2008-05-25

"13階段" 高野和明 著

推理小説は麻薬である。先週からもう10冊以上読み続けている。本書は「江戸川乱歩賞受賞作品」。ハズレはないだろうという軽い気持ちで手に取ったのが夜の九時。これが悲劇の始まりである。推理小説は、暇な時にしか手を出してはならない。そう気づいても時既に遅し!昔の衝動が甦る。きれいな朝焼けに、あっさりした朝酒。余は満腹じゃ!麻薬がもう数冊、目の前をおよいでいる。そして、翌朝まで飲みつづける。今日は何日だ?あれから何日たった?次々に手にした本は、初めて読むはずだが、既に読んだことのあるような懐かしさがある。どうやらデジャヴの罠に嵌ったようだ。もはや時間を感じていない。時間とは、人間の意識の中の産物でしかないのか?時間の意識が破壊されれば、あらゆる概念が無意味であることを悟れるかもしれない。こうして、アル中ハイマーはミステリーの中をさまよう。

人は自己主張している時、全く耳をかそうとはしない。相手の話を聞く身構えができて、はじめて効果的に話題を切り出すことができる。こうした人間心理は、推理小説には欠かせない。間合いをはかって真相を少しずつ明らかにしていく。これが推理小説の醍醐味というものだ。もちろんシナリオも大切である。ストーリー展開には意外性がなければつまらない。本書は、そうしたテクニックを存分に見せてくれる。また、社会問題をあらゆるところにちりばめているところも興味を惹く。法の平等性への限界、命の重さ、死刑制度の是非、応報刑思想と目的刑思想の対立といったものを問題提起する。これが当時の新人作品であることにも驚かされる。
本書は、死刑執行までのわずかな時間に冤罪を晴らすという一般ウケしやすい題材でもある。死刑囚は、犯行時刻の記憶を失っている。残された記憶は「階段」。そこには意外な設定がある。主人公二人が、刑務官と、仮釈放され保護観察中の男で、真相究明のため互いに協力する。その刑務官が、保護観察中の男を助手として誘ったところに、本書の隠されたテーマがある。殺人犯の宿命は、家族の崩壊、経済的な苦難、世間の眼からは逃れられない社会的報復がある。法廷での論争では、検察官と弁護人による被告人の罪状を巡っての引っ張り合いなる。反省している演技が判事の心証形成を揺さぶる。正直者が馬鹿を見るのは世の常である。犯罪を犯した者が、本当に更生して、社会復帰するためには数々の難題を抱えている。そうした社会問題を浮き彫りにする。筋書きにも意外性がある。実は、主人公の一人、仮釈放中の男が犯した殺人事件と、冤罪とされる本事件には関わりがあった。本事件の依頼人の関わり方にも意外性があり、もちろん犯人も。これがなければミステリーではない。最後に、仮釈放中の男が、自分が犯した殺人の動機を明かす。これに刑務官は「俺もお前も終身刑だ」と呟く。なんとも印象的な終わり方が作品を際立たせる。

本書は映画化もされたという。おいらは観てない。この映画、著者には気に入らないらしい。一般的に活字の方が想像力がわく。アル中ハイマーは反応が鈍いので読み返せる方がありがたい。凝ったシナリオの映画は何度も見返さないと理解できないが、繰り返し観るおもしろさもある。映画の良さは、おもしろい場面が一瞬のうちに過ぎ去るところにある。一瞬だからこそ余計に感動を強める効果がある。ただ、本書を映画で観たいとは思わない。本書の印象を変えたくないからだ。映画を観た途端にがっかりさせられる作品も少なくない。

ちょいと印象的なキーワードをメモっておこう。

1. 13階段
死刑判決の言い渡しから執行までの手続きの数は13あるらしい。まさしく13階段である。明治以降の日本の死刑制度では、13階段の死刑台が作られたことがないという。唯一の例外は戦犯処刑のために作られた巣鴨プリズンの絞首台だが、それは米軍の手によるものである。我が国の昔の処刑台には19段あったらしい。しかし、死刑囚に階段を上らせる際に事故が多発したという。改良を余儀なくされ、現在では目隠しされた死刑囚の首に縄がかけられ、床が二つに割れて地下に落下する「地下絞架式」となっている。

2. 死刑執行
刑事訴訟法の第475条では、死刑は判決確定後、法務大臣の命令により6ヶ月以内に執行することが定められている。しかし、実際は法務大臣が命令することは少ない。まず、国会審議中に執行命令が出ない。野党の追及があるからであろう。内閣改造時期がヤバいという。法務大臣が代わる時に、残した仕事を一気に片付ける傾向があるからである。死刑執行命令とは、そんな次元のものだと登場人物の刑務官は吐き捨てる。死刑執行を拒否した法務大臣は多い。宗教上の理由とか言い訳はいろいろある。法律で定められているならば、明らかに職務放棄である。法を否定するならば、最初から法務大臣就任を拒否するのが筋というものだろう。ただ、人間の命を裁くのに、ためらいのない者などいない。こうした状況は、我が国の法律に矛盾を抱えている証拠であり、社会的にもタブー化されてきた。しかし、裁判員制度が施行されようとしている今、この矛盾からは逃れられない。

