2020-08-30

"オセロー" William Shakespeare 著

シェイクスピアの四大悲劇に数えられる二つ、ハムレットの復讐劇とマクベスの野望劇に酔いしれれば、残りの二つに向かう衝動も抑えられそうにない。目の前で狂ったリア王が道化と一緒に手招きしてやがるし、おいらは暗示にかかりやすい...
ただ、このオセロー物語だけは、筋書きを知らない。それに、ちと異質な感もある。他の三つの物語は、国家を揺るがす大事。比してこの物語は、一人の将軍の家庭内のいざこざ。スケールが違う。それでも酔いしれてしまうのだから、ここでも人間の本性を暴いてくれるからであろう。ヘタな心理学の教科書より、ずっとイケてる...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ざっと、あらすじを書いてしまうと、単なる嫉妬劇で片付けてしまいそうになる。
例えば、こんな感じ...
ヴェニス公は、トルコ艦隊の動きを牽制するために、サイプラス島にムーア人の勇敢な将軍オセローを赴任させる。その際、恋に落ちたデズデモーナを父の反対を押し切って連れて行き、妻とする。オセローから副官に任命されなかったことを根に持つ旗手イアーゴーは、策謀をめぐらせ、副官キャシオーを失職させた上にデズデモーナとキャシオーの不義をでっちあげる。イアーゴーを信頼しきっているオセローは、武将らしく誠実で高潔であるがゆえに二人が許せず、キャシオーをイアーゴーに殺すよう命じ、妻は自らの手で扼殺してしまう。だが、イアーゴーの妻エミリアの告白で、すべてがイアーゴーの奸計であったことを知り、オセローは絶望する。そして、ハムレットと同じ運命をたどったとさ...

こんな嫉妬劇でも、心理描写や凝った手口は、推理小説ばり。これぞシェイクスピアの真骨頂と言うべきか。動機が単純な分、設定が複雑になるのかは知らんが、前戯派にはたまらん...
「ああ、人間というやつは!わざわざ自分の敵を口の中へ流しこんでまで、おのれの性根を狂わせようとする...」

1. ムーア人という設定
まず、主人公をムーア人としていることが、背景を複雑にさせる。ムーアというのは、七世紀、北アフリカのモリタニア地方を征服したアラブ人が、イスラム教に改宗させた原住民のことをヨーロッパで呼称されたそうな。八世紀には、その混血人種がジブラルタル海峡を渡ってイベリア半島へ侵入。その侵略者をスペインやポルトガルでムーア人と呼ぶようになり、後に、北アフリカのイスラム教徒全般をムーア人と呼ぶようになったとか。
そういえば、西洋文学にムーア人が登場するのを見かける。ロビンソン物語にも。美術作品にも、ムーア人を題材とする絵画を見かける。ルーベンス工房にも。
オセローはムーアの黒人。だが、そのイメージとなると、黒人奴隷とは結びつかない。なによりもヴェニス公が、この人物に敬意を払っており、よほどの武将であったと見える。三国志で言えば、関羽のような...
とはいえ、人種的な問題を抱えていないわけではない。人間ってやつは、差別好きな動物である。考え方が違い、感覚が違い、住む世界が違うとなれば、それだけで排斥的になったり、攻撃的になったりする。しかも、短所を並び立てては誇張し、イメージを植え付けたりする。これは、いわば人間の性癖である。ましてやイアーゴーは、憎悪に燃えている。同輩が副官になったことの嫉妬も露わにし...
「おれはムーアが憎い。... ムーアは万事おおまかで、こまかいことに気を使わない、他人を見る目も、うわべさえ誠実そうにしていれば、それだけのものと思い込んでいる。... 全く驢馬よろしくだ。」
オセローにしても、人種的劣等感をまったく見せないわけではない。
「おそらく黒人だからであろう、優男のみやびな物腰をもたぬからであろう、あるいは歳も峠を越したため... というほどでもないが、そんなことから、あれの心はおれを去ってしまった...」
絶望すれば、愚痴もこぼれる。オセロー物語は、人種意識よりも、人間が根本的に抱える差別意識を浮き彫りにしている。
ちなみに、オセロゲームの名前の由来にもなっているらしい。緑の平原が広がるイギリスを舞台に、黒人将軍と白人妻をモチーフにしているとか。
しかし、寝返ったり、挟まれたりする場面はあまり見当たらない。イアーゴーがオセローを騙すのは最初から意図があってのことで、信じるかどうは勝手次第。あとは、オセローが妻に裏切られたと思い込むことぐらいであろうか。エミリアの告白も夫を裏切ったわけではなく、正直なだけのこと。
全般的に一人相撲感が強く、オセロゲームとのつながりが、いまいちピンとこない...

