2022-11-27

"アジール - その歴史と諸形態" Ortwin Henssler 著

歴史学者伊藤正敏は、アジールの視点から中世日本の寺社勢力論を熱く語ってくれた(前記事)。アジールに、民主主義や自由精神、あるいは、基本的人権の源泉を見る思い。そして、オルトヴィン・ヘンスラーという人の「アジール論」が紹介され、その成り行きで本書を手に取った次第。おいらは、暗示にかかりやすいのだ。
しかしながら、品切れときた。古本屋でも見つけられず、市立図書館に縋って...
尚、舟木徹男訳版 + 解題(国書刊行会)を手に取る。

注目したいのは、「アジール法」という表現である。法といっても、実定法というよりは、それを超えた平和秩序に属すものらしい。
そもそも法制度というものは、文化の投影であり、共同体の在り方の表明であり、社会に対する態度でもある。集団社会には、慣習のうちに暗黙の掟のようなものが湧いて出る。人間ってやつは、なにかと決まり事をこしらえ、それを周りに守らせるのが、お好きと見える。
そして、自分自身が法となり、独占欲を旺盛にし、独裁欲を露骨にする。自分だけの決まり事にしておけばいいものを...
ちなみに、国権の最高機関と謳われる国会には立法権とやらがある。それで、政治家自身が決めた法律のストレステストをやってりゃ、世話ない。形骸化していく法を量産して...
実定法を超越した掟となると、自己存在に基づく普遍性のようなものが感じられ、自己防衛本能に根ざした自然法のようなものが見て取れる。
ヘンスラーは、「アジール法」という用語に、「不可触性」「不可侵性」という二重の意味を込め、血讐を抑止するような考えを植え付けることが重要だとしている。そして、こう定義する。

「一人の人間が、特定の空間、人間ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵になる、その拘束力をそなえた形態」

これに対して、解題では舟木徹男が、庇護だけでなく、庇護を提供する場所それ自体をも含めて、こう再定義する。

「平和聖性にもとづく庇護、およびその庇護を提供する特定の時間・空間・人物」

どちらの定義も、なかなか...
例えば、刑法は、犯罪者に対する被害者の復讐心を肩代わりする役割もあろう。復讐の連鎖は、社会秩序において重要な問題であり、目には目を... では循環論に陥ってしまう。法の加減は難しい。被害者を犯罪に走らせる社会では、法治国家とは言えまい。
しかし、だ。犯罪者に限らず、どんな集団社会にも、馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々が少なからずいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者など、その境遇は様々。アジールだって集団社会の一形態であって、誰もが安堵して暮らせる理想郷というわけにはいくまい。集団社会から逃れた先が、これまた集団社会とは。世間で忌み嫌われる孤独死こそが、理想的な死という考えも成り立ちそうな...

「危険で恐ろしい森は人を容易に近づけない。ということは逆に、土地に縛り付けられていた農奴や領主に反抗したり不正に犠牲になった人々には、森とは人気のない静寂さに自由な空気が流れる解放の場だと夢想させたし、社会から追放されたアウトローには追っ手のかからぬなによりのアジールだったはずである。」
... 伊藤進

さて、本書はアジール法の形成過程を三段階で物語ってくれる。最初に「宗教的・魔術的段階」、次に「実利主義的段階」、そして最後に「退化と終末の段階」と...

まず、人を動かす原始的な心理状態に、不安と恐怖がある。聖霊や神への畏敬は原初的な動機でありながら、21世紀の現在でもなお生き続けている。その仲介役を演じる魔術師や妖術師、あるいは聖職者に神秘的な力を信じつつ。
ここでは、霊力のようなものを「オレンダ」という用語で説明している。強い効力を持つ有形無形の霊的な存在を信仰する観念状態を「オレンディスムス」というそうな。
そして、オレンダ化に不可侵のタブーが結びついた退避場所が、神秘的な聖域と化す。あるいは、その聖域に一般人を寄せ付けない不可触のタブーが働く。これが、宗教的・魔術的段階である。

