2009-12-30

エコポイントの怪奇

このままだと「いんけつ」のまま年を越してしまうやんけ!
年末の寒さが、グチっぽくさせやがるぜ!
それにしても、世の中には、いろんな怪奇現象があるもんだ。

エコポイントは、申請の面倒くささの上に、その後の時間のかかること。最初から、こんな面倒なシステムは混乱の元だと思っていたが、想像を絶するレベルだ!なるほど、消費者庁ってこのために創設されたのかぁ。

1. 申請に始まって...2ヶ月過ぎ...
申請したのは夏頃であろうか。「1つの購入商品に1枚の申請書でお願いします。」と書いているので、二つの申請書を同封した。面倒だから、どちらも同じ商品を記載した。そして、忘れかけてた頃2ヶ月経って、一つの申請書分の商品が届いた。それから2週間経っても二つ目の商品が届かない。どんな処理をすれば、こんな現象が起こるのか?複雑怪奇!まさか!「一つの封筒に一つの申請書!」という意味じゃないよなぁ。説明書を何度も読み返してみたが、それはなさそうだ。心配になったので、商品の送り元に電話した。すると、同じ封筒に何枚か申請書を入れても、バラバラに指示がくるのだそうな。シリアルNo.で確認してもらうと、やはり二つ目は受け付けられていないらしい。
そこで、エコポイント事務局へ電話してみると、奇妙なメッセージが...
「22秒毎に10円の通話料がかかる...」とかなんとか。フリーダイヤルちゃうんか。その後に、「しばらくしてからかけ直してください...」と続く!
ポイントの問い合わせ「2番」にかけると、延々にこんな状態。仕方なく「1番」にかけるとつながるが、この番号では個人情報が扱えないらしい。結局、回されるだけ。つまり、自動メッセージが流れるか、交換手が喋るかの違いでしかない。
こうして毎日電話をかけ続け...一週間が経ち...一度もつながったことがない。これは通信業者の陰謀か?そもそも、「グリーン家電エコポイント事務局」ってなんだ?特殊法人か?いずれにせよ、経済に長けた人間が考えた仕組みとは思えない。時々サポートセンターでイライラさせられることがあるが、これは超スーパーウルトラ級だ!

2. 諦めきれずに...そして、まもなく半年が経過...
しばらく諦めていたが、1ヶ月経って気まぐれで電話してみる。すると、なんと!一発で繋がってビックリ!舞い上がってしまって、何を喋っていいか分からない!なんとなくホットなお嬢さんに電話しているような、奇妙な緊張感に見舞われる。
冷静さを取り戻して、シリアルNo.を確認してもらうと...
なんと!二つ申請したはずが...「三つ申請されてます!」だって。
番号が重複しているらしい。そんなミスがあるだけでも不安に駆られる。二つ目の申請書は、確かに受け付けられているらしいが、処理はされていないという。その理由は、機械で読み取れない場合は、手作業に回されるんだとか。コピーを眺めてみても、同じように記入しているようにしか見えないが、ほんまかいな?まぁ、おいらの字が汚いから機械で読み取れるレベルの境界にあるということにしておこう。書類に不備があれば、通知を出すということなので、問題はないだろうということらしい。そして、更に手作業で2ヶ月ぐらいかかると言われた。
それから2ヶ月が過ぎ...そして、最初の申請から半年が過ぎようとしている。だんだん諦めムードになりつつあるのが怖い。こうして年金を諦めた人が何人いるのかと思うとゾッ!とする。

3. 昨日、電話してみたら...
この記事を書く前に電話してみよう!少しは丁寧に答えるようにはなったようだが、情報量はまったく進化していない。
「もう半年になるよ!」と言うと、機関銃のように平謝りする。こっちの喋るいとまを与えないかのように。謝罪攻撃という戦術か?ちなみに、アル中ハイマーは酔っ払うと「謝り上戸」になるらしい。初対面の相手でさえも。受付嬢も酔ってんのか?俺に...
不備があったら通知を出すと言っているが、電話の窓口では、不備の通知を出したかどうかも分からないという。分かることは、「現在、審査中!」という情報だけだそうな。結局、待つしかないわけだが...まさか!不備の通知すら行方不明ってことはないだろうなぁ?なるほど、年金記録も消えるわけだ。
噂によると、処理が大変で人員を増強したと聞く。ほんまかどうかは知らん!もし事実とすれば、更に無駄な税金を使っているのは想像に易い。一旦、混乱が始まると、戦略的にうまくやらないと、人員の増強だけではむしろ収拾させるのは難しくなるはず。混乱のレベルは指数関数的に倍増するのだから。したがって、優秀なマネージャは、システムの仕様や稼動させるための事前検討を慎重にやる。安易な物量作戦に陥ることの危険性を充分に理解しているからだ。
ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?酔っ払いは、「エコ」という癒しの言葉に乗せられて環境破壊に貢献するのであった。

2009-12-27

もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな文学者がいたら...だめだこりゃ!

精神を、人間が体系化した言語という手段で完璧に言い表せるということは、人間が精神を凌駕したことを意味する。したがって、精神が、自らのボキャブラリ障壁を越えられなくて苛立つのも仕方があるまい。
ところが、だ!天才たちは、言語という手段で読者の精神を揺さぶりやがる。日常の些細な出来事の描写ですら、芸術性や独創性で仕掛けてくる。彼らには、いったい何が見えているのだろうか?


1. 文学の意義
文章は、ほとんど読み手のためにあると言っていいだろう。書き手も、いずれ読み手となる。このブログは、10年後に読み返すことを念頭に置いている。10年もすれば、人の思想や言論も変わるだろうから、当時を振り返るための記憶メディアとしたい。
ところで、言語には実に曖昧な表記法がある。言語は、伝達手段として使われる一方で、精神を曝け出す手段としても使われる。言語で精神が完璧に表現できるとは到底思えないが、巧みな文章で魅了する作家たちがいる。彼らは、限りなく抽象的な感覚を与えながら、冷静に観察すると単語一つ一つには具体的な言葉が踊ったり、詩的な音律を含んだりと、様々な感情を想起させようと仕掛けてくる。だが、その背後には、必ず論理性が潜んでいる。整然とした論理性があるかと思えば、論理を絶妙に崩すための論理性なるものが存在する。
そこで、「文学作品を作るのに体系化した黄金手法があるのだろうか?」という疑問がわく。形式的に言葉を並べたところで、感動できるフレーズが現れるはずもない。それは、天才たちの精神から自然に生まれる感性としか言いようがない。文学の意義とは、言語と感情の不変的な関係を探求することといったところだろうか。しかし、どんなに巧みな比喩を乱用しようとも、結局作者の意図から離れながら読者の個性によって調律される。よって、読者の微妙な感覚の違いを、わざわざ文学が統一することもなかろう。それは、どんな学問でも同じで、人間精神を統一することに成功した学問は未だ存在しないのだから。意義が明確にできるならば、問題ははるかに簡単である。説明がつかないから芸術の域にあると言えよう。
また、文学は、伝達手段として言語を扱うという意味で、現実的な学問とも言えよう。言語学という学問分野もあるわけだが、言語学という言葉を使うと社会学の領域にあるような印象を与える。文学や言語学は、数学や科学と明らかに違った性格がある。数学の一般的な考察では、公理から出発して定理が演繹される。対して、言語学の考察は、まず現実に使われる言葉から出発して、帰納法的に定理を発見していくことになろう。そして、どんな言語にでも当てはまるような普遍的な言語法則、あるいは文法法則が見出せるのか?これが文学や言語学の抱える基本的な課題であろうか。しかし、文章は人間精神と深く結びつくのであって、そこに答えが見つかるとも思えない。

2. 言語と精神
人間精神の本性が解明できないのに、人間の発明した言語体系で精神を言い尽くせるはずもない。人間は、精神の実存すら明確に説明できないでいる。そこで、哲学では奇妙な現象が現れる。一語多義的とでも言おうか、そこに一貫性があるのかも疑いたくなる。おまけに、作者独自の用語まで登場して、無理やり難解な文章を生み出しているかのようだ。にもかかわらず、なんとなく崇高な気分にさせるのも、そこに真理という味付けがあるからであろうか。作家たちは巧みな技法で芸術性をひけらかす。これは、自らの精神を曝け出した結果であり、文学作品に作者の哲学が宿るのも道理というものである。したがって、哲学は一般的に文学と化すはずだ。
自らの精神を表現するためには、自らの精神をどこか冷めた領域から眺める必要がある。これは、書き手から見た文章の役割でもある。物事を理解しているつもりでも、いざ文章表現しようとすると、意外と理解していないことに気づかされる。したがって、文学者は一般的に多重人格者になるはずだ。
文学の世界では、技法を無視した芸術性を顕にする。だから、意表をついて感動を与えるのだろう。だが、レベルの高すぎる技法は読者を困惑させる。言語は、意志を伝達する道具であり、平気で独自の用語を持ち出されても、共通認識がなければ読者は解釈できない。そこで、芸術家は絶妙なさじ加減で仕掛けてくる。言語体系という制約の中で巧みに鑑賞者の精神を揺さぶりやがる。
ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」
文法や技巧を習得したところで、精神を自由に解放できるわけではない。流派があるとすれば、それは芸術家の数だけあると言ってもいい。古い格言に「文は人なり」というのがある。これが真理だとすれば、アル中ハイマーは頭が痛い。酔っ払って誤魔化す文章も人となりというものか。

3. 共通認識と会話
人間は、集団社会の中で自分たちだけが認識できるような合言葉で、互いの意識を認め合うところがある。仲間意識の誇張とでも言おうか。流行語は、時代に遅れていないかの自分の存在位置を確認するためのものであろうか。ある集団が、他集団よりも優れているという勝ち誇った意識を持とうとすれば、彼らにしか理解できない専門用語を発明して優越感に浸る。人間が、難しい知識や言葉で武装しようとするのは、単に他人よりも優勢でありたいと願っているだけのことかもしれない。世界中で普遍的な共通認識が持てるような世界共通語なるものがあれば、意思疎通という意味では便利である。だが、意思疎通が曖昧だからこそ、そこに芸術性が生まれ、精神の高まりがあると言えよう。言語は、合理性の中で変化し続けるだろうが、歴史的背景を消し去ることはできない。
会話は、話し手と聞き手の役割分担があって、互いにその役割を交換しあうことによって成立する。これは、言葉の共通認識があるからこそ、成り立つメカニズムである。言葉から共通認識が得られるということは、そこに社会性があることを意味する。もっというなら、社会性には暗黙の認識のようなものがある。他文化を研究するとは、まさしくこの点を解明することであろう。言葉は一種の記号を示すが、それだけの機能に留まらない。人間は、言葉によって自由に恣意する。したがって、言葉のニュアンスが個人によって違ってくるのも自然である。これは、人間が精神を獲得した時点から持つ性質と言えよう。人間社会が進化するということは、社会環境が変化することを意味する。となれば、そこで使われる言葉に微妙な変化が見られるのも自然である。
客観性を持つはずの専門用語でさえ、組織の文化の違いによって、微妙にニュアンスの違いを見せる。例えば、技術分野では、画像処理系と通信制御系という分野の違いでも、用語の使い方が微妙に違い戸惑うことがある。ずっーと一つの組織に依存していると、組織文化に染まっていることすら気づかない。そして、当り前のように文化を押し付けて、言葉が通じないと馬鹿にされることもある。こっちが馬鹿だから仕方がないかぁ。一方で、そのニュアンスの違いを楽しむ人々がいる。そして、会議の前に、言葉のニュアンスを確認するだけでも信頼が築けることがある。近年、登場するネット関係の用語は、専門家でも明確に説明することが難しい。厳密で客観性を帯びるはずの専門用語は、ますます抽象化していくようだ。それも、人間社会の実体がますます仮想化へ向かっていることの証なのかもしれない。いや!そこに実体なんぞ最初から存在しなかったのかもしれない。

4. 国語辞典の役割
国語辞典には、その時代に意味する事柄を記録として留める役割がある。言葉を使う時の指標でもある。だが、言語を、無理やり機械的に体系化すれば、言語の柔軟性は失われるであろう。
アンブローズ・ビアス曰く、「辞典とは、ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語の弾力のない固定したものにしようと案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み。」
国語学者は言語の変化を乱れとして説教するが、言語学者はその変化をおもしろがっている。国語辞典を完成させた者は権威者と見なされる。まるで一種の司法権があるかのように。しかも、世間はそれが法令であるかのように位置付ける。しかし、言葉は民族の慣習や文化と密接にかかわる。時代が進化すれば、慣習や文化にも変化が現れ、それにともない言葉も変化する。となれば、国語辞典を掟とすることもできないだろう。国語辞典が優れた単語に「廃語」の刻印を押したらそれで最後、もはや一般用語として復活することは難しい。国語辞典を神のように崇めた時、斯くして言語の貧困化は促進され堕落の一途を辿るというわけか。形容詞が最も古びやすいと言われるのも、時代背景によってもニュアンスが変わるからであろう。となれば、形容詞を節約すれば、文章は古びないのかもしれない。そうはいっても、形容詞は文学の華であり、比喩的表現とも親しい関係にある。形容詞は文学的価値を高める効果もあるので、一概には否定できない。「赤い」と形容しただけでも、薔薇色の情熱を描く人もいれば、血なまぐささを思い描く人もいよう。これは、生理的な現象であろうか?アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうの住人は、赤い顔をしながら何やらつぶやいている。

5. 音声と雑音
とっさに言葉が思いつかない時に、とりあえず擬声語のようなものを使うことがある。静かな様を「シーンとする」とか、鋭い様を「スパッ!」とか、非常に寒い様を「うぅー寒ぅ!」とか。ちなみに、酔っ払いは、イチコロな様を「メロメロ」と表現する。人間は、言葉を発する時、まず音に頼っていると言えるのかもしれない。いや、象形文字のように形をイメージする場合もある。いずれにせよ、言語は、聴覚や視覚といった人間の知覚能力から発達したと言えそうだ。ただ、音声と意味が関連付けられるのも、慣習や文化などの経験的なものであって、動物の鳴き声を表すにしても、民族によって様々な違いを見せる。
おもしろいことに、人間は音声と雑音を区別する。音楽に癒しを感じたり、雑音に不快を感じたりする。大音量や小音量でイライラするのは、入力装置の限界点近辺の問題で、なんとなく分かるような気がする。だが、音声も雑音も同じ音波である。音波という物理現象に対する精神の動きは、経験則だけでは説明できそうにない。現実に、世界的にヒットする音楽が存在する。音響効果による精神の動きには普遍性のようなものがあるのだろうか?音や雑音の感じ方には、民族性を超越したものがあるような気がする。いずれにせよ、言葉の音素は、人間が発音できる口の形と動き、あるいは人間が聞き取れる音波の範囲で限定される。結局、入出力装置の性能によって決定されるわけだ。
人間が言葉を使う場面では、何かを思い浮かべながら、何か表現できるものを探しながら言葉を選んでいる。言葉が見つからなければ、別の表現方法を模索する。即座に反応できなければ、代名詞を発したり、ついには身振り、手振りといったしぐさが現れる。エスパーならば、テレパシーやテレポートを使えばいい。そのうち認識能力が高まり、脳波が発する電磁波を認識できるようになったら、世界は静かになるであろう。

6. 感情に欠けた言葉は存在しない
森鴎外の好きな随筆に「当流比較言語学」というのがある。それは、民族に欠けている感情は、言葉としても欠けているという話である。ドイツ人は「Sittliche Entrustung」という言葉を使うらしい。直訳すると道徳的(Sittliche)憤怒(Entrustung)となるのだが、嘲笑うという意味で使うという。これを鴎外流では「義憤」という言葉に当てはめている。例えば、ある議員に不祥事沙汰があると、必ず「けしからん」と捲くしたてる連中がいる。この「けしからん」が「義憤」である。日本人はよく義憤で世間を賑わすというわけだ。だが、他人の事を言えるほどの道徳心がおありか?と問えば嘲笑うしかない。鴎外は、こうした意味の言葉をドイツ人は持っているが、日本人には欠けていると指摘している。そして、日本人はそんな感情は当り前に持っており、道徳上の裁判官になる資格を持っていると皮肉る。当時、新聞の社説や雑報に「けしからん」という文字が乱れ飛んだ光景を絶妙に表現しているわけだが、現在も状況は変わらないようだ。
客観的に論理的に説明できる人を見かければ、憧れてしまう。しかも、冷静な面持ちで渋い声で語りかければ、それだけで世論はイチコロだ。ヒトラーのような演説の天才であれば尚更。政治マフォーマンスも政治能力の一つではあるが、大衆も経験を重ねるごとに、その言葉の胡散臭さを感じていくだろう。
似たような話で、映画「誇り高き戦場」のあるシーンを思い出す。アメリカ人捕虜がドイツ人将校に向かって、ドイツ人は相手に苦痛を与えることによって性的快感を味わうと皮肉る。すると、ドイツ人将校は、サディズムの語源はフランス語でありドイツ語にはないと反論する。日本語では加虐性愛と訳すようだが、いまいち表現しきれていないような気がする。ちなみに、おいらはMだ。

7. 文章の感性とプログラムの感性
文章を綴る時には、論理的思考を働かせているだろう。だが、前後関係の論理を完璧に辻褄が合うように記述することは難しい。ここに、コンピュータプログラムを書く感覚にも通ずるものがある。プログラムは表現する対象が狭く限られているが、精神を表すには無限の広がりがある。プログラムは些細な論理ミスがあっても正常に動作しないが、文章は読者に様々な解釈をさせる自由を与える。違いは、こんなところだろうか。誤字脱字や言葉の勘違いの多い酔っ払いは、文章を書くのにコンパイラのような存在があると便利だとよく思う。言語の究極な体系化が可能だとすれば、文学がプログラミングできる日も来るであろう。そうなると、人間の精神もプログラミングできそうだ。実は、プログラムには技術者の哲学が詰まっている。プログラムの効率性や移植性や柔軟性といったすべての要素が調和した時に、信頼性と美が融合し、コード作成者に対して芸術家に対するのと同様の敬意が表される。芸術性と論理性、主観性と客観性は、プログラムの本質である。自らの失敗を振り返り、より効率性を求めた結果、細かいこだわりが現れ、美の探求へと進化する。こうした感覚は、経験則から培われるところが大きく、技術者の生き様を物語っていると言ってもいいだろう。なるほど、文章の感性とプログラムの感性には似たものを感じるわけだ。

2009-12-23

もしも、反社会分子の社会学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、反社会分子の社会学者がいたら...だめだこりゃ!

人間社会は、ご都合主義と有難迷惑主義の呪縛からは、永遠に逃れられないであろう。自立を叫べば他人を犠牲にし、自己責任を叫べば他人に責任を押し付ける。人間社会とは奇妙な世界である。

1. 社会科学とカテゴリー分析論
あらゆる研究分野で「科学する」とは、よく耳にする言葉である。複雑な問題と対峙するにあたって、まず、その正体を科学的に解明しようと試みるのも悪くない。そこで、必ずと言っていいほど用いられるのが、区分や分類といった抽象化手法であり、そこに法則性や規則性を見出そうとする。一つの命題に対して論理的な裏付けができれば、そこに安心感が生まれる。人間が客観的論理性や体系化を追求するのは、精神が安住の場を求めているだけのことかもしれん。ただ、そこで得られる快感も主観で解釈するから、人間とは得体の知れない生き物である。
本来、人々が求めるものは、社会問題を解決することである。人間のタイプを、抽象化して区分や分類することは可能であるが、具体的に解決できるところまで学術的に高めることは難しかろう。人間精神を相手取った問題が、そう簡単に片付けられるわけがないのだから。そこで、「カテゴリー分析論で、いったい何が解決できるというのか?」と自問すれば、泥酔した精神は「では、それ以上にいったい何ができるというのか?」と返してくる。「思考の試みによって問題解決ができなければ、それは無駄というものではないのか?」と問えば、「人生とは、死までの暇つぶしである。」と答えやがる。
もし、複雑系と矛盾律が宇宙原理の本質だとすれば、物事の解釈は自己の中にしか見出せないであろう。ただ、科学的思考は、客観的で冷静な判断を試みる上でも有効であり、個人の主観的解釈を手助けしてくれる。頭に知識を詰め込むだけの知識至上主義では、答えを先に求めようとする傾向がある。だが、社会のような複雑系で、形式化した解決策を安易に求めるのは都合が良すぎる。知識を探求しながら、ある解釈に到達する過程にこそ、人生の醍醐味がある。どんな難問でも答えが簡単に見つかるのであれば、人生は虚しいものとなろう。そして、退屈のあまり、くだらない悩みを無理やりでっち上げてノイローゼになるのがオチだ。

2. 人生の多様性
人間の行動は、ある程度の利害関係によって説明できそうだ。だが、あらゆる利害関係は個人の価値観で判断されるから厄介である。また、人間の行動には、どうしても動機付けのできないものがある。人間は、近視眼的な利害関係に基づいて行動しやすい。その反面、歴史的理念や伝統的慣習、あるいは信仰的な倫理観などが、しばしば行動を動機付ける。経済学が扱う利害関係は物質的なものばかりに着目するが、実際には内面的で精神的な価値を求める人も少なくない。奉仕や援助といった行為もあれば、名誉や評判に固執する行為もある。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の探求といった哲学的思想を拠り所にする人もいる。浪費に命をかける人もいれば、貯蓄に生き甲斐を感じる人もいる。なにがなんでも長生きしたいと願う人もいれば、短い人生でも有意義に生きたいと考える人もいる。自らの不幸な境遇から人道的に目覚める人もいる。協定や契約に縛られて、義務や使命感を強く持つ人もいる。これらすべて個人の価値観による利害関係と言えなくはない。ある人にとっての合理性は、他の人にとっては非合理性と見なされることがある。価値観は個人の理念で相対的に育まれるのであって、精神の合理性にはカオスの世界がある。となれば、無限の諸条件の中から法則性を見出すことは不可能であり、統計的に捉えるしかないように映る。しかし、多様性を平均することに意味があるのだろうか?あらゆる統計データはちょいと視点を変えただけで、どうにでも解釈できる。自由と平等を足して2で割ったところで、答えは見つからない。となると、統計的分析にも限界を感じ、もはや社会学の科学的分析は不可能のように思える。だからといって、諦めることにはならない。学問として法則性を追求することで、今まで見えなかった因果関連を解明できる可能性はある。そこに意義を求めなければ学問は成り立たない。少なくとも、物質的な価値評価のみで体系化できたと言い張るよりは、混乱を意識している方が健全であろう。生活様式や価値観が多様であるからこそ、互いの短所を認識することができる。運命のような明るい出会いがある一方で、運命のような事故や災害に見舞われることがある。健康で幸せな生活をしているからといって、いつ病や障害に見舞われるか分からない。結婚したからといって、円満でいられるとは限らない。子供ができたからといって、五体満足とは限らない。ましてや、親の言いなりになるわけがない。子供を欲しがっても恵まれない家庭だってある。どんな生活様式であろうが、人間は様々なリスクを背負いながら生きている。そもそも、人生は寿命のリスクからは逃れられない。自由を求めれば、制約の障壁にもがく。怠惰を求めれば、勤勉にならざるを得ない。欲望と抑制が均衡しなければ、精神は偏重する。すべての人間が一つの生活様式や価値観に向かえば、意識は固定化され偏った社会となろう。人間が多様化しなければ、人間社会は莫大な人口増加にも対応できないだろう。すべての人間が同じ価値観を持つということは、人類が絶対的価値観に到達したことを意味するであろう。しかし、政治屋や報道屋は一つの価値観を前提としながら世論を煽る。まるで、自らの理念や理性が最高であるかのように。「勝ち組」や「負け組」といったものは、まさしく経済人の指標でしかない。そもそも人生に勝ち負けがあるのか?彼らは、路線から外れた人生の多様さを想像できないでいる。彼らの人生設計では、会社や役所に就職して、何歳までに結婚して、子供は何人作って、などという価値観でしか物事が計れない。しかも、これが自立の道だと説く。まるで、宗教家のように。ありもしない人生の軌道に乗ろうと、幻想を追いかけるかのように。無理やり差別化を図り、自らを優位な立場に位置付けることによって、精神の安住を求めるかのように。

3. 自立と自己責任
自己責任と他人責任を区別するには、客観的判断が必要となる。となれば、自己責任の範囲、ひいては自我の縄張りを明確にするために、論理的な説明を模索しているとも言えよう。社会現象という複雑系が科学的に解析できるならば、論理的な政治判断も可能となる。だが、実際には人間の論理は穴だらけで、しかもご都合主義に支配される。マスコミの論調から外れた人々は、まるで社会の害虫のような扱いを受ける。フリーターやニートやパラサイトシングルなどがその典型で、自立できない人々と蔑まれる。だが、そもそも自立した人間なんているのか?彼らの中には自らのリスクを背負って生きている人も多い。定年まで安定した給料を当てにし、退職すると年金をたかり、一生を安穏とした立場で生きることが、はたして自立と言えるのか?低賃金労働者のおかげで正社員の給料が安泰とは、これいかに?大企業に恨みつらみを持ちながら、にこやかに振舞っている下請け業者も少なくない。健康診断にしても組織格差があり、胃や大腸といった内視鏡検査を組織側で負担するところもあれば、形式的に終わるところもある。優遇された人間は、優遇されていることにも気づかないだろう。アル中ハイマーも恵まれた環境に気づかないから、安心して酔っていられるのだ。現役労働者を犠牲にしてまで企業年金制度をいまだに固持している会社は、通常年金を放棄すればいい。いずれ正規雇用と非正規雇用の境界線も曖昧になるだろうが、会社が潰れた時に真っ先にうろたえるのは正規雇用者であろう。現実に、定年を迎えて生き方が分からなくなる人も少なくない。何のために仕事をしてきたのか?どうやって生きていくのか?それは定年のない主婦の方が理解しているように映る。キャリアウーマンでなければ能力がないなんて考えるのもナンセンスであろう。そういえば、政治家の発言に「女は子供を産む機械」というのがあった。男はその機械にさす油でしかないというわけか。議員定数を減らすとなると、最もうろたえる連中が騒ぎ出す。しかも、選挙では土下座までして。これが自立した人間の姿か?少なくとも、世襲議員が「自立しなさい!」と説教できる立場にはない。自立していると思い込むことができれば、気持ちは楽になれるだろうが。
世間が求める自立とは、核家族化を促進して、人口増加を煽ることなのか?これが、老人の面倒を福祉施設に押し付け、社会保障費を拡大していると解釈することもできよう。年老いて施設に入りたくても貧乏人にはできないわけで、社会保障の構造自体が格差を助長するようにできている。孤独死はますます増えるだろう。それも、理性を構築する上で良い修行の場と解釈することもできそうだ。共同墓地も賑やかでいいかもしれない。一方で、親の年金を当てにしながら大家族化するということは、生活効率が上がりゴミも減って環境的になり、社会保障費の効率を上げて社会貢献していると解釈することもできよう。親も子供から少し頼られるぐらいの方が、自らの存在を実感できて嬉しいかもしれない。自由を謳歌する人もいれば、痴呆症や障害者を抱えて介護を強いられる人など、様々な事情もあろう。実際に、介護で糞まみれに、尿まみれになる話を聞くと何も言えなくなる。ちなみに、幸せそうな家庭ほど、痴呆症になりやすいような気がするのは偶然だろうか?若い頃に苦労し、子供たちが巣立ち、多くの孫に囲まれ、後は楽しい余生を送るだけとなれば、気の緩みのようなものが生じるのだろうか?だとすれば、幸せはちっぽけなぐらいでちょうどいい。
次にフリーターに目を向ければ、社会保障なしの低所得者層の存在が、製造コストの抑制に貢献している。コストにおいて、機械の設備投資と低賃金労働者とで天秤にかけられ、機械コストの方が有利となれば、低賃金労働者はすぐに失業する。企業は、単純労働者に機械に徹することを要求する。機械に徹するということは、力仕事が要求され若年層へ目が向けられる。しかし、いずれ彼らも歳をとる。そうなってから職業訓練をしたところで効果はない。つまり、最初から低賃金労働者としてレールの引かれた構造がある。
銀行系シンクタンクの経済予想ほど恐ろしいものはない。バブル崩壊も予測できない、いや!バブルの仕掛人だ!生活保護者やニートを蔑む前に、経済危機になると真っ先に公的資金をたかる連中の方が、よっぽど自立できていないではないか。

