2018-06-24

"快感回路 - なぜ気持ちいいのか、なぜやめられないのか" David J. Linden 著

原題に、"THE COMPASS OF PLEASURE" とある。まさに快感は、人生の羅針盤!人を導くすべての動機がここにあるのやもしれん...

「人間にとって、快感はまっとうに得られるものではない。天から貸し出されるのだ。非常な高利で。」
... ジョン・ドライデン「オイディプス」

どんな生き方にも、ダークサイドはつきもの。心の弱さが憎悪や嫉妬を呼び、欲望を旺盛にする。そして、快感のダークサイドには依存症がつきまとう。人間は、未来の不確実性に魅了される。破産リスクを承知しつつも、ギャンブルにのめりこみ、身体の有害リスクを承知しつつも、ドラッグをやめられない。アルコール、高カロリー食、買い物、オーガズム、ポルノ、SNS、オンラインゲーム... 快感となるものすべてが依存症になりうる。正義感に燃えては批判癖がつくのも、高い倫理観を求めては意地悪癖が染みつくのも、理性や道徳をストレス解消の手段とするのも... まるで依存のオンパレード。
はたまた、地位や名声に縋り、権力欲や支配欲に憑かれ、金や女体に溺れ、爽快な景色に彩られたゴルフ場でたまーにでるビッグショットに魅了されては、その一瞬の快感を味わうために、夜な夜な打ちっぱなしに励む。苦労して分厚い本を読み耽るのも、読破した時の達成感が忘れられないからだ。アバンチュールを求めては適度な冒険心にはやる。愛は障害が大きほど燃えるというが、禁断でなければ色褪せる。
これらすべて快感の裏返し。人間社会は、快感を伴う活動を厳しく規制する。金の使い方、性の在り方、飲み方など、だらしなく耽溺することを悪徳として...

「働いて得た九九ドルより道ばたで拾った一ドルのほうがうれしい。それと同じで、トランプや株で勝った金は気持ちをくすぐる。」
... マーク・トウェイン

とはいえ、人間は何かに依存しなければ生きては行けない。空間にあっては集団社会と対峙し、時間にあっては自我と向かい合い、そして、なによりも自然界の一員として存在している。自然だけを相手取るなら、それほど悩まなくて済みそうだが、空間と時間を認識してしまうと人生は修業の場と化す。慢性的な退屈病を抱えれば、いつも刺激を求めて徘徊し、慢性的な関係依存症を患えば、仮想社会を徘徊する。人はみな、暇人よ。人はみな、寂しがり屋よ。貧乏暇なし... というが、依存している暇もなければ多忙依存症か。時間をもてあそべば、何かやっていないと落ち着かない時間貧乏性か。そして、依存できるものがなくなったら、人間を破綻させてしまう...

ならば、だ!
依存する方向を選ぶしかあるまい。快感を働かせるものは、なにも悪徳や悪習だけではない。趣味のエクササイズ、瞑想や祈り、社会的評価を受けること、慈善行為からも、あるいは、苦労した末に高度な知識や技術を会得した瞬間や、困難な仕事を成し遂げた達成感からも、快感が得られる。知識依存症ってのもなかなか素敵。神経回路から見れば、美徳も悪徳もあるまい。
本書は、「快感回路」を報酬系を興奮させる神経機能としている。つまるところ見返りの原理。脳神経科学では、報酬系の機能として「内側前脳束」という用語を耳にするが、ここでは「内側前脳快感回路」と呼んでいる。
依存症は、この快感回路のニューロンやシナプスの電気的、形態的、生化学的機能の長期変化に関係するという。ハイになるのに必要量が増えていく耐性や禁断症状、あるいは再発や再犯といった恐ろしい症状の根底に、神経機能の持続的変化が伴うというのである。そして、分子レベルの分析から人間の行動パターンを解き明かそうと試みる。例えば、ドーパミンの放出が促される神経伝達において抑制系を麻痺させるプロセスや、レプチン遺伝子において肥満系に対処するプロセスなど。そして、快感回路を直接刺激する電極を埋め込んだとしたら...
もっと食べたいという欲求は、もともと遺伝子に組み込まれているのかもしれない。というのも、人類には飢えてきた歴史があり、近代のように物が溢れ、満腹状態な時代はごく稀だ。そして、快感ボタンを押し続ける遺伝子を刺激して、一度でもスィッチが入ったら...

