2022-06-26

"貨幣改革論 若き日の信条" John Maynard Keynes 著

おいらは、経済学が大っ嫌いだ!義務教育時代に思いっきり劣等感を押し付けられた国語よりも。だがそれも、天の邪鬼な性癖が救ってくれる。
どんな学問であれ、專門知識の前では誰もが素人... そんなことを言ってくれた学者は誰であったか。元々数学者であったケインズも、一般理論の序文で、これを読むのは経済学の専門家であろうが、是非大衆にも読んでもらい議論に参加してもらいたい... といったことを書いてくれた。天の邪鬼でも、こうした言葉には素直に耳を傾け、勇気づけられるのであった...

さて、論語読みの論語知らず... という格言があるが、ケインズ知らずのケインジアン... というのも見かける。どんな理論にも的外れな批判はつきものだが、これに負けじと的外れな擁護派も湧いて出る。どんな学問分野にも、哲学を引き継がず、手段だけを持ち出す事例はわんさとあるが、特に経済学は顕著に現れる。この分野が人間学に根ざしているのを置き去りにして。いや、人間集団工学がそうさせるのか。
ケインズが指摘したように、マクロ的な視点とミクロ的な視点でまるで景色が違うのも、この分野の特徴である。彼が「貨幣改革論」を発表したのは四十の頃。経済学者としては遅咲きであったことも興味を惹く。経済学という分野は、專門に特化した高度な知識よりも、総合的な視野に立った知識のバランスこそが鍵となりそうな...
尚、本書には、「若き日の信条」、「自由放任の終焉」、「貨幣改革論」、「繁栄への道」、「戦費調達論」の五篇が収録され、宮崎義一、中内恒夫訳版(中公クラシックス)を手に取る。

「経済学者や政治哲学者の思想は、それが正しい場合にも間違っている場合にも、一般に考えられているよりもはるかに強力である。事実、世界を支配するものはそれ以外にはないのである。どのような知的影響とも無縁であるとみずから信じている実際家たちも、過去のある経済学者の奴隷であるのが普通である。経済哲学および政治哲学の分野では、二十五歳ないし三十歳以後になって新しい理論の影響を受ける人は多くなく、したがって官僚や政治家やさらに煽動家さえも、現在の事態に適用する思想はおそらく最新のものではないからである。しかし、遅かれ早かれ、良かれ悪しかれ危険なものは、既得権益ではなく思想である。」
... 「一般理論」より

本書の流れは、こんな感じ...
まず、「若き日の信条」では、G.E. ムーアの「倫理学原理」とラッセルの「数学原理」に没頭した熱き日を振り返り、ベンサム主義嫌いを露わにする。若き日のケインズの眼には、功利主義が弱者切り捨ての論理に映ったようである。
そして、「自由放任の終焉」では、マクロ的な貯蓄や投資の調整、あるいは、適切な人口政策を説き、「貨幣改革論」では、金本位制を猛烈に批判し、物価安定のための管理通貨制度の導入を提言している。当時、大蔵大臣だったチャーチルは、真面目に金本位制への回帰を唱えていたらしい。

「保守主義と懐疑主義はしばしば結託するものであるが、おそらくは、そのうえに迷信まで加わって、金はなお色香衰えず魅力を保っているのである。十九世紀の変動のはげしい世界にあって、金がその価値の安定の維持に成功したことは、確かにすばらしいことであった... だが、将来の状況は過去の状況とは異なる。戦前に均衡を保たせた特殊条件が継続すると期待する十分な根拠はないのである。」

また、アメリカ政府のドル本位制には皮肉を交える。金本位制を維持すると宣言しておきながら、実のところ、金の価値にドルの価値を一致させるのではなく、ドルの価値に金の価値を一致させるために巨額を投じていたという。現在でも、世界通貨という地位をめぐって様々な駆引きがあるが、大国の論理というヤツか...

「口先だけで金本位制を維持していた最後の国で金の非貨幣化が行われたのであり、黄金の仔牛に代わってドル本位制が祭壇に安置された... これは、新しい叡智と古い偏見とを結びつけることが可能な富裕な国のやり方である。」

「繁栄への道」では、公共投資による需要創出の効果と、さらに、各国政府が協調できる世界経済会議の開催を提案している。
五篇に渡って、総じて論じている点は、経済状況に応じて、政府がなすべき基準を定めよ!といったところであろうか。経済政策を論じる場面というのは、たいてい不況局面であろうし、政府の役割が大きくなるのも頷ける。言い換えれば、経済循環がある程度機能している時は、政府は口出しすな!とも解せる。
しかしながら、政治家ってやつは、いつも存在感を強調したがる連中で、好況な局面では地元選挙民へ予算を捻出したり、同調できる政策であっても他人がやると反対する立場をとったりと、なんでも自分の手柄にしないと気が済まないと見える。政治ってやつは、本来は裏方の仕事であり、やたらと政治家が目立つ社会は、あまり健全とは言えまい...

