2012-04-29

"公共哲学" Michael J. Sandel 著

ハーバード大学の人気講義「Justice」で話題になったマイケル・サンデル教授。有名大学の講義を一般公開するところに、アメリカという国の懐の深さを感じる。ちなみに、このシリーズは昨年NHKで放映され、録画したはいいがまだ見返していない。
講義の特徴は対話術にある。暗記教育に慣らされてきた日本人には、度肝を抜かれただろう。答えの見つかりそうもない絶望的な難題に立ち向かう術は、ソクラテス時代からの弁証法的議論が受け継がれる。多民族、多人種、多文化が混在する地域では価値観が多様化し、政治を行うにしても論理的な説明や説得を必要とする。ここに、民主主義や自由主義の根幹があるのだろう。
一方、単一民族国家では価値観も単一的で、異端的な意見は暗黙のうちに村八分にされる。この講義形式をサンデル教授自ら東大で開催したのは、政治的立場としていかに中立に議論するか?という問題を日本社会に投げかけているように思う。議論で最も重要なことは、意見を主張することではない。意見を聞き入れる寛容さである。とはいっても、これが最も難しい。民主的に議論すれば何もかも解決できるなどと甘いものではない。話し合えば分かち合えると信じる友愛型人間も少なくないが、知れば知るほど嫌いになる教義もあるはずだ。多様性を認めるということは、意見の好き嫌いが生じることも含めて認めるということであろう。間違っていると思えば、論理的に反論すればいいだけのこと。そして、互いの論理に耐えうる意見のみが生き残るだろう。多数決の原理は、互いの論理的議論が尽くされた時にやっと機能しはじめるのであって、感情論や慣習論に流されれば、たちまち危険なシステムとなろう。ヒトラーの大衆扇動術の原理がここにある。
民主主義社会でコマーシャリズムは絶対に避けられない。ニュース、教育、娯楽、そして政治に至るまで。アメリカでは、栄養学をマクドナルド提供の教材で学び、原油流出事故の影響をエクソン制作のビデオで学ぶ現実があるという。今日、どこの民主国家でも政治がエンターテインメント化している。手軽な美徳や癒し系の言葉が氾濫し、有権者を惹きつける。矛盾が自然法則であるならば、弁証法なる方法以外に、これに対処する方法があろうか?意見の不一致あるいは多様性が人間の善を反映しているとすれば、弁証法的アプローチによって公共的価値観なるものを見出そうとする。これがサンデル教授の目論見であろうか。

本書は、「公の場で哲学する」をテーマにした小論文集である。そこには、Affirmative action(積極的差別是正措置)、幇助自殺、妊娠中絶、同性愛、幹細胞研究と胚の倫理学、環境汚染権の売買、市場の道徳的限界...など豊富な話題で埋め尽くされる。まさに、宗教的、文化的、道徳的な価値観が複雑に絡む難題ばかり。
議論の展開では、まずトーマス・ジェファーソンまで遡って政治的伝統を概観しながらリベラリズムの源流を探る。そして、数々の難題から生じる矛盾を、ベンサムの功利主義とカントの人格道徳の対比、あるいはリバタリアンとコミュニタリアンの対立構図から、人類の普遍的価値なるものを公共的に迫ろうと試みる。
歴史を概観しながらリベラリズムの諸派を考察するあたりは、アメリカという国を理解する上でも役に立つ。それは、アメリカ社会が権利の主張という柱に支えられていることである。最低限の生活や基本的人権とはどこまでを言うのか?アメリカの政治はこうした議論を重ねてきた歴史の上に成り立っている。自由主義は宗教弾圧への反発として育まれてきたので、政治に宗教的道徳や信仰的道徳が干渉することを極端に嫌う傾向がある。そして、公共的理性よりも個人的権利が優先され、慢性的に権利の制限という問題を抱えている。例えば、国民皆保険の導入となると、なぜそこまで目くじらを立てるのか、あるいは、ちょっとした社会福祉的政策を持ちだそうものなら「アカ」と罵る光景は滑稽に映る。些細な公共性に自由の侵害と大袈裟に反応するのも、自由獲得で苦悩してきた歴史的執念からくるものであろうか。
また、サンデル教授の学問の系譜を辿ると、コミュニティや公共的自由を唱える立場から、ウィリアム・ペティやジョン・スチュアート・ミルに通ずるものを感じる。だからといって功利主義を擁護するわけではなく、むしろ功利主義に頼らなくても自由が説明できるという立場を表明している。そして、功利主義とカントの自然道徳を矛盾しない立場に置いている。それは、ジョン・ロールズの「正義論」を、カントの人格道徳の修正版だとして称賛していることからもうかがえる。ちと持ち上げ過ぎの感もあるけど。もっともロールズ自身は、カントの道徳観念から離れる立場だと主張したらしいが。リバタリアンとコミュニタリアンという二大派閥から眺めると後者に属すのだろうが、そう単純でもない。ちなみに、アル中ハイマーはリバタリアンに近いか?それでも本書に共感できるところが多い。いずれにせよ、何事も二分してどちらかに属させようとするのは悪い癖か。もっとも、ここで言うコミュニティとは、政治的な強制あるいは扇動された枠組みなどではなく、市民生活から自発的に生じる自律的な精神を育んだ集団単位と見るべきであろう。そして、公共的自由には自己の自律が前提されるということを付け加えておこう。その根底には、ソクラテスが説いた「善く生きる」という人生観がある。要するに、古代から人間精神はあまり進化していないということか、いや退化しているのかもしれん。ユーロ危機が皮肉にも哲学の聖地ギリシャに端を発っしたのは、民主政治が衆愚政治と化した結果であろうか...

1. 小さな政府 vs. 巨大企業
金持ち優遇政策はアメリカ個人主義の代名詞のように言われるが、その傾向は近年のものだという。昔から、中央政府が自己統治のための市民感覚を鈍らせる懸念はあったが、同時に企業の巨大化も懸念されていたようだ。ジェファーソンは、「ヴァージニア覚書」で大規模な製造業を育成することに反対したという。大規模の企業が無産階級を生み出し、共和主義的市民が自立を欠くことを懸念したとか。
「依存は従属と金銭的無節操を生み、美徳の芽を窒息させ、野心を満たすたくらみを準備させやすくする。」
そして、農村の生活様式が国民の美徳を養い、自己統治に適しているという価値観があったという。尚、大地を離れては生きられないという価値観は農耕民族的なものと考えられがちだが、ヘシオドスの時代から大地(ガイア)に神が宿るという思想がある。
経済の分散を提唱したルイス・D・ブランダイスは、分配的正義よりも自己統治を担う市民形成を重視したという。
「人間が進歩するためには、きちんとした食事をとり、きちんとした住まいに暮らすこと、きとんとした機会に教育を受け、レクリエーションをとることが必要不可欠である。こうしたものなくして、われわれは目標に達することができない。だが、それらをすべて手に入れてもなお、奴隷の国であるかもしれない。」
自由競争が独占やトラストを生むことを、歴史が既に証明している。そう、自由の果てに束縛があることを。結局、農村の意義を唱えるジェファーソンの考えが主流になることはなかった。だからといって、多額の政治献金が提供できる団体が権利を持つという論理にはならないだろう。諸悪の根源をレーガン主義に求めるのをよく見かけるが、本書もその例に漏れない。
アメリカのリベラリズムは、もともと理性的な自由主義から育まれたが、「主意主義的」な自由主義に変貌していったという。主意主義的とは、理性よりも意志を根本に置く立場だそうな。レーガンは、大きな政府を有害とし、経済には自由を認めた。しかし、巨大企業の暴走に対抗するには大きな政府が必要であり、小さな政府を唱えるなら経済も分散させる必要があると指摘している。かつて、大きな政府が唱えられた時代があった。セオドア・ルーズベルトのニューナショナリズムである。だが、それは巨大化する産業資本に対抗するためで、ジェファーソンと方法論が違っていても目的は同じだという。そこに登場したレーガンのニューフェデラリズム(新連邦主義)、すなわち地方分権構想は、近代の潮流によく合致する。しかし、地方分権の方法論を誤って経済とのパワーバランスを欠くと、巨大企業に権力を集中させることになり、建国以来の伝統的な権威とコミュニティまでも衰退させていく。経営者ですら実体が掴めないほど企業は無秩序に大規模化し、いまや多国籍企業が小国家を呑み込む勢いだ。そして、地域社会の自律性が損なわれる。リベラルも共和主義も元を辿れば、自治統治のための自立や自律に行き着くということか。

