2014-11-30

"昨日の世界(I/II)" Stefan Zweig 著

歴史とは、客観的に語られてこそ、より輝きを放つもの。だが、ツヴァイクは、あえて自我を主役に据えた歴史小説を綴る。大量殺戮の世紀と化した20世紀の証言者という使命を背負うかのように...
しかしながら、自我を綴ることは危険だ。自ら無へ帰することになりかねない。
「私が物語るのは、私の運命ではなく、ひとつの世代全体の運命である...」
こう記した二年後、亡命先のリオ・デ・ジャネイロで、再婚して間もない夫人と共に命を絶つ。これはツヴァイクが残した最晩年の自伝書であるが、ヨーロッパ文化が残した遺書と言うべきかもしれん...

近い過去にあっては人間悲劇、遠い過去にあっては人間喜劇となるのが、歴史というものか。同じ愚行を繰り返しているだけなのに、時間の観念のみが心持ちを変える。同じ言葉を発しても、同世代の人間にはライバル意識を燃やし、大昔の偉人には素直に耳を傾けることができる。そのくせ死人に口なしの原理に縋って、過去の人たちに子どもじみた議論を持ちかけては欠席裁判を仕掛ける。
講和を唱えようものなら、ヨーロッパでは敗北主義者と罵られ、日本では非国民と罵られた時代。自由論者も平等論者も同じく狂気し、もはや勝利か!破滅か!の選択肢しか与えられない。この物語の影には、不可能な賠償金を課せられ、空前のハイパーインフレに喘いでいた経済を、あっさりと立て直した独裁者の演説に陶酔する大衆がつきまとう。政治家ってやつは、経済政策さえうまくやれば、少々悪い政策を持ち込んでも大衆を黙らすことができると考える。そして、知らず知らずのうちにメフィストフェレスに魂を売るのだ。
「歴史は、同時代人には、彼らの時代を規定している大きなさまざまな動きを、そのほんの始まりのうちに知らせることはしない、というのが、つねに歴史のくつがえしえぬ鉄則である。そこで私も、いつ初めてアドルフ・ヒトラーの名前を聞いたのかをもはや思い出すことはできない。」

ツヴァイクがユダヤ人としてウィーンに生を享けた1881年、神聖ローマ帝国が解体されたとはいえ、依然ハプスブルク家はオーストリア = ハンガリー帝国として強大な勢力を保っていた。芸術の都ウィーンは、まだ世界市民的な風潮が旺盛だったようである。文化だけでなく民族的に、ドイツ人も、チェコ人も、ユダヤ人も、時には愚弄しあうことがあったとはいえ、共存共栄の下で暮らしていたという。
やがて、新たなスピードの時代が訪れる。自動車や航空機などの機械化が進み、電話やラジオが普及すると、憎悪のヒステリーを世界中に感染させていく。その意味では、グローバリズムの波に対抗して愛国心を煽ったり、インターネットの普及によって欺瞞情報を瞬時に拡散させる現代と何が違うというのか。人間社会ってやつは、善玉菌より悪玉菌の方が感染力が強いようである。普遍的な学問よりも金儲けの手段を学ぶ方が手っ取り早いし、子供じみた衝動に駆られ続けるのは、何千年もの昔から変わらない。究極の知性人が、社会嫌いになり、人間嫌いになり、自己嫌悪に陥るのは必然なのか。彼らには、寒山拾得のごとく社会から距離を置き、あるいは、世間の目に晒してはならないシャングリ・ラのような保護区が必要なのかもしれん。
ツヴァイクもまたそうした知性人たちの例に漏れず、やがて勃発する第一次大戦に絶望し、わずかな望みを託した国際連盟にも絶望し、さらに第二次大戦へ突入するだけでは飽き足らず、ゲットーを目の当たりにして、人間というものに完全に絶望し、その批判的言論が亡命生活を余儀なくされる。
「しかし、私はそれを嘆くまい。故郷なき者こそが、新しい意味において自由であり、何ものにも束縛されない者のみが、もはや何ものをも顧みる必要がない。」

1. ファシズムとステレオタイプ
ツヴァイクが、「マリー・アントワネット」や「ジョゼフ・フーシェ」のような伝記小説を残したのは、フランス革命に始まる民主主義の本性を暴きたかったからかもしれない... と、なんとなくそう思いながら読んでいる。
「ジョゼフ・フーシェ」は、不本意ながらナチズムの国家主義者たちに愛読されたようである。確かに、政治陰謀のバイブルのような小説だ。人間社会には常に集団的な野獣性が潜んでおり、政治戦略はこれをいかに利用するかにかかっている。フロイトは、破壊的な衝動によって理性が簡単に無力化される性質を指摘し、パスカルは、人間を狂うものと定義した。集団性の前では、理性とてファシズム化する。禁煙ファシズム、環境保護ファシズム、動物愛護ファシズム、絆ファシズム...
理性人どもが、なんでもかんでも、けしからん!不謹慎だ!と憤慨すれば、冗談も言えない窮屈な社会となる。笑いの情念は高等な動物にしか持てないとされるが、笑いの質こそが人間社会の成熟度を測る物差しとなろう。
「人間の性質のうちには寛濶に答えるには寛濶をもってし、充溢に答えるには充溢をもってする、というところがある。」
価値観の多様化が進む現代社会にあってもなお、多数派に反対するには勇気がいる。一般市民が魔女狩りのごとく追求し、全体思想を押し付ける風潮があるのは、いつの時代も変わらない。おまけに、有識者どもが率先して吹聴する傾向がある。ファシズム、ナチズム、ボルシェヴィズムといった悪疫は、いずれもナショナリズムが高揚した形で現れた。政治屋どもが正義を掲げれば、報道屋どもはもっと大きな正義を掲げ... 正義の暴走ほどタチの悪いものはない。メディアには公平性と客観性が求められるが、現在のメディアとて、一斉に持ち上げるだけ持ち上げ、叩けるだけ叩き、どちらか一方に傾倒する。いまや、どこの国も民衆の意志は一枚岩ではない。ダブルスタンダードどころかマルチスタンダードだということだ。だが、いつの時代も、国粋主義的な風潮とステレオタイプ的な視点が強調され、傍観と無関心な態度が彼らを暴走させる。そりゃ、ヒステリーな熱狂者と関わりたくはないが、政治ってやつは、性質上こうした連中と結びつきやすい。自国に誇りを持つことと、他国を蹴落とすことでは、まったく意味が違うというのに。民主主義の成熟度は、国粋主義的な傾向の度合いや、ステレオタイプ的な見方の強弱によって測れそうか...
「安定という言葉をずっと前からひとつの幻影として、語彙から消し去ってしまったわれわれならば、あの理想主義に眩惑した世代が、人類の技術的進歩は同じように急速な道徳的向上を無条件にもたらすと信じたその楽天的な幻覚を、冷笑するのもたやすいことである。」

2. 人生大学
「私にとっては、良書は最良の大学のかわりをする、というエマーソンの原理が、確固として妥当し続けて来たのである。人は大学、あるいはギムナジウムにさえも通うことなくして、すぐれた哲学者、歴史家、文献学者、法律学者、そのほかの何にでもなりうる、と私は今日でも確信している。」
生の万象を示してくれる人生の大学を求めて、書物を漁ってまわるのも悪くない。若い頃は、優れた人物から学ぶことも大きいが、同世代の仲間と議論することの方が、より多くを学べたような気がする。本質を学ぶ資質は、政治的な態度に毒された大人よりも、純粋に学びたいと欲する子供の方が優っているのだろう。ある大科学者は、常識とは18歳までに身につけた偏見の寄せ集め、と言ったとか言わなかったとか。偏見に見舞われれば、自己の正当性を主張するのに必至になる。
ツヴァイクの交友関係は、実に広い。少年時代に出会った天才ホーフマンスタールの衝撃に始まり、ヘルツル、リルケ、ヴェルハーレンとの交友を語り、ロラン、ジイド、ヴァレリー、トーマス・マン、バルトーク、フロイト、ゴーリキーといった知識人との回想を織り交ぜる。彼らは、生き証人としての義務を果たすかのように協力しあう。偉大で悲惨な時代だから、互いに引きつけたのだろうか。平和で凡庸な時代では、真の自由について考えることもあまりない。ちなみに、フロイトを真理の熱狂者と呼び、彼はこう語ったという。
「百パーセントのアルコールがないように、百パーセントの真理というものはありませんね。」
狂気の社会では、冷静に物事を考える人間を排除し、子供じみた虚栄心や野心が旺盛となり、エリートほど危険な存在となる。教科課程が生徒を平均化させることを意図し、多数派に属することで安住できるように仕向ければ、権威主義が蔓延り、軍部の思い上がりが民衆を先導する。国家主義を育むには、実に都合のいい構図だ。
政治の思惑が、自己実現をいかに廻り道させてきたことか。粗暴に加担しないというだけでは充分ではない。戦争責任は政治指導者にあるが、独裁者一人でやれるものではなく、民衆の後ろ盾が必要だ。集団の不自然さ、すなわち、無関心を装い傍観者であり続けることが、戦争という不自然な現象を招き入れる。虚栄に乱されず、自由で朗らかな人間でありたいものだが、俗世間の泥酔者には、大人になっても似た者同士で集まることぐらいしかできん。困ったものよ...

3. 引き金の繰り返し
1914年の大戦は、フランツ・フェルディナント夫妻がサラエボで暗殺されたことが引き金となった。だが、この帝位継承者は大衆に人気がなく、愛嬌や人間的魅力に欠けていたとか。対して、皇帝フランツ・ヨーゼフ1世の唯一の子息ルードルフは、感じのいい皇太子だったという。ルードルフはマイエルリンクで銃で死んでいるのを発見されるが、この事件については陰謀説がくすぶる。
しかし政治的には、サラエボ事件の犯人は、ボスニア系セルビア人とされ、オーストリアはセルビアに宣戦布告した。独墺伊の三国同盟にあったドイツも宣戦布告し、英仏露の三国協商にあったロシアがオーストリアへ宣戦布告すれば、連鎖反応で世界大戦となる。
では、1914年の悲惨を経験しながら、なぜ、1939年にも同じことを繰り返したのか?ツヴァイクの答えは単純だ。1939年には、1914年と同じぐらい子供らしい素朴な信仰を持ちあわせていなかったと。皇帝フランツ・ヨーゼフが84歳にして血の犠牲を欲したことを、誰も疑問に思わなかった。そんなことが、1939年にも起こったというのか...
ヴェルサイユ条約の破綻に幻滅すれば、外交を軽蔑する。ウィルソンの偉大な綱領を信じたところで、はたまたロシア革命に希望を持ったところで、再び地獄に引き戻される。時代は、チェンバレンの妄想的な平和宣言よりも、戦争屋チャーチルを欲した。当初、単なる国境や植民地のための戦争ではなく、イデオロギーの戦争であったはずが、科学の進歩とともに無差別攻撃を容認し、非戦闘員までも犠牲にした。もはや戦争は、勇気と誇りの象徴ではなくなり、憎悪とヒステリーの代名詞となった。シェイクスピアはドイツの舞台から追放され、モーツァルトやワーグナーはイギリスの音楽堂から追放され、道理に適った会話は不可能となり、平和を好む人々までも血の臭いに酔いしれる。結局、二つの大戦は同じ悲劇を繰り返しただけだった。引用されるシェイクスピアの言葉がいつまでも残る...
「こんなに汚れた空は、嵐なしではきれいさっぱりとはならぬわい。」

2014-11-23

"人類の星の時間" Stefan Zweig 著

ほんの一瞬に過ぎ去るからこそ輝いて見える...
毎日が栄光に満たされていれば、退屈病に襲われる。無数の凡庸人で溢れているからこそ、一人の天才が出現する。芸術精神もまた、地道な思考の繰り返しの中から、霊的なものに憑かれる一瞬によって創造される。閃きってやつだ。そして、無限の坦々たる時間が流れ去った後、歴史に刻まれる一瞬が生まれる。平凡の内に一瞬にして宿る天才的資質とは、歴史のみが発明しうる矛盾とでもしておこうか...
時世の勝利者が、歴史の勝利者となるわけではない。どんな星の下に生まれ、どんな運命を背負うかは、やってみなきゃ分からん。だからこそ、終世、活力ある生き方をしたいと願う。情熱を持ち続け、若さを保つ秘訣は、やはりホットな女性との恋ですかねぇ... ゲーテ爺ちゃん!

