2012-02-26

"電撃戦 グデーリアン回想録(上/下)" Heinz Guderian 著

「Blitzkrieg(電撃戦)」の創始者といえば、ハインツ・グデーリアン。ただ、名付け親ではないようだ。ドイツ国の戦争資源の乏しさから即戦即決が必然であり、その猛進撃を敵側がこのように称したのであろうと、他人事のように回想している。ちなみに、理論そのものは古くからあるそうな。技術畑にいたことが、このような戦術を編み出す事に役だったという。本書は、ドイツ参謀本部の内側から見た回想録である。
全般的に淡々と綴られるが、情報量が多くて読むのも大変!軍事の素人には専門的で難しいところも多い。それでも、論理的に解説されるので、じっくり読めばなんとかなる。かなりこってりした書物だが、わりと好きなのだ。兵器の解説では理論的に、人物像では冷静に語られるものの、たまーに見せる感情的なところもなかなかいい。お偉いさんと議論する場面はなかなかの迫力もの。小説家も顔負けか。技術進歩への献身ぶりには職人気質を感じるし、なによりもプロフェッショナルの香りがする。
注文をつけるなら、付録の地図がもっと詳しくてもいいかなぁ。グルグルEarthで、地形情報と睨めっこしながら読み進める。まるで司令官にでもなった気分!これが電子書籍だとおもしろい可能性が見えてくる。そぅ、文章と立体マップの融合だ。

軍人というのは、古い伝統を精神の拠り所にするところがあるという。伝統を精神的に尊重するのではなく、成功例として真似するだけだそうな。しかし、ほとんどの分野でそういう傾向にあるだろう。安全志向というのは、人間の基本的な思考原理である。ましてや戦争ともなると失敗は許されない。新たな技術や戦術を取り入れるにしても一つの賭け。だが、硬直化した思考では、時代の変化に対処できないのも事実。グデーリアンは新たな戦術を導入するために陸軍司令部で奮闘する。そして、真っ先に理解を示したのがヒトラーだった。彼もまた、軍部の保守的な体質に我慢がならなかったのだ。そして、装甲部隊を中心に無線技術と爆撃機を組み合わせた三次元戦術を実現する。
しかし、ヒトラーの第六感に頼る戦略に軍部全体が振り回され、反対意見をする将校たちは次々に解任されていく。グデーリアンも例外ではなかった。バルバロッサ作戦での優柔不断さを直訴し、越冬を具申すれば罷免される。再びヒトラーから要請を受けて装甲兵総監として現役復帰するが、時すでに遅し。一年以上にも及ぶ非役期間(1941.12.26 - 1943.3.1)に、スターリングラード敗北、連合国北アフリカ上陸など、東西から反撃が始まろうかという最も重要な時期に不在だったことになる。復帰後も東部戦線の戦略をめぐってしばしば対立し、ツィタデレ作戦の失敗で敗戦は決定的なものとなる。後に連合軍を恐れさせるティーゲル戦車とパンテル戦車の登場に尽力したものの、ヒトラーがおもちゃのごとく扱い、まだ不備な状態で投入したために大打撃を受ける。戦争初期においてヒトラーの前線視察も頻繁に行われていたが、だんだん前線から遠ざかっていき、最後の1、2年はまるで姿を見せない。そして、皮肉なことに前線の方から近づいてくるのであった。不利な情報にまったく耳を貸そうとしないヒトラーと、あわや殴り合いになるかと思わせるほどの激しい議論が展開され、ついに解任。
それにしても、狂った爺さんに付き合う律儀さには感心させられる。実直にものを言う性格が、しばしば出世欲の強い将校たちの反感を買う。ギュンター・フォン・クルーゲ元帥とは決闘話まで持ち上がる。典型的なプロイセン軍人像といったところか。普通の人ならとっくに見切りをつけるだろうが、それでは軍人として国家に対する使命を放棄したことになる。さすがに自ら解任を申し出たところもあるけど。グデーリアンは、ヒトラーに仕えたのではなく国家に仕えたのだった。
「軍国主義とは、いたずらに軍隊の形式論をもてあそんだり、軍人の大言壮語や行き過ぎた軍人精神を市民生活に導入しようとすることしか考えていない。もとより真の軍人ならばそんなものは排斥する。軍人こそ戦争の恐ろしい結果を本当に知るものであって、だからこそ人間として戦争を否定するのであり、名誉心にかられての侵略や武力政策の思想は、およそ軍人とは縁遠いものなのである。」

1. ドイツ参謀本部と政治観
ドイツ参謀本部は、ナポレオン戦争でプロイセン軍を指導したシャルンホルストと、その後任グナイゼナウによって創設された。その頃、クラウゼヴィッツの「戦争論」が出版される。この書は、戦争を政治の手段としたことから多くの批判に曝されるが、戦争哲学の最初の試みであった。ドイツ参謀本部は、この3人によって精神の支柱を成すという。そして、彼らの最高の遺児が大モルトケ元帥ということになる。
ここで注目したいのは、グデーリアンの目は外交や政治体制にも向けられていることである。ドイツの地理的事情からして、参謀本部は多面戦争の研究にならざるを得ない。ところが、旧参謀本部の作戦思想はもっぱら大陸に向けられ、航空兵器の発達による海洋を隔てた武力介入をほとんど考慮しなかったという。
近代戦ともなれば、地球の裏側まで軍隊を派遣することも珍しくない。ますます地理的影響は小さくなるだろう。軍司令官の未来像は、国際政治、あるいは地球規模の自然観までも視野を広げなければならない。現在、シビリアンコントロールが叫ばれる中、軍事のド素人が国防大臣になるという矛盾がある。近代兵器の破壊力は一瞬にして一国を滅ぼしてしまうほどで、生半可な世界観や決断力では務まらないにもかかわらずだ。政治の目的が、国民主権と基本的人権を最高に重んじるためだとするならば、人格と政治観の双方で優秀である必要があろう。だが、人物の評価では、人格よりも知能の方が優先される傾向がある。人格の優秀さを見抜けるほどの鑑識眼を持った人は稀であろうから。したがって、政治家はその場限りの知識をひけらかし、下手すると人格はまったく評価されない。そして、政治の舞台は天才演説家の独壇場となる。フランス革命後の共和政が恐怖政治と化すと、ナポレオンを登場させた。第一次大戦後、ワイマール共和制では対処できないほどの莫大な賠償金が国民を疲弊させると、ヒトラーの登場を見た。いずれも民主的な制度の元で独裁者を呼び込んだ結果である。経済的困窮に追い込まれると、国民は強烈な指導力を待ち望む。民主主義の暴走は、独裁政権と同じくらい危険であることを肝に銘ずるべきであろう。

2. 官僚的戦略と二重体制
なぜ、陸軍総司令部とヒトラーの仲は悪いのか?ヒトラーはドイツ参謀本部を解体しろ!とまで言っている。その性格は、政治体制にもうかがえる。もともとドイツは連邦制であったはず。ナチ党は党管区によって行政区分を設け、当初は連邦制と党管区の二重行政だったようだ。国の隅々に渡ってナチ党化を図ろうと目論んでいたわけだが、互いに反目しあうと無政府状態に陥りかねない。
同じような二重構造が軍部にも見られる。それは武装親衛隊の設立で、国防軍の外にヒムラー管轄の陸軍が存在することになる。親衛隊は、一般親衛隊と武装親衛隊に区別されるという。名称からすると後者の方がおっかないように思えるが、実はそうではないらしい。武装親衛隊は優秀な戦闘部隊で、国防軍と協力する立場にある。だが、最新鋭の武器が優先して提供されることから疎まれる。それでも終戦間近では戦友意識があったという。一方、一般親衛隊は、役所的に裏仕事をこなす陰険な組織である。強制収容所などの重大犯罪を犯したのも彼ら。その残虐性から、しばしば武装親衛隊も一緒にされて罪を問われたという。
ヒトラーは、前大戦で塹壕戦を経験したことから奇妙にも天才軍略家だと自負し、従順しない陸軍参謀本部を毛嫌いしていた。そして、武装親衛隊に陸軍を組み込もうとする。ヒトラーもヒムラーも軍事の素人だけど。陸軍総司令部は、ヒトラーの口出しでことごとく窮地に追い込まれ、その都度責任をとらされる。
1938年、ブロンベルク罷免事件は、軍の高級将校の一群が、ばっさりと罷免された陰謀事件。ヴェルナー・フォン・ブロンベルク元帥が、売春婦と再婚したとして国防大臣を辞任。陸軍総司令官ヴェルナー・フォン・フリッチュが同性愛の容疑で罷免。いずれもヒトラーの外交政策に反対した将軍である。
1941年、その後任だった陸軍総司令官ヴァルター・フォン・ブラウヒッチュ元帥もバルバロッサ作戦中に罷免。グデーリアンを後押ししたオスヴァルト・ルッツ大将も罷免。以降ヒトラーが兼務し、事実上陸軍総司令部は存在しない。せめて、国防軍総司令部総長カイテルと国防軍統帥部長ヨードルの二人が、ヒトラーに対して違った態度をとっていれば、ドイツ軍はこれほど汚点を残すことはなかっただろうという。この腰巾着どもが悪名高い「コミサール命令」を発っせさせたと。ソ連の政治委員(コミサール)を軍人とみなさず、捕虜にしたら即座に射殺せよ!という命令。しかし、そうだろうか?別の飼い犬を見つけるだけのことではないのか?
一方、側近の中でもシュペーアは自分の意見を述べる勇気を持っていて、早くから戦争に勝てないことを忠告していたという。それにしても、ボルマンの悪評は凄まじい。総統に面会するにはこの秘書を通さなければならないが、その苛立ちを隠せない。シュペーアの回想録にもあったが、最悪の癌はヒトラーが最も信頼したボルマンというのも皮肉だ。そして、総統直属の司令部が分散し、権限の奪い合いで政治的陰謀が渦巻く有様。最も官僚体質を嫌っていたはずのヒトラーが、独善主義によって巨大官僚体制を完成させたわけだ。

3. 装甲部隊と電撃戦理論
ヴェルサイユ条約によってドイツの装甲車両は制限され、理論研究ではイギリスやフランスの方がはるかに進んでいたらしい。1922年頃、ジョン・フレデリック・チャールズ・フラー、リデル・ハート、マーテルらの書物を研究したという。尚、本書の訳では、連合軍側を機甲、ドイツ側を装甲と呼んでいるが、現代感覚とちょっと違うようだ。
当初、グデーリアンは戦車の知識がまるでなく、内部構造も見たことがなかったという。装甲車両と機械技術、それに航空部隊を加えた集合戦略論の研究を進めるが、周囲の反応は冷たい。過去の戦争における機動力といえば騎兵隊が中心である。古参将軍たちは、自動車の使い道は輸送ぐらいにしか考えていない。舗装された道路しか使えないからだ。装甲車両に至っては、前大戦における戦車の速度があまりに遅かったので、機動性というイメージが持てない。だが、1920年代、各国は戦車の研究に余念がなく急激に進歩した。装甲部隊の研究では国防省の理解がなかなか得られず、退役に追い込まれた将軍たちもいる。そんな時期に台頭してきたのがヒトラーで、自動車税の撤廃とアウトバーンの建設を国民に約束し、装甲兵種に強い関心を持ったという。グデーリアンは、斬新的な意見を受け入れる度量を好意的に見ている。
電撃戦の要めは、装甲と機動と火力の融合だとしている。そして、戦車部隊が単独で行動しても効果は薄く、歩兵や自動車やオートバイ隊などと行動を一体化しなければならないという。
「装甲兵器による攻撃によって従来よりも機動性が高まり最初の突破が成功した暁に、なおその機動を継続することが可能なこと、この点こそ、"奇襲戦法"の必須条件だと信じているのである。」
装甲部隊の成否の鍵は、機動がスムーズに継続できるかということ。それには、三つの重要な条件を挙げている。「適当な地形」、「奇襲」、「集結使用」。装甲があるからには、銃弾に対する防御は万全なので、前進するのは簡単。だが、対戦車砲や車両搭載火砲に対しては不安がある。一旦、前進が始まると止められないが、止められた時の脆さもある。地上戦において、戦車隊を止めることができるのは、その火力を上回る戦車隊だけだという。そして、兵器の優劣で戦局は決まり、兵器に技術を結集しなければならないと力説する。兵器開発こそ、戦争に勝つ手段だと。よって、奇襲の脅威を感じて各地点に応急的な火力を準備しても、ほとんど役に立たないという。

