2009-06-28

"こころ" 夏目漱石 著

なにを血迷ったか?漱石を読んでる。この手の文学作品は、義務教育の時代に退屈するものというイメージを徹底的に叩き込まれている。ところが!である。今読むと、なんとなく癒してくれるから不思議だ。人間はあまりにも純粋であると苦しむ。もう少し狡賢く、もう少し鈍感ならば、楽に生きられるだろうに。そこには、流れるような文章に古い時代の風景が重なり、忘れかけている何かを思い出させてくれるような、懐かしい風を感じる。そして、この歳になって明治の文豪に感動するという新たな感覚が芽生えたような、そんな気がする。

主な登場人物は「先生」と「私」。そして、「先生」とよばれる人物の自殺をテーマにしている。「私」という人物は、言葉通りに解釈すれば著者自身となろうが、なんとなく著者との距離を感じる。「先生」は師と仰ぐ人物のことで、生き方の師といったところだろうか。ただ、その関係は単なる先生というよりは、もっと緊密な父のようなものを感じる。学校の先生というわけでもなく、偶然知り合ってから奇妙に執着する姿は異様ですらある。「先生への恋愛感情」という表現もあるので、この関係を同性愛と解釈する人も少なくないらしい。この作品に限ったことではないだろうが、漱石を男色文学という見方もある。ただ、本作品で同性愛という感覚はまったく持てない。物語の中で、「先生」は自叙伝とも言うべき長い遺書を残している。これは「私」宛に書かれたもので、妻にさえ隠し通した秘密を、唯一明かすことのできる相手として描かれる。「先生」は、疑心の中で生きた。「私」は唯一信用できる人物で、選ばれた人間ということだろうか?あるいは「先生」への想いが通じたということだろうか?そこには、精神を共有するような、師弟愛だけでは片付けられない異様な関係が見られる。もしかしたら、本物語は実話を元にしているのかもしれない。

人はなぜ自殺するのだろうか?絶望、期待の大きさ、生活苦、それぞれ事情はあるだろう。誰しも淋しい一面を持ち合わせる。本書には、世間に絶望し、他人に絶望し、自分に絶望し、そして、何もかもやる気を失っていく様子が描かれる。他人から騙され、人間が信用できない。しかし、裏を返せば、他人に裏切られた自分は信用に値する人物と言えるのか?親友との関係に目を向けると、まさしく自分が加害者であることに気づく。親友を自殺に追い込んだのだ。この罪を背負いつつ、自らを呪うよりほかはない。人から騙された人間が、一転して人を騙す立場になれば、それを自らの倫理観によって裁かずにはいられない。他人を憎むだけなら、まだ楽であろうに、自分を含め人間そのもを憎む。そして、自分自身の処遇をめぐって思い煩った挙句、自殺する。そこには、愛する妻には秘密を隠したまま、勝手に逝ってしまうエゴイズムがある。
「人間は、いざという間際に悪人になる。」
誰しも自己防衛のためならば善人にも悪人にもなれる。どんなに他人を気遣っても、エゴからは逃れられない。そこには、精神の不自由さを感じる。本書は、倫理的に弱点を持った、あるいは、それを自ら認めた人間の難しさを鋭く抉る。

本物語で興味を惹くのは、自分は淋しい人間であると自覚してから、自殺に至るまでの道のりが長いことである。ここにも隠されたテーマがあるのだろうか?そのきっかけが、乃木将軍を追った殉死と絡めているところに解釈の難しさがある。乃木将軍が死んだ理由が分からないように、自らの死も理解できないだろうといったことが語られる。自殺の本当の理由とは何か?いまいち釈然としない。単なる孤独感で説明がつくのか?それとも、急激に近代化した時代背景に疎外のようなものを感じたのか?生きる意味を探求した結果、死に辿り着いたとでも言っているのか?無理やり、乃木将軍が天皇を追って殉死したことに、結び付けているようにも見える。死に至るまでの時間の長さは何を意味するのか?その間、友人への罪悪感からは逃れられず、常に淋しさが付きまとう。感情的な変化があるわけでもなく、刻々と時間だけが費やされる。こうしたなんとなく歯切れの悪さが、芸術性を高めているのかもしれない。単純な出来事でもベールに包まれると、そこには崇高な哲学を感じることがある。近代化した社会で急速に西洋化が進み、自由と自己独立といった風潮を反映しているかのようでもある。読む時の気分でいろいろな解釈が湧いてきそうな、ややこしい作品である。

1. 「先生」の人物像
「人間を愛し得る人、愛せずにはいられない人、それでいて自分の懐に入ろうとするものを、手をひろげて抱き締める事のできない人、... これが先生であった。」
「先生」は自らの人間形成を父親の死に遡る。父親の残した財産は叔父によって横領された。父親の前では善人であった叔父が、父親の死とともに悪人に変貌した。親戚から受けた屈辱と損害を、子供の頃から背負わされる。以来、人間というものを憎むようになる。自ら淋しい人間だと告白し、明らかに人間嫌いな姿がある。なぜ「私」はこんな人間に執着するのか?同種の人間の匂いがするのだろうか?夫婦仲も良く、信頼しあった一対の男女、なのに、なぜか不幸。それも、先生は何もせず遊んで暮らしている。妻によると、書生時代は真面目で希望をもって頼もしくもあったという。それが徐々に何もしなくなった。仕事がくだらないとでも悟ったのか?素っ気無い挨拶や冷淡に振舞う姿は、人を遠ざけようとする不快さが表れる。それは、自分に近づこうとする人間に、近づくほどの価値はないと警告するかのように。人間は、欺かれたと知るや残酷な復讐心に燃えることがある。ならば、最初から信じなければええということか?なぜか、被害者であるにもかかわらず、他人を軽蔑する前に自分を軽蔑している。
「かつてはその人の前に跪いたという記憶が、今度はその人の頭の上に足を載せさせようとするのです。私は、未来の侮辱を受けないために、今の尊敬を斥けたいと思うのです。私は未来の一層淋しい未来を我慢する代わりに、淋しい今の私を我慢したいのです。」
そして、真相は遺言で明らかにされる。

2. 里帰り
父親から「卒業できてまあ結構だ」と祝福されると、「私」は卒業なんて毎年何百人もするのだから、それほど結構ではないと反発する。そこには、田舎臭さい父親と、高尚な思想を持った「先生」との比較が表れる。息子から見れば、卒業など志半ばで、大したことではないのだろう。だが、大学に行くのも珍しい時代である。また、その「結構」には意味がある。父親は死の迫った病、生きている間に息子が無事卒業したことに安堵している。父親は、自分の身勝手な立場で「結構だ!」と言っていることを告白し、死を覚悟した姿を曝け出す。これには、一言も反論できない。学問をすれば理屈っぽくもなろう。ましてや若い頃は、照れ隠しもあって、家族が赤飯を炊いて祝うことに素直になれないものだ。だが、そこに理屈などない。誰のために祝うというものではなく、皆で祝うという習慣があるだけ。こうした光景は、おいらが大学に入学した頃を思い出す。ずっーと前に亡くなった田舎の祖母から小遣いをもらったりと。受験戦争と巷で噂される中、受験勉強などほとんどしてこなかったが、祖母の世代からすれば大変なことに映るのであろう。祖母の行為は、孫の祝福というよりも、自らの喜びを表している。その喜ぶ笑顔が好きで、嬉しそうに演じたものだ。本書には、そうした懐かしい香りを思い出させてくれる。

