2009-05-31

"文章は接続詞で決まる" 石黒圭 著

本屋を散歩していると、本書を無意識に手に取っていた。ブログを公開するからには、少しは日本語の勉強をやるべきではないか、そうした潜在意識が薄っすらとあるのかもしれない。おいらの作文オンチは今に始まったことではない。学生時代、国語の成績では学年で最下位を争っていた。いや、断然ドベ!卒業できたのも、先生の温情によるものだった。その頃から、文章を書くことに劣等感がある。文法や技法といったものをまったく知らないし、そんな面倒なものは意識したくもない。昔から、技術論文を書くことはよくあるが、形式ばっていて好きにはなれない。技術文書では客観性が強調される。だが、真の客観性に拘れば、数学の公理のような表現しかできないはずだ。所詮、業界の慣習に従った共通認識で記述されるだけのことで、言わば主観の多数決に支配される。人間社会における客観性と呼ばれるものは、ほとんどがこの呪縛に嵌っているように映る。ならば、いっそ主観性を曝け出してもええんでないかい!そう考えるようになって、いつのまにか文章を書くことに恥じらいがなくなった。おかげで、技術文書ですら冗談を忍ばせないと気が済まなくなった。悪い癖がついたものである。もともと文章を書くこと自体は嫌いではない。酒を飲みながら気ままに綴る分には、むしろ気分がいい。したがって、まとまりのない長い文章となる。おまけに、千鳥足で綴るために、いつもわき道へ逸れ、もはや表通りがどこにあるのかも分からない。アル中ハイマーは、しつこい前戯が大好きなのだ!もちろん、本番もしつこい!

一般的には、言語は何かを伝達する手段であろう。おいらは主に精神を解放する手段としたい。とはいっても、精神を言語で記述するには限界がある。人間精神が、精神の本性を解明できないのに、言語体系で精神を言い尽くせるはずもない。人間は、精神の実存すら明確に説明できないでいる。そこで、哲学では奇妙な現象が現れる。一語多義的とでも言おうか、そこに一貫性があるのかも疑いたくなる。おまけに、作者独自の用語まで登場して、無理やり難解な文章を生み出しているかのようだ。にもかかわらず、なんとなく崇高な気分にさせるのも、そこに真理という味付けがあるからであろう。したがって、哲学は一般的に文学と化すはずだ。
その一方で、文学者は巧みな技法で芸術性をひけらかす。これは、自らの精神を曝け出した結果であり、文学作品に作者の哲学が宿るのも道理というものである。自らの精神を表現するには、自らの精神をどこか冷めた領域から眺めなければならない。したがって、文学者は一般的に多重人格者になるはずだ。
哲学や文学の世界では、技法を無視した芸術性を顕にする。だから、意表をついて感動や癒しの空間を与えてくれるのだろう。だが、レベルの高すぎる技法は読者を困惑させる。言語は、意志を伝達する道具でもある。平気で独自の用語を持ち出されても、共通認識がなければ読者は理解できない。そこで、芸術家は絶妙なさじ加減で仕掛けてくる。彼らは、言語体系という制約の中で巧みに鑑賞者の精神を揺さぶる。ゲーテ曰く、「制約の中にのみ、巨匠の技が露になる。」文法や技巧を習得したところで、精神を自由に解放できるわけではない。流派があるとすれば、それは芸術家の数だけあってもいい。

文章は、一般的に読み手のためにあるのだろう。しかし、あえて書き手のためにあると解釈したい。酔っ払いは我儘なのだ。その中で接続詞は、複雑な文章構造を整理する役割があり、書き手の思考の混乱を防いでくれる。文章は書き手の論理に支配され、自分の文章を第三者の目で読むことは難しい。したがって、読み手の視点からモニタできる人が優れた書き手ということになろう。論文やレポートなどで接続詞は欠かせない。
ところが、本書は、小説家は接続詞を嫌う傾向があるという。小説家は接続詞を巧みに使う印象があるが、頻度が少なくても効果的に使って印象付けるのかもしれない。夏目漱石にいたっては、「それから」という接続詞をタイトルにする作品すらある。接続詞には不思議な魔力があって、「そして...」と一言で終わるだけで、物語の終結に意味ありげなものを思わせる。接続詞は客観的で論理的なものと思われがちだが、本書は主観的で感情的な面を見せてくれる。

偉大な作家たちは、人々を魅了する文章をどのように創作するのだろうか?それは、彼らの中から自然と生まれる感性としか言いようがない。形式的に言葉を並べたところで、感動できるフレーズが現れるはずもない。意外なことに本書は、作家たちの意識で、まず第一に気を使うのが接続詞だという。ただ、専門家の間でも、接続詞に特化して研究されるケースが少ないのだそうな。確かに、接続詞は文章とは直接かかわりがない。動詞や助詞に比べても論理的な意味合いが薄く、地味な分野と言えそうだ。品詞には、動詞、名詞、形容詞、連体詞といったものがあるが、接続詞の位置付けは特異なようだ。一文をはみ出して文と文を結びつけるような品詞は想定されていないので、副詞として処理せざるを得ないという。だが、副詞と接続詞の境界線も微妙である。「そして」や「しかし」といった、明らかに判別できるものもあれば、文章の流れの中で結果的に接続詞の役割を果たすものもある。その機能も、文脈の繋がりをなめらかにしたり、重要な情報を強調したり、思考を誘導したり、構成を整理したりと様々。接続詞は、文と文を結びつけるだけでは飽き足らず、語と語、句と句、節と節、段落と段落など、あらゆるものを結びつけようとしやがる。まるで男女の関係を取り持つかのように、どこにでもお節介な奴はいるものだ。また、個性もまちまちで、短い要素を繋ぐのが得意なタイプと、長い要素を繋ぐのが得意なタイプがある。中には、離別させるのが得意なタイプがあるかもしれない。

