2022-10-30

"エリア随筆" Charles Lamb 著

書き手が名乗る時、なにも本名である必要はあるまい。作者不明の名作もあれば、匿名の名文も見かける。アリスを書いたルイス・キャロルのように、ペンネームというやり方もある。名を隠し、虚空の人物になりすまし、筆の走るままに書く。人間ってやつは、仮面をかぶると自由になれるらしい。自ら演じた醜態を遠近法で眺め、羞恥心と距離を置けば、どちらが本当の自分なのやら。自己責任論を免れ、めでたしめでたし!
トム・ソーヤーを書いたマーク・トウェインもペンネーム。彼は、こんな言葉を遺した。「人間は顔を赤らめる唯一の動物である。あるいは、顔を赤らめる必要のある唯一の動物である。」と。これが、書き手の定めか。そして、「エリア」とは、チャールズ・ラムのペンネームである...

尚、本書には、「人間の二種類」「除夜」「不完全な共感」「近代の女性崇拝」「夢の中の子供たち - ある幻想」「遠方の友へ」「夫婦者の態度について - ある独身者の不平」「退職者」「結婚式」「酔っぱらいの告白」「俗説 - 悪銭身につかずということ」の十一篇が収録され、平井正穂訳版(八潮出版社)を手に取る。

退屈な日常までも物語にしちまう文才。幸せな人間に、こんな芸当ができるはずもない。自由奔放な筆さばきに魅せられれば、不幸な人間という自覚もなさそうだ。不幸な自分を愛し、不幸な自分に酔い、自分の傷を舐めるように書く。狂人ゆえ書かずにはいられない。発狂を抑えるために。随筆家とは、人生の達人であろうか。自ら病的な性癖を認める能力、自身を知る能力があればこそ書けるのやもしれん...

1. 除夜に何を想う...
来る者を歓迎し、去る者は追わず。生きている時間が長くなるほど、流れゆく時間は相対的に短くなっていく。過去の時間が長くなるほど、新たなものに臆病になり、過去にしがみつく。如何ともし難い時間の流れに反感を覚える...
「一銭惜しみをする吝嗇家のように、一瞬一刻がついやされてゆくのに我慢ならないのである。歳月が細々と少なくなり、矢のように走り去ってゆくにつれて、私はその経過にいっそう大きな感心を寄せるようになったのである。」

2. 不完全な自我に何を想う...
ネット社会には、共感を求めてやまない輩で溢れている。類は友を呼ぶ... と言うが、哀れな自己に、くだらない個性を見つめては、共感できる者を探し求める。自我を克服するために、少しばかり強すぎる偏狭ぶりをほじくり返しては、自己否定に、自己欺瞞に、自己陶酔に、自己肥大に自我を追い詰めていく。不完全な完全主義者を装うのは至難の業だ...
「私という人間は偏見のかたまりなのである。好きなものは好き、嫌いなものは嫌いという人間、いわば共感の奴隷、無感の奴隷、反感の奴隷なのである。」

3. 独り身の嫌味ごと...
結婚式に出席すれば、孤独を忘れるひとときの喜びを感じるものの、高砂がやがて惰性となる愛の生け贄の祭壇に見えてくる。ブーケトスに幸せをあやかろうと群がれば、地獄への道連れかい。生涯、一人を愛し抜く自信がなければ、独身の方が誠実というもの。この寂しがり屋め!
「結婚というのはいかにも立派なものであるかもしれないが要するに一種の専売権みたいなものであり、これくらい不愉快なものもめったにない。独占的な特権をもっている者ができるだけその特権を他人の眼からみえないようにしておくというのがその知恵というものである。」

4. 退職後に何を想う...
だらだらと勤め上げ、自由に生きる能力を削られ、退職した瞬間に生き方を忘れちまう人は少なくない。時間が重荷なら、散歩でもして払いのけるさ...
「あの昔のバスティユ牢獄に四十年も幽閉されていて突然青天白日の身になった囚人みたいなものであった。」

