2015-04-26

"マハン海上権力史論" Alfred Thayer Mahan 著

マッキンダーのハートランド理論は、ランドパワーの脅威に対抗すべく海洋国家の役割を論じた。その根拠というべきシーパワー理論の始祖、米海軍アルフレッド・T・マハンは、海軍戦略を語るに欠かせない人物として知られる。マハンの海上権益指向が、二つの大戦後、アメリカを世界の警察官を自認させるに至らしめたと言ってもいいかもしれない。大日本帝国海軍にも、その思想観念で大きな影響を与えた。日露戦争当時、東郷平八郎連合艦隊司令長官の先任参謀秋山真之は、アメリカ留学中にマハンに師事し、彼の著書「海上権力史論」と「海軍戦略」は海軍将校の必読書とされたとか。司馬遼太郎の長編小説「坂の上の雲」に登場する人物である。
海軍の伝統には、滅敵ではなく屈敵にあるという理念があり、その根拠とされるマハンの記述には、主力戦艦を撃滅すべきといった文面を見つけることができる。そのために、大艦巨砲主義や艦隊決戦思想の元凶がマハンにあると主張する軍事評論家もいる。確かに、軍事技術は進歩する。だが、主力が戦艦から空母に変わっただけのことで、主要目標が主力であることに変わりはない。原則に問題があったのではなく、適応に問題があったと言うべきであろう。
「戦争における諸条件の多くは兵器の進歩とともに時代から時代へと変っていくが、その間にも不変で、したがって普遍的に適用されるため一般原則といってもよいようなある種の教訓があることを歴史は教えている。」

ところで、「シーパワー」という用語も、なかなか手強い。直訳すると「海洋力」となろうが、単純に海軍力や制海権で定義できるような代物ではなさそうである。本書は二つの要素を挙げている。一つは管海能力、すなわち平時における海上管理と政治的支配海域。二つは制海能力、すなわち戦時における戦略上の勢力確保。「シーレーン」という用語も、その双方で用いられる。なるほど、自国防衛に留まらず、漁業権益の確保、海底油田や海底鉱物資源地帯の確保、経済水域の確保、あるいは、海洋調査能力なども含まれ、むしろ戦時よりも平時、軍事的要件よりも経済的要件の方が重視されるべきかもしれない。
「通商こそ真に強力な海軍の基礎であることは、何度強調してもし過ぎることはない。」

注目したいのは、17世紀の英蘭戦争から1783年のヴェルサイユ条約(アメリカ独立戦争の講和条約)に渡って繰り広げられたイギリス、フランス、オランダ、スペインの抗争物語を、シーパワーの観点から語ってくれることである。それは... 広大な植民地を保有するスペインと、海運力で世界貿易を牛耳るオランダがいかに衰退していったか。フランスが目の前にぶら下がっている海外発展の芽を、いかに自ら摘んでいったか。そして、イギリスがいかに七つの海を支配するに至ったか... の歴史物語である。
海洋国では、陸軍は敵の領土の制圧を目指し、海軍はそれを監視するというシビリアンコントロール的な立場がある。つまり、軍人としての眼よりも、極めて政治的な眼を養う必要があるということだ。陸軍的思考が目先の勢いに取り憑かれ、海軍的思考が貿易や外交的な視点に立つという傾向は、多くの国で伝統的にあるようだ。日本のある海軍士官はこんなことを漏らしたとか... 日本は自国民優越説だけを世論に植え付け欧米の歴史を軽んじた。敵と戦うのに相手の思考パターンを知らないでは、ねぇ...
国民世論も陸軍的思考に惑わされやすい。情報社会ともなれば、その傾向も逆転するかもしれないが。陸軍的思考と海軍的思考の対比は、愛国心的傾向とグローバリズム的傾向に通ずるものがある。商業や貿易の発達は、極めて自由精神との相性がいい。オランダの名目は連邦国であったが、事実上の共和国。1602年に設立した東インド会社は、ポルトガルから取り上げた領土を足がかりにアジアに一つの帝国を築いた。これに先んじて、1600年、イギリスは東インド会社を設立していたため、一つの懸念であったのは確かであろう。イギリスはまだ君主制であったが、清教徒革命や名誉革命を経て、議会と王族で互いに折り合いをつけていく。
一方、フランスはルイ14世による最高潮の栄華を誇っていた。イギリス国民はオランダの自由精神に好意的であるのに対し、イギリス国王はルイ14世の大陸の勢いに目を奪われる。政治外交の場では、陸軍力よりも海軍力の方が優勢となり、海洋力のバランスが国力の指標となりつつある時代。しかし、ヨーロッパの王侯たちは、そのことに気づいていない。気づいていたのは、商業国オランダと海洋民を多数抱えるイギリス国民だったようである。
本書は、シーパワーの一般条件に「地理的位置、自然的構造、領土の大きさ、人口、国民性、政府の性格」の六つを挙げ、さらに、「生産、通商、海運、植民地」という要素を加えて議論する。特に、国民性と政府の性格、すなわち民主主義や資本主義とシーパワーの相性を語っている点に注目したい。民主主義の精神は、自由にこそ価値を求めること、そして、資本主義の精神はリスクを覚悟しながらも冒険心を絶やさぬこと、といったところであろうか...
「国民の精神が十分に吹き込まれた国民の真の一般的性向を意識している政府が聡明な指導を行った場合に、最も輝かしい成功を収めている。」

1. 距離という概念
技術の進歩により、戦術に本質的な違いが生じるのも事実だが、距離の概念は本質的に変わらないだろう。人と人との関係、国と国との関係... 関係というからには、そこに距離の概念がつきまとう。それは、けして長さで測れるものではない。集団性ってやつは、近づきすぎれば一緒に狂気する。しかも、そのことに気づかない。人の心は不朽の原則よりも、目の前の現象に強く印象づけられるものだ。しばしば歴史から学び得ないのは、現象に目を奪われて感情論を掻き立てるからであって、人類や生命体の普遍性といった視点から観察しようとはしないからであろう。人間社会において民族優位説の類いは、永遠に廃れそうにない。軍事的な衝突は、まさに距離の関係から生じる。兵器の進化で射程距離がいくら延長されても、双方の相対的な位置関係が重要であることに変わりはない。
軍事技術の進歩によって、地理的優位性も変化していき、戦略的要地も変わっていく。しかしながら、地球の大きさは変わらない。となると、技術によって距離の概念を破綻させ、すべての関係までも破綻させるのだろうか?戦争をやれば、どちらかが勝つ。だが、戦争に勝っても人は死ぬ。いったい誰が勝っているのやら?勝利にのぼせ上がり、精神までも破綻させる。人類の歴史は、敗者の歴史なのかもしれん...

2. イギリスとフランスの明暗
1648年、三十年戦争の講和条約「ヴェストファーレン条約」で、オランダ連邦のスペインからの独立が正式に認めれるが、既に事実上の独立を果たしていたようである。神聖ローマ帝国はオーストリアとスペインで分裂状態にあり、スペインの弱体化が目立ち始める。イギリスはオランダの貿易と海洋支配を欲し、フランスはスペイン領ネーデルラントを欲す。英仏連合が、オランダを脅かし陸上からの攻撃に脆弱性を曝け出す。
本書jは、オランダは人口が少なく、商業的な合理的国民性が結束力を欠き、戦争準備には適さないと指摘している。オランダの弱体化は、宗教的な分裂も大きな要因であろう。ユトレヒト同盟で南北で分裂した経緯もある。
イギリスはというと、まだ君主制ではあったが、国王の指導力は低下。ヨーロッパ大陸はルイ14世を中心に回っており、フランスがシーパワーを強化するには絶好の舞台が整っていた。
しかし、ルイ14世は、二つの重大な誤りを犯したという。スペインが弱体化したとはいえ、ポルトガルの領有権を放棄したわけではない。そこで、イギリスとの政略結婚を推進した結果、イギリスにポルトガル領インドのボンベイとジブラルタル海峡のタンジールを割譲し、地中海に招き入れる。
一方で、フランスはチャールズ二世から英仏海峡を臨むダンケルクを割譲させるが、後にクロムウェルに奪取される。オランダの弱体化にともない、その貿易拠点をフランスが手中にする機会がありながら、ルイ14世は本国領土に目を奪われる。ルイ14世が、いかに大陸戦争にこだわっていたかを示す行動に、シシリーで起こった対スペイン反乱を紹介してくれる。言うまでもなく地中海権益の要地で、ここを抑えればエジプト征服の足がかりになり、スエズ運河という大通商路を獲得できる。だが、閣僚たちのそうした提案も聞き入れず、ルイ14世には海上の地図が頭に描けなかったと見える。そんなフランスに対して、イギリスは距離を置き、血を流さずにオランダの植民地を得る。結局、フランスの脅威に対して、王侯たちが同盟を結び、全ヨーロッパを敵に回すことに。アウグスブルグ同盟などは、その一例である。北方の新教徒国やオランダ、スウェーデン、ブランデンブルグが、フランスの新教徒に対する迫害に憤慨して結束。さらに、ドイツ皇帝、スペイン王、スウェーデン王、ドイツ諸侯も秘密協定を結び、フランス包囲網が宗教面と政治面で成立。外交も、軍事戦略も、イギリスの方が一枚も二枚も上手だったというわけだ。1783年の平和条約「ヴェルサイユ条約」については、こう論評を加えている。
「来たるべきいかなる戦争においても、それらの取り決めが恒久性を持つか否かは、全面的にシーパワーの均衡に、海洋の帝国にかかるであろう。」