文章を書くことはプログラムを書くことに通ずるものを感じる。テキストを書くという意味では同じだ。おいらは、文章を書く時、まず箇条書きで要点を抽出する。そもそも文章の基本は箇条書きだと思っている。これは、プログラムの仕様検討中に、実現すべき機能の抽出と似ている。また、プログラムモジュールを構成する時に、抽象化の概念を用いて立体的な感覚で階層化する。同じように文章を構成する時でも、抽象化と階層化の思考が働く。言わば、プログラムも文章も複雑系にあると言っていい。複雑系を解析するには、抽象化手法が有効であり、数学や科学の難問解決でも見られる。物事の本質を探究しようとしてきた人類の歴史は、抽象化の歴史と言ってもいいだろう。本書も、文脈と文脈、あるいは、文章構造と文章構造を結びつけるには、立体的な感覚が必要であると語る。この結びつけの役割を果たすのが接続詞である。接続詞には、上位から下位への移行を予告する役目があるという。そこには、構造化された巧みな思惑のもとに、読み手を誘導する用法が隠される。文章構造全体を視野に入れ、話題の分岐点を示したり、読み手の連想を助けたりする。あわよくば、論理性の高い文脈に装うこともできる。決して行き当たりばったりで使うものではないようだ。読みやすい文章は上位構造から下位構造へと整理される。なるほど、アル中ハイマーの文章は支離滅裂でスパゲッティプログラムなわけだ。どおりで、文章に酔うと「君に酔ってんだよ!」と囁きながら、ゲロ(core)を吐くわけだ。

1. 接続詞の定義
接続詞の一般的な定義は、文頭に位置して、直前の文章と論理的に繋ぐための表現といったところであろう。これに対して本書の定義は、独立した先行文脈の内容を受けなおし、後続文脈の展開の方向性を示す表現としている。そして、接続詞は、論理学のような客観性よりも、むしろ、人間的で主観性の領域にあるという。著者は、こうした理由から、学校の試験問題で接続詞を選択させる問題を好まないと言っている。
「接続詞の論理は、論理のための論理ではなく、人のための論理なのです。」
言語は、論理的命題を明確にすることが目的ではなく、コミュニケーション可能であることに注目すべきだと主張している。なるほど、解釈の論理は、個人によって様々である。機械的に処理することを前提とした文法論では、人間の持つ解釈を説明できないのも確かであろう。

2. 接続詞の二重使用
本書は意外な手法を紹介してくれる。接続詞の二重使用である。「しかし、だからといって」、「そして、また」、「しかし、一方」など。ここで、中学時代の嫌な記憶がリフレッシュされる。「そして、また」を使って作文すると、国語の先生にこれは日本語ではないと指摘された。しかも、作文の悪例として、皆の前で読まれ思いっきり馬鹿にされた。感情を表すのに、形式化によって抑圧される学問なんて、好きになれるわけがない。以来、国語の成績を運命付けられることになる。こんな記憶素子はそのまま死んでほしかったが、余計な素子ほど長生きするものだ。ところが、その例がここで紹介されるのはうれしい。この一見無駄に見える二重使用は、似た意味の接続詞を重ねることで意味の限定や補足、異なる意味の接続詞を重ねることで複数解釈を提示、指定する範囲の異なる接続詞を重ねることで重層的構造の提示、といった機能を担うという。

3. 芸術性
詩的な文章は、音律のリズムが良く文字数も美しいので、接続詞がなくてもなめらかである。そこに芸術性を感じるのも自然であろう。ところが、文学作品にはわざわざ読み辛くしているかのような技法も現れる。それが、不思議なことに芸術性を高める。人間は、ちょっと難しそうに見えるものに惹かれるのかもしれない。芸術は形式的なものからは生まれないと信じてはいるものの、やはり芸術度の解釈は難しい。書き手は、しばしば読み手も同じ視線で解釈するだろうと勝手に思い込む。しかし、人間の立場によっては、楽観的な文脈も悲観的に伝わることがある。その立場の違いは、接続詞の持つ意味すら変えてしまう。そうなると、接続詞を省いた方が純粋な情報として伝わるだろう。理解を助けようとしたがために、逆に理解を阻害することにもなる。結局、これが正解という形式化された用法は存在しないということか。

4. テクニカル・ライティング
通常、文章を先に書いて、それを繋ぐために接続詞を埋めると考えるだろう。ただ、本書はその逆を提案している。まず、接続詞を置いて、その間に文章を埋めれば、骨組みがしっかりして、読みやすい文章になるという。なるほど、これはプログラムで使う発想である。
他にも具体的な方法として、欧米由来の作文技術「テクニカル・ライティング」を紹介している。それによると、第一に段落が重要で、一つの段落には一つの考えを述べる。第二に、その段落の内容を端的に述べる中心文(トピック・センテンス)を一文含む。第三に、書き手の言いたい内容は先に述べるように心がけ、中心文は原則として段落の冒頭に置く。という三点が重視されるという。
これが万能な手法かどうかは別として、文章を書くのが苦手な酔っ払いには参考になる。しかし、中心文がどれか?を書いている本人が判断できないから困ったものだ。したがって、何が言いたいかを読者に委ねたい。酔っ払いは他力本願なのだ。その証拠に、いつも行付けの店からお迎えがやって来る。

2009-05-24

"プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神" Max Weber 著

人間は、近視眼的な利害関係に基づいて行動することが多い。その一方で、歴史で育まれた理念や思想といったものが、しばしば行動を動機付ける。奉仕や援助、あるいは名誉や評判なども利害関係で説明できる。人生の目標が金儲けだけではなく、精神の追及といった哲学的動機も現れる。自らの不幸な境遇から、人道的に目覚める人もいるだろう。空虚な浪費に命をかける人もいれば、根拠のない未来のために貯蓄に生き甲斐を持つ人もいる。身近の幸せよりも、将来の幸せを夢みて投資する人もいる。なにがなんでも長生きしたいと思う人もいれば、短い人生を謳歌しようとする人もいる。こうした動機は、その人の理念に裏付けられた利害関係で説明できるが、その多様性には限りがない。
著者マックス・ヴェーバーは、そうした社会学的な観点から経済学を眺めている。アル中ハイマーは、ずーっと経済学は胡散臭いと思っていたが、今宵は経済学にも素晴らしい遺伝子があることを知って感動している。本書をなんとなく手に取ってみたのは、森嶋通夫氏がその著書「思想としての近代経済学」で、ヴェーバーについて熱く語っていたからである。ヴェーバーは、営利追求を敵視するピューリタニズムの経済倫理が、実は近代資本主義に大きく貢献したと主張する。そこには、比較宗教社会学から迫った論究が展開される。本書の訳者大塚久雄氏は、ヴェーバーの考えの根底を次のように記している。
「近代資本主義の発展は、資本主義に徹底的に反する経済思想が公然と支配してきたような、そういう地域でなければありえなかった。」
本書は、間違いなく経済学の歴史的名著であろう。

