2016-12-25

"自然界の秘められたデザイン - 雪の結晶はなぜ六角形なのか?" Ian Stewart 著

原題に、"What Shape is a Snow Flake? : Magic Numbers in Nature..." とあるように、この物語の主役は雪である。イアン・スチュアートは、雪薄片ができる過程に根源的な自然法則を追い求める。副次的なモチーフでは、砂丘や波、貝殻の構造、植物の成長パターン、動物の模様などを持ち出し、さらに、DNA、素粒子、ビックバンにまで及ぶ。科学を外観していく道標は、螺旋の渦に引き込まれるがごとく... それは、単純化からカオスへ、さらにはフラクタルな世界へいざなう数学の旅としておこうか...
規則性と不規則性、秩序と無秩序、意味ある単純さと無意味な乱雑さ... こうした関係は相性が悪そうだ。しかし、ちょいと見方を変えると、こいつらが調和しているように見えてくるから自然ってやつは偉大である。それは、二つの対称性を暗示している。普遍性と多様性という名の...
「降りしきる雪の結晶を顕微鏡で覗いてみると、みな同じようでありながら、それでいてどれとして同じものはない。正六角形のようにも見えるが、よく眺めると木の枝のように複雑だ。単純な規則に支配されているように思えるのに、無限の多様性と複雑さを秘めた雪の結晶の美しさは、どうして生まれるのだろうか?」

科学には、一つの宗教原理がある。それは、どんな複雑な現象にも必ず根本的な法則が潜んでいるはずだ!という信念だ。ポール・ディラックは言った...神は数学者である... と。単純化された物理法則は、数学の美を醸し出す。その美は、対称性が内包されてはじめて感じられるものだ。
しかしながら、物理学者たちは言う... 宇宙は対称性の破れから生まれた... と。だとすると、宇宙の住人が対称性の失われた物理現象に度々出くわすのは、むしろ道理であろうか。ある物理現象に対して厳密な方程式が提示できれば、明解な予測パターンが決定できる、と誰でも考える。だが、カオスが提起する問いかけは予測過程そのものにあり、現実に、規則が単純でも予測の難しいものがある。例えば、サイコロがそれだ。ある大科学者は言った... 神はサイコロを振らない... と。酔いどれ天邪鬼には、神ほどギャンブル好きはいないように見える。実際、あらゆる選択は確率で決定されているではないか。歴史にせよ、進化にせよ、人生にせよ。人間の存在目的は何か?それは神の意志か?などと問うても答えられるはずもない。そもそも自分自身が、どこへ向かっているのかも分からないでいる...
「今日でさえ、自然法則の最新版が真実だと思いこんでいる物理学者は多い。過去の試みはおおよそのことしかとらえられなかったけど、今あるものは何の誤りもないのだと。彼らのいうとおりなのかもしれない。だが、歴史を振り返ればそうではないことが垣間見えてくる。」

人間は、何かの存在を認めた時、そこに合目的なるものを求めてやまない。神は無駄が大っ嫌いなはずだ!と。そして、自分自身を意味ある存在だと信じずにはいられない。それは、自己存在に自信が持てないことの裏返しであろうか...
人間がある存在を認めるには、空間の存在を前提する。まず、宇宙がそれだ。では、宇宙空間に物質が配置される方法には、なんらかの合理性があるのだろうか?天体間の距離はどうか?宇宙空間に対して、天体の数は適当であろうか?人間関係の距離はどうか?地球の表面積に対して、人間をはじめとする生物の数は適当であろうか?
空間合理性を問うた数学の難題に、「ケプラー予想」がある。ケプラーは、三次元空間に球を最も効率よく詰め込む方法は面心立方格子構造であると主張した。二次元空間で言えば、六方配置が最密充填になると。この偉大な科学者は、「六角形の雪片について」という本を書き、太陽系の惑星の数も六つあると主張した。まさに雪の結晶は六方配置をとる。
ただ、三次元空間では、1つの球に12個の球が接吻する形になるわけだが、球同士でわずかに動ける余地がある。このわずかな隙間が、無限空間のどこかに、13人目とキスできる運のいいヤツがいるのではないか?と問われた。そして四百年もの間、こんな小学生でも知ってそうな答えを証明できないのか!と数学界の汚点とされてきたのである。四百年前といえば、科学はまだガリレオの望遠鏡に宿るかすかな光でしかなかった。結局、そんな運のいいヤツがいないことを、コンピュータが答えることに...
現実に、自然界はわずかな柔軟性をもっている。ダーウィン風に言えば、生物は一つの種から実に多彩な分岐によって進化を遂げた。プラトン風に言えば、かつて純粋な精神の原型なるものがあって、それぞれに無知の知を覚醒させて今に至った。カオスとは、単純法則にわずかな融通性という調味料が加味された結果であろうか。無数の原子が集まって人体を形成すると、一つの人格を生じさせる。無数の人間が集まって社会を形成すると、個人ではどうにもならない独立した集団的意思を生じさせる。雪の結晶にしても、H2O という単純な分子の集まりでありながら、実に多彩な自然美を魅せつける。自然界のデザインには、「単純な基本法則 + わずかな柔軟性」という法則が満ちているようである。
但し、人間社会の合理性が、自然合理性に適っているかは知らん...