相互依存という機械的な事実があるだけでは、結局はなにも生まれない。
...社会事業家ジェーン・アダムズ

2. God-o-Meter
レーガンの政治的直感は天才的なものがあるらしい。アメリカの保守主義に孕む二つの矛盾を見事にまとめたという。それは、リバタリアンや自由放任主義を重視しながら、同時に伝統主義や宗教的道徳を重視したことである。国民に干渉しないと表明しながら、宗教的価値を表明して、妊娠中絶、ポルノ規制、公立学校での礼拝を復活させる。
このレーガン式選挙戦略は、ジョージ・W・ブッシュに受け継がれる。大統領就任演説や一般教書演説で、神を口にした頻度はレーガンを上回ったとか。彼ほど宗教的レトリックや聖書からの引用を演説に散りばめ、厚かましくこの戦術を用いた者はいないという。候補者たちの神への言及を追跡する「God-o-Meter」(beliefnet.com)なんてサイトが、2004年頃からあるそうな。大統領選は、神の恵みをめぐる論争で熾烈をきわめたというわけか。

3. JFK
ケネディの活動エネルギーを支持する人はいまだに根強い。それに変わる民主党政権がいまだ誕生しないからであろうか?犯罪に厳しい態度をとり道徳的エネルギーを見せるものの、権力の分散、つまりは小さな政府を支持し、福祉を批判したことでは民主党らしくないように思える。しかし、解釈が違っていたようだ。
彼は、管理政治を批判し、市民性やコミュニティのビジョンを打ち出したという。彼が福祉に反対したのは、貧困層への連邦政府の支出が、受給者の市民的能力を損なうことへの懸念からだったという。つまり、民衆を依存と貧困の奴隷にするという理由からだと。ケネディは、消費社会の恩恵に公平にあずかれるというだけではなく、市民が自己統治を分かち合うこと、個人が集団的運命を律する力の形成に参加することを要求したという。なんでも分配を権利に頼るのは危険である。実際、補助金漬けになって、自立できない企業や産業が少なくない。国が無闇に口を出して存在感を示すと、ろくなことにならない。それをケネディはよく心得ていたわけか。彼の言うコミュニティへの参加とは、労働への参加をうながす意図があるという。なるほど、これは民主党の福祉政策とは根本的に違うし、共和党の福祉批判ともまったく違うもののようだ。

4. 正義と善はどちらが優先か?
政治では、正義、公正、個人の権利が最も高い位置に置かれる。少なくとも建て前は。道徳が宗教や信仰から導かれるとすれば、それは極めて主観性の領域にあり、客観性を求める法律や制度とは相性が悪い。そして、実践の場では、正義は善よりも優先されることになろう。アリストテレスは、都市国家の尺度とその目的を善とした。カントは、法律を道徳の最後の砦であるとして、人間の究極の目的である善との間でジレンマを起こした。ミルは、正義を道徳全体の主要部分であるとし、功利主義の目的を正義に求めた。いずれにせよ、正義が善を行うための道具と化す矛盾にぶつかる。実際、政治家にとって法律が神様で、都合よく憲法と矛盾する法案を次から次に編み出しやがる。これで道徳をどこに求めるというのか?やはり政治と道徳は相性が悪いのか?義務を正義の基盤に据えたとしても絶望的か?
カントは、人間性を自然学に求め、芸術的感性のみが主体を進化させるとし、理性構築の過程を主観性で魅了した。対してジョン・ロールズは、カントの超越論的主体から「負荷なき自己」という客体へ進化させたという。彼は「原初状態」という概念を持ちだしたそうな。それは、いかなる特定の目的をも前提しない状態である。自分がどんな人間であるか、強いか弱いか、幸運か不運かを知らず、興味や目的も、善の概念すら知らない時に、社会を支配する原理としての自己がどんな原理を選ぶかを想像する。人間の普遍的原理に回帰するとでも言おうか。その原理で選択された結果こそが正義というわけだが、そうした人間の潜在的能力を善とする思考は古くからある。
さて、「負荷なき自己」とは、自分が持つもの、欲するもの、求めるものに対する自己のあり方であって、自分の持つ価値観と、自分がそうである人格が常に区別される状態だという。自分の持つ目的や属性よりも先立って存在する自己があるとでも言おうか。その意味では、カントの言うアプリオリな認識と似ているように思える。自分で自己を定義しようとすれば、自己から距離を置いた何かに頼る必要がある。つまり、客観性である。客観性を認識する自己となれば、それもまた主体ではないのか?ロールズは本当に客体に進化させているのか?
「人間性にとって最も本質的なのは、みずから選ぶ目的ではなく、目的を選ぶことの能力だ。...自己がその目的に優先して初めて、正は善に優先できる。」
確かに、自己を疑う人格、自己を見つめ直す人格、そうしたものの存在をなんとなく感じる。自由を認識できるということは、自律を実践できるということになろうか。ただ、こうした思考は、カントの自然学的判断力でも説明できそうな気がするけど。このあたりのカントの解釈が、おいらと違うところであろうか。

5. ジョン・ロールズの「正義論」
ロールズは、アメリカの最も偉大な政治哲学者だとして紹介される。その著書「正義論」は、ミル以来、リベラル派の政治原理を最も説得力をもって説明する作品だという。そこには、三つの重要な概念、個人の権利、社会契約、平等について展開されるという。社会で最も恵まれない人々を救うための格差是正、あるいは基本的人権こそが正義ということになろうか。とんでもない高収入を得られる人々が存在しうるのは、最下層の人々にも恩恵がある場合に限られる。これが格差原理だ。必ずしも格差を否定しているわけではない。それを否定すれば能力主義をも否定することになろう。能力とは、弱肉強食の世界ではないということだ。そして、機会均等という条件も付け加えられることになる。道徳的、信仰的信念が一致しない以上、それらをめぐる論争に中立の立場をとるのが政治的立場となろう。
正が善に優先する概念は、カントの道徳哲学を政治に応用した結果ではなく、民主主義社会に住む人々が善についてたいてい意見が合わないという事実への現実的な対策である。これが政治の正義、つまり実践の正義ということになろう。ただ、リベラリズムがカント的人格概念を放棄するわけではない。そこで、「負荷なき自己」の概念の登場である。つまりは、コミュニティで生きるための成員資格のようなもの、正義の原理を生み出す仮説的な社会契約のようなものが必要ということのようだ。ここでは、「理に適った多元主義の実現」と表現されるが、ロールズの思考は理想主義の感もある。
最高善が人間の潜在能力にあるとすれば、それは余計な知識を持たない人格、すなわち赤ん坊が既に持つ能力ということか?だとすると、政治は言葉のみを知る赤ん坊にさせるのが一番か?いや、言葉を知る時点で余計な知識を持っているのか?なるほど、神は沈黙しか教えてくれない。実は、人類の普遍的価値は、古代から繰り返される自由と平等、正義と善の論争によって既に証明されているのかもしれない。すなわち、対立構図の中でもがきながら、駆け引きしながらでしか生きられない愚かな生き物ということ。思想の自由あるいは行動の自由が本当に社会の理に適うかも分からず、これに優る手段を他に知らないだけのことかもしれん。
んー...ロールズをもってしても、俗世間の泥酔者は絶望論から解放されそうにない。そもそも、人間は精神の正体も知らないのに、具体的に正義の何が決められるというのか?