ヴェーバーが、近代資本主義の源流を宗教的観点から、切り崩しにかかったのは、大きな貢献と言える。今日の多くの経済学者ですら、目の前の経済現象を観察することぐらいしかやらないのだから。本書は、その源流を宗教改革に求め、資本主義が隆起した時代背景を物語る。ヴェーバーは、ルターを始めとし、特にカルヴァン派にその源流があると主張する。宗教改革以前、西欧では宗教が個人形成に大きくかかわり、現在では想像もできないほどの影響力があった。霊的司祭や教会規律といった教説による聖職者の感化が強かった時代である。こうした背景において、宗教心理に着目して人間の行動様式を考察するのも悪くない。人間の行動様式は慣習に深くかかわる。人間にとって重要なのは「生き方」であろう。「生き方」の信念を、宗教や哲学、あるいは、独自の思想など、何を拠り所にするかは様々である。無宗教者であっても「生き方」という信念を持っている。宗教は「生き方」を説く一つの手段に過ぎない。したがって、本書の意義は、宗教というよりも人間の慣習として資本主義を捉えようとしたと解釈したい。人間は宗教に頼らなくても何かを信仰できる。その執念が仕事への動機ともなろう。そこには、匠の世界、洗練された世界といったものが現れる。仕事に夢中になり精神がフロー状態になった時に、一種の心地良い領域へと導かれる。無我の境地とでも言おうか、精神が無と化した崇高な感覚がある。すべてを、無とした時、人間は超人的な能力を発揮することがある。そして、信仰が無と化した時、精神は崇高な概念へ導かれるのかもしれない。

本書は、資本主義の精神を生んだのは、プロテスタンティズムの禁欲的精神にあると主張する。しかし、宗教改革や禁欲的な精神が資本主義を意図していたわけではないので、資本主義を促進する役割を果たしたに過ぎないとも言っている。なんとも奇妙な説である。資本主義は利潤追求の営みとして成り立つのであって、利潤追求がなくなれば資本主義は成り立たない。多くの人は、商業の担い手が営利精神を動機付け、営利原理が社会に浸透した結果、資本主義が生まれたと考えるだろう。ここで言う禁欲とは、修行僧のような消極的な禁欲ではなく、むしろ積極的な行動である。それは、パウロの「働かざるもの食うべからず」に象徴される。つまり、ひたすら天職を全うし、勤勉によって他の物欲を抑制するということである。この禁欲を世俗的に広めたのが、キリスト教の中でもプロテスタンティズム特有のものであるという。ヴェーバーの歴史観では、中国やインド、ギリシヤやローマでは、キリスト教的な商業に対する倫理規定はなく、むしろ、はるかに自由だったという。中国にいたっては、公然と儲け話を語り、商人根性丸出しであっても、社会的反感などは見られない。こうした遺伝子は、現在においてもIT情報開示制度で見られる設計情報を開示しないと中国では商売させないといった露骨な政策にも引き継がれているような気がする。ヴェーバーは、こうした土壌では近代資本主義の兆候が見られないが、逆にアメリカやイギリスといった禁欲的なプロテスタンティズムの地域で近代資本主義が根付いたと分析している。しかも、カトリック系には見られない現象だという。プロテスタンティズムには、実業家の暴利を最大の悪事であるとする倫理観が根強くあるらしい。人間は神の恩恵によって与えられた財貨の管理者に過ぎず、財貨の報告義務があると考える。したがって、帳簿の誤魔化しは大罪となる。これは、西欧式の契約や、西欧式の会計基準や複式簿記などで受け継がれるように思える。現在では情報の透明性といったところだろうか。だが、現在ではこうした国々で貧富の格差が大きいのも皮肉な結果と言えよう。日本にも禁欲や勤勉を美徳とする文化があり、似たような土壌がある。だが、会計基準などに透明性を欠く体質が見られるのも、真の意味での資本主義が浸透しているとは思えない。

通常、資本主義を語る時は企業家の精神を議論することが多い。だが、ヴェーバーの特徴で注目すべきは、企業家だろうが労働者だろうが、人格形成を対象としているところである。そもそも、企業家と労働者で、資本主義の精神を分けて議論すること自体が、人間の精神の本質を無視しているだろう。人間が労働する真の目的とは何か?この問題と正面から対峙すれば、誰かの命令で行動するにしても、責任のなすり合いなど起こるはずがない。安定した経済システムを継続するには、職業的倫理観を無視することなどできない。しかし、現実には、企業が長期間に渡って規範から外れ、世間から抹殺される現象がある。職業的観念を無視し顧客への責任を果たせず、しかも、従業員を失業へ追い込み労働機会をも奪う。ヴェーバーは最後に次の言葉で、本書を締めくくる。
「文化発展の最後に現れる末人たちにとっては、次の言葉が真理となるのではなかろうか。精神の無い専門人、心情の無い享楽人。この無の者は、人間性のかつて達したことのない段階にまで、すでに登りつめたと自惚れるだろうと。」
現在では、「神の見えざる御手」に代表される自由放任派と、ピラミッド造りさえ容認し公共事業の重要性を訴えるケインズ派が対立する。もっとも、日本の公共事業は、バラマキ政治を助長し、ピラミッドよりも悪質な公共施設が乱れ建つわけだが。いずれにせよ、資本主義の精神を無視した論争が繰り返される。歴史は、資本主義の発達によって、人間を富ませてきた。富は人間を盲目にするのか?経済学は、むしろ退化してないか?「経済学を勉強すれば利己的になる」という仮説すらある。個人財産を増やすために、物欲や拝金主義と向かい合う。そして、究極の目標は富裕となるだろう。実際に、財貨獲得に熱を帯びる一方で、巨大な富を持ちながら、簡素な生活に甘んじている人もいる。いつの時代でも、投機的指向と、労働生産による蓄財という考えが共存する。植民地支配で搾取する一方で、産業革命のような労働生産力で席巻する様式が現れる。あらゆる対立構図をバランスさせる社会システムを構築することは難しい。神はなんと難しい問題を人類に課すことか。