さて、おいらの快感回路は何に乗っ取らせよう。ニコチンか?アルコールか?いや、夜の社交場に捧げる。小悪魔のやつらときたら、集団で囲んでは目でファックし、心でファックしてきやがる。酔いどれは、この非接触型の恋愛メカニズムに快感悶絶よ!M だし...
あのバイロン卿は、こう書いたという。
「人は、合理的存在として、酔わずにはいられない。酩酊こそが人生の最良の部分である。」

ところで、セックス依存症ってのは本当であろうか。それとも、火遊び好きなセレブたちが不倫を正当化するためにでっちあげた幻想であろうか。世間に依存症や症候群という用語がこれだけ溢れ、なんでも病気のせいにできれば、やはり依存症なのである。「不倫はセックス依存症の飲酒運転だ!」と言った奴がいたが、本書にもそのフレーズが。皮肉屋バーナード・ショーも、こう言ったとか。「道徳とは既婚者の組合主義にほかならない。」

人間は自分に言い訳をしながら生きている。自己満足のうちに、自己納得のうちに、時間は過ぎていく。人生とは、ある種の自慰行為の連続であったか。そして、人間の性嗜好に関するこの文章が妙に説得力を与える...
「あなたのセックスを眺めているネコは、いったいどう思っているだろう。たとえあなたがこの文化の中で性的に伝統的とされる嗜好を持っているとしても、つまり、たとえばディック・チェイニーのゴムマスクをかぶり、乳首を洗濯バサミで挟み、BGM にワーグナーの『指輪』をかけるというようなことをしていなくても、あるいはブルートゥース対応の電気ショックプローブを肛門に挿入して、インターネット経由でハンセン株価指数の激しい変動に応じてショックを味わうような真似をしていなくても、異性のパートナーを相手に自宅の寝室で二人きりで抱き合い、キスをし、撫で、舐め、普通に生殖器による性交をしているとしても、ネコはあなたを異常な奴だと考えるはずだ。そしてネコは正しい。ネコがおぞましいと感じることの一つは、人間が受胎しない時期に交尾をするという事実だ。また、一つの排卵周期のあいだに交尾の相手を一人に固定するというのも、ネコには理解しがたい。」

2018-06-17

"孤独の科学 - 人はなぜ寂しくなるのか" John T. Cacioppo & William Patrick 著

地上で、これほど孤独を恐れる生命体が他にあろうか。それは、精神を獲得した生物の性癖であろうか。世間では、孤独を悪のように触れ回り、孤独死を悲惨な結末として忌み嫌う。おまけに、仲間はずれの類いを、異常に、異様に恐れ、多数派に属すことで安住できる性分ときた。原始の時代、集団の中に身を置くことで個の命が守られた。ホモ・サピエンスという種は、群れずにはいられない遺伝子を持っているようである。
すでにアリストテレスは定義している... 人間は生まれつき社会的な生き物である... と。生を授かり、終焉するまでの間、人とのつながりを完全に拒絶することができないのは、いわば人間社会の掟。
誰にでも訪れる死を、人生の最大の不幸と捉えるばかりか、死に方にまで理想像を追いかける。それでいて、生き方についてはあまり気にかけない。ウィリアム・ヘイズリットは、こんなことを言った... 死に対する嫌悪感というものは、人生が無駄に過ぎてしまったという諦めがたい失望感に比例して増大する... と。

「心とは、それ独自の場であり、本来、地獄を天国に変え、天国を地獄に変えうる。」
... ジョン・ミルトン著「失楽園」

「善いものも悪いものもありはしない。要は、どう考えるか、だ。」
... シェークスピア

人間とは、意味づけをしながら生きていく動物である。自分の人生に言い訳を求めながら生きていく動物である。それゆえ、自分の人生は正解だった!と自我を慰めるのに必死だ。疎外感を和らげるために自分の認知能力を誤魔化したり、人生を脚色して偽りのペルソナを作り上げたりと自己欺瞞に必死だ。幸せな人生とは、現実を幸せに生きることではなく、人より幸せに見せたい、あるいは、そう思い込みたいと願うこと、ただそれだけのことかもしれん。
孤独だと要求ばかりするようになる... 孤独だと批判ばかりするようになる... 孤独だと行動が消極的になって引きこもる... 孤独だと現実を見ようとしなくなる...
こうした歪んだ意識は、論理的に正当化できない恐怖心に由来するものだが、もはや冷静な言葉を受け入れる余裕もない。
年老いてくれば、自然に人間関係を整理していくことになる。友人の数を競っても詮無きこと。その中に真の友人がどれだけいるというのか。一人いれば、十分、二人では、ちと多い、三人となると、もってのほか...
となると、関係を求めるよりも、孤独を受け入れることの方がずっと本質的なのかもしれん。人生とは、孤独に立ち向かうための修行の場なのかもしれん。
いずれにせよ、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体は、仲間の在り方を知らなければ、孤独の在り方を知ることはできず、その逆もしかり。したがって、孤独を拒絶すれば、仲間の在り方にも目を背けていることになろう...
「独房に監禁されたかのような孤独感は終身刑である必要はない...」