3. 遺書
「先生」の遺書には、延々と卑怯で煩悶した姿が綴られる。自分には義務といったものがない。義務に冷淡だからではない。むしろ鋭敏過ぎて堪えるだけの精力がない。そして、消極的な日々を送ることになったことを打ち明ける。両親の死後、上京して軍人の未亡人とその娘の家に下宿する。「先生」はその娘に惚れる。そこに精神を病んだ親友を一緒に住まわせる。高尚な思想ゆえに神経衰弱でもあるので、心配になってのこと。親友のことを、僧侶のような人物で、偉大な友人と評している。ただ、我慢と忍耐が違うことを理解していないことも指摘する。人間の精神や能力は、外からの刺激によって発達もすれば破壊もされる。いずれにせよ、段々強い刺激を求めるようになるだろう。そこで、我慢と忍耐を取り違えると精神は病んでいく。親友は「精進」という言葉が好きだったという。書物で城壁を築き、くだらない時に笑う女を蔑むような人物。そこに下宿の娘を近づけて、だんだん人間味を回復させようとする。親友が、今まで通り全く女性に関心を持たず学問一筋であるならば、そこに利害関係は存在しなかったはず。しかし、やがて好意を持つようになり、「先生」は嫉妬する。ついに、親友は「先生」に娘への想いを打ち明けた。そして、批判でも求めるかのように、恋に落ちた自分をどう思うかと尋ねた。親友は、自らが弱い人間であることを恥じている。摂欲や禁欲は無論、恋も志の妨げになるというのが親友の信条。そこに「先生」は、復讐以上に残酷な言葉を浴びせる。「精神的向上心のない奴は馬鹿だ!」と。親友は正直で善良な人格なので、彼の信条に付け込んで利害の衝突を避けようとした。「先生」も娘のことが好きなら、堂々と打ち明ければ済む話である。しかし、卑怯にも親友の知らないところで事を運ぶ。気まずい事があっても、親友は「先生」に以前と違った様子を見せない。「先生」はその態度を立派だと思う。
「おれは策略で勝っても人間として負けたのだ。」
そして、親友は自殺してしまった。葬式では、なんで自殺したのか?という質問があちこちから飛んでくる。それが、早くお前が殺したと白状しちまえ!という声のように聞こえる。その後、「先生」は娘と結婚する。外面では幸せそうに見えても、いつも暗い影がつきまとう。妻には真相を隠したまま、そうした空気が自然と妻に伝わる。こうした不安定な精神が、職を求めなくなり、無気力となった原因であると告白する。当初、親友の自殺の原因は失恋によるものだと考えていたが、だんだん分析していくうちに、淋しさにあるのではないかと考えるようになる。それは、同じように自分が淋しい人間だと感じたからである。淋しさが無力感と結びつく。自らの心境を楽に遂行できる手段は、もはや自殺しかないと考える。死こそが、自らの精神を自由にできる。「先生」は長く綴った遺書を残して死ぬ。ただし、妻には真相を知らせないように頼んでいる。恋愛は、時には残虐でかつ利己的である。それを罪悪と解釈するならば、人間の存在そのものを否定するほかはないだろう。

2009-06-21

"近代の政治思想" 福田歓一 著

著者福田歓一氏を知ったのは、森嶋通夫氏の著書「思想としての近代経済学」に一瞬登場するのを見かけたからである。本書が書かれたのは1969年、まだ共産主義と自由主義の二つのイデオロギー論争が激化していた時代、なんとなく60年安保で盛り上がった学生運動の余韻が残っているかのようだ。60年代はおいらの生まれた時代でもあるが、学生運動と言われてもピンとこない。70年代までは政治運動が盛んであったが、80年代に入ると急激に冷め、思想や政治に無関心な人々で溢れた。平和の蔓延や安定した生活が人々の感覚を麻痺させるのかもしれない。おいらもその無関心世代に属す。
本書は、アメリカモデルや近代化という言葉にあまり良い印象がないと、当時の風潮を語ってくれる。そして、日本が経済大国になり、もはや西洋から学ぶものがなくなったという論調も巻き起こったという。こうした現象が、日中戦争時代に現れた風潮に似ていると指摘している。それは「近代の超克」という言葉で表象され、日露戦争以降、全戦全勝で驕った姿である。

古くから人間社会の行動様式には、信念や生き方という伝統がある。その伝統に従って共存関係が成り立ち、その様式の中で争い事も処理される。そこには、迷信めいたものや呪術のような滑稽なものがあり、そこから道徳的倫理観といった思想が生まれる。西欧やインドなどでは、道徳を体系づけるものが宗教である。アフリカでは、血縁を中心にした集団なしに人間社会を語ることはできないらしい。したがって、人間思想には慣習が大きな影響を与え、突然わいて出た論理だけでは説明できない。本書で印象に残ったのは次の言葉で、人間の思考様式の本質をついているように思える。
「政治思想というのは不自由なもので、どんなに抽象的な理論でも歴史の制約を受ける。」

資本主義の根底には二つの価値観がある。それは、世界の総資本量は決まっているという考えと、総資本量は無限に増やす方法があるという考えである。この考えは人間の行動にも現れ、一方では、資本の争奪戦を繰り返し、もう一方では、生産努力によって富を増やすといった二面性がある。ある科学者は、前者がスペイン流で植民地の争奪戦、後者がイギリス流で産業革命に代表されると語っていた。かつて西欧では、地球規模の領地という資本を元手に帝国主義を発展させ、植民地で稼いだ生産物を自国で消費し、生産労働は奴隷が行うものと蔑む思想があった。帝国主義では、植民地から搾取して市民生活をまかない始めると、逆に自国農民を崩壊させるという矛盾も生じる。しかし、宗教改革で労働の価値が見直されると、生産労働によって富を増やす行為が肯定されるようになり、経済発展を加速させる。しかし、資本が枯渇してくると、生産労働による利益拡大も陰りを見せる。総利益は以前ほど拡大することはなく、少ない利益の中で分配されるが、争奪戦の意識だけが強く残り、格差社会を助長する。そして、世間は、経費や税金の使い道など、無駄を無くすことに躍起になる。無駄を無くすということは、効率良く使うということである。だが、とにかく減らすことばかり考える連中で溢れかえった結果、必要なところには使われず、不必要なものは残るという奇妙な現象が起こる。しかも、それを世論が後押しするという滑稽な風潮がある。そもそも、一番無駄なのは政治ではないのか?ニーチェ風に言えば、余計な人々は政治と新聞である。では、なぜ政治なんてものが存在するのか?本来あるべき政治の姿とは?素朴な疑問が酔っ払いの中を渦巻く。考えてみれば、人が生まれながらにして、無条件で税金を納めるという奇跡的な社会システムがある。これは、生まれながらにして基本的人権が守られるという約束がなければ成り立たないはずだ。にもかかわらず、拉致問題を放っておいて、この件で国家反逆罪に問われた政治家を一人も知らない。政界というのは、表向きイデオロギー論争をしたがる連中の集まりに見える。だが、政治屋の本音には、政治を動かしているのは力であって思想ではないという意識があるだろう。見せかけのイデオロギー論争は、多数派工作と民衆への宣伝であって、後付けの飾りに過ぎない。そうした論争を勝手にやる分にはいいが、政治の恐ろしいところは、その最終手段に軍事行動も含まれ、民衆の生命に直接影響を与えることである。したがって、政治とは、国民の死者の数を計算しながら行動する統計的仕組みと言えよう。

