2018-10-28

"自由からの逃走" Erich Seligmann Fromm 著

自由とは、実に厄介な代物だ。いざ自由を与えられても、凡人には何をしていいか分からない。大人どもは、いつも文句を垂れる。具体的に示せ!と...
誰かに当たる性癖は依存症の表れ。政治家に当たってはお前のやり方が悪いと弾劾し、道徳家に当たっては空想論もいい加減にしろと糾弾し、教育家に当たってはお前のしつけが悪いと誹謗中傷を喰らわせ、小説家にいたっては人類を救え!などとふっかける。
巷にはハウツー本が溢れ、ノウハウセミナーはいつも大盛況ときた。恋愛レシピから幸福術、あるいは人生攻略法に至るまで、まさにマニュアル人生。才能豊かな連中ときたら、哲学者の語る曖昧な言葉を金言にできると見える。何をヒントにするかは、自由と言わんばかりに...
一方、移り気の激しい大衆は右往左往するばかり。洪水のごとく押し寄せる流行りの知識に消化不良を起こし、要求するばかり。もっと分かりやすくしろ!と...
これほど無意識の領域が広大だというのに、なにゆえ自由なんてものが信じられるのか。これほど気まぐれな奴隷に成り下がっているというのに...
本当の自由なんぞ、この世にありはしない。あるのは自由感だけだ。あるのは自己満足感だけだ。人生に意味や目的があるのかは知らん。それを求めてやまないのは自己に意味があると信じ、存在感を噛み締めたいだけだ。真理を求めるのは、それがないと生きられないからではない。盲目感に耐えられないだけだ。正義感に操られては非難癖がつき、倫理観に憑かれては意地悪癖がつき、理性や知性までもストレス解消の手先となる。自由に生きるよりも、人のせいにし、社会のせいにし、神のせいにしながら生きる方がはるかに楽ってものよ。凡庸な、いや凡庸未満の酔いどれ天の邪鬼が、自由が欲しい!と大声で叫んでいる間も、天才どもは静かに自由を謳歌してやがる。どう足掻いても奴隷に成り下がるのであれば、そこから逃げるほかはない。人生はまさに逃亡劇...

「もし私が、私のために存在しているのでないとすれば、だれが私のために存在するのであろうか。もし私が、ただ私のためにだけ存在するのであれば、私とはなにものであろうか。もしいまを尊ばないならば... いつというときがあろうか。」
... 「タルムード」、第一篇「ミシュナ」より

フロイト左派で知られる心理学者エーリッヒ・フロムは、社会的過程から人間の情動を読み取ろうとする。生を授かり終焉するまでの間、人とのつながりを完全に拒絶することができないのは、いわば人間社会の掟。すでにアリストテレスが定義しているではないか... 人間は生まれつき社会的な生き物である... と。
完全に自給自足のできる存在といえば、やはり神か。寂しさなんぞ恐れず、孤独を存分に謳歌できるから、沈黙のままでいられるのか。共同できないものが獣だとすれば、人間を共同できる存在とし、神と獣の中間に位置づけて慰める。そして、集団の中に最も深刻な孤独を発見する羽目になろうとは...
注目したいのは、ファシズム的服従とデモクラシー的抵抗、サディズム的傾向とマゾヒズム的傾向を対立させながらも、根源的な衝動は同じところに発しているとしている点である。本書の初版は、1941年刊行、ヨーロッパがナチズムに席巻された時代。フロムは、個人の自由が脅かされる過程を、権威主義や全体主義の政治的圧力だけでなく、自由に対する恐れと自由からの逃避という衝動を絡めながら考察して魅せる。
自由が耐え難い重荷になるか?と問えば、それは十分にありうる。個人の自由が他人の自由の脅威となるか?と問えば、それも十分にありうる。自由意志の根源を哲学的に問えば、自律と自立が要請され、ひいては孤立と孤独に引きずり込まれる。孤立と孤独ほど人間を不安に陥れる効果的な道具はあるまい。自由意志は能力主義と相性がよさそうに見えるが、自由は能力によって制限され、能力の欠乏が無力感を助長し、不安に陥れる。この不安は服従へいざなうのである。画一化された集団の中に自我を埋没させれば、不安から逃れられる。自発的な服従も、盲信的な服従も、やはり自由感に発しているようだ。大衆は酔う!国家という幻影に... 自由という暗示に... そして、酔っている自己に酔う...

