2014-05-25

"銀河の世界" Edwin Powell Hubble 著

物理学を支えてきた研究者には、二つの相補的な資質がある。それは、理論派と観測派(実験派)だ。科学文献では、理論が主役で観測データは付録のように静かに掲載されるのが、一般的であろうか。エドウィン・ハッブルは自ら観測派に属すと語り、少々悔しさを滲ませる。
しかしながら、双方の資質を厳密に区別することは難しい。理論的な推測なくして、適格な観測は成し得ないのだから。実際、ハッブルは観測による標本収集というアプローチから、銀河の距離と遠ざかる速度の法則を導いた。銀河の放射する赤方偏移は近似的な距離の線形関数である、などという法則性を見抜く眼力こそが秘められた資質と言えよう。
本書は、その立場から理論説明よりもデータ解析が主に置かれる。局部銀河群では、M31、M32、NGC205、M33、NGC6822、IC1613 などの詳細データが紹介され... 書籍版プラネタリウムとでもしておこうか。そして、銀河の分布や構造を論じながら、島宇宙仮説と膨張宇宙説の証拠をつきつける。また、宇宙定数についても言及される。アインシュタインは、せっかく編み出した美しい宇宙方程式に自己の思想観念を埋め込んだために、人生最大の失敗!と言わしめた。権威者が自分の過ちを素直に認めることは難しい。健全な懐疑主義こそが、科学に最も求められる資質であろう。そして、啓発された利己主義ってのも付け加えておこうか...

どんなに理論が優れていようとも、見たまんま!というほど説得力のあるものはあるまい。だが、観測の命は精度にあり、宇宙規模にまで及べば誤差との戦いが宿命づけられる。
研究者たちの精度のこだわりや、道具を駆使する技術的発想は、どこからくるのだろうか?理論家の中には、狂信者のレッテルを貼られたまま世を去った者も少なくない。観測者の中には、結果的に無駄に終わる実験に憑かれて人柱となった者も少なくない。人間自身を知ろうとする執念が、そうさせるのか?まずは、自己存在を強烈に意識させる自己の棲家を知ることだ。
ゲーテは言った、制約の中にのみ巨匠の技が露になると。宇宙の距離梯子は、科学者たちの思考梯子として受け継がれる。観測技術は進化し、信憑性のあるデータは確実に増えていく。もし、ニュートンが今を生きていたら、どんな法則を発見してくれるだろうか?ジョージ・サートンは、こう書いたという。
「現代の聖人は、千年前の聖人より神々しい必要がない。現代の芸術家は、ギリシャ初期の芸術家ほどに偉大である必要もない。実際彼らは劣っていそうだ。そしてもちろん、科学者は昔の科学者より知性的である必要はない。しかし一つだけ確かなことは、科学者の知識は次第により広範になり、同時に正確になっていくということだ。確実な知識の取得と体系化は、人間のみが行える行動で、真に蓄積的で日々進歩するものである。」

ところで、単位系ってやつには、その学問分野の哲学がさりげなく顕れるものだと思う。天文学では、視差(parallax)の観点から生まれた「パーセク」という単位がある。やはり、距離測定の基本は三角法にあろう。比較的近い天体は、地球上の二点による視差や、年周視差によって算出できる。なんといっても、天文学の基礎は掃天観測にあり、統計学と誤差関数の欠かせない世界。この単位だけで、ガリレオから受け継がれる望遠鏡のロマンを感じる。
やがて、遠方の恒星では、光のスペクトルから距離を算出する方法が編み出された。だいたいにおいて恒星は太陽型のスペクトルをもっており、そこに絶対等級との関係が定式化されると、見かけの明るさが距離の二乗に反比例するという法則が利用できる。
さらに遠方の銀河では、セファイド変光星を利用して距離を算出する方法が編み出された。周期的に光度が変化し、宇宙の灯台と呼ばれるやつだ。周期が長いほど明るいという性質が判明すると、周期と絶対等級の関係が定式化され、見かけの明るさと比較しながら距離を推定することができる。
ハッブルの法則は、こうした観測過程から生まれた。彼の主な功績は、ハッブル分類を提唱したこと、セファイド変光星を発見して銀河の距離を測定したこと、そして、銀河の距離と赤方偏移の関係を定式化して宇宙膨張を示したことである。確かに、ここに示される観測データは時代的に古く、銀河までの距離が2倍から5倍ほど短めに示される。だが、宇宙の成り立ちの大枠が変更されたわけではない。本書がその醍醐味を最もよく伝えているのは、理論的な結論よりも観測データから生じる思考過程を大切にしていることである。忘れかけていた技術魂を思い出させてくれるような...

1. ハッブル分類
銀河の大部分は「規則銀河」と呼ばれ、共通パターンは明るい中心核に対して回転対称性を示すこと。対して、「不規則銀河」の方は、数%程度しか存在しないという。そして、規則銀河の構造的特徴を「楕円銀河」,「正常渦巻銀河」,「棒渦巻銀河」の三つに分類する。
とはいえ、見かけの話で、その基準は像の形や明るさの勾配のみ。円に見える銀河だって、本当は球になっているかもしれないし、扁平な銀河なのかもしれない。
まず、扁平率の小さいものから大きなものへと並べ、楕円銀河を左側に置いて右側で二種類の渦巻銀河に分離する。楕円銀河は左から、E0, E1, E2, ... で表され、二種類の渦巻銀河の分岐点は、S0 で表され、続いて、正常渦巻銀河、Sa, Sb, Sc、棒渦巻銀河、SBa, SBb, SBc が配置される。この系列は、銀河の成長過程を示していることが、すぐに想像できる。収縮による回転速度の増加により、扁平率が高くなることが、考慮されているのだろう。その意識は、「初期型」「晩期型」という用語に顕れている。
正常渦巻銀河は、中心核が小さいほど腕がはっきりし、渦巻腕は開いて、しまいには中心核が分からなくなるほど小さくなる。棒渦巻銀河は、外側の領域に同心円上の輪と、中心核の端から端を貫く棒を持つレンズ状の形をしている。ギリシア文字のθのような。そして、中心領域が小さくなるとともに、渦巻きが発達し、星の分布も中心核に集まり、しまいにはS字型となる。二つの渦巻銀河は、最終的に中心領域が小さくなり合流するかのように見える。
不規則銀河にしても、その典型とされるマゼラン銀河などは、晩成型の渦巻銀河に似ているという。そのために、規則銀河の最終段階と見られることもあると。推測の域を出ていないとしながらも。
本質的な現象は、回転対称性を持たないことよりも、中心核がないことの方かもしれない。中心核がないから必然的に回転対称性が持てない、という見方もできそうだから。
「銀河の形の研究は、銀河が強い関係を持った単一の種族を構成しているという結論を導いた。それらは限られた領域に沿って系統的に変化する基本的なパターンを形づくっている。銀河は、形についての規則的な系列を自然に作り、その性質は系列上の標準銀河に縮約される。」
恒星の構造にしても、規模の違いはあれど、太陽型スペクトルでほぼ近似できるようだし、宇宙における物質のあり方は、それほど多様ではないということか。これが自然の摂理というものか。恒星が一度天体を形成すると、ほとんど衝突せず、銀河の重力体系の一員として振る舞う。衝突しなければ、熱エネルギーも極度に減少することはない。この奇跡の調和力は、ダークマターの仕業であろうか?いや、ダースベイダーの野郎に違いない...