本書は、近代の企業家が、労働者から可能な限り、その労働力を搾取することが、優秀な経営者とされる考えに異論を唱える。企業家は、常に生産効率を追求する。だが、目先の利潤だけが利益ではない。労働者の叡智を養うのも組織の利益となる。労働者側も、賃金だけが収入ではない。労働意欲を誘導する体質と、その達成感や充実感も収入である。本書は、資本主義が発展する上で障害となるのは、倫理の衣をまとった伝統主義であるという。ここで言う伝統主義とは、ひたすら昔からの慣例に従い脳死状態になることであって、守るべき良い慣例を無視することではない。銀行業務や海外貿易は、伝統的性格の下で独占と統制によって成り立ってきた歴史があるという。資本主義が発展する上で、重要な要素は革新的態度であろう。伝統的な慣例の良さを実感するためにも、常に革新的態度で検証し続ける必要がある。

1. ルターに始まってカルヴァンへ
職業を意味するドイツ語の「beruf」は、神から与えられた使命といった宗教的観念がこめられているという。この言葉は、ゲルマン民族に関係するものではなく、聖書の翻訳に由来するという。しかし、カトリックには、これと同じ語調の表現を見出すことができないらしい。カトリック教会が命令と勧告とで支配するのに対して、プロテスタントは職業が天職として道徳性を高めると考える。ただ、ルターが資本主義の精神を持っていたとも思えないし、高利貸と利子取得を批難する立場であったことは、ヴェーバーも認めている。そもそも、宗教改革の目的が資本主義にあったわけではない。ルターの思想は、単に聖書に立ち返っただけとした説も多い。歴史家ランケの著書「世界史の流れ」でも、そのように記されていた。だが、ここではやや意外なことが語らえる。それは、聖書はむしろ伝統主義にとって有利であり、道徳重視などとは全く書かれていないという。これは、明らかにルターの影響で、宗教改革の産物だという。ただ、神の御心に立ち返るという意味では、カトリック教会を激しく批判する立場であることは間違いないようだ。ルターの評価も、歴史家によって微妙な解釈の違いが見られるのも興味深い。ルターの思想には、人間の謙遜的立場がある。地上の正義という尺度によって、神の導きを押し量ろうなどは、恐れ多いことだ。そうなると、牧師の存在意義ってなんだ?単なる宗教評論家か?世間には、神の意志を継ぐと自称する人間があまりにも多い。結局、抗争の中でルターの新思想は阻止された。そして、実質的に功績を残したのはカルヴァン派ということになる。カルヴァン派の思想は、当然カトリックと対立するが、ルター派とも性質が違うという。天職理念を基礎付けたのは、カルヴァン派に始まるピューリタニズムで、クロムウェルのピューリタン革命だという。

2. 富とは、労働とは、仕事とは
資本主義とは、富を追求することだと考える人が多いだろう。では、富とは何か?プロテスタンティズムでは、功利主義を世俗的なものにし、富を道徳的完成のために使うという。経済的余裕は、精神を落ち着かせ、読書したり芸術に浸るなどの環境作りにも役立つ。このような人格形成のために富を使うことが、富の本質なのかもしれない。ここでは、富を悪とする理由を、そこから怠惰が生まれ、肉欲や物欲に走るからとしている。人々は金儲けのために、生活のために労働する。そして、ひたすら労働に励めば蓄財できる。禁欲すれば、更に蓄財することになる。なにも富裕自体が悪というわけではない。
では、労働とは何か?プロテスタンティズムでは、神から授かった天職だと考える。これはカルヴァン派の「予定説」から派生している。神が、一部の人々を永遠の生命に運命付け、その他の人々を永遠の死滅に運命付ける。その神の恩恵が受けられる人間が、誰であるかなど分かるはずもない。人間がどんなに神に尽くしたところで、人間の行為によって神の意志を変えることができるなどと考えるのは、神を冒涜することである。ただ、ひたすら神の栄光を讃えるのみ。その手段が社会的な労働であると考える。
では、仕事とは何か?詐欺行為までして働くことに意味があるのか?そこで隣人愛という倫理観が浮上する。人を陥れるような仕事は天職ではないが、労働者の意志に反して、結果的にくだらない仕事に付き合わされることはある。本書は、個人が仕事の定義をしっかりと持つことこそ肝要であると語る。これは、誰が言ったか?「お客様は神様です」といった論理にも通ずるものを感じる。多くの人にとって労働は、倫理的義務というよりは、自然目的で生活に必要だから働く。その中に犯罪行為も現れる。まさしく経済倫理のジレンマはここにある。利息生活者や年金生活者であっても、仕事を見つけることはできる。それは金儲けに拘らなければ、個人的な活動は方々に開かれている。人類の実益のために働くという思想が、カルヴァニズムにおける倫理の功利主義といったところであろう。「予定説」という人間には結果の知る由もない思想が、素朴な勤労意志に向かわせる。人間には、結論の見つからないものに素朴で夢中になる習性がある。この素朴な精神が科学を発展させたとも言えよう。カルヴァニズムは、労働の地位を義務へ強化したと見てとれる。なるほど、しばしば仕事が救いを与えてくれるのを感じることがある。独立で事業をやっていると、仕事が満遍なく入るわけではない。よって収入も安定しない。忙し過ぎるのも精神に不安定をもたらすが、仕事がないと不安感に襲われ、何かしていないと落ち着かない。暇な時には、勉強に心の安穏を求めることがある。そして、金にならない仕事を無理やり見つける。生活に不安を抱えるということは、精神を勤勉に向かわせる機会を与えているのかもしれない。アル中ハイマー曰く、「怠惰を求めて、勤勉になる。」