3. 目的と目標
目的と目標、あるいは、戦略と戦術を明確に分けて考えずに、失敗する事例は実に多い。フランス軍は、目先の華々しい征服に価値を求め、商船の拿捕や敵艦の捕獲といった地味な戦果には興味がないと見える。国民的偏見やプライドが邪魔をし、目先の行軍に目を奪われ、商業的、通商的な視野が欠ける。海の向こうの生産物よりも、国産ワインの方がはるかに価値が高いというわけか...
世論は奇襲のような派手な作戦に目を奪われがちで、観客は堅実なプレーよりもファインプレーを喜ぶ。目の前の領地を制圧する力は陸軍、物資補給という裏方任務は海軍、そして、偵察、索敵の地味な活動は空軍とされる時代。だが来たる近代戦争は、価値は逆転し、生産力、工業力、輸送力、諜報力など総力戦と化す。あの有名な海軍提督ラモット・ピケは、こう書いているという。
「イギリス人を征服する最も確実な方法は、彼らを通商において攻撃することである。」
通商破壊を軽んじたのは、日本海軍とて同じか。潜水艦攻撃では、輸送船を狙うという地味な戦果よりも、戦艦を狙って実益を得ようとした。もっとも戦闘員でない輸送船を攻撃するのは、卑怯という考え方もあるが...
「いかなる目的のために始められた戦争においても、その欲する場所を直接攻撃することは、軍事的見地からすれば、それを獲得する最善な方法でないかも知れない。したがって軍事作戦が指向される目的物は交戦国の政府が獲得しようと思っている目的以外のものであるかも知れない。それには目標という特定の名前がつけられている。」

4. 海軍史の教訓
18世紀、イギリスが圧倒的に優勢であったツーロン海戦で退かざるをえなかった状況について、こう回想している。
「近代の海軍史において、ツーロン海戦以上に顕著な警告をすべての時代の士官に与えるものはない。著者の判断によればこの海戦の教訓は、自らの職業についての知識のみならず、戦争が必要とするものの情緒を自分につけることを怠ったものは、不名誉な失敗をしでかす危険があるということである。
普通の人は卑怯者ではない。しかし危急の間に直感的に適当な行動をとりうるような特にすぐれた才能を生まれながらにして授けられているものもいない。多少の差はあれ、それは経験によるか又は反省によって得られるものである。もし経験と反省の両者を欠いておれば、何をなすべきかがわからず、又は自分自身の徹底的な献身と指揮が必要とされていることを理解することができない。そのいずれかのために決断を下すことができないであろう。」

2015-04-19

"マッキンダーの地政学" Halford J. Mackinder 著

「東欧を支配する者はハートランドを制し、ハートランドを支配する者は世界島を制し、世界島を支配する者は世界を制する。」

ハートランドとは、大陸の心臓地帯を意味し、それは、東欧から、イラン高原、チベット高原、モンゴル高原、シベリア・トランスバイカル山系に至る広大な地域を指す。20世紀初頭、ハルフォード・マッキンダーは、ユーラシア大陸を中心とした地理学の観点から国際政治学を論じた。
15世紀以降、コロンブスやヴァスコ・ダ・ガマたちの大航海時代を経て、世界図は塗り替えられた。世界は、陸地では隔たれていても、一つの海でつながっている。このことに気づいた海洋国家は、植民地を足がかりにシーパワーをもって世界を席巻した。だが、人間社会における根源的な価値を冷静に眺めてみると、それは食料資源であり、エネルギー資源であることに変わりはない。マッキンダーは、ランドパワーの時代が来ることを予言し、これに対抗するためのシーパワーの整備と連携が必要だと訴えたのである。
しかしながら、本書が奥深く問題提起しているものは、デモクラシーの二大欠点を仄めかしていることだろう。それは腰が重いこと、そして責任の所在がはっきりしないことだ。原題は「Democratic Ideals and Reality(デモクラシーの理想と現実)」というそうな。わざわざ改題したのは、マッキンダーという人物と地政学という用語を強調するためであろうが、原題のまま方が真の意図を汲み取ることができるであろう...

マッキンダーは、世界平和と安定のために、国際機関を通じての国際警察力というものを唱えている。後の二つの大戦では、ドイツは陸軍力でヨーロッパを制圧し、日本は関東軍に大陸侵略の夢を託したが、米英を中心とする海軍力によって大勢を決した。今もなお、資源外交を武器に国際地位を確たるものにしようという目論むが横行し、イデオロギーや正義を掲げる戦争ですら政治的思惑が見え隠れする。資源国と非資源国の駆け引き、ランドパワーとシーパワーの啀み合いは、いまだ収まる気配がない。資源地帯が紛争の元凶だとすれば、神の恵みは悪魔の恵みというわけか。
情報化社会では、世界情勢はリアルタイムで映像とともに日常生活に飛び込み、地理的隔たりは弱まるかに見える。だが、遠い地域の出来事であることが却って安心感を与え、残酷なシーンですらポテトチップをかじりながら眺めることができる。やはり他人事であることに変わりはないか。人間社会にとって地理的要素は、想像以上に大きくのしかかる。情報が各地域で均等に得られる時代では、生活圏も適当に分散し、地方分権問題も高齢化問題も簡単に解決できそうなものだが、現実に人口は都市圏に集中する傾向を強めていく。仮想空間にどんな立派な王国を築こうとも、寂しがり屋の性格までは変えられそうにない。最終的に自己存在を確認できる場所が保障できなければ、人間は精神を簡単に崩壊させる。つまり、人間ってやつは、心の拠り所を求めて生きているに過ぎないということか...

心の拠り所の一つに国家というものがある。人間社会には、生まれるとすぐにどこかの国に属すという奇跡的なシステムがある。しかも、そこに何の疑問も持たない。だが、近代国家が形成されたのは、18世紀から19世紀頃で、それほど古い慣習ではない。イギリスは少し先駆けて17世紀、清教徒革命と名誉革命によって議会は王室との折り合いをつけ、立憲君主制を確立。18世紀、アメリカはそのイギリスから独立し、フランスは革命とナポレオン戦争を経て共和国を成立。19世紀、ドイツはビスマルクによって統一が進められ、ヨーロッパ中にデモクラシーの波が押し寄せる。日本は、欧米列強国に対抗するために、明治維新を経て富国強兵の道を歩み、大正デモクラシーへと受け継がれる。
要するに、今日見られる大方の国家の枠組みは、二、三百年ほど前に決まったわけだ。そして現在、グローバリズムの波が押し寄せ、デモクラシーは次の段階に昇ろうとしているのだろうか?国家という枠組みも、そろそろ老朽化しつつあるということであろうか?少なくとも、プラトンが描いた国家とは違うもののようだし、これを普遍原理と崇めるには脆弱すぎる。
そういえば最近、国家よりもアイデンティティという用語をよく見かける。今日、ほとんどの国々で世論が真っ二つに分かれる。グローバル的な思想と国粋的な思想によって。ただし、どちらが優れているというのではない。誰とでも話し合えば解決できるという対話崇拝者が揉め事を煽る一方で、母国に誇りを持てず劣等感に陥るのも寂しい。かつて、ブルジョワジーとプロレタリアートという物理的な階級対立があったが、デモクラシーが浸透してくると空想的な思想対立に移行するのかは知らん。
ただ、近代国家の歴史は、デモクラシーに始まる思想、風潮が、人類史上かつてない残虐戦争へ導いてきたのは否定できない。フランス革命が提示した、自由、平等、博愛という三大原理は、いずれも単独で大暴走する性格を持っている。この三位一体の調和が崩れた時、自由主義が弱肉強食的な資本主義を煽り、平等主義が搾取的な共産主義を敢行し、博愛主義が魔女狩り的な盲目主義を崇める。国家を支える理想主義には、既に予知された災厄が潜んでいる。経済政策さえうまくやれば、少々無謀でリスクの高い外交政策にも世論は目を瞑るどころか、後押しする。そこに、世論を煽り立てる報道屋が便乗するという構図は、人間社会の伝統として根付いている。民主主義が抱える固有の弱点は、誰もが厄介事に眼を背けること、そして誰もが無責任だということに加え、集団的暴走がこれらの性質を助長することであろう...