3. 恩赦制度
恩赦とは、司法の出した結論に対し、行政の判断によって刑事裁判の効力を変更させようというものである。内閣の判断で、犯罪者の刑罰を消失させたり減刑させたりできる。これは、三権分立に反するという批判もある。ただ、法律家の高慢さ、法の画一性によって妥当でない判決が下された場合や、他の方法では救い得ない誤判への救済で、支持される制度でもある。しかし、現実にはマイナス面ばかりが目に付くという。恩赦には大別して政令恩赦と個別恩赦がある。政令恩赦は、皇室や国家の慶弔の際、一律に行われる。昭和天皇の病状悪化が伝われた時、死刑執行に関するすべての業務が停止されている。天皇崩御となると政令恩赦が出される。そうした折、死刑を争っていた被告人は、自ら控訴や上告を放棄し、死刑を確定してしまったという。これは、政令恩赦が死刑確定囚にしか適用されないからである。しかし、実際には軽微な犯罪者だけを対象としたため、自らの死を早めた結果となった。恩赦によって釈放された者は、選挙違反の事案が圧倒的に多いという。政治家のために犯罪に手を染めた連中を対象にしているとは、政治利用していると言われても仕方が無い。

x. 将棋名人戦も推理小説ばり(おまけ)
ちなみに、この項は、本書とはなーんも関係がない。
ちょうど、将棋のタイトル戦の一つ、名人戦、森内名人 vs. 羽生挑戦者が行われている。先週の第四局で、羽生挑戦者が三勝目を挙げ、永世名人に王手をかけたところだ。この名人戦にも推理小説ばりのストーリーを感じている。
名人戦の挑戦者が決定した3月初旬、ちょうど棋王戦、佐藤棋王 vs. 羽生挑戦者が行われていた。おいらには、このタイトル戦は名人戦を睨んでいるかのように見えた。それは棋王戦第四局で現れた。後手番の羽生氏は、異常なほど低い姿勢で完全に受けきる構えを見せた。そして、どう見ても勝てそうな気がしない手順を選ぶ。羽生マジックを後手番で試そうとでも言うのか?受けの妙技を会得しようと楽しんでいるかのようにも見える。これは名人戦を睨んだ森内対策だろうか?ネット中継で途中から登場した将棋の大御所らも、「どうしてこんなになっちゃったの?こういうのは見た目よりもダメなんだ!」と酷評されるほどだ。案の定、羽生氏は負けた。更に、棋王戦第五局では、タイトル戦の現場に滅多に姿を見せない森内名人が現れた。渡辺竜王と検討を始めている様子は、なんとも想像し難い。これも名人戦を睨んだ羽生対策だろうか?
森内 vs. 羽生戦では、先手番の勝率が異常に高い。つまり、後手番を如何に制するかが鍵となる。論理的にも先手番の方が有利なのかもしれない。直感的にはそんな気もする。だからといって、この偏りは異常である。両者の対戦では、後手番から無理に仕掛けるため、先手番の勝率を助長しているように見える。流れでは、後手番を持った方が先に良い陣形を見せているにも関わらず、先に仕掛けて負けるケースが多い。わざと先手番から隙を見せて仕掛けさせていると見ることもできる。仕掛けさせるのが、あらゆる戦の常套手段ということか?一手損の論理とは、そうしたものであろう。先手後手で統計をとるよりも、仕掛けのタイミングで統計をとる方が論理的に解明できそうな気がする。羽生氏は書籍で、将棋で最も重要なのは序盤であると語っていた。そう述べている当人が、終盤で異常な強さを見せ、数々の逆転劇を演じているのはおもしろい。形勢不利でも、逆転する手掛かりを序盤で築いているのだろうか?両者の対戦は序盤から奇妙な動きをする。達人の動きには、何か含みがありそうに見える。
名人戦では、第三局に大きな流れを見せた。先天番の森内名人のポカと言われ、50年に一度の大逆転と報じられた。だが、これをポカと評せるのだろうか?羽生挑戦者も鬼のような執念を見せ、逆転に至るまでに凄まじい神経戦を展開していた。名人戦第四局では、後手番の森内名人の方が先に戦型を整えた。そして、仕掛けたが無理攻めだったと語っている。確かに、うまくパスできれば千日手に持ち込めたかもしれない。先手の仕掛けを待つという選択肢もあっただろう。だが、消極的な手順を選択して失敗するぐらいなら、積極的に動きたくなるのも人間の心理というものである。両者は、そこに至るまでに、プロ棋士ですら解説できない難解な手順を見せた。完全に二人の世界を築いていた。その仕掛けのタイミングも絶妙である。羽生氏が席を立ったその時、戦いが始まった。席を立ったのは、その気配を察知して深呼吸でもしてきたのだろうか?そこには、あうんの呼吸が感じられる。両者の間合いには、盤上には現れない宇宙がある。そこには論理を超越した何かがある。この名人戦は、どのような結末を見せるのか分からない。彼らが追求する大局観とはどんなものだろうか?本局の決め手でも見せた羽生氏の「震える手」は、久しぶりに印象深いものであった。

2008-05-18

"第三の時効" 横山秀夫 著

昨日、推理小説を10冊ほどまとめて買い込んだ。今週は、推理小説週間にするとしよう。アル中ハイマーは推理小説に目がない。それも、リズミカルに読めてストレス解消に抜群だからだ。ただ、読み出すとやめられない止まらない「かっぱえびせん」状態となる。したがって、暇な時にしか手を出してはならない。つまり、今週は暇だということだ。そう言えば、ここ数年、推理小説なるものを読んでいない。記憶の隙間を呼び起こすのもブログ効果というものか?久しぶりに読むのだから、ハズレのないように願いたい。評判の良さそうなものを物色する。本屋の陳列に素直に任せ、商売の罠に嵌るのも悪くない。そして、なすがままに手を伸ばす。左脳の破壊された酔っ払いは、しぶとく直感で生きるのである。
おいらは、推理小説を選ぶ時に基準とするものがある。それはタイトルだ。この点は、他の本ではどうでも良いことであるが、推理小説となると別である。読む前から気分を作って、自らの感情を揺さぶる。これがストレス解消となる。

少々異色のミステリーを見つける。題材にしている事件は至って平凡である。ところが、これがなかなか読ませてくれる。全六編からなる連作短篇集というのも読み易さを増す。本書は親本から文庫化されたものであり、かなり細かい加筆がなされているというから、それもうれしい話である。注目すべきは登場人物の設定である。なかなか凝った設定で、物語の大半がここに集中している。これほど引き込まれるのは、設定やシナリオがしっかりしているからに違いない。映画でもシナリオのしっかりしたものは廃れずに、おもしろいものだ。