4. 人口論
世界では、キリスト教右派などの人権団体が、宗教上の自由の侵害だとして、産児制限政策への批判を強める。人口問題は、移民問題とも関わり、政治的にタブーとされている国も多い。だが、アフリカをはじめとする発展途上国では、人口抑制政策をとっている現実がある。年金で扶養率を保ちながら、労働人口と非労働人口の比率を維持すると人口は増加する。おまけに、医療の進化が平均寿命を延ばす。日本政府は相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。そして、少子化問題に育児問題を結びつけて論じられる。まるで、自分の年金を若年層からたかるかのように。だが、育児支援は昔からある問題であって、女性の労働的立場の平等に基づくものである。自論に追い風が吹けば、それに結びつけてごちゃごちゃにしてしまうのは、評論家や学者の得意とするところである。人間が生きるということは消費することを意味する。そして、消費に追従して生産を必要とする。人口増加は、単純に生産量を増やすことになる。人間が多すぎると、空間的にも窮屈を感じる。先進国で、高齢化社会となっていくのは、生物的な防衛本能が働いているのかもしれない。脂ぎった野心家よりも、草食系の方が、地球の未来像に合っているのかもしれない。人口問題は環境問題の根幹と言ってもいいだろう。世界人口が増えつづければ、いずれ子供を複数かかえる家庭は、罪悪感で悩まされる時代が来るかもしれない。少子化問題を唱える人は、まず日本人口や世界人口がどのぐらいが適当なのかを示してもらいたいものだ。

5. ネット社会とウィキペディア崇拝者
ステレオタイプという現象は、人間社会の持つ本質であろうか?ウォルター・リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかないと悲観的に語った。
ネット社会が何も特別に高度な社会というわけではない。人間社会の一形体であって、社会問題の性格は昔と大して変わらない。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もなかろう。電子メールでは、真意が伝わらないと言う人もいるが、電話が登場した時代も、顔を合わせないと真意が伝わらないと叫ぶ人々がいた。新技術に馴染めないオヤジが難癖をつけるのも、人間社会の伝統であろうか。ネット社会を「大衆の叡智」と崇める風潮もあるが、それも怪しい。ネットでググれば、なんでも分かるという発想も危険である。安易に情報を信じる人が増えれば、エセ情報も拡散する。便利な世の中というものは、犯罪者にとっても便利ということだ。知識が真理を無視して多数決に支配されると悲劇である。いや!幻想に惑わされるのは喜劇か。現実にウィキペディア崇拝者も少なくない。高度な情報化社会が、生産性を高めるのは事実である。お陰で豊かな社会となった。だが、創造性が高まっているかは疑問である。なんでも質問をネットへ投げれば、誰かが答えてくれる。100点満点とは言えないにしても、80点ぐらいの回答はすぐにでも得られる。便利な世の中は、人間の思考力を奪うのか?古代の哲学的思考や科学的発想は、現代人の創造力をはるかに凌駕しているように思える。ちなみに、クラウドコンピューティングに、これだけ依存していいものか?と不安に思うことがある。確かに便利だが大規模なクラッシュなどのリスクも念頭に置くべきなのだろう、と言いながら酔っ払いは病みつきだ。
また、ネット社会では、情報が溢れているわりに、有用な情報を得るのが難しい。商品のお薦め度数には、売り手の思惑が見え隠れする。最近、本屋でも驚くような光景を目にする。それは、マスコミで露出される経済学者や評論家といった連中の本が溢れかえっていることだ。同じ著者でタイトルの違うものが、思いっきり平積みされている。しかも、写真入り。出版業界も苦しいのだろうが、著名人を前面に出せばいいという安易な商売戦略はいかがなものか?「これでもかぁ!」という陳列に、天の邪鬼は嫌悪感しかわかない。主信号にノイズが乗るのは仕方がない。だが、ノイズしか目立たなければ社会は騒がしくてしょうがない。と言いながら、このブログもノイズ生成器となっているのは面目ない。
すべての情報を相手にできるほど人生は長くない。そこで、いかに情報を捨てるかが鍵となる。雑音を気にしていては、前へ進むのが難しくなる。情報化社会では、情報を収集する能力よりも、捨てる能力の方が強く求められるであろう。何事をなすにしても、頑固さも必要というわけか。世間への反抗心が前へ進む力を与えてくれる。したがって、前へ進む力とは、情報を捨てる能力、あるいは忘れる能力であり、無視する力である。これが、悲観的思考から逃れる手段ともなろう。

6. 官僚化の法則
人間社会は、破壊のカオスの中にある。破壊と創造の繰り返しが宇宙原理だとすれば、精神の進化は自らの破壊から始めなければなるまい。しかし、人間には安定を求める性質がある。どんな組織や機関も、創設当初は美しいものであったに違いない。それらは、目前に迫った社会問題を解決するための現実的な手段として誕生したことだろう。だが、どんなシステムも長期化すると、既得権益が蔓延りながら腐敗していき、やがて社会の害へと変貌する。
近年、かつての終身雇用型体質を悪のように言う風潮がある。だが、一概に生涯に渡って職場が保証される仕組みが、革新的精神を妨げてきたとも言い切れない。少なくとも、この社会が、世界二位の経済大国にまで押し上げた事実は認めなければなるまい。アメリカ型の競争社会が、救いがたい格差社会を招いていることも事実である。年功序列が機能すれば、年下の部下を育てる義務という責任を負うことになる。責任が存在するということは、そこに生き甲斐を見出すことができる。その反面、居場所が保証された職場が、自己啓発や向上心を怠る風潮を生み、無能者を忠実さだけで評価するという慣行が蔓延るのだが。
しかし、現在のようにあまりにも経済情勢が不安定となれば、意欲よりも所属することを優先して、結局革新的精神の妨げになる。となれば、終身雇用自体が悪いのではなく、どんな体制も長期化の中で腐敗する原理が働くということになろう。
官僚体質の代表といえば、公的機関である。民間企業が利潤によって運営され、給料も成果の代価として支払われるのに対して、公的機関は予算によって運営され、給料も予算化される。公的機関の最大の問題は、予算消費型の組織ということであろう。予算消費型組織では、効率やコスト管理は美徳にはならない。予算の獲得に躍起になり、社会貢献が目論見に変貌する。少ない予算や、少ない人数で成果をあげれば、次年度の予算が削られるだけだ。予算を生み出すことが成果であり業績であると誤解する。そして、巻き起こる批判を避けるために、民衆を騙し、自らを欺く体質ができる。成果をあげるためには優先順位の高い目標に資源を集中させる必要があるが、そうした試みもなされない。つまり、予算消費型組織では、自らの存在感を示すために無駄な予算を計上することになる。コスト削減に努力した役人ほど、評価されずに葬り去られるわけか。となれば、公的機関の成功は、失敗よりも害が大きいことになる。
人間精神は、いつも安住の地を求めてさまよう。一旦その地を得れば、今度は頑なに守ろうとする。これが「既得権益の法則」である。人間社会は、伝統的慣習に縛られる傾向がある。伝統的慣習や信仰は精神に安定を与えながら、思考を脳死状態へと陥れる。となれば、自らの思考に疑問を持ち続け、常に検証しようとする努力が必要である。平穏な生活を獲得した人々にとって、革新的風潮は鬱陶しいものとなろう。問題は、誰もが平穏な生活をしているわけではないということだ。そこには、必ず既得権益に守られた支配層が存在する。一般市民の犠牲の下で裕福を堅守する連中がいる。社会学者ヴェーバーは、組織が大規模化する中で官僚体質となるのは、それが本質だからだと語った。人間の精神には、面倒なことや波風が立つのを嫌う面と、退屈を嫌う面が共存する。その衝動がどちらに振れるか、社会は気まぐれだ。極端に振り子が振れると、戻るのにも時間がかかる。一旦既得権益を獲得すれば人々は官僚的となり、それが絶えがたい不公平さとなれば革命が起こる。人間が官僚的になりがちなのも、自己防衛本能が働いているからであろう。一方で変化を求めるのも、精神が成長できない不安からの一種の防衛本能と捉えることができるだろう。人間社会は、個人の自己防衛本能に支配されながら、平穏と混乱、平等と自由といった精神の絡み合いの中で多様な状態遷移を経ながら、破壊と創造の間をうごめいている。

7. 環境問題
エコという言葉には、なんとなく癒しの響きがある。地球温暖化で騒がれるが、科学的な根拠が完璧に得られているわけではない。情報の捏造は、反対派の勢いを増すだけだ。ただ、温暖化の根拠がないからといって、人類が地球をレイプしていいということにはならないだろう。したがって、環境意識の高まりが悪いとは思えない。
ところで、エコポイントってなんだ?環境破壊度数か?ブラウン管廃棄物はどこへ行くんだ?本当にリサイクル効率が高いと信じていいのか?まだまだ使える物を...物の有り難味を子供に説教したところで説得力はない。まさか!ゴミを外国へ輸出してるのか?日本を綺麗にして海外を汚染しているんじゃ、大人の行動を子供が尊敬できるわけがない。大人たちは、この制度を子供たちにどう説明するのか?
ちなみに、トイレで流す水量制限がないのは、日本ぐらいなものだそうな。

2009-12-20

もしも、アル中ハイマーな歴史学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな歴史学者がいたら...だめだこりゃ!

人類の歴史とは、「人間」という身分をめぐっての抽象化の歴史である。だが、どんなに抽象レベルが上がろうとも、人間は解釈することができても、永遠に理解することはできないであろう。

1. 歴史の法則
二千年以上前に比べれば、随分と抽象レベルも上がったのだろう。だが、人間の価値観はあまり進歩していないように映る。だから、未だにプラトン時代の哲学が通用するのだろう。トゥキュディデスの叙述を読めば、二千年以上も前の政治家たちの演説を通して、論理的思考や哲学的思考に優れていた様子がうかがえる。こういうのを見せつけられると、人類の歴史はむしろ退化してはいないか?と思わされるほどだ。
「歴史は繰り返す」とは、よく聞かされる。だが、歴史が繰り返されることはありえない。歴史を学んだからといって成功するとは限らない。だが、歴史を学ばなければ同じ失敗を繰り返す。これが、「歴史の法則」というものである。人口が増加し、社会構造が複雑系へと向かう中で、個人の生活様式や価値観も多様化し、もはや同じ現象を再現することは不可能と言っていい。したがって、歴史の評価を簡単に結論づけることはできない。にもかかわらず、安易に結論づける政治家や評論家は多い。おまけに、自らの政治行動を英雄伝説と結びつけながら自慢するという滑稽な姿まで曝け出す。政治家たちは、たまたま景気が回復すると自らの政治判断を絶賛して手柄話を捲くし立てるが、景気が悪化すると前代の政策を思いっきり批難する。いつもふんぞり返りながら、いざ選挙となると土下座までする輩だから、節操がないのも仕方があるまい。いずれにせよ、日本の政治家の判断だけで容易に方向性が示せるほど、人間社会は簡単な構造ではない。
あらゆる歴史事象は、多くの条件が絡み合う中で、いわば偶然的に発生する。人間社会は極めて神秘的な世界であって、単純な法則では説明できないほどの複雑系宇宙にある。だから、その瞬間を大切に生きたいものである。あらゆる成功例は、実に多くの成功要因によって構成される。よって、すべての要因を解明することは困難であり、ここに成功例から学ぶことの難しさがある。
一方、失敗例は、多くの要因の中の一つでも満たさなければ失敗するので、その要因も顕になりやすい。よって、失敗例から学ぶものの方が多いはずである。となれば、聖人から学ぶよりも、愚人を反面教師とする方が学びやすいのかもしれない。成功者の判断力は天性のセンスがあって、真似してもうまくいかない。判断力は自ら磨くしかあるまい。

「軍学とは、好機を計算し、次に偶然を数学的に考慮することにある。しかし、こうした科学と精神の働きを一緒に持っているのは天才だけである。創造のあるところには、常に科学と精神の働きが必要である。偶然を評価できる人物が優れた指揮官である。」
...「ナポレオン言行録」より...


2. 真実と真理
歴史の考察では、主観をいかに排除するかを問題にすることが多い。だが、この考えに少々疑問がある。人間の思考は、主観性が強い分、客観性に固執するぐらいで均衡がとれるのかもしれないが。
そもそも、客観的に語ると宣言して、そうだったためしがない。真の客観性を求めるならば、数学の公理のような表現しかできないはず。一般的に語られる客観性とは、業界の慣習や主観の多数決に従っているに過ぎない。それに、完全に主観を排除すれば、歴史学者の思考を放棄したことになりはしないか?単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。歴史事象の原因性は、深い思考の試みがなければ解釈できない。一方、客観性に支配されると言われる科学の分野では、科学者が完全に主観を排除して思考しているわけではない。科学の進歩は天才たちの直観に頼ってきたところが大きい。直観は極めて主観に近い領域にある。したがって、主観と客観の按配こそ、歴史学者の腕の見せ所と言えよう。
歴史事象は社会現象の一つであって、その本質を解明することは難しい。現象は、偶然性に左右され、そこにはノイズが紛れ込む。ノイズを拾って結論付ければ誤謬が生じる。おまけに、時代に生きる権力者たちの都合で、その解釈も政治的に改竄されてきた。また、歴史事象の善悪にも複雑な事情がある。人間精神の表象は単なる認識現象であって、善悪は個人の感情に支配される。古来、善悪の規準は多数決によって運営されてきた。そして、善悪の規準は時代とともに変化してきた。つまり、絶対的な善悪の規準は不明のままだ。人間精神は、それが真であるという理由だけで、いかなる感情も抑制できるものではない。感情を抑制できるものは、個人の持つ理念や理性のみである。そこで、歴史には、現実的な手段としての先人たちの経験が蓄えられる。したがって、あらゆる学問は、歴史を無視しては成り立たないはず。もし、経験によって人類が成長するならば、時代によって歴史解釈が変化するのも道理というものである。
真実は一つ!、真理は一つ!とはよく聞く台詞である。しかし、それは本当だろうか?人類は、いまだ絶対的な認識能力を獲得できないでいる。いまだ絶対的な価値観に到達できないでいる。真実や真理が存在するとしても、相対的な認識から、絶対的な価値観とも言えるものに迫ることなどできるのか?真実や真理が認識できなければ、人間にとって意味がないのではないのか?ならば、様々な方法で歴史解釈がなされるのも仕方があるまい。にもかかわらず、教育者たちは歴史認識を強制しやがる。誰よりも認識能力が高いと自慢するかのように。そもそも、そこに、真実なんてものは、真理なんてものは、存在しないのかもしれない。

3. 批判的な態度の有効性
クラウゼヴィッツは、その著書「戦争論」の中で、批判的考察の有効性を説いている。単なる事象の指摘よりは、批判的な立場をとることで、もう一歩踏み込んだ思考に達するということであろう。確かに、批判的叙述には知的活動が現れる。ここで言う批判には、賞讃と批難の両面を含みたい。批判的考察では、実際に採用された手段ばかりか、採用されなかった手段も検討することになる。反対するだけでは思考停止状態となるが、代替案を提示することを前提としたい。
歴史事象は事実であるが、それが単なる現象なのか原因性を内包しているのかを判別することは難しい。例えば、ローマ帝国の衰亡をどこに求めるかは見解の分かれるところであろう。歴史教育では、異民族の侵入、特にゲルマン民族の移動が原因であると教える。しかし、タキトゥスの批判的叙述を読めば、既に元老院が機能しなくなり、ローマ帝国の腐敗が共和制の崩壊とともに、既に毒されていたことが想像できる。つまり、異民族の侵入は現象であって、その根底の原因はローマ帝国の内政問題と捉えることもできるわけだ。
はたまた、真珠湾攻撃に目を向けると、文化人類学者ルース・ベネディクトの分析はおもしろい。日本人が日露戦争で見せた態度には、ロシア軍人と互いに勇敢さを称える武士道精神があるが、太平洋戦争では、鬼畜米英という強烈な反米思想によって奇襲攻撃という卑劣な行為に至ったと。これは「汚名をそそぐ」ためならばなんでもありという日本式倫理観からくるもので、忠臣蔵と重ねながら、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に対する恨みと分析している。しかし、民主国家では戦争を仕掛ける時は繊細な神経を使う。名目がない、正義がない戦争は世論が許さない。となれば、先に叩かせるのが手っ取り早い。なるほど、立場が違えば、様々な解釈ができるというわけか。
いずれにせよ、歴史解釈は難しいわけだが、一般的な解釈に対して、自らの解釈を持つように心掛けたい。とはいっても、酔っ払った天の邪鬼は、捻くれた解釈しかできないわけだが。

4. 天皇と系譜
時々、天皇の系譜で政治家たちが論争するのを見かけるが、これがよく分からん!どうせ、ひいきにしている専門家の入れ知恵、あるいは支持母体の圧力的解釈であろうが。
遡ること南北朝時代。建武の新政で失敗した後醍醐天皇を吉野へ追いやり、足利家は光明天皇を即位させた。これで皇位継承争いは、吉野の南朝と京都の北朝で分裂する。この時、北朝方が示した「三種の神器」は偽物だっとかいう噂もある。
ところで、よく分からんのが明治天皇の即位をめぐる議論である。明治時代、南北朝正閏論を収拾するために、系譜から南北朝時代の北朝方の天皇を外し、南朝方の天皇を認めた。南朝を復権させたということは、南朝こそ正統な継承者ということになりそうだ。だが、明治天皇は北朝の末裔だったという論調もある。建前は南朝なのか?南朝方が正統となれば、北朝方を即位させた足利氏は逆賊ということになる。こうした議論も、水戸藩が示した「大日本史」の影響があるようだ。徳川家からすると、足利家を逆賊扱いする方が、都合が良いのかもしれない。民衆が徳川幕府への不満を洩らす時に、足利家を代役にして皮肉るといった世評も現れるわけだ。そういう家康は、官職を得るために、藤原氏を名乗ったり、源氏を名乗ったりと忙しいことよ。征夷大将軍の地位を得るには源氏を名乗らなければならないわけだが、どっちが源氏の嫡流なのやら。主流派も反主流派も時勢によって、どうにでも解釈できるというわけか。秀吉が関白職を得るために藤原氏を名乗るなど、権力者の系譜はなんでもありか。なるほど、系譜を人類の発祥まで遡れば、どのように名乗ろうが大して不都合はないという証左である。
将軍家と天皇家の系譜を同列に扱うことはできないだろうが、実権を握る当人にせよ、それを利用する者にせよ、権力者の系譜というものは、政治利用されてきた歴史があるから当てにはできない。

2009-12-16

もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな法学者がいたら...だめだこりゃ!

「法律とは誰のためにあるのか?」
アル中ハイマーはドスの利いた声で、いかにもダーティハリーが吐きそうな台詞を返すのであった。
「法律なんてものは、都合が悪くなった人間が利用するためにあるのさ!」


1. 条文の不完全性
法律は条文で構成される。条文は言語で構築される。精神を人間が発明した言語で規定できるとすれば、人間は精神を完璧に解明できたことになる。したがって、法律に欠陥があるのは当然である。法が道徳を構築できるのか?法ができることと言ったら、せいぜい行き過ぎた欲望を抑えるぐらいであろう。法は、人間社会で理性が構築できないために、人間が考案した実践的な手段である。憲法に矛盾する法律が山ほどあるのは、条文の限界に対する応急処置なのか?法律が、社会秩序を守るための最後の砦であることに疑いがない。だが、現実には業界に支配された法律が続々と生み出される。どうみても、政界との癒着がなければ説明できないほどに。したがって、法律を言い訳に保身に走るということは、最も理性を失った行為と言えよう。しかも、立法権を持つ政治家たちが、いつも法律を楯にするとは、最悪の人種ということになろう。
アメリカ合衆国憲法は、あらゆる独裁者の出現を拒むように考慮されている。だが、数学者ゲーデルはその弱点を指摘した。かつて、世界で最も進んだ憲法と言われたワイマール憲法は一人の独裁者によって廃れた。しかも、ヒトラーはワイマール憲法に従って政権についている。つまり、合法的に独裁者を生んだわけだ。歴史的には「全権委任法」を議会で可決させたことでワイマール憲法は死んだとされる。そう、論理学には、一つの全否定によって全ての論理を否定するという恐ろしい技がある。
どんなに論理を整備しても、そこに不完全性が紛れ込むとすれば、法は成文法ではなく慣習法であることを認識すべきであろう。どんな組織にも、事実上反故にした規定がゴロゴロしている。人間が草案するもので、完璧な論理に従ったドキュメントなんて存在するはずがない。そもそも、人間は普遍恒久的な価値観に到達していない。永遠に到達できるとも思えないが。神は、人間を永遠に退屈にはさせてくれないようだ。したがって、あらゆる条文を生きたものにしたければ、常に検証を怠らないことである。

「身代わりを用意してある...黒幕だ!幽霊のまったくの架空の人物さ!書類上でしか存在しない。法には抜け道がある。黒幕君には出生証明も免許もある。当局は幽霊を追い回すって寸法さ...」
...映画「ショーシャンクの空に」より...


2. 法律が命令するもの
「法律は誰のためにあるのか?」と問えば、一般的には「国民のため」と答えるであろう。だが、法律には人々の行動規範が定められる。つまり、国家権力が人々に命令している。となると、国家権力を縛る仕掛けも必要であろう。それが憲法ということになろうか。だが、政治家は、憲法と明らかに矛盾するような法律を続々と誕生させる。銀行法は銀行に命令する。民法は国民に命令する。ちょっと変わったところでは、刑法には刑罰があっても犯罪を禁じているわけではない。なるほど、脅し文句か!いや、どうやら刑法は、裁判官に命令するもののようだ。裁判官の裁量で勝手に刑罰を決めることができないというわけだ。となると、刑事裁判で裁かれるのは、被告ではなく検察官ということになりそうだ。つまり、求刑するからには、その証拠が検証されなければならない。証拠の正当性が認められてはじめて、被告人に罪状が与えられるだけのこと。検察官は警察という行政権力の代理人というわけか。ここには、人生観や感情は一切排除されるはずだが、有罪率99%という数字が際立つ。この数字は、公平性よりも国家権力の面子を優先した結果なのか?
裁判の場は、真相を暴く所でなければならないと考える人も多いだろう。だが、現実には真相なんてどうでもよく、検察官と弁護人の弁論大会となる。そして、民衆は「遠山の金さん」のように公明正大な存在者を求める。だが、ちょっと考えてみると、自ら証拠集めをし自ら判決を下すのは、神を自覚しているようなものである。こんな独裁的な存在を民衆がヒーロー扱いするのは、一般的に裁判の公平性に疑いを持っている証でもあろう。政治の根本原理は公平性の構築にある。法律や裁判はその手段に過ぎない。主権国家である以上、国民の生命を守るという義務を背負う。そうでなければ、税金を払う義務もない。命令ばかりして義務を果たさない国家に存続する意味はない。
人間は過ちを犯しながら生きている。法律は過ちを認識するための一つの基準に過ぎない。そして、刑に服せば、すべての過ちはチャラになると解釈される。したがって、法律を言い訳にしながら生きている人間は、強制力や権威力に従うだけで、自主的に過ちを認識できないということになろう。

3. 選挙制度の懐疑
多数決が民主主義の絶対的なシステムではない。だが、効率的で現実的な手段である。となれば、民主主義を機能させるために、選挙制度は常に検証され続けなければならないはず。にもかかわらず、訳の分からん仕掛けが何十年も亡霊のように居座り続ける。
摩訶不思議な存在に、国政選挙で行われる最高裁の国民審査がある。投票用紙に×印を書かなければ、自動的に信任されるとは、これいかに?そもそも罷免された例があるのか?信任方向にバイアスがかかる仕組みが、民主主義のシステムだとは到底思えない。いまや、三権分立が機能していると信じる人も少数派であろう。社会の反抗分子としては、全て×印を書いたものだが、最近ではネット情報で判決状況が容易に分かるのはありがたい。インターネットというメディアが一般の報道機関を補完する役目を担っているのも事実である。
また、選挙区の規模に目を向けると、国政選挙は小さな地方選挙の規模に過ぎない。だから、地元への癒着が強すぎて国政を疎かにするのであろう。しかも、当選回数が多ければ、政党の中で次第に権力を増し、ついには派閥の親分や大臣になったりする。その人の支持率が全国的にどんなに低くても、地元の支持者だけで当選する仕掛けがある。しかも、選挙の勝敗の基準も彼らの主観に委ねられる。そして、ふんずり返る連中ばかり集まり、政界は困ったちゃんの世界となる。
知事選の方がはるかに多い得票数で選ばれるのだから、知事の方が権威があってもよさそうなものだが。比例名簿に順位をつけることがまともなのか?比例区と選挙区の割合の根拠もよく分からん。はたまた、一票の格差が民主主義のシステムとして妥当なのか?などなど...考えれば続々と疑問がわいてくる。まぁ、偉い人たちが決めたんだから、間違いはないだろう。なにしろ、選挙制度を国会が決めるということは、刑法を泥棒が決めているようなものだから。
いまや、選挙制度に寄生する国会議員が多過ぎる!国会議員に権威を与える意味でも、議員数を思いっきり減らすしかあるまい。選挙が民主主義を機能させるための根幹的システムであるとするならば、その仕組みの公平性は常に検証されなければならない。にもかかわらず、政党論争にかかわる情報は氾濫しても、選挙システムそのものの欠陥を指摘する情報があまりにも少ないのはなぜか?なるほど、民主主義のシステムを話題にしたところで、ワイドショーとしては成り立たんというわけか。

4. 有罪率99%の脅威
裁判官は、検察官を監視するという機能を本当に果たしているのだろうか?あちこちで取り上げられる有罪率99%というのは、考えてみれば恐ろしい数字である。そのうち冤罪率は?と問うたところで答えがあろうはずもない。あっても揉み消されるのがオチだ。この数字からして、無罪の人が有罪判決を下された可能性を想像すると、かなり高い確率になるだろう。更に、この数字が前提となれば、恐ろしいことになる。推定無罪という裁判の基本原則は推定有罪として機能する。無罪の人でも、この数字を恐れて有罪を認め、少しでも刑を軽くしようと現実的に取引するケースもあるだろう。警察に脅されて妥協するかもしれない。それでも頑強に無罪を主張すれば、逆に反省がないと悪い印象を与えて重い刑が下されることもあろう。最大の問題は、冤罪が存在するということは真犯人を野放しにすることを意味することである。「真実は神のみぞ知る!」というのも嘘っぱちだ。少なくとも裁かれる人間は知っている。
ところで、量刑相場ってものがあるのだろうか?求刑よりも重刑になった例もあるが、なんとなく求刑の8掛けといった具合で決まるように見えるのは気のせいか?裁判官の量刑は、検察官の求刑に一切影響を受けないのが建前であろうが、検察寄りであるという印象は拭えない。エリートたちの心理には、庶民に欺かれることを極端に嫌う傾向があるのだろう。

5. 裁判員制度の是非
裁判員制度が始まったが、その是非をめぐってはいまだに論争が尽きない。ただ、どちらの意見もしっくりとしない。
反対派は、有罪率99%をどのように捉えているのだろうか?裁判は、検察官の証拠を検証する場である。そして、法律によって、不正な判決を下さないように裁判官が監視される。だが、しばしば、人間観を疑うようなとんでもない判決を目にする。裁判は、人間社会における人間行動を裁く場であって、社会的認識が必要となろう。となれば、人間社会の認識にプロも素人もないだろうに。法律のプロとは、それを施行するための手続きのプロに過ぎない。反対派の意見は、どうみても裁判官と検察官の癒着構造を隠蔽するための論理にしか聞こえない。
まだしも、賛成派の意見の方がまともに見える。一般の人々に裁判を通して、社会認識を持たせようというのは、それなりに意味がありそうだ。民衆が裁判を監視するという意味でも、役立つ可能性がある。それならばなぜ?いきなり凶悪犯罪を対象とするのか?民衆の習慣として根付いているわけでもないのに。CGなどを駆使してビジュアル化し、複雑な事実関係や証拠を分かりやすくするということは、情報を加工していることを意味する。一審で有罪となり、高裁や最高裁あるいは再審で逆転無罪となった場合、有罪を言い渡してしまった裁判員経験者の中には、一人の人生に取り返しの付かないことをしたと、良心の呵責に苛まれる人もでてくるだろう。まず、社会的風潮として論理的思考に慣れる必要がある。毎日マスコミの論調を目にしていては、それも難しいだろうが。
ところで、裁判員制度の対象となるかどうかは、どうやって決められるのか?最初から裁判の形勢が決したものだけが選別されるような、そこになんらかの思惑が感じられるのは気のせいか?酔っ払った社会の反抗分子には、いつも疑いの目が付きまとう。この制度が失敗すれば、反対派の餌食になるだけだ。裁判の民主化と言えば聞こえもいいが、言葉でイメージ付けて欺瞞するのは官僚たちの得意技である。いずれの意見も、偉い人の考える社会的感覚にはついていけない。どんな制度も用い方しだいで善にも悪にもなろう。
ちなみに、凶悪犯罪の基準も警察と法務省でも事情が違うようだ。警察では、殺人、強盗、強姦、放火といったもので、法務省では、殺人と強盗だけといった違いがあるらしい。法務省の定義では、命が助かればだいたいOKってか。警察も、10年もすればチャラになるってか。どちらも、「すべて忘れて、ポジティブに生きようぜ!」ってなわけか。いずれにせよ、「他人が死んでも構わない!」という行為は、「自分が殺されても構わない!」を意味する。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。などと言えば、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。
物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が最高の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。だが、宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、カント的ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

2009-12-13

もしも、泥酔したイデオロギー論者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、泥酔したイデオロギー論者がいたら...だめだこりゃ!

カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」

イデオロギーとは、理論が巧妙に宗教レベルにまで到達した状態を言う。

1. 迷走するイデオロギー論争
イデオロギー論争は、人間社会という複雑系と対峙しながら、破壊のカオスの中でうごめく。しかし、無謀な体系化で満足するよりは、迷走していることを認識できる方が都合がよい。世界を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないのだから。
資本主義の発達は、人間社会を富ませてきた。富は人間を盲目にするのか?科学界は物理法則に不確定な現象があることを発見した。解析不能とはいっても、確率論という道具を用いて計測しようと努力を続けている。数学界は算術の世界ですら不完全性に見舞われることを認めた。多くの微分方程式が解けないと認めつつも、極限に近づくことを諦めたわけではない。ニュートン力学が通用しなくなったからといって、ニュートンを蔑む量子論学者はいないだろう。ユークリッド空間が通用しなくなったからといって、ユークリッドを蔑むトポロジー学者はいないだろう。
ところが、イデオロギーってやつは、絶対に自らの立場が正しいという態度を崩そうとはしない。経済学では、相変わらず「神の見えざる御手」の信奉者と、ピラミッド造りすら容認する連中との間で、論争を繰り返す。これは、大して政策の違わない政治家同士の罵りあいにも通ずる。相変わらず、イデオロギー信奉者は過去の偉大な政治思想家や経済学者を罵りあう。自由放任思想は、貴族制や伝統主義に対する反発として生まれた。ケインズ思想には、市場経済の暴走がその背景にある。どんな思想にしても、時代背景を反発エネルギーとしなければ登場を見なかったであろう。最大の問題は、思想を崇めすぎるために歴史的背景という原因性を無視することにある。社会を良くするために考案された政治という人類の産物は、しばしば社会に悪しき作用を及ぼす。資金の流れを良くするために立案された経済政策は、リスクの高い場所から刺激が始まり、人間の欲望という領域を潤す。だが、政策の刺激が末端まで到達する前に、景気は下降局面を迎える。これが経済サイクルというものだ。規制と緩和はバランスしなければ受け入れ難い不平等を助長する。GDPのような経済成長の指標は、あくまでも総合指数に過ぎない。平均値のみが判断の基準となれば、社会現象そのものの分析を諦めたことになる。そして、結果的に社会不安を煽り、ますます社会は歪むであろう。人間社会は、いまだに自由と平等の概念が共存できないでいる。イデオロギーが胡散臭いのは、共存できることに気づかないからであろう。もし、人類が自然法則を受け入れるならば、時間はかかるだろうが、いずれ収束するであろう。それは「臨機応変」という新概念へと。

2. 資本主義の悪評
どんな政治体制であれ、その弱点を露呈すれば、旧体制を懐かしむ動きが生じる。せっかく民主化したにもかかわらず、一部の権力層の横暴な振る舞いが横行すれば、かつての独裁政権にすら郷愁を馳せる。ノーベル賞級のスーパースター集団による資本主義の醜態を目の当たりにすれば、東欧諸国で資本主義の悪評が広まるのも仕方がなかろう。社会主義体制にあって、民主化を掲げた改革派の政治家たちが、瞬時に財産を海外に持ち出したという噂は絶えない。これは民主化を偽った陰謀なのか?資本主義体制と社会主義体制の二大勢力がひしめく中、旧ソ連体制が崩壊すると資本主義が勝利したかに見えた。資本主義の恩恵である市場経済が、自由主義との組み合わせで発展してきたのは事実である。しかし、現在では市場経済の破綻が、一部の投機家によって引き起こされる脆さを露呈する。今になって、市場経済の暴走を抑制する手段で、マルクスや社会主義が見直されるとは、なんとも皮肉である。最大の問題は、どんな政治体制であれ、長期化の課程で、一部の既得権益者が蔓延り、彼らに搾取される仕組みを排除することが難しいことにある。搾取という意味では、資本家も共産主義者も似たようなものだ。これは、欲望という人間の持つ本質が絡む現象であり、どんな組織にも見られる。権力層に近い人間ほど、脂ぎった欲望や野望に飢えている。いつの時代でも、労働者階級は苦しめられる運命にあるようだ。自由も平等も人間の持つ本質であって、どちらも疎かにはできない。自由を崇めれば市場経済を暴走させ、平等を崇めれば官僚体質で腐敗する。人類の歴史は、資本主義と社会主義の双方の弱点を見事に再現してきた。
にもかかわらず、いまだに政治家たちはイデオロギー論争を繰り返す。まるで宗教論争のように互いの弱点を罵りあい、これを報道屋が煽るという構図からは逃れられない。欲望も理性的抑制も、人間の持つ本質である。おそらく、欲望という本質を認めながら、現実的に規制するしかないのだろう。いまだに人類はこの程度の価値観にしか到達できないでいる。

3. 民主主義と独裁主義
民主主義は、行動力の鈍い面倒なシステムである。なにしろ、民衆が政治権力を監視しなければならないシステムであるから。監視するからには情報の透明性が前提条件になるはず。となれば、政府や行政が情報を隠蔽すれば、どうにでも操れる仕組みとも言えるわけだ。
民主主義とは、民衆から選ばれた凡庸な人間によって、政治運営される仕組みである。独裁主義とは、自ら天才と信じる凡庸な人間、あるいは、宗教的に崇められた凡庸な人間によって、わがままに政治運営される仕組みである。どちらを選ぶかは好みの分かれるところであろう。少なくとも、悪しき方向に急激に振れないという意味では、民主主義の方がましである。しかし、政権交代がない、あるいは政権交代したところで癒着体質から脱することができないとなれば、独裁官僚制をますます強固にし、もはや民主主義が機能しているとは言えまい。いや、優柔不断な政治家よりも、優秀な官僚に任せる方がましなのかもしれない。政権が交代すれば、エリート官僚も総入れ替えするぐらでなければ、癒着を断ち切ることはできないだろう。エリート官僚たちは自らの存在感を強調するために、政権交代に影響しない中立の立場というもっともらしい弁明をする。言い換えれば、選挙で選ばれた議員に影響されることなく、民意を無視すると宣言しているようなものである。国会議員が民衆の代表であるならば、彼らは反目しあっている場合ではなかろう。

4. 共産主義の解釈
酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会」にするということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて排除する。つまり、欲望という人間の持つ本質までも否定する。下手すると、個性をも否定しかねない。この仕掛けの矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間によって運営されることである。そして、あらゆる裏工作がなされ、長期化するほど腐敗し、硬直した巨大官僚組織となりやすい。あなたのものは、みんなのもの!みんなのものは、権力者のもの!すべての借金は揉み消され、泥棒の概念すらなくなる。したがって、巨大官僚体制の下で堂々と、しかも合法的に搾取されるわけだ。あれ?ごく身近な国に似ていると思うのは気のせいか?強靭な理性の持ち主と自負する人々が権力の中枢に居座るからこそ、平気で搾取が実施される。しかも、彼らはすべて民衆のためだと、本気で信じている。猛烈な平和主義者が理想を崇めて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。おそらく神様が運営すれば、素晴らしく機能する体制であろう。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えそうだ。酔っ払いの共産主義の解釈とは、所詮この程度のものである。
マルクス主義には、テキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。これを、マルクス自身が意図したかどうかは知らん!どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想が、まともとは思えない。社会学者ヴェーバーの著書によると、マルクス主義を批判した文面が見受けられる。だが、大塚久雄氏は、マルクスとヴェーバーの類似点に着目して、むしろ批判の対象をドイツ社会民主党であると解釈していた。我が国で言えば、旧社会党系や共産党系といったところだろうか。こういう諸派も極少数派で存在する分には、資本主義を見直す意味でも、それなりに役立つのかもしれない。だが、旧社会党系には、かつての主流派にぶら下がり、一党の独走を許し、ことごとく連立政権を邪魔してきた経緯がある。今も変わらんかぁ。
よくマルクス・レーニン主義と呼ばれるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。ロシア革命をマルクスの「資本論」の立場で見るのは頑固な態度のように映る。少なくとも、マルクスをボリシェヴィキと一緒に葬り去るべきではなかろう。それにしても、ロシアの代々の政治家たちの歴史評価はよく変わるものだ。ニコライ2世は、後に聖ニコライとなった。かつて父であり教師であったスターリンは、血なまぐさい怪物となった。聖者レーニンも、血なまぐさい噂は絶えない。ノーベル平和賞を受賞したからといって、後に歴史評価がどう変わるか分からない。
マルクスが、マルクス主義者によって悪者に仕立てられたのは、皮肉としか言いようがない。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、その思想は凡人によって継承される運命にある。おそらく、あのナザレの大工のせがれは、噂されるほどの偉大な人物だったに違いない。お釈迦様が気の毒なのは、仏像として拝まれることである。あの偉大な釈迦がそんなことを望むはずがない。
世界恐慌の時代にも、共産主義がもてはやされた。というより、他人の家は良く見えるものだ。どんな社会でも巨大化すれば疎外を感じるであろう。疎外は、むしろ人口論とのかかわりが深い。哲学で疎外というと、やりきれない!自我の喪失!といった印象を与える。それが、資本主義から人間性が失われると解釈され、人間性を取り戻す意味での社会主義が生起し、その発展型が共産主義から全体主義となり、ついには完全に人間性を失うというわけか。

2009-12-09

もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな政治学者がいたら...だめだこりゃ!

政治とは、規制という道具を巧みに用いて、無理やり政治屋たちの存在感を強調する仕組みである。したがって、政治屋の目立つ世の中は、ろくなもんじゃない!

1. 脂ぎった奴らと草食系
世間は、官僚組織を悪魔のように批難する。その通りであろう。だが、その行政をマネジメントできない政治家たちが同じ発言をするということは、もはや自らの存在意義を否定していることになる。彼らは、政党間の罵りあいが、自らの無能さを暴露しているということに気づかないのだろうか?そのくせ、政党間の選挙協力という約束事に縛られて、肝心な政治判断は先送りされる。彼らが重んじる義理人情とは、民衆への義務を反古にすることであり、脂ぎった奴らの仲間意識である。おまけに、政治家に群がる一部の国民と共謀して、公共施設に自らの名前をつけて自慢する。これを私物化と言わずになんと言う?彼らには、どんなに傲慢なことをしても、必ず付け加える言葉がある。「謙虚に!真摯に受け止める!」論理学の全否定とも言える構文だ。酔っ払いには日本語の論理がよく分からん!おそらく、日本語でプログラミングしたら暴走するだろう。
普段ふんずりかえる連中が、選挙直前になると土下座までする。その醜さは目を覆いたくなる。したがって、政治報道はR-18指定するがよかろう。なるほど、討論番組は、青少年に配慮して深夜に放送されるわけか。
また、脂ぎった欲望に満ちた政治屋や報道屋は、草食系を消費に消極的で、婚活に励まないとして、不景気や少子化問題と結びつけながら、社会の害虫のように捲くし立てる。脂ぎった連中は、自ら持つ欲望や野望以外の価値観を理解できないでいる。しかし、政治屋や報道屋の態度を眺めれば、草食系はそれを反面教師にした価値観とも言えよう。草食系と呼ばれる人種が現れたのは、なにも今に始まったわけではない。いつの時代でも、権力者に呆れた知識層から生じる現象であって、古くからニヒリズムや哲学的思想と結びついてきた。ニーチェ風に言えば、政治屋と報道屋は「余計な人々」というわけだ。

2. 政治力とは情報力に他ならない
日本の政治が三流と言われる要因の一つに外交力を挙げる人も多いだろう。情報力がなければ、外交力も失われるのは当然である。スパイ天国日本、情報漏洩で同盟国にすら信用されない日本、伝統的に情報音痴な日本、こんな国に自立を求めるのは無理な話である。憲法によって軍事的に制約を受けるのであれば、情報力で凌駕したらどうか。なにも強力な武器を保有することだけが防衛力の強化とはならない。どんなに立派な武器を備えても情報力が乏しければ、ものの役には立たないのだから。核を保有したところで実際に使用すれば、国家の権威を失墜させ、その指導者は人類共通の敵となろう。そのリスクを背負うことができるのは、狂乱者ぐらいなものだ。核の本質は抑止力であって、事実上の戦闘には使えない。となれば、経済力を圧迫するだけの存在でしかない。核の最大の脅威は、売買によってテロリズムと結びつくことであろう。
我が国には、専守防衛という概念がある。だが、現実には、本土侵略でもない限り、何をされても攻撃とは見なせないであろう。それは歴史を背負っているからであり、専守防衛は事実上の戦闘放棄となる。となれば、情報力はますます重要な位置付けにあるはず。現実に、我が国は、拉致問題によって、少数の犠牲ならば基本的人権すら放棄することを示した。しかも、民主国家としての誇りも放棄したかにように映る。なぜ?独裁政権との国交正常化を急がなければならないのか?そもそも民主国家が独裁国家を容認できるのか?守るべきは、国家体制ではなく、民主主義ではないのか?独裁政権と仲良くするよりも、相手国の民衆運動と結びつく方が、民主国家としは健全であろう。
冷戦構造が終結して平和の時代が来るかと思えば、前にもまして、ナショナリズム、地域紛争、宗教的狂信、資源帝国主義、核拡散など、危険な時代へと突入する。各国は国家存亡のために、諜報活動をますます強化する。ちなみに、超一流の諜報機関が予測したことは絶対に当たる。そりゃそうだろう。どこかで何年後に、紛争があると予測すれば、そうなるように仕組むだけのこと。明日誰かが死ぬと予測すれば、殺せばええだけのこと。彼らは面子にかけても仕掛けてくる。
諜報活動は、軍事面のみに留まらず外交戦略、経済戦略にも大きな影響を与える。それにしても、不思議なのは、日本には卓越した諜報機関がないにもかかわらず、世界二位までの経済大国になったことである。国家戦略とは別に、民間企業が個々に成長できたのはなぜか?それは民間企業が独自に情報収集してきた結果であろう。かつて、日本の総合商社は諜報機関の役割を果たしてきた。それは、企業としての生存競争の中で危機感を持っていた証である。日本政府は、経済発展は民間企業に任せ、軍事はアメリカに頼り、外交は形だけでやってきた。もし、経済大国の上に一流の諜報機関まで持てば脅威となろう。アメリカにとっては情報依存してくれるのはありがたいはず。都合の良い情報を与えておけば、それだけで日本をコントロールできるのだから。
日本が国連で存在感が薄いとなれば、まるで機嫌を取るかのように金をばらまく。借金大国の上にこれだけの不況!たまには、国連への資金提供を半分に減額するぐらいのことを発言してもいいのではないのか?政治家や官僚は、なにかと世界援助という名目で金をばらまくが、財政赤字とはこれいかに?日本には、友好的な国があっても、おそらく友好的な諜報機関は存在しないだろう。日本政府は各国の諜報機関に対してノーガード戦法で挑んでいる。軍事力となると目先の兵器ばかりに目を奪われるが、それ以上に重要なのが一流の情報力であることは、歴史的にも学んできたはずだが。

3. 幻想の平和論
世界は平和ではない。世界中を見渡せば、どこかで戦争や紛争が起こり続ける。戦争や紛争のない時代を探せば、原始時代まで遡らないと見当たらない。平和を謳歌しているのは、日本をはじめとする特定の地域のみ。しかも、日本は自力で平和を勝ち取ったわけではない。だから、アメリカの軍事力を後ろ盾に幻想の平和論で盛り上がるのだろう。平和国家であることを自慢しながら、ますます自己イメージを膨らませるかのように。
冷戦構造時代では、まだしも大国の圧力が暗黙の監視役となっていた。現在では、テロがどこで起こっても不思議はない。核は拡散し、偶発的に核戦争を招く可能性がある。状況は、過去にもまして脅威になったと言えよう。たとえ小規模な紛争であっても、大規模な悲劇を招く可能性がある。
また、脅威は戦争だけではない。むしろ経済危機による人為的脅威の方が大きいかもしれない。近代戦では、軍事行動だけとは限らず、心理的に仕掛けてくる。戦闘前から、国民の意志をくじくような、陰険で周到なプロパガンダ攻撃を受けることもある。民族紛争には、世界世論を味方に付けようとする巧みなメディア戦争の色が濃い。紛争がある度に、PR企業が繁盛するわけだ。どこの国にも売国奴がいる。その行為にジャーナリストや識者たち自身が気づかない。彼らは、自由や平和という美しい言葉で心を癒す。しかし、それを実践するには、それなりの覚悟がいることには目を背ける。高度な情報社会では、報道屋の扇動に負けずに、自分で考えることの難しさがある。

4. 世界の警察力
冷戦構造が終結し、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認する。そして、あらゆる紛争に自主的に介入してきた。その理想主義はある意味美しい。だが、警察行動は公平性を欠くと説得力を失う。情報を隠蔽し、警察行動が世論操作されるならば、もはや正義の旗はお飾りでしかない。見事なプロパガンダ技術で司法の判断までも世論に流されれば、それだけで世界を支配できる。人間の持つ美しい理想主義は、いずれ暴走する性格を持っている。アメリカは、国家戦略の中で、あらゆる手段を使って、特定の国に疑いをかけて裁いてきた。そして、同時に汚点も残してきた。国際裁判で有罪を下すからには、論理的な説明をする義務がある。これは、国際法から個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。証拠なしで仕掛ける軍事行動は、もはや警察行動ではなく、侵略戦争である。おまけに、充分な検証なしで、一国の軍事行動を無条件に支持することは無責任であり、もはや同罪である。

5. 「国民」という都合のよい言葉
どこの国でも、政府や高級官僚は嘘をつく。これに彼らは反論するだろう。すべて国益と国民のためだと!彼らが常に口にする「国益」や「国民」とは何を意味するのか?なるほど、彼らもまた国民である。彼らを取り巻く既得権益にぶらさがった連中もまた国民である。「国民」とは、国民を欺瞞するための実に都合のよい言葉である。少なくとも、くだらない陰謀を企てるよりは、国の理性を見せる方が国益というものであろう。
「改革」という言葉にも、なんとなく魅力を感じる。だが、本当に改革する意欲があるかは分からない。いつの時代にも既得権益にしがみつきながら、都合よく制度を決める慣わしがある。制度を変えればなんとなく改革した気分にしてくれるものだ。税金の無駄遣いを撲滅すると叫びながら、相変わらず議員定数が減ることはない。最も簡単な方策ですら手がつけられないでいる。既得権益を固持しながら、名目で欺くことは政治家や官僚の得意技というわけか。改革を実施しようとして急ぎすぎると、逆に中途半端となり、既得権益がゾンビのように復活する隙を与える。官僚体質を改革することは、新規でシステム化するよりも、はるかに困難である。

6. 国債の怪奇
相変わらず、日本政府は巨額な国債を発行し続ける。これだけ乱発すれば、いつかは暴落しそうなものだが。GDP比200%もの累積負債は素人目で見てもヤバいんでないかい?そろそろ新規発行額が一般税収を超えるかも。日本の国債が世界的に評価されないのも当然であろう。政権交代して、国債発行額が増えるとはお笑いだ!そのせいか知らんが?日本の株価の動きが全般的に重い。まさか、国家が市場から制裁を受けるなんてことはないだろうなぁ?今までの国際関係は、国家間の外交によって成り立っていた。特定の国に制裁を与えるにしても、国家レベルや同盟関係で圧力をかける。しかし、これからは国家という枠組みを超えて、巨大マーケティングによる圧力が加わるかもしれない。現実に、国家や国際協調レベルの経済政策が効果を発揮できないでいる。いまや、市場経済は各国政府が協調しても手におえないほど巨大化した。
ところで、国債を発行したからといって誰が購入するのか?不思議でならない。半強制的に民間企業に請け負わせるようなことでもないと説明できない。金融機関に預けた金で、無理やり国債を購入させているようなものか?間接的に民衆の預けたお金で国債を受け負わされているならば、銀行に公的資金が注入されるのも仕方がないのかもしれない。結局、みんなの金は、政府の金というわけか。ある意味、すげーぼったくり国家である。銀行や郵貯や簡保が、巨額の国債を引き受ければ、それだけである程度の金利がもらえる。ちょいと金利を眺めてみると、現在は預金よりも個人向け国債の方が有利である。しかも、名目上は元本保証。あくまでも個人向けなので、銀行が引き受ける金利は上乗せされるのであろう。つまり、銀行は新たな顧客を見つけなくても国債を買っていれば済む、それほどの低金利時代が続いているというわけか?相変わらず政府は、資金運用能力がないにもかかわらず、国債によって巨額な資金を集め続ける。その結果、国の借金を国民に肩代わりさせる構図からは抜け出せないでいる。国債の受け皿を無理やりにでも創出しないと、政府の予算案は簡単に破綻するであろう。なるほど、再び郵貯を「国債消化機関」として復活させたいわけか。そもそも、せっかく民営化した郵政事業の人事に国会議員が口を挟むのも奇妙である。政府と金融機関の癒着は永遠に解消されないわけか。
それにしても、政界には、凡庸な、いや!凡庸未満の酔っ払いには到底理解できない怪奇な現象ばかりで溢れかえっているものだ。国会議事堂が妖怪の館に見える。

7. 地方分権の議論
どんな組織においても、混沌として運営効率が悪くなれば、強烈なリーダーシップを持った指導者の登場が求められる。だが、活力に溢れた指導者に管理されると息苦しいものだ。大組織で民主主義を機能させても、変化は少しずつしか訪れない。しかし、経済破綻に民衆は我慢できない。となれば、改革を急激に望めば、その究極に独裁者の影が映る。そこで、適切な規模で機能する政治が求められる。それが地方分権というものだろう。そこには、地方のことは地方の方が熟知しているという行政の効率化がある。国政が必要ないというわけではない。地方行政と国家行政がバランスされた時に、行政が活気付く。地方分権の議論とは、政治や行政、あるいは経済効率を上げるための、組織規模を論じることであろう。企業で言えば、分社化やグループ化によって経営効率を上げるという意味に似ている。一票の格差是正にも効果があるかもしれない。その延長上に道州制の議論も登場するが、いまいちしっくりとしない。
一つの参考となる政治モデルに、古代ギリシャの都市国家群があるように思う。それは、全ギリシャという共通価値観を前提としながら、いざペルシャのような巨大な外敵が迫れば都市国家群で対処するといった共和的体制である。ただ、論理的思考や哲学的思考が根付かなければ、体制化するのも難しかろう。
日本人には、なにかと中央にお伺いを立てる体質がある。日本は島国なので、目に見えて守られる境界線がないと落ち着かない国民性があるのかもしれない。それは企業体にも見られる。課長や部長クラスが、一つのプロジェクトをクビをかけて潰すような、自分のキャリアを縮めるような、組織の枠組みからはみ出した行動は滅多に見られない。活力のある企業では、そのぐらいの覚悟を持った管理者ほど信頼される。だが、官僚体質に染まった組織では、見事に責任を押し付けられ、注文どおりにクビになる。おそらく、その管理者はクビになって幸せであろう。
権限が委譲されても、肝心なところで中央にぶら下がろうとするのであれば、いつまでたっても分権は実現できない。地方分権を叫ぶならば、独立宣言するぐらいの覚悟が必要であろう。いずれにせよ、霞ヶ関を向いたままでは、実践的な行政ができるわけがない。

8. 「労働組合」という不思議な組織
健康保険、年金、雇用保険、退職金を会社が負担するのだから、雇い主から見れば、優秀なフリーターほど大切にしたいはず。だが、建前ではそうはいかない。正社員を解雇すれば労働組合が黙っていない。それにしても、労働組合とは不思議な存在である。ある会社では、残業を拒否した社員がクビになると、「不当解雇だ!」と叫びながらビラを配って回る連中がいた。だが、遅刻や無断欠勤も多く、そろそろクビになるんじゃない!という噂もあった。そういえば、別のある会社の冗談のような話で、みんなで大笑いした覚えがある。昔々、コンピュータを正常終了させずに、直接電源スィッチを切る女の子がいたそうな。何度注意しても一行に言うことをきかないので、課長さんがコンピュータ使用禁止令を出したそうな。その女の子は労働組合に訴えた。すると、組合の連中が大挙して「男女差別だ!」と叫びながら乗り込んできたという。課長さんは、(小指をたてて)これで会社を辞めました、とさ!
こんな連中と交渉しなきゃならんのかと思うと、出世だけはしたくないと語り合ったものだが、無駄な心配だった。たかだか数百円の組合費だが、こんなことに使われるくらいなら、払いたくないと洩らす人も多い。
平等を訴えるすべての政治家がこの類に属す。労使間のパワーバランスが偏っていた時代には、労働組合の存在意義は大きい。しかし、いまや選挙の道具と化す。「平等」という言葉ですら選挙の道具にされる。労働組合が労使関係の均衡を保つことを主旨とするならば、非正規労働者にこそ必要であろう。労働組合は、相変わらず高度成長期の幻想に憑かれながら、臨時労働者や下請け業者を犠牲にしてまで賃上げ要求をする。一流と呼ばれる企業が、高額な企業年金に固執しながら現役労働者を犠牲にする。おまけに、経営不振ともなると公的資金をたかる。金持ちが国への依存度が高いとは、これが「勝ち組」の正体か?組織への依存度を増せば、隷属的にならざるを得ない。

2009-12-06

もしも、アル中ハイマーな経済学者がいたら...

もしものコーナー...
もしも、アル中ハイマーな経済学者がいたら...だめだこりゃ!