まず、最も望ましい生き方の本性を決める必要がある。それが曖昧なままであるうちは、理想の国制の本性もまた曖昧なままであるしかない。...アリストテレス

2012-04-22

"自由論" John Stuart Mill 著

功利主義といえば、ジェレミ・ベンサムの「最大多数の最大幸福」という言葉が有名か。ただ、広範な幸福を求める立場から極端な平等主義の印象を与えたり、多数決を崇める立場から少数派に犠牲を強いる印象を与えたりと、その解釈は様々である。ジョン・スチュアート・ミルも、19世紀を代表する功利主義者として知られる。父ジェームズ・ミルは哲学者としても知られ、ベンサムと交流があったそうな。息子ジョンの方はというと、21歳で精神の危機に陥り、人妻ハリエット・テイラーとの交際によって危機を脱したという。自由精神とは、心の束縛と対峙しながら、もがき苦しみ目覚めていくものであろうか。多感性が強いということは、人間性の素材が豊富なのだろう。感受性が強ければ、様々な感情を試すことができる。衝動の強いところに活力がみなぎり、無気力で無感動よりは新たな挑戦ができるはずだ。自律心や自制心もまた、感受性や衝動性の裏返しとして育まれるのであろう。したがって、自由主義が宗教的不寛容さの反発から生じても不思議はない。ちなみに、おいらは神様ってやつが嫌いだ!肝心な時に留守してやがるし、バチを当てやがるし、やりたい放題やりやがる。

自由!... これほど矛盾に満ちた言葉もあるまい。自由奔放に振る舞えば、誰かの自由を束縛する。そう、他人の犠牲によって成り立つ概念だ。一方で、自由競争によって自然淘汰される原理がある。自由な経済活動によって優れた製品を生み出し、自由に思考を競ってこそ優れた知性に達する。より洗練された精神へ導こうとすれば、必要な概念である。自由とは、我儘放蕩に運営すればこれほど品性を劣悪にするものはなく、節度ある運営をすれば高みにのぼる可能性がある。となれば、自由の権利は社会性においてどこまで許容できるのか?これが問われることになる。
本書の基本原理には、「危害原則」というものがある。すなわち、他人に危害を与えない限り自由であり、「自分でリスクを負担するかぎり」という条件を前提にしている。そして、社会が個人として適切に行使しうる権利の性質と限界が論じられる。言い換えれば、精神的自律や社会的責任をともなう自由ということになろうか。けして価値観の押し付けなどではなく、基本的人権や主権と深くかかわるものと思われる。
「人間が個人としてであれ、集団としてであれ、誰かの行動の自由に干渉するのが正当だといえるのは、自衛を目的とする場合だけである。文明社会で個人に対して力を行使するのが正当だといえるのはただひとつ、他人に危害が及ぶのを防ぐことを目的とする場合だけである。本人にとって物質的か精神的に良いことだという点は、干渉が正当だとする理由にはならない。」

ところで、人間社会には、生まれながらにしてどこかの国に所属させられるという奇跡的なシステムがある。人は、生まれる地や生まれる国を自由に選べない。生まれる場所すら与えられない人もいる。つまり、人はまず不自由から経験することになる。だから、自由への憧れが生まれつき強いのだろうか?
一方で、人間社会には孤独を悪とする風潮がある。孤独死を不幸と規定し、仲間意識を異様に煽る。しかし、自由と孤独は相性が良い。偉大な思想や発明は孤独との戦いから生まれた。俗世間から隔離されたところから生まれた。洗練された精神は、孤独的な精神空間の方が育みやすいのだろう。
英雄的思考は、世間から受け入れられるまで異端とされる。異端者の強みは、自分の思考を論理性や正当性で武装しようとすることであろう。自説の無謬性を前提にすれば、議論そのものが成り立たなくなるのだから。反対意見を論駁するということは、反対意見をも熟知することになる。失敗のリスクを考慮すれば、多数派に属する方が責任逃れしやすいのも確かだけど。なにも多数派が悪いと言っているのではない。他人の意見に影響されることが悪いと言っているのでもない。むしろ影響されなければ、知識を得ることもできないだろう。意見を鵜呑みにするのではなく、必ず個人的に思考を試し、検証してみる必要があると言っているだけだ。大衆の舞台から個人の舞台へ移し再検討してみる、これだ。それは、自ら編みだした思考も例外ではない。あらゆる思考は常に検証の対象となる。破壊と創造の原理が自然法則だとすれば、イノベーションこそ自由の源泉となろう。そして、自己破壊を試みるために、ひとり夜の街をさまよい(小)悪魔に魂を売る。これぞ自由精神というものよ。

1. 自由と支配
歴史を振り返れば、自由は支配権力に対する反発から生じた。外敵に対抗するために支配権力の必要性が生じ、やがて国土防衛という目的から国家という枠組みが形成される。集団社会には、どこにでもハゲタカのような連中が寄生するもので、彼らを押さえつける猛者を必要とする。よって、王もまたハゲタカと同類となる。「毒を以て毒を制す」というのが、伝統的な政治の原理としてある。
したがって、法治国家では法が権利を制限する役割を果たし、その制限が社会的自由と結びつくことになる。民主国家では、国民の代表者が権力者となる。だが、それで権力の暴走が収まったわけではない。伝統的な王様と国民の対立は、権力者が既得権益者と癒着することによって国民と国民の対立へと変化し、身分階級は所得階級へと変化してきた。
更に、近代社会の特徴として情報の影響がある。あらゆる民主国家で政治がエンターテインメント化する傾向があり、かつて信仰の奴隷だった民衆はいまや情報の奴隷と化す。同質化や画一化は、なにも共産主義の専売特許ではない。民主主義にも潜在的な性質としてある。宣伝技術は支配技術と結びつき、権力はより巧妙となった。したがって、政治や報道ほど自由の自律性が求められる世界はない。報道屋が言論の自由を訴えるのは、高い理性の持ち主であることを自負しているからであろう。彼らは公共の電波を独占しながら、自由の範囲を自覚しているはず。ましてや政治的な思惑などあろうはずがない。なのに、大手マスコミが護送船団式で報道を繰り返すのはなぜ?言論の自由を訴えながら他人の発言を迫害するとは...
「人類の良識という観点ではじつに不幸なことだが、人間が間違いをおかしやすい事実は一般論としてはつねに認識されているが、具体的な問題を扱う際にははるかに軽視される。」

2. 多様性と寛容さ
本書が一貫して唱えていることは、思考の多様性と宗教的寛容さの重要性である。寛容さとは、アル中ハイマーにとって最も難しい課題であり、説教に聞こえてくるから困ったもんだ。
古代の雄弁家キケロは、自分の意見と変わらないほど熱心に論敵の意見を研究する習慣があったという。自説の根拠しか知らない者は、その問題についてほとんど何も知らないと指摘している。どんな世界にも保守派と革新派が存在するのは、ある意味健全なのだろう。自由と平等の間で論争が生じるのも自然であろうか。異端的な立場が思考の硬直化を防ぎ、伝統的な立場が選り抜かれた思考を受け継ぐ。真理とは、対立的な思考を調和しながら近づくものであろうか。とはいっても、凡人は意見の好き嫌いに囚われる。誰もが頑なに自らの正当性を主張する。異端派にしても、頑なに主流派を攻撃する場合が圧倒的に多い。反対論を自分で提起できなければ、信じるしかない。ただ、自説に自信を持つことが悪いとも言い切れない。答えがはっきりしなければ、信念を持って追求することも必要である。おそらく理性的な人には、自己に疑問を持ち続ける能力があるのだろう。
「ニュートンの自然哲学すら、疑問をさしはさむことが許されていなければ、われわれはその正しさをいまほど強く確信することはできなかったはずだ。」

3. 宗教の道徳と古代哲学への回帰
キリスト教の道徳は、反発と抵抗という性格をあらゆる面で具えているという。かなりの部分が不信心への抗議で成り立っているらしい。その本質は消極的な服従の教えであるという。気高さではなく罪を犯さないこと、美徳の追求ではなく悪徳の抑制といった受動的な精神を理想にすると。教義では、「何々をなすことなかれ!」が圧倒的に多く、「何々をなすべし!」というのが少なすぎるという。天国に行けるという欲望と地獄に堕ちるという脅迫によって動機が導かれるならば、個人主義の傾向を強めることになろう。禁欲主義への反動が自由主義経済を発展させたのかもしれない。
対して、イスラム教の道徳では、国家に対する義務が重視され過ぎるという。個人の正当な権利を侵害するほどに。キリスト教とイスラム教の対立構図は、個人主義と集団主義の対立という見方もできるわけか。
ちなみに、本書には東洋思想に対する蔑視が鏤められる。時代的背景からしても西欧中心主義が強い。それでも、西洋的な道徳が不完全であることは認めているし、キリスト教に対する皮肉も目立つ。特に不寛容とされるローマ・カトリック教会ですら、聖人の位を求める際に悪魔の代弁者を議論に加えて反対論を辛抱強く聞くという。悪魔が浴びせる言葉を聞くような寛容さがなければ、死後に聖人になるほどの栄誉は与えられないということらしい。
一方、カルヴァン派の教義では、自分の意見や感情を持たないことが、人間の望ましい状態だとしているという。義務を果たし、それ以外はやってはいけない。人間は神の意思に自分を委ねる以外の能力を必要としないわけか。人間がなしうる善はすべて神への服従にあるとすれば、自由意思を持つ支配者も存在しないことになりそうだけど。
本書は、こうした宗教論議を散々しておきながら、結局ソクラテス流の対話術や弁証法の必要性を唱えている。宗教の道徳は古代哲学よりも劣るというのか。無条件に信じられるようになって退化したというのか。ソクラテスもイエスも処刑されたが、議論の余地があるような緊張感のある時代の方がましだったということか。
「迫害は真理が通過しなければならない試練であり、真理はかならずこの試練をうまく切り抜ける。」

