2019-04-28

"詳解 Linux カーネル" Daniel P. Bovet & Marco Cesati 著

入手したはいいが、その場しのぎで、十年、二十年と放置してきた奴らがいる。ヘネパタか、パタヘネか、こいつらはその代表。本書もその類いで、章ごとに完結し、元が辞書的な構成になっている。そして、心の奥から貧乏性がつぶやいてやがる。せっかく買ったんだから... って。そろそろ引退勧告されそうな身で、再トライ!といこう。こいつを拾い読みするだけで書籍代も助かるし...

Linux のソースコードは自由に目にすることができ、その気になれば自分なりにカスタマイズすることもできる。とはいえ、いきなりコードを手にしても、途方に暮れるばかり。そんな時に指南役となってくれるのが、この詳解である。
おそらく、ソフトウェア屋さん向けに書かれたものであろう。だが、CPU を活かすためのカーネルという見方をすれば、ハードウェアの仕組みにも踏み込む。実際、コードのカスタマイズが求められるケースは、ハードウェア依存の高い部分が多い。おいらはプログラマではないが、それでも、割り込みベクタ、例外ハンドラ、同期処理、MMU、あるいは、ブートシーケンスぐらいは基本知識として持っておいて損はない。実際、知らなければ、プロセッサや周辺回路の設計で困るし...
本書の有り難いところは、コードの実装イメージを優先してくれることである。もちろんコードの厳密性も重要だけど、少々の効率性は犠牲にしてでも。例えば、schedule() 関数のカスタマイズでは、かなり教育を意識している。著者の二人はローマ大学の先生で、この詳解はイタリアの有数の工科大学で教材にされているそうな...

マルチタスク環境で主役を演じる機能といえば、プロセスの切り替えやそのスケジューリングといったところ。プロセスの切り替えでは、時間間隔、すなわちクォンタムが、システムの最適値として問われる。
さらに、今日当たり前となったマルチプロセッサ環境では、プリエンプティブか、ノンプリエンプティブか、がより重視される。Unix 環境では、ジョブに一定時間を割り当てるプリエンプティブな方式が当たり前のように用いられるが、リアルタイム処理ではそうはいかない。Linux の場合、ユーザプロセスがプリエンプティブでも、ノンプリエンプティブな部分も混在しており、本書は、負荷の高いシステムでは既定のクォンタムでは大きすぎることを指摘している。
また、スワップとキャッシュの位置づけを明確にしている。今日の OS は、幸いにも物理メモリをすべて管理する必要はない。ハードウェアの強力な支援があるからである。それだけに、スワップとキャッシュのトレードオフはより顕著化する。キャッシュは、メモリ領域を犠牲にしてでもパフォーマンスを向上させ、スワップはアクセス速度を犠牲にして、利用可能なメモリ領域を拡大させる。すべてキャッシュで済めばいいが、スワップはメモリ不足時の最終手段という考え方もできる。いわば保険として。そして、ゾンビプロセスとの葛藤では、今日のガベージコレクションを思い浮かばせる。

個人的には、モノリシックカーネルという特徴も味わいたい。本来の Unix 思想は、メモリ管理やファイルシステムなどを独立させて小さな部品を集めてシステムを構築するというものだが、あえて Linux は、これらすべてをカーネルに取り込んで一つのアドレス空間で実行させようとする。しかも、カーネルモジュールに対して、機能のアップデートや削除を動的に行える仕組みを備えている。
... こうした技を魅せつけられれば、いくらアホな天の邪鬼でもちょっといじってみたくなる。この酔いどれ庶民には高価なシステムは高嶺の花で、非力な x86 系のためのチューニング思想の方がありがたい。
近年の Linux は行儀よくなったもので、あのメッセージに出くわす機会がぐっと減った。ちと淋しいけど。歳のせいか、安定志向に走り、CentOS に鞍替えしてからは、とんとご無沙汰。そこで、わざと発生させて、心のオアシスを求めるのであった...
Kernel Panic !!!