1. マジックナンバー "6"
二次元空間を同じパターンで埋める基本的な図形といえば、すぐに正三角形、正方形、正六角形を思い浮かべる。ここには、幾何学的な法則がある。それは、内角の角度が、360度の約数になること。正三角形は、60度(= 360/6), 正方形は、90度(= 360/4), 正六角形は、120度(= 360/3)。正五角形では、108度で隙間ができ、結局この三つのパターンに収まる。
中でも、"6(= 1 + 2 + 3)" は、三角数であり完全数。ピュタゴラス学派は、この数を崇めた。真円(360度)と相性のいい回転対称性には、何かが宿っているのだろうか。画家マウリッツ・エッシャーの「天使と悪魔」の図形にも、何かが取り憑いているような...
ゲーテは「色彩論」の中で、赤、菫、青、緑、黄、橙の六色からなる色相環を唱えた。光現象をプリズムによる波長で観察するだけでは、色の循環性という発想にはなかなか至らない。
さらに、昆虫の世界に目を向ければ、蜂の巣が六角柱を形成し、幼虫や蜜の保管庫になっている。六角柱は、密集住宅を効率的に埋め尽くす最適な形である。蜂たちはどの場所からも一斉に共同作業が始められ、それぞれの担当場所で適当につなぎ合わせることができるという点でも、分業効率性を具えている。人間の住宅のように設計者も現場監督も不要で、人間社会のように政治家も不要というわけだ。蜂は社交性の高い昆虫と見える。この隙間のない空間合理性は、本能的に組み込まれているのだろうか?
では、雪の結晶ではどうだろう。ここでも、いたるところに、60度と120度が顔を出す。水の分子が周囲の冷たい気団に触れると、あらゆる方向に満遍なくエネルギーが分散した結果として、離散的に枝分かれするというのか...
「雪の結晶には6回の回転対称性があり、60度ずつ回転させても形が変わらない。また、6方向に対して鏡映対称性も示す。万華鏡は鏡映対称性を利用して対称性の高い模様をつくりだす。2枚の鏡を60度の角度に固定して万華鏡に入れると、6回ではなく3回対称に、また6方向ではなく3方向の鏡映対称になる。」

2. 最小エネルギーの法則
結晶学にとっても、"6" は、魔法の数字だそうな。二次元か三次元で格子となりうる回転対称形のうち、回転できる回数の最も多いのが六回対称だという。
三次元空間では、すべての面が同じ正多角形で構成される形は、正四面体、正六面体、正八面体、正十二面体、正二十面体の五つしかない。そう、プラトン立体だ。これらの図形は、何回回転させれば、元の図形に戻るか?正四面体は、二、三回の回転対称をもち、正六面体と正八面体は、二、三、四回の回転対称をもち、正十二面体と正二十面体は、二、三、五回の回転対称を持つ。
ただ、結晶学における有名な制約に、「五回対称を禁ずる」というものがあるそうな。正十二面体と正二十面体の結晶構造は、絶対になりえないというのである。
しかしながら、正十二面体と正二十面体の方にこそ、なんとも言えない数学の美を醸し出す。例えば、柘榴石の結晶は、菱型十二面体の構造をとる。同じ十二面体でも、正十二面体ではなく菱型十二面体ならば、自然界のデザインに適うのだろうか?自然界は、人間の目には規則的に見える正多面体よりも、やや偏っている偏方多面体の方に目を向けるのだろうか?いや、人間の精神が偏っているとすれば、人間の目に見える正多面体の方が偏っているのかもしれない。
もし仮に、あらゆる方向にエネルギーが等価に分散されるとしたら、なるべく球に近い多面体を選ぼうとするだろう。球では純粋すぎて安定感に乏しい。物質は自己存在の確証を欲しがっているのだろうか?
一方で、雨粒は表面張力に引っ張られて、エネルギーが最小になるような球体を好む。天体の世界でも球体が主流だ。ただし、真円ではなく、これまたわずかに歪んだ楕円を選ぶ。真空などの環境で直接接触しなければ、多面体よりも丸まっている方が居心地がよさそうだ。社会という限られた空間にあまりにも多くの人間をぎっしりと詰め込むから、ぎくしゃくする。周囲のことをあまり気にしなければ、無理に角張る必要もなかろうに。鍛錬を積めば、人間の心も丸くなるらしい。
おさまりのいい関係を求めるという意味では、自然は倹約家のようである。宇宙には、最小エネルギーの法則でも働いているのだろうか?無駄な努力を削り落とすような...

3. 自然界のわずかな偏り
自然界には、重力、電磁気力、強い力、弱い力という四つの基本的な力がある。重力はエネルギーを持つものの間で働く力、電磁気力は電荷のあるものの間で働く力、強い力はクォーク間で働く力、弱い力は中性子のベータ崩壊などを起こす力。物理学者たちは、この四つの力における統一理論を構築しようと夢見てきた。
しかし、弱い力だけは、どういうわけか例外的な作用をする。量子力学におけるスピン構造には、非対称性が宿る。人体にも、表面的な左右対称性に対して、脳機能や臓器配置に非対称性が見られる。
地球上の生物においても、DNA の螺旋構造は一般的に右巻きだと言われる。一つの種に、右巻きと左巻きが混在するのは望ましいことではないだろう。少なくとも有性生殖の生物にとっては。DNA の巻き方向が同じでなければ、遺伝子複製が極めて起こりにくく、子孫を残すことも難しくなる。
気象現象においても、コリオリの力が働き、北半球と南半球で台風やハリケーンの渦巻く方向が反対になる。
自然界を取り巻く弱い力によるほんのわずかな非対称性が、柔軟性や多様性をもたらしている。自然美には、均衡と不均衡の微妙なバランスが欠かせない。天体軌道のほとんどは、真円よりも楕円を好むし。完全ってやつは、自己存在を主張するものにとって居心地が悪いものらしい。だから、完全な神は自己主張もせず、ひたすら沈黙を守っておられるのか。ヴォルフガング・パウリは、こう言ったそうな。
「神は軽い左利きである。」

