2012-11-25

"科学と方法 改訳" Henri Poincaré 著

科学の方法論に、数学が関与しない道理はない。アンリ・ポアンカレは、物理学と数学とで証明の方法が違っていても、発見の方法はすこぶる似ていると語る。そして、数学的推理の基本は紛れもなく帰納法的思考にあるとし、大発見に至った自己の心理分析までも披露してくれる。事実から普遍化へ至る思考は直観から始まるというが、それは芸術家のごときものであろうか。直観の偉大さを情熱的に語るところは、科学書というよりカント風の哲学書という感がある。とはいえ、真の哲学者に数学をやらない者はいないと思っているので、まったく違和感はない。その哲学論争を遡れば、プラトンとアリストテレスの対立しかり、カントとライプニッツの対立しかり... ポアンカレもまた、ヒルベルトの形式主義やラッセルの記述理論だけでは、真の科学は構築できないと対立的立場を鮮明にする。客観を構築するために主観の関与が重要だとするところは、まさに直感を直観へ昇華させようとする目論見であろう。それにしても、本書には「気まぐれ」という言葉があちこちに鏤められる。実にらしくない。ただ、気まぐれ崇拝者はニヤリ!なにしろ、ア・プリオリを崇高なる気まぐれと解釈しているぐらいだから...

「視よ、而して正しく視よ。」
これがポアンカレのまずもっての助言である。そして、科学の方法は観測と実験にあるとしている。下手に見るぐらいなら見ない方がいい。そこで、見るか見ないかが最初の選択となる。人間の思考が主観性に偏りがちなのは、自我の主体性、すなわち自己存在を意識するからであろう。そこで、主体を打ち消そうと努力し、精神の均衡を保とうとする。学問するとは、そういうことであろうか。学問の方法では、最初に知識を身に付けようとする。それも間違いではあるまい。
しかしながら、学問とは、学んで問うと書く。教育とは、知識を詰め込むことではあるまい。いかに新たな観念を受け入れる心構えを具えるか?これが問われる。常に自我を検証し、新たな思考を試す癖が身につけば、知識の方から自然にやってくるだろう。だが、いくら知識を深めても、やはり誤謬を犯す。はたまた多くの事実を知ったところで、幸せになれるわけでもない。知識を得ることは、あくまで手段でしかないのに、それ自体が目的化すると思考が硬直する。知識の豊富な者が思考停止に陥った状態ほど、質ちの悪いものはない。これが宗教の弊害というやつか。大量破壊兵器にしても、大規模な環境破壊にしても、残虐なテロリズムにしても、科学と強く結びついた結果である。ならば、あえて歩みを止める。これも選択肢としてあってもいい。おそらく無に帰することも真理なのだろう。これが死の意義なのかは知らん。科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にあると主張する。それは詭弁であろうか?科学者の中にも人格劣等者がいる。だからといって、科学を捨てて道徳のみを研究すればいいということにはなるまい。
いずれにせよ、思考の第一歩は疑問を持つことにある。生に対しても死に対しても、歩みを進めるにしても立ち止まるにしても。この性質こそ、子供が最も素朴な哲学者と言われる所以である。科学の方法とは、まさに子供心を育てることであろう。

さて、この手の本を読むと悪い癖がでる。それは、心地よさそうに思考が勝手に暴走を始めることだ。科学という客観的な書を読んでいるはずなのに、読んでいる当人は客観とは程遠いところにいる。まったく困ったものよ。この記事も思考が暴走した結果である。したがって、ポアンカレが言わんとした事が何かは知る由もない。

1. 数学の意義とは
現実に数学の理解を拒む人は多い。この学問には、それが何に役立つのか?と絶えず疑問がつきまとう。他の学問は人間社会への貢献を具体的に掲げる。物理学はエネルギーを発明し、経済学は価値を創出し、音楽は心に安らぎを与え、哲学は生き方を教える。本来の目的を見失って害をなすこともあるけど。対して数学ときたら、ひたすら美しい理論や法則を探求するだけ。まさか、素数の発見者が今日の暗号システムに利用されるなんて考えもしなかっただろう。実益を直接求めない学問、その最大の強みは、なんといっても客観性のレベルが他の学問よりも格段に高いことである。だから、分析の道具として威力を発揮する。市場原理や社会現象はいまや数理解析や統計解析なしには語れないし、保険会社は数理モデルを放棄した途端に倒産に追い込まれるだろう。
現実を生きる技術者は夢想する数学者に、この微分方程式を積分しておいて!とお願いする。だが、多くの微分方程式が解けないことは周知の通り。そこで、近似という手法を巧みに用いて誤魔化す。極限の大小関係から迫れば、ε-δ論法風の思考も必要となる。相対的な認識能力しか持てない人間にとって、比較によって迫る思考は相性が良さそうなものだが、やはりヘンテコな不等式は数学者に任せておくのが賢明だ。実益者から見れば、数学者は何かを編み出してくれるブラックボックスのような存在に映る。よっ便利屋!いつもお世話になっているのに乱暴な事を言ってごめんなさい!今度、ボトル持っていきますんで...
また、特殊な言語を操るところに、数学者の宇宙人たる所以がある。そこには詞句はなく、奇妙な記号の羅列があるだけ。言語を巧みに操るという意味では文学にも通じそうなものだが、門外漢はひれ伏すしかない。ただ、問題の性質を正しく理解するためには、その場面に特化した言語を用いるのが合理的である。実際、プログラマは人工知能言語や数値演算言語やマークアップ言語など用途に応じた言語を次々に編み出す。
しかし、こうした合理的な思考だけで数学が成り立つわけではない。あらゆる定理や法則が論理的に演繹できるわけでもない。いくら高度な客観性を具えていても、数学が数学自身を構築するには、どうしても感覚に頼らざるをえない。公理だけではいずれ行き詰ることをカントールが示した。いや、ヒルベルト自身が暗示したと言った方がいいかもしれない。そこで、ポアンカレは数学的推論の原理を帰納法に求める。しかも、その正体は直観であると。数学は、リーマンのような直観派によって進化を遂げてきたのも事実。感覚だけでは人間精神は簡単に暴走するが、論理だけでもやはり暴走する。人間は、知識を蓄えながらもなお、直観に頼って生きるしかない。それは、知識が無限だからであろう。人間が操るもの、あるいは操ろうとするもので、信仰から逃れることはできないのかもしれん。
「人は直観に信頼してきた。しかしながら、直観は吾々に厳密性を与えない。さらには、確実性さえも与えない。人は次第次第にこのことを悟ってきた。直観はたとえばすべの曲線は接線をもつこと、いいかえれば、すべての連続関数は導関数をもつことを吾々に告げる。しかもこれは謬まりなのである。」

