2009-08-30

"反社会学講座" Paolo Mazzarino 著

さて、今日は国政選挙だ。とはいっても、いつも期日前投票で済ませる。今回は異様な盛り上がりを見せるが、政権交代したところで、巨大官僚体制に変化をもたらすことはできないだろう。ひょっとしたら、もっと酷いことになるかもしれない。だが、いつかは混乱期を迎えなければ、政治家も民衆も目が覚めないだろう。大物議員が落選すれば、派閥の性格も変わるかもしれない。日本社会は、その混乱期を経験することを、ずーっと先送りにしてきた。おかげで、行政をマネジメントできない政治家たちが蔓延り、ついに巨大官僚体制が完成してしまった。政治や行政の検証を怠ってきた付けがまわっているだけのことである。いずれにせよ、政局の安定までにはかなり時間がかかりそうだ。それまでは官僚支配が続く。さて、あと何年か?いや何十年か?民主主義への道はまだまだ長い。日本社会は、まだ政策論議の段階まで辿り着いていないのだろう。
ところで、選挙といえば、わけの分からない仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。その代表が、最高裁の国民審査であろう。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは思えない。社会の反抗分子としては、全て×印を書いてきたが、最近はネット情報で判決状況が容易に分かるのがありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにする。知事選の方がはるかに多数から支持されるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。国会議員の権威を持たせる意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。更に、一票の格差にしても、民主主義のシステムとして妥当なのか?などと仕組みにかかわる疑問は多い。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

それはさておき、酔っ払った天の邪鬼は、あえて反社会学のネタを選ぶとしよう。どんな学問や思想にも、主流派と反主流派がある。アル中ハイマーは概して反主流派を好む。まさしく、本書は反主流派に属すもので、社会学をパロディーで綴り、社会学者を思いっきり皮肉る。そして、アンケートの調査や統計データだけで、あらゆる人間の心理状態までも結論付けてしまう学者たちのスーパーテクニックを披露してくれる。どんな現象も統計データで武装すれば見映えがいい。そして、前提条件を隠蔽しながら都合の良いデータばかりを強調すれば、見事な統計マジックの出来上がり!
本書は、社会学とは、社会学者の個人的な偏見を屁理屈で理論化したものだと指摘している。世間でいう「こじつけ」を社会学では「社会学的想像力」と呼ぶそうな。麻薬の実態調査では、アメリカにおける意外と低い数字を紹介しながら、本当に裕福な格好をした社会学者が、命がけでスラムに出向いて調査したのか?と疑問を呈する。そういえば、不思議な統計に性行為の時間というものを見かけたことがある。それも各国別に集計されるからおもしろい。そして、日本人は淡白と評価される。しかし、誰か見たんかい!見栄もあれば愚痴も吐く。性行為の手段もまちまちだろう。見詰め合う時間?手が触れ合う時間?それとも合体時間?まだしも、満足度や円満度で調査した方が良さそうなものだが。ちなみに、アル中ハイマーは前戯に目がない。
マスコミは性懲りもなくヤラセ報道を続ける。ナレーションもドラマチック!視聴率戦争とは恐ろしいものだ。だが、視聴率って本当に信頼できるのか?従来の民放を観るという人も思いっきり減ったような気がするが、たまたま酔っ払いの周辺だけか?
本書は、社会学者と心理学者が組んで、それにマスコミが加われば、世界征服も夢ではなくなると言わんばかりに捲くし立て、思わず!ニヤけてしまうような作品である。もちろん、アル中ハイマーはこれを正統派社会学と解釈している。

マッツァリーノ氏曰く、「問題は、自分をダメな学者だと自覚している学者は、一人もいないということだ。」
「社会学的な方法論とはなにか?それは、世の中が悪くなったのは、自分以外の誰かのせいだと証明することです。」

日本社会には実に多くのタブーが存在する。タブー化しながらエセものを寄生させる背後には、マスコミや権力者の影を感じる。だが、タブーを避けていては議論は空論化する。マスコミなどで露出される学者や識者たちが、本音を避けているのか、ほんまに鈍感なのかは知らん!ただ、マスコミに信頼を持てない人が、マスコミの誘いに乗って出演するのも奇妙な気がする。近年では、少子化タブーや環境タブーも登場する。本書はこうしたものにも突っ込みを入れてくれるので、ストレス解消によい。
ところで、著者パオロ・マッツァリーノ氏とは何者なのか?父親は寡黙な九州男児でマッツァリーノ家に婿養子、母親は花売り娘。父親の仕事は家族の間でも謎で、深夜に出かけることが多いことから、スパイかマクドナルドの清掃員ではないか?という。マッツァリーノ氏自身は、千葉県に住み、講師の他に立ち食いそば屋でバイトしているという。自称「戯作者!」戯作者とは、江戸時代、庶民向けに面白い本を書いた人たちで、明治時代に廃れたそうな。立川談志は落語家だが、初代談志は戯作者だったそうな。マッツァリーノ氏は、厚労省の会議にも出席した経験があるらしい。その会議の実態を暴露する場面では、参加人数が多すぎるために議論が平行線をたどる様子が描かれる。しかも、長嶋茂雄風な英語まじりで何を言っているのか分からない学者まで登場して混乱させる。なるほど、かなりの日本通で、この観察力からして代々スパイ一家なのかもしれん!

人口が増加すれば、様々な生活様式が現れるのも自然であろう。人間の多様性を否定しては、社会分析などできるはずもない。しかし、現実には一方向からの価値観しか持てない連中によって世論が煽られる。マスコミの論調から外れた人は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人間と蔑まれる。
しかし、だ!そもそも自立した人間などいるのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立した人間と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかにしている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸で内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的で終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。現役労働者を犠牲にしながら企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常の年金受給を放棄すればいい。いずれ、正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろう。そして、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正社員であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からない人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように思える。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。「男はその機械にさす油でしかない」というわけか。ちなみに、おいらは主夫になりたい!そこのホットなお嬢さん、いかが!
議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。これが自立した人間の姿か?自立していると思い込むことで他人との差別化をはかり、精神の安住を求めているに過ぎない。有効求人倍率が低い中で、誰かが失業という犠牲を背負わなければならない。本当に、優秀な人材から職にありつけていると言えるのか?ちょっと視点を変えれば、他人に仕事を譲っていると解釈できなくはない。これはプータローのひがみか!少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはないだろう。
世論が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽る。これが、親の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がることでゴミが減って環境的であり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。パラサイトシングルだけでも、いろんな立場の人がいる。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、その多様性には限りがない。フリーターにしても、社会保障なしの低所得者の存在が製造コストに貢献している。機械の設備投資と低賃金労働者とで、コストの天秤にかけられる。機械コストの方が有利となれば、どっちにしろ低賃金労働者は失業する運命を背負う。企業は、機械に徹することを低賃金労働者に要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求される。となれば、若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果は期待できない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールが引かれた構造がある。だが、政治や行政は一方向の価値観しか持てない連中で議論される。そりゃ政策が的外れになるのも仕方があるまい。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。
本書は、フリーターやパラサイトシングルが日本の社会制度を救うとまで語っている。「フリーターが200万人いる。パラサイトシングルが100万人いる。ひきこもりが100万人いる。このままでは日本はだめになる。」といった具合に煽るのは、「社会の寄生虫であるユダヤ人がいなくなれば良くなる」というヒトラー説と同列だという。ヒトラーは民族の多様性を否定した。本書の根底には、人生の多様性を否定する論調への批判があるように思える。

ところで、民俗学や文化人類学と社会学の違いには、言語学と国語学の違いに似た事情があるという。言葉の使い方が変化しつつある時、その変化をおもしろがるのが言語学者で、言葉の乱れを説教するのが国語学者といったところか。言語学的には、正しい日本語なるものは存在しないそうな。仕事の専門用語でも、会社や組織によって微妙に使い方が違うことがある。そして、一つの文化に染まっていることすら気づかない人から馬鹿にされる。逆に、好奇心旺盛な人は、そのニュアンスの違いを楽しんでいる。社会学者も正しい社会のあり方があると信じて、それを強要する人種だという。なるほど、社会学にもいろいろな立場があって、経済学的傾向と、人類学や比較文化的傾向といった違いだけでも学者の性格がまるっきり違うようだ。

1. スーペーさん!
社会学者は、言葉を定義せずに使う習慣があるという。なので、知らず知らずのうちに拡張した別の概念へと平気で飛び出していくのだそうな。哲学者の中に社会学を嫌う傾向があるという。なるほど、哲学は言葉の定義を明確にしたがる学問である。とはいっても、その定義もしばしば変化するが。
本書は、積極的な悲観主義者によって社会学が荒らされていると指摘している。悲観主義者は、なにかと問題を持ち出して、当たればそれみよ!とばかりに勢いずく。つまり、逃げ道をいつも確保しているズルい連中だというわけか。フリーターやパラサイトシングルやひきこもりを無責任と蔑むが、実は根拠もなしに悲観論を煽る連中が最も無責任であるという。まさしくマスコミの論調は正義感たっぷりに問題意識を煽るが、その根拠を証明しようとはしない。悲観論者でも消極的ならば、あまり社会に悪影響を与えないが、積極的な分やっかいというわけか。本書は、超悲観主義者をスーパーペシミスト、略して「スーペーさん」と呼んで思いっきり蔑む。その思考論法は、次の手順を踏むという。
(1) 社会は悪くなる一方だ!
(2) 自分は社会に迷惑をかけていない。いや!社会に貢献している。
(3) 自分の生き方は正しい。自分と違った生き方をしている奴らは間違っている。
(4) したがって、社会が悪くなったのはそいつらのせいだ!

なるほど、優れた理性の持ち主で自分の道徳観に絶対的に自信を持った人間でなければ、到達できない思考回路だ。超悲観主義者のくせして、自論を前向きに捉えるというのもおもしろい!社会学者の一般的な研究方法は、まず、新聞やテレビ報道で、気に食わない人間、こてんぱんにやっつけたい憎らしい人間を見つけるという。これは個人的感情論で。次に、その批判対象を落ち着いた雰囲気で分析して結論を出すそうな。これも感情論で。こうした思考を、理系では仮説と呼ぶが、社会学では仮説と結論が同義であるという。都合のよいデータだけを抽出したり、データを誤読することは、社会学上で重要なテクニックで、手頃なデータが入手できなければ海外に目を向けるという。欧米のデータならば、日本人の西洋コンプレックスを刺激できるというわけか。おフランスの芸術を浴びせ掛ければいちころだ!
「個人的な結論を一般的な社会問題にすりかえて、大袈裟に煽り立てよう!」
これが社会学の基本だという。

2. マッツァリーノの法則
「メラビアンの法則」というのを、時々見かける。この法則によると、伝達術で効果的なものに、次のような実験結果があるという。
「見た目、身だしなみ、表情などが、55%。声の質、大きさ、テンポなどが、38%。言葉の内容が、7%。」
一見、なるほどと思わせる。そして、この法則を信じて、やたらと表向きの指導をする企業が多いという。あらゆる社会学の法則には前提条件がある。言葉で7%しか伝わらないなんて、どうみてもおかしい。ならば、なぜ外国語の勉強に熱中するのか?確かに、見た目の印象は大切である。しかし、内容が伴って初めて成立する条件であろう。エンジニアには第一印象の悪い人が多い。だからといって、蔑んだりはしない。むしろ、お調子者の方が怖い。一度しか顔を合わさないなら、この法則も役立つだろう。なるほど、オレオレ詐欺で参考になるというわけか。お互いに心が通じるなんて恋愛ドラマのようなことを言ったところで、はっきりと言わないと揉めるのはどういうわけか?そこで、対抗して「マッツァリーノの法則」を紹介してくれる。
「研修屋が教えることの55%はウソで、38%はハッタリで、真実は7%だけです。」

3. マッチポンプ
社会に問題がなければ、社会学の存在価値もなくなる。したがって、平穏な社会では問題を捏造するしかない。無理やり話題性をでっちあげて、流行りもしない流行語をでっち上げて視聴率を煽るのと同じ理屈か。これを「マッチポンプ」と言うらしい。自らがマッチで火をつけておいて、自らポンプで火を消す。マッチポンプはセールスの古典的テクニックでもある。災害の恐怖を煽った直後に災害保険の勧誘があったり、人々が不安を抱えている状況につけこんでカウンセリングが流行ったりと。なるほど、SPAMやDOS攻撃を蔓延らせ、セキュリティ会社やウィルス対策部門の存在価値を高めるようなものか。人口が増えれば、無理やり仕事をつくらなければならない。となれば、悪行も必要というわけか。ところで、カウンセラーの家庭って円満なんだろうか?だとすると、悩みがないことにならないか?となれば、悩み相談に答えが出せるのか?