1. 二つの相反する理想主義
これまでの理想主義は、二種類のまったく異次元の気質と結びついてきたという。それは、受動と能動の精神である。例えば、仏教、ストア派、中世キリスト教などは自己否定を基礎とし、フランシスカン派は清純と貧苦と奉仕とに身を置いた。対して、近代デモクラシーの基盤となったアメリカ独立戦争やフランス革命の理想は、自己実現を基礎に置く。すべての人間は平等に、自由と幸福を享受する権利を有する... といった天賦人権説を唱えたのは、ルソーらの啓蒙思想家であった。しかし、これらの理想主義は相反するのではなく、時代の現実に対応した姿に過ぎないとしている。
古き時代、自然の力は人間よりもはるかに強く、苛酷な現実が人間の野望を砕いてきた。世界全体が貧困で、欲望を捨てることが唯一の希望であり、それ故に宿命論を求める。裕福な一部の地主と、それに服従するその他大勢の奴隷という構図の中で。
ところが、一般人にも自由という価値観が浸透しはじめると、公平なチャンスにありつける。自己存在に積極的な価値を求めるのは、素晴らしいことだ。しかしながら、自己存在を崇め過ぎ、本来の目的であった自己実現よりも、ソフィストのお家芸だった弁論術の方を覚醒させ、アピール戦略やプレゼン能力に受け継がれる。これが、現代政治の姿か...
最初に、ヴォルテールのような理想を掲げる啓蒙家が登場し、次に、ルソーのような思想家が幸福社会の在り方を唱え、物的条件を立証する。やがて、新しい思想が情熱家たちの心を掴み、一般人にも浸透しはじめる。そのエネルギーが強行な指導者と結びつき、共に理想のために立ち上がる。だが、集団性とは怖ろしいものだ。理想に憑かれれば、理性をば見失わせるのだから。そして、既成権力への不満のはけ口となって暴力が横行する。有識者たちが、けしからん!と憤慨するのも、単なるストレス解消法であったか...
「専門の歴史家達が戦史を書くとき、たいていその序文のなかで歴史の警告を無視した時の指導者の無知を指摘するのが、従来のしきたりになっている。しかしながら事実をいえば、およそあらゆる企業組織と同じように、国家社会がまだ未熟のあいだは、ある程度その思う方向に進路をむけることができる。けれども、いったん老境にはいると性格がすっかり固定化してしまって、そのやりかたに大きな変化を加えることができないようになるというのが、およその真相である。」

2. 船乗りの世界観と内陸人の世界観
グローバル的な思想と国粋的な思想は、なにも現代特有の現象ではない。古代ギリシア時代、エーゲ海をめぐって海戦が繰り広げられ、クレタ島こそがシーパワーの根拠地であり、アジアとヨーロッパを睨む拠点であった。ローマ帝国は、地中海を制覇することによって、フェニキア人とギリシア人という二大海洋民族を制した。第二次ポエニ戦争では、カルタゴの将軍ハンニバルは、ローマのシーパワーとの対決を避け、陸路に活路を見出したが、敗れた。これらの歴史事象は、海洋的な視野と内陸的な視野の対立では、常に前者が優位であったことを示している。
しかし、そうとも言えない事象がある。アレキサンダー大王は陸路によってペルシア帝国を征服し、インドまで達した。最大勢力を誇ったチンギス・ハーン率いるモンゴル帝国は、まさにマッキンダーの唱えるハートランドをほぼ制圧した。
では、何がそうさせたのか?その要素に、運搬力と情報力を挙げることはできるだろう。つまり、国家の機動力と柔軟性だ。古代海洋国が優位性を築いたのは、地中海貿易によって各地の情報をもたらした結果とも言えよう。アレキサンダー大王は、オリエント各地にアレクサンドリアという名のギリシア風の都市を建設し睨みを利かした。チンギス・ハーンが、古代から育まれてきたシルクロードの偉大な交易路網を活用したことは想像に易い。
近代国家においても、海洋的な視野がグローバル的な思想と、内陸的な視野が国粋的な思想と結びついてきた。どちらの立場に立つかは、かつて国家指導者によって決定されたが、デモクラシーが浸透してくると世論に委ねられる。
ドイツが二つの大戦で本当に欲したのは、スラブ系民族が支配するバルカンを始め東欧の地域にあったはず。それは、急速に経済発展する非資源国の宿命である。なのに、なぜドイツは西部戦線を拡大させたのか?中立国ベルギーを蹂躙してまでフランスに攻め入るとは?しかも、二度の大戦で同じ過ちを繰り返していることは、多くの軍事評論家が指摘していることだ。
1908年、オーストリアがベルリン条約を無視して、ボスニアとヘルツェゴビナを併合したことが歴史の節目とされるが、もともとはトルコ帝国の属州をスラブ系民族が奪還しようとしていた土地。そこに、ロシア帝国との密約が見え隠れする。1895年、ロシアはドイツの軍事的脅威に対抗してフランスと同盟するものの、日露戦争の敗北と革命の二重の痛手を負う。弱体化したロシアを、ドイツが軽く見ていたのは確かであろう。おまけに、イギリスのデモクラシーは冬眠状態で、アメリカに至っては永遠に眠りから覚めないと踏んでいたという見方がある。
世界情勢もそうだが、戦争へ邁進させる主要因に、国家と資本家が強く結びつき、それを世論が後押しする構図がある。日本の世論も、民主主義の堕落政治を馬鹿にしていた。勝ちすぎるために戦線を拡大し、墓穴を掘るのは大日本帝国とて同じ、一度調子づくと疑念を持つこともできなくなる。日露戦争におけるバルチック艦隊の撃滅では、あまりにも日本海軍を称賛する世論で占めていたが、その裏でイギリス海軍は日本の勝利を図り、あらゆる海上の動きを監視していたことは留意しておこう。イギリスは、インドにおける統治を決定づけるとともに、中国への門戸を開くために、巧みな外交戦略を展開している。日本から見れば、同じ島国という親近感があっただろうが、第一次世大戦後、すぐに日英同盟は破棄される。
「レッセ = フェール型の自由貿易主義も、ドイツ流の掠奪的保護主義も、どちらも帰するところは帝国主義の原則である。」
太平洋戦争では、海軍と陸軍の外交的意識の違いを露呈した。海軍は徹底的に三国同盟を拒否し、対米戦争を避けようとした。生産力や工業力で圧倒されるだけでなく、資源地を確保しても輸送能力が不足している実情を知っていたからだ。しかし、陸軍の方が世論に近い感覚を持っていた。海軍首脳も世論には逆らえず、ついに、やむを得ず!と無責任論に転換する。軍部に駆り立てられやすいのは内陸的な視野の方であろうか。国粋主義の弱点は、母国の誇りを静かに抱くのではなく、他国を声高に罵ることによって高揚することにあり、それは民族優位説を唱えるに等しい。頑固さの点では国粋主義の方が圧倒的に勝り、ちょっとでも苦言を呈すと非国民と呼ばれ、集団的抹殺にかかる。
しかしながら、戦争で勝っても、人は死ぬ。いったい誰が勝っているのやら?国同士でどんなに啀み合っても、戦争という手段に出れば、政治も世論もやはり愚かだということを、人類は十分過ぎるほど経験してきたはずだが。それでも第三次世界大戦にまで発展しないところを見ると、人類は少しは賢くなっているのだろうか?
「アテネとフィレンツェが偉大だったのは、生活を全体として見る眼があったからである。諸君がいつまでも能率と価格の合理化という偶像を追いつづけていると、やがて青年達は人生のある一面だけしか見ようとしない時代がやってくる。」