2. 定義とは
人は、何かを説明する時に都合よく定義を持ち出す。定義によって公理を導き、最高級の定義に公準が位置づけられる。この方法は、ユークリッドの時代から容認されてきた。論理崇拝者は、あたかもユークリッドが公準に対して容認したのと同じことを数学的帰納法にも容認する。一旦定義しちまえば、それを前提にいくらでも論理構築ができ、歴史的な難題が定義を前提に展開されてきたケースは多い。その過程で素晴らしい発見があると、定義はいつのまにか公理へと崇められる。定義とは、麻薬のごときものか。しかし、前提が崩壊した途端に努力は無と化す。数学者の人生とは果敢ないものよ。
では、人はなぜ定義をするのか?その定義を何かに利用したいからであろう。定義は直感によってなされる。それが、それらしいとなれば、同調する人が群がる。まるで権利を主張するかのように。これが、人間社会を構成する基本的動機ではないだろうか。論理崇拝の道ですら、同じ轍を踏む。学問に定義はつきもの。定義を重んじるからには言葉を大切にする。だが、こうも定義が氾濫すると、社会は騒がしくてしょうがない。学問とは、騒ぎたいがためにやるのか?まるでお祭りよ。神が沈黙しか教えないとすれば、宇宙法則に反する行為のようにも映る。いや、人間が騒いだところで宇宙がどうにかなるわけでもないから、神は黙って見ておられるのかもしれない。
定義は規約のごときものであるが、それを押しつければ反抗心が湧く。言葉の押し付けは文化の押し付けとなり、暴動の引き金になる。不正確でお粗末な定義ならば、やらないほうがいい。定義が認識過程において必要なのかは知らん。ただ、人類は単に言葉を増産してきただけで、実は、ユークリッドが示した五つの公準以外に進化させてきたものは何もない、ということはないだろうか?

3. 偶然とは
偶然... 現象を扱う上でこれほど厄介な存在はない。まさに法則と対立する存在。確率的な現象であることは確かであろう。ソクラテス流に言えば、無知者にとっての偶然は知識者にとっては偶然ではないことになる。偶然とは、無知を測る尺度とすることができるのかもしれない。ただ、すべてを法則で説明できたとしても、絶対的決定論とするには抵抗がある。
一方、人間社会には、知らぬが仏という原理が働き、偶然の幸せというものがある。無知だから感動を呼ぶ。完璧な予測は人生を色褪せたものにするだろう。となると、知識を得るほど感情を奪うのだろうか?いや、そんな心配はいらない。知識は無限なのだから。
ところで、偶然には客観性があるのだろうか?πやネイピア数は偶然に数字が羅列された結果なのか?素数は偶然の産物なのか?偶然現象の最たるものは天才の出現であろう。あの女性と知り合ったのは?この世に生きていることは?などと問い詰めれば、偶然は主観性に支配されるとは到底思えない。出くわしたい偶然もあれば、出くわしたくない偶然もある。ギャンブルでは偶然に頼る。それは無知に頼るということか?気まぐれもまた、精神内に起こる偶然現象ではないのか?現象が気まぐれなら、それに劣らず観測も結果も気まぐれよ。完璧な観測が精神を退化させるのかは知らんが、幸せの原動力は偶然、すなわち無知の方にあるのかもしれん。しかし、直観が気まぐれを原動力にするならば、神に通ずる道が無知だとも思えん。神は本当に幸せに導こうとしているのか?

4. エーテルと絶対認識
仮にエーテル充満説が正論だとすると、エーテルは宇宙空間において絶対静止をしているのだろうか?もしそうならば、不動のエーテルに対して、絶対速度なるものが定義できるかもしれない。だが、物体が運動をすれば、周辺のエーテルもまたなんらかの反作用を受けるだろう。そして、マイケルソン・モーレーの実験はエーテルの存在に否定的だ。
光速が陰極線とラジウム放射の助けによって観測されると、マクスウェル理論が脚光を浴びる。ラジウムは、α線、β線、γ線の三種類を放射することが知られるが、発見もさることながら放射測度を計測したのだから尋常ではない。しかし、絶対速度の存在を認めれば相対論と矛盾が生じる。それを解消したのがローレンツ圧縮で、光の進む方向に対して空間の方が歪むとすれば説明がつく。絶対速度を規定したところで、観測系と同じ空間にある光の速度変化に気づかないのも道理というものか。いくら光速を 3.0 x 108m/s と具体的に定義したところで、人間の尺度でしかない。だから、精神空間の歪んだ人間が自我を認識するために、別の精神空間の住人を必要とするのだろう。では、歪む空間において、作用と反作用が等しいという関係はどうなるのか?相殺は不完全ということか?電子に質量がなければ、相殺は完全になりうるかもしれない。ただ、肝心な質量の正体が見えない。アインシュタインは、E = MC2 で質量とエネルギーの等価性を示した。では、物質と空間の関係はどうなるのか?物質とは、空間に対して歪を与えるだけの存在なのか?物質は必ず質量を持っていると言えるのか?点電荷とは、空間に対してどういう存在なのか?んー...物質の概念そのものを疑ってみる必要があるかもしれない。
近年、宇宙物理学者はダークマター(暗黒物質)やダークエネルギーという仮説を持ち出す。観測とは、認識を意味する。認識できないものは無とするしかない。だから、エーテルを無としてきたのか?しかも、それが宇宙の96%を占めるというから、いまだ宇宙のほとんどが解明できていないことを意味する。まぁ、地球の多くが解明できていないのだから、それも当然か。そこで、ポアンカレは測地学を進化させることが、まずもって科学の進むべき道だとしている。人類の住む大地を理解せずしてなんとする?というわけか。ただ、フランスの測地学を称えて、国家予算を投入せよ!と政治色を見せるところに違和感がある。そういえば、従弟のレイモン・ポアンカレは第三共和政時代の大統領だったっけ。
さて、絶対速度の存在とは何を意味するのか?光速に近づくほど、運動エネルギー、運動量、質量は限界を越えて増大し、光速となった途端に無限大となる。つまり、いかなる物体も光速を超えることはできないとされる。そうだとしても、疑問は残る。運動している自分が、光速に近づこうとしていることが認識できるのか?光速で運動する観測者にとって、光はどう見えるのか?そこに絶対停止なるもの、すなわち神でも見えるというのか?相対性原理は、まったく自問ってやつが苦手よ!相対的な認識能力しか発揮できない人間が自己矛盾に陥るのも当然か。絶対運動なるものが認識できたとしても、すべてが無意味となり、空虚となるだけのことかもしれん。