4. 読書の是非
作家の中には、強制的、権威主義的な読書に批判的な人が多いという。何事も知識を得るのに、興味を持たなければ効果は期待できない。読書をすると賢くなるという学者の話をよく耳にするが、そう単純でもなかろう。テロリストやカルト宗教に嵌る人ほど、よく読書していそうだ。煮詰まった時に思考をリセットしてみることも大切であるが、余計な知識のために、そのリセットの妨げになることもある。
本書は、学習成績と読書時間が比例するのは、一日2時間までという統計データを紹介している。毎日2時間以上読書すると、成績が伸び悩むのだそうな。まったく読まないのも問題であるが、読みすぎるのも良くないというわけか。要するに、読書であれ、テレビであれ、ゲームであれ、一日2時間を超えるほど熱中すると、本業の学習時間が必然的に減って、成績が落ちるということらしい。おいらの読書時間もだいたいこんなもんだろう。その半分は、立ち読み時間を含むというズルをしているが。ちなみに、酔っ払いは頭の切替えが鈍いので、ほとんど土曜日に集中して読書する。
本書は、OECDの調査では読む時間を調査するが、日本の読書調査報告は冊数ばかりを問題にすると指摘する。確かに、冊数をたくさん読むことを推奨する学者をよく見かける。おいらは、一冊を読むのに時間がかかるので、冊数で評価されたら落ち込むしかない。貧乏性だから、くだらない本でも熟読して元を取ろうとする。だから、ハズレないように立ち読み時間も長くなる。そもそも、難しい本ほど読む時間もかかる。本書は、ハリーポッター三冊読んじゃった!と、ハイデカーの「存在と時間」の上巻をまだ読み終わらない!とを比べるのは統計の暴力だ!と語る。
ところで、義務教育で盛んに行われるのに読書感想文がある。そもそも、感想というのがクセモノだ!感想とは自由なはずなのに、先生が正しいと思う思想を押し付ける。子供たちも教師の顔色をうかがいながら、優等生を装う。したがって、感想文を書くことで文章が嫌いになる子も多いはず。おいらはその典型。
一般的に学問を早期に始めることを煽る風潮がある。子供はあらゆる知識を容易に吸収するから、それも間違いではないだろう。ただ、本書は、幼児英才教育にしても短期的には意味があるが、長期的には効果も期待できないと指摘している。大学ぐらいになって自発的に学習しなければ、結局学力低下は防げないという。なるほど、学問はいつから始めるというよりも、続けることの方が重要だというわけか。この続けるという行為が、最も難しいのであるが。

5. 少子化問題
本書は、少子化論者は決まって「少子化は子供をだめにする!」と唱えると指摘している。そして、子供同士の交流が減って社会性が育まれないとか、キレやすいといった感情論が氾濫すると。ならば、子供が多い都会には健全な子供が多く、子供の少ない過疎化の進む地域では問題児が多いということか?と疑問を投げかける。そもそも、欧米に比べて劣悪な住宅事情の中で、人口を増やす政策が本当に健全なのか?少子化問題を、日本人滅亡論のように煽りたてるのは、いかがなものか?戦後8000万人ぐらいの人口が、いまや1億2千万以上に増殖した。女性の育児環境にしても、女性の社会進出を促す上で、昔からあった平等の問題であって、本来、少子化とは別もののはずだが。結局、自分の老後の年金を確保するために、少子化問題を叫んでいるだけか?あるいは、年金スキャンダルを少子化問題で揉み消そうとしているのか?なるほど、厚生官僚が叫ぶわけだ。もしかして、少子化問題って平均寿命が延びることへの警告か?健康ブームへの批判か?
ところで、社会保険庁をはじめ行政スキャンダルが明るみになれば、暴動が起こっても不思議ではない。外国人からは、日本では暴動や革命が起きないと揶揄される。それが悪い国民性とも言い切れないのだが。高齢化が進めば、温和な社会になりやすいのかもしれない。サミュエル・ハンチントンは、15歳から24歳までの若年人口が20%以上を占めると社会的に不安定になる傾向があると指摘した。だとすれば、一概に高齢化社会が悪いとも言い切れない。

6. 環境問題
「ムダを経済効果といい替えるのは、諸官庁や特殊法人の間では常識です。ムダな支出が五兆円と聞けば、誰もが腹を立てますが、経済効果が五兆円ならば、国民の賛同が得られます。」
そもそも、地球温暖化にしても、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してんじゃねーだろうな?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。新型インフルエンザにしても、ワクチンの国内生産が間に合わなければ、海外から輸入する予算があるから大丈夫という発想も...ワクチンが足らない状況は海外でも同じはずだが。それにしても、エコポイントの申請の面倒さの上に、その後の時間のかかること。もう1ヶ月を過ぎるが、いまだに物が届かない。「エコポイント事務局」ってなんだ?まさか特殊法人か?わざわざ中央官庁に申請するのも効率が悪い。いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。
本書は、冷静に事実を語っても、学問的や論理的正しさ一辺倒では注目されず、ゴアさんのように熱弁する方が評価されると指摘している。ただし、環境意識が、企業をはじめ人々に少しずつでも浸透するのは悪いことではない、とも語っている。その通りであろう。人間がどんなに努力しても自然現象には敵わないが、意識を持つことは大切である。本当に環境問題を考えるならば、人類を滅亡させるのが手っ取り早いが、それを受け入れることはできない。となれば、せめて人口をこれ以上増やさないぐらいか。あれ?少子化問題って人口を増やすことを奨励してるんじゃなかったっけか?

7. 自立の鬼
欧米人から日本の若者が自立していないと指摘されても、心配はいらないという。また、そうした外国人の意見を取り上げて、日本の若者に劣等感を植え付けようとする識者も相手にしなくていいという。欧米では、返済義務のない奨学金といった社会保障が充実していて、しっかりと寄生している実態があるようだ。日本の大学は、新入生からふんだくる高額の入学金と授業料をあてにして経営されている。しかも、通常の学部の在籍年数は8年と限りがある。だが、欧米では在籍年数に限りがないという。したがって、少子化は日本の大学経営を苦しくさせることになる。無理にベルトコンベア式に卒業させることもなかろう。本書は、大学の在籍年数の期限を無くすことを提案している。どこの国でも、若者が自立することは珍しいようだ。ただ、アメリカ人の傾向として、自立していると勝手に信じ込んでいる人が多いという。なるほど、アメリカの学生はカード破産している。
また、日本人は、他人に何かを頼むという簡単なコミュニケーションすら避ける傾向があるのに、空気を読んで構ってもらおうという心理が旺盛だという。ある婦人の告白記事で、イギリスでは駅の階段でベビーカーを運んでくれるが、日本ではそれがない!と嘆く様子を紹介している。しかし、階段で助けを求めれば、大抵の日本人男性は助けてくれるだろうと語る。日本人は、自分から頼みもしないで、他人は助けてくれないとひがみ、世間の人は冷たいと決め付けることで、自立の鬼になっていくと指摘している。
ところで、仕事と家庭を両立させていると自慢する評論家のスーパーおばさんを見かけるが、ほんまかいな?本書は、完璧に両立できる人もいなければ、完璧なバイリンガルもいないという。帰国子女というと、外国語も日本語もペラペラというイメージがあるが、だいたいどちらも中途半端なことが多いのだそうな。帰国子女に通訳させると、意思疎通が微妙にずれて、スリリングな業務になるんだとか。現実には器用貧乏ってことか。なんでもできるってのは、なんにもできないってわけか。ずっと日本で暮らすアル中ハイマーは、日本語も中途半端で面目無い。そして、中途半端な人生でも楽しければええじゃん!と自らを慰めるのであった。

8. 銀行系シンクタンク
銀行系や証券会社系のシンクタンクにお勤めのスーペーさんは、少子化が進めば、景気が悪化すると煽る。人口が減れば、渋滞も緩和し、広い家に住み、ぎくしゃくした社会が少しは緩和されそうなものだが。子供一人当たりの教育の場も充実しそうなものだが。彼らの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!しかも、公的資金は真っ先に搾取する。生活保護者やニートを蔑む前に、公的資金をたかる銀行の方がよっぽど自立できていない。そもそも、人口増加を前提とした経済システムなんて、いつかは破綻するだろう。エコノミストは、少子化により労働力不足となり景気が悪化すると捲くし立てるが、現実には若年層の失業問題が深刻である。好景気になったところで経営陣の給料が上がるだけで、コスト削減に喘ぎながら格差問題を助長する。将来の労働力人口にしても、適正値を予測することは不可能であろう。いずれ、気候難民や環境難民が増えるかもしれない。世界的に人口は溢れているのだから。銀行系シンクタンクの経済予測に乗るのも、信じる側の自己責任というわけか。

9. ネット社会
ネット社会がなにも特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形態であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時も、顔を合わせないと真意が伝わらないと言われた。新技術に馴染めないおじさんが「心がない!」と難癖をつけるのも、人類の伝統であろうか。
本書は、ネットでググれば、なんでも分かるという発想は、危険であると指摘している。ネット社会が人類の知を深めるという議論も怪しい。情報が溢れれば、エセ情報も拡がりやすい。知識が真実を無視して多数決に支配されると悲劇である。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。知識を得ると、逆に知識の無さが見えてきて、物事がだんだん分からなくなるような気がする。自分の知識に自信を持てば、思考力や判断力も横暴になるかもしれない。
娯楽の流れも、書物からテレビやネットなど多様化が進む。今ではあまり従来の民放を観なくなったという話をよく聞く。おいらもその一人であるが、テレビの情報に飽きたのかもしれない。それほど有用な情報が得られるわけでもないし、ニュースもほとんどダブる。ネット社会も情報が溢れているわりには、有用な情報を得るのが難しい。お薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しい。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも否定できない。世間への反抗心が前へ進むパワーを与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