1. 孤独愛好家
誰とでもつながれる社会では、逆に孤独愛好家を増殖させる。グローバリズムが浸透するほど、民族意識やナショナリズムを旺盛にさせる。これだけ人間が溢れているというのに、なにゆえ小じんまりとした人間関係に縛られなければならんのか。古いしがらみに... 惰性的な関係に...
多くの孤独愛好家は、それほど心配はいらないだろう。心が欲するに応じて適当に孤独を愛するから愛好家なのである。深刻なのは、社会とのつながり方が分からなくなった場合だ。つながりたくても、具体的に何をしていいか分からない。そこで、近所を散歩中、隣人に明るく挨拶するだけでも日常が変わってくるかもしれない。スーパーのレジのおばさんと、これ高くなったねぇ!と軽く会話したり、精肉屋さんに、この食材どうやって料理すると美味しいの?って聞くだけでも、孤独感からちょっぴり解放されるかもしれない。人生とは、そんな些細な事の積み重ねで成り立っている。
世間には、孤独が好きというだけで、社会の適合能力がないとみなす人たちがいる。孤独死を、悲惨な結末だと決めつける人たちがいる。しかし、だ。大抵の人は独りで死んでいく。心中でもしない限り...
一方で、社交的な人間嫌いも少なくない。人当たりが良く、如才なく振る舞えるような。自己に絶望しているわけでもなく、むしろ自信を持っているような。小説家や芸術家などは、そうした人種なのだろう。世間に惑わされないということは、しっかりと自分自身を見つめている証拠である。まずは自分自身を知ること。そして、恐怖心に歪められた思い込みに惑わされぬよう、人生の主導権を握ること。しかしながら、これが難題中の難題!
贅沢を知れば、人は多くを欲するようになる。多くを要求するようになる。そして、権利ばかり主張する。昔の人は、幸せになる権利なんて考えもしなかっただろう。今では、容姿、お金、知性、地位すべてを欲しがる。孤独を求めるのも、その贅沢の類いなのやもしれん...

2. 孤独と孤独感
孤独と孤独感は、まったく違う。孤独は状態であり、孤独感は独りぼっちになることの恐怖心という感覚である。孤独感の治療法だって?なぁーに、心配はいらない。孤独感そのものは病ではないし、人間である証だ。
孤独感を覚えることで、防衛本能を発動させ、人間社会でどう生きるかを工夫しようとする。自我を見つめるためにも不可欠な感覚である。実際、孤独を歓迎する人たちがいる。偉大な思想や真の創造性は孤独から生まれた。淋しさを知らなければ、詩人にもなれない。芸術家たちは、自我との対立から偉大な創造物に辿り着き、真理の探求者たちは、自問することによって学問の道を切り開いた。そのために、自ら命を擦り減らし、自ら抹殺にかかることも珍しくない。
だが、その結末が不幸かどうかは、本人にしか分からない。偉大な創造物を遺し、満足感のうちに死んでいったのかも。なにゆえ、孤独死を忌み嫌う。肉体の後始末は行政が処理してくれるだろう。財産はすべてくれてやるさ...
とはいえ、孤独には危険性が孕んでいる。精神的にも、生理的にも、身体的にも疲れさせ、この世で独りぼっちと思い込むだけで、高脂肪な食べ物に手を伸ばし肥満にもなる。
では、集団はどうであろう。やはり同じことではないのか。硬直化した集団的思考は脳肥満にさせ、個人で考えを巡らすこともできなくなる。そして、集団の中にこそ、深刻な孤独感を蔓延させる。帰属意識を失う恐怖心がつきまとえば、奴隷根性を身にまとい、嫉妬心や憎悪心によって一層駆り立てられる。
ちなみに、シリル・コナリーは、こんなことを言った... 孤独に対する恐怖は、結婚による束縛に対する恐怖よりもはるかに大きいので、俺達はつい結婚しちまうんだ... と。
集団の中に安住することに執着すれば、まったく自立性を欠いていく。多数派の意見に流されながら生きて行ければ、そりゃ楽だろう。それで人生が楽しいかどうかは知らんが...