本書は、F県警強行犯係シリーズ。捜査課長が強行一係の三班を統括するが、それぞれの班長は覇権を激しく争い、独断で動き、指揮も思うままにならない。三人の班長は、不幸な交通事故以来一度も笑わなくなった刑事、冷徹な仕事ぶりで部下からも嫌われる公安あがりの刑事、動物的な勘に頼るたたきあげの刑事、と強烈な個性を持つ。そして、出世のために他班と争い、時には同じ班内刑事ですら手柄のために蹴落とす。そこには、人間の倫理やプライドを高く謳い上げて、一人一人の登場人物の描写からも人格を浮かび上がらせる。こうした人間模様を背景に、刑事たちの逮捕への執念を描く。なんと言っても、様々な冷酷な展開を見せながら、最後は温かい人間模様で着地させるところがいい。

1. 沈黙のアリバイ
法廷でしかける被告人の罠。長期間の取調べ中ついに自供。ところが、法廷で突然アリバイがあると叫ぶ。そして、傍聴席の警察官を嘲笑うかのごとくこっそりと笑みを見せる。被告人は自白を強要された悲劇のストーリーを作り上げ、冤罪を叫びマスコミを味方につける。おまけに、担当裁判官は冤罪判事と異名をとる人物。アリバイ発言は警察の面子という心理を巧みに揺さぶる。そもそも被告人は、自らのアリバイを証明するつもりなどさらさらない。偽装したアリバイは必ず見破られることまで計算している。むしろ、あるかもしれないアリバイを訴えることにより判事の心証形成を被告人に有利に働くように仕組む。しかし、そのアリバイは更に根深い犯罪を意味していた。

2. 第三の時効
通常の時効を「第一の時効」。刑事訴訟法255条によると、犯人が国外に出た場合、その期間は時効の進行が停止される。これが「第二の時効」。この第二の時効に犯人を嵌めようと画策が始まる。夫を殺された妻とその娘。実は娘は犯人の子。犯人が二人に接触してくるところを待ち受ける。そして、第二の時効が成立する。ちょうどその時、今まで現場にも姿を見せなかった冷酷な班長が登場する。実は「第三の時効」が存在した。犯人を逮捕していなくても裁判所には起訴できる。初公判までに捕まえればいいというわけだ。現場の刑事にも知らせず巧みに仕組んだ罠。しかし、この班長が仕掛けた罠は、実は逃亡犯に向けられたものではなかった。

3. 囚人のジレンマ
共犯者の心理が巧みに描かれる。互いに別々の場所に囚われている。自分は共犯者を裏切らないと固く心に決めている。だから相手も決して自分を裏切らないと信じている。だが、意思の疎通は図れない。しばらくすると、相手にに対する疑心が生まれる。それを打ち消しても蘇っては増殖し、すべての感情と理性を凌駕する。そして、とことん追い詰められてしまった時、人は自分以外の人間を信じられなくなる。この心理は、捜査一課の人間関係にも当てはまる。出世と自分の生き残りしか考えない集団。そこには、まさしく心の砂漠がある。いや、老刑事の花道を飾らせるための人間愛、水も緑もあった。

4. 密室の抜け穴
同じ班内で手柄を競わせる。リスクのあるはずの班内不和は、刑事の世界に限って言うなら、仕事の原動力になっても士気低下には繋がらないという。強行犯係に属する捜査員は例外なくプライドが高い。容疑者が厳重に監視されたマンションの一室から煙のごとく消える。そして、責任追及会議で刑事達の葛藤が始まる。どこにも隙がないはずなのに誰かがミスをしたはずだ。出世欲と不条理な人事や、ライバルを蹴落とすための陰謀が渦巻く。そもそも容疑者が逃げたというのに会議をしている暇などない。会議招集者は誰だ?この会議の主旨は?班長がつぶやく「要するに密室に抜け穴を作らせりゃあいいってことだ。」実は、会議そのものが犯人探しだった。

5. ペルソナの微笑
青酸カリを使ったホームレス殺人事件が発生。一人が13年前に起きた青酸カリの盗難事件を思い出す。当時8歳の少年が何者かに渡された青酸カリで結果的に父親を殺してしまった。子供を使っての卑劣な間接殺人。少年は成人しても残酷な体験から上辺の笑顔しか作れない。刑事自身にも幼い頃、事件で道具に使われた過去があり、間接殺人には複雑な思い入れがある。実は、本事件の真相そのものが13年前から引きずったものだった。

6. モノクロームの反転
水と油の二つの捜査班の主導権争い。二つの班は協力して1プラス1が3にも4にもなる。しかし、犬猿の仲で1以下にもなる。県警最強の仕事師集団はどう動くか?互いに情報を隠蔽、手柄を争う。一家殺害。そして葬儀。そこには子供の棺桶があった。それを見て、最後の最後に人間の倫理が際立ち、捜査班はプロの集団となる。

2008-05-11

"世界でもっとも美しい10の科学実験" Robert P. Crease 著

本屋を散歩していると、おもろいフレーズに目が留まった。
「科学実験の美しさを展覧会の絵のように鑑賞する。」
アル中ハイマーは、この宣伝文句にいちころである。科学といってもここで挙げられるのは物理学が主である。現代の世界観の基礎を築いた物理学の功績は大きいということであろう。多くの科学実験の中から10を選別した著者の苦悩する様もうかがえる。今宵は、ブランデーを飲みながら画廊を買った気分に浸っている。