2009-08-23

"新ハイスピード・ドライビング" Paul Frere 著

先日、知人からポール・フレール氏が2008年に亡くなったと聞いた。そこで、本書をなんとなく読み返したくなった。これを読んだのは10年ぐらい前だろうか。カートで熱くなっていた時期のバイブルである。著者はアマチュアのために書いたと述べているが、前書きにフィル・ヒル(1961年F1チャンピオン)は、プロでも参考にするべきだと語っている。ちなみに、二人ともルマンの優勝経験者。本書は、現在でも通用するドラテク理論の名著と言っていい。今宵は、カートの体験談と重ねながら綴ってみよう。久しぶりに血が騒ぐぜ!(ドスの利いた声で) 10年前といえば、カート場に毎週のように通い、一日中走りこんでいた。タイムトライアルでは、常にベスト3にランキングされるように躍起になっていた。凝り性という性格が災いして、仕事をサボって走ったこともある(これは内緒!)。今では年に数回行く程度だが、それなりのタイムは出せるだろう!と意地を張る。まるで餓鬼だ!60歳過ぎても「趣味はカートです!」と言いたいものである。ちなみに、著者は70歳半ばでも、300km/hクラスの車をテストしていたという。当時、愛車をサーキットに持ち込んで走ることもあった。こちらはカートと違って思いっきりヘタレだ!経済的に辛いし、帰り道も自分の車が足なので絶対にぶつけられない。ただ、サーキットで走る経験は貴重である。グラベルにはまって動けなくなった時の景色はそうそう味わえるものではない。キャタピラ号に牽引される後ろ姿には寂しさが漂う。だが、それを酒の肴にされるのは愉快だ!ヘタッピだと思い知らされれば、公道で無謀な運転を避けるようになる。自称、走る道路交通法!ただ、いつまで経ってもゴールド免許になりきれないでいる。ちなみに、愛車はSW20の3型、生産中止の噂を聞いて慌てて購入したが、今では10%の税金アップが辛い。 カートを語り始めるとアル中ハイマーは熱い。カートは後輪駆動車なのでオーバーステア傾向にある。ミッドシップエンジンで、シートもやや後ろにあるので、重心は後ろにある。したがって、一旦回転運動が始まればリアが流されやすい。回転運動中に駆動力を与えれば簡単にスピンするわけだ。とはいっても、しっかりとフロントに荷重がかからなければ、フロントが軽い分むしろアンダー傾向となる。また、後輪軸は左右が直結されているので、2wayのデフのような感覚で、これもアンダーの要素となる。つまり、荷重移動の按配でアンダーにもオーバーにも容易にできる車なので、ドラテクの勉強にもってこいというわけだ。 速く走るためには、ブレーキングを最小限に抑え、なるべくアクセルの全開区間を長くすればいいわけだが、そう単純ではない。後輪駆動車の場合、コーナーの脱出方向に車体姿勢が決まっていないと、アクセルを開けることができない。オーバー状態では、絶対にアクセルを開けられないのだ。 なんといっても難しいのはブレーキングであろう。ブレーキングには主に二つの役割がある。コーナー進入のための減速と、回転運動のきっかけ作りである。最初は、この二つを使い分けていたが、慣れると一発でガン!と踏んで双方を兼用するようになる。適度にフロントに荷重をかけてステアリング蛇角を小さくすれば、スリップアングルの効率が上がる。また、フロント荷重の反動は、必ずリアに反作用となって返ってくるので、タイミングが合えば駆動軸への伝達効率も上がる。高速コーナーでは、アクセルを抜くだけでフロントに荷重がかかって、ブレーキを使わずに曲がれるが、低速コーナーでは、しっかりとフロントに荷重をかけないと曲がれない。パワーのないカートでは、一度減速するとスピードの回復に時間がかかるので、ターンインではなるべくブレーキを使いたくない。最初は、荷重移動にメリハリを付けて操作する。頭で確認しながら走っている感じだ。遠心力で体が外に流されるのを息を止めながら踏ん張るもんだから、吐き気もする。ステアリングも重く、疲れてくるとヘルメットの重さで首が流される。ところが、慣れてくるとステアリングの修正が少なくなり、姿勢も安定して全体的に滑らかになる。腕や足など部分的に疲れていたものが、やがて疲れにくくなり、しかも疲れが体中に分散する。 荷重移動の効率を上げるために、ライン取りも重要となる。車がコーナーに追従する能力は、ひとへにタイヤの接地力で決まると言っていいだろう。タイヤの接地は路面の摩擦係数に支配される。接地力は車両重量とも比例するが、車両重量が増せば遠心力も大きくなって外へ流される。コーナーリング中は、接地力の限界ぎりぎりに保つことが鉄則であろう。理屈はすべてのコーナーを速く曲がればタイムは上がりそうなものだが、そう単純ではない。すべてのコーナーで欲張っても、どこを速く走るように組み立てるか、全体のバランスが鍵となる。いくら一つのコーナーを速く曲がったところで、次のストレートでスピードが乗らなければ意味がない。最初は、コーナーを速く曲がろうと頑張りすぎて、突っ込み重視になりがちだった。その反動がコーナー出口に現れる。一概には言えないが、基本は立ち上がり重視にした方がタイムは出しやすいだろう。コーナーの進入を多少犠牲にしても、集中力が途切れずにタイムも安定する。この精神的なものって結構大きい。 また、コーナーの進入角度も重要である。次に続くストレートで加速効率を上げるためにも、なるべく速く脱出姿勢を決めたい。コーナー出口になるべく速くステアリングを向けて、カウンタをあてずに効率よくスライドさせる。いわゆる慣性ドリフトだ!ほとんどの車体運動で慣性力を利用することになる。ドリフト中はアンダー状態でなければ、アクセルは踏み込めない。ところで、四輪ドリフトとスライドやスキッドとの境界線も微妙で、明確な区分はないらしい。だた、レース用語としては、前輪が多少ベンドの内側へ向いているか、少なくとも直進方向を向いている場合がドリフトで、前輪をコーナーとは逆向きに修正する場合がスライドやスキッドだという。ひらたく言えば、無駄な滑りをさせないのがドリフトといったところだろうか。速く走るドライバーほど無駄な動きを抑え、派手さを感じさせないものである。 カートの体感スピードは一般車の倍ぐらいだという話をよく耳にする。100km/hぐらいでフルブレーキングすると、200km/hぐらいに感じるということか?ちと大袈裟ではないかい!カートでそんなに危険を感じることはないが、限界を試すにはそれなりに勇気がいる。コーナーでは外へ飛び出しそうになるから、最初から思いっきり突っ込むことはできない。だが、最悪でも直線運動を回転運動に変えてスピンすれば、外へ飛んで行くことはないことを体が覚えれば、少々のオーバースピードでも危険を感じなくなる。スピンする場所もコーナーの外側なので、後続車との危険も回避できる。 少し慣れてくると、ステップアップしてパワーのあるマシンを試す。そこで、いきなり体験するのがタイムダウンである。パワーがあれば、立ち上がりが鋭く、ストレートも速いので、感覚的には速く感じるが、タイムは逆に悪くなった。話を聞くと、多くの人がこうした体験をするようだ。こうして、ドラテクの奥深さを痛感させられる。 意外と難しいのは、縁石の使い方である。クリップポイントが内側の方が有利だとは言い切れない。縁石でグリップが格段と良くなるならありがたいが、行付けのカートコースではそれほどのグリップを期待できない。縁石の盛り上がりは、車体に傾きを与え逆バンクとなる。その傾き具合が、外側の駆動輪にうまく伝達する場合もあれば、逆に遠心力が邪魔になる場合もある。本書は、雨水溝に前輪をひっかける例を紹介している。つまり、車体が内側に傾くことで自然にバンクをつけるのと同じ理屈である。カートコースにも内側の段差に引っ掛けて加速できるコーナーがあるので、それを利用することがある。そう言えば、アニメでタイヤの内側を溝に引っ掛けて遠心力に対抗しながら、ジェットコースターみたいに曲がる話があったなぁ。 当時は、コースを歩いて観察したり、上手い人のライン取りを追走して参考にしたりしたものだ。そして、試行錯誤しているうちに、突然速くなる瞬間がある。速く走ろうという力みも薄れ、滑らかで自然な感覚になれる。自分の限界を知って諦めの境地に辿り着いたと言った方がいいのかもしれない。当時張り合っていたのは、小学生とスタッフの女の子だった。小学生は将来レーサーになると自信満々に語っていた。サインをもらっとけば良かったかも。なぜか?少年はインべたでスコンと曲がりやがる。どう見てもライン取りに無理があるのに、なんであのスピードで曲がれるのか?コーナーリング中はステアリングをこじって忙しそうに見えるが、タイムが出るのが不思議でならなかった。失敗してスライドさせたとしても、それほどタイムロスにならない。追走すると、立ち上がりで置いていかれるのが悔しい。これはテクの差ではなく体重差に違いないと言い訳したものだ。なにしろ20kgぐらいの差はあるのだから。ところが、雨になると立場が逆転する。わざわざ土砂降りの日を選んで走ることもあった。その理由はコースが空くからである。ただ、同じことを考える奴らがいる。マイマシンを持った連中は溝つきタイヤを装着するが、貧乏人はレンタルマシンで、しかもスリック!マイマシン派は、チューニングしていてエンジン音からして違う。それを後ろから煽るのが快感なのだ。雨の落ち始めは、ペイントされている所にタイヤをのせると、いきなりズルッ!といく。雨天で悩まされるがバイザーの曇りである。低速コーナーでいちいちバイザーを開けて拭くのが面倒でしょうがない。本書は、曇止め防止剤がない時、石鹸を薄く塗りつけ乾いた布で拭けば、曇止めに匹敵する効果があることを教えてくれる。 ちなみに、アル中ハイマーはなぜか?右曲がりのヘアピンが下手だ。夜の社交場では「右曲がりのダンディ」と呼ばれているのに。 本書は、着座姿勢からハンドリングの力学などを交えながら、運転技術の基礎理論と路面の安全性を解説する。おかげで、いい加減だった運転姿勢が、9時15分ちょい前でステアリングをしっかり握るようになった。どんなスポーツであれ、瞬時に反応して的確な動作をするためには、姿勢が大切である。理論の中には、物理学の数式を交えながらサスペンションのセッティングなど、運動力学の視点からも考察される。そして、バンク角度、タイヤ荷重、ダウンフォース理論といったデータも付録される。 また、後輪駆動車、前輪駆動車、四輪駆動車のタイプによって運動性能や操作性の違いを比較している。その大きな違いは、回転運動中に駆動力が増すと、後輪駆動車がオーバー傾向を示すのに対して、前輪駆動車と四輪駆動車はアンダー傾向を示すことであろう。後輪駆動車は、コーナー脱出時に車体の姿勢が出口方向に決まっていないとアクセルを開けられないが、前輪駆動車と四輪駆動車は、コーナーリング中に横を向いていてもアクセルが開けられる。前輪駆動車と四輪駆動車は、アンダー傾向が強いので危険の察知もしやすい。よって、一般車では前輪駆動車や四輪駆動車の方が好まれる。 「安全でしかも速いドライバーになるためにいちばん大切なのは、素早い反射神経ではなく、むしろ的確な予測能力である。」 どんなに練習してもドライバーの天性の素質には勝てないだろう。プロストやセナが、教科書やドライビングスクールを必要としたとも思えない。 「どんなに本を読んでも、レース学校でいかに練習しても、基本的な素質を生まれながらに備えていない人は優秀なレーシング・ドライバーにはなれないと私は思う。自動車の操縦は、ある水準以上ではスポーツとなり、鋭く正確な反射神経と完全な判断力が何よりも要求される。このスポーツでは、卓越した才能に恵まれており、しかも旺盛な研究心を持つものだけが一流の境地に到達できるのである。」 著者は、サーキットとロードではテクニックは別もので能力の比較は難しいが、ロードドライバーの方が偉大だと語る。その理由は人口的な環境ではなく、もっぱら自然を相手にするから、それにほとんどぶっつけ本番だからだという。ストリートで速い奴が王様ってわけか。それってストリーキング?なるほど、ふるちんで走るのは度胸がいるぜ!(ドスの利いた声で) 1. ギアチェンジ シンクロメッシュ式であっても、素早く加速するために、ダブルクラッチがいまだに使われるという。一度吹かしてやれば、シンクロメッシュ・コーンも傷めない。 ところで、よくギアの選択で迷うことがある。あるギアで回ると、回転数がレッドゾーンまで上がり、コーナーを出た途端にシフトアップが必要になるが、一つ上のギアで回るには加速が不足するという場合など。本書は、迷わず高い方のギアを選択すべきだと助言してくれる。その理由は、精神的なものだという。ギアチェンジはタイムロスにも繋がる。ブレーキング中のシフトダウンも、コーナーでの集中力に影響を与える。この考えは公道にも当てはまるという。速く走ることを前提とすれば、最大トルクの回転数を維持するのが最も効率がよいはず。そのために、ヒール・アンド・トゥもやる。本書は、ヒール・アンド・トゥは単にタイムを縮めるだけでなく、車体を安定させる意味での安全性にも通ずるという。ちなみに、坂道発進にも使える。 また、機械の摩擦を考慮すれば、回転数がある程度のところまで達しないうちからフルスロットルにするべきではないという。低速回転からの急加速は、無駄な爆発を引き起こす。ちなみに、カートのような非力なマシンでは、いきなりフルスロットルにすると、逆にパワーダウンする。よくある話に、最良の加速性能を得たい場合、各ギアでエンジンの最大トルク以上に引っ張るのは意味がないという説があるという。しかし、この説は間違いだと指摘している。計算上でも最大トルクの少し上になるようだ。したがって、すべてのシフトアップは、最高許容回転数で行うべきだと指摘している。ただし、最大トルクが比較的低い回転数のエンジンもあって、その場合は、最高許容回転数よりも早めにシフトアップすることになる。ちなみに、おいらはよくオーバーレブさせる。ヘタッピな証拠だ! 2. ブレーキング ブレーキは、運動エネルギーを熱エネルギーで吸収するシステムである。ブレーキ系統で生じた熱を瞬時に空気中に発散できないので、ドラム、ディスク、ライニングは異常な高温となりフェードの原因となる。その主な原因は、ライニング摩擦係数がある温度を超えると急激に減少することにある。レーシングカーはフェードしにくいが、逆に冷えるとライニング摩擦係数が小さい。高温は、同時にブレーキオイルを沸騰させペダルの踏みしろが増え、ペーパーロックを起こす。完全にブレーキが利かなくなった経験はないが、ブレーキがスコン!となって利きが鈍くなったことはある。ブレーキを使うのが少ないドライバほど上手いとはよく耳にする。タイヤのためにも、加速と減速は滑らかな方がいい。いずれにせよ、タイヤのグリップを超えるスピードでは、コーナーは曲がれない。ホイールロックすれすれの、絶妙なABS仕様の足がほしいものだ。ところで、カートでは左足でブレーキコントロールできるのに、車となると左足ブレーキは微妙な加減ができないのはなぜだろうか?単なる習慣であろうが、練習してもまったくセンスがない。 3. 空力 ほとんどの車は空力的なリフトを発生する。それは、飛行機が浮上する逆の原理で、車体の上を流れる空気が下を流れる空気よりも気流が速いために、気圧に差が生じるからである。しかも、後輪の方が浮きやすい。したがって、高速コーナーでは恐ろしいオーバーステアとなる。空気の流れといっても、正面からの流れに有効なだけで、横風に弱いのは飛行機と同じ。ちなみに、F1カーはトンネルの天井を走っても張り付くほどのダウンホースを発生する。実際に5G近くの求心加速度を得ながら、5Gの遠心力に対抗できるわけだ。もちろん、ドライバーの体にもそれだけのGがかかる。それで二時間近くも走り続けながら、瞬発力を維持しなければならないのだから、最も過酷なスポーツと言えるのかもしれない。 空力を利用せずに、高速コーナ-で程よいアンダーにシャーシーだけでセッティングしても、低速コーナーでは強いオーバーとなるので、シャーシーのチューニングだけではバランスを保つのは難しい。現在の空力は、グランドエフェクトを最大限活用して、ウィングは補助的な位置付けにある。本書は、セッティングの手順を解説してくれる。最初に、低速コーナーに合わせてシャーシーをチューニングするという。低速コーナーでは、空力効果よりもシャーシーのチューニングがものをいうからである。次に、高速コーナーのダウンフォースを調整するという。ウィングは前輪よりも後輪の方にダウンフォースをかけることになる。そして、サスペンションは、タイトコーナーで適度のアンダーとなるようにアジャストする。これがすべてだという。この状態でスピードを上げると、リアのダウンフォースが車速の二乗に比例して急速に立ち上がり、フロントのダウンフォースを凌いで大きくなり、高速コーナーで安定するという。 4. タイヤとホイール 一般にホイールのリム幅が広いほど、あるいはタイヤの断面が偏平になるほどスリップアングルは減少する。リム幅が広がると接地面の幅広いタイヤが装着できるので、接地面積が拡大してグリップ性能は上がる。幅だけでなく、半径方向にリム径を拡大しても、同様に接地面積が広がり同じ効果を得る。したがって、リアタイヤの幅と直径を大きくすればオーバーが減り、フロントで同じことをすればアンダーが減る。また、タイヤが関係するのは、コーナリング・フォースだけではないという。タイヤが支えることのできる垂直荷重の限界値も決まるという。ただ、タイヤの幅は大きければいいというものでもない。フォーミュラーカーは、タイヤが剥き出しになっているので、単純に空気抵抗にもなる。 ちなみに、ラリーともなると、ダートや積雪路を走るので、タイヤの種類も限りがないようだ。凍結するとスタッド付きが当たり前にしても、スタッド付きのスリックタイヤなるものもあるらしい。

