけど...
人間の思考を遡れば、だいたい同じところに辿り着く。信仰心は人類にとって普遍的な存在なのだろう。無宗教者で無神論者の酔いどれ天の邪鬼といえども、なんとなく絶対的な、宇宙論的な存在を感じる。それが宗教の唱える「神」とは異質なものに見えてならないというだけのこと。
実際、キリスト教徒を称しても、科学的な見地から教会とは距離を置き、独自のキリスト教を構築する人たちがいる。彼らは布教という行為にはあまり興味がないと見える。人間の信仰心は実に多種多様で、精神を宗教団体などという枠組みで画一化できるものではないし、ましてや強制できるものでもあるまい。
ユダヤ教はエジプトの神から派生し、キリスト教はユダヤ教から派生し、イスラム教にしてもこれらの影響を受け、源泉は同じところに発する。これら三つの主教はアブラハムの宗教と呼ばれ、共通した人物を崇める、いわば兄弟のような間柄。なのに、なぜこうもいがみあうのか。古代ギリシア時代には、ゼウスを中心とした実に個性的な神々が共存していた。一神教となった途端にそうさせるのか...
人々を救済するはずの宗教が、寛容性を失い、排他主義に憑かれ、悪魔と化す。どんな大罪人でも懺悔すれば救済されるというのに、異端というだけで害のない人々までも抹殺にかかる。しかも、紛争は近い地域や近い思想の間で生じやすいときた。血の濃い関係ほど憎しみの根も深いと見える。人間ってやつは、本性的に差別好きで、縄張り意識が強く、自己存在を強調せずにはいられない存在である。いまや神に縋るより、悪魔と和解する方を優先せねば...

役に立つという視点...
成功より失敗から多くを学ぶように、幸福より不幸から多くを学ぶ。五体満足で幸せに生きる人より、身体的な障害を抱え苦悩して生きる人から多くを学ぶ。有識者たちの道徳感たっぷりな言葉よりも、知能的に障害を持つ人が純粋に曝け出すものに人間の本性を学ぶ。古代都市スパルタでは、そうした人たちを遺棄したが...
となれば、「役に立つ」という概念も違って見えてくる。役に立つと自認している人ほど、大して役に立っていないのかもしれないし、役に立たないと思っている人ほど、思ったより役に立っているのかもしれない。まずは、自分の価値観や世界観を見直してみることだ。常に、検証を怠るな。これが、ソクラテス流の「よく生きる」ということであろう。
相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体が善を認識する方法は、悪との比較においてのみ。これが悪との和解である。善悪は、ただ情念にのみ依存する。真偽もまた、偽を意識した上で真が薄っすらと見えてくる。となれば、真理ではないものも、それなりに存在意義をもってくる。
必要悪というものは、確実に存在する。どう生きればいいのか。それが明確に見えてこないから、人生は退屈しないでいられる。いまや善や徳を唱える前に、メフィストフェレスの言い分に耳を傾けなければ...

2019-01-13

「信者」と書いて、「儲」かりまっかぁ...

何事も信じることが、悟りの第一歩...
人間ってやつは、妄想を満たせば、それだけで幸せを感じられる。それは、精神という得体の知れないものを獲得した知的生命体の性癖であろうか。これはもう、ある種の精神安定剤なのである...