5. 慣性と浪費
電流は感応現象、特に自己感応を起こすという。自己誘導と言った方が馴染みがある。電流が強くなると自己感応の動電力が現れて電流に反抗しようとし、弱くなると電流を持続させようとするという。慣性の原理のごとく、電流はそれ自身の変化を妨げようとすると。電流を生じるには、慣性を打ち破らなければならない。
一方で、人間は飽きっぽく、集団化すると移り気も激しい。安定とは適当な変化を繰り返すことになろうか。自然は偏ることを嫌うようだ。長距離送電では電流源は適当に揺れる交流の方が都合がよい。だが、人間が直接扱うとなると直流の方が思考しやい。電流と電圧の奇妙な位相差を吸収することが難しいからだ。電流ゼロ状態が電圧ゼロ状態とならないだけでも厄介。よって、交流は電力や実効値といった統計的方法で捉えることになる。
デジタルシステムの根本原理にトランジスタのオンオフ制御がある。電流が流れるか流れないかのスイッチング特性は、まさに直流思考。これを交流で思考すると頭が爆発し、機器も爆発するだろう。自己誘導もまた自己矛盾の餌食となる。細かい制御を、交流のまま制御できれば変換ロスが抑制でき、人間社会の省エネルギー化も進むだろう。だが、熱力学は永久機関をつくりだすことは不可能だと教えてくれる。あらゆる運動においてエネルギーロスがあると。宇宙の真理が浪費にあるのか、無意味にあるのかは知らん。そうだとしても、人間が生きるには、なにがしか意味があるとしておかなければ、やっとられん。これも思考の浪費か?どうやら神は浪費家のようだ。

2012-11-18

"異端の数ゼロ" Charles Seife 著

単純過ぎるがゆえに正体の見えない高貴な御方。それは、知性の破綻を予感させる。長い間、人類はゼロの存在を認めようとはしなかった。それが無を意味するからである。人の認識に無の概念の入り込む余地はない。いや、無ですら存在にしてしまう。大デカルトですら、認識できるものすべてが存在するとし、神の存在までも証明してしまった。今日、ゼロの存在を認めているのは、それが便利な道具だからであって、自己の無を受け入れたわけではない。やたらと自己存在を強調するのは、それが幻想であることにうすうす気づいているからであろうか?だから、人間社会は仮想化へと邁進するのだろうか?本来モノの価値とは、足るか足らぬかで測られるはず。パンを無限に食すことはできない。なのに、貨幣という仮想価値を編み出した途端に欲望は無限と化す。なるほど、無と無限は相性が良さそうだ。タダより高いものはない!タダほど怖いものはない!などと言うのは、真理かもしれん。
宇宙が無から創生したのであれば、いずれ無へ帰するであろう。だがそれでは、魂の永遠不死を否定することになる。無限宇宙を認めては、地球を中心に据えたアリストテレス宇宙観はたちまち崩壊し、それを支柱にしてきたカトリック教会の信頼も揺らぐ。西洋数学が本格的にゼロの研究を始めた時期が、宗教改革やルネサンス期と重なるのも偶然ではあるまい。人は空虚や無意味を極度に恐れる。一旦、無意味と定義づけると行動すらできない。だから、哲学することを恐れる。しかし、真の学問とは、有益だからだとか、高収入を得ようなどという動機でやるものでもあるまい。おそらく真理なるものは、無意識、無心、無想、無我といった境地にこそ姿を見せてくれるのであろう。無意識とは、純真無垢な欲望を意味するのかもしれん。したがって、なぜ酒を飲むのか?と問えば、そこに純米酒があるだけのことよ。

古代ギリシア幾何学には数を形で表す基本思考があり、直定規とコンパスで描ける図形にこそ意味があるとされた。逆に言えば、形に表せない数は数ではない。中でも辺の比が重要視され、ピュタゴラス教団はシンボルに五芒星形を選んだ。正五角形の神秘性は、各頂点によって形成される五芒星の内側に形成される五角形が逆立ちして形作り、しかも無限に形成されること。そしてなによりも、自然界の美を支配する黄金比が含まれることにある。比が重んじられるからには、a/b という整数比の関係が重要となる。そこにゼロの概念が入り込む余地はない。ピュタゴラス教団は、整数比で表せない無理数の存在を隠蔽し、バレそうになると暴力に訴えた。だが、最も身近なところに無理数が現われた。一辺を1とする正方形の対角線は √2 だし、黄金比そのものが無理数である。
一方、古代バビロニア数学は、単に数を数えることによって、なんなくゼロに役割を与えた。数を単なる記号の羅列として捉え、10, 100, 1000, ...など桁に空位を与えることによって、あらゆる数を表すことができる。それでも、ゼロが単独で出現することはない。さらに、バビロニア人は引き算によって負数の存在を認め、あっさりと数直線上の正負の境界にゼロの居場所を与えた。
しかし、奇妙な性質が露わになる。ゼロは足しても引いても元の数に変化を与えない。それどころか、掛けるとゼロに吸収され、さらに酷いことに、ゼロで割ると数の体系そのものを破壊する。ゼロ除算は悪魔じみている。これを回避するには、人間の編み出した定義という技に縋るしかない。今日、IEEE 754 には、-0(マイナスゼロ)までも定義され、コンピュータの暴走を抑止している。
となると、紀元前と紀元後の境界にゼロ年がないのは、人間社会の暴走を抑止できなかった結果なのか?ミレニアム論争では、イエスは紀元前4年に生まれたのだから、1996年(= 2000 - 4) を2000年目にするべきだとする論調があった。だが実際は、1999年目だ。0歳を考慮しても西暦0年がない。そういえば平成0年がない。なぜ暦は0年を拒むのか?2000年当時、21世紀の始まりは2000年とする方が分かりやすいよ!という議論が、ごく身近でなされた。神が全能者であるなら、神のできないことは無となる。しかしながら、悪魔のやることを神がやるとは思えない。となれば、悪魔の正体こそが無ということか?世紀末をゼロ、すなわち世界が無に帰するとすれば、そこに絶望論を重ねる。なるほど、人間社会は、永遠に千年紀の亡霊から逃れられないという仕掛けか。
ところで、年齢では数え年という慣習が廃れ、0歳から数えるようになったのは、一歳でも若くいたいからか?アラサーなどと言うのは、年代の定義を少しでも曖昧にしたいからか?そして、アル中ハイマーは、年齢表記を16進数からモジュロ演算に変えようと目論む。これがニーチェの永劫回帰の正体よ。