次に、法が宗教から距離を置くようになり、やがて離脱していく。国家が組織として確固たるものとなり、国家権力を拡大させていくが、まだ、信仰的な法が大きな適用力を持つ。政治の行事にも宗教的な祭祀が設けられ、アジールの存在を暗黙に承認しつつ、国家権力との共存を図る。これが、実利主義的段階である。

そして遂に、国家が宗教から独立し、国家がすべての強制力や法を独占することで、アジールの終結を見る。法の細分化、専門家が進み、合理的な秩序が構築され、宗教的・魔術的アジールは不要であるばかりか、国家にとって敵対する存在となる。かくして中央集権化が推し進められることに...

近代国家は、アジールのような多様な世界の抹殺に貢献したということであろうか。21世紀の現在でも、愛国心の下で世界観の一元化を図ろうとする輩が勢いづく。ただ、こうした動きに反発するかのように、仮想社会では多様化が進む。現在の社会構図は、一元化と多様化の二極化という見方もできよう。
国家の概念も、プラトンの国家から随分と変質したようである。近代国家の概念からも、そろそろ脱皮してもよさそうな。
となると、こう問わずにはいられない。本当にアジールは終わっちまったのだろうか?21世紀版のアジールが存在するとしたら、それはどんな形であろうか?と。そして、国民である前に、市民でありたいものである...

いまや国家の概念は、領土だけで説明がつくものではない。むしろ、イデオロギーや世界観、あるいは哲学的な共通観念による枠組みの方が大きな意味を持つ。アジールもまた地域や領域で説明がつくものではあるまい。
誰とでもつながれる社会では、孤独愛好家を増殖させる。グローバリズムが浸透するほど、民族意識やナショナリズムを旺盛にさせる。これだけ人間が溢れているというのに、なにゆえ小じんまりとした関係に縛られなければならんのか。
やはり人間社会には、駆込み場、退避所、聖域といったものが必要である。世間に惑わされずに生きることは難しい。誹謗中傷の嵐が吹き荒れる社会では尚更である。まずは、じっくりと自分という人間を知ること。アジールとは、そうした思考を促す場であったり、時間であったり、それらを取り巻くあらゆる関係を言うのであろう。だとすれば、現代社会にこそ必要な概念に見えてくる...

2022-11-20

"アジールと国家 - 中世日本の政治と宗教" 伊藤正敏 著

政治が歴史の表舞台だとすれば、こちらは裏舞台。だが、人間の本質を突いているのは、こちらの方やもしれん。
歴史書に触れれば、輝かしい政治指導者や華々しい権力争奪戦に目を奪われがちだが、その陰で真に社会を支え、静かに生きてきた無名の人々がいる。表通りは、なにかと騒がしい。SNS で無理やり繋がろうとする絆社会は、なにかと鬱陶しい。ならば、あえて静かな裏路地を歩いてみるのも悪くない...

どんな集団社会にも馴染めない人々がいる。周りにうまく溶け込めず、自然体でいることの困難な人々がいる。異端者やアウトロー、家庭環境や経済状態の過酷な者、ハラスメントやドメスティック・バイオレンスに苦しむ者、あるいは、犯罪に走ってしまう者や極道に身を投じる者など、その境遇は様々。中世武家社会には、戦に敗れ、身分を追われ、家柄や家系を隠して放浪した者も多くいたはず。誰もが安堵して暮らせる理想郷なんぞ、この世に存在しまい...

人は窮地に追い込まれると神に縋る。だが、神は消極的な人間がお嫌いと見える。神と交信できそうな寺院や神社が最初の駆込み場となるものの、そこも集団社会であることに変わりはない。平和と安住を求めて集まった人々が、突如として武装集団に変貌することもしばしば。
そうなると、集団の掟は却ってタチが悪い。息苦しい集団にしがみつくぐらいなら、孤独の方が合理的という見方もできよう。
とはいえ、面倒な縁をすべて断ち切り、自立して生きてゆくには勇気がいる。覚悟がいる。そうしないと生きてゆけないとすれば、社会から隔離した領域が生じ、世間からタブー視される。無縁所のような場は、人間社会には必要なのだろう。つまりは、個人にとっての聖域が...