ところで、自己ってなんだ?交通事故の類いか?自由意志の正体は、自由電子の集合体なのかは知らん。気まぐれが自由電子の衝突確率で決定づけられるとすれば、やはりそうなのか。天才たちは、何を衝突させているのだろう。人は欲望と抑圧を衝突させる。抑圧の中に自由を発見し、禁断の中に衝動を見出すのである。その証拠に、愛ってやつは、自我の叛逆のうちに失楽園を夢想し、成就した瞬間に興醒める。障害が大きいほど燃えるというが、不倫ってやつはよほど燃えるらしい...

1. 人間性と社会性
本書は、愛や憎しみ、権力への欲望や服従、官能的な享楽や恐怖、創造的な情熱や不安など、個性を彩る衝動までも社会的過程の産物だとしている。社会は、抑圧的な機能を持つと同時に、創造的な機能を持っているというのである。
あらゆる創造物が相対的な意識から生み出され、あらゆる価値観が善悪美醜のごとく対称性にうちに見出される。外界を観なければ内界を知ることもできず、内界を熟慮しなければ外界を判断することもできない。それは、相対的な認識能力しか持ち合わせない知的生命体の宿命である。人間性というものが、生物学的に説明のつく確固たる概念なのかは知らんが、一人の人間の内に一つの力学が働いているのは確かである。それは、欲望と抑圧の力学である。これが、極めて経験的で、文化的で、社会的な過程において育まれたものといえば、そうであろう。
しかしながら、断言されると、酔いどれ天の邪鬼は条件反射的に反発してしまう。確信と懐疑の力学が働くのである。もっといえば、理性の根源はどこからくるのか?と問えば、直感的な、いや直観的な部分もありそうな気がするし、先験的な何かに発している部分もありそうな気がする。孤立しても自制心は働くであろうし...

2. ファシズムとデモクラシー
ファシズムは、結束主義といえば聞こえはいいが、個人を犠牲にして国家権力に服従する傾向が強すぎるほどに強い。民主主義社会における個人の堕落ぶりを声高に宣伝すれば、個人の自由というものに疑問を持ち、国家に犠牲を捧げる意志こそが美徳に見えてくる。デモクラシーにしても、個人の人権尊重といえば聞こえはいいが、画一的な価値観に飲み込まれるという意味では、服従という見方もできる。扇動者にとって、思考しない者が思考しているつもりで同意している状態ほど都合の良いものはない。ゲッペルス文学博士は小説の中で、こう書いているという...
「民衆は上品に支配されること以外なにものぞまない。」
結局、大衆は全体主義国家の奴隷になるか、民主主義国家に広く行き渡る画一化の奴隷になるか、二つの選択肢しかないというわけか。政治理論ではファシズムとデモクラシーは対極に位置づけられるが、集団的意志に身を委ねるという意味では同じ服従なのかもしれない。
そして現在、グローバリズムへ邁進するほどナショナリズムを旺盛にさせるが、これも類似に見えてくる。不安が服従を助長させ、服従が不安を増幅させ、敵意と反感を旺盛にする。そして、集団や組織や制度に文句を垂れる。文句を垂れるということは、依存していることであり、縋っているということか。現代人がますます批判的になっていくのも、その表れであろうか。近代合理主義は、いつも自由を叫びながら、自ら自由を束縛してきたのかもしれない。無意識という非合理主義に翻弄されて...