国家や社会は人間によって組織され、国家権力もまた人間によって組織される。権力は民衆の代表者で構成されるが、この代表者という論理がくせものである。民衆の信託を受けた人間の義務であり、権力がその信託に違反すれば、代表者を撤回できるはずだ。ここには、政府と人民、権力と自由が対立する構図がある。そもそも、自律した人間で構成される社会であれば、政府組織を必要としないだろう。となると、政府の存在価値を強調するには、民衆は自律した人間ではないことを証明するのが手っ取り早い。金融庁の存在意義は、まさしく自律できない金融機関の存在を証明している。共産主義のような大きな政府を訴えるのは、社会には自律できない人間で溢れていると叫んでいるようなものである。権力者は、自律できない国民が多ければ歓迎するだろう。それだけで権力組織を拡大する理由付けができるからである。過保護からは自律した子供が育たないように、他律によって自律を促すところに矛盾がある。完全に自律した人物による君主主権と、不完全で自律できない民衆による人民主権とではどちらが良いか?と問えば、おそらく前者である。しかし、完全に自律した人間がいない、あるいは、いたとしてもそういう人物ほど権力欲がないところに問題がある。結局、政治は「比較的まし」という論理でしか動かない。そもそも、民主主義とか自由主義といったものは面倒なシステムで、意志決定の効率性が非常に悪い。そこで、多数決を正義と崇める風潮がある。だが、多数決は、少数派に犠牲を強いることにもなり、社会運営の効率性を促す一つの手段に過ぎない。また、個人が本当に自己の意見を持っているのかも怪しい。公共の場では他人の意見に翻弄される。しかも、巧みな話術で扇動する報道屋にかかれば、いちころだ。報道屋はデマを流すわけではない。些細な事実を盛り上げ、重大な事実をささやかに伝える。したがって、彼らの情報操作は超一流だ!神は人間に自律を促すために、あえて政、官、報の魔のトライアングルを創ったのか?そして、人間に本質に近づく努力を怠るな!と励ましているのか?

1. 中世ヨーロッパ
ルネッサンス時代、人々が新しい時代を実感したために、逆に昔のギリシャ時代やローマ時代を懐かしんで文化の再発見をした。こうした現象は、ヨーロッパに限らず日本にも見られる。ただ、歴史学的には、「中世」という言葉はヨーロッパ発だという。世界を見渡しても、現代の思想や学問の根源を遡れば、古代ギリシャ時代に辿り着くことが多い。まず、古代ギリシャで、都市国家を単位とした社会体制が生まれた。その後、ローマ時代にキリスト教を単位とした全ヨーロッパで同じ価値観を持つ普遍社会が形成された。中世ヨーロッパを形成した民族は、ローマ帝国に侵入したゲルマン民族の移動で象徴される。奴隷制に目を向けると、古代ギリシャやローマ時代が奴隷社会であったの対して、中世ヨーロッパは農奴としての地位を勝ち得たという。農奴は土地に縛られてはいたが、家族を持ち農民として生活できるようになったという。中世のゲルマン人の最底辺には共同体があり、その共同体の一つ上に軍事貴族という支配層がある。軍事貴族と個人の忠誠関係では、個人的な契約関係の上に支配機構としての封建制が成り立つ。地域によっては、一番偉い軍事貴族を国王としている。そこには、ばらばらの支配層がありながら、ヨーロッパ全体としては観念的に統制されたキリスト教社会があるという奇妙な社会構造がある。もともとEUとして結束する土壌があったと言えそうだ。また、王様は直接国民を支配していたわけではないという。王様が支配したのは貴族の封建領主で、その封建領主も王様との個人的な契約関係に過ぎない。領地を給付してもらう代わりに、いざという時に忠誠を尽くす関係で、君主に契約違反があれば、封建領主は他の君主と忠誠関係を結ぶ。中には二人の君主と契約した領主もいるだろう。国王が存在しても厳密に国境があったわけではなく、契約を結んだ貴族たちの領地の総和でしかない。貴族の相続人次第では別の国の領地に移ることもある。そうした事情から、最底辺に暮らす農民たちが国民という意識を持つはずがない。支配単位は政治的に統一されておらず、民衆にしてみれば国家の形態よりもはるかにローマ教会の影響が強かったという。ローマ教会は武力を持たないので、民衆を教化して権威を確立することが死活問題となる。教会は優れた組織を持ち、高度な政治力を発達させ、権力と権威の二元性を確立した。封建社会では、生まれながら身分は確定し、親の仕事を継ぐ。教会を中心とした伝統思想の力は圧倒的である。国王ですら伝統的慣習は絶対で、「国王は人の上にいる、しかし法の下にいる」と言われたらしい。中世の政治理論では、国王は絶対的な地位ではなく、理論構築には教会の聖職者が圧倒的に強かったという。

2. 政治思想の誕生
中世風の国家で少しずつ統一が進み、貴族、聖職者、平民といった身分の代表からなる議会が成立する。また、イギリスのマグナ・カルタで代表されるような成文憲法も現れる。その力を大きくしたのが、ルネサンスの文化運動と宗教改革であるという。ルネサンスがもたらしたものにマキャベリの理念があるという。それは、人間は理性的な秩序なしに、決定的に利害関係から行動するというものだ。人間が利己的な欲求という本能に従うならば、そこに秩序を生み出すのが政治ということになる。しかし、政治を行うのも人であり、そこに権力欲を持った人間が出現する。マキャベリは、権力支配の手段として最も確実なのは、暴力むきだしの物理的な力しかないと考えたという。国家を支配者自身の権力にものを言わせて構成する、いわゆる「君主論」である。その正反対の思想に、強烈な理想主義である「ユートピア」がある。トーマス・モアは、人間が人間をむさぼり食うような非人間的な現実を見て、空想的な社会を描き出す。私有財産のない人間が平等に労働できる社会、そこでは労働は人間の義務となる。万人の平等な労働によって平等な余暇が生まれる。そして、戦争のない平和な世界を夢想する。現実主義と理想主義の論争はいつの時代でもつきもので、だいたい現実主義が勝利するような気がする。差し迫った問題では、理想論は無力ということか?人間社会とは不思議なもので、理想を追いかけ過ぎると逆に紛争が起こる。歴史には、平和主義者が結果的に戦争を招いた例は多い。

