2018-04-29

デスクトップの魔物... 雨降って頭固まっちゃった!?

デスクトップには魔物が住むという...
なかなか仕事が手につかず、とりあえず周りの整理整頓をしていると、これが徹底的にやらないと気が済まなくなり、夜な夜な大掃除を始めてしまう始末。やらなければならない!という意識が強いほどマインドセットに逆らってしまう。条件反射的に。天の邪鬼な性癖がそうさせるのか...
デスクトップ環境をいじるのにも、これに似た心理が働く。カスタマイズ衝動が、かっぱえびせん状態へ誘うのだ。忙しい時にかぎって。そして、 雨計量器に嵌ってもうた...

1. Rainmeter(Stable Ver 4.1)... こいつの柔軟性にイチコロ!
Windows 系のデスクトップツールで遊ぶなら、こいつは最強かもしれない。なにしろ、ある種の言語システムもどきを具えているのだから。Documentation サイトも非常に参考になる。
スキン求めて、deviantArt あたりを散歩すると... スキン集というより、コードの宝庫!あまりの量に目移りし、どれをベースに改造しようか、惚れっぽい酔いどれは、はしごしまくり。柔軟性が高いということは自由度が高いことを意味し、自分でいじり倒すことができなければ、逆に不自由の呪縛にかかる。自由への道は険しい。ド M を覚醒させるにはうってつけの性向か...
中には完成度の低い作品もあり、自分の環境に合わせてカスタマイズを強いられる。やがて採用したスキンすべてに対して、なにかしらいじらないと落ち着かなくなる。自由というより、これはもう依存症だ!

2. マルチモニタ環境で... 病みつき!
スキン毎に「ドラック許可」や「クリックスルー」などの設定を組み合わせて、擬似的にドラッグ禁止領域を作ることができる。透明色で前面に配置しておけば、普段触りたくないリソースモニタ用アプリの保護領域を作ったり。
ちなみに、狼の黄色い目と青い目のあたりが、その領域...




とはいえ、あまり凝って、デスクトップツールに CPU を持っていかれれば本末転倒。リソースモニタ以外のアニメーションは、四つの地球儀と時計だけにし、CPU 使用率を 3% 未満に調整する。尚、CPU は、Intel Core i7-7700 3.6GHz...
右上画面には、三つの地球儀を重ね、大きくなるにつれて周期を遅くし、左下画面には、"Van Schagen Globe" という大航海時代風の地球儀スキンに "Steam Clock" という時計スキンの歯車を接地させて、ポンプで地球儀を回転させているように見せている。ちなみに、時計といえば、おいらは、SKAGEN を愛用している。Schagen と SKAGEN では綴りが違うけど日本語の発音は同じ。思わず夜の社交場でお馴染みの口癖を漏らす... 奇遇だねぇ!

尚、カレンダー、イベント、ToDo リストでは、姉妹ソフトの Rainlendar を採用している。Rainmeter に比べて柔軟性は劣るが、これらの要素では手軽さを優先したい。
Rainmeter の気がかりは、オーディオ制御系がちと不安定なところであろうか。ソースのスイッチングなど。使えないほどではないが、うちの環境といまいちマッチしない模様。お気に入りのイコライザや VU メータもあって惜しいのだけど。
てなわけで、WMP + XTHREE + FRUITY + DefaultAudioChanger を採用(画面右上)。実は、FRUITY にも嵌ってたりして...

3. 記述フォーマットに... なんとなくノスタルジア!
スキンファイルの拡張子は .ini で、基本フォーマットはこれ...

  [Section]
  Key=Value

Section には、こんなものがある。

  [Rainmeter] : 全体のオプション定義
  [Variables] : 変数定義
  Measures    : CPU やメモリなどの計測オブジェクト(Measure=Option で指定)
  Meters      : 視覚的なオブジェクト(Meter=Option で指定)
  MeterStyles : Meters のオプション定義。
  [Metadata]  : 動作に無関係な情報を記述

オブジェクト名はなんでもいいようだが、とりあえず、このあたりの動作を抑えておきたい。

  Measure=Calc    : 演算制御オブジェクトに指定
  Meter=Shape     : 形状制御オブジェクトに指定
  Meter=Image     : 画像制御オブジェクトに指定
  Meter=Rotator   : 回転制御オブジェクトに指定
  Meter=Roundline : 円運動制御オブジェクトに指定
  Meter=Button    : マウス操作オブジェクトに指定

Shape オブジェクトには基本的な属性が揃っている。
Rectangle(長方形), Ellipse(楕円), Line(線), Arc(円弧), Curve(曲線), Path(パス)、あるいは、 図形の結合やグラデーションなど。
Image オブジェクトでは、画像データの位置やサイズの変更が自由にでき、色を混在させることもできる。
そして、軽く試すと、こんな感じ...

;; 横方向にグラデーション
[Object1]
Meter=image
BackgroundMode=2
SolidColor=0,0,0,255
SolidColor2=0,0,0,0
X=0
Y=0
W=100
H=200

;; 縦方向にグラデーション
[Object3]
Meter=Shape
Shape=Rectangle 0,0,200,100 | Fill LinearGradient MyFillGradient | Stroke Color 0,0,0,0
MyFillGradient=90 | 0,0,0,0 ; 0.0 | 0,0,0,255 ; 1.0
; MyFillGradient で角度を指定する。0度や180度にすれば横方向。
X=0
Y=250

;; 枠付き長方形
[Object2]
Meter=Shape
Shape=Rectangle 0,0,200,100 | Fill Color 0,0,0 | StrokeWidth 4 | Stroke Color 0,0,255
X=0
Y=400

4. おまけ... 目玉!
新人時代に実習で書いたマウスカーソル追尾プログラム(C コード)を移植してみた。
目玉を二つにしたければ、インスタンスを二つにするだけ。具体的には、別々のフォルダにそれぞれ同じ ini ファイルを置く。
ところで、マウスカーソルを含めた画面キャプチャで、ちと悩んでしまった。
Windows 標準の「拡大鏡」なんてツールは一生使わない!と思っていたけど、こいつでわりと簡単! 拡大鏡ウィンドウをアクティブにした状態でマウスを移動させて、Alt + PSc で一発。へぇ~...
尚、ビューモードは固定。



さて、基本的な演算子はだいたい揃っているので、計測で困ることはあまりなさそう。
マウスの座標を取得するには、"MouseXY" という Plugin を見つけたので、どこぞからもってきた。
また、ビルトイン変数を知っているとなかなか便利。リソースのパスを暗黙に取得したり、モニタ変数を動的に取得したり。動的オブジェクトに対しては、現在の位置とサイズを取得するビルトイン変数が用意されている。

  #CURRENTCONFIGX#
  #CURRENTCONFIGY#
  #CURRENTCONFIGWIDTH#
  #CURRENTCONFIGHEIGHT#

尚、動的変数は、Measure と Meter だけに許されていて、おまじないを一つ書いておけばいい。

  DynamicVariables=1

あれ?
Roundline オブジェクトの "StartAngle" というオプションが、0度を指定すると3時の方向?なので、頂点から開始するなら 270度を指定するってこと?目玉なんて、どこから始まってもええんだけど、とりあえず Documentation サイトの事例に従って...