4. 真理と人間の幸福度
どんなに主流的な意見でも、完璧に真理を掴んでいることはないだろう。もし真理があるにしても、それは一部に過ぎない。真理は一つしかないのだろうか?多様性が真理だとすれば、全員が賛成する状況は良いとは言えないだろう。誤りに固執する人も必要である。となれば、すべての人が真理を受け入れると、真理そのものが腐りはじめるのか?真理は、得られた結果で幸せになれるのではなく、追求する過程でしか幸せは享受できないということか?
本書は、進歩とともに論争や疑問の対象にならなくなった教えや理論の数は増え続け、人間の幸福度は反論の余地のなくなった真理の数と質によって測られるとしている。そして、真理を探求する努力、反対意見を受け入れる努力、正論を裏付ける努力を求めている。常識的な意見の決まり文句を鵜呑みにしている人は、実は何も分かっていないと指摘している。しかし、自分の無知を認めることは難しい。知性とは知識の丸暗記ではないはずだが、社会では暗記力に目が奪われがちだ。
ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの「国家活動限界論」には、こう記されるという。
「人間の目的、つまりあいまいで一時的な欲求によって思いついたのではなく、理性によって永遠不変のものとして規定した目的は、自分の能力を一貫性のある完全な全体へと、最大限に調和を維持しながら最高度に発展させていくことである。」
スコラ哲学の目的も、本来そうしたものであろうが、救いがたい欠陥があることを指摘している。それは、理性を議論の根拠に求めるのではなく、宗教的権威に求めることだ。

2012-04-15

"政治算術" William Petty 著

社会科学や経済統計学などの源泉を遡れば、ウィリアム・ペティあたりに辿り着くのであろうか。マルクスは、著書「経済学批判」で「経済学が独立の科学として分離させた最初の形態が、政治算術である。」と語った。同じ17世紀から18世紀に起こったドイツ国状学派やフランス古典確率論とともに、近代統計学の源流の一つとされるそうな。しかし、この歴史的文献が絶版なのは惜しい!
ペティの長男チャールズ(初代シェルバーン男爵)がイギリス国王に宛てた書簡には、「政治算術(Political Arithmetic)」という言葉の発明者は父であったことが綴られる。ただ、政治算術学派の創始者としては、ペティの友人ジョン・グラントとする方が有力なようだ。となると、グラント著「死亡表に関する自然的及政治的諸観察」にも興味がわくが、これまた絶版!図書館にも見当たらん!電子書籍の話題で盛り上がる昨今、古典パワーこそ見せつけてほしい。

時代は17世紀、チャールズ2世統治下のイングランド。ピューリタン革命から名誉革命へと二つの市民革命が受け継がれていく中、辛うじて王政復古期にある。その前半期、イングランドの国内紛争に乗じて、オランダが世界貿易を掌握しようとしていた。これに対抗して、重商主義の根幹である航海条例を強化しながら、度々オランダと戦争状態にある。第二次オランダ戦争は第一次よりも著しく苦戦。1665年のペスト大流行と翌年のロンドン大火で財政難に陥る。
更に、オランダ以上にフランスの脅威が目立つようになる。絶対王政の最盛期にあるルイ14世は、絶対主義的重商主義にもとづく国内産業の振興と貿易統制を強化し、その上に軍隊はヨーロッパ最強となっていた。国内産業の衰退の上に国際的地位の失墜となると、世論に悲観論が蔓延する。
「人間というものは、衰運に際会したり、自分の業務について悪い判断しかもてなくなると、我が身にふりかかる災難に対して、一層精だして抵抗しようとするどころか、その反対に、いっさいの努力を怠り、活力を減ずるばかりで、自分を救うことができそうな手段さえ、これを考えたり、講じたりしようとはしなくなるものである。」
「政治算術」は、悲観論を論駁するために、国力を冷静に分析する必要に迫られた立場から成立した。要するに、イギリスも捨てたもんじゃない!という国力の潜在能力と余剰利得を示した国民激励の書というわけだ。その意味で、東日本大震災に見舞われた我が国の状況に似ているかもしれない。
そこには、オランダ凌駕論からフランス凌駕論、さらにイングランド増進論が展開される。ペティは、政治算術を「人民、土地、資材、産業の真実の状態の認識方法」と規定している。ただ、歴史を大局的に眺めると、イギリス式合理的重商主義による世界市場制覇論とすることもできそうだ。あるいは、植民地帝国主義を後押ししているのかもしれない。インド征服論やアメリカ大陸におけるアングロサクソン優位説も、この時代に盛り上がったのだろう。いずれにせよ、後に起こる産業革命を前提としなければ現実味を帯びない理論ではある。
また、興味深い考察は、地代が人口密度に比例して高騰し、土地の資本価値すなわち地価も増進させるとしていることである。人口密度が増加すると、なぜ土地の価値が上がるのか?人口が密集すれば、食料の供給や運輸の効率が高まり、その相乗効果で消費も増加し、経費も節約できるとしている。なるほど、産業効率の高まりによって生じる地代や余剰利得は、利潤と利子を含む概念というわけか。しかし、工業地や商業地が利潤において有利となれば、すべての農地をそのように変えてしまえばいい...なんてことにはならない。経済指標の扱いの難しさが、このあたりにある。真の価値の計測とは、人類に課せられた永遠のテーマなのかもしれん。

社会現象における数値の意味するものとは何か?人間社会という複雑系を把握する上で実測値が不完全となれば、推定値や理論値を組み合わせて議論することになる。したがって、統計情報は、信憑性と解釈の双方において問われなければならない。ペティ自身も、ここに提示される数値が不十分であることをよく承知しているようだ。
統計情報で陥りやすい罠に平均値の誤謬がある。最近、社会現象はべき乗則に従うといった類いの書籍をよく見かける。だが、ちょいと前の時代まで、経済学は正規分布を仮定していた。所得分布で平均値を求めたところで、ごく一握りの連中によって全財産が掌握される。平均所得を鵜呑みにした政策は、たちまち富裕層優遇政策となり、GDPのような経済指標も当てにならない。
本書は、「数、重量、尺度」という言葉を用いて質や重みのような見方をしている。言うまでもないが、国力は国土面積や人口で決定されるものではない。土地の持つ自然的能力や民衆による経済的能力、あるいは産業の種類や政策いかんにも関わる。国力の試算では、人口を単純な数ではなく労働人口を重視し、土地や家屋や船舶など富を創出する能力として貨幣価値で換算している。つまり、資本的な価値を社会関係から導き、特に生産性や商業性と結びつけている。国家社会の大黒柱は、農夫、海員、兵士、工匠、商人であるとし、特に国際情報に精通した海員や、技術水準や機械使用に優れた工匠の割合を重視している。社会的価値を労働に求めるところは、マルクスに通ずるものがある。そして、経済活動の原動力となるのは異端的な人々だとし、国を富ませるために信教の自由を唱えている。実際、ビジネスチャンスは異端的な発想から生まれる。あらゆる産業の創始者や改革者はその時代の異端者でもあった。イノベーションとは、異端的なパワーであり、公認への反抗力ということになろうか。商業的交流が、抑圧的宗教から解放したのも事実だ。ドイツのハンザ同盟しかり、フランスのユグノーしかり。聖職者をあまり役に立たない存在としているのは、伝統思想への皮肉であろうか。
驚くべきは、こうした考察がアダム・スミスより百年も先んじていることだ。古典派経済学者T.R.マルサスは、人口は幾何級数的に増加するとした。そのずっと前にペティは、経済現象に非線形性なるものを見出しつつ、政治的観点から統計学の意義なるものを考察している。形而上学的で思弁的な議論を排除する立場を強調して、科学的認識が普遍的な法へ導くと言わんばかりに。経済学の祖父は、この時代にあったのかもしれない。
ところで、社会や経済の状況を示す上で、統計情報ほど感覚的で政治的な思惑に左右されるものはなかろう。数値の恐ろしいところは、それが欺瞞であれ、意見を武装する力があるということだ。数値を得るにしても手段そのものが主観性に囚われ、そのほとんどが不完全あるいは不十分な調査で終わる。現実に、各省庁が発表する経済予測はまちまちで、ご都合主義がまかり通る。政治家が起用する専門家もその政治家のお気に入りである。したがって、政府と独立した科学的研究機関が必要ということになる。社会科学、経済統計学、地球工学などの広範な分野において...そして選挙制度も独立の研究対象とするべきであろう。