3. 宗教改革
宗教改革は、伝統的秩序を批判する立場である。ルネサンスとは逆に、人間の尊厳を徹底的に無力化する。人間に人間を救済する力はない。救済は教会活動からくるのではなく、精神が神を求め神の恩恵を受けた時にくると考える。そして、宗教組織に頼らず、個人の良心が絶対的な意味を持つようになる。人間の内面の解放といった思想は、ドイツ農民戦争という形で現れる。しかし、ルター自身は農民を弾圧する側に立っている。次に、神を人間社会から切り離した徹底的な思想が、カルヴァンによって進められる。人間は善悪を判断することができない。それを判断するのは神である。では、神の恩恵を受けるためにはどうすれば良いのか?それを人間が知るはずもない。もし知るとなれば、人間を神の心を知る地位に崇めることになる。したがって、ただ自我をコントロールしながら、神から与えられた仕事に励むしかない。結果はどうであれ、合理的な組織をつくり、理性によって人間自身を統制するように努力する。そこには、人間が自己統制能力のうちに、人間の意味を開眼するといった高度な思想がある。そして、労働するのは奴隷であるという考えを放棄し、人間の本分は労働であるという反対の価値観を生む。中世の政治像は、伝統主義という凝り固まった不自然な理性を見出したが、普遍社会が疑問視されると、その理性は宇宙法則でもない限り危うい立場となろう。そもそも、人間の内面の問題に、聖職者が介入する必要はない。

4. 主権の誕生
本書は、近代国家の基本的な枠組みは絶対主義で確立したと語る。そして、絶対君主制で避けられないシステムが二つあるという。一つは官僚制で、王室の家産管理を司る私的機構がそのまま政治権力を握る。もう一つは常備兵で、傭兵であった君主の私兵から変化する。常備兵が、かつての普遍社会の枠組みの縄張りから権力を確立する。ただ、武力だけで政治はできないので、絶対主義は「公共の福祉」という言葉で民衆を操る。この言葉が、無条件に税金を払うという奇跡的な仕組みを誕生させたという。中世では、人道的な立場を宗教によって操っていた。絶対主義では、宗教思想を利用して人間の内面までも操る。権力と自由が激しく対立すると、権力という強い立場は逆に人権という概念を生む。絶対主義において、自由ほど厄介な問題はない。なるほど、人間は行き過ぎる思想に違和感を感じると反抗心を剥き出しにする。これが「天邪鬼の原理」というものか。主権は、身分、地域、言語、宗教など全ての違いを超越して最高権力の存在を強調する。つまり、無条件に国家を維持するための権力である。近代国家では、主権は国民と結びつく概念であるが、歴史的には君主主権という形で現れたということらしい。権力者が民衆を納得させるには、秩序を維持し、共存できることを約束という形でとりつけたわけだ。当然、約束違反があれば暴動が起こる。自然法という概念があっても、所詮は人間がつくるもので、人格やモラルといったもので構成されないと秩序は生まれないのだろう。

5. 国家
近代哲学は、世界観の認識のメカニズムを考えるようになったという。人間を自覚し能力の限界を考察する。こうした傾向はカントに代表されるという。カントの批判哲学は、理論認識、道徳認識、芸術認識といったものが、人間のどのような能力や資質によって行われるかを考察したという。人間が自然に属すという科学的認識から、自律した人間状態を考えるようになると、はたして圧政が自然状態なのか?という消極的な考えに疑問を持つだろう。そして、自由意志によって抵抗するという積極的な考えが生じる。個人を自覚し、社会が人間個々によって構成されるという意識がはっきりする。とはいっても、完全な自由放任の下で無政府状態になっても人間社会は成り立たない。そこで、二つの考えがある。一つは、権力は不愉快なもので個人を超えて存在するが、民衆の同意を得て存在する分には良いのではないか、という権力の制限である。二つは、権力自体を被治者によって治める、という自治の考えである。国家は人間の組織であるという認識は当り前に思えるが、人類には国家は国土であるという認識が暴走して、帝国主義へ進んだ歴史がある。戦争で負けて国家が亡ぶということは、人間組織を破壊されることである。それを認めたくないために、国家を国土とすることで、永遠に亡びないという幻想に憑かれたのであろうか?日本人の感覚は、国家は国土であるという認識が強いように思われる。本書は、それを「建国記念日」で説明する。だいたいの国で建国を祝う日は、革命記念日だったり、民主体制が確立した日が選ばれるらしい。だが、日本はなぜか神武天皇まで遡る。国家は、人間の組織であるという認識があれば、日本国憲法の制定日あたりになりそうだが、日本人にはもともと民主主義を民衆の手で勝ち取ったという意識が薄いのかもしれない。ちなみに、国家は人であるという考えは、古代ギリシャに遡る。政治家ペリクレス曰く、「アテナイとはアテナイ人のことであり、アテナイの町を取り囲んでいる城壁その他の土木施設のことではない」

6. ホッブズ
「リヴァイアサン」の著者トマス・ホッブズは、彼自身の人間観に深刻な問題があったという。伝統的な社会理論では、人間の欲求は身分的に制限される。身分制度が神の定め、自然の掟とされる時代には、庶民階級の美徳は「節約」である。逆に、少数派の支配者階級は気前が良い方がいい。身分制度は、人間の美徳をも身分によって変えた。ところが、ホッブズは、こうした階級制度があった歴史的事実を無視したという。彼の「自然状態」には、身分制度など前提になく、人間はすべて平等である。人間が神から命じられる義務は、第一に自己保存である。これは生物としての本能であるから、この欲求を抑制することなど無理である。ホッブズはこれを自然権として肯定する。動物のように本能のままに、腹が減った時だけ獲物をとるならば、問題はない。始末が悪いのは、人間には他の動物よりも知能が進んでいることである。人間は未来予測する。現在の飢えや渇きだけで行動するわけではなく、未来の飢えや渇きを避けるように準備する。そこに、世界の富の総量が固定されると考えると、深刻な事態となる。人間は互いに争い、人口増加は争いの量となる。そして、人間は怪物リヴァイアサンへと変貌する。「人間は人間にとって狼である。」となるわけだ。下手に先見性能力を持っているがために、弱肉強食よりも一層深刻な紛争となる。自律できない人間どうしで共存できないのであれば、他律に頼るほかはない。そこで、ホッブズは強力な権力を要求する。そして、無限の欲求を制御するには、国家権力は無限でなければならないという理論が組み上がる。ここにホッブズの絶対主権の主張が引き出される。ただ、絶対主権も人間が管理するもので、そんな公正な人間はいるのか?という永遠の矛盾からは逃れられない。

7. ロック
ホッブズの人間が生きるための富の総量は、あらかじめ決まっているという考えに対して、ジョン・ロックは無限に生み出すと考えたという。富を生み出すには、労働が不可欠である。人間が農業をして食物を育てるのも、人間の予測能力からくるもので、将来の不安を解消するために働く。それが、自らの世代だけに留まらず、子供の世代まで心配すると、収穫の限界が見えない。企業も、今年は儲かっても、来年はどうなるか分からない。将来への蓄えという行動様式には、自己規律があり、人間の予測能力からくる合理的行動と言えるだろう。ただ、将来への不安は欲望の限界を教えてくれない。では、安定収入が保障されれば、自己規律は必要なくなるか?と問えば、むしろ危険だから人間の欲望というやつはやっかいである。また、富は金銭的なものばかりではない。財産には知的財産や人格財産もある。人間は必ず死を臨むもので、自分の生きた意味が無駄だったと信じたくはないだろう。そして、生きてきた意味を探さずにはいられない。自らの生き様と対峙し、何かを悟ろうとする欲求にも限りがない。これが自律へと向かうのだろうか?ロックは、理性と勤勉という視点から人間を規定したという。伝統主義では、人間の感性は卑しいもので、理性によって抑制すべし!と考えたが、当時の思想改革派は人間の感性を解放することに本質を求めたという。本来、理性と感性は対立するものではなく、どちらも人間の持つ本質である。しかし、現在においても理性と感性は対立するものとして扱われる。あらゆるものを対立構図で煽り、それを民衆が注目するのも、人生に退屈しているからであろうか?

