2013-12-29

"日本語と日本思想" 浅利誠 著

思考する上で言語の役割は大きい。精神の内に生じた何かを具象化できる道具なのだから。しかしながら、言語ってやつは、日頃から馴染んでいるだけに空気のような存在で、その正体を知ることは想像以上に手強い。柄谷行人氏は、うまいことを言っている。
「文法は言語の規則とみなされている。だが、日本語をしゃべっている者がその文法を知っているだろうか。そもそも文法は、外国語や古典言語を学ぶための方法として見出されたものである。文法は規則ではなく、規則性なのだ。... 私は外国人のまちがいに対して、その文法的根拠を示せない。たんに、"そんなふうにはいわないからいわない"というだけである。その意味では、私は日本語の文法を知らないのである。私はたんに用法を知っているだけである。」
... 「定本 柄谷行人集、ネーションと美学」より...

言語体系を根本から支えているものは文法であろう。そして、その文法に柔軟性があるからこそ、精神活動に多様性をもたらすのであろう。雁字搦めな文法規定の下では、精神もまた窮屈となる。「文法は規則ではなく、規則性」というのは、実に的を得ている。
著者浅利誠氏(フランス国立東洋言語文化大学助教授)は、日本語のあり方を「外国人のための文法」という観点から論じることを表明し、日本語を母語とする者のための文法には関心がないとまで言っている。それは、日本語を喋る者同士で暗黙に了承するような甘えの許されない文法論だということだ。まず、一つの言語系を観察するには、メタ的な視座を求める。母国語に対しては、どうしても贔屓目で見がち。他のどんな言語よりも美しい!なんて自惚れ論に興味はない。国語辞典崇拝論にも興味はない。そんなものから解放された立場から日本語の特徴を見つめなおすのに、ちょうどいい一冊としておこうか...

だいたいの言語系で、まず思いつくのは名詞文である。日本語で言えば、「何々は、何々である」といった形。会話では、あまり用いられない形式だが... ここには、本書に登場する基本的な要素が二つ組み込まれている。一つは、「は」という助詞の位置づけ。二つは、「である」という存在を印象づける句。
さて、助詞ってやつが、名詞や動詞などとくっつく形で、日本語の構造的特徴を成している。こいつらのおかげで文章に柔軟性を与えると同時に、文章の曖昧さの原因となっている。その扱いも微妙で、「は」と「が」の使い分けだけでも明確に説明することが難しい。「は」だけでも多様で、係助詞で分類したところで、格助詞の役割を兼ねる場合もある。
本書は、「は」の微妙な位置づけを、古語の「係り結び」「てにをは(弖爾乎波)」との関係から論じてくれる。中でも、三上章氏の「主語廃止論」にまで及ぶ論説はなかなかの見モノ。
また、格助詞を三つの空間との関係から論じている。例えば...「庭でリンゴを食べる」と言えば、主体周辺にある円空間をイメージさせ、「橋を渡る」と言えば、対象との接合空間をイメージさせ、「会社へ行く」と言えば、空間移動をイメージさせる... とった具合に。「格」とは、モノゴトの空間的位置づけ、つまりは居場所を表していることになろうか。
さらに、「である」では、ハイデガーの存在概念との関係から論じている。具体的には、ドイツ語の「sein」との関係で、英語の「be動詞」に相当するもの。つまり、どんな言語体系にも、実存を強烈にイメージさせる動詞が具わっているということになろうか。
こうして眺めていると、言語というものは、自己存在を意識するところから生じたのであろう。それは二項関係から生じる意識で、人と人との関係、人とモノとの関係といった相対的な位置づけをめぐっての空間意識である。人は皆、自分の居場所を探しながら生きている。たとえ世間で使われる言葉を知らなくても、精神の持ち主であれば、自己の中に独自の言葉を編み出し、そこに自己存在を確認する能力を自然に具えることができる。言語は、なにも記述できるものとは限らない。絵も、音も、数も... 精神の内に生じた何かを体現できる道具となるものなら、なんでも言語とすることができる。言い換えると、人間は、実存ってやつを言語という空虚なものでしか確認する術を知らないということであろうか...

1. 翻訳の意義
本書は、本居宣長、西田幾多郎、和辻哲郎らの視点を原点的な立場に据えている。この三人は、いずれも翻訳に携わっていて、外国語の視点から日本語を眺める目を持っているという。翻訳とは、風土や文化など人々が精神の拠り所にするものや、人間の核心部分を変換して解釈するということになろうか。外国語との対比から、普遍性、相対性、固有性といったものを見出すこともできよう。けして単語や文章を、一対一で機械的に変換できるものではない。その意味で、日本語を冷静な眼で眺められるのは、国語学者よりも翻訳家の方かもしれん。外国語が喋れるかどうかは別にして、外国語に触れることの意義がここにあろう。
「母語に対して超越論的であることは難しい。また、母語を外部の視座から問うのは難しい。しかし、そうすることによってしか母語は問われないのかもしれない。そうであるとすれば、私たちははじめからこの困難の中にあることになる。」
ただ、母国語の美しさに囚われると、偏重したナショナリズムと結びつきやすいということを付け加えておこう。
ところで、英語には、日本語の助詞と似たものに前置詞ってやつがある。英語試験では、どれか一つの前置詞を選択せよ、といった定番の問題がある。その対策で、at, in, by などと単語をセットで覚えたりする。しかし、外国人に言わせれば、単語から判断できるわけもなく、どれも正解という場合もあるようだ。日本人が一つの答えしか認めない傾向は、教育の弊害であろう。ネイティブの指標では、つい発音に目を奪われがちだが、風土や文化の理解がないために、却って誤解を招くケースも多い。実際、思いっきり訛っている方が土地柄がよく顕れていて、歩み寄りやすいということもある。そうした傾向は方言にも現れるし、実際、英語にも多様な方言がある。標準語なんてものは、多数決で決定されるようなもの。ネイティブなんて用語は、母語以外の言語を喋る者に対して使っているだけか...

2. 助詞と多様性
西洋語の基本的な構造は、SVO型、SOV型、VSO型などで説明できる。すなわち、主語(Subject)、動詞(Verb)、目的語(Object)の順番によって規定される。外国人が、助詞を省いた片言を喋るのも、単語の順番を意識しているからであろう。こちらも聞き取りやすいように、単語の順番を配慮したり、助詞を強調したりする。否定を表す場合、文章の最後に否定形がくるので、主旨が分かりにくいようだ。英語では、not が頭の方に現れるので、否定の主旨を前提にしながら以下の話題に集中する、という思考パターンがある。その点、日本語では、一つの文章で全体的な方向性を示している。例えば、「せっかくのお招きではございますが、当日は...」と言えば、最初から断る雰囲気が漂う。助詞や副詞、あるいは接続詞が連結して否定の主旨を伝えている。
論理性という意味では、not文だけで否定の主旨が伝わる西洋語の方が合理的と言えそうか。だが、精神の動きを表記するという意味では、むしろ文章全体で方向性を示す方が合理的かもしれない。この方向性が、空気を読むといった感覚と結びつくのだろう。もちろん、西洋語にも、そうしたテクニックはある。二重否定文という形式は、どんな言語系にも顕れ、やはり分かりにくいものだが、そこに微妙な感覚が込められる。
論理性という観点からだけ眺めるならば、プログラミング言語に日本語を適用してみるのもいい。むかーし、マクロ機能を駆使して、アセンブラ言語を日本語に置き換えてみたことがある。それなりに、できなくはないのだが、日本語の機能がかなり制限される。まさに「何々は、何々である」という構文に支配され、むしろ英語の方が分かりやすい。機械翻訳と何が違うのか?日本語の機能を削がれた日本語の文章にどれだけの意味があるのか?などと問えば、虚しくなったりもしたものだ。プログラミング言語として機能させるには、コンパイラが解釈できなければならない。そもそもコンパイラが西洋語的な言語で書かれている。だからといって、西洋語にしても自然言語に目をむければ、SVO型といった単語順に完全に支配されているわけではない。あくまでも基本形がそうだというだけで、その例外は詞や歌に見てとれる。ゲーテの詩的な文章が翻訳語ですら、その美しさを維持できるのは、言語の普遍性といったものが体現されるからであろう。そぅ、論理性においても、感情性においても、多少の優劣があるにせよ、人間が操る以上、言語には柔軟性があるということだ。そして、誰一人として同じ言語を喋っちゃいない...

3. 詞と辞の文法論
詞と辞の概念規定の創始者は本居宣長だそうな。その着想に強く影響を受けたのが、時枝誠記だという。詞と辞の区別は、文法構造の考察に由来するのではなく、漢字仮名混じりの表記から仕方なく生じたという。名詞や動詞や形容詞など直接示すものを詞とし、助詞や接続詞など補語的なものを辞と区別する。詞の方は、後世に受け継がれても違和感があまりないが、辞の方は時代の変化に富む。客体的な詞に対して、主体的な辞という見方はできるかもしれない。つまり、感覚的なものの方が変化に富むということか。日本語の本質的な構造は、辞の方にあるのかもしれない。しかも、その規定は曖昧で大雑把ときた。いや、明確に規定できないのかもしれん。おかげで、古文は既に外国語の領域にあり、現代人の大多数は大和言葉を解することができない。
時枝誠記は、四つの助詞に区別しているという。格を表す助詞、限定を表す助詞、接続を表す助詞、感動を表す助詞。わざわざ感動を表すものを区別するということは、格助詞には感情的なものがないというのか?また、陳述性があるかないかで、接続助詞と格助詞が区別される。時枝は、格助詞と係助詞の区別には関心がないらしい。

4. 「てにをは(弖爾乎波)」と「係り結び」
「てにをは」という語の起源は、漢文の訓読みのヲコト点に由来する。「係り結び」という形は、奈良時代に顕著で、平安時代になると少しずつ変化し、室町時代になると、「は」などの一部を除いてほとんど消滅したそうな。係り結びとは、「ぞ、なむ、や、か」は結びが連体形となり、「こそ」は結びが已然形になるという法則である。助詞の用い方によって結びまでも変形するとは、なんと不合理な... と思うわけだが、おそらく昔の人々は音感を重んじたり、句や辞と戯れる余裕があったのだろう。言語そのものが、貴族など身分の高い人々の遊び道具だったのだろう。やがて、言語が庶民化してくると、抽象化や合理化が進み、「は」で兼用されるようになったのかもしれない。
こうした歴史的背景を眺めると、「は」の抽象度は係助詞だけでは説明が難しいようで、格助詞を兼ねるのもうなずける。外国人にしてみれば、「は」をワと読むだけで頭が痛かろう。「お」と「を」は区別しても、同じ読みでやはり頭が痛かろう。現代社会は、言語に限らず、なんでも合理性に走る傾向がある。現代人は、無駄を楽しむ心のゆとりが失われてきたということであろうか?

