2011-09-25

"超ヤバい経済学" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著

全世界でベストセラーになった「Freakonomics(ヤバい経済学)」の続編、「Super Freakonomics」の登場。前作では、社会の相関関係や因果関係から生じる人間の行動を、経済的インセンティヴ、社会的インセンティヴ、道徳的インセンティヴの視点から見事に説明されていた。特に印象に残っているのは、アメリカにおける犯罪の大幅減少の要因を中絶の合法化にあるとしたことであろうか。これには、識者と呼ばれる人々から思いっきり批判されたであろう。今作では、一般的な話題の地球温暖化問題に殴り込みをかけたために、ノーベル賞級の識者たちから批判されることになる。
本書はミクロ経済学でも行動経済学の分野を扱うわけだが、その視点は一般的には反社会的ということになろうか。アル中ハイマーな泥酔者にとっては、こちらの方が正道だけど。全般的に理性的な方策よりも現実的な方策を重視している。経済的とも言えるけど。そして、人間行動を観察する上で重要なのは、「インセンティヴ(誘因)」にあるとしている。
「現代の世界では、危ない振る舞いをやめさせるのに一番効果があるのは教育だとぼくたちは信じがちである。これまで行われた意識向上キャンペーンはほとんど全部、そういう考え方が裏付けとなっている。地球の温暖化からエイズの予防から酔っ払い運転まで、どうれもそうだ。そして、お医者さんは病院で一番教育をうけた人たちなのである。」
これは、最も知識的とされる医者が忙し過ぎて手を洗わないという統計情報にもとづいて語られたものである。知識や教育で行動が完全に誘導できるならば、有識者や有徳者がダイエットや禁煙に失敗することはないだろう。ましてや政治と金の問題など発生するはずもない。
専門家とは、その筋の情報で優位に立ち、それを利用して人を出し抜こうとするインセンティヴを持った連中だという。
「政治と経済学はアメリカではとくに相性が悪い。政治家はありとあらゆる理由をつけて、ありとあらゆる法律を作るけれど、彼らがどれだけいいことをしたつもりでも、彼らの作る法律は本物の人びとが本物の世界でインセンティヴにどう反応するかがてんでわかっていない。」
ちなみに、経済学用語の「累積的優位」とは、「ヤバい!」を意味するそうな。

新たな社会問題が生じれば、有識者どもは決まって悪行を批判し、理性的な解決策ばかりを持ち出す。そして、暴力映画はけしからん!風俗業はけしからん!などと叫びやがる。だが、こうした現実的な方策がいかに犯罪を抑制してきたであろうか。はたまた、交通事故の増加が悪いニュースとばかりは言えないかもしれない。臓器提供を期待する人々にとっては良いニュースかもしれない。人間が善悪の双方において本質である限り、その片方を遠ざければ思考は偏重するしかあるまい。科学的に答えの分からない問題を、そのまま世論に委ねるのは危険だ。巧妙な宣伝ばかりが残り、政治的思惑に陥りやすいのだから。俗世間の圧倒的多数は、残念ながらアル中ハイマーのようなあまり思考しない人々であろう。人間は基本的に面倒で厄介な事を嫌う傾向がある。これだけ情報インフラが発達しながら、いまだにテレビの影響力が強いのは、人間の受動的な性質によるところが大きい。ちなみに、放送とは「送りっ放し」と書く。
高度な情報化社会ともなれば、思考すべき段階で他人の意見が先に入り込み、冷静に思考する機会が失われがちとなる。議論に参加しやすくなれば、思考が活性化されて、その相乗効果で様々な意見が生まれやすいのも事実だが、本当に自分の意見なのかも疑わしい。仮想化社会では、自己の居場所を他人の意見に求めるところがあって、多数派に属することで安住したりする。そして、多数決の原理は、良くも悪しくもいっそう強烈な効果を発揮することになろう。情報に対する姿勢は、ますます個人の能動的意欲で決まり、情報格差や意識格差も生じやすい。
そうなると、唯一拠り所にできそうな思考は客観性である。すなわち科学の目だ。あらゆる社会問題において、マスコミは科学者の意見をもっと重視すべきだが、その見極めが難しい。科学者にも政治的思惑を好む輩がいるからだ。ましてや、科学的見解を自称有徳者たちの批判に晒されては、感情論に陥るのは避けられない。だから、政治から独立した科学機関が必要となるのだが、研究は予算獲得が要となり政治の思惑と結びつきやすい。あのNASAですら。

ファインマン曰く、「すべての知識は実験で検証される」
人間社会を実験の場にすることは難しい。地球温暖化の原因がCO2にあるのか?それを実際に調べるために、CO2を排出するエネルギー源を大胆にも数年間すべて止めてみるなんてことは不可能だ。ここに経済学や社会学の難しさがある。だが、ほとんどの経済政策や社会政策が、実験的に試されてきたのも事実である。
人間は、自虐的に過去の行いを非難して、自己を救済しようとするところがある。歴史を振り返れば、その性質が感情論と結びついて誤謬に陥った例も少なくない。確かに癒し系の言葉や理性的な思考は心地良くさせてくれる。だが、それだけに思考が硬直化する恐れがある。だから、アル・ゴア的な理性的な風潮を広めるだけでなく、非理性的かもしれないけど、あらゆる科学的な方策を模索すべきであろう。科学的見解では、温暖化の結果としてCO2の増加を招いているとするのが有力だ。では、地球温暖化の原因は何か?自然的要因と人為的要因の論争はいまだ尽きない。まぁ、複合的な要因なんだろうけど。
本書は、直接太陽光を遮断して地表を冷やす方法を、大規模な火山噴火をヒントに議論している。成層圏に亜硫酸ガスをばら撒くというアイデアだ。不純物をばら撒くとなれば、有識者どもから、なんと不謹慎な!とか、SFじみている!などと地球工学を蔑む声が大きくなる。確かに、それが実現できたとしても、なんらかの副作用が生じるだろう。それでも、緊急に地表を冷却する必要があるような危機的状況を想定しておく必要はある。問題の本質が明らかにならないうちは、違った視点を持ち続けることが思考停止を防ぐ意味でも重要である。本書が指摘しているのは、まさにこの点にある。
ちなみに、太陽光発電はヤバいらしい。問題はパネルが黒いことで、太陽光を吸収するためには絶好だ。電気に変わるのはたった12%ほどで、大部分は再放射されるという。となると、地球温暖化に寄与しているわけか。我が家は太陽光発電にして10年近くになるが、節電などと言って大きな顔はできんなぁ。もっとも環境意識からではなく、電気代がもったいないという経済的誘因が働いただけなんだけど。

