2021-02-28

"Hacking: 美しき策謀" Jon Erickson 著

ソフトウェアに、バグはつきもの。機能上のバグなら、その機能を使わなければいい。しかしそれが、セキュリティを脅かすとなると見逃せない。現在の電子機器は、なんらかの形でネットワークに接続されている。自動車はもとより、お風呂やエアコンまで気を利かせて...

いまや、ファイアウォールはもとより、IDS や IPS を設置したところで心許ない。プログラミングのちょっとしたミスが外部攻撃の踏み台となり、ユーザが無意識に誘導されることだってある。なぁ~に、心配はいらん。すでに報道屋や政治屋に煽動されているし...


本書は、ハッカーの視点から論じられ、セキュリティガイドとしても呼び声が高いそうな。

"Hacking" という用語は、巷では悪い印象が植え付けられているが、もともとは違っていた。ライフハッキングという言葉には、集団社会に慣らされた人生を、自分の手に取り戻すという意味が込められる。オライリー君の書群にも Hacks シリーズがあり、ポール・グレアムのエッセイ「ハッカーと画家」でも象徴される。

何事も技術を会得するには巧妙な分析や解析が求められ、なんらかの形でハッキングすることになろう。技術者なら、自分の技術を芸術の域に高めたいと願うのではあるまいか。それが、技術屋魂というものではあるまいか。

ここでは、ハッカー魂というものを垣間見るが、同時に、技術には倫理がつきまとう。原子力倫理、ゲノム倫理、そして、ハッカー倫理と...

本書は、「善玉ハッカー」と「悪玉ハッカー」という呼び方で区別しているが、そろそろハッカーという用語から解放してあげて、「達人プログラマ」など素直に呼ぶ方がいいのでは。一時期、悪玉の方には「クラッカー」という呼び名を与えようとする流れもあったが、うまくいっていないし、集団社会では悪のイメージを与える力の方がやや強そうだ。

似たような悪いイメージを与える語に「オタク」ってのもあるが、たいていの技術屋はオタク風な感覚を持っているのでは。アラン・チューリングだって見るからにオタクだし、いや、映画の影響か...


本書は、バッファオーバーフロー、スニッフィング、DoS攻撃、ポートスキャン、パスワードクラッキング、あるいは、暗号システムの脆弱性を突いた攻撃手法や防御策を紹介してくれる。技術屋にはワクワクする話題だが、模倣犯を呼ぶことになり、その記述には充分な配慮がなされるべきであろう。

とはいえ、秘密主義はすでに破綻している。オープンソース化の流れから rootkit などの侵入支援ツールも充実し、防御側だけでなく攻撃側にもコミュニティが形成され、ソフトウェアの弱点は白日の下に晒されている。パスワードは辞書攻撃に晒され、telnet や rsh/rcp は過去のものとしても、強固を誇っていた ssh ですら餌食に。量子暗号通信が現実味を帯びたところで、攻撃側も量子コンピューティングで対抗してくる。まさにイタチごっこ。いまやソフトウェア工学は、犯罪心理学の領域にある。つまりは、人間本性の領域に...

ちなみに、本書が採用している OS 環境は、Linux ディストリビューションの Ubuntu となっているが、そんな意識は無用であろう...

尚、村上雅章訳版(オライリー)を手に取る。


1. 最も基本的な攻撃対象... 記憶領域

本書は、一般的な攻撃対象に、バッファオーバーフローと文字列フォーマットを挙げている。

バッファオーバーフローは、確保されたデータ幅よりも大きなデータを与えて、近辺のデータ領域を上書きして不具合を起こさせるというもの。データ領域の周辺に悪意のあるコードを埋め込むことも可能だ。

文字列フォーマットは、通常、的確なデータ型が宣言されているはずだが、型キャストなどの操作タイミングによっては別のデータ型で機能させることも可能だ。実際、ウェブサイトでも、特定の文字列を入力すると画面が固まるといった現象を見かけるし、入力パターンによってはシステムの制御権が乗っ取られるかもしれない。文字コードをうまく組み合わせれば、コマンドコードを偽装することもできるのだ。