人間が生きていくには、なんらかの信仰や信念の類いが不可欠...
信仰は、モノを考え、根拠を評価する必要性を回避するための絶好な口実となる。つまり、人間は言い訳人生を生きているということか。自己満足感を満たすために...
証拠がないにもかかわず、いや、ないからこそ信じられる。自己を正当化するために...
信仰は、実に都合のいい代物だ。答えを求めても、神はいつも沈黙しているが、その代理人と称する者が答えてくれる。
信仰が必要なのではない。信じ込む自己に陶酔したいだけだ。合目的が必要なのではない。なんとなく目的感が欲しいのだ。人生の意味が必要なのではない。なんとなく意味があるという実感が欲しいのだ。この世に自由なんぞありはしない。だから、自由意志を崇めてやまない。現実に自由を与えられても、責任まではいらない。責任感だけで十分。
真理なるものが存在すると信じるだけで、退屈病から解放される。盲目感には耐えられない。自分自身が盲目であることを絶対に受け入れられない。この世のすべてが空虚などと認めたくはない。だから、自己に意義を求め、自己存在感を求めてやまない。そして、名声欲に憑かれ、肩書に縋る。人間は、意味づけを求めてやまない生き物である。
孤独を感じている人が、社会の手がかりを甚だ主観的な眼を通して見るのは、不思議なことではない。目の前の現象をどう解釈するか、そうやって生きていくしかないだけのこと。しかも、いかようにも解釈できるときた。この能力は貴重である。そうでなければ、矛盾した社会を生きていくことは難しい。
真理を探求できるのも、真理が存在すると信じているから。けして到達できないという無力感に苛みながらも、その無力感に快感を覚える。そして、自己に言い訳できなくなったら、あとは狂うしかない。人間の弱さを素直に曝け出し、自分の弱さを認める勇気を持ちたいものだが、これこそ危険な行為となる。

自己を知ろうとする衝動は抑えられない...
一歩引いて自己を眺めようとするメタ認知的な思考は、確かにある。それは、精神を抽象概念へいざない、自我を曖昧にさせる。それが普遍的な思考と一致すれば、神が看取っていると思い込むことができる、実に幸せな存在ときた。
精神の合理性を否定するなら、合理的な側面も語らなければなるまい。純粋な理性を語るならば、社会にあふれる思惑的な理性を糾弾しなければなるまい。
宇宙の始まりを問えば、始まりの前を問わずにはいられない。そして、宇宙なんてものをこしらえた奴は誰だ?と製造者責任を追求する。完全な絶対者が人間なんて不完全な代物をこしらえたのは、なぜか?と神の意志を問えば、無神論者だって、神を否定するために神の概念を必要とする。
ただし、人間の思考には無意識的な領域が広大であることも、意識しておく必要があろう。無意識の領域に本性が内包されているとすれば、自己を知ることに対して絶望的である。無意識な自己に、どう自己責任を押し付けようというのか。
信じる者は救われる!という単純な原理は、単純だからこそ潜在意識に強く訴える。こんな馬鹿なことを!といったことでも簡単に信じられる。
世界の破滅を予言したカルト宗教は、予言日に何事も起こらないと、詐欺だ!と信者たちから集団訴訟を起こされる。だが、より深いレベルの信者たちは、全財産を捧げたおかげで災いが起こらなかったと疑わない。障碍者を抱える家族では、お布施によって症状がこれ以上悪くならない、と信じる人たちが少なからずいるし、高額なお布施を差し出しても疑わない。それは、自分が騙されたことが絶対に受け入れられないのであって、自分が悪いということが認められないのである。どんな世界にも、不幸事に対してこれ以上悪くならないのは、自分たちのお祈りのおかげだと信じる人たちがいる。
しかしながら、こうした信仰心は人間の本質的なものかもしれない。普段から、自分の行動は正解だった!自分の行為は間違いなかった!などと主張する人がわんさといるではないか。まるで自己を慰めるかのように...
自分が正しいと主張し続けることは、生理学的に依存症と似たところがある。自分の過去を否定することは、自己否定につながる... といった意識がどこかにある。地上で、これほど自己否定を恐れる生命体が他にあろうか。それは、精神を獲得した者の性癖であろうか。だから、説明のつかない領域、信仰の及ばない領域、自己責任の及ばない領域では、神に縋るしかないってか。
目的や意味を失った時、不快となり、どうしよもない不安感に襲われる。人間は、目的感や意味感や信仰感を本能的に必要としている。真の目的が分からなくても、その目的を感じていたい。人生の意味が分からなくても、その意味を感じていたい。
そして、それらを感じている自分自身を信じることに幸せを感じることができる。やはり人間には、神の概念が必要なようである。言い訳を求めながら生きている生き物には特に...