伊藤正敏は、著作「寺社勢力の中世」の中でアジール的な性格を見い出しながら、「無縁所」という語を使っていた(前記事)。その理由は、寺社勢力が巨大な経済センターとしての機能を持ちながらも、権力や武力と無縁とは言えず、平和秩序の追求を目的とするアジールとするには、あまりに多くの不純物が含まれていると感じたためだという。
おそらく純粋なアジールなんて、この世には存在しまい。不完全な知的生命体が思い描いた理想郷なんぞに。本書は、中世の日本史をアジール論から再解釈を試みる...

さて、「アジール」とはなんであろう。この用語はギリシア語に由来し、「神聖な場所」、「統治権力の及ばない領域」といった意味があるらしい。オルトヴィン・ヘンスラーという人が、こんな定義をしたそうな。

「一人の人間が、特定の空間、人間、ないし時間と関係することによって、持続的あるいは一時的に不可侵なものとなる。その拘束力をそなえた形態」

このフレーズだけでも、ヘンスラーの書に興味が湧く。おいらは暗示にかかりやすい。但し、品切れで入手は難しそう...

まず、国家と一線を画す場とすることはできよう。そこには、不可触と不可侵という二重の意味が込められる。消極的な意味では、社会からの駆込み場、世間からの退避所といった暗いイメージもあるが、積極的な意味では、政治体制に束縛されない自由活動の場というようなワクワク感もある。その生命線は、暗黙の不入権ということになろうか。
アジール法は、実定法による秩序よりも、それを超えた平和秩序に属すという。法を制定する目的は、平和と人権を第一とするであろうが、法の精神だけを説いたところで現実感に乏しい。平和秩序のための武力保持は、自然に発する自己防衛意識の顕れであり、現代法でもその正統性が認められる。
法治国家という形態がたとえ表向きであれ、中世の時代にこんな領域が自然発生するとは、なんとも魔術的で呪術的ですらある。
中世日本の主役は、封建制を確立した武士階級というのが建て前とされるが、公家、武家、寺社勢力の三つ巴の時代という見方もできそうだ。そして、各々が対立しつつ補完しあって統治していたと。俗世間を逃れ、身分を超えた移民や難民の集合体が、第三勢力となって日本の経済センターを担っていたと。
いつの時代でも、経済ってやつは、あまり政府や官僚が口を出さない方が、自由にアイデアを創出し、活発にもなるようである。
本書が提示する「アジール ≒ 無縁所 ≒ 寺社勢力」という図式もイメージしやすい。そして、この領域に、民主主義の源泉と経済活動を背景にした自由精神の体現を見る思い...

「アジールは人々を魅了してきた。網野善彦『増補 無縁・公界・楽』(平凡社選書、1987年、初版『無縁・公界・楽』1978年)は、原始以来、人々の生活の中に脈々と生きつづけ、権力や武力と異質な自由と平和『無縁、公界、楽』、アジール的な世界を叙事詩さながらに描いた。現代人はどこかにこんな世界への憧憬を持っている。またこういう場が現代社会にもどこかにあると信じたい。」

2022-11-13

"寺社勢力の中世 - 無縁・有縁・移民" 伊藤正敏 著

日本の文明や思想の源流は、その大半が中世の寺社にあるという。中世の寺社は、古代の寺社とも近世の寺社とも似ても似つかぬものだとか。それ故、学会では特に「中世寺社勢力」と呼ぶそうな...