バッファオーバーフローも型キャストも、その脆弱性は何十年も前から指摘される C 言語の盲点であり、こうした問題はプログラマの責任とされてきた。もう三十年前になろうか、C 言語が高水準言語に位置づけられた時代、コード効率からしてコンパイラ性能も貧弱で、コンパイラの癖を読み取りながら問題になりそうなところを GDB で監視した記憶が蘇る。

では、スクリプト言語の時代ではどうであろう。言語システムに依存度を高めていくのでは、むしろ危険かもしれない。どんなプログラミング言語を使うにせよ、型宣言は細心の注意を払う項目の一つとしてある。おまけにユーザは、頻繁にアナウンスされるセキュリティアラートに感覚が麻痺させられてきた。「脆弱性が見つかったためにパッチを当ててください!尚、今までのところ被害は報告されていません。」などと...

知らず知らずに盗聴されていたら、被害報告もできまい。まったく、知らぬが仏!物理構造からして、ノイマン型コンピュータは、ヒープやスタックをはじめ、記憶領域を第三者に操作されると終わりだ。それは人間とて同じこと。記憶を操作することによって人格までも変えられる...


2. 攻撃の幅を広げる利便性の罠... ネットワーク

本物語のシナリオは、ヒープやスタックへの侵入から、x86 系が物理的に持つレジスタやセグメントの壁を乗り越え、ネットワーク攻撃へと進む。

そしてターゲットは、malloc() 関数から socket() 関数へ。つまりは、生のソケット・スニッフィングへ...

ネットワークに接続されていれば、さらに攻撃しやすくなる。社会の利便性は、犯罪にも利便性をもたらすってことだ。

最も単純な嫌がらせは、DoS攻撃。さらに、DDoS 攻撃で寄ってたかって村八分攻撃を喰らわす。パケットの Flooding では、SYN(接続要求), FIN(切断要求), ACK(認可)が餌食にされ、あるいは、トランスポート層の UDP で偽りの IP アドレスを装ったり、TCP セッションを長時間に渡って専有したり、DNS サーバに大量のリクエストを送りつけたり... トラフィックに負荷をかけ、回線そのものを重くしちまえば、これほど効率的な嫌がらせはあるまい。ping of death も単純でありながら効果的な攻撃法だ。ping なんて数行スクリプトを書くだけで、誰でも Loop 送信ができちまうし、ブロードキャストが攻撃で簡単に利用できることも想像に易い。

ポートスキャンにしても、ルータのログを監視していれば、それほど難しい手法には見えない。TCP/IP の通信で用いられるポート番号は、0 番から 1023 番までサービスやプロトコルで予約されている。そう、well-known ports ってやつだ。なので、通信ログを見れば、だいたい何をやっているかすぐに分かる。それ以外は、ルーティングの開放を設定する必要がある。対戦型ゲームで通信を要求するアプリなどでは。

ルータなどの通信機器は、内側に向けられた既知のサービスやプロトコル以外は、たいていブロックするよう設定されているが、外側へ向けられたコネクションはほとんど遮断しないよう設定されている。利便性を考慮してか、ファイアウォールの内側から見れば、たいていのウェブサイトにアクセスできるようになっているわけだ。侵入はブロックし、発信はオープンという思想だが、なにもシステムに侵入しなくてもデータは盗み出せる。ユーザに喋らせればいいのだ。しかも、無意識に。それは、インテリジェンス工作における諜報心理学と基本的な原理は同じ。何かと繋がるということは、そういうことだ...


3. 脆弱性攻撃用のペイロード... シェルコード

「シェルコードは、脆弱性攻撃用のペイロード」と呼ばれるそうな。ただ、この呼び名には違和感がある。単にシェルを起動することにとどまらず、/etc/passwd に管理者アカウントを追加したり、ログファイルから記録を抹消したり、システムコールを乗っ取ったりすることもできるのだから。いや、シェルを操るという意味では、やはりシェルコードか。

どんなに言語システムが抽象化され、利便性が高められようとも、セキュリティの世界に踏み込むと、泥臭いアセンブラ言語、いや、マシン語レベルに引き戻される。

ちなみに、システムデーモンってやつは、deamon() 関数を呼び出すだけで生成できる。何かの拍子にちょいと call すれば。デーモンとは、UNIX 環境で当たり前のようにバックグラウンドで動作するプロセスのこと。語尾に d を付けてネーミングされることが多く、一般的なものでは、syslogd, sshd, ftpd... などがそれだ。おいらが好青年のウブな新人君だった頃、有り難いサービス群を悪魔と呼ぶのは失礼ではないか?と思ったものだが、どうやら「マクスウェルの悪魔」に由来するという説があるらしい。

