2008-02-24

"反転 闇社会の守護神と呼ばれて" 田中森一 著

アル中ハイマーは特捜と言えば国策捜査を思い出す。その手の本の中毒なのかもしれない。ただ、本書も、検察の基本方針はそもそも国策であると断言しているからおもろい。
著者は、元特捜部検事で弁護士に転向した、いわゆるヤメ検弁護士である。極貧家庭で育ちバブル時代を生きた著者は、特捜時代にはエース検事と呼ばれ、数々の事件で政界の汚職を暴こうとした。しかし、上層部の圧力で潰され検事人生に虚しさを感じ弁護士に転向する。その手腕を買って当然のごとく裏社会の実力者が近づく。そして、7億円のヘリコプターを購入するなど豪華な生活を手にした。しかし、順風満帆の中、古巣の特捜部に目をつけられ懲役三年の実刑を受ける。
本書は、著者の人生観とバブル時代を回想した告白本である。そこには、検察内部の暴露、国会議員、官僚、ヤクザ、地上げ屋、芸能人などが実名で登場するからおもろい。結構分厚く文字もぎっしり詰まっているが、文章のリズムが合うのか?つい一気に読んでしまう。一流の検事らしく論理思考に長けているかと思えば、人情溢れる話も多い。

1. 赤レンガ派と現場捜査派
検事の種類には、赤レンガ派と現場捜査派の二種類があるという。赤レンガ派とは、法務省旧舘の赤レンガの建物を指し、法務省の勤務経験が長い法務官僚のことである。東大法学部卒のエリート官僚や閨閥を後ろ盾にしている検事がこれであり出世が約束されている。赤レンガ派は事情聴取ひとつとっても優遇され、参考人程度の取り調べしかやらない、というより、それしかできないのが大半だという。にも関わらず最近の検察トップはこの赤レンガ派の連中で占めらる傾向にあるらしい。かたや現場捜査派が検事総長まで昇り詰めるのは、ごく稀ではあるが中にはいるようだ。特捜部は憧れの部署であり入るのも難しい。多くの現場捜査派のたたき上げ検事は、せいぜい地検の検事正どまりであり、その前に退官するケースも多い。こういう人達が、刑事事件に強いとされるヤメ検弁護士となるようだ。多くの現場捜査検事は、検察庁の徒弟制度の壁に悩むという。検察キャリアと呼ばれる人達は、クビをかけた博打のような取り調べはやらない。あえて危険を冒してまで供述を取ろうとはしない。失敗さえしなければ自然と出世できるからである。そこが現場捜査派で、たたき上げの人間とは違うところだと語る。役所は複雑に利害が絡み合っているため、それが捜査の弊害になることも少なくないことは想像に易い。省庁は予算を握っているところが圧倒的に強い。旧大蔵省や財務省が中央官庁の最高位に位置し大きな顔をする。検察庁も大蔵官僚には弱くなかなか捜査に踏み込めない。同様に大阪府警の予算を握っている大阪府庁はなかなか摘発できない。そこで大阪地検がその任を担う。地方の検察庁も似たような構図で成り立っているようだ。検察庁と言っても、所詮行政の一機関であり、捜査では縦割りの弊害に苦しむと語られる。

2. 商人の街と政治の街
警視庁は天国、大阪府警は地獄だと語る。大阪府警は職人かたぎの警察官が多く、警視庁はスマート。大阪府警は、ある程度容疑を自白させてから検察庁に預ける。この良し悪しはあるだろうが、これが行き過ぎた取り調べとなり暴力に発展することもある。大阪では、土地柄から経済中心で社会が動く。そこには役所や暴力団などが複雑に絡む。人種問題もあり、同和団体、在日韓国人、朝鮮人も多く、その影響力も強い。大阪は、犯罪頻度や悪質度からしてもタフな土地柄のようだ。大阪府警の幹部達はこんな愚痴をこぼす。
「ヤクザや在日の連中は、まだ片言でも日本語が喋れるだけましや。同和の連中は日本語さえ通用せえへんのやから。ただ暴れるだけや!」
実際、同和団体の若者が糾弾と称して税務署に大勢押しかけ、机を引っくり返したり、職員の胸ぐらをつかんだりといった乱暴が少なくないらしい。人種差別と称してやりたい放題で、これにマスコミも便乗するから被害者意識は助長される。そう言えば、某外国人ジャーナリストの著書で同和問題を楯にした国会議員を列挙したものを思い出す。この分野はタブー化されている。おいらも、出身地からして同和教育を受けた。部落出身者は悲惨な人生を送っている。ろくな教育も受けていないので、社会からやっかいな仕事を押し付けられる。仕方なくヤクザになる者も少なくない。いつの時代も弱い者が損をする。彼らを利用した政治活動などは卑劣極まりない。
一方、東京地検特捜部では、尋問もしていない上役の検事が事実関係に手を加えることもあるという。よく検事調書は作文であると言われる。最初から筋書きを組み立てて、いざ政界に踏み込むとなると寸止めで解決することになる。この点では、大阪流のたたき上げ検事は慣習に従わないプライドがあるようだ。しかし、所詮一検事の力ではどうにもならない。いよいよ政界へ喰い込めると思った時「天の声が下る」。これがエリートの生き方であると語られる。どこにでも見えない敵が潜む。それは内なる敵であり出世欲により支配される。著者は、単身赴任中に、浮気してるという嫌がさせの電話を奥さんにされたという。こうした話は、外務省の暴露本でも良く耳にする。高級官僚は精神的には暇なのかもしれない。エリートほど、たわいも無いことで揉めることが好きなようだ。