経済学者と称する者で、社会学的観点のない者は単なる統計調査員である。おまけに、数学的観点のない者は単なる占い師になり下がるであろう。

1. 奇妙な学問
経済学者は最近の出来事の予想が当たると思いっきり自慢する。だが、まったくと言っていいほど経済予測を継続的に当ててきた者はいない。経済学者は占い師か?
経済学は、他の学問に比べ、対象となる範囲が酷く限られる。学生時代、大学の学部で経済学部と商学部が分離されていることに疑問を持ったことがある。経済学部は社会学部経済科ぐらいでええんでないかい、商学部は社会学部経済科の中にある一教科ぐらいでええんでないかい、などと思ったものだ。ちなみに、哲学部なんて聞いたことがない、文学部哲学科ぐらいだろう。電磁気学部なんてものも聞いたことがない、工学部電子工学科には一教科としてある。これも、エントロピー増大の法則にしたがって学問の専門化が進んでいるということだろうか?なるほど、経済学は他の学問よりも形式化だけは早いようだ。ちなみに、経済学を専攻すると利己的になりやすい傾向がある、という統計情報もあると聞く。経済人は勘定に合わぬことはせぬ!というわけか。
あらゆる分野で深さを追求すれば、分化や専門化が進む。それと同時に、知識の縦割れ現象が起こり、総合的視野が失われる。学問の専門化も、その程度に善し悪しがあるのかもしれない。古代のあまり専門化の進んでいない時代には、知識を見渡せる総合的な視野に立つことができたことだろう。ネット社会では、情報が氾濫する分、知識も得やすい。知識が安易に得られる分、生産性も高い。だが、創造性や思考力が高まっているかは疑問である。安易に結論に飛びつけるということは、思考の過程を放棄することにもなる。少なくとも一つのことに熱中できるのは、一部の天才たちに与えられた幸せであろう。凡庸の、いや!凡庸未満の酔っ払いは、知識の縦割れどころか横割れ現象も起こるから困ったものだ。

2. 金融危機と「ウォール害」
米国発の金融危機が叫ばれながら、米国大手の金融系は、すぐに危機以前の水準までに業績が回復した。そして、大幹部たちの巨額な報酬が復活する。彼らは、短期的な利益によって評価されるために、わざわざ高いリスクの戦略を仕掛け、銀行を共倒れさせた。しかし、その後の損失によって責任を問われることがない。その影で、他業種は失業で喘いでいるというのに。この対照的な現象はなんなんだ?
レーガン政権下で銀行の規制緩和が実施されて以来、経済システム自体が金融化した。つまり、金融債権を細かく切り分けして、資金の移動をやりやすくしたわけだ。そして、流通や広告といった間接的な業務に大量な資金が流れ込むようになる。この傾向は、生産一筋で発展してきた資本主義の価値観を再構築したとも言えよう。
ここまでは良しとしても...
問題は、アメリカにおけるレーガン主義の根強さであろうか。あらゆる政府介入を常に悪とする風潮は、どうみても尋常ではない。オバマ政権が目指す公的医療保険制度でさえ、なぜ?そこまで目くじらを立てるのか?しかも、根拠のない反対派議員の発言に民衆が扇動されている状況がある。感情論が蔓延るのは民主主義の宿命か?
生産、流通、販売という経済の基本構造は、実体のないものに価値がシフトしてきた。これは疎外感の発展型か?証券取引所では、巨額な資金が流れるにもかかわらず、肝心な産業への資金が滞る。では、実体のないものは、どのように評価されるのか?ここに人間の欲望が群がり瞬時に価値が乱高下する。世界恐慌時代と原理的には大して変わっていないわけだ。金融系は、相変わらず実体のない金融商品を誕生させる。しかも、その価値やリスクの評価にお墨付きまで与える。実体がないものほど欺きやすいというわけか。物の価値を自然に市場に委ねるのと、とんでもない金融商品を自由に創出するのとではまったく意味が違う。実体のないものが社会で冷静に見直されると、瞬時に暴落する。これは自爆テロか?いや、通りすがりの人までも危険に曝す金融テロだ!「資本の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の自由化は金融寡占化を増幅する便法というわけか。
ウォール街には、金融危機を促した報酬制度という悪しき習慣が、いまだ健在である。しかも、政府は金融体質改善を迫る前に、公的資金によって真っ先に救済しやがる。ここには、まさしく政府が後ろ盾になった金融支配の構図がある。そもそも、銀行の本来の業務は、決済の仲介業務であるはず。リスク評価を最も冷静に判断できる第三者機関であるはず。いまや、まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握る。銀行が本来の業務から離れるほど、社会の害になるというわけか。自動車会社が、わざわざ欠陥自動車を販売して、自動車保険の価格を吊り上げているようなものだ。依然として蔓延る旧体質は、新たな金融危機を招くであろう。そして、バブルは繰り返される。投機家たちは、次のバブルの機会を狙ってなりを潜める。経済の目的は、物の価値を正当な値で安定させることにあるはず。市場や流通の活性化は、その手段に過ぎない。一時的に市場が活気付いたところで、将来へ混乱を先送りするのであれば、むしろ害は倍化するであろう。

3. 空虚と価値
正当な株価は存在するのだろうか?株価は未来予想を含んだ企業価値で評価される。では、未来とはいつか?10分後か?明日か?1年後か?10年後か?もしかしたら、100年後を予想する投資家もいるかもしれない。現在の株価が妥当するかどうかは、投資戦略によって見方も変わろう。にもかかわらず、エコノミストたちは、現在の株価水準は低いという意見を強気で主張する。もっとも、銀行系や証券会社系の評論家は売買を煽ることしか言わない。なるほど、エコノミストたちは「株で儲ける方法」なんて本を売って儲けるわけだ。ならば、経済理論を組み立てるよりも、いっそ証券取引所に群がる群集心理を分析した方が手っ取り早い。取引で儲けるということは、差額を求めることである。アンブローズ・ビアス曰く、「儲かるとは、商品を卸で盗んで、小売で売ることである。」
証券取引所には、デリバティブ商品が横行する。そもそもデリバティブの役割とは、相場変動によるリスク回避のために用いられるはず。大阪商人によって始まった先物取引は、米の生産が気候変動に影響を受けても、予め米価を決めることによって、価格を安定させ社会混乱を避けようとする仕組みであった。ところが、現在ではデリバティブ商品が価格変動を煽る。そこに、価値の乱高下を好み、バブルを大歓迎する連中が群がる。
その一方で、経済学者や政治家は、バブル経済を悪魔のように言う。彼らも同様に、証券という空虚を追いかけながら、証券価値が下がることに過敏に反応する。そして、金利ばかりに目を奪われ、インフレを必要以上に懸念する。人類の歴史には、インフレで百倍にも千倍にも貨幣価値を瞬時に変動させた実績がある。そう!市場原理には、「無を存在とし、存在を無とする」奇妙な法則が働く。人間は、社会が複雑化し疎外を感じるようになると、空虚な世界に価値を求めるのだろうか?かつて、資本主義を牽引してきた製造業には、見るからに物作りの世界があった。今では、コンピュータ上でシミュレーションしながら物が作られる。大部分のハードウェアがソフトウェア化し、仮想的な世界で物が作られ、実体のない物の価値が高まる。なるほど、人間には、空虚なものに憑かれる性質があるのかもしれない。数学者が、無限数に憑かれるように。人間社会の進化は、哲学的な実存問題をややこしくしているようだ。何も語らずに何かを語ろうとしたり、修行や鍛錬で無意味な苦難の道を選んだり、自分の実存を絶望したり、実体のない信頼を拠り所にしたり、確証のない安全に身を任せたり、検証できない事に自信を持ったり、愛なるものに無限の期待をかけ続ける。人間はますます実体から離れていく。そもそも、そこに実体なるものは存在しなかったのかもしれない。

4. 賢明なる経済ビジョン
いまや、金利やマネーサプライのコントロールといった従来のマクロ経済学の発想では、景気が左右されることはないだろう。先進国が、通貨をコントロールして自国の生産力を強化しようと目論んだところで、生産拠点は労働コストの低い東南アジア系などに分散している。現在の経済システムでは、実体は自国にはない。企業が実質労働を派遣や下請けに委託すれば、空洞化は避けられず、ここにも実体はない。経済が、いや!人間社会そのものが、仮想化へ向かう。これが、人間社会のエントロピーであろうか?
ゼロ金利政策にしても、本当に銀行の経営体力を回復させたと言えるのか?貸し出し先を積極的に探す努力もせず、むしろリスクばかり追いかけているようにしか見えない。低金利政策をとったところで、資金供給量を増加したところで、一部の投機家を喜ばせるだけでしかない。しかし、いまだに経済学者や政治家は、この手法にとり憑かれている。市場原理が、人間のできない価値判断を自然法則に委ねるために存在するのも事実である。だが、現実には、一部の経済人の価値観によって支配され、市場に参加していない人々に多大の被害を与える。英国元首相サッチャーによる金融ビッグバンは、イギリスの銀行を衰退させながら、シティーを巨大化させてしまった。ウォール街の連中は、金融危機を招きながら、真っ先に金融体制を立て直し、一般企業に被害をそのまま請け負わせたままでいる。いまだ日本政府は、国家戦略的な経済政策を打ち出せないでいる。政治家は政治団体に支配され、ビジョンのないその場凌ぎの政策を繰り返す。しかし、それはある意味、賢明な態度なのかもしれない。国家主導型の経済戦略というものは、発展途上国で道しるべを必要とする段階において機能するだけのことだから。

5. 災害の多い国
日本の経済学界には不思議な現象がある。経済大国と評されながら、ノーベル賞級の経済学者がいないことである。その一方で、ほとんどノーベル経済学賞を独占するアメリカの格差社会は半端ではない。なるほど、ノーベル経済学賞とは、経済危機の実験によって理論を構築した業績を称えるものなのか。これだけ頻繁に総理大臣が変わっても、これだけマスコミが悲壮感たっぷりに扇動しても、経済はなかなかへこたれなかった。そろそろ息切れ気味のようだが。おそらく他の国だったら社会暴動は避けられないだろう。日本は災害の多い国であり、民衆は災害慣れしているのかもしれない。まさしく日本は政治災害に見舞われる。もはや、巨大官僚をコントロール不能にした政治家は、社会の寄生虫でしかない。
ようやく政権交代して、政治主導で盛んに予算削減の議論が進むかのように見える。今までのバラマキを一度凍結して、本当に必要なものは改めて見直すのも良い試みであろう。どさくさに紛れて、必要な予算が一時的に凍結するのも仕方がないのかもしれない。なにしろ、何が必要なのかを判断することができないのだから。プレゼンの出来栄えで判定されても困る。いずれにせよ、今まで検証を怠ってきたツケが回っているだけのこと。だが、科学技術をあまり疎かにすると国の行く末が案じられる。「世界1位ではなく2位では駄目なのか?」という訳の分からん発言をする議員もいる。1位を目指した結果が、3位だったり5位だったりするのだ。最初から2位を目指せば、30位ぐらいに転落するであろう。順位なんて関係なく、資源のない日本は技術大国として生きてきた伝統がある。先人達が育んできた生命線を我々の代で消すこともできない。科学技術は民間の貢献が大きいが、現実に民間はコスト削減のため研究費を抑えている。あまり研究開発を疎かにすれば産業が空洞化し、企業自身の首を締めるであろう。民間と国家戦略の協調は古くからの課題であるが、主力戦略のビジョンを明確に示さなければ、補助金は機能しない。政治家というものは、どうもバランス感覚のぶっとんだ輩ばかり目に付く。見直さないよりはマシだが、ほんの少し見直して改革気分に浸ろうとするところに、一種の麻薬効果がある。なにはともあれ、議員数を減らすのが最も手っ取り早いことは周知の通りである。とりあえず、4分の1ぐらいにしてみてはどうか...。ここから手を付けなければ、どんな改革案を持ち出したところで説得力がないことに、彼らは気づかない。いや!気づかない振りをする。

6. 自然増殖と突然変異
資本主義は自然増殖によって発展してきた。と言えば聞こえがいいが、その実体は自転車操業システムである。どこかの操業が停止すれば、すぐに不況へと傾く。そこには、資源資本と労働資本という実体の間で、空虚な金融資本が、うまいこと介入しながら資本を増加させる仕組みがある。しかし、資本増加を前提とした経済システムに終焉はないのだろうか?地球という閉じられた世界で生きるには、地球資源にも限界があろう。政治は、相変わらず人口増加を煽る政策を取り続ける。枯渇する資源資本と増加する労働資本の間で、資本の不均衡も生じるだろう。その不均衡を是正できるほど、空虚な金融資本に力があるのだろうか?あとは、人類の遺伝子構造に突然変異が起こることを期待するしかなさそうだ。人類が宇宙に飛び出しても生きられるような生命体に生まれ変わるような、そんな体を獲得できる日を!

7. 信用の本性
世の中は、なんの根拠もない信頼で成り立っている。考えてみれば、会ったこともないパイロットに命を預けるなんて信じられない。それほど、航空会社が信頼できるのか?しかも、高い金を支払わされる。そこには、わざわざ利用者が信頼を買っているという不思議な構図がある。
銀行はATMで手数料を取る。かつて、窓口業務で人の手間がかかっていたから手数料という理屈も分からなくない。しかし、自動機械を使うのは利用者であって、手間をかけているのは利用者である。むしろ、手数料を支払ってもらいたいものだ。銀行は手間を売っているというわけか。
ところで、「信用取引」という奇妙な言葉がある。資金を証券会社より借り入れて売買を行うわけだが、担保が必要だったり、期限があったりと、何かと制約がある。つまり、証券会社が顧客に対して、一方的に課した制約で成り立っている。本来、信用とは相互の認識が合った時に成立するものではないのか?ならば、「人質付き取引」あるいは「差し押さえ付き取引」と言った方がよかろう。

8. 自己資本の懐疑
銀行業が胡散臭いと思う理由の一つに、自己資本の概念がある。そもそも民間経営だから、自己資本で運営するのが基本だろう。だが、その水準の低さには唖然とする。BIS規制ですら、自己資本比率8%しか義務づけていない。専門家が経験から算出した数字だろうから、素人に議論の余地はない。それにしても、株式は自己資本で、債権を他人資本として扱うのも奇妙である。返済義務の有無で区別されるが、どちらも他人の資金ではないか。株式を社外の人間が持てば、外部からの余計な口出しを気にしなくてはならない。それを嫌うのも分かる。つまり、株式とは口出し料というわけか。ならば、事実上、他人資本となって機能するかもしれない。それらしい言葉で欺瞞するところに、まさしく詐欺師の高等テクニックがある。なるほど、銀行屋は自己資本を持ちたがらない連中というわけか。

9. 銀行に乗っ取られるベンチャー企業
エンジニア会社には、ベンチャーキャピタルに、日本の場合は銀行系であるが、安易に資本注入してもらって経営が安定したと喜んでいる経営者を見かける。そして、資本家の口出しには逆らえなくなる。資本が重要な要素であることは間違いない。だが、問題は会社の性格を理解していない連中が資本家になることである。当初、従業員の方を向いていた物分りの良かった経営者は、徐々に資本家の方を向くようになり、従業員からは頑固な経営者へ変貌する。そして、資金凍結の恐れから、会計報告に惑わされ、ひたすら黒字を装うことに躍起になる。そもそも、金融系とエンジニア系の神経ベクトルは真逆にある。エンジニア出身の経営者は経済学オンチという引け目からか?金融系の意見を素直に受け入れる。彼らは金のプロであって、エンジニア会社の経営のプロではないのだが。エンジニア系の経営者は、面倒なことを事務方に丸投げする傾向がある。側近に信頼できる事務方のパートナーがいればいいが、なかなかうまくいかない。次第に、目先の売上に囚われるあまり、人材派遣のような奴隷業務に追われるようになる。そうなると、優秀な人材が逃げていき、人材の入れ替わりの激しい会社へと変貌する。エンジニアが金の事を言い出したら末期症状だ。これは退職を仄めかししていると考えねばなるまい。だが、経営者は、その理由をまともに受け入れ、根本的な問題からは目を背ける。そもそも、退職理由を本音で語るのは稀であろう。人材の質も低下することは言うまでもない。
また、株式を公開した途端におかしなことになる会社を見かける。最初から売却目当ての経営者もいる。経営者はなぜ目先が曇るのだろうか?そもそも、なぜ起業しようと考えたのだろうか?人間とは、金が絡むと変貌する生き物というわけか。

10. 経済人の感覚
経済人は、勝ち組や負け組という言葉を使うのがお好きなようだ。政治家やマスコミは自らを勝ち組に位置付けながら、自らの幸福を確認しているのだろう。そもそも、人生に勝ちや負けがあるのか?物欲ばかり満たしても、資産を墓場まで持っていくことはできない。そういえば、バブル時代に有名な絵画を棺桶まで持っていくと発言した金持ちがいた。人類の財産をそこまで占有したいか?歪んだ所有の概念の持ち主と言わざるを得ない。ところで、高齢化社会では、労働力を失い経済が破綻すると発言する経済学者も多いが、それは本当だろうか?若年層の割合が減れば、労働人口が減ると単純に考えるのも奇妙である。健康寿命が延びている時代に、単純に年齢で区切る発想もおかしい。定年のない世界では、死ぬまで働いている人も珍しくない。定年のある世界では、働いてきた恩賞がもらえるのは当然だ!とでも考えるのか?なるほど、自分のもらう年金を確保するために、少子化問題を訴えるわけだ。人間社会は、永遠にご都合主義の呪縛からは逃れられないようだ。

2009-11-29

"判断力批判(上/下)" Immanuel Kant 著

さて、前記事、前々記事に続いて、カントの第三批判書を記事にする。三大批判書はあまりにも大作なので、全部読むのが面倒である。実は、この第三批判書だけを読んでお茶を濁そうと考えた。
ところが、だ!一歩踏み入れたが最後、精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書、第一批判書と遡ってしまった。順番に読んでいたら、はたして第三批判書まで辿り着いていただろうか?結果的に、理解を深める意味でも、悪い読み方ではない。ただ、一貫した難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、本記事がカントの意図したものかどうかは知らん!
下巻の表紙には、ゲーテの言葉が綴られる。
「たとえ君が彼の著書を読んだことがないにしても、彼は君にも影響を与えているのだ...君がいつか彼の著書を読みたければ、判断力批判をお勧めする。」
なるほど、アル中ハイマーは三大批判書に出会うずーっと前から、カントの影響を受けてきたような気がする。久々に、鳥肌の立つような哲学書に出会ったような気分だ。

読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。カントは、第一批判書「純粋理性批判」で悟性認識に則った自然の法則を論じ、第二批判書「実践理性批判」で理性認識に則った道徳と自由の法則を論じた。第三批判書では、認識能力の根源である心的能力から精神の究極目的へと迫る。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った認識能力の可能性と限界を論じたものである。また、本書では、哲学ばかりでなく美や芸術にも言及している。なるほど、多くの芸術家や科学者に影響を与えたと言われるだけのことはある。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、認識を基にした判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは判断力を働かせるためとなろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場として、第三批判書を完成させようと試みたのであろう。したがって、三大批判書の中で本書がもっとも興味深い。
ところで、人間認識の限界を規定することはできるだろうか?そこには、なんとなく境界なるものが存在しそうだ。だが、有限と無限の境界線を明示するようなもので、数学で規定できるからといって、精神を規定できるはずもない。それが規定できるならば、「人間とはなんぞや?」という素朴な疑問にも答えられるであろう。ここで断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域にある。だが、誰にだって気まぐれはあろう。アル中ハイマーの認識力にとって、「気まぐれ」ほど崇高な地位を占めるものはない。そして、判断力もまた「気まぐれ」によって実践している。したがって、アル中ハイマーは「ア・プリオリな判断力」を「崇高なる気まぐれ」と解釈するのであった。

哲学は理論哲学と実践哲学に区分できる。純粋哲学も自然の形而上学と道徳の形而上学で区分できるだろう。そして、それぞれの立場を調和しながら精神の解明を試みるのが、この学問の特徴だと考えている。平たく言えば、主観と客観の調和である。カントの体系にもその流れがあり、第一批判書で純粋領域を扱い、第二批判書で実践領域を扱う。そして、第三批判書がその調和をとる。本質に近づこうとしても、けして到達できないという意味では、哲学は微分学にも通ずるものがある。実は、真理なんてものは存在せず、人間の精神を永遠に退屈させないように、怠惰にさせないように、神が創出した虚空の概念なのかもしれない。ここで、かかる概念は二つしかない。自然の概念と自由の概念である。自然の前では人間はひれ伏すしかなく、自由の実践には道徳的理性能力が働く。ここには「宇宙原理」対「道徳原理」の構図がある。カントは一貫してア・プリオリな原理について言及する。おそらく哲学一般が、このア・プリオリな概念と対峙することになろう。「哲学する」とは、精神の崇高な領域に迫ろうと試みることである。古代、数学は哲学の領域にあった。その中で論理的解決策を見出すことができたものが、数学へ分離していったと思っている。人間精神は、なおも哲学の領域を脱することはできない。下手をすると、安易に宗教の領域に入り込もうとさえする。個人は、自らア・プリオリな認識の中で立法を構築し独自の理念を形成するだろう。となると、人間社会でつくられる法律は、個人の中にある立法を厳守する最後の砦ということになる。なるほど、法律を楯に言い訳するということは、自らの理念を形成できないと主張しているようなものか。法は経験的に積み重ねてきた現実的な手段であるが、もはやア・プリオリな認識を超えてノイズに惑わされる。となると、法律に詳しい人間ほど、理性構築が難しいということになりはしないか?なるほど、規制したがる政治家や法律家ほど、道徳観から縁遠いように映る。これらの論理的帰着は、専門家ほど自らの専門を理解できていないことに気づかないということになる。物事とは、解明が進むほど分からなくなるものである。
「浅はかとは、理解したと自負することである。信じるとは、思考を停止させることである。おまけに、哲学するとは、酒を飲むことである。したがって、酔っ払いはいつも理解した気分になる。あぁ愉快々々!」
...「アル中ハイマーの哲学とは」より...

本書は、上巻「美学的判断力の批判」と下巻「目的論的判断力の批判」で構成される。そして、判断力もまた、それ自体がア・プリオリな原理を持つのか?という問題を論究している。上巻では、認識能力と欲求能力の仲介役として、快や不快の感情をア・プリオリに規定できるか?という問題を考察しながら、崇高な芸術的感性から理性と結びつく美学に迫る。下巻では、主観的合目的と客観的合目的を考察しながら、自律的判断力とは何か?あるいは、精神の究極目的とは何か?という問題を論じている。ただ、ア・プリオリな認識を説明するにしても証明根拠を得るものではない。自然や慣習を引き合いに出すのも、その偶然性を都合よく説明するための手段に過ぎない。では、真の客観的な論議は成り立つのか?数学の公理や定理は客観的な考察である。だが、公理や定理を導くまでの思考プロセスには主観的直観が関与する。となると、世間で客観的な考察と呼ばれるほとんどのものは、同意見の者同士で慰め合っているだけのことか?人間社会で実践される客観性とは、個々の主観性の多数決に支配されることも否定できない。人間は、ご都合主義によって矛盾の概念をも凌駕する。その想像力たるや、神も感服するであろう。本書は、主観の領域でありながら、崇高な宇宙原理のようなものを存分に堪能させてくれる。
「判断力は、自然や自由に法則を与えるのではなくて、もっぱら自分自身に法則を与える。」

1. 美学的認識
心的能力には、三つあるという。認識能力、快や不快の感情、欲求能力である。自然概念では認識能力における悟性だけが立法的で、自由概念では欲求能力における理性だけが立法的であるという。そして、この認識能力と欲求能力の間で快や不快の感情が複雑に絡み合って判断力が形成されることになる。つまり、理性はこの三つの心的能力の調和によって構築されるというわけだ。個人は、自らの精神の立法の過程で独自の美学を見出すであろう。美的感覚は快や不快の感情と直接結びつく。美的感覚は欲求と混在しそうだが、ア・プリオリな認識では欲求は抑制と背中合わせにあるという。つまり、理念の中で美的自由を理性に訴えるというわけだ。とはいっても、美的感覚は主観的であって、人間の判断力は快い感情を求める方向にバイアスをかける。快い感情は享楽と結びつき、享楽が善をもたらすとも言い難い。快い感情は理性を持たない動物にも妥当する。
しかし、本書は、美的感覚は快い感情を求める関心と結びつき、善に対しても関心と結びつくという。関心を持つという意味では、美的感覚も善も同じというわけか。確かに、関心が無ければ、善などどうでもよくなる。人間は善と快い感情を区別するだろう。善だからといって必ずしも快いものではない。健康に良いからといって美味いとは限らない。ここに通常の認識とア・プリオリな認識の違いがあるのだろう。主観的な領域にある美学的判断であっても、ア・プリオリな認識では自然合理性があるのかもしれない。その判断力を形成する心的能力とは、創造力と悟性が自由に遊びまわる調和した状態ということであろう。
「美は、概念にかかわりなく普遍的に快いところのものである。」
美について議論するのは楽しい。明確な論理があるわけではないので無責任に語り合える。論理的なこじつけはできるにしても、とりとめのない談話が心地良いのだ。

2. 崇高な認識
本書は、美的認識が自然法則から自由法則に従う究極目的へと移行し、ついには欲求能力を道徳によって規定するという。精神のすべての崇高な認識は、美学的認識から始まるのかもしれない。数学の幾何学的法則や、建築物の線描的輪郭に美を感じることがある。音楽で鳥肌が立つこともあれば、色彩心理学では、部屋の色によって心拍数を変える何かがある。科学には、プラトン哲学から継承された単純化の真理といった思想がある。いずれも、人類の美学と言えよう。こうした感覚には、好みという多数決で支持されるような共通意識的なところもあるが、その分野の住人にしか理解できない美が現れる。だが、これらの認識が経験的というだけでは説明できない。主観的直観とは不思議なもので、誰に教わったわけでもなく本能的に崇高な感覚を呼び起こす。美は快く感じさせ、崇高は更に自然の本質のようなものを感じさせる。どちらも快いという感情から想起するという意味では似ている。美は、芸術家によって感情を誘惑されるので、形式的で受動的感覚のように思える。対して、崇高は、その形式を超越した能動的感覚のように思える。本書は、理念を言葉通りに解釈して論理的な考察のみに頼るならば、理念そのものを形成することはできないと指摘している。物事の解釈に自然的直観が介在して、経験的考察と調和した時に理念なるものが想起するのだろう。したがって、自由とは、自らの理念に支えられた美学に他ならない。
「威力とは、大きな障害を克服する能力のことである。この威力は、これまた威力を具えているところのものからの抵抗を克服する場合には強制力と呼ばれる。そして自然が、美学的判断において威力と見なされながら、その威力が我々に対してまったく強制力をもたない場合には、かかる自然は力学的崇高と言われるのである。」
力学的崇高では、自然は恐怖の念に喚起するという。なるほど、人間は人工的な社会に対して無力を知った時に疎外を感じるが、自然に対して無力を知っても心地良さを感じるだけだ。したがって、自然をも凌駕しようとする有徳者は、強靭な勇気の持ち主と言えよう。