ツヴァイクの仕事は確固とした形に打ち鍛えられているが、中心にはいつでも炎が燃えている。...  リヒャルト・シュペヒト

「ジョゼフ・フーシェ」や「マリー・アントワネット」の本格的な歴史叙述とは違い、ちと趣向(酒肴)を変えた12の物語。歴史の影に潜むウンチク話とは、いかなるものであろうか。得てして、こうした裏話の方に歴史の本質が隠されているものである。現象を皮相的に捉えるのではなく、心情的現象としていかに解釈するか、これぞ歴史小説の醍醐味であろう。
「歴史は余計な後押しの手を少しも必要とはせず、ただ畏敬をもって叙述する言葉だけを必要とする。」

1. 大罪人の逃亡劇から生まれた太平洋の発見
コロンブスの堂々たる誇張癖は、アメリカ大陸をインドだと思い込み、無尽蔵の金があるとスペイン王に報告させた。そして、デスペラードどもがこぞって黄金郷に群がり、数年間で土着民の人口を根絶に致しめる。荷箱に入って密航したバスコ・ヌニェス・デ・バルボアもまた、そうした一人。スペイン王が派遣した総督が命を失ったのも、彼のせいだという。
しかし、スペインは遠い。断頭台に送られる前に権力の横領を正当化するには、なんらかの功績が必要だ。当初、フランシスコ・ピサロと協力して土着民から略奪するが、未開の地を探検するには原住民を味方にする方が得と見て、小王国コイバの酋長カレタの娘を妻にして同盟する。
そして、パナマ地峡の横断に挑む。兵士190人を派遣し、原住民を運搬人や案内人にし、病人や足手まといは見捨てられるという苛酷な旅。土着民の話によれば、ある山の頂上から二つの大洋、すなわち、大西洋とまだ名の付けられていない太平洋が見下ろせるという。山頂に近づくと、あと一歩というところで、バルボアは行進停止を命令する。太平洋を初めて見るキリスト教徒は、自分でなければならないからだ。さらに、酋長は「南の海」の彼方にある国の名を言った。ビルー!どうやらペルーのことらしい。
一方、スペイン王は、バルボアを処罰するために、ペドロ・ペドラリアス・ダビラを派遣して総督に任命した。だが、バルボアの偉業を知ったスペイン王は、、バルボアを臨時総督に任命し、二人で計るよう命令する。次の目標は、新世界の黄金郷を征服すること、すなわち、誰よりも先駆けてペルーを征服すること。しかし、兵員や物資の不足に悩まされ、今度は幸運に恵まれず、その功績を戦友のピサロに譲る。ピサロは、インカ帝国の征服者として知られる人物。バルボアの失敗は、ダビラの嫉妬の餌食に合い、断頭台へ送られる。
「運命というものは運命の寵児たちに対してさえ、決して過度に寛大であることはない。運命の神々は一人の人間に一つ以上の不滅の行為を恵んでさせることは稀である。」

2. コンスタンティノープル陥落のあっけない真相
オスマントルコの穏健な皇帝ムラード(ムラト2世)に代わって、ずるく精悍な若い王子マホメット(メフメト2世)が帝位に就くと、ビザンチンの人々を恐れさせた。トルコ人によって包囲され、最後の皇帝コンスタンティヌス・ドラガセスの帝位も風前の灯。ドラガセスは何度もイタリアへ援軍を要請するが、古来カトリック教とギリシア正教の遺恨は深い。
とはいえ、西方教会も東方教会も元を辿れば同じキリスト教であり、共通の強敵が出現すれば、ローマ法王の特使とギリシア正教の総主教グレゴリウスが肩を並べて和解のミサを行うという奇跡も起こる。しかしながら、歴史において、理性と和解の瞬間ほど、すぐに過ぎ去るものはない。聖堂の中で共同の祈りが行われている間も外では罵り合う始末。またもや狂信主義者どもによって引き裂かれた。
しかし、包囲戦が始まっても、千年に渡って補強されてきた難攻不落の城壁は、最新の大砲をもってしてもびくともしない。マホメットは、どんなに大金を払っても、新しい攻撃手段を作るとの声明を出す。大砲の鋳造家ウルガス、あるいはオルバスという名のハンガリア人はキリスト教徒で、以前コンスタンティヌス皇帝にも仕えていたという。彼は「弩砲」と呼ばれる新型の大砲をこしらえ、マンモスのような大砲の群れが城壁の前に出現した。だが、歴史を変える決定弾とはなりえない。
この時代のトルコとビザンチンの国境は地理的に分かりやすい。ボスポラス海峡のアジア側の海域がトルコ。深く陸地に入り込み、盲腸みたいな形をした「黄金の角」と呼ばれる湾港が、自然の要害となっていた。マホメットは、ハンニバルやナポレオンに匹敵するほどの空想家だという。湾港に船団を侵入させることが不可能と見るや、船団を山越えさせるという途轍もない計画を実行したとか。ハンニバルやナポレオンが、突然アルプス越えでオーストリア人を脅かしたように。だが、これも歴史を変える決定弾とはなりえない。
さて、城壁をめぐる激烈な攻防戦にあって、およそ起こりえないことが起こるものである。「ケルカポルタ」という城門だけが、なぜか?開いたままだったとか。平和時には歩行者たちの通用門として使われるちっぽけな門が、興奮のるつぼの中うっかり忘れられていたのか?歴史的な戦闘が、こんなにあっさりと城門を突破させるとは、なんと間抜けな話!

3. ヘンデルの復活に見る「メサイア」誕生秘話
1737年、急に倒れたゲオルク・フリードリヒ・ヘンデルは四ヶ月もの間、まったく身動きができぬ無力の状態にあったという。話すこともできず、右半身不随となり、医者が諦めるほどの重病だったとか。短気な性格が、急激に精神を病ませたのか?医者が熱い湯に3時間以上入ってはいけないと警告したにもかかわらず、毎日9時間も入って意志力を回復させ周囲を驚愕させる。音楽に対する執念がそうさせたのか...
しかし、せっかく創作意欲を取り戻したものの、時代は彼に敵対する。女王崩御のための上演は中止され、スペインとの戦争が始まると民衆は音楽どころではない。評論家からは冷笑され、借金がかさみ、心は暗澹とし、ますます自己に閉じこもる。
1741年8月21日、そんな絶望の日に小包が届く。「サウル」と「エジプトにおけるイスラエル」の台本を書いた詩人ジンネンスからの手紙を添えて。
「新作の詩をお送りする、音楽のけだかい守護神、音楽の不死鳥が、願わくば彼の貧寒な詩に慈悲を垂れて、その翼に乗せて、永遠界の大空に天(あま)がけり給わんことを...」
お前まで嘲るか!と憤るヘンデル。もう一度、冷静に台本を手にしてみると、最初の言葉に「慰めあれ!」とある。この言葉が、彼の本能を刺激したのか?得体の知れぬ好奇心のようなものが、そうさせたのか?一度、肉体の麻痺から立ち上がらせたヘンデルを、今度は、精神の麻痺から立ち上がらせる。そして、歓呼のフレーズに出会う。「ハレルヤ!ハレルヤ!ハレルヤ!(神を頌せよ)」そう、あの名曲だ。三週間自室に閉じこもり、魔術的な素早さで完成させたという。時間の観念をまったく失い、リズムと拍子だけが支配する空間とはいかなるものであろうか...
1742年4月13日、アイルランドの首都ダブリンで講演。この演奏で得た金は、心を開いてくれた感謝とともに、すべて寄付することに決めたという。1759年、重い病にあるヘンデルは74歳。最後の審判を仰ぐ日を、聖金曜日としたいと願う。それは、ちょうど4月13日、メサイアの初演を飾った日。自分が更生されたその日に、世を去りたいというわけか。実際、この無比なる意志力は、死の時期までも支配することに...

4. 一晩だけ宿った才能が生んだ「ラ・マルセイエーズ」
フランスは、急進派の勢いでオーストリア皇帝とプロイセン王に宣戦布告。1792年4月25日、革命政府がオーストリアへ宣戦布告したという知らせがストラスブールに届く。市長ディートリヒ男爵は、大広場で宣戦布告文書をフランス語とドイツ語で読み上げた。初めての軍歌「サ・イラ」は、連隊の歩調とともに軍隊的な調子を帯びていき、カフェやクラブでも歌われる。ディートリヒは、乾杯の時に側にいた要塞守備隊のルジェ大尉が、憲法発布時に自由のための歌を作ったことを思い出し、明日進軍するライン軍のために軍歌を作ってくれと頼んだという。ルジェは、正当な理由もなしに貴族っぽいルジェ・ド・リールと名を変えていたとか。そして、翌日生まれたのが「ラ・マルセイエーズ」。凡庸な才能が、一晩にして天才的な霊に憑かれるとは...
この歌が革命の象徴へと育っていくと、逆に作曲家の名は忘れ去られる。ルジェ・ド・リールという名は、誰一人として顧みる者はなく、楽譜にも名が印刷されなかったという。しかも、この作曲家はまったく革命的でなかったとか。パリの民衆が「ラ・マルセイエーズ」を高唱しながら、チュイルリー宮を襲撃して王位を引きずり下ろした時、革命に酷く幻滅。共和制に宣誓するのを拒み、軍人としてジャコバン党に奉仕するよりも、軍籍から去ることを望んだという。彼は、外国の王冠をかぶった暴君たちを憎んだが、それに劣らず、国民議会の新奇な暴君たちと専制者たちを憎んだという。革命の公安委員会にも公然と反感を示し、革命の象徴を作った男が祖国を裏切った罪に問われた。まだしもギロチン刑にされれば、歴史に名を残したかもしれない。やがてフランス国歌となる作曲家は、地味なうちに人生を終えたという...

5. ナポレオンを百日天下とさせたグルシー元帥
歴史は奇妙な気まぐれによって、重大な運命をそれに相応しくない人物に委ねることがある。凡庸人は、高い地位を得たり、大金を得たりすると、ほんの束の間の幸せを味わうことに没頭する。更なる高みに上る機会を掴んでもなお欲望に溺れ、自己を高めようとはしないことが、凡庸たる所以であろうか。
ウォーターロー(ワーテルロー)の決戦の瞬間が、まさにそれだ。西洋史において、この時代ほどイギリス、プロイセン、オーストリア、ロシアの王侯たちが一致団結を見せたのも、珍しいのではあるまいか。北方からはウェリントンが進軍し、それにブリュッヘア元帥が指揮するプロイセン軍が続く。ライン河畔ではシュヴァルツェンベルクが戦備を整え、後方にはロシア軍。ナポレオンはプロイセン軍をや破り、その追撃を命じた。追撃隊を一任されたのはエマニュエル・ド・グルシー元帥、3分の1もの軍隊を任せる。20年間の数々の戦場で戦うが、目覚ましい功績もなく、ゆっくりと元帥まで昇進した人物だという。ナポレオンの天才的直感とは正反対に、自発的な行動に慣れない人物だとか。ナポレオンも、その器を見抜いていたらしいが、なにしろ忠実な人物。独裁的な人物ほど、やたらとイエスマンを好むようである。
しかし、戦争のような混沌とした状況では、応用力と決断力こそが決め手となる。雨の中、泥道をゆっくりと進軍し、敗走するプロイセン軍の足取りは依然つかめない。農家で朝食をとっていると鈍い轟音が。ナポレオンがイギリス軍を大攻撃しているのは明らか。副官は、大急ぎで砲声の方へ向かうべきだと進言する。だが、ひたすら服従で昇進してきた人物は、新たな命令がない限り、自分の義務から外れるわけにはいかない。副官ジェラールは、自分の分隊だけでも援軍に行かせてくれと歎願するが、拒否される。もう一人の副官ヴァンダームも、この判断に憤慨。その間、ウェリントンはフランス軍の4回の攻撃を押し返すものの、かなりのダメージを受ける。総攻撃を命じようとしたその時、森の中から援軍が現れた。どちらの援軍か?言うまでもなく、ブリュッヘア。3分の1の部隊が無意味にうろつきまわっている間に、プロイセン軍はいち早くイギリス軍と合流したのだった。わずか4時間の地点にありながら、いまだのんびりと追撃を続ける。副官たちは敗戦を悟ったのか、死に場所を求めるかのように森をさまよう...