3. ボルシェビキの持つ二つの側面
本書は、ボルシェビキによる官僚独裁化への懸念を表明している。だが、それよりも恐れたのは、ドイツ軍国主義の再燃であり、なんらかの形でボルシェビキと結びつくことであろう。これに対抗して、シーパワー諸国がどういう役割を果たすべきかを問うている。民主主義ってやつは、自己防衛の必要に迫られなければ、なかなか重い腰をあげない。ましてや軍事問題など避けて通りたい。スターリンでさえ自由主義連合のシーパワーとの直接対決を避けた。ただ、スターリンをボルシェビキと呼ぶには、ちと疑問があるが...
ボルシェビキには、もともと二つの側面があるという。一つは、ジャコバン派的な暴力と独裁主義で、これは多くの革命の一定の段階に必ず顔を出すもの。二つは、サンジカリスト的な理想主義。サンジカリストとは、政党や議会を排除し、労働者の直接行動によって社会革命を目指す、ある種の労働組合主義のようなもの。
完全な平等分配を目指せば、中央政府の搾取にあい、横暴な官僚主義を助長させる。ハートランドに近い国々ほど、不自然な自由と、不自然な平等を強要される傾向があるようだ。資源で国民が養えるならば、高度な平等主義が育まれてもよさそうなものだが、現実に貧富の差は大きい。資源が豊かということは、国民を怠惰にさせるのか。分配は人の裁量に委ねられ、官僚体質と腐敗が蔓延する。資本は権力者に集中し、ますます民主主義的な要素から乖離する。
ブラッド・ダイヤモンド...じゃないが、人類の歴史とは、血塗られた資源争奪の歴史でもある。国家資本主義国では、土地や資源の奴隷になり、自由市場資本主義国では、富や財の奴隷と化す。アリストテレスの唱えた生まれつき奴隷説も、あながち嘘とは言えまい。
「世界の地理がさししめす現実から出発して、もし諸国民のために自由を確保しようと思うならば、一連の比較的大きな国家のあいだで資源の公平な配分を期する以外に、さしあたり賢明な方法はありえない。」

4. 世界警察の地理学的役割
国際関係とは、実にデリケートものだ。国連ですら各国の思惑が絡み、中立の立場を保つことが難しい。なんでも話し合えば解決できるという狂信的な博愛者たちがいる。だが、関係とは距離をはかること。神の前で誓った二人ですら、法の調停を求める。近づき過ぎても、遠ざかり過ぎても、やはり揉める。自由を信奉するアメリカとて、ヨーロッパやアジアの国々とは大国の威信を以て冷静な態度を見せても、北極海に面したロシアや間近なキューバが相手となると感情論を剥き出しにする。人間ってやつは、弱い隣人に同情できる一方で、強い隣人に嫉妬する。
古来、外交政策とは、仲良しグループ争奪戦であった。子供が仲間を募るような幼稚なレベルで、共通の利害関係で結びつき、より単純な原因で敵対し、政治哲学に基づいた行動など微塵も感じさせない。それもそのはず、理念なんてものは理想を声高に叫ぶだけで、現実社会では無力なのだから。政治家ってやつは、まさに現実主義者で、自分を支持してくれる者ならどんな相手でも大歓迎する特質を持っている。
国連が、世界各国から一定の距離を置き、世界の衝突を予め察知し、それに対処する能力を持つことが望ましい。だが、国連もアメリカも世界の警察官になるには程遠いようである。
一方で、近くの大国に依存し過ぎるよりも、少し距離を置いた国々との通商関係を結ぶことで、戦争リスクを軽減させる地域がある。それが、現実的な自立の道であろうか。いくら国連が機能しないとはいえ、今のところ国連を機能させる方向に努力するしかなさそうだ。
「われわれは一般的な義務を引き受ける前に、まず具体的にそれが何を意味しうるかを、よく考えたほうがいい。」

2015-04-12

"自由市場の終焉" Ian Bremmer 著

ソ連崩壊後、元共産圏の国々は自由市場資本主義に期待を込めた。だが、アジア通貨危機とロシア国債デフォルトが世紀末の断末魔のごとく襲いかかる。しかも、LTCM暴走のおまけつきだ。21世紀になってもなお、ウォール街の暴走は収まらない。そう、あの悪名高きリーマンショック!全世界は数百年ぶりに地政学的な転換期を認識できるに至ったが、それにしてはコストが高すぎた。その後の世界は、イアン・ブレマー氏が指摘する無極化へ突入... G20は機能しない、G7は過去の遺物、G3は夢物語、G2は時期尚早... おかげで、マッキンダーの地政学に向かう衝動は抑えられそうにない...

さて、地政学的な転換期とはなんであろう。第二次大戦後、アメリカは世界の警察官を自認し、数々の紛争に介入してきた。そのような大国になりえたのは二つの大戦の戦勝国であったこと、そして、戦場から離れていたので直接被害を受けることがなかった、という説を唱える政治学者は少なくない。つまり、歴史的偶然というわけだ。それも一理あろう。だが、それだけだろうか?アメリカは資源大国であると同時に農業大国であり、自給自足できる広大な国土を保有している。その位置は、ヨーロッパ、アジア、アフリカと適当に距離を置き、シーパワーによって機動力を発揮してきた。
しかし今、台頭してきた新興国、すなわち、中国、ロシア、インド、中東の国々は、ユーラシア大陸の資源地帯をほぼ掌握する。これは、かつての先進国とはまったく逆の構図だ。人類が生き抜くためには、食料資源とエネルギー資源が絶対に欠かせない。この二大要素を牛耳れば、自ずと世界が支配できるというのは、いかにも支配欲旺盛な政治屋どもの考えそうなことである。
本書は、これを「国家資本主義」と呼び、資源ナショナリズムとの結びつきを問題視する。その潮流は、世界恐慌の反動でマルクス主義が高揚した時代にも似ているが、ちと違うようである。
「国家資本主義はイデオロギーではない。共産主義の呼称を改めたものでもなければ、計画経済の現代版でもない。資本主義を受け入れてはいるが、それはあくまでも自分たちの目的を果たすためである。」

市民ってやつは、そう単純な存在ではない。歴史を振り返れば、あらゆる脅迫的な政策が市民の力によって打倒されてきた。自由精神が人類の普遍原理だとすれば、ディオゲネスが唱えた世界市民思想は、けして脅しなんぞに屈しないだろう。ネット社会では、SNSで呼びかけた大衆が呼応し、指導者のいない革命まで引き起こす。こうした社会現象は、自由市場資本主義よりも、むしろ国家資本主義にとって大きな脅威となろう。
しかしながら、国家資本主義は、旧共産主義固有のものではなく、民主主義国でさえ部分的に採用される。国内の主要セクターを牛耳りたいという思惑は、程度の違いはあれど、どこの国にも見られる。そもそも政治家とは、規制によって存在感を示そうとする輩で、金融危機では、ここぞとばかりに持論を展開する。政治家が目立とうとすれば、自国民の誇りをくすぐるのが手っ取り早く、愛国心と結びつきやすい。これに報道屋が便乗して仮想敵国の脅威を必要以上に煽り、本当に戦争リスクを高める。人間ってやつは、恐怖心に対して異常に反応する動物なのだ。それは生命保険業界が如実に再現している。政治屋も、報道屋も、金融屋も、あくまでも生産社会の補助役であって、彼らの目立たない社会を目指すのが健全であろうが、彼らの本性は露出狂ときた...