1. ニュートンのまやかし微分法
微分の起源を辿れば、ゼノンのパラドックスに行き着く。それはアキレスと亀の競争による命題で、先に出発した亀にアキレスは永遠に追いつけないことを証明してみせた。微分とは、儚いものよ。いくら近づこうとしても、永遠に到達できないのだから。
さて、微分法と言えばニュートンだが、彼の微分法は流率を巧みに表現しているという。
今、方程式 y = x2 + x + 1 について、微小値 0y, 0x だけ流れたとしよう。

  (y + 0y) = (x + 0x)2 + (x + 0x) + 1
             = (x2 + x + 1) + 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

そして、y = x2 + x + 1 を代入して、両辺から同じ量を引くと、

  0y = 2x(0x) + 1(0x) + (0x)2

ここで、0x は限りなく小さく、(0x)2 は更に小さいからゼロにできるとしている。

  0y = 2x(0x) + 1(0x)

ん...確かに答えは合っているが、なんで微小値を二乗したらゼロにできるのか?これが本来の微分法ならば、数学に幻滅する。しかし、心配はいらない。導関数の一般方程式は、ニュートンの亡霊を排除してくれるのだから。

  f'(x) =  { f(x + ε) - f(x) } / ε, (ε → 0)

この一般式に、f(x) = x2 + x + 1 を適用すると、

  f'(x) = {(x + ε)2 + (x + ε) + 1 - (x2 + x + 1)} / ε
       = (2εx + ε + ε2) / ε
        = 2x + 1 + ε

ここではじめて、εをゼロに近づけると、

  f'(x) = 2x + 1

視点をちょいと変えただけで、こんなにもすっきりするとは...やっと眠れそう。
しかし、ε が限りなくゼロに近づくというだけで、安易に完全なる無としていいものか?というのも、宇宙法則には無による悪魔じみたエネルギーの存在がある。空間ゼロにおけるやつと、質量ゼロにおけるやつだ。ん...やっぱり眠れそうもない。

2. 無限遠点と射影幾何学
無限を絵画から打破したのが遠近法。万能人とされるレオナルド・ダヴィンチは、アマチュア数学家でもあった。写実的な消失点は無限遠点を表し、線は点に集積し、無限小の無をイメージさせる。ゼロと無限が消失点で結びつくのは、偶然ではあるまい。
ケプラーは無限遠点の考えを一歩進め、楕円には中心、すなわち焦点が二つあるとした。楕円が細長いほど焦点は離れている。そして、すべての楕円に共通の性質を備える。楕円形の鏡の一方の焦点に電球を置けば、楕円がどれほど細長くても、光線はすべてもう一方の焦点に集まる。そこで、焦点が無限に遠ざかるとどうなるか?楕円は、突然放物線になり、閉じられた片方の曲線が開放されて平行線になる。放物線は片方の焦点が無限遠にある楕円であり、実は、放物線と楕円は同じものだというわけだ。ここに射影投影学の始まりがある。ユークリッド幾何学では、二点があれば一つの直線が定まる。だが、ジャン=ヴィクトル・ポンスレは、無限に離れた点を受け入れて、二本の直線から一点が定まることを発見したという。

3. リーマン球面とi(愛)の概念
n次の多項式で、n個の解が得られるのは、虚数を受け入れた時である。ガウスによって導入された複素平面は、ガウス平面とも呼ばれる。
i と x の関係は90度、i を2乗すると180度の x 軸上に現われ、3乗すると270度、4乗すると360度となり、角は、2倍、3倍、4倍と変化する。だが、これは半径 1 の単位円における現象である。半径 1 の内側にあるか外側にあるかで状況は一変し、n 乗していけば螺旋を描く。例えば、i/2 を、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら原点へ向かう。2i は、2乗、3乗、4乗...と続けていくと、螺旋を描きながら外へ向かう。複素平面は、見事に幾何学上の概念となった。i(愛)は何乗しようが、愛情はぐるぐる空回り。しかも、実数(実体)上に現われた時、i(愛)が消えていて、おまけにマイナスよ!
さらに、リーマンは複素平面に射影幾何学を融合させた。球の全体が複素平面に投影されるとどうなるか?球の南極を原点とすると、赤道は円に投射され、北極はケプラーやポンスレが想像した無限遠点となる。リーマンは、複素平面と球は同じものだと気づいたという。すなわち、複素平面上で球の歪みや回転する仕方を分析することによって、複素数の掛け算、割り算、そしてもっと複雑な演算ができることを。複素平面とは、ある種の計算尺というわけか。
i を掛けるには、時計回りに90度回転させればいい。関数 f(x) = (x - 1)/(x + 1) は、北極と南極が赤道のところにくるように球を90度回転させるに等しいという。やはり興味深いのは、f(x) = 1/x であろうか。それは、球を逆さまにして、鏡に映るのに等しい。そして、北極と南極を入れ替えると、突然ゼロが無限大に、無限大がゼロになりやがる。ゼロと無限は同等でありながら、互いに反発するかのような存在というわけか。
おまけに、ゼロと無限は、あらゆる数を飲み込み続ける。まるでブラックホールの幾何学モデル!やはり悪魔であったか。これが、ホーキングの言った虚時間、いわゆる無境界仮説の正体であろうか?

