2021-11-28

"現代建築家集 Venturi Scott Brown & Associates"

紅葉に誘われて古本屋を散歩していると、懐古風のスケッチ群に出逢った。自然に馴染んだ街づくり... 風景に同化した都市計画... こうしたセピア画像に癒やされる。英語の文献だけど、まったく抵抗感なし。活字がちょいと控え目なのがいい。古本にしては、ちと値が張るものの、いつもながら気まぐれは頼もしい。読書の秋というが、本ってやつは、なにも読むためだけのものではあるまい...


空間認識は、人間が生きる上で重要な認識能力の一つ。カントは、空間性と時間性をア・プリオリな認識に位置づけた。建築とは、まさに空間認識の具現化であり、極めて人工的でありながら、実のところ過剰なほど自然を意識している。それは、人間が本能的に思い描く憧れのようなものであろうか...
懐古風な空間性にしても、ノスタルジックな時間性にしても、それらが調和した途端に憩いの場を提供してくれる。調和という観念には、摩訶不思議な力が秘められている。人工物と自然物という矛盾の共存ですら、そこに芸術性が生じ、心の拠り所にしちまう。
ガウディは、自ら画家、音楽家、彫刻家、家具師、金物製造師、都市計画家となって、建築をあらゆる芸術の総体として捉えた。建築家という人種は、五感を存分に解放できる空間を求め、その空間のみが五感を超越した六感なるものを生起させる、かのように考えるものらしい。真の自由は、まさに空間にあり!と言わんばかりに...


さて、ヴェンチューリ・スコット・ブラウン & アソシエイツは、20世紀を代表する建築設計事務所として知られる。創始者は、ロバート・ヴェンチューリとその妻デニス・スコット・ブラウン。
本書は、この二人の建築家の作品集で、建築計画に至るスケッチや模型が掲載され、集合住宅に大宇宙を見、個人住宅に小宇宙を見ながら、建築家が思考する空間アルゴリズムを体感させてくれる。
「住宅は内気だが、雄弁である。」


ヴェンチューリとスコット・ブラウンは、ポストモダニズムの建築家に属すらしく、本書の文面からもモダニズムへの反発が読み取れる。建築は正しく建てれば、当然の帰結として健康と幸福が宿る... といったことが叫ばれた風潮への言及や、今日の建築家の集合住宅に対する理想が、住宅市場並みに単調である... といった皮肉まじりの言及に。
「正しく建てる」とは、どういうことであろう。啓蒙主義にしても、理性主義にしても、説教じみていて、押し付けがましいものには反発したくもなる。それが、自由精神というものか。そして答えは、多様化ということになろうが、まさに現代社会が歩んでいる道である。
とはいえ、新しい形式や様式ってやつは、従来のものを批判する形で登場する。改善の余地がなければ、変わる必要もない。芸術ともなれば、鑑賞者は飽きっぽく、いつも刺激に飢えている。人間にとって、退屈病はよほど辛いと見える。それで、人間社会に批判の嵐が吹き荒れるのかは知らんが...
やはり、カントのような批判哲学を実践することは難しい。対象を正しく理解しなければ、正しく批判することができないのは当然だとしても、さらに歴史という時間の流れの中で調和を求めるとなると...


モダニズムは、20世紀初頭、近代化を背景にアヴァンギャルドな造形理念をまとって登場した。ルネサンス風の精神体現より、もっと現実的に、もっと機能的に、もっと合理的に... と。アヴァンギャルドというからには、前衛的で試行錯誤的な意味合いが強かったのかもしれない。
近代化の波は産業革命や科学技術の発達ととともに押し寄せてきたが、極度の合理性は、機械的で、工業的で、無味乾燥なイメージを与え、人間性をも見失わせる。そうした風潮は、ヴァイマル共和政時代に製作されたモノクロサイレント映画「メトロポリス」でも象徴されようし、マルクスら思想家たちが唱えた「疎外」という概念も、近代主義への警鐘と言えよう...