ところで、ケインズは、大きな政府論者の代表のように言われるが、それは本当だろうか。公共事業の推進者、あるいは、バラマキ政治の代弁者のような言われよう。
確かに、大きな政府は累積する財政赤字の元凶となるが、経済危機や大恐慌のような局面では、強力な指導力を持つ政府が必要となる。景気には波があり、どんなに好況であっても不況の業種が必ず生じる。一時的な傾向に無理やりケインズ理論を適応し、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。「戦費調達論」では、彼自身も愚痴をもらす...

「私は、自由社会に全体主義的方法を適用しようとするものだという攻撃を受けてきた。だが、これほど見当違いの批判はありえない。全体主義国家にあっては、犠牲の分配という問題は存在しない。それは全体主義国家が戦争の際に有する本来の利点である。政府の任務が社会的正義の要求によって複雑になるのは、自由社会においてのみである。奴隷国家にあっては、生産のみを問題とすればよいのである。貧困層や老年層は運を天にまかせるほかない。支配階級が特権をほしいままにするうえに、これほど都合のよい制度はない。したがって、本書の目的は、自由社会の分配制度を戦争の制約に適合させる方法を探すことである。」

ケインズが、戦争経済という概念を唱え、経済的に犠牲の再分配を論じていたというのは興味深い。結果的に、「戦費調達論」はヒトラーの手で実現されたとの評価もあるが、そう単純ではあるまい。
ちなみに、当時の日本には、戦争経済なんて概念すらなかったであろうし、情報に疎い体質、または、情報が希望的観測に利用される様は、現在でも伝統的に受け継がれているように見える...

ケインズ理論は万能ではない。というより、人間学において万能薬というものは、おそらく存在しないだろう。
例えば、日本では、バブル崩壊後、長期不況の中で金利が低下しても、物価水準は低迷したまま。ゼロ金利政策を打ち出したところで、デフレと不況の同居という難病を抱えている。その処方箋は、より大規模な財政政策を発動すべきか?それとも、日銀がインフレ率に大胆な数値目標を掲げ、なんでもありの金融政策によって実質金利をマイナスまで引き下げるか?あるいは、まったく別の視点から、構造改革を地道に推し進めて潜在能力を引き出すか?
こうした現象は、ケインズが想定した恐慌や失業とは別物のように映る。実際、金利がマイナスにまで低下しても、民間投資や個人消費が停滞を続けるなんて、誰も想像できなかったであろう。右肩上がりで邁進してきたツケのような。豊かな社会が引き起こした反動のような。あるいは、戦後、八千万に満たなかった日本の人口が、一億二千万まで増幅したことへの警鐘のような...
人間ってやつは、金銭的な欲望がある程度満たされると、別の欲望が芽生えはじめる。それが、より高度な欲望への移行か、低欲望への回帰かは知らんが...

2022-06-19

"経済分析の基礎" Paul A. Samuelson 著

「数学は言語なり」... J. ウィラード・ギィブス

これは、おいらが信奉している格言の一つ。まさか経済学の書で出くわそうとは。しかも、表紙をめくったら、いきなり掲げてやがる。
米国大学院では、一年目に理論とそれに付随する数学の修得に向けられ、「経済分析の基礎」は、第一に読むべし!とされるものらしい。ポール・サミュエルソンといえば、「経済学」という教科書的な大著があるが、これと並び評されるとか。
しかし、こいつぁ、本当に経済学の書であろうか。ルシャトリエの原理、オイラーの定理、ヤコービ行列、クロネッカーのデルタ、ラグランジュの乗数... と並べ立てられ、おいらの眼には解析学の書に見えてならない...
尚、佐藤隆三訳版(勁草書房)を手に取る。