1. 資本主義の自己再生能力をどう見るか
ソ連は鉄のカーテンによって資本主義を完全に拒絶し、共産主義的な指令経済の脆弱性を露呈した。一方、中国はゆっくりと市場経済を受け入れ、いまや共産主義国とは名ばかり、市場型社会主義ともいうべきハイブリッド型の経済システムを作り上げ、成功を収めつつある。けして金融危機だけが国家資本主義を助長させたわけではなく、それ以前からゆっくりと市場経済へ向かっていた。だが同時に、監視体制とのバランスに異常なほど神経を使っている。
本書は、この経済システムは権威主義的な共産党体制を維持するために採用したに過ぎないと断じる。とはいえ、自由市場資本主義国にも、少なからず権威主義に縋る連中がいる。現実に、資源ナショナリズムに慌てふためく政治家や経済学者が、経済ナショナリズムで対抗しようと政策を立案している。自由市場を信奉するアメリカですら、景気対策法に「バイアメリカン条項」を盛り込むぐらいだ。
確かに、自由市場資本主義は凋落が速い!だが、再生も速い!それは権威主義に陥った経営陣を本当に葬り去り、新たな指導者に挑戦の機会を与えるからだ。本書は、自由市場資本主義の特徴を十分に生かし、むしろ市場解放によって堂々と対抗すべきだと主張する。資本主義と自由主義は双子の兄弟のようなもの。国家の思惑が強いほど癒着を強める企業が群がり、やがて腐敗するだろう。第三セクターの類いは、なかなかうまくいかないものである。リーマンショックの裏では、シャドウバンキングが役割を演じた。今日、中国の政府系ファンドとシャドウバンキングの関係が囁かれる。リーマンショックでさえ米ドルの信用は保たれ、驚異的な自己再生能力を見せた。これは、一重に自由主義と民主主義の底力でもある。
その一方で、国家資本主義国で同レベルの金融危機が生じた場合、果たしてどうだろうか?本書は、楽観的に答えている。金融危機に投じられた税金は巨額であったのも事実だが、権威主義国家では普段からそれ以上にコストをかけていると。TOO BIG TO FAIL... に当てはまる企業は自由市場では限定的であったが、むしろ国家資本主義にこそ当てはまると...
「結局のところ、中国の指導部が、経済に果たす政府の役割をめぐる重要な前提を問い直すよう迫られる可能性のほうが、アメリカが自由市場原則を根本的に後退させる可能性よりも圧倒的に高い。」

2. 国家資本主義とは
なぜ、これほどの政治家が国家主導型の資本主義に憑かれるのか?資本主義の定義も難しいが、さしあたり富を使って富を創造するといったところであろうか。つまり、投資が原動力となって自然増殖するシステムとでもしておこうか。一般的に、土地、資本、労働力といった生産手段のほとんどは私的財産として取引され、貯蓄と投資のバランスと効率性こそが将来性を決める。自由市場の弱点は、このバランスを無視して取引が暴走することにある。本来アダム・スミスは、道徳的観点から「国富論」を唱えたのであって、経済的無政府主義に傾倒したわけではあるまい。
今のところ、自由市場の暴走を食い止める最適な規制手段は見つかっておらず、世界恐慌から始まる市場メルトダウンの歴史は、その都度、政府の介入に使命感を与えてきた。国家資本主義は、この使命に真っ向から挑む。しかしながら、政府もまた暴走する。いや、歴史的にはこちらの方が悲惨であった。
ところで、「国家資本主義」という用語の歴史は、それほど浅くはないそうな。おそらく、1896年、ドイツ社会民主主義の始祖ヴィルヘルム・リープクネヒトが演説で使ったのが嚆矢だろうという。「国家社会主義とは実のところ国家資本主義」と語ったとか。レフ・トロツキーも国家資本主義の意味が理解されていないことを嘆き、「裏切られた革命」と警告したという。中国政府は、リープクネヒトやトロツキーの潮流へ引き戻したという見方もできそうか。
「国家資本主義は、社会主義下の計画経済が21世紀的な装いで復活したものではない。官僚が巧みに運営する資本主義であり、政府ごとに特徴を異にしている。政府が主に政治上の利益を追求するために市場を主導する仕組みである。」
本書の定義は、なんとなく日本社会の皮肉にも映る。我が国は広く自由市場経済だと信じられているが、社会主義的な性格がすこぶる強い。一億総中流思想とは、まさに社会制度を前提としており、民間企業は通産省の影響下で国際競争力を培ってきた。ブレトンウッズ体制下で、1ドルが360円の固定相場だったことは、今では信じられないかもしれない。国営のプロ野球球団があったぐらいだ。当時、最も成功した社会主義国家と呼ぶ経済学者もいた。1ドルが250円を切って円高不況と呼ばれ、さらに、おいらが就職する頃、150円を切り就職難と言われた。だが、今の学生諸君の苦労に比べれば天国よ。
権威主義の残党はいまだ勢力が衰えず、官僚支配の強いお国柄であることは周知の通り。人間社会の支配者は、国家か?多国籍企業か?はたまた市民か?その駆け引きは未だ決着を見ない。そもそも誰かが支配するといった類いのものでもあるまいに。だが、人間ってやつは、所有や支配が絡むと血眼よ。そして、他人の生活、他人の人生、他人の精神までも支配しようとするのに、自己の精神となるとまったく手に負えないときた。

3. 資源ナショナリズム
今、企業の時価総額ランキングに異変が起きている。フォーブス誌やフォーチュン誌などが発表する世界企業ランキングには、中国、ロシア、湾岸諸国の国営企業が上位を占める。
本書は、資源ナショナリズムの事例として、エネルギー産業、特に石油を中心とした国家資本主義のからくりを暴く。発展途上国でマイカー保有率が上昇すれば、自動車市場が拡大し、エクソンモービル、ロイヤル・ダッチ・シェル、BPなど欧米の多国籍企業が潤うことが想像できる。しかし、世界の原油埋蔵量の3/4は、もはや国営企業の保有下にあるという。サウジアラムコ、ロシアのガスプロム、中国石油天然気集団(CNPC)、イラン国営石油会社(NIOC)、ベネズエラ国営石油会社(PDVSA)、ブラジルのペトロブラス、アブダビ国営石油会社(ADNOC)、クェート国営石油会社、マレーシア国営石油ガス会社ペトロナスなど。世界の指折りの多国籍企業といえども、石油や天然ガスの全体産出量はわずか10%、埋蔵量の3%を抑えているに過ぎないという。最大のエクソンモービルでさえ世界15位に甘んじている。
エネルギー分野において政府と民間企業の関係は根底から変化しており、おそらく食料分野においても似たような状況にあるのだろう。人間ってやつは、少しでも権力を手中にすると、自己顕示欲が膨らみ、権威主義に陥りやすい。政治家が、資源ナショナリズムを高揚させるには十分な土壌が整っている。自由市場の堕落で関係のない国々にまでとばっちりを食えば、IMFの支援も当てにはできない、と考えるのは当然だろう。国家財政の支援のために政府系ファンドを設置し、自由市場への依存性を弱めようと画策する。国家の庇護下で国内市場を独占し、その莫大な利益を政府系ファンドの資金源とし、世界中で国益を最大化するために使う。なるほど、財政難の対処で国債発行しか術を知らない無防備な経済政策よりは、はるかに賢い。
本書は、同じ国家資本主義でも一枚岩ではなく、中国型とロシア型で大きな違いがあることを指摘している。まず最大の違いは、人口だ。中国経済は、資源政策一辺倒で全国民を養えることができず、必然的に多元的経済にならざるを得ない。世界銀行は2008年、中国は就業率を一定に保つだけでも、9.5%の経済成長を必要とすると推計しているとか。ロシアに比べれば、中国の政治指導者は、国営企業や国営銀行との直接的な結びつきは弱いという。それでも、江沢民が産業界のエリート層を誘導して「赤い資本家」と呼ばれる贔屓企業家に党員資格を与えるよう呼びかけたなどの動きはあり、中央政府の影響力を強めることに意欲満々なことは否めない。
一方、ロシア型国家資本主義は、市場をうまく機能させようと意気込みながら、成果があがらない場合は手ごろなスケープゴートに責任を転嫁するのが常だという。この性癖はどこの国にもある。実際、ロシアは資源外交を露骨にやっており、旧ソ連圏の国々はいまだにロシアの影響下にある。EUへの加盟は、トルコ、クロアチア、セルビア、ウクライナ、グルジアのようなヨーロッパの端にある国々の悲願でもある。国家資本主義が資源ナショナリズムと非常に相性がよく、いまだイデオロギーの域を脱していないのも確かであろう。そうした国家の思惑とは対照的に、脅しや強迫の類いは、民主主義と相性がすこぶる悪い。実際、国家という枠組みに疑問を抱く人々も少なくない。オリンピックやワールドカップといった、かつて国家を挙げて取り組んできた行事ですら、市民の反対運動を受ける。国内政治を疎かにしておきながら、何が世界のお祭りだ!と。だが、国民を一致団結させなければならないと、使命感に憑かれた政治家はいまだ多く、それに同調する市民も大勢いる。我が国でも、東京オリンピック開催に苦言を呈そうものなら、非国民と呼ばれる。さらに、政治団体や宗教団体、あるいは企業献金といった選挙運動では、民主的な性格を失ったものが多い。つまり、非民主的な選挙によって、民主政治が行われているということだ。
「Aから略奪を行いBに支払いをする政府は、いつでもBの支持を期待できる。」
... ジョージ・バーナード・ショー