5. 主語廃止論
三上章の「主語廃止論」は広く知られるそうな。日本語の最も根本的な文法は、主述文(主語、述語)ではなく、題述文(主題、述語)であるとみなす。主語は、主題で置き換えられるというわけだが、主題ってなんだ?主格に据えるものは、文章が表そうとする本質、すなわち陳述を要求することだと考える。これが主題というものらしい。
西洋語で、主語や時制がしつこく用いられるのは、それなりに意味がある。例えば、特許の文章では、誤解が生じないように、慎重に主語と前後関係を記述する必要がある。つまり、論理性や厳密性を求める記述においては、主語の役割は大きい。それで読みやすいかどうかは別だけど。数学がそうであろう。数学も厳密性を重んじる言語である。
さて、「主題 + 助詞」という形式によって、主語を無用とすることができるという。例えば、名詞をピックアップ(主題化)してみると...

「私は、彼女の結婚の仲人をした。」
「彼女の結婚の仲人を、私がした。」
「彼女の結婚は、私が仲人をした。」
「彼女は、私が結婚の仲人をした。」

んー... 主語の概念を主題という概念で抽象化しただけにも映るが...
主題化する上で「は」の役割は大きく、主格と結びつくという意味では、格助詞のように働いている。ただ、西洋語だって主題的な記述はできるだろう。
本書は、「は」の格助詞としての兼務を、コト的な表現で示してくれる。

「幸子は、日本人だ」 = 「幸子が日本人であるコト」
「象は、鼻が長い」 = 「象の鼻が長いコト」
「本は、母が買ってくれた」 = 「本を母が買ってくれたコト」
「日本は、温泉が多い」 = 「日本に温泉が多いコト」

なるほど、「は」の抽象度は高そうだ。一人称、二人称、三人称といった主語が省略されるということは、人称の抽象化という見方もできそうである。まさに日本社会が、人々の連携や人の和を重んじる風習は、ここに顕れている。自己主張が強ければ、一人称を重んじ、二人称や三人称と区別する。責任論で言えば、前者が全体責任とし、後者が個人の発言に責任を持つ、といったところか。いずれにせよ一長一短、自己存在に対する意識の違いが見て取れそうか...

6. 主語論理主義と述語論理主義
ハイデガーのドイツを形而上学の国とみなす、なんとも人を食った発言はよく知られる。
「私はドイツ語がギリシア人たちの言葉と彼らの思惟とに特別に内的な類縁性をもっているということを考えるのです。このことを今日繰り返し確証してくれるのはフランス人たちです。フランス人たちが思惟し始めると、彼らはドイツ語を話します。彼らは、フランス語では切り抜けられないということを確証します。」
クロソフスキーも、「ドイツ語こそは思惟の言語、Geist(精神)の言語であり、形而上学の神聖なる帝国」と発言したそうな。ニーチェも、インド・ヨーロッパ系の言語(ギリシア語、ドイツ語、フランス語など)と、ウラル・アルタイ系の言語(日本語など)との差異を、哲学上の問題として論じている。
文法は、思考プロセスの顕れというのは、本当かもしれない。言語の特徴が、学問的な特徴をなすことはあるかもしれない。哲学を生みやすい言語とか、数学が得意な言語とか。
西田幾多郎は、アリストテレス的な主語論理主義的な思考と、日本人的な述語論理主義的な思考の違いを指摘しているという。ただ、言語の特徴から多少の向き不向きがあるにせよ、言語の体系というものは日々変化している。思惟すれば自然に用語が生まれ、言語を操る人々が普遍性に向かえば、論理性も、感情性も、自然に具わるだろう。人間精神そのものが本質的に、主観と客観の融合によって成り立っているのだから。ましてや、グローバル化の流れにあって、それぞれの言語的特徴が融合したり、協調していくだろうし、翻訳の存在意義も、このあたりに再発見することができるだろう。実際、現代語は、かなり翻訳語や西洋語に毒されていそうだし、なにが純粋な日本語なのかも分からない。いずれにせよ、言語体系がいかに人間精神を投影する機能を具えうるか、これが問われることに変わりはない。

7. 繋辞とピリオド越え
柄谷行人氏の繋辞(コピュラ)の見方は興味深い。「日本では、山が美しい。海も美しい。女性も美しい。...」これが日本語のコピュラだと主張したそうな。それも賛否両論で、正しいかどうかはよく分からん。そもそも、繋辞とは、動詞や助動詞の変形であって、助詞とは関係なさそうに見える。だが、動詞のようなダイナミックな変化が、助詞によって体現される。
これと似た事例で、「ピリオド越え」というテクニックを紹介してくれる。漱石のあの文章だ...

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。どこで生まれたか頓と見当がつかぬ。何でも薄暗いじめじめした所でニャーニャー泣いて居た事丈は記憶している。...」

一つ一つの文章は、句点で区切られ、完結しているにもかかわらず、見事につながっている。しかも、接続詞が一つもない。文章は、自然な流れには逆らえないということか。このような流れる文章こそ憧れであるが、永遠に到達できそうにない。はぁ~...

2013-12-22

"塩の道" 宮本常一 著

「世間師」という言葉があると聞く。旅をして広く見聞し、世間のことを良く知っているというだけでなく広く見識を持ち、事ある時に相談相手になるような人物を言うそうな。民俗学者宮本常一とは、まさにそういう人物らしい。実際に地方を歩きまわり、百姓の視線から良き相談役となり、農業経営や技術指導にも多くの時間を割いたという。その思想は、柳田国男の影響を強く受けながらも、それ以上に渋沢敬三の影響を受けているという。日本民族の研究では、同族意識が強いために画一的な見方が優勢となりがち。しかし、地域環境から生じる多様性こそが人間の真の姿であろうし、日本人とて様々な祖先の系譜があり、個性溢れる民族であることを浮き彫りにしてくれる。自然災害の多い地域だけに、自然には逆らえない神の力のようなものを感じ、運命論を受け入れざるを得ない。しかしそれは、運命に左右されるという受動的な考え方ではなく、むしろ積極的に自然と戯れるという考え方にもなろう。質素で静かなものに美意識を感じ、陰翳に侘寂(わびさび)の趣向(酒肴)をこらすのも、そうした自然観からくるのだろう。
本書には、宮本氏が自然観を物語る晩年の作品「塩の道」、「日本人と食べもの」、「暮らしの形と美」の三点が収録される。田村善次郎氏は、こう書いている。
「読者の中には、ひっかかって首をかしげるところのある人もいるかも知れない。大いに首をかしげていただきたい。そして、自分なりに納得できるまで検証していただきたいと希うのである。私たちに課せられているのは鵜呑みにして面白かったとすませることではなく、これを手がかりとして、日本とは、日本人とは何かを考えることであり、生きるとはどういうことかを、深く考えることだと思うからである。」

言うまでもなく人間が生きる上で欠かせないものは、食糧と水、そして塩だ。しかしながら、食糧や水に関しては多く議論されるものの、塩に関してはあまり議論されるのを見かけない。塩があまり問題とされないのは、安定供給が確立されているからであろう。塩がいかに重要であるかは、塩にまつわる言葉や慣習に見て取れる。「手塩にかける」とは、丹精をこめること。塩の製造には、それだけ手間隙がかかったということであろう。「敵に塩を送る」とは、甲斐の武田信玄が周辺国から塩の取引を断絶された時、上杉謙信の美談として語り継がれる。
あるいは、塩は清めるものという習わしがある。葬儀から帰ると家に入る前に塩をまいたり、嫌な客が帰ると玄関先に塩をまいたり、縁起担ぎで盛り塩をしたり、お相撲さんが怪我をしないようにおまじないをしたり。白いことが清めの印象と結びつきやすい。
海外に目を向ければ、古代ローマでは兵士の給料に塩が支給されたと聞く。salary(給与)、sauce(ソース)、salad(サラダ)など、ラテン語のsal(英語のsalt)に由来する語も多い。
塩の安定供給は、国家にとって重要な問題となる。塩が専売制になったのは明治38年(1905年)のこと。その頃、製造法や販売法についての調査がなされ、「大日本塩業全書」としてまとめられたという。こうした政策が必要だったのは、日本の製造法が海水を利用することに偏っていたこともあろうか。塩浜に海水をまいて天日に晒して塩を結晶させ、さらに潮水をかけて濃い鹹水を採って、煮詰めるといった方法が主流であった。海外では、内陸部に塩井(塩の井戸)があったり、湖の辺りに結晶を作ったり、地下道に岩塩ができたりと様々な製造法があるが、そうした例は日本では少ないらしい。まったくないわけではなく、温泉へ行くと塩田跡などを見かけるけど。
やがて、イオン交換樹脂膜を利用して工業的に生産されるようになると、従来の製造法が消えるだけでなく、塩の専売システムも消えていく。昭和60年(1985年)、日本専売公社が民営化され、日本たばこ産業(JT)となる。それは著者が没した後の事であるが、既に専売制の消滅を予感し、日本人と塩の関わりを改めて調査し残すことが大切であると指摘している。
そして、塩の観点から、宗教思想、経済原理、交通の発達といったものを語ってくれる。宮本氏は、長い工夫の歴史を再評価せよと促す。日本人は改革が苦手と言われるが、改善、改良ならば得意のようである。日本文化には、なんでも混ぜあわせて、独自なものにする性分がある。ちなみに、数理論理学者レイモンド・スマリヤンは、こう語っていたのを思い出す。「禅とは、中国のタオとインドの仏教を混ぜ合わせ、日本人がこしょうと塩で味付けしたようなものだ。」と...