2. 嫉妬の布石
最初の布石は、デズデモーナの父ブラバンショーが吐き捨てる。
「その女に気をつけるがよいぞ、ムーア殿、目があるならばな。父親をたばかりおおせた女だ、やがて亭主もな。」
イアーゴーとキャシオーの会話によると、デズデモーナはよっぽどの女らしい。
「あれこそ好き者のジュピター神が決して見のがしっこない女人だぜ... あの目がすごい!艶にして挑むがごとしだ。人を誘い込むような目をしている。しかも、貞潔ですがすがしい。それに、あの声、聞く者を思わず恋に駆り立てる鐘の音とでも言いたくなるではないか...」
イアーゴーは、男心を焚き付けておいて、酒で失態を演じさせる。これで、キャシオーは副官を失職することに。キャシオーは復職をオセローに嘆願するために、デズデモーナにとりなしてもらう。そのセッティングにも、イアーゴーが一枚噛む。そして、キャシオーとデズデモーナの仲が怪しいと、オセローに吹き込むのである。
ところで、オセローは、正義と名誉のために不義を許せず、デズデモーナの首を締めたということになっている。涙を流しながら...
しかし、それほどいい女なら、嫉妬しないわけがない。恋とは、所有欲であり、独占欲である。恋は不安を掻き立てる。人は誰しも、異性のしぐさに惹かれることがある。それが恋人以外であっても。それを感じなくなったら色気も失せる。夫婦で恋愛を続けたければ、そんな刺激も必要であろう。さすが、シェイクスピア!妻が裏切ったと信じ込ませるだけの布石を随所に打っている。
そして決定的な布石が、おまじないのかかったハンカチーフ...

3. 証拠物件ハンカチーフ
オセローがデズデモーナに初めてプレゼントしたハンカチーフには、魔法がかかっているという。その所以を、夫婦愛を育む場面で言って聞かせる。それは、オセローの母親がエジプトの魔法使いから貰ったものだとか。魔法使いの予言によると...
「これが手にあるうちは、人にもかわいがられ、夫の愛をおのれひとりに縛りつけておくことが出来よう、が、一度それを失うか、あるいは人に与えでもしようものなら、夫の目には嫌気の影がさし、その心は次々にあだな想いを漁り求めることになろう...」
おまけに、デズデモーナとイアーゴーの妻エミリアが道化を交えて、夫について愚痴をこぼす場面がある。井戸端会議で見かける、うちに旦那は... てな具合に。妻同士、お仲がよろしいようで...
「妻が堕落するのは夫のせい... 自分では仕事の怠け放題... 私たちの財産を、どこかよその女猫に注ぎこんだり、急に訳のわからない嫉きもちを嫉きだして、私たちを閉じ込めて人前に出すまいとする。... 女がいくらおとなしいからといって、時には仕返しもしてやりたくなる... 世間の亭主たちに教えてやるとよろしいのです、女房だって感じ方は同じだということを...」
最初のプレゼントの話題になれば、まるでのろけ話、エミリアも夫にあてつけて愚痴ったことだろう。私もこんなの欲しいわ... てな具合に。イアーゴーはハンカチーフのいきさつを知っていたようである。
そして、そのハンカチーフをちょっいと借りてこい、とエミリアをしつこくけしかける。イアーゴーは、オセローにキャシオーとデズデモーナの仲が怪しいことを告げていたが、オセローは真に受けない。
「見そこなうな、イアーゴー、おれはまずこの目で見る。見てから疑う、疑った以上、証拠を掴む、あとは証拠次第だ、いずれにせよ、道は一つ、ただちに愛を捨てるか、嫉妬を捨てるか!」
そんなとき偶然!エミリアは、デズデモーナが落としたハンカチーフを拾い、夫に見せてしまう。これで、証拠物件が成立!イアーゴーは、こっそりハンカチーフをキャシオーの部屋に置いたのだった。
あとは証拠次第だ!ただちに愛を捨てるか... なんて格好良くきめちゃったから後に引けない。男ってやつは、実にくだらないプライドにこだわり、実につまらない意地を張るものである。オセローは、妻を愛の生贄に捧げるのだった。
エミリアはオセローを責め立てる。あなたこそ悪魔!奥様は天使になられた。人殺し!間抜け!頓馬!でく同然の分からず屋... と。エミリアは、告白したその場でイアーゴーに刺し殺される。
すると、オセローはイアーゴーを憎み、二人の対決ということになりそうだが、そんな雰囲気はない。人間ってやつは、絶望的な人間不信に襲われると、相手を責めるより自暴自棄の方が優勢になるらしい。そして、自らも愛の生贄に...