4. 愛国心ブランド
2011年、中国初の航空母艦「遼寧 」が完成し、その脅威をマスコミが騒ぎたて一部の愛国者を煽ったが、多くに軍事評論家はそれほどの脅威を感じていないようである。もともと「ヴァリャーグ」という名の旧ソ連製で、1988年に進水し、10年後、中国に売却された。当時、マカオに停泊させて、ホテル兼カジノにすると発表されたが、実際は軍事用に改修されたのである。しかし、これによって雇用を創出することはでき、むしろ経済効果として大きい。空母というと、かつての大日本帝国海軍のイメージをひきずるようだが、実は軍用だけでなく、救助活動で非常に役立つ。戦争で機動力が発揮できるということは、救援活動でもそうだということだ。海上に救援基地を簡単に設置でき、実際、東日本大震災でも米空母が物資空輸で活躍した。気候変動の激しい時代となれば、潜水艦も軍事利用だけには留まらないだろう。中国政府に限らず各国政府が、そうした点に着眼できるかは別だが...
どこの国も戦争をするほど経済的な余裕はあるまい。だが、困窮というほどではない。人間社会ってやつは、困窮過ぎると内乱の危険をともなうが、少し余裕があると外国と戦争をしたがるもので、ちょっとしたいざこざが愛国的な世論を煽り、大戦争に発展する可能性は十分にある。
一方で、中国の経済政策が、徐々に市場を解放し、外国からの投資を呼び込んだ実績は紛れもない事実である。だが、国内企業の国際競走力が身についてくると、少し事情が変わってくる。実際、外国企業の締め出しが見え始めている。
本書は、その事例に「aigo(愛国心)」ブランドを擁する消費者向け電機メーカの動向を紹介している。北京華旗資迅数碼科技(インフォーメーション・デジタル・テクノロジー)は、ナショナリズムを煽って国営企業を強化する戦略を露骨に用いているという。中国企業が、国内市場で元気なのは結構な話である。だが、解放してきた市場を今度は世論を利用して閉鎖しようとするなら、外国企業もそれなりの対処をするだろう。中国政府とて、嵐のように猛威をふるうネット世論の怒りを、すべて制御できるわけではない。本書が指摘するように、中国政府が国家資本主義の道をさらに推し進める公算は高いのかもしれない。だが、それこそ市場の歪と世論の歪のツケを払うことになるだろう。
リーマンショック以来、アメリカを始めとする自由市場の脆弱さに対して、中国政府は国家資本主義の方が優れていると声高に主張してきた。しかし、中国経済の脆さも目立ち始めている。民間セクターの拡大と、国営センターの先端技術によって、経済効率が上向き、労働生産性が高まっている。このこと自体は望ましいが、単位成長当たりの雇用創出は減っていくのが、経済原理というもの。国民生活が豊かになれば、労働効率も低下する。まさにシュンペーターが唱えた創造的破壊の道だ。その際、内陸部と都市部の経済格差がどの程度に抑えられるかは、気の遠くなるほどの難題である。中国の経済成長率は、いわば、自転車操業のような状態にあり、絶えず加速し続ける必要がある。同時に、大気汚染問題や人口高齢化の問題を抱え、頻発する抗議運動の鎮圧にも務めなければならない。さらに、政府批判を監視するために、数億人規模のネットユーザの言論にも目を配る。
しかしながら、自由市場国にも、国家資本主義の勢いに目を奪われ、その道をとるべきだと模索する政治家は少なくない。我が国のような高齢化社会ともなれば、ますます社会制度への依存度を高め、国家資本主義的な傾向を強めるのかもしれない。だが、本当に国家資本主義へ舵を切れば、今までの取引国から信用を失うだろう。愛国心の弱点は、自国を誇りに思うことと、他国を蔑んで優位に立つことを混同すること、そして、誰もが狂信的な愛国者へ変貌する資質を持っていることだ。
「わたしは自由市場資本主義の未来にきわめて楽観的である。だが、国家資本主義の未来については楽観していない。いやむしろ、楽観しているというべきか。というのも、国家資本主義はいずれ終末を迎えるはずだと考えているから。」
... マリー・N・ロスバード

2015-04-05

"「Gゼロ」後の世界" Ian Bremmer 著

いくら軍事力で圧倒しようとも、いくら経済力で圧倒しようとも、これからの世界は、地球規模の責任を担える者でなければ、けしてリーダーシップをとることはできないだろう。冷戦構造終結後、アメリカは世界の警察官を自認してきた。だが、その能力に各国は疑いを持ち始めている。経済力で台頭してきた中国は、地球温暖化問題となると、未だ発展途上国を宣言している。実際、内陸部の事情はそうかもしれない。そして、この両大国は、世界の温室効果ガス排出量の40%を占める環境汚染大国だ。
しかしながら、両国だけを責めるわけにはいかない。他の先進国や新興国にしても国内に深刻な問題を抱えたままで、国際秩序に対する責任を負担する意思は見えてこない。国連もまた理念を掲げるだけで、何一つ具体策を示せないでいる。各国は、こぞって発言権の拡大を求めるだけで、具体的には何も語ろうとはしない。いや、語れるものがないのだろう。ただ悲しいかな、誰もが国際標準ってやつに弱い!
Gゼロを提唱したことで知られるイアン・ブレマー氏は、リーダーシップ不在の時代には国際社会の脆弱性を露呈し、突発的な危機に対処できないと警鐘を鳴らす。国際秩序は、まさに真空状態にあると。そして、実際に食糧危機が生じれば、先進国よりも新興国の方が深刻な打撃を受けると指摘している。確かに、危機管理能力は経験的なものが大きく、普段は表面化しないだけに、それこそ災害時に問われる。先進国とは、経済力だけで測れるものではあるまい。
「本書は、先進国の衰退を述べるものでも、アメリカ以外のすべての国の台頭を述べるものでもない。当面、これらの国のどれ一つとして、必要な変化を生み出すほどの力を持つことはないだろう。G20は機能しない、G7は過去の遺物、G3は夢物語、G2は時期尚早。ようこそ、Gゼロの世界へ。」