しかしながら、人間にとっての合理性には、精神的合理性と物質的合理性がある。この二重性は、主観性と客観性の駆け引きの中で対峙している。時には矛盾に苛み、時には協調しながら。科学の進歩が客観的な洞察を鋭利にしたのは確かだが、思考するのはあくまでも主体であり、自己である。物理的には無駄な空間も、精神的には有用なことがよくあるし、無味乾燥な芸術作品も、数学的に眺めれば違った光景が見えてくる。
また、自由精神ってやつは、抑圧との関係からいっそう輝く。ロマンティシズムの反動で写実主義や自然主義をもたらすこともあれば、ルネサンスによる古代・古典回帰から、モダニズムによる機能的・合理的造形理念を経て、再びポストモダニズムによって精神性へと引き戻される。自由と抑圧の綱引きに、主観と客観の駆け引きが絡み合って...
主観には思考の深さを牽引する役割があり、客観には感性と知性の均衡を保つ役割がある。その双方を凌駕してこそ、人間的合理性に近づくことができるのであろうし、その過程では、自己肯定も、自己否定も必要であろう。芸術家に自己破滅型を多く見かけるのも頷ける...

2021-11-21

"芸術の条件 近代美学の境界" 小田部胤久 著

芸術に足る条件とは、なんであろう...
自己を侮辱することによって芸術家は魔術性を露わにし、自己否定によって芸術作品は堂々たる威風を漂わせる。この自殺行為によって、芸術は芸術たりうるというのか。
そもそも芸術とは、なんであろう...
芸の術と書くからには、技術の類いか。あるいは、魔術の類いか。技術の産物が感動を呼ぶ時、鳥肌が立つような感覚が全身を駆け巡る。精神空間を瞬時に伝搬する波動現象とでも言おうか。そういえば、芸術は爆発だ!という名言を遺した芸術家がいた。
思いっきり身勝手な世界を創造する自己陶酔型でありながら、精神病を患うほど徹底的に心を追い詰める自己破壊型。独りの芸術家に、S と M が同居してやがる。鑑賞者はというと、その狂気に癒やされるとくれば、こちらも狂気。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ!


芸術家も鑑賞者も、さらなる刺激を求めてやまない。互いに競うかのように。古代ギリシア・ローマ文化を伝承する古典様式から、中世にはゴシック様式が出現。ゴシックとは、ゴート風といった意味で、ローマの知識人たちが無秩序で野蛮といった侮辱な意味を込めた用語である。近代には、感受性を堂々と曝け出すロマン主義が旺盛となる。こうした変化は、ある種の精神的合理性によってもたらされた。要するに、人間は飽きっぽいってことだ。退屈病は恐ろしい。実に恐ろしい。この病を癒やしてくれるのが、芸術ってやつか...


さて、前戯はこのぐらいにして...
著者の小田部胤久は、フィリップ・フランツ・フォン・ジーボルト賞を受賞した人だそうな。この賞の名は初めて耳にするが、ドイツにおける日本人研究者の貢献を讃えるものだとか。
前記事では「芸術の逆説」と題して、芸術家や芸術作品、創造性や独創性といった芸術を支える根本から論じて魅せた。ここでは「芸術の条件」と題して、「所有、先入見、国家、方位、歴史」といった、およそ芸術とは縁遠い観点から論じて魅せる。「芸術の逆説」と「芸術の条件」という二つの著作は、内と外から芸術論を語った姉妹作品というわけか。
双方とも、「美学」という学問の成立の時代から、古典的な芸術と近代的な芸術を観察している。ここでは、その時間的な境目をめぐり、ひいては近代国家との連関を紐解く。この時代が、啓蒙思想や近代国家の成立と重なるのは、偶然ではなさそうである。
「美学」という用語は哲学風で、既にプラトンやアリストテレスあたりが論じていそうだが、明確に著したのは、カント、シェリング、ヘーゲルあたりになるらしい。本書は「近代美学」と称している。つまり、18世紀頃に生起した美意識を通じて、芸術とやらを語ってくれる。