4. 西方戦役と奇怪な現象
1940年までの作戦はかなり制約されていて、機動的戦術に頼らざるを得なかったという。独ソ不可侵条約でポーランドは分割され、ひとまず東部戦線は落ち着くが、ヒトラーのソ連に対する敵意は根深い。
さて、次は西方へ。陸軍司令部は「黄色計画」を採用しようとしていた。これは「シュリーフェン計画」の踏襲だったという。シュリーフェン計画とは、1914年に失敗したとされる作戦。
そんな時、メヘレン事件発生。ベルギー領メヘレンに不時着した将校二人が持っていた機密書類に「第一次黄色計画」が含まれていた。二人は欠席裁判で死刑を宣告され、家族も幽閉される。だが、帰国すると二人は無罪になるという奇怪。そもそも、将校たちはミュンスターからケルンへ行く予定で、直線距離で150キロをわざわざ飛行機を使ったのはなぜか?参謀将校は機密書類を持って飛行機に乗ってはならない、という厳重な規則を破ってまで。連合軍を欺くための策謀だったのかもしれない。もともとヒトラーは陸軍司令部の作戦が気に入らなかったようだ。
そこで、計画を頓挫させて「マンシュタイン計画」が検討される。セダン付近のマジノ線に向かって進撃し、築城地帯を正面突破するという装甲部隊にとってはうってつけの作戦だ。尚、マンシュタイン元帥のような有能な軍人を側近に置きながら、使い切れないことが残念だと嘆いている。彼は、卓越した軍事能力を持ち、深慮遠謀、冷静な判断力を備えたドイツ軍最高の作戦頭脳だと評している。グデーリアンは、カイテルの代わりにマンシュタインを国防軍幕僚長に登用するように幾度となく具申している。
当時の戦車の保有数は、英仏がドイツに対して2倍だったという。装甲と火砲口径もフランス軍の方が優れていた。しかも、世界最強の防御線と言われたマジノ線がある。だが、マジノ線の築城から兵力の配置までよく観察していたので、弱点は把握している。
それにしても、ドイツ軍がポーランドで釘付けになっている間に、フランス軍はなぜドイツを攻めなかったのか?マジノ線に自信を持っていたのか?戦争は回避できると楽観視していたのだろうけど。ドイツ軍はマジノ線をあっさりと突破し海峡まで進撃したが、フランスが攻撃していたらどうなっていたかは分からないという。ほとんど奇跡だったと。しかし、今度はヒトラーが進撃中止命令を出す。ダンケルクの奇跡だ。イギリス軍が大小あらゆる艦船を利用して海岸要塞から立ち去るのを、ただ手をこまねいて見送るだけ。イギリスとの講和条約を結ぼうとしたのだろうが、むしろダンケルクで止めを指すことが和平交渉の近道であり、交渉が決裂したとしても英国本土侵攻の足がかりになったと指摘している。双方とも戦争の拡大は歓迎しなかったのだろうけど、初期段階の西部戦線は奇怪な現象が多い。

5. バルバロッサ作戦で右往左往
ソ連は、独ソ不可侵条約に乗じて、バルト三国を併合、フィンランド攻撃、ルーマニアからサラヴィアの割譲を要求。ルーマニアがソ連に落ちるぐらいなら独立を認める。ドイツにとってルーマニアのプロエシュチ油田は生命線である。
更に、ムッソリーニが単独でギリシャに戦争を仕掛けた。この軽率さにヒトラーは激怒したという。ソ連侵攻を計画していたが、余分な兵力をバルカン半島に回す必要があるからだ。かつて、ヒトラーは1914年の作戦を批判していたという。つまり、東西の二正面戦争は間違いであったことを。そのヒトラー自身がバルバロッサ作戦を決行しようとしている。作戦名は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の渾名「バルバロッサ(赤髭)」に由来。ヒトラーは、イギリスを打倒できぬ今、まずヨーロッパ大陸において決定的な勝利が必要であると熱弁し、8週から10週間で制圧できると豪語する。ナポレオンしかり、ヴィルヘルム2世しかり、ヒトラーしかり。彼らは「不可能」という文字を辞書から抹殺したかったようだ。
おもしろいことに、1941年春、ヒトラーはソ連の視察団を招き、戦車工場と最新鋭の4号戦車を見せたという。兵力で圧倒していることを見せつけたかったようだが、視察団は最新式戦車を隠していると不満を漏らし質問を浴びせたという。あまりにもしつこい質問に、ソ連ではもっと重量のある戦車が開発されているのではないか、と訝ったという。その年の7月には、最新鋭T-34戦車がお目見えすることになるのだけど。
さて、ムッソリーニのおかげで、作戦は1941年5月15日から6月22日に延期された。ヒトラーは、その場の思いつきで兵器生産や戦略を命令する傾向があるという。この作戦も例外ではなく、目標すらはっきりしない。グデーリアン上級大将率いる第2装甲集団とホート上級大将率いる第3装甲集団の進撃が始まる。ミンスクは6日で陥落。早くもスモレンスクに向かう途中、ドニェプル川を渡河するあたりでクルーゲ元帥と作戦面で衝突する。
7月、スモレンスクを攻略。そのままモスクワへ向かうのかと思えば、ヒトラーはゴメリを包囲せよと命令。すなわち、キエフ方面への進撃でモスクワとは反対方向。このあたりから、広大なロシアを数百キロに渡って右往左往が始まる。グデーリアンをはじめとする将校たちは、モスクワこそ主戦場だと主張する。対して、ヒトラーはウクライナの資源と食糧、あるいはクリミア半島の油田が重要だと主張する。それも一理あるが、ならば最初から進撃ルートを考えろよ!と現場は言いたくなるだろう。レニングラードからウクライナまで1200キロにも及ぶ戦線拡大は、あまりにも無計画。装甲部隊の分散は電撃戦理論にも反する。
9月、キエフ攻略。必然的に冬季戦を覚悟しなければならない。10月初旬、初雪。オリョルとブリヤンスクを攻略。第6軍はハリコフへ。ムツェンスクでは、T-34型戦車の優秀さを初めて味あわされたという。10月下旬、ウィヤジマ = ブリヤンスク二重包囲作戦で戦果をあげる。いよいよモスクワの南門トゥーラへの進撃だが、道路は戦車の連続通過に耐えられない。しかも、ソ連軍が退却の際、あらゆる橋を爆破し地雷原を設置していた。11月になると気温は零下22度の厳寒。おまけに燃料不足。そして、シベリア部隊が出現。とうとうドイツ軍の進撃が止まる。12月になると気温は零下50度という想像を絶する寒気が襲う。グデーリアンは総統本営へ飛び直談判する。軍人が命をかけるとは、それだけの意義があってこそであって、どんな専制君主であろうとも、目的に釣り合わない犠牲を強いることはできない...といったことを陳述。対するヒトラーの答えは...物事を広く見よ!目先の兵士の苦しみに惑わされるな!防寒具不足、補給不足といった簡単な問題ですら、ヒトラーに理解させるのは困難。実際、ゲッペルスが国民から防寒具を集めるキャンペーンを実施していたが、前線には物が届かない。とうとう、第一線の将校たちを国防総司令部や陸軍総司令部の参謀将校と交替させてはどうかと提案する。そして、罷免された。
やがてスターリングラードまで戦線を拡大することになるが、スターリンの街という名前に釣られたかどうかは知らん。ところで、冬季の進撃を中止して、越冬を計画していたらどうなっていただろうか?

6. 装甲兵総監に任命される
ヒトラーは、複雑な装備で多機能な戦車を好むという。T-34のコンパクトな設計とは真逆の発想か。製作段階で絶えず変更が命じられたので、雑多な形式の戦車が多く生産されることになる。製造工程も複雑化する。しかも、多くの補充部品がつけられたために、野外での戦車修理がほとんど不可能になったという。ただ、ティーゲル戦車に関しては、低伸弾道の88mm長カノン砲の有効性を主張したりと、鋭い意見もある。やがて装甲戦略が行き詰まると、誰かは知らんが、グデーリアンが戦前にあらわした著書をヒトラーの机の上に置いたという。1943年、退役中のグデーリアンが呼ばれることに。ちょうど、スターリングラードで大敗した頃。
任命されるにあたり、条件を提示している。無益な権力争いに懲りて、装甲部隊を参謀総長や補充軍司令官の指揮下におかず、総統直属にすることを要求。更に、陸軍総司令兵器局と軍需大臣に対する指導権を要求。そして、ティーゲルとパンテルの増産に奮闘する。
ヒトラーは、グスタフ列車砲のデモでわくわくしたとか。巨大80cm口径だが、装填に45分かかるのに、戦車に太刀打ちできる道理がない。実用性のない巨大おもちゃの好きな爺さん!この時期、ヒトラーはすっかり老けこんでいて、しっかりした足取りではなく、言葉も吃りがちで、左手が絶えず震えていたという。戦後、収容所で会った医師たちの話によると、興奮性麻痺症またはパーキンソン病だったとか。

7. ツィタデレ(城塞)作戦と東部戦線の崩壊
1943年、マンシュタイン元帥がハリコフ奪還で成功すると、クルスクあたりにソ連軍の突出部が生じた。ツィタデレ作戦は、陸軍総司令部参謀長クルト・ツァイツラーの発議によるもので、この突出部を奪還して東部戦線を安定させようというもの。しかし、グデーリアンは今更クルスクにこだわる必要はないと主張する。むしろ東部戦線は縮小すべきで、西側の上陸作戦に備えるべきだと。マンシュタインも同調するが、カイテル元帥とクルーゲ元帥は、ティーゲルとパンテルがあれば圧倒できると主張する。パンテル隊は新製品にありがちな様々な問題点を露呈し、実践投入はまだ早いと反対したが、押し切られる。おまけに、ティーゲルは携行の砲兵弾薬や機関銃装備がないため接近戦で弱点を露呈し、カノン砲で雀を撃たなければならない有様。この敗北で完全に主導権はソ連側に移る。
1943年の暮、ヒトラーは我を忘れたように、歩兵師団に充分な対戦車装備を与えなかったことを後悔したという。
「君の予言は正しかった。君は九ヶ月も前にこのことを私に具申してくれていたのに、私が決を下さなかったのはなんとしても残念千万だ」
ようやくヤークトティーゲル(重駆逐戦車)、ケーニヒスティーゲル(王虎)がお目見えするが、いかんせん遅すぎた。ヒトラーが反撃を決意する時は、きまって充分な兵力を集めずに衝動的に始めてしまう。これが悪い癖だと指摘している。