ところで、「プロセス」という概念は、あまりに慣れ親しみ過ぎて、その意味を問うたこともない。簡単に言えば、「プログラムの実行時におけるインスタンス」として定義される。通常、割り込みは、「プロセッサが実行する命令列を変更するイベント」として定義されるとか。
こうした用語の捉え方を眺めるだけでも、当たり前といえばそうなのだが、その意味を再確認する上で古典を読む意義は大きい。いや、愉快!
尚、デッドロック回避に用いられる「セマフォ」という概念には苦労した記憶が蘇る。考え方は単純でも、抽象化されたデータ型に馴染むには、ちと時間がかかる。抽象数学に悩まされてきたように...

2019-04-21

"ガロアの夢 群論と微分方程式" 久賀道郎 著

三十年間、ずっと纏わり付いてくる奴がいる。あぁ、捉えどころのない微分方程式!物語は、こんな言葉から始まる...「そして山の裂目(クレパス)にのまれてしまったとさ...」

現実世界を生きるには、難問に遭遇しても、とりあえず答えを出していかないと前に進むことが難しい。数学の世界には、そうした暫定的な処理に、漸近線や近似解といった有用な方法論がある。微分方程式ってやつが、いかに解けないケースが多いことか。特異解が現実解を覆い隠すのである。解が見つけられなければ、解のある微分方程式で代替するか、解そのものを近似するか。あるいは、いくつかの方程式を連らね、それぞれに定義域を割り当てて連続性を保ったりと、誤魔化し、誤魔化し、生きている。
とはいえ、妥協人生も悪くない。人間社会では、真理よりも、真理っぽく見えることの方がずっと実用的なのだ。いや、完全な真理なんぞ見たくもない!という深層心理が働いているのやもしれん。そりゃ、自己の本性を知っちまえば、絶望するしかあるまい。
情報社会では、検索アルゴリズムにおいて、100% 満足のいく結果をじっくりと得るよりも、80% ぐらい満足できる答えを手っ取り早く得る方が有用である。人間は多忙なのだ。
素数定理でも近似法が幅を利かせているではないか。デジタル社会で絶対に欠かせないコンピューティングに目を向ければ、見過ごせない弱点を浮き彫りにする。浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE 754 の意義を匂わせてやればいい。システムエラーの回避に欠かせない前提が、数学の領域を制限することを。実数演算で冪乗の壁を乗り越えられない限り、近似の概念に頼らざるを得ない。だがそれは、数学の落ちこぼれには、ありがたいことである...

本書は、著者が東京大学教養学部のゼミナールで行った講義の記録で、題目には「群論と微分方程式」とある。ガロア理論は告げている... 二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない... と。それは代数方程式に対して、どこまで解けるかを問うたもの。ここでは、微分方程式に対して、どこまで解けるかを問う。
ガロアの思惑は代数方程式論では成功を見たが、同様の考察が微分方程式においても可能であるか。この問題に生涯を賭けたソフス・リーは、リー群を編み出した。だが、微分方程式の群論的考察という意味では、リー自身は決定的な寄与はできなかったそうで、ピカールやベシオに受け継がれ、さらに代数化されて、リットやコルチンという流れ。線型常微分方程式を群論的に扱う試みは、多くの偉大な数学者が挑み、まだまだ未知数が多い。

しかしながら、この講義はそのような大理論を展開する場ではなく、かなり制限を与えてくれる。題材とされるのは「フックス型微分方程式」「モノドロミー群」。耳慣れない用語に尻込みしそうになるが、なんのことはない。フックス型は、こんな形をしている。しかも、二階微分で扱ってくれる...

 d2w

 dz2 
 +   P(z)   dw

 dz 
 +   Q(z)w   =   0 

これをベースにすれば、たいていの現象を近似できるだろう。ちょっと乱暴に言えば、こういうことらしい...
「フックス型の微分方程式とは、解がみな確定特異点しかもたぬ有理関数係数の微分方程式のことである。」

また、monodromy を辞書で引くと、一人芝居、ひとりで回る... といった意味を見つける。そして、対象となる現象を、部分集合を連ねて移動体とし眺めてみる。関数の特性を離散的な部分集合で近似するようなイメージで、集合の塊が螺旋状を回転しながら移動していく様子を想像してみるのである。




  R ∋ { A0, A1, A2, A3, ... }

  A0 ∪ A1 ∪ A2 ....
  A0 ∩ A1 ∩ A2 ....