3. ホモ・サピエンスの社会的特性
進化生物学者マーティン・ノヴァクは、社会的協力について五つの特性を挙げたという。

・血縁淘汰
「兄弟を二人、または従兄弟を八人助けるためなら、私は川に飛び込む。」
同じ遺伝子を、兄弟は 50% 、従兄弟は 12.5% 持っているから...

・直接的互恵主義
「私の背中を掻いてくれたら、君の背中を掻いてあげよう。」
見返りの原理か...

・間接的互恵主義
「人を助けて良い評判を得る。そうすれば、人から報われるだろう。」
これも見返りの原理か...

・ネットワーク互恵主義
「私が他人を助けるのは、メンバーどうしが助け合う協力的なネットワークから排除されるのを避けるため。」
仲間はずれ恐怖症か...

・集団淘汰
「協力者たちから成るグループは、脱落者ばかり出るグループよりもうまくいくかもしれない。」
とはいえ、協調だけでは不十分で、競争も必要...
ちなみに、アフリカの諺にこういうのがあるそうな。
「急いで行きたければ、独りで行くといい。遠くまで行きたければ、いっしょに行くことだ。」

2018-06-10

"死のテレビ実験 - 人はそこまで服従するのか" Christophe Nick & Michel Eltchaninoff 著

人の耳元には、いつも悪魔が囁きかける。集団性という悪魔が。三人集まれば、もう集団。戦場ならいざ知らず、日常であっても人は権威に弱い。公の場とは恐ろしいものである。ひとたび公衆の面前に身を置けば、虚栄心を掻き立て、自尊心を肥大させる。
おまけに、大衆は魔女狩りや公開裁判の類いがお好きときた。人の恥や馬鹿っぷりを暴露することが、そのまま視聴率に結びつく。テレビ屋は、対象人物にキャラクターイメージを叩き込み、大衆を煽る。心優しい加害者たち... これが大衆の本性か...
相対的な認識力しか持ち合わせない知的生命体は、他との比較の中でしか自己を見つめることができない。そして、人の不幸を見て、自己を安心させるのである。不幸すぎる人も、幸せすぎる人も、やはり冷酷になるものらしい。これは、従属と服従の原理を綴った物語である...

権威から良心に反する命令を受けた時、個人はどれくらいの割合で服従するか?これを問うた実験がある。あのミルグラム実験が、それだ。社会心理学者スタンレー・ミルグラムがイェール大学で実施し、アイヒマン実験とも呼ばれる。ミルグラムは、記憶力に関する実験と称して被験者を募り、科学実験という権威の下で、見ず知らずの人に電気ショックを与え続ける場を設定した。被験者が先生役になって問題文を読み、生徒役が間違ったら電気ショックを与える。電気の強さは答えを間違える度に上がり、450ボルトまでが設定された。もはや致死量である。先生役と生徒役は、建前上クジで決められるが、実は生徒役は俳優が演じる。生徒役はやめてくれ!と叫び、声がでなくなって生死が危ぶまれる状態へ。大半の被験者は、こんな残酷なことを途中でやめるだろうと思われたが、予想に反して多くの被験者が最後まで電気ショックを与え続けたとさ。権威の命ずるままに...

本書は、この実験のテレビ版である。ただし、新たな要素が一つ加わる。「観客」という要素が...
被験者は、プロデューサからこの実験が安全であることを説明され、番組成立のための一体感を植え付けられる。観客の方はというと、アシスタントディレクタの前説によって番組に参加できるという意識を昂揚させる。ちょっと練習してみましょう!さぁ、拍手!間違った時は合図とともに「お仕置き」コールを!
日常のバラエティー番組でも、観客の笑い声や、えぇーっ!といった驚きの声で大袈裟に演出される。それが却って、つまらなく感じさせるのは気のせいか。番組がぐだらないというなら、見なければいい。番組を批判するということは、そのくだらない番組を事細かく見ているということ。それを感情的に批判するなら、すでにテレビの虜である。ただ、それが反面教師になっているところも大いにある。
本物語においても、司会者に反論したり、抗議したりする人ほど、ずるずると最終段階までいってしまう。この状況は、株式市場における投資家行動にも似ている。下落相場で、もう下げ止まるだろう、とずるずると決断できずに含み損を拡大させる、いわば、損切りの心理学である。それは、目の前の不幸を信じたくないという先送りの原理そのもの。こうした心理状態は、都合のよい解釈に発し、希望的観測が合理的判断を鈍らせる。
一方、途中で服従をやめられた人は、あっさりと決断している。現実をしっかりと見つめられるということか。あるいは、深いところで自分を信じているということか。
ミルグラム実験では、権威に最後まで服従した被験者は 62.5% にのぼったとか。これだけでも驚くべき数字だが、テレビ実験では、実に 81% もの被験者が最後まで電気ショックを与え続けたという。それでテレビの方が権威が上になるのかは知らんが...
「最後にこの実験に深く関わった者として、一言。人は自分で思っているほど強くはない。『自分は自由意思で行動していて、やすやすと権威に従ったりはしない』、そう思い込んでいればいるほど、私たちは権威に操られやすく、服従しやすい存在になる...」