8. 大西洋防壁の崩壊
大西洋防壁は、ロンメルの貢献が大きいという。海岸線を主戦闘線とみなし水中障害物を設置し、後方地域には敵空挺部隊の降下に備えて「ロンメルのアスパラガス」と呼ばれる障害杭を設け、広範に地雷を敷設する。ロンメルは、公明正大にして正直な性格であるばかりでなく、勇敢な軍人、偉大な指揮官で、最も共感しあったという。1942年9月、彼が病気で本国に帰還した時、罷免されたのを知っていながらグデーリアンを代役に推薦したという。しかし、拒否されたのは幸運だった。その後エル・アラメインは崩壊し、ロンメルでさえ阻止できなかっただろうから。ただ、対上陸作戦に関しては、二人の意見は食い違っている。ロンメルは、機動反撃は不可能だとし、試みようともしなかったという。上陸地点もソンム河口北方と決めていたという。カレー近辺という点ではヒトラーと同じ意見だったようだ。
そして、Dデー。ロンメルはヒトラーへの報告のために旅行中。ヒトラーは習慣として就床が遅く、第一報が届いても、睡眠を妨げるわけにはいかない。ヨードルが作戦指導を代行するはずだったが、国防予備軍をつぎこむ決心がつかない。第21装甲師団は上陸地点の正面にいたが、ロンメルの許可を待つばかりで空挺部隊に反撃を加える絶好の機を逸した。グデーリアンの案は、西方戦線の全装甲部隊を二群に分け、パリの南と北で、敵の侵攻正面に向かって夜間行軍で迎え撃つというもの。実際は海岸線で兵力を分散し過ぎたと指摘している。しかし、この案が採用されなくても、明確な目標を掲げて作戦指導すれば、成果を上げることはできたとしている。上陸開始後二週間たってもなお、各装甲師団は目標に向かっていないという有様。

9. 暗殺未遂事件「ヴァルキューレ」
1944年7月20日の暗殺事件にグデーリアンは批判的だ。加担者の中に軍部を動かせる人物が一人もいないと指摘している。国家元首に予定されていたルートヴィヒ・ベック将軍を優柔不断と評していただけに、このような大計画に参加していることが意外だったようだ。また、やるとしたら主要幹部を徹底的に排除すべきだが、計画が未熟すぎたと。
加担者たちは軍事法廷ではなく、フライスラー長官の人民法廷で裁かれた。いやゆる「名誉法廷」というやつ。委員には、ルントシュタット元帥を長にカイテルらがいる。グデーリアンもその不愉快な委員の一人に加えられたとか。なんとか理由をつけて会議を避けていたようだけど。この審問は、法の正義とは程遠いものだったという。審議官たちは、憎悪と侮蔑のまじりあった観念で名誉欲に駆られた連中。実行犯たちは仕方がないにしても、助けられる者は助けようと努力し、ルントシュタット元帥も他の委員たちも同調したという。だが、既に刑は確定していた。加担者となんらかの面識があるというだけで、「知りながら密告しなかった」という罪に。疑いをかけられただけで多くの人が処刑された。ついでに反抗分子も一掃されたことだろう。そして、ロンメルまでも。ただ、首謀者の一人ゲルデラー博士は、グデーリアンのところにも訪問している。この時、なんとなく匂わせていたようだけど、普段の態度からするとグデーリアンも疑われた可能性があっただろう。
さて、暗殺が成功していたら、どうなっていたか?それを答えられる者はいない。ただ、当時のドイツ国民はヒトラーにまだ信頼をつないでいたという。そして、暗殺者たちは国民の敵とされたという。また、連合国の態度が好転したかは期待できない。既に1943年1月、カサブランカ会談で無条件降伏が宣言されていたし。では、どうすればよかったのか?反対意見がこれほど多いにもかかわらず、ヒトラーの面前で反対した者がいなかった。それこそ、やらねばならなかったと指摘している。
しかし、だ。1933年に全権委任法が成立した時点で、後の祭りではないのか?一人の人間を神として崇めよ!と定めているようなもので、既に法治国家を放棄しているではないか。1944年の時点でやれることといったら、暗殺ぐらいしかないような気もする。ヒトラーだけを殺したところで、ゲッペルスやヒムラーやゲーリングあたりが代行するだろうけど。ゲッペルスなら、あまり変わり映えがしないか。ヒムラーなら、ベルリンをあっさりと見捨てて親衛隊の勢力圏のプラハあたりで、更に残酷な抵抗を続けていたかも。ゲーリングなら、その無能ぶりで戦争の終結を早めたかも。

2012-02-19

"ナチス狂気の内幕 シュペールの回想録" Albert Speer 著

ヒトラーの建築家と呼ばれたアルバート・シュペール(シュペーア)、彼はナチ党政権で最も理性的な人物と評される。だが、ヒトラーと最も親密でもあった。ヒトラーはオーストリア時代、建築家を志望しており、二人は趣味を通して朝方まで語り合う仲。当初、オブザーバーのような立場に身を置き、技術者として政治に無関心な姿勢を貫いていた。ベルリン改造計画「世界首都ゲルマニア」を立案し、ヒトラーのイデオロギーを建築物で表現しようとする。
ところが、この計画が千年王国という誇大妄想を呼び起こすと、一変して軍需大臣に任命される。シュペールは一貫してアウシュビッツを知らなかったと主張するが、知らなかったでは赦されない立場にあることも認めている。そして、なぜ非人間的行為を阻止しようとしなかったのか?その罪悪感を告白する。この物語は、ニュルンベルク国際軍事法廷で禁固20年に処せられた男が、服役中に綴った回想録である。
「もし、ヒトラーに友人がいたとすれば、私がその友人であったろう。私の青春の歓びと栄光も、それから後の恐怖と罪も、ともに彼のおかげである。」

ここに綴られるシュペールの態度は、一般的な人間の態度を象徴しているのではなかろうか。それは恐怖体制下における保身という意味で。人は誰もが小心者だし、しばしば無分別な行動をとる。平生ではそれを権威や財産で武装しているに過ぎない。当時のドイツは、第一次大戦の敗戦で莫大な賠償金が課せられ、空前のハイパーインフレで喘いでいた。そこに台頭してきたヒトラーは、天才的な演説によって国民を陶酔させていく。シュペールもその一人であった。
「ファウストみたいに魂を売ってもいいという気持ちだった。そういうところに私のメフィストが現れたのである。彼はゲーテのそれに劣らず魅力的だった。」
ナチ党は、資本階級やユダヤ人富裕層を非難し、大規模な公共投資で労働者を救済する。更に、アーリア民族思想で落胆していた国民の誇りをくすぐり、外国人排斥運動を煽る。深刻な経済問題を解決した実績を前にすれば、少々荒っぽい行為も黙認される。いや正当化される。そして、反資本主義と反共産主義、あるいは反キリスト教と反ユダヤ主義を掲げ、ヒトラー崇拝思想で民心を画一化していく。ついには、あらゆる共和政的な法律が改正され、絶対君主「総統」が誕生した。その思想は、思考することを許さず、陶酔することのみを奨励する。「総統が考え、そして導く!」これは国民が合法的に賛同した結果なのだ。そして、一旦戦争に突入し国民総力戦ともなれば、もう取り返しがつかない。民衆の思想観念は、親衛隊やゲシュタポの管理下で崩壊し、恐怖政治は惰性的に継続される。
さて、このような狂気していく社会にあって、自分だけは冷静でいられると言えるだろうか?主義主張を曲げずにいられるだろうか?俗世間の酔っ払いには自信が持てない。むしろ助長する側にいるかもしれない。そもそも、思考しない人間が思考しているつもりになって同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。ここには、人間性と非人間性の二重性という人間精神の本性的なものが提示される。
「ユダヤ人、フリーメーソン、社会民主党あるいはエホバの証人派の人たちが、私の周囲の者によって野良犬のように殺されたことを聞いても、私個人には関係ないと思ったに違いない。自分さえそれに加わらなければいいんだと。」
シュペールは撤退時の焦土政策に頑固として反対したという。対してヒトラーの言葉は...
「戦争に敗北すれば、国民も失われるだろう。ドイツ国民は、きわめて原始的な生存に要する基礎的なものなどを顧慮する必要はない。むしろ反対に、自分でそれらの物を破壊するほうがよい。なぜなら、この国民は弱い国民であると実証され、未来は結局、より強い東方民族に支配されるからである。この戦いの後に残るものは、どっちみち劣等なものばかりだ。よきものは滅びるのだから。」

ヒトラーは産業国家の最初の独裁者とすることができようか。技術革新の裏で、ナチ党組織は伝言ゲームのような様相を見せる。国民を扇動するためにラジオを用い、指揮系統では電話、テレックス、無線をフル活用する。総統が組織の末端に直接命令を下すことだって可能なのだ。そして、国民は監視され、同時に国家犯罪は隠蔽された。昔の独裁者は、自主的に行動できる指揮官を求めた。情報が乏しければ、現場で判断するしかないのだから。ところが、ここには通信手段だけで組織化できる方法論が示される。その結果、無批判、無思考で命令に従順な者のみが出世する。自立的人格という人間の最高の特権までも放棄してしまう社会を形成したのである。
「この回想録を書き進めていくうちに改めて自分でも驚き、愕然としたのは、私が1944年まで、めったに、いや本当はまるっきりといってよいくらい、自分自身と自分のやっていることを考えてみたことがなかったということ、私が自分というものを一度もふり返ってみたことがなかったということである。」
ここにはナチ党組織の弱点が露呈される。ヘタをすると電話交換室から偽命令を出すことだってできる。まさに暗殺未遂事件「ヴァルキューレ」は、命令系統を掌握して、その従順さを利用したものである。いや、そうなるはずだった。ゲッペルスは、通信経路と放送局の占拠の遅れが失敗の原因と見ていたという。また、秘書ボルマンが総統と高官との間で中継役になって影の実力者になったのも、技術とあまり関係ないが理屈は同じであろう。
なるほど、この事例は近代社会の弱点を暗示しているかもしれない。インターネットは、ある意味で情報開示されやすいが、肝心なところで情報を遮断することも容易だ。国民は隅々まで監視されると同時に、通信経路をちょいと遮断するだけで世論を偏重させることもできる。既に多くの国家で実施されているだろうけど。ネット社会では、思考することよりも情報量の多い方が優位に立てるが、それだけに情報操作の餌食になりやすい。トップの命令がデジタル配信で済ませられれば、中間層は伝言係と化す。いや、伝言係すら不要か。情報の利便性は、一握りのエリート層だけが思考すれば、その他大勢は行動だけすればいい!...という社会を助長しているのかもしれない。これがカリスマ性の正体かは知らん。
何もせず当り障りのない者が出世するとなれば、もはやリスクを冒してまで責任を負う人間は不要となろう。社会の利便性とは、非人格化を一段と促進させるのか?いや、そうは思いたくない。ただ、情報の利便性と独裁制は相性が良さそうに映る。民主制もけして相性が悪いわけではないだろうが、それを機能させるためには個々に思考が求められるという難しさがある。
アリストテレス曰く、「最大の不正は貧窮によって起こされるのではなく、過度に物を求める人によって起こされるということは真実だ。」