なかなか興味深い試みではあるが、こいつは本当に芸術論であろうか...
「所有」といえば、経済学の核となる概念。「国家」といえば、政治学の領域。むしろ、芸術とは正反対に映る。「先入見」「歴史」はどんな学問にも関与するし、「方位」にしても地域的な傾向や民族的な特徴はどんな文化にも見られ、なにも芸術論に限ったことではあるまい。
所有の概念は、何によって正当化されるだろうか。経済学者たちは口を揃える。それは労働であると。ただ、労働や勤勉は、芸術家になくてはならぬ資質の一つ。独創性ってやつも、試行錯誤の末に生じるのであろうから、無心で没頭できる能力こそ芸術家の資質となろう...


また、芸術ってやつは、社会風刺や批判、滑稽を美の意識にまで高め、人間社会に反省を促すところがある。ピカソの「ゲルニカ」のような作品は、国家の暴走がなければ、けして生み出されることはなかったであろう。
人間には、ホラーやスリラーといった恐怖に魅了される性癖がある。神話や聖書ですら恐怖の要素に満ち満ちており、残虐な描写までも美意識にしちまう。額縁に囲まれた光景は、まるで別世界。不幸ってやつは、遠近法で眺める分には心地よいと見える。鑑賞者は、自己に災いが降りかからない程度に距離を測ることができ、他人の不幸を見て自己を慰めることもできる。
しかし、創造者である芸術家はどうであろう。ムンクの「叫び」のような作品は、大衆社会へ何を訴えようとしたのだろうか...


「思索家の多くは、先入見の上着を投げ捨ててただ裸の理性のみを残すよりは、むしろ理性が織り込まれた先入見を継続させるほうがはるかに賢明であると考える。」
... エドマンド・バーク


何事も、それを分析し、その本質を理解しようとすれば、批判的な目線を向けることになる。逆説を論じるにせよ、その条件を問うにせよ。思想や信条の類いは、しばしば古典回帰してきた。ルネサンスに限らず。昔は良かった!などと懐かしむ心情は、もはや老人病か。いや、老人病を免れて現代病を患えば、同じこと。いずれにせよ、社会の息苦しさが、批判精神を呼び覚ます。愚痴も美の意識にまで高めると、崇高な哲学になるのであろう。カントの批判哲学も、愚痴の延長上にあるような気がする。
そもそも、人間とはなんであるか。キェルケゴールは答えた。それは、精神である... と。では、精神とはなんであるか。精神病も患えない人間は、もはや精神を持ち合わせてはいまい。そして、自己に対して批判精神を呼び起こすことも。これが芸術家に足る条件であろうか...


「批評とは、歴史と哲学の中間項であり、それは両者を結ぶつけ、両者を新たな第三のものに統合すべきものである。哲学的精神なくして批評が成功しないことは、誰もが認めるとおりである。だが同時に、歴史的知識を欠いて批評が成功することもない。歴史と伝承を哲学的に解明し吟味することは、疑いもなく批評であるが、同様に、哲学についてのいかなる歴史的見解もまた疑いもなく批評である。」
... フリードリヒ・シュレーゲル

2021-11-14

"芸術の逆説 近代美学の成立" 小田部胤久 著

何事も、その本質を覗きたければ、逆説的に論じてみるのも一献。押してもダメなら引いてみな!ってな具合に...
ここでの逆説の対象は「芸術」とやら。近代的芸術論は、「美学」という学問の成立と連関しているという。美学とは、哲学に近い用語であろうか。「近代的」というのは、18世紀にヨーロッパで成立したものを言うらしい。
古来、芸術は自然との関係から論じられてきた。アリストテレスの芸術論は自然主義を重んじ、詩や音楽の奏でる心地よい響きに自然との同化を思わせる。
しかし、だ。芸術ってやつは、きわめて人為的な試み。いや、人間そのものの投影という言うべきか。実際、自然風景の原物よりも、それを描いた絵画の方に価値が認められる。純粋な自然の光景に、脂ぎった人間の精神を混入し、塩と胡椒で味付けをやる。これが、芸術ってヤツか...