3. 技術と芸術
芸術は自然と深く結びつき、技術は一般的に自然と区別されるという。とはいえ、技術にも芸術性を感じることがある。技術は学問とも区別されることが多い。学問は知識を学ぶところで、技術はその知識を実践するところと解釈される。知識は創造力や構想力の蓄積である。だが、十分な知識を得たからといって、そこに技術が現れるとは限らない。例えば、科学実験は、科学的知識を試す場である。そこには理論的現象を見出すための現実的な工夫が施される。その工夫は創造力と構想力に支えられる。ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」理想論を語る評論家が、いざ実践となると無力になるのも、そこに創造力と構想力を欠いているからであろう。
「芸術は天才の技術である。」
芸術は、自然から自由を感じさせるための人工的なものであり、その意味で技術と言えよう。芸術的才能は自然に与えられるものであろうが、その才能にも限界があって、天才の芸術はいつかは停止する。いわゆる人間の限界というやつで、その限界を覗けるのも天才の特権と言えよう。本書は、機械的技術は勉強と習得から得られ、美的技術は天才だけのものであるという。天才は、自然美と芸術美を明確に嗅ぎ分ける能力を持っているのだろう。だとすると、美の真理は天才にしか見えないことになり、大衆は芸術作品の一部しか理解できないことになる。天才は、芸術美を一般大衆に強制しようと、完全に天才の宇宙の中に閉じ込めようと企む。にもかかわらず、教育者や道徳家の強制とは違って快く感じられるのはなぜか?実は、強制しているのではなく、「勝手に覗けば!」と自由を与えているだけのことかもしれない。一般大衆を感動させるからには、天才には精神を曝け出す心的能力があるのだろう。そして、鑑賞者に自由と遊びを味あわせる。芸術の力は、美学的理念が現れるところに発揮される。そこには、技法や流派といったものに影響されたとしても、あくまでも芸術家独自の自由の中にある一定の概念に支配された主観的合目的がある。したがって、芸術の技術を習得したところで、芸術や独創性を生み出すことはできないだろう。流派があるとすれば、芸術家の数だけあると言ってもいい。芸術が人を惑わせるという意味では、人を欺く行為と似た事情がある。芸術家は詐欺師か?詐欺に会っても心地良ければええ!となると、宗教にも通ずるものがある。それは思考停止に陥れるかどうかの違いか?人間の精神とは、実に際どい認識でうごめいている。

4. 目的論的判断力
客観的判断を与えるために、法律や戒律などを制定しても、そこには自律性はない。こうした手段は、実践的ではあるが、法則や概念を包摂するだけであろう。本書は、他律的思考から判断力自身のアンチノミーが生じる危険性もなければ、判断力の原理が矛盾に陥ることもないという。法律に頼る言い訳は、自らの思考を放棄したということか?反省によって得られる判断力は自らの法則に包摂されるだけで、ここには客観的規準はないと言っているのか?いずれにせよ、判断力の原理は自ら編み出すしかないのだろう。合理的判断は、主観的原理によって、必然的格律が構築されることになろう。しかし、主観的原理に従えば、必然的格律の間に矛盾が生じ、アンチノミーが成立する。判断力もまた弁証法で、もがく運命にあるのか?
ところが、本書は、ア・プリオリな判断力は悟性によって客観的原理が与えれるという。そうかもしれないが、経験的に得られる認識でさえ、個人の法則に従って多種多様である。そこに純粋な客観性などというものを見出すことができるのだろうか?やはり、悟性と反省的経験の調和を求めるしかなさそうに思える。少なくとも、悟性を欠くところに客観的な判断を見出すことはできそうにない。
また、本書は、自然目的の実存論、あるいは、あらゆる実存を説明しようとする原因性、作用する原因の原因性といったものを批判する。そもそも、自然目的を説明できる人間などいるのか?人間の存在意義すら説明できないのに。そこで、神学は、神を持ち出して、あらゆる自然目的を説明できる点では優れている。有神論は悟性による自然目的性の観念を手際よく奪いやがる。そして、ご都合主義によって神の姿をも歪める。結果的に、有神論者は神を冒涜するという矛盾を犯すことになろう。客観的実存性を説明しようとするならば、一旦自らの存在意義を否定してみることだろう。すると、人間は概してニヒリズムに陥ることになる。思考の浅いところに芸術は生まれない。すべてのものに存在意義があるとする欲望的な思考のあるところに、芸術性を感じない。
「純粋な客観的根拠に基づいて(残念ながらかかる根拠は我々の能力を超越している)証明し得ないからといって、そのために我々が何を失うのだろうか、もし失うものがあるというなら、それがなんであるかを知りたいものである。」

5. 精神の究極目的
宇宙の最終目的とは何か?人間の存在意義を自然目的論的に答えがあるとしても、いまだ人間の価値観では説明できない。本書は、もし人間精神に究極目的が存在するとすれば、おそらく幸福であろうと語る。所詮、悟性や理性にしても、人間の価値観で判断されるに過ぎない。などと投げ遣りになれば、あらゆる犯罪も正当化できるわけだが、少なくとも人間社会という範疇で自己保存の原理は働く。では、自己保存の目的とは何か?その最高位なものが自らの幸福ということになろう。では、究極な幸福とは何か?本書が、それを具体的に答えてくれるわけではない。それもそのはず、幸福という価値観は個人の中にあり多種多様であるから。人によっては、麻薬付けにされて意識が朦朧とした状態に幸福を感じるかもしれない。あらゆる現実から逃避する瞬間が幸福かもしれない。キェルケゴール風に言えば、そもそも精神を獲得した時点で絶望となり不幸なのかもしれない。自らの精神を飼い馴らすことができれば、幸福になれるのだろう。いずれにせよ、幸福の正体は、絶対的ではなく相対的な価値でしかない。そして、戦争とは幸福の争奪戦であり、憐れみとは自らの幸福の優位性を確認するためのものとなろう。周りの人々も幸福であってほしいと願うのも、あまり極端に不幸な人を目の前にすれば、自分が不快に思うだけのことかもしれない。皆そこそこ幸福であってほしいが、自分がその幸福を最高に享受したいと願う。生命体である以上、利己心を捨てることはできないのかもしれない。生きるという目的そのものが利己心で成り立っているのだから。偉大な生物史からすると、一匹のプランクトンよりも、価値のある人間などいないのかもしれない。そうした悲観論を呟きつつも、人間社会の保存原理として、平均的な価値観を見出すことはできそうな気がする。一般的な幸福といえば、家族の健康や平和な社会といったところであろうか。しかし、不健康や戦争や経済不況があるから、希望的価値を認識することができる。希望が叶うことが幸福だとしたら、希望が叶わない状態を実感しなければ、幸福を認識できるはずもない。これは人間の悲しい性である。家族の構成や社会環境では、恵まれた境遇もあれば、恵まれない境遇もある。自然的偶然性による災いに対して、なぜ自分だけ不幸に見舞われるのかと考えるのは、自然法則をも凌駕する究極の利己心なのかもしれない。となると、相対的な価値観を求めることが、精神の究極目的とは到底思えない。そこで、精神の高まりのような、精神が崇高な意識を獲得するような、そんな価値観に幸福を求めることはできるだろう。それは、自らの精神を解放して、精神の真理を探究する欲求と言おうか。精神の芸術的領域、あるいは匠の境地への到達を目指すといったところであろうか。少なくとも脂ぎった欲求との差別化はできそうだ。こうしたものを究極目的とすれば、どんな境遇にあろうとも、共通目的とすることができるかもしれない。それは、日常生活や仕事などでも実践できるだろう。一般的に知識を求め判断能力を身に付けようと努力するのも、そうした意識が潜在的にあるのかもしれない。道を究めるとか、何かを悟るとかいったものを、人間は本能的に意識しているのかもしれない。こうした知的生命体の究極目的のようなものがあってもいい。それが「哲学する」ということであろうか。

6. 認識能力の実践
神学は道徳を規定する手段である。法学は法律によって道徳を実践する手段である。人間社会は、実践的に道徳を規定するが、いずれも強制力によって方向性を示しているに過ぎない。自律を欠いたところに、真の価値観を得ることはできないだろう。あらゆる抗争には排他論理がある。平和的な抗争が議論だとすれば、非平和的な抗争が戦争ということになる。もし、相手の存在を認め、共存の原理が働くとしたら、もはや沈黙するしかなくなるであろう。それでは、教育そのものが成り立たなくなりそうだ。では、理性が構築されるまで、大人が子供に思考を押し付けることになるのか?では、いつ理性が構築されたと判断するのか?それが一人前というやつか?人間は永遠に一人前になれそうにない。物事の存在意義は、なんらかの目的を見出せた時に、その価値があると認識される。もし、人間の幸福が宇宙の目的だとすれば、人間の存在を宇宙創造の究極目的として前提されなければなるまい。宇宙原理に絶対的な価値があるとしても、それが人間の幸福とは到底思えない。もしかしたら、ア・プリオリな認識によって、人間の存在価値を認めることができるのかもしれない。天才たちに自殺する例が多いというのも、彼らがその価値観に到達した証であろうか?

2009-11-22

"実践理性批判" Immanuel Kant 著

前記事に続いて、カントの第二批判書を記事にする。相変わらず難解な文章に、酔っ払いの脳は飽和状態にある。したがって、この記事がカントの意図したものかどうかは知らん!断っておくが、理性認識とは、理性の欠いたアル中ハイマーにとってまったく縁のない領域にある。だが、誰にでも気まぐれはあろう。

カントは、第一の批判で時間と空間のみをア・プリオリな認識であると主張した。アインシュタインは双方の概念を統合した時空の概念を持ち出したが、これは本質に迫っているかもしれない。宇宙物理学では、時間と空間を純粋スケールとして扱う。一人の人間は若い時期と老いた時期を同時に体現することはできない。ところが、時間軸を加えることによって、その双方を体現している。つまり、一人の人間の中に同時に体現できない理性が、時系列では多重人格性を見せる。時間と空間は人間の意識の産物であるとも言えよう。無学な人間と侮っていても、数年後には変貌することだってある。一年前に借金した一つの理性は、現在では違った理性に変わっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば、「今の俺は、昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!」と追い返すこともできるわけだ。これを「時系列における別人論」あるいは「借金揉み消しの原理」と言う。自己破産法はこの認識論に則ったものであり、法の裁きには人間の反省の原理が内包される。
すべての事象は、時間と空間の変化とともに、変化しながら存在する。過去の時間は自由にはできない。では、未来の時間は自由にできるのか?少なくとも、存在を実感できるのは現在のこの瞬間だけでしかない。いや!その瞬間ですら自由なのかも疑わしい。自由の概念は実存論とも絡みそうだ。経験によって事象を意識するにしても時系列の中で認識される。したがって、歴史の解釈が時代によって変化するのも道理というものである。

第一の批判では純粋理性と先験的弁証法の限界が語られた。純粋理性とは、思弁的認識から生じるものであり、一切の経験的なものにかかわらない論理的直観のみで意志を規定するものである。それは、純粋悟性のみで到達した恒久普遍的な理性と言おうか、宇宙論的なア・プリオリな認識によって獲得できる理性である。したがって、純粋理性はすべての理性の持ち主においてまったく異なるものではないはず。対して、実践理性とは、経験によって獲得する価値観である。だが、経験的であってもア・プリオリな認識がなければ普遍的価値観には到達できないという。ここでいう経験とは、個人的な経験もあれば、歴史から学ぶような他人の経験も含む。その経験の中から直観的な崇高なる認識が生起すれば、それを実践理性とすることができるというわけである。法律や宗教の戒律といった道徳規定は、歴史的な経験によって形成されてきた。こうした規定も、原点を辿れば崇高な認識のもとで形成されたに違いない。しかし、現実社会では、規定が拡張していく過程の中で、奇妙な規定が氾濫する。積み重ねられた規定の複雑化が自己矛盾に陥っているとも言えよう。
純粋理性も実践理性も客観的な理性構築を目指すものであるが、第一批判では主観的方法論から迫り、第二批判では客観的方法論から迫ったと言えるかもしれない。いずれにせよ、ア・プリオリな認識の範疇で構築しようと試みるのであって、ノイズには目もくれない。本書は、実践理性を道徳的に獲得する理性として位置付け、道徳的法則と自由意志とのかかわりを論じている。そして、自由の概念は道徳的法則の原因性として存在すると語る。これは、実践理性が純粋理性を補完して、理性構築に完全性を見出すことを目指しているのだろうか?理性構築が不完全ならば、自由の概念も理性によって規定したところで完全であるはずもない。現実に、社会で形成される道徳観が多数決の原理に従っているのは否定できない。法律も裁判も多数決に支配され、人間社会は規定という消極的な意志によって支配される。
自由の概念は人口論ともかかわりそうだ。莫大な人口増加は自由の範囲も狭めるであろう。そこで、道徳的法則は自律から得られるか?という疑問がわく。人間の自律とはまさしく理性の獲得であろう。ただ、自律さえも法律といった他律に頼らざるを得ない。自由意志には衝動が共存するからである。義務の概念を確立する一方で、魔が差すことがある。となれば、人間は永遠に自律できないということか?所詮、人間は不完全性の中でしか生きられないのだろう。実践理性によって客観的完全性を見出すにしても、すぐに限界に到達する。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。いや!法律も主観に汚されているように映る。もし、純粋理性と実践理性の双方を統制する更なる高尚な理性なるものが構築できるとしたら、そこには誰もが納得する客観性が得られるはずだが、はたして、経験的な道徳的法則から真の最高善という価値観を獲得することができるだろうか?本書はこうした難題を突きつける。そこには、強制力をともなわなければならない理性構築への批判があるようだ。

自然法則には、実に多くの対称性を見出すことができる。ポーは、その著書「ユリイカ」で物質の本質を引力と斥力の対称性のみで説明した。物理学者は、物質に対して反物質を登場させて、エネルギー保存則になんら矛盾することなく宇宙の起源を説明する。現実世界には仮想世界を対抗させ、社会は創造と破壊の原理を繰り返す。宇宙や神という絶対的存在者があるとすれば、その対称に悪魔を登場させないと説明がつかない。では、悪魔に対応する存在とは何か?それが人間なのか?理性が幻ならば、道徳もまた幻であり、ついに人間の存在も幻となろう。そして、人間の持つ合理性そのものが宇宙原理に反するということにはならないのか?はたして、人間を超越した宇宙論的な超理性なるものが存在するのか?これは永遠に見つからない問題であろう。だが、道徳家は、平気でそれを自らの道徳観で説明するから滑稽と言わざるを得ない。もし、人間が恒久普遍的理性を説明できるならば、人間の存在意義も説明できるはず。そんなことできるのは神だけであろう。いや!神にすら説明ができないかもしれない。神が宇宙を創造した時に、偶然にも悪魔も一緒にできちゃった?と言い訳するかもしれない。となると、理性どころか道徳性も人間の持つ合理性も、その意義を疑わなければならなくなる。

1. 道徳的法則
道徳的法則は実践理性の根拠であり、二つの原則から成り立つという。それは格律と道徳規定である。格律は、意志を規定する主観的原理であり、善悪の規準は個人の中にある。一方、道徳規定は、道徳家や法律家などの理性の持ち主が例外なく妥当する客観的、普遍的原則である。ここで格律と道徳規定がなぜ区別して議論されるかというと、理性の持ち主が不完全者だからである。もし、完全無欠の理性の持ち主が存在すれば、格律は無用となろう。道徳の基本原理は善悪の規準で定められる。しかし、善悪の規準は個人によって違うから厄介なのだ。社会で発生する抗争では、侮辱や復讐といったものを個人の格律によって処理される。そこで、客観的な規準を必要とする。法は経験的によって積み上げられた客観的規準であり、法律や裁判は、第三者による客観性を求めた制度である。ただ、法は共存の概念から必然的に生まれた秩序で、強制的に押し付ける。これは骨肉の争いといった感情的争いが伝播するのを避けるための経験的手段である。法律や裁判が、ア・プリオリな原則から生じたのでなければ、そこに欠陥があるのも当然であろう。
宗教もまた、神という崇高な第三者の意志を命令として義務付ける経験的手段と言える。ただ、これも客観的かどうかは疑わしい。宗教家は普遍的原理として崇めるが、時代とともに価値観が変化するならば、そこに思考停止という現象が見られる。人間社会に現れる規律は明らかに自然法則とは異質である。それは、規定の根拠が人間の行動様式を対象としているからであろう。普遍的立法という形式で行動様式を規定することができないとすれば、人間の意志は宇宙原理にかかわりがないということか?道徳的法則による人間の意志と社会形成には依存関係がある。この依存性から責務や義務といった行動様式が現れる。いずれにせよ、道徳に尊厳がなければ、道徳的義務など当てにはできない。

2. 自由意志と理性の範囲
意志の自由には二通りの意味があるという。それは消極的な自由と積極的な自由である。意志が一切の経験にかかわらなければ、それは消極的な自由だという。もし、恒久普遍的原理の中に意志が存在するならば、人間の価値観は共通となり、積極的な自由を求める必要もなかろう。だが、人間は消極的な自由だけで、普遍的な価値観を見出すことはできない。
一方、意志が自発的に自分自身に道徳的法則を与えるならば、それは積極的な自由だという。一般的には、こちらを自由意志と解釈するだろう。したがって、自発的な道徳的法則に従った意志は自律をもたらすことになる。対して、法律や宗教的な神といった絶対的な教義によって半強制的に与えられるならば、意志は他律をもたらすことになる。そして、そこに生じる義務は個人の行動規範となる。ただ、強制的あるいは強迫観念に捕らわれた道徳観から、真の理性は構築できないだろう。人間の欲求には、快楽の追求と、高い志の追求がある。脂ぎった利潤を求める一方で、才能を成熟させる意志にも快感がある。知識の蓄積が自由度を高めるのも確かであろう。洗練された喜びと言おうか、そうした喜びを得る意志にこそ、自由の概念を生起させるような気がする。理性は消極的にも積極的にも働くだろうが、その按配は個人の経験や主観によって違いを見せる。
古来、哲学的問題に「自由意志は存在するのか?」という論争がある。もし、自由意志が自然法則に従うならば、そもそも実践的理性を必要としないだろう。しかし、いまだに精神に自然法則性を見出すことができない。必死に客観性を主張したところで、客観性であったためしがない。しかも、主張した本人が気づかないでいる。理性の議論は、その根本に自由意志の存在を認めるかどうかという問題と深くかかわりそうだ。少なくとも、自由を意識できるのは人間社会という限られた空間の中だけである。つまり、本人が自由と信じれば、それで幸せということであろう。人間社会は一種の麻薬のようにも思える。人間は、あらゆる制約の中で自由を模索しながら、妥協点を見つけて生きている。人生とは妥協の連続である。自由とは実に美しい言葉だ!だから、民衆は惑わされ、自由の概念を自由な欲望と錯覚するのであろう。欲望にも本能的欲望と理性的欲望がある。となれば、真の理性をともなわないところに真の自由はありえないことになりそうだ。自律から得られた義務にこそ、真の理性が宿るというわけか。その帰結は、人間は永遠に自由を獲得できないということか?

3. 人間が道徳に求めるもの
道徳は幸福という最高善を求めるという。人間にとって最高の価値は幸福であろう。そこで必要となる理性は、実践的必然性というよりは、自然的必然性と言うべきかもしれない。本書は、徳と幸福の結びつきを考察する。徳は義務を履行するのに道徳的な力を与えるという。人間は道徳的法則に従おうと努力する傾向がある。自由意志は最高善である幸福を求めて行動する。したがって、自由は最終的に理性と結びついて存在し、道徳性と幸福が必然的に連結することになるという。だが、その道徳的法則も妥協の中で存在し、その方法論として法律や宗教へ到達した。しかも、幸福は相対的な価値観であって、絶対的な幸福を認識することができないでいる。人間が快感や不快を感じるのも感情であって主観の領域にある。幸福を最上の意志と位置付けたところで、それは自己愛の原理に基づく。幸福に至らなければ道理に背き、人情に反する行為も現れる。そもそも、人間社会の存続自体が、人間が勝手に信じている正義であって、宇宙原理に反するのかもしれない。人間が意識する理性概念は幻想であって、勝手に崇高な意識として崇めているだけなのかもしれない。したがって、幸福もまた都合の悪いことを一瞬だけ忘れさせてくれる錯覚に違いない。「隣人を愛せ!」と命令したところで、命令形の道徳観から理性が生起するとも思えない。厄介なのは道徳的狂熱であり、宗教的熱狂である。よく、宗教なしで道徳観は植え付けられないといった無宗教批判が聞かれる。そして、「なぜ悪行を働かないのか?」と問えば、「いつも神が見ておられるから」と答える連中がいる。逆に言えば、神が見ていなければ、盗みも働くということか?そこには、罰が当たるという強制力が働く。狂信的な宗教力のある地域ほど紛争が多いというのもうなずけるわけだ。道徳家の主張には、徳を意識できることが幸福であるとする教義がある。それも間違いではなかろう。だが、自らの徳が最善であると信じた時に、徳の思考が停止する。そして、洗脳された連中は狂暴化する。歴史的に見ても、あらゆる残虐行為を正当化するところには、宗教的狂乱がなければ説明がつかない。強制された意識がなくても、無条件に信じるところには、受動的な意志となって強制力が発揮される。
自己意識を主観の領域から解放することは、訓練を重ねた人間ですら難しいだろう。自由意志で能動的に意識できる道徳観は、自らの探求欲がなければ難しい。何々学校を頼って、教官と教材が自動的に用意された受動的な学習よりも、独学の方がはるかに効果が大きいのと同じように。独学は、教材を選んだり、情報を嗅ぎ分けるという思考プロセスを大事にする。そこに、試行錯誤によって思考が洗練されるプロセスを味わうことができる。これこそが、学問の醍醐味というものであろう。

2009-11-15

"純粋理性批判(上/中/下)" Immanuel Kant 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、昔から亡霊のように付き纏う奴らがいる。そろそろ亡霊退治に乗り出すとしよう。ただ、「カントの三大批判書」という亡霊は一筋縄ではいかない。科学書や歴史書などに触れていると、あちこちでカントの影響を感じることがある。一度読んで見る価値がありそうだと薄々感じてはいたが、その大作を目の前にすれば尻込みするというものだ。実は、全部読むのが億劫なので、第三批判書の「判断力批判」だけを読もうと試みた。ところが、一歩踏み入れたがために精神は蟻地獄へと引き摺られ、第二批判書「実践理性批判」、第一批判書「純粋理性批判」と遡ってしまった。通常の読み方からすると逆順であろうが、そこは天の邪鬼!結果的に理解を深めるためにも悪くない読み方である。というのも、読んでいるうちに気づいたのだが、三大批判書は併せて一つの体系を成している。「純粋理性批判」では、悟性認識に則った数学や自然科学の原理を論じ、「実践理性批判」では、理性認識に則った道徳と自由の原理を論じている。いずれも、認識能力の可能性と限界を考察したものである。前の二つの批判書で認識能力の限界を認めるならば、それに基づいた判断力もまた限界を認めることになろう。率直に「何のために認識能力を働かせるのか?」と問えば、それは「判断力を働かせるため」となろう。いや、認識そのものが判断の結果であるとも言える。カントは、思考の統合的立場としての判断力の不完全性を論じようとしたのではないか?おいらには、そう思えてならない。いずれの批判書も、ア・プリオリな認識を相手取った、人間認識の基本原理に迫ったものである。やはり一番おもしろいのは「判断力批判」であろう。したがって、おいらにとっては、前の二つの批判書は第三批判書のための序章の位置付けにある。いや!引き立て役と言ってもいい。ただ、記事にするのは通常の順番としよう。なぜかって?それは、純米酒を呷ると、天の邪鬼も素直になれるから。それにしても、引き立て役にしては大作過ぎるなぁ。なぁーに、アル中ハイマーは前戯が大好きだからまったく問題はない。もちろん本番も!

偉大な哲学書というものは、難解な論理の羅列がBGMとともに流れ去るような、不思議な錯覚に陥れる。しかも、一つの言葉に違った意味をめぐらせながら混乱させやがる。一語多義的な世界とでも言おうか、一貫性さえ疑いたくなる。もっとも、人間精神は矛盾律で成り立っているので違和感はない。そして、いろんな思考を錯綜させながら自らの哲学を覚醒させる。これが哲学書の極意というものか?世界には実に多くのどうにでも解釈できる抽象的な概念が氾濫する。
カント曰く、「多くの書物は、これほどに明晰にしようとしなかったら、もっとずっと明晰になったろうに」
人間は、その概念が奥深いものであっても、皮相的な結論に安易に飛びつく習性がある。それも人生が短いので仕方がないのだろう。だが、真理の探究で結論を急ぐこともあるまい。未解決な問題があって結構!「哲学する」とは人生の暇つぶしであるから。

理性認識は、理性の欠いたアル中ハイマーのもっとも避けていた領域である。カントは、本書を哲学における「コペルニクス的展開」と述べたという。なるほど、ここに記される純粋理性認識は、数学的理性認識と言ってもいい。ただ、数学のような成功をおさめるかは別である。数学の公理は永遠である。はたして哲学に公理なるものを見出すことができるのか?哲学と数学は同じ論理学を扱う意味で非常に似通っている。おいらは、数学は哲学の中で普遍性を見出したものが独立したものだと考えている。逆に言うと、人間精神に関わるものだけが、哲学にとどまったままとも言えよう。不完全性定理は、まさしく数学を哲学の領域に引き戻した感がある。ただ、数学と哲学では扱う対象が違う。数学は物理量や時間スケールといった「空間の量」を対象とする。一方、哲学は人間の認識や理性といった「精神の質」を対象とする。論理学は常に客観性に基づく形式化を求める。ところが、精神ってやつは主観の領域に深くかかわるから厄介なのだ。数学の証明には直観的確実性や自明性なるものが現れるが、哲学の証明には弁証法なるものが現れる。あらゆる学問が人間にかかわる現象に対して体系化を試みたが、ことごとく失敗してきた。だが、体系化できるかできないかの境界をさまよいながら、人間精神の限界を知ろうとする試みは無駄ではない。物事を深く掘り下げれば哲学的思考に辿り着くはず。あらゆる学問で、偉大な学者が、同時に偉大な哲学者であったのもうなずける。哲学的思考では、物事は本当に存在するのか?と疑えば実存論と争い、存在意義はあるのか?と疑えば無意味論と対峙する。そして、哲学とは何か?と自己言及の罠へと導かれる。そもそも、人間精神の解明に人間精神がどこまで迫れるかという問題自体が、自己矛盾に陥っている。そして、「おいらは誰なんだ?」と問い続ければ、「飲むしかないではないか」となる。もはや、酒を飲んでいるのか?酒に飲まれているのか?自己認識の存在すら疑わしい。つまり、「哲学する」とは、酒を飲むことである。したがって、多くの哲学者はアル中に違いない。

本書のテーマは哲学的問題の中でも、理性というとてつもない領域へと踏み込む。理性を観察するには、理性よりも高次の宇宙原理的な価値観から眺めなければならないだろう。数学は、自然数を解明するために整数や有理数の概念を登場させた。物理学界は、空間を解明するために、より高度な次元への移行を求める。つまり、一つの系を観察するためには、より抽象度の高い系を必要としてきた。純粋理性とは、宇宙原理に近い恒久普遍的な理性とも言えよう。そして、純粋理性の中で根幹を成すものが、純粋悟性である。その認識能力は、直観的で単純な論理の組み立てだけでは到達しえない崇高なもののように映る。本書は「ア・プリオリ」という言葉を登場させる。そして、理性構築に人間のア・プリオリな認識能力から演繹できるのか?という問題と対峙する。
ところで、「ア・プリオリ」とはなんぞや?辞書で調べると先験的や先天的となるようだが、いまいちしっくりとしない。主観を働かせることによって得られる客観的帰結とでも言おうか。例えば、数学の定理は客観的な考察と言えるが、定理を導くまでの思考プロセスには直観的な考察が関与する。人間は物事を認識する時、論理の組み立てだけでは深い思考が得られない。そこで、本能的に自然原理のようなものに照らしながら、直観を働かせるだろう。つまり、直観と論理的思考の調和のようなものと解釈できそうだ。したがって、数学の公理は、ア・プリオリな総合的判断の演繹によって積み重ねらてきたと言えよう。そもそも論理学は、悟性によって形式的規則を成立させることを求め、客観的に構築するものである。その論理学を主観的領域に持ち込んで客観的に構築するとはどういうことか?問題は既に自己矛盾に嵌っている感がある。だが、論理学の先験的弁証法は主観的と言ってもいい。直観の原理による認識が、結果的に客観的認識として見出すことができれば、それをア・プリオリな認識として受け入れることはできそうだ。そこで問題となるのが「はたしてア・プリオリな悟性認識だけで理性構築は可能なのか?」ということになる。本書は、この問題を通じて、思弁的な理性認識を否定しているのではなく、おそらく理性能力の限界を示したかったに違いない。これは、アリストテレス的な形而上学の限界を指摘しているのか?唯物論よりも唯心論の方がましだと言っているのか?その批判の意図はよく分からん。酔っ払った精神では、勝手な解釈によって御託を並べてみることぐらいしかできないのだから。

本書で注目したいのは、理性認識の重要な意義に自由の概念が内包されていることである。古くから自由意志の存在をめぐった哲学的論争がある。自由意志を主張したところで自然法則に支配されるような気もする。ただ、理性認識の範疇で自由意志が規定される可能性を匂わせている。なるほど、自由の概念は理性の原因性によって生じると考えることができるかもしれない。理性構築では、どうしても経験的観念に頼らざるを得ない。では、経験を重ねれば理性は進化するのかと言えば、それも疑わしい。先験的認識と経験的認識が調和した時、更なる高次な統制能力を持った理性認識が生起するとでも言っているのだろうか?