昔から、UNIX 環境で生きてきた連中は、再帰的な洒落がうまく、"GNU's Not Unix!" ってのもその類い。その自由な発想がたまらないのだけど、セキュリティを脅かす技術もまた自由の賜物であろう。

いずれにせよ、セキュリティ・エンジニアのスキルは常に、悪玉ハッカーを凌駕するものであることを願いたい。人類の進化には、善と悪の共進化をともなうものだが、それが生物学的な真理とはいえ...

2021-02-21

"リファクタリング - プログラムの体質改善テクニック" Martin Fowler 著

ずっと昔に購入しておきながら、きちんと読み干したことのない奴らがいる。仕事が一段落すると、きまって本棚の片隅から手招きしてきやがる。酔いどれ貧乏性に、もったいない感ビームを浴びせて...

技術屋の世界では、すぐに廃れてしまう知識も多い。今となっては、これも古典の部類に入るのかもしれないが、思想哲学がそうやすやすと廃れることはあるまい。おいらは、ソフトウェア工学をある種の哲学だと思っている。数学もそうだけど...

尚、児玉公信、友野晶夫、平澤章、梅澤真史訳版(ピアソン・エデュケーション)を手に取る。


リファクタリング... この呪文は、Smalltalker の間で生まれたという。

Smalltalk といえば、三十年ぐらい前になろうか、オブジェクト指向が巷を騒がせつつある頃、かじりついた記憶が蘇る。おいらは、暗示にかかりやすい。そして、Smalltalk 関係のセミナーをいくつか受講したものの、あまり良い印象を持てなかった。というのも、役立つコードの事例というより、説明しやすいコードの紹介といった感があったから。例えば、金融システムの顧客管理などの事例で。当時、おいらはリアルタイム・システムの世界で生きいきたので、コードはあまり参考にできなかったと記憶している。

おまけに、「Smalltalk = オブジェクト指向」という図式で、万能言語のような印象を与えようとするのにも違和感があった。本書のコード事例にも、これに近い印象をひきずっていないわけではない。

著者マーチン・ファウラーの名はモデリング言語の文献でも見かけたが、ここでは、Java で記述され、よほどの思い入れがあると見える。ただ、C 言語系をかじっていれば、まったく抵抗感はない。そもそも、満足のいくコード事例に出会ったことがほとんどないし、わずかなヒントに出会えれば、それだけで幸せであろう...


プログラミング言語で何を使うにせよ、オブジェクト指向の抽象化哲学には共感できるものが多い。それは、ソフトウェアに限ったことではなく、オブジェクト指向言語を用いなければ実践できないというものでもない。

その特徴といえば、カプセル化、継承、ポリモーフィズムといったところであろうか。カプセル化の概念は、既にこれに近いことをやっていたし、リアルタイム・システムともすこぶる相性がいいので、すんなり受け入れられた。カプセル化を簡単に表現すれば、責任の所在を明確にすること、と解している。

一方、継承やポリモーフィズムの概念は、有難味を実感するのに少々時間を要した。作業効率で誘惑してくる継承... だが、設計思想に適合しなければむしろ弊害となり、バグもしっかりと継承される。なんとも心地よい響きを放つポリモーフィズム... 型の振る舞いを抽象化し、条件記述を効率化できるのは魅力的だが、やはり設計思想を理解した上で実践しないと地雷を踏む。

オブジェクト指向には他にも多くの派生的なご利益があるが、それだけに設計思想という上流工程を疎かにできない。リファクタリングをやるにしても、まず、それに価するコードかどうかの見極めが重要であろう。外部からの振る舞いを保持したままで内部構造を改良していく作業は、慎重にならざるを得ない。コードを読みやすくし、パフォーマンスを向上させようとして、新たな不具合を生み出すのでは何をやっているのやら。リファクタリングだって、万能ではあるまい。実際、スクラッチで書き直した方がいい場合だって少なくない。何はともあれ、「リファクタリング」という用語を宗教化させないことだ。「オブジェクト指向」という用語もそうだけど...