おまけに、芸術家ときたら、自分の生きる世界に対して、徹底的なこだわりを見せる。妥協ってやつが、人生を楽にしてくれるところもあるのだが、あえて苦難を受け入れ、時には利己主義に走り、時には快楽主義に身を委ね、自我ってヤツと存分に対峙しながら自己陶酔に耽る。その生き様にこそ、ある種の美学が備わる。美学とは、エゴイズムの類いか、ナルシシズム類いか...
鑑賞者の方はというと、感銘を受ける芸術作品に出会えば、自分の生き方と向かい合い、自省を促されることも。感動に対する自己分析、作品に対する批評、その身勝手な矛先は、芸術家にも向けられる。そして、理解できないとなれば、作者はいったい何が言いたいのか?などと最低な感想をもらす。認識できなければ、感動もできない。幸せなんだか、不幸せなんだか...


建築物や美術品に目を向ければ、シンメトリー、黄金比、ルート矩形といった幾何学原理に溢れ、ここに美意識が体現される。
プラトン立体は美しい。だが、自然界を見渡しても、こんな形式的なものは見当たらない。黄金比は美しい。こちらの方は自然界に溢れている。松ぼっくり、ヒマワリの種、サボテンの刺、巻貝の螺旋形... 等々。動植物が美しく見える配列にフィボナッチ数列が出現すれば、そこに偉大な宇宙法則を感じずにはいられない。
自然界に耳を澄ませば不規則な音源に溢れ、人口の溢れる街がこれらの音源を掻き消す。自然な音源が乏しくなると、人間はますますリズムやハーモニーといった人為的な音源を渇望する。十二音技法は、精神的合理性と数学的合理性の混合物か。大バッハは、ここに対位法の完成を見たのであろうか...


偉大な芸術作品には、神と悪魔が同居する。マクベスには、自我に潜む悪魔を目覚めさせ、ツァラトゥストラには、神は死んだ!と叫ばせ、ダンテに至っては、地獄の門、煉獄の門、天国の門を同心円上に描いて御満悦と見える。人間の美意識は、神に看取られるだけでは不十分だというのか。
それは、自然と形式の調和、もっと言えば、秩序と無秩序の調和によってもたらされる。矛盾ってヤツは調和しちまえば心地よいが、凡人の為せる業ではない。悪魔をも味方につける業となれば、尚更。芸術家たちは、鑑賞者の好奇心を焚きつける。作品を理解し、十分に味わいたければ、もっと高みに登ってこい!と。鑑賞者も負けじと、ますます刺激を求め、もはや自然との同化だけでは満たされない。主題は、残虐でも、滑稽でも、愚鈍でも、精神を体現できるものなら何でもあり、狂気をも芸術にしちまう。
例えば、ピカソの「ゲルニカ」などは、自然主義から掛け離れ、まるで数学的観念論!そう、キュビスムってやつだ。三次元の物体を様々な角度から眺めながら重ね合わせ、一つの統一体として二次元にマッピングして魅せる。アリストテレスがこれを見て、芸術と認めるだろうか...


「芸術世界の中で芸術家であるということは、過去に対してある立場をとることであり、そして必然的に、過去に対して自分とは異なった仕方で対応する同時代の人々に対してもまた一つの立場をとることである。従って、ある芸術家の作品は暗黙の内に、先行する作品と後続する作品への批評である。」


世間では、芸術家と呼ばれる人種は、独創的な主体として認識されている。だが、独創と模倣の関係は微妙である。模倣の動機は憧れの情念に発し、対象を正しく理解しなければ正しく模倣できないし、それを批判するにしても、やはり正しく理解しなければできない。健全な懐疑心を放棄すれば盲目となるばかり。芸術家たちは徹底的に模倣に明け暮れ、試行錯誤の上で独創性を覚醒させていく。ラファエロしかり、ミケランジェロしかり、ダ・ヴィンチしかり。彼らは芸術的な行為を義務や使命にまで高めていく、偉大な模倣者とでも言おうか...