2020-08-23

"マクベス" William Shakespeare 著

シェイクスピア戯曲の四代悲劇に数えられる「マクベス」。こいつを知ったのは、黒澤映画「蜘蛛巣城」に出会ったおかげ。設定を日本の戦国時代に替えてはいるものの、まさに生き写しのような作品だ。黒澤映画の中で最も印象深く、終始怪しげな「蜘蛛手の森」の影が、本物語のキーワードの一つ「バーナムの森」と重なる。ただ、もう一つのキーワードの方は、この設定に投影するには、ちと難しいか...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

さて、マクベス物語には、キーとなるお呪いが二つある。実は、三つあるのだけど、それは後ほど...
一つは、「バーナムの森が攻めてこない限り、お前は滅びはしない。」
二つは、「女の生み落とした人間の中に、お前に歯向かう者はいない。」
いずれも魔女の予言である。普通なら、森の木々が一斉蜂起するなんて考えられないし、また、人間は生物学的に女が産むものと決まっている。実に当たり前なことを、この世のものとは思えない存在が静かに語ると、不思議な力を持つ。有識者どもがまともなことを声高に叫んだところで、言葉を安っぽくさせるのがオチよ。
シェイクスピアの魅力は、なんといっても道化役の用い方であろう。怪しげな存在が語るからこそ、人は惑わされる。邪悪な人間性を見事に演じる道化に、まんまと乗せられた人間どもが、自らの意思で滑稽を演じてしまうという寸法よ...

マクベス物語は、ハムレット物語と対象的に論じられるのをよく見かける。しかし、天の邪鬼なおいらの眼には進化版に映る...
ハムレット物語は、城に出現した父王の亡霊が謀略によって殺害されたことを息子に告げることに始まる。主人公は亡霊の言葉を一人で背負い込み、生か、死か、と苦悩し続け、周囲の人までも死に至らしめ、しまいには復讐を遂げた主人公自身を死に至らしめる。親友に未練がましい言葉を遺して... 見事な独りよがりぶり。
となると、道化役は、亡霊か、主人公か...
物の怪の登場の仕方では、マクベス物語が上手。いきなり三人の魔女がハモってやがる... きれいは穢い、穢いはきれい... と。主人公は、魔女の語る二つのお呪いを後ろ盾に、絶対的勝者となる宿命を信じ、王座を奪った残虐行為を正当化する。
ここで、凄いのは魔女ではない。むろん主人公でもない。夫人だ。幻想世界の魔女を現実世界に引っ張り出し、夫をけしかける。この際、神のお告げか、悪魔のお告げか、そんなことはどうでもいい。狼狽える夫は、わざわざ森へ出かけて魔女の言葉を確認しに行くが、それを横目に夫人は沈着冷静な策謀家ときた。国王は誰が殺したかって?そんなことは、居ない者のせいにすればいいのよ... 夫人の台詞を聞いていると、どっちが主犯なんだか分かりゃしない。
「あいつらの短剣は、あそこに出しておいた、見つからぬはずがない。あのときの寝顔が死んだ父に似てさえいなかったら、自分でやってしまったのだけれど...」
内助の功というが、女は恐ろしい。実に恐ろしい。骨までしゃぶる。男性社会などと、あぐらをかいている場合ではない。
となると、主人公を操ったのは、魔女か、夫人か...

確かに心理面において、ハムレット物語とマクベス物語は対照的に見える。
ハムレットは、父の仇を討つという使命感に掻き立てられるが、マクベスには、魔女の言葉に従うか、どうかの自由がある。義務を負うかどうかの違いは、大きいかもしれない。しかし、義務とはなんであろう。運命めいたものに翻弄される自己催眠の類いか...
単に権力を欲しただけという意味では、マクベスの方が純真である。いや、幼稚か。君主を殺害した後ろめたさのようなものに苛み、自己の殻に閉じこもっていく。マクベスの抱える精神的問題は、まさに現代病だ。だからといって、現代人が進化しているかは知らん...
物語の性格においても、大義名分上の王権奪回と、欲望に憑かれた王権略奪の違いは大きい。それは、憎悪と嫉妬という対照的な情念に看取られている。ハムレットは憎しみに怒り、マクベスは妬みに怯える。
ハムレットの場合は、憎しみのあまり自己矛盾に陥り、周囲の人までも巻き沿いにした挙げ句に自己完結しておしまい。
マクベスの場合は、妬みのあまり周りが敵に見え、ことごとく手にかけた挙げ句に恨みを買った男に敗れておしまい。
ここで注目したいのが、三つ目のお呪いである。
「子孫が王になる、自分がならんでもな。」
これは、ライバル将軍バンクォーに告げた魔女の予言で、マクベスと一緒に聞いている。バンクォーは生まれつき気品を備え、分別があり、人望も厚い。マクベスは、このライバルの気質が恐ろしく、夜も眠れない。そこで、親子ともども暗殺を謀るが、息子は取り逃がしてしまう。奸計が行われている間、酒宴が催され、バンクォーの座には突然亡霊が現れる。部下に命じた殺害が遂げられた瞬間に。そして、亡霊に向かって叫ぶのである。お前の息子のために、俺の手を汚し、慈悲深い王ダンカンを殺させたというのか...
ハムレットは、徹底的に自己矛盾に苛むものの、自己を見失うまでには至っていないが、マクベスは、それを自己破滅型人間に進化させたかに見える。ラ・ロシュフーコーは... 嫉妬は憎悪よりも、和解がより困難である... と言ったが、まったくである。