2. 銀河の分布
天の川銀河の吸収、散乱物質による見かけの分布を議論している様子は圧巻!当初、銀河が天の川銀河を避けるように分布することが、研究者を悩ませてきたという。仮想的な万有反発力を唱えた研究者もいたとか。
ハッブルは、銀河面に集中して吸収、散乱物質が存在し、低銀緯ほど視界が悪くなることを指摘している。暗黒星雲は、天の川の帯に沿って分布し、天の川銀河の中心核方向に多くあるという。そして、吸収、散乱物質には二種類あるとしている。一つは、暗黒星雲中の塵によるもの。塵による散乱は青い光を吸収し、星の色が全般的に赤く見える。二つは、銀河面に一様に広がる成分で、高温ガス中にある自由電子のトムソン散乱だと考えられている。高温ガスは、ほぼ一定の厚さで銀河円盤内に満ちている。したがって、天体の分布を考察するには、天の川銀河の吸収効果を補正する必要があるというわけだ。
また、小さな銀河の分布は不規則で、大きな銀河の分布は近似的に一様であるとしている。分布の勾配が見つからず、どの方向の観測領域でも、ほぼ同じであると。ただ、この時代では、銀河の規模も限定的とされ、銀河団までの言及はあるが、超銀河団の記述は見当たらない。

3. 銀河の距離
宇宙の距離梯子は、望遠鏡の進化の歴史を如実に物語っている。それは、見かけの明るさの標本集めから始まり、やがて、赤方偏移が距離の一次関数であることが定式化される。
1924年、ハッブルはアンドロメダ銀河の中に、セファイド変光星を発見した。当時、アンドロメダ星雲と呼ばれ、銀河が恒星の集団であるということが、あまり認知されていなかったようである。
さて、天文学には、「H.R(ヘルツシュプルング・ラッセル)図」で示されるように、光スペクトルと絶対等級に重要な関係がある。絶対等級が分かれば、見かけの明るさが距離の二乗に反比例することから算出できるという仕掛けだ。恒星の場合、恒星の発するスペクトルが分れば、絶対等級が推定できる。
対して、銀河の場合は、セファイド変光星の周期と光度の関係を利用する。セファイド変光星は、変光周期が長いほど絶対等級が明るいという性質を持っている。銀河の中にセファイド変光星が見つかれば、その絶対等級から距離が推定できるという仕掛けだ。
「セファイド変光星で距離が決められた銀河の中の最も明るい星は、その絶対光度は天の川銀河の内の最も明るい星と同程度であるという事実が、この結果に整合性をさらに与えている。」

4. 赤方偏移による速度と距離の校正
当然ながら、それぞれの銀河は質量も違えば、大きさも違うし、光度も違う。測定対象によって補正を加える必要がある。ハッブルの法則におけるハッブル定数が、その役割を果たす。本書では、赤方偏移による見かけの明るさを補正する事例が紹介される。
例えば、次式は見かけの等級 mc に対して、⊿m0 は赤方偏移の効果を表している。

  mc = m0 - ⊿m0

赤方偏移の効果は速度が速いほど増加するが、偏移が3000マイル/秒以上になるまでは重要でないとしている。
また、速度の対数 v と見かけの等級 mc の相関が、次式の形で考察される。

  log v = 0.2mc + 補正値

尚、補正値は、銀河や銀河団で値を変えている。速度は、赤方偏移に光速をかけたもの。そして、距離の対数 d の校正が次式で示される。ただし、Mは絶対等級。

  log d = 0.2(mc - M) + 1.513

しかし、このままでは、あまり抽象度を感じない。速度が生じるということは時間に関係するので、ハッブル定数を時間の関数とすれば、もっとシンプルに記述できるだろう。
無数の銀河が一様に分布しながら赤方偏移しているということは、膨張宇宙説の強力な裏付けとされる。速度が対数で表されるということは、指数関数的に遠ざかっていることを示している。天文学がいくら進化しても、宇宙の果てに追いつけそうな気がしない。そして、人間がやりがちな、膨張の中心はどこにあるのか?なんて議論も虚しく映る。
「天文学の歴史は地平線の後退の歴史である。」

2014-05-18

"ワープする宇宙" Lisa Randall 著

猛省す!
女性の物理学者というと、ちと懐疑的であった。知らず知らず偏見があったことに気づかされる。600ペーン超の分厚い重みは、物理学への熱い思いの顕れ。初心者にも配慮しながら数式を徹底的に排除する一方で、深い見識と文才を魅せつける。真理の探求に、理系やら、文系やら、といった枠組みになんの意味があろうか?と問うかのように...

古来、人類は重力の問題に悩まされてきた。自己存在をこれほど強烈に意識させる物理量が他にあろうか。しかしながら、人類はいまだ重力の正体を知らない。普通の感覚では、物体に力が働くということは、何らかの物質の影響を受けているからだと考えるだろう。古代ギリシアでは、なぜ天体に運動が生じるのか?と問えば、真空をめぐっての論争が繰り広げられた。アリストテレスの時代、物理運動はすべて物質の媒介によるものとされ、宇宙には何らかの物質が充満しているからこそ天体に運動が生じるとされた。そして、エーテル充満説として決着を見る。だが、ニュートンが万有引力を提示すると、マイケルソン・モーリーの実験を後ろ盾にして、エーテルの存在が否定された。
では、引力や重力の正体とは何か?
アインシュタインが、あの有名な公式によって質量とエネルギーの等価性を示すと、真空中においてもエネルギーを介して力の作用が生じるとされる。そして、重力の作用を時空の歪で図式化した。こうして、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えは捨てられ、真空の概念が定着した。哲学的な実存観念においても、質量よりもエネルギーの方が本質である可能性を匂わせたのだった。
さらに、近年の観測結果は新たな問題を突きつける。銀河が今の形を維持するためには、銀河に含まれる星々の総質量では不足しているというのだ。そして今、そのエネルギーの不足分を補っているとされる影の立役者の存在がささやかれている。そぅ、ダークマター(暗黒物質)ってやつだ。しかも、宇宙空間の至るところに暗躍するとされる。宇宙論は、エーテル充満説へ回帰しようとしているのか?
著者リサ・ランドールは、まさにこの問題に挑む。この物語は、余剰次元の歪曲(ワープ)という観点から説明を試みる、ある種の思考実験である。アインシュタインの公式は質量のマイナスを規定しない、なんてことはないだろう。質量がプラスの世界がたまたま有限宇宙とされ、至るところに質量がマイナスの無限宇宙が接触している、という可能性がないとは言えまい。そして、質量を持った知的生命体には、それが認識できないというだけのことかもしれん。もしかしたら、ユークリッド幾何学とは、神がこしらえた悪魔の棲家、または監獄の設計図なのかもしれん...

ところで、量子の世界では、質量ゼロが当たり前のように出現する。光子や電子といった素粒子は、質量を持たないからこそ宇宙の果てまで達することができる。質量が存在するから量子場の影響を受けて、自由運動が制限される。では、質量なんて奇妙な性質は、どこから生じるのだろうか?その原因を、場の量子論が唱える「対称性の破れ」、あるいは「超対称性の破れ」から説明してくれる。
「対称性は重要な要素だが、宇宙はふつう完璧な対称性をまず実現させない。わずかに不完全な対称性が、この世界を興味深い(しかし統制のとれた)ものにしている。」
質量ってやつは、宇宙法則における超常現象なのであろうか?
宇宙法則に完璧な対称性が成り立てば、質量なんて奇妙なものは存在できず、宇宙は平坦で無限でいられるのかもしれない。これが、不確定性原理が暗示していることであろうか?不確定性原理の不思議なところは、不確定となるまでは納得できても、不等号で示されることに不自然を感じる。量子力学では、ある特定の二つの物理量を同時に正確に測定することは不可能とされる。例えば、位置と運動量を測定する場合、先に位置を測定して後に運動量を測定した場合と、その逆では結果が違う。それでも、二つの物理量の曖昧さの積は、プランク定数系よりも大きくなるという符号の方向性だけは残る。
この方向性は何を意味するのだろうか?
観測とは人間が認識しようとする行為であり、純粋な物理現象に観測系が関与すれば時間という次元に幽閉される。質量を持つ物体が関与すれば、物理系は何らかの次元に幽閉されるということであろうか?宇宙の秩序を乱す唯一の要因が質量だとしたら、それを認識せずには生きられない人間は、神の嫌われ者かもしれん。だから、人間は神の気を引こうとして、知らず知らず悪魔になろうとしているのか?
また、あらゆる素粒子は、人間の認識できない余剰次元によって接触しあっている可能性を匂わせてくれる。あらゆる次元が接触しあうには、空間が歪曲している必要がある。というより、人間が勝手に歪曲していると感じているだけのことかもしれん。人間ってやつは、質量を基準にしなければ思考することもできず、おまけにユークリッド空間に幽閉されているときた。
そこで、次元の境界条件としてブレーンの概念を導入すると、思考を助けてくれる。ブレーンとは、膜のように閉じられた次元空間のようなもので、複雑な高次元の風景を眺めるにはうってつけのツールだ。宇宙空間を多層多面にスライスし、人間の住む3次元空間は一枚のブレーンに閉じられていると考える。量子の運動範囲が、ブレーンの境界条件によって決まるというわけだ。素粒子には、自由に通過できるブレーンが決まっている、という性質でもあるのだろうか?人間が認識できる3次元空間と接触できる素粒子にも制限があるとすれば、目の前にあっても気づかないだろう。素粒子物理学では、重要な仮想粒子にグラビトン(重力子)の存在がささやかれる。結局、物質が直接接触しなければ力の影響を受けることはないという考えからは、逃れられないのかもしれん...