2009-08-16

"社会科学の方法" 大塚久雄 著

著者大塚久雄氏は、ヴェーバー著「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」(岩波文庫)の訳者である。この本には感銘を受けて以前記事にもした。その訳者の解釈にも興味を持ったので本書を手にとった。ここでは、マルクスとヴェーバーについての著者の解釈が記される。この二人に注目した理由は、あらゆる社会学の科学的アプローチの原型がここにあるからだという。マルクスとヴェーバーの解釈をめぐっては様々な見解が錯綜する。その中で著者は、思いっきり主観で語ると宣言している。そもそも、客観で語ると言って、そうだったためしがない。もし、本当に客観で語られても、単なる事象の羅列に過ぎないことも多い。むしろ、主観的に語られる方が違った考え方が見られておもしろい。読者が客観的に眺められればいいだけのことである。もちろん本ブログも、すべての記事を主観で、いや!気まぐれで語っている。

社会学は、人間あるいは人間行動を対象にした学問であり、極めて複雑系の中にある。この学問を科学的に解析することは可能だろうか?人間行動をある程度は利害関係によって説明できるだろう。ただ、利害は個人の価値観で判断されるからやっかいである。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目する。だが、実際は内面的や精神的な価値を追求する人も多い。知識を得ることに精神の安定を求める人もいる。また、倫理観や人生観を形成する慣習や信仰などによって価値観が生み出される。人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。その人にとっての合理性は、他人にとっては非合理性と見なされる。結局、利害関係は個人の多様な理念によって生じ、もはや統計学的に捉えるしかないようにも映る。だが、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも誤魔化せる。自由 + 平等を2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように映る。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全である。人間は、永遠に人間自身を探求し続ける宿命を背負っているのだろう。

冷戦構造が終結すると、社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われた。現在ではマルクス主義を見直す動きもあるようだが。歴史教育では、社会主義は資本主義の枯渇によって生まれたと教える。教育関係者に共産党系が多いかどうかは知らん!もし、そうならば、なぜ?資本主義の成熟したイギリスやアメリカで起きずに、資本主義後進国のロシアで起きたのか?未だ歴史上に、真の社会主義モデルは出現していないのではないのか?そうした疑問をなんとなく持ち続けている。世間では様々なマルクスの解釈が氾濫する。その混乱を招いていたのは、マルクス主義信奉者たちの奇妙な解釈であろう。本書は、ヴェーバーがマルクスを批判しているというよりは、むしろドイツ社会民主党を批判していると指摘している。なるほど、マルクスの経済批判は、資本主義を前提とした現行経済を批判したと主張する人も見かける。マルクスの主張は、社会主義というよりは、資本主義を認めた上での平等主義という解釈もできなくはない。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではないような気がする。いずれにせよ、マルクスの「疎外」を理解したければ、その著作「資本論」を読むのが一番であろうが、なにしろ大作!生涯読む気がしないだろう。ということで、本書でお茶を濁しておこう。
ところで、マルクスとヴェーバーを対立構図で語られることが多い。確かに、ヴェーバーの著作の中にもマルクス批判を匂わせる記述がある。しかし、本書は、批判しながらも褒めているところもあって、双方の分析手法では、むしろ二人は重なる部分が多いと指摘している。

1. マルクス経済学と疎外
マルクス経済学の対象はあくまでも個人であって、人間を超越したような社会的実体の一環といった発想はないという。そして、経済学を自然科学と同じように理論的方法を適用する。個人はそれぞれ意志をもって目的を設定し、手段を選び、決断しながら行動する。これを説明するのに、自然成長的分業という方法概念を持ち出す。これは、自然に発生した、いわば偶然性による職業分化であって、計画経済などで政治的に仕組まれる分業ではない。この分業が総合和となって、社会全体の経済力として機能する。もちろん、個人の職業は私的なものである。となると、需要と供給の関係の中で、必要な職業が生まれ、その人員配分も自然に組み込まれることになる。まさしく、自由主義や資本主義は、この方法で成り立っている。ただ、こういう社会では、マルクスは「疎外」という現象が起こることを指摘している。生産諸力の総合が巨大化すると、経済そのものが巨大な生物のようになり、人間の意志では手に負えなくなるだろう。こうした段階になると、自然と同じように法則性を持った客観的現象になるという。統計的現象とでも言うか、これを「疎外」と言っているらしい。
「疎外とは、人間自身の力や成果が人間自身から独立して、あたかも自然に法則性を持って運動する客観的過程と化すということである。」
個人の総和が群集の力となった時、個人の無力感を思い知らされる。資本主義が人間を対象とした経済システムであるにもかかわらず、巨大化すると物価の変動には無力となる。人間の欲望の総合力として株価が暴走し、社会そのものを崩壊させてしまう。こうした複雑化する群集の力をどうやって収拾すればいいのか?まさしく、現在の経済が直面する問題である。この対処で、一つ一つの疎外の現象を解消していくにも無理があろう。一つの疎外を解消すれば、新たな疎外が生じる。経済システムの中から社会の運動法則を見つけるのも難しい。そこで、問題となるのが資本家の人格で、彼らを経済的範疇へ人格化できるかが問題であるという。自らの利害関係だけでなく、社会全体の利害関係を意識する人格ということだろうか。疎外とは、絶望論にも映る。本書は、「資本論」が疎外現象の中を動きまわるだけの経済学を批判し、経済の主体は他ならぬ人間であることを明らかにしようとしたものだと語る。あくまでも、「疎外」からの回復という観点からの経済学の考察ということらしい。
ところで、哲学で「疎外」というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が想起し、その発展型が共産主義や全体主義となり、ついには完全に人間性を失うわけか。

2. ヴェーバー社会学
ヴェーバーもマルクスと同様、経済活動を営むのは個人であると主張しているという。ただ、ヴェーバーは経済の対極とも言える宗教を考察し、宗教社会学に大きな意義を与えている。この宗教的な考察には伝統的慣習も含まれる。ヴェーバーといえば「価値自由」の概念が登場する。これは、不当な価値判断を混入しないことであるが、その観点を人間の主体から遠ざけるという意味ではない。価値判断が完全な客観性に基づくのであれば、あらゆる物の価値は明白なものとなろう。しかし、主観的に価値判断されるのが人間社会である。本書は、目的論的関連と因果関連とが方法的に混同される危険性を指摘している。政治家の政策で思惑がはずれるのは、因果関連の分析が中途半端のまま、目的論的に結論づけるからであろう。現実に、政治が社会を混乱させ、経済政策が経済危機を引き起こす。最大の過ちは、政治主導だけで社会や経済が動いていると勘違いしていることであろう。資本主義が自然成長的な分業で成り立っているからには、あらゆる因果関連を解明することは不可能に思える。だが、ヴェーバーは、主観的な目的論的関連を、客観的な因果関連に組みかえることができると主張している。
「社会学とは、社会的行為の(主観的に思われた)意味を解明しつつ理解し、それによってその経過と影響を因果的に説明しようとする学問。」
社会学では、自然科学とは違って、動機を理解するという過程が加わるという。しかし、この動機を理解する方法が分からん!ヴェーバーの著書では理念型を定義していた。それは、階級や身分によって、理念型を細分化する。例えば、資本家の理念型、労働者の理念型といったあらゆる人間のタイプを分析する。ただ、理念型で抽象化したところで、それに属する人間の中でも意志はバラバラである。となれば、厳密な分析を求めると、理念型は人数分存在することにならないか?ある程度、多数決の原理や確率論に頼ることになろう。ヴェーバーは、人間の意志が自由になればなるほど、学問的に理解しやすくなり科学的な考察が有効になると主張している。そして、社会学の客観的考察が可能になるというわけだが、これが分からん!自由意志が拡大すれば、多様性が増大してより複雑系になるように思えるのだが?人間社会のエントロピー増大の法則とは、人間の凡庸化を意味しているとでも言っているのだろうか?精神の成長が、人間の持つ真の合理性へと向かわせ、共通理念に収束するとでも言っているのだろうか?そして、純粋理性の獲得と結び付けているのだろうか?近代では、ますます凡庸な指導者によって政治が行われるかのように映る。人々の自由意志が進化すると平均化され、精神のスーパースターが出現する可能性は低くなるのかもしれない。

3. 「ロビンソン漂流記」
18世紀前半イギリスで活躍した政治経済記者ダニエル・デフォーの著作に「ロビンソン漂流記」がある。デフォーは、イギリス経済を牽引しているのは中産階級であると確信していたという。いずれ、その考えは産業革命で証明されることになる。
ところで、彼が、ロビンソンとして登場させる人物は、この中産階級の人々に酷似しているという。本書は、この階級層の人々をユートピア的に理想化したものではないかと分析している。そして、アダム・スミスの「国富論」で登場する「経済人」を理解する方法として、この本を薦めている。ちなみに、子供の頃に読んだ覚えがあるが、そんな高級な内容だとは知らなんだ。もう一度読んでみるかぁ。
主人公ロビンソンは孤島に漂着する。そして、船に残った小麦や鉄砲などの資材を利用して生計を立てる。そこには、柵を作って土地を囲い込み、植木をめぐらして住居を囲い、囲い込みの中でエンクロージャー的な生活様式が現れるという。囲い込んだ土地の中で住居や仕事場をつくり、製造を営む。農業をやりながら、製造業を営むというマニュファクチャー的な工業形態とでも言おうか。当時のイギリスは、都市部よりも農村部の中産工業によって経済を牽引していたという。毛織物製造で分業し、雇い主も雇われ人も揃って仕事に励み、奴隷制の面影はない。この本には、世の中で最も幸福なのは上流階級でも下流階級でもなく、中産階級にこそ仕事と精神で有意義な生活ができるという教訓がこめられているという。そして、ロビンソンは合理的な人間として描かれる。現実的な計画を立て合理的に行動しながら、再生産によって規模を拡大する。ここには、再生産システムをよく理解した実践的合理主義があるという。おまけに、ロビンソンは、漂流生活の貸借対照表や損益計算書を作っているというから、資本主義の基本的な姿勢が現れているようだ。マルクスの「資本論」には、経済学者がロビンソン物語を好むことを揶揄している有名な箇所もあるらしい。
この本とは対称的にジョナサン・スフィフト著「ガリヴァの航海」がある。ちなみに、「ガリバー旅行記」も幼少の頃、絵本で読んだような気がする。これは、社会批判の書で、中産階級の暗い生活様式を集めてユートピア化したものだそうな。

4. 「儒教とピューリタニズム」
マルクスは、宗教は精神的アヘンであると徹底的に否定したことが取り沙汰されるが、本書は、批判しながらも議論の出発点にしていると指摘している。その意味で、マルクスとヴェーバーの宗教的方法は重なる部分が多いという。なるほど、否定と批判では意味が違ってくるわけか。資本主義思想はピューリタニズムから派生したと解釈する人も多いが、本書は、ヴェーバー著「儒教とピューリタニズム」の中に、アジアで唯一日本で資本主義的思想が生まれたと解釈できる部分があるという。それは、おそらく浄土真宗だという。
ところで、儒教とピューリタニズムには人間観の違いがある。キリスト教的な思想では、人間は罪人であって、自らは救いに到達しえないものといった観念がある。一方で、儒教的な思想では、血縁関係や伝統を重視するといった観念がある。ピューリタニズムでは人間を堕落と考えるが、儒教では人間を堕落とは考えない。内面的な成長の欲求を西洋的とするならば、そのまま運命を受け入れて諦めるのが東洋的とするとちょっと言い過ぎかもしれないが、能動的と受動的あるいは積極的と消極的といった印象はある。よって、君子に従う封建的社会が根強いのも、東洋的なのかもしれない。西洋にも、封建的な伝統主義の時代はあったが、宗教改革やルネサンスによって自由思想が広まった。中国の科挙は、まさしく教養人としての官僚層や支配層を示している。この亡霊を追いかけているのが日本の官僚政治である。孔子風に言えば、書物を通じて教養を求めながら、精神を無限に高めることによって自己を完成させる。そこで、書物という物質的背景を必要とするために富が必要となる。だから金儲けをする。つまり、人間形成のための手段として富にも倫理的価値があると考える。一方、プロテスタンティズムでは富の価値観はまったく逆となる。隣人のための奉仕であって、自らの富を直接肯定しているわけではない。その中心的思想に「予言説」がある。救われる者も救われない者もすべて神の予言によって運命付けられる。そして、職業は神から授かった義務、つまり天職と考える。神の予言を人間が知る由しもないので、ひたすら祈りながら励むしかないわけだ。この思想が、自由な個人の勤勉な経済活動と結びついて資本主義を加速させたと解釈される。
キリスト教では神が絶対的な道徳を持つことになるが、儒教では君子が超人的な道徳を有することになる。中世ヨーロッパの国王が絶対的権力を持てずに、ローマ教会にお伺いをたてなきゃならんわけだ。昔「論語」を読んだが、その中で好きな言葉がこれ!
「子曰く、吾れ十有五にして学に志ざす。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳従う。七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。」
つまり、70歳になったら聖人として完成するわけだが、キリスト教では人間がそんな地位になることはありえない。ヴェーバーは、キリスト教的な思想を「内面的品位の倫理」とし、儒教的な思想を「外面的品位の倫理」として対比しているという。西洋も東洋も宗教的な思想の発展は、似ていると言えば似ているし、違うと言えば違う。じゃ、日本は?東洋的とも言い切れない。一般的には、いろんな文化をミックスする伝統があると言われる。それも間違いではないだろう。極東の遠く離れた地域だけに、最も冷静に異文化を受け入れられたと解釈することもできそうだ。