3.サディズムとマゾヒズム
「権威主義的性格の本質は、サディズム的衝動とマゾヒズム的衝動との同時的存在として述べてきた。サディズムは他人にたいして、多かれ少なかれ破壊性と混同した絶対的な支配力をめざすものと理解され、マゾヒズムは自己を一つの圧倒的に強い力のうちに解消し、その力の強さと栄光に参加することをめざすものと理解される。サディズム的傾向もマゾヒズム的傾向もともに、孤立した個人が独り立ちできない無能力と、この孤独を克服するために共棲的関係を求める要求とから生ずる。」
権威主義や官僚主義の下では、サディズムとマゾヒズムは、すこぶる相性がいいらしい。
サディズムは、思いのままになる者を愛し、思いのままにならぬ者を虐待する。この場合の愛し方は、命令して従わせることで、支配欲との結びつきが強い。そのために画一的な集団性を欲し、独立心を忌み嫌う。しかも虐待の対象までも必要とするのである。
マゾヒズムは、信頼する者や崇拝する者に特に愛されようと望み、思いのままになろうとする。そのために集団の中での自己の立ち位置を強く意識し、出世欲との結びつきが強い。
支配する側は、崇められる存在でなければならず、そのために偽りの自己を演出し、支配される側もまた、お気に入りになろうと偽りの自己を演出する。どちらの苦悩にも、自己喪失、あるいは二重人格性の傾向が見て取れる。どちらも人間の弱さを露出させ、集団依存性が強く、虚栄心との結びつきが強い。
指導や教育の場で、叱って伸ばすか、褒めて伸ばすか、という議論をよく見かけるが、叱ったり褒めたりする側も、叱られたり褒められたりする側も、ある種の快感を覚えるであろう。支配する側も、支配される側も、愛の奴隷というわけか...
とはいえ、人間であれば、どちらかの傾向にあるだろう。ちなみに、おいらは、M だと断言できる。だって、神から恵まれる自由を信条としながらも、小悪魔から恵まれる甘いわな(= なわ)に縛って欲しい...

2018-10-21

バアやモニタとにらめっこしましょ、あっぷっぷ...

とうとう婆やが、要介護認定を受けた。腰の圧迫骨折で(要介護 4)。ベッドから一人で起きられない上にトイレが近く、夜中に3回、4回お呼びがかかる。たまらず一ヶ月余り入院させたものの...

要介護認定を受けてからは、ケアマネジャーさんと福祉用具屋さんが機転をきかせてくれて、すぐに、レンタル用の歩行器や手すりやトイレフレームなど5点ほど持ち込んでいただいた。
今まで婆やのベッドの隣に布団を敷いて寝ていたが、福祉用具のおかげで一人でトイレにも行けるようになった。しばらくは見守る必要はあるが、とにかくポータブル排泄処理器の類いは却下!風呂はさすがに一人では入れないが、介護用シャワーチェアを購入して安心感がある。住宅改修補助で玄関に手すりを付け、自動車の乗り降りも見守るだけで済むようになった。
ついでに、爺やも痴呆症で要支援認定を受けたことだし、この際、じじばばセットでデイサービスを利用することに...

それにしても、彼らの仕事のフットワークには、学ぶべきものがある。初対面の日にいきなり用具が一式揃っている。それだけ経験も積んできたのだろうけど、仕事は与えられるものなどと思っている人には、とても勤まりそうにない。
その分、お役所仕事のとろさが目立つ。窓口の方は、手続きに時間がかかる状況を説明してくれて、すぐにでも手続きをした方がいいと丁寧に勧めてくれた。実際、介護認定に一ヶ月ちょっとかかったが、これはまだ早い方で、二、三ヶ月ぐらいかかることも珍しくないそうな。
つい先月、一人暮らしの老人が骨折し、認定が下りないまま民間業者が手を出せず、家族も遠くに住んでいるということで、町内の民生委員さんが苦慮している姿を見かけたところである...