3. ヤクザの習性
ヤクザは所詮ヤクザであると語られる。物事を強引に押し通し世間から忌み嫌われる。しかし、物事の道理が本当にわかっていたら、ヤクザなんかにはならない。物心ついた時には、父親に博打場へ連れられる。そうやって育った人間は心底博打が悪いとは思わない。極貧の家に育ち、子供の頃からカツアゲで自活していた人間は、恐喝、タカリは生きる術に過ぎない。子供の頃から喧嘩に明け暮れた人間は、暴力を悪だとは思わない。仲間がやられれば復讐するのが道義である。世間とは、ものさしが違うだけのことである。育った環境から既に、ヤクザ稼業として食っていくしか考えられない人間になっている。言葉は悪いが、生まれながらの犯罪者という人達が現実にいる。犯罪者には若い頃から苦労した者も多いようだ。その結果、欲望をむき出しのケダモノや極悪非道になる者もいれば、苦労の挙句、世間よりもはるかに人間的に洗練される者もいる。著者が検事をやっている時は、徹底的に悪を叩きのめすことだけ考えていたようだが、事件の原因を考えると、根っ子の弱い人間ほど犯罪に走ることに、虚しさを感じている様が伝わる。国会議員にも性質が悪い人間も少なくない。ちやほやされる分ある意味でヤクザより性質が悪い。総理の親戚の悪事を揉み消すための姑息な手段や、覚醒剤中毒の治療までやったという。よくテレビ出演し大臣にもなった人間が借金から逃げ回り、土下座して回るほどのお調子者で、挙句の果てに逮捕される話などは笑い話でしかない。
博打といえば、おいらの親父は博打好きである。競輪、競馬、オートにボート。パチンコはプロ級と自負。運転免許を持たない親父は、こともあろうにおふくろにボート場まで運転させ、駐車場で待たせていたこともあった。幼少のおいらは、その駐車場の隅から、微かに見えるボートを遠目で覗いていた記憶がある。サラ金に手を出すわ。消費者金融と称するようになってカードローンもお得意様。外面が良いだけに親戚の受けもいいから余計に頭にくる。その反動でおいらは無愛想で変わり者扱いだ。里帰りする度に親父と衝突したものだ。親父は、おいらをケチで金の亡者と思っている。どっちが金の亡者か?頭がおかしくなる。両親が離婚しないでいるのは不思議でしょうがない。夫婦というのは奥が深いもののようだ。ただ、おふくろは、今も当時の証文を内緒で大事に保管している。お陰で、おいらは麻雀というゲームは好きだが、ギャンブルは一切やらない。しかし、DNAは恐ろしいもので誤魔化せない。その分人生の博打をやっている。

4. バブル時代
バブルの代表格は株式投資であろう。著者は、検察時代から投資の勉強で株にも手を出したらしい。なんとなく博打ともイカサマともつかない世界のように思えたという。女遊びで高価な靴や時計のプレゼントに消えた。駆け出しの女優など、トンマな足長おじさんをやっていたという。株式投資でも凄腕のようだ。おいらも経済学を勉強のために株式投資をしているが、なにしろスケールが違う。儲けた額も、損した額も身を滅ぼすほどである。こういう話を聞くと、おいらもくだらない記憶が蘇る。かつて、ある女性から「ハイヒールを忘れたから買っといて!」というメールを受けた。さっそく、おいらは夜の社交場近くのヒール店に一人で恥ずかしそうに入る。どれを選んでよいかわからないので悩んでいると店員が近づく。「これなど、いかがでしょう!今人気がありますよ!」おいらは、その場を逃げだしたかったが、いちおう色の好みだけは伝える。そして、「すぐに使うから包まなくていいよ!」って言うと、店員から「お客さんが履かれるんですか?」と止めを刺される。ちなみに、おいらに女装の趣味はない。

ここで、印象の残った文章があったので、そのまま引用する。
「人間社会には汚い世界がある。必然的にドブを生む。犯罪者は、そうしたドブのエキスを吸いながら罪を犯す。検事を含め法曹界におけるわれわれの仕事は、所詮ドブ掃除に過ぎない。正義を振り立て、人をリードする仕事ではない。人間のやったことを後始末するだけだ。それも人間のいちばん汚い部分の後始末である。検事や弁護士のバッチを光らせて傲慢な顔で闊歩するほどの仕事ではない。」
著者は犯罪者の複雑な家庭や貧乏に喘いだ環境から、ある程度擁護した優しさを持っているようだ。ヤクザの親分が半端な苦労をしていないことや、在日韓国人が差別を受けて悲惨な状況から這い上がってきた人生を擁護している。そして、著者自身が、あまりにも社会環境に同情しすぎたと語る。ヤクザの親分がいくら人間的に洗練されているからといって、その子分が極悪非道では擁護できるはずもない。一人の人間をどの部分に光を当てるかで人の評価も変わってくる。本書は、闇の暴露本に留まらず、説得力ある人生観を披露している。おいらも自分の生立ちを、このぐらいの文章で綴れると格好がつくのだが、とても太刀打ちできない。せいぜい酒を飲んでブチブチと愚痴を言いながらグレるのが関の山である。

2008-02-17

"「最強情報戦略国家」の誕生" 落合信彦 著

本屋を放浪していると、ある本に目が留まった。多分売れ筋なのだろう。なかなか陳列が絶妙である。アル中ハイマーは商売戦略の罠に嵌りやすい。著者の本は、昔、何冊か読んだ記憶がある。懐かしさにも誘われて、なんとなくハードボイルドな気分で立ち読みするのである。しばらくすると、カウンターから鋭い視線を感じる。なかなか可愛いお姉さんだ。どうやらおいらに気があるらしい。ドスの利いた声で「この本を頼む!」と話しかける。お姉さんは決まりきった営業文句であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

スパイ天国日本。情報漏洩で同盟国に信用すらされない日本。伝統的に情報音痴な日本。こんな国に自立を求めるのは無理な話かもしれない。東西冷戦が終結し平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、環境問題、資源帝国主義、拉致、核拡散などなど危険な時代に突入する。各国は国家存亡のため、諜報活動をますます強化する。こうした諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。本書は、厳しいこの時代で先進国の一角を担うには、まともな諜報機関を設置する必要があると訴える。では、どんな組織が日本に相応しいだろうか?四代諜報機関、モサド、CIA、SIS(MI6)、KGBを元に考察している。

1. インテリジェンスなき国家
日本でも諜報機関と称される組織がいくつかある。ただ、内閣情報調査室、公安調査庁など、スケールが小さすぎるという。活動内容も国内中心で、世界を網羅する諜報機関というよりは、保安機関というべきだろう。警視庁公安部にしても保安機関である。そうなると外務省が諜報活動の中心となる。外務省にも国際情報統括官組織なるものがあるがほとんど機能していないという。もはや日本には、国家にアンテナがないのか。外交官、自衛官、また、海外で活躍する民間企業にしても、外国からしかけられるトラップに嵌る。日米自動車問題で、日本の通産省や運輸省、自動車業界のリーダ達の電話を盗聴するなどは当然のように行われる。しかし、あまりに日本の政治家の行動に次元の低さを感じると語る。優秀な諜報機関が出現するのは、歴史的にみても危機に直面している国家であろう。16世紀のイギリスから始まり、現在ではイスラエルのモサドのように。日本には卓越した諜報機関がないにも関わらず、世界第二位までの経済大国になった。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長した。これはなぜか?民間企業そのものが情報収集してきた結果であろう。日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしていた。少なくともいままでは、外務省の情報よりも、商社マンの情報の方がはるかに価値のあるものだった。それは、企業としての生存競争の中で危機意識を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけのものでやってきた。情報を同盟国に頼ったところで、日本にとって重要事項を隠される可能性だってある。所詮、各国は自国の国益しか考えない。インテリジェンスなき国家はインテリジェンスな動きができない。諜報界でよく言われる言葉にこんなものがあるらしい。「友好的な国はある。しかし友好的な諜報機関はない」