ところで、塩って産業種目で言うと、何に属すのだろうか?塩田で作るから農業か?海浜で作るから水産業か?塩木の話が出てくれば林業か?化学製法となると製造業か?食糧が安定供給されるようになると、第一次産業から第二次産業、第三次産業へと付加価値の高いものへシフトしていく。クラーク式産業分類も見直す必要があるかもしれない。製造業に分類されるメーカだって、自前でモノを造っていないし。
注目したいのは、塩は他の食べ物と違ってエネルギーにならないとしていることである。米や麦や酒などは体内でエネルギーになるが、塩は体内にあるものを循環させて排泄させる効果があるだけ。エネルギーとなる食物は、たいてい神に祀られる。米、麦、栗などには穀霊というものがあり、お供え物とされる。対して、塩には霊がないから祀られないという。いや、霊を払う側か。こうした役割が、塩に対して無関心な態度にさせるとしている。
しかしながら、人間社会では、循環を促す脇役の方が目立つではないか。市場原理は価値を循環させるだけの金融屋が牛耳り、情報社会は情報源よりもそれを煽るまとめサイトや報道屋が牛耳る。政治屋が出しゃばるから、そこに利益供与を求める団体が癒着し、社会に動悸、息切れの類いをもたらす。エネルギーに神が宿るとすれば、その神を差し置いて目立つから悪魔となるのか?ならば、脳が働いて思案を生み出す間も、心臓弁の運動を目立たせず、血液循環を乱さぬようにするがよかろう...

1. 製塩法
製塩土器を調査すると、三千年以前の縄文時代まで遡り、海水を煮詰めて塩を採っていたそうな。製塩土器は、海水がしみ込んですぐに壊れるので、発掘作業で一つ見つかると、たくさんの遺物が出てくるのが特色だという。しかも、このように苦労して塩を採るやり方は、平安時代まで続いているとか。
もう少し能率の上がる方法に、揚浜(あげはま)というものがある。少し高くなったところを粘土で固めて、その上に砂をまいて海水をかけ、更に砂を集めて海水をかけると、非常に濃い鹹水が採れる。その鹹水を煮詰めるという方法。これを「揚浜式」と呼ぶそうな。
瀬戸内で多いのが入江で見られるものだという。海水が砂を運んできて、入江の一番奥までは行かず、中途で弓方の砂浜ができる場所がある。天の橋立もその類いか。その内側の海がだんだん干し上がっていくところを利用する。潮が引くと干潟で出てきて、そこに日が当ると、砂についている水分が蒸発して塩分が残る。その上に海水をかけて、濃い鹹水が得られるという方法。これを、「古式入浜」と呼ぶそうな。戦前多く見られたのが、「入浜塩田」だという。「自然浜」も揚浜式と同じようなものらしい。
そして、人工的に石垣を築いて「塩浜」となる。塩浜の時代になると、瀬戸内海に密集して出現するという。また、塩を煮詰めるための土釜は、鉄釜も使われるようになったという。

2. 木地屋(きじや)ってなんだ?
ロクロを回してお椀を作る光景は温泉などで見かけるが、木地屋は木をぐるぐる回しながらノミをあてて削ってお椀を作るという。それも、近江から全国的に広がったという面白い経緯があるそうな。放浪して伝えていく職人のほとんどは根拠地と結びつきを断っていくが、木地屋だけは、本拠である滋賀県永源寺町の筒井という所と、君ヶ畑という所に密接に結びついているという。なぜかは、近江から産出される鉄でないと、木地屋の椀を作ることができなかったのではないかという。鉄の供給者と絶えず連絡をとっていなければ、出先で良い仕事ができなかったはずだと。材料のこだわりもあろうか。鎌倉時代の石工技術にしても、近江一国に分布し、若狭が鋳造師とその技術の根拠地だそうな。近江を中心として、こうした加工技術の発達という経緯があるらしい。
ちなみに、近江の国友村の鉄砲鍛冶は有名で、関ヶ原の戦いの際、徳川家康はわざわざ近江国に大筒を発注して、石田三成を挑発したという逸話もある。
それはさておき、瀬戸内海でも近江の鉄釜が使われたらしいが、よほど上手くやらないと良い塩が採れない。海水を煮詰める過程で錆が出て、赤み帯びた塩になるからである。塩が清いものとするならば、真っ白である必要がある。鉄釜の能率よりも白い塩を作ることが優先され、石釜が利用されるようになる。日本人の凝り性やこだわりといった性分は、こういうところから受け継がれているのかもしれん...

3. 塩木をなめる... そして、塩の道
海浜ですら塩作りに苦労するのだから、山中となると尚更で、苦労話や工夫話が豊富なようである。
さて、塩を焼く!って何すんの?冬の間に木を伐って川のほとりに積んでおき、雪解け頃に水量が多くなって積んだ木を川に流すと、海岸まで流れ着く。塩がしみつく頃をはかって木を焚く。塩木(しおぎ)とは、塩釜で海水を煮つめるための薪木のことか。地域によっては、山中に住む人が木を流し、海岸に住む人が焚くという役割分担もあったとか。山中に住む人々にとって、川は塩を得るための生命線でもあった。
美濃の山中を歩いた時、「塩木をなめる」 という話を聞いたという。「なめる」とは、舌で舐めるのではなくて、伐ることを言うそうな。塩の生産に余裕が出てくれば、商品とされる。山中の人々にしても、木を焚くよりも海岸へ買いに行く方が手っ取り早い。その時、交換されるものは灰だったという。山にはたいてい共有林があって、生木のまま焼いてできる灰は非常にアクが強い。麻は、雪の深いところでは「雪ざらし」といって、雪の上に置いて太陽光線をあてると真っ白になるという。雪の少ない地域ではそれができないので、灰のアクを利用してさらすのだそうな。
また、塩の運搬で馬や牛を利用したことから、街道の発達が見られるという。それも、牛を利用する方が多いそうな。狭くて険しい山道では馬よりも牛の方が歩く力が強い。しかも、ゆっくり歩きながら道草を食ってくれるから、自然に整備されるらしい。これぞ、塩の道か!
馬の管理はどこの藩でも厳しいが、牛はそうでもなかったらしい。山中で取れる鉄の運搬も、やはり牛が利用される。馬なら運搬の後、連れて帰るが、牛なら一緒に売れるというメリットもあるという。帰り道で金だけ持って身軽になれば、パーっと使ってしまいそうだけど...
経済循環を、堺や大阪といった商品の集まる所ではなく、塩の流通という観点から語ってくれるのには感服させられる。経済システムとは、元来、生活の必需から生じたのであろうから。そして、余剰生産が生じた時、儲けに憑かれる。儲けとは、もののけの類いであろうか...

4. 戦のない地域
戦国時代でさえ、戦のない国があったという。武家社会が成立したのは鎌倉時代で、源頼朝は国々に守護、地頭を置いた。地頭になる人は、たいてい鎌倉の御家人で、彼らが地方へ下って、警察権の行使や租税を徴収する。こうした御家人たちが勢力を持つから戦が起こるのであって、武士がいなかければ戦はほとんど起こらないという。例えば、大和国には東大寺や興福寺の寺領が多くあり、ほとんど武士がいなかったから戦がなかったとしている。
実は、そういう国が周防にもあるという。源平戦の時、平重衡が東大寺を焼くと、東大寺再建のために国々から金を集める。弁慶が安宅の関で勧進帳を読むが、東大寺再建のための寄付金を募る帳簿をもって諸国を歩いたのが勧進帳物語だ。勧進帳の総元締めには大勧進がいて、俊乗房重源という真言宗の僧が東大寺大勧進職を努めた。重源が周防へ下ると、周防国が大和と同様に知行国となる。知行国になると、税金の一部を東大寺再建の費用にされる。東大寺再建には大量の材木が必要で、周防国には大きな杉の木がたくさんあったという。
ところが、頼朝が命じた地頭がたくさん下ってくると、地頭は地頭で税を取り立てる。重源上人は、東大寺の再建が難しくなるので、地頭を置かないでくれと頼朝に頼み、地頭は鎌倉へ引き上げたという。頼朝は、東大寺再建の大旦那だから聞かないわけにはいかない。周防国は、東大寺の知行国であり続け、江戸時代の初めまで続くことに。毛利家が周防と長門の領主となると、東大寺領も消えていく。
つまり、守護系や地頭系の武士がいなかったことが、ほとんど戦もなかったというのである。へー... 人間の領地欲は、武士だけに留まらないと思うが...
また、日本ではゲリラ戦がほとんどないという。ゲリラ戦は民衆が参加することによって生じる。ゲリラを援助するのは後ろで操る政権であるが、戦は武士の仕事で民衆はできるだけ巻き込まれないようにしたという。戦国時代の戦は、負けてしまえば、一族残党まで亡ぼされる。生き延びるためには身分を捨てるしかない。民衆と政権の結びつきが弱いとすれば、村に身を隠しやすいということはあるだろう。平家の落人伝説などがそれであろうか。一族で村を形成することもあろう。こうした風土が、部落問題の起源とも聞くが定かではない。
本書は、民衆がゲリラ戦をやらないことが、戦争をする人と食糧を生産する人を自然に分けたとしている。あれほど激しい戦国の世であっても、ほとんど飢饉が起こっていないという。むしろ飢饉は、自然災害と結びつくと。民衆が積極的に戦の難を逃れようとしたことが、人口減少もあまり見られないという。確かに、いざ鎌倉!といった言葉は国防を意識したもので、御家人の時代から兵農分離が意識されている。兵農分離を積極的に取り入れて成功したのは織田信長という説をよく耳にするが、そうでもないのだろう。斬新的な改革者というイメージが、なんでも先取りしたという人物像を作り上げる。むしろ、信長の斬新な政策は楽市楽座の方であろう。どんなに優れた武将でも、国家存亡ともなれば、必要なだけ動員する。太平洋戦争のような狂気した時代では、学徒出陣まで実施した。
よほど酷い政権でない限り無関心でいられるというのも、日本の特徴的な風土なのかもしれない。それで、野放し政権が出現するのも困りものだが。政治家と一緒になって民衆が狂気するよりは、民衆が冷めて見られるだけましというものか。逆に、民衆の狂気に司法判断までも同調すれば、法治国家は放置国家と成り下がるであろう...