8. ルソー
ルソーは、人間の自律を強く求め、自分自身の尊厳への強烈な欲求があったという。彼は、人間の哲学に歴史の理論を加えたのが特徴だという。フランス啓蒙思想における感性の解放は、ホッブズやロックのように生存とは結びついていないという。生活が豊かになり贅沢になると、人間は怠惰になり、精神を堕落させることがある。ルソーは、人間の欲求について、原始状態へ遡って議論する。まず、人間は自然人であり、獣と同じく本能で生きる。だが、人間は獣のように共食いはしない。人間には憐れみの本能がある。仲間意識と同情心がある。しかし、ルソーは、この美しい本能が、更に高次の能力へと発展させ、文化を築くことにより失われると考えるという。たいていの場合、贅沢を悪徳と考えるのは、嫉妬心からくるであろう。贅沢は敵だ!と叫んでも、経済システムは贅沢が貢献しているところが大きい。生産労働を肯定し、富の欲求を肯定するのも、結局、蓄財を正当化する言い訳と発言する人もいるだろう。感性の解放といいながら、教育を受ける財力のない人々がいる。貧困層を人間扱いしているのかという疑問もある。ルソーは、理性を利己心と結びつけ、私有財産を人間疎外の始まりだとして批判しているという。ルソー風に言うと、文明社会で一番人間らしさを失っているのは、恵まれた人間ということになる。理性ばかり働かせている道徳家や哲学者などは、もはや人間性を失っているということか。それに比べて、無知な庶民はまだ同情心を持ち続けている。これが、ルソーの文明批判というものらしい。これは、人間が道徳的に悪いからではなく、社会制度が人間をそのように強制していると指摘している。結局、ホッブズやロックの理論に立ち返って、国家は人間が組織するものであって、国家制度を見直せ!ということになりそうだ。ルソーは、人間の人格性が完全に実現できるような国家構想を「社会契約論」で示したという。その構想は、組織のメンバーが共同してつくる制度で、かつ、全てのメンバーによって運営される社会でなければならないという主張である。その意味で徹底的に平等でなければならない。とはいっても、これを実現するためには、人間を超越した人間でなくてはならないことになる。本書は、フランス啓蒙思想では人間の自律には労働が必要であるという意識を欠いていたと指摘している。ただ、生み出された文明だけを礼賛した時、感性の解放は庶民にまで浸透するが、逆に感性を没落させることになる。思想だけ進化しても、現実を直視しなければ、単なる空想で終わるということか。

2009-06-14

"時間と自由" Henri Bergson 著

人間の時間認識には奇妙な抽象化が見られる。数学の立場の違いのように離散と連続を使い分けたり、過去、現在、未来で大別する。その中で現在だけは明らかに異質である。過去や未来が無限性を示すのに対して、現在は今という瞬間認識である。昨日はもう来ない。明日は来るかも分からない。人間ができることと言えば、今を精一杯生きることぐらいしかできない。なのに、過去と未来の意識は人間行動に大きな動機を与える。突然人生の岐路を迎えると、その重要さにも気づかず、後になって準備ができていなかったことを後悔する。おまけに、神は「おとといおいで!」と囁きやがる。これを「後悔先に立たずの法則」という。人間は、過去から現在までの連続性の中で、未来を思考し続ける。過去を振り返れば自虐の念に陥る。じゃりン子チエ曰く、「ウチは日本一不幸な少女やねん!」そして、はかない明日に希望を持つ。じゃりン子チエ曰く、「明日はまた明日の太陽がピカピカやねん!」
人間にとって現在や過去は、未来を処理するための手段のように映る。幸福とは未来の目的である。それは、将来もまた生きたいと願っている証であろう。人間は幸福のための準備ばかりしている。たとえ幸福になれないとしても。人間はしばしば不幸を言い当てる。それは、幸福の正体が分からないからだろう。人間は現在について絶えず思いをめぐらし、現在という瞬間を拡大解釈する。その一方で、過去や未来の無限性は想像を絶するので見ぬ振りをする。その結果、認識の中で、無を永遠に、永遠を無にする。人間は、恐ろしいほど無知の中にいる。人間にとって永遠ほど恐ろしいものはない。無限の時間軸上で自分の存在を失うことに無関心ではいられない。しかも、自分の存在している間に地位を失ったり名誉を失うことを恐れる。もしかしたら、宇宙原理には、創造主による絶対時間なるものが存在するのかもしれない。しかし、人間は、平坦に続く宇宙で、ほぼ一定に刻まれる相対時間しか認識できない。だから、過去と現在と未来の連続性の中で、慣習と経験に基づいた予知能力によって相対的な価値観しか見出すことができないのだろう。もし絶対時間なるものが認識できたら、現在という瞬間だけの認識能力で絶対的な価値観を見出すことができるかもしれない。人生とは、死を宣告された死刑囚のようなものだ。絶えず誰かが死んでいく。残った者はそれを傍観しながら自分の番を待つしかない。その絶望から逃避するかのように生き甲斐を求め続ける。これが、人間の状態図というものか?死の重圧を感じずに死ねたら幸せであろう。
おっと!時間について語るには、時間がいくらあっても足らない。時間が永遠である限り、酔っ払いのお喋りを止めることはできない。もはや酔い潰れるのを待つしかないのだ。などと、心の中でブツブツと能書きを垂れながら本屋を散歩していると、精神を時間の概念から考察する書籍に出会った。