本書は、「リファクタリングには、一定のリズムが重要!」と説く。ちょいと変更して、テスト、ちょいと変更して、テスト... この繰り返しのリズム。コードに対してきちんとしたテスト群を作り上げる習慣もまたリズム。これに、自動化した検証環境を付け加えておこうか。一日の締めくくりに、自動診断プログラムを実行する習慣を。そして、鼻につくコードを嗅ぎ分ける嗅覚を身につけ、単なるコードのクリーニングで済まさず、進化させていきたいものである...

確かに、秩序立った作業は新たなバグを生み出しにくい。だが、秩序ってやつは常識化しやすい側面がある。常識化は、疑う習慣を放棄することにもつながる。科学的な分析は、健全な懐疑心によって支えられているが、この「健全な」ってやつがなかなか手ごわい。自己満足感との兼ね合いもある。

ある大科学者は言った... 常識とは、18歳までに身につけた偏見の寄せ集めである... と。

改善の余地があるかどうかを自問し続ける... この習慣こそがリファクタリング哲学だと解している。

なにごとも整理整頓、そこから思考が正常化される。おいおい... 小学校の訓示か。そんな訓示も、実践できない大人は多い。

開発の現場では、まずスケジュールとの葛藤がある。十分に検討された設計思想は仕事を加速させる。急がば回れだ!そして、プロマネは上層部を敵に回すことに...


ところで、この手の書に触れると、流用コードに対する愚痴が蘇っちまう。おいらはプログラマではない。ハードウェア設計者だ。それでも、ハードウェア記述言語によって回路を実装するし、検証環境では様々なプログラミング言語を組み合わせる。数値演算言語、画像処理ライブラリ、スクリプト言語などなど...

技術的に吟味されたブラックボックスを流用するのは大歓迎だが、政治的に押し付けられたブラックボックスには異臭が漂う。開発期間短縮!という言葉に踊らされるお偉いさんたちは、黒幕に操られているかのように命令する。あるブラックボックスを流用するのに、資料としてバグリストまで添付されるものも見かけたっけ。コードレビューに参加すると、設計者が既に転職し、実体をまともに説明できる者が皆無。バグ報告だけの遺産を、バグを回避しながら流用しろ!という命令だ。そもそも、バグの存在が分かっているのに、なにゆえ修正するよう指示しないのか。いや、誰も手が出せないってことだ。おいらの設計人生で、これほどエンジニアたちの士気を萎えさせるブラックボックスを見たことがない。やはり黒幕が潜んでいるに違いない。ゴミ箱へポイ!

命令通りにやって失敗するなら言い訳も成り立つが、逆らって失敗したら... プロマネが本当に仕事をしようと思えば、クビを賭けなけきゃ、やってられんよ。そして、辞表を机の中に潜ませて仕事をする習慣が根付く。だが、こんな愚かな習慣はやめた方がいい。だって、つい出しちまっから。天の邪鬼な性分は、衝動に勝てんよ...


ちと脱線するが... ずっと脱線してるけど...

本書でチラッと扱われる、コーディングの際のコメントは、善か?悪か?という話題がある。現在でも見かける議論だ。これを一般化することは難しいが、アセンブラ言語の時代はほとんど善であったように思える。もちろんセンスや加減が問われるが。マクロ機能で日本語からコードを自動変換しようとしたこともあったっけ。大袈裟に言えば、日本語プログラミングである。

しかし、スクリプト言語の時代では、コメントは悪に近いかもしれない。修正に二度手間はゴメンだし、コードと辻褄が合わなければ最悪だ。そういえば、コメントはほとんど書かなくなったなぁ... モジュールのタイトルぐらいかなぁ... いや、モジュール名でカバーできる。インターフェース名でも。仕様書も概要を書くぐらいで、あとはコードを見れば、ってな感じ....