二次元平面で眺めれば、実数同士の直積のような空間をイメージできる。それは、複素平面でも同じこと。ただしこれは、monodromy の用語に誘われて、独り善がりな解釈を試みた結果であって、本書の意図からは酷く逸脱しているだろう。酔いどれ天の邪鬼の目には、ストルツ角領域ってやつが、螺旋状に吸い込まれていく現象に見えるもんだから... 久賀先生ごめんなさい!

それはさておき、連続性を保証してくれれば、微分可能であることが前提できる。このように対象を限定することは、一般法則を求める数学屋には許せないことかもしれない。しかし、ガロア理論が視覚化できて、教育には良さそう...
「空疎な一般論よりは、深みを偏愛するわれわれ数論屋としては、構造の豊かな特殊な族をこそ求めるべきであろう。それゆえ、われわれの関心の対象を、Euler 積分を持つもののみに限ることとする。」

とはいえ、群論の視点から微分方程式を考察するというのは、やはり尋常ではない。ようやく群論という巨大な要塞の入り口に立つことができたと思ったら... ようやく空間イメージができるようになったと思ったら... またもや自由群にしてやられる。自由ってやつは、数学界においても、やはり手に負えないものらしい。
そして、講義は、HATTARI... で締めくくられる...
「ほとんどが検証されていない事実(?)ばかりである。すなわち、ほとんどすべてハッタリである。わずかな兆候に想像力を無限大に働かせて外挿してゆくのだ。数学はこのような段階が一番たのしい...」

2019-04-14

"群論への30講" 志賀浩二 著

我武者羅にやっているうちに、突然、視界が開ける瞬間がある。ある種の突然変異であろうか。そんな感覚に見舞われることを期待しながら、むかーし、返り討ちに遭ったヤツに再挑戦!抽象数学の醍醐味を味わいたくて...
今回、縋るのは、数学30講シリーズ。一つ一つの講義は、10分ほどで読める量で、各々完結しているのも、ちょっとした時間に読もうかという気分にさせてくれる。それでいて、ストーリー性も匂わせてくれる。群論という巨大な要塞も分解してしまうと、軽やかな調べのように流れていくものらしい。そして、ようやく入り口に立てたような気がするのであった...

数学が数を対象とする学問であることは確かである。そして、万物は数である... とのピュタゴラス派の格言を信じるならば、その対象は無限に拡がる。自然数のような数そのものであったり、球形や多面体のような形を成すものであったり、はたまた、方程式のような関連性を記述する文字の羅列であったり...
本書は、まず正多面体から、対称群、交代群、巡回群... の成り行きを追う。群論の特殊な表記法にも馴染みにくいものがあるが、なぜこんな表記に至ったのか、その経緯も軽く解説してくれる。
そして、H を G の部分群とすると、G の元 g に対して、こいつの正体を追っていくわけだが、