ところで、シェイクスピアは、トンチ屋か...
物語を最高に盛り上げる場面は、二つのお呪いをものの見事に覆すところである。
「バーナムの森...」に対しては、敵兵たちが枝木を一本ずつ身にまとって行進すれば、あたかも森が攻めてきたように見える。
「女の生み落とした...」に対しては、月たらずで母胎からひきずり出された男マクダフによって野望が砕かれる。つまり、帝王切開で生まれ出た男に。
尚、マクダフは、王ダンカンの長男の亡命先に走ったために、マクベスに妻子を殺されたのだった。
血は血を呼ぶというが、まさにそんな物語である...

2020-08-16

"ハムレット" William Shakespeare 著

恥ずかしいことかもしれんが、おいらはシェイクスピアをまともに読んだことがない。劇場には何度か足を運んでいるものの。
ただ、あまたの作品を遺しながら、これほど筋書きを知っている作家も珍しい。「ヴェニスの商人」、「マクベス」、「リア王」等々、そして、この「ハムレット」... 数々の名言を吐かせた作品の群れに大きな影を感じずにはいられない。
ゲーテは、カントの作品をこう評した... たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えている... と。シェイクスピアという作家は、まさにそんな存在である。知っていれば、いまさら感がつきまとい、歳を重ねれば、手を出すのにも勇気がいる。とはいえ、気まぐれってやつは偉大だ!くだらんこだわりを一掃してくれるのだから...
尚、福田恆存訳版(新潮文庫)を手に取る。

ハムレット物語の展開は既に知っている。
デンマークの王子ハムレットは、父王の亡霊から叔父クローディアスの謀略で殺された事を告げられ、復讐を誓う。さっさと行動に移せばいいものを、狂気を装って周りを欺き、懐疑心に憂悶し、恋心に苦悩するなど、まどろっこしい展開。格式高い国家が醜態を演じているさなか、周辺国との血なまぐさい背景までもちらつかせ...
おまけに、主要人物がことごとく死んでいく。王権を奪い、王妃である母を穢した現王クローディアスはもとより、母の寝室で王と間違えて宰相ポローニアスをやっちまうばかりか、その因果で宰相の息子レイアーティーズを決闘で死に至らしめ、なんの因果か母ガートルードも毒を飲み、叶わぬ恋かは知らんが宰相の娘オフィーリアまでも狂い死に、しまいには復讐を遂げたハムレット自身が毒刃に倒れる。親友ホレイショーに、この武勇伝を語り継ぐよう言い残して...
「しばし平和の眠りから遠ざかり、生きながらえて、この世の苦しみにも堪え、せめてこのハムレットの物語を...」

四大悲劇の中でも名高いハムレット物語。しかし、これは本当に悲劇であろうか。劇場で観るのと本で読むのとでは、まるで光景が違う。だから愉快!
ハムレットという人物像を一人眺めてみても、その独りよがりぶりときたら、まるで一貫性がない。無邪気で打算的、情熱的で冷静、慎重で軽率、意地悪で高貴な王子。この作家の気まぐれには、まったくまいる。だから愉快!
シェイクスピアほどの有名な作品ともなると、その解釈では学術的なものが優勢となりがちだが、深読みしてもきりがない。いまや、ハムレットは本当にオフィーリアを愛していたのか... なんてどうでもええ。レイアーティーズは本当にハムレットを憎んでいたのか... そんなこともどうでもええ。そもそも、父と名乗った亡霊が告げた言葉は真実だったのか?ハーデースが人間どもの二重人格性をからかっていただけ... ということはないのか。
そして、最も気に入っている幕が、二人の道化が登場する場面。二人は墓を掘りながら鼻歌まじりに、こんなことをつぶやく... 身分が低けりゃ、キリスト教の葬儀もやってもらえねぇ... 石屋や大工よりも頑丈なものをこしらえる商売は、首吊台をつくるヤツよ... 首吊台は教会よりもしっかりしてらぁ... と。
死人が何を語ろうが知ったこっちゃないが、死人に舌を与えると、ますます愉快!その分、生きている輩には沈黙を与えよう。所詮、人間なんてものは、墓穴を掘りながら生きている存在なのやもしれん。所詮、人間なんてものは、道化を演じながら生きている存在なのやもしれん。そうした人間の本性を、シェイクスピアという作家が最も自然に滑稽に描いて魅せた。ただそれだけのことやもしれん...
「人間は自分を肥らせるために、ほかの動物どもを肥らせて、それで肥った我が身を蛆虫どもに提供するというわけだ。肥った王様も痩せた乞食も、それぞれ、おなじ献立の二つの料理... それで万事おしまいだ。王様を食った蛆虫を餌にして魚を釣って、その餌を食った魚をたべてと、そういう男もいるわけだ。」