2021-02-14

"宇宙戦争" H. G. Wells 著

原題 "The War of The Worlds"... それは、地球生物の世界と火星生物の世界の戦争であったとさ...
小説版に興味を持ったのは、映画版のナレーションに感じ入ったからである。トム・クルーズが主演したやつに。時代設定が違うにせよ、原作のフレーズがほぼそのままらしい。ナレーターは、ディスカバリーチャンネルの宇宙ドキュメンタリーでお馴染みの俳優モーガン・フリーマン。恋には、目で落ちるパターンと耳で落ちるパターンがあるらしいが、彼のささやきに、おいらはイチコロよ。
メディアの特質上、小説版の方が冗長気味で、翻訳者のセンスもあろうが、これはこれで違った味わいがあっていい...
尚、小田麻紀訳版(角川文庫)を手に取る。

「十九世紀末の時点で、いったいだれがあんなことを想像していただろう?この地球は、人間よりはるかにすぐれた頭脳をもつ生物によって監視されていたのだ。人間たちが日々の雑事にかまけているあいだ、やつらは入念に観察と研究をつづけていた。ちょうど、ひとつぶの水滴のなかでうごめき繁殖する微生物を、人間が顕微鏡でじっくりと観察するように。人間たちは、みずからの領土の安定にすっかり満足しきって、つまらない用事のためにこの惑星上で右往左往していた...」

人類は、天文学の発展とともに、地球外生命体の存在を夢見てきた。そもそも人類が存在しうるのは、隕石という砲弾によって地球というアクアリウムへ放たれた結果なのかもしれない。そして宇宙人は、生命体の観察だけでは飽き足らず、密かに遠隔操作で遺伝子注入の実験をやっているのかもしれない。人間が、劣等動物に対して遺伝子操作の実験を繰り返すように。混合種を作りながら、種の浄化という遠大な種の製造計画をもって。三次元空間の住民には多次元空間の住民が見えない。目の前にいたとしても...

しかしこれは、戦争と呼べるものであろうか。科学技術の差は歴然としている。それは、B29 に竹槍で対抗するようなもの。火星から打ち出された円筒の砲弾が毒矢のごとく地球の表面に突き刺さり、中から三脚の巨大戦闘マシンが... 後の SF モノで馴染みとなるトライポッドの出現である。こいつが放つビーム兵器のような熱腺に、人間どもは瞬時に捕獲される。彼らの狙いは、体内に流れる赤い血液。家畜にされれば、わずかながら生き長らえることができる。今まで、地球上で無視されてきた羊や牛たちの叫び声が...
彼らを極悪非道と呼ぶなら、人間はどうであろう。おこがましくて、慈悲の使徒などとはとても言えまい。土地開発のために多くの種を絶滅させ、同じ人類でさえ先住民を劣等種族として抹殺してきた。種が生きるとは、どういうことであろう。地球人は、存続のための絶え間ない闘争と解釈しているが、どうやら火星人も同じらしい。民の群れが空腹感に襲われると、所有権の尊重を放棄するばかりか、生きる権利さえ。もはや敵は、火星人か、地球人か。広大な宇宙では、知的生命体ってやつは悪魔の種に属すのやもしれん...
「アリは都会をつくり、日々をすごし、戦争をしたり革命を起こしたりする。だが、人間にじゃまだと思われたら、すぐに追いはらわれてしまう。それがおれたちさ。ただのアリなんだよ。ただの...」

火星人は、解剖学的にも明らかに地球的な生命体ではない。地球の濃密な大気の中では、ほとんど役に立たない大きな耳。大きな丸い胴体は、地球の重力では持ち上げるのも困難。手足の作りも、地球の環境には不向き。内蔵構造もすこぶる単純で、複雑な消化器官を持ち合わせていない。つまり、身体構造はきわめてシンプルで、頭がでかく、はらわたがない。
食事法もシンプルで、栄養を管のようなもので直接摂取する。回りくどく焼いたり煮たりと、料理なんぞしない。サプリがあれば、それで十分ってか。うん~... 実に、合理的だ!
眠りもしないらしい。鮫のように、泳ぎ続けていないと死んでしまうのかは知らんが。いや、眠らなくて済むなら、その方が幸せかもしれん。慢性的な不眠症や睡眠不足で悩まされるぐらいなら...
「注射による栄養摂取が、生理学的にみていかに有利であるかはいうまでもない。人間が食事や消化という行為に膨大な時間とエネルギーを浪費しているのを考えればわかることだ。人間の肉体の半分は、異質の食物を血液に変えるための腺、管、臓器によって占められている。消化過程と、それが神経系におよぼす反応は、人間の体力を消耗させ、その精神に影響を与える。肝臓が丈夫かどうか、胃腸が健康かどうかで、人間はしあわせにもみじめにもなる。だが、火星人は、臓器の状態によって気分や感情を左右されることはないのだ。」