1. ア・プリオリ
人間の意識はすべて経験に頼っているわけではない。生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃー」と泣くのも生まれながらに持った意識があるからであろう。ただ、人間は歳を重ねるとあらゆる現象が経験的に見えてくるところがある。ここで言う経験とは、自らの経験だけでなく歴史事象や他人の経験も含む。
また、経験を基に直観的認識が浮かび上がることもある。経験によって生じた認識であっても、結果的に純粋な宇宙原理のようなものを感じることがある。道徳的観念において抑制力が働くのは、すべてが経験的というのでは説明ができない。こうしてみると、「経験的認識」と「直観的認識」の境界を明確にすることが難しいことに気づかされる。大人になれば、純粋な心を失っていくのもうなずけるわけだ。
数学の公理は宇宙原理のような純粋な認識を求める。これは偶然存在するのではなく、もっと崇高な認識といったところだろうか。本書は、こうした純粋領域にあるものをア・プリオリと呼び、更にア・プリオリな認識は「時間」と「空間」だけであると主張している。なるほど、アインシュタインが時空の概念を持ち出したのも、本質をついていそうだ。不思議なことに、時間や空間は客観的でありながら、人間認識では主観的である。日常生活では、相対認識の中で時間を短く感じたり長く感じたりする。空間も広く感じたり狭く感じたりする。自殺する意識も、自らの存在感に悩んだ末に現れる空間的な相対意識かもしれない。人間は、時間や空間が絶えず変化することに、はかなさを感じる。しかし、時間と空間が変化するのは客観的事実である。こうなると、純粋直観と経験的直観、あるいは主観と客観の境界も曖昧になってくる。少なくとも、時間と空間の概念を精神の世界のみに限定する必要はないという意味では客観的ではあるのだが。
ちなみに、「ア・プリオリ」の対義語で「ア・ポステリオリ」という言葉もあるそうな。
ところで、ア・プリオリな純粋理性を規定することはできるのだろうか?人生経験の積み重ねの中で理性に目覚めることはあるだろう。しかし、人間の前に現れる問題はいつになっても尽きることがない。それは時間が途絶えることがないからか?人間は、理性が経験的な領域を超越していて、いつまでも不完全であることに、なんとなく気づいているのだろう。にもかかわらず、常識としての共通の価値観を持ち出す。その代表が法律や宗教の戒律といった道徳観である。あたかも完全であるかのような原則として用いて、そこに逃避せざるを得ない。人間はこうした一時避難所である実践的道徳を規定している。

2. 先験的弁証法
理性には、論理的能力と先験的能力があるという。いずれにせよ、人間は自らの価値観よりも高い認識能力を発揮することはできないだろう。人間は、都合によって主観的必然性を客観的必然性と見なすところがある。本書は、これを「仮象」と呼ぶ。そして、先験的弁証法をもってしても、この仮象を避けることはできないという。なるほど、経験を積めば積むほど、その錯覚に陥りやすい。誰が見ても客観性というのは、実は主観性の多数決であったり、業界の慣習に従っているだけだったりする。そこで、主観的認識は悟性との一致を求めて客観的に調和しようとする。だが、純粋理性は、経験から得られるのではなく、推論によって得られる概念である。言い換えれば、ア・プリオリな原則に従い、ひたすら悟性によってのみ規定できる認識である。本書は、純粋理性の分析であっても、無意識のうちに虚偽が入り込むと指摘している。それが誤謬推理である。しかも、純粋理性の先験的証明はすべて弁証法的仮象の中で行われると断言している。数学で生じる矛盾は客観性に基づくが、哲学における矛盾は主観性の中でさまよう。となれば、哲学の基本として、弁証法的矛盾を単なる矛盾として片付けるわけにはいかないだろう。
「自信は見せかけの真実に過ぎない。」
本書は、悟性判断は客観と一致するはずなので、自信を確信の地位に押し上げる努力を求めている。確信に近づけるためには、「臆見」「信」「知識」の三段階を経由するという。「臆見」は空想の段階であり、「信」は主観的段階であり、「知識」が客観的な地位の段階だという。数学で「臆見」を立てることは不合理かもしれないが、難問と対峙する時には有効となる。理性の先験的考察でも有効で、ここが人間精神を相手取る哲学の醍醐味でもあろう。「臆見」や「信」の段階で「神の存在を信じる」と主張したところでなんの問題はないが、宗教はこれを「知識」として押し付けやがる。

3. アンチノミー
アンチノミーは、二律背反と訳されることが多い。本書は、アンチノミーは弁証的推理を行う際の理性の状態であり、純粋理性には自己矛盾が自然に出現するという。
本書はアンチノミーの命題を四つ挙げる。
(1) 時間と空間の限界説は有限か?無限か?
(2) 全ての物質は分解不可能な単純要素によって構成されるのか?
(3) 普遍的な自由は存在するか?全て自然法則に従うか?
(4) 宇宙の原因となる必然的存在者が実存するか?

時間と空間が科学的に有限であるにしても、人間の認識としては無限に等しい。数学的に無限と有限の境界を定義したところで、哲学的に解決できるものではない。人間の精神は自己矛盾からは永遠に逃れられない運命にあるのだろう。そして、精神の矛盾を否定すれば、人間の存在そのものを否定することにもなりそうだ。
アンチノミーは、時間と空間の条件下に支配された認識である。もし、こうした概念が自然的、必然的、絶対的な支配から解放された時、宇宙論に到達した純粋理性の存在を認めることができるのかもしれない。だが、人間の理性は、相対的であり、社会的であり、多数決的な性格を帯びている。純粋理性を求めたところで、人間の認識は実践的な関心にしか向かおうとはしない。人間の理性は建設的な意識を受け入れ、体系的に矛盾しないように認識しようとする習性がある。あるいは不都合な現象を見ぬ振りをすると言った方がいい。自由な認識の延長上には、ご都合主義がある。こうした自由は欺瞞なのかもしれない。先験的哲学において答えられる対象といえば、宇宙論的問題や自然科学の問題だけであることを、カントは認めていたのかもしれない。アンチノミーの存在は、哲学の死、もっと言うと純粋理性の安楽死を意味しているのか?

4. イデア論
認識論を語る上で、プラトンのイデア論を避けることはできまい。イデア論はアリストテレスが論じた悟性概念を遥かに超越しているように映る。イデアは、物の原型である最高の理性から流出して、人間理性に授かったものと考える。プラトンは、もともと理想的な理念を持った純粋イデアなるものがあったと考える。だが、人間理性はもはや本来の純粋な姿に戻ることはできない。プラトンのイデア論は、遺伝子コピーが完全ではないことを意味しているのだろうか?遺伝子コピーはある確率の低いところで障害者を生む。というより、どんな人間もなんらかの障害を持っていて、それが不完全性と言えよう。本来人間の持つ純粋理性というイデアは、だんだん悪徳を身に付けて悪魔へと変貌するのだろうか?法や宗教といった道徳規制の登場は、人間の悪徳を抑制するための手段として登場した。法の進化は、人間の悪徳の進化に比例するとも言えよう。知恵や知識とは、悪魔への道しるべなのか?人間は進化とともに認識を拡大してきた。だが、これは本当に進化なのか?退化ではないのか?イデアは生きていく個人の中でも変化していくように見える。泥酔者ともなれば記憶も薄れ、理念も薄れる。きっと、アル中ハイマーにも理想的な理念を持った時期があったに違いない。子供は早く大人になりたいと夢を見る、大人はいつまでも子供のままでいたいと夢を見る。

2009-11-08

"帝国主義論" レーニン 著

前記事の「菊と刀」が読みやすかったので、その訳者である角田安正氏に惹かれて本書も手に取ってみた。ましてや、ボリシェヴィキに惹かれたわけでも、共産主義に惹かれたわけでもない。
ちなみに、酔っ払いが解釈する共産主義とは、すべて平等で、すべての国民を幸せにしてくれる思想といったところだろうか。ひらたく言えば、「みんなの社会にする」ということである。そのためには、あらゆる私有財産を没収する。私的所有の概念をすべて取っ払う。つまり、欲望という人間の持つ本質までも拒絶する。下手すると、個性をも否定しかねない。この体制の矛盾は、欲望を捨てきれない脂ぎった人間が支配することである。最高の理性の持ち主と自負する輩が権力の中枢に居座り、巨大官僚体制の下で堂々と搾取が行われる。平和主義者が理想を崇め過ぎて戦争を招きいれるように、現実を直視しなければ悲劇となる。まだしも、人間の持つ本質を認めた資本主義の方が現実的と言えよう。そもそも、マルクス主義者たちはテキストの解釈権を党が独占したという経緯がある。それをマルクス自身が意図したかどうかは知らん。どこぞの教会のように、恣意的に解釈されることを拒むような思想がまともとは思えん。マルクスは、まさしくマルクス主義者たちによって悪者に仕立てられたと言ってもいいだろう。優れた思想にありがちな展開だ。創始者がどんなに天才であっても、自称継承者は凡人である。マルクス・レーニン主義と呼ばれることがあるが、マルクスとレーニンが同じことを主張していたのかも疑わしい。アル中ハイマーが解釈する共産主義とは、所詮この程度のものである。

本書は、「資本主義の最高の段階としての帝国主義」という論文からきているらしい。レーニンは、帝国主義を資本主義の最高段階として位置付け、その体制を猛烈に批判する。その思想の根底にはマルクス主義があるのは言うまでもない。だが、その解釈には昔から疑問がある。マルクスの言った「疎外」を解釈したければ、その著書「資本論」を読むのが一番だろうが、あまりにも大作でなかなか手の出せる領域にない。ただ、本書によって、マルクス自身の意図とは別にしても、マルクス主義者たちがどのように解釈していたかを垣間見ることはできそうだ。また、資本主義の弱点を指摘している点から、資本主義の理解にも役立つ。ただ、本書がここまで資本主義あるいは近代経済の欠点を暴露しながら、なぜボリシェヴィキのような思想に陥るのか?なぜ暴力的な社会主義革命運動を煽るのか?という疑問が残る。この疑問を探るには、時代背景を考察しないわけにはいかない。その根底には、ブルジョアジーとプロレタリアートの対立があり、そこにイデオロギー闘争へと発展した構図がある。本書は、資本主義批判書であるが、資本主義固有の問題ではなく、人間社会が抱える普遍的な問題を内包しているように思える。

本書とは少々ずれるが、ちょいとレーニン時代までの経済史を紐解いてみよう。
資本主義思想の根底には、宗教や伝統主義から脱皮した自由な経済活動がある。つまり、労働者の自立である。この自立をうながしたのが、キリスト教の予定説であるといった議論は、社会学者ヴェーバーをはじめ多くの専門家が支持している通りである。中世ヨーロッパの時代に、ローマ教会の堕落が宗教改革やルネサンスを呼び起したのは事実であろう。ただ、プロテスタンティズムが資本主義傾向を加速させたと解釈することに異論はないが、資本主義がキリスト教世界のみに生まれた独自の思想という行き過ぎた解釈があるのには抵抗がある。
ここでいう労働者は、商工業であって、農業だけが置き去りにされる。一般的に先進国では、農業組織の発展が遅れてきた経緯がある。食料は人間が生きる上での根本であり、農奴といった政治による支配的伝統が農民の自立を妨げてきたとも推察できよう。当初の商工業は資本を持った経営者と、そこで雇われる労働者によって構成される。当然、資本家側の権力が強い。したがって、経済活動は資本家階級相互間の自由競争によって活性化される。自由競争が激化すると、勝者と敗者に分かれ、勝者は敗者を吸収していく。巨大化した企業は、資本効率が高まり、ますます優位性を保つ。となると、一部の資本家階級が社会を仕切るようになり、労働者の奴隷化が進むことになる。優位に立った資本家階級は、政治と癒着して、その地位をますます強固なものにする。つまり、企業による独占や寡占といった状態が、政治への寄生や腐敗となっていく。巨大化企業体の中で労働者は「疎外」を感じざるを得ない。いや、資本家階級ですら巨大化し過ぎた組織の実体すら把握できなくなり、もはや何を所有しているのかも分からなくなる。これが、マルクスの言う「疎外」の正体なのかは知らん!
そもそも企業体には、資源資本と労働資本によって生産して、製品を売るという仕組みがある。その決済は銀行を介して行われる。そもそも銀行の役割は決済の仲介業務であったはず。やがて、資本の流通に目をつけた銀行は、金融資本と化し間接的に企業体を支配することになる。株式資本という形をとって、その保有率を増しながら巨大化した企業に役員を送り込む。持ち株会社によって独占や寡占という形態が現れるが、これは一般企業のみにとどまらず銀行自身にも及ぶ。レーニンが生きた第一次大戦前後では、資本家階級の中でも金融資本が台頭した時代であり、ロックフェラーやロスチャイルドといった金融組織が勢力を拡大し、欧米政府を震撼させた。その名残で、いまだにユダヤ系の金融支配という陰謀説の噂は絶えない。欧米列強国では、莫大な富を得た金利生活者を蔓延らせる。しかし、誰かが生産しなければ生活は豊かにならない。そこで、隷属国で生産された商品を先進国に流通させることによって富を得る海外政策が展開される。つまり、独占と寡占によって巨大化した企業体が政府と癒着して植民地政策へ乗り出した結果、帝国主義という形態が生まれた。植民地支配は原料争奪戦である。列強国が競って新たな土地を求めれば、やがて植民地が枯渇し、植民地の奪い合いとなる。そこには、一部の列強国による世界分割という構図がある。
第一次大戦の発端に目を向ければ、バルカン半島をめぐった陰謀が渦巻く。古くからバルカン危機は、セルビア、ブルガリア、ルーマニア、ギリシャといった民族問題を抱えていた。ハプスブルク家の謀略は、セルビアをオーストリア=ハンガリー帝国に従属させようとする。もはや、資本主義で培われた自由競争原理は、まったく正反対の独占の概念へと変貌した。そこで、労働者階級は自らの権力を復活させるために立ち上がらなければならないと叫ぶ。大方の流れはこんなところだろう。
そこで、レーニンが「バーゼル宣言」で弱い立場にある労働者の結束を呼びかけたのは意義深い。とはいっても、インターナショナルという組織は平和主義を唱えながら暴力革命を煽るのだが。あらゆる平等を謳った団体の結成当初のスローガンは美しい。しかし、平等を崇め過ぎて宗教的な洗脳力を発揮して政治団体と化す。そして、結果的に、弱者を利用して毟り取る権力者を育ててしまう。これが社会のタブーとなり聖域化すると、もはや手に追えない。

本書は資本主義の暴走による独占権益が官僚体質と結びつき寄生と腐敗を発生させたと指摘している。だが、社会主義の暴走が寄生と腐敗で巨大官僚体制を築き、共産主義国を崩壊させたことは見逃せない。これはどんな体制や組織においても起こり得る現象で、ヴェーバーが指摘した官僚化の法則とも言うべき理論が的を得ている。いずれにせよ、イデオロギーの暴走は社会に害をなすことの証であろう。どんな社会システムであれ、常に検証され続けなければ健全な状態を保つことは難しい。
第二次大戦後、植民地解放運動が広まり、資本主義国は帝国主義を捨てた。これも、ソ連という巨大な社会主義国が経済的に成功するかに思えたからであろう。ソ連の計画経済は、1960年代までは福祉向上に貢献しているように見えた。西側で左翼政党が一定の勢力を保てたのも、ソ連の存在が大きい。資本主義の暴走を抑止するという意味では、ごく少数派で共産党が存在するのも意味があるかもしれない。となると、ソ連崩壊とともに抑止力を失ったと見ることもできるわけだが、現在ではその暴走が市場原理主義という形で現れているのだろうか?当時と似通った状況に映るのは、巨大な金融資本が蔓延るところである。資本主義が健全に機能するためには、本当の意味での投資が定着する必要がある。だが、実際は投機が煽られる。帝国主義熱は、現在の投機屋による金融資本熱にも通ずるものがある。経済システムが特定の金融組織に依存度を高めるということは、事実上、金融植民地化を意味する。資本主義国を代表するアメリカは、総収入90%以上を20%の富裕層が独占すると言われる。これが健全な資本主義の姿だとは到底思えない。対して、日本は一般的に資本主義と言われるが、高度成長期からの日本型社会主義といった側面がある。それは、「一億総中流」という言葉からもうかがえる。現在では、小さな政府が唱えられ、なんでも民営化の方向へと進む。この流れが間違っているとも言えない。少なくとも現在の政府は大き過ぎる。いや、政府は機能せず、官僚が巨大化し過ぎたと言った方がいい。日本が資本主義と信じていても、むしろ旧ソ連体制に似ていると疑っている人も少なくないだろう。

なんとなく、植民地の資本の流動が現在の途上国の資本の流動と重なって映るのは気のせいか?例えば、先進国よりも途上国の方が、賃金が安く労働資本は効率的に運用できる。大企業が生産拠点を途上国に移すのも理解できるが、やがて途上国も労働者の生活水準は上がる。そして、新たな途上国を求めることを繰り返せば、いずれ地球上の労働資本は限界点に達するだろう。これは急激な人口増加を無視して議論することはできない。つまり、地球資源の枯渇と似た状況にある。経済発展がこのままムーアの法則で加速するとしたら、資本の枯渇もそう遠い未来ではなさそうだ。となると、資本主義は拡張経済から分配経済へと移行するだろう。20世紀までは、国家間や企業間の格差が、資本の流れを円滑にしてきた。だからといって、わざわざ格差を拡大する政策をとれば暴動が起こるだろう。先進国では付加価値の高い製品が輸出され、後進国では資源資本や労働資本を供給するという関係は、後進国が豊かになれば資本の流れが均等化するだろう。では、最終的に資源資本を持った国が優位になるのか?いや、技術革新は資源や資本の概念をも変えるだろう。化石燃料に頼らないエネルギー政策を取ることが優位性を保つ鍵となるかもしれない。20世紀までは世界経済を自由の概念によって牽引してきたが、21世紀は平等の概念に少し重きを変えるのかもしれない。いずれにせよ資本主義の改良版が求められるだろう。極端に理想論へ移行するのは実践的ではない。人類には、皮肉にも理想を追いかけることによって、逆に社会を暴走させてきた歴史がある。本書は、資本主義の本質には私有財産の神聖化があるという。その通りであろう。しかし、社会主義が強すぎて国家が私有財産を取り上げれば、巨大官僚支配となる。この点では、資本主義よりもむしろ共産主義の方が質が悪い。もし、完璧な政治体制があるとすれば、それは神による独裁であろう。ただ、政治指導者たちが神になろうとするから困ったものだ。人間社会とはおもしろいもので、支配階級が自らの道徳観が最も優れていると自負した時に、最も醜い政治体制が完成する。

1. カウツキー主義批判
レーニンのドイツ社会民主党の理論家カール・カウツキーに対する攻撃は尋常ではない。その性癖はスターリンさながらである。ボリシェヴィキとは、そうした性癖をもった連中ばかりなのか?本書は、ほとんどカウツキー主義の批判書と言ってもいい。そして、第二インターナショナルを堕落と腐敗の産物と蔑む。第二インターナショナルとは、第一インターナショナル(国際労働者協会)の後継組織で、ヨーロッパ各国の労働組合と社会主義政党が結成した労働団体である。この団体は、マルクス主義に基づくプロレタリアートの組織として発展した。そして、指導者エンゲルスが亡くなると日和見主義者が指導者になったという。ちなみに、第三インターナショナルは、別名、共産主義インターナショナルなのだそうな。カウツキーは資本主義の崩壊を唱えている点でマルクス主義的であるが、プロレタリアートを軽視した点で、マルクス主義の理論的誤謬を犯していると批難している。そして、言葉の上では社会主義を唱えながら実は社会主義的排外主義であって、彼らが唱える社会平和主義や世界民主主義は欺瞞であるという。ここには、真のマルクス主義こそが共産主義であり、ボリシェヴィキだと主張しているところに、レーニンの傲慢さがうかがえる。実際に、ドイツではビスマルク首相の時代に社会保障政策を唱えている。こうした流れが、ドイツの労働者を資本主義の改良主義へ導いたとも言えよう。だが、帝国主義を目の当たりにすれば、資本主義の暴走に歯止めがかけられないと考えて、革命を煽るのも分からなくはない。そして、ボリシェヴィキが活躍したのが資本主義の後進国ロシアであったのも、まだロシアなら救済できると信じたからかもしれない。

2. 帝国主義批判
第一次大戦当時、帝国主義によって狂気の沙汰となった軍拡熱が高まり、物価の高騰を招いた。そして、列強国の国民は互いに反目しあうようになる。本書は、鉄道建設、石炭産業、鉄鋼業といった資本主義を牽引した工業を、ブルジョア民主主義文明の象徴と蔑む。そこには、カルテル、シンジケート、トラストといった資本家による独占形態が現れ、国内市場を分割して占有した様子が語られる。そして、必然的に独占団体同士が世界的に結びつき、国際カルテルを結成する事態になったという。更に、資本主義では農業は育たないと主張している。確かに、工業が資本主義を牽引してきた。だが、ボリシェヴィキの指導下で農業組織が進化したとも思えない。植民地支配もまた、資本主義が生み出した産物だと主張している。まさに、鉄道建設は資本主義的奴隷制によって支えられながら、私的所有と結びついてきた。しかし、強制労働という意味では、共産主義も負けていない。資本主義でなくても、支配階層の欲望に寄生と腐敗が結びつくのは人間の本性であろう。領土の奪い合いで見られる世界分割、植民地争奪戦、経済的勢力圏を求める闘争、これが資本主義の最終段階であるという。帝国主義は資本主義の振り子が極端に振れた結果とも言えよう。では、社会主義が極端に振れた結果が共産主義で、その最たるものがスターリンというわけか。ボリシェヴィキによってスターリンが登場したわけだが、レーニンがこの人物の危険性に気づいていたことは明白である。スターリンの失脚を企てて失敗したが、こうした行動はレーニンが社会主義の暴走にも危険性を感じていたからかもしれない。

3. 帝国主義における銀行の役割
いつの時代でも、銀行の役割が議論される。社会で最も道徳的な立場が要求される業種の一つでもあるが、伝統的に暴走する性格を持っているようだ。人間はお金が絡むと目の色を変える。それも、お金には実体がないという意識から不安に駆られるのだろう。だから、大金を持ち過ぎても欲望に憑かれる。現在では、銀行に依存しない経済システムの構築が囁かれるのも皮肉である。銀行は、決済の仲介業務から離れると常に批判の対象となる。まったく生産性のない業種が、資本主義の中枢を握るという経済構造があり続ける。本書は、銀行の独占化が帝国主義を強化したと指摘している。そこには、銀行は投資の仲介ではなく、投機を煽る巨大組織となった様子が語られる。旧来の資本主義では、銀行は自由競争の調整機関である証券取引所として機能していたという。証券取引所の役割は、企業価値や貨幣価値といった物質的評価を正常に安定させることにある。この仕掛けは、人間のできない価値評価を自然原理に委ねたと言ってもいいだろう。ところが、銀行が優位性を保つために巨大な資本を集めた結果、資金流入を独占し、資金を頼みにする企業を事実上傘下に置くことになる。株式保有率を高めれば、そこに役員を送り込み、そこに政府高官が癒着する。ドイツでは、巨大銀行の取締役に、国会議員や市会議員を見かけるのは珍しくなかったという。また、経営能力を超えた資本の流入によって、経営者がギャンブル的な事業に乗り出す光景がある。そこには、貸借対照表に現れない一般投資家を欺いた工作行為がある。おまけに、新規事業に失敗しても、機を逸することなく株式を売り抜ける。当時、貸借対照表の実態を読みにくくする手法が横行したという。本来、銀行は産業界の裏方のはずだが、資本主義では金融資本の強化が事実上国家を支配したと指摘している。「株式所有の民主化」と言ってしまえば聞こえはいいが、資本の民主化は金融寡占制の威力を増幅する便法になっているという。経済危機で、政府が救済するのは破産に追い込まれた富裕層であることは、いつの時代も同じようだ。

2009-11-01

"菊と刀" Ruth Benedict 著

アル中ハイマーの購入予定リストには、ずーっと前から亡霊のように居座る奴らがいる。本書もその中の一つ、これがどういう経緯でリストに挙がったかは記憶にない。

「菊と刀」は、いろんな訳版があるようだ。本書は訳者角田安正氏による光文社版である。第二次大戦中、文化人類学者ルース・ベネディクトは、アメリカ情報局の依頼を受け日本人の気質を研究した。そこには、戦時中でもあり、研究者として現地調査ができないことを悔しく思っている旨が語られる。参考としたのは、在米日系人と日本文学や歴史文献などだという。こうした制限の中で、これだけの分析がなされるのには感服せざるを得ない。本書は、あくまでもアメリカ人向けに記されたアメリカ人による日本人文化論である。
当時、日本に住んだことのある欧米人が書き残したものは、一般的に貧弱かつ皮相的だったという。したがって、欧米人の文献を参考にすると、むしろ誤った知識を展開すると警戒している。本書の分析は、時折ドイツ人やフランス人やロシア人との比較を交えながら、主にアメリカ人との対比の中で展開される。こうした比較分析の難しいところは、観察者が観察される側を見下ろしていると誤解されるところであろう。相対的な関係からは、文化の優劣が強調される感がある。こうしたわけで、ベネディクトへの批判が少なからずあるのも理解できる。鋭い指摘も多いが、事実誤認という欠点も見られるのは仕方があるまい。C・ダグラス・スミスによると、アメリカ人が大人であるのに対して、日本人は子供で成長過程にあると解釈しているという。日本の評論家にも似たような発言をする人がいるが、それは少々浅はかであろう。本書には、アメリカ人の自国民中心主義と、それを他国に押し付ける有難迷惑な態度を批判する様子もうかがえる。日本を命令によって自由で民主主義的に創造することは、アメリカの手には余ると述べている。そして、フランスのド・トクヴィルの言葉を紹介している。
「アメリカはさまざまな長所があるにもかかわらず、真の風格を欠いている。」
トクヴィルによると、アメリカ人よりも日本人の価値観の方が納得できるかもしれないと語っているそうな。法の力を借りたところで慣習として根付かなければ意味をなさない。ベネディクトはそれを理解しているように思える。人間が自らを客観的に評価することは難しい。身近過ぎて見えないものも多くある。日本文化に見られる行動様式を外国人の目で見た考察は、重要な手掛かりを与えてくれるだろう。そして、比較の中で相対的に語ることの難しさを改めて感じさせてくれる。なるほど、日米両国でロングセラーを続けているのもうなずけるわけだ。ちなみに、アメリカでは、ベネディクトの主著は「文化の型」と見なされているらしい。