5. 大酒飲み告白す...
酒の害は誰もが認める。治療法も簡単だ。だが、誰でも依存するものがある。会社や組織に、人間関係や集団社会に... 人との付き合いには、至るところに臆病の気持ちがつきまとう。モラリストどもよ。誰にでも自制がきかず、自省できないものがあると知れ!
「全面的な禁酒と、生命を縮める大酒の間に中庸の道はないものであろうか。」

6. 二つの種族...
人間には二種類あるという。借りる人間と貸す人間である。ゴート民族やら、ケルト民族やら、白人やら、黒人やら、そうした分類は些細なものらしい。そして、借り手を偉大な種族と呼び、貸し手は生まれつき下劣をきわめているとさ。借り手の方がはるかに優秀で、その態度には威風を感じるとさ...
貸し借りといえば、まずお金の関係を思い浮かべる。バランスシートは日本語では貸借対照表と呼ばれ、借方と貸方で記載される。経済学の格言によると、銀行家とは資金を必要としない人たちに、無理やり貸したがる連中を言うらしい。利息をつけるのも、貸す側。この行為を完全自由化すれば、社会には経済破綻者で溢れ、確かに、えげつない。ただ、借り手の無計画性は如何ともし難い。
貸し借りは、なにもお金だけではあるまい。人に親切を施せば、見返りを求める。親切は押し売りもされる。自分のものは自分のもの、人のものも自分のもの。自分の人生も、人の人生も、すべては自分のもの。人間の所有意識は如何ともし難い。多くの書物を所蔵し、自分で図書室をまかなえば、本を借りる達人に書斎を乗っ取られ...
「ある書物の所有権は権利の主張者のその書物に対する理解力と鑑賞力に正比例する。もしこの説を実行する限り、われわれの書棚のうち一つとして掠奪を免れうるものはないといって過言ではないのだ。」

2022-10-23

"愚者の知恵" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、いつの間にやら手にしてやがる。福原麟太郎という書き手は、智慧足らずを焚きつける達人とお見受けする。無い物ねだりは、人間の本能めいたもの。愚者だって、それなりにでも知恵を持ちたいと思う。だから焚き付けられる。
しかしながら、知恵を得るには知識がいる。根気もいる。好奇心だけでは心許ない。知識を得る手段は千差万別で、どれを選ぶにせよ、これまた知識がいる。
まず、手段の一つに、本を読むという行為がある。幸い、この行為にあまり抵抗がない。面倒いところもあるけど... 読書体力もいるけど...

「買わなくても、本の並んでいるのを見るのは愉快なものだ。古本屋は、ことにそうである。... たなをずらりとひと目で見て、買う本が一度に目にとまるという早業までに達しなければ、ほんとうの古本屋党とはいえない。そのくらいになると、念力で本を見つけるようになる。上中下三冊本の上と下は持っているが中はないというような場合、中だけ一冊ぽかり見つかるなどいう経験は、たれでも本好きなら持っている。」

そこで、合理的に良書を選びたい!となるが、それを嗅ぎ分けるにも知恵がいる。良書を良書にできるか、それも読み手次第。賢者なら、悪書までも自省にしちまうだろう。愚者とは、目の前の幸せにも気づかない愚か者をいうらしい。
クチコミやオススメの旺盛な社会にあって、それを鵜呑みにするだけでは芸がない。天の邪鬼だから無条件で反発する。そして、場末の古本屋に癒される今日このごろであった...