シェイクスピア戯曲の魅力は、作品が自由でいるということであろう。自由でいるということは、解釈の余地が広いということ。そして、ハムレットの支離滅裂感こそ、人間味というものであろう。翻訳者の言葉にも、グッとくる...
「どの作品の場合でもそうであろうが、翻訳には創作の喜びがある。自分が書きたくても書けぬような作品を、翻訳という仕事を通じて書くということである。それは外国語を自国語に直すということであると同時に、他人の言葉を自分の言葉に直すということでもある。そういう創作の喜びは、また鑑賞の喜びでもある。」
いま、「翻訳」という言葉を「読書」に置き換え、甘いピート香の利いたグレンリベットをやりながら鑑賞の喜びを味わっている...

1. ハムレットの名と狂気のイメージ
ハムレット物語の源流を求めると、シェイクスピアと同時代を生きた書き手にトマス・キッドという人がおったそうな。この人物は、すでに復讐劇の元締的存在だったらしく、「スペイン悲劇」という物語を書いているという。さらに遡ると、12世紀末、デンマーク人サクソーが、「デンマーク国民史」という本を書いており、その第三巻に「アムレス」という人物が登場するという。アムレスもまた狂気を装い、悪罵の限りを尽くし母親を罵る場面があるとか。尻軽の淫売め!と。"Get thee to a nunnery!" の原型であろうか...
シェイクスピアとの関係を別にすれば、「ハムレット」という名の源流は、民間伝承や民俗詩にも見つけられるそうな。アイルランド系では「アムロオジ」という名が現れ、13世紀の散文物語「エダ」の中の詩にも出てくるという。それは「アンレ」と「オジ」の合成語で、前者はスカンジナビア地方の一般男性名、後者は戦闘的、狂的という意味だとか。
どうやら、「ハムレット」という名は、狂気を掻き立てるものがあるらしい。人間ってやつは、狂気に身を委ねなければ、行動することも難しい。シェイクスピアは、そんなことを主人公の名を通して暗示したのであろうか...

2, To be or not to be, that is the question...
ハムレット物語に触れたからには、この名セリフを避けるわけにはいくまい。やはり名言には、自由でいて欲しい。解釈の余地を残しておいて欲しい。だからこそ寓意となる。本書の翻訳は、こんな感じ...
「生か、死か、それが疑問だ、どちらが男らしい生き方か、じっと身を伏せ、不法な運命の矢弾を堪え忍ぶのと、それとも剣をとって、押し寄せる苦難に立ち向い、とどめを刺すまであとには引かぬのと、一体どちらが...」
ハムレットは、どうやって死を覚悟したのか。死は眠りに過ぎない。眠りに落ちれば一切が消えてなくなる。無に帰するだけのこと。いっそう死んでしまった方が楽になれるやも。いや、眠っても夢を見る。これがまた妙にリアリティときた。現世を生きる者は、死後の世界を知らない。死後の世界でも夢を見るのだろうか。なぁーに、心配はいらない。どうせ嫌な夢、見たくもない!惨めな人生ほど、なさけない夢がつきまとう。ならば、皇帝ネロにでも魂を売るさ。
そして、おいらの天の邪鬼な性分は、こんなセリフの方に目を向けさせるのであった...
「個人のばあいにもよくあること、もって生れた弱点というやつが、もっともこれは当人の罪ではない、誰も自分の意思で生れてきたわけではないからな、ただ、性分で、それがどうしても制しきれず、理性の垣根を越えてのさぼりだす。いや、その反対に、ちょっとした魅力も度をすごすと、事なかれ主義の世間のしきたりにはねかえされる。自然の戯れにもせよ、運のせいにもせよ、つまり、それが弱点をもって生れた人間の宿命なのだが、そうなると、たとえほかにどれほど貴い美徳があろうと、それがどれほどひとに喜びを与えようと、ついにはすべて無に帰してしまうのだ。」

2020-08-09

"決定版 快読シェイクスピア" 河合隼雄 & 松岡和子 著

シェイクスピアを初めて体験したのは、おいらが美少年と呼ばれていた学生時代。貧乏大学生の演劇に嵌っていた記憶がかすかに蘇る。いずれまた挑戦してみたい!
そう考え、考え... もう何十年が過ぎたであろう。いかんせん劇場で観たものを、小説で読むには勇気がいる。もう分かり切ったシナリオじゃないかぁ... と、頭のどこかで邪魔をしやがる。
しかしながら、十年も経てば人は変わる。もうまったくの別人だ。別人ならば、新たな境地を発掘できるやもしれん。歳をとることは、なにも寂しいことばかりではあるまい...
そんなことをぼんやりと考えながら本屋で立ち読みしていると、シェイクスピア戯曲の目録のような書に出逢った。ここでは、ユング派の心理学者とシェイクスピア専門の翻訳家が繰り広げる座談会を、演劇のように鑑賞させてくれる...