6. 老人の失恋から生まれた芸術詩「マリーエンバートの悲歌」
1823年9月5日、カルルスバードからエーガーの国道をゆっくりと走る一台の四輪馬車がある。中には、ザクセン・ヴァイマル大公国の枢密顧問官フォン・ゲーテと、老僕と秘書ヨーンの三人。それは、沈黙の旅であったという。74歳のゲーテが19歳の娘ウルリーケ・フォン・レヴェツォフに求婚するも、確かな返事がもらえない。ちなみに、1822年2月、ゲーテは何度も意識を失うほどの重病にかかり、死を感じたという。医者たちも手の施しようのない病状だったとか。そりゃ、恋の熱病は誰にも治せんよ。
6月には、マリーエンバートへ行き、深夜まで女性たちと戯れたとか。お爺ちゃんが、マリーエンバートからカルルスバードへ愛する者を追うが、やはり返事はもらえない。心の中を秋風が吹き抜ける帰路で作られたのが、マリーエンバートの悲歌。
「人が苦しみのあまりに無言になるとき、自分で苦しんでいることを言い現わす術を、一人の神が私に授けている。」
昔馴染みのウェルテルにでも目覚めたのだろうか。人生の最後を恋で締めくくることができれば、なんと素晴らしいことだろう。こりゃ負けちゃおれん!と呟いて、さっそく夜の社交場へ消えていく一人の男を、鏡の向こうに見かける...

7. 西部開拓史を先駆けた破産屋
1834年、西部開拓史の始まりを予感させる時代、ヨーハン・アウグスト・ズーターという男が、妻子を置き去りにしてニューヨークへ渡ったという。破産屋、泥棒、手形偽造者の彼は、荷造人、薬種商、歯医者、売薬商人、居酒屋の主人、宿屋の主人などをやり、時流に乗ってミズーリーへ。そして、財産を売り飛ばして、誰も見極めていないカリフォルニアを目指す。
当時、哀れな漁村だったサン・フランシスコを見て、この土地が大農場に適しているばかりか、一つの王国を建てるに相応しいと感じたという。そして、知事と面会し、開拓権を得る。農場建設から、続々と入植者が流れこんできて、運河や製粉場や工場が作られる。やがて、蒸気機関車がアメリカ全土を横断し、イギリスやフランスの最大の銀行に資金を持つ。45歳で成功した彼は、見捨てた妻子を呼び寄せた。
1848年、使用人の大工ジェイムズ・W・マーシャルが土を掘っていると黄金が出てきたと、慌てて駆け込んできた。これでさらに富めるはずが、瞬く間に噂が広まりコールドラッシュ!銃で意志を通すしか知らない連中が大挙して押し寄せる。従業員たちも仕事が手につかず、巨大経営も停止。財は奪われ、またもや破産屋となる。妻子が到着した時、妻は旅の疲労で死に、三人の息子は静かに農業経営に励む。真の西部開拓史は、ズーターよりも、むしろ三人の息子によって受け継がれているのかもしれん。
1850年、カリフォルニアがアメリカ合衆国連合に組み込まれると、法の秩序がもたらされる。ズーターは、失った土地や運河や製粉場などの所有権を主張して倍賞請求する。1855年、裁判はズーターの権利を認め、世界最高の富豪に返り咲く。だが、またもや致命的な打撃を受け、破産屋へ引き戻す。判決が世間に広まると、民衆が暴動を起こし、裁判所を襲ったのだ。農園は焼かれ、財産は略奪され、長男は暴徒たちに強迫されて拳銃自殺、次男は殺害、三男はスイスに帰る旅で溺死。
辛うじて命を救われたズーターは、すべてを失って気が狂う。25年が過ぎ、数十億ドルの権利を請求しようと惨めにワシントンの裁判所の周りをうろついていると、そこに訴訟をそそのかす弁護士やペテン師がつきまとう。事件を派手に演出するために、おかしな将軍の制服を着せられたりと、不幸な男はまるで操り人形。役人たちの嘲笑の的となった彼は、乞食として死んでいったという。
「依然としてサン・フランシスコとその一体の土地は、他人の所有地の上に立っている。これについての権利のことが問題とされたことはまだない。」

8. ドストエフスキーの作風の転換点
夜中に突然眠りから引きずり起こされると、地下の幽閉室にはサーベルの音がガチャガチャ鳴る。馬車にいきなり押し込まれれば、まるで車輪に揺られる墓穴。行き先は処刑場。
中尉が宣告文を読み上げる... 銃殺刑!
コサック兵が目を布で隠そうとすると、見えなくなる前に辺りをむさぼり見る。光を失った瞬間、忘れ去られていた過去が蘇る。鼓動は静かに弱まり、突如として溢れる浄福感。弾丸をこめる音と、太鼓の音が空気を揺さぶり、その一瞬が永遠に感じられる。
その時、叫び声が聞こえた... 処刑中止!
士官が命令書を読み上げる。皇帝は聖なる意志によって恩赦を与えると。死は突然、こわばった手足の関節から立ち去る。これを機に、ドストエフスキーの作風が社会主義から、キリスト教的人道主義へ変化したとされる。
「そしてそのとき彼は、地上のすべての苦悩が、全世界にその悲しみを熱烈に叫びつづけているのを、今初めて聴きとった。ささやかな者らの声、弱い者らの声、むだな献身をした女たちの声、自嘲する娼婦らの声、つねにしいたげられる者らの黒い恨みの声、どんな微笑にも心をうごかされない孤独者らの声、すすり泣いて悲しみなげく子供らの声、そして、こっそり誘惑におちいった者らの無力な悲嘆、悩みをになっているあらゆる人々の声を彼は聞いた。... 死の中に生をさとった人間にとっては、苦悩が喜びに代わり、幸福が苦痛に変わる。」

9. 時間と空間の概念を変えた大西洋横断ケーブル
サイラス・W・フィールドは、技術屋でもなく、電気の知識もなかったという。だからこそ、海底ケーブルという単純な発想が浮かんだのかもしれない。そのために会社を設立するが、民間企業だけでは資金調達も難しく、国家を巻き込んだ大プロジェクトとなるは必定。こうした地道で遠大な事業計画は、ある種の使命じみた執念が必要である。専門家からも馬鹿にされる。なにしろ、水に弱い電気を海の中に通そうというのだから。
途轍もない遠距離の電線を運ぶだけでも、どんな船舶を用意すればいいか想像もつないし、電線を通したからといって性能テストがうまくいくかも分からない。嵐の吹く大西洋上で苛酷な作業を強いられ、リスクも高い。おまけに、電線の寿命も計り知れない。実際、電信記号が不明瞭になって、すぐに音信不通になったという。当初、あれほど称賛された電信は、無能呼ばわれ。フィールドは罪なき罪人として悪意のこもった憤慨の的となる。英雄に崇めた人物を、一夜にして大罪人に仕立てあげるのは、マスコミの常套。そして6年間、海底ケーブルは忘れ去られる。
19世紀の最も大胆な計画は、内戦や政治の激動によって話題をさらわれた。沈黙が破られるのは1865年のこと。先人たちの熱意が物理的障害を乗り越えて、今日のネット社会を支えている。大陸間の移動速度、情報の伝達速度は、飛躍的に進化した。
しかし、世界旅行で現地を気軽に見聞できるようになり、地域情報がリアルタイムで得られるようになれば、知識を高められ、普遍的価値というものに素早く到達できそうな気もするが、実際には遠ざかっている感がある。時間と空間の概念は、数倍、数十倍とムーアの法則に従って広がっているというのに。どんなに人体の周りが進化しようとも、内的時間と精神空間は変えようがないということか...

10. 未完成に終わったトルストイの戯曲「光闇を照らす」
1890年、トルストイは自伝的な戯曲を書き始める。それは、彼が計画した家出の正当化と、妻への弁明であったという。人生の決心を見い出せないまま、意志の放棄ゆえに、この戯曲は完成に至らない。主人公は、まったく途方に暮れたままで、ただ神に乞い求め、自己矛盾による分裂を早く終わらせるよう祈るのみ。すべてを清算し、家出を敢行するのは、精神の浄化を求めてのことか?いや、現実逃避か...
ツヴァイクは、この未完に仕えながら終曲を綴る。主人公は、サリンツェフという二重人格者ではなく、トルストイという実存者。
学生は議論を持ちかける... 革命に参加すべきだと、大義名分を大切にすべきだと、数々の人命が牢獄で滅んでいく様を知っているあなたなら、それを文章に書き続けるあなたなら、と...
トルストイは反論する... 暴力を是認したことはないと、暴力なんぞで悪を世界から根こそぎ排除できるなどと本気で思っているのか?それこそ思い上がりだ、と...
「まことの強さは暴力に対して暴力をもってこたえることをせず、その力は謙虚さと通じて相手を無力ならしめるのだ。」
その一方で、贅沢な生活を見捨て、巡礼となって旅することが、自分の義務であることを告白する。自分の人生を心の底から深く恥じると。この悩みまでも自慢するとしたら、まさに思い上がりであると。
「たといただ一つの生命でも、その生命の死の責任がわたしにあるということになるなら、わたしは自分の良心に対してその弁明をすることができまい。」
80を過ぎれば、死を見ないふりをすることはできない。死を目前にしてこそ、決意すべきことがあるはず。学生の問うた、実行すべきことを実行しない理由、それは魂の臆病さにほかならない。そして、遺言をしたためる... 全財産を全人類に捧げると、切羽詰まった良心から発した言葉を金儲けの道具にしてはならないと...
トルストイの妻ソフィアは世間では悪妻と評されるが、ツヴァイクは、死を前に妻を証人として呼び寄せ、彼女をヒステリックにさせたのは夫に責任があることを感じているかのように演出する。娘アレクサンドラ(サーシャ)をともなって家出を決心。これが最後の巡礼の旅となる。そして、小さな停車場アスターポヴォの駅長の宿舎で息を引き取る...

11. 南極点到達で名声は奪われたものの、真の研究家であり続けたスコット大佐
人類の飽くなき知への渇望は、とどまるところを知らない。ナイル川の源泉、アマゾンの森林、チベットの屋根... ついに人類を極点へ導くが、数十年も企てられてきた氷の館は、死骸が横たわる氷の棺と化す。33年後、ようやく発見された亡骸は、スウェーデン探検家アンドレー。気球で北極を越えようとした男だ。
アメリカでピアリーとクックが北極探検の準備をしていた頃、ヨーロッパでは二艘の船が南極に向けて出発。ノルウェーのアムンゼンとイギリスのスコット。スコットは真面目で義務感の強い人物だという。何が彼を冒険に駆り立てたのか?全財産を犠牲にしてまで。船の名は「テラ・ノヴァ(新しい土地)」。彼は風変わりな準備をしている。ノアの方舟のごとく、いろいろな動物を積み、船そのものが近代的な実験室のように研究器具を備え、一行には、動物学者、地質学者、技術者など様々な専門家を伴う。計画は壮大な冒険であるものの、緻密に計算された科学調査団のようである。
1910年6月1日、イギリスを出航。ニュージランド側のエヴァンス岬附近に越冬の家を作る。ところが、西方を探索した者たちが、アムンゼンの越冬の家を見つけて愕然とする。この家が、地図上で110キロメートル極に近い位置にあることを知ったのだ。科学調査団は、突然、冒険家に変貌。しかも、国の威信をかけた。もし、アムンゼン隊を偶然見つけなかったら、緻密な計画の上で無事帰還することも適ったかもしれない。
愛情をそそいできた動物たちを殺しながら、白い荒野をさまよい、30人の隊列は20人になり、10人になり... ついに決行のために選抜された5人は、スコット、バウアース、オーツ、ウィルソン、エヴァンス。最初の功績という歴史的な手柄とは、よほど魅力があるものと見える。もはや名誉だけが意志を支える。そして、南極点に到達するが、アムンゼンのキャンプの痕跡を見つけ、悲しげにユニオン・ジャックをアムンゼンの勝利の旗と並べて立てた。帰路はさらに苛酷となる。行きは羅針盤によって極点に導かれるが、帰り道は見失ったら終わり。不名誉な帰国に意志も挫け、病に一人倒れれば、足手まといにならぬよう死に突進。それでもなお科学者たちは、観測の義務を怠らない。16キロもの重量の珍奇な鉱石を積みながら...
一方、目的地まで同行する名誉を得られなかった仲間たちは、数週間、一行の帰りを待つ。救援しようにも悪天候に見舞わる。南極の春は遅い。10月になって、英雄たちの遺骸と遺言を見出すために出発。そして、凍死した悲壮な姿を発見する。
スコットは、到達競争という意味では敗れた。しかし、だ。貴重な標本を残したという意味ではどちらに軍配を上げるだろうか?歴史の勝利は、ちょいと視点を変えるだけで違ったものに映る。人類の目的が、叡智を伝承することにあるとしたら。実際、南極の景色が、乾板やフィルムとして残され、スコットの手記も貴重な情報をもたらしたという。
「わたしは自分が探検家として価値があったかどうかを知らない。... しかしわれわれの実行の結末は、勇気の精神と克己力とがわれわれの種族から今なおなくなっていないことを証明するだろう。」