古代に創建された東大寺、興福寺、延暦寺、高野山などが中世には変貌を遂げ、最先端技術、軍事力、経済力などを背景に、その勢力は幕府や朝廷を凌駕していたという。
信長の叡山焼き討ちの例を一つ挙げても、政治権力者たちは、何故、そこまでの惨殺行為に及んだのか、ずっと疑問に思ってきたところ。神や仏を後ろ盾にした思想が、しばしば権力とぶつかり、それが目障りだったことは確かであろう。だが、それだけか。別の何かを恐れてのことか...
寺社といえば、僧侶を中心とした仏教団体をイメージしてしまうが、ここでは宗教的な意味合いを超えた、もっと合理的な組織としての様子が伺える。

中世の自治都市といえば、堺の町を思い浮かべる。執政官により治められる自由都市として、イエズス会宣教師によって西欧に紹介され「東洋のベニス」と呼ばれた町である。そこには勝者も敗者もなく、堀によって他勢力を寄せ付けず、人々は平和に暮らしていると。しかも、当時の最新兵器である鉄砲の最大流通路でもあった。堺の町は、代わる代わる時の権力者が支配にかかったが、あらゆる政治的駆け引きをもって屈せずにきた。堺焼き討ちの日まで...
これに似た自治都市が日本には無数に点在したという。自由精神ってやつは、抑圧するほど反発する性質がある。21世紀の今でも、抑圧的な政治権力ほど、常に民衆を監視せねばならないという奇妙な理屈がつきまとう。独裁的な人物ほど民主的な風土を恐れると見える...
尚、伊藤正敏は、この寺社勢力を「境内都市」と呼んでいるが、どうも気に入らないらしい...

「境内都市というのはどうも語感が悪い。よい言葉を思いつかないので使っているが、自分でも気に入っていない。学会では境内町と呼ぶ人がいるが、門前町と似た小さな町のイメージがあり、日本の経済センターを呼ぶ言葉としては弱い感じがする。最後になるが読者にお願いがある、よいネームを考えていただきたい。よろしくお願いします。」

近代国家という枠組みが出来て以来、たいていの人は生まれてすぐ様、この枠組みに編入される。そこに自由はない。おまけに、疑問すら持たない。まさに奇跡的な自動化システムである。その裏で、社会に馴染めず孤立していく人々が少なからずいる。どんな集団社会にも、退避する場がいる。距離を置く場がいる。無闇に絆を煽る社会では、尚更。孤独ってやつは、集団の中にこそある...

中世にも、幕府や領主の元で主従関係を結ぶという枠組みがあり、同時に、はみ出し者の避難所も自然発生した。寺社の役割は、信仰的な救済だけでなく、村社会から追いやられた者、犯罪を犯して逃げ惑う者、政権争いに敗れて流人となった武士などの駆込み場ともなっていた。この場には、農民、職人、商工業者、武士など身分を超えた人材が集まってくる。大袈裟な見方をすれば、移民たちで活気づくアメリカ合衆国のような雰囲気さえ感じる。
避難民たちは過去を断ち切りたい。身分を捨て、生まれ変わって出直したい。国家に属す社会を有縁所だとすれば、社会を拒絶した無縁所。そこには夢と希望が溢れ、中には過去の栄光を取り戻さんがために、一時的に退避した武士もいる。
身分や家柄に囚われなければ、自然に能力主義が育まれ、才ある者が指導者となる。様々な書物に明るい僧侶の教えに導かれ、智慧が智慧を呼ぶ。自由な経済活動に自由精神の源泉を見れば、身分に囚われない組織構造に民主主義の源泉を見る思い...

しかしながら、自由放任ってやつは、やがて弱肉強食の性格を露わにする。議会制にも似た決議方式は、平等を建て前にすれば、難なく運営できよう。寺社ともなれば、神の前で平等が前提され、尚更。だが、集会や議会といった類いには派閥が蔓延り、事実上、派閥のボスが決定権を持つことに。まさに現代の縮図を見る思い...