巷では、介護離職の問題をよく耳にする。確かに、仕事と介護の両立は大変だ。身近にも、介護をしながらサラリーマンをやっている方がいらっしゃるが、よくやっているものだと感心するばかり。
おいらの場合、個人事業主なので働く時間はある程度自由がきくし、ネットワークも整備されているので、それほど深刻ではない。職場が自宅とはいえ、日帰り出張もできないようでは辛いのだけど、それも解消されつつある。ここ四、五ヶ月は地獄のような日々であったが、仕事仲間の理解も得られて非常にありがたい。いまや介護システムの構築で状況を楽しんでいる次第である。Web 会議システムを構築するような感覚で、温度センサやバイタルモニタを検討したりと...

1. リビングを介護ルームに...
将来を見据えて、トイレに近いリビングを本格的に介護ルームにすることにした。まず必要な機能は、ナースコールや双方向通話に、介護モニタといったところであろうか。とりあえず、こんなオモチャを揃えてみる...




・ANBOCHUANG ワイヤレス IP カメラ       : 暗視撮影付(左上)
・REVEX ワイヤレスチャイム iCall LCW100 : 呼出ベル(左下)
・REVEX ワイヤレストーク ZS200MR        : 双方向通話(右下)
・モニタは、ちと贅沢に Surface Pro3 にその役割を与える(中央)

動体検知や人体検知の機能も欲しい。このカメラにも一応動体検知の機能はあるが、精度がいまいち。安上がりで済ませたから、こんなもんだろう。
また、カメラの台数を増やすよりも、音パターン検知がかなり有効になりそうだ。例えば、トイレまでの動作パターンが固定される... 歩行器のブレーキロック解除、ペンギン歩きがはじまり、自動トイレの便蓋が開き、しばらくして流れる音、そして、歩行器を使ってベッドまで戻ってくる... といった具合に。このパターンから外れると、警告音を鳴らすような機能があると... などと考え、マイクで集音してプログラムを作成してみた。当初はいけそうな感じだったが、完成に近づくと、どんどん一人歩きをはじめ、どんどんパターンが複雑化していく。予想外の場所で音がしたり、いつもと違う音がしたり。回復傾向にあるのは喜ばしいことだが、もはや音で行動を判断することできずテスト不能。使い物にならん!要するにモニタ不要ってことだ。
...まぁ、こんな感じで遊んでますよ!って苦労ネタを提供したら、仕事仲間に笑われてもうた...

2. 無線カメラとあっぷっぷ...
無線環境で、いつも悩ましいのが電波状況である。この際、パフォーマンスアップのためにアクセスポイントも見直すことに...
機器は、NEC Aterm WG300HP から BUFFALO WSR-2533DHPL へグレードアップ。どうせ、APモード(ブリッジ)でしか使用しないので、機能はなるべくシンプルなものを選択する。
ANBOCHUANG のカメラは、ほんの少し電波が弱まるとすこぶる反応が鈍く、コネクションがしばしば切断される。また、2.4Ghz のみの対応で、5GHz でないのが、ちと寂しい。前の機器に戻しても電波状況はほとんど変わらず、最初は使い物にならないかとブルーになりかけたが、配置を工夫しているうちに、まぁまぁ使えるようになった。
ただ、Surface Pro3 とカメラの両方を無線接続すると、数時間ぐらいでコネクションが切断する。IPカメラ + タブレット端末 + アクセスポイントの相性の問題であろうか。両方を有線接続するとすこぶる安定するが、それではあまりにみっともない。どちらかを有線にすると安定するようだ。とはいっても、カメラを有線にするのでは現実的ではないし、タブレット端末を有線にするのもスマートではない。あるいは、たまの切断は我慢するか。いや、ここはスマートではないやり方でいこう。
てなわけで、Surface Pro3 を BUFFALO LUA4-U3-AGT USB3.0 Gigabit LAN アダプタを経由して有線接続する。Average で 2Mbps 強を確保するような電波状況であれば、切断することはなさそう。だが、ちょっとでも Average が下がると切断する。例えば、ドアを締めたりするだけで。1階と2階を隔てる防音材や断熱材など構造的なものも影響しているのかもしれない。設置場所はかなりシビア!そして、距離と配置の工夫でなんとかなった。
中継機を設置してみる手もあるが、こいつだけのために投資する気にはなれないし、実は、Surface も怪しい。というのも、巷を騒がせている Win10 October Update で WiFi だけでなく有線も非常に不安定になった。WUuu... の呪いか!ドライバを再インストールすると機嫌が直ったようだが...
尚、切断監視のためトラフィックを常にグラフ表示している(TCP Mnonitor Plus)。特に深夜は、静止画も動画も区別がつかないので...
カメラに搭載される暗視機能は、深夜のモニタでは欠かせない。録画もできる。また、パン + チルト機能でかなり首を振ってくれるし、天井から床までかなり見渡せる。天井から吊り下げるとより効果があるだろう。画質も、1080P、200万画素でまあまあ。設置で苦労したとはいえ、これだけ満たして五千円ほどだから、あまり文句は言えまい...