さて、「快読シェイクスピア」という題目には、原版から増補版を経て、決定版へと至る流れがあるらしい。もとは「ロミオとジュリエット」、「間違いの喜劇」、「夏の夜の夢」、「十二夜」、「ハムレット」、「リチャード三世」の六作品に始まり、増補版で「リア王」、「マクベス」、「ウィンザーの陽気な女房たち」、「お気に召すまま」の四作品が加わり、さらに決定版で「タイタス・アンドロニカス」が収録される。
となると、さらにさらに期待したいところだけど、河合隼雄氏は他界されているし、松岡和子氏もご高齢とお見受けする。この酔いどれ読者ときたら、誠に身勝手なものでますます貪欲に... この系譜を受け継ぐ座談会の出現を期待したい。いや、他人に期待する前に、再読が先決だ。そうすれば、あの有名な台詞の群れも違った光景を魅せてくれるやもしれん...

ハムレットは気高く生きようと自らに問うた。このままでいいのか、いけないのか... と。
"To be or not to be, that is the question."

ヘンリー四世には、老人の愚痴まで聞かされる。やれやれ、われわれ老人というのは、どうしてこう嘘をつくという悪癖から脱けられないんだ... と。
"Lord, Lord, how subject we old men are to this vice of lying!"

リア王ともなると、道化を伴わないと老いることも難しい。そして、道化に粋な台詞を吐かせた。おっと、この台詞は黒澤映画の方であろうか。そこは、シェイクスピアっぽいということで。狂ったこの世で狂うなら気は確かだ... と。
"In a mad world, only the mad are sane!"

1. 生き方なんてものは十人十色!
シェイクスピアの世界には、たった十数年で駆け抜ける人生もあれば、八十年かけてじっくりと熟成させる人生もある。十代を全力疾走したロミオとジュリエット... 濃密な三十年を生きたハムレット... このような生き様を魅せつけられると、自分の人生がなんとも虚しく感じられる。そうかと思えば、八十近く惰性的に王として生き、最後の一年で我が生涯に目覚めたリア王... このような生き様には、人生まだまだと未練がましくもなる。なぁーに、未練は男の甲斐性よ...
ランカスターとヨークの両家が王位継承で争った薔薇戦争の時代を生きたリチャード三世に至っては、王位に就いたのはたった三年。その短い期間に、悪党宣言たる独白に始まり、見事なほど完璧な悪役を演じきる。邪魔なヤツはどんどん殺し、欲しい物はなんでも手に入れる... まるで人間の本性を剥き出しにしたような人生。アドラー心理学そのままに... ここまで徹底できる人間は、そうはいない。
孔子の言葉に... 十有五にして学に志す、三十にして立つ、四十にして惑わず、五十にして天命を知る、六十にして耳順がふ、七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず... というのあるが、もはや何年で人生を完結させるかなんてどうでもいい。最後の三日で人生を充実させ、覚醒させる人もいるだろうし...

2. 恐ろしい思秋期!
思春期を象徴するロミオとジュリエット物語は、汚れちまった大人どもにはあまりに酷!ロマンスには嘘がつきもの。秘密がなければ、ときめきもしない。しかも、純真だから死物狂い。ネガティブな欲望を人のせいにしながら生きてゆければ楽になれるのに、自己批判の方がまだしも行儀がいい。思春期とは、自分を殺すか、生かすかを問う時代だ。
とはいえ、下半身抜きでは恋愛物語も色褪せる。たいていの人はそこで死ねないから、もう少し長く脂ぎった人生を送ることができる。大人の知恵はたいていどこぞの本に書かれているが、子供の知恵は計り知れず。大人の誰もが、そんな時期を経験してきたはずなのに、汚れちまったらすべての記憶はチャラ。愛という言葉を安っぽくさせるのも、惰性的に生きてきた成果だ。結婚を背負わなければ、純真な恋愛物語が完結できるというのに、結婚できる年齢となった途端に愛人呼ばわれ、世間から悪役キャラを背負わされる。そりゃ、おいらだって大人になることに幻滅するよ...
「見ろ、これがお前たちの憎悪に下された天罰だ。天は、お前たちの歓びを愛によって殺すという手立てを取った。」
"See what a scourge is laid upon your hate, That heaven finds means to kill your joys with love;"