「独創性の概念の成立は、芸術家が自己に先立つ規範から自己を解放しつつ、むしろ自己自身の内に一種の規範性を獲得する過程を証している。」

2021-11-07

"政治経済学の国民的体系" Friedrich List 著

経済学を外観すると、自由と保護の綱引きの歴史が見えてくる。それは、人間精神が本質的に抱える自由と平等の葛藤とでも言おうか...
新たな理論は、従来の理論を反駁する形で登場する。どんな学問分野であれ事情は似ているが、特に経済学は流行り廃れが激しいと見える。
相対性理論の登場でニュートン力学が蔑まれることはない。量子力学の登場で相対性理論が使い物にならなくなったわけでもない。トポロジーの登場でユークリッド幾何学が廃れることもないのである。なのに、経済学の理論ときたら...


フリードリッヒ・リストが反駁する相手は、アダム・スミスをはじめ、J.B.セイ、T.R.マルサスら。
しかしながら、反駁するに値するかどうか?まず、これが問われる。すべてを否定するのではなく、ドイツの国民性に適合するかどうかという視点から論じられる。
リストが生きた時代は、ウィーン体制という新たな国際秩序を迎えた時代。ナポレオン戦争に勝利したイギリスは、東インド会社を通じてアジア貿易を独占し、北アメリカ、アフリカ、オーストラリアを植民地に従え、世界の海の覇権を握っていた。
一方、ドイツは、神聖ローマ帝国が消滅し、連邦国家として生まれ変わったばかり。アダム・スミスらが唱えた理論は、国際貿易の成熟した経済モデルであって、当時のドイツには時期尚早というわけか...
尚、正木一夫訳版(春秋社)を手に取る。


経済合理性を問えば、その基盤に自由精神が据えられる。それは、多くの経済学者で共通するところ。ケインズだって、恐慌の処方箋として政府介入の必要性を唱えただけで、自由な経済活動が根底にある。積極的な財政政策が、しばしば一部の業界との癒着を招くのも事実だけど。
リストとて、例外ではない。いや、自由主義的な傾向はより強いかもしれない。というのも、本書には、「自由」という言葉があらゆるところに散りばめられている。ここに資本主義という用語は見当たらないが、資本主義と自由主義がすこぶる相性がいいことも見て取れる。
自由な経済活動とは、生産者側の自由だけではなく、消費者側の自由を伴って機能する。セイの法則が唱える... 国民所得は総供給量によって決まる... といった命題も、すぐに限界点に達する。理想を言えば、経済合理性とは、自由意思が万民に浸透し、かつ平等に行き渡った状態を言うのであろう。そのために自由には制限が必要となり、この制限が経済学では保護の概念と重なる。
自由意思ってやつは、実にデリケート。押し付けがましい自由は、むしろ自由精神を破壊してしまうばかりか、弱肉強食と化す。自由精神を育てる上でも、保護の必要な期間がある。過保護によって、搾取産業に成り下がるのでは何をやっているのやら。したがって、保護政策には慎重を期する。国民性に適合した形の保護でなければ。つまり、資本主義には、様々な文化や慣習に応じた段階や形があるってことか...
自己を見つめ、多様性を尊重すれば、グローバリズムに振り回されることもあるまい。労働は富の原因で、怠惰は貧乏の原因... といった考えは、アダム・スミスよりも、ずっと大昔にソロモン王が提示した。ならば、こう問わずにはいられない。何が労働の原因か?何が怠惰の原因か?と。そんなことは、個人の問題だし、自由の問題。答えは、経済理論なんぞ当てにせず、自分の心の中で静かに唱えるさ...