2018-10-14

"続 誤訳 迷訳 欠陥翻訳" 別宮貞徳 著

日本文学を味わうようになったのは、恥ずかしながら三十を過ぎてから。学生時代の国語の成績は学年最下位で、以来すっかり文学嫌いに。ゲーテやニーチェの作品に救われたといった次第である。
つまり、生涯で読書の対象としてきたものは、ほとんど翻訳語だったことになる。まともな日本語に触れる機会が少なければ、この酔いどれ天の邪鬼の言葉は翻訳語に随分と毒されていることだろう。それにも気づかなければ幸せというものか...
ちなみに、福原麟太郎氏は、かつてこう語ったそうな。
「今は日本訳が原文よりもはるかによくわかり、よく内容を伝え、文章の調子までも写しているから、昔のような心配はいらないのだが、私などは相変わらず翻訳を読まない。これはわるいくせであるとこのごろは思うようになった。翻訳を読む方が、私などの語学力でおぼろ気に原意をたどるよりは、はるかに明確にイメージが読みとれるのである。それに翻訳の方が読む速力は早いし、利点はいろいろあるのだが、いまだに実は私は、そのわるいくせにわざわいされている。」

本編に釣られて続編に突入... 姑チェックはさらに冴え渡る。具体例が豊富で、辞書代わりにもなってありがたい。いつも悩ましい時制や冠詞の扱い、なじまない仮定法の言い回しなど、自然な日本語に変換して魅せてくれる。時には冗長的に、時にはコンパクトに、実に自由度が高い。マークシート式の大学受験問題に至っては、英語力がなくても答えが導ける技まで教えてくれる。そもそも誤った答えは日本語がおかしいというわけだが、それは運転免許の学科試験に通ずるものがある。おいらは翻訳業に携わっているわけではなく、翻訳文を人に披露することがほとんどない立場とはいえ、うまいことやるなぁ... と見とれてしまい、むしろ日本語の勉強になる。
ちなみに、大英帝国時代の外交官アーネスト・サトウは明治維新の回想録の中で、日本語には定冠詞という概念がないことをいいことに、閣老連が責任逃れの曖昧な表現に終始する様を愚痴っていた。

人類が編み出した最強の武器は、おそらく言語であろう。いくら破壊力を誇る核兵器で武装したところで、正義を語れなければ戦争もおっぱじめられない。どんな学問分野であれ、言葉で理論展開される以上、言葉のあり方について無神経ではいられないはずだ。しかし、あまり神経を尖らせば、言語の本質である柔軟性を損なってしまう。言語は、微妙に変化する余地を残すから進化する。言語が精神の投影だとすれば、精神という実体を完全に解明できていない状況で、言語を完璧な法則に乗っ取らせるわけにはいくまい。
国語の乱れということが、よく指摘される。現代人にとって、大和言葉はもはや外国語という感覚。いわゆる日本語英語が、言葉を乱しているところもあろう。リベンジやリスペクトなどは流行語のように使われるが、外国の方によく指摘されるのは、"revenge" は挑発的なニュアンスが強いので、I'll try again... ぐらいにした方がええよ、といった具合。彼らに言わせれば、日本語を乱しているだけでなく、英語までも乱しているというわけである。さすが極東の僻地まで勉強しに来ているだけあって、英語への翻訳の仕方にも神経質と見える。
やはり言語は一筋縄ではいかない。言語の翻訳は、いわば文化の翻訳、いや精神の翻訳。直訳も一つの手段ではあろうが、かなり世界を狭めてしまう。英語の先生ほど英語の存在感を強調するがあまり、英語かぶれな日本語になるのかは知らんが...