5. 自給自足と面子
二百年もの間、鎖国を続けられたのは、食糧の自給自足体制があったからだという。最も恐れるものは災害や飢饉の類い。飢饉が生じると、食糧の確保できる藩は、「津留(つどめ)」をやったという。津留とは、米を藩外へ売り出すことを禁ずること。他藩が助けてくれないとなれば、藩の面子を潰すという意識が強くなる。そして、米の流通は藩によって完全管理される。良く言えば、大名の面子が自立を確立させた、悪く言えば、大名の面子のために民衆が犠牲になった、といったところか。
天保の飢饉では、大阪で大塩平八郎の乱が起こる。だが、土佐国では凶作というほどではなく、米を出す力を持っていたという。大阪へ米を出すのを止めたことで米価が上昇。凶作というだけで飢饉が起こるのではなく、むしろ米の供給が不均衡になった時に飢饉がより大きくなると指摘している。したがって、どんな小さな藩でも、自給自足体制を整えることに必死だったようである。面子や誇りのために、粗末なものを食べる忍耐が鍛えられる。魚介類でも、生魚でも、なんでも食べる。ナマコを初めて食べた人は勇気がいったことだろう。そのために、様々な食べ方が工夫され、食文化を育んできたということか。自給自足の精神が、質素ながらも様々な工夫をこらし、自立の精神を育んできたというのはもっともらしい。実は、主食は米や魚などではなく、味噌汁の方では...

6. 稲作民族と騎馬民族
縄文時代、北九州のあたりに定住した稲作民族を倭人と呼ぶ。それは2300年ぐらい前のことで、中国沿岸を通って朝鮮半島の南を経由して移住し、その祖先は越人とされる。だが、日本列島の東方には、原住民が住んでいた。これも、どこからやってきたのか知れないが、蝦夷(えみし)と呼ばれ、後にエゾと呼ばれる。えみしという言葉が定着する前は、土蜘蛛という言葉がある。竪穴に住むことから、土蜘蛛という言葉が生まれたという。九州にも土蜘蛛はいた。
一方、騎馬民族もどこからか移住してきたようである。その後裔が鎌倉武士なのかは知らんが。もともとは牛や馬は荷を運ぶ道具という習俗があったらしく、乗り物という意識はないらしい。こういう習俗は日本独特のものだそうで、明治頃まで続いているという。
さて、稲作民族は定住を好み、騎馬民族は移動する習性がある。騎馬民族は地元と密接な婚姻関係を作ったそうな。その最たるものが天皇家で、東は美濃から西は九州に至るまで婚姻関係を結んでいるという。男だけが移動して、その地域を統治するために女を娶る。天皇だけが方々へ行き、豪族の娘と結婚する。やがて、飛鳥に藤原氏が進出し、都が落ち着くと、天皇は地方を歩くことができなくなる。それでも、今までの異国との婚姻の習俗は残っていて、皇后を出す家も習俗化する。これがお家柄というやつか。明治の初めまで、藤原氏がずうーっと皇后を出していたという。秀吉や家康が、藤原氏の称号を欲したのもうなずける。
しかしながら、藤原氏は一度も天皇になったこともなければ、天皇になろうともしなかった。それはなぜか?脇役の宿命か?習俗の持つ力というやつか?習俗ってやつは、取り憑かれると宗教のごとく恐ろしいものとなるらしい...

7. 障子と畳
平安文化は、貴族が寒さに堪える文化だという。源氏物語絵巻の十二単は見事なほど着ぶくれを演じてくれるが、美しさという見栄だけであんな分厚い恰好はしないだろう。谷崎潤一郎は「陰翳礼讃」の中で、用を足すにも風流とする文化があるとした。純日本風の厠は、母屋から離れていて夜中に行くには便利が悪い。斎藤緑雨は「風流は寒きものなり」と言ったとか。漱石は便通いを「生理的快感である」と言ったとか。芸術と寒さは相性がいいのだろうか。
さて、部屋の境界に敷居の溝を切る技術が発達すると、そこに遣り戸をはめて風や寒さを凌ぐ。やがて、そこに襖(ふすま)を滑らせることに。平安中期、盛んに書物を読み、筆写するようになると、明るさをもたらすために、襖に薄い紙を張り、障子が発明される。平安の終り頃、楮(こうぞ)という植物の繊維をとって、紙にする技術が発達したそうな。それ以前は、紙は色紙であったとか。美濃国に楮の大きな産地があって、これは白い紙だという。美濃紙の発達と明かり障子の流行は、同期しているらしい。障子の発明によって日常生活をますます情緒溢れるものにさせる。
さらに、ワラでこしらえた畳が登場すると、板張りの空間を愉快にさせる。ワラ靴などのワラ細工の発達は、乾く田んぼとの関係が深く、こうした軟質文化が日本人を器用にさせたという。
本書は、物質文化を「軟文化」「硬文化」に分類し、軟文化の特色は、刃物を使わないとしている。軟文化の代表といえば、織物であろうか。ちなみに、トヨタ自動車も機織り機が起源である。
ところで、畳の部屋は柔軟性が高い。ベットで寝る場所を固定することもなく、自由に布団が敷けるし、布団がなくてもごろ寝ができる。居間にも食堂にもなり、襖を取っ払えば二つ部屋を一つ部屋に再構成できる。ただ、畳部屋が、テーブルよりもお膳を主流にしたとしているところは、合点がいかない。お膳は縄張り意識をはっきりさせ、テーブルは開放感がある、と言えばそうかもしれない。階級社会では、お膳の方が座る場所を規定できるだろう。上座や下座という概念との結びつきもある。しかしそんなことは、畳部屋でも板張りでも同じであろうに。
ちなみに、幕の内弁当なんてものは、お膳の発想から生じたのだろうか?それも、みんな平等という考え方で、個性を嫌うという考え方が潜在意識にあるのだろうか?

2013-12-15

"日本文化の形成" 宮本常一 著

前記事「忘れらた日本人」に触発されて、民俗学の視点から日本文化の源流を眺めたくなる。ただ、飛鳥時代から縄文時代まで遡ってしまうと、歴史というより考古学に近く、いまいち興味が持てないでいた。古代の移動技術を想像しても、つい陸路を中心に考えがちで、地理的な位置からしても、大陸からの一方的な影響が強いと思い込んでしまう。しかし、古代人たちの航海能力は馬鹿にできない。飢饉や凶作が頻繁に起こり、一族の存亡に直面すれば、一家総出で命も懸ける。太平洋から眺めれば、日本列島は漂流しやすい絶好の場所。まさに本書は、海路の視点から日本文化の源流に迫ろうとする。
また、もう一つ気心を変えてくれるものがある。それは、著者が愛読したという古事記、日本書紀、万葉集、風土記などを掘り返して歴史を語ってくれることだ。こうした古典群にも、いまいち興味が持てないでいたが、いずれ挑戦してみたいという気にさせてくれる。
尚、原作の「日本文化の形成」は、全三冊、896項もの大作だそうな。宮本常一氏の死によって、その壮図は中断されたものの、日本観光文化研究所での講義録や、晩年のシンポジウムなどの報告も記載されているという。この古典は、ちくま学芸文庫から刊行されるが、絶版中か!本書は同じタイトルだけど、講談社学術文庫版で、原作の下巻を底本にしているという。なるほど、講義録や写真図版などが省略され、250項のかなり軽い一冊に仕上がっている。とはいえ、内容はかなり分厚い...