「人の推薦や批評が何かと役に立つものであるが、すこし本を読みなれるとよい本と悪い本という区別は、見た瞬間にわかるものだ。直覚的である。人に初めて会ったときの印象と同じである。もちろん、見当違いをすることもあるが、だんだん経験を積むに従って、当たることが多くなるものだ。当りはじめると得意になる。するとまた当たらなくなる。虚心ということがたいせつである。」

本書は、個人主義の視点から知恵というものを物語ってくれる。イギリス留学の経験から最先端の個人主義を通して、個人主義後進国の日本を振り返りながら...
とはいえ、本書が刊行された 1957 年当時、イギリスという国には、個人は立派でも植民地国家としては横暴というイメージが定着していたようである。

イギリス思想を代表する言葉に、「われ愚人を愛す」"I love a fool." というのを挙げている。チャールズ・ラムの随筆「万愚節」 "All Fools' Day." の中に出てくる一句だ。それは、1821年4月1日号のロンドン雑誌に掲載されたもので、"April Fools' Day" に掛けたものらしい。つまり、冗談の許される日というエイプリルフール思想は、人間は愚かであるからこそ、可愛く、可笑しく、愛すべきものという考えに発するというわけである。嘘をつき、騙すような言葉を冗談で笑い飛ばすには、ユーモアのセンスが問われ、まさに高度な個人主義が問われよう。
しかしながら、高度な情報社会では、誹謗中傷の嵐が吹き荒れ、エイプリルフール禁止令が出される始末。個性の発達がついて行けず、自由主義や個人主義を無理やり知識として詰め込んで様々な無理が生じる。真に四月一日を謳歌できる日は、まだまだ遠そうだ...

また、日本人全体が夢やロマンスを失いつつ、あまりにリアリストであり過ぎと指摘している。いかに生きるか、を問うて生きるのがイギリス流だとすれば、学歴や肩書の路線に乗っかるのが日本流ってところか。
個人の在り方を問えば、エゴとの結びつきは避けられない。だが、エゴを否定するばかりでは能がない。エゴを中心とする自我を認める訓練も必要であろう。
21世紀の現在でも、個人主義を利己主義と履き違える人は多い。科学の進歩が迷信の類いを衰退させ、現実主義を旺盛にしてきたのも確か。その分、仮想社会へ邁進すりゃ、世話ねぇや...

2022-10-16

"人生十二の智慧" 福原麟太郎 著

霧曇る秋雨前線を振り切って古本屋で宿っていると、智慧足らずを焚きつける奴に出会った。うん~... 天の邪鬼の眼には、「十二の智慧」というより、当時の社会風潮を皮肉った「十二の苦言」に映る。
その背景に、日露戦争から太平洋戦争までの暗黒の時代から、一変して高度経済成長に勢いづく時代へ... 戦争をやりたがっていた国民の意識が、一変して平和ボケへ... そんな変貌ぶりにギャップを感じつつ、「十二の自省」を重ねずにはいられない...

では、21世紀の現代を背景に眺めると、どうであろう。時代は、あまり変っていないようだ。どんなに技術が進歩しようとも、どんなにコミュニケーション手段を拡大させようとも、人間の根本までは変えられないということか。そればかりか、左右両極端の人間性を培養しているかに見える。古来、偉人たちが唱えてきた中庸の哲学が、未だ輝きを失わないのも道理というものか。そして、あらゆる進歩に精神がついて行けず、いつの日か、最後の一線を越えちまうのであろうか。人類の文明は、その輝かしい成功ゆえに滅びゆくのであろうか...

しかしながら、こんな観点から眺めるのでは、著者の意図から大きく逸脱するであろう。福原麟太郎は、十二もの題材を関連づけ、おおらかに語ってくれるが、おいらの色眼鏡のせいか、対立関係に見えちまう。本当のところは、人生の志に根ざした、もっと建設的な書であるに違いないのだけど...