1. 主義主張のない扇動者
あの最終的解決策の張本人アドルフ・アイヒマンは冷酷非情の怪物とされるが、世間が言うほどの残虐な性格の持ち主だったのだろうか。彼は暴力に訴えるわけではなく、事務机に座ったまま署名一つで何百万ものユダヤ人の死を確定させた。グイド・クノップは著作「ヒトラーの共犯者」の中で綴っている。彼が極めて官僚的な人物であったことを。もし命令があれば、自分の父親ですら殺すだろうと供述したと。与えられた仕事を黙々とこなす、どこにでもいる官僚の一人だったと。出世欲が異様に強かったのは確かなようである。凶悪な性向などないごく普通の人々でも、戦時でもなく、上官の命令でもなく、権威に促されれば殺人を犯す可能性があることを、アイヒマンの残虐行為が暗示している。
では、テレビにどれほどの権威があるというのか?従来の権威は、人として、形として、はっきりと現れてきた。王様や統治者、法律や政府、警察や軍隊といった形で。
だが、テレビは違う。目的意識もなければ、主義主張もない。ひたすら視聴率を稼ぐだけの存在。だから、余計に厄介とも言える。カルト教団は信者を規格化させるが、テレビは大衆を規格化させる。意思なき規格化である。独裁者の暴走先ははっきりしていて動機も単純だが、テレビの向かう先は一向に見えてこない。実体が見えなければ、食い止めようにも、何を食い止めていいのか?大衆は流されるがまま。思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。だが、テレビの中の扇動者とはいったい誰なんだ?

2. 良心と義務の狭間で...
欧米のバラエティー番組には、ゴキブリを喰わせるという過激なものがあると聞く。被害者が美女ということが場を盛り上げ、観客から、た・べ・ろ!た・べ・ろ!の大合唱。日本のバラエティーにも熱湯モノがあるが、これが本物ではないことぐらい視聴者の多くは承知しているだろうし、リアクション芸人にとってはおいしい。やらせ!をいまさら...
本実験においても、まさかテレビがそんな残酷なことをするわけがない!と思い込んでいる被験者も少なくない。そして、司会者の促すままに...
実際、生徒役は俳優なので安全であったし、現実をしっかり見つめているのは、むしろ服従者の方という見方もできる。いや、本物かどうかを別にしても、自分の良心が許さない!と命じれば、やめれば済む話か。
やらせ!と思っても、涙を出しながら拷問を続ける人が多くいたということは、何を意味しているのだろうか?仮に拷問が本物だとしても、最後まで続ける可能性が高いということか?そうかもしれない。
ただ、映画やドラマでも感情移入して涙を誘うことはある。それがつくりもので、ニセモノだと分かっていても、人は涙を流すのだから、そう結論づけるのも難しい。
そもそも被験者たちは、番組に出演したいという思いで応募してきた連中である。番組を成立させるという義務が自発的に植え付けられている、いわば、自主的な服従者とも言える。
おまけに、華やかなテレビ界独特の雰囲気に引き込むために、様々な趣向が凝らされる。専用車で迎えられて出演者として丁重に扱われ、収録前に楽屋でメイク係に化粧をしてもらえば、もはやテレビデビューか。
予めプロデューサが全責任を負うと宣言すれば、観客と一体になって協力しようというバイアスが、より大きくかかる。セールスの原理に... 最初に同意すれば、条件が多少違っても断りにくい状況に陥ってしまう... というのがあるが、まさにそれだ。人間は誰しも、自分の意思を義務と結びつけて、存在感を周囲に認めさせたいという心理が働く。結局、人間ってやつは、客観的な現実が目の前にあっても、自分に都合のよいように解釈してしまう。結局、責任の所在が自分にないことを確認できれば、どんな意図にも流されやすい。要するに、人のせいにして生きて行ければ、幸せってことか。人のせいにできなければ、神のせいにでもするさ。それで神も本望であろう...