  StartAngle=(Rad(270))

RotationAngle は、360度フルに欲しいから...

  RotationAngle=(Rad(360))

そして、コードはこんな感じ...

[Metadata]
eye follow the cursor... Junk Edition.

[Rainmeter]
Update=20

[Variables] 
EyeColor=127,255,212
IrisColor=47,79,79
PupilColor=0,139,139
OutlineColor=47,79,79

EyeSize=180
IrisSize=80
PupilSize=30
OutlineSize=2
AdjustMaxLen=0.005
AdjustEyeDis=0.002
; "AdjustMaxLen" は、[MaxLength]オブジェクトに対する瞳孔の移動係数。
; "AdjustEyeDis" は、[EyeDistance]オブジェクトに対する瞳孔の移動係数。
; 目のサイズを変更すると、これらを微調整しないと瞳孔が眼球からはみ出すかも...

[PosX]
Measure=Plugin
Plugin=MouseXY
Dimension=X
 
[PosY]
Measure=Plugin
Plugin=MouseXY
Dimension=Y

[EyeArea]
Meter=Roundline
W=#EyeSize#
H=#EyeSize#
StartAngle=(Rad(270))
RotationAngle=(Rad(360))
LineLength=(0.5*#EyeSize#)
LineColor=#EyeColor#
Solid=1
AntiAlias=1

[EyeOutline]
Meter=Roundline
W=#EyeSize#
H=#EyeSize#
StartAngle=(Rad(270))
RotationAngle=(Rad(360))
LineLength=(0.5*#EyeSize#-#OutlineSize#)
LineStart=(0.5*#EyeSize#)
LineColor=#OutlineColor#
Solid=1
AntiAlias=1

[EyeAngle]
Measure=Calc
DynamicVariables=1
Formula=(Atan2(([PosY]-0.5*#EyeSize#-#CURRENTCONFIGY#),([PosX]-0.5*#EyeSize#-#CURRENTCONFIGX#)))

[EyeDistance]
Measure=Calc
DynamicVariables=1
Formula=(Sqrt(Abs(([PosX]-0.5*#EyeSize#-#CURRENTCONFIGX#)**2+([PosY]-0.5*#EyeSize#-#CURRENTCONFIGY#)**2)))

[MaxLength]
Measure=Calc
DynamicVariables=1
Formula=(0.5*(#EyeSize#-#IrisSize#)-#OutlineSize#+1)

[Iris]
Meter=Roundline
DynamicVariables=1
W=#IrisSize#
H=#IrisSize#
StartAngle=(Rad(270))
RotationAngle=(Rad(360))
LineLength=(0.5*#IrisSize#)
LineColor=#IrisColor#
Solid=1
X=(([EyeDistance] > [MaxLength] ? ([MaxLength]*Cos([EyeAngle])) : ([EyeDistance]*Cos([EyeAngle])))+0.5*(#EyeSize#-#IrisSize#))
Y=(([EyeDistance] > [MaxLength] ? ([MaxLength]*Sin([EyeAngle])) : ([EyeDistance]*Sin([EyeAngle])))+0.5*(#EyeSize#-#IrisSize#))

[Pupil]
Meter=Roundline
DynamicVariables=1
W=#PupilSize#
H=#PupilSize#
StartAngle=(Rad(270))
RotationAngle=(Rad(360))
LineLength=(0.5*#PupilSize#)
LineColor=#PupilColor#
Solid=1
X=([Iris:X]+0.5*(#IrisSize#-#PupilSize#)+([EyeDistance] > (2*[MaxLength]) ? (#AdjustMaxLen#*[MaxLength]) : (#AdjustEyeDis#*[EyeDistance]))*#IrisSize#*Cos([EyeAngle]))
Y=([Iris:Y]+0.5*(#IrisSize#-#PupilSize#)+([EyeDistance] > (2*[MaxLength]) ? (#AdjustMaxLen#*[MaxLength]) : (#AdjustEyeDis#*[EyeDistance]))*#IrisSize#*Sin([EyeAngle]))

2018-04-22

"はじめての数論 原著第3版" Joseph H. Silverman 著

なにゆえ、このような書に向かわせるのか。童心に返りたいという潜在意識がそうさせるのか。いまさら感を覚えつつも、ジョセフ・シルヴァーマン先生が誘ってくる。小説や演劇を楽しむように数の理論を鑑賞してみては... と。
数学の定理が鑑賞に耐えうるかは、ひとえに美にかかっている。それは、ルーベンスの歴史画やモーツァルトの交響曲を探求したくなるような、衝動を駆り立てる誘惑の美だ。美とは、主観性から発する情念であって、そこにどんな美を感じるかは千差万別。何も感じることができなければ苛立ちを隠せず、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。オイラーに触れて何も感じることができなければ、幸福の一部を放棄しているようなものか...
しかしながら、客観性を信条とする数学とは、相容れぬ特性である。五感のすべてをニュートラルな状態にし、その美を純粋に感じ取ることができるとすれば、もしかしたら主観性を客観性へ昇華させるのやもしれん...