  gHg-1

巡回群を形成していく様子を眺めるだけでも、そこに暗号システムの源泉が透けて見えてくる。G = { g0, g1, g2, g3, g4, g5 } において、g6 = g0 となれば、巡回群となり、モジュロ演算との相性の良さが浮かび上がる。
そして、巡回群は位数によって分類され、左余剰類や右余剰類の意味を探りながら物語は進んでいく。ここで言う位数とは、有限群の元の個数のことだが、無限集合における濃度のようなものに見えてくる。個数を抽象化すれば、濃度になるってか。なんと、正多面体の頂点が左剰余類に吸い込まれていくではないか。剰余類とは、文字通りモジュロ演算に関係する。
さらに、加群の近さから距離の概念が登場し、位相群へといざなう。アーベル群の可換性から位相の概念へと導くのである。位相とは距離の抽象化というわけか。ここまでくれば、トポロジーが見えてくる。
それにしても、こいつらは本当に数なのだろうか。抽象度を高めるほど、考古学的とも言うべき暗号めいた記法へと導かれる。人間が編み出した自然言語は、宇宙の合理性には適っていないと見える。宇宙が有限ならば、向かう先も有限群ということになりそうか...
抽象的なものを相手にすると、効率的な表現法が求められる。プログラミング言語の世界では、文字列の集合体を効率的に記述する「正規表現」なるものがあるが、群論にもこれに似た思考法があるようだ。数学もまたある種の形式言語というわけか。表記法ってやつは、効率性を追求すると、暗号めいたものになって人間の感覚からは遠ざかっていくものらしい。そして、数論に発する抽象論は、表現論に帰着するのであった...

「群」の定義そのものは、なにも難しいことを告げてはいない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな。しかし、このお告げがなかなかの曲者ときた。交換法則なんて当たり前!なんて気を抜いていると、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。この酔いどれには、可解群や冪零群なんぞに興味はない。もっと実存感のある群を...
そこで、本書で躍動する群は、幾何学的なものが中心となる。シンメトリーを語るなら、まさに見たまんま。三次元空間の住人にとっての最も神聖な形といえば、球体であろうか。半径を元とする真円球の完全性に魅せられて。いや、人間ってやつは、角(かど)が立つものを欲する。自己が巻き込まれない距離で、他人が揉めるのを眺めるのがお好きときた。角のあるものを崇めるなら、プラトン立体であろうか。神聖なプラトン立体は、回転操作によるπの軽やかな調べに乗って、対称性の美へいざなう。
プラトンは、既に正多面体が五種類しかないことを知っていた。どうやって知ったかは知らんが。多面体の属性が、頂点、辺、面の三つであることも見たまんま。正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体をそれぞれ構成する面は、正三角形、正方形、正三角形、正五角形、正三角形となる。正三角形、正方形、正五角形の三つには、神が宿るのかは知らんが。対称性のパターンは、一つの形から出発して、規則立った移動、反転、回転などの操作を繰り返して生成される。この運動の原理を数学的に定式化することが、「群」という考え方の始まりというわけである。
とはいえ、完全な対称性は、ちと窮屈に思える。神の支配力が及び過ぎている感が。抑圧的で宗教的な感が。自然界は、ちょいとバランスを欠くぐらいが収まりがいい。自由を求めるならば、ちょいと調和を欠くぐらいでいい。数学の支配力が及び過ぎるのは疲れる...
「生物の形態や無機物の結晶などにみられる、神の創造としか思えぬような、見事な対称性や、起源をはるかシュメールやエジプトにまでさかのぼる多くの紋様や芸術作品にみられる対称性、これらの対称性は、つねにある特殊な美を表象している。対称性とは何かを分析し、抽象し、一般化していくと、そこに '群' の概念が現われてくる。プラトン的なイデアの世界に立っていうならば、対称性とは群そのものである。」

ところで、本物語の過程で「自由群」なるものが登場する。なんじゃこりゃ?束縛されない関係だとすれば、等式が成り立たないことになるが、となると独立事象ってことか?いや、割り算を介して関係をもつらしい。どうやら自由とは割り切れないものらしい...
「どんな群でも、自由群の商群として表せる。」
んん~、こんなものに何の意味が?自由ほど手に負えないものはない!と告げているのか。どんなに独立した事象であっても、宇宙創生の観点から何らかの関連性を見い出すことができる。宇宙がビッグバン理論のようなただの一点から誕生したとすれば、万物の構造は素粒子レベルでは似たり寄ったり。
そして、関連の度合いが、群論で言うところの位数に相当するのだろうか。位数が素数である場合に何らかの意味が内包されているのだろうか。思考過程では、ひたすら同型を求め... 同類を求め... 仲間を求め... その先に、人間が編み出すクローン人間にも、自己同型の位数がつきまとうのだろうか。やはり、ホモサピエンスという種は、ひたすら関係を求める性癖をもち、群れるのがお好きと見える。群論とは、寂しがり屋の理論であったか...