2. 日本の国家諜報機関(NIA)の青写真
もし日本に総合諜報機関を作るとしたら、プロトタイプとして何を参考にしたらいいだろうか?本書は四代諜報機関からヒントを探る。CIAは、その動き一つで世界の運命が変わると言っても過言ではない。ターゲットのレベルが違う。日本がここまで責任を負うことはないだろう。日本は優秀な保安機関を持っている。これを基盤として権限と管轄を広げれば効率が良い。問題は対外諜報網である。SISをプロトタイプにすべきだという意見も多くあるようだ。ただ、SISは外務省管轄である。長官の任命権も外務大臣に与えられる。本書は、日本で外務省管轄にするには問題があると指摘する。省組織が脆弱で、しかもつまらない派閥ごっこがのさばる。内部監察も確立されていない。この点は、佐藤優氏の著作を読んでも伝わってくる。本書は、政府内での位置付けはモサドのように、完全独立機関とするのが良いと提案する。政治色が一切あってはならない。首相直轄とする。もちろん、長官は政治家であってはならない。さしあたっては、自衛隊か公安調査庁、または内閣情報調査室出身者とする。構造的には、SISのように、上層部をできるだけスリムにして、重要な現場層を厚くすると良いと語る。上層部が少ないとマネジメントは大変だが、無駄な脂肪がなく効率が良い。また、会議をする必要もない。官庁でも企業でも、会議が多いところほどエネルギッシュさやバイタリティに欠ける。会議が多いということは、個人のイニシアティブが少ないということであり、悪く言えば誰も責任を取らない。会議出席者全員の責任となり誰も傷つかないのは日本の体質である。諜報機関にそんな余裕はない。トップから個人に至るまで、個人のイニシアティブで行動しなければならない。
本書は、全組織図を具体的に提示する。人数はざっと6000人と概算している。もちろん人員は極秘であるので、公務員名簿に実名で載ることもない。まあ、政府省庁が多くの無駄な金を使っていると思えば、このぐらいの組織は必要なのだろう。当然、機密費扱いでマスコミの攻撃を受けるだろう。どこぞの機密費問題と一緒にされても困るのだが。そもそも、日本にはそこまで危機が迫っているわけではないので、モサドのように首相命令で誰でも殺すというようなことは必要ない。地味な情報収集に徹すればいいはずである。優秀な人材による情報収集力はモサドに見習うべきであると語られる。まあ、CIAのような卓越したハイテクに依存するのも問題があるのかもしれない。

3. 日本で活躍する諜報員
かつて自民党副総裁だったある人物は1990年北朝鮮を訪問した時、北朝鮮のエージェント・オブ・インフルエンスであることを自ら暴露してしまった。金日成に彼の家系は北朝鮮に繋がっていると言われて感激のあまり涙を流したという。国税局の幹部の話によると、その後脱税で捕まった時、彼の家には刻印のない金の延べ棒が発見されたらしい。刻印なしの金の延べ棒を製造しているのは世界でも北朝鮮だけである。朝鮮総連の元幹部が外国人登録違反で摘発された時も、彼は警視庁に圧力をかけた。また、朝鮮総連へ警視庁が不当な圧力をかけたと抗議団を結成した時、当時民社党の国会議員二人が一緒に行動していたという。こんな節操のない輩が日本の政治をやっているのも嘆かわしい。愛人と称して外国人エージェントを囲っている政治家もいるに違いない。これでは、エージェント・オブ・インフルエンスのオンパレードである。どこの国でも国家反逆罪で逮捕されるが、日本では保安機関が動くこともない。主権が侵されることもOK。拉致もOK。更にリベラルと自認するマスコミは社説でバックアップする。全く自分では意識していなくても、ごく自然のうちにある国のエージェントになってしまうケースも多い。一部の政治家、マスコミ、文化人や学者、政党、日教組などなど。

4. 報告書「JAPAN2000」
1991年アメリカは「JAPAN2000」で日本研究の報告書をまとめている。そこには、Defcon One(軍事警戒レベル1)と最高レベルの脅威を示しているという。当時、ソ連は崩壊への道を辿っていた。強敵ソ連の脅威が無くなれば、CIAの存在価値も薄くなる。もはや軍事レベルで対抗できる国がないと見るや、日本やドイツをターゲットに置く。ドイツは東西統一で混乱状態にある。よって、日本が狙われる。人種的にも狙いやすいのだろう。その方法は、日本人が金の亡者であり、利益至上主義であると宣伝する。そして、証券業界、ゼネコンの腐敗をスキャンダル化した。この分野は旧体質でグローバル化に合わない日本の弱点でもある。更に、金融業界の不良債権問題を顕著化し日本経済を叩く。これは全てCIAの策謀であるという。9.11事件や、小泉&ブッシュ関係から、一時的にバッシングを止めたが、2015年には日本は先進国の地位から滑り落ちると予告した報告書をCIAが2000年に作成した。ただ、これは予告ではない。占い師があなたの命はあと何年ですと言えば、殺せば当たるのだ。本書は、CIAが予測したことは面子をかけてでも、しかけてくるはずだと警告している。また、「JAPAN2000」で奇怪なことがある。最大の欠点である諜報機関が存在しないことには一切触れていない。スパイの存在さえ認めないことや、先進国の中で唯一機密漏洩法がないことにも触れない。信用できない国で重要な情報をシェアできないことも指摘していない。なぜだろう?日本に本物の諜報機関が設立されると困るからであると語る。現状のアメリカによる情報依存を続けてほしいのだ。アメリカにとって都合の良い情報で日本をコントロールしておきたいのである。日本が経済大国になっただけでも脅威なのに、更に諜報大国にでもなられたらやっかいだろう。経済と外交を制するものが世界を制する。これをCIAが一番良く知っている。もし、まともな諜報機関があれば拉致問題もここまでこじれる前に防衛できたであろう。どの国も存亡のために必至になる。その生存を保障するのが諜報力である。日本は、1985年にスパイ防止法案を、マスコミや野党の攻撃で廃案となった。相変わらず国家休業状態であると語られる。