1. サルの経済学
キース・チェンのオマキザルの実験は興味深い。オマキザルの脳は小さくて、食うこととセックスぐらいしか考えないという。
まず、何ヶ月もかけてコインに価値があることを教える。コインを渡してからご馳走を見せるといったことを繰り返して。研究員が複数いて、それぞれ持っている食べ物にコインを渡すとその食べ物が得られるといった仕組みにすると、好き嫌いがあることもわかったという。
次に、価格ショックと所得ショックの概念を持ち込む。コイン1枚でゼリーが3つ買えたのを、突然、コイン1枚では2つしか買えないことにする。すると、餌の値段が上がると買う量を減らし、値段が下がると買う量を増やしたという。なんと、右下がりの需要曲線をサルが実践してみせたわけだ。サルは合理的なのか?
更に、二つの賭けで非合理的な概念を持ち込む。一つ目の賭けは、最初にぶどうを1つ見せ、コイントスの結果でもう1つ与えるか決める。二つ目の賭けは、最初にぶどうを2つ見せ、コイントスの結果で1つ引っ込めるかを決める。どちらも同じ確率だが、一つ目の賭けは儲かるかもしれないという心理が働き、二つ目の賭けは損するかもしれないという心理が働く。サルは一つ目の賭けを圧倒的に好んだという。つまり、損失回避という心理が働くというのだ。この実験的心理は、見事にデイトレーダたちの行動を再現している。
チェン曰く、「株式市場の投資家のほとんどは統計的にサルと見分けがつかない。」
驚くべきはこれからだ!
実験室で強烈な事件が起こる。ある日、一匹のサルが、餌を買わずに12枚のコインをひったくった。銀行強盗か?コインが床にちらばると、7匹のサルが奪い合う。研究者たちは、仕方なく餌で釣ってコインを回収したという。
「これでサルたちはもう一つの大事な教訓を学んだ : 犯罪はおいしい!」
また、雄サルが雌サルにコインの受け渡しもやったとか。サルにも思いやりってものがあるのか?いや、しばらくすると、その二匹はセックスをはじめたという。セックスが終わると、雌サルはコインでぶどうを買いにきたとか。売春行為か?
ここには経済学の本質が暗示されているのではなかろうか。

2. インド事情
ここに語られるインドは近代化したイメージからは程遠い。ただ、本書の出版が2010年だからそんなに古い情報でもなさそうだ。
いまや世界経済の主力プレイヤーとなったインドは、国全体ではいまだ耐え難い貧しさがあるという。人口の2/3以上が住む農村部では、電気がきている世帯は半分、トイレのある世帯は1/4、平均寿命も識字率も低く、汚染も汚職も酷いという。また、女性差別が激しく、人口でも女性の方が3500万人も少ないのだそうな。男子を授かるのは401kの退職年金を受けるようなもので、大人になれば親を養ってくれるし葬式も出してくれる。
一方、女子の場合は、退職年金は持参金にすり替わるそうな。持参金という慣習は昔から批判されているが、いまだ花嫁の両親は花婿の家族に金銭や車や不動産などを贈る風習が残っていて、結婚式の費用も花嫁の実家が支払うのが一般的だという。過去には、間接的に女の子には医者に連れて行かなかったり、直接的に助産の段階で殺されたりしたことが予測されるらしい。近年では医学の進歩でもっと巧妙になり、性別を選んで中絶するなど生まれる前に処理するやり方が増えているという。
「嫁焼き!」ってなんだ?毎年10万人を超える若い女性が焼き殺され、その多くは家庭内暴力だという。HIV/AIDSの感染率も高いらしい。ノーベル賞経済学者アマルティア・センは、足りない女性を「喪われた女性たち」と呼んだとか。そうえいば彼の本を一冊読んだことがあるが、経済学者というよりは人道的社会学者という印象がある。劣悪な国家事情が、こうした経済学者を生んだのだろうか?
CATVなどの情報インフラが整っている家庭は出産率が低いそうな。出産率が低いということは、女性の自立性が高まり、健康上のリスクも低下していることを意味するという。また、テレビのある家庭は娘を学校に通わせる割合が高いとか。そういう家庭は、少なくとも女の子をそんなに低く評価しているわけではないのだろう。
耐え忍ぶ女性というイメージは、日本の慣習にも残っているがケタ違いなようだ。どんなに新興国に経済的勢いを感じても、どんなに他の先進国を羨ましく思っても、やはり日本人で良かったと思うのであった。

3. 馬車から自動車、そして温室効果ガス
産業革命が起こると、世界で近代化が進み人口は急増した。群衆やモノが大量に移動することになると、交通渋滞、交通事故、保険料の高騰などの問題が発生した。特に甚だしいのは、ロンドン、パリ、ニューヨーク、シカゴなどの大都市圏。尚、これは自動車ではなく、馬のお話。
19世紀、急速な近代化の途上で建築資材の輸送や自家用馬車など、様々な輸送手段として馬の需要が高まった。同時に馬の交通事故が多発。馬が怪我でもすれば交通渋滞となるので、その場で安楽死させることも多い。死骸は非常に扱いにくいので、街路清掃人たちは腐るまで放置する。その方がバラバラにして運びやすいから。また、車輪や蹄鉄の騒音が凄まじく、神経を病む人も多かったという。病院通りでは馬の通行を禁止する街もあったとか。なによりも最悪なのはウンコだ!当初はウンコ市場もうまくまわっていて、農家が買って肥料にしていた。しかし、あまりにも馬の交通量が増えると、ウンコが大量に余るようになる。雨が降ればドロドロになって、道に溢れ... 読んでるだけで悪臭がしてきそう!おまけに、恐ろしく有害!ハエの大量発生で伝染病を媒介、ネズミや害獣が群がる。ウンコはメタンを出す。強力な温室効果ガスだ。
この大問題を解決したのが、ある技術革新である。そぅ自動車の発明だ。なるほど、自動車のパワーを馬力で表記するのもうなずける。当初、馬環境の救世主として登場した自動車が、今では環境破壊の代名詞とされるのも皮肉だ。
結局、馬から自動車に交通手段が変わっただけで、根本的な問題は先送りされてきたということか。いや、逃れられない永遠の社会問題なのかもしれない。人間が生きるということは、消費を意味する。電気、ガス、石油などのエネルギーがなければ生きてはいけない。そして今、新たな自然エネルギーを求めている。しかし、新たに発明される自然エネルギーも、いずれなんらかの形で有害となるのだろう。人類の歴史は、まさに創造的破壊の繰り返しというわけか。歴史を振り返れば、終末論のような絶望的な観測よりも、技術革新によって思ったよりも良い方向にきたように思う。では、これからもそれを期待していいのか?あるいは、期待を外した時に人類は滅亡するのか?