12. レーニンを革命家に導いた封印列車
世界大戦の間、四方面から囲まれた中立国スイス。それだけに推理小説の舞台としては絶好だ。交戦国の外交使節、経済界の要人、ジャーナリスト、政治家たちが入り混じり、スパイの組織網が互いにしのぎを削る。そんな場所に、情報の材料にほとんどならない人物がいる。カフェにも行かず、口数も少ない。隣人ですらロシア人であることを知らない。しかし、毎日規則正しく図書館へ行き、決まった時間にきっちり帰る。多くを読書し、孤独に学ぶ人物が、世界を驚かせる革命をもたらすとは...
1917年、革命が勃発したとのニュースが飛び込むと、亡命者たちはロシアへ帰国できると歓呼する。偽の旅券を使わず、本名を隠すことなく、堂々と。だが、数日後には失望。ちっとも革命ではなく、政府上層部がドイツとの講和を締結させまいとする、ツァーリに対する叛乱であった。主戦派と帝国主義者、そして将軍たちの陰謀であり、市民革命ではなかったのだ。
レーニンは、マルクス主義的な革命を欲し、なんとか帰国できないかと模索する。ドイツはロシアとの和睦を求めており、ドイツの外交ルートを利用すれば、帰国の道が開けるのではないか。しかし、戦争中に敵国に入ることは、国家反逆罪となる。それを覚悟した無名の亡命者は、既に将来のロシア代表者であるかのように条件を伝え、ドイツ政府に好意を示す。条件とは、列車に治外法権が承認されること。ドイツは焦っていた。アメリカが宣戦布告したからだ。
そして、ドイツ政府の援助で封印列車を確保し、スイスからドイツを経由してペテルスブルグに到着。当時、ペトログラードと呼ばれていた町は、祖国癖に憑かれた愛国心に見舞われ、再逮捕されるのではないかという懸念がある。しかし、亡命からの帰国者は、民衆に盛大に歓迎されるのだった...

2014-11-16

"マリー・アントワネット(上/下)" Stefan Zweig 著

歴史は得てして、凡庸な人物に命運を託すことがある。単に無思慮で、はしゃぎ好きな娘を、王党派は偉大な聖女に祭り上げ、共和党派は堕落女と罵声を浴びせる。フランス革命という急進的な時代にあって、大衆を敵に回し、魔女狩りのごとく処刑されていく命運とは。ハプスブルグ家の皇女という誇りが、そうさせたのか。民衆は魔女の戯言に同情するほど余裕はない。世論の捌け口とされるがゆえに、今日英雄として担がれた人物が、明日には悪魔として駆逐される。共和政治が恐怖政治と化すのに、大して手間はかからない。パスカルが書いたように、やはり人間とは狂うものらしい。狂気した者は、狂気の結末を求めてやまない。自らを悲劇の英雄に仕立て、自己の中に人生という歴史を刻み、自己完結できればそれでいいのだ。はたして狂気した者が、狂気していることに気づくことができるであろうか。感動的な芝居をうつのに、英雄的な資質など必要としない。いや、芝居かかっているから歴史なのかもしれん...

さて、シュテファン・ツヴァイクという作家を知ったのは、著作「ジョゼフ・フーシェ」に出会ってからのこと。おいらが知る歴史書、いや推理小説の中でベストテンに入る作品である。
正直言って、マリー・アントワネットの印象は、贅沢三昧に溺れた浪費家の自爆ぐらいにしか映らない。むしろ、彼女をヒステリックに追いやった夫ルイ16世の無気力と優柔不断さ、もっと言うなら、太陽王の影で惰性的に王位に就いた継承者たちの不甲斐なさの方が、歴史的に意味がありそうに映る。
ヴェルサイユ宮殿の栄華は、フリードリヒ大王をはじめとする王侯たちの憧れであった。しかし栄華とは、偉大な政治的意志が伴ってはじめて花開くもの。後継者たちは国家財政を窮地に陥れただけの存在でしかない。もちろん王妃も同罪だ。数々のスキャンダル沙汰に囲まれながら大衆の餌食となっていく様に、これといって陰謀めいたものを感じない。女の面子を競って虚栄を張り、煮え切らない浮気心を覗かせ、せいぜいルイ14世が残した負の遺産を目立たせるぐらい。この派手好きな人物をツヴァイクならどう描くだろうか、凡庸な人間像から迫る歴史叙述とは... 興味はただこの一点にある。
「王妃マリー・アントワネットの物語を綴るということは、弾劾する者と弁護する者とが、たがいに激論のかぎりをつくしている、いわば百年以上にもわたる訴訟を背負いこむのと同じことである。」

ツヴァイクは、歴史文献の扱いの難しさを問いかける。そして、確実な文献であるはずの自筆の手紙でさえ信頼できないと指摘している。王妃の書簡と称するものは、ほとんど自身の著名が残されているそうだが、短気で落ち着きのない性格となれば手紙の書き手としても無精で、彼女自身がサインをするのは稀だという。大胆不敵にも天才的な偽造者がいるというわけだ。書簡集だけでも大儲けできるとなれば、マリー・アントワネット物語とは偽造の歴史というわけか。
ツヴァイクは、偽造の張本人を名指しする。書簡集の出版者フィエ・ド・コンシェ男爵にほかならぬと。有数な外交官で、異常な教養の持ち主だとか。落ち着き過ぎた丸味のある書体はいかにも胡散臭いし、あまりにも巧みに筆跡、文体を真似ているために、本物と偽物の見分けもつかないとぼやく。したがって、フィエ・ド・コンシェ男爵の文献は、容赦なくいっさい顧慮しなかったという。
「歴史的著述の末尾には、利用した文献をあげるのがならわしではあるが、マリー・アントワネットという特別の場合にあっては、いかなる文献を、いかなる理由から利用しなかったかを確めておくほうが、私にはより重要なことと思われる。」

口述文献においては、手紙よりも事情がさらに酷い。歴史の証言には、政治的に改竄されてきた口述で溢れている。フランス革命の熱狂にあっては疑わしい証言ばかりで、傀儡的な侍女や召使たちが好き勝手に喋る有り様。身の毛のよだつ恐怖政治の下では、まともな証言はすべて抹殺される。しかし、それが集団的狂気の中で起こった出来事だとすれば、現在の情報社会における集団的暴走と何が違うだろうか?
「国民大衆というふしぎな実体は、いつも擬人的に、まったく人間的にだけものを考える習いがある。概念なぞいうものは、大衆の理解力にとっては、けっして完全に明瞭になるものではなくて、ただその概念を具現している人物だけがはっきりしているのである。」
モーツァルトがマリー・アントワネットに求婚したという話から、更に懲りずに、処刑の際、誤って刑吏の足を踏み、丁寧にごめんなさい!と言ったという話... これらの逸話は、フィエ・ド・コンシェ男爵の作品だそうな。そして、いかにも読者を喜ばせ、朗らかな印象を与える逸話を、本書の中に見つけることができず、読者をがっかりさせるだろうと断っているが、どうして!どうして!
マリア・テレジアとの往復書簡にしても、完全に公刊されると言われながら、極めて重要な部分が非公開になっているそうな。本書は、そうした箇所を存分に取り入れている。それでも真相は闇の中、当人にしか知り得ないことに変わりはあるまい。歴史上の人物に興味を持たせるために、是が非でも人物像を理想化し、感傷化し、英雄化する必要はない。人間を人間らしく伝える、これぞ歴史叙述というものであろうか。
とはいえ、激動の史実を語るのに、文学的な脚色は不可欠だ。ルイ16世との悲愴な愛の苦悩と、スウェーデン貴族フェルセンとの純愛の讃歌が対照的に描かれるところに、文学の美を醸し出す。歴史をいかに紐解くかという観点から、歴史叙述を推理小説風に展開する手腕は相変わらずだ...

1. ブルボン家とハプスブルグ家の婚姻
ブルボン家ではルイ14世が世を去り、ハプスブルグ家でもカール6世が世を去ると、女帝の時代に突入する。その典型的な形は、フリードリヒ大王に対抗して、ハプスブルグ家の女帝マリア・テレジア、ロシア女帝エリザヴェータ、ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人の三人が包囲した戦争に見て取れる。フランス王国では、ルイ15世、ルイ16世と惰性的な王が続き、王妃や愛妾が宮廷を牛耳るようになる。何世紀もの間、ハプスブルグ家とブルボン家はヨーロッパの覇権をめぐって戦争を繰り返してきたが、ついに両家とも疲れ果て講和を求める。ハプスブルグ家は、巧みな婚姻外交によって領土を広げてきた備えから、いつの時代にも結婚適齢期の女性で事欠くことがない。
では、誰をルイ15世に輿入れさせるか?年齢順に候補を募ると、雲隠れするは、その気はないはで、なかなか決まらない。1766年、ようやくルイ15世の孫と年齡で釣り合うマリア・テレジアの娘の名があがる。マリー11歳のこと。だが、13歳になってもドイツ語もフランス語もまともに書けない不勉強で能天気な怠け者、これを教養ある貴婦人に仕立てあげるには骨が折れる。フランス側からオルレアン司教の推挙で、ヴェルモン神父が傅育官としてウィーンへ派遣される。神父がフランス王妃に相応しいと本当に判断したかは知らないが、見た目だけなら上品そうで明るい性格だし、ちと無理のある報告で、ルイ15世はようやく結婚を承諾する。ちなみに、神父は、利発だが怠慢で、皇女の教育は自分には手に余ると漏らしたとか、漏らさなかったとか...
華燭の典は、両家の誇りや見栄のために盛大に行われた。財政緊縮を迫られているというのに。豪華極まりない祭典に民衆がわき、幼い新王妃が有頂天となるのも仕方があるまい。だが、民衆とは移り気が激しいもので、何事も賛否両論があり、その力関係は振り子のように揺れ動いている。いつの時代も、政治家はこの流れが読めないで苦慮する。既にフランス革命は、ここに運命づけられていたのかもしれん...