3. 爽快な認識の喜劇!
「間違いの喜劇」には、二組の双子が登場する。離れ離れになった双子の兄弟と、その兄弟に仕える双子の召使いが巻き起こす騒動は、圧巻!
ちなみに、ドルーピー物語にも「双児騒動」ってやつがあって、なんとなく重なる。
双子に似たような名前をつけるケースは世界各地で見られ、名前を並べただけでひょっとしたら双子かと思わせるケースがある。逆に、あまりにも見かけが似ているから、区別できるようにと全然違う名前をつけるケースも。
名前ってやつは、人格にも大きな影響を及ぼす。あまりにも立派な名前を与えると、名前負けすることも。ちなみに、おいらの場合、珍しい名前のおかげで、すっかり天の邪鬼になっちまった。
それはさておき、物語の方はというと... わざわざまったく同じ名前にすることはねぇだろう。シェイクスピアのファルス論には、まったくまいっちまう...
「『間違いの喜劇』は、認識の喜劇でもある。兄を探しにきたはずが一時自分を見失うことになったシラクサの主従だが、ここに至って兄を見出すと同時に再び自分をも見出す。混乱と抱腹絶倒のあとだけに、感動の深さと至福感はひとしおだ。」

4. ご都合主義大王!?
松岡氏は、シェイクスピアを「ご都合主義大王」と呼ぶ。滑稽を演じれば、自然の流れに反するところも出てくるし、それが逆に自然だったりする。
また、独善的であるからこそ、芸術は芸術たりうる。そうでなければ個性も発揮できないし、面白味も欠ける。
人間ってやつは、本性的に自然に反する存在なのだろう。しかも、それを自覚しているから、「自然」の対義語に「人工」という語を編み出した。恋愛が自然な状態かどうかは知らん。ただ、恋に理屈をつけると、理に落ちて、それだけのことになってしまう。人生自体が理に落ちることはない。現代人は、なんでもかんでも理屈で説明しようとしすぎる感がある。河合氏はこう指摘する。
「ご都合主義といって非難するのはむしろ、近代人の病ですね。」

5. 王子と太陽...
同音の son と sun は、シェイクスピア劇ではしばしば意味を重ねるという。例えば、こんな感じ...

"Now is the winter of our discontent. Made glorious summer by this son of York."

この台詞は、「リチャード三世」で登場する独白。王の息子は、太陽王たる王子というわけか。人は歳を重ねていくと、駄洒落好きになっていくのかは知らんが、おいらも駄洒落や語呂あわせが大好きときた。
son に sun すなわち光を当てれば、そこに影ができるのは自然法則。古代ギリシアの自然哲学者たちは、日時計の原理となる影ができる図形に憑かれた。ユークリッド原論にも登場するあれ、そう、グノーモーンってやつだ。こいつには直角三角形の偉大さが暗示されている。人類初の距離の測定方法となる三角法やピュタゴラスの定理などが、それだ。影の幾何学とでもしておこうか。
古代の記録には、日食を不吉とする記述を見かける。皆既日食ともなると、まるで天変地異。突然、戦闘中に大きな影が現れると、大軍も逃げ出してしまい、たちまち形勢逆転。現代人はドラマチックな天体ショーとして見物しているけど、それでも人間は影に怯えて生きているところがある。
自ら影法師を演じているうちに、自分の影を背負うようになろうとは。リチャード三世にしても、リア王にしても、自分自身を生きたのか、影法師を生きたのか。人生なんてものは、自我の本性を探りながら、自我の影法師を演じて生きてるようなものやもしれん...
「リチャードは、善悪でいえば悪の側に立って、人間を見下して笑う立場だったのに、王位についたとたんに今度は笑われるキャラクターに転換させられているんです、シェイクスピアに。...(略)... 恐怖と畏怖の的であった人間を、あえて笑いの対象にしてしまう。一気に落ちていく斜度を実にうまく表現している...」

6. brother and sister...
英文を翻訳する時、brother や sister という単語に出くわすと、兄か弟か、姉か妹か、いつも悩ましい。翻訳の達人でも、これらの用語を邦訳するのは難しいらしい。はっきり区別したければ、older brother や younger sister とやればいいのだろうけど、西洋人はそうした必要性を感じないようだ。日本語では、兄が弟かを特定しなければ、おかしな文章になる。ましてや演劇の台詞で、兄さん!と呼びかけるところを、兄弟!では不自然だ。日本人は、たいてい曖昧な表現を好むけど、上下関係となると目くじらを立てるようである。肩書、名声、序列、年齢といったものに。この方面では、西洋の方が平等主義の意識が強いのかもしれない。その分、男性名詞と女性名詞で区別するようだけど。文法における性の扱いでは、男性、女性、中性で区別する言語系は多い。だからといって、それがそのまま差別意識になるとも思えんが...