「人が志を立てるというのは、何歳の時のことであろうか。五歳か、十五歳か、二十五歳か。そのいつでもありそうに思われる。三十五歳でも良さそうだ。事実、ぎりぎり切羽つまって来るのは、三十五歳であるかも知れない。あるいは、本当に志がきまってしまうのは、いつのまにか三十五歳に成った頃だといえば言えなくもない。」

尚、本書には、「志を立てること」「愛国心」「金銭について」「偽善と偽悪」「魅力ということ」「失敗について」「顔について」「旅について」「義理と人情」「タイミングについて」「徒党について」「交友について」の十二篇が収録される。

1. 志 vs. 愛国心
まず、人生における「志」というものを、孔子風に... 十五にして学び、三十にして立ち、四十にして惑わず、六十にしてようやく耳を得たり... といった感じで語り、次に「愛国心」を配置するところに、少々違和感を覚えたが、読み進めていくと、そうでもない。
愛国心とは、読んで字の如く国に根ざした感情で、本来は郷愁を覚えたりするものであろう。著者も、自然に根ざした感覚で、郷土愛の如く、素朴でセンチメンタルなものだと語ってくれる。
ところが、この言葉には、戦争と結びついてきた暗いイメージがつきまとう。国家主義や国粋主義と相まって。国家という概念はプラトンの時代からあるにせよ、十八世紀頃、近代国家の枠組みが成立して以来、大きく変貌したかに見える。愛国心という言葉のニュアンスも、この頃に変貌したのであろう。愛国主義者どもは、この戦争は平和のための戦争だ!戦争を殺すための戦争だ!などと叫び、必ず正義を掲げる。そして、市民は殺され、兵士は死んでいく。正義の殺戮なんてものが存在しうるのか。民族主義でも持ち出さない限り説明がつくまい。おまけに、戦争を非難しようものなら、裏切り者呼ばわれ。祖国に忠誠を誓うのと、権力に服従するのとでは、違うであろうに。
したがって、この言葉に警戒感を示す人が、科学者や文芸家の中に多く見られるのも道理である。失敗から学ぶことが多いことも確か。ならば、戦争からも学ぶことが多いはず。うん~... 人間社会という奇妙な世界では、すべての戦争は無意味とするぐらいの方が合理的なのかもしれんが、自衛権までも無意味とするわけにはいくまい...

2. 偽善 vs. 偽悪
偽善や偽悪には、異なるを欺く... といった感覚を覚える。善人なおもて往生を逐ぐ、いわんや悪人をや... という言葉も、なかなか手ごわい。悪人が善人の顔をすると最悪である。とはいえ、陳腐な偽善も装えないようでは、政治家は勤まるまい。
偽善家に対して、偽悪家というのもいる。人間には、本能的に悪に惹かれるところがある。ちょいワル親父を演じたり、昔はワルだったと武勇伝を自慢したり。芸術作品においても、神の崇高さをダイレクトに描くより、悪魔の神秘性をグロテスクに描く方が、高い芸術性を露わにする。

「偽善は罪悪が徳行にはらう敬意である。」... ラ・ロシュフコー

3. 成功 vs. 失敗
失敗のリスクを恐れるより、やらないリスクを恐れよ... 実践に価値を見い出せ... そんな助言は聞き飽きた。失敗を選択肢の一つとするには、勇気がいる。人間とは臆病なもので、できれば苦労は避けたい。そして、成功のためのハウツー本は、いつの時代も活況ときた。それは、成功のアウトソーシングか。
古くは、成功者と失敗者の区分けに階級意識というものがあり、現在では、勝ち組と負け組に色分けされる。高い階級を望むより勝ち組に属す方が、チャンスがある。
しかし、意識そのものは、大して変わらないようだ。面子がそうさせるのか。外ヅラがそうさせるのか。他人の目を意識しているとすれば、自立性に欠ける。人生は失敗であったかもしれん、と思うことはある。そして感傷に襲われる。おそらく人生とは、そうしたものなのだろう。なぁ~に、失敗者の僻みよ。

「運命を改ざんしようとするところに、ストイシズムの倫理が生れた。失敗するごとに立ち直って、理想とか希望とかいうものの方向に一生をもってゆこうとする努力が、先は、人間世界の花である。けれども、それには、この世の中にも、モラルというべきものがなければいけないようだ。成功というのは、図太く、無礼講、破廉恥を極めても、大金持や大臣になることを言う場合もあるが、失敗の方は、金をなくしたにしても試験に落第したにしても、立ち直るときは倫理的なストイシズムが要求される。失敗が教訓を齎すという所以である。」