2. 宮廷喜劇
ルイ16世は優柔不断もさることながら、異常に無気力な性格の持ち主。寝室でも、内気のせいか?経験不足か?愛撫もできず、7年間も実質的な夫にはなれなかったとか。宮廷で不能が噂され、物笑いの種。マリーは、女として妻として恥辱をこうむってきた。
ツヴァイクは、ルイ16世の精神状態を、男性的弱体に由来する劣等感の典型的な症例であると、臨床医学的に解説している。男の性格に及ぼす現象と、女のそれとでは、夫婦でまったく正反対になるという。男の場合は、性的能力に障害があると、抑圧に悩み、無気力となり、女の場合は、受け身で献身的な態度が実らないと、怒りやすく、自制心を失うと。
また、皇室の圧力は、余人には想像もつかないものがある。「マダム・エチケット」と渾名されるノアイユ伯爵夫人の口うるさい説教から逃れようとする日々。マリーの場合は、感受性が強く、情熱的な乙女だけに、余計に爆発したと見える。なにしろ、22歳まで処女だったのだ。遊び好きはエスカレートし、毎日朝帰り!
「私は退屈するのがこわいのです。」
享楽というものは恐ろしい。真の自由を与えないばかりか、まったくの奴隷にさせる。社交界では、独りでいることもできない。そんな王妃に、気弱なルイ16世は小トリアノン宮を贈る。もともとは、ルイ15世がデュバリー夫人などの浮気のために使った宮殿だとか。なによりも束縛を嫌うマリーは、ここに絶対不可侵な国を作り、美術品や装飾品で埋め尽くしてロココの女王となった。
商売に抜け目のない装身具屋が、彼女の気性を利用しない手はない。今日はどの衣装にするかという気まぐれな悩みは、侍女や裁縫師や刺繍師たちを忙殺する。贅沢こそが、着飾ることが、義務だと言わんばかりに。実際、そう思っていたのかもしれん。
それはともかく、夫婦仲がうまくいかなけば、フランスとオーストリアの同盟が危うい。さすがに母マリア・テレジアも娘を説教し、兄の皇帝ヨーゼフ2世は義弟のルイ16世を励ますために、わざわざパリへ赴く。そして、長年の不能から、ついに誇らしげに妊娠が報じられる。だが、贅沢病は死んでも治りそうにない...

3. デュパリー夫人との確執
宮廷は二派に分かれた。ルイ15世の妃は既に亡く、婦人仲間で最高の権威をめぐる争いは、王の三人の娘に帰するはずだった。だが、愚かな三人娘は、やることなすこと不手際。謁見の際、上席を占めたり目立つこと以外に、地位を利用する術を知らない。へつらったところで地位を世話してくれるわけでもなく、なんの見返りもないとなれば、影響力を失うばかり。
そして、栄光と名誉は、ルイ15世の寵妾デュバリー夫人に帰する。デュバリー夫人は下層社会の出身で、貴族の片割れという肩書を手に入れるために、いいなりの情夫に金を出させ、無類の好人物デュバリー伯爵を手に入れたという。そして、伯爵は結婚後すぐに身を引き、夫人は王のお気に入りとなる。
そんなところに、マリーが輿入れしてきたものだから、デュバリー夫人を快く思わない連中が近づく。ただ、形式上の地位はマリーの方が上で、自然に振る舞っていれば威厳を失うはずもない。儀礼の上では下の者から言葉をかけるわけにはいかないので、ちょいと王妃が声をかければ済む話。しかし、この意地っ張りは冷然と嘲笑うがごとく、いつまでも言葉をかけず、徹底的に無視することによって決闘を挑む。宮廷では、どちらが勝利するかの話題で持ちきり。実にくだらん!
しかし、これが同盟の危機となれば話は別だ。母マリア・テレジアの耳にも入り、外交ルートを通じて、戦争になるぞ!とちょいと脅せば、マリーは涙ぐむ。1772年、ついにヴェルサイユ宮殿の観客を証人とする中で、デュバリー夫人の勝利で決着。誰もがマリーの言葉を聞き漏らすまいと静寂する中、ひとこと口にした。
「今日は、ヴェルサイユは、たいへんな人ですこと。」
だが、一度母に譲歩したからには、デュバリー夫人に二度と声を聞かせないと決意したとか...

4. 首飾り事件
1785年、王妃の名を語った詐欺事件が発生。大掛かりな詐欺には、二つの要素が揃わなければならない。一つは大ペテン師、二つは大馬鹿...
ヴァロワ家のラ・モット伯爵夫人は宮廷に知り合いがなく、いきなり奇襲をしかけたという。歎願者に混じって応接間に現れるや突然倒れ、長年の飢餓と衰弱によって涙ながらに同情を集める。すると年金が増額されたとか。味をしめて二度、三度と倒れて見せるものの、胡散臭く見えてくる。そして、軽信家ド・ロアン大司教に近づく。ロアン大司教は、マリーを男にしたような人物だという。軽率、皮相、浪費、無頓着。聖職者でありながら、まったく世俗的で、陽気な遊び好きとくれば、マリーと馬が合いそうな...
それはさておき、ラ・モット夫人は、ロアン大司教に王妃の親友だと語り、宮廷御用宝石商ベーマーに首飾りを買いたいと伝え、160万リーブルもの宝石を騙し取った。この事件が明るみになると、浪費家で名高い王妃の責任を問う世論が巻き起こる。潔白を証明しようと裁判に持ち込んでも、証拠物件が見つからない。というのも、ラ・モット夫人の夫が首飾りの一切をロンドンへ持ち逃げしていた。偽造文書も焼却され、本当に偽造があったのか?王妃が隠し持っているのではないか?という噂が広がる。
ことごとく関係者と思われる人物が逮捕されていく中、結局、ラ・モット伯爵夫人だけが有罪。そして、V字の焼き印を胸に押されるという戦慄な処罰が行われる前で、民衆の同情が集まる。この裁判の勝者はいないが、少なくとも敗者は自ら法廷に持ち込んだ王妃であった。この事件で、マリーは初めて自信を失ったという。
優柔不断なルイ16世は、裁判後、辛うじて大司教の職を奪い、関係者数人を国外追放にしたのみ。ラ・モット夫人は、暗闇にまぎれて獄舎の扉を開き、イギリスへ亡命。脱獄できたのは司法取引であろうか?狡猾な女ペテン師は、再び宮廷と瞞着する。口止め料をもらって回想録を発行し、自分が犠牲者であったことを告白。暴露本には、ロアン大司教とマリーの親密な関係までも掲載されたという。もちろん事実無根。スキャンダル沙汰というものは、面白おかしく飾り立て、報道屋の餌食にされるものだ。それこそ首飾りのように...
「マリー・アントワネットは、頸飾り事件の奇々怪々な奸策陰謀に対しては全然無罪ではあるが、このような詐欺が彼女の名においてともかくおこなわれ、また信じえられたという点にいたっては、彼女の歴史的罪であったし、また歴史的罪たるを失わない。」

5. フランス革命勃発
アメリカ独立戦争から帰国した志願兵たちが、かの戦地で目の当たりにしたのは、宮廷もなければ国王もいない、貴族もいない、市民と市民がいるだけの社会。王政がもたらす秩序が、神の意志に基づく唯一のものでもなければ、最上のものでもないということだ。それは、ルソーの「社会契約論」にもはっきりと謳われ、ヴォルテールやディドロの著述にも表れる。
1789年、ついに国民議会が爆発。この国の支配者は国王と国民議会のどちらか?瞬く間に革命の象徴となる三色旗が掲げられ、至るところで軍隊が襲撃され、パリの町は勝利に酔いしれる。
ところが、この世界的事件のさなか、わずか10マイル先のヴェルサイユでは誰も気づいていない。ルイ16世は、バスティーユ襲撃の報を受けても断を下さず、10時には睡眠に入る始末。当時、革命という言葉がどれほど認知されていたかは知らない。フランス革命によって知れ渡った言葉といえば、そうかもしれない。ここに国家と国王の新旧イデオロギー対決が始まる。それは、王族の繁栄と国家の繁栄とが区別されはじめた時代だ。鈍感なルイ16世が、この事態を呑み込めなかったのは無理もない。王妃はというと、感覚的にモノを言う人であることはとっくに分かっている。王室の立場しか理解できない彼女にとって、自分に反対する者は、口やかましいヤツぐらいにしか思っていないだろう。
王家は、ルイ14世以来百五十年このかた、住まいとして使っていなかったチュイルリー宮に幽閉される。そこに、オノーレ・ミラボー伯爵が宮廷に援助を申し入れ、国民議会との仲介役を買って出たという。だが、ミラボーは暴動を引き起こす天才だとか。王家にその人格を見抜く力などあろうはずもない。歴史の激動期には、必ずこの手の魔神的な人物が暗躍するもの。ツヴァイクは、彼ほど二股膏薬を演じた者はない、と評している。
しかし、王室を手玉にとった男も、1791年、忽然として死去。その二年後、王と内通していたことが暴露されると、肉体を墓所から引きずり出され、皮剥場へ投げ捨てられたとさ。ミラボーの死によって国民議会との唯一のパイプを失い、宮廷側は完全に沈黙する。

6. フェルセンとは何者か?
スウェーデン貴族ハンス・アクセル・フォン・フェルセンは、マリーの愛人として片付けられることが多い。だが、ツヴァイクはこの人物に重要な役柄を与えている。
フリードリヒ大王と敵対する国々は、フランスとオーストリアの同盟関係に注目している。スウェーデン国もその一つ。フェルセンとスウェーデン王との書簡のやりとりが、いずれスウェーデン国で要職に就くことを予感させる。彼は、ラシュタット会議、すなわち神聖ローマ帝国とフランス革命政府との講話会議で、スウェーデン国代表を務めている。王党派の情報は筒抜けだったのかもしれない。スウェーデン王グスターフ3世は、こう記しているという。
「王一家の運命に寄せる余の関心がいかに大であるとはいえ、しかもなお、ヨーロッパ諸国の勢力均衡という一般的情勢の難点、スウェーデンの特殊利益、及び絶対権の問題の困難さのほうが、はるかに重大だ。いっさいは、フランス王政が回復されるかどうかにかかっているのであり、王座そのものが回復せられ、騎馬学校の怪物(国民議会)が破砕せられるということであるならば、この王座にすわる者がルイ16世であろうと、ルイ17世であろうと、はたまたシャルル10世であろうと、われわれにとってはまったくどうでもいいことだ。」
しかし本書には、マリーの思慮浅い性格を利用して、ブルボン家を操ろうなどという思惑は見えてこない。役目はなんであれ、あくまでもプラトニックな愛を育んだ証拠を強調している。

7. ヴァレンヌ逃亡劇
フェルセンは、王族の逃亡劇で一役買う。最も信頼できる人物とはいえ、国王の脱走を外国人に委ねるのも無思慮な王妃らしい。しかも、一分一秒を争う脱走劇で、一族が一緒に乗れる大型の馬車を準備させたり、身の回りの世話をする侍女や召使を同行させる有り様。お嬢様には、脱走と旅行の区別もつかないらしい。
しかし、ルイ16世は逃亡中、これ以上のフェルセンの同行を望まない。妻の友人と肩を並べて臣下の前に姿を表すことが、はばかられたのか?ルイ16世は、国境付近の軍を預かっていたブイエ将軍が駆けつけることを信じ、パリへ取って返して王位奪還を目論んでいた。だが、ヴァレンヌの人々は、革命の歌とともに行進してくる。ブイエ将軍が到着するも、時既に遅し。
国王一行がシャロンに着くと、市民たちは石の凱旋門で待ち構えていた。歴史の皮肉か!21年前、ガラス張りの馬車に乗って、国民の歓呼を浴びなからオーストリアから輿入れした時に、王妃の名誉のために建てられた凱旋門である。石の装飾にはラテン語で、こう刻まれる。
「この記念碑、我らの愛のごとく永遠につづかんことを」
鉄面皮は民衆の憎悪にさらされ、もはや王でもなく、王妃でもない。マリーは、まだ生きている旨をフェルセンに手紙したという。だが、真に愛情のこめられた書簡は、フェルセンの子孫によって抹殺されているそうな。それでも言葉の欠片から、愛情の躍動を感じ取ることができる。
しかしながら、本当の禍いは、逃亡劇の失敗よりも、ルイ16世の弟プロヴァンス伯爵が時同じくして試みた亡命が、成功したことにあるという。後に、ルイ18世を名乗る人物だ。投獄されたルイ16世とその息子ルイ17世の失脚は、無条件で二段階特進という寸法よ。政治とは、まさに二枚舌の才が求められる世界。兄レオポルトですら妹マリーを釣ろうと...
「兄は妹をあざむき、王は国民をだまし、国民議会は王を裏切り、君主は君主をあざむいて、ただただ自己の問題に有利となるよう、時を稼ぐべく万人たがいにだましあっている。... 誰も火傷はしたくないが、みな火をもてあそび、皇帝も諸王も王族も革命党員も、このたえざる密約と欺瞞によって、一種の猜忌の雰囲気をかもし出し、ついには欲せずして、二千五百万の人々を二十五ヵ年にわたる戦乱の渦中に投ずるにいたる。」