「数学について公平に考えれば、それは真実性のみに位置づけられるものではなく、なかでも美... 冷たく厳しい美... それは骸骨のように我々自身の生来の弱さには何も訴えるものはなく、絵画や音楽のような着飾ったところもない。しかし、崇高なる純粋さ、そして厳格なる完全性を実現した唯一の芸術である。」
... バートランド・ラッセル

この本は、元々はブラウン大学のジェフ・ホフスタインによって創始された Math 42 クラスのための教科書だそうな。Math 42 とは、自然科学系以外の学生を引きつけようと構想されたクラスだとか。なるほど、高校の初等数学ぐらいの知識があれば読めそうである。基本的な読み方としてはコンピュータ不要論を唱え、安心感を与えてくれる。
「最大公約数を調べるために GCD[M,N] とタイプして答えを得てしまうことは、テレビをつけることで電子工学を学ぼうとするようなもの...」
とはいえ、完全不要論を唱えているわけではない。ここに紹介されるアルゴリズム群にはプログラミングの知識がちと欲しい。実際、数値演算言語 Octave あたりで遊べるし。良い例題に、ユークリッドの互除法、RSA 暗号、平方剰余の相互法則、平方数の和の形式、素数判定法、楕円曲線の有理点などを挙げてくれる。
数論とは、数の理論を問うもの。ここで主役を演じるのは自然数だ。負の数を意識せずに済めばあらゆる負債はチャラ、これぞプラス思考!なんと自然だろう。だが、人間は負債の先送りがお好き。人生という苦難を冷静に率直に受け入れれば、悲観的にならざるをえない。だから自然数に焦がれるのか。
数学だって想像上の数に縋っているではないか。虚数とは、人間が編み出した虚しい数。真理を覗くには、よほどの想像力を要するらしい。
そして、ガウス整数にまで議論が及ぶと、面白いことが次々と起こり、人間がニヒリズムに縋る姿も自然に見えてくる。
自然数の世界は、実に風変わりな生物相で溢れている。ピタゴラスの数がいたり、メルセンヌ神父の数がいたり、パスカルの三角形がいたり、フィボナッチの兔がいたり... ディオファントスな関係を迫れば、フェルマーの方程式がいて、ペルの方程式がいて、オイラーの関数がいて、楕円曲線までいやがる。ただ、平方数の素数はいないようだし、奇数の完全数がいるかは知らんよ...

物質の性質を探るプロセスに原子構造を辿るというやり方があるが、数の本質を探るのにも似たところがある。ここでは性質の側面から、素数や平方数といった数が、あるいは関係の側面から、互いに素、因数分解、既約といった概念が重要な役割を果たす。素数は、これ以上分解できないという視点から、平方数は必ず合成数になるので、成分を明るみにするという視点から、それぞれ意義を与えている。
それにしては、既約ピタゴラスの定理は素っ気ない。元々は素っ気ない関係が複雑に絡んだ状態こそ、人間社会というものか。その絡み具合といったら悪魔じみている。互いに素な関係を求めてすっきりさせようといのが哲学というものか。
プラトン風のイデアなる精神の原型を追い求めては、原始根は存在するか?と問い、存在の確実性を探る。完全数ってどうよ。友愛数ってどうよ。三角数って完全な三角関係ってか。完全数がどんなふうに完全かを考察すれば、創造者の完全性に思いを馳せ、友愛数がどんなふうに友愛かを考察すれば、宗教が唱える友愛に疑念を抱かずにはいられない。なるほど、哲学とは、悪魔の素因数分解であったか。
こうして酔いどれ天の邪鬼は、「数学は哲学である!」との持論を検証するのであった...

1. 割り切れない関係
本書が求める数の関係では、合同式が主役を演じている。つまり、演算法ではモジュロ演算が主役だ。こいつの抽象レベルときたら四則演算をコンパクトに凌駕し、数の本質を見抜くのに最適な道具となる。何を法とするかは、研究者がどんな戦略をとるかで決められ、この柔軟性が数と戯れる自由を知らしめている。おまけに、素数 p を法とする時に一段と輝きを放ち、モジュロ性が暗号技術への道を切り開く。要するに、人間が認識しうる演算という企ては、循環性の概念によってすべて説明がつくということである。
ん?ということは...
人間社会で四則演算の方がはるかに有用だということは、本質を見る必要がないということか。いや、あえて見るのを避けているのか。整除性という概念が、人間精神を平穏なものにしてくれる。だが、その定理が証明不可能となると、たちまちカルト化する。知らぬが仏というが、こと人間社会においては本当らしい。真理において、割った余りを考察するやり方が有効だというなら、人生において、割り切れない思いがつきまとうのは至極当然か...

2. 素数の中の異物
「2 は最高に奇な素数だ!」
素数の中には異物が混ざっている。素数は無限に存在すると告げているにもかかわらず、こいつだけが偶数ときた。偶数の世界には、なにか引き込まれるものがある。偶数どうしでは、和も、差も、積も、商も、偶数の世界に閉じられる。だが、奇数どうしで足すと、偶数になるとはこれいかに?奇数と偶数を掛けると必ず偶数に引き込まれるのはなぜ?数の世界では、対を求めるのが自然だというのか?
人間社会では、2 で割り切れる数が揉め事を回避する方向に働く。分け前や財産分与など。偶数に奇数が絡むと、なにかと揉めることが多く、離婚問題では三角関係がさらに複雑化させる。性行為によって誕生する種が、遺伝子の掛け算の結果か、足し算の結果かは知らんが、偶数になる確率を高めているのは確かなようだ。はたして偶数どうしの関係で、偶数の世界を超えられるだろうか?
偶数の世界に引き込まれるのが嫌なら、素数で割って、余った数を平等に扱ってみてはどうだろう。モジュロ性の真の意味が、平等性にあるのかは知らんが、2 を法としたモジュロ性では 0 と 1 にしか登場機会を与えない。この特性が情報理論の礎となり、デジタル社会の正体を明るみにしている。素数が法(=法律)として君臨すると、なにかと便利なことが起こるのは確かなようだ...

3. ディオファントス近似の摩訶不思議!
コンピュータには見過ごせない弱点がある。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。べき乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ないということを。システムエラーの回避に欠かせない前提があることを。
しかしながら、近似の概念に頼っているのはコンピュータの世界だけではない。純粋物として崇められる素数の世界ですら、その存在のしかたを問う素数定理となると、近似が幅を利かせている。
人間社会で必要なのは、完全な真理ではなく、真理っぽく見えることだ。人間は真の存在を知りたいのではなく、存在感を噛み締めたいだけ。本当の自由なんて、この世にありはしない。そんなことは百も承知しつつも、自由意志の存在は信じている。耐えられないのは盲目ではなく、盲目感なのである。
おっと!話を戻そう...
簡単な近似法では、連分数の概念がなかなか実用的だ。どんな数でも、整数部分を引きはがして残りを分数にひっくり返すと、連分数を作ることができる。このような再帰的なやり方はプログラミングとすこぶる相性がいい。本書は、連分数展開を漸化式として見せてくれる。
ところで、ディオファントス方程式はなかなか手強い!ここでは、整数や有理数で考えることをやめて、素数 p を法とする解を見つけるという戦略を用いている。
そして、楕円曲線上の点の個数 Np に考察が及ぶと面白いことが起こる。すなわち、楕円曲線方程式の解の数において...
Np が p より小さいことは直感的に分かるが、p を追っていくと... なんと!なんと!
Np は、p に等しくなるというのである。

  ap = p - Np

ap「p 欠乏」と呼ぶそうで、実際は「フロベニウス写像」のトレースになるという。
さらに、フェルマーの最終定理を素数 p とモジュラ性の観点から物語ってくれる。
尚、フェルマーの最終定理は、ディオファントス方程式における n ≧ 3 のパターン。

  An + Bn = Cn

n = pm の時、

  (Am)p + (Bm)p = (Cm)p

なるほど、モジュラ性の抽象レベルには限りがないと見える。どうやら宇宙は循環性に支配されているらしい。そりゃ、夜の社交場に繰り返し通うのも自然であろう。これが自由意志の正体であったか...