しかし、人類は絶滅しなかった。地球人が試みた対抗策がすべて失敗に終わった後、地球上で最も謙虚な存在によって救われたのである。
生命体の構造は、環境に適合した合理的な特性を、進化の過程で獲得してきたわけだが、どうやら火星にはバクテリアのような微生物が存在しないらしい。だから、身体構造もシンプルというわけか。微生物も存在しない環境に、生命体が存在しうるかは知らんが...
人類の歴史は、感染症との戦いの歴史とも言えよう。ペスト、ハンセン病、梅毒、麻疹、天然痘、コレラ、チフス、結核、インフルエンザ、ポリオ、マラリア、エイズ、エボラ出血熱... そして、コロナウィルスである。
最初からワクチンは存在しないし、自力で体内に抗体を作る方が合理的である。中途半端なワクチン接種のために体内の免疫組織がバランスを欠き、新たな変異種を生んでしまう恐れもある。ウィルスは構造が単純なだけに進化も早く、ちょっとした刺激で突然変異することだってあるのだ。人類は、様々な病原体との戦いの中で、多様な抗体と複雑な消化器官を長い年月をかけて獲得してきた。環境が変われば、新たな器官を生み出し、不要な器官もでてくる。これが進化というものか。
あの大科学者は、こんな言葉を遺した... ものごとはできるかぎりシンプルにすべきだ。しかし、シンプルすぎてもいけない... と。自然淘汰の原理は、生命体を必要以上に複雑化しないものらしい。
「火星人が仲間の死体を埋葬しなかったり、見境なく殺戮をおこなったりしていたことは、彼らが腐敗現象について完全に無知であったことを物語っている。」

そして突然、火星人たちは地球上での活動を停止した。バクテリアに蝕まれ、死んでしまったとさ...
実に、あっけない幕切れ!恐竜の絶滅がどんなものだったかは知らんが、ひょっとしたら人類も...
「宇宙というよりひろい視野に立ってみた場合、火星人の侵略は、地球人にとって利益があったといえないこともない。それは、堕落のもっとも重要な原因となる未来に対するのんきな安心感を消し去ってくれただけでなく、人類の科学に多大なる貢献をし、さらに、人類共通の利益という概念をおおいに広めてくれた。それは同時に、広大な宇宙空間をへだてて先遣部隊の運命を見守っていた火星人に、教訓をあたえたのかもしれない...」

2021-02-07

"言語はなぜ哲学の問題になるのか" Ian Hacking 著

霧立ち込める朝、ぼんやりと古本屋を散歩していると、ぼそぼそと問い掛けてくるヤツがいる。日常、当たり前のように使っている「言語」。こいつの役割とは、なんであろう... その意義とは、なんであろう... と。
情報伝達のための媒体、意思疎通のための道具、いや、そんな外的な役割より、内的な意義の方が大きいような気がする。思考するための素材としての。記憶を活性化させるための。少なくとも、論理的に、思弁的に、自問するためには不可欠。真理を探求すれば、言葉の壁にぶち当たる。真理を探求する学問が、個性あふれる難解な記述になるのも致し方あるまい。つまりは、人間の言語能力の限界をつきつけることになる。
尚、伊藤邦武訳版(勁草書房)を手にとる。

ユークリッド原論は、人間の証明能力の限界をつきつけた。これ以上証明のしようがない純粋な法則として五つの公準を提示したのである。五つ目だけは疑問の余地を残しながら...
カントは、人間の認識能力の限界をつきつけた。経験的なものがまったく入り込む余地のない、最も純粋な認識として「ア・プリオリ」という用語を編み出したのである。
新たな境地を記述するのに、辞書を頼るのでは心許ない。新たな定義が必要になり、新たな言葉が必要になる。哲学するのに、言語は絶対に欠かせない。それで、真理のテクニックが精神のクリニックになるかは知らんが。希望へ導くか、絶望を悟るかは知らんが...
ただ、言語は自己陶酔と、すこぶる相性がいい。そして、自分探しの旅は、言葉探しの旅となる。