4. 地球温暖化
数十年前まで、地球は氷河期に向かっているとされていた。それを地球工学的に阻止すべく研究もされてきた。今でも長期的には変わっていないのだろう。しかし、21世紀では温暖化が進んでいるとされる。近年の気温上昇や異常気象などを鑑みても、そう考えるのは自然であろう。ただ、世論の流れでは、その原因がCO2の増加とされている。まるでCO2は悪魔のような言われようだ。しかし、科学的見解では、むしろ逆で温暖化の結果CO2が増加したというのが有力なようだ。となれば、CO2削減を打ち出す政府の方策は的はずれではないのか?CO2削減は、地球温暖化とは別の問題で寄与するかもしれないけど。
小学校時代には、人間は酸素を必要とし、植物はCO2を必要とすると習った。農業では、CO2を倍にして生産物の成長を促すような配慮をすると聞く。人間が食料とする植物にとって、CO2は命なのだ。
ここ100年間で、大気中のCO2の濃度が280ppmから380ppmに増加したという。その数字だけで不安に駆られるだろう。だが、進化の過程にある8000万年前は、1000ppmもあったという。ちなみに、普通の高層ビルでもそのぐらいのCO2に保たれているというから、それほど毒にはならないのだろう。仮にCO2が2倍になっても、地球が放射するエネルギーの2%も捕捉しないという。ただ、CO2の半減期は100年もあるらしいから、溜りはじめると厄介なのかもしれない。
地球温暖化の原因が自然的か?人為的か?という論争は尽きないが、人為的な要因がゼロということにはならないだろう。人間が息をすればCO2を出すし、牛や羊などの反芻動物の息やオナラやゲップやウンコはメタンを出す。ちなみに、何の因果か?カンガルーのオナラにはメタンが含まれていないそうな。だからといって、牛の代わりにカンガルーを食べればいいというものでもないだろうけど。
そして、産業活動で化石燃料を使用すれば、大量の温室効果ガスを発生する。人間は悪魔めいているなぁ。となれば、アル・ゴア的な発想も悪くはない。
しかし、だ。地球温暖化の主因がCO2やメタンなどではなかったとすると、どうだろうか?人類は、危機に備えて別の方策を考えておく必要はないのだろうか?問題の原因を世論の多数決に求めても仕方があるまい。気象変動モデルによるコンピュータシミュレーションは、今のところいまいち信頼に欠ける。金融機関のリスク管理モデルも当てにならないし、人類はいまだランダムウォーク現象に対して無力である。人類にとって、どの程度の気温上昇まで許容できるのかもはっきりしない。地球温暖化の問題よりも地球の自転軸がずれるほうが、はるかに危機のような気もするけど。
ちなみに、最近の気候モデルは、どれも同じような結果を出す傾向があるという。かけ離れた結果では予算がつかないので、パラメータや係数を微妙に調整するのだそうな。研究助成金を得るためには、気象モデルまでもが多数決に従うというわけか。大震災時の原発事故では、せっかく放射能予測システムSPEEDIがありながら情報公開されない。環境汚染の前に、科学が政治に汚染されているのか?

5. 火山活動をヒントにした経済的方策
本書は、不純物を成層圏にばら撒いて直接太陽光を遮断する案を紹介している。それは、1991年のピナトゥボ火山の噴火で、成層圏にばら撒かれた亜硫酸ガスによって、一時的に地球の平均気温が0.5度下がったという科学的根拠からきている。ピナトゥボ火山級の噴火が数年おきに発生すれば、21世紀の人為的な温暖化の大部分は相殺されるという論文もあるという。多少の不純物をばら撒くぐらいならOKなのだろうか?そもそも人間が生きること自体が、公害を撒き散らすようなものだから、どこかで妥協点を見出すしかないのかもしれない。しかし、環境保護団体などから、不謹慎な!という批判が殺到したようだ。それでも、最悪な気温上昇を招きそうとなれば、手段として準備しておく必要はあろう。
NASAは、もっと突飛なことを考えているらしい。「複合スクリーン」計画は、空にアルミニウムのメッキをした気球を何十億個も飛ばして太陽光を屈折させる案。「スペースミラー」計画は、光を反射する5万5千個の帆を上空の軌道に乗せる案。いずれもSFじみているが、アメリカの凄いところはこういうことを本気で研究していることである。
さて、亜硫酸ガスをばら撒く話に戻るが、経済的にも工学的にも現実味があるらしい。毎年少なくとも2億トンの亜硫酸ガスが大気中にばら撒かれているという。火山が25%、産業活動が25%、残りが波しぶきなどの自然現象。地球を変えられるほどの硫黄排出量は、今の1%のまたその1/20で、それも空高く持っていけばいいだけという試算もあるらしい。つまり、めちゃくちゃ長いホースがあればいいというのだ。
更に、成層圏よりも対流圏にばら撒くといいことがあるらしい。温暖化の大部分は極地で起きる現象で、赤道よりも緯度の高い地域の方が4倍も気候変化に敏感だという。ある計算では、北極圏近くで亜硫酸ガスを1年に10万トンばら撒くと北半球の温暖化が抑制できるという。成層圏の風は時速100マイルもあるので、吹き出された霧は10日ぐらいで地球全体に行き渡るとか。しかも、成層圏の大気は北極と南極に向かって自然に螺旋運動をするという。これは、てこの原理からくるもので、アルキメデスの言った「私に支点をくれれば地球を動かしてみせよう」というのはそういうことらしい。
地球温暖化は人間が産業活動を完全にやめたとしても続くかもしれないし、ましてや理性や道徳などで人間の行為を戒めても解決しそうにない。工業化のために散々CO2を排出してきた先進国の説得を、新興国が受け入れるかは疑問だ。それよりは、地球工学的に模索する方が現実的であろうか。地球工学をあまり信用しないアル・ゴア的な政治屋が派閥を利かせれば予算がつきそうにないけど。
「アル・ゴアとかけてピナトゥボ火山と解く。そのこころは、どちらもこの惑星の冷やし方を示している。でも、割りの良し悪しって点では、二つの間には宇宙1個分ぐらいの隔たりがある。」

6. モンティ・ホール問題
ベイズの定理における事後確率、あるいは主観確率の例題だが、興味深いのでメモっておこう。
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それぞれ1/3ずつの確率で当たるクジを引く。プレイヤーはまず選択肢3個のうち1個を選ぶ。それからクジの主催者が残った2個のうち、ハズレを1個除く。クジを開ける前に、プレイヤーは最初に選んだクジを、残った1個のクジと変えても良いと言われる。
さて、プレイヤーは変えた方が良いか?
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一見どちらもで同じ確率で1/2に見える。だが、実は最初に選んだクジの当たる確率は1/3、残ったクジが当たる確率は2/3になるという。これは直感的には難しい。
そこで、最初の選択肢を100個にして、2回目の選択の前に98個を除くとすれば分かりやすいか。最初は1/100で、次は99/100となる。

2011-09-18

"心の旅路" James Hilton 著

ジェームズ・ヒルトンを記事にするのは、「失われた地平線」、「チップス先生さようなら」に続いて3冊目だが、この小説が絶版中なのは惜しい!...さっそく図書館へ。
いずれも彼自身が生きた時代、すなわち19世紀から20世紀にかけての暗黒のヨーロッパ情勢を反映しながら、英国紳士の生き様を描いている。そして、過去の記憶をめぐって物語が展開されるところまでは同じ。しかし、この物語の記憶のぶっ飛び方は、まるで精神分裂症だ。「失われた地平線」は冒険的で奇想天外、「チップス先生さようなら」は感傷的で退屈な日常、そして「心の旅路」は結末の意外性から推理小説風の様相を見せる。