2018-04-15

"aha! Gotcha ゆかいなパラドックス(1, 2)" Martin Gardner 著

娯楽数学の真髄をもう一冊...
いまだにマーティン・ガードナーの世界に魅せられるのは、童心に返りたいという意識がどこかにあるからであろうか。酔いどれ天の邪鬼にだって、若き日を懐かしみ、若さを羨むことがある。だがもし、若返ることができ、もう一度世間を渡り歩いて来なければならないとすれば、やはり煩わしいものがある。戻りたいのは過去ではない。記憶と知識をそのままに肉体だけを若返らせ、脳内活動を活性化させたいだけ。なんと都合のいいことを。なぁーに、脳内チップにデータをダウンロードすればいいだけのこと。若いうちに。いや、もう手遅れか。いやいや、構造主義風に言えば、人間の身体もまたサイボーグだ。はたして、それは人間なのか?人間とは、どういう存在なのか?精神の持ち主のことを言うのか?だが、科学はいまだ精神の正体を明確に説明できないでいる。精神の正体も知らぬ者が精神を崇めても... などと問えば、循環論に陥る。

まさに、パラドックスの世界は循環論法と自己言及論に毒されている。自己言及で最も単純なものは、「この文は嘘である」といった形式。この文章を信じるにしても、信じないにしても、悪魔との取引を強いられる。ただ、悪魔をも味方につけなければ、世間を渡り歩いて行くことは難しい。
哲学には、形而上学という大層な代物がある。メタ的な観点から物事をさらに上位から眺める立場を要請するのである。精神ってやつが、形而の上位に存在するのか、はたまた下等な存在なのかは知らんが...
言語学は、自然言語を語るための最適な言語は何か?という慢性的な課題を抱えている。日本語を構造的に説明するために、日本語で語っては矛盾が生じる。だからといって、外国語で日本語を語っても、自然言語というものが社会風土にどっぷりと浸かって変化してきただけに、その本質的な性質に踏み込むことは難しい。
プログラミング言語では、ある言語システムを記述するための上位言語に何を選ぶべきか?という議論をよく見かける。そして、メタ言語もメタメタになるという寸法よ。
数学は、論理の不完全性を証明した。少なくとも人間が構築する論理は。となれば、パラドックスは、忌み嫌うよりむしろ歓迎すべきだろう。その役割は、論理暴走のチェック機構として、ひいては、自分自身の在り方を問う機構として。
レイモンド・スマリヤンは、「この本の題はなにか?」と題する論理パズルの本を書き、その二年後、「この本に題はいらない」と題する本を書いたそうな。バーナード・ショーはこう言ったとか。
「ただ一つの黄金の法則は、黄金の法則がないことだ。」

パラドックスを後押しする概念に、時間の一方向性がある。それは、人間の認識能力の限界を示している。エドウィン・A・アボットは著作「フラットランド」の中で、二次元平面の世界に幽閉された住民たちを滑稽に描いて魅せた。まさに人間の欲望は、時間の矢という次元に幽閉されている。次元ってやつは、幾何学構造の支柱を成す、いわば自然界の構造を支配する存在であって、この基本原理に一方向性しかない!なんてことがありうるのだろうか?数学の美には必ず対称性を見出すことができる。なのに、時間という存在だけは、どうも異物感を拭えない。
純粋数学の定理は、次元によって乱されることはあまりないが、応用数学の定理の多くは時間の関数で定義される。時間ってやつは、認識の産物でしかないのか。
パラドックスは、正しいと思うような前提に対して、およそ想像もつかない結論が導かれた時に生じる。それは感覚や感情からくるもので、逆理や背理の類いは大抵この心理的な罠に落ちる。
では、正しいと思うような前提とは、どこから生じるのか?認識の揺れは経験から生じ、まさに誤謬は余計な知識から発する。人間は、経験や知識を常識に昇華させては精神の防波堤を築く。ここに心の拠り所を求めるのだ。常識を否定すれば、過去の知識を否定することに繋がり、ひいては今まで生きてきた自己をも否定しかねない。その結果、考えることを放棄して思考停止状態に陥る。これが幸せの正体か。
脂ぎった大人になればなるほど、柔軟な思考を持ち続けることが難しく、よほどの修行を要する。子供のように矛盾を素直に受け入れ、かつ自己否定に陥ってもなお愉快でいられるとしたら、真理の力は偉大となろう。なるほど、ゆかいなパラドックス!とは、この道であったか...

1. 無限の悪魔
ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽したのは、そこに悪魔が住み着いているとでも考えたからか。単位正方形の対角線の長さが、定規のメモリをいくら細かくしても正確に測れないというのは、数を崇める宗派にとって由々しき問題である。そして十九世紀、数の理論が集合論に及ぶと、悪魔を目覚めさせた。
有限集合では... 元の集合が真部分集合と一対一で対応する... なんてことはありえない。全体は必ず部分よりも大きいとするのが、部分集合の中でも真の部分集合とされる所以である。
ところが、無限集合では違う。こんな定義すらあるぐらい。
「真部分集合との間に一対一の対応がつくような集合のことを無限集合と呼ぶ。」
数学者は無限には濃度があると主張する。アレフ(ℵ)がそれだ。自然数の集合の濃度は、アレフゼロ。偶数の集合も、奇数の集合も、アレフゼロ。つまり、こうなる。

  ℵ0 + ℵ0 = ℵ0 ???

対角線論法は、まさに写像のパラドックスを示している。実数全体の集合が無限直線上の数と一対一で対応する... ここまではいい。
しかし、だ。これが平面上のすべての点、さらに三次元空間上の、さらにさらに四次元空間上の、n次元空間上の... となると、写像の概念そのものを疑わずにはいられない。
そして、無限濃度はさらに抽象レベルを昇華させ、カントール集合論に対して、非カントール集合論に分派した。ユークリッド幾何学が、第五公準の矛盾をついて非ユークリッド幾何学と分派したように。
こうしてみると、パラドックスこそが数学の歴史に見えてくる。それは、悪魔との取引の歴史だ!というのは言い過ぎであろうか...