4. カントールと無限天国
f(x) = 1/x のような関数は、x = 0 で特異点が生じる。特異点にも様々な種類があるらしい。曲線 f(x) = sin (1/x) は、x = 0 において真性特異点があるという。何が真性かは分からんが、この手の特異点に近づくと、正負の間を行き来しながら、曲線がどうしようもなく暴れだすという。いずれにせよ、特異点は無限との結びつきが強いようだ。
無限を手懐けた人物といえばカントール。彼は、二つの集合を比較する時、要素を1対1で単純に対応させることを考えた。そして、対応できない要素が生じれば、そちらの集合の方が大きいとした。実に当たり前の思考だ。では、無限集合ではどうなるのか?整数と整数の集合を比較する。片方の数を減らしても、やはり対応付けは無限にできる。奇数をすべて取り去っても、やはり同じ。ならば、整数の集合と奇数の集合は、同じ大きさと言えるのか?いくら数を減らしても、集合の大きさは変わらない。これがカントール流の無限の定義である。そして、整数、奇数、偶数は、大きさの同じ無限集合ということになる。これをヘブライ語の最初の文字にちなんで「アレフ0」と名付けた。これを数えられるという意味で、可算集合と呼ばれる。実際は、無限に時間がなければ、数えられないけど。要するに、有理数で表されるのが可算集合ということになり、カントールは無限の中にうまいこと有理数の居場所を与えた。
こうなると数の概念そのものを見直す必要がある。幾何学は、辺の長さや角度といった概念を取り去り、位相幾何学を受け入れた。代数においても、数の大きさではなく、要素を対応させるだけの位相的な思考が必要なのかもしれない。次に、無理数ではどうなるか?カントールは、実数の集合が有理数の集合より大きいとした。この手の集合は、「アレフ1」とされる。不可算無限だ。実際は、連続体無限ということになろうか。無理数を有理数に対応させることは不可能であることは直感的に分かるが、証明することは難しい。それを、ポール・コーエンが、ゲーデルの不完全性定理によって証明したという。そして今日、多くの数学者が連続体仮説を真理だと受け入れている。ただし、非カントール的超限数の研究もあるらしい。
無限集合でありながら、集合の大きさが違うとは、これいかに?複数の神々がいて、それぞれ得意技も違うということか?まるで、一神教からギリシャ神話へ引きずり戻された感がある。カントールは、見事に無限の階層を描き、無限に存在する有理数が数直線上でわずかな空間しか占めないことを示した。
一方、無理数は数直線上を埋め尽くす。無理数から見れば、有理数なんて無のようなものか。人は日常生活で自然数でしか数えない。それは幸せかもしれない。数量に位相なるものがあるとすれば、1か多で抽象化できるだろう。これが無限たる天国の正体か?なるほど、飲む時、一杯をいっぱーいで抽象化すれば、幸せになれる。

5. 悪魔じみたエネルギーと無の真理
相対論は、空間ゼロでありながら、無限質量のブラックホールなるものが存在すると主張する。量子論は、質量ゼロでありながら、零点エネルギーなるものが存在すると主張する。
相対論では、宇宙船が光速に近づくと、時間の流れがどんどん遅くなり、ついには時間が止まるとされる。同時に宇宙船の質量は無限大へ。究極の時間ゼロは、無限エネルギーを生む。時空という概念を用いれば、時間ゼロは、空間ゼロへ還元できる。時間が歪めば、空間も歪む。アインシュタインは、引力の正体を時空の歪で説明した。だが、アインシュタインの重力場方程式には、絶対速度である光ですら逃れられない絶対質量の存在を予感させる。パウリの排他原理を適用すれば、物体は一点に潰れなくて済む。大雑把に言えば、二つのものが同時に同じ場所を占めることはないという原理だ。しかし、チャンドラセカールは、パウリの排他原理の及ばない領域があることに気づいたという。太陽の1.4倍の質量があれば、恒星はパウリの排他原理を打ち破ることができることを。
だが、そんなものは、宇宙のあちこちに散らばっているではないか。あまりに重力が強いため電子は恒星の破壊を食い止められず、電子は陽子に突っ込んで中性子をつくり、巨大な中性子星となる。さらに質量が大きくなると、構成要素がクォークに分解して、クォーク星になるとする考えもある。だとしても、これが最後の砦だ。さらにさらに質量が大きくなると、空間ゼロの点となる。ゼロ次元の無限質量とは、どういう存在なのか?光すら飲み込むのだから、暗黒点となるのだろう。銀河系の中心には、数百万から数十億太陽質量のブラックホールがあるとされる。
一方、量子論では、真空中の絶対零度においても零点振動が生じるとされる。しかも、無限エネルギーがゼロであるかのように振る舞うのだとか。プランクの法則によると、波長が短くなるにつれて、電磁波の放射は急激に無限大になることはないという。エネルギーは、波長が短くなるにつれて、どんどん大きくなるのではなく、再び小さくなるのだとか。ハイゼンベルグは、量子運動の不確かさを不確定性原理で説明した。この法則は、量子の位置と速度を同時に正確に測定できないことを告げる。位置を測定しようとすれば、観測者が量子の運動になんらかの関与をすることになるからだ。人間が認識しようとすると、宇宙法則を破壊するのかもしれん。それは、人間精神そのものが、量子によって構成されていることを示しているのだろうか?
「波動関数を、粒子がどこに現われるかについての確率を示すものと考えると、助けになることがある。電子はそれぞれ空間に拡がって存在しているが、それがどこにあるかを特定する測定をおこなったとき、空間のなかのある点にそれが見つかる確からしさは、波動関数で決まる。」
量子の波は、弦の原理とそれほど違わないという。ギターの弦が、可能な範囲の音をすべて奏でられるわけではない。自然に支配された禁じられる音がある。ピュタゴラスは弦の奏でる音に許される音と禁じられる音があることに気づいたという。
同じように禁じられた素粒子の波がある。ヘンドリック・カシミールは、素粒子がいたるところで、パッと生まれては消えるのだから、禁じられた素粒子波が真空中の零点エネルギーに影響するだろうと考えたという。真空中において、微小な距離で二枚の金属板を近づけると、その間に現われる許されない粒子があるとすれば、内側よりも外側のほうが粒子が多いことになる。そして、金属板は真空の中でぴったりとくっついてしまう。いわゆるカシミール効果というやつだ。これを真空の力というのかは知らんが、外部の力から内部の力、すなわち有から無を誘発したようにも映る。このあたりにダークマターの正体が隠されているのか?人間社会で言えば、無抵抗主義のパワーのようなものか?カシミール効果は、真空にもなんらかのエネルギーがあると告げているようだ。
もし、真空に無限エネルギーなるものが潜んでいるとしたら、それを少しでもいじると宇宙が崩壊してしまうかもしれない。やはり、真空はそっとしておいた方が良さそうか。無はそっとしておいた方が、真理もそっとしておく方が賢明かもしれん。

2012-11-11

"確率論の基礎概念" A. N. Kolmogorov 著

確率論といえば、ギャンブルの公理化というイメージがある。まぁ、それほど的外れでもあるまい。実際、事象が移り行く中で、その選択と結果によって成り立つ理論である。それが人為的であろうが、偶発的であろうが。過去の負けを引きずればマルコフ性を見失い、大局ではエルゴード性を示しながら賭け筋の本質、いわば性格や癖を露わにする。すべての結果を同時に体験することはできないし、いつも時間の方から判断を迫ってくる。うっかりしていると時は無意味に流れ、やり直しもきかない。まさに人生そのもの。そして、こんな不等式がいつも成り立ってやがる。