5. 情報音痴
日本人ほど情報という言葉を使う人種はいないという。情報というものの本当の意味を分かっている人間はあまり口にしないのかもしれない。自衛隊にしても、政府にしても脇の甘さは半端ではないと語る。明日のためのノーガード戦法ということか?そしてパンチドランカーとなる。もっと恐ろしいのは、中国や北朝鮮に簡単に、自衛官や民間企業あるいは一般市民が巻き込まれるケースが多いことである。敵方エージェントを引き抜く手法はMICE、M(金)、I(イデオロギー)、C(コンプロマイズ)、E(エゴ)であるという。金で釣ったり、濡れ場を隠し撮りされて脅したり、日本人が良く行くカラオケバーなどで巧みに罠をしかける。愛想良く笑顔で接待され、持ち上げられることに日本人は弱い。顔が利くなどと勘違いして情報を落として回る。女性の前では、名刺やメモで連絡先を置いていってくれる。これは、アル中ハイマーの行動パターンそのものである。2004年の上海日本領事館の電信員の自殺や自衛隊員事件で、カラオケバーは敬遠しているはずだと思ったら、そうでもないという。懲りない連中であると語られるが耳が痛い。
「普通の悪党でも人を殺すことはできる。しかし、殺しを自殺と見せかけるには諜報機関の才能を必要とする。」
「普通のアル中でも酔っ払うことはできる。しかし、アル中ハイマーにああ気持ちええ!と言わせるには、凄腕のバーテンダーの才能を必要とする。」

2008-02-16

"パソコンで巡る137億光年の旅 宇宙旅行シミュレーション" 4D2U 監

本書は、アマゾンのお薦めにあったので、つい買ってしまった。アル中ハイマーは、まとめ買いする時、勢いでショッピングカートをクリックする癖がある。酔っ払いは、ネット商法に引っかかりやすいのである。専門書かと思ったら、単なるMitakaの使い方であった。しかも、わざわざ古いバージョンを買わなくても。
まあいいや!「君のためにプラネタリウムを用意したんだ!」なーんてプレゼントすれば点数稼ぎができる。

4D2Uとは、国立天文台4次元デジタル宇宙プロジェクトのことで、「4-Dimensional Digital Universe」を略して4D2Uという。2Uってなんだろうと思ったら、Dが2つでD2だった。また、2Uは"to you"と同音で、「4次元をあなたに」という意味もこめているらしい。この台詞は使えそうだ。

Mitakaとは、フリーソフトの4次元宇宙ビューアのことである。本書には、おまけでムービーも附属されているが、これもダウンロードできる。
Mitaka自体は、なかなかおもしろい。星座を眺めたり、天体を眺めたり、惑星や衛星の運動の相関関係を眺めたりできる。いろんな所へ動こうと思えばできるのだが、勝手に動いてくんないかなあ。酔っ払いは、最初に指示したら、勝手にシミュレーションやってくれるSimCityのようなゲームが好きだ。旅行プランはこっちで立てるから、後は船長さんにお任せしたい。BGMにホルストの「惑星」でも流して、ブランデーを飲みながら、ボケーっと宇宙旅行を夢見れれば幸せである。

2008-02-10

"金融立国試論" 櫻川昌哉 著

日本の経済政策の流れを追いかけてアマゾンを放浪していると、本書にたどり着いた。タイトルが仰々しいので、ド素人のアル中ハイマーについていけるかどうか不安であったが、金融システムの入門書としてもいけている。ただ、議論が偏っている部分もあるが、この世にすべてお見通しのスーパーブックなんて存在するとは思えない。考えるヒントを与えてくれるだけでもありがたい。

アル中ハイマーが、銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに自己資本の考え方がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろうと考えている。その水準の低さにも唖然であるが、専門家が経験値から算出した数字だから素人に議論の余地はない。ただ中身については、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるのだろうが、どちらも他人が投資しているではないか?本書は、こうしたことに疑問を持つことは間違っていないと語ってくれるのがうれしい。銀行は自己資本を持ちたがらないという意識が働くらしい。外部からの余計な口出しを嫌うのも分かる。銀行の最大の問題は、国民世論に銀行は潰せないという先入観があることだろう。金融危機になっても税金が投入されるからには、経営意識は改善されない。おまけに、とんでもない金融商品を考えだして経済混乱を招く。まるで自爆テロである。最近の金融不安はその最たるものだろう。リスクに対する正確な評価ができないことが問題である。銀行業はアンタッチャブルな世界である。いまや、金融政策という特効薬による景気誘導は効かなくなってきた。それも経済構造が、金融システムによる支配力を弱めた傾向かもしれない。もし、金融支配が弱まれば、世論は不健全な銀行を潰すことに躊躇しなくなるだろう。

アル中ハイマーは、経済不安に陥れる要因の一つに、不健全な金融体質に投機的なマネーを煽る政策が輪をかけることだと考えている。現在の市場経済が、世界的に投機的なマネーのリスクにさらされている感は否めない。貧困層を拡大させ必要以上の不平等社会が、長期的に栄える社会とは思いたくない。その中で経済学の役割とはなんだろう?政策エリートたちが市場経済の活性化と称して政策を立案すると、なぜか投機的なマネーを呼び込む結果となる。社会不安により株価の変動を煽り、乱高下はヘッジファンドの餌食となる。上辺だけ好景気と叫んだところで、GDPなどの経済指標は総合指数を示しているに過ぎない。これは下層階級を拡大し、庶民を奴隷化するための陰謀なのか?そうした風潮の中、日本ではどんな経済政策によって、その傾向を強めたのだろうか?これがアル中ハイマーの知りたいところである。本書はそうした流れをバブル崩壊あたりから追ってくれる。