数学には、連続性を保つ物理現象を扱う強力な道具に、微積分とやらがある。微分は、その時点における方向性や傾向を察知するのに役立ち、積分は、大きな流れや長期的な展望を掴むのに役立つ。経済現象は、ある種の社会現象で、そのほとんどが連続性に看取られている。たまーに、天災や人災によって、大恐慌やハイパーインフレなどの不連続な現象があるとはいえ...
景気には、必ず波が生じる。好況であっても、不況の業種が必ず生じる。一時的な流れに無理やり政策を施したり、特定の業種に助成金をバラ撒いたりすれば、経済全体を歪めてしまう。重要なのは、経済危機のような状況を未然に防ぐこと。そのために健康状態を常にモニタし、経済分析を怠るわけにはいかない。

本書は、この積分と微分の特徴に対応させて、静学と動学の観点を導入し、これらを協調させる様子を物語ってくれる。静学的観点では均衡状態を基底にし、動学的観点では、ある均衡状態から別の均衡状態への移行と見なし、比較静学と動学とが矛盾しないばかりか、相性の良さが論じられる。均衡状態からの移行を察知するには、数学的には、基準となる均衡状態から乖離する条件とパラメータを模作することになる。そして、「線型動学的体系」という用語の元で、重畳定理を基本に据えている。
経済理論ってやつは、人間の行動パターンに関して、合理的な経済人とやらを想定しがちだが、ここでは厚生経済学の立場から、その意義をアダム・スミスの道徳哲学に求めたり、均衡状態としてマルサスの人口論に触れながら、最適人口にも言及される。

また、ケインズ体系を単純化して、三つの変数、利子率 x1, 所得 x2, 投資 x3 に対して、三つの方程式、流動性選好 f1, 資本の限界効率 f2, 消費性向 f3 を配置し、符号だけで行列式を記述するだけでも、かなり経済動向が見て取れる。状態移行サインモデルとでも言おうか...

(sign fji) = + - 0
- + -
0 - +

ところで、微分と積分は、見事な対称性をなす。数学的対称性は、直交性として現れ、解析学には欠かせない性質である。
尚、直交性とは、幾何学で言うところの直角を、代数学的に抽象化した概念である。
本書にも、ちょいと顔を出すフーリエ解析にしても、正弦波と余弦波が美しい対称性をなす。数学的対称性があらゆる分析に有効なのは、物理現象を成分で分解し、互いの成分で打ち消す作用があるからである。ある現象を微分したものは積分すれば元に戻るし、積分したものは微分すれば元に戻る。物理現象を記述するのに、微分方程式ほど便利な道具もあるまい。便利だからといって使いやすいわけではないけど。そればかりか、使い方を間違えると大変なことになるけど。
こいつの組み立て方は簡単で、すべての変数を抽出し、各々偏微分した項の総和で記述できる。組み立て方が簡単だからといって、解くのも簡単というわけではないけど。
金融屋が群がるデリバティブ評価で有名なブラック・ショールズ方程式にしても、微分方程式である。

しかしながら、方程式には魔物が棲む。そう呼ばれるだけで、明確な答えが得られると錯覚しちまう。やはり微分には、方向性や傾向を嗅ぎ取るぐらいの役割にとどめておく方が合理的であろう。大局的に眺めるには積分で...
微分方程式の厄介なところは、初期条件と境界条件の見極めの難しさにある。経済理論では、多くの場合、均衡方程式に対して極大値や極小値を仮定する。企業戦略で利潤の最大化を想定したり、生産コストを最小で見積もったり。
その瞬間、瞬間に、最高な解を求めようとするから見誤るリスクも高くなる。幸福度ってやつは、ちょいと幸せぐらいがいい。幸せ過ぎるとツケを払わされることに。均衡状態において、軽いインフレが望ましいのは、そういうことではあるまいか。
金融市場にしても、大きく儲けようとはせず、損しなきゃええや... ぐらいの気持ちで参加する分には、そんなに居心地の悪い場所ではない。
但し、分析では、その瞬間、瞬間で最適化を試みるべし。この機会に自ら構築したポートフォリオと... にらめっこしましょ、笑うと負けよ!