3. 反抗的な服従者と素直な服従者
本物語は、やめる根拠を見つけることの難しさを暗示している。一旦、義務に昇華した意思を、どうやって覆すことができるか。客観的に考えれば簡単なことでも、大衆の面前ではその場の雰囲気が優勢となる。孤立した人が良心に従うことは難しい。せめて観客を味方につけれられれば... 自己の良心を確認するには、集団から距離を置くしかなさそうか...
服従するタイプにも、反抗的な服従者と素直な服従者とに分かれる。自信なさげな反抗を見せる人もいれば、強烈に批判する人もいるが、どちらも拒否には至らない。
一方で、服従を途中で拒否した人はみな、「自分には出来ない!」とはっきり言えた。しかも、あっさりと。なぜ、言えたのか?深いところで自分の良心を信じているからか?服従を拒否することと、抗議することとは、まったく次元が違う。抗議という行為は、良心と服従の葛藤からくる緊張を和らげる効果がある。つまり、自分自身に言い訳を求めているのである。司会者に、本当に大丈夫ですか?このままじゃ、死んじゃいますよ!と意見具申するも、自分の意志ではないことを観客にアピールしているということ。最初から権威に立ち向かうのを諦めているということか。これが群集心理なのだろう。実際、人間社会には責任をとらない権威が、あらゆるところに蔓延る。
となれば、反抗的な服従者の方が危険かもしれない。なにしろ扇動者の代理人となって、いや、代理人になっていることにも気づかず、場を盛り上げているのだから...
ちなみに、心理学者ギュスターヴ・ル・ボンは、こう指摘したという。
「群衆の心を支配するのは、自由を求める気持ちではなく、何かに奉仕したいという欲求である。群衆は本能的に、自分は支配者だ!と言う者に服従しようとする...」
しかしながら、テレビはだたの群衆ではない。個人の場にも群集心理を持ち込む存在だ。部屋で一人でテレビを見ていても一体感を植え付ける。そして、いまやテレビ以上に一体感を煽るメディアが台頭する。自己を見つめ直すのが難しい時代には、孤独愛好家を増殖させるものらしい...

2018-06-03

"こちら脳神経救急病棟" Allan H. Ropper & Brian Burrell 著

原題 "Reaching Down the Rabbit Hole (ウサギ穴を降りて)"...
ウサギ穴とは、「不思議の国のアリス」に出てくるあれか。無邪気なアリスはウサギを追いかけ、奇妙な世界へ迷い込む。脳神経疾患とは、脳が変性してしまう病で、時には信じ難いほどに変性したケースもある。まさに、空想の域を超えた不条理な世界が...

脳神経内科医の仕事は、患者の厄介な反応を分析し、臨床像に当てはめ、問題を整理し、できるかぎり当人が望むような生活を送ってもらえるプランを立てることだという。
しかしながら、患者の癖のある表情から真意を汲み取るのは至難の業。患者はぞれぞれに違った症状を見せ、場所の見当識はあっても時間や状況が把握できないといったケースも珍しくない。医師アラン・H・ロッパーは、唯一の対処法は患者一人一人の内面に接すること... と自分に言い聞かせるように語り、そのためにうんざり気味な側面も覗かせる。人間の多様性ってやつは、実に手強い。人間の本質を理解しよう思えば、正常な人間よりも、いや、正常と思い込んでいる人間よりも、こちらに耳を傾ける方がはるかに有意義かもしれない。少なくとも政治屋どもの演説を聞くよりは...

脳の活動は、極めて電気的に作用するため、環境条件によってシステムダウンすることも。運が良ければ再起動できるが、運が悪ければ復帰の見込みもない。まさに、Kernel Panic !!!
自己の存在意識を肥大化させれば、妄想が妄想を呼び、正常な細胞までも破滅へ道連れ。そして今、この酔いどれ天の邪鬼が自己分析を試みても、時には些細なことで怒り狂うかと思えば、驚くほどの忍耐や寛容さを見せることもあって、まったく支離滅裂ときた。どちらも自分ではないような感覚に見舞われるが、どちらも正真正銘の自分なのだ。そうなると、もう確率論に委ねるしかない。気まぐれってやつに...
正気と狂気の境界は精神病棟の鉄格子によって分けられる。それは、異常者を隔離するためのものだろうか。それとも、純真な心の持ち主を保護するためのものだろうか。そして、自分はどちらの側にいるのだろうか...