美しい実験とは何だろう?即座に思いつくのは、ユークリッド観に見られる数学的な美である。科学者は単純な理論ほど美しいと言う。数学者は単純な数式で世界を表せれば、それを美しいと言う。本質を分析し、いかに単純化するかは、優れた思考である。しかし、人間の美の定義は難しい。それぞれの世界の美しさを理解できるのは、その世界の住人だけである。退屈な科学実験の最中、新しい洞察に明確な形を与え、ものの見方を一変させる瞬間がある。そんな瞬間が苦悩から解放し、新しい世界観を与える。科学者は、そんな瞬間を「美しい」と表現する。
本書は、科学実験の美しさには、絵画や彫刻と違って動きがあり、むしろ演劇に近いという。そして、美しい実験には、一般化や推論をしなくても、結果が明確に示されるような決定的なものでなければならないと語る。
「もし、美しい実験をめぐって疑問が生じるならば、それはその実験に関する疑問ではなく、世界に関する疑問である。」
科学実験は、何かを明らかにする一種のパフォーマンスである。確かめたい状況を見出すために計画し、シナリオを描く。一方で、科学は論理であり、美を語るのは見当違いであると主張する人も少なくない。美は主観と感情の領域にあるのに対し、科学は客観と知性の領域にある。果たして、論理だけで真理に近づけるだろうか?おいらは、こうした哲学的な疑問を昔から持っている。哲学的な対立には、理性と芸術の衝突というプラトン時代からのものがある。プラトン曰く。「芸術は理性よりも情熱の求めるところを満たし、魂の愚かな部分の機嫌をとる。」真理を探究する時に、こうした理性と論理から離れることへの警告も多い。ただ、感情と論理をそれほど遠ざける必要があるだろうか。歴史は感情で左右されてきた。人間は直感に頼っているところも多い。ここで言う直感とは、経験に裏づけされたものである。

科学の美には、崇高なものを感じる。素晴らしい真理をみせてくれるからである。科学は、人間味に欠け、宇宙における人間の地位を引き下げるものとみなされることも多い。一方で宗教は、人類を特権的な地位へ無理やり押し上げる。思うに、人を惑わせる宗教よりは、科学は、はるかにイケてる宗教である。
科学と芸術にも論争は多い。科学的創造性と芸術的創造性の差異とは何か?物理学者ハイゼンベルグは次のように述べたという。
「私がこの世に生まれてこなくても不確定性原理は、誰かが定式化したであろう。しかし、ベートーヴェンがこの世に生まれてこなかったら、作品111は誰も書かなかったであろう。」
哲学者カントは、天才は科学者の中には存在せず、芸術家の中のみに存在すると言った。対して、ニュートンは別格で、その人のみが達成できる個人的な偉業であると賛える人も多い。本書は、理論だけでなく、実験に目を向ければ、芸術的な領域が広がることを教えてくれる。実験のプロセスにこそ想像力や独創性に富んだ世界がある。科学が知覚できる瞬間とは、どういう時だろうか?ブラックホール説を唱えたって、実際に見られるわけではない。実験室は、そうしたものを少しだけ体験の場として見せてくれる。そこには伝記と呼べるほどの物語がある。真の物理法則を得るためには、極限状態を確保しなければならない。それには熟練した技が必要である。科学者の人間性にも左右され、資源、予算、人員といった制約の中で発揮される。ゲーテ曰く。「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」論理性と正当性だけでしか科学が見られないのは、あまりにも寂しい。結果よりも、発見のプロセスにこそ人間味がある。そこには、彼らの情熱と執念がある。そして、成功した時に一種の芸術を見せてくれる。

1. エラトステネスによる地球の外周測定
コロンブスが登場したのが15世紀とずっと後にも関わらず、古代ギリシャ人は既に大地は球形であることを示す多くの証拠を挙げていた。アリストテレスは、月に投げかけられる影が湾曲していると指摘し、南北で見える星座の違いに着目した。アルキメデスは天体が互いの周囲をめぐるという宇宙モデルを作った。エラトステネスは、太陽からの光は地球のどの地点でもほぼ平行になると仮定し、異なる地点で影を観測する。使った道具は日時計の針が投げかける影である。そして、地球の曲率を求め、地球の外周を測定した。この実験の美しさは、そこに難しい理論があるわけではなく、ただ影の長さを測定することにより、宇宙規模の測定がなされたことである。この実験は、地球と人間の位置関係による世界観を構築したと言ってもいい。

2. ガリレオの斜塔伝説
ガリレオは、重さの異なる物体が真空中では同じ速度で落下することを説明しようとした。その著書では、ピサの斜塔の名は無く、大砲の弾とマスケット銃の弾を使って実験したことが報告されているという。斜塔伝説は、ヴィヴィアーニによる報告が唯一の手掛かりであり、実際には行われなかったというのが多くの歴史家の考えのようだ。いずれにせよアリストテレスの枠組みからはみ出したのは確かである。アリストテレスは、物体の落下速度は密度によって決まると主張した。つまり、金でできた球は、銀でできた球よりも二倍速く落下するということである。ガリレオ以前にも、アリストテレスの論点に欠陥があることに気づいた科学者がいた。ガリレオの偉大さは、加速度という概念を取り入れ、物体の運動に新しい世界観を与えたことである。当時、新しい世界観は、政治的にも宗教的にも問題になる。斜塔伝説は、ドラマティックに仕立てるために良い宣伝効果があったであろう。昔、理科の先生が、真空ポンプで熱心にデモンストレーションをしていたのを思い出す。先生には悪いが、おいらは懐疑的に眺めていた。ガリレオが正しいとは思っていても、酔っ払いの感覚はアリストテレスの世界で生活している。したがって、アルコール濃度の重い方が沈むのも速い。