  人の欲望 ≧ 生きる時間

不等号が絶対に逆向きにできないのは、エントロピーの仕業かは知らんが、時間の収支が常に赤字であることははっきりしている。
さて、これを数学的に言うと、集合論の延長、いや、集合論の特化した理論とすることができよう。そこには、二つの重要な概念がある。一つは、独立性。事象の選択において、存在するかしないか、あるいは複数の状態に対してどちらかに転ぶということ。すなわち、事象族は和集合に限定でき、積集合にはならないということである。二つは、事象族が集合体をなすこと。すなわち、加法定理の世界に閉じられるということである。確率空間が集合体で定義されるのは都合がいい。結果も条件もすべての事象が有限加法族に属すとできるのだから。ただし、「条件つき」という概念が絡むと一概には言えないかもしれない。分布関数では条件別に検討しながら積で連結することになり、乗法定理を無視するわけにはいかない。たとえ、これら二つの概念によって完璧に説明できないにしても、確率論を基礎概念の観点から眺める上で、この方面からアプローチするのは取っ付きやすい。そして、有限空間から無限空間への拡張を論じることになる。また、集合論から特化できる法則が完璧に提示できるわけでもない。少なくとも、確率論は集合論の部分集合とすることはできそうか。
「2回またはそれ以上の回数の試行が、互いに独立であるという概念は、ある意味で確率論の中心的課題となるものである。実際すでに見てきたように、数学的観点に立てば、加法的集合関数の一般論をある特殊な場合へ適用したものが確率論である。」
本書には、アンドレイ・コルモゴロフの論文「確率論における解析的方法について」が併録される。ただ、基礎概念まではなんとか付いて行けるものの、実践例として紹介される解析的方法論に突入した途端に暗闇へと放り込まれる。やはり、数学の落ちこぼれを再認識させられる運命は変えられそうにない。

一般的な分布モデルは、時間の関数と捉えることができるだろう。そして、瞬間 t1, t2,... において、t0 ≦ t1 < t2 < ...の関係で考察することになる。また、事象の独立性の強弱、すなわちマルコフ的かどうかが重要な判断基準となる。あるいは、試行回数への依存性、すなわちエルゴード性を検討することも欠かせない。こうした考察は、「大数の法則」の適用限界から論じられる。
さらに、確率論には「抽象ルベーグ積分」が欠かせないという。期待値を抽出する上で積分的な思考が鍵となるのは想像に易い。極限の存在する集合体であれば、積分操作を可能にするのだから。ここでは、リーマン積分をかなりの部分で改善した考え方を提示してくれる。しかし、確率空間で連続性を前提にしているが、現実には積分不可能な領域もあろうに。ユークリッド空間上に存在する集合体であれば、なんらかの測度で幾何学的に記述できると仮定しているのだろうか?抽象ルベーグ積分の性質を眺めていると、なんでもありに見えてくる。実際、「すべての有界な確率変数は積分可能である。」と断言している。
また、「0-1法則」が付録されるのは、極限確率が 0 か 1 になるケースが基本ということであろうか?確率過程の生存定理として眺めれば、そうかもしれない。
本来、数学とは解釈の余地を与えないものであるが、基礎概念のレベルで解釈しようと躍起になっているところに数学のセンスの無さを思い知らされる。さて、分布関数が連続積分で定義できるならば、ラプラス変換に持ち込めて話は早い。とはいっても、変換表に頼るしかないけど。どうせ数学の落ちこぼれには、結果を鵜呑みにして使ってみるぐらいしかできないのよ。工学系とはそういう世界ではあるのだけど。理屈を知らずに実践することの恐さというものを痛感してきただけに、なんとかしたいものだが...
現実の世界では、ほとんど条件つき確率に支配されるだろうが、その条件の抽出が難しい。限られた条件で推測しようとすれば、極限の大小関係を考察することになる。そして、あの忌わしいε-δ論法的な思考が要求される。ここに登場する数式も不等式の山!おっと、アレルギーが...

ところで、確率ってやつは、基礎理論は単純でも、それを用いるとなると手強い!いくら立派な公理化を示しても、実践した途端に主観に支配されギャンブルに引きずり込まれる。条件を抽出するのは人間の直感なのだから。あらゆる科学的研究がこのジレンマに陥る。気象予測や市場予測といったあらゆるシミュレーション結果が思惑から大きく乖離すると、研究成果に疑問が持たれ予算がつかない。そこで、研究者は条件パラメータを微妙にいじりながら、思惑の範疇に結果を収めようとする。実際、世界最高レベルのコンピュータが弾き出した結果ですら、政治的思惑で揉み消される。人間とは、賭け事となると豹変し、目の前にある不都合な条件が見えなくなる生き物らしい。いまだ人類は、主観と客観を調和させることができないでいる。それが重要だと知りながら。確率論とは、直感を直観に昇華させる試みとでも言っておこうか。直観を研ぎ澄ますことができれば、あるいは確率論を決定論的モデルへと昇華させるかもしれない。そして、神の思惑が見える?かは知らん。

1. 公理系とベイズの定理
まず、確率空間を定義する。要素ωの集合をΩ とし、Ωの部分集合を要素とする集合族を とする。この時、ωを根元事象、Ωを標本空間、 の要素が確率事象である。

Ⅰ. は集合体である。
Ⅱ. の各集合Aに、非負の実数P(A)を定め、これが事象Aの確率である。
Ⅲ. P(Ω)= 1
Ⅳ. AとBが共通の要素をもたないとき、P(A + B) = P(A) + P(B)

上記公理を満たす3つの組 (Ω、、P) が確率空間である。
がΩと空集合からなるとすると、P(Ω) = 1, P(∅) = 0 となる。
しかしながら、この公理系は完全ではないという。実践してみると、様々な例外的な確率空間が考えられるようだ。
確率論では、現実世界に対して、ある事象が起こる確率と起こらない確率で抽象化する。しかも、確率は、何回でも繰り返し、階層構造として捉えることができる。この特徴は独立性と相性がいい。
A, B, ... , N が互いに排反であれば、加法定理が得られる。

  P(A + B + ... + N) = P(A) + P(B) + ... + P(N)

ここで、P(A) > 0 の時、条件付き確率を定義する。

  P(B|A) = P(AB) / P(A)

すると、次式が得られる。

  P(AB) = P(B|A) P(A)
  P(A12...An) = P(A1) P(A2|A1) P(A3|A12) ... P(An|A1...An-1)