2. 統計の嘘と平等視の原理
いまや、初歩的な統計の知識を具えていないと、生きるのが難しい時代。保険、福利厚生、公衆衛生、広告、報道など多岐に渡って、数理統計なしでは運用が成り立たない。とはいえ、統計情報ってやつは、扱いを一つ間違うとまったく別の結論を導く。
マスコミがよく報じるものに「平均的な家庭」、「平均的な生活」、「平均所得」といったものがある。だが、平均ってやつは偏り方を示さないので、格差を闇に葬ってしまうばかりか、平均的な... という奇妙な価値観を押し付けてしまう。世論調査などは、質問の仕方でいかようにも操作できる。
本書は、平均値、中央値、最頻値という三つの尺度を持ち出し、民主主義の公平性を皮肉る。やはり統計は嘘をつくものらしい。
人間ってやつは、確率が低そうに見えるものを偶然と呼び、そこに因果関係を結び付けずにはいられない。決定論や運命論がそれだ。
例えば、統計のパラドックスに、有名な誕生日のネタがある。出鱈目に選んだ 23 人の中で、誕生日が一緒なのは 50% よりやや高く、40 人ともなれば 90% に跳ね上がる。そして、女性を口説くネタにするわけだ。運命の赤い糸は、いかようにも結ぶことができるし、いかようにも切ることができるという寸法よ。
また、偉大な数学者は長男が大半だそうな。というより、どんな社会でも、最も数の多いのが長男か長女となる。一人っ子なら、そのまんま。二人兄弟で、男と女なら、どちらも長男と長女。同性でも確率 1/2。そして、次男、三男、四男... の順に確率は減っていく。
著名な人物と同じ誕生日だとか、同じ出身地といった類いは、しばしば特別な偶然だと思い込ませる。
人間ってやつは、常に特別な存在でありたいと願っているようだ。いや、都合が悪くなると、すばやく大多数の中に紛れ込む。統計ってやつは、都合よく解釈できる代物というわけだ。ベンジャミン・ディズレーリは、うまいことを言った... 嘘には三種類ある。嘘と大嘘、そして統計である... と。アドルフ・アイヒマンにかかれば、悲劇までも統計にしちまう... 一人の死は悲劇だが、百万の死は統計に過ぎない... と。
さらに、統計の捉え方で興味深いものに、ケインズが呼んだ「平等視の原理」というものを紹介してくれる。不確定な事象に対して、真か偽かの根拠が見つからないような場合、等しい確率で見積もりやすい、という根拠不十分な原理である。例えば、核戦争の起こる確率は?と問えば、有識者たちは五分五分と答える。不合理な確率が、不合理な結論を導き、不合理な行動を煽る。これが人間社会というものか。論理的矛盾をついた悪名高き歴史を持ってきた原理というわけである。
人間ってやつは、具体的な数値を見せられると、客観性に満ちていると思い込む傾向があるが、実は、数値そのものに主観性が満ち満ちている。裏付けってやつの威力は強力だ。いや、裏付けがありそうに装うことが...

3. 信者の賭け
宗教を信じるか信じないかを問いかける皮肉めいた問題に、あの有名な「パスカルの賭け」がある。ブレーズ・パスカルは、キリスト教の信仰が得かどうかを問うた。教会を信じなかった場合、教会が誤っていれば何も失わず、教会が正しければ地獄で限りない苦痛に直面するだろう。教会を信じた場合、教会が誤っていれば何も得をせず、教会が正しければ天国で永遠に幸福を得るだろう。したがって、教会が正しい方に賭ける方が有利だってさ。
キリスト教に限らず、あらゆる宗教は、信じることによって救われると教える。ならば、すべての宗教を信じればどうだろう。所詮、人間がこしらえたもの。宗教も、神という概念も。一つの宗派に固執したところで矛盾からは逃れられないのだから、すべての宗派を受け入れ、矛盾を歓迎してみてはどうだろう。それは、すべての宗教を信じないのと同じことのようにも映る。そして、無神論者や無宗教者の方が、高貴な宗派に見えてくる...
ところで、霊感商法は騙される側にも問題があると、よく言われる。とはいっても、だ。人間ってやつは、何かに縋らなければ生きてはゆけない存在。文化庁の統計によれば、日本の宗教法人の数は18万を超える(平成28年度)。未登録数を合わせれば、20万を超えるそうだ。そして、信者の数はというと、少なく見積もって、延べ1億8千万人、潜在的に2億人くらいになりそう。人口をはるかに超えるとは、これいかに?宗教なんて信用ならない!なんて言いながら、厄年になれば厄払いはするし、家を建てる時には地鎮祭をやるし、葬式仏教は大盛況ときた。人が死ねば墓が必要になり、墓地が高いとなれば納骨堂と契約を結び、自動的に宗派の会員となり、信者の数に加えられる。なるほど、「信者」と書いて「儲かる」ってか...

4. サイクロイドの誘惑
「自転車の車輪の上部は下部より速く動いているのを、ご存知ですか?」
実は知っているけど、改めて問われると、なんとなく感動してしまう。車輪の縁のある任意の点に着目して、どういう軌道を描くかを作図すれば、サイクロイド曲線になることは義務教育時代に証明済み。サイクロイド曲線は、車輪の頂点に向かって加速し、頂点に到達すると今度は地面に向かって減速する。しかも、地面との接点で瞬間的に静止してやがる。円の中心が単純な等速運動をしているにもかかわらず、外円では想像もつかない運動が生じているだけでなく、静止が関与しているところに、なんとなく感動してしまうのである。
静止には、不思議な力が宿る。人間は心拍停止を忌み嫌うが、心臓の運動にもどこかに瞬間的な静止状態があるはず。だから、永遠の静止に真の安らぎが求めるのか?いや、これも悪魔の仕業か?パラドックスってやつは、無限によって悪魔を目覚めさせ、統計によって嘘まみれにし、ついに永遠の静止へ導こうってか...