3. アルファ実験とガリレオの斜面
理科の教師たちは、もっとも重要な実験という意味で「アルファ実験」という言葉を使う。実際に物体の落下運動を観察するには、人間の目では速すぎる。アリストテレスのように水中を使えば現象を複雑化してしまう。そこで、斜面で自由落下を近似できると考えた。今日、運動を時間の関数で扱うのは当り前であるが、運動を時間の観点から見るという新しい世界観を与えた。等加速度運動の法則の始まりである。ただ、この時間の測定方法に世間は懐疑的だったらしい。水時計を使ったからである。水時計では短い時間を正確に測定することは難しそうだが、ガリレオは一脈拍分の一まで測定したと主張したという。ガリレオの専門家アレクサンドル・コイレは、ガリレオの実験に価値がないと蔑んだという。しかし、トマス・セトルは、この方法でもガリレオの精度の主張を見出せることが可能であることを示したという。

4. ニュートンのプリズム
アイザック・ニュートンは、太陽光である白色光は、異なる光線の混合物であることを示した。彼は、プリズムを使って成し遂げた実験により、レンズによる望遠鏡の性能には限界があることに気づく。すべての光線を一点に集めることはできないということである。驚くべきは、白色光は、基本的な色がすべて決まった比率で混ざっていることである。ニュートンは色についても説明する。色は物体を照らし出す光の性質であって、暗闇には色はない。哲学者や芸術家や詩人たちは、光をこの世のあらゆる現象の中でも特別な地位に置く。光は、神が創造した万物を照らすという意味で宗教的にも高い地位にある。ニュートンは、こうした世界観に疑問を投げかけた。物理学者ファインマンは、科学者は花の美しさがわからないどころか、芸術家よりもよくわかると言った。科学の知識は、生態系における美も、進化のプロセスに花が果たす役割の美しさも明らかにするからだ。音響学を学んだからといって、交響曲を聴く楽しみが損なわれるわけではない。

5. キャヴェンディッシュの緻密さ
ヘンリー・キャヴェンディッシュは、病的なほど内気であったという。彼の伝記作家ジョージ・ウィルソンによると、人格は虚ろで、人を愛さず人を嫌わなかった。頭脳は計算する機械でしかなく、何かに憑かれたかのように装置を改良し続け、ひたすら精度にこだわった。彼は、50年間も憑かれたように研究したというのに、論文は20篇に満たず、本は一冊も書かなかった。そのせいか、オームの法則には、最初に発見したこのキャヴェンディッシュの名がついていない。キャヴェンディッシュが地球の密度を測定した実験は、彼の代表作となる。二つの物体が互いに及ぼし合う引力が測定できれば、その物体と地球との間で働く引力と比較し、相対的に地球の密度を知ることができる。彼は、二つの金属球を竿にぶらさげ、ゆっくりと近づけ、その間に働く引力を測定することを考える。しかし、二つの金属球の間には極めて小さい力しか働かないため、空気の流れでも誤差を生じる。彼の論文は、ほとんど誤差に関する学位論文のようだと言われたらしい。最大の難問は室内の温度差である。装置内にわずかな温度差が生じるだけで空気が流れる。人間の体温も見過ごせない。金属を使うからには磁気も要因となる。装置を密閉させた部屋に設置し、動きを遠くから望遠鏡で観測したという。そして、地球の密度は、水の密度の5.48倍であることを求めた。ただ、論文の中で、尚も実験には改良の必要性を論じたというから、その執念には感服する。

6. ヤングの二重スリット実験
昔から、回折や屈折など、光には波の性質があるこが指摘されていた。トマス・ヤングは干渉の概念を水から光に拡張してみせた。水の場合、二つの波が衝突すると、山と山がぶつかれば、互いに強めあう建設的干渉が起き、山と谷が衝突すると打ち消しあって相殺的干渉が起きる。光の場合、波の振幅は光の強度と関係がある。干渉する光波の振幅が互いに強めあう場合は明るくなり、振幅が逆向きの場合は暗くなる。ニュートン・リングでは、凸レンズをガラス板に押し付ける時に生じる円心円状の光の帯について、リング中の暗い部分は相殺的干渉によって生じることを示した。ヤングの実験は、光の波動説を強調したが、すんなりとは受け入れられなかったらしい。彼は、売り込みが下手な典型的な科学者だったという。ただ、波動説にも問題はある。その媒体は何か?そして、エーテルという言葉が登場し、宇宙の真空説と充満説の論争を見る。その後、マイケルソン・モーリーの実験でエーテルの存在は否定され、現在では粒子と波動の二重性を持つとされる。ヤングの実験は、水から光に拡張するというアナロジーを持ち込んだ例と言えるだろう。しかし、アナロジーとメタファーは、科学を混乱させる元と考える人も多い。科学とは、真理がどこにあるかを問うものであり、何に似ているかを問うものではないと考えるからである。一方で、科学的思考には、アナロジーやメタファーといった深層心理が不可欠であると主張する人もいる。ここでも、哲学論争のように「感覚」対「論理」の対立を見ることができるのはおもしろい。

7. フーコーの崇高な振り子
ジャン・ベルナール・レオン・フーコーは、星の写真をいくつか撮影した。当時としては離れ業である。明るさの足らない天体を撮影するには、カメラのシャッターを長い時間開けておかなければならない。しかし、その間も地球は自転し天体は動いている。そこで、振り子を動力とした時計仕掛けの装置を考案し、必要時間カメラを一つの星に向けた。フーコーは、振り子によって地球の自転をも披露した。彼は、回転盤の上に、振り子を取り付けるという単純な舞台を用意する。回転盤を回すと、振り子の振動面が回転しているように見えるが、回っているのは回転盤であって、振り子は同じ方向に振れているだけだ。この上演では、回転盤が地球に相当し、部屋の空間が宇宙に相当する。ただ、回転盤は平面であるが、地球は球なので、地球表面の振り子は、極点と赤道でも角度は少し違う。彼は、振り子の振動面が回転する様子と角度を観察すれば、地球上の位置まで計算できることを示した。当時の科学者は、地球が自転していることは知っていた。それも天文学者の推論によってである。しかし、実演されたら、これほど感動的なものはないだろう。ちょいとネット検索してみると、フーコーの振り子は日本でも各地で見学できそうだ。ツーリングでフーコーの振り子めぐりというのも乙である。