ところで、「菊と刀」というタイトルに込められる意味とは何か?当初、菊の花に自然の美を求める心と、刀には好戦的な性格を表している印象を持っていた。時折、欧米人が口にする日本人の二重人格性である。だが、読み続けていくと、そう簡単には片付けられないように思えてくる。「菊」の美しさには、名誉や恥や自制心が象徴され、「刀」には、輝きを放つ武士の義務を全うする強い意志が現れる。本書は、日本人の自己責任の解釈は徹底的で、アメリカ人には遠く及ばないと語っている。したがって、「菊」と「刀」を対立関係として見るのではなく、なんら矛盾しない関係に映る。また、日本人の文化的倫理観は、アメリカよりもヨーロッパに類似したところがあるように思えてくる。本書も、日本人の価値観をドイツ人の名誉やスペイン人の勇気、あるいはナポレオン軍の誇りと重ねて論じている。ただ、最も性格の反するアメリカによって占領政策がなされたのも、歴史の皮肉というものか。確かに、本書には欠点も目立つ。だが、戦争相手の研究という意味では、アメリカは最低限の情報収集に取り組んだとも言えよう。対して当時の日本政府が、戦争相手の文化をどこまで研究していたのかは疑問である。日本には情報を疎かにする伝統がある。既に情報戦で負けていた証とも言えよう。
日本では、太平洋戦争を軍部の暴走と解釈する人が多いだろう。だが、そう簡単には片付けられないような気がする。軍部を含めた政治家たちが、アメリカの工業力に勝てると真面目に考えていたのか?当時の政治家はそれほど馬鹿だったのか?ポーツマス条約や海軍軍縮条約といった不公平条約への不満も見逃せない。敗戦を覚悟して国の威信を賭けたとも言えよう。また、国民感情が教育を含めて扇動されたのも事実であろう。平和論を唱えようものなら国賊と罵られる時代である。明治維新から急激な近代化にともない、天皇を中心とした神の国というスローガンの元に絶対に戦争に負けないと洗脳された。となれば、徹底的な敗北を喫するまで戦争を続ける運命を背負わされたのかもしれない、などと発言すると批難もされようが、酔っ払いにはそう思えてならない。そもそも、自国を神の国と崇める時点で、他国を蔑んでいる。現代風に言えば、アメリカが自らの理念の崇高さに酔いしれて強大な軍事力を後ろ盾に世界の警察官を自認し、国連を無視するといったところだろうか。しかも、その軍事行動は世論操作によって扇動され、おまけに、それを無条件で支持する無責任な国が取り巻く。こうしてみると政治手法は、現在も昔も大して変わっていないように映る。

欧米人は、イデオロギーの鞍替えや思想の転換を見ると、その人の人格の変化を再評価するという。まさしく、日本は太平洋戦争の敵国に対して、占領下では友好的な態度に変貌した。民族滅亡に瀕するまで戦い抜くという意志は、天皇の終戦宣言であっさりと方向転換してしまう。そこには西洋式レジスタンスのような態度は現れない。これにはアメリカも驚いたであろう。本書は、こうした一変した態度のできる国民の文化的倫理観を考察する上で、宗教的考察はもちろん、子育ての方法といった慣習にまで踏み込む。表面的には仏教国だが、その中身は仏教的でも儒教的でもない。煩悩を遠ざける一方で、五感の愉悦を楽しむ享楽の解放がある。極東に位置する日本は、あらゆる宗教を最も冷静な目で眺めることができると解釈することもできよう。無宗教と批難されることもあるが、これはむしろ良いことではないだろうか。無宗教でも信仰がないわけではない。一定の信仰に凝り固まらず、柔軟に思考が変えられる特長がある。悪く言えば優柔不断でもある。政治家の言葉はころころと変わり、もはや威厳も保てないでいる。
日本人は子育ての段階から、周囲の目を意識するように教育される。そこには、泣き虫がよその子と比較されて説教されるといった恥じらいの様子が再現される。そして、世間体を意識する風潮が、嘲笑われたり仲間外れにされることを極端に嫌うと分析している。こうした土壌は陰湿ないじめを助長するのかもしれない。
その一方で、日本には武士道精神に代表される義理、恩、礼節、誇りといった倫理観がある。これは武士階級に限ったことではなく、全ての階級に渡って恩返しのできない人間は非人格者と見なされ、社会から軽蔑される風習がある。世界的に見ても「義理」ほど稀な道徳観はないという。日本人は秩序と階層的な上下関係に信頼を置くが、アメリカ人は自由と平等に信頼を置く。自己犠牲を強いてまで組織の維持あるいは一員になろうと努力する姿は、自由を信奉するアメリカ人にとっては理解に苦しむだろう。
戦後の日本の方針転換は、なにも人格が変わったわけではない。その国民気質は、良く言えばバランス感覚、悪く言えば多重人格性のようにも映るだろう。そもそも、人間を雁字搦めにする宗教的な規律を必要としない。本書は、日本の強みは失敗した事実を一蹴して方針転換できる気質にあると語る。そして、世界の尊敬を得ようとする国民性があり、感情を押し殺し、欲求を戒め、不文律の求める自己規律を受け入れる能力があるという。また、義理と人情、忠と孝、義理と義務の板挟み、日本人はこの徳目と徳目の板挟みの中で生きていると指摘している。こうした性格は、良きにも悪しきにも受け継がれているのだろう。まさしく、現在の官僚政治がこの呪縛に嵌る。仕事仲間の義理を貫き、国民への正義を犠牲にする。賛同しない者を不誠実と蔑み、自らの斡旋を中立独立と叫ぶ。正義にかられて偽証できない者に自重しろと圧力をかけ、明らかに一般社会とは違った価値観の中で議論が繰り返される。彼らの論理は、日本人の慣習の悪しき解釈だけを大事に継承しているかのように映る。

本書は、日本の家庭が家族を社会から守る砦になっていないと指摘している。それだけに、競争の原理が働くと日本人は無防備に曝されるという。日本では、競争の原理が合理性となる可能性が低いだろうと。自由を崇めると自由競争が激化する。アメリカ社会は、まさしくその自由競争主義によって支配される。その結果、何が生じたか?未曾有の金融危機は何を意味するのか?本当の意味での合理性とは何か?一部の階級層に国民の資産が集中する社会が合理性に基づいているとは到底思えない。自由とはやっかいなもので、自己管理や自制のきかない社会では合理性を発揮できない。国民の慣習の違いによっても合理的手段が違ってくるだろう。経済危機に陥っても、他国の実施する政策の意味を理解せずに、真似するだけでは効果は望めない。日本には、皆がやることに追従していないと不安にかられる風潮があり、組織依存度も異常に高い。自己責任と叫びながら、組織の指示を仰がないと動けない。こうした気質は、あらゆる組織において官僚体質を強固にする。そうした反省を踏まえて、本書は現在にこそ存在意義があるように思える。

1. 民族分析としての社会学
多くの東洋人と違って日本人は文章を綴って自らを曝け出す衝動があるという。その文章も、恐るべき率直であると評している。伝統的に日本文学は欧米でも評価が高いようだ。社会学で民族を分析する時、重要なことは一定の冷徹さと寛容さが必要だという。つまり、善意の人々からの批難を浴びるような冷徹さと、同じ人間であるという寛容さの両面である。人間には、固有の理念と共通の理念が共存する。ただ、イデオロギーってやつは、振り子がどちらかに思いっきり振れないと気がすまないようだ。日本人やアメリカ人といった枠組みだけで、画一的な世界を想像することは無理であろう。よく日本人の意識が欧米意識と違っていると慌てふためく評論家を見かけるが、欧米意識だって一つであるはずがない。社会学者や心理学者は意見と行動を統計的に捉える傾向があり、経済学者はもっぱら分布図に気を取られる。アンケートや世論調査には、ある程度の傾向が現れるだろうが、それが絶対ではない。微妙な質問の仕方によっては方向性も変わるだろう。政治手法はもっぱらプロパガンダ手法に頼る。国民性を分析すれば有効な宣伝文句も発明できる。そして、歴史の解釈も巧みに国家間の政治戦略として使われる。人間社会とはおもしろいもので、「民族の誇り」を掲げた独裁者が異民族を迫害する一方で、「世界は一つ」と提唱する平和主義者が固有の民族意識を無視して平均化した価値観を押し付ける。

2. 占領政策と天皇
占領政策において天皇の処分をどうするかは、頭を悩ませたであろう。憲法上、天皇が直接支配していたわけではない。だが、統帥権が微妙な位置付けにある。外務省に交渉権があるといっても、はるかに軍部の権限の方が強い。天皇と政府の二重構造は、その源泉を鎌倉時代から南北朝時代あたりの中世日本に遡って考察がなされる。それも当然であるが、この二重構造体制をまともに説明できる人は少ないだろう。天皇に対する尊敬の念は、ヒトラーへの崇拝と同列にはできない。ドイツ人がヒトラーを戦争責任者として扱うのに対して、当時の日本人にとっては天皇と戦争は別次元にある。天皇を神と崇めたところでキリスト教的な神とは意味合いがまったく違う。だから、天皇の人間宣言をあっさりと承諾できたのだろう。当時、天皇が戦争を続行しろと命令すれば、民族が亡びるまで抵抗を続けたかもしれない。だが、天皇が敗戦を受け入れれば、国民があっさりと受け入れる脆さもある。となれば、アメリカの軍事戦略は天皇が戦争を止めると発言するように仕向ければいいはず。ただ、それではアメリカの世論が納得しないだろう。アメリカが、天皇に戦争責任を追及しなかったのは、日本文化を研究していた成果とも言えよう。結局、総合的な戦略研究や分析がなされた国や組織が、最終的に競争に勝利するということであろうか。
徳川幕府末期、世界の列強国に対抗するために国家の団結が迫られていた。幕府の攘夷派も倒幕派も、この点では一致している。宗教で団結できない日本は何か拠り所にする象徴が必要となる。天皇制の下での国家体制を築いた明治維新当時の政治家たちの眼力は鋭い。大日本帝国憲法が天皇の神聖不可侵を定めている点は注目すべきであろう。
中世日本において、律令制が天命思想を前提としているのに対して、日本では独特の解釈がなされた。天皇は律令制の皇帝としての役割と神聖な王としての役割がある。中国との交易を継続するために、象徴的な天皇家を絶やすことができなかったと考える歴史家もいる。中国の制度を取り入れて失敗したものに、後醍醐天皇の「建武の新政」がある。中国式の官僚制は日本の封建社会には馴染まなかった。ところで、現在では、日本古来の封建制から受け継がれた世襲制に加えて、古代中国式官僚制が蔓延り、それが欧州風議会政治の元で運営されるところに訳の分からんシステムがある。日本人は、何もかもミックスして新しい風潮を生み出す性質があると言われるが、それで硬直化してしまっては頭が痛い。これも世界で類を見ない日本独特の政治体制というわけか。

3. 戦時中の慣習
一般的に死傷者と投降者の比率には一定の規則があると言われる。これが当時の日本人に当てはまらないことは想像に易い。学業優秀な若者達が、自らの思考を放棄して宗教的に洗脳されたわけではない。民衆を含めた集団自決などは軍の強制も多少は影響しただろうが、もともと集団意識に個人犠牲という国民性がある。こうした行動を欧米人には理解できないだろう。どの国も戦争を正当化する。どこの国にも言い分があるから戦争状態となる。日本が、侵略国に倫理観を押し付けたのも確かであろう。愛国心とは実に微妙な位置にある。自己愛が強すぎると他人を認めないことにもなる。「大東亜共栄圏」という言葉を用いなければ、果たして日本の世論を動かせただろうか?欧米では、日本人の過度の精神主義は、貧しさからくる言い訳、あるいは、欺かれた感情の幼稚さと解釈する風潮があったという。古くから日本には質素で勤勉を美徳とする文化があり、これに精神論が加われば煽りやすくもなろう。
また、病気に対する心情にも文化的違いが現れるという。アメリカ人ほど医者に頼る習慣があるのも珍しいのだそうな。アメリカでは、病人に対する思いやりが、恵まれない人に対する救済措置よりも優先されるという。こうした傾向は元ブッシュ政権に代表されるだろう。日本兵の中に異常な精神主義が蔓延っていたのは否定しない。負傷者が手榴弾などで自決する姿も現れる。これを同胞に対する残虐行為と解釈する欧米人も少なくないが、これには抵抗を感じる。足手まといになりたくないという責任の表れでもあるから。日本兵には降伏の恥があった。その立場は家族にも及び、面目を失うと社会的な負い目がある。したがって、アメリカ人捕虜を恥知らずと軽蔑する。ところが、その慣習も徐々に崩れていったという。アメリカ人に対する疑念を忘れ、日本人捕虜の中には誠意ある者も現れ情報収集が円滑になったという。このような豹変振りは、欧米人には理解しがたいものがあるようだ。軍部に騙されていたという意識があったのかもしれない。人間は、信じていたことと逆のことが真実だと知ると簡単に意識改革できるということか。

4. 汚名をそそぐ
日本が日露戦争で勝利した時の写真を見ても、どちらが戦勝国なのか区別がつかないという。ロシア軍人は武器を剥奪されていない。乃木将軍とステッセル将軍は握手して、ともに勇敢さを称えたと伝えられる。そうした武士道とも言える礼儀を持ちながら、日露戦争から太平洋戦争までに日本人は豹変したと言われる。しかし、これは何も矛盾したことではないと指摘している。太平洋戦争では「鬼畜米英」と叫んで猛烈な反米思想を唱えた。こうした例は日露戦争や日中戦争には現れないという。これは、ポーツマス条約と海軍軍縮条約に果たしたアメリカの役割に恨みをもったことからきていると分析している。日本人の倫理観には、汚名をそそぐという概念が根強くあったのかもしれない。その例を「忠臣蔵」を持ち出して、お家断絶の不名誉を被った復讐と公儀への抵抗で分析している。討ち入りを眺めれば、奇襲攻撃と重ねることもできよう。だが、アメリカ人には卑劣な行為としか見えない。そして、普段礼儀正しい日本人が、一旦不名誉を被った相手には、手段を選ばす攻撃的になる性格があると指摘している。仇討ちを成し遂げた武士が華やかに切腹した一方で、影では家族や親戚は辛い運命を背負わされる。名誉のためならば家族の犠牲も惜しまないという習慣は伝統的にあったのかもしれない。借りを返すといった意識は日本人は強いということか?こうした倫理観を真珠湾攻撃と結び付けている。

5. 応分の場
日独伊三国同盟の前文には、次のような一節があるという。
「日独伊三国の政府は、政界各国に応分の場が与えられることこそ恒久平和の前提条件であると考える。」
また、真珠湾攻撃に際しても、ハル国務長官宛ての文書には、次のような一節があるという。
「各国が世界の中で応分の場を得られるように取り計らうことは、日本政府の不変の方針である。」
ここには「応分の場」を与えられなかった日本人の憤慨する性格が現れていると分析している。ただ、それは欧米と同等の権利を要求しただけのことで、現代ではアメリカ人の持つアメリカ中心主義の方が強烈である。また、階級制を基盤とした民主主義が日本流であって、欧米流のイデオロギーを基盤とした解釈は通用しないと指摘している。階級制と言っても、あからさまに階級差別があるわけではない。それは「応分の場」という概念であって、身の程をわきまえるといった感覚だという。日本人には敬語や謙譲語を相手によって使い分ける習慣がある。性別や世代、家族や組織の上下関係に道徳律がある。これを階級制と表現するところに少々違和感がある。また、大東亜共栄圏の、日本は兄で他国は弟であるとした思想を、長子相続制度と重ねている。

6. 戦後の政策
戦後、明らかにドイツやイタリアと違った政策をとった。それも日本の官僚機構を活用している。占領政策では、日本流の民主主義を土台にした方が、国民の自由を拡大しながら福祉を確立するのに都合がよいということだろうか。現在では、戦後政策が官僚体制を強固にしたと批判する評論家も少なくない。日本社会では、階層的秩序によって高い地位を占めた人間が傲慢な態度を顕にして、自らの恣意で権力を行使することはないという。最高責任者が実権をふるうのではなく、顧問団や黒幕が舞台裏で暗躍するというのだ。なるほど、一昔前まで総理大臣は黒幕に操られていた。各国代表は黒幕と直接交渉する動きがあった。今もか?その一方で、権力を行使する黒幕が明るみになると、世論から厳しい目が向けられる。私利私欲の追及に走る高利貸しや成金といった利益主義は顰蹙を買う。また、詐取や不公正に対して厳しい反応を示す。だが、そうした場合でも決して革命家と化すことはないという。西洋の論者は、日本人の大衆にイデオロギー的な大衆運動を期待したという。戦時中は日本の地下組織を過大評価して、降伏時に主導権が移るのを期待し、終戦後の選挙で急進的な勢力が勝利するだろうと予言したという。しかし、「応分の場」をわきまえた国民からは西洋的な革命運動は起こらないと指摘している。なるほど、社会保険庁の問題などは暴動が起こっても不思議ではない。日本人の感覚も西洋化が進んだので、今後、暴動が起こる可能性は否定できないだろう。ただ、高齢化が進むと性格が温和になって、意識は相殺されるかもしれないが。

7. 自己鍛錬
文化における自己鍛錬の方法は民族の特徴を表すもので、外国人にはとかく愚行に思えるものである。昔の日本は、自己鍛錬の場が日常生活に浸透していた。精神修行の根底には自制心や克己心がある。これは大和魂といったところだろうか。伝統的に個人的欲求を犠牲にすることに美徳を求めるところがある。ただ、アメリカ人には自虐に映るだけだろう。妻は夫のために人生を犠牲にし、夫は一家のために自由を捨てる。本人はそれを犠牲とは思わない。アメリカ人にだって、子供に対する愛情は無条件にあり、家庭の幸せを願うはず。ただ、日本の倫理観は、その枠組みが大きな組織にまで広がる。雑念を取り払い、ひたすら物事の本質を見極めるために鍛錬する。現在においても、仕事で努力するのはその能力を伸ばそうとするだけではなく、人生の本質を見極めるためと考える人も少なくないだろう。柔道を学ぶのは、強くなりたいという願望だけではない。柔道から人間の本質を学ぼうとする。達人や匠の世界には、そうした別次元に達する何かがあるように思える。こうした意識は、キリスト教でいう予定説にも通ずるものを感じる。与えられた職業は神によって運命付けられ、それを全うしようとする。人間に神の定めたものを知る術はない。したがって、ひたすら勤勉に励むしかない。神の信仰から悟りのような境地を求めるといった感性にも似ているような。

2009-10-25

"思考の整理学" 外山滋比古 著

ちょっと古い本だが、なぜか目立つように陳列される。宣伝文句には「1986年発売以来の超ロングセラー!」とある。完全に立ち読みしてしまったが、本書は是非我が家の本棚に並べておきたい。ほとんど共感できるからである。酔っ払いは、寂しさを感じながら同調者を求めているのだろうか?文章の流れには文学的な雰囲気さえ漂わせ、なんとなく癒される。いずれ再読するのは間違いないだろう。

知識の整理と思考の整理は違う。思考の整理の方がはるかに難しいように思われる。知識の整理はある程度の体系化が可能であろう。知識は、分類や階層化によって構造的にまとめることができる。現在ではコンピュータを利用すれば検索も容易にできる。だが、思考の整理となると事情は一変する。その有効手段を見つけるのは難しい。どちらも、抽象化の概念は必要であろう。伝統的な学校教育では、知識を教えても思考方法を教えることはない。にもかかわらず、人間はなぜか独自の思考方法を身に付ける。それは試行錯誤の中から会得するのであろう。人間は、幼児期に原始的思考というものを形つくる。思考の論理や法則性には、個人の経験則によって癖のようなものがある。人間の理念は十人十色で、合理性は別人からは不合理性と見なされる。したがって、思考の方法論が個人によって違ってくるのは自然である。思考を整理するのに文章を書いてみるのも有効であろう。書き出してみると、意外と理解していないことに気づかされる。一つの手段として図式化するのも有効であろう。おいらは言葉の関連図を書く癖がある。独自のマインドマップとでも言おうか。独自といっても、なんら難しい法則があるわけではなく、誰でも直感的に伝わるような表現を心掛け、その法則も気まぐれに従う。また、自分の思考を他人に説明しようとすると、いつのまにか自分の思考を整理していることに気づかされる。思考の整理に、プレゼンテーションの重要性を意識している人も多いだろう。
いずれにせよ、思考の整理方法で体系化できる黄金手法など存在しないだろう。そして、思考を洗練するには、ひたすら検証を繰り返すことだと思っている。本書は、こうした感覚を持った人間には惹かれるものがある。タイトルに「思考の整理学」と銘打っているが、そこに例題として用いられている手段はあるにせよ、体系的な技術や方法を伝授しようというものではない。思考の本質に迫ろうとすれば、抽象的にならざるを得ないし、哲学的思考が現れるのも自然であろう。本書は、物事を考えるとはどういうことか?思うことと知ることは違うのか?そうした素朴な疑問をあらためて考えさせられる。アル中ハイマーは、本書がしめくくる、このフレーズにいちころでなのだ。
「人間らしく生きて行くことは、人間にしかできない、という点で、すぐれて創造的、独創的である。コンピュータがあらわれて、これからの人間はどう変化して行くだろうか。それを洞察するのは人間でなくてはならない。これこそまさに創造的思考である。」

さて、今宵も酔っ払いの精神の動きに任せて、能書きを垂れてみるかぁ。

1. グライダー型と飛行機型
世間には、実に多くのハウツウものが氾濫する。その中で参考にできるのは失敗例であって、成功例には偶然性が潜むことを意識しておく必要がある。何々学校というものが大盛況なのも、新たに知識を得るために教師のような存在に頼るのが手っ取り早いからであろう。そして、無条件で教材が提示されれば、教材選びという面倒な作業から解放される。だが、あらかじめ教材が用意されるのと、自分にあった教材を最初から探し出すのとでは、意味が違う。教材の探索には、思考の試行錯誤が繰り返される。おいらは、新たな学問をしたければ、独学が一番心地良いと思う。独学は必然的に読書する。そして、散歩するかのように試行錯誤の中を漂いながら、具体的な手段を模索する。なによりも、誰にも指図されないのがいい。知識は獲得するまでの過程にこそ意義がある。つまり、最初から教材が与えられるということは、学問の醍醐味を省略していることになる。知識に到達するまでの思考を省いては、人生も味気ないものとなろう。そう言いながら、かつて英会話学校へ通ったことがあるのだが...よくセミナーにも参加するし...
いい歳をした大人が、なんでも手軽に教えてもらえると考えるのは、学校教育の弊害と言えよう。学校教育では知識を記憶することに没頭する。しかし、記憶は歳とともに薄れる。あらかじめ教材が用意され、情報探しで思考することを放棄させる。おまけに、重要なポイントが最初から示され、何が重要なのかを思考する過程をも奪う。何が重要なのか個人によっても観点が違うはずだが、学校教育の観点は試験のみである。問題はすべて学校側で用意される。だが、社会では問題は突然わいて出て、おまけに解答を知っている者は誰もいない。この答えの見つからない問題と対峙しながら、妥協という解決が求められる。
国語では解答が一つしかなく、文学作品の作者の意図も一方向に誘導される。歴史では、教師の解釈が強制される。数学では、有効な解法を一つ提示すれば、それに皆が群がる。そして、すべてが暗記科目となる。こうした傾向は社会現象にも見られる。世論は一方向に扇動され、違った解釈を持つものは不安に駆られる。こうした流れは、一時的にエントロピー増大の法則に逆らっているように映る。しかし、事象に対する後の社会的評価や歴史的評価は、時代の経過とともに変化する。社会を生きる上で、紋切り型の知識はあまり役に立たないことは、ほとんどの人が経験によって認識しているだろう。だからといって、知識を蔑むものではない。知識がなければ思考することも難しい。こうした視点を、本書ではグライダー型人間と飛行機型人間の対比で語られる。グライダーも飛行機も空を飛ぶ姿は似たようなものである。むしろグライダーの方が音も静かで優雅である。しかし、グライダーはエンジンが無いので、自ら舞い上がることができない。そして、学校はグライダー型人間の養成所であると皮肉る。グライダー練習上にエンジンのついた飛行機が混じっていては、騒音もうるさく迷惑するというわけだ。勝手な奴は規律違反をし、優等生はグライダーとして優秀となる。従順さの尊重こそ学校というわけか。おまけに、指導する教師もグライダー型である。面倒見が良さそうで親切そうな教師ほど、具体的な参考文献や問題の解釈などを提示してくれる。だが、それは意識の誘導でもある。こうした教師ほど評価される。これは学問にとって良い傾向なのだろうか?個人的には、好きなようにやればいいと助言してくれる方がありがたい。一見冷たく見えるがそうではない。こちらが考えをまとめて、議論に訪れれば話題も盛り上がる。逆に、こちらの思考が浅ければ冷たくあしらわれるだけのこと。人間社会はグライダー人間によって支配される構造的問題を創出しているのかもしれない。

2. 独創性
本書は、知識と思考を独創性や個性といった観点から議論される。ところで、独創性とは何か?独創性とは、どうやって磨くのか?その出発点をどこに求めるかは難しい。子供の行動は、大人の行動を真似ることから始まる。こうした素朴な行動には、独創性の本質が隠されているような気がする。作家ポール・ヴァレリーは、他の作品を養分にすること以上に、独創的なものはないと語った。ヴァレリーによると、偉大な芸術は模倣されることを自然に受け入れるという。優れた作品は、模倣しても、模倣されても、ゆるぎない芸術性を保つというわけだ。日本の小説家で誰だったかは思い出せないが、似たようなことを語っていた。それは、独創性を磨くには、いかに多くの気に入ったフレーズに出会えるかにかかっているといったことである。個性を磨くにしても、いかに個性的な人間に出会えるかにかかっているのかもしれない。ただ、最も重要なことは、自らの精神を解放することであろう。いくら、優れた思考に出会ったところで、それを感じ取る力がなければ意味がない。芸術家は、日常生活の些細な出来事ですら、そこに芸術性や独創性を感じるのだろう。科学の独創性にも、先人たちの苦悩の積み重ねの上に成り立っている。そもそも、最初から独創性を意識したところで、独創的な思考は生まれないだろう。人間の理念が十人十色であれば、おのずと物事の解釈にも個人差が生じるはず。
「デマは見方によれば、自由な解釈にもとづく伝達の花だということにもなる。われわれは、だれでもデマの担い手となる資格をもっている。」
なるほど、ウィキペディアにも間違った情報が紛れ込む。おいらのブログも時々読み返して修正しているが、どれだけ間違いが紛れているかは計り知れない。酔っ払いには知識の整理だけでも難しいのに、思考の整理となると、独創性が絡み限りなく不可能となりそうだ。

3. 思考と閃き
思考していると、思わぬ閃きが突然やってくることがある。アル中ハイマーには、風呂の中か睡眠中に訪れる。アイデアや難題の解決方法が、思考をリセットした時に訪れることはよくある。ただ、困ったことに、こうした場面では即座にメモることができない。こうした現象は、緊張感から解放された時に起こるのだろうか?本書でも、REM睡眠と思考の関係を論じている。
通勤途中の電車に揺られている時にアイデアが浮かぶことある。電車の振動は思考のリズムをつくるのかもしれない。一日中解決できない技術的な問題を、徹夜して取り組むが、一晩寝るとあっさり解決されることもある。そして、昨日の苦労はなんだったんだ!とにやける。将棋の棋士が考慮中に真っ白な空白をつくることを心掛けているといった話を聞いたことがある。思考が枯渇した時、そうしたリフレッシュが大切なのは、経験的に感じる。これが気分転換というやつか。おいらは、よく煙草を吸いに海に出かける。波の動きを眺めたり、波の音を聞いていると、それだけで癒され、思考がなんとなくリフレッシュされるように気がする。そもそも、集中しようと思って意のままになることはない。ある程度の精神誘導は必要だが、焦らず自然に集中することを待つのが肝心!そして、突然フロー状態が現れる。本人は気づかず、心地良い宇宙へと自然に導かれる。無我の境地とでも言おうか。自我は、自由意志によってコントロールできそうで、できない。ただ、神は自我のコントロールが自在にできると信じ込ませるから、やっかいである。「自由」を実践することは難しい。好きなように実行することほど難しいものはない。自我とは、得体の知れないものである。自由意志の存在すら疑わしい。そこがおもしろいのだが。やりたいことを、続けていると、いつのまにかテーマが自然発生する。人間の精神は気まぐれに支配されると考えるしかあるまい。したがって、集中力は向こうからやってくる。それを、美味い酒でも飲みながら待つとしよう。