4. 近くの強化と遠くの抑制
時間的成長と空間的成長を見事に再現する物語に、貝殻の成長過程がある。軟体動物の身体を保護しながら、なおかつ成長に合わせて合理的に貝殻を建設していくとしたら、どういう形が適切だろうか。アンモナイトなどが「対数螺旋」の形をしているのは、どうやらそのためのようだ。カタツムリの殻には右巻きと左巻きがあるらしく、遺伝子で決まるという。しかも、この螺旋構造にフィボナッチ数が現れる。そう、黄金比ってやつだ。ヒマワリや松ぼっくりにも、種子の成長に合わせてフィボナッチ数が現れる。数学的にも、スケールの連続変化を相似変換すれば、黄金比で描くのがやりやすい。成長過程に見られる黄金比は、等間隔に無駄なく詰め込もうと意図されたものであろうか...
しかしながら、中心点から遠ざかるほど、物理的な歪、すなわち誤差を拡大させる。数理生物学者ハンス・マインハルトは、貝殻の図式をこう説明したという。
「近くを強化して遠くを抑制する。」
彼の理論によると、抑制因子は活性因子の七倍の速度で広がらなくてはならないという。近くを活性化する因子と、遠くを抑制する因子のせめぎあいは、空間的に、時間的に遠いほど後者が優勢になっていく。
人間社会でも、領土が拡大して多民族性が増すほど支配力を強めたがるもので、民主主義の機能しやすい規模というものがあるのだろう。あらゆる組織の発足当初は、おそらく純粋で志の高い動機から始まったに違いない。だが、時間が経つに連れ、徐々に脂ぎった動機が混入してゆき、やがて官僚化や硬直化の道を辿る。だから、常に改革の目という抑止力を求める。
あらゆる成長過程を説明する際、時間と空間という物理量の組み合わせは非常に都合がよい。ア・プリオリな概念に時間と空間を位置づけたカントと、時空の概念を持ちだしたアインシュタインは、やはり天才と言わねばなるまい...
「軟体動物のオウムガイの殻... いくつものカーブした小部屋に仕切られていて、その小部屋は貝殻が渦を巻くにつれてサイズが大きくなっていく。殻全体は完璧な対数らせんを描く。なかの生物がどうやって殻をつくるか、また殻がどのように成長するかを理解するうえで、この数学的なパターンが手がかりになる。」

5. セル・オートマトン
新たな数学体系の一つに「セル・オートマトン」というものを紹介してくれる。ある種のコンピュータゲームである。最初は、色のついた一個の格子(セル)からスタートし、ゲームの一手が進められる度に、決められた規則によってセルの色が変化していく。例えば、一個の赤いセルが、三個の緑のセルと五個の黄色のセルに囲まれたら青に変える... といった具合に。
プログラムを走らせて結果を得ることは容易だが、その結果に納得のいく説明を与えることは極めて難しい。初期条件が違うだけでも、まったく様変わりする。そのために、生態系のモデルとしてよく利用される。複数の色に動物種をあてはめてみるといった具合に...
そういえば、同じような原理に「ライフゲーム」がある。数学者ジョン・ホートン・コンウェイが考案したやつだ。こいつも、黒と白のたった二色と短い三つの法則のみで成り立っている。こうした事例は、たとえどんなに規則が単純で明解であっても、結果予測が不可能なことを示している。

6. 平均特性の統計的な対称性
数学においても、「複雑適応系」という、いかにも社会学的な用語を目にする。複雑さがある臨界点に達すると、想像もつかない状態になりうる。連続的エネルギーの蓄積が、突然爆発して離散的現象として現れるような。大洪水、火山の大噴火、建造物の倒壊、市場のパニックなど、あるいは突然変異や新種の出現もこの類いであろうか。臆病な動物が恐怖心から突然攻撃的になったり、あるいは、開き直り、覚悟、開眼といった現象も...
「カタストロフィー理論」という用語も耳にするが、あまり好まれないらしい。カタストロフィーは大災害や破滅を意味するので、最近は「分岐」という用語を使うという。もはや複雑系を扱うには、確率論や統計力学に縋るしかないようである。
ただ、対称性の破れを説明しようとすれば、安定性という要素も考慮しなければならない。それは、そもそも物質はどこへ向かおうとしているのか?と哲学的に問うているようでもある。対称性を破るから不安定になるのであって、やはり矛盾しているようでもあるのだが、成長や変化の過程がある限り、この矛盾からは逃れられない。仕事中の気分転換もまた、適当な不安定に身を委ねることを意味するのかもしれない。
さて、H2O という分子には、重要な分岐点が二つある。凝固点と沸点は、固体、液体、気体の三状態に遷移させる。相転移ってやつだ。雪の結晶もまた、環境条件による一種の分岐によって生じる。相転移を解析するモデルに、統計力学には「イジングモデル」というものがあるそうな。物理学者エルンスト・イジングに因む。平面上の四角い格子を用いて、それぞれの頂点は上か下の状態をとる。この選択肢は電子のスピンの向きを表すという。隣り合った二個の頂点は互いに影響し合い、各電子のスピンの向きは隣の電子のスピンの向きに左右される。スピンのパターンは、臨界温度に達すると唐突に変化する。一つが決まれば、他の向きも決まるわけだが、一斉に決まるとすれば、それは全体的な分岐である。
本書は、こうした一斉に分岐する現象を、「平均特性の統計的な対称性」と呼んでいる。現実に、同じ炭素原子でありながら、最も硬いダイヤモンドから最も柔らかい部類のグラファイトまで、実に多種多様な同素体が存在する。結晶構造では、対称性の種類が異なるとエネルギーも異なり、そのエネルギーは圧力と温度に左右される。そして、重要な変化は離散的な分岐として現れ、主要な性質の変化が突如として起こる。
ある環境条件を境界に、集団的に、しかも一斉に性質が変わるとは、情報によって社会全体が扇動されるがごとく。カオス理論では、途轍もない影響を発揮する可能性について「バタフライ効果」という用語もよく耳にする。昔の人はよく言ったものだ... 風が吹けば桶屋が儲かる... と。
あらゆる現象は、もはや個々の性質だけでは説明できそうにない。個の対称性から集団の対称性へと目を向けなければ...