1. フランス vs. オランダ
フランスとオランダの比較は、良質な土地面積において80対1、人口において13対1だという。だが、経済的には土地や人口もせいぜい 3対1 ぐらいで、相対的にオランダの方が優位にあるとしている。
特に、国力を測る上で重要な要素を航海業の発達と水運の便に求めている。オランダは、自然の地形によってフランスよりもはるかに国際貿易で優位にある。三大河のライン川、マース川、スヘルデ川のデルタ地帯に位置するだけで、これらの川が貫流する国々の海運を掌握できる。おまけに、その土地は豊饒、肥沃であること、平坦で常に風が吹き通しで機械力となる風車が利用できるなどの利点がある。ジーランドは島国のような地形で、大型船を収容する港を建設するのに適している。海に囲まれて防御もしやすい。航海業を掌握すれば、多くの機会に恵まれる。各国で何が不足し何を欲しているかを素早く把握できる。東インド会社においては、オランダは莫大な資本を所有しているのに対して、フランスはゼロ。船舶比では、1対9。輸出比にすると、5対21と逆転する。ちなみに、聖職者の数は、100対1だとか。生産性がなくても商業貿易だけで利潤を生むことができれば、アムステルダムのような商業都市の価値が高くなる。一般的に国というものは国産品によって繁栄するものであろうが、オランダの特徴は世界貿易の問屋や仲介役という非生産業を生産業の地位に押し上げたところにあろうか。
しかし、そんな自然の理も百年前までは、寒く湿潤な自然で不愉快な環境とされてきた。おまけに、ネーデルランド時代は支配者スペイン・ハプスブルグ家による宗教迫害を受けてきた。辛抱強い勤勉性は迫害の中で育まれ、極端な富や権力を欲しないことに美徳を持つという。異端者にも寛容だそうな。自由とは、精神抑圧の反発として養われるものなのかもしれない。思い通りに振る舞うこととは別物のようだ。
「人間が、感覚や理性をこえた問題について見解を異にするのは自然であるし、しかも小額の富しかもたぬ者が、とりわけ貧民に主としてかかわりをもつと考えられる神のことについて、自分たちの方が一層の機知と理解力とをもっていると考えるのは自然である」
また、オランダの不動産登記制度や銀行政策を論じている。登記法は、私有財産を擁護し、勤勉な労働に対する保証だという。銀行政策では、貨幣を純然たる流通手段と考え、信用制度が確立され、貨幣を増加させる。そして、租税制度を、公共的な富すなわち国民の富の部分徴収だとし、投資へフィードバックさせれば生産を促進させる。オランダの政策は、信教の自由、資産譲渡の登記、僅少の関税、銀行、質屋および商人法を発達させる。その結果、利子率はフランスの7%に対してオランダはその半分になったという。納税額ではオランダがずば抜けている。オランダとジーランドは全連合欧州の納税額の67%を支払い、そのうちアムステルダム市が27%も支払っているという。経済循環に寄与する租税こそ、租税制度のあるべき姿ということか。当時のオランダは、超先進国だったというわけか。こうしてみると、我が国の租税にせよ、相続税にせよ、根本的な経済哲学から酷く逸脱しているように映るのは気のせいか?

2. イングランド vs. フランス
ルイ14世の華美を誇りにできるのか?国の富は国王の贅沢さで決まるものではなく、むしろ税を搾取している証拠であろう。
まず、世界貿易において制海権が検討される。イギリス海軍が優勢なのは、大型船の建造技術にあるとしている。大型船は射程距離の長い大砲を搭載することができるからで、いわば大艦巨砲主義を主張している。大型船の方が、天候などの諸条件にも航行が安定する。フランスには大型船を収容する良好な海岸と港がないため、これを建設するのに2倍以上の経費でも追いつかないという。海員能力の差も大きい。スペイン無敵艦隊を破った伝統は、フランスを凌駕するに十分な経験と言えよう。
国土面積では、イギリスではなくイングランドで比較すると、フランスの7分の1から5分の1ぐらいか。ただ、領地の差はさほど問題にならないという。楽観視できのは、両国とも人口過剰になっていないからだとしている。海上交通の面から眺めると、むしろイギリスの方が海岸線が長く、海岸に近い場所に工業化や商業化の立地条件が整っている。
人口比較では、聖職者、海員、工匠において分析され、生産性を考慮するとイングランドの方が1.3倍多い換算になるという。一人当たりの貿易比は、イングランド人はフランス人の3倍もあるという。
さらに重要な考察は、フランスの航海業が増加する見込みがあるかどうかである。フランスは、穀物、家畜、ぶどう酒、塩、亜麻布、紙、絹布、果物などの必需品を国内で十分に貯蔵しているので、輸入に頼る必要がない。また、主な輸出品は、ぶどう酒や塩など容積を必要としないものばかり。したがって、フランスに脅威はないと結論づけている。

3. ドーヴァーの密約
1668年、フランスの侵略がオランダに及ぶと、イングランドはオランダとスウェーデンと三国同盟を結ぶ。オランダは新教国で共和政の国だったので、イングランドの民衆からも支持を受けていた。しかし、チャールズ2世は同盟を喜ばなかった。フランス亡命時に、従弟のルイ14世からカトリックの影響を受けたからである。加えて、王政復古の財政改革によって国王の内帑が国家財政から切り離されると、負債に苦しむようになる。
1670年、ルイ14世の財政援助を請うしかなかったチャールズ2世は、フランスと秘密条約を結ぶ。いわゆるドーヴァーの密約だ。チャールズ2世は独断で、資金援助の代償に軍隊を派遣することと、カトリック教の復興と国王自身の改宗を約束したという。本書は、「イギリス外交史上もっとも恥ずべき条約」としている。
この密約で第三次オランダ戦争となるが、この戦争は国民の支持を得難く、いっそう財政難が著しくなる。だが、主戦場が陸戦であったので、イングランド政府はうまいことオランダと講和する。フランスのオランダ侵略に乗じて、貿易権や植民地権を盾にしながらオランダを弱体化させ、海上貿易の覇者となった。チャールズ2世はというと、専制的支配を弱め、再び議会に依存することになる。やがて、名誉革命で王政は終焉へと向かう。

4. 重荷となる植民地政策
イギリスが分裂していることは、一つの障害であろう。イングランド、スコットランド、アイルランドにはまったく別の立法権力があって、互いに結合するどころか、しばしば貿易を閉ざしたり、邪魔をしたりする始末。
植民地が多すぎることも障害になる。あまりにも遠く分散し、多数の王国や政府に分割されている。ジャージ島、ガーンジー島、マン島は、イングランド、スコットランド、アイルランドのいずれとも異なった司法権の下に置かれる。ニューイングランドにいたっては、民事、宗教ともに異なる。このような異なった政府、地理的な位置、産業や国民の状態は、まったく自然的なものではない。これらを保護する負債は首長王国たるイングランドが背負うことになるが、小さく分割された遠方の地までは防衛できない。したがって、全帝国を統治する上では二重構造となる。イングランド国王が全帝国の頭領となり、その下に植民地の代表者たちが同列に配置される。ちなみにガンジーは、インドの代表者としてイギリス本土へ乗り込んで独立を嘆願したが、代表者の一人としてあしらわれた。
各植民地では、国王の大権、議会の特権、法律や司法の不分明な相違によって、理解がまちまちだという。イングランド王国は、はたしてアイルランド王国に対して支配権を持つか?という疑いすらあるらしい。そのために、驚くべきことも施行されるという。アイルランドの反乱を鎮圧するために、合法的に派遣されたイングランド人が、その目的を遂げるや否や公民権や参政権を奪われ、おまけに関税まで支払うようなことも起こる。一方で、本国から遠方にあれば、独自の行政や司法を必要とし、自立性をもたらすだろう。その結果が、アメリカ独立戦争や、ガンジーの非暴力、不服従運動であろうか。民衆運動が起これば経済的リスクとなり、いずれイギリスにとって手に負えなくなる。
また、アイルランドやスコットランドの高地を放棄するという仮説も述べられる。特にアイルランドは、政治不安を抱えていて経済的リスクも大きい。土地や人員を経済的価値でしか見なければ、そういう思考も成り立つのだろうが、当時の価値観からすると現実味がない。本書もそれを承知で議論しているのだけど。
尚、名誉革命以降、アイルランドは貧困化し、イングランドへの隷属化の基盤を固めることになる。ペティは、重商主義や租税制度などによるアイルランドへの抑圧に反対する立場にあるようだ。