当時の笑い話だそうな...
「純粋なアーリア人とは何でしょう?それはヒトラーのようにブロンドで、ゲッペルスのように背が高くて、ゲーリングのように細っそりとしていて、その名前をローゼンベルクという。」
実際、ヒトラーは黒髪で、ゲッペルスは背が低く、ゲーリングは肥満で、ローゼンベルクはユダヤ系の名前である。ヒムラーの容姿もナチ党の理想像からは程遠い。そもそも、ヒトラーはオーストリア人だし、ドイツ人の定義も曖昧だ。
さて、ヒトラーの特質は、常に楽観的な意見を採用することであろうか。難題に立ち向かうためには必要な資質ではあるのだけど。だが、現実を直視することが前提になければ単なる妄想で終わる。おもしろいのは、不都合な情報はすべて悲観論者の陰謀と決めつけることだ。暗殺未遂事件が起こる度に戦略の失敗は裏切り者のせいだとし、自分の戦略に却って自信を深めるという奇妙な思考の持ち主。自己顕示欲が異常に強く、彼にとって作戦の成功よりも、自分が正しいと思わせることの方がはるかに重要なのだ。
それにしても、政権を握るまでは緻密に計算されているのに、政権を握ってからの無計画さには愕然とさせられる。戦争が不確定要素の多い分野であるのは確かだけど。夢想癖のある爺さんに楽観的な報告をするのは危険だ。苦しい時の口癖がこれ「君は、この状況を克服する天才だ!」
ちなみに、奇妙な発言では我が国も負けてない。某国営放送のドキュメンタリー番組では、牟田口司令官の訓示が紹介されていた。
「日本人はもともと草食動物なのである。これだけ青い山を周囲に抱えながら、食料に困るなどというのはありえないことだ。」
ここに綴られる親分と子分たちの物語は、まさに人間喜劇である。ナチ党の破局は、ほとんど必然的だったと言っていい。自分を天才と呼べるのは幸せかもしれない。まさに天災だ!

1. 行き当たりばったりな戦略
ヒトラーの特殊な性格の一つはディレッタントだという。独学を好み広範に知識を求める姿勢だけは、好感が持てる。しかし、恣意的で軽率に素人大臣を選ぶ。指導的立場を素人で占めることを好み、前経済相ヒャルマル・シャハトのような専門家を信用しなかったという。なるほど、ぶどう酒商のリッベントロープを外相に、哲学者アルフレート・ローゼンベルクを占領地区大臣に、飛行機乗りゲーリングを四ヵ年計画の全権者に、そして建築家を軍需大臣にしている。
既成の考え方にとらわれず、時折専門家でも考えつかない理解力を発揮したというから、馬鹿にはできない。当初、電撃戦などの戦略的成功は素人的発想によって成し遂げたという。しかし、空軍戦略では、イギリス空軍をほとんど壊滅状態に追い込みながら、ロンドン空襲にこだわったために再整備の余裕を与えた。そもそも、ドイツ空軍は短期の電撃戦にしか備えていなかったという。また、チャーチルに最も苦しめられたと言わせたUボート戦略にも、それほど執着していない。東部戦線では、戦略上の目標がころころ変わり、冬支度もままならず、ソ連軍に反撃の余裕を与えた。
なぜか?異常なまでに陸軍にこだわり、細部にまで口を出す。海空軍にはそれほどこだわりがない。占領政策では、陸軍が主役なのは確かだけど。塹壕戦の経験が、自分を優秀な軍人であると勘違いさせているようだ。
また、イギリスの新聞にまんまと乗せられる様子は滑稽だ。連合国の爆撃隊について高射砲の脅威について記事が掲載されると、戦闘機の生産を中止して高射砲を量産しろ!と命令する。それでも、日本帝国の竹槍訓練よりはマシか。
ヒトラーの決定は、重複した新兵器開発から、見通しのつかない補給にまで及ぶ。特に物資補給の理解不足が甚だしい。戦車兵器管理長官グデーリアンは、わずかな経費ですぐに修理できる戦車よりも、新品の製造が優先されることに不満を漏らしたという。おまけに机上戦略では、地図に表れないぬかるんだ道路や気候的要素などを排除する。ここには、会議好きのヒトラーが延々と喋り、それを取り巻き連中が聞いているという図式がある。当初は最前線の将校の意見を受け入れていたが、ナチ党幹部に対しては最初から無知だと蔑んでいる。数字の記憶力が抜群で、その正確さを捲し立てて、周囲の意見を圧倒するのが、ヒトラーの議論のやり方だ。根本的な誤りは、国防軍総司令官、陸軍総司令官を兼務し、おまけに趣味として戦車開発までしょいこんだことだという。参謀本部や陸軍兵器局や軍需部門の役割を奪い、意見が違えば無能だと侮辱される有り様。
「私の生涯で、こんなにめったに自分の感情を見せず、見せても次の瞬間にまた閉じてしまう人間に出会ったことがない。」

2. 対上陸作戦と新兵器の幻想
ヒトラーは、敵の上陸に備えて防衛施設を細目に渡り検討し、個々のトーチカを精密に設計して自画自賛したという。彼の論理では、上陸部隊は港のような要地を占領することが前提にあるという。安全なところに上陸して、そこから部隊を展開するという発想はないらしい。さすがに、西部沿岸防衛監督官ロンメルが上陸部隊を水際で撃破するために港を囲むトーチカでは不適当だと主張すると、優れた専門家の意見に弱いヒトラーも受け入れる。実際、連合国はノルマンディーに港湾用設備を持参して、陸揚げ用桟橋を建設した。しかし、諜報部の情報から上陸地点をカレーだと決めつけて、最初の一報がそれ以外の場所だったら陽動作戦に違いないから起こすな!と命令する。昼頃になってもなお陽動作戦に固執し、師団の移動は保留された。V1ロケットがカレーから発射されているのもある。だが、その効果はほどんなく、ロンドンに到達したのはほんのわずか。V1ロケットの過大評価はイギリス宣伝部の勝利であろうか。ゲーリングも空軍の大偉業として絶賛したという。
ヒトラーの戦略的視野は、第一次大戦で伍長として経験した塹壕戦の頃から変わっていないという。小銃の方が歩兵の目的に適うとして自動小銃の導入を拒否したり...新型コンドル機(Fw200)よりも古いユーおばさん(Ju52)の方が固定車輪で安心できて好ましいとしたり...ジェット戦闘機(Me262)の量産を中止して爆撃機にすると言い張ったり...Me262と聞くだけで自制心を失うそうな。そのスピード故にアメリカの爆撃機対策として開発されたが、小型爆撃機の無意味な存在になったという。ちなみに、核物理学を「ユダヤ的物理学」と呼んだそうな。とはいっても、戦車に関しては、砲身を長くして貫通力を上げるべきだ、といった鋭い意見もある。
ヒトラーは過去に正しかったことを常に持ち出し、今度も私が正しい!というのが口癖だという。しかし、自分の超人的能力を過信していたのは側近たちにも責任がある。みんなでこぞって戦略的天才と煽てるのだから。そして、戦況を楽観的に幻想的に考える連中の勧告だけを受け取り、敗戦直後になると空想的な新兵器に夢中になっていく。

3. 楽観的な外交戦略
当初、ヒトラーはイギリスとの友好関係を求めている。世界の再編成で大英帝国を保証してもいいとまで言ったとか。国王エドワード8世(後のウィンザー公)が退任した時、彼を通じてならば永続的に友好関係が結べたのにと惜しんだという。その気持ちは、退位後の1937年、ウィンザー公が夫人をともなってオーバーザルツベルクを訪ねた時に確信に至ったとか。だが、憲法上、国王が政府に圧力をかけられるわけがないので、議会制システムに無知だとしている。ヘスの不可解なイギリス飛行は、直談判のためだったのかは不明だが、ヒトラーが激怒したのは確かなようだ。
ヒトラーはイタリアの政策に不信を抱いていたという。大統領ヒンデンブルクもイタリアと同盟してはならないと遺言したとか。ムッソリーニは、ヒトラーの牽制を無視してエチオピアへ侵入した。イギリス主導で国際連盟はイタリアに経済制裁を課した。その制裁に強制措置がなかったので、英仏を弱腰と見る。1936年、ラインラント進駐はロカルノ条約の侵犯である。ヒトラーはピリピリと最初の反応を見たが、後に最も大きな賭けだったと述懐している。
当時、ドイツには軍隊と呼べるほどのものがなかったという。フランスが本気になれば、ひとたまりもなかったと。軍事介入がないと自信を深めると、1938年、オーストリア併合、ズデーテン割譲と調子づく。プラハ進駐ですら英仏が軍事介入しないとなると、信者たちの間にヒトラーは外交で失敗しないという妄想が膨らむ。尚、進駐後にチェコの要塞を視察すると、専門家が驚くほど頑強にできていたという。ヒトラーは、トーチカ施設の設計図を見て、断固たる抵抗に合えば占領は容易ではなく犠牲者も多かっただろうと語ったそうな。
また、同盟関係では、人種的観点から相手国としての日本は問題になりそうだが、ヒトラーは拒否しなかったという。
「まちがった宗教をもってしまったのが、そもそも我々の不幸なのだ。なぜ我々は日本人のように、祖国に殉ずることを最高の使命とする宗教を持たなかったのか?まだしも回教のほうが、こともあろうにだらしなく我慢するだけのキリスト教より、よほど我々に向いているだろうに。」
しかし、独ソ不可侵条約につられて日ソ中立条約を結んだが、ヒトラーの意図など考えもしなかったろう。彼の戦争観は、戦略的観点よりも民族イデオロギーに憑かれていた。将来において日本との対決も視野に入れていたという。
さて、いよいよ大戦が勃発するわけだが、さすがに過激なゲッペルスも薬物中毒のゲーリングも戦争回避に期待していたようだ。主戦派の代表は、イギリスとの外交政策に失敗して面子を守ろうとしたリッベントロープか。ポーランド侵攻の数日前、イタリアは同盟の義務が守れないと通告してきたという。ムッソリーニは、ドイツの戦力を弱体化させるほどの大量の軍需品や経済資材の見返りを要求したとか。ヒトラーは、ムッソリーニの調停案を拒否し侵攻は延期されたが、間もなく雨季になるので待てない。諜報部は、イギリス参謀本部がポーランド軍の抵抗はすぐさま崩壊するという結論に達していたことを掴んでいたという。勝ち目のないところに軍事介入するはずがないとして踏み込む。よしんば、英仏が宣戦布告をしても、世界に対する面子を保つための見せかけに過ぎないと。だが、戦争屋チャーチルが海軍大臣になったことで思惑が外れる。この戦争で、ドイツは地域紛争程度の準備しかしていなかったという。電撃戦が功を奏すことになるのだけど。戦争が起こる瞬間とは、こんなものかもしれん。つまり、政治屋の楽観的資質によるギャンブルだ。このギャンブルに民衆が長い間付き合わされてきのが、人類の歴史ということであろうか。