2016-12-18

"地球の歴史を読みとく - ライエル「地質学原理」抄訳" 大久保雅弘 著

学ぼうとすれば誰にでも、入門の段階で古典の恩恵にあずかった経験があろう。後継者は、大なり小なり先人たちの遺産を学ぶ機会が与えられる。地質学の場合は、チャールズ・ライエルであろうか...
原題 "Principles of Geology." は、「地質家の書いた最初の地質学史」とも言われ、ここに紹介される文献の量は夥しい。地質時代とは有史以前の時代であり、現在では地球年齢が約46億年とされ、99.99... % を占めることになる。人間の知的能力からすると、ほぼ無限に近い世界。本書は、空間的無限に天文学を、時間的無限に地質学を位置づける。そして、ア・プリオリな思考において、互いの学問分野が相補関係となるのは想像に易い。
尚、原書は三巻からなり、千二百ページにも及ぶ大著だそうな。この抄録は約 1/4 の縮小版で、ライエルの思考原理である斉一主義を中心に、地質家の科学者たる執念を物語ってくれる。

地質学には「現在は過去の鍵である」という名言があるそうな。地球の歴史を読み解くには、現在から遡るしか道はない。とはいえ、過去に遡るほど情報が極端に少なくなり、お粗末な抽象論に陥るのは人間の歴史と同じ。抽象化という言葉の捉え方も立場によって様々で、科学者や数学者、あるいは芸術家は真理に近づけるという意味で用いるが、政治屋や金融屋は、曖昧やら空論やらで片付けがち。いつの時代も、人間社会には、目先の利益に結びつかない知識は意味がないとする風潮があり、実益との関連性が見えてくると、途端にもてはやされ、そこに人々が群がる。実際、地質学の発展は、産業革命で高度化した鉱山開発や土木事業から派生した。
一方で、科学の基本的な立場に、「条件が変わらなければ現象は繰り返されると仮定してみる」というのがある。そう、斉一性原理ってやつだ。
当時、天地創造やノアの方舟、あるいはモーゼ物語といった宗教的伝説がヨーロッパ社会を席巻していた。科学の使命は、中世の神秘主義を打倒すること。ライエルは、まずもってドグマの排除にかかる。そして、あのピュタゴラスの言葉からとっかかるのであった...
「この世で死滅するものはなにもなく、ただ万物は変化し、姿を変えるだけである。生まれるということは、以前にあったものとは違った何かになり始めるということにすぎず、死というものは同じ状態であることを止めることである。さらに、同じ姿を長い間保つものは何もないが、全体の総和は不変である。」

しかしながら、あまりに斉一的すぎると、時代の流れに緩急があることを見落とすばかりか、画一的な思考に陥りやすい。それも致し方ないかもしれない。まだ造山運動論や大陸移動説などの理論体系の確立していない時代で、プレートテクトニクスといった概念もずっと後のことだ。
人間社会には、空間的に言えばブラックホールのような、力学的に言えばアトラクターのような、社会的機能を失うような状態が突然訪れる。それは地球規模とて同じで、数学的な特異点のような状態が現実に生じる。生物種が爆発的に発生した時代を、ライエルはどう説明してくれるのか?種は、ただ一つの祖先から派生したのか?原子論まで遡れば、そういうことになろう。生物もまた機械的な分子構造を持っているのだから。
では、精神という存在をどう説明するのか?古来、自然哲学者を悩ませてきた難題を。本書は、ラマルクの進化学説を引用しながら、曲解されていることが残念だと指摘している。ただ、斉一主義といっても、単なる繰り返し現象を重んじるだけでなく、なんらかの定向的な変化をも含みにしている。それは、生物種が環境に適応する能力についてである。
概して生物には、生きたいという強い意志のようなものを感じる。人間だって思考を重ねるうちに、突然、理解したり、悟ったりする。そう、開眼ってやつだ。持続的な生存願望が進化を生み出すのか?と問えば、ダーウィンの自然淘汰説にも通ずるものがある。そして、永劫回帰には、なんらかの意志をともなうのか?その意志の根源とは?と問えば、結局、神に帰するというのか...
「われわれが星空を調べても、顕微鏡でやっと分かる微小動物の世界を調べても、空間における創造の仕事に限界を決めようとしているが、それは無駄である。したがって、時間についても、われわれは、宇宙の果ては人知のおよばない彼方にあることを認める用意はある。しかし、時間にせよ空間にせよ、どの方向へわれわれの探求が進んでも、どこにおいても創造の英知、および、神の先見性、分別、および威光の明白な証拠をみいだすのである。」

客観的、論理的に説明できない事柄に対して、人間ができることと言えば、崇めるか、信じることぐらい。ここに科学の限界がある。そして、得体の知れぬ存在に対しては、恐れつつも興味を抱かずにはいられない。接触してくるものに対しては、無視できない性分なのだ。おまけに刺激はエスカレートする一方で、この方面でエントロピーの法則は絶大ときた。そして、自我をますますカオスへ導く。生物種の適応力と柔軟性、あるいは自然の復元力と調和力、こうした自然の力対して、地上の生命体は地球依存症にならざるをえない。
だが近代社会は、その偉大な自然を排除した価値観に邁進し、いまだ神を人間だけのための存在だと信じている。偉大な知識ってやつは、学校で教われば常識とされるが、すべては偉い学者たちが論じたに過ぎない。地球は丸い!なんていうのも、誰かがこしらえた映像で見ることができるぐらいなもの。しかも、それを知らないと、常識がない!などと言われ、馬鹿にされるのだ。何一つ自分で確認した知識はなく、確かめようがないとすれば、専門家の言葉を信じるしかない。となれば、科学と迷信の違いとは何であろう...