古来、哲学論争には、自由意志は存在するという立場と、それは宇宙法則の一部に過ぎないという立場の対立がある。アル中ハイマーは、精神は気まぐれに支配されると思っているので、どちらかと言えば後者の立場に近いのだろう。だからと言って、自由意志の存在を否定する気にはなれない。そもそも、対立しなければならないのか?感情と宇宙法則は互いに補完しあっていると言った方がいい。何かに完全に集中した時に現れる、ある種のフロー状態は、精神を別の宇宙へと導いてくれる。そこには、無我の境地とも言える心地良さがある。精神を意識的にフロー状態へ誘導することは可能かもしれない。だが、その状態になるまでに時間がかかることもあれば、どうしてもその状態になれない時もあり、完全に自我をコントロールできるわけではない。この現象は、単に本能が心地よさを求めている結果であって、精神の衝動と解釈することもできる。その一方で、ある種の義務や信念が持てるのは、経験的に培われた意志によって得られるように思える。これを理性と言うのかは知らん。精神は時間と空間の中でうごめく。それは、精神が時間の流れの中で空間として存在し、その瞬間では宇宙空間が絶えず変形するような、多様性の連続体とも言おうか、その実体を説明することはできん。精神は、時間と空間が一体化した時空として存在するかのようでもあるが、一定の物理量として定義することもできない。仏教には「因果応報」という言葉があるが、これを自由意志でコントロールできると解釈するのは、いかにも教育者らしい。単に原因となる行動があって結果があるだけのことで、むしろ自然法則に近いように思える。人間は、ある原因にはある結果が得られるという関係を、経験的に定式化する。だが、その原因には、偶然性という異物が紛れ込む。しかも、偶然性は、人間には手におえない複雑系に支配され、ほとんど無限性を示す。人間の行為には、自我の中にある行為と、現実にする行為がある。やろうとした行為と、やってしまった行為とは違うことも多い。検証されるのは、実際にやった行為の方であるが、意志はその双方に存在するからややこしい。今宵は一杯しか飲まないと堅く決意したところで、気がついた時には実体は既に次の店に存在する。こうした意志の現象は、「気まぐれ」という概念を持ち出さないと説明できない。

本書は二元論批判という形で展開される。著者アンリ・ベルクソンという人物は根っからの批判家なのか?一方に、自由、内面性、質的感情、精神を置き、もう一方に、必然性、外面性、量的感情、物質を置く。そして、自我の時間を「持続」という概念で語る。持続とは時間の純粋認識のことか?人間の認識には物理的なものと心理的なものが混在する。量と質の感覚とでも言おうか。その中で、真の持続は心理的なもので決定され、真の人間認識は空間とは独立したものだと言っているように思える。となると、空間的な認識は物理的情報から思い浮かべるので、純粋認識ではないということか?時間認識を空間認識と切り離すことができるのか?んー!やはり、酔っ払いの精神には、時間と空間が混在しているような気がする。いや!調和すると言った方がいい。また、自由を時間の外に置いたというカントの「純粋理性批判」を思いっきり批判している。そして、カントの誤謬が持続と空間を混同していることだと指摘している。んー。自由意志が理性によって制約を受けるかどうかといった議論もあるだろう。理性は純粋認識か?と問えば、本能に従うところもあれば経験に従うところもある。理性のないアル中ハイマーは、理性認識という領域を意識的に避けていた。スピノザやカントにいまいち踏み込めないのは、著書のタイトルの仰々しさにある。しかし、そこまで批判されると酔っ払った天邪鬼は逆に興味を持ってしまう。批判が見られるのも、それだけ存在感がある証でもあろう。いずれこの方面にも挑戦してみたい。

1. 感情の測定
かつて、科学は時間と空間を別物としていた。空間は物理現象の起こる入れ物であり、時間はどの宇宙空間でも一定に刻まれるものとして扱われた。しかし、アインシュタインは時空の概念を持ち出して、物体の運動状態によって時間の進み方も変わると主張した。運動状態は、物体の存在する空間状態とも言える。この空間状態を、人間の意識の状態、あるいは感情の状態と換言できなくはない。自我は時空の旅を続け、自我の持続とは、空間の連続性と捉えることもできる。アインシュタインは引力の正体を空間の曲率で説明した。感情の力も精神空間のゆがみで説明できるかもしれない。本書は、感情を量的に測定した科学者の実験を紹介してくれる。世間には、精神物理学という分野があるらしい。精神を測量するからには量の相対的な定義も必要となるが、主観の領域にあるものを定量化できるとも思えない。本書は、精神には量的感情とは別に質的感情があることを指摘し、こうした実験に批判的な立場をとる。だが、物理的な刺激によって感情をある方向へ向かわせることもある。主観を客観で量ろうとした、その試みには賞賛を送ろう。感覚や感情が、外的要因によって影響される部分と、もともと存在する神経系の活動との融合によって得られるならば、エネルギー保存則に従って自由意志の持つエネルギーを説明できるかもしれない。そこには精神の物理的決定論とも言えるものがある。

2. 心理学
精神を体系化しようとした試みは心理学でも見られる。心理学者は、心理状態をあまりにも簡単な理由で結論付けてしまうように思える。彼らは、なんでも分類して抽象化の型にはめるといった手法をとる。それはどんな学問でも見られる傾向で、人間はあらゆるものを抽象化し分類しようとする癖がある。難問の本質に近づくには有効な手法であり、人類の歴史は抽象化の歴史とも言えよう。ただ、心理状態の遷移は、もし同じ条件下であっても、ある確率でしか予測できない。その条件は無限に存在し、とてもパターン化できるとは思えない。こうした現象は、心理学者よりも障害者施設などで働く人々の方が理解しているように思える。彼らは全ての障害者を同じように扱おうとはしない。全ての人が違う症状を持っているのは最初から承知している。観察方法もパターン化したところが見られず、常に試行錯誤の中にあり、最初から理解できないのは当り前という態度で臨む。こうした光景を見学していると、心理学者ほど心理を理解していない人も珍しいと思わせるものがある。そもそも、障害者で括るのもおかしな話かもしれない。完全な人間など存在しないわけだから、どんな人間もなんらかの障害を持っていることになる。どんな分野であれ専門家という自負が、その専門の理解を妨げることがある。知識の豊富さは自信を高めて驕りとなり、精神をもコントロールできると信じてしまう。その結果、自分の精神分析を怠るのかもしれない。

3. 外面的自我と内面的自我
精神には外面と内面の二面性がある。それは、言語能力の限界によって分類できそうだ。精神の表現が難しいという壁を感じた時、思考自体はその限界の境界線をまたいでいることになろう。アル中ハイマーの場合は単にボキャブラリーが乏しいだけであるが、しばしば自我がその境界付近で浮遊している感覚になる。外面的には思考の限界は、思考の表現の限界に等しいと言っていい。人間は、感覚、感情、情念、努力といった意識の状態を、強弱や大小で表現する。すごく悲しいとか、そんなに悲しくないとかいった具合に、量的多寡で区別することが多い。しかし、相対的に比較できる対象というと、その人の主観の中にしかない。にもかかわらず、日常生活でなんの違和感を感じないのは不思議だ。本書は、量的感情とは別に質的感情の存在を指摘している。そして、量的感覚を表現する言葉は豊富でも、質的感覚を表現するのは難しいという。なるほど、感情の領域では質的な違いを感じることの方が多いが、複雑な感情を表現する時に発する言葉は、悲しいとか嬉しいといった感情を大別して、強弱と組み合わせる。精神が高まった状態で言葉がどもるのは、言葉にはできない何かを表現しようとする苛立ちを感じているのかもしれない。芸術家が意図している精神を感じられるかは別にして、鑑賞者の主観は勝手に何かを感じる。言葉のニュアンスの難しいところは、個人の経験則に基づいてイメージ付けられるところである。言語の限界が、外面的自我と内面的自我の二つに分裂させるならば、精神の解明に言語は邪魔な存在となろう。だが、言語で表現するしか手立てを知らない。精神分析とは、外見上の論理によって内にある不合理性を表現するという、なんとも理不尽な世界に映る。必要に応じて人類が言葉を作ってきたならば、案外、言葉で精神を近似できるのかもしれない。だが、精神の進化したスーパースターによって発明された言葉を凡人が理解できるはずもない。形成された言葉が一般に浸透するまでには時間もかかるだろう。人類が言語の枠を破り、精神を知覚する願望を永遠に持続するならば、言語もまた永遠に進化するだろう。そして、外面的自我は内面的自我に近づこうとする。ひょっとしたら言語という手段がテレパシーという手段に替わるかもしれない。