4. 夜型人間から朝型人間へ
エンジニアの世界には夜型人間が多いようだ。昔から勉強は夜間にやるという習慣があるのだろうか?おいらも、サラリーマン時代に夜型人間だった。そこで、フレックスタイム制はありがたい。しかし、会社を転々としているうちに、いつのまにか朝型人間になっている。ベンチャーと称する企業で働いていた時は、毎日メールを200通から300通処理しなければならなかった。これをやっているだけで一日が終わってしまう。そこで、メール処理のために朝を利用する。そうしないと、自分の仕事をする時間が確保できないからである。すると、朝6時から9時ぐらいに頭の回転が速いことに気づく。今では、朝4時から5時には自然と目が覚める。目覚まし時計が壊れていることにも気づかない。朝からステーキハウスに出かけることも珍しくない。他に客もいないので貸し切りにできるのが気分いい。ちなみに、一番多く食べるのが朝飯で、夕飯が一番軽い。その分、酒が入るが。いつのまにか朝型になっているのを、歳のせいだと言う人がいる。失敬な!そして、昼の3時ともなると飲みたくなる。この時間にバーが開いていないのが残念!個人事業主になると朝4時に散歩する習慣ができた。度々警察官から職務質問を受ける。今では、「ご苦労様です!お気をつけて!」とパトカーから声をかえられる。ちなみに、就寝時間は0時から1時。よって、連続睡眠時間は3時間から4時間ということになる。昔から、睡眠時間は短い方だが、その分、昼寝を1時間するとスッキリする。それも、昼間に眠くなれば自然と寝るだけのことで、無理に寝ようとはしない。仕事のパートナーに、「お前はいつ寝てんだ?」とよく聞かれる。おいらは、眠い時に寝る!腹が減ったら喰う!そこに酒があるから飲む!というのを実践している。すると、自然に規則正しい生活リズムが完成してしまった。動物は、生物学的に規則的に生きるようにできているのかもしれない。

5. 読書の中の思考
読書では、一つ一つの言葉は静止しているのに思考はうごめく。プログラムを書いていても、一つ一つの記述は静止しているのに、全体として振る舞いを持つ。音楽は、一つ一つ音波として存在するが、そこにメロディーが生じる。しかも、そのメロディーを感じることができる人と、感じることができない人がいる。一つ一つの科学現象をスナップショットすると、そこには自然法則を感じる。離散的現象を眺めていると、そこに連続性が現れる。人間の目が持つ残像効果も、こうした現象の一つであろうか。
一つの難解な文章に出会うと、その前後の文章から解釈するという思考が働く。言葉の非連続性から、思考によって連続性を構築する。人間の想像力とは大したものだ。難解な命題を理解するために、喩え話を登場させたりと、人間の感性は、総合的観点から物事を解釈しようとする。中には、部分的にしか解釈できなくて、揚げ足ばかりとる人もいる。これを突っ込みと言う。したがって、突っ込みの感覚には、嫌味となるか優れたジョークになるかの判断ができる微妙な感性が要求される。
おいらは、難解な文章に出会うと、よく後ろから読んでみたり、まん中から読んでみたりする。文章の構成を思考によって立体的に組み換えることによって、ある解釈が生まれることがある。もともと理解力の低い酔っ払いは、読み方も右往左往する。思考も千鳥足というわけだ。だから、一冊を読む時間も長い。それだけ長く楽しめるのがいい。速読なんて手法は、酔っ払いには必要ない。酒を多く飲むことが目的ではない。美味い酒をじっくりと味わうのが目的なのだ。

2009-10-18

"幾何学基礎論" David Hilbert 著

昨日飲んだ熟成純米酒に誘われたのか?いつのまにか純粋数学の古典を手に取っている。空間感覚の破壊された酔っ払いには、頭の体操にもってこい!なのだ。

幾何学は、ユークリッド以来、ひたすら公理から展開されてきた。ところが、19世紀になると集合論によるパラドックスの発見によって、その基礎は危機に曝される。そこで、ヒルベルトは公理主義を強調して数学の体系化を推進した。有名な「ヒルベルトの23の問題」が、現代数学の方向性を示したのは間違いないだろう。ヒルベルトは公理論的思惟にこだわった形式主義の立場をとることによって、数学を純粋領域で確立しようと試みた。だが、ゲーデルの「不完全性定理」の登場によって挫折することになる。言い換えれば、人間が証明できる純粋な学問は、人間の不完全性によって挫折したと言っていいだろう。人間が全ての宇宙現象を公理によって証明できるとしたら、人間の地位を神に押し上げるようなものだから。ヒルベルトの努力が、結果的に数学を再び哲学の領域へと引き戻してしまった感がある。だからといって、その貢献を蔑むことにはならない。人間の限界である完全性と不完全性の境界線を探求することに、学問の意義があるだろう。境界線に近づこうとする努力は、全てが完全であると信じるところから始まる。最初から不完全だと諦めていては、その境界線に近づくことすらできないだろう。現在においても、プラトン哲学が継承されているところがある。それは、どんな複雑な現象も、その背後には単純な自然法則が潜んでいるに違いないと信じてきた科学者の執念である。ヒルベルトもこの執念に憑かれたと言えるだろう。

本書は、カントの言葉から始まる。
「斯くの如く人間のあらゆる認識は直観をもって始まり、概念にすすみ、理念をもって終結する。」
ヒルベルトは、カントールの無限濃度アレフの存在を証明しようと試みても失敗することを認めている。つまり、本書には、有限個で完結した世界においてのみ純粋数学がありうるのであって、公理に基づいた数学を確固たる地位で安定させたかったという願いが込められる。彼は、数学をなんとしてもユークリッド幾何学に留めておきたかったのだろう。本書には、集合論の無限性を拒絶した反応があちこちに漂っている。
幾何学には、古くから議論される作図問題がある。結合公理、順序公理、合同公理、平行公理の4つの公理に基づいた幾何学においては、定規と定長尺を用いて作図することが可能である。だが、連続公理が加わった途端にその範疇から飛び出す。図を描くと自然に見えてくる定理が、ひたすら論理的な公理だけで解析を続けると、摩訶不思議な幾何学が登場してしまう。おまけに、複素数系に放り込めば、人間には手に負えない世界が広がる。そこには、幾何学と代数の融合が現れる。近代数学は、証明の可能性を示す方向から、不可能性を示す方向へと方針転換しているかのように映る。アーベルは、5次方程式の代数的解を求めることが不可能であること証明した。平行線公理の証明不可能性、あるいは、ネイピア数と円周率を代数的方法で作ることの不可能性やリンデマンの定理といった例が支配的となる。形式的公理による論理の組立てでは、人間の想像もつかない世界を構築する。こうした流れを、本書はパスカルの定理とデザルグの定理の展開から匂わせる。ちなみに、パスカルの定理とデザルクの定理は、射影幾何学の基本定理である。本書の考察は、実際に微分を用いて解析されるわけではないが、思考的には微分学の匂いがする。そして、ついに非ユークリッド空間を無視した幾何学の構築に限界が見えてくる。

数学の歴史は、抽象化の歴史と言えよう。代数の世界は、自然数に始まり、数の概念を整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。それは、自然数で引き算や割り算を行うと、答えが自然数の世界からはみ出すように、一つの系が算術によって世界が閉じられないからである。本書は、これを生成的方法と名付けている。
一方で、幾何学は、点、直線、平面の存在を仮定して公理的に展開される。結合、順序、合同と考察される中で、無矛盾性と完全性に従った公理が構築される。本書は、これを公理的方法と名付けている。そして、公理的方法の方が合理的であって、知識を完全に記述し、完全に論理的に保証する上で優れていると主張する。これは代数学への批判か?
ヒルベルトは、民族や国家の繁栄のために協和と秩序が確立されるように、学問同士の協和と数学界の秩序が重要であると訴えている。そして、幾何学では、平面方程式の一次性の定理と点座標の直交変換から、ユークリッド幾何学を完全に保証できると述べながら、あらゆる学問が公理的展開を見せると熱く語る。数論の構成には計算法則と整数法則があれば十分で、力学にはラグランジュの運動の微分方程式があり、電磁気学にはマクスウェルの微分方程式に電子と電荷の性質を加えたものが公理的な役割を演じるという。そして、熱力学では、エネルギー関数の概念と、そのエントロピーと体積を変数とした偏微分方程式で温度と圧力を定義することによって完全に構築でき、初等輻射論では輻射と吸収との関係を支配するキルヒホフの定理が中心となり、確率論ではガウスの誤差法則が、気体論ではエントロピーの定理が、曲面論では孤の長さを二次微分形式で表すことが、素数論ではリーマンのゼータ関数が、それぞれ基本定理になるという。これらの基本定理は、それぞれの分野における公理と見なすこともできよう。
本書は、高名な数学者であるクロネッカーやポアンカレのような、数学から純粋性を奪おうと企む連中が豊かな数学を脅かすと批難する。ヒルベルトは、交点定理であるデザルグの定理やパスカルの定理を仮定すれば、それを有限回繰り返すことによって、幾何学の公理を決定づけられると信じた。しかし、連続公理の無限性に現れる矛盾性がその道を妨げる結果となってしまった。デカルト座標において、幾何学的公理から矛盾が導かれれば、それは実数系の算術も矛盾として認識されなければなるまい。つまり、幾何学的公理の無矛盾性の問題は、実数の公理系の無矛盾性の問題に転嫁させる。そして、無矛盾性の問題は依然として残されたままである。

1. 5つの公理群
幾何学の構成元素といえば、点、直線、平面の3つに集約できよう。本書は、この基本元素を結合、順序、合同、平行、連続の5つを基本公理として展開する。結合公理では、2点間における直線との結合関係、3点間における平面との結合関係、あるいは平面における立体的な結合関係を示す。順序公理では、直線上、平面上、あるいは空間における点の位置関係を示す。合同公理では、線分と角から三角形の合同関係を示し、すべての直角は合同であることを導く。そして、空間移動における運動の概念を示す。平行公理では、線分と交わる角度の関係から平行の条件を導く。連続公理では、直線上の有限個の点を極限操作によって無限に拡張できることを示す。連続性については、アルキメデスの公理と完全性の公理とに分かれるという。ヒルベルトが公理の完全性を求める上で、連続性はやっかいな存在だったことだろう。無限の概念を避けては通れないからである。本書は、公理として無限性を含まないという意味で完全性公理を仮定しないと述べ、デカルト幾何学との同一性を宣言している。

2. 無矛盾性と独立性
本書は、5つの公理群の無矛盾性と独立性を証明しようとする。独立性とは、各々の公理から他の公理を演繹できないということである。平行公理の独立性には、非ユークリッド幾何学への拡張を思わせる世界をルジャンドルの定理によって紹介される。
ルジャンドルの第一定理:
「三角形の内角の和はニ直角よりも小なるか、あるいはこれに等しい」
ルジャンドルの第二定理:
「いずれか一つの三角形において内角の和がニ直角ならば、あらゆる三角形の内角の和がニ直角に等しい」

本書は、合同公理の独立性から非アルキメデス幾何学の存在を認め、連続公理の独立性から非ルジャンドル幾何学の存在をも認め、ルジャンドルの定理の拡張が述べられる。
「三角形の内角の和がニ直角よりも大か、等しいか、小になる。」
ついに、非ユークリッド幾何学の存在を認め、トポロジーの世界を匂わせる。

3. 分解等積と補充等積
三角形の合同と相似の関係を見出すのは容易である。本書は、多角形における面積理論を展開する上で、分解等積と補充等積を議論している。分解等積とは、二つの多角形をそれぞれ有限個の三角形で分割し、しかも細分した三角形が互いに合同で対応できれば、二つの多角形は合同ということである。補充等積とは、二つの多角形が互いに分解等積である場合、分解等積で得られる三角形の組み合わせで合成してできる多角形のことで、三角形の組み合わせ方で様々な多角形を形成することができる。そして、二つの同底、同高の平行四辺形は互いに補充等積となることが導かれ、二つの平行四辺形の面積は等しくなることが導かれる。
「二つの補充等積な三角形が底辺を共有すれば、その高さも等しくなる」
ここには、面積理論の基礎が構築されている。

4. デザルグの定理とパスカルの定理
デザルグの定理:
「同一平面上にある二つの三角形において、対応辺がそれぞれ平行ならば、対応頂点の連結直線は一点を通るかあるいは互いに平行である。また逆に、同一平面上にある二つの三角形の対応頂点の連結直線が一点に会するか、あるいは互いに平行であり、かつ三角形の二双の対応辺がそれぞれ平行ならば、両三角形の第三辺もまた互いに平行である。」

この定理は、結合公理、順序公理、平行公理によって証明される。しかし、直線公理および平面公理が成立しても、デザルグの定理が成立しない平面幾何学が存在する。立体公理を加えると、合同公理なしではデザルグの定理の証明は不可能という結論を導いている。本書は、デザルグの定理には、平面幾何学から立体幾何学へ拡張するための意義があるという。そして、あらゆる空間公理に代わるものになると示唆している。
パスカルの定理とは、円錐曲線論における定理である。
「点A, B, C、および点a,b,cをそれぞれ3点ずつ相交わる2直線上にあり、かつその交点と一致せざる点とせよ。しかるとき線分CbがBcに平行かつCaがAcに平行ならば、BaがまたAbに平行である。」

デザルグの定理とパスカルの定理はともに平面幾何学の条件であり、パスカルの定理もまた立体公理を加えることで合同公理なしでは証明できないという。ただ、デザルグの定理は、合同公理と連続公理を用いることなく、パスカルの定理から証明できるという。ちなみに、パスカルの定理には、比例の理論と相似関係の基本定理が内包されている。

2009-10-15

"初めてのRuby" Yugui 著

タイトル通りRuby入門書である。ただ、オブジェクト指向を少しぐらいかじっていないと読むのも辛かろう。前記事の「プログラミング言語 Ruby」と重複するところも多いが、よりコンパクトで、具体例はこちらの方が多い。頭の鈍い酔っ払いには、二冊セットで読むとちょうどよい。本書は、リファレンスを読むための手引書のような位置付けにある。ちなみに、著者のYuguiさんとは、園田祐貴さんのことでRuby1.9系統のリリースマネージャと紹介される。自らMtF-TS(Male to Female Transsexual)と告白されるように、その勇気には頭が下がる。こういう方にこそ研ぎ澄まされた感性や才能が宿りやすいのかもしれない。

人間は物事を考える時、自分で使いこなせる言語で思考するところがある。ただ、精神は言語を飛び越えた領域で思考するところもあって、言語学者は対象言語の外側から物事を眺めているのだろう。ちなみに、アル中ハイマーの精神は、しばしば自らのボキャブラリ障壁を越えられなくてイライラする。日常使われる言語には、民族の持つ文化や慣習といったものまで背負い込む。プログラムを書く時も同様に、プログラマは自然とプログラミング言語に沿って思考するところがある。そして、プログラミング言語の持つ文化や慣習といったものが思考の中に入り込む。したがって、システム構築にはプログラミング言語の選択も重要となろう。
ポール・グレアム氏は、著書「ハッカーと画家」の中で、「ハッカーというのは、言論の自由に対してものすごく執着するものなんだ。」と語った。仕事の要求が高ければ、より優れた言語を使うことで効率を上げたいと考えるだろう。だが、実際にはそれほど要求の高くない仕事がゴロゴロしている。よって、慣れ親しんだ言語を使ったり、流行を追いかけるのも悪い選択ではないだろう。言語は過去の資産や組織の政治力によって強要されることもあれば、言語には宗教のようなところがあって洗脳されるケースもあって、純粋に言語選択といっても難しいものがある。多くの言語に触れなければ的確な選択判断が難しいと同時に、一つの言語を深く使いこなさないと本質を理解できないというジレンマがある。したがって、酔っ払いには噂に流されることぐらいしかできない。
Rubyは、純度の高いオブジェクト指向言語として名高い。また、SmalltalkやLispの影響を受けた言語で、複雑なシステムを最小コストで構築する能力があると言われる。Rubyの古い謳い文句に「驚き最小の法則」というものがあるという。なるほど、その思想はシンプルである。数値や文字列、正規表現、入出力などすべてがオブジェクトで構成され、すべてのオブジェクトはメソッドを通して統一的に操作できる。
歴史的には、「より良いPerl」として受け入れられたそうな。Perlといえば、その自由さによって暗号文っぽくなりがちで、自分で書いたコードですら後で見るのが嫌になる。そんな酔っ払いが、Rubyを使えばスパゲッティコードから解放されるとは言い切れないだろうが。
また、「動く擬似コード」と評されることもあるらしい。ほとんどのプログラミング言語は、コンパイルのためのおまじないといった余分なコードが含まれる。その点、Rubyは本質的なコードのみを書くので解読しやすいという。そういえば、最近、数学書やアルゴリズム解説書で、Rubyで書かれたサンプルコードが付録されるのをよく見かける。これも、余計なおまじないがなく要所を押さえたコードということだろうか。
本書は、Rubyらしく考えることを主眼に置いている。言語を理解する上で、単なる文法法則だけを紹介されてもつまらない。言語の流儀や文化を知ることに意義がある。

ところで、オブジェクトとは何か?なんとなく目的を持って振舞う塊のようなもの。そして、多くの塊が協調しながら一つのシステムを形成する。こうした構造は、人間精神のメタファを感じる。精神には、一つの目的を持った意識のようなものが形成され、人間は多くの目的意識を見出しながら生きている。では、それぞれの意識は、何によって制御されたり操作されたりするのだろうか?そこには意志というメッセージが飛び込んでくる。これがメソッドだ。意志とは、石のような頑固な塊であって、それぞれが協調しながら妥協の中で目的を果たそうとする。その目的を持った意志が失われた時、精神は死んだり、精神病を患ったりする。目的を持った意志とは、欲望と解釈することができる。オブジェクトがデータ構造の管理を怠れば、メモリリークも起こす。そして、精神もパニックを起こし、犯罪を犯すことだってある。それが衝動ってやつか?こうした致命的なバグを言語仕様によって防ぐことができればありがたい。では、精神の衝動を抑える合理的な手立てはあるのだろうか?それが理性ってやつか?プログラミング言語の思想にも、危険な操作をすべてプログラマの良識に任せるか、すべて抑制するかという論争がある。ちなみに、Rubyの文化は前者のようだ。これも大人の世界ということだろうか。したがって、オブジェクトの構築には理性構築に通ずるものを感じる、のは気のせいか?

1. バージョン体系
MRI(Matz' Ruby Implementation)のバージョン体系は、"MAJOR.MINOR.TEENY"となっていて、MINORが偶数のバージョンが安定版で、奇数が開発版なのだそうな。ただし、1.9系統は変則で、TEENYが1以上のものが安定版で、0が開発版なのだそうだ。また、1.9系統は2.0系統の踏み台を意図しているという。なんとなく2.0に期待するのであった。

2. データ構造
Rubyは、だいたいにおいて定義が緩やかである。しかし、型変換では厳密な面を見せる。Perlのように、外部からの値を必要に応じて数値や文字列と勝手に判断して型変換をする言語は、あまり好まないのだが、Rubyの型定義の緩やかさの按配は酔っ払いの肌に合う。Rubyは、to_i, to_f, to_sなどの型変換メソッドを用意している。ちなみに、定数も変数でありオブジェクトである。ただし、定数を変更すると警告を発してくれる。
「Rubyは、すべてがオブジェクト構造をとるため、オブジェクトへの参照を別のオブジェクトへの参照へと対応付けるデータ構造をとる。」
といった表現がやたらとちりばめられる。なるほど、変数への代入は正確にはオブジェクトへの参照を代入していることになる。これは注目すべき性質であろう。例えば、以下のように動作する。
------------------
cattle = "yahoo"
animalx = cattle
animaly = cattle.dup # 複製メソッドで明示すれば分かりやすい
cattle[2] = ?p
p cattle # "yapoo"と表示
p animalx # "yapoo"と表示
p animaly # "yahoo"と表示
------------------
酔っ払いは、いかにもオブジェクト指向らしいこの性質に惹かれる。というのも、イテレータで書くと何をやっているかを明示できて、文章っぽくなるのがいい。
ところで、配列などでデータの範囲外にアクセスすると、他の言語では例外を起こすだろう。Rubyは、概して範囲外添字に対して寛容で、nilを返すだけである。この思想が良いか悪いかは、好みの分かれるところだろう。ちなみに、厳格に例外を発生させるfetchメソッドも用意されてる。
オブジェクトの占有するメモリは処理系が管理して解放するので、プログラマが管理に悩まされることはないという。ガベージコレクションが自動でメモリを解放するからである。だからといって、メモリリークが絶対に起こらないというわけでもないだろう。やたらと寿命の長い参照を作るコードが危険であるのは同じである。

3. 数値演算
多倍長整数をサポートしているので、桁あふれを心配せずに大きな数を扱うことができるという。Rubyの数値計算が遅いところは、少々気になるところである。それも1.9では大幅に改善されているそうな。言語によっては、32bitや64bit長という制限があるが、Rubyの整数型には制限がない。整数オブジェクトは、IntegerのサブクラスであるFixnumクラスとBignumクラスで実装される。Fixnumは固定長で実装される整数で、Bignumは多倍長で実装される整数で、これらのクラスを自動的に使い分ける。言うまでもなくFloatオブジェクトの実装はIEEE754に従っていて、その精度はシステムに依存する。IntegerクラスとFloatクラスの親クラスはNumericクラスである。
ちなみに、左辺が右辺よりも小さければ負の数を、等しければゼロを、大きければ正の数を返す比較演算子 <=> を、宇宙船演算子と呼ぶらしい。おいらには宇宙船の形には見えないが。
他に、数値演算に欠かせない複素数クラスや有理数クラスが提供されるのはありがたい。

4. 文字列
この手の言語で、正規表現などのunix流のテキスト処理は必須であろう。Rubyは、PerlやAwkといったシェルスクリプトを受け継ぐ。また、文字列操作のメソッドやイテレータが豊富なのも特徴である。1.9では、マルチバイト文字に対応した多言語テキスト処理をサポートする。マジックコメントは、emacsやvimにファイルのエンコーディングを知らせる方法を流用している。
Rubyには、文字クラスなるものが存在せず、マルチバイトのエンコーディングも含めて、すべてStringクラスで対応している。Rubyのライブラリ設計には、「大クラス主義」というものがあるらしい。むやみにクラスを増やしたり余計な階層化をしないという思想である。
正規表現は、1.8ではGNU regexを改造した独自のエンジンを利用していたが、1.9では「鬼車」というライブラリを採用して機能を強化しているという。
ところで、文字列とは別にシンボル(Symbol)という似通った概念がある。シンボルの特徴は、その唯一性と軽量性にあるという。文字列同士は内容が同じでも同一のオブジェクトとは限らない。対して、シンボルは内容が同値であれば同一のオブジェクトになるという。へー!オブジェクトが同一であるかを調べる場合、文字列よりもシンボルの方が高速に動作するという。シンボルは内容に対する唯一性を維持するので、文字列とは異なり変更不能(immutable)となる。このような性質はハッシュのキーなどに適していそうだ。

5. 入出力
しばしば、Rubyのクラスはunix文化に基づいていて、posixやシステムコールやC言語ライブラリ関数をオブジェクト指向でラップした形になっているという。IOクラスもその典型と言えよう。ファイルをオープンすると、ブロック付きメソッドによって自動的に閉じてくれる。こうしたライブラリがリソースを管理してくれるのはRubyの利点の一つである。リソースを手動で管理することもできるが、その時はcloseメソッドが必須となる。標準入出力やFILEやARGF以外にもIOオブジェクトがある。StringIOは、文字列に対してIOオブジェクトであるかのように振舞うラッパークラスである。1.9では、入出力も文字列と同様にエンコーディングを扱うことができるらしい。

6. 変数と式
Rubyの慣習で、変数名にcamelCaseやPascalStyleのような、大文字小文字で単語を区切るべきではなく、pascal_styleのようにアンダースコアで区切るべきだという。尚、クラス名のみは例外で、PascalStyleといった大文字小文字で名前を付けるらしい。
そういえば、Rubyには、インクリメント、デクリメント演算子がない。導入するかどうかという議論もあるらしいが、強力なイテレータがあるので不便を感じないということらしい。例えば、以下のようにやればいい。
0.upto(9){|i| puts i}
str = "Diogenes"; str.each_byte{|byte| puts byte}
多重代入で、a, b = b, a とやれば、値が交換できるのは便利。論理演算子は短絡評価にも使える。a || b は、aの値が真ならば、bの値を評価せずにaを返す。aの値が偽ならば、bの値を評価する。同様に、a && b は、aの値が偽ならば、bの値を評価しない。
ifやwhileなどの制御文は、Rubyでは値を返す式なので制御式と呼ぶそうな。ちなみに、ループ系の制御式は、loop, times, uptoなどのイテレータを使うとコンパクトに書ける。

7. メソッド
あらゆるオブジェクトにselfが存在する。C++やJavaのthisのようなものである。デフォルトのレシーバがselfなので、クラス内では省略できる。配列では、sortやuniqなどのメソッドが提供される。uniqは重複する要素を排除するメソッドで、元の配列を破壊しない新たな配列を生成する。対して、uniq!は破壊的メソッドとなり、元の配列から重複要素を削除する。一般的に破壊的メソッドは、末尾に!を付ける慣習があるようだ。
非オブジェクト指向的なメソッドに関数メソッドがある。厳密に言えば、どこかのオブジェクトに属するので、Rubyには純粋な意味での関数は存在しないようだ。つまり、トップレベルのメソッドである。
値を返す時は、returnを用いることができるが、省略すれば、メソッドの末尾の式の値が返される。ただし、多値を返すにはreturnが必須。ちなみに、void関数のような値を返さないメソッドは存在しない。神経質なプログラマは、意味のない値を返すよりも、意図されないようにnilを返すように書くらしい。
メソッドによっては、ブロック付きで動作させたい場合がある。ブロック付きメソッドを定義する時は、yieldを利用する。

8. クラスとモジュール
クラス名は大文字で始まる識別子でなければならないという。これはクラス名が定数名でもあるからだそうな。クラス定義の変更を禁止したい時は、freezeメソッドを使用すればいい。ちなみに、組み込みクラスを含む重要なクラスでも、初期状態ではfreezeされていないという。プログラマの良識に委ねているということか。
モジュールはクラスと似ているが、「インスタンス化できないクラス」のようなものだという。ClassはModuleのサブクラスである。モジュールの特徴はMix-inと名前空間にあるという。Mix-inは、制限された多重継承で、そのイメージはトッピングのような意味あいだろうか。ArrayやHashクラスには、EnumerableモジュールがMix-inされるので、その関係のイテレータが自由に利用できる。クラスにComparableモジュールをMix-inすれば、比較機能を自由に利用できる。

9. その他
gdb風のデバッガが標準に装備される。
$ ruby -rdebug hello.rb
pという信じられない短いメソッドがある。これはデバッグに用いられるメソッドでirbと共に重宝されるが、デバッグや学習、コードゴルフ以外に用いるのは行儀が悪いという。おいらは、このメソッドに病み付きだ。
RubyGemsはパッケージ管理システムで、インストール可能なパッケージの一覧などを参照できる。RubyGemsには、Ruby/GD2などの画像ライブラリやネットワークライブラリもある。
wxrubyは、クラスプラットフォームなGUIツールキットwxWidgetsをRubyから利用するためのライブラリである。