つまり、条件付き確率は乗法定理で定義できる。
さらに、ごく当たり前の操作で変形していくと、次式が得られる過程を示してくれる。

  P(AB) = P(A|B) P(B)
  P(A|B) = P(A) P(B|A) / P(B)

これはベイズの定理に他ならない。

2. 確率変数
基礎集合 Ω = A1 + A2 + ... + Am と、関数ξ(ω) を対応させる。

  ξ(ω) = Σ xAi(ω), (1 ≦ i ≦ m)

Ai は集合の定義関数で、
  ω ∈ Ai ならば、Ai(ω) = 1
  ω ∈ Aic ならば、Ai(ω) = 0
尚、Aの補集合を、Ac で表す。この時、ξを有限個の値 x1, x2, ..., xm を確率変数と定義する。さらに、変数ξの期待値を次式で定義する。

  Eξ = Σ xP(Ai), (1 ≦ i ≦ m)

また、確率密度は分布関数 ξ(x)の導関数で定義される。

  fξ(x) = dξ(x) / dx

もちろん、微分可能であればだけど。変数列が収束すれば確率も収束し、確率が収束すれば期待値も導けるという仕組みであろうか。

3. 無限確率空間とボレル集合体
無限確率空間では、連続性の公理を前提すると宣言される。そして、公理Ⅴが定義される。

Ⅴ. の事象の減少列 A1 ⊇ A2 ⊇ ... ⊇ An ⊇ ... について、
    積集合 ∩An = ∅ ならば、lim P(An) = 0

しかしながら、加法定理からすると、次式が成り立つ。

  P(A) = P(A1) + P(A2) + ... + P(An) + P(Rn)

尚、Rnは、Rn = ΣAm (m > n) で抽象化したもの。
ん???独立な無限確率空間では、確率が 0 に収束しながら、加法定理に留まるということか?有限界では無矛盾に見えても、無限界に拡張した途端に完全な公理系ではないことを匂わせる。このあたりが確率論を難しくさせるところであろうか。
そして、「ボレル集合体」が紹介される。すべての開集合から生成される完全加法族で、集合ωの部分集合からなる集合体 に含まれる集合Anのすべての可算和 ΣAn もまた に含まれる集合体のことだそうな。その公式は、こうなる。

  和集合 ∪An = A1 + A21+ A32c1c + ...

尚、Aiの補集合を、Aic で表す。

4. 抽象ルベーグ積分とチェビシェフの不等式
条件付き期待値を、乗数の精度内で積分と一致させるようなことを考える。抽象ルベーグ積分の性質では、すべての有界な確率変数は積分可能だという。というより、そのように持ち込むのだろう。そして、次のことが導かれるという。

Ⅰ. |Eξ| ≦ E|ξ|
Ⅱ. ξ(ω)が積分可能として、0 ≦ η(ω) ≦ ξ(ω) であれば、η(ω)も積分可能で、Eη ≦ Eξ
Ⅲ. inf ξ(ω) ≦ Eξ ≦ sup ξ(ω)
Ⅳ. 実数 K, L において、E(Kξ+Lη) = KEξ + LEη
Ⅴ. 級数 ΣE|ξn| が収束すれば、E(Σξn) = ΣEξn
Ⅵ. ξ, η が同値ならば、Eξ = Eη
Ⅶ. すべての有界な確率変数は期待値をもつ

また、チェビシェフの不等式を紹介してくれる。実変数xの非負の関数f(x)において、x ≧ a の時、f(x)の値は、b > 0 より小さくなることはないものとする。すると、任意の確率変数ξ(ω) について、期待値Ef(ξ)が存在すると仮定すると、次式が成り立つという。

  P{ξ(ω) ≧ a} ≦ Ef(ξ) / b

さらに、特別に重要なケースは、f(x) = x2 の時だとし、次式が導かれる。

  P{|ξ(ω)| ≧ a} ≦ Eξ2 / a2

これが、チェビシェフの不等式と呼ばれるものらしい。確率変数ξ(ω)に対して確率の下限が規定できるということか。んー...証明はにわかに信じがたいが、結果は貴重である。

5. 大数の法則
確率変数の列 η1, η2, ..., ηn, ... において、任意の正数 ε に対し n → ∞ の時

  P{|ηn - dn| ≧ ε} → 0

となる数列 d1, d2, ..., dn, ... が存在する時、確率変数 ηn「安定」であるという。
また、すべての期待値 Eηn において

  dn = Eηn

とおくことができる時、安定性は「正規」であるという。
「有界な変数列の安定性は正規でなければならない。」
また、ε に対して n → 0 の時、確率変数 ηn - dn が 0 に収束するような、すなわち、次式が成り立つような場合

  P{lim(ηn - dn) = 0} = 1

確率変数 ηn「強安定」であるという。ここでは、試行回数への依存性を検討していることになる。個々の試行が、大きな試行回数 n に対して、依存が小さい時、変数 ηn は安定していることになる。つまり、マルコフ的。これは、エルゴード性の評価に使えそうだ。そして、生命保険会社は、大数の法則を当てにする。

6. 0-1法則
0-1法則とは、極限確率が 0 か 1 に限られる一般定理のことらしい。
任意の確率変数 ξ1, ξ2,... において、f(x) = f(x1, x2,...) は、変数 x = (x1, x2,...) のベール関数とする。そして、最初の n 個の変数 ξ1, ξ2, ..., ξn が既知であるとする。
これらの条件の下での関係
  f(x1, x2, ..., xn, ...) = 0
が成立する条件つき確率
  P{f(x1, x2, ..., xn, ...) = 0 | ξ1, ξ2, ..., ξn}
が、各 n について、絶対確率
  P{f(x1, x2, ...) = 0}
に等しいとすると、絶対確率は、0 または 1 になるという。
結果的に、確率が極端になるケースはよくある。存在するか存在しないかという問題も、0 か 1 に収束する。しかし、これを予測の段階で断言することは難しい。断言できるいくつかの事例が、レヴィによって発見されているそうな。

7. 確率過程と正規分布
「なんらかの物理システムにおいて、ある時刻 t0 での状態 X0 がわかるとき、時刻 t > t0 にとりうるこのシステムのすべての状態 X の確率分布がわかるのであれば、この物理過程(システムの変化)は"確率的に規定される"という(この過程を確率過程という)。」
確率過程という用語は当たり前のように使っているが、意外と説明するのが難しいことに気づかされる。通常、確率過程は、時間で区切った離散系列と見なすところがある。実際、出来事をスナップショットのように思い浮かべる。しかし、ここでは時間の連続性が暗示される。連続過程を前提するから、微分方程式に持ち込めるのだけど。
本書は、ラプラスの正規分布は自然で無理のない簡潔なものだという。そして、論文「確率論における解析的方法について」の中で、ラプラスの一般公式からポアソン分布を得る事例が紹介される。そして、級数
  a = ΣkPk, b2 = Σk2k
が絶対収束すれば、次のラプラスの一般公式の適用可能性の条件が問題になるとしている。

  Pkp = 1 / {b√(2πp)} exp [- (k - pa)2 / 2pb2 ] + o(1 / √p)

この式が正規分布の確率密度関数を予感させると言えばそうなんだけど、自然で簡潔な形と断言できる感覚は宇宙人か?確率過程の基本モデルが正規分布にあるにせよ、拒絶反応を増幅される結果に終わるのであった。はぁ~...