8. ミリカンの油滴実験
ロバート・ミリカンは、原子より小さい粒子を見たと言い張った。彼は、一個の電子が帯びる電荷の質量を測定することに意欲を燃やす。宇宙でもっとも基本的かつ不変な量と考えたからである。J.J.トムソンは、電子を発見した。トムソンは、ウィルソンの霧箱を利用した。これは、過飽和水蒸気を帯電させて霧を発生させる装置である。水滴は負に帯電したイオンを核とする。水滴が一個の電子を核としていると仮定すれば、水滴の数で全電荷数が概算できるという発想だ。水滴一個の質量は、沈下する速度を測れば、ストークスの法則で求められる。こうして一つの電荷を捕まえようとしたのである。しかし、大雑把な概算値でしかない。問題は小さな水滴はすぐに蒸発してしまうというものだったという。ミリカンは、蒸発しない油を利用する。そして油滴の重力と、電荷の力が釣りあって油滴を静止させる。これは「平衡液滴法」と呼ばれる。ここで疑問が涌く。電子を見たと言い張ったミリカンは何を見たのか?彼は次のように述べたという。
「一個の電子が油滴に飛び乗った。実際、電子が油滴に飛び乗ったり、飛び降りたり、退いたりする瞬間までもわかった。一個の油滴が、もっとも遅い速度で上に向かって動いている時は、その背中に一個の電子しか乗っていないことを確信することができた。」
油滴が電場に反応して上下したり、対流によって漂ったり、ブラウン運動するのを見たということらしい。

9. ラザフォードによる原子核の発見
アーネスト・ラザフォードは、原子の内部構造を明らかにした。それは、正の電荷をもつ原子核のまわりを、負の電荷がもつ電子が取り囲み、原子の質量は原子核に集中しているという御馴染みのものだ。当時は、そもそも使える道具が原子でできているというのに、原子そのものの内部構造を調べるなど不可能と考えただろう。ラザフォードは、ウランがアルファ線とベータ線の二種類の放射線を出すことを発見する。彼は、アルファ粒子が原子の内部を探る道具となることを偶然発見したのだ。負の電荷をもつベータ線は、電子であることがまもなく示されるが、正の電荷をもつアルファ線は謎だった。ラザフォードはアルファ線がヘリウムの原子であることを明らかにした。当時の原子モデルでは、全体的になんとなく正の電荷を持つ原子が存在し、その中に電子が分布していると考えられていた。彼は、原子にこのアルファ線をあてる実験をする。入射されたアルファ粒子は、直進するか、わずかに方向が変化するはずだと考えたが、アルファ粒子のほんのわずかの粒子が後方散乱するのを観測した。これで、原子核というごく小さな領域に集中して正電荷が存在すると推測した。

10. 電子の量子干渉
ヤングの二重スリット実験の別バージョンで、光の代わりに電子を使った実験が量子干渉実験である。量子の世界では、日常の粒子の運動とは想像もつかない現象が起こる。電子の一つ一つは粒子であるが、集合体となると波の性質を示すから奇怪である。電子の二重スリット実験は、クラウス・ヨーンソンという大学院生によって実施されていたという。この実験によって量子力学に進展があったわけではないが、ただ、実験不可能とされていたことに、教育的、哲学的な意義があるという。それは、物質は、離散的な粒子でできているにも関わらず、量子力学では、電子を検出する瞬間以外は、電子の粒子像を棄てろと告げている。量子力学の世界は、理論にどれだけ精通しようとも、人間にとっては永遠に直感に反するものであり続けるかのように思える。

2008-05-06

"物理数学の直観的方法" 長沼伸一郎 著

なんとなく本棚を眺めていると、一つの本に目が留まった。本書は遠い昔に読んだような気がする。この際、連休を利用してパラパラっと読み返してみよう。こうしてみると記憶力が無いのも良いことだ。なにしろ、昔読んだ本が新鮮に思えるから得した気分になる。一年前に書いたブログ記事でさえ、今読み返すと新鮮に思える。これも記憶力の無い人間の特権である。このように昔の本を読み返したくなる気まぐれは、ブログを始めてしばしば起こる。これも悪くない傾向である。

アル中ハイマーは、大学時代に数学を挫折した。その引き金となったのがε-δ論法である。これは、大学初等教育でいきなり登場する。おいらは、落ちこぼれスプレーを浴びせかけられたゴキブリのように、ピクリともしなくなった。これにはダースベイダーによる陰謀が潜んでいるに違いない。お陰で、数学は大嫌いになり暗記科目となった。皮肉なことに、数学ができないことが、現在においても仕事の幅を狭くしている。
学生時代は、厳密こそが数学であるといった風潮が蔓延り、感覚的に手助けしてくれる手段を見つけることが難しかった。数学の授業では、難しい数式を証明することに専念して、目的や使い方を説明したものに出会ったことがない。物理学には興味が持てても、数学的表現となると拒否反応を起こしたものだ。最近でこそ、理系離れが叫ばれる中、感覚的にイメージしやすい本をよく見かけるが、当時は、直観的な視点を与えてくれる本が少なかった。本書は、落ちこぼれのおいらにとっては、再勉強できるありがたい存在である。著者は次のように記している。
「人間の頭脳のもつ最大のパラドックスは、理解することに関しては複雑なことよりも簡単なことの方が分かりやすいが、自分で発想を得ることに関しては、複雑なことよりも簡単なことの方がはるかに難しい。」
常々疑問に思うことがある。どんな分野であれ学者というのは、本当に理論の根本をイメージできているのだろうか?彼らは、難しい表記を使って、素人に理解できないのは当り前というように振舞う。厳密性が要求される数学では、極度に分かり辛い表現を使うのは仕方が無いことかもしれない。しかし、少々厳密さを犠牲にしても、理解を手助けするための方法があっても良いだろう。ただ、本書は昔はおもしろいと思ったのだが、今読んでもそれほど感動しない。逆にイメージし辛いところもある。酔っ払いの味覚も随分変わったものだ。