5. 宗教と経済
ヴェーバーの著書「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」は、宗教改革の産物という解釈がなされ、精神面からの考察であって、物質的な利害関係の考察がなされないという批判が通説だという。実際に読んだがそうでもないような気がする。単に、経済行動に思想的なものがどのように影響されるかを考察したものに思える。倫理観だけで資本主義が発生したと主張しているわけでもないだろう。宗教的考察と芸術的考察には、見分けがつかないほど似通った境地に近づくことがある。だから、芸術が宗教に奉仕するような行為が見られるのだろう。しかし、本書は究極の考察を続けると、宗教と芸術には凄まじいほどの緊張関係があるという。宗教の立場からすると、芸術の自己目的とした探求は、悪魔の側に立つことになる。よって、ピューリタンにとって感覚芸術への強い嫌悪感があるという。同じような関係が政治と芸術にもある。芸術的価値の徹底した追及とは、人間のわがままの追求でもある。したがって、平等や協調といった場合に、反発する思考と解釈される。また、宗教と経済にも緊張関係がある。経済活動の目的は利潤を追求するからである。人間行動の基本は、利害関係から生じる。良い意味でも悪い意味でも人間は利己主義である。道徳にもエゴイズムが潜む。しかし、経済学で言う利害関係はあまりにも視野が狭く感じられる。利息が高い方向にお金が流れるといった発想も、そうした典型であろう。そこにリスクの概念が加わったところで、しっくりこない。客観的に社会を安定させるのが、経済の役割であり、政治の役割であるはずだが。人間の価値判断は多様である。いくら世界がグローバル化したところで、民族文化が消滅するわけではない。

2009-08-09

"戦争論(上/中/下)" Karl von Clausewitz 著

本書に出会ったのは20年ぐらい前であろうか。当時、感動したような気がするが、ほとんど中身を覚えていない。そこで、いつかは読み返して記事に残そうと固く決意し、やっと片付けた。なにしろ三巻からなる大作。一つ一つの文章はそう難しいわけでもないが、難解!戦争自体は、単純な人間行動の積み重ねで成り立っているので、そんなに難しいことが記されるわけがない。しかし、ある時は肯定し、またある時はそれを否定するといった具合に、しばしば混乱させられる。したがって、真意を読み取ろうとすると気が抜けない。だいたい10ページも読めば一冊のリズムは掴めるのだが、本書は100ページ読んでも掴めない。訳者篠田英雄氏によると、もともと原文も難しい文章で翻訳に苦労したという。それだけ戦争論を理論体系化することは難しいということであろうか。そもそも軍事行動とは、相手を出し抜くために仕掛けるものである。その行動パターンが体系化できれるとなれば、双方にとって矛盾が生じる。孫子の兵法では「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」と言うが、双方の知識水準が同等レベルにあれば知的優位性も失われるだろう。今日では、技術力や科学力によって圧倒的な有利性を保とうとする。有利性が確保されなければ軍事バランスは混沌とし、戦局は泥沼化するであろう。戦争の本性は激烈であるが、人間は物に臆する性質を持っている。となれば、戦争を好むなど不合理に思えるが、紛争はいつもどこかで繰り返される。

クラウゼヴィッツの「戦争論」と言えば、読み方は様々であろう。戦略理論や戦術理論として読む人が多数なのだろうが、ある人は哲学書として、ある人は歴史書として、ある人はビジネス指南書として、ある人はマネジメント手法の参考書といった具合に。また、読者の目的によって重要となる章も違ってくる。いろいろな場面で話題とされるのは、それだけ人間の本性に近づこうとした証でもある。「戦争論」は、クラウゼヴィッツの晩年12年間の労作である。彼はこの大作を生前に刊行することを拒否したという。序文には、出版を婦人に託した旨が婦人によって代弁される。彼は、ニ、三年で忘れ去られるような書物を作ることに、自尊心が許さなかったという。クラウゼヴィッツは、物理量と精神論の双方から考察して、戦争理論を体系化しようと試みる。そこには、戦争心理学や哲学的思考といった人間精神の分析が随所に見られる。だが、人間精神を扱うからにはどうしても不合理性が生じる。本書は、戦争理論を体系化するには不可能な部分が多いことを認めている。戦争は一つの人間行動の現象であって、主観的思考に大きく影響される。ここでは、戦争を一つの社会現象と見なしている。ここに現れる理論は彼自身の実体験に基づいていることに注目したい。それは、なんとなく古代ギリシャの歴史家トゥキュディデスと重なるものを感じるからである。トゥキュディデスは都市国家アテナイの歴史家、いや政治家としてペロポネソス戦争で敗れた苦言を残し、クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者、いや軍人としてナポレオン戦争に敗れた苦言を残したと、双方を勝手に解釈している。だから実践的な考察がなされるのであろうと。そして、導かれる結論は「臨機応変」という概念に帰着するような気がする。物事を考察する上で、思考の出発点を定義し、思考の流れをつくることは大切である。理解していると大言壮語しながら、実際に資料としてまとめようとすると、実は全然理解できていなかったことに気づかされることも多い。複雑系だからといって考察を諦めていては、永久に脳死状態となろう。クラウゼヴィッツは、自らの理論に不完全性を認めながらも、後世に伝える価値があることを理解していたに違いない。

1. 批判的な歴史叙述の有効性
本書は、歴史叙述の方法論において、批判的な議論の有効性を主張する。なるほど、本書には従来の軍事論の批判が根底にある。歴史学では、事象をありのままに叙述することの重要性が問われる。だが、ありのままの叙述だけでは単なる物事の羅列に留まり、せいぜい最寄の因果関係を示すことぐらいしかできないだろう。そうなると、表面的な知識で終わってしまい、研究者としての使命を放棄することになる。人間は主観で物事を捉える傾向にあるから、客観に固執するぐらいでちょうど良いのだろう。だが、歴史学が、歴史事象を通しての人間そのものの研究であるとするならば、人間の本質である主観と客観の双方を相手にしなければ空論となろう。したがって、研究者の主観と客観の按配といった微妙なさじ加減に期待したい。
本書で注目したいのは、批判的叙述には知的活動が含まれると主張しているところである。批判には賞讃と批難が含まれ、そこから反省や教訓が導かれ、戦争指導の理論へと進化するという。批判的考察では、実際に採用された手段を検討するばかりか、採用されなかった手段も検討する。反対するだけでは思考停止状態となるが、批判するからにはより優れた手段を提示することを前提とする。確かに歴史事象は事実であるが、その事実が現象なのか原因なのかを判別することは難しい。例えば、ローマ帝国の衰亡をどこに求めるかは見解の分かれるところであろう。歴史教科書では、異民族の侵入、特にゲルマン民族の移動が原因であると教える。しかし、タキトゥスの叙述には、既に元老院が機能しなくなり、ローマ帝国の腐敗が共和制の崩壊とともに毒されていたことが詳述される。つまり、異民族の侵入は現象であって、その根底の原因はローマ帝国の内政問題と捉えることもできるわけだ。戦争ほど困難な事情が頻繁に生じるものはない。偶然的に突発的に生じる動因に支配され、真因が全く判明できないことも珍しくない。結果が一つの原因から生じることも稀である。「ナポレオン言行録(岩波文庫)」には、次のように語られていた。
「軍学は、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
動因は将帥が隠蔽することもあれば、将帥の主観に偏った回想もある。批判的な立場は分析される将帥には不愉快であろう。批判的な考察がより高次の分析へ導いたとしても、相手にされないことも多い。それは、確実な真理体系が証明できないからである。これは政治討論でもよく見かける。せっかく鋭い分析がなされたとしても、批判的な立場であるがゆえに煙たがれる。それが真理だという確証がなければ聞き入れられず、結局、虚栄心を煽るだけになろう。

2. 戦争は政治の延長上にある手段
「戦争は政治的手段とは異なる手段をもって継続される政治にほかならない。」
戦争は政治における国家間の究極の闘争であって、二人の喧嘩の拡大版と解釈することもできる。本書は、政治に近い戦略論と、戦闘に近い戦術論に分けて考察する。戦略論、戦術論、そしてあらゆる場面に絡む戦闘の順にトップダウンで詳述される。ただ、戦略と戦術が供に戦闘に深く関わるので、その境界線も微妙である。戦争の形態はナポレオンの登場によって本質的な変貌をとげ、近代戦では国民総武装の様相を呈する。戦争が国民の利害関係に促されて、激烈化を剥き出しにした時代である。いわば国民戦争の幕開けと言えよう。戦闘の目的は敵の撃滅にあるが、戦闘の規模は一つの戦争そのものを大規模な戦闘として捉えることもできるし、大小様々な戦闘の混在と捉えることもできる。本書は、本戦や大軍の激突といった、それだけで国家の存亡を賭けた戦闘から、一物件の撃滅といった小さな戦闘までを細かく種別し、あるいは時間的に区分し、その影響力や方法論を展開する。ところで、戦略と戦術の違いってなんだ?戦略とは、最終的に戦争を勝利に導くためにあらゆる戦闘を結びつけることで、戦術とは個別の戦闘をどのように行動するかの手段を議論するといったところだろうか。本書は、勝敗の決定も捉えどころのない計測であると指摘している。現在でも、双方の見解に異なるケースがよく見られる。大方の戦局で勝利宣言したところでゲリラ戦やテロ行為が繰り広げられるのは、精神的に打倒できていない証でもあろう。更にやっかいなのは、そこにプロパガンダ性が高いことである。

3. 物理的諸力と精神的諸力
本書は、あらゆる考察を物理的諸力と精神的諸力に分ける。今日では精神論を馬鹿にする傾向がある。おいらもその一人であるが、だからといって、精神論が無用ということにはならない。太平洋戦争でもっぱら精神論に頼った結果、振り子が大きく逆に振れるのも仕方がなかろう。何事を成すにしても、精神論と物理量の双方が噛み合わないとうまくいかない。ただ、仕事をしていると、精神論ばかり強調するマネージャが実に多いことに驚かされる。戦争では、精神論が絶対的に必要であることは確かである。だが、あまりにも物理量とのバランスを欠けば、もはや知性が失われていると言った方がいい。将帥が物理量を怠り、将兵に精神論を強要すれば、もはや将帥の仕事を放棄して応援団になり下がっていると言えよう。本書は、戦争とは極めて知的な活動であることを示している。物理的損失は精神的損失へと転化するが、物理的損失に欺瞞があれば戦意を誤魔化すこともできる。復讐心が原動力となれば、精神的損失は相手国に移ることもある。逆に言えば、物理的損失が少ないにもかかわらず、精神的損失を与えるだけで決着を付けることができる。かつて、死者数や戦利品の量などで戦況の計測がなされた。現代では、プロパガンダによって被害数を都合良く水増しすることもある。被害者意識の助長が、敵意を剥き出しにして意識を高揚することもある。そこに民族の復讐心が結びつけば、驚異的な精神力を発揮して物理的損失すら無意味にすることもある。必ずしも物理的損失が大きいから有利とも言えないわけだ。本書は、最終的に敗戦の主因は精神的損失であると主張する。精神的諸力と物理的諸力を分けて考察し、最終的に融合しようと試みるあたりは、社会学的考察の様相を見せる。
現在では、勝利の概念も随分と変化してきた。完全に本土を征服できれば、明確な勝利と言えるだろう。しかし、そうなると、原住民族を滅ぼしかねないし、それを国際世論が許すわけがない。そこで、現代の戦争目的は、独裁政権を打倒して、民主主義という看板を押し付けることになる。何をもって勝利とするかも曖昧で、大規模な戦闘作戦が終わった時点と見るべきか、政治形態に平和がもたらされた時点と見るべきかなど、意見も分かれる。軍事行動的には、国民選挙が実施された時点で落ち着くようだが。戦争目的が政治目的とするならば、平和がもたらされない限り戦争状態と言えるだろう。現代では、冷戦状態のような、戦闘状態なのかも判別できない状態もある。さすがに、クラウゼヴィッツも冷戦構造までは想定していないだろう。核兵器のような人類をも滅ぼしかねない強力な武器が登場すると、逆に戦争の抑制になっているのも奇妙な現象である。常に拳銃を頭に押し当てながら引き金に指をかけている状態とは、まるで自殺志望者のようだ。