時代背景を細かく描写しながら主人公の精神状態を重ねる繊細なシナリオ、これこそヒルトン小説の真髄であろうか。けして結論を急がない。前戯の長さがやや退屈かと思いきや、なんとなく興味を惹くという感覚を持続させる。結末の意外性は冷静に考えるとなんのことはない。ただ、はっきりとしないモヤモヤ感を残すのがたまらない。読者の精神を、現実なのか幻想なのか、その境界線を彷徨させながら弄ぶような物語。
その最大の演出効果は、時系列をぐじゃぐじゃにしてしまうテクニックだ。本書は、記憶喪失から生じる一人の分裂した三つの人生を物語る。記憶喪失の状態と、記憶が戻っても記憶喪失だった頃が失われた状態、そして、それらが結合し完全に記憶が蘇えった状態。
まず、大戦の塹壕戦で記憶喪失となった男が記憶を戻して帰郷するが、故郷では戦死したとされ居場所のない疎外感を味わう。やがて実業家や政治家として成功する現在、精神病院に記憶喪失で収容され、そこから救い出してくれた女性との結婚という過去、この二つの出来事が完全に分離したかのように展開される。そして、過去の女性を懐かしんで会いに行くと、その正体が現在と結びつく。大方このような流れが、現在と過去を往来しながら章ごとに錯綜する。
そういえば、精神病とは脳内時間が連続性を失った現象だという話を聞いたことがある。記憶の断片と離散性、これらをごちゃごちゃに混ぜてしまえば、精神病へ誘なうような作品になるわけか。
ちなみに、時間を自在に往来する小説では丸谷才一著「笹まくら」を思い出す。丸谷氏の時間のぶっ飛び方は半端ではない。何の前触れもなく、いつのまにか過去へ現在へと自在に瞬間移動する。本書はまだ章で区切られるだけ追いやすいが、同じような小説家の凄みが感じられる。映画版ではこのダイナミックな感覚は、まず味わえまい。

物理法則では、時間は一定に刻まれることになっている。しかし、それは本当だろうか?物理時間と精神の内に体系化される時間とは別物に思えてならない。過去の記憶を遡れば平気で前後しやがる。過去、現在、未来が規則正しく並んでいるのかも疑わしい。相変わらず時間は、短く感じたり長く感じたりする。インパクトのある期間が強調され、苦い思い出ばかりが蘇える。曖昧な記憶は夢の中に紛れ、現実との区別もつかない。人間の記憶なんてものは、実にいい加減なものだ。
「夢は未来を予示するものである。われわれは、夢が現実になるまで忘れてしまっているにすぎない。不明瞭な記憶のかけらをのぞいたいっさいを、われわれは忘れてしまうのである。」
精神病が脳内時間の連続性を失うことに原因があるとすれば、精神病を患わさない人間なんているのだろうか?そもそも、時間なんてものは人間の意識の産物ではないのか?一定に刻まれると勝手に信じながら。それにしても記憶喪失とは不思議な現象である。個人的なことはすっかり忘れても理性的な行動はとれるのだから。酔っ払いの方がよっぽど質ちが悪いという噂だ!

1. ハリスンとチャールズ・レーニエの出会い
1937年11月11日、第一次大戦の休戦記念日。ハリスンは汽車で移動中、2分間の黙祷を捧げる中で、40代前半の英国紳士チャールズ・レーニエと出会う。二人は、車窓の美しい朝景色を眺めながら、暗いヨーロッパ情勢について会話する。そして、チャールズはフランスの塹壕戦を体験したことを話し始める。戦友のほとんどを失い、自分も砲弾を浴びて記憶喪失になったこと。ドイツ軍の捕虜だったかもしれないこと。戦時中ドイツの歯科医は代用金属を使うようになり、それが歯に詰められていたのだ。
ところで、休戦記念日に出会った偶然が、この無口な紳士をお喋りにさせたのだろうか?実は、二人は翌日のスウィスィンの晩餐会で同席することになっていた。チャールズが主賓で、ハリスンはそのレセプションの委員を務めていることを明かす。そして、翌日再会する。ハリスンは、チャールズが貴族の血筋ではなく、二流のパブリックスクール出身で、大実業家の息子で、保守派の下院議員ということを調べていた。金持ちで有力者であるが目立とうとしないタイプ。ハリスンは昼食会でレーニエ夫人とも会う。彼女は社交的で完璧な政治家の妻を演じていた。
ハリスンは新聞業界で職を探していたが、チャールズの誘いで秘書を引き受ける。そして、秘書のホッブス嬢から仕事を教わる。ホッブス嬢はチャールズを崇拝し、夫人に嫉妬しているようだった。ハリスンは、チャールズが好きになり、彼の過去に興味を持つのだった。やがて、ホッブス嬢は辞職しハリスンが引き継ぐ。

2. 記憶を語り始める
1919年、チャールズはリバプールにいた。ひとけのない公園を歩いている自分がいる。車にひかれ、運転手がその場に置き去りにしょうとしている光景。記憶の断片が戻りそうで、すぐに砲弾の記憶と錯綜する。そして、自分がスタートンにある田舎の大邸宅に住んでいたことを思い出す。終戦から一年もして連合軍が勝利したことを知る。しかし、なぜリバプールにいるのかは分からない。
スタートンへ帰ると父は危篤状態。レーニエ家は7人兄弟で、戦死したと思われた一人が戻ったことで遺産相続で揉める。医師サンダーステッドと弁護士トラスラブが激しく争う。サンダーステッドは、ショックで病状を悪化させるので、帰国した朗報を父親に知らせるべきでないと主張する。トラスラブは、父親の依頼に対する義務として、チャールズの権利を主張する。チャールズは揉め事にうんざりし家を出る。やがて父親が亡くなったという知らせが届き、再びスタートンへ。遺言状にはチャールズの配分はなかったが、トラスラブの道義的な説得で遺産の7分の1を出し合うことに同意させた。
1920年になると戦勝国の面影はなくなり、株の大暴落の風説が流れ新聞紙上をにぎわす。レーニエ家の事業も、長男チェットが継いだものの失敗する。チェットは自社株に投機するために銀行から金を借りていた。そして、チャールズに借金申し入れの手紙が届く。スタートンへ戻ると、家族会議が開かれ互いにヒステリックになっている。レーニエ家は破産したのだった。チャールズが会社の状況を調査すると、放漫と不合理さはこの上ない。馬鹿げた値段で大量の株を買っていただけでなく、あらゆる経費が浪費されていた。そして、事業を引き継ぎ再建に乗り出す。
1924年には優先株の配当金が支払われるまでに回復。事業が好転した頃、チャールズは姪のキティと婚約する。本当の血筋ではないようだけど。しかし、ニューヨーク市場で株暴落。イギリスもその影響は避けられない。その頃、ハンスレットという静かな女性が秘書となった。キティは、この女性とチャールズの波長をなんとなく感じたのか?婚約を解消する手紙を残して去った。その後、キティはマレーシアに大農園を持っていた男と結婚して、半年もしないうちにマラリアで死ぬ。

3. メルベリーの精神病院にいたことを思い出す
チャールズは、ビジネスと政治の相棒として欠かせない秘書ハンスレットと結婚する。そして、大不況時に空売りで大儲けし、「シティの大物」と呼ばれるほどになった。
ある日、ピアノでも聴きたい気分になり、ピアノリサイタルでショパンを演奏するピアニストと出会う。そして、そのピアニスト夫婦と「国旗に敬礼」という芝居を見に行った。それは、第一次大戦を舞台にした気高いイギリス人と極悪非道のドイツ人が登場する喜劇かかった物語。この芝居で、チャールズはメルベリーの精神病院にいたことを思い出し、すぐに運転手にメルベリーへ走るように指示する。