2012-11-04

ポータルサイト変更...GさんからYaさんか?いや、Neちゃんとバイブする!

夏頃であろうか、Gさんサービスが次々と抹殺される中、iGoogleの終了(2013年11月1日)がアナウンスされた。一年以上前から宣言してくれるのは助かるが、愛用してきただけに痛い!まさか、Blogger の廃止なんてこともありうるのか?覚悟しておく必要はあるかもしれない。いつサービスやサイトが閉鎖され、一瞬のうちに大企業が消え、それどころか、産業ごと頓死しても不思議ではない時代。Gさん依存を見直すのに良い機会か。その前に、コンピューティング依存が問題か。だが、人間は何かに依存しなければ生きてはいけない。
ちなみに、アルコール依存のリスク管理はバッチリだ!スコッチ、ブランデー、ラム、純米酒、焼酎、たまにフルーティーなカクテル...これだけ分散させればヘベレケで幸せ!

さて、次の入り口をどこにするか?まず、My Yahoo! を一ヶ月ほど試行してみる。んー、そんなに悪くない。巷では、Netvibes もなかなからしい。おフランス育ちだけに恐る恐る近づいてみると、ほとんど日本語化が進んでいる。軍配を上げるなら、Netvibes であろう。レイアウトの自由度とコードを埋め込める柔軟性が気に入った。対して、My Yahoo! の広告の仰々しさは、Yaさんの押し売りか。
色分けすると、運用効率を目指す Netvibes、ショッピングやオークションまでも含めた統合環境を目指す My Yahoo! といったところであろうか。ユーザ囲い込みの観点から、哲学的に惹きつけようとするのに対して、大々的な広告塔になりきろうとする、といった違いであろうか。とりあえず、コード集めの視点から Netvibes、コンテンツ集めの視点から My Yahoo! で併用してみる。おかげさまで、i(愛)のあるGさんはいつでも葬れる。もちろんメインは、おNeちゃんに決まってるやん!おフランス娘に、Yaさんがバックにつけば最強よ。これで毎日バイブす...やめられまへんなぁ~

1. Netvibes
レイアウトの自由度、コンテンツの柔軟性、運用の効率性、そして、ユーザの自立性といった哲学がうかがえる。サービスなんてものは、サービス会社に提供してもらうものではなく、利用者自身で構築するものかもしれん。I/F設計さえちゃんとしていれば、パーツを集めてくればいいので、コンテンツにこだわる必要はない。こういうのを魅せつけられると、コンテンツにこだわっていた自分が馬鹿らしくなる。その特徴はこんな感じ...

  • ウィジットの柔軟性が高い!この仕掛だけでも、かなりの可能性が見えてくる。
    「HTML」や「HTML editor」で Javascript やブログパーツが直接埋め込める。
    「Web Page」でURLが指定でき、いざとなればどこのサイトでもコンテンツ化できる。
    ちなみに、マーケット情報は次のサイトから株価やチャートを埋め込んでいる。
    http://www.invest-jp.net/
    http://finance.mvon.net/tool/makeboard.html
  • 検索エンジンがオン・オフできる。これは意外と大きい機能で、表示スペースが効率化できる。 ポータルサイトでは、検索エンジンを目立つところに配置する文化が根付いている。 ほとんどのブラウザが検索I/Fを持っているというのに。こんな当たり前なことを気づかせてくれる。
  • レイアウトの自由度が高い!タブ別にコンテンツを横4列まで配置可。横幅も自由に変えられる。
  • コンテンツが豊富!Googleカレンダーや Google Map などGさんサービスとの連携もなかなか。
    「E-mail Wizard」は、GMail, Yahoo!mail, Hotmaiil、その他POPに対応。
    「SNS Wizard」は、Facebook, Twitter, Linkedin との連携に対応。
  • RSSリーダとしてのユーザビリティはかなりいい。未読数も一目瞭然!
  • しかし... ちと重い!記事のリアルタイム性を重視している模様。
    日本人向けのコンテンツもいまいちか。天気予報は地域設定ができるものの、国内予報と微妙に違う。

2. My Yahoo!
広告の鬱陶しさだけで、ヤル気が失せる。なので、最初にブラウザ側でやる作業が、アドオン「Adblock」でPRの抹殺!その特徴はこんな感じ...

  • 日本人向けのコンテンツでは、Netvibes よりもいいものがある。天気予報や電力使用率など。Yahooファイナンスのポートフォリオがコンテンツとして用意されるのがありがたい。
  • 背景テーマは少ないが、タブごとに選択できる。
  • しかし... レイアウトをはじめ自由度が低い。分かりやすいとも言えるが。
    検索エンジンが当然ながら Yahoo!

3. ついでに、iGoogle
コンテンツでは「ピンポイント天気予報」と「雨雲レーダ」がお気に入りだったが、おかげでこだわりは薄れた。
さて、Gさんについて何か書こうとすると、Blogger の愚痴が始まった!
...ラベル数の値が一致しないことがあった。...統計情報はチャラにされたこともあった。数値そのものもあてにならない。...作成した文章に奇妙なhtmlタグが入ることもあった。おかげで、必ずhtmlモードでコードを確認する癖がついた。...
このような細かな不具合がユーザの気づかない所で頻繁に起こっている。また、新機能の品質の悪さは当たり前という感覚が定着し、半年は近寄らないことが習慣となった。圧倒的多数が気づかなければ、なんでもありか?これが、Gさん式民主主義なのか?
とはいえ、自由度が高いのも確かで、Gさん依存は相変わらず高い。所詮、俗世間の酔っ払いはサービスの奴隷よ。