2018-04-08

"aha! Insight ひらめき思考(1, 2)" Martin Gardner 著

古本屋を散歩していると、なにやら懐かしい香りのする書を見つけた。マーティン・ガードナーの世界に魅せられたのは三十年以上前、おいらが美少年と呼ばれていた頃だ。今でも感動してしまうのは、進歩のない証か。エレガントな問題集には娯楽数学の極意が詰め込まれ、答えが見つかった時、ついニヤリとしてしまう。何かを悟った瞬間とは、そうしたものか。逆に答えが見つからなければ、ムヤムヤ感が溜まり、今夜は眠らせないよ!とピロートークを仕掛けてきやがる。それが、M にはたまらないときた...

ひらめきとは、突然変異の類いか。それとも、眠っていた意識が目覚めたに過ぎないのか。寝ずに考え抜き、夢の中まで攻め倒し、それでもどうにもならない難問が、まったく予期せぬタイミングで、ふとしたことから解決してしまうことがある。トイレで思いついたり、風呂場で思いついたり... アルキメデスの逸話は、下半身を解放してやることが解決の糸口であることを証明しているのか。どうやらフル思考は、フルちん志向と相性がいいらしい。
考えるとは、言葉を使って論理を展開すること。言葉とは記号であり、数学的に記述できれば、いっそう論理展開の道筋が見えてくる。そして、言葉を正しく知り、論理的思考を深めれば、日常の問題をもっと正しく、もっと賢く解決できるようになるはずだ。
しかしながら、論理数学ってやつは、ゲーデルが示したように不完全性の悪魔に取り憑かれている。すべての問題を演繹的に解決できればいいが、帰納的な思考も用いなければ、現実的な解決は望めない。この帰納的な思考に、自己矛盾という悪魔が背後霊のごとくつきまとう。証明も反証もできない無矛盾性に遭遇すれば、非決定性の問題で袋小路に迷い込む。
ライプニッツは、論理学を "Ars combinatoria(組合せ術)" と呼んだそうな。組合せ論において、不可能性の証明ほど難しいものはない。人類の未解決問題であった四色定理にしても、ケプラー予想にしても、答えを出したのはコンピュータであった。数学の問題は、なんでもコンピュータにかけちゃえ!という時代の到来か?
現実世界が論理で解決できないとなれば、トンチも有効な解決策となろう。本書にも、トンチ先生が登場する。トンチにはユーモアが含まれ、それはある種のジョークから発している。ジョークは感情で理解する領域にあり、人によってはジョークにならないこともある。アハ!とひらめく瞬間とは、こうした遊び心から発し、なによりも子供心から発している。マーティン・ガードナーは、たまには童心に帰ろうよ!と誘ってくる。創造力とユーモアには、密接な相関関係がありそうだ。
形式論理学だけで人間社会のあらゆる問題が解決できるならば、人間は精神を獲得する必要がなかったのかもしれない。いや、精神を獲得したがために、人間はこうも苦悩するのか。ニーチェはうまいことを言った... 笑いとは、地球上で一番苦しんでいる動物が発明したものである... と。だから、弁証法ってやつが重宝されるのか。なるほど、論理数学者とは、屁理屈屋であったか...

本書にはユーモアとは裏腹に、組合せ論、幾何学、数論、論理学など多岐に渡って、深遠な数学の概念がちりばめられる。人類の文明の始まりを規定することは難しいが、一つの考え方として、数を数えるようになったのが始まり、とすることはできよう。整数は、現実社会において実に有用な概念である。しかも、プラス側に重要な意味がある。なぜかって?人生という自然界にとって実にちっぽけな空間を生き抜くには、プラス思考でもなければやってられんよ。
人間の世界では具体的な数を与えることによって生活が営まれるが、数学の世界では問題の一般化が問われ、n という抽象化された数の法則が求められる。数の n への昇華とでもしておこうか。こうした数学的な思考の始まりは、ディオファントスの算術に見てとれる。線形方程式ってやつに。入力値を n で与え、多項式を n 次元で規定できれば、アルゴリズムを編み出すことが可能となり、コンピュータにかけてお仕舞い。プログラミングでは、いかに効率的なアルゴリズムを実装できるかが問われる。このテクニックは、時にはアートと呼べるほどのエレガントさを具えている。
本書は、OR(オペレーション・リサーチ)という研究分野を紹介してくれる。OR では、しばしば実務上の問題をグラフ化して考えるというから、グラフ理論にも通ずる。グラフ理論では、最小の極大木を求める「クラスカル法」のようなうまいやり方も見かけるが、「シュタイナーの木」のようなNP困難な問題もある。
グラフ志向は、今日のネットワーク制御でもよく用いられる。例えば、インターネットでは、物理的な距離を計測するよりも、ルーティング経路や帯域幅などで数値化するホップ数やメトリックのような見方が有用となる。こうした最適化の思考は... 料理人が厨房で最も効率的に多くの料理をこしらえるには... 企業が最も効率的な人員配置をするには... 最もコストのかからない軍事行動を行なうには... といった戦略的問題で有効となる。
そして、人生戦略に思考が及べば、今やることの優先順位を考えずにはいられず、今宵も眠れそうにない。寝不足こそ、思考を鈍らせる最大の敵にもかかわらず。なので、Aha! でも読んでストレス解消といきたい...

1. 組合せ論について
タイル貼りの問題では、正方形のパーツを並べていく分にはなんの悩みもないが、長方形となるとちと悩んでしまう。不規則な敷地をきちんと埋め尽くせるか?の問いには、その証明を奇数パリティを用いてエレガントにやってのける。
また、誤った錠剤の入った瓶を探す問題では、基数システムと結びつけて簡単に解決して魅せる。二進数と結びつけて。整数ならば、どんな数でも 2 の累乗で表すことができ、二進法はコンピュータ工学では欠かせない道具だ。こうした思考法は、デジタルシステムの誤り訂正システムでよく使う手である。
おまけに、トーナメント表で不戦勝者の数を決定する問題では、データソーティングと思考が同じときた。
組合せ論では、すべての組合せパターンを抽出し、それぞれの事象にとどまる可能性を探る。その意味で、最悪から逃れるためのパターン検索、という見方もでき、ここに確率論の本質を垣間見る。つまり、生き延びるための事象はどれか?という意味で。
そして、組合せによってグループ化や階層化する戦略は集合論にも通じ、組合せ論、確率論、集合論の三つの原理が切っても切り離せない関係にあることを味あわせてくれる。