1. 三枚の巻頭図は物語る...
第一巻の口絵「セラピス寺院の円柱」...
ライエルの根本思想を象徴する有名な図だそうな。ナポリ西方のポッツォーリ海岸に面した寺院の円柱に刻まれた海水の浸食跡が、地盤の上下変動を物語る。この巻では、地質学時代の気候変化と、その原因に関連して水陸分布が変化したこと、あるいは河川や海流の作用、火山作用と地震現象を中心に地質学概論が語られる。

第二巻の口絵「エトナ火山とバル・デル・ボヴ」...
生物に関する議論が展開されるが、なぜか火山?半円形の大きな凹地をボブ渓谷といい、単なる浸食谷だが、人によっては噴火口とも言うらしい。この巻では、生物界に踏み込み、地層と火山との関係から堆積作用と化石化作用との関連性を考察し、ラマルクの「動物哲学」を引き合いに出しながら生物界の変化を論じている。ついで、種の分布や生息区の変化、無機界の生物への影響、さらに珊瑚礁の成因にも触れられる。

第三巻の口絵「スペイン・カタロニア地方の火山」...
またもや火山?遠景のピレネー山脈と手前の第二紀層、さらに近景の火山岩を色分ける。この巻では、地殻構成要素の配置や、第一紀、第二紀、第三紀の区分について考察され、特に第三紀に注目する。動植物の化石が第三紀層に集中しているからである。
ライエルは、年代区分の尺度に貝化石を用いて、第三紀を現世から近い順に、後期鮮新層、前期鮮新層、中新世、始新世の四つに区分している。尚、始新世は、現代式の区分では、ほぼ古第三紀に相当する。
当初、「地質学原理」は二巻で構成する予定だったらしく、第三紀層を詳しく知るために追加した要旨が語られる。そして、「百分率法」を提唱し、現生種と絶滅種の比率から生物界の傾向を読み取り、時代によっては脊髄動物の方が腕足動物よりも絶滅種が高いことから、環境依存性を論じている。また、最古の第一紀という用語は適切ではないとして、代わる用語に内成岩という概念を提案している。尚、第三巻は、現代では層位学や地史学に相当する。

2. 学者たちのドグマ放棄宣言
1680年、数学者ライプニッツは「プロトガイア(地球生成論)」を著したという。彼は、かつて地表は火の海に見舞われていたが、徐々に冷却の道を辿り水蒸気に包まれ、さらに外核が冷えて海になった、と考えたと。
18世紀になると、イタリアの地質学者ジョヴァンニ・アルドゥイノは、地質時代を第一紀、第二紀、第三紀で区分したという。後に第四紀が加わることになるが。
さらに、アブラハム・ゴットロープ・ヴェルナーやジェームズ・ハットンらが、ライプニッツの意志を継ぐ。ヴェルナーは、鉱物分類法の基礎を築き、構造地質学の分野を開拓したという。彼は、地球の知識という意味の「geognosy(ゲオグノジー)」という言葉を用いたとか。
1788年、ハットンは「地球の理論」を著したという。この論文は、地殻の変化をすべて自然要因で説明を試みた最初の書であったとか。そして、こう語ったという。
「古い世界の名残は地球の現在の構造にみられるし、いまわれわれの大陸をつくっている地層は、かつては海の下にあって、既存の陸地の削剥物からつくられたものである。おなじ営力は、化学的分解とか機械的破壊力によって最も固い石でさえも破壊しつつあり、そしてその分解物は海に運ばれて広がり、ずっと古い時代の地層と類似した地層を形成している。それらは、海底では締まりなく堆積したが、あとから火山熱のために変質して固化し、ついで上昇し、断裂をうけてひどくもめたのである。」
ライプニッツからの流れは、過去のドグマを全面放棄することを宣言したもので、「地理学原理」にも彼らの意志を受け継いでいることが語られる。

3. すべては火成作用が原因か?
地質学は、生物界や無生物界に起きた変化の要因を研究する科学である。ライエルは、火成作用を自然現象の根源的要因とし、地震は不発の火山活動として捉えている。以前は水成説と火成説で論争があったようである。水成説とは、すべての岩石が海水から沈殿してできたという説で、現在ではほとんど聞かれない。
尚、ヴェルナーは花崗岩や玄武岩を水成岩としたようで、ハットンは火成岩と認めたようである。
また、人口論的な議論も見られる。人口増加が自然に悪影響を与えることが。地上のすべての現象を熱機関として捉えれば、生命の進化も熱エネルギーを原因とすることができるだろうか?意志の力も、思考の力も、集団の力も。このまま人口増加を許すならば、外的エネルギーへの転換に迫られ、人間は地球外生命に進化するしかないのか?人類の歩みとは、空間移動の歴史でもあった。大陸を移動し、海を渡り、新天地に夢を託す。そして、地球という天体から追い出される羽目になるのか?
すると、無重力空間を生活圏とする生命体にとって、二足歩行は合理的な体型なのか?酸素吸気の構造は?身体組織の改良から求められそうだ。四足獣を下等動物としてきた人間が、今度は宇宙生命体に二足獣と馬鹿にされ、人間もまた絶滅種に追いやられるのか?宇宙空間ではゾウリムシのような単純構造の方が適応しそうだし、ひょっとしたら、こちらの方が高等なのかもしれない。人間社会でも、Simpe is the best. といった単純化思想が崇められるし、宇宙法則でも単純な数式ほど高級とされるし...

4. 珊瑚礁が意味するものとは...
地上の各営力の相互作用の中で、生物が地殻に積極的に作用する好例として、珊瑚礁の形成を紹介してくれる。珊瑚礁が形成されるのは、地殻が再構築されつつある場所、あるいは新たな岩石形成が進行中の場所だという。ふつうはラグーンを形成している場所で、太平洋におけるラグーンの形態に言及される。それは、鉱泉からの無機塩類供給による現象だという。そして、海洋中の植虫類の作業を、植物が泥炭をつくりながら地上に生命を見せる様子と比較しながら説明してくれる。
例えば、ミズコケの場合、上部は生育しているのに下部は岩層中にあり、水面下で有機組織の痕が残ったまま、生活はまったく停止している。同じように珊瑚礁では、過去の世代の丈夫な物質が基礎固めとなって、現在の世代の生息に役立っている。太平洋の調査に同行したシャミッソという博物学者は、干潮時に礁がほぼ干上がった高さの時には、珊瑚は造営をやめる、と言ったとか。そして、調査隊のビーチィ船長は、こう言ったとか。
「波のとどかないところにある帯状部は、それをきずいた動物がもはや住めなくて、それらの細胞には固い石灰質がつまって、褐色でざらざらの外観を呈している。まだ水中にある部分、あるいは干潮時だけ干上がる部分には、小さな水路が切られているし、また凹地が多いので潮がひくとそこに小さい湖水をのこす。われわれが観察した島では、平地の幅、すなわち死んだ珊瑚の帯状部の幅は、波打ちぎわからラグーンの端まで半マイルをこえる例はなく、ふつうはわずか 300 ヤードないし 400 ヤードぐらいしかなかった。」
知識の土台と叡智の継承という意味では、珊瑚礁が人間に教えるものは大きい。尚、この文献の出版の11年後、ダーウィンは珊瑚礁の研究についての文献を残したそうな。彼もまたライエルの影響を受けているようである...