「隷属状態に陥った国民は、獲得することよりも、獲得したものを維持しようと努める。反対に、自由な国民は、維持することよりも、獲得しようと努める。」
... モンテスキュー


本書で注目したいのは、工業と農業のバランスが国力を強化していくという考え方である。リストは実際にアメリカ合衆国に渡り、この新世界の国力を工業力だけでなく、農業力とのバランスに見たようである。現在でも、超大国の国力を工業やハイテク産業で測る傾向があるが、実は、農業大国であることが大きな要因であることを、この時代にあって既に見抜いていたようである。
イギリスでは農業人口が大量に流出したが、ドイツは、そうなってはならないと。これは、まさに現代社会が抱える問題の一つ。
国民の支持を得ない産業は衰退するだろう。そして、それは時代とともに移ろいやすい。21世紀では、自然環境に配慮しない産業はヤバい!そして現在においても、農業の地位の低さは如何ともし難い。人間は喰わなければ生きてはゆけない。そして、農業は食糧に直結する産業だ!なのに...
伝統的な経済政策では、自由貿易と保護政策を産業別に区別する観点から、それぞれ相性のいい業種が配置されてきた。前者が工業で、後者が農業である。自由貿易で鍛えられた工業者は視野も広く、将来を見据えており、対して、国内に閉じ籠もった農業者は知識レベルも低く、目先の補助金に釣られる、といった見方がある。
リストの保護政策では、工業者が牽引役となって農業者を啓蒙し、双方の相乗効果によって国力を高めることを主眼に置く。国力は国民性や人間性と密接にかかわり、物質的な要素だけでなく文化的な要素を伴わなければ、真の国力は養えないというわけか。そして、教育論的な視点も...

「如何なる所また如何なる時においても、市民の知性・徳性および活動性は国民の幸福と比例し、富はこれら諸々の性質とその増減を共にしている。併しながら個人の勤勉や節約・発明心や企業心は、それらのものが市民の自由・公の制度および法律により、国家行政や対外政策により、とりわけ国民の統一や勢力によって支持されていなかった所では、決して偉大な事を成し遂げてはいない。」


また、イギリス式自由とドイツ式自由の違いも指摘している。前者は個人主義が基盤となっているが、後者は個々が国家における役割を認識することを要請している。ここには分業の意義が含まれ、合目的的な人生を求めるところは哲学的でもあり、いかにもドイツ流。
しかしながら、あまり高尚な目的を要求すると、抑圧的な義務や責任に転嫁され、その延長上に国家主義に通ずるものを予感させる。そこまで行ってしまうと、自由はむしろ阻害され、リスト哲学に反する。そして歴史は、後の二つの世界大戦を通じて、国家主義的イデオロギーを顕著化させることに。なんと皮肉な...


いくら自由貿易を崇めても、相手がいなければ成り立たないのであって、その取引では優位な立場を引き出そうとする。リストが生きた時代、国力の差は歴然としており、多くに国が隷属関係を強いられた。輸出では得意分野で荒稼ぎし、輸入で経済的弱点を補うとすれば、21世紀の今でも状況は大して変わらない。いまだ重商主義から脱皮できていないのか。いや、サヤ取り主義で、さらに重商化(重症化)しているような。これに対抗するために、保護主義をますます加熱させることに...
重商主義によって富国強兵の道を突き進むことになるが、保護政策にも負けず劣らずナショナリズムを高揚させていく。愛国心や郷土愛、あるいは民族愛の類いは、人間なら誰もが持っているだろう。自己存在を認識する上で、アイデンティティを確認する上で。そうした認識自体は悪いことではないが、その心理過程で自己に反する属性を蔑み、自己優越感に浸り、宗教心の後押しで迫害までやってのける。これは、言わば人類の性癖。いかなる国家にも、国民の嫉妬や偏見偏狭はつきもの。集団社会はこれを助長する。愛は最も崇められるだけに、こいつの集団暴走ほどタチの悪いものはない...