1. オーバーバンキング
オーバーバンキングは、貸出過剰、銀行数過剰、預金過剰が上げられるが、本書は主に預金過剰を扱う。といっても預金過剰だから貸出過剰となるのだが。80年代以降、慢性的な資金過剰の銀行が様々な弊害をもたらした。不動産融資シェアの多い建設や不動産部門の貸出を増した結果、バブルを誘発したことは周知の通りである。90年代になると貸出は頭打ちとなって減少する。本書のデータによると、注目すべきは、金融危機が叫ばれながらも銀行預金は増えていることである。預金過剰は貸出リスクの審査を甘くし、無理やりにでも貸出したという。世論が煽る銀行の貸し渋りという現象は本当だろうか?不良業者に貸出すぐらいなら渋った方が良い。しかし、まともな審査ができないのであれば、優良業者までもが資金繰りに苦しむ。問題は貸出リスクの正確な審査ができないことだろう。身近で見かけるのは、ベンチャーキャピタルが新興産業やハイテク産業に投資する光景である。ベンチャーキャピタルとはいえ銀行系である。審査となると内容が把握できない。すると地元で有力な知識人や有名大学の学者などに意見を求める。意見した者に責任が及ぶわけがない。ちなみに、彼らは特許という言葉に弱い。監査システムだけでも機能していれば、少なくとも追加融資による被害は最小限にできるはずだ。追加融資が簡単に決まると分かれば、怠慢経営をする。これは、まさか故意にやっているのか?見かけ上の評価価値を上げ、解体し売却益でも得ようとしているのか?そして、誰かに地雷を踏ませようとしているのか?日本の社会システムの伝統に、監査システムの不備がある。人がそんな悪いことをするはずがないという概念を一般的に持っているのも人間味があって嫌いではない。本書は、会計システムにも問題があると主張する。会計システムでは融資資金が時価評価されない。追加融資は不良業者を延命させるだけであるが、会計上の先送りという見方もできる。見かけ上の誤魔化しという意味では同じだ。審査の甘さと会計上の問題がソフト・バジェット問題となる。経営の悪化した企業ほど法律の扱いは巧みである。法律を楯にしだしたら、そこには怪しい香りが漂う。法律は問題が起きた時の言い訳のための手段に過ぎない。

2. 銀行 vs. 株式市場
市場経済の活性化には、金融システムの役割が大きいのはわかる。銀行システムと株式市場で、どちらが中心になれば良いかという議論も絶えない。銀行の存在価値は審査機能を持っていることである。取引で困るのは信用の評価である。そこには情報の非対称性が潜む。その監視機能が働かなければ、株式市場で直接投資する方が効率的である。株式市場は一部の被害者は発生するものの、不良業者をあっさりと切り捨てる。不良債権の山となるのは、銀行屋は預金を庶民から借りたお金であることを認識していないからであろう。本書は、銀行と株式市場の役割を解説してくれる。企業家の経営努力が高く、技術進歩に結びつく業界では、株式市場が有利で、企業内に蓄積された継続的な知識が重視されるならば、銀行システムが有利であるという。経済が革新型の時は株式市場が牽引し、経済が改良型の時は銀行システムが機能するようにバランスすることが良いと語る。ただ、なまじ銀行が企業再建能力を持っているがために経済革新を阻むこともある。

3. BIS規制
BIS規制は、自己資本比率8%の確保を義務づけリスク規制した国際ルールである。その定義は、Tier1 + Tier2。Tier1資本は、株式含み益と内部留保。ここまではいい。Tier2資本は、未実現のキャピタルゲイン45%、貸倒引当金、未実現の剰余金、満期が5年を超える劣後債となっている。未実現のキャピタルゲインって評価できるのだろうか?当然、時価評価されないと意味がない。Tier2資本は、各国の事情を勘案して特別ルールとして認められたらしい。ちなみに、米国や英国では未実現のキャピタルゲインや劣後債は自己資本として認められないらしい。BIS規制は、各国の運営次第で骨抜きにされる可能性がある。破綻に向かった銀行ほど、劣後債を発行しているという。劣後債は銀行の発行する債券である。経営が苦しい企業がやたら債券を乱発しているのを身近でも見かける。しかも、その劣後債を買っているのが、持ち合い関係にある生命保険会社だという。銀行が危機になると、政府は劣後債の残額保護で救済する。また、銀行の安易な資本拡充策にも劣後債が利用されているという。問題の一端は、規制タイミングが悪かったことも指摘している。リスクの高い融資は既成事実であり、続けるかどうかが重要である。融資途上の会計処理も問題になる。規制当局がBIS規制を守るために、暗黙の会計操作を認めたという。BIS規制の運営が不良債権を拡大した結果になったという。その証拠に規制後90年代になって不良債権は拡大している。ところが、ここでおもしろい現象を紹介してくれる。地方銀行に対してはBIS規制が機能したというのだ。大手銀行と地方銀行で差別的待遇でもあったのか?結果、公的資金が使われた。1回目が1998年、2回目が1999年、そして2003年で不良債権がむしろ増大している。不良先は、助ければ助けるほど破綻規模を倍化する。この心理は人間の本質かもしれない。このパチンコ台はあと千円つぎ込めばフィーバーするぞ!

4. 竹中再生プログラム
2002年の金融再生プログラムで、初めてガバナンス問題に踏み込んだ金融危機対策である。不良債権と自己資本のより厳格な計算を求めるのは当然の流れである。銀行が危機に陥ったと認識されれば銀行を国有化でき、経営責任を追及できる仕組みに改める。ただ本書は、そもそも破綻しそうな銀行がいきなり国際基準を満たせるのか?と疑問を投げかける。しかし、いままでの自己資本比率を満たすならば、なんでもあり会計よりは、はるかにましである。本書は、大手銀行は増資先を貸出先に求めるのは禁止すべきであると指摘する。自ら融資した資金で増資に応じさせるのは、持ち合いを強化する。やっぱり中途半端な政策のようだが、政治は妥協の世界でもある。国有化した銀行の処遇はどうなるのかという疑問も湧く。本来なら市場原理に委ねるべきであろう。政府の監視下では、同じことを繰り返しそうだ。その証拠に国有化されたりそな銀行の歩みが語られる。それでも、国有化により海外のヘッジファンドの介入を避けたのは良かったかもしれない。竹中プログラムは、銀行システムを安定化し、その成果で株価が上昇しているかのような印象を与える。しかし、酔っ払いには、投機的マネーの拡大で銀行システムが安定したとう実感が涌かない。それは、ダイエーの処理にも現れている。本書は順序が逆で、株価が上昇したから金融システムが安定したと分析している。米国のIT産業が牽引した結果、日本の製造業を回復させた。日本の金融システムを、製造業が救ってくれたと主張している。日銀総裁が、速水氏から福井氏に代わったのも大きいという。銀行の当座預金の枠を拡大し、市場の流動性リスクを減少させた。更に福井総裁は、銀行の保有株を全額買い取る覚悟があるとまで発言し、金融システムに株式市場の影響を遮断する強い姿勢を見せたという。
本書は、竹中金融行政の中心は合併促進であると語る。破綻寸前の銀行への対処方法は、一つは破綻処理を行うハード路線がある。これは痛みをともない、預金保護や貸出先の中小企業を救うとなると政治的にも判断が難しい。そこで、二つは合併手法であるソフト路線を用いる。比較的健全な銀行を一緒にしてしまうことで、ダメな銀行をどさくさに紛れて消してしまうという戦略である。しかし、投資には大きすぎると限界効率があることを注意しなければならないと指摘する。