2016-12-11

"人間機械論 サイバネティックスと社会" Norbert Wiener 著

人間とはなんであるか... 数千年に渡って自然哲学者たちは、この難題に立ち向かってきたが、いまだ答えが見つからない。プラトンは、人間は羽根のない二本脚の動物である!と定義した。ディオゲネスは羽根をむしり取った鶏を携えて、これがプラトンの言う人間だ!と応じた。魂を持つ存在だとしても不十分だし、ましてや崇めるほどの存在でもあるまい。魂がなんであるかも説明できないのだから。いや、説明できないから、崇めることぐらいしかできないのかもしれん...
数学者ノーバート・ウィーナーは、高度なコミュニケーション能力を有する存在であると定義を試み、通信工学を中心に据えた学問分野を提唱した。そう、サイバネティックスってやつだ。人間の本質に迫るには、数学や統計力学に生理学や心理学をも巻き込んだ学際的研究が必要だというわけである。彼は、文芸家と科学者の目的が一致しているにもかかわらず、二つの宗派に分裂している様を嘆く。それは第二次大戦前後の話だが、21世紀の今日でも理系と文系で区別され、知識の縦割り風潮は健在だ。
人間には縄張り意識という性癖がある。かつて学問は総合的な知識の世界とされ、科学は自然哲学と呼ばれ、自然との調和から人間というものを問うた。その流れは、いつの間にか自然物に対して人工物で区別され、人間社会だけの合理性を問うようになった。人口が爆発的に増殖すれば、最も依存している自然との関わり方が見えなくなるのか。もちろん個人であらゆる学問を究めることは不可能だし、何か一つの専門を選択せざるをえない。しかしながら、他の学問分野についてなんらかの理解がなければ、自分の専門にも暗くなるだろう。真理を探求する場に、理系も、文系も、はたまた体育会系もあるまい。間違いなく夜の社交場では、セクシー系も、癒し系も、はたまたハッスル系も必須だ!

原題 "The Human Use of Human Beings... Cybernetics and Society" には、一つの使命が託される。それは、「人間の人間的な使い方にある」ということ。ウィーナーの発想が、ライプニッツのモナドロジーや予定調和説、シャノンの情報理論、マクスウェルやギブズの統計力学、あるいは記号論理学や計算機科学などの複合的な立場から発し、サイバネティックスという学問が、本質的に通信理論の統計的研究であることが伺える。論議の骨格に「状態の感知、記憶、フィードバック」の三つの要素を据え、通信モデルを脊髄動物の構造、シナプス系の情報経路、酸素を運搬する血液で構築して見せる。認知のために神経系と栄養分を運ぶ経路こそが、情報の本質というわけである。中でもフィードバックを重視し、これが主観的に働くか、客観的に働くかは別にして、情報を適格に解釈できさえすれば補正機能が働く。いわば、反省や学習の機能である。
「主観的には感情として記録されるような種類の現象は、神経活動の無用な随伴現象にすぎないものではなく、学習及び他の類似の過程における或る本質的な段階を制御するものであるかもしれないことを認識することは重要である。」

1. 人間と機械、代替品はどっち?
人類のこしらえた機械文明は、自動化へと邁進してきた。機械の存在意義は人間行為の代替から発しており、非力な人力に対しては莫大なエネルギーを発生させ、鈍い頭脳に対しては驚異的な計算力を提供し、機械化は利便性の代名詞とされてきた。それは通信システムとて例外ではなく、いまや意思の交換まで代替してくれる。すると改めて、人間とはなんであるか?が問われる。代替品の存在意義から、元の存在意義を顧みるのである。なるほど、人間とは、機械が故障した時の代替品か。そのうちオートマトンと人間の区別もなくなりそうだ。
人体そのものが電気的な機械仕掛けだし、そこに意志があると主張したところで、その原因は説明できそうにない。実際、感情を持ってなさそうな人間がわんさといるし。社会全体にとっては、人間精神が進化しなくても、その分、機械が進化すれば同じことか。
人間が機械の奴隷になるとは、なんとも物騒な社会!なぁーに心配はいらない。今だって人間は人間の奴隷であり続ける。すべての人間が人間以外の奴隷となれば、夢にまで見た平等社会が実現できるではないか...