しかしながら、本書の議論が、経済学関連の書をめぐってある学者との論争に及ぶと... あなたの勝ちです!あなたの負けです!といった論調に、一気に幻滅。理路整然としているだけに余計に見苦しい。お互い言葉を大切にする立場にありながら、互いに感情的に煽る言葉は、なんとも滑稽である。議論が勝ち負けに及んでしまっては... そして、つくづく思うのである。大人にはなりたくない!と。そういうおいら自身が脂ぎった大人なのである。不快に思うなら、そんな本は捨てちまえばいいのだが、そうはいかない。貧乏性だから尚更だ。この気分を救ってくれたのが、村上陽一郎氏が対談で問いかける言葉である。
「たしかにこなれた日本語、熟した日本語とは言えないかもしれないけれども、外国語の中にある、例えば抽象名詞が主語になって動詞をとるような、日本語にない文脈がでてきたとき、それをできるだけ外国語の文脈に近い形で訳すことによって、そういうふうに連中はものを考えているということを、読者にわからせているというように考えるわけにはいかないでしょうか...」

ちなみに、経済学関連の書をめぐる論争とは、日本語の持つ論理性についてのもの。一方が、日本語には論理性が乏しく、西洋語の論理性を日本語で表現すれば、不自然にならざるを得ないと主張すれば、いや、日本語にだって論理的に表現できる方法はいくらでもあると応じる。そこで、西洋語的論理性と日本語的論理性の対立構図が生まれるわけだが、ネタにされる学者の言い分も分からなくはない。
ただ、あまりに不自然な日本語の言い回しに別宮先生は怒り心頭で、翻訳という仕事に対して何も考えず、哲学がないとまで断じる。
実際、専門用語に違和感のある翻訳語をあてて、その業界で常識化していることはよくあるし、やたら言い回しの難しい文章や、権威ぶった難解な文章にもよく出くわす。その都度、原文が難しいのだろうと想像してしまうが、実はそうでもないらしい。
いずれにせよ、どんな言語にも得手不得手の領域がある。完全な論理性を構築することは、人間の能力ではほぼ不可能であろう...

ここでは、この対立構図をアル中ハイマー流にもう少し発展させてみよう。いや、思いっきり脱線させてみよう...
西洋語と日本語の論理的性格の違いという議論は、言語学でもよく見かける。
さて、論理的思考法には、演繹法と帰納法がある。演繹法は、基本となる大前提から小前提に向かって法則性を導いていくアプローチで、三段論法がその代表。帰納法は、多くの事象から共通点を見出して法則性を導いていくアプローチ。ビジネス戦略では、トップダウンとボトムアップという言い方をするが、それぞれこれに似たアプローチをとる。数学的な論理展開という観点からは、おそらく演繹法が王道ということになるだろうが、現実世界を描写するには、帰納法の方が役立つ場面も多い。その意味では、理想論と現実論という見方もできそうか。
そういえば、ある外国の方が、西洋人の思考は演繹法的で日本人の思考は帰納法的で、その性格が修辞法にも現れる、と言っていた。これに呼応して、個がひたすら論理を組み立てていくか、周りを気にしながら論理を組み立てていくかの違い、と指摘した人もいる。
さらに面白いことに、これらの思考法の違いに、一神教と多神教を結びつけた意見もある。一神教では、神が絶対的な存在だから、ここを大前提として出発して行動が規定されていくのだとか。多神教では、神々が周りの神の機嫌を伺いながら、行動が規定されていくのだとか。そして、西洋的思考はキリスト教のような一神教から発し、東洋的思考は多神教的性格が強いというのである。
なるほど... と感心しながらも、ユークリッドの「原論」には既に帰納法が記述されているけど、と反論したものである。古代ギリシア時代の信仰を一神教とするか、多神教とするかは意見の分かれるところ。ゼウスを主神とした階層構造を持ち出せば一神教と言えなくもないが、この雷オヤジの女たらしぶりときたら、女神連だけでは飽き足らず人間にまで手を出す始末。やはり神にも欠点があり、それぞれの神に得意技があるとする方が収まりがいい。だからルネサンスは、カトリックの抑圧的な一人の神に嫌気がさし、神々の自由ぶりに憧れて古典回帰に走ったのであろうし、それに、この不完全な人間社会を創造してしまったことを、一人の神に責任を負わせるのもどうかと...