5. デフレの本質
デフレとは、一般的な物価水準の持続的な下落現象である。統計的には、消費者物価指数やGDPデフレーターが下がる。マスコミはデフレ不況が庶民の所得を奪うような報道をするが、もともと日本は物価の高い国である。酔っ払いにはデフレは歓迎する部分もある。本書は、物価が安くなることは良いが、そのプロセスに問題があるという。全ての財が同じように下落するなら生活に実害はない。しかし、契約によって決まる価格がある。給料は物価下降に即連動するものではない。それでも民間企業の給料は比較的デフレに連動するが、公務員の給料は連動しない。金利は一定でも実質金利は変わる。預金の面では有利に働くが、借金は負担を増す。年金も実質受取額は増える。年金は掛ける若い世代から、受給者の年寄りに再分配されることになる。つまり、デフレ問題は、市場価格と契約価格でゆがみが生じることにあるという。ほとんどの運転資金を借金からまかなう企業にとって苦しい状況となる。では、デフレの世界的な位置付けはどうなるのだろうか?生活品の中には輸入品も多い。輸出品ともバランスしないといけない。為替レートの影響もあるだろう。デフレの克服に、金融緩和政策でマネーサプライを誘導することは、もはや効き目がないようだ。では、市場価格に連動するように契約価格を決めてやればいいではないか?しかし、インフレ率は、簡単には決められそうにないようだ。その都度ガイドラインを変えるのもシステムの複雑化を招いて詐欺行為を誘発しそうである。要は不平等のない仕組みが作れればいいのだが、経済政策はますます混沌としてきそうである。

6. ペイオフ
預金保険法では、銀行が破綻した場合、預金保険機構が預金保証する。銀行は、預金保険機構に加入することが義務づけられ保険料を支払う。しかし、実際には、保険料でまかなわれているのは18%だという。半分は国債でまかなわれるらしい。本来保険とは当事者同士で負担するものではないのか?生命保険しかり、自動車保険しかりである。本書は、預金保険制度は国民を保護しているように見えるが、銀行のモラルハザードを引き起こすと主張する。ペイオフの狙いは、このような銀行の悪行を断ち切るためのもので、預金者に銀行を真面目に選択するように誘導できると主張する。ペイオフと言っても預金者の立場からすれば、一千万円ずつ各銀行に分散させるだけであり、むしろ、経営能力のない銀行を救済していることになるだろう。分散できない貧乏人のリスクは同じである。仮に銀行が潰れた場合、財源は公的資金しかないだろう。銀行が潰れる前ならば金融システムの安定化という名目で政府の監視下にもできるだろうが、潰れてしまってから税金投入となると、世論が許すだろうか?その銀行の影響範囲にもよるだろうが、世論を押し切ってまで政府が決断できるだろうか?また、政府の決断に期待して、経営が悪化している銀行に保証という言葉だけでずっと預け入れるとは到底思えない。よって、情報を透明化するための制度整備が一番であろう。いずれにしても現行のペイオフには現実性がない。足利銀行が破綻しても実施されなかった。金融庁は、地方銀行の更なる破綻に備えて公的資金を注入しやすくする「金融機能強化法案」を提出し、年金法案と一緒に、どさくさまぎれに可決させたという。どうやら金融庁にはペイオフを実施する覚悟はないようだ。本書は、銀行毎にではなく個人毎に、最低金額で保証すべきであると主張する。そうすれば、金持ちの金は他の市場に流れるかもしれない。しかし、個人の全ての口座を申告しなければならない。財産の自己管理も要求される。サラリーマンは税金管理すら他人任せのお国柄である。財産と税金の管理制度も一掃しないと難しいだろう。本書は、総合課税方式も提案している。これは賛成できる。銀行預金を株式市場などに流すにしても、課税が不公平では誘導できない。所得も多様化しているので、個別に税計算しなければならないのは面倒でもある。

7. 郵貯民営化
郵貯は、政府系金融機関や特殊法人に貸出し、巨額な不良債権を作り出しているのは周知のとおりである。そういう意味で郵貯改革は必要であり、その手段で民営化するのも良いだろう。本書は、政府保証の乱発は慎むべきであると警告している。貯金を保護することは、貯金を持たない人間にも肩代わりさせることで不公平であると語る。その通りではあるが、金融不安が間接的に他へも影響を与える。民営化では国家保証をどこまで削れるかが焦点となる。また、政府がどこまで出資するかも問題である。最初は、多く出資して徐々に民間に手放すことになるだろう。収益が上がれば順調に手放すことができるが、収益が上がらなければ災いとなる。郵貯民営化でよく聞かれる議論は、貸出業務を認めるかどうかである。反対派は融資先を監査するノウハウがないと主張する。民間の貸出業務を圧迫するという意見もあるが、民営化しておきながら民間を圧迫するとはこれいかに?そこで国債保有機関としてのナローバンク論も浮上する。それでは収益が上がらないだろう。本書は、国債保有しているからといっても、金利のリスクにはさらされ、安定経営となるかどうかは分からないと語る。いずれにしても民営化したのだから、優秀な経営者に任せるしかない。下手に政府が口出しすれば、収益が上がらなければ政府の責任となり、公的資金注入で国民が背負うことになる。本書は、郵政民営化が成功するか失敗するかは大した問題ではないというドライな発言をする。むしろ、失敗した時にきちんと破綻させて、精算させる仕組みがあるかどうかが問題であるという。破綻した場合、国債の受け皿はどうなるのだろうか?国債残高の増加ペースは異常である。もしかして郵貯民営化って、財政当局が国債消化を目指したものではないだろうなあ?社会システムとは不思議なもので、政府が口出すと失敗する運命にあるのだろうか?いや!そんなことはない。国のエリートたちがそんな馬鹿なことをするはずがない。きっと、ダースベイダーの陰謀に違いない。