2. 有機体の本性とは?
ウィーナーは、コミュニケーションを営む有機体としての人間を考察する。人はコミュニケーションを完全に遮断して孤立すれば、精神を破綻させる。それは、ボルツマンの唱えた熱的死を意味するのか?熱力学の第二法則は、閉じた系においてエントロピーが減少する確率はゼロだと主張している。では、系が閉じていなければどうだろう。宇宙は本当に閉じているのか?膨張したり収縮したり見えるのは人間認識の産物とうことはないのか。社会という外的要因の中で、熱病的な集団的狂気に気づかなければ同じことかもしれん...
有機体ってやつは、周囲になんらかの影響を与えようとやまない。なるほど人間は、一人では生きてはいけない。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体にとって、自己存在を確認するためには他の存在を必要とする。
では、高度なコミュニケーション能力が本当に人間社会を高度化させているだろうか?確かに、いじめや誹謗中傷の類いは陰湿かつ巧妙化し、排他原理は高度化しているようだ。なんらかの関係を求めずにはいられないとすれば、友好や差別も、博愛や偏愛も、正義感や敵対心も、依存症の類いか。
孤独愛好家ですら完全に社会から離脱することまでは望まず、集団から適当に距離を置きながら、遠近法で自己を見つめる。自尊心もまた自己愛に飲み込まれ、自惚れと自己陶酔の内に沈潜していく。人間社会は、嫉妬心に満ちた愛憎劇で渦巻いている。そして、その帰結は... 人間の本性は、寂しがり屋というだけのことか...
「生きているということは外界からの影響と外界に対する働きかけの絶えざる流れの中に参加しているということであって、この流れの中で我々は過渡的段階にあるにすぎない。世界で生起している事態に対して、比喩的な意味で生きているということは、知識とその自由な交換の連続的発展の中に参加していることを意味する。」

3. 情報と知識、そして言語
ウィーナーは、人間を最も特徴づけるものに、言語機能を取り上げる。言語によって社会ルールが規定され、通信手続きではプロトコルがその役割を果たす。だが、言語の柔軟性がセマンティックを不安定にさせ、語義の曖昧さが様々な解釈を生み、混乱の元となっている。実際、客観的であるはずの専門用語ですら、その解釈を巡って、あちこちで論争を見かける。
では、言語の合理性とはなんでろう。情報合理性は精神合理性と合致しているだろうか?情報量の観点から、通信システムではコンパクトで単純な通信文が好まれる。これが情報合理性である。文芸作品が非効率に比喩的な文章を用いるのは、魂に訴えようとするものがあるからである。これが精神合理性である。こうした言語の合理性の問題は機械論において大きな障害となる。それは、人間と機械の境界を暗示しているようでもある。
「情報(知識)というものは蓄積の問題ではなく過程の問題である。最大の安全保障を持っている国とは、情報と科学に関することがらが国家に対し課せられた要求に適当に対処できる状態にある国のことであり、我々が外界を観察し、外界に対する行動を有効にする連続的過程の一つの段階として、情報が重要なものであることが十分認識されている国のことである。」

4. 自動化の是非
人間社会の幸福を確率論に照らせば、最大多数の最大幸福といった功利主義的な思考も覗かせる。確かに、全体的な平和や幸福には経済的合理性というものがある。それは、少数派の犠牲によって成り立つものなのか?ここに、大数の法則が暗躍しているかは知らない。
ウィーナーはマルサス流人口論にも言及し、人口調節の深刻な問題に対して、自動式工場のようなオートメーション技術が重要な役割を演じるとして、問題を補完しようと試みる。それは、現代の問題である高齢化社会を補う存在となりうるか?と問い掛けているようでもある。ただし、自動化崇拝が偉大な文明を抹殺しかねないとも指摘している。産業革命以来の悲劇とならぬよう希望すると。
自然に適合しない技術は危険であろう。今日、あらゆる分野において利便性の追求から自動化システムが進化しつつある。面倒くさがり屋の性分が人間自身を自然の産物から遠ざけようとしているのか。あるいは、人間が本来やるべき仕事を見つけようと、雑用を減らそうとしているのか...
「科学的発見の本質は、我々の便宜とは全く無関係に作られた一個の存在を我々自身の便宜のために解釈することにある。従って、世界の中で秘密とやっかいな符号体系によって護られている最後のものは自然の法則である。」

2016-12-04

"サイバネティックスはいかにして生まれたか" Norbert Wiener 著

"Cybernetics" という言葉に出会ったのは、三十年ぐらい前であろうか。通信工学や制御工学を学べば、どこかで見かけるだろう。今日では仮想社会と結びついて、Cyber という語が一人歩きを始めた感がある。そう、サイバー空間やサイバー攻撃の類いだ。
計算機工学の先駆者フォン・ノイマンが自動増殖オートマトンの理論を提唱した頃、ノーバート・ウィーナーは情報工学に生理学や心理学を融合したシステム工学の新たな分野を切り開いた。原題 "I Am a Mathematician." は、数学者の自叙伝という性格を帯びる。ここに「ウィーナー過程」という用語は登場しないが、ブラウン運動の好奇心から発した確率過程に至る思考経路を披露し、数学や統計力学と電気工学の相性の良さを物語ってくれる。
「私に課せられた問題は、概して科学に対してあまり深い関心を抱いておらず、もちろん専門的な科学知識を持ってはいない大衆に対して、或る根本的に科学的な観念の発展過程を説明することであった。できるだけ科学上の専門用語を避け、私の考えを日常語に直して言い表わさねばならなかった。これは著者たるものにとってすばらしい訓練であるが、それはまた完全な成功には至らないという危険を冒す訓練でもある。科学用語を使うと、とかく話がちんぷんかんぷんになるが、科学の歴史が用語に与えた緻密な意味内容を利用せずに、科学的な観念の重要部分をいくらかなりとも表現することは極めて困難であり、完全な成功を得る見込は文芸評論家が考えるよりはるかに少ない。」