8. タンプル獄とコンシェルジュリー牢獄
ルイ16世が共和制の憲法を承認すれば、一旦身柄は安全となる。だが、急進派は相変わらず王政廃止を目論む。フランス革命が行き詰まりを見せると、オーストリアへ宣戦布告。大昔からのやり口だが、国内の不満が抑えきれなくなると対外戦争にうってでるのが、政治の常套手段。
マリーは王妃の地位を守るために、フランス軍の進軍計画をオーストリア大使に伝える。この浅はかな行為が、売国奴の汚名を着せられる。激怒した民衆は、国王一家が収容されるテュイルリー宮を襲撃。国家反逆罪に問われても仕方がないが、国家や国民の概念ですら認知できなかったと見える。
監獄には古めかしく陰鬱な城塞が選ばれ、いまやルイ16世、マリー、王太子、王女、妹エリザベス女公の五人だけ。ただ、城壁に幽閉されれば、身柄の安全は保障される。
しかし、王家の監督を委ねられた人物エベールこそは、革命党員の中で最も典型的な人物だという。王妃を誹謗してやまない毒舌家に一任したことは、読み飛ばしたくなるほどのフランス革命史の暗澹たる一頁であると...
革命の初期段階では、理想主義が優勢であったのは確かであろう。心ある貴族や市民、あるいは名望家から構成される国民議会は、民衆を解放しようと意図するものの、やがて解放された者は、解放してくれた者に歯向かう。革命の第二期では、急進分子や怨恨からの革命党員が優勢となり、彼らにとって権力は新たな野望の対象となる。やがて卑劣な人物が采配をふるい、野心と狡猾さに自由が支配され、議会は精神的凡庸さによって席巻される。
「フランスのいままでの主君が、歴代諸王の王宮を獄舎と換えたその同じ夕、パリの新しい主人もその居を変える。同じ日の夜、断頭台はコンシェルジュリーの中庭から引き出され、威嚇的にカルーゼル広場へすえられたのである。フランスは知るべきでだ、八月十三日以降フランスを支配するのはもはやルイ16世でなくてテロであることを。」
王家の集団リンチは、民衆にとってある種のお祭りだ。革命は、反革命派を根こそぎ処刑するために最初の生贄を欲した。1793年、ルイ16世処刑。死刑宣告を受けてもなお恐怖も興奮も示さない無感動な性格が、ここにきて王としての威厳を見せるとは...
王太子は靴匠シモンに引き渡され、マリーはいよいよ孤独となる。いまやハプスブルグ家の人質の役割でしかない。革命政府はオーストリアに賠償交渉を持ちかけるが、レオポルト2世の子、皇帝フランツは、叔母を救い出すために宝石一つ出そうとはしない無情漢。そこで、マリーの身柄はコンシェルジュリー牢獄へ移送される。コンシェルジュリーは「死の控室」と呼ばれ、ヨーロッパ中に知れ渡った牢獄だそうな。つまり、オーストリア皇女を殺すぞ!と脅しにかかったわけである。
ところで不思議なのは、これだけ厳重に監視されているにもかかわらず、脱獄させようという計画が、やたらと記録に残っていることである。「カーネーション事件」は、その典型である。後に、アレクサンドル・デュマが潤色をほどこして一大小説に書いたやつで、ある男が独房に真っ赤なカーネーションの花束を差し入れすると、その中に救出の段取りが書かれていたという逸話。この事件の真相を知るのは、ほとんど不可能のようだが、マリーは裁判で自供しているそうな。チュイルリー宮の時代から知っている人物で、その男からカーネーションに潜ませた手紙を受け取ったことや、返事をしたためたことを。そして、その近衛兵の名前は思い出せないと突っぱねたという。
マリーには、看守までも、友に、助手に、召使にしてしまう魅力があるらしい。最も厳しい監獄にありながら、特別なご馳走を用意したり、好きな飲料水を他の地区から持ってきたり、髪を結いましょうと申し出たりと、陰ながら尽力しようとした見張り役も少なくなかったようである。タンプル獄からの一連の試練が、彼女に死を覚悟させ、気高い振る舞いをさせたのであろうか...
「危険というものは一種の硝酸である。可もなく不可もない生ぬるい生活状態では、見分けがたく入りまじっているものが、... 人間の果敢と臆病が、この試験を受けると分離する。」

9. 革命裁判
1793年、フランス革命は危殆に瀕する。最強の砦マインツとヴァランシエンヌが陥落し、イギリス軍が重要な軍港を占拠。パリに次ぐ大都市リヨンには叛乱がおこり、植民地は失われ、パリは飢餓に襲われ、民衆は意気消沈し、共和政府は没落寸前。もはや自殺的な挑戦あるのみ、それは恐怖を吹き込むこと。そして、リヨン大虐殺の蛮行に走る。革命裁判の暴走は、断頭台を活況とさせる。過激政策を非難する者には、裏切り者の名を与え、ことごとく処刑。その矛先は、マリーにも向けられ、最初から処刑ありきの裁判へ。
ところで、古来、マリー・アントワネットの伝記を書く者にとって、大きな謎とされる事があるという。それは、王太子の母に対する不利な証言と、擁護者たちの屈折した証言である。子が生みの母を誣いる陳述をしたことは、歴史にもあまり例を見ない。暴力で脅した様子もなければ、酒を飲ませて意識を朦朧とさせた形跡もない。王太子の態度は、証人席に腰掛けて足をぶらぶらさせるなど、遊戯的な厚かましさが記録されるという。お喋り屋さんで、聞いたことをすぐに口にする癖があったとか。とはいえ、まだ8歳のガキだ!王妃の情熱的な擁護者たちも、ばかに回り道をした説明や、とんでもない曲解に逃れたりしているという。幸か不幸か、母マリーは常に獄中にあったので、王太子の途轍もない陳述をすぐには知らない。死の前々日になって、ようやく告訴状によって屈辱を知るのである。
裁判が始まると、千差万別の罪状が時間的にも論理的にもつながりがなく、雑然と持ちだされる。おまけに馬鹿げた証言ばかり。ある侍女は、王妃がヨーゼフ2世に巨額の金貨を送ったのを聞いたとか... オルレアン公を殺すつもりで常に二挺拳銃を携帯していたとか... 裁判が、物笑いの餌食にするための喜劇を演じるならば、証拠なんぞどうでもいい。しかし、ギロチン刑で処すとなれば、大罪人である証拠がいる。罪があるとすれば、浪費家が国家財政を圧迫させたこと。そして決定的なのは、王位を奪還するために、オーストリア大使にフランス軍の進軍計画を漏らしたこと。
裁判中、マリーはちっとも動じない。最初から死刑と決まった裁判を引き伸ばす必要が、どこにあろう。この世でなすべきことは、二つしか残されていない。毅然とした態度で自己を弁護し、自若として死ぬことだ。ハプスブルグ家の皇女であり、依然としてフランス王妃であることを、国民に誇示するしか道はない。そして、妹エリザベス女公に最後の手紙を宛てる。
「愛する妹よ、いま貴女に最後の手紙をしたためます。いま判決を受けてきたところですが、恥ずべき死ではありません。犯罪人にとってのみ死刑は恥ずべきことであります。」

10. マリーの死後
斬首されると、共和国万歳!の叫びがこだまする。しかし、そんな一時もすぐに忘れられる。恐怖政治では、明日は我が身!実際、墓穴を掘るにも金がかかり過ぎるほど、続々と断頭台に送られていく。ダントンしかり、ロベスピエールまたしかり...
一方、皇女を救おうとしなかったハプスブルグ家は、良心に苛まれる。後に、ナポレオンはこう語ったという。
「フランスの王妃について深く沈黙を守ることは、ハプスブルグ家において固い掟であった。マリー・アントワネットという名前が出ると、彼らは眼を伏せ、迷惑な手痛い問題を避けようとするかのように話題をかえる。この掟は家族全員が守るばかりでなく、国外駐在の使臣たちにもそれとなくいい含められていた。」
さて、マリーの死後も変わらず、最も忠実な人はフェルセンだったという。彼女への思いを妹に書簡しているとか。しかし、遺児の娘はフェルセンに話しかけることも許されず、オーストリア宮廷の滞在も拒否される。ヴァレンヌ脱走劇で、ルイ16世の命に従って、王妃を残して去った6月20日のことを悔いたという。
フェルセンは故国で有力者になる。元帥となり、王の顧問となり、次第に支配者型の人物になっていったとか。彼は、王妃の処刑からか、民衆を悪意ある賤民、卑劣な下民として憎悪したという。民衆もまた彼を憎み返し、フランスに復讐するために、自らスウェーデン王になろうとしていると吹聴される。スウェーデン王太子が死ぬと、フェルセンが毒殺したという噂まで。マリーがそうであったように、フェルセンもまた民衆の餌食とされ、暴力分子に惨殺される。6月20日の運命の日に...

2014-11-09

"エリック・エヴァンスのドメイン駆動設計" Eric Evans 著

ドメイン駆動設計(Domain-driven design)とは、モデリングパラダイムを中心に据えたソフトウェア設計手法である。おいらはプログラマではないが、あらゆる分野の研究、開発、設計が、効率化とコスト削減のためにデスクトップ上に展開される御時世。プログラミングをまったくやらなくて済むなんて職場を、おいらは知らない。統計モデルの記述には数値演算言語が、電子回路の実装にはハードウェア記述言語が、データベースの管理にはSQLが、Webの構築にはマークアップ言語が、などなど... 古くから、脳をモデリングするための人工知能言語が研究され、新しいところでは、ゲーム開発用のスクリプト言語が登場する。いわゆる、ドメイン固有言語ってやつだ。こうした言語は、各々の分野で本質を見極めようとする動機から生まれ、おかげで、システムのプリミティブな知識を知らずとも、本来の仕事に集中することができる。本書は、コンポーネント群から分離した本質を抽出するプロセスに、「蒸留(distillation)」という語を当てる。モデルとは、蒸留された知識を言うそうな。今宵は、余計な知識を揮発させるために、熟成された蒸留酒をやらずにはいられない...

ソフトウェアの設計は、対象が目に見えないだけに、メタファ的な発想を要求してくる。いわば、概念と実体を結びつける空想力だ。リファクタリングやリポジトリ、あるいはレイヤ化アーキテクチャといった発想は、システムを理解する上で重要な概念となる。こうした思考法は、ソフトウェアに限らず、多くのシステム開発で参考にできるはずだ。現実に、システムを本当に理解している人は、そういるもんじゃない。技術屋の関心事は特定の技術に向けられ、営業屋は顧客の要求がすべてだと考え、お偉いさんは納期や政治的な事ばかりに気を配る。顧客だって提案に反応するだけで、本当に要求するべきものを知っているわけではあるまい。強烈な責任分解が悪しきシステムを生み出し、複雑なシステムほど手に負えなくなるのも道理である。
「大規模な構造を適用すべきなのは、モデルの開発に不自然な制約を強いることなく、システムを大幅に明確化する構造が見つけられた時だ。うまく合わない構造なら、ない方がましなのだから、包括的なものを目指すのではなく、出てきた問題を解決する最小限のものを見つけることが一番だ。"より少ないことは、より豊かなこと(Less is more)"なのだ。」

本書が提供してくれるものは、ソフトウェアの核心にある複雑さを相手取るための思考法である。それは、設計上の意思決定を行うフレームワークと、ドメイン設計について議論するための技術的な語彙であり、語彙の定義こそが要だ!ということを教えてくれる。つまり、顧客から開発者に至るまで対話できる共通ボキャブラリの構築である。なによりも強調していることは、チームをより効果的に導くこと、ビジネスエキスパートとユーザにとって意味ある設計に集中させること、そして、深いモデルとしなやかな設計を目指して試行錯誤の継続が重要だとしている。
ここには、エリックの経験則が綴られる。むかーしから蓄積されてきた愚痴が、つい爆発してしまうのは、それだけ現場の本音を物語っているからであろう。設計者が顧客を説得できないのは、システムのポリシー、ひいては哲学がないからに違いない。もっと言うなら語彙が乏しい。専門に閉じこもればシステムとしてのドメインが見えなくなる、高度な技術に凝り固まればユーザの気持ちが見えなくなる... とは、実に頭の痛い御指摘!こいつは、実践に概念を結びつけるための哲学書である。そして、ドメイン駆動設計には非常に高度な設計スキルを養う機会が溢れていることを教えてくれる。
尚、対象読者には、オブジェクト指向, UML, Javaなどの基本的な知識が必要としているが、プログラミングを趣味ぐらいにしか考えていないアル中ハイマーでも抵抗感がない。もっとも仕事も趣味の延長ぐらいにしか考えていないが...