4. 終戦直後、メルベリーからの逃亡劇
1917年、塹壕戦で砲弾を浴び意識が戻った時、ドイツの病院に身元不明、確認不可能患者として入院していた。後に、スイスを通じて捕虜交換がなされ、その際にイギリスにまわされた。病院を転々とし、中でもメルベリーは一番嫌いだったが、戦後の病院はどこもいっぱいで選べる状況にない。
1918年、終戦直後の夜、街中を散歩する。終戦にわく群衆はまだ興奮が冷めきれない。死者は死者のまま、けして生きかえってはこない。失った手足、失った眼、失った正気。帰国した兵士たちは自虐的に何かを叫び、衝動のままに群がる。群衆を避けて歩いていたが、やがて群衆に巻き込まれる。まもなく、一人の兵士を助けて!と娘が叫び、そこに群衆の同情が集まった。娘はアウル亭というパブに運ばせる。彼女の名はポーラ・リッジウェイ、旅回りの劇団の女優で、本名ではない。兵士の名はスミス、チャールズの記憶喪失時の仮名で、これまた本名ではない。ポーラは、彼をスミシーという愛称で呼び、心の安らぎを与えた。スミスは、アウル亭の庭で働くことになった。
だが、メルベリーの病院から二人の男が探しに来た。さっさと逃げないと病院に連れ戻される。ここから、スミスとポーラの逃亡劇が始まる。そして、ポーラの劇団の一座に加わり、俳優以外のどんな仕事もこなす。報道先発員、背景描き、帳簿係、コピーライター、雑用係など。これが病状に良い影響を与える。
この劇団は、「国旗に敬礼」という芝居をやっていた。ある日、一座の一人が病気になり、スミスに代役がまわってくる。一座の連中は何も心配していない。彼はあらゆる仕事を起用にこなすのだから。それに大した役でもない。イギリス軍服を着て、敵軍が進軍してくる!という報告をする役で、台詞も一言、二言。しかし、昔の息苦しさが蘇えり、台詞がごもり、観客を笑いの渦に巻き込んでしまう。これには屈辱を感じないわけにはいかない。なによりもショックだったのは、恥をかいたことよりも、心の病がほとんど治っていなかったことだ。彼は一座を去るしかないと考え、荷物をまとめる。
途中ファルバートンの町を急いでいると、鉄道の陸橋下で警備員が通り抜けできないと言った。幻想に憑かれたのか、銃を持っていると勘違いし、警備員を押し倒して逃げる。そして、五つの州が見える丘を登って田舎に辿り着く。ポーラは後を追った。スミスはポーラに愛を告白し、二人は婚約した。だが、新聞には「陸橋下で襲われる、ファルバートンの警備員重傷」と掲載され、その犯人は紳士風だったと記される。スミスが振り切った時に、何かの拍子で怪我を負わせたのか?この新聞記事が、次の逃亡先へと導く。そして、ロンドン行きの列車で牧師プランピードに出会い、意気投合してロンドンの牧師館で部屋を借りる。
二人は牧師のはからいで結婚する。牧師の人柄がスミスの病気に良い影響を与える。この幸福の中で、スミスはものを書き始める。作家になろうなどという野心からではなく、内から湧きあがる欲求に素直に筆を執っただけだが、偶然にも出版社に採用される。プランピードは、スミスにリバプールで地方新聞の編集長をしている友人を紹介した。そして、仕事の依頼がきてリバプールで会うことになった。新聞記事によると、ファルバートンの警備員は回復して退院しているらしい。二重の喜びとなる。リバプールに着くと雨が降っていた。滑りやすい通りを横断しようとして転び、自動車事故に遭遇したのだった。

5. ポーラとレーニエ夫人
チャールズは、ビジネスとポーラの思い出に挟まれながら、過去にこだわり続ける。そして、昔の思い出を追ってロンドンへ向かう。プランピード牧師は亡くなっていた。
一方、レーニエ夫人はチャールズが気がかり。夫婦は喧嘩をしたこともない。幸せそうに見えるが、どことなくぎこちない。夫人は秘書ハリスンに告白する。チャールズを崇拝し、キティと婚約した時も嫉妬していたと。キティが亡くなった後、チャールズはますますビジネスだけになってしまった。だから、夫人にもチャンスがあったと。結婚すれば心が通じると信じていたが、実業家の妻と政治家の妻として社交性を演じるぐらい。夫人にも以前子供がいたが、すぐに亡くなったという。
ハリスンは、彼女の話に同情せずにはいられない。そして、チャールズがポーラに出会ったのがメルベリーで最初の休戦記念日、二人はロンドンで結婚、プロポーズしたのがピーチングズ・オーバーという田舎ということを話して聞かせる。
そんな時、ドイツ軍がポーランドへ侵攻したニュースがラジオで流れる。世界は地獄へ舞い戻った。夫人は、それを自分の心境と重ねながら絶望感を募らせ、五つの州が見渡せるあの美しい場所へ行くと言いだした。そして、ハリスンをともなってチャールズの後を追う。
しかし、なぜレーニエ夫人は、五つの州が見渡せることを知っているのか?どうやって、その場所に見当をつけるのか?丘を登っていくと、チャールズが両腕をいっぱいにのばして寝転んでいた。再会した夫妻は、懐かしそうに見つめ合う。夫人は「ああ、スミシー!スミシー!まだ、おそくなんかはないわ!」と言って、チャールズの胸に飛び込む。チャールズの記憶は完全に蘇えっていた。えぇ!レーニエ夫人ってポーラだったの?

2011-09-11

"チップス先生さようなら" James Hilton 著

前記事で扱った「失われた地平線」は、なかなかいい。ジェームズ・ヒルトンにちょっぴり嵌りつつあるか。彼の作品は「失われた地平線」、「チップス先生さようなら」、「心の旅路」など、よく映画化されている。文学作品の傑作が映画化されることはよくあることだが、あまり賛同したくない。小説は読者のペースに自由に合わせることができるが、映画はそのリアルタイム性のために筋を追いかけることに目を奪われがちとなる。作者の意図したものも見えにくくなり、作品の性格そのものを変貌させてしまうことさえある。書き物には、作者が生きた時代背景に対する皮肉がこっそりと鏤められるが、映像にはそれが表れにくい。本質的なものの余韻が乏しくなるのは残念なことだ。反応の鈍い酔っ払いには読書の方が合っているのだろう。
と言いながら、大作を読むのは面倒なもので、映画の方だけ観ている文学作品も多いのだけど...