歴史を振り返れば、新たな国際秩序を生み出すために、勝者と敗者の概念がつきまとってきた。ナポレオン戦争後のウィーン体制しかり、第一次大戦後のヴェルサイユ体制しかり、第二次大戦後のブレトンウッズ体制しかり。古参の政治家たちは、歴史から学ぶであろう。軍事力と経済力こそが国力の指標であり、リーダーシップの資格であると。
確かに、抑制力は必要である。だが、これからの時代は、それだけでは不十分だ。現実に、抑制政策が暴動の引き金になっている。かつてないほど世界協調が求められる時代に、国際機関はレフリー役として機能せず、各国は何一つ合意できないでいる。
「G20は、何かを解決すれば、それと同じ数の問題をつくり出すような機能不全の機関だ!」
地球温暖化対策、食料危機や公衆衛生の危機、サイバー攻撃などの問題は、けして軍事力や経済力で解決できるものではない。世界は自由市場資本主義と国家資本主義の対立を激化させてきた。その中で国家体制はますますリスクに晒され、IMFや世界銀行ですら敗者になりうる。国家という枠組み自体に再定義が求められる時期が来ているのかもしれん...
また、国家理念の支柱とされる民主主義も、それほど高貴なものではなさそうだ。政治家だって、なにも独善的に政治家になれるわけではない。彼らは言うであろう、俺を選んだのは民衆だ!と。政治家が存在感を強調すればするほど、政治の存在意義に疑問を持つ者が増える。だが、そういう人物ほど選挙に強いときた。選挙ってやつは、民衆の公平な投票などというもので決まるものではない。政治団体、支援企業、宗教団体などが複雑に絡んだ結果に過ぎないのだ。にもかかわらず、民主主義の象徴のように崇められる。人間ってやつは、どんな行動にも見返りを求める。神への祈りですら。各国の政治家はこぞって自国への見返りを求める。権利の主張に責任がつきまとうことは無視して。政治的思惑は集団性と極めて相性がよく、常に自然発生的な信念とは対極にある。まるで悪魔の本性を結集するかのように。
それでもなお、著者は本音をもらす。大国が支配する世界よりも、G20の理念の方がましであると。真の民主主義を機能させる世界が望ましいと。民主主義ってやつは、人間精神が高度に成熟しなければ機能しない代物のようである。
さらに著者は、情報発信者としての心構えを披露しているが、ジャンク長文を量産するアル中ハイマーには耳が痛い!
「たいていの本は、小論文で十分。たいていの小論文は、ブログで十分。たいていのブログは、ツイッターで十分。そして、たいていのツイッターは、そもそもツィートするほどの価値はない。昨今、本を書くというのは、期待などという言葉では収まらない大胆な行為だ。」

1. ピボット国
片足を軸に旋回して、複数の国との関係を持ちながら、その時々に応じて付き合う相手を変え、リスクを分散できる国のことを、「ピボット国」と呼んでいる。このリスク社会では、過度の依存度を高めないことが重要な戦略となる。
その典型的な国に、ブラジルを挙げている。中南米には、経済的なライバルがひしめき合っているわけではなく、世界の主要国と距離を置くという地理的な要因も大きい。
一方、アフリカでは、ピボット国が経済的に成功を収めつつあるという。米中両大国を相手に、あるいは他の国々も投資競争に参加し、しかも国際機関をうまいこと利用しながら投資を引き出していると。
アジアの代表では、インドネシアであろうか。天然資源の豊富さと、外国からの投資が開放的であることで、世界中から顧客を集める。堅固な教育制度、拡大する製造業の基盤、急増する観光業収入など多角的経済の上に、世界第四位の人口を保持しながら、その半数は30歳未満で、高齢化社会のような膨大な財政負担を必要としない強みがある。
シンガポールは、ロンドン、ニューヨーク、香港に次ぐ世界第四位の金融センターになっており、ここに事業拠点を置くことで外国企業はどこの国にも過度に依存することがない。
また、ベトナムを有力視している。経済成長では遅れをとったが、貧困率が急速に改善され、ピボット国になれる資質が十分にあるという。開発援助の大半を日本から、武器はロシアから、機械設備類は中国から、そして、最大の輸出市場はアメリカであると。
資源に恵まれたモンゴルも、ピボット国になることの意義が大きいという。地理的にロシアと中国の狭間で対抗し、アメリカや他のアジア諸国とも良好な通商関係を保とうとしている。カザフスタンも同じように、ロシアと中国に挟まれながら両国に極端に依存しない政策をとっているという。ロシアや中国の安全保障協定に参加しつつも最大の貿易相手はEUで、最大都市アルマトイはこの地域の重要な金融センターになっていると。
こうした事例は、国が小さいことが必ずしも大国の依存度を高めるわけではないことを示している。アジア経済は今後も世界の牽引役となり、この地域にいくつものピボット国が出現しても驚くに当たらないという。
しかし同時に、安全保障上の問題を抱えることも見逃せない。中国、インド、日本が長期に渡って良好な関係を保つ見込みは低いとし、インドネシア、韓国、タイも完全に他国の引力圏に引きずり込まれないだけの備えがあるという。
一方で、ユーロ圏になぞらえて、東アジア構想を夢見る有識者や政治家たちがいる。だが、ヨーロッパはキリスト教社会という基盤があり、アジアは国家体制や宗教思想が複雑に混在している。もっと言うなら、ドイツとフランス以外で、本当にうまくいっているかは疑問だ。キャスティングボードを握るほど存在感のあるイギリスが、ポンドを保有しながら距離を置いている。関係とは距離を計ることであり、近づきすぎても、遠ざかり過ぎても、やはりうまくいかない。ましてや文化的な諸条件までも無視した安直な連携は、むしろ危険となろう。歴史は言うであろう。日本を盟主とする大東亜共栄圏なるものが、いかに押し付けがましいものであったかを...
「アジアにはあまりに多くの強力な国が存在するが、そこに十分な協力関係はない。中国はアジアにおける支配的な地域大国になりたがっている。しかしインドは、究極的には二番手の役割に甘んじるにはあまりに巨大すぎる国である。いくつもの挫折があったにせよ、日本が今なお世界有数の富裕国であり、きわめて強力な影響力を持つ国であることに変わりはない。韓国は、主要新興国の一つだ。インドネシアは、経済と外交の面で大きな役割を演じられる国になりつつある。」

2. 日陰の国家
ピボット国とは反対に、どうしても依存度を弱められない国を「日陰の国家」と呼んでいる。大国の影から抜けられない事例では、メキシコを挙げている。経済状況は、アメリカの浮き沈みと完全にリンク。かつて日本経済は、アメリカがくしゃみすれば、日本が風邪を引くなどと揶揄された。その意識は、今もあまり変わらないような。経済ニュースでは、相変わらず円高円安の基準を対米ドルで報じているし。
「日本は独善的なアジアの大国をめざす必要はない。日本政府が他のアジア諸国と通商や安全保障上の関係を深めれば、中国やアメリカが日本を犠牲にしてアジアを支配しようとする事態を確実に防ぐことができる。」
どこの国の政治家も、自国の影響力を増すことばかりに執着するが、もはや時代遅れの感がある。大国は小国の行動を抑制するために、軍事行動よりも低コストの経済的、外交的ペナルティを課そうとするが、かつてほど制裁効果は上がらない。周辺国は自国経済を犠牲にしてまで制裁措置に参加することはないし、強制力も薄れている。こうした構図に、公然と国際ルールを侮蔑する国が付け込み、常に脅しのカードをちらつかせて援助にたかる。互いに脅しの手段しかないとすれば、どちらも手段への依存度が高い。
「政治では、恐怖で始まることは、普通、愚行で終わる。」... サミュエル・テイラー・コールリッジ

3. ポストGゼロの四つのシナリオ
本書は、現実的な大国としてアメリカと中国を中心に、G2、協調、冷戦2.0、地域分裂世界の四つのシナリオを描いている。「G2」と「協調」は米中が協力する構図で、「冷静2.0」と「地域分裂世界」は米中が対立する構図。また、「G2」と「冷戦2.0」は米中が抜きん出た場合で、「協調」と「地域分裂世界」は米中の力がそれほど強くない場合。

「G2」とは、言うまでもなく二大大国のシナリオだ。アメリカと中国が共通の意識を持ち、利害の点で連携できるとすれば、G2が形成される見込みはある。だが、両国は環境汚染大国でもあり、アメリカは世界最大の債務国でもある。貸し手の立場では、中国はドイツの方が利害関係で共通点が多い。ドイツの貿易収支は中国についで二位。実際、中国はアメリカよりもドイツとの提携を望んでいそうだ。両国で世界の責任を分担するとなれば、現在のアメリカの負担を中国が半分背負う覚悟を求められる。だが、そうした交渉の度に、立場上まだ発展途上国だと宣言している。しかも、知的財産権に対する意識が乏しく、海賊版天国。互いの経済ばかりが巨大化すれば、むしろ国際的リスクを高める恐れがある。また、中国は共産主義国という顔があり、アメリカにも拒絶する政治家がいまだ根強くある。