3. 世俗的禁欲
ピューリタンの紳士とは、平静で寡黙な態度で、現在においても西欧紳士として受け継がれる。それは、謙遜と敬虔な心を理想としているのだろう。高僧や役人たちのとり乱した怒号や罵りあいといった態度は軽蔑され、自己抑制された態度は尊敬される。したがって、概して政治報道はR-18指定するがよかろう。
ピューリタニズムの禁欲は、合理的な禁欲で、一時的な感情を抑制し、持続的な動機を固守することだという。そして、本能的な享楽を絶滅することを課題とし、秩序ある生活態度を目標にするという。この考えは、カトリックでもカルヴァン派でも一様に見られる傾向である。だが、カルヴァン派には福音的勧告がなくなり、禁欲が純粋に世俗的なものに変わったという。特に、カトリック教会による免罪符の販売は、世俗的に広めるのを妨げた。カトリックでは、宗教的な道徳は高貴な地位にあり、修道士のみに限られるという。これは、一種のエリート意識の誇張で、縄張りのような感覚であろう。こうした傾向は、宗教に限らずエリート組織には一様に見られる。ルターは、この世俗的禁欲こそ重要だと考え、修道士と庶民の区別を無くそうとし、プロテスタンティズムは全人類の人格を掌握しようとしたという。これは、精神に自己審査や自己規制を形成するのであって、修道院的な教団組織へ導くような強制的で共産主義的な性質とは全く違う。禁欲を世俗的に広めることこそ、社会形成に必要だという思想である。とはいえ、欧米には、民族間で搾取しあう凄まじい闘争の歴史がある。資本主義の継続的繁栄には、自己抑制、世俗的禁欲、勤勉、利潤追求などをバランスする必要があるということだろう。そこには、敬虔的な発展とでも言おうか、言葉では表現の難しい微妙な概念がある。カルヴァン派の影響は、営利を求めるエネルギーを自由の概念に解放させたという。

4. 資本主義の精神と合理性
道徳の緩みや、成金的な見栄は、禁欲にとって嫌悪される。その一方で、市民的に目覚め、自力独行する人は、倫理的に賞賛される。階級社会を嫌悪し、産業を市民階級に広める経済活動は、良い傾向であろう。そこで見られる現象には、市民的な運営と、労働の合理的組織がある。これに対して、ユダヤ教的資本主義は賤民による政治介入、あるいは投機を指向する冒険商人の資本主義であるという。同じ資本主義でありながら、こうした立場の微妙な違いは、投機と労働生産を対立させるように、現在においても受け継がれる。人間は神の財産を管理する召使であり、営利機械として財産に奉仕するということは、不断の労働によって財産構築に励むということになり、財産を増やす責任があると考える。これが、禁欲的プロテスタンティズムから派生する資本主義の精神だという。財産に無頓着な享楽を批難し、必要以上の贅沢を嫌いながら、その反面、財の私有を伝統主義から解放し、利潤追求を合法化したばかりか、それを神の意志とする。そして、肉欲や物欲の執着といった非合理的な財貨の使い方を排斥すべきであると考える。ピューリタニズムの人生観は、市民的な、経済的に合理的な生活態度へ向かう傾向であり、単なる資本形成の促進などではない。しかし、人間の本能は富の誘惑に無力だ。資本主義の高度な発達が格差を助長することは、資産による階級制度の構築であって、いわば階級社会という旧態社会への逆戻りと見ることができる。階級はなぜ生じるのか?その根底には、収入の格差、財産の格差、権力の格差、能力の格差、認識の格差と様々な要因が潜む。人間の本能である嫉妬心は善にも悪にも働く。ライバル意識、競争意識が経済を発展させ、人間を成長させるのも事実である。したがって、格差を全面否定することはできない。ただ、政治的な恣意による格差には抵抗がある。真の金持ちというのは、くだらない見栄を張らず、勤勉に励むものなのだろう。だから、より巨大な財産が築けるのかもしれない。だが、富を増したり、権力を増すところには、もはや精神の信仰は薄れていくように映る。投機指向で生まれた財産は、精神的財産を奪い、総合的に得られる財産という意味では大して変わらないのかもしれない。ヴェーバーの時代で勝利した資本主義には、もはや禁欲の精神は必要ないかのようだ。ヴェーバーは、営利の最も自由なアメリカでは、すでに倫理的な意味は無くなり、純粋な競争の感情に支配されていると指摘している。もはや、企業活動はスポーツ感覚であるとさえ述べている。だが、いずれ資本主義の行き詰まりによって、プロテスタンティズムによって隆起した資本主義の精神が、呼び戻されるかもしれない。いや、そのまま化石となる運命かも?

2009-05-17

"思想としての近代経済学" 森嶋通夫 著

アメリカでは「too big to fail」という言葉が流行っているらしい。つまり、でかすぎて潰せないってことである。企業の巨大化によって公的資金が流入するのであれば、もはや国営化と同じだ。人間が社会の疎外を問題にしはじめた時代、小企業が大企業に吸収されながら更に巨大化し、英雄的企業はいずれなくなるだろうと予測された。やがて、巨大企業内にできる官僚的な経営者によって革新が止まる。巨大な企業では、工場や従業員を把握することができなくなり、実体すら掴めなくなる。その所有者は何を所有しているのかも実感できなくなる。かつては、私有財産に愛着を持ち、企業や仕事に情熱を持って資本主義は発展してきた。しかし、巨大企業下では、所有そのものに魅力がなくなるのかもしれない。そして、私有財産の概念を崩壊させるのだろうか?資本主義を維持するためには革新が必要である。創造と破壊の共存は、人間社会の原理において本質なのかもしれない。