4. 義理 vs. 人情
今のご時世、義理も、人情も、流行らない。どこか封建的で古臭い。義理は人との間に生じる。金を借りれば、返す義務が生じる。しかも暗黙に。踏み倒してもいいが、そこは義理。きわめて受動的で、後ろめたさのようなものを背負う。そして、義務へと昇華し、やがて強迫観念へと変貌する。
対して、人情は、人間の本能的な感情で、理論や形式を越え、自然に湧き出るもの。普遍的という形容もできようか。その意味で、能動的である。しかしながら、情けは人の為ならず... というように、結局は、見返りの原理に収まる。
人間社会とは、実に奇妙なもので、利己主義を激しく非難しながら、ほとんどの人が自分の利益のために行動している。無私の立場を称賛しながら、自己を捨てられないでいる。しかも、義理も、人情も、村八分社会と相性がいい...

5. 徒党 vs. 交友
徒党とは、嫌な感じの言葉。正しいものを曲げて、無理を通すために団結する... そんなイメージ。
対して、交友は、響きの良い言葉。とはいえ、真の友人を持っているか?と問えば、一人もいないような気がする。なんでも相談できる人はいない。親ですら当てにならんというのに。親友と呼べる奴もいない。ちょいと飲みに行くぐらいの連中ならいる。悪友と呼べる奴らならいる。そして、我らは徒党である...

「現代の人間は、組織の中の個人と、独立した個人とに分れる。これは、現代の避け難き運命であるようだ。何らかの意志を行おうとすると、独立した個人では駄目である。組織の中の器械的なデクの棒、組織的個人でなければならない。その組織的個人が器械的に組織に盲従していると、その組織は、容易に徒党化し、少数の人々の支配下に、正を曲げても恥とせず、私利をはかっても当然と考えるようになる。現代民主主義の危険は、そのようなところにあるのではないか。」

2022-10-09

"読書と或る人生" 福原麟太郎 著

本を読むことに愉悦を覚える人は、我流の読書論といったものが心の中に湧き上がるであろう。おいらが「本を読む」といえば、熟読を意味するが、そんな読み方はあまり合理的とは言えまい。人生は短いのだ!
ただ、貧乏性のせいか、買った本は隅々まで字を拾わないと気が済まない。そして、週に一、ニ冊のペースで読む。
本の虫!という形容もあるが、どのくらいの量を読めば、その称号に相応しいのであろう。或る大学の先生は、月に四、五十冊も読むと聞くが、よほどの奥義を会得していると見える。しかし、速読術は速愛術のようにはいかんよ...

読書に限ったことではないが、やはり習慣がモノを言うのでろう。一人の読書家を育てるにも、かなりの好奇心がいる。習慣さえ身につけば、最初の十ページでその本の読み方がだいたい掴めるようになるし、文章のリズムから斜め読みでも、読み飛ばしでも、要点を拾うことができるようになる。
それでも、おいらには速読は難しい。カントの批判書を速読できる才能は尊敬に値するが、羨ましいとは思わないし、プラトンの饗宴は速読できそうだが、そんなもったいないことを...

「よく、速読が良いか精読が良いかと訊ねられることがあるが、必要に応じて、どちらでもすぐやれなければ、どちらも役に立たない。... 精読も速読も、習慣の問題で、いずれも一種の才能である。精読しようにも、その習慣を持たない人は、読み方を知らないものである。」