2008-02-03

"世界を不幸にしたグローバリズムの正体" Joseph E. Stiglitz 著

アル中ハイマーが本書を読んだのは二年前である。良書だと思うので記事に残すことにした。最近、サブプライムローンという言葉が世間を賑わす。アル中ハイマーは、経済が不安定になる要因の元凶は、本当にここにあるのか疑問に思っている。投機的な経済行動をする連中は証券価値の乱高下を歓迎する。乱高下する材料さえあれば、なんでもありである。急激な乱高下は、実質価値に対して評価価値が大きく乖離した時に起きる。たとえ価値が下がったとしても、逆ポジションで仕掛ける。現在のデリバティブは、投機的な行動を刺激するルールに思えてならない。よって、酔っ払いはデリバティブ商品に手を出さない。歴史的には、商品価値が自然災害などで変動することは、それこそ経済混乱を招いていた。米が経済の主要を成していた時代では、凶作によって米価が大幅に変動することは望ましくない。こうした変動リスクを避けるために、世界に先駆けて大阪で先物取引が始まったはずである。
経済危機が訪れる周期もだんだん短くなっているような気がする。ただ、本当に危機なのだろうか?生活には実感が涌かない。景気が良いと言われても同様である。単に取引市場が賑わっているだけではないのか?経済運営とは、取引市場のみをコントロールすることが使命なのか?世界銀行は貧困層の撲滅を使命とし、IMFは世界経済の安定を使命としているというのは本当なのか?酔っ払いには、目的と行動が乖離しているように見える。アル中ハイマー病とは、一つの実体が二つに乖離して見える病である。

アル中ハイマーは、ノーベル賞で平和賞と経済学賞の存在に疑問を持つ社会の反抗分子である。政治とは平和へ導くための手段ではないのか?世界を危機に陥れた経済学者がなぜ賞賛されるのか?著者スティグリッツ氏もノーベル賞経済学者の一人であるが、彼の本は何冊か読んで感銘を受けた。経済学という言葉には胡散臭い香りがする。この学問は複雑な人間社会を相手取る難しい分野でもある。これを一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えない。しかし、それぞれのイデオロギーの主張は、絶対に自分たちは正しいという姿勢を崩さない。これは、経済学だけの問題ではなく、人間の本質かもしれない。人間が認識不足を自ら認識することは難しい。プライドが高ければその難しさを増す。邪悪なプライドは、自らは認めたくない深層心理の領域にある。そんな領域には自ら踏み込みたくない上に、他人から踏み込まれることを嫌う。千鳥足のアル中ハイマーは、踏み込もうにも足が見つからない。

本書を読み物としておもしろくしている理由の一つは、偉い学者が思いっきり愚痴っているところである。翻訳者のテクかもしれないが、そこには愚痴っぽく感情的な文章が表れ、逆に読み手を冷静にさせる。相手が一方的に熱いと、こっちは冷める。これが恋愛の原理というものである。ちなみに、翻訳者は鈴木主税氏で、サミュエル・ハンチントン著の「文明の衝突」などを手がけている方だ。ただ、文章のリズムがなんとなく印象と違う気がする。愚痴の攻撃対象は、IMF、世界銀行、WTOである。中でもIMFをけちょんけちょんに貶す。アメリカ人以外でしかもノーベル賞学者以外の著名人が、こんなことを公然と発言したらスキャンダルで抹殺されるかもしれない。これは社会の反抗分子にはそそられる。

本書は、歴史の流れからグローバリズムからは逃れらないとしながらも、推進される政策は現実的ではないと指摘する。国際経済機関は、相変わらず商業界、金融界の利害を重視する。アル中ハイマーには、東アジア危機やロシア経済の破綻など、あらゆる国際レベルの政策は影の陰謀だと思っている。だから、IMFの意見やワシントン・コンセンサスを素直に受け入れた国ほど経済危機に陥るのだと。しかし、陰謀説は否定されてしまった。国際経済機関は、本当に良いと思ってやっているというのである。では、なぜことごとく失敗するのか?自由化という言葉には、美しい響きがある。金融市場と資本市場の解放、貿易障壁の排除が推進されると、強者は弱者を餌食にしてしまう。これは、未成熟な市場を急激に改革した結果であろう。それでもIMFは主張する。痛みを伴わなければ改革はできないと。痛みが深ければそれだけその後の成長は強大なものになると。マスコミも無責任に煽る。まともな発言者は葬られる。発展途上国が経験した痛みは、はるかに度を超えていた。旧共産主義国には、市場経済すら信じられない人も少なくない。確かに、超エリート達が言うように改革には多少の痛みは必要かもしれない。ただ、その国の文化や慣習に関わるデリケートな問題でもある。民族の生い立ちや培った文化は多様である。その国を熟知した第一級の教育を受けた専門家を無視して政策を練ることなどできない。グローバリゼーションは、単なる自由化ではない、西洋化でもない。

本書は、社会の方向性にもヒントを与えてくれる。著者は、最も重要なのは社会の安定であると語る。そのために、注目すべきは、貧困層、環境問題、雇用状態だと主張する。経済で懸念されるのは、社会不安と政治不安である。人間は不安に駆られると攻撃的になり、犯罪をも増やす。ナショナリズムの高揚も社会不安による現象の一つかもしれない。経済がいくら成長しても、不平等な社会では社会不安を煽り、持続した成長は望めない。経済成長は急成長よりも緩やかに安定した成長が望ましいだろう。貿易黒字の国があるということは、貿易赤字の国があるということである。典型的な中央銀行総裁は、貧困統計ではなくインフレ統計に目を配るという。通商大臣は、汚染指数よりも輸出統計を気にする。労働者は賃金を気にする。投資家は金利を気にする。人間は、直接利害するところに目くじらを立てる。政策論争で自らの私利をあからさまに振りかざす者はいない。政治家は、主語に必ず「国民は、」と発言する。
本書には、日本が登場する場面がほとんどない。だが、日本のことを言われているような気がするのも奇妙である。

1. 国際経済機関のマネジメント
国際経済機関は、世界のための組織でありながら主権は偏っている。IMFの長を務めるのは、決まってヨーロッパ人。世界銀行の長は常にアメリカ人。しかも、各国の代表は、その国の特定の産業や金融機関の利害関係に結びついた人間である。著者は、グローバリゼーションを推進している国際機関に対して、監督機構が存在しないのが問題であると指摘する。植民地時代から彼らの考えはそう変わっていないという。彼らは最も賢い政策を打ち出せると信じている。IMFは、知る必要のある人間の範囲を定めているらしい。失敗しても説明責任を果たさない。それどころか他国の政策がIMFの支持通りに行われていないと非難する。透明性がなく官僚的秘密主義であると語る。支援金はIMFの影響力を増し国家主権を奪う。それは一般企業も同じだ。外部資本が入ると自立が保てなくなる。その資本が効率的に運営されれば良いが、経営陣の官僚主義が横行すると悲惨である。経営が硬直化し、人材は逃避する。補助金と言うと聞こえが良いが、間違うと事業を滅ぼす麻薬となる。
金融市場ほど先進国と発展途上国で格差が大きいものはない。競争力のない金融市場を開放させ、しかも、主力銀行を分割すれば巨大シティに対抗できるはずもない。地元銀行からビジネスを奪うばかりか、彼らは多国籍企業への融資で便宜をはかり、国内企業には貸し渋る。IMFは海外のハイエナに地元産業をさらしてきた。もはやIMFの目的は、国際経済の安定ではなく、自由化することが目的となっていると語る。しかし、世界的権威のある機関に逆らうのは勇気がいる。支援を凍結されると、海外資本を流出することにもなりかねない。各国はIMFからの非難を恐れる。こうした官僚思想の押し付けは、国際機関に限ったことではない。力関係が存在する限りどこにでも見られる。小国の政治指導者で、公然とIMFの政策を拒否し、経済破綻を逃れた方々に敬意を表したい。