本書の印象で、今でも残っているのはエントロピーの概念である。おいらの学生時代は、エントロピーという言葉が流行った。エントロピー増大とは、どっちの方向だっけ?と、しばしば混乱した。一般的には、粒子が散らばる様子から「乱雑さ」と表現される。ただ、本書は、エントロピーの数学的表現は、乱雑さよりも、むしろ、「平等さ」や「平凡さ」と言った方が良いという。単に言葉の使い方と言ってしまえば、それまでだが科学的な表現にそんな曖昧さは許されない。したがって、ほとんど暗記で誤魔化していた気がする。情報理論においては、エントロピーは平均化を示す。熱力学では、熱機関とその仕事について調べる過程で登場し、気体が分散する現象を見れば、それは乱雑さと捉えるのも不思議ではない。ここでおもしろいのは、エントロピー増大の法則では、温度が掛け算で変化するのに対して、熱量が足し算で変化する関係を示している点である。熱力学のエントロピーとは、熱量を加算した時、それが温度を何倍したかを示す指標とも言える。エントロピーの概念がlogと密接な関係を持つのも、数学的には足し算と掛け算の橋渡しをしていることが、うなずける。エントロピーが乱雑さを示すものであるならば、人口増加の現象も説明がつきそうだ。職業が多様化し、人生が多様化する。エントロピーが平等さや平凡さを示すものであるならば、凡庸な人間による政治運営も、エントロピー増大の過程と言える。民主化や自由化もエントロピー増大の最たるものである。では、人々が社会への意欲を失い、平和が蔓延していく過程もエントロピー増大の現象であろうか?人間社会も、エントロピー増大の法則に従い、凡庸で複雑系に向かう運命にあるのだろうか?

1. テイラー展開
テイラー展開は、一次までの近似であれば、単なる導関数である。これが、二次以降の項があってややこしいから、落ちこぼれには丸暗記するしかない。そもそも、階乗記号がビックリマーク(!)だから驚くのである。ただ、二次以降も、同じように近似されているだけである。本書は、そうした幾何学的イメージを与えてくれる。

2. exp(iπ) = -1
数学界で最も美しいとされる奇妙な公式である。これのeとiの意味を、昔の船の航海術でイメージを与えてくれる。exp(iπ)を微分したものが速度で、iはその地点の方向で、直角に向きを変えると考える。そして、少し移動するたびに原点を中心に直角方向へ向きを変えれば、自然と円軌道を描く。そしてπだけ移動すれば、必然的に-1になる。

3. 電磁気学
おいらは電磁気学で赤点を取り、苦労した科目の一つである。ベクトル解析では、divとrotが登場する。ここで扱っているのは、rot(回転)である。これは、z方向に回転させるのに、y方向に対してxで微分し、x方向に対してyで微分し、しかも、その差という奇妙な形をしている。ただ、暗記しやすい形をしているので誤魔化すにはOK!。本書は、ベクトル場を水流と考え、その中にある微小な水車の回転速度と解釈する。そして、y方向の成分を流量とした時に、xの地点と、微小地点x+dで、流量が違えば、その間にある微小の水車は回転する。x方向の成分も同様に、yとy+dの地点を考えれば水車は回転する。電磁場では、水車の回転軸を磁力線と考えるとイメージしやすい。

4. ε-δ論法
これには、蕁麻疹が出る。ただ、本書は、数学科の人間以外で使うことはないから、気にする必要はないと言ってくれる。そもそも、この論法が登場したのは、あまりにも多くの微分方程式が解けないという背景があるらしい。そこで、不等式を多用した間接的アプローチが登場する。まず、広範なレベルで関係付けて、極小へ近づければ、その正確な関係が解明できるだろうという発想である。概念的には、それほど難しいとは思わないし、関数の連続性を調べるのに便利な道具であるが、無理やり難しくした挙句、使い方もわからなくしている気がする。ただ、こうした手法では、しばしばパラドックスが生まれる。本書はアキレスと亀の話を紹介している。永遠にアキレスは亀を追い越せないという話である。ちなみに、このような話はごろごろしている。例えば、ある地点に到着するために、まず半分の距離だけ進む、そしてまた残りの距離を半分だけ進む。これを繰り返して、極限に近づくのだが、永遠に目的地点には到着できない。こうした世界は、数学者を無限の概念と対峙させることになる。

5. 複素積分
複素関数論のもともとの目的は、実数関数の積分値を求めることだという。その手段として、一度複素数を経由する。複素関数は、変数に複素数を与えるもので、もともとは実数関数である。では、積分を複素数に拡張することのメリットとは?複素積分には、驚異的な性質があるという。それは、関数から定まる特異点があれば、積分路がその特異点を内側に取り囲む閉曲線である限り、積分路がどうであっても積分値は変わらないというのである。余計な部分は、複素平面上の計算でキャンセルされて消えるらしい。確かに、一周積分では、値がキャンセルされて0になる。では、値が0にならない時は、どういう時か?それが、特異点を内側に取り囲む時というわけである。特異点とは、複素関数の値が無限になるところである。よって、特異点が存在しない関数に対して、複素関数を適用しても効果はない。

6. 解析力学
ニュートンの解いた最高降下線の問題とは、二点間で球が転がって降下する時、最も短時間で降下する経路はどうなるかを問うたものである。この曲線はサイクロイドになることが知られている。光学におけるフェルマーの原理に、光が通過する経路は、時間が最小となる経路に沿って進むというものがある。解析力学は、この考えの力学版であるという。その中で、ラグランジアン(ラグランジュ関数)とハミルトニアンの関係も紹介される。昔読んだ時は、いつかはチャレンジしてみたいと考えたものだが、いまだに放置したままである。