数学という学問は、風変わりなところがある。他の学問分野が、社会における具体的な問題解決を目的としているのに対して、これといったものがない。ひたすら数の法則を求め、不可思議な性質を持った数式を探求し、そのために無味乾燥と蔑まれることもしばしば。だからといって、純粋な好奇心から発しているかといえば、そうでもなく、賞金稼ぎのごとく有名な未解決問題に群がるような脂ぎった動機も覗かせる。
数学の定理が社会的地位を獲得するには、数千年の月日を要すことも珍しくない。例えば、素数の歴史は紀元前の数千年に遡り、ユークリッドの「原論」にも素数に関する証明を見つけることができる。まさか素数の発見者が、今日の暗号システムで大活躍するなどとは思いもしなかっただろう。真理が役に立たないということが、人間社会にとって本当にありうるのか。もしあるとすれば、人間社会は真理から外れた存在ということになろうか。
社会システムを根底から支えている技術は、数学という客観性に頼っている部分が大きい。感情や感覚に流されやすい社会では尚更だ。市場原理しかり、社会制度しかり、戦争またしかり。数学には、定理を導いた者の意に反して利用されてきた歴史がある。新兵器が開発される背景には、必ず天才数学者たちがいる。数学の実用性に注目した古代数学者にアルキメデスがいるが、彼の発明した投石機の原理はまさに戦争のための道具だ。そして、二つの大戦をまたいで、チューリング、ノイマン、シャノン、ウィーナーなどの天才数学者を輩出し、彼らのおかげで計算機工学を開花させたのである。こうした技術が、核兵器や化学兵器といった大量破壊兵器を生み出したことも事実で、天才たちの功績が、まずもって悪魔の手先とされてきた。本書にもその苦悩が伺える。
工学という学問分野は、実用性をもって評価される。無味乾燥な法則を意味あるものにするということは、解釈を施すことに他ならない。それが自然に適った解釈であるかを常に自問すれば、数学は哲学となり、数学者は真理の探求者となるであろう...

1. 無秩序な世界におけるルベーグ積分の役割
ライプニッツは、物理的世界の連続性を主張し、原子論に正面から反対した。時間と空間が無限に分割可能とすれば、時間と空間に分布する量もまた、あらゆる次元に渡って変化率を持っていることになる。実際、時間と空間に関係して分布する物理量は、工学的に意味をなすものが多い。
そこで、存在の概念では、離散的な個を対象とするのではなく、連続的なエネルギースペクトルを対象としてみてはどうだろう。そのスペクトルを微分方程式の群として眺め、一つの偏微分方程式として再構築する。エネルギー準位が離散的に存在するのは、連続で働く意志に対して、落ち着きの場を求めた結果であろうか。実は、離散性と連続性は、意志のもとで調和した存在なのかもしれない。尚、意志とは誰の意志かは知らん...
思えば、電気回路技術者は、電子の個々を制御できているわけではない。電流や電圧といった値は統計的な物理量であって、極めて確率的である。トランジスタがある条件下で多数決的にスイッチング制御されるという意味では、民主主義的ですらある。それは、市場原理、社会現象、気象現象などと似た状況にあり、製造工程における半導体素子の歩留まり率が顕著に示している。
こうした不確定性の渦巻く世界を、統計力学なしに説明できそうにない。ウィーナーは、このような複雑で曲線的な過程を記述する道具としてルベーグ積分に役割を与えた。ルベーグ積分の概念をつかむことは、数学オンチのおいらにとって容易ではないが、これを知ることが本書の基本となりそうだ。積分とは、まさに精度の高い近似法と言えよう。測度の概念を、長さや大きさを拡張して抽象化し、さらに極限に近づける。極めて不規則な領域を測ろうとすれば、確率論や統計力学を拝借したい。この二つの理論学問は、物理学と数学の間に位置し、この中間領域こそがウィーナーの仕事場であった。
本書には、コルモゴロフの確率論、ギッブスの統計力学、シャノンの情報理論、バーコフのエルゴード定理、マクスウェルの電磁ポテンシャル、プランクの輻射理論、あるいは、当初「バナッハ = ウィーナー空間」と呼ばれたベクトル空間論などが登場する。これらの理論の融合によって無秩序の離散性が、ある種の系列を持った連続性にも見えてくる。なるほど、概念の調和こそが、異次元に配置されるものまでも同一空間に魅せてくれるというわけか...
「線に沿ったある区間の長さや円その他の滑らかな閉じた曲線内の面積を測ることは実に容易である。だが、無数の線分とか曲線でかこまれた無数の領域とかにまき散らされた点の集合、または、この複雑な表現でもまだ十分でないほどに不規則に分布している点の集合の大きさを測ろうとすれば、面積とか体積とかいう極めて単純な概念でさえも、それを定義するためには程度の高い思考を必要とする。ルベーグ積分はこのような複雑な現象を測る一つの道具である。」

2. サイバネティクスな世界
サイバネティクスは、主としてコミュニケーションの科学だという。それ故に、社会学、人類学、言語学もこの分野に属すと。この用語は、「舵手」を意味するギリシア語「キュベルネテス」から思いついたそうな。制御の技術と学理という意味をこめた言葉だとか。そして、神経生理学者や心理学者が用いる「記憶」「フィードバック」という言葉を借用するに至った経緯を語ってくれる。いまや、コンピュータ工学で欠かせない用語である。
チューリングマシンを具現化したノイマン型アーキテクチャは、読み書きできる記憶空間と制御系の内部状態で構成され、電子計算機は人体の神経系モデルとして見ることができる。こうした世界では、知識はその本質において知る過程であるという。そして、生命とは、永遠の形相のもとでの存在ではなく、むしろ個体とその環境との相互作用であると。知識とは、生命のある一面ということか。生命とは、説明されるべきものではもなく、少なくとも、人間が生きている間に説明できるものではなさそうだ。未来の結果よりも現在の過程が重要だとすれば、宇宙の終局に関する知識を求めても無益なのかもしれん。終局の状態は、おそらく時間を持たず、知識も持たず、意味もまったく持たない状態であろうから...
「サイバネティクスの立場からみれば、世界は一種の有機体(organism)であり、そのある面を変化させるためには、あらゆる面の同一性をすっかり破ってしまわなければならないというほどぴっちり結合されたものでもなければ、任意の一つのことが他のどんなこととも同じくらいやすやすと起るというほどゆるく結ばれたものでもない。それは、ニュートン的物理学像の剛性を欠くとともに、真に新しいものは何も起こり得ない熱の死滅、すなわちエントロピー極大状態の全く筋目のない流動性をも欠く世界である。それは過程の世界である。しかも、過程が到達する終局の死の平衡のそれでもなく、ライプニッツのそれのような予め定められた調和によってあらゆることが前もって決定された過程の世界でもない。」