ところで、おいらは脳神経内科と脳神経外科の違いもよく分からない。大雑把に言えば、手術などの外科的な治療の対象かどうかで線引きされるが、まずは脳神経内科で診察してもらうのが順序のようである。そういえば、初めて総合病院を訪れた時、まずは内科にかかってください、との案内を受ける。怪我で血まみれ状態というなら明らかに外科の領分であろうが、外傷がはっきりしなければ、内科で診療方針が決められ、診療科が選別される。
では、外科と脳神経外科の違いとはなんであろう。脳腫瘍のような病は外科で、脳の神経系を対象とするのが脳神経外科ということになろうが、脳内で何が起こっているかなんて患者に分かりっこない。頭痛がするのも神経が何かを感知した状態であろうし、脳神経と無関係な脳の病ってあるんだろうか?自覚症状がないということもあるが、そもそも脳がいかれているかどうかを自分の脳で判断できるのだろうか?もし判断できるとすれば、それは極めて冷静な精神状態にあり、自分自身が正常だと思い込んでいる状態よりも、はるかに正常っぽい。
本書は、こうした状態の区別を明確に説明してくれるわけではないが、医学的な立場から重要なヒントを与えてくれる。それは、「症状」「兆候」で区別していることである。
「症状」とは患者が訴えるものを言い、「兆候」とは医師が診察して見て取れるものを言うそうな。もっと言えば、症状は主観的で、兆候は客観的ということになり、症状は脳機能の枠組みで捉え直す必要がある。
「症候群」ってやつもよく耳にするが、これは医学用語というより社会学用語に近いイメージがある。本書は、症候群を問題の集合体として扱い、専門的な病名とは区別している。兆候よりも症状に近いニュアンスであろうか。例えば、「錯乱」というのは専門的には病名ではないそうな。
「錯乱というのは医学でも最も錯乱した症候群だ、という言い方は陳腐に聞こえるかもしれないが、事実である。」
そして、脳神経内科では症状から兆候に至るまでの過程を観察することになるが、貴重な情報源となるはずの脳が変性してしまっていては、根気強く試行錯誤を続けるしかない。身体をスキャンしたところで心は映らないのだから...
「医学を医学たらしめているのは、こういうことだ。患者はわれわれのところにやってくるけど、問題を医学用語で描写してくれるわけではない。ゆえにわれわれは、患者の言葉を医学的に利用できる形に組み替える。話に統一性を与えるのだ。」

1. ちゃんと聞いてますよぉ...
脳がやられれば、精神を患う。脳神経と精神は同期しているようである。そういえば、知的障害者はたいてい自閉症を患うと聞く。おいらの身近にも重度の知的障害者がいるが、自己主張ができなければ自分の殻に篭もるほかはない。ある種の防衛本能である。人間とは精神である... 精神とは自己である... とは、キェルケゴールの言葉。人間にとって、「自己存在」という認識ほど重く感じるものはないように思える。そして、終末期ケアとしてのホスピスの意義も見えてくる。
となると、脳神経内科医のまずもっての治療法となるのが、ちゃんと聞いてますよぉ... という態度で接すること、本当に聞いていなくても患者に自らの物語を語ってもらうこと... ということになろうか。まぁ、本当に聞いていないってことはないだろうけど、医師だって人間だし、愚痴りたいこともあろう。患者自身に病識がないのに、どうやって気づかせるかとなれば、もう心理学の領分。自己にとって自我ほど手に負えないものはない...
「医学の中でも一人の人間の総合的な知的努力ってやつが付加価値になる分野は、もう神経内科しか残っていないんだ。機械はものすごいのが揃っているけれど、本当の意味での検査はできない。きみたちはベッドの脇で問題を解かなければいけないのさ...」

2.ヒポクラテスの誓い
"Primum Non Nocere (まず害をなさぬこと)..." とは、ヒポクラテスの言葉として広く知られる。この格言は、医師にとって指針となる基本的な姿勢であるだけでなく、慎重になる際の正当化の理由にもなる。
しかしながら、現代医学においては解決不能のジレンマを生み出す場合があると警告している。例えば、アスピリンを飲んで寝てなさい!という以上のことをしない場合の言い訳として。
生命的な危機に直面すれば、何もやらないよりはまし... という信念が必要なこともあろう。手術するリスクと手術しないリスクを天秤にかければ、確率論に頼らざるをえない。しかも、その確率は医師の経験と腕に左右される。どんな専門分野であれ、難題に直面すれば専門家たちの意見は分かれる。だから、リスクなのである。終末期患者と対峙すれば、死神がほとんど勝利をものにする。患者だって、医師と会話するよりも、死神と会話する方が癒されるかもしれない。それでも醒めた意識を遠ざけ、患者を救うことができると信じてやるしかないとは...
医師は、科学に対する信仰を持ち続ける必要があるという。それは、科学が神秘的な力を持つという逆説的な信念である。
「リスクに身を置き、悪い結果が出たときの失望を抱えながらやっていけないのなら、この仕事は無理だ。」