まぁ、時々、学術研究都市のサロンで、こんな冗談話で盛り上がっているわけですが、偉い先生方の真面目な論争に、低俗な話題を持ち出してごめんなさい!

2018-10-07

"誤訳 迷訳 欠陥翻訳" 別宮貞徳 著

容赦ない姑チェック!
批判文学は、おもろいけど口が悪い。建設的な意味がなければ、単なる悪趣味。同病相憐れむ... と言うが、同業者相憐れむということもあろう。自分の属する専門分野だからこそ情熱に満ち、つい辛口にもなる。少々の毒舌は、論争のレトリックとして不可欠。そして、教え子に指摘される...
「先生、やってますね... 何を?... 欠陥翻訳ですよ。あたるをさいわい斬りまくるって感じじゃないですか...」

日本は「翻訳天国」とよく言われるそうな。ここでは「翻訳者天国」と言い換えて誤訳より悪訳の方がよほど罪が重いとし、悪訳者を野放しにするな!というのである。商品には欠陥商品がつきもの。販売業者にはお役所が目を光らせ、問題があれば大きく報じられ回収される。だが、翻訳品には監視の目が甘いという。一般読者に欠陥かどうかを判断するのは難しく、ほとんど鵜呑み。ライバル品も限られ、権威主義にも陥りやすい。ネット社会では、誤訳の指摘をよく見かけるけど...
何をもって欠陥とするか、その基準も難しい。一般商品ならば、安全性、耐久性、不具合など消費者はすぐに見分けがつくが、翻訳品をわざわざ原書と見比べる読者はあまりいない。誤訳があったとしても、翻訳者自身が気づかないこともあれば、一方では、これは正しいとされたり、これは名訳だと賞賛されることもある。
消費者を闇討ちするようなことはやめるべきだ!と言われても、闇討ちされていることに気づかなければ幸せ。分かりにくい文章ぐらいはすぐに捨て去るのが、まっとうな態度かもしれない。それが、翻訳者への親切なのかもしれない。
しかし、そうはいかない。せっかく金を出して手にしたのに。おいらは貧乏性ときた。どんなに分かりやすい翻訳であっても、どんなに見事な翻訳であっても、どんなに美しい翻訳であっても、どうせ読解力がないので都合よく解釈するし、多少の誤訳に気づいたとしても、面倒なので読み流す有り様。
そして、気づかされる。読書感想文めいたことをブログネタにしているが、本当に理解して書いているだろうか、と。こうした行為も、著者や翻訳者の意図を正確に汲み取っているかと問えば、やはり翻訳なのであり、自己陶酔文を量産する始末。実際、飲みながら書いているし、あぁ~、気持ちええ... 酔いどれ天の邪鬼の場合、翻訳者のせいばかりにはできない...