4. 側近たちの泥酔ぶり
ヒトラーは、自分よりも専門的に優れている人物に劣等感を持つ傾向があるという。だから、著名な建築家ではなく、新米のシュペールをおかかえ建築家にした。取り巻き連中を囲んだ食卓の会話は低俗で、党幹部たちの趣味を貶すような話題が中心だったという。実に無駄な会合や会食の連続だったとか。伝統的にドイツの政治家は高い教養を身につけているが、ナチ党の政治家はほとんど無教養だと指摘している。同じ程度の仲間を身近に置く方が気楽であろうけど。ゲッペルスは文学博士だし、話題を合わせることもできよう。
それにしても、モルヒネ中毒のゲーリングのいい加減ぶりは笑える。会議中に薬が切れて居眠りしたり。お偉方専用の機関車製造計画では、鉄鋼不足ならコンクリート製の機関車を作るようにと真面目に提案したり。スターリングラードの苦戦中に贅沢を尽くし、空軍が機能しなければ、天候が悪いといって言い訳する。
「総統!スターリングラードの第六軍団への空からの救援は私が保証します。私を信頼して下さい!」
一方、オカルトに憑かれたヒムラーは無気味だ。ナチ党の中でも独立した組織を目指していた節がある。原料工業から加工工業までの経済帝国を親衛隊が所有する計画だ。戦後の治安維持のために親衛隊が必要だと考え、アイゼンハワーも納得すると信じている。終戦間近でさえ、まだ占領下にあったノルウェーやデンマークを担保にすれば有利に交渉できると考えているし、親衛隊の勢力圏にあるプラハを拠点にすれば、十分に戦争は継続できるとも考えている。そんな意見は後継者に指名されたデーニッツが拒否するが、ヒムラーが後継者だったら、もっと悲惨なことになっていたかもしれない。
更に、ヒトラーの金庫番ボルマンに対するシュペールの非難は半端じゃない。1943年、ボルマンはヒトラーに目立たない書類にサインさせて、「総統秘書」になったという。彼を通さないと総統に面会できないというシステムを構築し、目立たないように振る舞い、影の実力者として君臨する。切手にヒトラーの絵があるのに目をつけて肖像権で収入を得たり、工業基金を募って総統への自発的献金を求めたり、産業界からたかりまくる。大物幹部のほとんどが、その資金を当てにして言いなりになる始末。ゲッペルスしかし、ヒムラーしかり、ゲーリングしかり...国民が総力戦をやっている最中、こいつら権力と金しか目がない。ゲーリングが継承権の規定に基づいて政権を引き継ぐという電報を出した時、ボルマンがクーデターの意図があると伝えれば、ヒトラーは激怒して失脚させる。これも策略だったとか。
おまけに、獄中においても、最高位が後継者デーニッツか、国家元帥ゲーリングかで揉める。これが政治屋気質というものか。ニュルンベルグ法廷での席順を見ればゲーリングが代表ということになるが、ナチ党代表として裁くならば海軍元帥よりも偉そうなヤク中の方が絵になる。ただ皮肉なことに、モルヒネ中毒は投獄されてからすっかり治療されて、見違えるほどだったという。

2012-02-12

"ヒトラーの共犯者 12人の側近たち(下)" Guido Knopp 著

上巻では、幹部クラスの6名、ゲッペルス、ゲーリング、ヒムラー、ヘス、シュペーア、デーニッツを扱った。この下巻では、実行部隊の6名、アイヒマン、シーラッハ、ボルマン、リッベントロープ、フライスラー、メンゲレを扱う。
実行部隊ともなれば、さすがに凄まじいものがある。特に、医学が悪魔と手を結ぶと言語に絶する。トロイメライが素直に聴けなくなりそうな...

これは、狂気の虜になったサタンの弟子たちの物語である。いや、彼らがサタンを目覚めさせたのか。不正を正義と履き違え、やがては不正を行っているという感覚すら失う。人間が狼になるのに大した手間はかからないらしい。ナチ党は、大量殺害を民衆の洗脳だけでなく、事務的な役所仕事や法廷の後押しを加えて、効率的で合法的に処理する社会システムを構築した。ヒトラーが国家の機能をよく理解していたという意味では、感服せざるをえない。犯罪が国家レベルで遂行され、悪と正義の垣根が取り払われた時、誰もがその危険に曝される。このような環境下にあっても、自分は決して共犯者にならないと言い切れるだろうか?当時の日本も、戦争反対を口にするだけで非国民と罵られた。もちろん知っているからといって、望んでいることと同義ではない。だが、普通の人々の黙認が後押ししたのは間違いないだろう。21世紀の今ですら、多くのタブーとされる事実に目を背ける風潮がある。自分の生命が脅かされる風潮に逆らってまで意志を貫くことは難しい。
人間が人間性を放棄するとは、どういうことか?この残虐行為を上官の命令というだけで説明できるのか?信仰が暴走すると、人間はなんにでも手を染めることができるというのか?こうした疑問の答えに、ヒトラー崇拝思想の根源があるのだろう。だが、明確な答えが見つかりそうもない。そこには、信仰や思想や集団の暴走という恐ろしい傷跡が残されるだけだ。
「人間のもつ人間らしさというものは、脆いものであり、人間性だけに頼るのは軽率であろう。明確な規範をもち、人間性の豊かな社会を土台とする強い国家だけが、歴史のなかで正義から悪が生まれるのを効果的に防ぐことができる。」

終戦後、多くのナチ党員が南米に逃れた。アルゼンチン大統領フアン・ペロンをはじめとする南米の独裁者たちは、ナチ党の技術者や科学者を歓迎した。アルゼンチン初のジェット戦闘機の開発や、自動車産業の建設に貢献したのはドイツの技術者たちである。ペロンはナチの能率の良さを賞賛したという。わざわざナチの亡命者を迎えるための特別委員会を設置したほどに。イスラエル政府は、南米の独裁政府がナチ戦犯の引渡しに応じるとは最初から考えていなかった。戦犯の追求は、諜報機関モサドに委ねられた。
ところで、戦略的観点からすれば、ソ連侵攻によって両面戦争に踏み切るのは、誰の目にも愚かであろう。しかし、民族的観点からすれば、イギリスよりもスラブ系民族の抹殺の方が優先事項だった。アングロサクソン人も元を辿ればゲルマン系の種族だし。「我が闘争」の中心テーゼにもイギリスとの友好があるそうな。ヒトラーはイギリスとの軍事同盟を望み、両国で世界を二分割しようと持ちかけたという。だが、戦争屋チャーチルはドイツの横暴を許さなかった。すると、方針転換してイタリアや日本と同盟を結ぶことになるのだが、ナチ流民族観では東洋人も劣等種族に分類されるはず。もし、枢軸国側が勝利していたとしても、いずれ日本も主権略奪の対象になっていたのかもしれない。ヒトラーは天皇に殉ずる日本式信仰には好感を持っていたようだけど...

1. アドルフ・アイヒマン : 大量殺戮の簿記係
「アイヒマンという人物でもっとも薄気味悪いところは、彼が多くの人間と変わらない点であり、その多くの人間というのは倒錯者でもサディストでもなく、いまも昔もきわめて驚くほど正常だという点である。」
...ハンナ・アーレント
ユダヤ人根絶をライフワークにした男は、アルゼンチンに亡命し、裁きが下ったのは戦後10年以上経ってからである。その消息は推理小説のような経緯を辿る。アイヒマンは暴力に訴えるのではなく、事務机に座ったまま署名一つで何百万人もの死を確定させた。彼は、もし命令があれば、自分の父親でも殺すだろうと供述したという。
「数百人が死ねば天災だが、1万人が死ねば統計だ」
ユダヤ人担当課の課長は、ユダヤ人風の容貌で同志から「ジギ・アイヒマン」と呼ばれた。妻がチェコ人ということも中傷された。それだけに這い上がろうとする努力は並々ならぬものがある。政治的信念を持った人物でもなければ、もともと反ユダヤ主義者でもなかったという。親衛隊の諜報部に採用されると、フリーメイソン担当部からユダヤ人担当課に配置され、ユダヤ人の調査に没頭する。ヘブライ語を習得して、上官ラインハルト・ハイドリヒの許可を得て記者を装い聖地パレスチナへ出張し、テンプル騎士団の集落などを訪問する。そして、ユダヤ人の超専門家となって一目置かれるようになる。
ウィーンではユダヤ人退去の恐るべき効率化を図り、ハイドリヒはウィーン式モデルを帝国全体の模範として推奨した。プラハでも効率的にユダヤ人を退去させるが、移住先が枯渇すると「マダガスカル計画」を提案する。フランス領マダガスカル島に大量抑留させる計画だが、戦争中に何百万人も移送することは不可能である。なんらかの即効性のある手段が求められると、「最終的解決」へ踏み切る。東部ではまもなく処刑の処理能力が限界に達する。銃殺はあまりに野蛮で効率が悪い。そこで、ツィクロンBガスを用いる方法を考案する。「ユダヤ人浄化剤」と呼ばれたという。ハイドリヒは特別ゲットーを設置し、国際的赤十字の視察団を招いて、ユダヤ人の模範的入植地として紹介した。大庭園を飾りつけコンサートや演劇を催し、虐殺を音楽とダンスにすりかえるアイヒマンの演出は完璧だったという。しかし、実はアウシュヴィッツへの待合室だった。
1944年の春までに、既に500万人のユダヤ人が殺害されていたという。その頃、ホロコーストはヨーロッパ最大のユダヤ人居住区があったハンガリーにまで及ぶ。ユダヤ人狩りには、ハンガリー当局が驚くほど協力したという。アイヒマンが設置したユダヤ人評議会は、ユダヤ人名士の集まりで、すべての命令を報告する義務があった。そういう仕組を作ることで、ユダヤ人迫害をカムフラージュしたのだ。ユダヤ人評議会は、アイヒマンに名簿や組織化されたゲットーを提供した。そぅ、被害者側にも協力させていたわけだ。

2. バルドゥール・フォン・シーラッハ : ヒトラー・ユーゲントの司祭
国家社会主義信仰の祭司の役割を果たした男は、熱狂的な反ユダヤ主義者ではなかったという。第一次大戦の後遺症でドイツ国民が誇りを失っている時に、「わが闘争」をバイブルとして民族優位説に陶酔する。母はアメリカ人でウォール・ストリートの裕福な銀行家からの誘いもあったが、それを断ってヒトラーに魂を捧げた。
長期的な戦略を練るには青少年を感化するのが有効である。それをヒトラーに認めさせたのがシーラッハであろう。当初、学生運動に期待していなかったヒトラーは、学生の前で積極的に演説をするようになる。英雄になりたいという子供心をくすぐりながら無敵の民族を掲げ、600万人もの青少年組織を創り上げた。選挙運動にはこの青少年たちの人海戦術によって、何百万部のポスター、ビラ、パンフレットを作る。共産主義者や民主主義者との激しい抗争には、血気に逸る青少年たちが活躍する。命を落とす者もあったが、少年を殉教者として祭り上げ、犠牲的精神をヒトラー・ユーゲントの聖なる象徴とした。冒険好きな青少年たちは、統率された突撃隊(SA)の颯爽と行進する様に憧れる。学校も、まるでクラブ活動のように入会を奨励し仲間意識を煽る。
1936年、ヒトラーユーゲント法が成立すると、青少年全員の加入が義務づけられる。ヒトラー・ユーゲントは、怪物のように魔の手を広げ、学校、教会、家族といった既存の権威を圧倒した。労働者たちも子供の教育レベルに圧倒され感化されていく。自分は何者なのか?何をしているのか?などと考えるいとまも与えず、常に活動的な教育が徹底され、指導者の命令に黙って従うことが最高の価値とされた。君たちは国家の未来だ!青少年は「国家の青少年」に格上げされた。とはいっても、ヒトラーに好戦的な印象を与えるわけにはいかない。あくまでも看板は「平和への意志」である。少女は、総統に命を捧げる男子を産むことが至上命令とされる。
しかし、シーラッハは一部のユダヤ人を支援していたという。それも、表向きは反ユダヤ主義者を装わなければできないだろう。シーラッハ夫妻がオーバーザルツベルクの山荘を訪れた時、夫人がユダヤ人移送でショックを受けたことを話すと、ヒトラーは激怒したという。ナチ党の社会では、女が意見すれば馬鹿女と罵られる。シーラッハがオーバーザルツベルクの山荘を訪れるのは、これが最後となった。ようやくヒトラーの狂気に気づきはじめると、ゲーリングに権力を奪い取るように要請したという。だが、既にゲーリングは実質的に格下げされていた。シーラッハは、非人間であったのではなく、楽観主義者に過ぎないという。人間というものは、不都合な事実に無関心でいたいものであろう。多くの人がこのタイプに属すのではなかろうか。
「権力は悪である。かぎられた権力で満足できる人間はいない。それができるのは聖人だけであろう。」