経済学というと、ずーっと前から胡散臭いイメージしかなかったが、本書はその認識を多少なりと変えてくれる。それにしても、この本に辿り付くまでに随分と道草をしたものだ。科学的な解析が要求される分野にもかかわらず、数学が必須でないことも胡散臭さを助長させる。また、新古典派とケインズ学派の対立が、大して政策の変わらない政治家同士の罵りあいに似たものを感じる。相変わらず、自由放任派とばらまき派は論争を繰り返す。近年でこそ、社会学をも含めた統合的な立場の学者が少なからず現れているが、それでもマスコミなどで露出される経済評論家ほど野暮ったいものはない。政治論争の目的が、社会を良くすることではなく選挙にあるから、それを尻目に官僚は悠々とできる。では経済論争の目的とは何か?経済学者の威信を保つためのものか?経済学者は株価の予想が当たると誇張する習性があるようだ。まるで予言者であるかのように。人間は必ずしも論理的に行動するとは限らない。ほとんどの意思決定は、衝動的で感情的になされる。全ての行動規範を効用分析や利潤分析だけで説明できるはずもない。人の行動論理は個人の中にある。買収行為にしても、利潤がなくても競争相手を一つ消すことによって、自らの安泰を図るという論理が働く。憎しみや恐怖心といった感情によって買収することすらある。逆に、利益があると分かっていても、経営者に興味がなければ買収しない。経済活動が合理的で論理的になされるならば、人間社会は単純な仕組みとなろう。結局、経済活動は評論家の後付けで説明されるわけだ。経済学はイデオロギー論争で迷走する。この学問は、人間の行動や社会システムを相手どった破壊のカオスの中にある。無謀な形式化よりは迷走していることを認識できる方が、まだましである。この複雑系を一つのイデオロギーで説明できるとは到底思えないのだから。

どんな学問でも、歴史背景から生まれた思想や哲学がある。その中で、一時的に外れた理論が登場するのも、試行錯誤の中で生まれるだけのことであり、目くじらを立てることもない。先人達の失敗があるから、洗練された理論が構築できるというものだ。ところが経済学の書籍を探すのに、思想や哲学に踏み込んだ本を見つけるのが意外と難しい。それも、名著が少ないわけではなく、あまりにもノイズが多いためであろう。しかし、一つ出会えれば参考文献から辿ることができる。経済学者の思想を自分なりに解釈するには、原書を読むのが一番である。しかし、おいらは経済学の専門家でもなければ、専攻したこともない。そんなド素人が、経済学の著作を読みあさるのも面倒である。よって、本書の存在意義は大きい。お陰で、やっと経済学が歴史や哲学と結びつきそうな気がする。著者森嶋通夫氏を知ったのは、小室直樹氏の著書「経済学をめぐる巨匠たち」の中で、日本で最もノーベル経済学賞に近い人物として紹介されるのを見かけたからである。そう言えば、経済大国と言われる日本でノーベル賞級の経済学者が一人もいないというのは不思議である。

本書は、NHK教育テレビ「人間大学」講座をもとに大幅に拡充したものだという。そして、経済学はどのような価値観や社会像から形成されたのか、経済理論に潜む思想やビジョンを語ってくれる。その対象は、リカードに始まりケインズの登場によって終わる「セイの法則」の時代に登場した11人の経済学者である。いわゆる、新古典派からケインズへ移るあたりまで。その人選は著者の好みによる。ただし、生存者は選考外にしたという。
「セイの法則」とは、お決まりの「供給が需要をつくりだす」という思想である。生産しただけ物が売れるとした考えは、資本主義の勢いづいた過渡期ではあり得る。リカードは軽率にも「セイの法則」に則ったが、それが誤っていると多くの経済学者に批難された。ところが、その指摘した彼らも、この法則がどの範囲で害を及ぼすかを知らなかったために、意識では排除しながらも、他方では無意識に仮定するという矛盾を犯したという。マルクスは「セイの法則」を激しく批判しながら、「再生産表式」ではこれを前提にしたという。ワルラス、シュンペーター、ヒックス、ヴィクセルらも、どこかの段階で「セイの法則」を前提にしているという。この法則がもたらした最悪なものは、完全競争経済では完全雇用が成り立ち、「神のみえざる御手」の摂理が、この世を裕福にすることを立証してしまったことであろう。本書は、その結果、自由放任派を勢いづけ、マルクス主義を抹殺してしまったのは不幸な出来事であると語る。そして、この自由放任派が、一部の人に近代経済学の如き錯覚を与えてしまったことを嘆いている。
また、「セイの法則」を掘り下げて、「耐久財のジレンマ」の問題を取り上げている。これは、あらゆる耐久財の純収益が利子率に等しいという条件を持ち込む時に問題になるという。価格の仕組みでは、需給の関係によって価格が変動する市場と、価格が固定される市場に大別できる。とはいっても、現実の経済では市場は一様ではなく、また取引される財も一様ではない。財は耐久財と消耗財に分類でき、消耗財は腐敗財と非腐敗財に分類できるが、技術の進歩にともないその分類も変わってくる。使い捨ての消耗財は腐敗財となるが、それが再利用されれば非腐敗財に変わる。技術革新によって、市場のタイプや財の分類は流動的なものとなり、経済の主体も多様化する。これら全ての経済要素を一様と考えるのは無理である。近代社会では、耐久財の占める役割はますます大きくなり、耐久財を無視した経済論は無意味であろう。
ケインズが登場するまでは、「セイの法則」が背後霊のようにつきまとう。ケインズが言及したのは、「セイの法則」が成り立たない状況下であって、その場合は投資を国家管理し、再び投資が軌道に乗れば、経済は自由化すべきだと主張したものだという。ケインズは、失業問題を経済的自由より優先すべきだという価値観を持っていたという。そして、彼は失業問題を無視する資本主義は存続に値しないという視点を生涯持ち続けたと語る。

本書で注目したいのは、官僚制に言及するヴェーバーの考えである。そこには、たとえ私企業であっても、成功のために巨大化する過程において、官僚体質が生まれるのは必然的であると語られる。社会主義体制が、官僚制を肥大化させて腐敗しやすいことは理解できる。だが、どんな優れた体制であっても、長期化の中で官僚体質が生まれる。これは、人間に潜在する本質なのかもしれない。バーで、「今日は特別にお客さんだけに、このボトル開けますよ!」なんて言われれば嬉しくなって、つい通いつめてしまう。クラブで「あなただけ!」なんて言われればいちころだ。こうした特別扱いされ自尊心をくすぐられるのも、官僚精神の入り口に立っているのかもしれない。逆に、人間が最も激怒するのは、自尊心を傷つけられることであろう。