3. 生きることと、死なないこと
生と死の判別、この基準がなければ医師は仕事ができまい。ただ、死にもいろいろな見方がある。心臓が停止した状態を言ったり、脳が機能を失った状態を言ったり、心を失えば、それを人間死と言う人もいる。「脳死」という用語一つとっても様々な定義があり、全脳死を死とする場合や脳の機能低下を条件に死とする場合など、法的な扱いも国によって違う。
脳死は死の兆候か、それとも死そのものか?脳神経科では「脳死」という用語を嫌い、「脳を基準とする死」という言い方をするそうな。脳だけが死んでいるとしたら、何が生きているというのか?臓器が生きているから移植医療が成り立つ。解剖学は、死体の下僕か?身体は死んでいるが、魂は生きているってか...
やはり、人は脳の中にいるように思う。とはいえ、脳を基準とする死の判断はなかなか微妙だ。本当に蘇生する可能性はないと断言できるのか?現代科学は、そこまで人間の脳のメカニズムを解明できているのか?脳を基準とする死が、生物学的な有機体の死と一致しないとすれば、このような物体をどう分類するというのか?心臓を基準とした死の方が分かりやすいとなれば、責任の基準もそこに持っていこうとする。そして、医師たちの愚痴が聞こえてくる...
「医学は、人を生かしておく... 永遠とまでは言わないが... ことについては、かなりの力を備えている。白血病患者に骨髄移植を 10 回行うこともできる。実験的な化学療法を試すこともできる。血小板輸血をし続けることもできる。ALS 患者に対しても、同じように極端な手段がいろいろとある。しかし、どれも病気を治すことはできない。そこで、このことが問題になってくる。医師が医学的にできることを一つも提供しないとしたら、それは自殺幇助にあたるのだろうか?」

4. 人工呼吸器の禅
ALS(筋萎縮性側索硬化症)とは、運動ニューロンが侵される神経変性疾患。体が重くなれば、心も重くなる。筋肉の小さな部分が震えることを「攣縮(線維束攣縮)」というそうで、たいていの攣縮は良性だとか。目や口、ふくらはぎや腕など、ちょっとした引きつけを起こすことは誰にでもあろう。運動をやりすぎたり、酒をやりすぎたりすると。
だが、運動ニューロン疾患では、放置すれば筋力が自然低下し、確実に死に至るという。ALS 患者が直面する究極の選択は、生きるべきか死ぬべきか。単純化して言うと、生き続けるためにできることをすべてやるか、それとも病に命を委ねるか。もっと露骨に言えば、気管切開して人工呼吸器をつけるチューブを挿入したいか?
人工呼吸器をつけると会話はできなくなるが、呼吸は続けられるし、脳と感覚系も冒されずに残る。感覚のほとんどを感じることができても、動かせる身体の部分がほとんどなくなり、最終的に、身体という殻の中に完全に閉じ込められてしまう。そのような状況を想像しながらも、ALS 患者の多くは、完全に冷静さを保っているという。意識過剰とまでは言わなくても。死ぬより辛そうな試練が、人の心を研ぎ澄まさせるのだろうか。人工呼吸器が奏でるシュー、シューという音は、サンバのリズミカルな音調とは対照的に冷たさを感じるものの、心にやすらぎを与える。意識がしっかりしていれば、子供の成長を黙って見守ることだってできる。
とはいえ、人間は、どのくらいの不自由に耐えられるものなのか?どのくらい人の重荷になれるものなのか?生きる権利を訴えるのもいいが、死ぬ権利も考えずにはいられない。
その一方で、医師は、極限まで治療を続けるのは義務であろうか?実際、安楽死ビジネスなるものがあり、合法化されている国もある。おいらの親友も、難病のために尊厳死というものを受け入れて逝った。そして、友人という言葉も陳腐なものとなり、それ以外の友情は冷めて見えてくる。生あるものは、いずれ死ぬ。死ぬ時が来れば、ただ死んで行くだけ。絶望は冷めた心を覚醒させる。
やがて医師は、終末期の患者を通して死との交渉を余儀なくされる。すると、患者の方から目で訴える。そろそろ終わりにしましょう... と。
「呼吸器ケアの専門病院は、独特の世界だ。一種の煉獄とも言える。一日一日が意味もなく過ぎていく。快活に患者を励まして回る職員たちだけが、汗と排泄物と消毒薬の匂いに絶望感の混じった特有の空気を和らげようと、できることを懸命にこなしている...」