7. 自立は裏切りによって成立するか?
リア王物語論を見ていると、裏切りによって自立できることを暗示しているのだろうか。たいていの場合、人は裏切られると相手を憎む。だから狂うと楽になれる。ならば裏切られたと思った時、それは相手を恨む前に人間関係を根本から見直すタイミングだとすればどうであろう。まさに自立のチャンス!シェイクスピアは、ネガティブ思考から解放される方法論までも提示しているような...
「裏切りによってしか自立できないというのは、人間の不幸なセオリーのようなもので、歴史上の人物でも、このときだけは裏切ってるって人がたくさんいますよ。」

2020-08-02

"絶望名人カフカの人生論" Franz Kafka 著

「将来にむかって歩くことは、ぼくにはできません。将来にむかってつまずくこと、これはできます。いちばんうまくできるのは、倒れたままでいることです。」

翻訳者頭木弘樹が「絶望名人」と呼称する文豪カフカ。彼の日記や手紙には、自虐の言葉で埋め尽くされているという。
名言といえば、この世には実に多くのポジティブな言葉が溢れている。確かに、ポジティブな言葉には人を励ます力がある。
しかし、そんな言葉だけで人生を彩るには心許ない。ネガティブな本音の言葉に癒やされることもある。元気で明るいだけの言葉は、どこか嘘っぽい。本当に辛い時に、頑張れ!と声をかけられても、それはむしろ拷問である。絶望している時には、やはり絶望の言葉が必要だ!

カフカの人生は、なにもかも失敗の連続。現代風に言えば、負け組ということになろうが、そんな表現では足りない。虚弱体質に、食が細く、不眠症。自信家で逞しい父親に対するコンプレックスのために、自らを歪めていく。学校では劣等生のレッテルを貼られ、教師や同級生から馬鹿にされてきた。人付き合いが苦手で、サラリーマンの仕事がイヤでイヤでたまらない。ひたすら書くことに救いを求めて小説家を自称するも、すべての作品が未完に終わり、生計を立てることもできない。結婚願望は人一倍強いものの、生涯独身を通す。一人の女性に憧れて求婚し、二度婚約するも、自ら二度破棄。結婚し、子供をつくって遺伝子を残すことへの罪悪感。自分にそんな資格があるのかと、ひたすら問い続け...
「誰でも、ありのままの相手を愛することはできる。しかし、ありのままの相手といっしょに生活することはできない。」

頑張りたくても頑張れない。働きたくても働けない。すべて自ら招いた心の病であることを告白する。すべて自分が悪い。究極の自己否定節。究極の自己破滅型人間。
しかしながら、こうした心理状態は多かれ少なかれ誰でも経験しているし、まさに現代人が抱える病がそれだ。ニートやひきこもりの心理学を体現するような、まさに現代病の先駆者とでも言おうか...
それでも、自殺には至っていない。自殺願望を匂わせつつも。いや、自己の破滅を謳歌しているような気配すらある。骨折や病気になったことを喜び、社会的地位から追い落とされることを快感とし、究極の M か...
「ずいぶん遠くまで歩きました... それでも孤独さが足りない... それでもさびしが足りない...」

カフカの言葉は、悲惨ではあるけれど、どこか余裕を感じないではない。自分が不幸なのは自分自身のせいだと自覚できるということは、自己を冷静に見つめている証拠。なんとなくニヤけてしまいそうな真実を浮き彫りにし、もはや、ポジティブやネガティブなどと区別することもバカバカしい...
巨匠ゲーテは、真実を実り多きものとしたが、文豪カフカは、真実につまずかされる。これでもか、これでもか... と。人間には、他人の不幸を見て慰められるという情けない一面がある。あの人よりはまし!... と。カフカの場合、人間が本能的に持っている滑稽な側面をあえて曝け出しているようにも映る。そんな余裕があったとも思えんが...
重いのは責任ではなく自分自身... 死なないためにだけ生きる虚しさ... 自殺したい気持ちを払いのけるためだけに費やしてきた人生...などとネガティブ思考のオンパレード。その行間からポジティブ思考への強い憧れが滲み出る。自分を信じるだけで、自分を磨こうとはしない。あえて自分にハンデを与え、失敗した時に自尊心を傷つけないようにするってか。才能があると信じて才能を伸ばす努力をしないのは、失敗した時に努力しなかったからだと言い訳できるってか。論理的に理由を説明しようとするのは、他人を納得させることができれば、自分をも納得させられるってか。
人は目の前の真実から目を背け、自分に言い訳をしながら生きている。それだけ、真実を見るには勇気がいるってことだ。自ら心の病を受け入れ、それを曝け出せるような人は、そうはいない。その意味で、自分の弱さを素直に認めて正面から向き合ったカフカは、真の勇者だったのやもしれん。
生前カフカは、ついに小説家として成功するこはなかった。病床では、未完の原稿をすべて焼却するよう友人マックス・ブロートに遺言する。しかし、ブロートはカフカの作品を世間に紹介した。まさか、あの世でこの友人を恨んではいまい。ブロートは、カフカへの手紙にこう書いたという。
「君は君の不幸の中で幸福なのだ。」