4. 自由意志の体系化
自由意志の存在を信じる人は、あらゆる状況で選択する権利を持っていると思っているだろう。その一方で、選択権も確率論に落ち着くという考えがある。こうした議論を眺めていると、コンピュータの分岐命令と似た思考パターンを思い浮かべる。高速動作させようとする分岐方向のスケジューリングや、両方の条件を並列評価して不要な値を破棄するなどの手法は、予知能力や想像といった思考に似ている。そして、即時に判定処理できるかは経験に対応する。人間の思考は無限の条件分岐で成り立っているような気がする。これが判断力というものか?これが、自由意志の正体だとすると、機械的な決定論者の言い分も理解できなくはない。機械的に表象できるから単純化あるいは体系化できたと主張する人もいる。だが、現実に数学は不完全性の中でさまよい、科学は不確定性の中でさまよう。人間は、体系化で説明できれば、その学問を高度なレベルに引き上げたと錯覚するのだろうか?むしろ、わけが分からないから高度な学問に見えることもあろう。天気予報が確率論に持ち込まれるのだから、人間社会の方向性も確率論で語ってもいいだろう。ちなみに、自分の意見が間違っているかもしれないという政治家や経済学者を見かけない。人々を扇動する評論家は、自らの正当性を主張するために、見せかけの証拠まで持ち出して同意を求める。彼らは占い師か?ただ話を聞いてほしいだけの寂しがり屋か?経済学にしたって予測の8割も当たれば大したものだが、一度の予測ミスで経済危機が招く。カリスマ政治家やカリスマ経済学者と崇められる人は、じゃんけんトーナメントの優勝者をカリスマじゃんけん師と呼んでいるようなものであろう。

5. 予知能力
未来の全ての先見条件を知ることができれば、そこから得られる結論は決定付けられるだろうか?偶然性は、まさしく未来予知できないために起こる現象と考える人も少なくない。未来予測できれば、全ての人間行動は予測できると信じる人もいる。人々は、原因がはっきりしていれば、合理的に行動するというわけである。典型的な例では、経済学者は、将来、株価が上がると分かっていれば、株を買うのは当然だと考える。未来予知ですべての人間の行動規範が同じになるとしたら、もはや人間の多様性を否定しており、それは経済構造そのものがおかしい。そもそも、なんのために経済があるのか?という素朴な疑問に立ち返らなければならないだろう。人類滅亡の危機が迫れば、すべての人間に共通意識が生じて統一の行動規範が現れるかもしれないが、それだって社会混乱の中で、自分だけ助かろうと悪あがきをしたり、最後の人生を精一杯生きると覚悟を決めたり、様々な行動が現れるだろう。資産価値が正当に評価されなければ、経済は正常化しない。株価の上昇で見せかけの資産が増えても、資産価値が相対的に下がれば同じことである。人々は合理的に行動するとは言えないのではないのか?というより、それは人間の勝手な解釈であって、そこに本当に合理性があるのかも疑わしい。したがって、人間に正確な予知能力があったとしても、結局、複雑系からは逃れられないような気がする。特定の人だけに予知能力があるとしたら、それは他人を出し抜く能力として存在するだけである。先見性があって事業に成功したというカリスマ企業家の話を耳にすることがある。もちろん、他人を出し抜くために人一倍努力しているのは間違いない。だが、そこには偶然性が潜むことも見逃せない。現実には、隙のない論理を組み立てて予知能力を補完しようとするが、結局、不完全性に支配され確率論におさまるような気がする。これが、自由意志の正体だろうか?

2009-06-07

"人間失格" 太宰治 著

時々、悩んでいる人に、「それは考えすぎ!」と助言する光景を見かける。確かに、目先の結果を求めるには、良い助言かもしれない。しかし、人間の最終的な結果は、必ず死へ臨む。となれば、精一杯生きる意味でも、思いっきり考え過ぎることに、なんの躊躇があろうか。精神力とは、鈍感とは違う。精神の弱さと正面から向かい合う勇気こそ、精神力の源泉であろう。芸術家が、鑑賞者を魅了できるのも、自らの精神を曝け出すからである。芸術家は自我と正面から対峙する。おそらく彼らは、精神病すれすれの世界で生きているのだろう。精神病とは、精神のある到達点なのかもしれない。などと、ぼんやりと考えながら本屋を散歩していると、ある一冊に目が留まった。恥ずかしいことかもしれないが、太宰小説を読んだことがない。なんとなく立ち読みしていると、冒頭からなかなかのインパクトがある。これは買わずにはいられない。しかも、270円(集英社文庫版)は安い!
本書は、三枚の奇怪な写真から始まる。一枚目は、握りこぶしをしたままの不自然な少年の笑顔。ニ枚目は、命の重さなどまるで感じさせない学生の笑顔。三枚目は、死相とも言うべき、白髪で自然に死んでいるような表情のない顔。そして、手記は次のように始まる。
「恥の多い生涯を送ってきました。自分には、人間の生活というものが、見当つかないのです。」
この異様な空気に、なんとなくアル中ハイマーの生活を重ねてしまう。それは、酒に溺れ、女に溺れ、睡眠薬に頼る生活である。

「人間失格」は、昭和23年に執筆され、その完成の1ヶ月後に自殺していることから、まさしく太宰治の遺言とも言える作品である。そこには、幼少の頃から人間嫌いに見舞われ、それを見抜かれないように道化を装いながら人生を演じる術を学び、青年期には、淫売婦に溺れ、酒に溺れ、やがて、自殺未遂や薬物中毒に侵されていく様子が描かれる。本書は決して陰気な作品ではない。見事なほどの人間嫌いとニヒリズムには、むしろ癒しの空間を与えてくれる。これは、まさしく太宰治の人生回想録である。
破滅的な生活の中から生み出される作品とは、どんなものだろうか?人生の絶望を味わった人間でないと、芸術作品って生み出せないのかもしれない。芸術とは、ある種の現実逃避でもある。自らを追い込み素朴な精神が現れたところに芸術が顕になる。自らの哲学を語れない作品には迫力を感じない。哲学は自らの精神を曝け出すことが鉄則であろう。日本には偉大な哲学者がいないことから、哲学後進国と揶揄されることもあるが、どうしてどうして、日本文学にこそ庶民的な哲学を見せてくれる。人類には、あらゆる議論を単純化しようと努力してきた歴史がある。物事の本質を探求しながら自由意志の存在を求めてきた。精神の深みに嵌った挙句、狂気する者も数知れない。それでも、狂気に向かう衝動は抑えられない。常識によって救い出された人は、見つけられないものを探していたことに気づくだろう。常識とは、社会の風潮に流されながら曖昧な態度をとる術を会得することである。思考の深みは、人より早く歳をとらせ、成人になると無情な早さで衰えさせる。そして、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。安住の地を求めるならば、それは墓場にしかないのかもしれない。