1. 重力と階層性(ヒエラルキー)問題
解明されてない大きな問題は、重力ってやつが他の既知の力に比べて、なぜこんなにも小さいかということ。地球という大きな天体の持つ重力に逆らって、ちっぽけな人間は手を上下させたり、ジャンプすることができる。クリップだって磁石に吸い寄せられて浮き上がる。地球上の運動現象は、地球の全質量に逆らって運動できるわけだ。そのくせ太陽や月という膨大な重力とも、うまいこと均衡してやがる。
これをうまく説明できる思考法に「等価原理」がある。それは慣性質量と重力質量を同一視するもので、一般相対性理論の構築原理とされる。つまり、周囲のすべてが自由落下していれば重力場を感じることはない、加速系の中では重力が相殺される、という考え方。おかげで、地球上の生物は地球の自転を感じずに暮らせるという寸法よ。この原理に従えば、重力は等加速度と区別がつかない。だが、実ははっきりと区別がつく。重力が加速度と等価ならば、地球の裏で生じる反対側の加速度運動が説明できない。あらゆる方向に対する力の保存則が成り立たないとなれば、等価原理では局所的にしか加速度に置き換えられない。そこで、重力が二つの物体間に生じる力という考えを捨て、電磁気学のように場の概念を当てはめる。重力場として空間全体を眺めると、時空の歪で説明できるわけだ。
さらに、著者リサ・ランドール、ラマン・サンドラム、アンドレアス・カーチらの共同研究によると、余剰次元の概念を当てはめれば、空間のある領域では重力が強くても、他の領域では一様に弱くなるという。そして、驚くべき発見が紹介される。
これまで余剰次元は微小なものでなければならない、さもなければ目に見えないことが説明できないとされてきたが、なんと!空間の歪曲によって重力の弱さが説明できるだけでなく、余剰空間が曲がった時空の中で適切に歪曲していれば、その広がりは無限になる可能性があるという。有限宇宙は、高次元領域において無限宇宙だというのか?人間は3次元ポケットの住人に過ぎないというのか?... そうかもしれん。肉体とは、一時的に3次元空間に住むための宇宙スーツのようなものであろうか。
また、重力の問題は「ヒエラルキー問題」と関係し、相対性の力は富のトリクルダウン理論のようなものだという。トリクルダウン理論とは、政治家がよく口にする、富裕層に資金を流せば自然に貧困層にまで浸透するという経済理論だ。富の階層構造のように、エネルギーにも階層構造があるとすればイメージしやすい。階層性問題は、膨大なプランクスケール質量と低いウィークスケール質量の比から生じる。プランクスケールでは、長さ 10-35m に対して、プランクスケール質量(エネルギー)は 1019GeV。ウィークスケールでは、長さ 10-17m に対して、ウィークスケール質量(エネルギー)は 103GeV。つまり、エネルギーにおいて、16桁もの量子補正が必要ということだ。適切な補正を怠れば、資金が貧困層に到達する前に、金融危機というブラックホールに捕まるのも道理というものよ。三次元 + 時間という空間は、悪魔が捕まったブラックホールのようなものなのか?

2. 準結晶と余剰次元
準結晶とは、結晶でもなく、アモルファス(非晶質)でもない、第三の固体と言われる物質である。例えば、準結晶でコーティングされたフライパンは、熱を効果的に分散させて焦げ付かない。この不思議な構造は、余剰次元でしか解明されないという。普通の結晶は、原子や分子が対称的な格子状になって一定の基本配列を繰り返す。対して、準結晶は厳密な規則性が欠けているように見える。この不可解な配列を、高次元の結晶構造として捉え3次元に投射すると、対称性を持った秩序ある構造が見えてくるという。まさかフライパンに、こんな高度なテクノロジーが潜んでいたとは...
さて、人類にも進化過程で、1次元しか認識できない、2次元しか認識できない時代があったのだろう。そして、突然変異によって3次元が認識できるようになったのかは知らん。時間を加えれば、4次元空間。ダーウィンの自然淘汰説風に言えば、認識能力は生存競争において育まれてきた。アボット著「フラットランド」風に言えば、2次元空間の生命体には、3次元の物体が近づくと点からだんだ大きな円になっていき、やがて小さくなって点となって消えるように見える。人間が認識できる宇宙とは、そういう存在であろうか。人間社会で生じる危機的現象も突然出現するように見えて、実は、別の次元から近づいてくるだけのことかもかもしれない。自然災害にしても、金融危機にしても、戦争にしても... そして、地球外生命体は、目の前にある危機から避難しようとしない無謀な知的生命体を、地球という天体上に見つけ、滑稽に思っているのかもしれない。命が最も尊いと叫びながら他人を地獄に陥れ、自らも地獄へ向かう自虐な生命体と...
余剰次元とは、認識する必要のない、生活に支障のない次元ということはできるだろう。では、必要に迫られれば、いつの日か5次元空間が認識できるようになるのだろうか?人間社会は、仮想空間を夢想し続ける。その動機が現実逃避だとしても、仮想次元に慣らされていくうちに、もっと高次な認識が育まれるのかもしれない。3Dテレビのように表示システムの多次元化は、今後も進化を続けるだろう。そしてある日、突然変異を果たした高次元人類が出現するのかもしれない。未来社会では、21世紀という時代は認識次元が幼いために仮想貨幣や領土問題などに惑わされて、3次元空間争奪戦を繰り広げていたなどと嘲笑されるのだろうか?いや、所有をめぐって憤慨する性格は変えられそうにない。多次元空間争奪戦ともなれば、もっと凄いことになりそうだ。魂や霊感までも掌握されそうな... ちなみに、行付けの寿司屋の大将の口癖は... 心を握らせてもらいます!