3. マルティン・ボルマン : 総統の言葉で操る秘書長
ヒトラーが最後に「もっとも忠実な党員」と呼んだ男は、無名な突撃隊隊員から総統秘書長にまで出世した。独裁政権の中で立身出世しようと思えば、下に対して情け容赦せず、上に対して卑屈に追従すること。まさにこの男にはその資質があった。ヘスがイギリスへ渡ると、すべての権力を引き継ぎ、金庫番として実力を発揮する。熱心な管理者のおかげで、もはやナチ党の金庫で私服を肥やす者はいない。ちなみに、かつて一握りの私服を肥やす者がいたという。ゲーリングも、ゲッペルスも...
ナチ党幹部には珍しく権力をひけらかすこともない。控え目な策謀家は一枚も二枚も上だ。ヒトラーは怠惰な独裁者で、事務処理がわずらわしかったという。それだけに献身的で几帳面な部下が必要であった。ボルマンは、命令はもちろん、疑問であれ、なにげない一言であれ、委細構わずメモにする。ヒトラーのテーブルトークが残されるのも、この人物のおかげか。第三帝国で安全を保障してくれるものは、正義でもなければ法律でもなく、ひとえにヒトラーの言葉だった。命令はヒトラーの口で決まり、精神状態が少しでもバランスを欠けば、矛盾した命令が下されることになる。ボルマンのメモは、神の声となった。メモは大量のファイルとして保存され、いつでも取り出せるように整理していたので、必要に応じて適切な言葉を提示できる。戦局が悪化するとヒトラーはヒステリックになるが、昔の言葉を取り出して過去の意欲を思い出させてくれる。そのために、過去の妄想に憑かれていったのかもしれない。ヒトラーは、どんな側近にも一度は非難を浴びせているが、ボルマンにだけは一言も批判的な言葉を使っていないという。
「ボルマンに難癖をつける者は、わたしに難癖をつけているのと同じだ。そしてこの男に逆らう者は誰であれ、わたしは射殺命令を下す。」
ボルマンの強みは、自分を通さずにヒトラーに近づけないようにしたことだ。ヒトラーと会見するには、その理由を詳細にボルマンに報告しなければならない。ボルマンは、ヒトラーの個人情報をすべて把握していた。素性、過去、血縁関係、愛人など。他にも、党幹部から部下に至るまで、個人情報を嗅ぎ回った。ヒムラーといえども例外ではなく、総統にとって敵になるかもしれない可能性を疑い続けた。ヒムラーは、昔の恋人との間の子供の養育費などで金庫番の援助が必要だった。ボルマンはヒムラーの個人情報を隠した。ヒトラーは内縁関係を絶対に許さなかったと言われるので、恐喝していたようなものか。ちなみに、ボルマン自身にも愛人がいたが妻に黙認させた。
ボルマンは、多くの幹部に失脚を企てられたが、すべて諜報力で凌駕する。また、密かに情報網を張り巡らせ、暗殺事件「ヴァルキューレ」では最も早く陰謀を嗅ぎつけたという。総統司令部「ヴォルフスシャンツェ(狼の砦)」の電話隊の中にも、スパイを潜りこませていた。実行犯シュタウフェンベルク大佐がヴォルフスシャンツェを離れ、その午後ムッソーリに犯行現場を見せていた時、既に陸軍大将フリードリヒ・フロムが黒幕であることが判明していたという。フロムは暗殺失敗の電話連絡を受けると、関与を拒否したため、陰謀者たちに拘束され罪を逃れた。しかし、ボルマンはぎりぎりのところで死刑宣告に追い込んだという。

4. ヨアヒム・フォン・リッベントロープ : 手先となった外相
ヒトラーは、国外の疑惑を逸らすために、社交性のある上層階級の市民を必要とした。酒類販売商リッベントロープ邸で、ヒトラーの政権掌握が密談で合意される。まもなく、新参の部下リッベントロープは、外交政策の顧問に抜擢され、特別大使に任命される。リッベントロープには独自の政策理念があったが、なによりもヒトラーの希望を優先させた。ヒトラーに目をかけられれば、ナチ党内で厳しくみられる新参者の財産も身も保障される。さっそく親衛隊に入隊し、ヒムラーと命運をともにする。こういう人物がいるからこそ、ヒムラーがホロコーストを体系的に推進することができたという。
ヒトラーはリッベントロープをイギリス通だと思い込んでいたが、それは誤解だったようだ。ヒトラーはイギリスを反コミンテルン協定に引き入れたかったが、ロンドン大使リッベントロープのなすことは失態の連続だった。イギリス国王にはナチ式敬礼で顰蹙を買い、イギリスの政治家の大半に拒絶されることに。すると、今度は反イギリス政策をあからさまにし、イタリアや日本と同盟する方針を打ち出す。ヒトラーのシナリオでは、東側と西側の領土問題を解決した後に、ソビエトとの大規模な「生存圏拡大戦争」を始める予定だったという。だが、リッベントロープは、チェコ介入の段階でイギリスの軍事介入の可能性を恐れていた。結局、ズデーテン危機は、首相チェンバレンのドイツ初訪問によるミュンヘン協定によって戦争は避けられた。あるいは、イギリスの軍備はまだ整っていなかったのかもしれない。当面、イギリスよりも東方問題が優先されると、リッベントロープは独ソ不可侵条約をモロトフと結ぶ。しかし、ポーランド侵攻とともに、お役御免。戦争に突入すれば、必要なのは軍人であって外交官ではない。もやは存在感を示すには、ヒムラーのもとでホロコーストの推進役を務めるしかない。そして、親衛隊将校として、ユダヤ人迫害を外交面から支援した。
1942年、あの忌々しい「ヴァンゼー会議」では、15名の高官によって「最終的解決」が話し合われた。親衛隊大将ハイドリヒが招集した会議で、そのメンバーにアイヒマンもいる。だが、出席者のリストには、リッベントロープではなく代理人の名前があった。既に彼の能力は疑われていたらしい。

5. ローラント・フライスラー : 司法界を骨抜きにした死刑執行人
短気ですぐに声を張り上げ、気分屋で無愛想、虚栄心が強く傲岸、そして能力が抜群に高く、「狂乱のローラント」と呼ばれたという。民族裁判所の長官にとって、正義とはヒトラーそのもの。戦争の最終的勝利を疑っただけで、「国防力破壊工作」という罪名で死刑判決が下る。総統の陰口を一言でも発すれば処刑される。それが酒場であっても。法廷は背信者の絶滅が目的だった。しかし、親友のゲッペルスが法務大臣に推薦しても、ヒトラーには、あのボリシェヴィキ!と呼ばれる始末。フライスラーは、第一次大戦でソ連軍の捕虜となるが、収容所でうまく立ち回り人民委員になった。そのことがトラウマとなり、必死にヒトラーの忠実な信奉者であることを証明しようとした。だが、報われなかった。
フライスラーは、二面性を持っていたという。ふつうの刑事訴訟では冷静かつ判断力、責任感のある法律家だが、政治が絡むと我を忘れて熱をおびる。彼は法廷で論争を好んだという。法廷はデマゴーグとしての能力を発揮する絶好の場というわけか。ワイマール時代には、ナチ党員の小競り合いが事欠かせないので、ナチ党のおかかえ弁護士となる。ヒトラーが政権に就くと、手先となる法律が必要となる。突撃隊を合法的に後押しするなど、職権濫用の代名詞のような人物だ。
ところが、1944年7月20日のヒトラー暗殺未遂事件が起こると、状況が変化する。ヒトラーは、軍部の反乱を軍事法廷ではなく、民族法廷に委ねた。表向きは、根深い陰謀を小グループの事件で終わらせて、国民の動揺を抑えたかったという。そして、ヒトラーが「一握りの一派の犯行」と演説したにもかかわらず、フライスラーは陰謀が多岐に渡ると大袈裟にしてしまう。総統直属の執行人になることで舞い上がってしまったのだ。そして、センセーションな公開裁判によって見せしめにしようとした。しかし、裁判官の荒れ狂う態度は、被告人たちの毅然とした態度の引立役となった。法廷で陸軍元帥エルヴィン・フォン・ヴィッツレーベンは、ベルトとズボン吊りを取り上げられ、ズボンがずり落ちないように手で持っていなければならなかった。フライスラーは見苦しい!と皮肉って演出するが、逆に腰に手を置いて胸をはっているように映る。フライスラーは、長々とした罵詈雑言を浴びせ、聴衆を不快にさせる。法相ゲオルク・ティーラックは、自己抑制のできない裁判官の態度によって法廷の厳正さと品格が失われたと嘆いた。ヒムラーが裁判を公にしないように進言すると、ヒトラーも賛成したという。被告人を物笑いにするはずだった裁判は、フライスラー自身の名誉を傷つける結果となった。
1945年、法定から防空壕へ向かう途中、連合軍の爆撃で爆弾の破片を浴び裁判所前で死亡。最後の判決を下して24時間もたたないうちの出来事、その判決はヒトラー暗殺計画「ヴァルキューレ」の残党を裁いた死刑だったという。