「境内都市は、民主主義というより大衆社会の特徴が目立つのだ。外見上の議会制度をもち、民主主義的約束がありながら、議論を尽くした結果とはいいがたい決定が出る。皮肉なことにこれも現代大衆社会に酷似する。」

本書は、「国家 = 社会全体」という図式は、陥りやすい思い込みであると指摘している。では、現在の国家の概念はどうであろう。国家主義や愛国心と距離を置く人は多い。グローバル社会ともなれば、尚更。それは、他国を蔑むことによって自国を美化する連中の集まりにも映り、郷土愛のような自然に発する思いとはまったく別物に感じる。
そして、ネット社会にも、誹謗中傷の荒れ狂う裏で、無縁の仮想空間が拡がる。エンジニアの世界にも、企業や組織に所属せず、在野に生きる人たちがいる。オープンソースの世界には、ボランティア的な活動に励む人たちが多い。ひたすら自らの技術を磨こうと。ギークにも、ホワイトハッカーにも、そうした傾向を見つける。こうした世界も、ある種の無縁所に映る。
そして、21世紀の今、組織に所属する意味が問われる時代へ回帰するかに見えるのは気のせいであろうか。現在と中世とでは、無縁の概念も随分と違うであろうが、いつの時代でも無縁所の役割は大きいと見える。誰もが馴染める理想郷は、おそらくこの世には存在しまい...

ところで、日本の中世とは、いつ頃を言うのであろう。学校の教科書には、鎌倉幕府の成立(1185年)から室町幕府の滅亡、すなわち信長が将軍足利義昭を追放した時点(1573年)、とあったような。そう簡単に何年なんて割り切れるものではあるまい。学会でも、様々な論説があるようだ。
例えば、始まりの一つに、院政の開始とする説。すなわち、平安時代の摂関政治が衰え、白河上皇が実権を握った頃(1086年)。
終わりの一つに、信長が入京し、すでに将軍が死に体となった頃(1568年)とする説など。
しかし本書は、いずれのパターンとも相容れない。こと歴史では、政治権力者が主役を演じる表舞台に注目しがちだが、ここでは庶民に着目した裏舞台に注目している。
まず、始まりは... 1070年2月20日。祇園社が鴨川西岸の広大な地域を「境内」とし、朝廷から不入権を認められた日。これが京における無縁所の第一号というわけである。
そして、終わりは... 1588年7月8日。秀吉が刀狩令を布告した日。農村の武装解除として知られる法令は、全国レベルでの兵農分離を意味するが、同時に寺社に対しても適応されたという。つまり、無縁所の武装解除をもって終焉というわけである。

「人間には、縁などより先に、生の生活、生の感情、自然の尊厳がある。これを積極的価値として位置づけられたのが自然権思想である。縁切りとは、縁のために損なわれた人間の自然権を回復しようとする試みの、第一歩としての逃避である。その人々の思いが作り出した、非制度的制度こそが無縁所なのだ。中世とは、無縁所の時代だ。無縁所が息づいていた時代、これこそが中世である。開始は一〇七〇年、終了は一五八八年だ。」

2022-11-06

"読書論" 小泉信三 著

読書スタイルは、十人十色。読書を論じ始めると、独り善がりにもなる。そして、体験談となるは必定。読書家が論じれば、それに興味を持つ人もまた読書家であろうし、類は友を呼ぶ... とは、よく言ったものである。今更、読書の有用性を説いても詮無きこと。読書の悦楽なんぞ語るまでもあるまい。個々の思い入れに委ねるばかり。とはいえ、何を読むかとなると、達人の意見も聞いてみたい。クチコミやオススメの嵐が吹き荒れる社会では、特に...

たいていの読書家は精読を勧める。本書も例に漏れない。但し、ある程度多く読むことも勧めている。本当は、精読が正論なのであろう。しかし、人生は短い。速読術を会得したいところだが、それには鍛錬がいる。
合理的に生きるために、まずは良書を読むこと。良書を読むには、悪書を読まぬこと。とはいえ、悪書を知らずして、良書を知ることも叶うまい。有意義に生きるためには、無駄な生き方も学ばねば。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体の、いわば宿命。対義的な表現では、論語読みの論語知らず... ってのもあるし、マルクス読みのマルクス知らず... ってのも耳にする。
ちなみに、おいらはマルクス知らずのマルクス嫌いで、本書が高く評価している「資本論」は、いまだ手が出せないでいる。その第一巻第一篇が要約される「経済学批判」を読んだ時は感銘を受け、少し近づけそうな気がしたが、「共産党宣言」を読んで思いっきり引いてしまった。ToDo リストには未練がましく居座ってやがるけど...