3. 場の量子論と排他原理
素粒子は、固有スピンの性質の違いでボソンとフェルミオンに種別される。具体的には、スピン角運動量の大きさが換算プランク定数(ℏ)の整数倍か、半整数 (1/2, 3/2, 5/2, ...) 倍かの違い。ただし、回転して相互作用をする性質があるだけで、実際には回転していないそうな。実際の物理運動とは無関係に、量子力学上のスピンというものがあるらしい。
パウリの排他原理によれば、同じタイプのフェルミオンが同じ場所に存在することはできない。例えば、同じスピンを持つ電子同士が同じ場所にいられない。そのおかげで、原子は化学反応の基盤となる構造を保てる。対して、ボソンはパウリの排他原理に従わない。この二つの性質が、対称性の破れ、あるいは超対称性の破れの鍵となる。つまり、質量が生じる可能性である。
さて、最初に場の概念を持ち出しだのは、マイケル・ファラデー。そして、マクスウェルが、電荷と電流の分布から電磁場を記述する一連の方程式を導いた。あの有名な四つの一階微分方程式は、場の概念に波動性を結びつける。そのうち二つを組み合わせると、電場か磁場だけを含んだ二階微分方程式が導けるという特徴が、数学の美を醸し出す。
「場と遠隔作用には大きな概念上の違いがある。電磁気学の場の解釈にしたがえば、電荷が空間の別の領域にすぐさま影響を与えることはない。場は適応の時間を必要とする。運動中の電荷は、そのすぐ近くに場を生みだし、そこで生みだされた場が空間全体に広がっていく。物体が遠くの電荷の運動を知るのは、光がそこに届くまでの時間が経っているからである。したがって電場と磁場は、光の有限の速さが許すよりも速くは変わらない。空間のどの時点でも、場が適応を果たすのは、遠い電荷の効果がそこに達するための時間が経過してからである。」
光も電磁場を形成する。ゲージボソンとして最初に持ちだされたのが光子だが、ゲージという用語はなんのことはない。鉄道のレール間の距離を示す「軌間(ゲージ)」を意味し、光子の伝播のイメージと無理やり重ねたところからきているという。他のゲージボソンには、ウィークポゾンとグルーオンがあり、ウィークポゾンは弱い力を伝え、グルーオンは強い力を伝える。
量子電磁気学は、光子の受け渡しが、どのように電磁気力を生み出すかを予言する。二個の電子は、相互作用領域に入ってきて、光子を受け渡した後、伝えられた電磁気力によって定められた径路に進む。ファインマン図は、この相互作用する場を図式化し、図の各部分に数字を当てはめれば運動が記述できるという仕組み。入ってくる電子が光子を放出し、放出された光子が別の電子に向かって進み、電磁気力を伝え終えると消滅する。そして、電磁気力は電荷を帯びた対象に対して引力や斥力が働く。
素粒子というのは、物質というよりはある種のエネルギー状態で、量子場の励起状態と考える方がよさそうである。換言すると、量子場がなんらかの原因で基底状態を保てなくなり、量子固有の離散的な高エネルギーへ移行した状態とでもしておこうか。素粒子をまったく含まない真空では定常場しか生じないが、素粒子の存在する領域では隆起や振動の起こる場が生じる。これが波動性の正体というものか。しかも、電子や光子を生成、消滅させる場は、どこにでも存在するという。そうでないと、あらゆる相互作用が時空のどの点でも生じるようにならない。現実に、真空にもかかわらず電磁波が伝わる。
んー... エーテルを場と言い換えただけのような気もしなくはない。物質的ではないと言えば、そうなのだが。エネルギーの伝播だけで粒子の生成と消滅が説明できるとすれば、物質ってなんなんだ?単なる認識の産物ということか?認識もまた脳内の量子運動から生じ、認識の生成と消滅を繰り返す。量子場における粒子の生成と消滅は、まさに気移りや気まぐれのメカニズムか。しかも、その制御は確率論的ときた!

4. 弱い力と強い力
物理学者たちは、電磁力、強い力、弱い力、重力の四つの相互作用における統一理論を構築することを夢見てきた。現実世界を説明する上で鍵となるのが、弱い力だという。弱い力の効果を生じさせる素粒子はウィークボソン。それは、W+, W-, Z の三種類があって、Wはプラスとマイナスの電荷を帯び、Zは中性。弱い力は、ある種の核崩壊の要因であって、重い元素の生成に寄与するという。また、恒星が輝きを放つためにも不可欠だとか。水素をヘリウムに変える連鎖反応を引き起こし、宇宙を絶え間なく変化させることを手助けするそうな。
電磁気力と弱い力には、いくつか重要な違いがあるという。中でも奇妙なのが、弱い力は右と左を識別し、粒子とその鏡像が互いに異なる振る舞いをする。「パリティ対称性の破れ」というやつだ。パリティが保存されない分かりやすい例は、人体の心臓が左側にあるといったこと。そのメカニズムは、粒子が右回りと左回りのスピン方向を選ぶことによって生じる。
弱い力の作用を受けるのは、左回りの粒子だけだそうな。なんじゃそりゃ?中性子が崩壊する時に現れる電子は、常に左回りだとか。もしかして、左利きやら、左巻きやらも、弱い力の影響なのか?
弱い力の奇妙な特性を他にも紹介してくれる。なんと、ある種類の粒子を別の種類に変えてしまうんだとか。例えば、中性子とウィークポゾンが相互作用すると、陽子が現れることがあるという。光子はどんな種類の粒子と相互作用したところで、電荷を帯びた粒子の最終的な数は変わらない。対して、電荷を帯びたウィークポゾンが中性子や陽子と相互作用すると、単独の中性子が崩壊し、まったく別の粒子に変わる。
とはいえ、中性子と陽子は質量も電荷も違うので、電荷とエネルギーと運動量を保存するには、崩壊時に陽子だけでなく、電子とニュートリノを生成する。いわゆる、ベータ崩壊だ。
ウィークポゾンが質量を持つことが、弱い力の理論を成り立たせるという。ほんのわずかでも質量があれば、非常に短い距離でしか作用を及ばさず、距離が長くなると存在しないほど弱くなることが、物質の存在を可能にするというわけか。その点、光子やグラビトンは質量ゼロ。だから、永遠に力を伝えられる。
一方、強い力は、どんなに遠くても引きつけてしまい、クォークのような粒子が単独で発見されることはない。クォークを陽子と中性子の姿に結合させたり、クォークをジェットの中に閉じ込めたりできるほど強力。めいっぱい離れたクォークと反クォークは、膨大なエネルギーを蓄えることになるので、その間に別のクォークと反クォークを生み出す方が、エネルギー効率がいい。したがって、クォークと反クォークを引き離すと、真空から新たなペアのクォークと反クォークが生まれるという。ほんまかいな?新たな量子が生まれる前に、宇宙空間が消滅するってことはないのか?あるいは、宇宙が階層化されるとか?
尚、無質量粒子という概念は、素粒子物理学では当たり前のように使われる。粒子に質量がなければ、光速で伝播でき、むしろ、質量がゼロでないゲージボソンの方が特異とされるようだ。人間が安定社会を望んだり、官僚体質に陥りやすいのも、質量を持つ物質の特性からきているのだろうか?