2. 幾何学について
図形には、対称という美の概念がある。それは、形を移し替えても、幾何学的性質はそのままというもの。ユークリッド幾何学では、移動、回転、反射、拡大縮小といった操作を行った時に形の不変性を問い、アフィン幾何学では、形がある方法で引き伸ばされた時にベクトル的な不変性を問い、位相幾何学では、ゴム製の物を変形させるように乱暴にゆがめても、その基本的性質の不変性を問う。
さて、よく見かけるケーキを平等に切るといった問題では、差分法的な発想が登場する。微分の基本的な思考がこんなところに。ただ、誰も不平を言わないように切る実践的な方法となると、切る人の選択権の優先順位を下げるのが有効となろう。人間社会では、完全な平等よりも、平等そうに見える方が、はるかに重要なのだ。
極点を周遊するパイロットの話では、航程線(等角航路)という面白い曲線を扱う。到着場所は極点に収束することに。
元の鞘に収まるという話では、直線の剣ならば間違いなく鞘に収まるが、曲線ならばどこまで許容できるだろう?と問えば、近代科学で重要視される螺旋形が浮かび上がる。それは、自然界にあふれる形で貝殻や植物などに見つけることができ、DNA の分子構造もこれに従う。
ただ、螺旋構造は必ず右巻きか左巻きで規定されるので、対称性という観点からはどうであろう。人間社会には、実に多くの右巻きの概念が溢れている。時計回りに、ネジ、ボルト、ナットなど。そして、理髪店の看板も右側に登っていくように見える。回転軸に対して並進という意味で、やはり対称性を保っている。ちなみに、酔いどれ天の邪鬼のつむじは左巻きかは知らん...

3. 数論について
n への昇華を求めれば、n の呪縛に嵌まる。自然数の呪縛ってやつに。数え方のトリックでは、加算、減算、乗算、除算の四つの演算が、人間社会で主役を演じている。
しかし、だ。コンピュータの世界では、第五の演算と呼ばれるモジュロ演算こそが主役!数え方の合理性という意味では、人間はあまり合理的な存在ではないということか。
本書では、列をつくって行進する時に、最後尾に何人残るかで、全体の人数が簡単に把握できるという発想を魅せつける。何人の列にするかが、何を法とする剰余演算と等価になる。この思考法は、孫子の剰余定理としても知られ、数の循環性という性質を利用したもの。
ちなみに、孫子の兵法の孫子とは別人で、古代中国の数学書「孫子算経」に掲載される。
宗教的な匂いがプンプンする古典的な問題「ヨセフスの問題」もまた、数の循環性を問うものとして知られる。
また、n 個の物を m 個の箱に整理整頓する考えを、数学者たちは「鳩の巣原理」と呼ぶ。そう、あのディリクレの編み出した思考法だ。そこには、一対一で対応できない無限集合の影がつきまとう。
さらに、互いの数が素であるという性質が、時計の長針、短針、秒針が一致する時間が、12時以外にはないことを簡単に証明してくれる。
なるほど、モジュロ演算、ヨセフスの問題、鳩の巣原理、互いに素といった概念を数の循環性という観点から念じれば、一つの強力な道具が見えてくる。今日のネット社会を根本から支えてくれる暗号システムが、それだ。エラトステネスの篩のようなアルゴリズムは、古代数学者たちによって示されてきた。まさか!素数の発見者が、21世紀の暗号システムで根幹をなすとは思いもしなかったことだろう。さらに素数定理の精度が上がり、ゴールドバッハ予想までも凌駕すれば、人間社会はどうなるのだろう... と夢を膨らませずにはいられない。

4. 論理学について
論理的思考では、おそらく演繹的な思考が王道なのであろう。しかしながら、帰納的な思考がなければ、現実社会を生き抜くことは難しい。
帰納法という用語には、本質的に二つの意味があるという。科学的帰納法と数学的帰納法である。科学的帰納法とは、特定のものを観察することから、普遍的な結論へと飛躍するプロセスである。例えば、何羽かのカラスが黒いという事実を認めれば、すべてのカラスは黒いという結論を導く。もちろん、この結論は確実なものとはならないし、一つの例外が認められれば、この法則はおじゃん!
対して、数学的帰納法は、科学的帰納法とはまったく違い、すべて演繹的な思考で導き出され、その法則の可能性は無限までも凌駕しうる。神をも凌駕しようってか。ただ、演繹的な思考で導くのに、帰納法とは、これいかに?
ところで、論理学の言い回しでは、なぞなぞのような紛らわしい記述によく出くわす。法律の条文、定義、規格といった記述にも顕著に現れ、政治屋ならこれを利用しない手はない。
本書は、ディスコのチークタイムで男女の組合せを扱う問題で、パターンを視覚化する「チャートメソッド」という概念を持ち出す。コンピュータ工学を学べば、カルノー図やクワイン・マクラスキー法といった論理式を簡略化する方法に出くわすが、これらに通ずるものがある。
形式論理学の基本的な形に、二元的な関係がある。もし... ならば... という文章の形が、その典型例。論理の基本構造は、二分岐で組み立てられ、条件の階層化によって複雑な論理回路を構成していく。
したがって、データ構造と分岐構文を理解できれば、ほぼプログラムが書けるだろう。分岐構造を持たないプログラム言語をおいらは知らない。とはいえ、プログラミング言語を操る上でデータ構造を理解することが、なかなか手ごわいのだけど...

5. いまさらだけど... 感動!

「リングの面積は、リングの内部のひくことのできる最長の長さを直径とするような円の面積に等しい。」

この驚くべき定理は、円の面積を求める公式で簡単に証明できる。内側の円の半径を、最小値に近づけ、ゼロとなったらどうなるか?と考える。すると、内側の円に外接する弦の長さが直径と同じになる。
すなわち、弦の長さが分かれば、どんな円であろうと、リングの面積が分かるという寸法だ。おそらく義務教育の時代に出くわしたような気がするが、いまさらながら感動してしまう!




6. 少なくとも一つは... という型の問題
この類いの問題は、昔からある楽しい数学のパズル。本書は、よくある問題として、レストランで帽子を間違える話を紹介してくれる。
不注意なクローク係が、番号札と帽子の組を合わせず、出鱈目に番号札を渡してしまったとさ。少なくとも一人が帽子を返してもらえる確率は?この確率は、帽子の数が大きくなるほど、ある値に近づくという。

  1 + (1/e)、つまり 1/2 強に...

e とは、ネイピア数で、この無理数が誤り率の限りない答えを示していることに、なんとなく惹かれる。
ちなみに、数学界には、二つの超越数の派閥がある。円周率π派と、ネイピア数 e 派である。誰がどちらの派に属すかはすぐに見分けられる。酔いどれ天の邪鬼は、e 派だ。その証拠に、脚線美に自然美の対(つい)を感じる。断じてオッパイ星人ではない...