7. 行列式
三体問題と複雑系の例を行列式で表すことにより、数学の道具のパワーを見せつける。現在の状態をベクトルで表し、これに条件である行列を掛けることで、次の状態を表す。複雑になればなるほど、ベクトルの要素が増え、行列の要素も増えるのは当り前である。また、逆行列を掛ければ、過去へもさかのぼれる。この道具は、ひょっとすると原理的に宇宙そのものを表現できるかもしれない。ただ、最大の問題は、この行列式の正体を、どのように具体化するかである。行列の難しいところは、その行列をN乗した場合、それぞれの要素のN乗したものとは異なるものになることである。ところが、これが対角行列となると話が違ってくる。対角化さえできれば、演算数を大幅に減らし、実際に解ける可能性が出てくる。微分方程式も対角化できれば解ける。対角化は、固有値問題のありがたみも匂わせる。固有値の目的は、それを使って行列の対角化ができると見ることができる。ある行列に固有値と固有ベクトルが求まる絶妙なケースが見つかれば、標準形に持ち込めるのである。

2008-05-03

"これなら分かる応用数学教室" 金谷健一 著

なんとなく本棚を眺めていると、本書に目が留まった。これは5年ぐらい前に読んだ本である。アル中ハイマーは、学生時代に応用数学で赤点を取った覚えがある。特に思い出されるのがε-δ論法である。おいらは、これで数学を挫折した。しかし、こうした本を読むと、また数学に再チャレンジしてみたくなるから、困ったものである。どうせ、またアホを自覚するだけなのに。パラパラと読み返していると、なんとなくウェーブレット変換ごっこでもして遊びたくなった。ちょうど連休だから、まとめておくのも悪くない。尚、遊んだ内容は、酔っ払いディオゲネスのページに掲載しておこう。ウェーブレット変換は、JPEG2000でDCTの代わりに採用され、10年ほど前に少しだけ勉強した覚えがある。

本書は、岡山大学工学部情報学科のための講義ノートが基になっているという。そして、データ解析に必要な線形数学の基礎知識を、重ね合わせの原理を切り口にまとめている。章立ては、最小二乗法、直交関数展開、フーリエ解析、固有値問題、主軸変換、ウェーブレットと、それだけで、独立した書籍になるような範囲を網羅している。その中で、厳密な理論や定理を省き、具体的な計算で示される点が理解を深めやすい。中でも、しばしば登場する学生と先生とのディスカッションが、かなり役に立つ。学生の質問は、実際に講義中に扱われた内容や感想を採り入れているという。そのレベルは出来の悪い学生であるというが、おいらの疑問点とマッチしている。例えば、最小二乗法では、なぜ誤差の二乗和を最小に近づけるのか?近似するならば、二乗しなくても、誤差の最大値を最小に近づけるか、あるいは、誤差の平均値を最小に近づければいいのではないかと考えたものだ。ただ、平均値となると、プラスとマイナスで打ち消されて結果的に和が0に近づくので、絶対値を与えなければならない。最大値や絶対値が含まれては微分ができない。よって、偶数乗すれば符号の問題も解決する。しかし、高次となると計算が複雑化するから、二乗が一番簡単というわけである。こうしたやり取りも昔を思い出しながら笑えてしまう。これもアル中ハイマーが出来の悪い学生レベルであることの証である。

本書の重要な概念を一つ挙げるならば、それは直交関数系である。この数学の美とも言える関係が成り立てば、大幅に演算量を減らし簡略化できる。つまり、任意のデータを直交関係にある関数の成分に分解することが、解析学の基礎ということである。そして、ベクトル、行列式、関数へと、その直交性質が次々と紹介される。行列式では、固有値問題のありがたみを感じる。ある行列に対して、固有値と固有ベクトルが求まる絶妙なケースが見つかれば、固有値で形成した対角行列を標準形として、演算数を大幅に減らすことになる。関数では、ルジャンドルの多項式、チェビシェフの多項式、エルミートの多項式、ラゲールの多項式で感動する。フーリエ変換にしても、sinとcosが直交関係にあることが重要であり、オイラーの公式にも直交関係が潜んでいる。スペクトル分解(固有値分解)が、データ解析の意義にどうのように関わるかも体感できる。画像の基底の話では、アダマール変換の基底が正規直交基底となることが紹介され、離散コサイン変換が、アダマール変換の三角関数版といったことがイメージできる。こうした、直交関係が語られていく中で、最後にウェーブレット変換が登場する。最後に扱うからには、最も難しいかと身構えていると、最も簡単なので拍子抜けする。また、最も歴史が浅いことにも驚かされる。数学の天才というのは、難しいものでないと真面目に取り組まないのかもしれない。

おいらが、数学で大嫌いな言葉の一つに「たたみこみ」がある。たたみこみ積分と聞いただけで蕁麻疹が出る。なぜ、こんな言葉を使うのか?本書は、言葉の説明をしているが、かなり苦心している様子がうかがえる。それは、convolutionを無理やり和訳した成果だという。結局、二つの関数の積分の仕方(合成積)を定義しているのだが、覚えるしかないらしい。おいらの脳の記憶領域は、極端にリフレッシュサイクルが短いので、辛い助言である。従って、ここではsとt-sの関係だけ押さえておこう。つまり、tだけ平行移動したものとの内積という奇妙な関係である。たたみこみ積分は、二つの関数f(s)とg(t-s)の積の積分で表されるが、代数系の性質である分配法則、交換法則、結合法則が成り立つところがおもしろい。この性質が通信分野で役立ちそうなことが感じられる。しかも、フーリエ変換の関係式を導く基礎となっているという。

本書は、こうした直交性質という数学の美しさを、気持ちの良い世界で見せてくれる。きっと、バーへ向かうベクトルとクラブへ向かうベクトルも、直交関係にあるに違いない。その証拠に、今日も夜の社交場へと気持ち良く直行するのである。