本書は、もはや純粋資本主義は欠陥体制であり、近代資本主義は、バランスされた混合経済でなければならないと主張する。それは、資本主義部門と福祉や教育部門の複合体である。福祉や教育部門が過大となっても経済を支えきれない。社会主義にしても、単純な楽園ではなく、非効率経済を拡大させ、官僚体質に裏づけられた社会主義的搾取という悪魔が潜む。
シュンペーター曰く、「資本主義の衰退は、その失敗ではなく、その成功に基づいて生起する。」
資本主義の枯渇によって社会主義が生起すると主張する評論家も多いが、この言葉の方が説得力がある。パレートによると、自由主義は理性に訴えるが、社会主義は感情を利用するという。社会主義は情熱で大衆に訴え、この情熱こそが社会主義の源泉であると考える。この仮説を信じるならば、理性と感情のバランスは人間の本質とも言える。そして、経済システムが人間社会に密接にかかわる以上、資本主義と社会主義のバランスは無視できない社会体制とも言えよう。社会主義を称賛するつもりはまったくないが、その要素を少し取り入れることによって資本主義の改良版として位置付けることはできそうだ。
以前から、おいらは、社会主義がなぜロシアで起きたのか?という疑問を持っている。学校教育では、資本主義の枯渇によって生まれたと教える。もし、社会主義が資本主義の枯渇によって起こったのであれば、なぜ資本主義の成熟したイギリスやアメリカではなく、資本主義後進国のロシアで起こったのか?今日、既に社会主義やマルクス主義は崩壊したと言われる。しかし、今まで出現したものは本当に社会主義だったのか?社会主義者と自称してきた連中は、本当にマルクス主義を理解していたのか?本書は、こうした疑問にも少し答えてくれる。崩壊したソ連体制が、マルクス主義の代名詞のように言われるのは不幸であろう。本書は、マルクスは資本主義を前提にしているという。ロシア革命をマルクスの「資本論」の立場で見るのは頑固な態度のように映る。資本主義が市場主義に偏ると独占が生まれ、社会主義に固執すると自由が失われる。社会主義を拡大解釈して、私有財産を全て国家権力が管理するという思想は傲慢であろう。そして、権力の立場に偏った共産主義の姿が見えてくる。事実、ソ連は国民からの搾取が耐えがたいほど高度に発達していた。一党独裁では監視機能が働かないので、搾取が続いても是正されることはない。これは日本の官僚体制の中にも見て取れる。日本では自民党の独占という現象が続くが、一党独裁ではない。政治家が癒着して、その監視がとどかない官僚腐敗が共存する。もはや、政治家や議会の役割が機能しない特有の官僚独裁体制がある。となると、社会体制を健全にするための手段は、イデオロギー論争などはどうでもよく、ただ一つ、情報の透明性を求めるしかないだろう。イデオロギーや思想なんてものは絶えず変化するのだから。

歴史の考察は、たいてい時代順に追うものであるが、本書の特徴は、歴史の順序よりも理論の順序を大切にしているところが理解しやすい。理論の発展は、時代順にあまり依存しないことも多い。人類が時代とともに進化するというのも疑わしい。人間の精神はゆらぎの中で成長する。あらゆる学問において、登場が早過ぎたために相手にされなかった理論を見つけることができる。

1. 経済学の主な流れ
経済学には4人の巨匠がいる。アダム・スミス、デヴィッド・リカード、カール・マルクス、ジョン・メイナード・ケインズ。「経済学の父」と呼ばれるスミス以来、経済学は伝統的に、人間は私利を追求するものと考え、企業は利潤の極大を追求し、個人は効用の極大を求めると考える。そして、利益追求の自由が保証される社会を問題にしてきた。リカードは純粋経済学の創始者とされるが、これは近代経済学であることから「近代経済学の父」に値するという。マルクスは対立する立場のように思っていたが、本書はマルクスとリカードは理論的には似ているという。また、ワルラスもリカードと独立した学派と見られがちだが、これも似ているという。したがって、リカードの偉大な後継者が、マルクスとワルラスということになるそうな。リカード、マルクス、ワルラスは、近代経済学の第一世代に属し、三者の原点は同じだという。そして、マルクス派から、ルドルフ・ヒルファーディングやローザ・ルクセンブルクなどが現れて、100年以上に渡り論争を繰り返した挙句に変貌することになる。リカードは「セイの法則」を持ち出した。供給が需要を牽引するとは、完全に需要分析を無視している。そして、容易に完全雇用が成立すると考える。だが、需要が少ない時には、生産は沈滞し失業が生じる。そこで、需要分析を中心としたケインズが登場する。ヴェーバーの唱えたプロテスタンティズムが資本主義の精神を興すというのも、「セイの法則」の成り立つ条件下では通用するが、そもそも節約や禁欲は経済循環に悪影響を及ぼす。第一次大戦後、生産力は高水準だが停滞し、技術発展の可能性も乏しくなる。こうした状況下では、経済革新の余地はほとんどなくなり、投資は低水準、生産活動も沈滞、完全雇用どころか大失業時代となった。そして、経済に政治介入の必要性を認める。手っ取り早いのが小規模の戦争を行うことであろう。軍備拡張は雇用増大に貢献する。そして、帝国主義が台頭した。欧州ではヒトラーのアウトバーン建設や軍備拡大、アジアでは日本が大陸進出、アメリカではルーズベルトのニューディール政策が現れた。経済不況下の公共事業は、戦争でもピラミッドでもなんでもありとなる。ここにケインズ理論の弱点がある。マルクスは、富める人はますます富み、貧乏人はますます貧乏になるという両極分離を指摘しているという。そこで、資本主義社会では、福祉厚生活動を振興し、救貧対策を講じなければならないとなる。良質の福祉、厚生、文化、教育の構築がなければ、資本主義を永続することはできない。本書は、経済学は物質的な構造分析を課題としてきたが、社会学的な構造分析がなけらば、暴動や革命が起こると指摘している。「神の見えざる御手」にすがる自由放任主義は、世界恐慌から第二次大戦後には衰えを見せる。しかし、共産主義の失敗を絶好の批判材料にして、新自由主義の政治家が盛り返す。イギリスでは、その代表のサッチャーが経済対策で大失敗したと指摘している。イギリスでは、資本主義から社会主義へと温和にバランスしつつある中、急進的に逆転させ貧富の格差を拡大してしまう。サッチャー以前から、資本主義と社会主義の綱引きはある。これは、資本主義をより洗練させるためには必要な過程なのかもしれない。しかし、サッチャーは急激な社会変化を望んだという。これは、彼女の意識が自由放任主義に偏り、時代認識を間違えたために、やり過ぎによって資本主義を崩壊させたと評している。