2022-06-12

"法の原理 人間の本性と政治体(コモンウェルス)" Thomas Hobbes 著

トマス・ホッブズは、権威主義や絶対君主制の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。政治体制は、アリストテレスがやったように君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、どれも根本原理は同じはず。つまりは、人間の本性に則ったシステムでなければ機能しないってことだ。ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼なら、民衆も狼ってか...
歴史を振り返れば、君主制は専制政治や独裁政治へ、貴族制は寡頭政治へ、民主制は衆愚政治へと変容してきた。ただ言えることは、民主制は貴族制よりマシだった、君主制より遥かにマシだったということぐらい。いまだ人類は、崇めるほどの政治体制を手に入れられずにいる。ならば、政治体制を問うより、統治そのものの在り方を問う方が合理的やもしれん。それは、人間とは何かを問うことになろう...
尚、田中浩, 重森臣広, 新井明訳版(岩波文庫)を手に取る。

本書には、「自由」という言葉が散りばめられる。それは、人間が人間たるに最も必要な要素ということらしい。アリストテレスは、民主制の原理を自由精神に求めたが、ホッブズもこれを継承していると思われる。
但し、自由には制約がある。他人の自由を侵害しない程度に自由。この限りにおいて、平等と両立しうる。
そのための指針として、本書では自由精神と自然状態の考察に半分以上が割かれる。理性が命じる自然法が生起する様、あるいは、自然的人格によって生じる信約といったものを政治的人格に対応づけながら。自由といっても、個人の抱く自由は実に多種多様で、一筋縄ではいかない。だからこそ、人間の本性から論ずるべき、というわけか...
そして、その自然法から導かれ、それを補完するための市民法の在り方を考察する様を、前記事で触れた「市民論」の姉妹書として眺めている。コモンウェルスの成員相互の安全だけでなく、共通の敵に対する安全保障までも視野にいれるあたりは、やがて訪れる近代国家への布石か。いや、怪物リヴァイアサンへの布石か...

法の原理を問うにしても、対象のほとんどは愚人であり、戒律というより刑罰によって機能する側面が大きい。そもそも法とは、命令であり、自由とは対極にある。
それでも、市民法が自然法に適って制定されていれば、自由と矛盾しないばかりか、うまく適合できるという。自然法とは、道徳哲学を総括したようなものか。
本書は、自然法を聖書の言葉で確証しているが、宗教に頼るところに法の限界を見る。自由は自発的な情念に発するが、宗教は自発性としばしば対立するばかりか、盲信を歓迎する。
古来、知識は宗教と反目し、迫害の対象とされてきた。異端書とされたグノーシス文書、コンスタンティノープルで焼かれた多くの書物、知の女性ヒュパティアの虐殺など、枚挙にいとまがない。キリスト教の迫害を受けなければ、科学の進歩は千年早まったとも言われる。ホッブズは、異端審問にかけられたガリレオとも交流があったようで、当時、公にされなかったらしい。繰り返される記憶と知識の抹殺。これも人間の定めというものか...

ホッブズは、人間の弱さを指摘しながら、自発的に生きることを奨励する。評判に頼るのは、成功を遂げても自分自身の力によるものではない、と。術策や虚偽に頼るのは他人の無知に依拠している証である、と。怒りっぽいのも、祖先を自慢するのも自律性に欠ける、と。自分より劣った人と反目したり争うことも、戦争を終わらせる力が欠如している、と。つまりは、これらは自分の意志で生きていない証というわけである。
民主制を機能させるための重要な要素に、統治者の説明能力というものがある。ただ、雄弁とは、話を信じ込ませる能力にほかならず、宗教と似たところがある。現在でも、プレゼンテーションなどとスマートに呼ばれ、絶大な評価を受ける。自分の意志で生きていれば言葉に惑わされることもなかろうが、よほどの修行がいる。扇動者にとって、意志を持たない者が意志を持ったつもりで同意している状態ほど、都合のよいものはない。

ホッブズは断じる、「民主政は、実際には演説者から成る貴族政である」と。そして、統治者の力を強力なものにせよ!権力を集中させよ!承認された統治者の行為が罰せられることもない!と。このあたりの言葉を拾えば、絶対君主制の支持者と言われても仕方があるまい。
しかしながら、統治の正当性においては、国家は人民の合意によって構成されることを大前提とし、人民の生命の安全を保障することを最重要事項に掲げている。「統治の信約は、強制力が与えられていなければ安全を保障できない...」と。「安全の保障がなければ、いかなる私的権利も譲渡できない...」と。「民衆の福祉は至高の法という一語に尽きる。そしてこの言葉の意味するところは、民衆の生命の保存というだけではなく、一般的には民衆の便益と福利であると理解されるべき...」と。
結局、法の制定においては、政治体制を見るより、人間を見よ!ということか。これぞ、法の合理性というものか...