2. 東アジア危機
ワシントン・コンセンサスでは、自由化は急ぐほど良いとされる。また、政府は経済への介入を最小限にするべきだとしている。しかし、東アジア諸国では、政府は経済への介入を重要な責任と考えた。貿易の自由化は、輸出産業に新たな雇用が創出されるのを見極めてから徐々に進められた。そうした中、タイ発のバーツ暴落による東アジア危機を向える。これは、資本市場の自由化にともなうホットマネーが元凶であろう。ホットマネーの流出入は、あらゆる資産価値を不安定にする。この時、IMFは財政均衡政策をとった。景気後退に向かい税収が減少するのに合わせて支出も抑えた。歳出削減による縮小政策が、更に経済を縮小してしまう。各国首脳はこの問題を意識していたが、IMFからの非難を恐れて積極的な対抗処置が取れなかった。結局、IMFの怒りをかう覚悟をしたのはマレーシアだけだった。そして、最も被害を最小限に抑え短期間で収拾させた。失業率は、韓国で4倍、タイで3倍、インドネシアでは10倍に跳ね上がった。IMFは各国の金利引上げをせまった。それも25%以上も?それは、金利上昇で、投資対象としての魅力が増し、海外資本が流入するという理屈なのだそうだ。東アジアの金融システムの脆弱さは周知のとおりである。IMFは弱い銀行を閉鎖させようとした。閉鎖するか自己資本比率の基準を満足するかを迫る。自己資本比率を上げる方策は、資本を増やすか、融資を減らすかである。経済下降面で資本を増やすことなどできるはずもない。よって融資を減らす。銀行は、短期融資の支払い繰り延べにも応じない。銀行屋とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中である。各銀行が融資の返済を迫れば、企業は経営難に陥る。学生レベルの議論だ。多くの会社が経営難に陥れば、銀行の自己資本比率はますます低くなる。多くの銀行が破壊的となった。マレーシア政府の規制方針は、銀行が外国為替の不安定性にさらされるのを防いだ。資本取引規制をとったが、投資家離れを招くと国際非難にさらされた。企業に対して外国からの借金に制限を設け、国内銀行からの融資を受けるようにした。急速な資本の流出入を防ぎ、金利も低く抑え会社の倒産を防いだ。資本取引規制は中国もインドもやっていた。独自路線を進んだ国は世界的な危機を逃れた。ただ、本書には登場しないが、東アジア危機については、陰謀説もある。おいらは、過去30年、世界のどこよりも急成長をした地域に対する攻撃だと思った。どうやら黒幕はIMFのようだ。

3. ロシア経済の破綻
旧共産主義国を市場経済へ移行させるのにも国際経済機関は活躍する。IMFは、ルーブルの切り下げによってインフレが起こることを懸念した。そのため、過大評価された通貨価値をロシアに維持させることに固執し、数十万ドル規模の資金援助を実施した。これが、ロシア経済を破綻に追い込んだ。政治介入は最小限に抑えるという方針だったのでは?エリツィン時代の最悪の産物がオリガルヒ(新興財閥)であるという。これは、市場のボリシェビキが、欧米の伝道者と組んで、レーニン手法を用いたようなものだと語る。アメリカ財務省とIMFが強硬に主張したのは、迅速に民営化を行うという毎度の話である。しかし、まだ法が不整備なままでは、消費者は民間業者の食い物にされる。従来の政府独占が民間独占に置き換わっただけのことである。民間が官僚に便宜を図り、政治腐敗も起こる。ただ、よくわからないのが、ロシアほどの大国に国際機関の支援金が必要なのだろうか?そもそもエネルギー資源や天然資源に恵まれた国である。これを民間に再分配すれば良いはずである。あくまでも経済システムの問題であるはずである。政策は、一夜にして物質の価格が自由化された。当然インフレが起きる。貯蓄の価値は目減りする。そして、インフレ抑制で、金利を上げ、金融引締政策を余儀なくされる。物価が高騰したにも関わらず、一部の主力資源については価格が抑えられたままだったという。激安の石油を調達し欧米でさばけば、億万長者になる。独占による大きな利益のせいで、マフィアのような手口や談合が横行する。こうしてエリツィンの友人や同僚は億万長者になったという。民営化レースでは抜け目のない勝者が現れるものだ。そして、緊急支援に総額226億ドルが投じられる。その内訳は、IMFが123億ドル、世界銀行が60億ドル、残りは日本政府が拠出したという。IMFは、エリツィンを政権の座にとどめておくという思惑をもっていた。確かに共産主義に逆戻りされても困る。だが、この融資もオリガルヒが国外に持ち出したという。支援金の効果を知りたければ、キプロス島やスイス銀行を調査すれば良いと語る。そして、世界金融危機へと拍車がかかる。これがLTCMへとつながる。結局、一部の富裕層を富ませ、貧困層を増殖させ、不平等を助長させたに過ぎない。旧共産圏の国々は軒並み追従する。ポーランドはIMFの圧力を無視して成功した。IMF優等生ほど、経済不振に直面する。いまや、ロシアにはマフィア的資本主義が定着しつつあるという。しかし、明るい兆しもある。自分たちが略奪してきた行為を、今度はされないように法の整備が必要なことに気づく。コーポレート・ガバナンスを求める動きがあるようだ。ただ、おいらは、これも人為的にロシアを骨抜きにし、脅威をなくすための陰謀だと思っていた。そもそも、冷戦時代から対立していたのだから動機は十分にある。ウォール街は、ロシアには直接関心を持っていなかったという。ウォール街は、インフレをこの世で最悪の事態だと考える人種らしい。インフレが財産価値を下げ、金利を上げ、債券価格を下げると見るからである。財務当局は失業に関心がないらしい。ウォール街にとって、私有財産以上に神聖なものはないのかもしれない。