「失われた地平線」が冒険的であったのに対し、「チップス先生さようなら」は老教師がひたすら学園時代の回想に浸るという平凡な作品である。その感傷的な退屈さがいい。...などと感想を漏らすと、もう歳だねぇ!とからかわれるのがオチだけど。
二つの作品には共通点も見られる。それは、対称的な価値観の融合である。「失われた地平線」では、物質的な西洋文明と精神的な東洋文明の調和が描写されていた。「チップス先生さようなら」では、急進的な革新主義と英国紳士の伝統主義を調和させる。いずれも偏り過ぎると、ろくな社会にならないと警鐘を鳴らしているのだろうか?新旧のコラボレーション!ヒルトンの価値観には、中庸の美学といったものが感じられる。

舞台は19世紀から20世紀にかけてのイギリス。チップス先生はパブリックスクールのブルックフィールド学校に赴任する。エリザベス朝時代に初等学校として設立された伝統校だが、特別優秀な学校というわけではない。標準的なパブリックスクールといったところか。チップス先生も格別な教師というわけではない。それでも一般の例に漏れず、青年期は活発で一流校の校長を夢見た時代もあった。そして、徐々に平凡を楽しむようになる。65歳で職を退き、学校から道一つ隔てたウィケット夫人の家で部屋を借りて住む。かつて教鞭をとった学舎を眺めながら、新入生の名前を覚えたり、時々学生をお茶に誘ったりして思い出に耽る。身分相応の経歴から、それに相応しい幕を閉じていくという物語である。
しかし、平凡な人生とは対照的に時代背景は目まぐるしい。資本階級や金融業者が幅を利かせてくる中で、マルクス主義の流れから急進的な社会主義が盛り上がり、ゼネストや工場閉鎖、婦人参政運動、アイルランド自治法案、第一次大戦といった激動の時代。保守派と改革派の論争が激化する。新しい風潮と合理性は一目置かれてはいるが、恐れられ好まれてはいない。その対称的な存在に、礼儀正しく古くさい老教師が位置づけられ、象徴的な関係は、典型的な英国紳士のチップス先生と急進的な革新精神を持つ女性キャサリンの出会いである。チップス先生は、近代的で斬新的な女性が苦手だったにもかかわらず恋に落ちる。キャサリンも、当世風を毛嫌いする中年男を嫌っていたが、同年代の青年よりも奥深いことを知る。この二人が20以上の年の差婚をするというなかなかの設定だ。おまけに、頭脳明晰で美人とくれば男性諸君が憧れるのは必定。若くして亡くなるのは、ちと惜しいが...
チップス先生の教育法はマンネリ化していたが、キャサリンの助言でうまくバランスされていく。ただ、チップス先生は十回に一回反論するぐらいで、ほとんどキャサリンの論理にしてやられる。やはり女性は強い!それほどのパワーがなければ、婦人参政権を勝ち取ることもできなかったのだろうけど...
やがて、馬が合わない活動的なロールストンから引退を勧告される。最新の学校を目指すには旧式な人間は邪魔というわけだ。彼は、資本階級と金融業者を贔屓し、株で儲けたことを自慢するようなオッサン。周囲からは同情と声援が巻き起こる。みんなロールストンの奴隷的駆使を憎んでいたのだった。ここには、産業界が民主主義を広めるのではなく、金融を膨らますことに熱中する風潮への皮肉が込められている。まるで学校を金融屋や経済人の生産工場にするのか?と聞こえてきそうだ。ヒルトンは、当時のパブリックスクールの教育のあり方に問題を提起しているのかもしれない。
さらに、第一次大戦の描写が奥行を与える。当初この戦争の見通しは楽観的だった様子が描かれる。ヨーロッパには、クリスマスまでには片付くだろうという楽観視から、多くの悲劇を招いてきた歴史がある。チップス先生もバルカンの問題は大したことではないと語る。しかし、四年も続こうとは。戦線が膠着状態になると、ブルックフィールド付近に兵舎が続々と建つ。そして、礼拝堂では戦死した卒業生の名前が読み上げられる。教師としてこれ以上辛いことはなかろう。

本書の鋭さは、「チップス先生さようなら」というフレーズに不思議な力を与えているところにあろうか。若く元気な時は前向きに響くが、年老いてくると後ろ向きに響いてくる。結婚前夜ではキャサリンがこの言葉で優しくからかう。卒業生が語れば明るい未来への巣立ちとなる。しかし、やがて冗談には聞こえなくなる時がやってくる。
眠るのでもなく、目が醒めるのでもなく、なんとなく夢うつつな感じ。いろんな夢と声がそこらじゅうに広がっていく。これが老人病というやつか。年の割りには元気な爺さんだけど。そして、思い出に耽りながら眠るように死んでいく。精神が黄昏れていき天寿を全うするオールドボーイ。幸せな死に方とはこういうものであろうか...おいらの理想は死ぬ瞬間まで本でも読んでいたい。

ところで、チップス先生は洒落の名人ということになっている。もともと生真面目な性格だが、キャサリンのおかげで柔らかい人間に変化させ、厳格とユーモアを兼ね備えた円熟味を開化させる。年を重ねると、「あーム!」という意味のない音を話の間に挟むのが癖になって、洒落の精彩も欠いていく。
それはいいとして、本書の駄洒落やジョークはあまりおもしろくない。なによりも読むリズムが合わない。物語自体はまあまあなだけに惜しい。洒落の熟成振りを、肝心なポイントの前で笑いが起こるといった形で表しているのだが、聞く側が冗談の飛び出すのを待ち構えている雰囲気がいまいち。「あーム!」ってのがいたるところにあって目障り!「満場ドッと笑った!」やら「哄笑!」といった演出効果も、あまり役に立っていない。翻訳の難しさであろうか?日本語の文脈に合わないのだろうか?いや、名人芸に期待しすぎているだけのことかもしれん。
そういえば、あるバーテンダーが「酒に落ちる」と書いて「お洒落!」という能書きを垂れていた。棒が一本足らんよ!

2011-09-04

"失われた地平線" James Hilton 著

シャングリ・ラと言えば、この小説。それは、俗世間から隔離された理想郷の物語である。ちなみに、「ラ」とはチベット語で「峠」を意味するそうな。
ジェームズ・ヒルトンが生きた時代は、二つの大戦とともに「殺戮の世紀」と化す。彼は、絶望から逃れるために、このような世界を夢想したのだろうか?あらゆる美徳が戦争や残虐行為に砕かれ、科学や技術は大量殺戮のために最大限活用される。まるで狂気の沙汰だ!暗黒の時代は、ますます暗闇へ向かい破壊のカオスへ誘なう。「失われた地平線」は、まさに第二次大戦へと向かう1933年に刊行された。

ヒルトンは、未来への暗示をハイ・ラマ(大僧正)に語らせる。
「おそらく世界がまだ見たこともないような嵐になるでしょう。武力によっても安全たり得ず、権力によっても救い得ず、科学によっても解明され得ないでしょう。あらゆる文明の花々が踏みにじられ、あらゆる人間が巨大なカオスへと投げ込まれるまで、これは荒れ狂いつづけるでしょう。わたしはこの幻影を、ナポレオンの名前さえまだ知られていなかったころに見ておりました。そしていま、わたしはそれを刻一刻、さらに鮮明に見ているのです。」
その地にあるのは、東洋哲学と西洋文明の融合した「シャングリ・ラ」という名の理想郷。
「東洋の諸民族が異常なまでにのろまなのではなくて、イギリス人やアメリカ人がたえずばかげた熱にうかされて、世界じゅうを駆けまわっているにすぎない」
俗世間では、流行を知らないと馬鹿にされる。報道屋や政治屋が存在感を強調すれば、世論は過熱し市場は大袈裟に反応する。だが、現在の瞬間的な現象には多くのノイズが紛れ、後世の歴史に照らしてみないと客観的に評価することができない。情報は歴史的に淘汰され、洗練されたものが生き残るであろう。真理の探究という観点からすると、生き残った情報にのみ耳を傾けることが、合理的な生き方なのかもしれない。しかし、現代人は毎日ニュースを読まないと気が済まない。アル中ハイマーこと俗世間の泥酔者は、世間から隔離されることを恐れずにはいられない。