読書には、まず、目的は何か?どの本を選ぶか?という問題がある。それは、百人百様。知識を得るため... 視野を拡げるため... 実利のため... 人生の糧として... など様々な動機があろう。丸谷才一は、こんな助言をしてくれた。「大事なのは本を読むことではなく、考えること。本は原則として忙しい時に読むべきもので、まとまった時間があったら考えよ。」と...
おいらの場合、なによりも好奇心の解放がある。そして、そこに本があるから... というのも付け加えておこう。要するに、目的なんてものは、あまり考えてないってことだ。娯楽を、そんな大層なものにしたくはないよ...
「明窓浄机」という言葉もあるが、あえて部屋を暗くし、LED ライトでページにスポットを浴びせ、さらに、BGM で気分を盛り上げ、酒で気分をほぐし、お香を炊いて心を癒す。こうした空間演出に自由ってやつを感じる。おいらにとっての読書のひとときは、五感を総動員する場であり、リラクゼーションの時間なのである。
それで、感動できる本に出会えれば、儲けもの。その一冊から引用や参考文献を辿れば、好奇心は指数関数的に増幅する。なので、おいらの ToDo リストの書籍欄は、いつも溢れてやがる。おかげで、退屈病を患うことはなさそうだ...

「無目的に読むなどいう言い方で読書家を定義づけるのは理屈である。本好きはそんなことを思ってはいない。銀行家でも看護婦さんでも誰でもいい。何も自分の職務上の参考にするというわけでなく、ただ、歴史の本だとか、小説だとか、詩集だとか、本を読むのが好きだから、あるいは、どんな本でも良い、本を読むのが、とにかく好きだからというので、かけ出しには及びもつかぬほど多量に本を読んでいられる、それが読書家といわれる人種なのだ。読書家は定義で始まるのではない。実践に始まる。」

本選びにも、流行を追うという本能めいた感覚がある。誰もが知っていることを知らないということは、不安に駆られるもの。情報の性質からして、誰もが知らないことを知っているということの方が希少価値が高いはずだけど。クチコミやオススメの類いが流布し、瞬時に拡散する時代に、こうしたものから目を閉じることは難しい。
情報の自由化は、偽情報の自由化でもある。必読書百選!といった類いの宣伝文句までも目につき、つい目移りしちまう。
そこで、古典という選択肢がある。時代の篩にかけられ、それでもなお輝きを失わないのが古典というもの。不思議の国のアリスだって、人生哲学を物語ってくれるし...
流行に惑わされず、自分の目で評価を見極められるようになるのも、やはり習慣ということになろうか。となると、「読書 = 習慣」という図式が出来上がる。「読書と或る人生」とは、或る習慣を身につける方法論を説いた書であったか...

「読書は満ちた人をつくる。」... フランシス・ベーコン

2022-10-02

"眩暈" Elias Canetti 著

原題 "Die Blendung..."
「眩暈」というより、「盲目」とする方がよさそうな...
とはいえ、細密な描写に執着する著述姿勢は、どこか異様で奇怪な人間模様を炙り出し、推理小説風の香気をも醸し出し、この常軌を逸した文面ときたら、めまいにも似た感動を禁じえない...

物語は、「世界なき頭脳」、「頭脳なき世界」、「頭脳の中の世界」の三部で構成される。タイトルも然ることながら、これほど中身と見出しの一致を試みながら読ませる書も珍しい。その珍味こそが推理小説風というわけだ。エリアス・カネッティという作家に、おいらはイチコロよ!
尚、池内紀訳版(法政大学出版局)を手に取る。

「世界は滅亡する!これが人間だ、悪党ばらが頭をもたげ、神様は眼をおつむりだ!」

主人公は、二万五千もの書巻を所蔵し、自前の図書室で研究することを生き甲斐とする孤高の学者。人間社会に息苦しさを感じ、書物の言葉を引く。孟子に、孔子に、ブッダに、プラトンに、アリストテレスに、カントに... 大人(たいじん)の風格と交わるうちに、小人(しょうじん)の知識欲が増していく。小人にだって自尊心ぐらいあるさ。
しかしながら、叡智は容赦しない。人間ってやつは、知らぬことはやらぬもの。それが盲目の原理であり、無知の原理。狂気した行動は漠然とし、矛盾ずくめ。それを語るに、同じ言葉を繰り返すことしか知らぬ。これを狂人というらしい。
ちなみに、正気とは、愚鈍の類いを言うらしい...