小説家があらためて凄いと思わせるのは、強い自己主張をしているわけでもないのに、その世界へと自然にのめり込ませるところである。道徳家や思想家が、大声で扇動したところで、全く説得力を感じないのとは大違いである。「青春を大切にせよ!」と説教じみた事を言われたところで、反抗心しかわかない。理解者と自称する輩の押し付けがましい態度は、鬱陶しいだけだ。道徳家は、善悪を知っているかのように得意げに説く。それが自らの指標であるにもかかわらず。教育者は、人生は素晴らしいと叫び続ける。その助言が逆に追い詰めているとも知らずに。しかも、善悪は人間社会の多数決に支配される。人間が善悪を規定したところで、宇宙法則に従った絶対的な価値観に到達できるわけではない。たとえ道徳が宇宙法則のバランスを崩壊させようとも、人間はご都合主義で正当化さえしてしまう。そして、アル中ハイマーも自らの道徳に従い、平日の朝っぱらから酒に溺れる。登校途中の小学生から後ろ指を指されながらも、ただ一人ベランダで赤い顔をして「ああ気持ちええ!」と呟く。これも「人間失格」の実践であろうか?

1. 自己批判
本書のテーマは自己批評に尽きる。自分自身を批評することは勇気がいる。著者は、自らの批評をしないまま、なんとなく過ごしている曖昧な態度を許そうとはしない。酷い生活をしていると、世間から説教されるかのように囚われる。女道楽や酒びたり、おまけにキス魔、こんな生活を世間が許すわけがない。だが、実は、許さないのは世間ではなく自分自身ではないのか?世間に監視されながら窮屈な生活を送っているようでも、監視しているのは自分自身ではないのか?世間と闘っているようで、実は、自分自身と闘っているのではないのか?恐ろしいはずの世間は、自分には何一つ危害を加えていない。複雑なのは、人間社会ではなく、自我ではないのか?こうした自問は、次第に世間に対して警戒心を薄れさせる。そして、自らの批難の末に死を選ぶのか?人間は、他人に見栄を張っているのではなく、自分自身に見栄を張りながら生きているのかもしれない。人間は、自己批評を避ける傾向がある。それは、人生が羞恥の連続であることに気づいているからであろう。あらゆる自己批評は自己弁護によって救われるが、自ら弁護できなくなると死ぬしかなくなるのかもしれない。世間には、自殺は社会からの逃避で、卑怯だと批判する意見も多い。自殺を逃避と考えるかは見解の分かれるところだが、それが当人にとって悲劇でなければ、それでいい。人間とはおもしろいもので、意図的な死を批判する一方で、子供ができないという運命ともいうべき境遇を受け入れられず、無理やり生命を誕生させようとする。少なくとも自殺を神への冒頭と批判する者は、無理やり生命を誕生させる者も批判するべきであろう。人間が意識する幸福というものに実体はあるのか?人生は嘘を演じながら虚空の中をさまよう。不都合な現象を自らの論理で言い訳をしながら生きている。自らを追い詰めたところで、自己愛を強調するに過ぎない。無条件で社会に順応できれば、幸せだろう。何も疑いもなく信仰が持てれば、幸せだろう。有徳者と自認し、自らの罪を意識できなければ、気楽であろう。人間は、幸福の実体が分からないから、とりあえず他人と比較して確認することぐらいしかできない。自らを曝け出すのが怖いのは、他人から批難されることが怖いのではなくて、実は自ら本性を覗くのが怖いだけなのかもしれない。

2. 女に溺れる
著者は、淫売婦によって女の修行をし、女達人の匂いを身につけたという。そして、女性の方から匂いを嗅ぎ付けて近寄ってくるようになる。女性の前だけは本性が出せる。淫売婦は、白痴か狂人のように見えても、哀しいぐらい微塵も欲がなく、そのふところの中では安心してぐっすり眠ることができるという。淫売婦に聖母マリアの円光を見るかのごとく。著者は、淫売婦に同類の親和観を持つ。今までに自分よりも若い処女と寝たことがないと告白するあたりは、なかなかのマダムキラー振りである。そして、スタンド・バーのマダムの義侠心にすがる。女性に義侠心という言葉を使っているが、都会の男女の場合、男は体裁ばかり飾り、女の方が義侠心と言うべきものがあるという。確かに、女性が一人で生きていく勇敢さには畏れ入る。彼女らの醸し出す人生経験のようなものが、癒しの空間を与えてくれる。だから、見栄を張ってでも、クラブ活動に精を出すのだ。ちなみに、おいらもマダムキラーと呼ばれている。

4. 金の切れ目が縁の切れ目
このフレーズに出会えただけでも、本書を読んだ甲斐があるというものだ。
「金の切れめが縁の切れめ、っていうのはね、あれはね、解釈が逆なんだ。金がなくなると女にふられるって意味、じゃあないんだ。男に金がなくなると、男は、ただおのずから意気消沈して、ダメになり、笑う声にも力がなく、そうして、妙にひがんだりなんかしてね、ついには破れかぶれになり、男のほうから女を振る、半狂乱になって振って振って振り抜くという意味なんだね、金沢大辞林という本によればね、可哀想に。僕にも、その気持ち分かるがね。」
ちなみに、我が家の広辞林を調べてみると、「金」の項に「-の切れ目が縁の切れ目」がある。「金があるうちはおだてあげてもてなすが、金がなくなれば用はない。」なーんだ!全然おもしろくない!純情な酔っ払いは本書を信じるのであった。

5. 廃人
地獄の存在は信じても、天国の存在は信じられない。世渡りの才能だけでは、いつかはボロが出る。互いに軽蔑しあいながら付き合い、互いに自らをくだらなくしていく。これが交友の正体なのか?本書は、友情を感じることがなく、一切の付き合いは苦痛だと語りながら、見事な人間嫌い振りを披露する。自分の不幸は、すべて自分の罪悪からくるもので、誰にも文句が言えない。そして、薬物に溺れ、生きる屍と化す。モルヒネの注射は、一日一本が二本になり、やがて慢性化する。その姿には、暗く濁った胡散臭い日陰者の気配がつきまとう。薬の数が増えると、勘定も払えなくなる。薬代で借金地獄、自殺未遂。薬を手に入れるために、薬屋の奥さんに「キスしてあげよう」と迫る。深夜、薬屋の戸をたたき、泣き崩れる演技をする。薬漬けは、人間の誇りを奪い、幸福も不幸も感じさせなくする。ついに、これが「廃人」というものなのかと自覚する。そして、最後にこの言葉で締めくくる。
「自分はことし、二十七になります。白髪がめっきりふえたので、たいていの人々から、四十以上に見られます。」