人々が定住するのは、その場所で食糧が確保できるからである。狩猟や漁猟が生活の根幹をなしていた時代、獲物がとれなくなると移住を余儀なくされる。そして、定住率を高めるには、稲作や畑作の始まりを待つことになる。国家の成立もまた、人々の定住化によって始まる。
そうなると、農耕の意味するものは大きい。基本的な民族移動は、農耕以前の時代にほぼ完了していたのかもしれない。地図を眺めれば、樺太・千島列島経由、朝鮮半島経由、台湾・琉球経由の三つの海上ルートがすぐに目につく。それだけで、北海道系、北九州系、南九州系で、文化の伝来に特色が現れそうなもの。しかし、日本独自の縄文式の紋様を持つ土器は、北海道から沖縄に渡って満遍なく発掘されているそうな。縄文時代は、約一万年ほど続いたとされるが、その時代に北から南まで人々の往来があったということか。そして、弥生土器が出現した頃から稲作が始まったとされ、定住化が始まったようである。ただ、縄文土器と弥生土器が共存している証拠が、北九州の遺跡(福岡県粕屋郡新宮町)で発掘されているという。
本書は、この時代の中国大陸や朝鮮半島の情勢から、江南の地、すなわち揚子江の南から進出してきた民族に、日本民族の本流を探ろうとする。とはいえ、それだけでは説明のつかないところも多く、東南アジアとの関係も無視できない。小さな島ともなれば、食糧問題や人口問題が表面化しやすく、そのまま一族存亡の危機となる。近年でこそ考古学の発掘成果によって、中国大陸や朝鮮半島の文化を一方的に受容しただけでなく、済州島(チェジュド)などを媒介して双方で活発な交流があったこと、あるいは、西方だけでなく、北方や南方との交流も重要な意味があること、などが明らかになりつつある。宮本常一氏は、それ以前から、その見通しを示していたという。網野善彦氏は、彼の柔軟な学術態度を称賛し、こう語っている。
「民俗学の世界では、民俗学者は文献に頼ってはいけないとされ、ときには文献史料は読んではならないとすらいわれたことがあったと聞いている。」
それは、自己の確立が充分でないまま、あるいは文献史料の扱いを知らないままで、文献に頼ろうとすることへの警告だという。民俗学は、抽象化よりも多様性を重んじる学問で、そのために現地調査は欠かせない。とかく大和、京都、鎌倉など政治の中心から歴史を見がちであるが、柔軟性こそが宮本民俗学の真骨頂というわけか。日本列島が、太平洋の中の一島国である以上、文化はどこからでも漂流してくる可能性がある。日本民族は画一的という印象があり、島国根性で一括りにしがちなのは、教育の影響もあろう。こうして眺めていると、多様性に富んだ民族のようで、文化の源泉を辿るのも一筋縄ではいかない...

1. えびす
えびす様は、日本全国で見られる七福神の一つ。釣り竿を持ち鯛を抱える姿から、もとは漁猟の神といったところであろうか。「えびす」には「夷」の字をあてるが、「蝦夷」とも書く。古くは「エミシ」と呼んだそうな。「蘇我蝦夷」と書いて、「ソガノエミシ」と読む。蘇我蝦夷は、蘇我氏の氏長(うじおさ)で、飛鳥時代に権勢を振るい、645年、中大兄皇子や中臣鎌足らに攻められ自害する。そんな政治の中心人物が、なぜエミシを名乗っていたのか?蘇我一族には、もう一人、エミシを名乗る人物があるそうな。蘇我豊浦毛人(とゆらのえみし)がそれで、「毛人」と書いてエミシと読むという。平安京に尽力した佐伯今毛人(さえきのいまえみし)、墓誌を残す人に小野毛人(おののえみし)というのもあるらしい。毛人と書いてエミシと読むのは、毛深いことが逞しさの象徴だったという。日本書紀によると、夷は一人で百人分の力持ちという記述があるとか。
縄文時代の遺跡では、北海道を含めた東北より西南日本の方が数も少ないらしい。北海道の網走あたりに未発掘の住居跡が多く、北海道や東北の方が西日本より人口が多かったのではないかという。文化水準も、骨製や角製の釣針や銛などを多く用い、西南日本の文化よりも高いとか。そして、縄文時代に移動を繰り返し、夷の文化が北から南まで浸透していったということらしい。大和を中心に国家が成立すると、夷たちも政権に加わる。大和では稲作が始まり、弥生文化へ移行していく。しかし、北海道や東北では縄文文化が維持され、逆に遅れをとる。北海道には、弥生文化が発掘されないそうな。大和朝廷が成立する頃には、北海道や東北に残された夷は、農耕に従わず、異端視されるようになったという。
そうなると、単純に、蝦夷をアイヌとすることはできないようである。日本書紀の斉明天皇の時代、蝦夷征伐(えみしせいばつ)を行ったと記され、まだアイヌという言葉は見つからないという。大和朝廷を拒絶すれば、異民族として扱われ、後にアイヌという呼称さえ生じる。アイヌという言葉は、民族的差別からではなく、文化的差別から生じたということか。えびすという呼び名が大衆化していれば、同じ文字でもエゾなどと呼び名を変えて差別することは考えられそうか。たとえ同じ民族であっても文化の差が大きくなれば、まるで異国人のように映るものである。現在では、グローバル人という人種がわんさといる。だからこそ帰属意識に危機を感じ、なにかと考えの違う人々を非国民などと呼んだり、却ってナショナリズムを高揚させるのかは知らん。

2. コトシロヌシ(事代主)
日本書紀によると、天照大神の孫ニニギノミコトが高天原(たかまがはら)から日本へ下ってくる際、まず、タケミカヅチ(武甕槌)とフツヌシの二人の神を出雲へやって、コトシロヌシに告げると、コトシロヌシは海の中に八重蒼柴垣(やえあおふしがき)を造り、船の舳を踏んでその中に隠れたとされる。それは、抵抗しない意志を示したものだという。このコトシロヌシを、後世の人はエビス神として祀ったとか。エビス神を祀っているのは、古くは漁民に多く見られるが、奈良県の山中でも祀られているという。
「延喜式」という書物によると、大和葛上郡に鴨都味波八重事代主命(かもつみはやえことしろぬしのみこと)という神が祀られているとか。鴨という文字から、もともとは鳥類を捕まえることを生業とする狩猟民と考えられ、これもエビス神として祀られているとか。
こうしてみると、日本中に狩猟民や漁民の間でエビスが祀られていることが見て取れる。事代主をエビスと呼ぶようになったのは、いつ頃かは不明らしい。やがて、狩猟民や漁民も大和朝廷の下に組み込まれると、農耕文化へと移行していく...

3. 倭人の源流
稲作が弥生文化の基底をなしていることが、稲作がもともと日本にはなかったことを物語る。では、どこから渡来したのか?中国の最初の王朝は「夏(か)」とされる。夏人はもともと東南アジア系の人々で夷(い)と呼ばれたそうな。東南アジア系の原住民が河川を上って、、北の狩猟民や遊牧民と交易し商業都市を建設して、長江沿岸に多くの植民都市を作ったという。それが、やがて国家へ成長する。
さて、北方では夏が紀元前二千年頃から、次いで「殷」や「周」などの国家的結合が始まる。一方、揚子江の南は、なかなか国家が生まれず、紀元前5世紀になって、ようやく「呉」と「越」が生じる。紀元前4世紀頃になると、中国では稲作が中心になったという。
本書は、この越人に注目する。「魏志倭人伝」や「日本書紀」には、倭人は越人の一派であったことが記載されるそうな。やがて、越は呉を滅ぼし、江南の地に国家を形成。その勢力は、華南の海岸からベトナムにまで至る。そして、この時期と、日本に稲作が渡来した時期がちょうど重なるという。越人は、竜を崇拝し、入墨をし、米と魚を常食とする海洋民であることから、漢民族の系統とは違う。海洋民ともなれば、航海術にも長けていただろう。国家的な計画で一派が移住してきたのかは、分からないが。
また、中国に伝わる「旧唐書(くとうじょ)」の中の「日本国伝」には、日本国は倭国と別種であることが記されているそうな。唐の成立は618年だから、もっと古くから、聖徳太子の頃には既に日本国という呼び名があったと思われる。日本国という名は明らかに中国を意識していて、日の昇る方向という意味がある。邪馬台国のことを日本国と呼んでいたのか。
日本書紀には、奈良時代の人の眼で律令国家建設の過程を反省している記述があるという。しかも、律令国家の建設を主導した者が、縄文文化人たちの後裔でもなければ、稲作をもたらした者でもないようだという。それは、土蜘蛛(つちぐも)や国樔(くず)、あるいは海人(あま)などと呼ばれ、北方に住む者は蝦夷(えみし)と呼ばれている。このような連中が即座に団結して、統一的な国家を建設するのは、強力な外敵でもなければ説明がつかないようだ。そこで、倭人が渡来してきたという推定をしている。となると、九州に弥生文化の遺跡が多く見られるのは意味がありそうだ。九州の倭国と奈良の邪馬台国が勢力争いをしたという構図も見えてきそう。はたまた、平将門の乱の時代、海賊として瀬戸内海で暴れた藤原純友は、やはり九州と交流があり、海賊が西側に出現したのも造船技術があるからであろう。恐れられた毛利水軍もやはり西国であり、こうした伝統は、海洋民の倭人から受け継がれているという見方もできそうか...

4. 稲作の渡来ルート
稲作の渡来ルートは、華北の陸路から朝鮮半島を南下してもたらされたのではなく、中国沿岸の海路から朝鮮半島の南部をかすめて、もたらされたのではないかという。いまのところ朝鮮半島の北部では、この時代の稲作の痕跡が発見されていないのだそうな。朝鮮半島を経由して文化が渡来するようになったのは、漢が成立し、紀元前108年に中国の東北から朝鮮半島にかけて、楽浪(らくろう)、臨屯(りんとん)、玄菟(げんと)、真番(しんばん)の四郡を置いた頃からだという。この文化は青銅器をもたらす。稲作は、計画的な事業であり、まずは水田を開かなければならない。そのためには、指導教員や農具が必要で、鉄製の刃物や青銅器を求める。倭人と朝鮮半島との交流は、日本書紀にも数多く記録されているそうな。日本と朝鮮半島との間の交流は百済の時代まで続き、この頃までにかなりの倭人が朝鮮半島に移住したと推測されている。だが、百済は新羅に滅ぼされる。661年、斉明天皇は、百済支援のために自ら軍を率いて九州に出陣している。
百済を失えば、朝鮮半島への足がかりを失い、新たな交易ルートを模索せざるを得ない。この頃から、種子、屋久、奄美、度感(とこ = 徳之島)などの人々が日本政府の役人に従って、方物を貢納しているという。大陸と琉球の交流は、もっと古くからあったのだろう。琉球を経由して大陸に渡る航路は、気象条件などからも危険が多い。
また、「後漢書」の中の「倭伝」には、中国と耽羅(済州島)の間に交流があったことが記載されているという。江南から日本に渡来するのにも、済州島は大きな役割を果たしたようである。
尚、沖縄の城獄貝塚から明刀銭(めいとうせん)が出土されているそうな。朝鮮の全羅南道でも出土されているとか。明刀銭は、春秋戦国時代に斉の国で造られ、斉を中心に、趙、燕など北方の国で使用されたという。このことから、山東半島を中心に、揚子江付近から朝鮮半島付近に至る、黄海交通圏というものがあったと推測されるという。