本書は、言語に注視するという観点から、近世以降の西洋哲学史を外観する。登場する哲学者は、ホッブズ、ロック、バークリー、フレーゲ、ラッセル、ウィトゲンシュタイン、エイヤー、クワイン、チョムスキー、ファイヤーアーベント、ディヴィッドソンといった面々。
彼らを「観念の全盛期」「意味の全盛期」「文の全盛期」の三つに分類し、「意味の理論」に至る流れを物語ってくれる。観念の時代では、まだ言語は主題とはならず、その重要性も認識されず、ひたすら精神的言説に突っ走り、意味の時代になって、ようやく言語の意義が問われるようになり、文の時代になって、意味の理論が本格的に議論されるようになったとさ...
どんな学問にも反省の糧となる時代がある。近代哲学で自省の糧となったのは、デカルトやホッブズあたりであろうか。
それにしても、「観念」という言葉は手ごわい。その意味するものと言えば、ほとんど人の選り好みにも映る。それは、悟性の対象となるものすべて。思想や空想、感覚や知覚、心象や形相... なんでもあり。それでいて、哲学書の中に、この言葉についての定義は見当たらず、ただ「観念」の一言で片付けられる。この大層な用語は、まるで湯上がり気分の王子様気取り...

「言語」という知識が、先天的か、後天的かといえば、明らかに後者である。ただ、ア・プリオリな認識ではないにせよ、完全に経験的とも言えないような、どこか生得的で遺伝子に組み込まれていそうな。そう感じるのは、乳幼児期から幼児語を押し付けられ、物心つく前から言語に支配されてきたということであろう。人は言葉に癒やされ、言葉に励まされ、言葉に傷つき、言葉に怒る。言葉が猛威を振るうネット社会ともなると、誰もが言葉に振り回され、ますます政治屋たちは言語統制に躍起ときた。もはや、どちらが振り回されているのやら。人間の人間たる所以は、言語を編み出したことにあるのかもしれん。文明の文明たる所以も...
自分が口にする言葉は、誰もが自分自身で支配していると考えるだろうが、そうは問屋が卸さない。言語には常に解釈がつきまとい、解釈はしばしば誤謬へと導く。賢人の理性や判断力ですら、自らの言葉で混乱に陥れる。それで言語に支配される存在に成り下がるとすれば、結局は自己矛盾の呪縛からは逃れられない。
「言語帝国主義は、軍事的な帝国主義よりも巧妙に武装されている。」

「言語」という言葉の定義となると、なかなか厄介!
ましてや、自然言語や数学の方程式やプログラミング言語のような記号で記述できるものばかりではあるまい。印象に残った風景、感動した音色や味覚、和んだ香りや肌触りといった五感で得た情報、おまけに第六感までも絡み、脳に記憶される知識のすべてが言語的に感じられる。人間精神そのものが、言語的な存在と言ってもいい。
そして、しばしば疑問に思う。同じ用語でも、会話の相手と同じイメージを描きながら喋っているだろうか?と。客観性の強い専門用語ですら、専門家の間で微妙にニュアンスが違うと見える。所属するグループの間でも用語の使い方が違ったり、きわめて組織文化に影響されやすい。
仕事の場で、初対面の会議で用語の定義を確認しようと心掛ける人は、それだけで信頼に値する。そうかと思えば、用語の意味も知らんのか!そんなことは常識だ!などと相手を馬鹿にする人もいるけど...
そもそも、脳の構造からして無数の電子の集合体である。そんな物体同士が、完全な意思疎通など不可能に思えてならない。それでいて会話が成り立っているのだから、人間のコミュニケーション能力、恐るべし!いや、成り立っていると思い込んでいるだけのことかもしれん。主張するという行為も、自己満足に浸っているだけのことかもしれん...
尚、カントの友人で、後に批判者となったヨハン・ゲオルク・ハーマンは、カントの著作を論評して、こんなことを書いたという。
「言語こそが、理性の最初にして最後の道具であり、また基準であって、それは伝統と使用という信用意外のものを、何も持たないのである。」