5. イングランドの国力増進論
イングランドの国力はますます増進すると予測している。その理由は、過去40年間に渡って内乱や戦争を経験したにもかかわらず、国力を増大してきたことである。この40年間で、ニューイングランド、ヴァージニア、バルバドス、ジャマイカ、タンジーア(モロッコ北部)、ボンベイが、イングランド国王の領土に加えられた。そして、多くの改良がなされ領土以上に国力を高めた。ロンドンの家屋は、2倍の価値になり、船舶も増加。海軍は3倍から4倍に。海上貿易の規模も拡大。利子率は、法律や制度に頼らなくても自然にほぼ半分まで低下したという。土地や家屋が増えれば賃借が増加し、貿易が拡大すれば貨幣量も必要とされる。そして、貨幣も公収入も増加した。イングランド国民の支出を推計し、課税方法を合理的に運営すれば、その10分の1で強大な軍隊を保持できるという。
また、貨幣の流通速度を計算すれば、国内産業を運営するに足るだけの貨幣が十分にあるとしている。更に、国内産業だけでなく、全世界の貿易を運営するに足るだけの資産もあると。
「政治算術とはいかなるものであるか、
つまり人民、土地、資材、産業等々の真実の状態を知ることの効用はなにか、
国王の臣民は、不平家諸君がそういいたがっているほど悪い状態にはない、
共同一致、勤勉および従順は、共同の安全のためにも、また各人各個の幸福のためににも、偉大な効果がある、
以上三つのことを示すことこれである。」
ペティが最終的に論証しているのは、イングランド国民の生産力の増進を原動力とする世界貿易の掌握の可能性である。そして、その生産力が生み出すものは、余剰利得であり、これが国力増進の実質的な根拠となっている。だが、余剰利得の推計を検証することは難しい。本書が、フランスとオランダ、イングランドとフランスの比較で試みたように、比較論でしか語れないものなのかもしれない。

2012-04-08

"ティッピング・ポイント" Malcolm Gladwell 著

マルコム・グラッドウェル著「ティッピング・ポイント」は、「超ヤバい経済学」で紹介されていた。興味を持ったのは、大都会で発生した女性刺殺事件で、多くの目撃者がいたにもかかわらず、誰も通報しなかったという事例だ。そこには、集団社会における無責任性と疎外性という人間の本性なるものを感じる。「赤信号みんなで渡れば怖くない!」というのも、なかなかの真理をついている。
社会学者や心理学者は、よく「集団心理」という言葉を使う。では、何人以上になると無関心で傍観者的な心理が働くのだろうか?そんな好奇心を抱きながらアマゾンを探索してみると、なんと絶版中!図書館でも散歩するかぁ...
「本書はある発想をめぐる伝記であり、その発想はじつに単純なものである。たとえば、それまで知られていなかった本が一躍ベストセラーになる現象や十代の喫煙率の上昇、あるいは口コミによる伝播、あるい日常生活上の不可思議な変化を理解するには、それを伝染病のようなものとして考えるのが一番だということである。アイディア、製品、メッセージ、行動などはウィルスのように広がっていくのである。」

THE TIPPING POINT とは...
「あるアイディアや流行もしくは社会的行動が、敷居を越えて一気に流れだし、野火のように広がる劇的瞬間のこと。」
70年代に普及した言葉だそうな。ある特定の区域に住み着いたアフリカ系アメリカ人の数が一定数、ほぼ20%に達すると、その地域の白人がいっせいに町から出ていったという。この現象を社会学者が、町が傾く(ティップ)と呼んだところからきているそうな。核物理学でいう臨界質量のようなもの、あるいは水の沸点のようなものか。
近年、社会現象はべき乗則で変化する!といった類いの本を見かける。80対20の法則はもう古いといった意見も聞かれる。古いとは思わないけど。物理現象をはじめ人間が認識できる多くの現象は、非線形性に満ちている。ロングテールも非線形性の極端な現象の一つであろう。ロングテール戦略で成功した企業といえばアマゾン。情報インフラや検索技術の発達によって、過去に埋もれた本や絶版した本など痒いところにまで手が届くようになった。実にありがたい!本書は2000年に刊行され、そんな風潮がティッピング・ポイントに達する直前で、少し先駆けているといったところか。
社会の変化があまりにも気まぐれで、しばしば不可解に映るのは、人間が本質的に気まぐれだからであろうか?そんな絶望的な状況にあっても、たとえ社会があまりに複雑であっても、ティッピング・ポイントの概念は、ある小集団に焦点を絞り、そこに働きかけるだけで新しい発想を劇的に受け入れさせることができることを教えてくれる。情報開示のやり方をちょいと工夫するだけで、情報の粘着性を向上させることだってできるかもしれない。社会的能力に優れた少数の人々と接触するだけで、社会的伝染を起動させることもできるかもしれない。社会の変革への潜在能力と知的活動は、小さな力によって誘導できる可能性があるってことだ。

ところで、「あくびはうつる!」とよく言われる。ふわぁ~ーあぁ~...ふわぁ~ーあぁ~...このフレーズを読んであくびをしたあなたは、二次感染の虜というわけさ。恋愛映画を観て恋に落ちたり、ヤクザ映画を観た途端にドスの利いた口調になるのも、ある種の感染症と言えよう。そう、人間は感情の動物であり、些細なことで簡単に誘導されてしまうのだ。何気なくチャンネルを合わせ、毎日数分しか見ないニュースキャスターによって世論が動かされる。カリスマ的な人が何かを語るわけでもなく、ただそこにいるだけで第三者になんらかの作用を及ぼす。株式市場は、大投資家の動きに敏感に反応する。著名人が自殺すると殉死までやる。感情を模倣する技術はますます巧妙化し、民主主義社会はパフォーマンス政治に陥る。制度であれ、取引であれ、人間関係であれ、社会的なもので感情が絡まないものは何一つない。だから、人間は客観性に憧れるのだろうか?そもそも客観的に語ると宣言されて、客観的だったためしがない。人間は骨の髄まで社会化されていて、常に因果関係を大雑把に把握しようという意識が働く。直感が働くのは人間精神の本質であり、それを妨げることはできないということか。もしできるとしたら、無認識論に陥るしかあるまい。それが究極の泥酔者であって、昨晩の醜態さえ消し去ることができれば幸せというものよ。

1. 関係の六段階分離
心理学者スタンリー・ミルグラムは、社会と人間の結びつきを調べるためにチェーン・レターの実験をした。不幸の手紙の類いだ。ネブラスカ州オマハに住む160人の住所、氏名を電話帳から入手し、各々に手紙を郵送する。その手紙には、マサチューセッツ州ボストンで株式仲買人として働き、シャロンに住んでいる人物の名前と住所が書いている。受け取った人は、その手紙にさらに自分の氏名を記入し、株式仲買人のより近くに住んでいる友人や知り合いに転送するよう指示されている。そして、ある特定の人物に届くまでに、ほとんどの手紙が5段階か6段階を経ていることを発見した。これは今では有名な説で、似たような話をいろんな本で見かけることができる。
「関係の六段階分離説は、すべての人が自分を除くすべての人たちとちょうど六段階でつながっていることを意味しているのではない。ごく少数の人がわずかな段階でその他すべての人とつながっていることを意味する。」
さて、昨年11月(2011年)、Facebookは、ミラノ大学のWebアルゴリズム研究所と共同で、ユーザー7億2100万人(世界人口の10%以上)の690億の友達関係を対象に、このスモールワールド実験の現代版を実施したと報じられた。そして、「世界中の4.7人目は友達の友達という調査結果」を発表した。「六次の隔たり」より少ない「四次の隔たり」でつながっているというわけだ。
ちなみに、バーテンダーつながりは全国に広がりを見せ、出張先の店も紹介してくれる。場末にある行付けのバーは、地元よりも中央で知れ渡り、時々首都圏から有名人が訪れる。ある情報筋によると、鏡の向こうの赤い顔をした住民は、鴎外通りに面した有名なクラブのママさんとデートした、と聞いた。そのつながりは、市長級や知事級と2段階ぐらいでつながるはずだ。もっとも彼は「鴎外通り」を「美松通り」と呼ぶ。仮に、有名な風俗嬢と関係を持てば...「人類みな兄弟」というのは限りなく真理かもしれない。あくまでも、仮に!だ。ほとんどの男性諸君は(声を裏返しながら)否定するだろうけど...