「協調」とは、G20のような組織が機能するシナリオだ。その様子を、19世紀のヨーロッパの構図になぞらえる。ナポレオン戦争後に生じた秩序回復のプロセスで、大英帝国、ロシア帝国、オーストリア、プロイセンにフランスが加わり、かつてこれほど国際協調が見られた時代はないかもしれない。徹底的にダメージを受けた世界では、各国は協力せざるを得ない。地球温暖化や世界規模の食糧危機が現実となれば可能性はある。新興国だって、先進国のせいばかりにはできないだろう。しかし、それは本当の意味で世界危機を覚悟しなければなるまい。

「冷戦2.0」とは、かつての米ソ冷戦構造と同じシナリオだ。だが、この可能性は低そうである。米ソ冷戦時代は、それこそ経済交流がまったくなかった。現在、米中がいくらいがみ合っても、経済交流や文化交流までも遮断することはできない。しかしながら、アメリカが債務をチャラにしたければ、貸し手を追い込めばいいという論理も成り立つわけで、古くから陰謀説が囁かれている。ちなみに、米国債の二大保有国といえば、中国と日本か。もし、このシナリオが実現すると、イデオロギーの対立、文化の対立、歴史の対立をより明確化させるだろうし、ピボット国はどちらかの陣営に肩入れすることになり、その存在感も薄れるだろう。

「地域分裂世界」とは、各国がそれぞれの道を行くシナリオだ。グローバルなリーダーシップが存在せず、各地域でリーダー格の国々が台頭するものの、局地的な問題にしか取り組まない。アメリカが大国の地位を辛うじて保つものの、各国が経済的な体力をつけ、技術的に高度化し、アメリカの優位性は限定的となる。国際機関の意見を巧みに無視し、世界的な信条や理念を持つ必要もない。既に、このシナリオに向かっているように映るのは気のせいか?ヨーロッパではドイツが、ラテンアメリカではブラジルが、リーダーシップをとるのは現実的かもしれない。しかし、アジアとアフリカは混沌としており、アジアで中国が、旧ソ連圏でロシアが、リーダーシップをとる可能性は低いと指摘している。

4. シナリオX = Gマイナス
本書は、ポストGゼロの可能性として、もう一つのシナリオを提示する。まさに国際秩序の分裂をもたらす恐れのあるモデルだ。思想、情報、人材、財産、サービスの自由な流れが加速することで、中央政府の経済政策が機能しなくなり、国家としての管理を維持できなくなり、国家の存在自体が無意味となる可能性はどうだろうか?
金融危機がもたらした教訓は、自由市場には国家の監視が欠かせないことを広く認知させた。だからといって、国家が信用できる存在だと、市場に認知させたわけではない。国家が基本的人権を保証できす、社会や個人の威信を傷つけ、信用を損なうとしたら、民衆は国家に代わる何かを求めるだろう。既に地方自治体によって、中央政府の権力の一部が乗っ取られる事例もある。個人が自己防衛のために、国家や社会への依存度を弱めようと考えても不思議はあるまい。実は、無政府状態は、真の民主主義と相性がいいのかもしれない。いずれにせよ、紙一重か。
そこで、古代ギリシアの都市国家群は、ある種の地方都市モデルを提示していると言えよう。都市としての独自性を保ちながら、国家としての意義は、唯一国防におけるものだけという考え方だ。対して日本社会は、かなり遅れた社会制度に寄りかかっている。政治、行政、経済、金融なにもかも一極集中型社会だ。これだけ災害の多い国で、なぜこうもリスクを集中させるのか?地方自治体は、地方分権を訴えながら、肝心な部分で国家にたかり続ける。
Gマイナスでは、国々の内政でリーダーシップが弱まり、権力が細分化する。中央政府の権限が弱まり、地方分権が進む。複数の権力者が乱立すれば、国家分裂の危機さえある。慢性的にテロや暴動が勃発し、無政府状態となるリスクも高い。武力に訴える狂信的な行動が国境を超えて拡がり、食料危機や公衆衛生の悪化に、大規模な犯罪組織や薬物取引が加わる。本書は、このシナリオは実現性が一番低いとしているが、本当にそうだろうか...

2015-04-01

まったく動かない時計と1日1分遅れる時計では、どちらが良い時計か?

あれは、ちょうど百年前の四月一日... それは、日差し麗らかな小春日和に珍しく、土砂降りでジメジメした長閑な一夜のことじゃった...
鏡の向こうの住人で、容姿端麗、理知でリッチな紳士が、腕組みをして思い悩んでいる様子。ただ、なぜか顔が赤い!?その御仁が申すには、でけぇツラした餓鬼を連れて冥府魔道を生きる浪人風情が、なにやら問いかけてきたという。

「ところで、其処許に尋ねたい。まったく動かない時計と1日1分だけ遅れる時計では、いったいどちらが良い時計であろうか?我ら親子、この問いに答えんがために冥府魔道に入り申した。しかるに、其処許のその目はありありと軽蔑の色を浮かべておる。先刻の女人はそうではなかった。真摯な瞳をしておられた。よいか!心して聞かれよ!
女人はこう申しておった... 1分ずつ遅れる時計は2年に1回しか正確な時間を示さないが、止まっている時計は1日に2回ずつ正確な時間を示す。したがって、止まっている時計の方がよい時計だと...
しかし、それが正確な時間であると、どうして知ることが叶うであろう。時計は始終同じ時間を指しているというのに...
あぁ、分からん!いかようにしても、分かり申さん!参るぞ巨大五郎! ~ ちゃん!」
... うる星やつら「第百鬼話、ダーリンが死んじゃう!?」より抜粋。

それでは、世俗邪道を生きる酔いどれ風情が、答えてしんぜよう...
人間認識とやらは、相対的な運動によって生じるもの。静止を感知したところで、周りの運動を基準にしながら静止を定義しているに過ぎず、いまだ人類は絶対静止なるものを知らぬ。
さて、時計とは、なんであろう?その定義について思慮すると、今宵も眠れそうにない。正確な時刻を示す道具とするならば、どちらも役には立つまい。だが、ちょいと視点を変えて、時の間隔を測るものとしたらどうであろう。例えば、湯を沸かす時、程よい頃に火を止めたいといった場合。動いているものであれば、なんとか役に立てそうである。
1日1分遅れるということは、再び正しい時刻を示すためには、長針と短針が共に整数周回分の遅れを示す時。長針だけでも、60日間(= 1日 x 60分)は狂いっぱなし。そこに短針がうまく出会う最も身近な機会は、720日後(= 60 x 12)に訪れる。つまり、約2年間で正規の時間と同期する計算だ。
しかしながら、1日をきっちり24時間で定義する必要が、どこにあろう。単位系が狂っているなら、別の単位系で定義し直せば良いだけのこと。結局、人文(じんもん)の都合で決まる。いや、天文(てんもん)の都合か。せいぜい言えることは、ある規則性が別の規則性と馴染むかどうかということぐらい。時間ってやつは、周期的な繰り返しに過ぎず、そこに何の根拠が求められよう...

一方で、人間精神とやらは、せわしい日常において静謐、静穏、静寂といったものに安らぎを求める。絵画や美術品には静の魔力が宿り、巨匠の手にかかれば、静の手段を持って動よりもはるかに動的な物語を語らせる。おまけに、心臓の鼓動が絶えず動いている俗界の生は、冥界の静に恋焦がれてやがる。人が死を恐れるのは、それが得体の知れぬ静止というだけのことであって、死への衝動はやまない。その証拠に、裕福な暮らしをしてもなお自殺しおる。あるいは、熱中したり、エクスタシーを得たりすると、時間が止まったようだ!と表現するのは、そこに真理が隠されているからかもしれん。
しからば、まったく動かない時計であっても、その静止の様にノスタルジックを覚え、癒される奴がいてもよかろう。いずれにせよ、道具を役立てるかどうかは、使い手の感性で決まる。

ここで、静止を再定義しておこう...
それは、相対的に自我と同化した状態、之即ち、ホットな女性の膝枕という神聖な地に脳の居場所を与えた状態なのじゃよ。
ちなみに、目の前にあるアバンギャルドな置時計は、書類が風で飛ばぬよう重石として重宝しておる。電池が切れて何年も動いていないというのに。地球儀を形取るボディラインと重量感が、妙に色っぽいのでごじゃるよ!
かくして俗界の酔いどれには、あぁ、分からん!いかようにしても、分かり申さん!
... ハーレム星のひめごと「第四十八手話、女王様にやられちゃう!?」より抜粋。