5. フレーバー対称性とヒッグス場
対称性は、物理学や数学では美として崇められる神聖な原理だ。場の量子論では、あらゆる粒子の対となる反粒子が想定される。1個のマイナス電荷を持つ電子に対しては、1個のプラス電荷を持つ陽子では質量が大きすぎるので陽電子を置く。反粒子が時間を遡る粒子となることで、時間の非対称性を相殺することができる。対称性は、場の理論において欠かせない調整原理と言えよう。
ただ、素粒子物理学では、ちと違った対称性を考察する。「内部対称性」ってやつだ。内部対称性とは、空間的な対称性とは違い、完全に別個の物体でありながら、同じ物理法則で交換できるということ。ここでは異なる種類の粒子を関連づけ、かなり抽象的な対称変換を与えており、二つの粒子において電荷と質量が同じならば、同じ物理法則に従うと考える。これを記述するのが、「フレーバー対称性」だという。例えば、電子とミューオンは、電荷を帯びた二つのレプトンで電荷が同じ。質量はまったく違うけど。電子とミューオンは、フレーバー対称性に従って同じように振る舞うと考えるらしい。量子の世界では、質量に意味がないとでもいうのか?質量の抽象化とすれば、女性が喜びそうな原理だ。ただし、電子とミューオンはあまりにも質量が違っていて、厳密には同じようには振る舞わないらしいけど...
さて、量子の世界は、非対称性の世界を、いかに対称性の目で見るかという関係性を問う世界のようである。対して、現実世界は、あらゆる対称性の破れから生じるというわけか。自然界に完全な対称性しか存在しなければ、宇宙は存在しないのかもしれない。それこそ、神に御登場を願うこともない。悪魔が登場する舞台に、神がキャスティングされなければ、なんともしまらない。
本書は、質量を獲得するメカニズムとして「ヒッグス機構」を紹介してくれる。ヒッグス機構は、「自発的対称性の破れ」という現象に依存するという。
自発的対称性ってなんだ?ある夕食の席を考えてみよう。大勢が円卓を囲んで、それぞれの席の間に水の入ったグラスが置かれる。各人は右と左のどちらかのグラスをとる。この際、行儀作法はなしだ。一人が左のグラスをとれば、全員が左のグラスをとらなければ、行き渡らない。誰かがグラスを選んだ途端に、右回りか左回りかのスピンが決定されて、対称性が破れることになる。自発的とは、確率論のようなものか。神だってサイコロを振るらしい。なーんだギャンブル好きじゃん!しかも、質量があれば内部対称性を保存しないという。
では、肝心の質量はどこから生じるのか?
質量ゼロのゲージボソンの偏極は二つしかないが、質量のあるゲージボソンの偏極は三つあるという。質量ゼロのゲージボソンは、常に光速で進み、けして静止しない。したがって、運動方向も一つに決まるので、進行方向に垂直な方向意外の並行な偏極と区別できる。実際、物理的な偏極は垂直方向にしか振動しない。一方、質量のあるゲージボソンは、物体と同様に静止できる。そして、静止時に運動が一方向に定まらないという。これを「縦偏極」と呼んでいる。光が横波で音波が縦波だから、音波のような振動も混在するということか。もしかして、縦波と横波の違いが生じるのは、質量が関与するかどうかの違いなのか?
ヒッグス機構は、質量の問題を解決する唯一の方法とされるそうな。ヒッグス粒子が生じるのは、ヒッグス場においてのみ。ただ、ヒッグス機構という用語は多少ルーズなところがあって、様々なモデルが提唱されているらしい。簡単に言うと、「弱い力の対称性を自発的に破って素粒子に質量を与える」
ヒッグス場では、粒子が一切存在しないくせに非ゼロ値をとることができるという。素粒子の起源は、エネルギーが先か?質量が先か?と問えば、卵と鶏の関係に見えてくる。非ゼロ値の場が帯びている荷量は、現実の世界に存在するという。真空中にもウィーク荷の密度が観測されているそうな。非ゼロ値のヒッグス場は、ウィーク荷を宇宙の至る所に分布させているとか。クォークやレプトンがヒッグス場を通過する際、ウィーク荷と衝突することになるが、跳ね返される時に質量を獲得するという。
では、質量ゼロのゲージボソンが通過するとどうなるのだろうか?エネルギー条件によって確率的に質量を帯びる可能性があるというのか?光子が特別扱いされるのは、ウィーク荷を帯びた真空の場から影響を受けないからだという。光子は電磁気力を伝える粒子なので、電荷を帯びたものとしか相互作用しないから。光子は、ヒッグス場においても、完全に質量ゼロでいられる唯一のゲージボソンだそうな。

6. 超対称性とブレーンワールド
超対称性とは、ボソンとフェルミオンをも入れ替える対称変換である。とてもありそうもない組み合わせで、スーパーパートナーと呼んでいる。究極のスワップ関係か。あらゆる価値が、市場を介して貨幣換算されれば、すべてスワップ可能となる。量子場とは、市場のようなものか?
超対称性が存在するかもしれないという理由は、二つあるという。一つは、超ひもで、二つは、超対称性が階層性問題を解決する可能性があること。ひも理論を持ち出せば、究極の構成単位となり、すべてひもで変換できそうな気がしてくる。
とはいえ、超対称性だって破れの問題がつきまとう。ひも理論では、素粒子はひもの共振モードから生じると考え、振動の仕方は多種多様なために何種類もの粒子に見えるとされる。最初は一種類のひもを想定してきが、現在では何種類もあると考えられている。二次元のひもには、大きく二種類の運動がある。端が開いたものと、閉じたもの。超ひも理論がオリジナルよりも優れている点は、スピン1/2の粒子が含まれることで、電子やクォークのようなフェルミオンを記述できる可能性があるという。
超ひも理論の奇妙な特徴は、9次元 + 時間の10次元でしか意味をなさないことで、他の次元では存在してはならない共振モードが現れるという。発生確率がマイナスになるような。そして、余剰次元は認識できないほど微小に巻き上げられていると考える。このコンパクト化モデルに、「カラビ - ヤウ多様体」という数学のテクニックを紹介してくれる。カラビ - ヤウ多様体は超対称性を保存するという。数学では、多様体や多面体を扱う時、双対性という概念を用いる。ここでは、双対性の驚くべき例を紹介してくれる。なんと!10次元超ひも理論と11次元超重力理論が等しいというのだ。
「強く結合した超ひも理論と弱く結合した11次元の超重力理論との双対性により、強く相互作用する10次元超ひも理論のなかの知りたいことは、外面的にまったく異なる理論での計算をすることで、結果的に何でも計算できる。強く相互作用する10次元超ひも理論によって予言されることは、弱く相互作用する11次元超重力理論からすべて導き出せる。その逆も同じだ。」
エドワード・ウィッテンが提唱した「M理論」とは、11次元超重力理論を統一理論として抽象化しようとしたものらしい。しかしながら、双方には不可解な特徴がある。10次元超ひも理論にはひもが含まれているが、11次元超重力理論には含まれない。この謎は、ブレーンを使えば、すっきり説明できるというわけだが...
さらに、「隔離」という概念を持ち込んで、粒子は異なるブレーンに隔離されている可能性があるとしている。
「超対称性の破れの原因となる粒子が標準モデルの粒子から隔離されているモデルでは、粒子を別のフレーバーに変えてしまうような相互作用を導入せずに、超対称性を破ることができる。」
相互作用をするかどうかがブレーンで違うとすれば、カラビ - ヤウ多様体を持ち出すよりもイメージしやすい。しかも、ブレーンは超対称性を適当に保存しながら、たまーに破られるってか?
んー... 個人が認識できるブレーンの数も違いそうな気がしてきた。これが能力差というものか?運動能力には動体視力ってものがあるが、ボールが止まって見える!というのは本当かもしれん。肉体は現実ブレーンを生きるしかない。だが、魂はもうちょっと自由で天国ブレーンにも地獄ブレーンにも行けそうだ。天才たちは自由ブレーンを生き、凡庸な、いや凡庸未満の酔っ払いは監獄ブレーンに収容される... ってか。

2014-05-11

"宇宙創成(上/下)" Simon Singh 著

人類の知りたいという執念には驚くべきものがある。それは、自分自身を知るための旅だ。どこから来て、どこへ行くのか?これを問い続け、自己の棲家である宇宙の正体を知らずにはいられない。つまり、人類は自分が何者かも知らない。己を知る欲望こそ、科学の原動力である。古来、哲学者たちが夢見たことは、その数千年後、ポアンカレの語ったこの言葉で言い尽くされていよう。
「科学者が自然を研究するのは、それが役に立つからではない。科学者が自然を研究するのは、そのなかに喜びを感じるからであり、そこに喜びを感じるのはそれが美しいからである。もしも自然が美しくなかったなら、それは知るに値しないだろうし、もしも自然が知るに値しなかったら、命は生きるに値しなかったろう。もちろんここで私は五感を刺激する美、質と見かけの美について語っているのではない。そのような美の価値を低く見てはいない。それどころがそうした美を高く評価している。ただ、そのような美は、科学とは関係がないということだ。科学にかかわる美は、各部分が調和した秩序からもたらされ、純粋な知性によって把握されるような、より深い美なのである。」