2. ティッピング・ポイントへ至る三つの原則
伝染現象を理解するための指針として、「少数者の法則」、「粘りの要素」、「背景の力」の3つの要因を挙げている。これらの要因関数において均衡状態が崩れた時、一気に変化が生じるという。
「少数者の法則」の代表例に「80対20の法則」がある。仕事量の80%は20%の少数によって達成されるという考えだ。犯罪の80%は20%の常習者によってなされ、ビール消費量の80%は20%の酒好きが飲むといったこと。だが、伝染病的な広がりを見せる時、不均衡は更に極端になり、ごく一握りの特別な人々が介在することになる。その少数者たちは、社交的、活動的、知識の持ち主、そして仲間内で影響力を持つといった特徴があるという。ネット社会にも伝染させる特別な媒介人たちがいる。いわゆるアルファブロガーといった連中だ。人間が、良い目に遭うと、誰かに伝えたくなるという心理が働くのも確かであろう。こうした媒介人たちによって、広い社会と無意識につながっている。
「粘りの要素」とは、頭にこびりつくようなメッセージや、ちょっとした印象に残るフレーズなど、言葉の力のようなもの。草の根キャンペーンや口コミの地道な粘り、あるいは焦点を絞ること、試すこと、信念を持つことの重要性を唱えている。
「背景の力」とは、社会風潮によって集団心理を煽るような現象で、この影響力が一番強いかもしれない。例えば、後述する傍観者の心理や「割れた窓」理論がそれである。

3. 傍観者の心理
1964年、ニューヨーク市の歴史に汚点を残す事件が発生したという。若い女性が30分間に3度に渡って路上で襲撃され刺殺されたが、38人もの隣人が窓から目撃しながら誰も通報しなかった。一般的には大都会の無関心と解釈される。しかし本書は、傍観者の心理という人間の本質的なものを指摘している。集団心理に潜む無責任性、あるいは匿名性の疎外感とでも言おうか。目撃者が大勢いれば、誰かが通報するだろうという心理が働く。逆に目撃者が一人で、それを自覚していれば通報したかもしれない。
また、ある実験で癲癇発作を学生に演じさせた時、どのぐらいの割合で救出に向かうか?という実験を紹介してくれる。隣の部屋でその様子を一人で聞いている場合は、85%の学生が救出に向かったという。だが、被験者が他に4人が聞いていると知っている場合は、31%の学生しか救出に向かわなかったという。人間は、集団化すると責任感が薄れる、あるいは第三者化するというのは本当のようだ。責任感というものは、自己の存在感と疎外感に深く関わるということであろうか。

4. 「割れた窓」理論
1980年代のニューヨーク市は、史上最悪の犯罪伝染病にかかっていたという。地下鉄は犯罪の宝庫だったと。個人的な自警行為が発生しても、世論の力で無罪判決が出るほど社会は病んでいる。
ところが、1990年から犯罪は激減する。地下鉄では、1990年代の初めと終わりで重罪犯罪の発生は75%も減ったという。他の都市でも犯罪の減少傾向にあったが、これほど激減したのはニューヨーク市だけだそうな。その誘因となったのが、なんと落書きを消したこと。この現象を「割れた窓」理論で説明している。つまり、犯罪は無秩序の不可避的な結果というわけか。割れたままの窓の側を通りかかった人は、誰も責任をとらない雰囲気を感じるだろう。そして、まもなく他の窓も割れる。これが無法状態の始まりとなり、たちまち伝播する。落書きや風紀の乱れという些細な現象が、犯罪の呼び水となる。清掃者たちの徹底交戦は、公共物破損者たちへの有無を言わせぬメッセージでもあった。これが「粘りの要素」としても機能したわけか。
この思考回路は、プロジェクト管理と基本的に同じであろう。優秀なプロマネは些細な問題が伝播することを恐れる。ちょっとした問題でも解決を先送りすると、いつのまにか蔓延し、取り返しのつかないことになる。だから健全なチームには、常に問題を先読みしながら事前に対処しようという意識が働く。特別な管理体制があるわけでもないのに、誤魔化そうとするメンバーは一人もいない。プロマネの意思が、自然に哲学的な共通意識として根付いているのである。その哲学的範疇ならば、メンバーに自由が認められ挑戦意欲も旺盛となる。外から見れば、技術への挑戦が無法的にすら見えるのである。

5. 150の法則
イギリスの人類学者ロビン・ダンバーによると、人間が霊長類の中で最大規模の集団生活が送れるのは、複雑な社会調整を行えるだけの大きな脳を持っているからだという。そして、霊長類に当てはまる公式を編み出したそうな。脳全体に対して新皮質率の占める割合を結びつけて、ホモ・サピエンスに当てはめると、147.8人になるらしい。つまり、150人ぐらいが、まともな社会関係を営むことのできる規模だというのだ。知人として維持できる人数もこのあたりか。この数値は、原始社会における人口にも当てはまるという。例えば、オーストラリアのワルビリ族、ニューギニアのタウアデ族、グリーンランドのアンマサリク族、ティエラ・デル・フエゴ群島のオナ族など歴史考証の明らかな21の狩猟、採集社会を綿密に調べると、村落の平均人口は148.4人だという。
また、軍事組織では、経験から機能的な戦闘部隊の構成員は200人を超えることはないという原則があるという。もちろん、組織はそれ以上の規模になることがある。そこで、階級、規則、格式といった統制が必要となる。だが、150人以下であれば、規範なしでも統制できるらしい。共同体の規模が、この数値を超えたあたりで、途端に分派が発生するということか。改革を発生させるような組織は、150人以下で構成する必要があるということか。だとすると、国会議員が500人もいれば、ティッピング・ポイントは永久に起動できないということか?
さらに、防水繊維で有名なゴアテックスを生み出した会社ゴア・アソシエイツの成功事例は興味深い。150人あたりでぎくしゃくしはじめるので、一つの工場に150人という社の目標ができた。それを超えれば分割して別の工場を作るという戦略。その目安を測るのは単純で、駐車場を150台分用意し、車があふれだすと新たな工場を建設する。しかも、中間管理職を必要とせず、小集団のなかで形式張らない人間関係が効果的に機能するという。小集団内にプレッシャーが自然に生じ、ちょっとでもチームの足をひっぱると責任を感じるといった雰囲気ができるとか。小集団の威力には、自分の存在や責任範囲が明確になるというメリットもある。上司から監視される受動的なプレッシャーと違って、能動的なプレッシャ―には活気があるだろう。大規模な感染の原動力となる小規模な集団があるというわけか。極めて感染力の強い粘りのある企業精神を確立するには、150人の法則を忠実に守る必要があるという。民主主義が機能しやすい組織というのが、150人ということであろうか。

6. 弱い絆の強さ
親友になるためには、それなりに付き合いの時間を要する。だが、その時間が許容量を超えた途端に感情的負荷がかかる。人数的な負荷は、10人から15人あたりで過剰負荷が始まるという。現代社会では人口が過密化し、無関心を装わなければ自己を失いかねないのかもしれない。集団における人間力学では、個性を巧みに操作し、他人を不快にさせないように気を配る。それぞれ個性分の相互関係回路が形成されるとなれば、その情報処理は指数関数的に増えることになる。かなりのストレスだ!小規模な関係であっても、それがほんの少し増えただけで、知的、社会的ストレスが一気に増すだろう。
一方、ネット社会では、強い絆よりも弱い絆の方が重要視される。案外それが真理だったりするのかもしれない。仕事仲間でも、一緒に仕事をしている間は強い絆があると思っても、趣味まで共有しようとは思わない。結局、都合の良い程度に付き合う、適当に生きる、これが人間の防衛本能に則った意識傾向であろうか。そして、異性を意識し、男女の関係に発展した途端に地雷を踏むことになる。
なるほど、弱い絆の方が重要という考え方もありかもしれない。弱い絆の達人は社会的パワーが強いのだろう。前向きな姿勢があり、向上心も強いのだろう。これが、割り切れる力というやつか?いや、単なる寂しがり屋か?数少ない強い絆を大量の弱い絆で代替すれば、エネルギー保存則としては同じか。人間にとって、強い絆と弱い絆の双方とも必要なのだろう。強い絆は人生で一人得られれば貴重である。だが、これが一番難しい!