ゲーテは「ファウスト」の中で、聖書に記される「始めに言葉ありき」という文句を「始めに行動ありき」と改めた。神は言葉で善悪のすべてを掌握できるらしいが、人間は自ら行動してみないと、なかなか善悪の判断もできない。技芸の道には、習うより慣れよ!という格言があり、プログラミング言語の修得でもおまじないとされる。言い訳じみた言葉を探す前に、やってみよう!学ぶとは、そういうことなのだろう。
とはいえ、大著を前にすれば、やはり尻込みする。まずは一冊、じっくりと、一ヶ月ぐらいかけて。すると、その経験が基準になって読書体力がつき、恐怖心も薄れていく。興味のない本に手を出しても苦痛が残るだけ。読書空間には、常に自由な空気を充満させておきたい。ノルマなんて無用!抑圧的なものはすべて排除!それで、何のために読むか?って。そこに本があるから...

さて、本書は、何を読むべきか、如何に読むべきか、について助言し、何を如何に読んだかを物語ってくれる。読書範囲は好奇心とともに拡がっていく。好奇心は、まずは認識すること、まずは知ることに始まる。興味ある一冊を読み、心を動かされるものがあれば、そこから引用や参考文献を辿る。
貧乏性のおいらは、買った本の活字を隅々まで拾わないと気が済まない。そんな面倒臭い性分が大嫌い。一冊を読むのに思いっきり時間を浪費し、多くを読むのが大の苦手ときた。
しかしながら、活字を拾うのと精読とではレベルが違う。
そういえば、丸谷才一が書いていた... まとまった時間があったら本を読むな。本は原則として忙しい時に読むもの。まとまった時間があれば考えよ!... と。
本書の立場も、読書は目的ではなく、あくまでも思考のための手段の一つ。考えるために本を読む!といったところか...

「読書の良習慣はしばしば読書家の悪癖と相隣りする。よく読書するものに往々自ら見、自ら考えるに怠惰なものが少なくないのは惜しむべきことである。」

また、再三反復して読むことを勧めているが、これが一番の難題やもしれん。気に入った音楽なら何度聴いても飽きないし、映画だって感動すれば何度だって観ちまう。なのに、本となると。二度、三度と読み返していくうちに、新たな境地が開けるかもしれないのに...
学生時代に読んだ「論語」は、いつか読み返そうと思いつつ、三十年が過ぎた。自分のテーマ曲のような本といえば、プラトンの「饗宴」あたりになろうか。いや、キェルケゴールも捨てがたい。いやいや、カントも、ゲーテも、シェイクスピアも... うん~、一生悩んでなさい!しかし、こういう悩みは楽しくて、いかんわ!

「殊に複雑な構造を持つ交響曲の如きは、始めてただ一回それを聴いて、直ちにその美しさ或いは大さの全体を解し、味わうというごときことは到底あり得ない。名曲は反復して聴くべきものであり、それによって始めてその真価を知り、或いはいよいよその真価を知ることが出来る。そしてまた、斯く反復して聴くに堪えるか否かということが、その真価の最も確実なテストとなる。」

さらに、せっかく読んだ内容を忘れちまうのではもったいない!というので、理解を深める目的で、読書覚え書きを残すことを勧めている。自分で文章に起こすとなると、熟考しないわけにはいかない。
だが、そのために言語力が問われ、更に面倒な課題をつきつけられる。言語力をつける方法の一つとして翻訳を勧められたり、言葉を合理的に記述する難しさを思い知らされたりと。
まさか!読書論を読んで、文章論をつきつけられようとは...

「畢竟推敲がいかに大切であるかというに帰着する。推敲とは唐の一詩人が僧敲(ハク)月下門としようか僧推(ハス)月下門としようか迷って苦心したというところに由来するという、その語源も示しているように、いかに適当の場所に適当な言葉を用いるかの吟味選択を指していうのであるが、篩にかけて字句を捨てることは、その最も重要の部分をなすものと知るべきであろう。」