4. 防御は攻撃よりも強力
攻撃と防御は、背中合わせの関係にある。「攻撃は最大の防御」と言われるのも、防御は待ち受け状態であり、攻撃は先制という有利性がある。
しかし、本書は「防御は攻撃よりも強力な戦争形式である」と主張する。奇襲の効果を否定しているわけではないが、同時にその効果に疑問を投げかけている。戦争が複雑化するのは、交戦国の双方が戦術的に同等の水準に達したということであろう。となると、先制の有利性は小さくなる傾向にある。地の利をいかした幾何学的考察を加えれば、防御側が有利に展開できるはず。ところで、敵の撃滅とは何を意味するのか?味方の損害よりも敵の損害が大きいことを意味するとすれば、どちらかが攻撃を仕掛けなければ、戦闘は成り立たない。我が国には「専守防衛」という概念が強調される。これは近代化するほど曖昧な概念となろう。侵略はどこの国にとっても脅威であるが、何をもって侵略とするかは、科学力や技術力の進歩によってその判別も難しくなる。グローバル化が進めば経済封鎖も大きな脅威となる。この概念は、先制攻撃の禁止という意味で言葉で解釈することは容易であるが、相手国の攻撃をどの段階で判断するのか?戦闘準備の段階か?しかも、戦闘準備ってどんな状態か?科学の進歩は、直接軍隊の侵入がなくても、攻撃されたと認識した瞬間に敗戦となることもありうる。外交戦略も、一つの戦争戦略と見なすこともできる。外交能力に期待ができなければ、防衛システムにおいて科学力や技術力で圧倒するしかない。戦争を放棄した国家が、戦闘力を保持することに矛盾を感じないわけではないが、戦争を回避したいからこそ世界でも有数の防衛力を保持する必要があると考えることもできる。警察官が、一般市民よりも武装能力がなければ、市民の安全と言っても説得力がない。
昔から、軍事的立場が政治的立場から独立するのか、それとも政治的立場の一要素であるかといった議論がある。本書は、政治は知性であり戦争はその道具に過ぎないと語る。つまり、軍略の属するべき性格はむしろ政治側にあるというのだ。これは、この時代にあって、既にシビリアンコントロールの重要性を説いているように思える。本書は、戦争行動を政治の過失と見なしている。だからこそ、防御性の有利性を唱えているようにも映る。

5. 遠征の是非
本書は、ナポレオンやフリードリヒ大王などの軍事例を多く用いながら具体的に議論がなされる。そこには、ナポレオン戦争に敗れた悔しさがにじみ出ているように映る。ナポレオンがロシア遠征に失敗した要因は、様々な議論があるだろう。一般的には、前進が迅速過ぎて、あるいは深入りし過ぎたためとされる。トゥキュディデスは、ペロポネソス戦争でアテナイが敗れた要因をペルシャの大軍がギリシャに遠征して敗れたことに結びつけている。つまり、シチリア島への遠征を直接要因とし、大軍が遠路はるばる進行して成功した例はないと記している。ヒトラーしかり、大日本帝国しかり。ただ、本書では、ナポレオンの敗北を少々違った角度から議論している。それは、遠征失敗の結論は成功に必須な手段を欠いていたからで、ロシアは侵略者がこれを占領地として守備し得るような国土ではないと。ましてやナポレオンが引率した50万の兵力では不可能だという。そして、ロシア帝国を屈服するためには、政治的弱点を突くべきだったと指摘している。その弱点とは、国内に内在する分裂である。ナポレオンは、むしろロシアの民衆を味方につけようとするべきだったのかもしれない。本書は、戦争が政治の手段である以上、政治的解決法を模索することの重大性を指摘している。

2009-08-02

"年代記(上/下)" タキトゥス 著

10年ぐらい前から読もうと決意していたが、なかなか読む気になれないでいた。それは、ローマ帝国時代の二代目ティベリウス帝からカリグラ帝、クラウディウス帝、ネロ帝の4人の皇帝を題材にしているところだろうか(紀元14年から68年の55年間)。目立った動乱もなく平穏な時代に映るので、退屈する読み物と思っていたからである。ところが、どうしてどうして!タキトゥスは、カエサル、クラウディウス家にあって、なぜこの時代を詳述したのか?その答えがいきなり記される。それは、古代ローマ時代の栄枯繁栄については優れた歴史家の記録がある。初代皇帝アウグストゥス時代しかり。しかし、それ以降については、元首の生存中は恐怖から曲筆され、元首の死後であっても恨み憎悪から編纂されたという。そこで、アウグストゥスについては簡単に最期を述べ、その後の四代に渡るローマ皇帝の歴史を、怨恨も党派心もなく述べてみたいと語られる。そこには、粛清とも恐怖政治とも言うべき、ローマ帝国が腐敗へと向かった様子が克明に描かれる。ちなみに、「年代記」は全18巻あるらしい。ただ、途中の7巻から10巻と17,18巻は消滅し、三分の一ほど失っているのは残念!本書は現存する16巻までを上下巻に分けて掲載される。

タキトゥスはローマ帝国の最盛期を生きた歴史家である。また、元老院議員になり、執政官にも就任し、属州統治者にまで出世した政治家でもある。彼の著書「ゲルマーニア」は、その観察力に魅せられたものだが、ここではかなり違ったイメージがある。彼の代表作は、むしろ晩年に記された「年代記」の方なのだそうな。その内容は、賄賂、不倫、近親相姦、冤罪、そして、暗殺、自殺の強要、死罪に追い込む謀略など汚い言葉を並べれば切りがない。更に続けるなら、血筋の夭折それも奇怪な死、不貞の皇后、風俗の乱れと腐敗した皇帝家... あらゆる人間の醜態を曝け出すかのような物語である。女性が活躍する時代は平和な時代の証でもあり、人類にとって良い時代だと思っていたが、その考えは2000年以上前の歴史書によってあらためさせられることになる。クラウディウス、ネロの時代になると更に泥沼化し、悪業も大胆で巧妙化する。まるで歴史書が推理小説化していくようだ。卑屈な態度を続ける元老院の隷属じみた様子には、何かに憑かれたような愚痴っぽい記述が加速する。ネロ帝の記述では、元老院のへつらい振りを次のように嘆く。
「このような決議を私はいったいいつまで述べてゆくつもりだろう。さよう、これを最後にしよう。しかし、この時代の不幸を、私の著述やほかの歴史家を通して知ろうとする人々はみな、あらかじめ次の事実を承知しておいてもらいたい。すなわち、元首が追放や死を命ずるたびに、いつも神々に対する感謝の儀式が執りおこなわれたということ。そして、かつては慶祝事と関係したこの儀式が、当時にあっては国家の不幸の象徴となっていたということである。」
岩波文庫「ナポレオン言行録」では、ナポレオンはタキトゥスが言うほどローマの皇帝たちは悪くはなかったと弁明している。なるほど、本書はローマの皇帝時代を暗黒時代とでも言うように綴っている。
ところで、ローマ帝国の衰亡の原因をどこに求めるかは議論の分かれるところであろう。そもそも滅亡の時期にしても、その原因にしても特定することは難しい。直接の原因、あるいは表面的な原因として蛮族による反乱、特にゲルマン人の移動に見ることはできる。しかし、本書を読んでいると、この時代に既に魔の手が忍び寄っていたと思わせる節がある。タキトゥスは、ローマの行く末を予想したのか?それともそれを阻止しようとしたのか?今となっては想像するしかない。

歴史書でいつも問題とされるのは、客観性の評価であろう。本書の中でも、タキトゥスは先人たちの史書に対して批判的な態度を見せる。元首政治による自由の圧迫とそれに由来する道徳的退廃を強調するあたりに主観性が混ざっているものの、客観性にこだわった努力は随所に見られる。これが、どこまで科学的、客観的に分析されているかは、専門家によっても意見が違うようだが、当時の歴史分析としては、かなり高いレベルにあることは間違いない。ところで、完璧に主観が排除された歴史書って存在するのだろうか?歴史家の解釈を全く排除するのも、その使命を放棄しているように思える。歴史事象を、ありのままを羅列するだけであれば、せいぜい最寄の因果関係を示すぐらいしかできないだろう。現在ですら原因を特定できないものが多いのだから、歴史の解釈が時代によって変化するのも仕方がない。あまり主観ばかりでも困るが、多少の主観の入り込む余地を残し、あとは読者に任せるしかなかろう。宇宙は、こうした実に多くの相反する概念に支配される。これを矛盾と捉えるか、対称性と捉えるかによっても思考方法が変わるだろう。主観の程度を議論したところで永久に解決を見ないだろうが、本書のレベルであれば、現代感覚でも十分価値あるものと評価できる。おまけに、政治が腐敗しきると民衆は嫌気がさし、独裁的な暴走的な政権を許す危険性があることを露骨に再現している。現代風に言えば、政治家たちのみっともない応酬の中で、官僚独裁が完成しつつあるといったところだろうか。

1. 古代ローマ
「太古の人は、性悪な欲望も破廉恥も犯罪も知らず、したがって、罰も取締りもなく暮らしていた。そして、美徳がそれ自体のもつ価値のため求められていたので褒賞は不要であった。誰一人として習慣に悖る行為を欲しなかったので、恐怖心に訴える罰則は全く無用だった。ところが、平等性が奪われ、謙遜と廉恥心に代って野望と暴力がのさばるようになって以来、専制君主が現れ、それが多くの国民の間で恒久化される。」
ローマの伝説的な起源は紀元前753年とされる。都市国家ローマはその起源から王に支配されていた。やがて、国家は法律を欲する。これらの法は始め素朴な精神にふさわしく単純であった。そのうちで最も名高いものが、ミノスがクレタ島民に与えた法律と、リュクルゴスがスパルタ人に与えた法律であり、次いでソロンがアテナイ人に洗練した複雑な法律を与えた。ローマでは、ロムルス(伝説の初代ローマ王)がその意志のまま命令していたが、ヌマ(二代)は宗教的規約と神聖な掟で国民を縛る。次いでトゥッルス(三代)とアンクス(四代)は、これにいくつかの新しい要素を加える。しかし、セルウィウス・トゥッリウス(六代)こそ、最も卓越したローマ法の制定者であるという。彼の法律は王ですら服従せねばならなかったからである。紀元前509年に、タルクィニウス(七代)が追放されると、自由と執政官による共和制が敷かれる。「古代ローマ」と言えば、この共和制時代を指すようだ。これはルキウス・ブルトゥスが創設した。とはいっても、期限付の独裁官制度で一時的な手段に過ぎない。次いで十人法官が生まれ、それ以前の優れた法を引用して十二銅板法が作られる。これが、不偏不党の法律の最後だったという。これ以降の法律は、階級闘争の道具といった邪悪な意図で暴力によって制定されることになる。十人法官に絶対権力を与えられたが、二年以上は続いていない。ルキウス・キンナやルキウス・スッラの専制も短命で終わる。第一回三頭政治では、カエサルとポンペイユスとクラッススが覇権を争って、カエサルの手に帰す。第二回三頭政治では、オクタウィアヌスとアントニウスとレピドゥスが覇権を争い、オクタウィアヌスの手に帰す。カエサルの暗殺後、内乱が起こるが、オクタウィアヌスが養父カエサルの後を継いで勝ち抜き「アウグストゥス(尊厳なる者)」の称号を得て、初代ローマ皇帝となる。