5. 焼畑と秦氏の一族
畑作には焼畑という農法がある。焼畑は、多くの山の中腹から上の緩傾斜面で行われ、火山地方には山麓にも見られるという。その始まりは、木を焼き払うことによって、森林に潜む猪や鹿を野に追い出すためではないかという。たまたま焼き跡に生えたものが、食するのに適していたということか。その中に、ワラビがある。そうした経験から、焼き跡に一定の植物の種子を巻いたり、根菜を植えるようになったのではないかという。焼畑耕作を必要とする人々は、移動性が強いという。狩猟もその系列か。獣を追って、山から山へ。焼畑は、狩猟、採取の延長として発達してきたのではないかという。なるほど、作物の栽培後に土地を休閑し、移動しながら耕作していく点で、発想が似ていると言えば似ている。
焼畑耕作は、朝鮮半島、中国、台湾にも見られる現象だそうな。これは自然発生的なものなのか?いや、そうでもなさそうである。技術的には、水田耕作よりずっと前に、焼畑耕作や定畑耕作はあったと考えられる。
ところで、武蔵という国名は、ムサシと読む。サシは、朝鮮語で焼畑を意味するそうな。武蔵から甲斐にかけて、サシやサスという地名が多く、指、差の字を現れ、こういう所はたいてい焼畑をやっているという。
だが、朝鮮半島だけでなく、最も影響を受けたのは中国だという。中国の古代国家は、北方の黄河流域を中心に成立し、その生産基盤は畑作であったという。キビやアワの類いで、周や秦の時代に作られたものは、黍(モチキビ)、稷(ウルチキビ)、粟(アワ)などが多いとか。漢の時代になると、稲作が生産基盤となっていく。そして、畑作は、もともと秦人の技術ではないかという。
日本へ最初に渡って来た秦人は融通王とされ、日本書紀にも記述があるそうな。秦氏の一族は、中央政府に関与することが薄く、早くから地方に散在し、生産に携わっていたのではないかという。よそ者ということで、豪族たちにこき使われていたのか?秦人は、6世紀中頃には、全国に7000戸を超える分布があるという。当時、1戸当たり15人は居たというから、10万人を超える計算か。中には、秦人で占めた村もあるとか。秦の一族は、高い生産技術を持っていて、地域の生産リーダのような存在だったという。それを物語るものが、平城宮跡から発掘された木簡にあるそうな。貢納物の荷札に品目、数量、代表者名が記載され、そこには畑作の作物と秦の性名が多く見られ、伊豆、尾張、近江、若狭、丹波、紀伊、播磨、備前、阿波、讃岐などに渡っているとか。秦は、ハタとも読む。また、全国には、幡、幡多、幡田、八田、八幡などの地名をよく見かける。古事記や日本書紀でも、秦をハタと読んでいるとか。陸田もハタと読むそうな。

6. 赤飯文化の渡来
ペリー来航に同行したジェームズ・モロー博士は、琉球を訪れ、米作りをかなり詳しく記したそうな。そこには、赤米のことも記され、唐の時代に渡来したのではないかという。日本で赤米が多く作られるのは、鹿児島県、熊本県、宮崎県の南部、高知県などで、南西九州に集中しているという。吉事に小豆(あずき)を入れた赤飯を食べるのも、赤米が起源であろうか?赤米のことを大唐米とも呼ぶ。祝事に赤が用いられるのは唐の影響なのかもれいない。遣唐使が南島路をとるようになったのも関係がありそうか...

7. 太平洋の小さな島々
キャプテン・クックが太平洋の島々を探検した時、人喰いの習俗を持つ島のことが伝えられるという。人間は飢えれば、なんでもする。小さな島では、人口が増えれば生活が苦しくなり、調節を余儀なくされる。男女のバランスが崩れるのも、存続の危機となる。食糧危機ともなれば、島脱出も試みるだろうし、島外との交流を強く求めるだろう。となれば、ミクロネシアなどからの移住も十分に考えられる。あてすっぽで海を渡る勇気があったのかは知らんが、存亡の危機ともなれば、そんなこと言ってられないだろうし、ちょっとでも良い噂を聞きつければ、あるいは迷信や占いに頼って、新天地を求めたであろう。

2013-12-08

"忘れられた日本人" 宮本常一 著

民俗学者宮本常一は、その方面の第一人者柳田國男が提唱した「方言周圏論」に対して、控えめながらも、東西日本における文化の相違を指摘したそうな。酔っ払った反社会分子は、こういう挿話に弱い!
江戸時代から日本の中心は東京であり、学者も芸術家も東京を目指し、民俗風習の観察さえも東京人を中心になされてきた。しかし、文化や民族における画一的なモノの見方は、本質を見失う恐れがある。情報化社会とされる現代ですら、ステレオタイプ的な見識が旺盛なのだ。宮本氏は、そうした風潮を嘆いてのことか、昭和14年(1939年)から日本全国を思いつくまま歩き、生き字引となった老人立ちの話を聞いて回る。しかも、本土から離れた対馬や四国を題材にしていることが、島国根性の源泉を探っているように映る。現在風に言えば... ビッグデータという用語が世間でひとり歩きしている感があるが、スモールデータの分析もろくにやっていないのに... といった愚痴が聞こえてきそうだ。
とはいえ、きつい地方訛りを聞くだけでも退屈しそうで、交流好きで謙虚でなけば話題も引き出せないだろう。実に根気のいる仕事である。こうした熱意やこだわりが、本当の意味で学問を支えているのだと思う。確かに、学問は高度化、抽象化が進んでいる。その影で、具体的な民俗風習の観察が見落とされるとすれば、学問は本当に進化しているのだろうか?進化という言葉もまた迷信になってはいないだろうか?本書は、それを問うているような気がする。

当時の老人と言えば、江戸末期から明治時代を生きた人々で、本書はここに真の伝承者を求める。いくら島国とはいえ、しかも鎖国の時代とはいえ、村落構造、宮座、民家などで文化の系統が多様なのは自然であろう。大陸に近い地域ともなれば、中央政治とは無関係に文化交流が生じる。戦後、地主制や家父長制が、封建的というだけで批判され、農村イメージを一色に塗りつぶしてきた。だが本書は、様々な地主制の形態が存在したことや、家父長制や世襲制の一辺倒ではなかったことを物語ってくれる。
古来、日本には「講」という自発的な民衆組織があったという。信仰から親睦、農作業に関するものなど、人々は些細な悩み事から集いはじめる。草分け的に生じた民衆の集まりが巨大化していくと、そこに権力が入り込むという構図は、昔から変わらない。弱者の集うところに政治屋が入り込み、農協様のような官僚的組織が巧みに組織化されてきたことを想像させる。
また、女性の地位を巡っては、昔から虐げられてきたというのが通説であるが、西日本では、女性が一人旅をなしえたことや、エロ話を堂々としていた様子など自由奔放な雰囲気が紹介される。夜這いが日常的に行われ、性はタブーとされるのではなく、むしろ開放的であったとか。信長や秀吉と会見したルイス・フロイスも「日欧文化比較論」の中で、日本女性は処女の純潔を少しも重んじないと語ったという。男性社会と銘打ちながら、実は、女性のしたたかさに操られた社会だったのかもしれない。少なくとも、現代社会はそのように映る。家族の中で最も発言力があるのは財布を握る鬼嫁だ!との愚痴も聞こえてくるし。三行半では、夫が妻に離縁状を突きつけることになっているが、妻から愛想を尽かされたというのが本当のところでは?慣習とは恐ろしいもので、慰謝料の概念として受け継がれる。男性社会が成り立つのは金持ち風情の特権であろうし、金の切れ目が縁の切れ目となれば、男の方が三行半を喰らうのはもっともな話である。

ところで、歴史事象を観察する上で、通時性と共時性の二つの視点がある。通時性が歴史的な変化を追うのに対して、共時性は同時に生じる地域的な差異に注目する。いわば時間と空間の視点であるが、その双方が協調されてこそ、真の歴史へと誘なう。ただ、歴史学では、時代の流れから前後の事象と結びつけ、その意義を求めることの方が一般的であろうか。本書のように、時間をスライスしながら土地柄を語ろうとする文献は、少数派のような気がする。民俗学を歴史学に含めるか社会学に含めるかは微妙だが、それぞれ近接する領域にあって補完しあっているのは間違いなかろう。歴史ってやつは、通時性だけでは説明がつかないところがある。古典芸術が再解釈されて現代に蘇れば、たちまち共時性となって出現しやがる。まるで新たな発想が生まれたかのように。忘却が人間の得意技とすれば、いつまでも独創性を主張できるという寸法よ!