2018-04-01

超自然主義を見た... 人生はノーパンだ!はかない...

今日、四月一日、午前四時... ステーキハウスでこってりとした朝食をとり、いつもの一日が始まる。脂ぎった精神には、ジューシーな脂肪分を摂取せねば...
ポータルサイトを訪れては、右から左へ流れていく情報の群れ、群れ、群れ... そして、じっと手を見る。我、退屈なり!
物憂い小春日和が、すべてを物語っているではないか。劇的なドラマなどあろうはずがないと。ちょっとした変化に期待しても、想定外の変化は迷惑千万!最後の砦を頑なに守ろうと必死だ。自我という砦を...

すべてを曝け出し、自然体でいることが、如何に難しいか!これを素直に実践できれば、思考の柔軟性を富ませるであろうに...
おいらはポーカーフェースが苦手だ。シリアスな顔は1分ともたない。慣れない筋肉を使えば、顔の筋肉がつる!自然体を体現するには、まずは力まないこと。まずもって自己を欺瞞しないこと。だが、自分に嘘をつかないで生きることが、如何に難しいか!そもそも嘘をついていることに、自分自身が気づかないでいる。
むかーし、ノーパン喫茶というのがあったと聞く。ノーパンしゃぶしゃぶってのも耳にした。そんな専門用語を羅列されても、おいらには何のことやら?まったく縁がない!決してない!断じてない!
ちなみに、「忘れっぽい嘘つきほど、気の毒なものはない。」とは、F・M・ノールズの言葉だ。
自己とはなんだ?交通事故の類いか?欺瞞とはなんだ?銀杏の類いか?夜の社交場で出会い頭に店に入ると、いつも乾き物をつまんでいる。
すべてを曝け出し、自然の姿のままでいることが、如何に難しいか!いくら仕事場が完全個室で、生まれたままの姿でいられるとはいえ、玄関のチャイムが鳴るとパンツを履くのに大慌て。実に果敢ない!思考が集中していれば、我を忘れてスッポンポンでお出迎え。その時に限って女性のセールスときた。いや、セールスお断りを強烈にアピールできれば、OK!ある落語家は言った... 人生はノーパンだ!はかない!

1. フル思考とフルチン志向
ゲシュタルト崩壊を起こした今、夢も現実もごっちゃ。妄想に耽り、妄想が妄想を呼び、妄想の産物が煩悩を神格化させる。それでもなお、ナマの女体に遠く及ばないとは、どういうわけだ?
思考を自由に解放することが、如何に難しいか!思考の制御は実に手強い。集中力ってやつは、いつも気まぐれときた。思考の方向性を誘導することはできても、難題を本当の意味で解決するためにはフル思考を要請する。最も理想的な精神状態と言えば、フロー状態であろう。無我の境地に達することができれば、雑念が完全に消え去り、時間や空間を超越した快楽へ導かれる。
ただ奇妙なことに、着想が湧いて出る瞬間は、思考しようという思惑から解放された場面に遭遇する。トイレで遭遇するという人もいるが、おいらの場合はお風呂!気分転換にスパでオイルマッサージを受けていると、突然解決策が頭に浮かび、メモに走る。かのアルキメデスには、叫びながら浴場から素っ裸で飛び出したという武勇伝がある。ヘウレーカ!フル思考とフルチン志向はすこぶる相性が良いと見える...

2. 裸体族を夢見て...
かつて人間社会は自然界の一員であった。現在もそうなのかは知らんが、自然回帰への憧れとして、ヌーディスト祭りなるものが出現した。それは、現代社会がもはや自然には戻れないという絶望感の現れか?どこかに人工的文化に歯止めをかけないとまずいとの考えからか?ナチュラリストと呼べば聞こえはいいが、ヌーディストと呼ばれると赤面しちゃう。
自由な身体の文化は、十八世紀末にドイツで始まったと聞く。それは、工業化や近代化に反発する形で現れた。その伝統は、1927年に公開されたサイレント映画「メトロポリス」に通ずるものがある。近未来批判ってやつだ。ナチス時代に廃止されるものの、その後、アーリア人の身体を語る文化として復権したらしいが、七十年代の旧東ドイツで盛んになったとか。FNN ビーチなどは伝統精神を守っているようで、一度誘われたことがあるが、その精神が健在とはいえ、若者離れが進んでいるとも聞く。
やはり生まれたままの姿は、自然とすこぶる相性がいい。家の中でもフルチンでいたいが、家族がいればそうもいかない。一人暮らし時代の、あのぶーらぶらな生活が懐かしい...

3. 自然学は、やめられまへんなぁ...
天文学がまだ占星術の域を脱せず、ピュタゴラス教団が無理数の存在を隠蔽していた時代、科学的な知的探求は「自然哲学」と呼ばれた。「科学」という用語が広く認知されるようになったのは十七世紀頃、科学革命の時代になってからである。
アリストテレスは、「自然学」という大作を成立させ、形而上学を第一の哲学、自然学を第二の哲学とした。彼の運動論は、「存在」という観念的な上位概念から発しており、実際、物質的存在を強烈に印象づける物理量が「重力」ってやつだ。命の重さを問うたところで、人間は明確な重さの尺度を持ち合わせていない。ひたすら自己存在の重さをアピールし、女性は天空の聖母に憧れて体重計の御前で存在の軽さを演じる。人間ってやつは、なにごとにも存在を意識した途端に、その存在意義を求めてやまない。そして、精神という得体の知れない存在を、形而の上に位置づけるのである。人間の存在が自然界の合目的に適っているか?って、そんなことは知らんよ。
そういえば、ある作家が、こんなことを言ったとか、言わなかったとか...
さて、諸君は自然哲学者と宗教家との違いをご存知だろうか。自然哲学者とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、真理が見つからないと嘆いては、弁証法級の屁理屈を並べて自己満足に浸る連中。宗教家とは、そこに存在しない黒猫を探すために真っ暗な部屋を覗き、それを見つけたと豪語しては、信じる者は救われると吹聴して回る連中... と。
ちなみに、「信じる者」と書いて「儲かる」となる。自然学にせよ、信仰にせよ、やめられまへんなぁ...

「満足は、自然の与える富である。贅沢は、人間の与える貧困である。」... ソクラテス

「自然によってつくられた、人間と野獣との違いよりもはるかに大きな違いが、教育というものによって、人間と人間との間にできるものである。」... ジョン・アダムズ

「すべては自然が書いた偉大な書物を学ぶことから生まれる。人間が造る物は、すでにその偉大な書物の中に書かれている。」... アントニ・ガウディ