1. 誤訳は翻訳の宿命!
人の発する言葉には生活感が滲み出、論理的に意図された言葉であっても、文化的背景との結びつきが強すぎるほどに強い。それは、いわば文化の翻訳であり、精神の翻訳である。
もし仮に、完全な翻訳が可能だとすれば、人間は自ら編み出した言語システムを完全に解析できたことになり、この手段をもって言い尽くそうとする精神という実体をも完全に解明できたことを意味する。そもそも完全な意思伝達なんてものが可能なのだろうか。別宮先生も、誤訳を完全に免れることは不可能だと言っている。翻訳者だって人間、うっかり間違えることだってあろう。先生自身も、学生や読者に間違いを指摘されたり、穴があったら入りたいようなヘマをしでかすと告白している。
翻訳しすぎて、おかしなことになることもしばしば。無理に翻訳せず、原語のままの方がいいと思ったり、映画を観ていると、この字幕はないだろうと思ったり。機械翻訳が役立つ場合もあるにはあるが、やはり言語の本質は柔軟性であろう。それは、自由精神を体現する場だということ。
そして、正確は明晰につながらない... 細心にかつ大胆に... などの助言をしてくれるが、言うは易く行うは難し!
ちなみに、ケネディ大統領が狙撃された事件では、同乗していたジャクリーン夫人が "No!" と叫んだそうな。誰かは知らんが、これを「いいえ、ちがいます」と訳して、お笑いになったとさ...

「なんかの翻訳をやったり、翻訳について考えたことのあるものなら誰でも、文法的に正確でほとんど文字通りの翻訳といったものはない、ということを知っている。すべてのすぐれた翻訳は原典の解釈である。... すべてのすぐれた翻訳は忠実であると同時にかつまた自由でなければならない。」
... カール・ポパー「果てしなき探求 - 知的自伝」より

2. まずは日本語力
直訳すれば、それなりの内容は想像ができる。しかし、文学の真髄は精神の描写であり、これを完璧に意訳しようとすれば、方程式のごとく文法法則のみで置き換えることは不可能であろう。決まり文句ならともかく。
ゲーテの詩的な文章を直訳で味わえるとは、とても思えない。原文の側も、伝えるシチュエーションによっては文面を滅茶苦茶にしたり、わざわざチンプンカンプンにしたりする。登場人物が泥酔者ならば、まともな言葉を発するはずもないし。
笑いのポイントには国民性や民族性が露われ、綴りや発音が駄洒落じみていたりと、文法を崩すテクニックまでも魅せつける。
このようなニュアンス的なものをどう翻訳するか... などと想像するだけで芸達者ぶりが透けてくる。翻訳は言葉の芸!翻訳者は言葉の職人!そして、外国語の理解力はもちろんだが、なによりも日本語力が問われる。
「翻訳は日本語が書けなければだめということは、昔から名翻訳家は名文章家であるという事実を見ればわかる。二葉亭四迷、坪内逍遥、森鴎外... みな作家として名をなしている。今でもそうだ。すぐれた翻訳者は、必ずしも作家ではなくとも、例外なく文章の達人である。」

3. 外国文の化け物
権威主義のはびこるところに、奇妙な訳語が伝統となって棲み着く。当時の偉い学者が最初に用いた訳語が、厄介になることも。様々な分野の学術書に触れてみると、特に、経済学にその傾向が強いように感じてきたが、やはりそうらしい...

「私はよく... 一流雑誌に経済学者の論文などが載っているのを見かけますが、ああ云うものを読んで理解する読者が何人いるであろうかと、いつも疑問に打たれます。それもそのはず、彼等の文章は読者に外国語の素養のあることを前提として書かれたものでありまして、体裁は日本文でありますけれども、実は外国文の化け物であります。そうして化け物であるだけに、分らなさ加減は外国文以上でありまして、ああ云うのこそ悪文の標本と云うべきであります。実際、翻訳文と云うものは外国語の素養のない者に必要なのでありますが、我が国の翻訳文は、多少とも外国語の素養のない者には分りにくい。ところが多くの人々はこの事実に気が付かないで、化け物的文章でも立派に用が足せるものと思っている、考えるとまことに滑稽であります。」
... 谷崎潤一郎「文章読本」より