1. 寄り合い
村には世話人というものがいて、江戸時代には「肝煎(きもいり)」と呼ばれ、明治以降には「総代」と呼ばれたそうな。また、帳箱には古くから伝えられる文書が入っていて、取り決めや掟が二百年にも渡って残される村もあるのだとか。その様子を、対馬の伊奈という村の事例で紹介してくれる。
伊奈の古文書には、「宗氏の一族にあたる郷士の家が、寄り合いに下男ばかり出すのは、けしからん!」という記述が残っているそうな。郷士とは、農村に土着した武士の身分を与えられた者で、会合には、旦那も下男も一緒に出席する習慣があったらしい。主従関係や身分差別があるものの、意見を平等に聞く場があって、その中に一般の村人も含まれていたということか。寄り合いには、全員参加の風習があって、サボると周囲から非難される。透明性という意味では、見事な民主主義が機能しているわけだが、同時に柔軟性を欠く。些細な事でもなかなか結論がでず、間の間の...間をとって中途半端に決定されるといった具合。そして、最終的に村長や長老といった御意見番が決定するという仕組み。ここだけ見れば、永田町の論理か。
しかし、一旦事が決まると、誰も文句を言わず忠実に守り通す。狭い村ともなると、毎日顔をつきあわせなければならない。それでもなお、互いに気まずい思いをしないような、自然なシステムが育まれてきたということか。民主主義的な寄り合いと、決定事項に対する権威という両面から、村組織が機能していたというわけか。もともと民主主義的な風土があったからこそ、戦後いきなりGHQから押し付けられたアメリカ式民主主義を受け入れることができたという意見をよく耳にするが、あながち間違いでもなさそうである。
「日本中の村がこのようであったとはいわぬ。がすくなくとも京都、大阪から西の村々には、こうした村寄りあいが古くからおこなわれて来ており、そういう会合では郷士も百姓も区別はなかったようである。領主、藩士、百姓という系列の中へおかれると、百姓の身分は低いものになるが、村落共同体の一員ということになると発言は互角であったようである。」
しかし、つまらぬ事でも集まることが重要とされる感覚は、現代に悪しき風習として受け継がれるところがある。忘年会を欠席するだけで査定対象とされる企業組織があれば、その閉塞感に逃げ出す人も少なくないと聞く。また、親切心は村八分に変貌しやすい。せっかく親切にしたのに、見返りがないと妬んだり、好き嫌いが自然に生じ、なんとなく気に食わないといった感情から同調者を募ったりと。そこに、金銭と権力が絡めば、集団的暴力が表面化する。昔の村社会がうまく機能したのは、貧乏で権力と無縁だったからであろう。世話役が必要だったのも、謙遜や控え目を美徳とする風習があるからであろう。そして、世話役のように、きっぱりと物事を主張できるところに人が集まり、そこに政治屋どもが寄生する。村選挙が信仰化して村占拠となれば、若年層が村を逃げ出すは必定。民主主義が信仰と結びつくと、途端に機能を失い、民主主義の面影すら見えなくなる。

2. 農地開放と多様な村落
農地開放は、戦後、GHQ主導で実施されたが、もっと前の農林省が企画したものが引き継がれたようである。とはいえ、政治とは行動力であり、日本の官僚だけで実現できたかは疑問だが...
農地解放という言葉は、いかにも自由や平等と相性がよさそうで、弱者の味方や正義の味方という印象を与える。だが現実には、政治的にうまく振る舞う者や自己主張の巧みな者が得をし、本当の弱者はますます追い詰められる。こうした弱者社会に平等主義を掲げる政治屋どもが、寄生虫のごときつけ込むというお馴染みの構図か。
大きい地主の方は割合がつきやすく、むしろ小地主に問題が多かったそうな。当然ながら農地に対する農民の愛着は強く、実際には、解放する方が不合理という場合も少なくなかったようである。貧乏な農家では、馬や牛が売られる前に娘が売られ、息子も出征にとられ、子沢山が労働力不足を補い、学校なんて行かずに働け!などと説教されるような時代。農地開放の名の下で、ほとんど搾取される小作人たち。こういう有り様を見て、青年将校たちは決起した。二・二六事件などが、それである。貧乏農家出身の軍人が多ければ、正義漢も多かろう。政治がだらしないと偏重したナショナリズムが高揚し、正義の集団性が軍部を暴走させる。
さて、日本の村には、大きい地主が土地の大半を持って小作人の多い部落と、所有地が比較的平均している部落の二つのタイプがあるという。地主と小作の分化している村は、みな面白がって調査するが、後者のような平凡な村は、振り向く研究者も少ないそうな。だが、著者は、むしろ後者のタイプの部落の方が多いのではないかと語る。
そして、その典型として愛知県北設楽郡、旧名倉村(現設楽町)が紹介される。小さな村の存続のために、遠い村と嫁のやりとりをする。適齢期というものが設けられ、嫁に行けないと揶揄され、社会的な圧力も加わる。そして、おのずと格式やら家柄やら財産やらをやかましく言うようになったという。ある種の政略結婚のようなもので、見栄っ張りが旺盛となり、結婚式も派手になっていく。一昔前、名古屋の結婚式の派手さは有名だったが、今はどうなんだろう?共同体意識の強い地域ほど、参列者の数やら見栄えを気にするのかもしれん...

3. 年齢階梯制と隠居制度
年齢階梯制とは、年齢によって成員が区別される制度で、長老組、若衆組などがあるという。あるいは、女衆という集いも生じたようだ。寄り合いでは、戸主が集まるものとされ、女性が代理で出席することは少ない。出席しても、ほとんど発言せず、片隅にいるのが普通。そこで、独自の集まりが組織される。井戸端会議もその類いであろうか。
さて、年齢階梯制が、もっとも顕著なのは、非血縁的な地縁集団が比較的強い社会だという。血縁関係が薄ければ、互いに結合を強めるために地域的な集いが発達する。遠くの親戚より近くの他人というわけか。著者の印象では、年齢階梯制は、西日本に濃く現れ、東日本ほど希薄になるという。しかも、そのタイプも多様性に富んでいて、家父長的な同族結合の強いタイプ、非血縁結合の強いタイプ、そして、それらの中間的なタイプがいくつもあるという。
年齢階梯制の濃厚なところでは、隠居制度も強く現れるそうな。隠居制度の起源や起因は、非血縁的な地域共同体であったと思われるという。そういう村では、村作業が一斉作業となることが多いとか。山仕事、磯仕事、道つくり、祭礼、法要、農作業、公役奉仕などが、公共事業的な存在となっているようである。地方自治体の性格から、公共事業と結びつきやすい地域があるのだろう。そこに、政治権益が結びつけば、政治家の影響力を増し、大物政治家の出やすい地域となる。開発の余地のある土地柄ほど、餌食にされやすい。首相の出やすい町というのは、自慢にならないようである。

4. 講仲間とお堂
九州肥前の西部において、中世に発達した松浦一族のごときは、当初は松浦党と呼ばれ、同族集団的な色彩が強かったという。だが後に、姻戚にあたる宇久氏(五島氏)や青方氏なども含めており、クジによって座席を設け、本家と分家による秩序には従わなくなったという。これは郷土武士のケースであるが、瀬戸内海では、下級武士または農漁民町民など生産者の間でも同業者の集団を結成し、これを「衆」と呼ぶそうな。三島衆や塩飽衆などが、それか。衆は、鎌倉時代の文献にも見られ、一結衆などにつながるらしい。一結衆とは、「講仲間」というやつで、地蔵講や念仏講などが古くからあり、宗教的な集まりが始まりとされるようだ。
現在では、民生委員という用語を見かけるが、地縁集団から生じた世話人のようなものか。昔は、葬式が自宅で行われた。おいらの祖母の葬式も田舎の家で行われ、講仲間のような連中がいた。周囲の人たちが、当たり前のように葬式の手伝いをする。そういう光景が、懐かしく思い出される。今では葬儀屋がすべてやってくれるので、後腐れのない世の中となったものである。どちらが良いかは好みの問題であろう。登山道で自然に挨拶を交わすような雰囲気も悪くないが、周囲の人々が家族事情に詳しいというのも鬱陶しいものである。
また、兵庫県加古川の東岸一帯には、村落の中に講堂と呼ばれる建物が多いという。「お堂」という建物は、中世の絵巻物にも見られるそうな。お堂が村の寄り合いの場所とされてきたことから、宗教的な寄り合いが発達したのではないかという。講堂、講壇、講説といった類いで、もともとは長老の話を聞く場所が、教えを乞うような場所となっていったのかもしれん...

5. 世間師
意外なほど若い頃、奔放な旅をした経験を持つ者が多いという。その傾向は旧藩時代から見られるが、明治になって甚だしくなったとか。彼らは「世間師」と呼ばれる。村里生活が画一的だった分、行動においては個性が強烈だったということであろうか。旅の恥はかき捨て!というのもあろうか。
当時の老人は、若い時は、みんな無鉄砲な世間師だったという。確かに、日本中を歩きまわった経験を持つ年寄りは多い。祖父母の世代には、首都圏に出稼ぎに出た話や、海外で戦車に乗った話などを聞かされたものだ。戦時中、男は人夫として駆り出された。本書にも、東京、大阪、北九州などに出稼ぎに行った話が紹介される。
現在のビジネスマンは、首都圏や地方を往復したり、海外へ行くことも多い。しかし、そのほとんどは往復切符。世間師たちの旅は、それこそ無鉄砲な片道切符!戻れる保障があるのと、ないのとでは、心持ちも随分と違うだろう。安全で便利な社会が、人を臆病にさせるのか?現在のように思考が個性的になると、逆に行動では情報に流されて画一的になるのか?わざわざ現地に行かなくても、画像情報が容易に入手できるし...
貧乏な村の出身となれば、兵隊志願者も多く、海外へ出て行く者も多い。裕福な者が余暇で旅をするのと、貧乏な者が生活のために旅をするのとでも、意味が違う。冒険心においては、昔の人の方が勇気があったのかもしれん。
1877年、西郷騒動(西南戦争)で熊本の町は丸焼けになると、町の復興のために大工や人夫が必要という噂が流れ、人々が大挙して押し寄せたという。その復興も目に見えて早かったとか。こうした光景は国民性として受け継がれている。