2. ティベリウスが帝位に就く
ブルトゥスとカッシウスが倒れてからは国家に軍隊は存在しなかったという。というのも、三頭政治からの軍隊を私軍と呼んでいたようだ。元老院ではカエサル党とポンペイユス党で対立するが、やがてポンペイユス党が倒れカエサル党で生き残ったのはアウグストゥスのみとなる。アウグストゥスが独裁者となっても誰も反対しなかったという。権力者どうしの確執から横行する暴力や陰謀で、民衆も嫌気がさしていたからである。独裁制によって古くからある共和政の慣例は全て失われた。ただ、平等を奪われたにもかかわらず平和が維持されたために民衆は不満を持たなかったという。アウグストゥスには十分な後継者がいたにもかかわらず、なるべく多くの後ろ盾を得るために養子を入籍させていた。ティベリウスもその一人。多くの後継者が他界したのは陰謀なのか天命なのかは怪しい。結局、生き残ったのがティベリウス、そこには冤罪で消された者もいる。その頃、ゲルマニアとの戦争を残して全ての政治上の問題は解決していた。ティベリウスの母リウィアは、晩年のアウグストゥスを完全に牛耳っていたという。リウィアは、後継者のライバルたちを陰謀によって排除する。ただ一人の孫アグリッパ・ポストゥムスをプラナシア島に追放させたほどである。アグリッパは逞しい体力を愚かにも自慢するだけの教養のない人物だったという。アウグストゥスは、病状が悪化すると親友ファビウス・マクシムスをともないプラナシア島に赴き、アグリッパと互いに涙と愛情のしるしを交わす。この会談の模様は、マクシムスから妻マルキアへ、マルキアからリウィアへ漏れる。しばらくしてマクシムスは死ぬが、これが自殺だったかどうかも怪しい。ただ、葬式で妻マルキアが自らを嘆き悲しんだというから、情報を洩らしたことを責めたとも解釈できる。それはさておき、ティベリウスがアウグストゥスの元にかけつけた時、既に亡くなっていたかは不明であるが、アウグストゥス逝去と同時に万事は整えられ、ティベリウスの政権獲得が発表された。新しい元首の最初の悪業は、アグリッパ・ポストゥムスの暗殺である。ティベリウスは元老院で、アウグストゥスの遺言で殺すように命じられたかのように振舞う。アウグストゥスがティベリウスの安泰のために孫を殺させるなど誰も信じない。むしろ、ティベリウスとリウィアが共謀したと考える方が自然であろう。しかし、元老院はこれを承認する。この頃、執政官も元老院議員も騎士階級も、卑屈な服従に陥ったという。地位の高い人ほど、うろたえて本心を晦ます。まさしく暗黒時代の幕開けである。ゲルマニア人との戦争で勝利した時、ローマ軍将兵はアウグストゥスへ畏敬の念を抱くが、元老院はティベリウスの嫉妬心を恐れる。ティベリウスは世間の噂を気にして、国家から要請されて自然に帝位についたように振舞う。あらゆる都合の良い主張を第三者に発言させ、自らは穏健な態度を見せる。元老院が瀕死状態とはいえ、まだ自由の精神があったという。しかし、本質を隠蔽した自由の仮面が、将来いっそう恐ろしい圧政へと急変させることになる。ティベリウスは、しばしば次のように呟いたという。
「いつでも奴隷になり下がろうとしているこの人たちよ!」
ティベリウスですら議員の奴隷根性を嫌悪していたわけだ。やがて元老院は隷属から迫害への運命をたどる。

3. ゲルマニクスの夭折
カエサル家は、兄ゲルマニクス派と弟ドゥルスス派で二分されていた。ゲルマニクスは養子なので、ティベリウスは実子のドゥルススを引き立てる。ゲルマニクスの父の名もドゥルススというからややこしい。ちなみに、ティベリウスの父はティベリウス・クラウディウス・ネロで、養子になる前は同名を名乗っていたという。カエサル家の家系図を見渡しても、実子と養子が入り混じり、同名が多く連なるので目が回る。ゲルマニクスは司令官としてゲルマニア人と戦った。ティベリウスはゲルマニクスの名声を利用して、民衆の人気を取り付ける。そして、利用した後にあらゆる手段でゲルマニクスを抹殺しようとする。その機会をこしらえたかどうかは不明だが、少なくとも偶然の機会をものにする。元老院は東方の動乱を静めるためにゲルマニクスを派遣する。ゲルマニクスは、友人に優しく、一人の妻を通したという。たびたびゲルマニア人を撃退したにもかかわらず、奴隷に鞭をかけることができなかったのも、人柄の現れであろう。また、アレクサンドロス大王の運命と比較されるほど、武人としても尊敬されていたという。ゲルマニクスの死には、シリア総督ピソが毒を盛ったという噂が広まる。ゲルマニクスの葬儀で、民衆は「共和国は倒れた!すべての希望が消えた!」と嘆いたという。結局、ピソがティベリウスと謀って毒を盛ったのかどうかは分からない。ただ、ティベリウスはピソの噂を無視して快く迎えている。しかし、ゲルマニクスを慕い、ピソに我慢のならない人々も多い。ピソは訴訟を起こされる。直接ゲルマニクスの復讐を見せるわけにはいかず、ピソは過去の行為を弾劾される。軍隊の買収、属州を悪の中に放置したこと、最高司令官に侮辱的な行為があったことなど。だが、肝心のゲルマニクス暗殺の証拠は示すことができない。間もなくピソは死ぬが、刺客によるものか自殺なのかは不明。ただ、ティベリウスの命じた暗殺の書簡をピソが持っていたという噂が流れる。

4. セイヤヌスの陰謀
ティベリウスは残忍になっていく。その原因は護衛隊長アエリウス・セイヤヌスにあるという。セイヤヌスは唯一の信頼者で相談役。彼は表面では平静を装い、内心では強い権力欲を持っていた。ティベリウスはセイヤヌスを極度に寵愛して、その言いなりになる。当時カエサル家には後継者で満ちていて、男盛りの嫡子や成年に達した孫たちが、セイヤヌスの野望を妨げていた。だからといって、一度に抹殺するわけにはいかない。まず、ティベリウスの息子ドゥルススから始めるために、ドゥルススの妻リウィアに迫る。彼女はゲルマニクスの妹で美貌だったという。のぼせあがったように見せかけて近づき不倫関係で縛り付ける。当時、女性の貞操を奪うと、そのまま言いなりになるという価値観があるそうな。セイヤヌスは妻を追い出しリウィアを安心させ、将来結婚して王位を分け合う約束をし、夫を殺すようにそそのかす。そして、効き目のおそい毒薬を選んで病死と見せかけた。次の後継者には、ゲルマニクスの二人の子供ネロ(後の皇帝とは別人)とドゥルスス(ティベリウスの息子とは別人)である。三番目のガイウス(後の皇帝カリグラ)はまだ幼少。リウィアは、ゲルマニクスの妻で二人の子供の母でもあるアグリッピナと対立する。リウィアがセイヤヌスと再婚すれば、セイヤヌスは騎士階級を越えることになる。アグリッピナは気性の強い女性で、血縁の危険に腹を立ててティベリウスに直談判する。セイヤヌスはアグリッピナを亡き者にしようとする。この頃、アグリッピナは毒殺されるという噂が流れた。これも精神的な嫌がらせだろうか?元首の家では様々な陰謀の噂があり、ティベリウスは孤独を求めるようになる。セイヤヌスは、ティベリウスに快適な土地で暮らすように巧みに説得し、カンパニアに隠遁させる。そして、ゲルマニクスの遺子を罪に陥れる。別人の告発者を仕立て、自らは公平な裁判官を演じる。セイヤヌスは弟ドゥルススを味方につける。もはや元首の地位は弟様のものです!といった具合に。ネロとアグリッピナは別々の島に流された。間もなくネロは死ぬが、殺されたか自殺を強いられたかは不明。次は、弟ドゥルススの番である。セイヤヌスはドゥルススの妻をたらしこみ野心を吹き込む。ドゥルススもまた公敵と宣言され地下牢に幽閉された。ティベリウスは、セイヤヌスの離婚した元妻からドゥルスス毒殺の経緯を詳しく聞いて、セイヤヌスと距離を置くようになる。セイヤヌスは、ティベリウスと後継者ガイウスを亡き者にしようと企てたが、逆にティベリウスはセイヤヌス派の処刑を命じる。

5. 恐怖政治
ローマにおいて高利貸しのもたらす不幸の歴史は古いという。これがたびたび暴動や内乱の原因になっている。道徳がさほど腐敗していなかった昔ですら利息規制があったという。例えば十二銅板法が、はじめて利息の上限を元金の12分の1に規定した。それまでは、利息は金持ちの勝手放題だった。その後、護民官の提案で24分の1に引き下げられ、ついには一切の貸し付けが禁止された。金持ちの奸策を民会議決で押さえつけても、巧妙な手口が発生する。この頃、すべての負債が一斉に回収され通貨が不足していたという。断罪された人々の財産が競売にかけられる。現金が元首金庫や国庫に滞っていたのも、その原因だという。債権者は返済を要求し、要求された人は嘆願する。その多さに法廷も混乱。その対策で、元老院は債権者に貸付総額の3分の1をイタリアの土地に投資するように命じる。しかし、債権者は回収した現金を貯めて、土地を買う機会を狙う。売り建てが多くなると土地価格が下がり、借財が多いほど売却に苦悩し倒産者が続出する。財産の破滅は地位や名誉を真逆な立場にする。有力者は生贄となり、以前の恐怖政治へと戻る。資産家への恨みは大きく、次々と告発される。
「表面は逆境に苦しめられているような人が、実はしばしば無情の幸福者であり、財産があり余っていても、そんな人はたいてい、悲惨極まりないのである。なぜなら、前の人は、茨の運命を不撓不屈の精神で耐えて行くからであり、後の人は、幸運の贈物を、前後の見境もなく使い果たすからである。」

6. ティベリウスの最期
ティベリウスは自らの最期が近いとみるや、後継者を誰にするか迷う。まず、孫たちの間から候補者を考えた。ドゥルスス(ティベリウスの息子)の息子ティベリウス・ゲメッルスは血と愛情において一番近いが、少年の域を脱しない。ゲルマニクスの息子ガイウス(カリグラ帝)は、血気盛んな青年で世の衆望を集める。カエサル家の外部から後継者を選ぶと、体裁が悪い。晩年のティベリウスは生存中の評判よりも死後の栄光を気にしていたという。ティベリウスは予言した。ガイウスがルキウス・スッラのあらゆる悪徳を身に付けても、美徳を持つことはできないだろうと。ガイウスの陰険な顔を見ながら年下のゲメッルスを抱きしめ、この孫を殺すであろうと。その予言は的中することになる。ティベリウスの肉体が衰弱すると、後継者選びは運命に任せるしかなかった。ティベリウスの呼吸は止まり天寿を全うしたかに思われた。ガイウスは統治の一歩を踏み出すために、祝賀にかけつけた群衆の前に姿を表す。ところがその時、ティベリウスが目を開いて元気を取り戻したという報せが入った。ガイウスは茫然自失で言葉を失い、最悪の事態を想定して先手を打つ。ガイウスの護衛隊長マクロは部下に、この老人の上に蒲団を山と投げかけ、かぶせたままにして部屋から出て来いと命じた。

7. カリグラ(ガイウス)の統治
カリグラは、ナポリ湾の別荘でティベリウスが永眠すると、護衛隊長マクロをローマに派遣して、元首継承を円滑にするように工作させる。ゲメッルスには自殺を強いて、あらゆる陰謀が企てられる。このあたりは、第7巻から第11巻に記されるはずだが、ほとんど失われているのが惜しい。カリグラは気違いじみた自己崇拝に陥ったという。双子神カストルとポリュックスの神殿を住居とし、神々の服装を身にまとう。アポロン神や軍神マルス、あるいは女神ウェヌスやディアナの扮装で歩き回る。また、彼自身の像を世界中の神殿に置くように命じた。シリア総督ペトロニウスは、ユダヤのエルサレム神殿の聖地にカリグラの像を安置せざるを得なくなる。ちょうど、現地人の反対にあって困惑していた頃、カリグラは護衛官に暗殺されて事なきを得る。

8. クラウディウスの統治
カリグラが暗殺されると、元老院が臨時召集され深夜まで論じた。共和制復活を唱える者もいれば、カエサル家以外から元首を選ぶべきだという意見もある。結局、結論が出ず散会。やがて、護衛隊がカリグラの叔父のクラウディウスを担ぐ。クラウディウスは、乱れたローマの再建に乗り出すが、その妻メッサリナが次第に有害をもたらす。メッサリナから睨まれた人間はことごとく殺される。彼女はガイウス・シリウスという美青年にのぼせてあがり無理やり別れさせ、独身の情夫として思うがままに操る。シリウスは恥知らずの行為と百も承知しているが、拒むと破滅するのは明らか。クラウディウスは鈍感で妻の尻に敷かれっぱなし。元首がいっさいの司法権と行政権を掌中にすれば、彼女にあらゆる略奪の機会を与えることになる。本書は、公認の市場では、弁護人の不実ほど、売れ行きのよい商品はないとまで記している。メッサリナは、抵抗もされない情事に倦怠感を持ち淫蕩のうちに落ち込み、シリウスとの二重結婚の生活に明け暮れる。いくら鈍感なクラウディウスでも薄々気づきはじめ、ついにメッサリナの処刑を命じる。次の妻の座をめぐっての争いも凄まじい。財産をなげうってアピールする女性が続々と現れる。最後まで残ったのが、執政官級のマルクス・ロッリウスの娘ロッリア・パウリナと、ゲルマニクスの娘ユリア・アグリッピナ。肝心のクラウディウスは側近の忠告を聞く度に、あちらこちらに傾く始末。結局、誘惑も手伝ってアグリッピナと再婚。アグリッピナは、元首の結婚をめぐって争った時からロッリアに敵意剥き出しに占星師や魔術師に呪わせる。そして、ロッリアの罪と告発者をこしらえて財産を没収し追放する。おまけに、護衛隊副官を派遣して自殺を強いる。ロッリアの周辺の人々も陰謀の渦に巻き込まれる。アグリッピナの息子ネロ(後の皇帝)が二十歳で執政官職に就く。ネロはクラウディウスから見れば養子。その一方で、メッサリナとの間の実子ブリタンニクスの境遇に同情する者も多かったという。