本書には、重要な哲学的概念が二つあるように映る。それは、理想郷の原理が革新的な意味での「適度の異端」「中庸の原則」とによって機能していることである。思想を権威的に押し付けるのではなく、納得した者だけがこの地に留まり、納得できない者は自由に去ってもらう。自然の原理こそが最強の布教活動というわけか。
社会システムでは、身分階級があるわけでもなく、政治的なシステムは一切存在しない。選挙のような民主主義的な機構すらない。せいぜい大僧正とその他大勢という構図があるぐらいなもの。完全に治めるには、治めすぎないようにするという考えか。ここには、哲学的な共通価値を持った人々によってコミュニティが形成されるという自然学的な秩序がある。
また、図書室や音楽室が充実し、東洋知識だけでなく、西洋知識も豊富に吸収できる最高の学問環境が整っている。彼らの意識は、過去に学ぶのと同じく、現在の叡智と未来への洞察力に信頼を置くという。
「伝統の奴隷にならぬというのが、わたしどもの伝統でしてね。」
真の知性と理性といった純粋な欲望を探究する環境には、政治やイデオロギーといった脂ぎった欲望に汚染されない空気が必要というわけか。その唯一の手段は学問というわけか。適度や中庸といっても、知識は最高レベルを求め、知的欲望だけは自由に解放するというわけか。ここでは、中庸と中途半端をごっちゃにしないようにしたい。

本物語は、主人公コンウェイの体験談をラザフォードという登場人物がまとめたものである。時代は、イギリス領インドでガンジーの「非暴力運動」で盛り上がるあたり。中国の教会病院に辿り着いたコンウェイは、チベットの秘境で拉致され不思議な体験を語り始める。
そこには、精神の高まりを得ようとする共通価値を持った人々の世界があったとさ。250歳にもなる大僧正が住み、100歳を過ぎても若々しいラマ僧たちがいて、65歳の処女娘が慰安を与えるような不老長寿の国である。精神の高まりを得るには100歳を超えないと達しえないということのようだ。長寿の秘訣は、煙草と麻薬とお茶、そして瞑想と叡智の追及なのか?これには生物学的にも論理的にも説明がつかない。
コンウェイは大僧正から後継者に指名されるが、結果的に仲間を助けるという理由からこの地を去った。どこか合点のいかないところがあったからだろうか?彼は、前の大戦でフランスの塹壕戦を経験し、社会に絶望し疎外感に見舞われていた。戦争後遺症が狂気へと変貌させ、夢物語を描かせたのか?あるいはカルト教団に洗脳されたのか?その話に確たる証拠はないが、余韻らしきものは残っている。その推理小説風の結末が物語を盛り上げる。
ところで、「シャングリ・ラ」って実在するの???
実際にモデルになった村が存在するらしいが、有名になれば政治利用されるのが世の常。やはり、俗人たちが踏み入ることのできない秘境でなければならないわけか...
ちなみに、本当に美味い店は大々的に宣伝しないもので、ほとんど口コミでしか伝わらない。ポリシーのようなものを大切にしているからであろうか。あまり知れ渡ると客質も落ち、真の常連客を遠ざけてしまう。商売根性も中庸が良しというわけか。やはり、真に癒される空間は、隠れ家のような存在であってほしい。

1. チベットの秘境へ
1931年、インドのバスクールで革命が起こり、白人居住者をペシャーワル(現パキスタン)へ疎開させていた。輸送機には、マハラージャ(回教君主)が提供する贅沢な小型旅客機が含まれていた。その飛行機に4名が乗り込む。東方伝道師ブリンクロー女史、アメリカ人バーナード、イギリス領事コンウェイ、副領事マリソン大尉。
だが、その一機のみがまったく正反対のヒマラヤ山脈を越え、チベットの秘境へと拉致された。パイロットは飛行機が着陸した時の衝撃で死んだが、死に際にわずかなことを喋った。この近くにラマ教の寺院があって、谷間に沿って行けば食糧も宿もあると。4人が谷へ向かう途中、ラマ僧の一行に出会う。その中の威厳のある老人が張(チャン)と名乗り、シャングリ・ラ寺院へ案内する。

2. シャングリ・ラの生活
セントラル・ヒーティングなどの設備が整い、チベットの首都ラサまで電話が引かれている。そこは、西洋的衛生知識と東洋的伝統の融合された社会があった。
「ローマ人は仕合せだった、わたしはよくそう考えます。彼らの文明は機械という致命的な知識まで行きつくことなしに、熱い風呂にたどりついておわったのですから」
ブリンクロー女史は、ラマ僧が不道徳者と決めつけるかのように宗教論争を持ちかける。張老人は、多くの宗教にはそれぞれ適度の真理がふくまれていると答える。
「信仰の根幹には中庸があり、いかなる行き過ぎも避けるという徳を説き、逆説的にはその徳そのものの行き過ぎですら避ける」
住人たちは、適度の厳格さをもって支配され、適度な服従で満足しているという。適度に真面目、適度に控え目、適度に正直、多種多様の信仰と習慣を持ちながら、大部分の人が適度に異端視し合うといったところか。
反感的なマリソンは、帰国するために人夫を雇いたいと申し出る。だが、この地を離れてまで案内する者はいない。とはいっても、外界と時々は連絡をとり、物資を取り寄せているのも事実。荷物を運んでくる連中を人夫として雇えばいいわけだが、彼らはいつ来るのか?二か月ぐらい先か?マリソンが子供じみた癇癪を起こすと、張老人はその場を去る。熱を帯びたところでは会話を避け、冷えたところでは会話を進める。くだらない口論を避けるのが最も賢明というわけか。しかし、不自由なく歓待してくれるのだから、それほど悪い話ではない。東洋文化を蔑んだり、人種偏見があれば別だけど。張老人は、コンウェイは賢明、マリソンは感情的、ブリンクロー女史は知的盲目の中に異教徒を眺める調子、バーナードはまるで執事と接するような馴れ馴れしい態度、といった具合に観察している。
ここには、古典美術が並ぶ建物や、天井が高く広々とした図書館がある。世界最高の文学作品だけでなく、値踏みのできない難解かつ珍妙な書物までも多数揃えている。だが、どの書物を探しても「シャングリ・ラ」の名は載っていない。
音楽室には、ハープシコードとグランドピアノが設置され、西洋の偉大な作品がすべて揃っている。ラマ僧たちは、特にモーツァルトを高く評価しているという。そこに中国服をまとった羅簪(ロー・ツェン)という少女(実は65歳?)が来て、ラモーのガボットを演奏して癒してくれる。これほどの作品がなぜ揃えられるのか?イエズス会のように金銀をどっさりと隠しているのか?
やがてマリソン以外の3人は、この地に興味を持ち始める。ブリンクロー女史は、この地にキリスト教を説く使命を抱く。バーナードは、実は本名をチャーマーズ・ブライアントといい、金融詐欺で追われていて偽パスポートで旅行している。彼は、犯罪者として帰国するぐらいならこの地に留まる方がましと思っているかもしれない。コンウェイはパイロットの埋葬に出会う。遺族によると、そのパイロットはシャングリ・ラの偉い人の命令で大山脈を越えたという。4人がこの地に来たのは偶然ではなく、シャングリ・ラの教唆によって計画されたことを知った。