2019-04-07

"天才ガロアの発想力 - 対称性と群が明かす方程式の秘密" 小島寛之 著

エヴァリスト・ガロア... この名を聞けば、あの忌々しいヤツが頭をよぎる。群論ってヤツが... おいらを数学の落ちこぼれにした張本人と言ってもいい。おいらは数学屋ではないが、いまだに付き纏ってきやがる。なので、ボトルを差し入れては数学屋さんに計算をお願いする羽目に...
体論はまだいい。四則演算の領域にとどまっている間はまだいい。だが、群論となると、抽象レベルが一段上がり、対象物の正体が一向に見えてこない。群の定義は、なにも難しいことを告げているわけではない。結合法則が成り立って、単位元なるものが存在して、逆元も存在するような代数的体系。ただそれだけのこと。義務教育のレベルでも定義できそうな...
しかし、こいつは二項演算における定義であって、この抽象的な演算系がなかなかの曲者。四則演算の領域をとっくに飛び越え、写像を含めたあらゆる変換系が絡んできやがる。おまけに交換法則が問われると、可換群や非可換群に枝分かれし、もうええっちゅに!算数レベルで眺めれば、交換法則なんて当たり前って感覚が、行列式を眺めれば、宇宙には非可換群で満ち満ちていることを思い知らされる。
対象があまりにも抽象的すぎるから、凡人には姿が見えてこないのか。代数学そのものが、数の代替物を用いて記述する抽象的な学問といえば、そうなのだが...
とはいえ、何事も正体ってやつは、ぼんやりとしているぐらいでちょうどいい。神の正体がはっきり見えたとしたら、おそらく身を委ねる気にはなれないだろう。これぞチラリズム!そして、数学は哲学になるのであった...

ガロアの父は、悪意ある司祭によって中傷され自殺したという。そのために正義感を強め、政治運動を過熱させていったのか。二十歳に女をめぐってピストル決闘で絶命。反抗的なエネルギーを持て余す少年の末路に、政治的な策謀があったかは知らない。
彼の遺書は、「もう時間がない!」から始まる壮絶な数学論文だったという。そこに記される「群」という用語に抵抗感があっても、数の構造や性質を観察すること自体は嫌いではない。本書は、この観察の目に、幾何学的なイメージを与えてくれる。
「群は対称性の表現だ!」
おいらの物事を理解したかどうかの判定基準に、図形的なイメージが湧くかどうかという感覚がある。ユークリッド空間的な脳内マッピングとでも言おうか。昔からそうなのだが、いくら記号や文字を操作しても、上っ面しか理解できていないような気がする。頭の中に浮かぶ自己鏡像との葛藤とでも言おうか。サヴァン症候群のダニエル・タメットは「数字が風景に見える」と共感覚能力について語ってくれたが、理解空間にもそのようなものがあるような気がする。
本書に登場する幾何学的な操作は、まさに線対称や回転対称といった基本的なものばかり。これでガロアを語ろうというのだから... おかげで、群論への再挑戦!という衝動に駆られる。一度返り討ちにあったことも忘れて...