世界中のあらゆる文化が、独自の宇宙創成モデルを作った。創造主という神話を。ビッグバンモデルが優れているのは、誰にでもイメージしやすいこと。案の定、カトリック教会は教義の後ろ盾とした。人間の客観性への憧れは、信仰への頑固さに劣らない。客観的に述べると宣言された有識者どもの主張が、客観的であったためしはない。無い物ねだりというやつか。アインシュタインは常識というものを激しく批判したという。「18歳までに身につけた偏見の寄せ集め」と...
慣習に培われた常識とやらに蝕まれていくと、やがて疑問すら持てなくなる。常識に囚われるということは、自発的な思考意欲を失ったと見るべきかもしれない。まずは自分が信じているお気に入りの仮定を捨ててみることだ。人間の思考において主観性が強いのは、自然の姿であろう。それを承知してこそ、思考結果を検証するための客観性の役割が見えてくる。物理学では、理論構築において論理思考が牽引し、実験結果によって実証されてきた。その過程で、理論の根拠にしようと自ら目論んだ実験が、結果的に反証してしまうこともある。いわば、自己否定に追い込まれるのだ。
マイケルソンは、エーテル説を実証しようとしたが、マイケルソンとモーリーの実験は反対の答えを証明してしまった。彼は、結果が容易に受け入れられず、こうもらしたとか。
「愛しいエーテルは打ち捨てられてしまったが、私は今も多少の愛着を感じている。」
ラザフォードは、J.J.トムソンが提唱した「プラムプディングモデル」、いわゆる、ぶどうパンモデルを実証しようとしたが、あっさりと覆された。
アインシュタインは、静止した永遠宇宙を信じて、せっかくの美しい重力場方程式に奇怪な宇宙定数を加えたがために、「人生最大の失敗」と言わしめた。
理論派は徹底的に論理にこだわり、実験派は徹底的に精度にこだわる。科学は、その互いの資質の相補作用によって成り立つ。本書は、理論派にケプラー、ルメートル、フリードマン、アインシュタインといった面々を、実験派にエラトステネス、ガリレオ、ハッブルといった面々を紹介しながら、宇宙論をめぐる科学史を外観してくれる。また、ガモフ、アルファー、ハーマンらのビッグバン宇宙論派と、ホイル、ゴールド、ボンディらの定常宇宙論派の論争もなかなかの見モノ。尚、表題は「ビッグバン宇宙論」から「宇宙創成」に改題される。
それにしても、神は究極の退屈しのぎを作ったものよ。ビッグバンという現象は、もしかしたら神の死を意味するのか?だとすれば、揉め事をこしらえ、不完全な遺産を残したことになる。なんと無責任なヤツか!
「創造主である巨人が死ななければならなかったことから、人間は永遠に苦労するように運命づけられた。」

ところで、「科学」や「科学者」という用語は、意外にも新しいらしい。
1834年、ヴィクトリア朝の博識家ウィリアム・ヒューエルが「scientist(科学者)」という造語を用いたのが初めだそうな。ラテン語で知識を意味する「scientia」に由来。それまでは、「natural philosopher(自然哲学者)」と呼ばれていたという。
確かに、哲学は主観によって牽引されてきた。いや、直観と言うべきか。アインシュタインが時空の概念を持ち出す百年も前、カントがア・プリオリな認識に時間と空間の二つを置いたことは、直観の偉大さを示している。そして、冷静な目としての論理性で補完しながら、熱狂や迷信に対する解毒剤としてきた。真理に近づくために主観性だけでは不十分だと知れば、悟性が客観性を求めるは必定。ヒューエルがどういう意図で、このような用語を持ちだしたかは知らんが、客観性を強調したことは想像に易い。
とはいえ、科学は自然との相性がすこぶるよく、哲学にしても人間の自然の姿に意義を求めるため、自然哲学という用語も捨てがたい。
そういえば、日本語の「科学」という用語も奇妙な漢字が当てられる。「科」を「学ぶ」とはすべての学科を含むニュアンスを与える。実際、人文科学、社会科学などの用語が編み出されてきた。現在では客観性という意味で用いられることが多いか。いずれにせよ、客観性のレベルは、数学のものとは比べものにならない。
「どんな科学分野でも、人が初心者であることをやめてその分野の達人となるには、自分は一生初心者のままだと知ったときである。」... ロビン・ジョージ・コリングウッド

1. アリストテレスの呪縛
神話という語は、物語を意味するギリシャ語の「ミュトス」に由来するそうな。他にも「権威ある言葉」という意味もあるとか。世界中の神話は、その社会で絶対的な真理を表してきた。神話は信仰や迷信と強く結びつき、これに疑問を呈する者はことごとく罰せられる。そんな時代が長く続いた後、紀元前6世紀頃、知識人たちは突如として様々な可能性を考えるようになったという。哲学者たちは、広く受け入れられていた神話的宇宙観を捨て、自分なりの説明を自然学の下で作り出す。
例えば、ミレトスのアナクシマンドロスは、地球の周りには火に満ちた環(わ)が回っていて、太陽はその環に開いた穴であるとしたという。月や星も同じように、天空に空いた穴であると。小学校の工作で見かけそうな手作りプラネタリウムの発想か。
コロポンのクセノパネスは、地球は可燃性のガスを放出していて、夜のうちに溜まり、臨界質量に達すると発火して太陽になると考えたという。ガスの玉が燃え尽きると再び夜が訪れ、後に火花として星々が残ると。月もまたガスが溜まっては燃えるという周期で動いていると。
本格的な合理主義運動は、紀元前540年頃のピュタゴラスに始まる。「万物は数である」という信仰だ。弦の長さを半分にすると1オクターブ高い音が生じ、元の音と調和することに気づくと、一弦琴を使って和音の理論を構築した。一般的に弦の長さを調整する時、元の弦に対して簡単な比になるようにすると、元の音と調和する。弦の長さを3対2にすると今日で言う5度の音程になり、複雑な比にすると不協和音になる。太陽も月も、星々も、すべての天体運動が数学で説明されると、天空の音楽理論が構築される。宇宙が数によって調和しているとなれば、人間社会におけるあらゆる運動が数学モデルで構築される。気象観測、市場予測、人口予測など。カオスを前にして、やや息切れ気味ではあるものの...
アリストテレスの時代、惑星のループ軌道がカオスに映ったことだろう。自己存在の大前提とされる大地が丸いというだけで、人々はまるで悪魔の世界であるかのように戸惑い、知性の崩壊から理性の崩壊を招いてきた。おまけに、地球は太陽の周りを回り、太陽系も銀河系も運動しているとなれば、黙殺せずにはいられない。
しかし、現代人はアリストテレスの世界観を本当に捨てきれているだろうか?リンゴが木から落ちるのを見て、自発的に落下しているのか?地球の重力に引き寄せられているのか?と問えば、相対的な解釈はどちらでも可能だ。ならば、自分は社会を生きているのか?社会に生かされているのか?を問うてみるがいい。人間ってやつは、何かを中心に置き、しかもそれに向かって運動していないと落ち着かないものらしい。そして、いくら客観的な知識を蓄えたところで、いくら神を崇めたところで、最終的に自分を中心に置くことになる。重い物体も軽い物体も同時に落下するって本当なのか?と問うてみても、たとえガリレオが正しいと知っていても、やっぱり酔いどれはアリストテレスの世界で生きている。その証拠に、アルコール濃度が重いほど肉体も精神も沈むのが速い!

2. 宗教から科学への回心
宗教が科学理論を支持したところで、なんの援護にもならない。証券アナリストが、ほら当たった!と自慢するのと同類か。
アリストテレスは、哲学的な考察から重い物体は軽い物体よりも速く落下すると論じた。ガリレオは実験によってその間違いを証明したが、アリストテレスは既に神聖化された人物。ガリレオには権威の反対を主張する勇気があった。望遠鏡によって測定精度という観点を、科学にもたらした貢献は大きい。ガリレオは異端審問でこう反論したという。
「聖書は天国への行き方を教えるものであって、天の仕組みを教えるものではありません。」
科学者には政治的に振る舞うのが苦手な人が多い。その功績は死後に称えられるケースも珍しくない。何かにつけて常識を持ち出し、道徳を持ち出し、その究極に神を持ち出すのは、無知を覆い隠す絶好の手段となろう。ベラルミーノ枢機卿はこう述べたという。
「地球が太陽のまわりを回ると主張することは、イエスは処女から生まれてはいないと主張するのと同様に誤りである。」
聖書の馬鹿馬鹿しい解釈のおかげで、その反発として科学的思考が生まれ、宇宙創成モデルの構築が始まった。ダーウィンの進化論が登場すれば、人類の歴史もすぐに覆される。マックス・プランクは、こう述べたという。
「重要な科学上の革新が、対立する陣営の意見を変えさせることで徐々に達成されるのは稀である。サウロがパウロになるようなことがそうそうあるわけではないのだ。現実に起こることは、対立する人々がしだいに死に絶え、成長しつつある次の世代が初めから新しい考え方に習熟することである。」
尚、サウロはキリスト教徒迫害者であったが、奇跡的な回心を遂げて使徒パウロという呼び名となった。