6. ヨーゼフ・メンゲレ : アウシュヴィッツの死の天使
アウシュヴィッツの象徴的存在だが、その活動はヒトラーが聞いたことがなかったという想定さえ可能だという。ナチ党では、人類学と遺伝子学は、非アーリア人種が劣っていることを証明する学問だった。イデオロギーの基本教義である「無価値な生命」という妄想である。メンゲレは、フランクフルト大学の遺伝子生物学優生学帝国研究所の所長オトマール・フォン・フェルシュアー教授の助手として働く。そして、フェルシュアーがメンゲレをアウシュヴィッツへ送ることになる。人種研究にとって、被験者が無限に存在するのは夢のような環境というわけか。
「死の天使」と呼ばれた男の収容者を選別する光景は、白い手袋に柔らかい物腰、シューマンの「トロイメライ」を口ずさみ、右は生、左は死と手を傾ける。彼には粗野な行動がまったく見られなかったという。制服をきちんと着こなし、女性にもてる伊達男を気取る。女性の収容者には、メンゲレが魅力的に映ったことを、きまり悪そうに証言した者も少なくないという。
強制収容所のいたるところで、断種法や不妊手術など常軌を逸した実験が行われた。男性囚人の睾丸や女性囚人の卵巣に、強度のX線を照射し生殖能力を奪うなど。これらの実験はすべて人種イデオロギーのためで、安上がりで時間のかからない民族絶滅の手段の開発に力を入れた。しかし、メンゲレの実験は、他の場合と本質的に違っていて、特に双生児を対象にしていたという。親というものは、双子の子供を特に自慢するものらしい。メンゲレの目標は「超人」という最高の人種を創作することで、完全なアーリア人種を遺伝学的に作り出せると考えた。つまり、人間培養か。そのために双生児たちの、目の色や髪の毛の色を変える実験を行う。溶剤を頭皮に注射したり、目に色素を注入したり...クロロフォルム注射で双生児を殺害し、臓器を摘出、骨髄を移植、双子を背中で縫い合わて...
彼の特徴は、残虐さと人間に対する軽蔑を、洗練された優雅な立ち居振る舞いでカムフラージュしていたことだ。双子の子供たちを、車に乗せたり、お菓子を与えたり、おもちゃを与えたり...おじちゃんと呼ばれたという。その裏で子供をモルモットと呼ぶ。まるで人間動物園!犠牲者の苦痛を喜ぶサディスティックな殺人者ではなく、痛みにさほど関心をもたないシニカルな人物。彼自身は、殺人者というよりは研究者と思っていたようだ。科学を悪魔に仕立てたと言うに相応しい。メンゲレは、独自の双生児理論を展開して、遺伝子学の教科書に載ることを目指したという。
彼が有名になったのは、戦後であろうか。南米に逃れ死ぬまで刑事訴訟から逃れた。アルゼンチンからパラグアイへ、そして、アイヒマンが捕まったニュースが世界中をかけめぐるとブラジルへ逃亡し、1979年、海水浴中に心臓発作で死亡。一方、フェルシュアーはメンゲレから送られてきた実験サンプルや資料を破棄して、再びドイツでキャリアを築いたという。

2012-02-05

"ヒトラーの共犯者 12人の側近たち(上)" Guido Knopp 著

実に胸糞悪い物語であるが、人間の本性の一面を見事に暴いている。
古来、人間は生まれつき善か?生まれつき悪か?という哲学的論争があるが、未だ決着を見ない。はっきりしていることは、善にも悪にもなりうるってことだ。それが個人レベルならば心理学の領域に留まるだろうが、民衆が一斉に狂気するとなると検証が難しい。人種妄想に憑かれ、ある民族をこの世から抹殺しようとまでした政権に、国民は為す術もなく暴走を許した。個々を眺めれば殺人鬼でも変質者でもない、どこにでも見られる幼少期を送った連中が、身の毛もよだつ犯罪に積極的に加担したのはなぜか?人間の集団悪魔性に対する無力感というものを思い知らされる。

民族優位思想は、なにもドイツだけの特別な現象ではない。どこの国でも我が民族の優秀性を信じたいだろう。神聖な血統、優れた血筋、こうした思想は古代ギリシャ哲学、例えばプラトンの著作「国家」まで遡ることができる。古代の慣行では、都市国家スパルタが生まれつき障害のある子供を遺棄した。近代でも19世紀から20世紀にかけて、遺伝生物学の分野で優生学が広範に支持され、イギリスやアメリカで断種法や人種改良などの理論が提唱された。日本を盟主とする大東亜共栄圏を掲げたのも、日本民族の神聖と優位性を信じたからである。誰でも自分の優位的特徴を褒められると、自尊心がくすぐられるであろう。民衆を扇動するには、なんらかの集団の優位的特徴を掲げるのが最も効果的なやり方なのかもしれない。ヒトラーの共犯者たちは、アーリア民族思想を仕立て上げ、見事にデマゴーグの役割を果たした。しかし、ドイツ人の国民性といえば、勤勉で規則に厳しいという印象があり、共感する日本人も多いだろう。真面目なだけにステレオタイプに陥りやすいということか?第一次大戦後に成立したワイマール共和国の行き詰まりは、見事に怪物独裁者の呼び水となった。ヒトラーの演説能力は天才的と評される。彼はプロパガンダの有効性を熟知していた。武力で脅すよりも遥かに有効なことを。いや陶酔性と言うべきか。思考しない者が、思考しているつもりで同調している状態ほど、扇動者にとって都合のよいものはない。
しかし、だ。自己の意思や思想といったものが、はたして自力で思考した結果なのか?それを自問してみても、いまいち自信が持てない。少なくとも生きてきた環境に影響されるのは間違いないだろう。騙されないぞ!引っかかるわけがない!と思い込む人ほど詐欺にあいやすいとも聞く。人間が集団生活の中でしか生きられない以上、洗脳という原理からは逃れられないのかもしれない。集団の暴力、多数決の増殖力、流言蜚語、集団催眠...こうした性質は、民主主義と背中合わせにある。特に、村八分的な思考に陥りやすい日本社会にとって留意すべき問題ではなかろうか。要するに、ここに提示される狂気現象は、なんらかの条件が重なれば、どこの地域でも起こりうるということである。では、それを防ぐ具体的な方策とは何か?それは、自問し続けることぐらいしかないのだろう。

第一次大戦の敗戦で絶望的な賠償を課せられたドイツは、財政問題と経済問題に喘いでいた。そこに、ニューヨーク市場の大暴落から発した世界大恐慌が追い打ちをかける。ずたずたにされた民族の誇りに加えてハイパーインフレと大失業問題、もはや共和政で乗り切れる状況にない。なんでもいいから変革してくれ!という悲痛な叫びの中で台頭してきたのが、国家社会主義ドイツ労働者党。いかにも労働者階級を中心とした底辺層の代弁者のようなネーミングだ。彼らは反ボリシェヴィキや反資本主義を唱え、資本階級や富裕ユダヤ人を非難した。更に、集団心理をくすぐる「世界支配民族」を掲げて若年層を中心に支持を広げ、過激な学生運動を煽って後のヒトラー・ユーゲントの地固めをしていく。チルドレン選挙戦略でこれほど見事なものはあるまい。何か新しい印象を与えれば改革に期待し、多少の暴力沙汰は黙認される。いや、英雄扱いされることだってある。それほど国民は疲弊しきっていた。しかし、国家社会主義思想とは、実は無条件に身を捧げるヒトラー崇拝思想で、ナチ党はオカルト集団だった。まさか、最初からユダヤ人の大量殺戮に結びつくなんて思った人は、ほとんどいなかっただろう。ナチ党は、東方へ強制移住させたユダヤ人が平和に暮らすニュース映画まで制作している。噂があったとしても多くの国民は信じなかっただろうし、こんな狂気沙汰が一人の政治家によって実施されるとも考えにくい。そこで、悪名高い共犯者たちの登場ということになる。だが、彼らもまた生まれながらの悪魔ではなく、どこにでもいる心弱い人間であった。一つ共通して言えることは、出世欲が異常に強いことである。それは政治家の特質のようなものか。
注目すべきは、大臣や大管区指導者から省庁の課長に至るまで、それぞれの地位に合ったライバル意識を異常に煽っている点である。省庁間で緊張感があり過ぎて諜報活動にまで発展している。競争の原理というよりは互いを蹴落とす原理だ。官僚体質を最も軽蔑したはずの改革者ヒトラーは、自ら縦割りの巨大官僚組織を作り上げた。ナチ党では互いの仲間たちが敵である。秘書長に昇りつめる人物ともなれば、各省庁にスパイを送り込む。その情報網は、暗殺計画をわざと泳がせたのではないかと思わせるほど。総統の面目を傷つけるような陰口が少しでも見つかれば、あるいはスキャンダル沙汰でもあれば、即失脚に追い込まれる。古参幹部のゲーリングやヒムラーでさえ沈黙し、側近はヒトラー崇拝のイエスマンたちで固められた。総統の膝元で権力争いをさせておけば、それだけで総統の地位が安泰というわけだ。ヒトラーは恐怖体制を組織する天才であろう。側近たちは自ら持つ野心という本性のために没落していった。「地位が人を作る」とよく言われるが、「地位が人を堕落させる」というのも付け加えておこう。

この上巻では、幹部クラスの6名、ゲッペルス、ゲーリング、ヒムラー、ヘス、シュペーア、デーニッツを扱い、下巻では、実行部隊の6名、アイヒマン、シーラッハ、ボルマン、リッベントロープ、フライスラー、メンゲレを扱う。ただ、あの忌々しい「ヴァンゼー会議」の主催者、親衛隊大将ラインハルト・ハイドリヒの名がないのは意外か。もちろん随所に名前は登場するが、ここに挙げた12名は終戦近くまで生き延びた連中ということであろうか。

1. ヨーゼフ・ゲッペルス : 偶像崇拝の宣伝屋
「プロパガンダの秘訣とは、狙った人物を、本人がそれとはまったく気づかぬようにして、プロパガンダの理念にたっぷりと浸らせることである。いうまでもなく、プロパガンダには目的がある。しかし、この目的は、ぬけめなく、卓越した技量で、おおいかくされていなければならない。その目的が達成すべき相手が、それとまったく気づかないほどに。」
ゲッペルスは、文学博士の称号を持ち、雄弁なレトリックと鋭い冷笑主義で、ヒトラーを偶像へと祭り上げた。彼は自己嫌悪と自己憐憫にどっぷりと浸かった性格だという。幼少期に右下腿部の骨髄炎を患い整形医療具を付けていたため、足を引きずって歩く。立派な容姿や金髪や筋力をトレードマークとするナチ党は、ぶかっこうな知識人にとって居心地のよいものではない。ヒトラーの寵愛だけが党内で身を保障してくれる。彼はアウトサイダー的存在だったという。名うての人間嫌いか。
ヒトラーが国家権力を掌握するとジャーナリズムを国有化する。この宣伝屋の武器は単純なメッセージと印象的なスローガンで、最大の戦略は国民に思考するいとまを与えないこと。ユダヤ人による国際的金融支配説、フリーメイソンによる世界支配説、あるいはイエズス会つまりはキリスト教の勢力をアーリア民族思想の敵とし、民族復活の救世主ヒトラーを印象づけた。ゲッペルスは全存在をヒトラーに委ね、自己放棄の域にまで達していたという。