1. ドメインとユビキタス言語
ところで、ドメインってなんだ?改めて突き付けられると、なかなか手強い用語であることに気づかされる。辞書を引くと、領域、範囲、分野、あるいは、境界や定義域といった意味を見つける。通信業界ではネット―ワックの管理単位とし、ディレクトリサービスでは共有範囲や利用者グループの範囲とする。ソフトウェア工学は仮想的な領域を扱うことが得意なだけに、用語の量や複雑さに圧倒される。活動や関心の範囲を抽象化し、実体を含む領域もあれば、実体を含まない概念だけの領域までも編み出しやがる。モデルは、この重荷と格闘するためのツールであり、シンプルに組み立てられた知識の表現形式である。したがって、ドメインとは、知識が厳密に構成され、効率的に抽象化された定義域とでもしておこうか。
自然言語も、人間のコミュニケーションツールとしてのドメイン固有言語と言えるかもしれない。あらゆる学問で情報交換を効率的に行うために専門用語が編み出されるが、これも同じようなものであろうか。そして、システムは言語である、とでもしておこうか。
それは、技術者に留まらず、ユーザを含めたシステムに携わるすべての連中とコミュニケーションできる手段となるべきもの。本書は「ユビキタス言語」と呼んでいる。ユビキタスとは、チームの至ることころに存在するという意味で使われている。
しかしながら、言語の柔軟性は想像以上に手強い。言語表現は、精神活動の投影でもあるのだから。例えば、「信用」という用語は、経済学のものと心理学のものとでは大きな隔たりがあるし、「客観」という用語は、数学のものと他の学問のものとでは度合いがまったく違う。客観性の強いはずの技術用語ですら微妙なニュアンスの違いを見せる。パッケージ、コンポーネント、インスタンス、エンティティなど、これらの用語は専門によって使い方が違ったり、企業組織や開発グループによっても微妙に解釈が違ったりする。オブジェクト指向を一つとっても捉え方は様々で、美しいモジュール性を励行したり、カプセル化や継承を強調したり、メソッド操作の一貫性を保ったりと。Wikipediaや用語辞典に頼り過ぎると、却って混乱することもある。
チームに浸透する微妙なニュアンスは、実践でしか育まれるものではない。最初の会議で、用語群の定義を大切にするマネージャを見つければ、それだけで信頼に値するだろう。プロジェクトマネージャとは、ある種のシナリオライターだと、おいらは考えている。その一方で、長嶋茂雄ばりの英語まじりで、何を言っているか分からないお偉いさんを見かけるけど...
どんなシステムを設計するにしても、その仕事に適した用語群が形成されるはずだ。言語とは、記号で記述するものだけでなく、構造図、振る舞い図、関連図といった視覚的に訴える手段も含めておこう。言語は、柔軟性こそ味方につけるべきである。プロジェクト内で用いられる言語が、設計の楽しさを醸し出し、我がチームの合言葉となることを願いたい...

2. レイヤ化アーキテクチャとドメイン層
本書は、システムアーキテクチャを四つの層に分けて分析することを推奨している。上位から、ユーザインターフェース層、アプリケーション層、ドメイン層、インフラストラクチャ層である。ユーザインターフェース層はユーザの要求や状態などを管理、アプリケーション層は処理やトランザクションなどの管理、インフラストラクチャ層は上位のレイヤを支える技術を提供する。
注目したいのは、ドメイン層を独立させていることだ。この層では、概念や規定の責務を負うという。いわば、設計思想を担う核心部分というわけだが、これを分離する感覚がとっつきにくい。そもそも思想や哲学というものは概念的なものであって、しかもシステム全体に浸透すべきものであり、すべてのレイヤを含んでいそうなもの。しかし、概念と手段を明確に区別することにも、一理ありそうだ。ドメイン層がアプリケーション層とインフラストラクチャ層の間に位置するのは、思想と実践の架け橋にでもなろうというのか。
ところで、古くから、MVCというデザインパターンがある。モデル、ビュー、コントローラで分離する設計概念である。ビューとコントロ―ラを結合させて、ドキュメント/ビュー構造にも馴染みがある。ドメイン層という発想は、こうした流れから派生しているようである。そうなると、ドメイン層は実装よりもドキュメントとの結びつきが強そうに映る。なるほど、ユビキタス言語との結びつきが鍵というわけか。
実際、多くのエンジニアが手段に目を奪われ、本質的な要因を理解しようとしない。コマンドの叩き方やコードの書き方を工夫すれば、目的に適った動きをしてくれるので、それで理解した気分になれる。コンピュータサイエンスの視点からモノを見るエンジニアは意外と少ない。そんな必要もないのかもしれんが。些細な問題を抱えても目先の対処で誤魔化すために、潜在的に大きな問題を抱えるケースも珍しくない。あるいは逆に、冗長的な方法論や過剰な機能を付加して、自ら墓穴を掘るケースもある。
しかしながら、モデリングパラダイムによく適合した実装技術を身に付けるとなると、かなり骨が折れる。手っ取り早く、オブジェクト指向あたりでええじゃん!と、つい考えてしまう。実際、言語システムを選択することで、設計思想の確立を肩代わりさせることもある。設計グループには文化があり、そこに実装に用いる言語がどっぷりと浸かっている。設計文化が、言語そのものとか、コーディングルールだと主張する人も珍しくない。そのために、どの言語システムを選ぶべきか、という論調になりがちである。
「モデルに貢献する技術的な人はだれでも、一定の時間をコードに触れることに費やさなければならない。プロジェクトで主に果たしている役割が何であれ、そうしなければならないのだ。コードの変更に対して責任を負う人はだれでも、コードを通してモデルを表現することを習得しなければならない。すべての開発者は、モデルに関する議論にいずれかの段階で参加して、ドメインエキスパートと話をしなければならない。その他の方法で寄与する人々は、ユビキタス言語を通じてモデルに対する考え方をダイナミックに交換する際に、コードに触れる人々を意識して巻き込まなければならない。」

3. リファクタリングとリポジトリ
ドメインモデルを習得するためには、リファクタリングが鍵になるという。戦略的設計には、より深い洞察へ向かうリファクタリングが必要だというわけだ。政治的に言えば、ビジョンってやつか。最初からシステムを理解している者など、そういるものではない。すべては試行錯誤によって導かれるであろう。システムってやつは、機能追加や修正にともなうバージョンアップを繰り返すうちに、いつのまにか設計思想を見失って硬直化し、やがて過去の遺物と化す。
リファクタリングの対象は、モジュールそのものに向かいやすく、設計思想といった上流工程に向かうことはあまりない。インターフェースを保持しながら、構成要素の中身を再検討することはよくやるが、一度決定した全体構成を見直すことをあまりやらない。変更リスクが大きいからだ。
しかし、ドメインレベルで思考することによって、システムそのものが生き物のように進化するという。それは、構成の分離と統合、用語の定義といった様々な境界を明確にしながら、さらに再定義すること、そして、システムに柔軟性を持たせると同時に、異質な設計の紛れ込む余地を許さないことを目的とする。ひとことで言えば、アジャイルに、PDCA(Plan - Do - Check - Act)を回転させるといったところであろうか。
また、リポジトリのテクニックが重要だとしている。データベースへの問い合わせは、過去を遡る手段となる。そして、データベースの構造、すなわちデータ構造そのものが、ドメイン設計にとって根幹となるはずだ。各メソッドのデータ構造へのアクセス方法が、一貫性を保つルールを自然に育むだろう。リファクタリングの意義は、完璧な設計などありえないというコア思想を見直す習慣を身に付けることになる。その習慣が、技術と品質の妥協を許さない技術者魂を呼び起こすであろう。最終的にシステムは、ユーザにとって役立つものでなければ意味がないが、その前にエンジニアにとっても役立つものとしたい。コードの保守は、後々重要な知識の蓄積となって返ってくる。モデルとは、システムの物語を伝えるためのものなのかもしれん。
「深いモデルは、ドメインエキスパートの主要な関心事と、それに最も深く関連した知識に関する明快な表現を提供するが、一方で、ドメインの表面的な側面は捨て去るのだ。」

4. 副作用の宿命
モジュール化によって、様々な副作用の余地を残すのは危険であろう。関数の設計であれば、副作用のないことを期待するが、完全に副作用を排除することも難しいので、どのような作用が生じるか明示しておく必要がある。ライブラリの揃える関数群の引数や戻り値の一貫性や、操作性の一貫性が、他のモジュールへの影響を小さくする。あるモジュールを使用する場合、その実装について悩まされ、コードを確認しなければならないとすれば、カプセル化の価値は失われる。設計思想の違うモジュールの結合によって構成されたブラックボックスは、深刻な問題を抱えている可能性が高い。強烈なものになると、「解析済みの問題」と称して、これらを仕様書に羅列したものを見たことがある。10項目ほどの。これを使えば開発期間が短縮できると、意気込んだお偉いさんとセットで。解析済みってどういう意味かは知らんが、問題を修正してから持ってこいよ!それとも修正できないほど深刻ってか?幸か不幸か、この手の直感は外れたことがない。意図を明確にしておけば、インターフェース仕様が適さないことは明白になるはず。にもかかわらず、政治的な意図で工程が短縮できるとすれば、設計とはなんなんだ?技術とはなんなんだ?おっと、愚痴が加速する!
設計思想の一貫性を保つことは、システムが複雑になるほど不可能なほど難しい。クックブックのようなルールで対処できるものではない。やむを得ず矛盾を許す箇所も生じるだろう。どんな規則にも、例外が生じることは覚悟しておいた方がいい。それでもなお一貫性を保とうとする努力を怠ることはできない。それが、エンジニアの宿命なのかもしれん。物理学者が不確定性原理に、数学者が不完全性定理に、哲学者が二律背反に立ち向かうように...

5. 腐敗防止層と例外処理
ドメイン層とは、ちと違うが、概念を独立させるという意味でイメージしやすい事例を紹介してくれる。「腐敗防止層」とは、なかなか興味深いネーミングだ。究極の例外処理と解するのは、大袈裟であろうか...
どんなに優れたシステムでも、数年後には腐敗する。これは自然法則と思うぐらいで丁度いい。そこで、腐敗の傾向をモデリングできるとありがたい。腐敗防止層のインターフェースとは、どのようなものであろうか?もしかすると、政治色の強いお偉いさんの思考にも、なんらかの傾向があるのだろう。整合性のための自動チェック機構のようなものがモデリングできれば、政治屋を黙らせることができるだろうか。
古代中国は、近隣の遊牧騎馬民族の襲撃から国境を守るために万里の長城を築いた。だが、誰も通れない防壁だったわけではなく、規制しながらも交易は認めたという。大軍の侵略に対して頑強な障害物であればよかったのだ。なるほど、きちんと境界条件が定義されていることが重要だ!という教訓か...