ところで、伝統的に哲学者たちが唱えてきたものに、徳治主義ってやつがある。そりゃ、清廉潔白で公明正大な統治者が居れば、それに越したことはない。この世にそんな人物が居たとしても、それを引き継ぐ者は愚人。理想郷は現実世界を歪め、却って厄介となる。
人間社会は、実に多くのパラドックスに看取られている。政治屋が不公平な社会制度を乱発すれば、金融屋が世界規模の経済危機に陥れる。愛国主義者が敵国をでっち上げれば、平和主義者もまた戦争や紛争を黙認する。教育屋は教養を偏重させ、友愛者は愛を安っぽくさせ、有識者は知識を振りかざし、理性者までも批判の言葉を浴びせかけ、大衆はというと誹謗中傷の嵐に煽られる。言葉ってやつは、学問を可能ならしめるが、その効用は、相互の情念を扇動することも、鎮静することもできる。
また、人間ってやつは、大きな権力を手にすると、必ずと言っていいほど傲慢になる。しかも当人が、それに気づかない。こうした性質は、人間らしさでもある。
感情を持ち、情念を持つことが、長所であり短所あるからには、理性や知性では解決できない領域がある。その領域では、理性や知性は却って論争の道具とされる。相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体にとっては、長所と短所、善と悪、正と邪といったものが、協調し、調和してこそ精神的合理性が得られるというもの。人間にとって自己評価ほど当てにならないものはないが、だからといって、それを怠るわけにもいくまい。この行為のみが自省へと導くであろうから...

2022-06-05

"市民論" Thomas Hobbes 著

人間どもは、人間にとって神か、それとも悪魔か...
人と人とが交流すると、互いに共感し合い、共同体なるものが形成される。だが同時に、互いに似た者同士が集まると、種族と種族とを比べ、国家と国家とを比べ、そこに優越主義が棲み着き、たちまち狼に変貌する。相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体には、何かと比べなければ意識すら働かせることができないのだから、それも致し方あるまい。
それにしても、人間どもの帰属意識は如何ともし難い。どんな善人でも、協調意識を煽り、同族意識を煽り、これに宗教心が絡むと、寄ってたかって自由と平等を奪い合い、残虐行為ですら平然とやってのける。どんな賢者でも、感情を理性と思い違いし、憎悪を判断力と履き違える。孤独を必要以上に恐れ、集団の中で自己存在を肥大化させる人間どもの性癖は、如何ともし難い。
そして、人間どもとは距離を置く方が合理的に見えてきますが、いかがでしょう... ホッブズ先生!

アリストテレスは、「人間はポリス的動物である」と定義した。ポリスとは、自由市民が形成する共同体のようなもの。この集団社会で問われるべきは、自由市民に適った法の在り方と、それが自由市民たちによって制定されるプロセスである。自由市民というからには、奴隷ではない。単なる奴隷の管理人でもない。自由ってやつは、なかなか手ごわい。誰もが権利として主張するだけに、余計に手ごわい。卓越した個人によって、ようやく見えてくる観念だけに、さらに手ごわい。市民全体に卓越性を求めるとは、アリストテレスも酷なことを...

トマス・ホッブズは、もう少し現実的に、自由、命令権、宗教という観点から「市民論」とやらを語ってくれる。それは、共同体の在り方を問うているようなもの。自由権の観点から、自然状態や自然法、あるいは契約の役割を論じ、命令権の観点から、国家の条件や自己存在とその防衛、あるいは、権力や権利が生じる原理を論じ、これらの正当性を、宗教、すなわち、キリスト教の教義に求めている。
まず、人間というものを問い、次に市民というものを問い、最後にキリスト教徒としてなすべき務めが叙述される。権利や正義の由来は、キリスト教の本質に基づいていると...
尚、本田裕志訳版(京都大学学術出版会)を手に取る。