2. ヘルマン・ゲーリング : 派手好きな虚栄心の塊
「左に勲章、右に勲章、おなかはいつも脂肪症」
純白の軍服に赤い縞の入ったズボン、勲章で飾り立てる滑稽さは、党内でも物笑いの種。この大ぼらふきは空軍戦略の失敗で、とうにヒトラーの信頼を失っていた。イギリスとの空中戦では5週間で勝利すると豪語したものの、その自信過剰は、じきに二日酔いの苦しみに変わる。スターリングラードでも空輸作戦を保証すると豪語しながら、激闘中パリに出かけて美術品を漁る。おまけに、1923年ナチ党の行進中で銃弾に倒れた時にモルヒネを投与されてから中毒となり、会議中でも居眠りする始末。ひたすら地位や称号や財産を求めた「第三帝国の太陽王」。それでも、この陽気な国家元帥は側近の誰よりも国民に人気があり、失脚させるわけにはいかない。他の党員にはない魅力もある。名家出身、洗練されたマナーと人々の心をつかむ才能、帝政時代の空軍の英雄。彼は、ライバルをスキャンダル沙汰に追い込み、国家元帥の称号を手に入れた。ゲシュタポ(秘密国家警察)はゲーリングの作品である。後にヒムラーが引き継ぐことになるけど。
オーストリア併合とズデーテン地方割譲を強行した際、二正面戦争を恐れてヒトラーの膨張政策を諌める場面もある。「これはのるかそるかの大きな賭けですぞ」、ヒトラーは「わたしの人生は、いつでも大きな賭けだった」と答える。
しかし、イギリスに対する空軍戦略はお粗末なもので、長期戦に有効な長距離爆撃機に対する認識が甘かったという。電撃戦の効果は、東西の限られた地域でしか機能しない。ナンバーツーという名目が与えられるものの、内心ではヒトラーに背き、表向きでは側近たちの誰よりも従属的に振舞う。まるで太ったオウム!
「わたしには良心などない!わたしの良心は、その名をアドルフ・ヒトラーという。」
もし、ヒトラーを制止することができる人物がいたとしたら、1938年頃までのゲーリングしかいなかっただろうという。だが、こけおどしで言いなりになる性格は、既に1920年スウェーデン医師団のお墨付きだそうな。

3. ハインリヒ・ヒムラー : 廃棄物処理係
あまりに凡庸な人物は、ホロコーストを機械的かつ徹底的に遂行した。その犯罪は言語に絶するものがある。カトリック信徒で、王家を敬い、つつましく教養もあり、バイエルン気質の家の出身。唯一きわだっているのは目立たない性格だという。几帳面で賄賂など受け取らず法に従順な役人という感じか。
だが、一旦人種妄想に憑かれると、オカルト的悪魔が覚醒する。それは北欧系民族による支配思想である。SSの稲妻のようなシンボルは北欧のルーン文字を採用し、親衛隊を古代北欧民族の選ばれし騎士団と重ねている。そして、スラブ系やジプシー、共産主義やボリシェヴィキ、キリスト教徒、反社会分子、障害者、同性愛者などが標的とされる。ヒムラーの目標は、まさに絶滅戦争であった。
しかし、「我が闘争」では「民族的オカルティズムというエセ学問」と蔑んでいるという。それでも、ヒトラーはヒムラーの信じられないほどの効率を認めた。民族抹殺を、あたかも役人の管理上の問題として淡々とこなす。ヒムラーは、親衛隊に大量殺戮の権利を認めたが、押収した財産をくすねることを厳しく処分したという。大量殺戮は民族優位性からくる道徳的権利であって、これがヒムラー流モラルというものか。強制収容所を統括するスローガンは「服従、勤勉、誠実、秩序、清潔、真面目、正直、献身、そして祖国への愛」で、これが唯一自由への道だとしている。そして、怪しげな祝祭や礼拝儀式を演出し、不可解な祭儀のための聖堂を建設し、ついには「最終的解決」という蛮行に走る。犠牲者の苦しみなど意に介さず、むしろ実行者の精神的苦痛を大いに配慮した。
1934年、「長いナイフの夜」として知られる粛清は、ヒムラーとゲーリングによって実行された。エルンスト・レームの突撃隊とグレゴール・シュトラッサーを抹殺。政権を掌握してしまえば、今まで貢献してきたならず者は用済みとなる。この機に、ヒムラーはゲーリングからゲシュタポを譲り受け、親衛隊をナチ党内でも独立した組織に育てた。「ゲシュタポ + 親衛隊」という構図は、最強最悪の実行部隊を形成する。
ところで、戦略的観点からすれば、ソ連侵攻は誰の目にも愚か。だが、民族的観点でヒトラーとヒムラーの意見は一致した。むしろイギリスよりもスラブ系民族の抹殺の方が優先事項だった。アングロサクソン人も元を辿ればゲルマン系だし。
ちなみに、1944年7月20日の暗殺計画にヒムラーが絡んでいたという噂がある。諜報網を張り巡らしていたヒムラーが、まったく知らなかったというのも不自然だ。7月17日、暗殺計画の中心人物カール・ゲルデラーとルートヴィヒ・ベックに対する逮捕状の発令をヒムラーが拒否していたのは事実だそうな。犯行を黙認したのか?この機に反政府分子の大掃除を企てたのか?

4. ルドルフ・ヘス : 不可解な総統代理
最初のヒトラー信者は、獄中で「わが闘争」の口述筆記を務めた。さほど重要な人物ではなく、モルモット的な存在だという。「わたしのヘスくん!」ヒトラーにとって独自の理念を持つマネージャは厄介なだけ。上品で、もの静かで、賢く、控え目、そして聞き上手、独裁者には心地良い存在だ。総統という称号はヘスの作品だという。ヘスは総統代理に任命されるが、書類仕事が嫌いだったという。そこで、マルティン・ボルマンを秘書に雇う。この野郎がしたたかで、後に秘書長の座に昇る男だ。
ヘスは信頼を得るために、ユダヤ人に対する合法的暴力に積極的に関与したが、半ユダヤ人の知り合いも多かったという。1938年「水晶の夜」では、全国でナチが一斉にユダヤ人を襲撃した。これにはヘスも愕然としたという。また、ヒトラーのソ連侵攻の意思を知ると、密かにイギリスとの停戦を画策し、単独でイギリスへ飛行した。ボルマンは、ほとんどヘスを孤立化させることに成功していたという。イギリスへ渡った理由の一つがボルマンにあるとか。
ところで、彼はなぜ命がけでイギリスへ渡ったのか?ヒトラーに無断で動けば裏切り行為となるが。「我が闘争」の中心テーゼに、イギリスとの友好があるという。ゲーリングもスウェーデンの外交官を介して、密かにイギリスに打診していたという。ヒトラーも、繰り返しロンドンに講和を申し出ていたようだ。英仏のダンケルクの撤退では、わざと止めを刺さなかったのか?
しかし、戦争屋チャーチルがその希望を打ち砕いた。ヘスは、イギリスとの戦争を食い止めるために直談判するしかないと考えたのか?大量虐殺を予感したのか?ヒトラーとの関係に絶望したのか?憶測が飛び交う。ヒトラーは、ヘスを処刑してやる!と激怒したという。尚、ヘスの不可解な行動について、ヒトラーとの共犯性を証明できた者はいないらしい。

5. アルベルト・シュペーア : 千年王国の建築家
「大きな建築のためなら、わたしはファウストのように魂を売りわたしただろう」
最もまともな側近と言われるシュペーアは、生涯ホロコーストについて何も知らなかったと主張し続けた。ヒトラーはオーストリアで建築家を目指していたことがあり、趣味において友人であり、不愉快なことがあると、シュペーアと一緒に千年王国の夢を語って上機嫌になったという。シュペーアは、ナチのイデオロギーを建築物で表現した。40万人収容のスタジアム、新しい首相官邸、世界首都ベルリン...そぅ「世界首都ゲルマニア」の建設だ。新都市建設には、ベルリン市民を退去させる必要がある。そこで、ユダヤ人を強制退去させ、空き家を利用した。帝国首都建設総監に任命され教授の称号を得て、これを実行している。ゲシュタポや親衛隊の協力を得ながらゲットーへ。しかし、彼自身は確信犯と思っていないようだ。確かに、古参の国家主義者たちとは血統が違う。
ヒトラーお気に入りの建築家は、前任者トート博士の事故死の後、軍需大臣を努める。そして、軍備生産に力を注ぎ収容所の労働者を動員している。となれば、ヒムラーの協力がなければ実行できないはずだが。
シュペーアは、敗戦間際のヒトラーの焦土作戦という狂気の命令を、密かに阻止しようとした。だが、敗戦が決定的だったために、西側諸国に対するアピール的な要素が必要だったと本書は分析している。シュペーアは、戦後の復興大臣になろうと考えていた節があるらしい。
それにしても、なぜ、おかかえ建築家になったのか?またなれたのか?ヒトラーは、自分よりも専門的に優れている者に劣等感を持つところがあるらしい。有名な建築家よりも、新米で謙虚な有望人物を探していた。つまり、言いなりになる建築家だ。ナチ党からの最初の依頼は大管区本部の改築、そして、1933年、第三帝国の大規模な政治大会で、偉大なる総統の登場を演出した。総統がパトロンとなれば資金や資材は無限に徴発できる。芸術家としての野望がヒトラーと結びつけたか。現実から目を背ける無関心と、認めようとしない態度。犯罪に加担したわけでもなければ、それなりに同情もされよう。シュペーアの態度は、当時の「モラルを失った人々」というドイツ人が描いたトラウマの典型かもしれない。最後の最後にベルリンの地下壕に赴いた理由を、本書はヒトラーがその後を誰に託したかを知りたかったと推測している。閣僚リストにシュペーアの名前があると、戦後処理で都合が悪い。だが、ヒトラーの遺書には後継者デーニッツの名があった。

6. カール・デーニッツ : 後継者
デーニッツ元帥は軍人としてあまり悪い印象がないが、道徳的無関心の典型だという。彼は、ファシズムを根底から支える価値観を持っていたという。皇帝と祖国に仕えることが第一の義務であり、個人の幸福は瑣末なこととした。プロイセン気質と言おうか。この群狼作戦の立役者は、ビスマルクのような巨大戦艦は時代遅れと見て、Uボート部隊にエリート意識を叩き込んだ。デーニッツは、少なくとも現場の分からないゲーリングとは違う。Uボート戦略は、チャーチルも最も苦しめられたと回想している。ここまでは英雄的な軍人という印象か。
しかし、本書はヒトラーのドグマに侵された正体を暴露する。確かに、ヒトラーは後継者にデーニッツを指名した。彼は、撃沈した船の乗員を救助することを禁じたという。また、首都がソ連軍の砲火に見舞われている時ですら、楽観的な状況を説いたという。ビスケー湾を確保できれば、Uボートで戦局を打開できると。ヒトラーはこの手の夢想を気に入っていた。ご機嫌取り、大ぼらふきというわけか。Uボートの乗員4分の3が帰らぬ人となったが、それは本当にプロイセン気質の勇敢さだったのか?
戦争末期には、村々を抜けると脱走兵たちが木に吊るされたという。海軍の追跡部隊に気をつけるように、やつらは親衛隊よりも酷い...などという噂があちこちから聞こえてくる。ただ、海軍にもヒトラー崇拝者が多いだろうし、この混乱期に完璧に統制ができていたとも思えない。デーニッツが意図したかも不明。それに後継者がヒムラーだったら、はたして無条件降伏を受け入れただろうか?
「わたしの孫たちが、ユダヤ人の精神と汚辱のなかで育てられ、毒されてゆくぐらいなら、わたしは土を食らった方がましだ。」
この思いを裁判官が知らなかったために、もっとも肝心な起訴理由での訴追を免れたという。ニュールンベルグ裁判で投獄された連中が強制収容所のことで思い悩んでいる時に、一人名誉ばかりを気にしていたという。「君は最後の最後まで軍歴ばかりを気にするのか!」とシュペーアから叱責されたとか。デーニッツの刑はシュペーアの禁固20年に対して禁固10年。んー...

下巻へつづく...