2019-01-06

神が人間をこしらえたのか... 人間が神をこしらえたのか...


「人間は神の失敗作に過ぎないのか、それとも神こそ人間の失敗作にすぎぬのか。」... ニーチェ

自然哲学者たちは、楽天的な認識論を神の誠実さという構想の上に築いてきた。しかしながら、神が人間を欺くなどありえないと、どうして言えよう。無知は、自らの力に謀られて、無知の状態のままにしておこうと企てる。無知は精神を毒し、虚偽で満たす。神が欺いているのか、人間が欺こうとしているのか。
いずれにせよ、神のせいにして生きて行ければ楽になれる。神への責任転嫁は、神も望むところであろう。誤謬に陥る人間の能力も、神がこしらえたのさ。こんな不完全な存在をこしらえる必要がどこに。神の気まぐれときたら、ゼウスの女たらしっぷりで証明されている。なにしろ女神連に飽き足らず、人間の女にまで手を出すのようなヤツだ。
あらゆる人間は、自己の中に自分自身の神を造る。偶像崇拝に励み、何か正体が分からないものに権威を与える。正体が明確になれば、有難味も感じられない。だから、権威主義に陥るのか。人間社会における権威もまた偶像崇拝の類いか。形式や常識に縋るのも、その類いか。現実に絶望すれば、得体の知れないものに縋る。ただ、それだけのことやもしれん。つまりは、気分の問題よ。
「神は存在する!」とした方が、なにかと都合がよい。なによりも精神衛生上よい。少しばかり大きすぎる自我を控えめにさせるためにも。科学者は、それを宇宙論的な存在とみなす。この世に神がいるかどうかは知らん。もしいるとしても、それは人間のためにいるわけではあるまい。もし人間のために、とするならば、人間がこしらえるしかない。だから偶像をこしらえずにはいられないのだ。かくして神の存在理由は、人間の存在においてのみ説明がつく。人間が生まれ出たことが無知の起源であったか...

「私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。」... アドルフ・ヒトラー

人間は、「人間原理」とやらを求めてやまない。神に看取られていると信じては宗教に縋り、きっと救われると切に願う。宇宙法則を知れば知るほど、人間都合のデザイン論を思い描かずにはいられない。地球の絶妙な大きさと重力、太陽からの絶妙な距離、月という絶妙な付属品、公転や自転の絶妙な周期... こうした偶然性は何を意味するのか?誰かが意図したというなら、それは神なのか?
おまけに、宇宙法則には、様々な物理定数が介在する。光速、重力定数、プランク定数、ボルツマン定数... これらの数値を眺めていると、人間が誕生するように調整されているかのように思えてくる。電磁気力の強度法則をちょいと変えるだけでも、生命は誕生しないだろう。α粒子の結合力をちょいと弱めるだけでも、トリプルアルファ反応のような核融合は起こらないだろう。物理法則には、人間が宇宙の観測者という特別な存在であると信じるに事欠かない。宗教が、神が人間を創造した... と唱えれば、科学も負けじと、神は人間を創造するように宇宙を設計なされた... と唱える。
人間が生きるには、信念や信仰を必要とする。知的生命体に概して備わる性癖なのかは知らんが。精神ってやつを持ち合わせ、かつそれを実感でき、しかも精神の正体を知らないとなれば、それも致し方あるまい。すべての現象をいかようにも解釈できるおめでたい存在となれば、やはり神の仕業か。
そして今、巷を騒がせているダークエネルギーは、人間にとって都合のよい物理量なのだろうか。おそらく、究極の物理法則が編み出された時には、その方程式の中に定数といった数値は現れないであろう。宇宙の仕組みが、物理法則に支配されているとすれば、神に選択する余地はないはず。だが、神が物理法則を超えた存在ならば、神にも選択の余地はありそうだ...