ガロア理論は告げている。「二次、三次、四次方程式には解の公式が存在するが、五次以上の方程式にはそれが存在しない。」と。五次方程式に解の公式がないことはアーベルによって証明された。だが、解ける場合もあり、アーベルはその判定基準を与えていない。ガロアは方程式が四則演算と冪根で解ける条件を完全に特定したのである。n次方程式を区別することなく群によって表現してみると、自然に解の性質が見えてくるという観点から...
ここで重要な概念は、「自己同型」ってやつだ。それは、代数的な性質を保ちながら対象を写像すること。代数的な性質とは、例えば、四則演算の結果が同じ体にとどまるかを問うた時、自然数体であれば、負の数や少数が生じて整数体や有理数体にはみ出してしまう。そこで、代数的な解法が存在するかを探るということは、代数体の性質を保ちながら体にとどまることができるかを探ることになる。写像が代数体の範疇にとどまれば、方程式の一般的な解法も存在するというわけである。
なるほど、解の発見とは、自己同型群を観察しながら自己を見つめ直し、自我を再発見することであったか。そりゃ、人間には永遠に望めまい。ガロアの発想力は人間離れしている...

ガロアの思考法は、体と群という二つの数学構造を行き来しながら、「方程式の話を対称性の観点から群の話に置き換えた」ということのようである。関数的な操作では恒等写像や共役写像に重要な役割が与えられるものの、幾何学的な操作では、二次方程式の解から作った群を二等辺三角形の底辺の線対称に帰着させ、三次方程式の解から作った群を正三角形の対称性に帰着させ、四次方程式の解から作った群を四角形の対称性に帰着させる。そして、五次方程式の解から作った群を五角形の対称性に帰着させることができれば... ということになるが、かなり複雑であることが想像できる。正五角形のような対称性に収まる場合もあるけど。
解の部分群が巡回群になってくれさえすれば、なんらかの対称性を見出すことができ、このあたりに代数的な解法が存在するかどうかの判定基準が隠されていそうである。
本書は、ハッセ図で部分群を図式化してくれる。ハッセ図とは、部分群の家系図のようなもので、群の対応が視覚化できる。ハッセ図を用いて部分群をいじりたおす!という視点から、いわば、代数学と幾何学の相性を語ってくれているのである。

ところで、二次方程式の解の公式は義務教育で習ったが、三次方程式のものとなるとまったく相手にされない。二次方程式の解の公式は、幾何学的な操作でも証明ができるし、判別式の意義も説明しやすいというのもあろうけど。
そもそも解が存在するということは、因数分解ができることを意味する。三次では、一次と二次の積に分解すればいいので、おぞましい公式なんぞ覚えるのも馬鹿らしいってか。
そこで、本書で紹介されるフォンタナ(タルターリア)の思考法が参考になる。彼は、わざわざ x = y + z  を代入して、元々一つしかない変数を一つ増やしたという。三次方程式を一次方程式と二次方程式の連立方程式に帰着させるのである。
ただ、このやり方では、なぜ解けるのかが見えてこないし、三次方程式における解法は感覚的なもののように映る。
ちなみに、フォンタナとカルダーノは、三次方程式の解法の発見における中心的な人物で、論争のエピソードもある。タルターリアは「吃音」を意味し、フォンタナは幼少期にフランス軍の略奪によって顎に障害を負い、言葉が不自由になってそう渾名されたのだとか。おそらく論争は苦手であったろう...

2019-04-01

人生の操作性は、軽いアンダーステア...

今日、四月一日...
海辺で恵風に誘われ、軽やかにステアリング操作でもやりたくなる気分。ただ、来た道を振り返ってみると、堂々と冗談の言える日に冗談では済まなくなる。そして、つくづく思う。人生の操作ってやつが、いかに難しいことか... と。十年後の自分を思い描いてみたところで、その通りになったためしがない。なにゆえ、未来像なんてものを描こうとするのか。現在に絶望すれば、未来に希望を抱かずにはいられない。未来像とは、偶像崇拝の類いか。未来に希望を見い出せなければ、過去を懐かしむしかない。すると今度は、昔はよかった... などと老人癖がでる。俗世間には、現実逃避症候群が蔓延しているようだ。ナポレオンはうまいことを言った、「愚人は過去を、賢人は現在を、狂人は未来を語る。」と...
人間ってやつは、長く生きれば生きるほど頑固になる。今まで生きてきたことを否定したくないからだ。ならば、ちょいとばかり自己を疑ってかかるぐらいでいい。自己否定は危険な試みではあるけど。イングリッド・バーグマンはうまいことを言った、「幸福とは健康と記憶力の悪さじゃないかしら。」と...
そして、人生の曲がり角を軽いアンダーステアで流そうとしたら、重いゲシュタルト崩壊を引き起こすのであった...