3. 政治不要論
犯罪は滅多に起こらない。ラマ僧院直属の聖職者に違反者を追放する権利は与えられているが、滅多に行使されることはない。見知らぬ人を冷たく扱ったり、意地悪く口論したり、先を争ったりといったことは、なされるべきではないという慣習がある。低級な本能を刺激するようなことは軽蔑される。こうした共通価値を持った社会は、世界の中でごくちっぽけな領域に構築することはできるかもしれない。しかし、全世界に広げることは不可能だ。違反者を追放する場所がなくなるのだから...
「渓谷を訪問しているあいだ、たしかにコンウェイは善意と満足の気風をこの上なく楽しく感じた。それというのも、あらゆる技術の中で政治の技術が完全の域にもっとも遠いということを知っていたからであった。」
政治的なものがどうやって運営されるのか?長老の思惑だけで決まるわけでもあるまい。すべての人が、自分を含めて客観的に人間性が測れるならば、あるいはその能力が測れるならば、自明であろうけど。すべての人が真理を探究し、それに近づくことができるならば、政治的な機構は一切必要ないということか?実は、政治なんてものは精神の高まりには邪魔な存在なのか?
ちなみに、レヴィ=ストロースは、著書「悲しき熱帯」で「首長の政治力は共同体の必要から生まれたものではない」と語っていた。

4. ハイ・ラマ(大僧正)の正体
大僧正は、コンウェイとだけ会見し、ペロウという神父の話をする。
1719年、カプチン修道会の4人の修道僧がこの地を目指して何ヶ月も旅をしたという。うち3人は死亡し、ペロウ神父だけが渓谷に辿り着いた。古いラマ教の僧院は、物質的にも精神的にも衰退していた。
1734年、彼の指導のもとに建物の修復と大改造が行われた。53歳のこと。ペロウは、ルクセンブルクの生まれ、音楽と美術を好み語学に堪能、世俗的な享楽はほとんど味わい尽くしていたという。戦争体験から侵略行為の恐ろしさを知っている。谷沿いに金鉱を発見したが、それに誘惑されることもなかった。禁欲主義者ではなく、この世の善きものは楽しむという生き方。帰依者には、教義だけでなく、実用的なことも教える。彼は誇りという動機だけで実践を説く。この人物がシャングリ・ラ寺院を建てたのだった。
1769年、ローマから召喚状が届いたが、この地に留まる。既に89歳の老齢で動けなかった。しかし、98歳になっても元気で仏教の経典を勉強し始める。もともとは、正統信仰の立場から仏教を攻撃する著書を書き上げるつもりで、この地に来たのだった。
1789年、臨終の床についたという知らせが伝わる。108歳のこと。だが、何週間も横たわりながらも、やがて回復しはじめた。麻薬の服用と深呼吸の実践、これが死を防ぐ有効な摂生法だという。やがて、ペロウ伝は幻想的な民間伝承となった。
1794年、ペロウはまだ生きていて、やがて谷のどの寺院からも「感謝聖歌」と「南無阿弥陀仏」が聞えるようになったという。
コンウェイは言った。「あなたはまだ生きていらっしゃるということです。ペロウ神父」。この大僧正は250歳ということか?

5. 経済システムを構築した人物
ヨーロッパから二人目の訪問者が、この谷に辿り着いた。ヘンシェルという若いオーストリア人。ペロウが人々に道を説き、改宗させるために来訪したのに対して、ヘンシェルは金鉱に興味を寄せた。彼の野心は富をつかんで帰国することだった。だが、帰国しなかった。谷の平和と自由が、彼の出発を延ばしていった。そして、ペロウ伝説を知る。友情や愛情といった情念を超越したペロウの慈悲心が、この青年の心を潤した。
中国の美術品や、図書や音楽に関係するあらゆる貴重品の収集は、ヘンシェルによるものだという。金鉱は社会システムを維持するための財源なのだ。必要な物品を外界から取り寄せる複雑なシステムは、ゴールドラッシュといった欲望から免れるための仕掛けである。自然の地形から軍隊による侵略の心配もない。西洋人たちが科学調査で天山山脈の難路を超えてやってくると、訪問者に対する態度に修正を加えていく。金鉱の噂を聞きつけた人々には、すぐに失望して引き返すように。

6. なぜ、4人が選ばれたのか?
様々な年齢の人たち、異なった時代の代表者たちと一緒に暮らすことは楽しいという。だが、ヨーロッパの戦争やロシア革命以降、旅行者や探検家がほとんど途絶えてしまった。外来者の中には、滞在してなんら恩恵を受けず、世間並みの年齢まで生きて病気で死ぬ者もいる。魅力的な人を多く入門させたいが、百歳以上生き長らえる者はわずか。高地などの厳しい自然条件に適応できる人種が少ない。日本人も中国人もいまいち適応しなかったので、北欧やラテン系、アメリカ人の方が適応性があるかと考える。つまり、人口減少の歯止めというわけか。あまり血を濃くするのもよくないのだろう。

7. 謎の人物、満州娘とショパンの弟子
羅簪(ロー・ツェン)は、満州の王家出身、トルキスタンの王子と婚約していた。1884年、嫁ぐ途中、護衛たちが山中に迷い、シャングリ・ラの密偵によって助けられた。18歳のこと。つまり、演奏で癒してくれていた少女は65歳の老婆ということになる。
ショパンの直弟子アルフォンス・ブリアックは、ショパンの未発表の曲を知っていた。彼は、まだ入門して日が浅いので、ショパンのことばかり口にしても、大目に見てやらないといけないという。
「若いラマ僧は自然のことながら、どうしても過去のことにとらわれがちになるものでしてな。まあ、それも未来を直視する必要な段階なのですが」

8. シャングリ・ラを去る
コンウェイは、大僧正と何度か会見しているうちに、この理想郷を譲渡された。その夜、マリソンは羅簪と一緒に逃亡するとコンウェイに告白する。コンウェイも上品な彼女に恋心を抱くが、老婆であることを知っている。そして、シャンブリ・ラにまつわる歴史や、大僧正や張老人との会話を打ち明けた。
しかし、マリソンは信じない。羅簪は処女だったといい、250歳の大僧正が生きていることは生物学的に矛盾していると主張する。マリソンの言うことももっともだ。コンウェイは、自分が幻想に憑かれているのではないかと混乱する。
「はたして自分はいままで気違いであっていま正気に立ち返ったのか?あるいは、しばらくのあいだ正気であったのがふたたび気違いに舞いもどったのか?」
コンウェイは二人とともにこの地を去った。

9. 結局、実話だったのか?
ラザフォードは、コンウェイの話を調査した。4人の消息は不明のままで、シャングリ・ラの噂も聞かない。ペロウ神父も、ヘンシェルも、ショパンの弟子も、満州娘も、その記録を見つけることができない。ただ、マリソンが中国に辿り着けなかったのは間違いないらしい。コンウェイの語ったことは、戦争後遺症による幻想だったのか?しかし、コンウェイはショパンの未発表曲を弾いた。
更に、コンウェイが教会病院に辿りついた様子を調べると、医者が女性に連れられてきたと証言した。その女性は中国人で、熱病を患い到着後すぐに亡くなったという。彼女は若かったですか?と訊ねる、医者は答えた。
「いえいえ、ひどい年寄りでしたよ。 いままでわたしが見たうちで、いちばん年寄りでした」