3. ビッグバン宇宙論への道
アインシュタインは、重力場方程式に宇宙定数を付け加えた。それ故に、一般相対性理論と静的で永遠宇宙という概念を両立させることができる。
対して、アレクサンドル・フリードマンは、重力場方程式の美しさのみに着目したために、宇宙に自由な形を与えた。特に重要なのは、宇宙定数がゼロの時の宇宙モデルで、動的に発展することが示されたこと。動的とは、激烈な崩壊によって終焉を迎えることを意味する。最初は膨張によって始まり、重力に対抗できるだけの勢いがある。そして、宇宙が重力に対抗する方法は、三つの可能性が考えられる。
第一の可能性は、宇宙の平均密度が高く、与えられた体積中に含まれている星の数が多い場合。星が多ければ重力の総和が大きくなり、やがて星が引き寄せられて膨張が止まる。宇宙は収縮に転じ、ついに完全に潰れる。
第二の可能性は、星の平均密度は低いものと仮定した場合。重力の総和が宇宙の膨張を押さえこむことなく、どこまでも膨張を続ける。
第三の可能性は、宇宙の密度は高くも低くもない場合。重力のために膨張速度は小さくなるが、膨張が完全に止まることはない。宇宙は収縮して一点になることもなければ、無限大に膨張することもない。
これらの中でどのパターンになるかは、宇宙が膨張を始めた時の速度と、宇宙に含まれる物質の総和で決まる。いずれにせよ、フリードマンが提示したのは、宇宙は変化するという発想だ。多くの物理学者が宇宙定数を歓迎し、一般相対性理論が固定観念になりつつある中、フリードマンはコペルニクス的な柔軟性を披露した。にもかかわらず、アインシュタインの方がはるかに名声が高い。37歳の若さで死んだこともあろうか。理論家の多くは狂信者として世を去っていく。エドウィン・ハッブルの観測によって宇宙の膨張が発見されると、高く評価されることになるが、死後のこと。
聖職者で宇宙論研究者のジョルジュ・ルメートルは、ビックバン・モデルをはじめて合理的に説明したという。彼は、放射性崩壊というプロセスを知っていたようだ。ウランなどの大きな原子が壊れて小さな原子になる時、粒子、放射線、エネルギーを放出する。まさに原子モデルを宇宙モデルと重ねた発想だ。そして、フリードマンより少し運が良かったようである。ハッブルが発見した大ニュースを耳にすることができたのだから。
「宇宙について無知であればあるほど、宇宙を説明するのは簡単だ。」... レオン・ブランシュヴィック

4. 宇宙論と望遠鏡
宇宙論の発展に望遠鏡の進化は欠かせない。パルサー(脈動星)の発見が、一般相対性理論が予言する重力波の存在を匂わせる。宇宙の灯台と言われるやつだ。
1700年代、ハーシェル(フリードリヒ・ヴィルヘルム・ヘルシェル)は、太陽系が天の川銀河という星団の集団に埋もれていることを示した。では、天の川銀河は宇宙で唯一の銀河なのか?あらゆる星雲は天の川銀河の内側にあるのか?外側にあるのか?シャルル・メシエは、星雲のカタログを作る。
1912年、ヘンリエッタ・リーヴィットは、ケフェウス型変光星、いわゆるセファイドを調べることで、距離を見積もることができることを示した。天文学者は宇宙を測定するための物差しを手に入れた。セファイドは、安定した平衡状態にはなく状態が揺れ動く。圧縮と膨張を繰り返す風船のような。この発見だけでも、宇宙の膨張と収縮を予感させる。北極星も代表的なセファイドで、天空に同じ位置にありながら明るさが変化する。
1923年、ハッブルは、アンドロメダ星雲内のケフェウス型変光星を見つけ、天の川銀河の遥か遠くにあることを示した。ほとんどの星雲が天の川銀河とは別物で、宇宙は銀河に満ちていた。
原子は決まった波長の光を放出したり吸収したりするので、分光学によって星の光を調べれば星が何でできているかが分かる。ハギンズ夫妻は、星の光の波長がわずかにずれていることを観測する。それはドップラー効果によって説明できる。銀河の大半は、天の川銀河から赤方偏移を示すことが観測された。ハッブルの法則は、銀河の距離と速度の関係を示す。それは、宇宙の膨張を予感させるだけでなく、なんらかの出発点があったことを予感させる。聖書は正しかった!と叫んで飲み明かした宗教家も少なくなかったろう。

5. 原子モデルと核反応
ルメートルは、宇宙の始まりは、極めて小さく有限な状態を持った原初の原子が平衡を失って、放出した結果だとした。フリードマンはちと違う。宇宙は原初の原子から始まったのではなく、一点から始まったとした。ゼロからの創成ならば、時間も空間も有限ということか?完全なる神が消滅するとなれば、宗教家にとっては由々しき問題!
ビッグバンモデルを受け入れるには、科学的にも無視できない問題がある。豊富に存在する物質もあれば、稀にしか存在しない物質もあるのはなぜか?物体が均等に存在しないのはなぜか?宇宙は大きくて重い元素ではなく、小さくて軽い元素で占められている。元素の存在率は、水素の90% 、ヘリウムの0.9%。ここから原子を理解しようという試みが始まる
アーネスト・ラザフォードは、ラジウム原子にアルファ粒子を衝突させる実験から、一つの原子核と多数の電子からなる原子モデルを提唱した。原子核は、陽子と電荷を持たない中性子で構成され、しかも原子に対して驚異的に小さい。陽子と電子の数は、原子の種類を決める重要な指標で原子番号とされる。
水素とヘリウムは、小さくて軽い方から二つの元素。陽子と電子をやりとりすることによって、他の原子に変わる。これが放射の背後にあるメカニズムである。ラジウムのような重い原子の原子核は非常に大きく、88個の陽子と138個の中性子を含んでいる。このような大きな原子核は不安定であることが多く、より小さな原子核の状態に移ろうとする。ラジウムの場合、2個の陽子と2個の中性子をアルファ粒子として吐き出し、86個の陽子と136個の中性子を含むラドンに変わる。アルファ粒子とは、ヘリウム原子核の別名だ。大きな原子核が小さな原子核に分かれるプロセスが核分裂である。逆に、水素のような軽い原子と中性子を核融合させれば、ヘリウム原子核に変わる。
水素は比較的安定しているので核反応は自発的に起こらないが、高温高圧などの適切な条件下で起こる可能性がある。水素が核融合してヘリウムになるメリットは、ヘリウムの方がより安定しているからだという。そのエネルギーは、どこから来るのか?それがアインシュタインのあの有名な公式で、エネルギーと質量の等価性が示される。安定した原子状態ほど、核反応が生じた時のエネルギーは莫大なものとなる。水素の核融合爆弾は、プルトニウムの核分裂爆弾よりも、いっそう破壊的というわけだ。核反応の研究が、水素とヘリウムの存在比率に矛盾することなく、ビッグバンモデルを裏付ける。
では、既に宇宙が存在する中で、ビッグバン級の核反応が発生したらどうなるだろうか?宇宙は階層構造となるのか?あるいは、宇宙は破壊されるのか?時間と空間の始まりを宇宙創成、すなわちビッグバンに求めるならば、自由意志の正体とは、空間を自由に泳いでいた原初時代の自由電子の名残であろうか?人間のあらゆる細胞は原子で構成され、当然ながらそこには原子核に捕まった電子がいる。電子の中には、DNAよりも微小な記憶素子が埋め込まれているのだろうか?いずれにせよ、安定志向が強いほど改革は難しく、それだけ大きなエネルギーが必要となるのは道理であろう...