すべてが計画通りに進み、成すことすべてが完全に制御できれば、豊かな人生になるだろうか。いや、それはそれで窮屈なものとなろう。力み過ぎては、人生の曲がり角でスピンする。オーバーステアでは、問題の周りをぐるぐる回ってしまう。人生を彩るには、少しばかり荷重の抜ける余地を残したい。自然に荷重が抜けるように少し力を抜き、そして、精神をちょいと破綻させてみてはどうか。ちょいと狂ってみてはどうか...
人間ってやつは、ちょいと馬鹿なぐらいがいい。ちょいと自信がないぐらいがいい。ちょいと不器用なぐらいがいい。それを自覚できれば、なおいい。だから懸命になれる。ほんのちょっぴり幸せを感じるぐらいでいい。人間ってやつは、幸せ過ぎても、不幸過ぎても、残酷になれるものらしいから。どうやら欲望エントロピーは、軽いインフレを求めているようだ。
目の前は少しばかり霞んでいるぐらいがいい。これがチラリズムの哲学。物事は、ちょいと曖昧なぐらいがいい。意識は、ちょいとばかりうつろなぐらいがいい。騒々しい社会に慣れちまったら、特にそうだ。具体的すぎる社会は疲れる。
人間は、人生のアマチュアであり続ける。合理主義は肩がこる。ならば、ちょいと不合理なぐらいがいい。人生には、道草、寄り道の類いが不可欠だ。あの大女優のセリフ「すこし愛して、なが~く愛して...」とは、なかなかの真理をついている。その証拠に、ハスキーな甘い声にイチコロよ。人生のコーナーを攻めるには、ステアリング舵角を小さめに、流れるように生きたいものである。五感をニュートラルにして...

ニュートンの法則によると、地球上の重力はすべての物体に平等に働くことになっている。だが、人間は自分の存在感を強調する余り、他人より大きな重みを求めてやまない。いや、影では、女性諸君は体重計の前で軽い存在を演じているらしい。鏡の前での念入りな厚化粧も、ひび割れしては、お肌の曲がり角も曲がりきれないと見える。
夜の社交場では、常識や形式を重んじる理性者どもが、ちょいワルオヤジを演じてやがる。不良ぶるのがモテる秘訣と言わんばかりに。これが右曲がりのダンディズムってやつかは知らん。
女性諸君も、男性諸君も、人生のコーナーをやや攻めすぎていると見える。

知性のコーナーを攻めるのも、なかなか手強い。学問が専門化によって没落するという意見をよく耳にする。だが、専門化そのものを誤りとすれば、深遠な学問はありえない。問題は専門化ではなく、問題そのものが理解できていないことだ。知識が豊富だからといって、知性が磨かれるわけではない。むしろ、知識は人を馬鹿にするための道具に成り下がる。百科事典が知っていることを、わざわざ頭に留める必要もあるまい。人間ってやつは、いつも自分より下の者を探し回っては、自己優位説を唱えていないと不安でしょうがないものらしい。実際、有識者どもはいつも憤慨している。いくら知識で武装しても、精神は平静ではいられないらしい。ましてや利己心に憑かれた酔いどれ天の邪鬼には知性なんぞ無縁だし、知識なんてものは自己を欺くためのまやかしでしかない。

そして今日、四月一日に得られた帰結は...
人生のコーナーを限界まで攻めるには、ちょいとアンダーステアぐらいがいい。どうやらアル中ハイマー病とは、精神と記憶がアンダーステア状態にあることを言うらしい...