孟子曰く...
「かの者たちは行為しつつおのが行為の何たるかを知らぬ。習慣を続けながらその習慣を知らず、生涯、さまよいながらその道を知らぬ。しかるが故に群衆たるかれらは遂に群衆にとどまる。」

自らの狂気を認めるには、よほどの修行がいる。私が孤独だって?ならば、書物に囲まれた、この賑やかな空間はどうか?
そもそも、盲目に書物の意味はあるのか。いや、盲目だからこそ活字に飢える。高度な情報化社会では言葉が荒れ狂い、逆に言葉は貧素になる。皮肉なもんだ。貧素な言葉ばかりを目にすれば、心も貧素になる。皮肉なもんだ。これを盲人というらしい...

「盲目とは時間並びに空間に対する武器である... 宇宙の支配的な原則とは盲目にほかならない... 盲目があって初めて、もし互いに見交わすなら不可能なものが並び存在できる... 盲目を待ってようやく、元来なし得ないはずの時間切断の壮挙が可能になる... 自分は盲目を発明したわけではない。活用したまでだ。当然の権利だ。これにより見者(けんじゃ)は生きる...」

無言と沈黙は、まったくの別物。沈黙の意味を知るには、よほどの修行がいるらしい。因果応報の素朴な論理に立ち返るにも、よほどの修行がいるらしい。自己欺瞞を放棄するにも、よほどの修行がいるらしい。
孤独を生きる者にとって、人間関係ほど面倒なものはない。愛情と憎悪が、こんなにも近いものか。孤独への恐怖は、むしろ群衆の中にある。挙句、我が身を狂妄の焦土とする羽目に...

「気狂いとはおのれのことしか考えぬ者の謂である。して、狂気とは利己主義に下しおかれる刑罰だ。かくして精神病棟には国中の無頼の徒党が蝟集する。本来、これらを容れるに牢獄をもってすべきであるが、学問は研究素材として瘋癲院を必要とする。」

1. 世界なき頭脳
図書管理に雇った女性の丁重な書物の扱いぶりに惚れ、妻とするも、相続の権利を得るや、金の亡者に変貌する。蔵書は、総額でいくらになることやら。遺言書を書かされ、家からポイ!
蔵書をいくら溜め込んでも、知識をいくら溜め込んでも、活かされなければ宝の持ち腐れ。古本屋で売りさばく方が、よほど合理的であろう。下手に財産となるがために、乗っ取られようとは。図書室という聖域を侵され、生きる世界を失った孤高の学者の運命は...
「世界なき頭脳」というより「世界を失った頭脳」といったところか。いや、「世界を乗っ取られた頭脳」とでもしておこう...

2. 頭脳なき世界
家から追い出されると、今度は頭の中に図書室をこしらえ、理想郷を夢想する。せめて思い浮かべた蔵書一覧を満たすために書店を巡って買い漁ろうとすると、書籍商を名乗る人物に国営の質物取引所を紹介してもらう。しかも、その取引所は、「テレジアヌム」という奥ゆかしい名を掲げ、その名に惹かれて質入れされる書物を買い漁ることに生き甲斐を見い出す。すると、今度は偽客にカモられ、所持金を巻き上げられる始末。
ある日、書物を質入れに来た妻の姿を見つける。もみ合いになって守衛に引き立てられ、皮肉なことに、自宅?元自宅?の門番に引き取られようとは。頭脳までも失ってしまったか...

3. 頭脳の中の世界
門番に引き取られ、その住まいの覗き穴から人間観察という新たな生き甲斐を見い出す。そんな狂人ぶりを知った弟が、害となる兄の妻と門番を追い出し、かつての図書室を取り戻すも、今度は自ら聖域を焼き、蔵書もろとも燃え果てたとさ。
すべては頭の中で思い描いた世界、すべては妄想の世界、人生なんてものは、夢幻の如くなり...
「遂に炎が身体にとりついたとき、その生涯についぞなかったほどの大声で笑いころげた...」