6. 文字伝承と時間意識
古くから、日本人の識字率の高さを指摘する欧米人の文献を見かける。寺小屋などの文化が民衆から自発的に生じたり、村長や長老たちが率先して教師役を務めたりと。
とはいえ、地方の農村をくまなく歩く様子から、文字を知らない者が少なくないことも見えてくる。文字を知る者と、知らない者とでは、生活意識や性格にも大きな差が生じる。文字を知らない者は、語る者のことを信じて、そのまま覚えるしかないので、騙されやすい。よほどの作為のない限り修正しようとはせず頑固爺にもなる。対して、文字を知れば、偉大な書を読むこともでき、信じるかどうかの基準を自分で定めることができ、大袈裟な伝承に疑いを持つこともできる。
文字を知る者は、外部からの刺激にきわめて敏感だという。世間の流れやその歯車に、自分の生活を同期させようとして、より世間を気にすると。流行語に惑わされるのも、時代に乗り遅れまいという焦りがあるのだろう。知識があるために、却って惑わせることもある。言葉の持つ利便性は、そのまま言葉の持つ暴走性へとつながる。文字文化が存在しなかったら、国家という概念も成り立たないのかもしれない。よって、国家建設において、教育の重要性は非常に高い。
伝承者としての老人の役割とは、地域の生字引としての存在であるが、そういう役割も文献が整ってくれば自然に消えていく。人間の存在意義は、文字に置き換えられていくのかもしれん。ただし、文字に精神が結びつかなければ、伝承の役割は果たせないだろう。
「民間の口頭伝承は文書資料とちがって、自分たちの生活に必要のなくなったものはぐんぐんわすれ去られていく。しかしただ忘れ去られたのではなくて、神体だけはのこり、管理者がかかわっているものである。」
ところで、文字を知らない者は、一緒に話をしていても区切りをつけることがなく、ほとんど時間を気にしないという。ただ、朝だけは滅法に早いのだとか。飯だ!と言えば食い。暗うなった!といえば寝る。
「文字の縁のうすい人たちは、自分をまもり、自分のしなければならない事は誠実にはたし、また隣人を愛し、どこかに底ぬけの明るいところを持っており、また共通して時間の観念に乏しかった。」
一方、文字を知っている者は、四六時中、時計を気にしているという。時間によって、社会や世間における自分の位置を確認し、そこに責任感を結びつけるのかもしれん。責任とは、ある種の自己存在の確認であろうか。文字に対する意識が組織の中の自分を確認する意識と結びつき、空気を読むという隠れた文字を読む風潮を育んできたのかも。だから、寄り合いでもなんでも、どこかに所属していないと落ち着かないのかは知らん。
「民間のすぐれた伝承者が文字をもってくると、こうして単なる古いことを伝承して、これを後世に伝えようとするだけでなく、自分たちの生活をよりよくしようとする努力が、人一倍つよくなるのが共通した現象であり、その中には農民としての素朴でエネルギッシュな明るさが生きている。」

7. 四国の裏街道
土佐山中で出会った老婆の話は、四国のお遍路の旅を思い浮かべる。巡礼の旅路ともなれば、険しい道でなければ意義を失う。通りかかった老婆は、大変なレブラ患者で、男か女かも見分けがつかないほど。いわゆるハンセン病。その老婆によると、こういう業病は四国に多くて、そういう者のみの通る山道があるという。
「盗人の通る道もあるのだからカッタイ病の通る道もあるのでしょう」
善人に道があれば、罪人にも道があろうし、ケモノにも道があろう。明るい道もあれば、暗い道もあろう。生きる者すべてに道が用意されていなければ...

2013-12-01

"イワン・イリッチの死" レフ・トルストイ 著

ウォッカ級の長編大作が続くと、純米酒のごときシンプルな物語を欲する。しかし、濃厚さはスピリタス級か!なにしろ死神を相手取るのだから...

トルストイに触れるのは、二十年振りぐらいになろうか。帝政ロシア時代にあって、ロシア正教会と国家権力の癒着や民衆圧迫の政策を批判し、国家から危険人物と目された。だが、あくまでも非暴力主義を唱え、その活動はトルストイ運動として知られる。学生時代というのは、自由に焦がれ、なにかと反権力的な考えに惹かれるもので、同じく政府批判でシベリア流刑となったドストエフスキーや、農奴制度を批判して投獄されたツルゲーネフと合わせて親しんだものである。イエス思想への原点回帰を匂わせる点でも彼らは共通しており、宗教思想の暴走にも興味を持った。トルストイは、代表作の一つ「アンナ・カレーニナ」の完成後、十年間、創作意欲を失い、自我に籠ったと伝えられる。そして、再び出現した作品が、「イワン・イリッチの死」である。
題材そのものは単純... 一人の裁判官が、不治の病にかかって恐怖と孤独に苛まれ、ついに諦観に達する... という物語。なんの変哲もない純粋さが、却って芸術としての凄みを与える。

なぜ、この書を再読する気になったかというと...
実は先日、友人の葬儀で納棺に立ち会った。ヤツは、こわばった手足を棺の底敷に沈めながら、ずっしりと横たわっていた。その姿は、防腐処理のせいか、堂々としていて、実に死人らしくない。闘病生活の疲れからか、少し痩せ細っているものの、すっかり面変わりした顔は、まったく関係のない第三者の面構え。穏やかな表情が、微笑んでいるようにも、冷徹にも見える。なによりも不思議なことは、生きている者を投影するかのように見えることだ。まるで生きる者を非難するかのような... ついに人生の意義のようなものを悟ったというのか?
ところで、葬式というものは、最も悲しむべき喪主が、最も忙しい仕事を負わされる。気持ちを少しでも紛らわせようという魂胆か?財産を計算をするのも、香典を整理するのも、気を紛らわすにはちょうどいい。そして、葬式を終え、参列者が去った後、突然泣き崩れる。
しかし今回は、家族葬のような簡易的な形で済ませたいという意向があり、死に顔をじっくりと拝むことができた。俺の顔を見ながら愚痴ってんじゃねぇよ!という台詞が聞こえてきそうなほどに。葬式仏教のような形式ばったものよりも、落ち着いて惜しむことができるだけに、その質素感が却って重みを与える。そのような儀に参加させて下さった遺族の方々に感謝する。
... いま、そんな事を振り返りながら、読んでいる。

1. 生への欺瞞
イワン・イリッチは三人兄弟の次男。父は、典型的な官僚役人として、年功序列で役職を与えられ、安穏な晩年を過ごした。長男も、父と同じ栄達の道を選び、名義ばかりの椅子を占め、惰性的な俸給を得る。三男は、紋切型の家族に一人ぐらい現れる、はみ出し者。末っ子ともなれば、いつも兄たちと比較され、反抗心を抱く。次男イワンは、一家で秀才と言われ、長男ほどの杓子定規でもなければ、三男ほどの無鉄砲でもない。快活で、社交的で、礼儀正しく気持ちのいい人物で、同僚からも好かれるタイプ。そんな人物が、医者にも診断できない得体の知れない病に襲われ、絶えまない腹痛から精神を歪ませていき、ヒステリックな性格へと変貌させる。普通に恋愛し、普通に結婚し、普通に子供もでき、平凡に生きてきたからこそショックが大きいのか。
裁判官の資質で何よりも嫌う事は嘘をつくこと。嘘も方便と言うが、正義漢にとって虚偽ほど許せないものはないらしい。しかし、その嘘が、唯一の心の支えになろうとは。医者は完治すると言っているし、家族や同僚もきっと治ると励ましてくれる。その胡散臭い言葉が、なによりも辛い。病床にあり、モルヒネ漬けとなり、痩せ細っていく顔を見れば、鏡を遠ざけ、自分の身体からも目を背ける。やがて、イワンは死へ向かっていることを悟る。まだしも、末期癌などと宣告される方が、ましなのかも...
「おれがいなくなると、その時はいったいどうなるんだろう?なんにもありゃしない。おれがいなくなった時、いったいおれはどこへ行くんだろう?本当に死ぬんだろうか?いやだ、死にたくない。」
恐怖を嘘で誤魔化すのが、精神ってやつの常套手段。なによりも自己を欺瞞しやがる。希望という名の絶望ほどタチの悪いものはない。無責任な博愛者ほど、ガンバレ!と、精神的に追い詰め、憐憫な情は残酷な情の投影となる。若くて活力がみなぎっていれば、自分が死ぬなんて想像もつかないし、考えもしない。だから、他人の命を粗末にするのかは知らん。死を身近に感じなければ、生きる意義なんて考えないものかもしれん。

2. 死への覚悟
死を知ったとしても、死を悟ったとしても、人間だからいずれ死ぬ!と分かっていても、その考えに馴れることは並大抵のことではない。死とは何か?と自問したところで、理解を超えた領域にある。そして、死の意義について、屁理屈でもいいから、答えを出さずにはいられない。死という得体の知れない恐怖が迫れば、唯一の慰めは時間感覚を麻痺させることぐらいであろうか。
死を問うことを、生を問うことに転嫁することはできそうである。死を無意味とするならば、意味のある時代を思い出せばいい。周囲にできることと言えば、ただ目を見つめ、昔の懐かしい話を笑顔で語ってやることぐらいであろうか。こんな場面に、励ましも、希望の言葉も、真面目くさった話も無用だ。生に満ちていた思い出だけが、迫り来る死という瞬間を遠ざけてくれる。それでも、過去を思う時間は「死の距離の自乗に反比例」して、だんだん速くなっていくものらしい。未来の絶望のために過去の希望に救いを求めるとは... 思い出作りとは、死に直面するための心の準備に過ぎないというのか?
周囲の人々が絶望の目で見つめていると、自分の存在が彼らを苦しめているのを感じ、ついに死を覚悟する。かくして、イワン・イリッチは、死を喜びに変えたのだった。人生とは、死というほんの一瞬の光を見るだけのためにあるのかもしれん...
「ところで死は?どこにいるのだ?古くから馴染みになっている死の恐怖をさがしたが、見つからなかった。いったいどこにいるのだ?死とはなんだ?恐怖はまるでなかった。なぜなら、死がなかったからである。死の代わりに光があった。」
... 中央裁判所の判事イワン・イリッチ、享年45歳。