6. 宇宙マイクロ波背景放射とゆらぎ
宇宙マイクロ波背景放射(CMB放射)とは、全天空からほぼ等方的に観測されるマイクロ波である。ビッグバン後に、宇宙の温度が下がって電子と陽子が結合して水素原子を生成し、宇宙が放射に対して透明になった時代のスナップショットと考えられている。宇宙の晴れ上がりの時期の名残か。
密度のゆらぎは、あらゆる現象で見られる。人間社会にも過密と過疎が生じるように、CMB放射にもゆらぎがあるらしい。宇宙初期に生じたゆらぎだとすれば興味深い。COBEチーム(宇宙背景放射探査機)は、ゆらぎの検出に没頭する。ビッグバンから1秒のうちに超高温だった宇宙は膨張して急激に冷え、温度は数兆度から数十億度にまで下がる。その頃、主として陽子と中性子と電子からなり、すべては光の海に浸されていた。それから数分のうちに、水素原子である陽子は他の粒子と反応して、ヘリウムなどの軽い原子核を形成する。最初の数分で、宇宙に存在する水素とヘリウムの比率がほぼ決定されたという。宇宙は、その後も膨張を続け、冷え続ける。この頃の宇宙は、簡単な原子核と、エネルギッシュに飛び回る電子と、膨大な光が存在し、それらがぶつかり合って、跳ね飛ばされる。約30万年が経過すると、温度が十分に下がり、電子の速度が落ちて原子核に捕まり、原子が形成されたという。これ以降、光はほぼ何にも邪魔されず、宇宙をまっすぐ突き進むようになったとか。この光こそが、ガモフ、アルファー、ハーマンらによって予測された宇宙マイクロ波背景放射というわけか。これは、光によるビッグバンのこだまだという。宇宙が平坦でないのも、ビッグバンから30万年後の密度のゆらぎによるものらしい。
1979年、アラン・グースはインフレーション理論を提唱した。宇宙は、一定に膨張してきたのではなく、インフレーション期に一気に膨張し、やがて膨張速度が衰えたというもの。インフレーション期には、ゆらぎも大きかったことだろう。では、やがて膨張は止まるのか?そして、収縮に転じるのか?
まぁ、宇宙からやってくる電磁波の研究もいいが、逆に何を放射しているかということには、科学者はあまり気にしないようだ。地球外生命体から見れば、地球ってやつは惑星のくせしやがって、様々な電波を放出するだけでなく、衛星という宇宙ゴミをまき散らす奇妙な天体に映っているかもしれん。到底自然界では説明のつかない悪魔の棲家にでも...

7. 暗黒物質と暗黒エネルギー
近年の観測によると、銀河の周辺部にある星は非常に大きな速度で運動しており、銀河内部にあるすべての星々の重力を合わせても、銀河の形をつなぎとめるには足りないことが示された。そこで、膨大な量の暗黒物質、すなわち光を出さない重力子のようなものがあり、星たちの軌道をつなぎとめているという説がある。
この物質の天体からの候補は、MACHO(Massive Astrophysical Compact Halo Object)というカテゴリーがあり、ブラックホール、小惑星、巨大な木星型惑星などが分類される。素粒子からの候補では、WIMP(weakly interacting massive particles)というカテゴリーの粒子が想定されている。
1990年代末、宇宙の膨張速度は減速どころか加速を続け、自爆しようとしているという説が検討される。宇宙を膨張に駆り立てているものとは何か?それが暗黒エネルギーってやつか?実は、暗黒物質ってやつが、古くから噂されてきたエーテルってことはないのだろうか?
ビッグバンを仮定すれば、ビッグクランチを想像することも難しくない。あるいは、その間を揺らぐビッグバウンスを繰り返しているのか?いずれにせよ、いまだ人類は宇宙の正体のほとんどを知らないでいる。分からないことがあり続けるということは、幸せなのかもしれない。ビッグバン以前にはどうなっていたのか?この問いに対する神学版とも言うべき答えで、聖アウグスティヌスの言葉を引き合いに出すと...
「神は天地創造以前に何をしていたのか?神は天地創造以前に、そういう質問をするあなたのような人間のために、地獄を作っておられたのだ。」

2014-05-04

AL-Mail とお別れ... 秀丸君よろしく!

GW連休をきっかけに、ようやく踏ん切りがついた。二十年近く付き合ってきた AL-Mail とお別れすることを。今頃なにをやってんだか... 引退間際の古代人は、夜の社交場でも未練がましい!

履歴を調べると、ユーザ登録をしたのが1996年。16bit版から使ってきたわけだ。2006年からアップデートされていないが、Win7(64bit版)上でも動くし、不具合はプラグインでごまかしごまかし、それほど不都合を感じていない。ただ、時代遅れであることは間違いなく、何年も前から乗り換えを考えてきた。とはいえ、メーラは基幹ソフトの一つで、データベース代りにも使ってきただけに、それなりに思い入れがある。
AL-Mail の良さは、基本構造が単純で、プラグインによる拡張性が高いこと。ユーザ側に好きなように拡張させる思想が好きなのだ。スレッド機能、複数アカウントの制御、Secure Tunnel などはプラグインで追加できるし、セキュリティソフトやスパムフィルタなど外部プログラムとの連携で困ったことがない、いや記憶にない。起動オプションがあるので、コマンド制御もできる。ファイル構成がシンプルなために、バックアップスクリプトが書きやすく、他のマシンへの移植も容易。しかも、データ管理がテキスト形式であるため、どんなエディタでも開くことができ、復旧作業で最悪を回避できる。なによりもトラブルに強い点が手放したくない理由であった。ちなみに、拡張性においては、emacs のマクロ機能と比ぶべくもないが、手軽さでは遥かに AL-Mail の方がいい。
さて、次は何にしよう?天の邪鬼な性格は変えようがなく、MS系を避ける方針に変わりはない...

1. メーラの選定
メジャーなのは、Thunderbird あたりか。まず、こいつを試してみると、機能はまったく問題ないが、ちと重い!やはりメーラには軽快感がほしい。
次に、Becky! を試してみると、シェアウェアってのが気になるが、重要なソフトだけに少しぐらいお金を払ってもいい。操作性もよく、軽快、これで決まり!と思っていたら...
ついでに秀丸メールを試してみると、データ管理がバイナリ形式になるのは時流であろうと諦めていたところ、こいつはテキスト形式でやんの。ファイル構成もシンプルで、むしろ、AL-Mail よりいい。機能性も高く、複数アカウントとの相性もいい。おまけに、シェアウェアだが、秀丸エディタのライセンスを持っているので無料で使える。
てなわけで、秀丸君、今後ともよろしく!

2. 秀丸メールへの移行作業
AL-Mail からの移行には、三つのマクロが公開されている。

  データ用: hmml_import_alml_104.lzh
  アドレス帳用: cnvadr_alml2hmml_104.lzh
  振り分け設定用: cnvflt_al2hmml_100.lzh

データはアカウント別に変換するようで、仕掛けが分からず二度ほど失敗するが、分かっちまえば問題なく終わる。アドレス帳では階層エラーが発生した。ただ、AL-Mail のアドレス帳は、Group... End Group キーワードという単純な構成で、自前で csv変換プログラム(数行)を書いて、インポートしておしまい。後で気づいた事だけど、秀丸メール側は、G1/G2... という単純なキーワードで構成されるので、エディタ上で置換した方が早そう。
また、テンプレートとシグネチャには、以下のファイルがアカウント別に生成される。この構成は、AL-Mail よりもいい。尚、拡張子が .bin でも中身はテキストで、アカウント情報(account.bin)などはバイナリ。

  新規用: t_newmail.bin
  返信用: t_reply.bin
  転送用: t_forward.bin
  シグネチャ: sign.bin

複数アカウントにおける POP/SMTP over SSL の管理も楽。POPFile との連携も問題なし。尚、秀丸メール内蔵の迷惑フィルタを使ってみる手もあるが、単語群をせっかく育ててきたので、POPFile をそのまま使う。
また、64bit版には注意事項があるので、当初、32bit版をインストールしていた。でも、アプリケーションはなるべく 64bit版で揃えたく、インストールし直すと、ホームディレクトリを指定するだけでデータは継承できる。当たり前だろうけど。

結局、移行作業で問題になった点は特になし!作業には、1日かかると見ていたが、1時間もかからなかった。
てなわけで、もっと早くやりゃよかった!と思う今日このごろであった...