ホッブズは、絶対君主権の擁護派とも言われるが、はたしてそうだろうか。確かに、権力者に強い力を与えよ... 権力を分割すべてきではない... といった記述を散見する。臣民はその権利によって暴君を殺すことができる... という誤謬から、どれだけの善人だった王の命を奪ったことかと嘆き、君主権の正当性をキリスト教の法に求め、証明までやってのける。やや強引に...
ホッブズが生きた時代は、清教徒革命、国王と議会の抗争から共和制の成立、クロムウェルの独裁、そして、王政復古に至る激動期。国王が狼とはよく言われることだが、ホッブズの眼には民衆も狼に映ったことだろう。
まず、人間社会には名誉や体面をめぐる争いがあり、内紛や戦争の種には憎悪や嫉妬が絡む。すべては、自己存在とその防衛に動機づけられる情念。理性があれば欠陥も見えてくるが、欠陥は非難の種となり、理性者の猛攻撃を受ける。彼らは、本当に理性者なのか。理性は抑圧とも相性がよく、強制執行にもつながる。
となれば、理性こそが揉め事の種か。いや、それだけではあるまい。知性もまた、相手を蔑む情念を駆り立てる。進化するためには疑問をもつことも必要だが、疑問を持てば不満も生じる。
となれば、無知の方がましか。いや、無知は無知で扇動の種となる。結局、どんな情念をもってしても、人間は揉め事がお好き!群がる習性は如何ともし難い...

「人間の心を苦悩によってさいなむことの最たるものは、あらゆる事物の不足、もしくは生存と品位を保つために必要な事物の欠乏である。そして、富というものは勤労によって調達され倹約によって守られなければならない、ということを知らぬ者はないにもかかわらず、窮乏した人々はみな、まるで私財をすり減らしたのは国の取り立てのせいであるかのように、自分の怠惰と贅沢から国家の統治へと過失を転嫁するのが常である。」

しかしながら、キリスト教の法は自然法であり、市民社会で平和を保つには自然法だけでは不十分である。無論ホッブズもそれを心得ているから、法の制定とその運営を論じている。ただ、市民論のようなものを語れば、共和制の機能性を唱えることになり、晩年は、王党派から裏切り者呼ばわれもしたようである。
国家形態は、君主制、貴族制、民主制の三つに分類できるが、権力と権利の在り方を問えば、どれも大して変わらない。仮に公明正大な君主がいれば、まったく問題なし。むしろ、民主制より機能するだろう。だが、権力ってやつは、一旦手に入れちまうと人を狂わせるもので、君主はことごとく僭主と化す。たった一人の君主でも不十分、周りが追従できる体制でなければ。となれば、理想高過ぎ感は否めない。
自然法は、民衆の合意事項ではなく理性の命令であり、なによりも自己に命令する。したがって、悪魔とは約定しないだろうし、啓示がなければ神とも約定しないだろう。こと集団社会では、理想が高すぎると暴走するもので、毒を以て毒を制すの原理が最も機能しやすい。これが権力分立の本音であろう...

道徳哲学者たちは、法の原理を倫理や道徳と結びつけて唱えてきた。自発的で自然な行為として、理性のないところに法の実践なし!と。
しかしながら、現実の法律は罰則によって機能している。自発的というよりは、受動的で、強制的で、威圧的ですらある。これに巻き込まれて、義務までも半強迫観念となる。
奴隷にも二種類あるらしい。信用されて多少の自由を享受する奴隷と、獄舎や足枷に縛られて労働を強いられる奴隷と。前者は主人に対して義務を負い、後者は義務なんぞ負う必要がないばかりか、義務なんて概念すら生じないだろう。自由市民はというと、やはり前者で、義務を負って自然法を遵守する立場。では、主人は誰だ?
自然法ってやつは、道徳法則のようなもので、これを機能させるには自分自身の持つ理性に頼ることになる。ただ、理性ってやつは脆い。実に脆い。自分の理性に自信を持った時点で、すでに理性は暴走を始めている。
しかも、理性は言葉と結びついて機能するだけに、言葉の道具にされやすい。似た用語に正義ってやつもあるが、これも扇動者の言葉の道具として悪名高い。ネット社会ともなれば、こうした言葉は気晴らしの道具とされ、言葉の嵐が吹き荒れる。
結局、神の言葉に縋るしかないってことか。しかし、神の言葉を耳にするには、資格がいるらしい。というより、神という概念を編み出したのは、人間の弱さの証しであろう...

「自然状態、すなわち統治することもされることもない人々の状態がそうであるような絶対的自由の状態とは、無政府状態であり敵対的状態であること、そのような状態を避けるための規制が自然の法であること、国家は最高命令権なしには存在することができないこと、最高命令権を保持している人々には、端的に、言いかえれば神の命令に反しないすべてのことに関して、服従しなければならないこと、これらのことは本書のここまでの部分において、合理的根拠と聖書の証言によって立証された。市民の義務の完全な認識のために欠けていることは、神の法ないし命令とは何かを知るという、この一事である。」