9. クラウディウスの死
クラウディウスは、アグリッピナの野望に従って、考えられる限りの虐政を強いられる。資産家の告発や執政官職への謀略など、ことごとく破滅させる。クラウディウスの晩年、不吉な前兆とされる現象が相次ぐ。軍隊の旗や天幕が雷火で燃えたり、カピトリウムの神殿の破風に蜂の大群が巣を作ったり、半人半獣の子が生まれたり。財務官、造営官、護民官、法務官、執政官が各々一人ずつ、わずか数ヶ月で死亡するという現象もある。こうした凶兆を誰よりも恐れたのはアグリッピナである。おまけに、クラウディウスが泥酔した時に「妻の罪に耐え、やがて罰するのが、予の運命だ。」などと洩らしたもんだから、クラウディウス毒殺が計画される羽目に。共犯者は侍医クセノポン。じわじわと衰弱させる軽い毒では陰謀に気づかれる恐れがあるので、精神を錯乱させ死期を遅らせるという微妙な効用のある毒薬を選ぶ。ところで、カエサル家には、独裁政治の道具として毒殺専門のロクスタという女性がいたらしい。アグリッピナは彼女を抜擢。ロクスタも後に毒殺のかどで処刑されることになるのだが。

10. ネロの統治
ネロの影で、競争相手はアグリッピナの奸策でお膳立てされる。ネロには二人の指南役がいたという。一人は軍人アフラニウス・ブッルスで忠勤さと厳格な私生活を説く。もう一人は、哲人アンナエウス・セネカで雄弁術と威儀作法を教える。アグリッピナの横柄な振舞にも二人は結束して対抗した。アルメニアの使節が嘆願を訴えてきた時、アグリッピナが最高司令官の座に昇って、ネロといっしょに謁見しようとすると、周りの人々は恐れから立ちすくむ。だが、セネカはネロに忠告してその醜態を未然に防ぐ。クラウディウスは優柔不断さゆえに、不義な結婚と致命的な養子縁組を強いられて身を滅ぼした。しかし、ネロはおめおめと屈するタイプではない。歴代の元首のうちで、他人の雄弁術を必要としたのはネロが最初だったという。独裁者カエサルにしても、アウグストゥスにしても雄弁家であった。ティベリウスも、言葉を考慮吟味する才に熟達していたという。カリグラやクラウディウスにしても、演説の中に洗練された文体を見つけることができる。だが、ネロの精神は、雄弁術よりも彫刻、絵画、詩歌、馬術に向かったという。ネロの中で母アグリッピナの影響力が次第に崩れていく。アクテという解放奴隷の女と恋に落ちたからである。ネロの妻オクタウィアは高貴で貞淑の評判も高いが、嫌悪し遠ざける。アグリッピナは、解放奴隷の女を嫁にすることに反対であるが、息子からの疎遠を嫌って下手にでた。ネロはその豹変ぶりに騙されない。ついにアグリッピナは、正当な後継者はブリタンニクスだ!と言い出す。養子のネロは母を虐待し統治権を乱用していると言いふらす。すると、ネロは義弟ブリタンニクスの存在を不安に思い毒殺する。元首やその家族らと一緒に食卓を囲んでいる中での毒殺に、周りの人々は震え上がる。これを目の前にすれば、さすがのアグリッピナも恐れた。

11. アグリッピナの暗殺
ネロは元首の地位に長く就いていると次第に大胆になる。次に、ポッパエア・サビナという女性と恋仲になる。ポッパエアとの結婚を母アグリッピナが許すわけがない。クルウィウス・ルーフスの説によると、アグリッピは権力を維持したい衝動から、饗宴の席で酔ったネロと接吻したり、不倫を迫るといった醜態を見せたという。これは、元首の不名誉であり、もやはアグリッピナはネロにとって危険な人物となる。ファビウス・ルスティクスの説では、不倫を迫ったのはネロの方だという。クルウィウスの説は、他にも典拠されているので、巷ではこちらが有力とされるらしい。そういうわけで、ネロは母と二人っきりで会うことを避ける。そして、暗殺を目論むが、ブリタンニクスの例があるので偶然の出来事にするのは難しい。また、アグリッピナ自身も、食前に解毒剤を服用して身の安全を計る。そこで、アニケトゥスという解放奴隷が、船に乗せて海難事故に見せるのはどうかと進言する。ネロはこの案を気に入る。ちょうどミネルウァ祭で、ネロはバイアエに行く慣わしがある。そこに母も招待すれば、息子が改心したと母を喜ばすのにもってこい。そして、船を一気に沈めようとしたが、機敏さを欠きゆっくりと沈む余裕を与えてしまった。側近が「私はアグリッピナです。」と言って身代わりになり、アグリッピナは漁夫の小船に助けられる。母が助かったと知ったネロは復讐を恐れる。母はこの事件を暴露して元老院と国民に訴えるに違いないと。ネロは先手を打って刺客を送って殺害し、母が元首を暗殺しようとしてその罪の発覚を恐れて自害したという話をでっちあげた。アグリッピナには、自らの死を覚悟していた節があるという。あるとき、占星師に占ってもらうと、「ネロは政権をとるだろう。そして母親を殺すだろう。」と答えが出たという。しかも、彼女は「ネロが天下をとれば、私を殺してもよい」と言っていたという。ネロは元老院で母の罪をクラウディウス時代にさかのぼって追求した。

12. ネロ祭
母の死以来、ネロはあらゆる欲情に没頭した。いままでもそれほど抑制していたわけではないが、ネロはまだ公の場で身を汚そうとはしていない。しかし、「青年祭」と呼ばれる祭典をつくり、自ら登場しあらゆる階級に渡って人々を堕落させる。自らの恥さらしを人々の下劣な行為によって慰めようとでもするかのように。上流階級の婦人までもが下品な台詞を吐き、盛り場や居酒屋を設け、祝儀がばらまかれ民衆に浪費させた。次第に背徳と汚辱が幅をきかす世となる。当時の光景を、清潔潔白を保つのは難しく、悪徳を競い、純潔とか廉恥心とか、いかなる良風美俗にせよ、それを守ることは不可能であったと回想している。また、ギリシャの競技祭を手本にローマ五年祭を創設した。これはネロ祭と呼ばれ、費用は国家から捻出される。

13. セネカの隠退
国家の悪弊が募っていく中で、矯正する力も失っていく。まず、ブッルスが世を去る。病気か毒殺かは不明。ブッルスは呼吸障害を起こし窒息死したから病死と推定する人がいるが、ほとんどの人はネロの陰謀説を信じたという。市民は長い間、彼の死を惜しむ。元首にとって善良な両輪の片方を失うと片方も崩壊する。セネカは、多くの蓄財のために反感を買っていたので、ブッルスの死に乗じて性悪な連中の攻撃対象とされた。ネロはセネカを敬遠するようになる。セネカは権威者の生活を捨て都にめったに姿を見せなくなる。セネカが失墜すれば歯止めがなくなる。ネロの悪行は元老院で善行と見なされるようになる。オクタフィアを追い出し、ポッパエアを妻としてからは尻に敷かれる。オクタフィアの召使をそそのかし、奴隷と密通したと讒訴させる。オクタフィアの一部の下女は拷問に屈して偽りの罪を認めたが、大部分は女主人の貞節を頑固に弁護した。にもかかわらず、オクタフィアはカンパニア地方に追放される。民衆は公然と批難した。民衆は社会的地位がないので危険がないから言いたい放題。その時なぜか?ネロは自らの不正を後悔し、オクタフィアを呼び戻して再び妻としたという根も葉もない噂が広まって騒動は鎮まったという。オクタフィアは死を命じられる。縄で縛り上げ四肢の血管を切り開かれる。恐怖のため血管は締め付けられ、血はぽとぽと滴る程で、死に至るまでに時間がかかる。それで、発汗室の熱気にあてて窒息させる。おまけに、首を斬りポッパエアに見せた。これに恐怖した元老院は、神殿の感謝の供物を捧げることに決議したというから呆れるばかり。ちなみに、後のポッパエアの死は、なにかのはずみでネロが腹を立てて足で蹴ったためだという。史家には毒殺説を唱える人達がいるが、著者は信じてない。話の流れからすると毒殺でも不思議はないのだが、ネロは妻との間で子供を欲しがっていたという。

14. ローマの大火
ネロがヴェネウェントゥムに立ち寄った時、ウァティニウスという者が剣闘士の見世物を盛大に催していた。この男はネロの宮廷におけるもっとも醜悪な怪物の一人だという。最初なぶりものとしてカエサル家にかかえられるが、やがて著名な人々を讒訴して大きな勢力を持つ。ネロは公の場で饗宴を繰り返し浪費するようになる。中でも、正気の沙汰とは思えぬ浪費で、最も悪名を馳せたのはティゲッリヌスの膳立てした饗宴である。アグリッパ浴場の人工池に、饗宴を張って幾艘かの船に引かせて漂わせる。船は黄金や象牙で飾られる。池の土手には娼家を建て名門の婦女子で満たす。その対岸には淫売婦が素っ裸で、立居振る舞いは卑猥。ネロはあらゆる淫行で身を汚し、これ以上堕落のしようがないほどの背徳の限りを尽くす。この後、すぐに大火事が起こった。最初に火の手が上がったのは、大競技場の外側に出店が並ぶあたり。燃えやすい商品を陳列していた店が密集していたので火勢は強く、風にもあおられ炎は大競技場を包む。当時のローマは幅の狭い道があちこちに曲がりくねって、家並も不規則だったから被害を拡大する。ネロは、自分の財産を拠出して復興宣言する。奨励金制度を設け、地位や財産に応じた金額を貸し付けた。水道は、それまで個人が勝手に横取りしていたので、監視人を置き空地に消火用器具を備えるなどの火災対策も講ずる。しかし、元首の慈悲深い援助も虚しく不名誉な噂は絶えない。民衆は、ネロ自身が大火を命じたと信じたという。大火事を眺めながら、太古の不幸になぞらえて「トロイアの陥落」を歌っていたという噂が流れた。ネロはこうした風評を揉み消そうとして、身代わりの被告人をこしらえて処刑する。それは、日頃から忌まわしいと憎まれるクリストゥス信奉者たち。ちなみに、クリストゥスはティベリウス時代に処刑された人物。やがて、寄付金の徴収を名目にイタリア本土が絞り上げられ、属州や同盟諸部族も荒らされることになる。

15. ピソ一派の陰謀
ネロへの憎悪は日ごとに増していく。陰謀には元老院議員、騎士、兵士、婦人までもが競って名を連ねる。ガイウス・ピソは、カルプルニウス氏の出身で多くの名門と親戚関係にある。彼の徳望は人々に慕われていた。その一方で、快楽に自制心がなく軽率で放埓に溺れる。その欠点も大衆には気に入られたという。大衆は、支配が緊張しすぎることも、厳格すぎることも嫌うのである。ただ、誰が扇動したかについては、簡単には答えられない。陰謀はピソの野望から生まれたのではないらしい。最も熱心だったのは、護衛隊副官スプリウス・フラウスと百人隊長スルピキウス・アスペルである。やがて、疲弊した国家を建て直す人物を捜し求める人々が集まる。中には政変によって甘い汁を吸おうという魂胆で加わった者もいる。彼らはネロの暗殺を計画するが、陰謀は密告者によって暴かれピソは自決する。この時、ピソとセネカが通じている気配があり、ネロはセネカに死を宣告する。セネカも自決。続いてフラウスとアスペルも処刑。そして、多くの者が処刑あるいは自決する。ネロは断罪者の証拠や自白の記録書を出版した。無実な名士を、嫉妬や恐怖から根絶したという噂にさいなまれていたので、その言い訳である。

16. ネロの死
第16巻で断絶して、ネロの死までは到達していない。ただ、本書ではその後の略説が年代記風に展開される。ユダヤで大きな暴動が勃発した。エルサレムの群集は王宮を包囲し、王宮内のローマ軍は降伏。その一方で、カエサレア市ではギリシャ人がユダヤ人を殺し、各地で事件が波及する。シリア総督ケスティウス・ガッルスは、事態を収拾するためにパレスチナに入り、非ユダヤ人を助けながらエルサレムに接近する。ローマ軍の敗退で東方に暴動が広がり、ついにローマ中央政府も事の重大さを認識して軍隊を派遣する。さて、ネロはというと、暴動を知らぬふりをしながらギリシャ旅行に出発する。しかも、コリントスでは属州に自由を与えたと誇り高く演説する。ネロはオリンピア競技祭に音楽競技を加えさせ月桂冠に酔っていた。上級階級の人々はピソの事件以来、いつネロに狙われるかと不安に怯えていた。そんな矢先、有名な三将軍がギリシャに呼びつけられて殺され、人々はネロに我慢できなくなった。ネロは相変わらずユダヤ暴動に無関心。そこへ立ち上がったのが、老人のガルバ(後の四皇帝の一人)。ガルバは、自ら「ローマの元老院と国民の代行者」と呼ぶ。当初、これを公然と支持したのはオト(後の四皇帝の一人)だけであったが、やがて元老院も支持し、ついにネロは元老院で公敵と決議される。ネロは追い詰められ剣を咽喉に突き刺した。