2014-11-02

"人月の神話" Frederick P. Brooks, Jr. 著

コンピューティングの世界は日進月歩。チューリングマシンが考案されて一世紀に満たず、いまだ過渡期にあるのだろう。ここに、出版後20年経っても色褪せない書がある。プロジェクトの事情はあまり変わっていないようだ...
「人月」という用語は、開発、設計、製造などあらゆる生産工程において用いられる。それは、人と月の積で表される工数の単位で、二つの項が互いに交換できるという意味がある。人と月が交換可能となるのは、作業者たちの間でコミュニケーションを図らなくても仕事が分担できる場合や、機械的な作業に徹することができる場合。エンジニアのスキルには個人差があり、時には十倍もの能力差を見せる。
にもかかわらず、人月の幻想に憑かれたお偉いさんは、労力と進捗を混同した見積もり計算を続ける。マイルストーンを美しく見せることが管理者の仕事と言わんばかりに... 表面的な技術を寄せ集め、結合すればいいという安直な考えに走れば、却って現場を混乱させ、お粗末な結果を招くことは何度も経験してきたはずなのに... ゴールとスケジュールが予算に適ったものなど見たことがない。そして、ブルックスの法則がこれだ。
「遅れているソフトウェアプロジェクトへの要員追加は、さらにプロジェクトを遅らせるだけだ!」
尚、著者フレデリック・ブルックスは、1999年チューリング賞を受賞し、IBM System/360 の父としても知られる。再読に際して、20周年記念増訂版を手にする...

「銀の弾などない!」という主張は、なかなか挑発的である。ムーアの法則に従って、メモリ容量やCPU性能など、ハードウェアリソースが飛躍的に進化する中、ソフトウェアの生産性において格段の向上をもたらすプログラミング技法は、ここ10年登場しない!と断言しているのだ。
確かに、構造化技法やオブジェクト指向といったパラダイム変化を見せつつも、これが最高というものがなかなか見当たらない。複合的に技法を導入し、しかもプログラマのセンスに委ねられているのが現実である。その状況は、多様化するプログラミング言語に見てとれる。関数型プログラミング、オブジェクト指向プログラミング、ジェネリックプログラミング...  あるいは、マルチパラダイムプログラミングなどなど。言語に愛着を持った連中が、それぞれにこれが一番だと主張する様は宗教論争にも映る。
本書は、そうした技法を度外視して、プロジェクトチームの在り方や管理手法の側から問うている。その前提に本質性と偶有性とを混同しないこととし、概念構造体やソフトウェア実体の側面から議論を展開する。
「すべてのソフトウェア構築には、本質的作業として抽象的なソフトウェア実体を構成する複雑な概念構造体を作り上げること、および、偶有的作業としてそうした抽象的実存をプログラミング言語で表現し、それをメモリスペースとスピードの制約内で機械言語に写像することが含まれている。」
本質性と偶有性とは、アリストテレスを彷彿させる概念だ。ここでの偶有性には、偶然発生するという意味ではなく、副次的や付随という意味が込められているようだが、本質に対するその場しのぎ!という意味も感じられる。そして、最も重要な事柄は、「コンセプトの完全性」「アーキテクトの資質」であるとしている。ハードウェアリソースの奴隷となる前に、ソフトウェアとして見失ってはならないものがあろう。これはソフトウェア論ではない。ある種の組織論である。

手段に目を奪われがちなのは、なにもソフトウェアに限ったことではない。おいらはプログラマではないが、ここに語られるチームの鉄則は他の業界にも十分適用できるだろう。ソフトウェアの構築には、強い変化を意識させられる。自分自身を変えよ!と要請してくるほどの。プロジェクトマネジメントは極めて社会学的で心理学的な分野であるからして、ソフトウェア手法の柔軟性の高さは、不変な精神活動において大いに参考になるはずだ。
「ソフトウェアエンジニアリングというタールの沼は、これから当分の間厄介なままだろう。人間が、手の届く範囲の、あるいはぎりぎりで届かないところにあるシステムを、ずっと試していくことは容易に想像がつく。おそらくソフトウェアシステムは、人間の作り出したもののうちで最も複雑なものだろう。この複雑な作品は私たちに多くのことを要求している。この分野を引き続き展開させていくこと、より大きな単位に組み立てることを学ぶこと、新しいツールを最大限使用すること、正当性が立証されたエンジニアリング管理方法に最大限順応すること、常識から自由になること、それに誤りを犯しがちな点と限界を気づかせてくれる神の与えた謙遜の心を。」

1. コンセプトの完全性
「コンセプトの完全性こそ、システムデザインにおいて最も重要な考慮点だと言いたい。一つの設計思想を反映していれば、統一性のない機能や改善点など省いたシステムの方が、優れていてもそれぞれ独立していて調和のとれていないアイデアがいっぱいのシステムよりましである。」
ソフトウェアの目的の一つは、システムを使いやすくすること。使いやすいとは、機能を使うためにマニュアルを読んだり、知識を覚えたり、調べたりする労力を省いてくれることである。そのために様々な言語に対応したり豊富な機能を備えるわけだが、複雑な処理をシステムに肩代わりさせるのに、一切のマニュアルなし!というわけにもいくまい。あるいは、使いやすいく簡単というだけでも、豊富な機能というだけでも、良いデザインとは言えまい。
「システムのアーキテクチャとは、ユーザーインターフェースについての完全かつ詳細な仕様書であると考える。それは、コンピュータにとってはプログラミングマニュアルであり、コンパイラにとっては言語マニュアルである。制御プログラムにとっては、機能を呼び出すのに使用される言語のマニュアルである。そして、システム全体にとっては、利用者が自分の仕事全部をこなすために調べなければならないマニュアルを集めたものになる。」
古くから、機能の豊富さこそが最高のものとされる傾向がある。ソフトウェアの軽快さを犠牲にしてまで、使いもしない、見向きもされない機能が装備されるとは、これいかに?セカンドシステム症候群とは、まさに多機能主義に陥って、最初の哲学を見失った姿だ。哲学のない技術は危険であろう。とはいえ、システム設計者にとって、システムの一貫性を保つことほど難しいことはない...

2. アーキテクトの資質
コンセプトの完全性とは、一つの原理を反映することであり、ある種の芸術性を具えている。鑑賞者や批判者の意見をすべて取り入れては、芸術の高邁さは失われる。芸術とは、啓発された利己主義者のものだ。そこで、一つのシステムは、一つの芸術作品として捉えたい。
「制約が芸術のためになると納得させるような美術や工芸品の例はたくさんある。芸術家の格言に曰く、"形式は自由な創造の源だ"。最悪の建築物は、用途に対してコストを掛け過ぎたものだ。バッハの創造的な作品には、定められた様式のカンタータを毎週作り出さなければならないという要請に押しつぶされたところなど微塵も見られない。」
芸術作品となると、少数のアーキテクトによってアイデアが創出されることになり、プロジェクトマネージャの権限は絶大となろう。プロジェクトチームは君主制になりがちだ。とはいえ、アーキテクトが創造的楽しみを独占し、実装者の創意工夫を締め出すのでは、単なる作業者の集団に成り下がる。インプリ屋に成り下がって、ただ仕様書に従うだけではチームの活力が失われ、ましてや予算とスケジュールに押し潰されれば、命令に対して感情的にもなる。やはりチームには民主制の余地を残したい。メンバーが自由に発言し、それを芸術の域にまとめ上げるのが、プロマネの仕事としておこうか。
実際、好転したプロジェクトには、あらゆる意思決定の権限を持つマネージャが、穏やかな独裁者として振る舞っているものである。メンバーに高位な意思を伝授し、相互に切磋琢磨し、技術に対して積極的な関心を持つ風潮を大切にしたい。とはいえ、メンバーに作る喜びを与え続けることほど、難しいものはないのだけど...

3. 生産性 vs. 品質... 本当に銀の弾はないのか?
銀の弾などない!とは、憂鬱なテーマでもある。間接的にゲーデルの不完全性定理を語っているような。ただ、これを悲観主義とするのはあんまりだ。楽観主義では何も解決できないし、最終的に勝利するのは現実主義であろう。まったく市場原理と似ている。ブルックスは、プログラマの楽観主義は職業病だと言っている。
「懐疑主義は楽観主義とは違う。輝かしい進展は見えないが、そう決めてかかることはソフトウェアの本質から離れている。実際のところ多くの頼もしい新機軸が着々と進められている。それらを開発、普及、利用するという厳しいが一環した努力こそ、飛躍的な改善をもたらすはずだ。王道はない。しかし、道はある。」
あれだけもてはやされたオブジェクト指向は、銀の弾になりえたであろうか?このパラダイム変革には、様々な見解がある。モジュール性と美しいインターフェースを励行することや、カプセル化を強調すること、あるいは、継承を強調すること。別の見方では、強い抽象データ型を強調し、特定のデータ型には特別な操作によってのみ扱うことが保証されるべき... などなど。様々な特徴を有するが故に、コードを書く人の必要と好みに応じて取り込まれる。ちなみに、ある組織では、継承禁止令!があると聞く。権限者が理解できないから、嫌いだから、禁止ってのもどうかと思うが...
コーディングルールをあまり厳密にすると、思考の柔軟性が失わる。それよりも、変わったコードを書く人には、コードレビューを開催してもらうことだ。手段ではなく、哲学の方を共有すべきであろう。
カプセル化は大好きな概念だが、見知らぬ人が設計したものをブラックボックスで流用するとなると、ちと抵抗がある。ソフトウェアの再利用は、生産性と品質の双方において重要な役割を果たすだけに、お偉いさんは工程が短縮できると信じこむ。そして、中身の検討を無視し、もはや何を設計しているのかも分からなくなる。
「右手がやっていることを左手が知らないせいで、スケジュールの惨憺たる状態だとか、機能がうまく合っていないとか、システムのバグといったことが一度に生じる。... チームは憶測でばらばらになっていく。」
ところで、ソフトウェア業界は、生産性と品質のどちらに目を向けるべきであろうか?現代の風潮は、品質よりも利便性が圧倒的に優勢にあろうか。実際、Webサービスには、些細な不具合が何年も放置されたまま。無料だから仕方がないと諦めているユーザも少なくあるまい。実用面で問題にならないと言えばそうなのだが...
しかしながら、品質を着実に確保していかなければ、そこから派生する設計までも爆弾を抱えることになる。品質はコストに影響を与えるために、お偉方は目を瞑りたいようだが、品質を重んじなけば、自己の進歩も見えてこない。多くのプロマネは、系統だった品質管理の欠如とスケジュールの破綻に相関関係があることを経験的に知っているだろう。
確かに、完全な品質を実現することは不可能だ!ただ、人類の進化論には、突然変異という離散的な現象がある。それは、継続されたな意志によって生じるエネルギーの蓄積からもたらされる。つまり、こだわりってやつよ。楽観主義から意志エネルギーの蓄積は望めまい。
ソフトウェアの歴史は、いまだ過渡期にあり、一概に銀の弾はない!とも言い切れまい。いや、人類の歴史そのものが、いまだ過渡期にあるのかもしれん。そういえば、ケイパーズ・ジョーンズ氏は日本講演で、ソフトウェア業界には大事なものが欠けていると語った。本書にも、彼の言葉が紹介される。
「品質にこそ焦点を絞るべきなのであり、生産性は後からついてくる。」

4. ドキュメントの試行錯誤
自然言語は、定義のための厳密性を欠く。そこで、現実的な手段として形式的定義といった表記を用いる。プログラミングとは、まさに形式的な記述の積み重ねだ。厳密な記述は、分かりやすい記述とは性質が異なる。それ故に、マニュアルが曖昧になることもしばしば。法律の条文が極めて形式的なのは、厳密性を求めるからである。求めたからといって、得られるとは限らんが...

「簡潔に言うっていうのはすごくいい。自分が今どこにいるか知っていようが知っていまいが。」...サミュエル・バトラー

かつて、コードを説明する手段としてフローチャートが過大評価された。今では、フローチャートという言葉すらあまり聞かない。UMLのアクティビティ図のような派生的な技法は見かけるものの。コードを読む手がかりとしては、むしろテーブルやデータ構造、あるいはモジュール定義や構造記述の方が重宝される。
プログラミング言語が進化すれば、ドキュメントの書き方や用い方も変化するだろう。形式化と柔軟性の按配は、いつの時代でも、どんな分野にも、つきまとう問題である。いつも言っていることだが、我がチームではドキュメントの書き方を規定しない。分かりやすく、好きなように、思ったように書くようにと... 参考にするのはいいが、少しは独自性を見せようと... 芸術性とは主観性に支配されるもの、存分に精神を解放しようではないかと...
「表現はプログラミングの本質である。」