2012-04-01

永遠の夢想郷発見!それはハーレムであったか!

本日3012年4月1日、鏡の向こうのサモトラケという島で一つの古代書が発見された。「泥酔論的対話」と題されるこの書には、有名な叙事詩家たちの問答が記されるという。

ヘシオドスは問うた... 死を運命付けられた者どもにとって、幸せとは何か?
ホメロスは答えた... そもそも生まれてこなければ、幸せであったろうに。
ヘシオドスは問うた... 生まれたからには仕方があるまい。
ホメロスは答えた... ならば、生まれてから一刻も早く地獄へ落ちることじゃ。
ヘシオドスは問うた... そう悲観せずとも、生きることで祝えることが何かあろう。
ホメロスは答えた... 美酒に酔い、美女に囲まれ、愉楽の極致を尽くすこと。そぅ、永遠の夢想郷ハーレムじゃ!ハーレムじゃ!
こうして、ヘシオドスはホメロスに帰依していった。だが、ホメロスが死に顔を曝すと、ゴージャスな夢が泡と消えちまったぜ!と愚痴ったとさ。

この対話篇の教訓は、幸せとは夢を見ている間だけということであろうか?夢が実現した瞬間から不幸が訪れる。そして、新たな夢を模索せずにはいられない。幸せとは麻薬中毒ごときものかもしれん。
精神を獲得した知的生命体は、思惟するように運命づけられる。思惟するからには絶えず悩みに襲われる。悩みは...避けても、避けても...やはり悩みならぬものが悩みとなる。まるで悩みの無限地獄!悩みがないことまで悩みにしてしまうのであれば、もはや救いようがない。
一方で、幸せとはあらゆる犠牲の上に成り立っている。裕福な社会を実現するために、目に入らない領域に餓死する社会を形成する。いまや経済格差なしに経済循環は成り立たない。不完全な遺伝子コピーのいたずらが、普通には生きられない人々を創出する。夭折の運命を背負う人、生命維持装置に頼るしかない人...どうしても避けられない量子論的確率に支配される人たちがいる。神はサイコロを振らない!というのは本当か?自然災害とは、まさに神のいたずらよ。「自然災害」という言葉も奇妙だ。自然は単なる変動現象に過ぎないのに、人間はこれを災いと解したり、神の怒りと解したりする。そのくせ自然の恵みには、自己の能力を認める。痴呆症や障害者を社会の隅っこに追いやり、親戚連中からも不幸のレッテルを貼られる。そうなると天災も人災となる。
いまや、孤独死も珍しくない。女優大原麗子が孤独死したと報じられたのはいつだったか。これほどの著名人までも。CMのフレーズ「すこし愛して、なが~く愛して!」は、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。
孤独死を覚悟し、共同墓地に入ることを覚悟し、そんな覚悟と死ぬ瞬間まで葛藤する人たちがいる。そんな覚悟を自然に受け入れられる境地に達してこそ、何かが見えてくるのかもしれん。死して屍拾う者なし...
地球上の生命体において人類の繁殖だけは限りがない!なんてことはないだろう。極端な増殖は絶滅を早めるかもしれない。となれば、普通という価値もいずれ逆転するだろう。歴史を振り返れば、価値観が逆転することはよくある。幸せな家庭を自慢したところで、幸せな悩みを披露したところで、その裏で犠牲になっている人々の存在に誰しも気づかない。有徳者でさえ幸せの押し売りをする。善人なおもて往生をとぐ...とは、そういうことであろうか。そして、無神経なアル中ハイマーは、幸せを謳歌しながらますます口が悪くなるのであった...

人間社会では、愛こそが最高善の幸福へ導くものだとされる。あらゆる情念の中で愛だけが特別扱いされる。ヘシオドスは、エロス(愛)をガイア(大地)と同等、すなわちカオス(混沌)から生じた原初の神とした。主神ゼウスですらエロスに惑わされ、あらゆる美神と交わる。なるほど、雷オヤジよりも権威がありそうだ。神々の世界から現世の世界に移ってもなお、友愛者や博愛者どもが勢いづく。
しかしながら、愛は憎との関係から生じる。愛情劇が愛憎劇となるのに大して手間はかからない。人間は、本能的に人を愛し、物質を愛す。いや、肉欲や物欲の方がはるかに優勢か。ただ、愛にも様々な種類と段階がある。人間の愛は、なによりも自愛が優先される。実存論的な思考では、肉体である固体にはなんの意味もないとし、魂の不死を唱える。だが、そこに自愛が絡むと不老不死の媚薬を求める。
一方で、プラトンは、最高愛を具現する者を、知性や知識を愛し求める者、すなわち愛智者とした。修行僧たちは、あらゆる苦行を試しながら自ら肉体に試練を与え、精神の高まりを求める。日夜、見返りを求めず、知識を求める努力をするのも精神修行に似たり。となると、自虐に追い込むことで、自愛を悟ることができるのだろうか?
しかし、どんなに優れた知識を身に付けても、やはり判断を誤る。知識とは不思議なもので、深く知るほど分からなくなる。有識者どもは、それは考え過ぎ!と悩める子羊たちに助言を与える。それも一理ある。分かった気になるぐらいが、もっとも幸せであろうから。だが、考え過ぎとして思考を止めるのであれば、知識が知性へ昇華することは期待できない。
いくらリスクを嫌い、いくらギャンブル的な生き方を嫌っても、人生の方から次々に判断を迫ってくる。ギャンブルってやつは、勝てると自信を持っていても負ける場合がある。おまけに、負ける予感はほぼ確実に的中しやがる。それは、心のどこかでいつも不幸を想定している証しであろう。人生というギャンブルを生き抜くには、知性や知識を蓄えることをいつも心がけながらも、なお、自分の直観に頼るしかない。いわば、知性とは直観力を磨く術!ということになろうか。
たとえ人生の敗北者であっても、世間にそう言われようとも、永遠の夢までは誰にも否定できまい。では、永遠の夢とは何か?世間が言うように愛が最高善であるならば、愛を金で買うことこそ、最も有意義な金の使い方ということになる。酒に溺れ、女に溺れ、そして、自惚れる。どうして女たちは、こんなにも優しくしてくれるのか?世間が彼女らに冷たいからか?小悪魔たちが席を取り囲み、よってたかって、人見知りの強い、赤面した気の弱い男を、廃人へと誘なう。俗世間では快楽に耽ることもまた悪とされるが、永遠に続けば享楽地獄となる。怠惰に浸ったところで、すぐに退屈病に襲われる。苦痛は...避けても、避けても...やはり苦痛ならぬものが苦痛となる。愛にせよ、憎にせよ、怠惰にせよ、人間にとって持続とは最も縁遠きものかもしれん。凡人は享楽ですら挫折を繰り返す。天才の能力とは、持続する力であり、執念の力であろうか。
いや、凡庸未満の泥酔者にだって永遠に愛する自信はある。ただ、ちょいと対象が変わるだけのことよ。そこで、無理性なアル中ハイマーは純粋な平等主義を悟る。それは、ホットな女性の数だけ愛があるということさ。
おっと!例のごとく桜祭りの案内状が届いた。そして、知的なボディラインを求めて和服見学と洒落こむのであった...