2. 人口論
世界恐慌時代に生じた大量の失業は人口論ともかかわるだろう。資本主義経済における最適な人口数とは?人口増加は、新たな資本を生み出さなけらば養えない。その解決策で軍備拡張すると、戦争に捧げるために子供を産むことを奨励するという矛盾が生じる。多くの経済学者は、人口はねずみ算的に増えると考えるが、人口増加の現象は自然法則なのだろうか?地球の資源にも限界がある。リカードは、有限の土地に人口の適応を論じたという。そして、一定の率で伸びていく人口に資本がどのように適応するかが問題になってくる。更に、人口問題は、量の問題ではなく質の問題となる。高田保馬は、人口の質と量を問題にし、ヴェーバーは人口の質の変化を問題にしたという。現在、日本では少子化問題を叫びながら、一方で若年層の失業問題や派遣問題などの矛盾がある。晩婚化が進んだり、生涯独身派が増えるのも、人生の多様化という社会問題であって、経済学だけでは説明がつかない。フリーセックスは、結婚するよりは生殖率も下がるだろう。人口増加に歯止めがかかるのも、人間が社会の息苦しさを認識し、生物学的に防衛本能が働いているのかもしれない。ヴィクセルは、二つの理由から人口制限論者であったという。一つは、戦争防止のためで、二つは労働福祉のためである。ヴィクセルは、労働時間の短縮よりも人口を減少すべきだと主張したという。しかし、人口論を持ち出すと、少子化問題を訴える連中から白い眼で見られるのは必至だ。

3. 労働市場
奴隷売買の経験のある国では、労働市場は奴隷市場の代替物ないしは近代版と意識されるという。したがって、なるべく奴隷の記憶を想起させないために、労使関係には労働者の自由を保障するように過敏に反応するという。これに対して、日本のように奴隷売買の経験のない国では、無神経に労働者を奴隷的に扱うという。終身雇用は労働者の忠誠心を表す美徳と考える人も多いが、西欧では一生に渡る締め付けを奴隷的と見なすらしい。労働市場は人間的であるから、倫理観が介入するのも自然である。欧米労働者の主な動機は、自分を他人よりも優遇せよという利己心ではなく、労働者の公平を要求するという。したがって、部下に対して不公平だと見られた管理者の下では誰も働かないらしい。労働賃金は、職種ごとの需給関係で決まるのではなく、賃金の相対比は倫理的に妥当な比率を重んじるという。とはいっても、職種の価値を人間が判断できるものではない。賃金の絶対水準を自由に調節したところで、すべての職種で完全雇用することは不可能である。経済学が伝統的に仮定してきた労働市場は、極めて非人間的である。古くから経済学者は、賃金から得られる限界効用が、労働のもたらす限界不効用と等しくなる点まで働くという原則を適用して労働分析をしてきた。このような世界では、過労死などありえない。人間関係は伝統や慣習にも影響され、倫理的な拘束も民族の歴史や社会的事情として受け継がれる。このような分析は、最初に高田保馬によってなされたという。だが、伝統的に西欧の経済学者は、一貫して無視してきたという。ヒックスは、この高田保馬の考えに接近しているという。

4. 官僚制
ヴェーバーの重要な研究に官僚制があるという。一般的に官僚とは、政府ないし公共団体の職員である。しかし、ここでは軍人や大企業も含む。大会社の社員は「私的大経営の官僚」に属す。本書は、会社官僚がどのような意識、どのような人生目的を持って行動するかを、一般労働者と対比して分析している。会社経営陣が、一般労働者を評価できるのは、経営体が小規模である場合に限るだろう。会社が大規模になれば、中間管理職も増え、経営陣は人物というよりは、グループ単位の評価しかできない。そして、管理は、縦割り行政のように、階層的に分割されることになる。したがって、会社の管理部門に携わる人は、労働者とはいえ一般労働者とは立場が異なることになる。評価が難しくなると、定期的に昇進させるような待遇も必要となる。一般労働者は、金目当て、あるいは仕事の意欲で働く。その一方で、官僚主義に陥ると、その人生の目的は出世へと変貌する。そして、関心事は終身雇用と老後保障になる。彼らの仕事は、私企業に属するとはいえ、もはや政府官僚となんら変わりはない。その意識では、上司への絶対服従となる。階層化の深い組織では、監査が可能なように型にはまった規則に従って行動する人間が評価される。ヴェーバーは、こうした大企業の管理職員も官僚と定義し、近代企業はますます官僚化すると指摘しているという。戦後の日本は、株主と経営者とでは、経営者の方が業界に精通しており、発言力が圧倒的に強かった。終身雇用を後ろ盾に労働者の奴隷傾向も強まる。官僚組織というのは、くだらない人間関係で神経を使うが、業務的には気楽でもある。ベンチャー企業のような小規模では、くだらない人間関係に神経を使うことはないが、その分、革新的な意識を維持しなければならない辛さがある。これはどちらが良いかというよりは好みの問題であろう。人間の精神は、面倒なことが嫌いで波風を起されるのを嫌う一方で、退屈やマンネリを嫌う。その衝動がどちらに振れるかの違いだけのことかもしれない。一つの組織に尽くし定年まで働くと、組織は自分のものだという意識も現れるだろう。情報隠蔽体質も必然的に現れる。出世競争も同僚社員との間で競争意識として現れる。また、グループ会社でも、親会社と子会社の上下関係を意識する。このようなシステムでは、労働争議が起こり難いので、経営者としても都合の良いシステムとなる。こうした傾向は、社員を一種の宗教観念で飼い馴らした結果とも言えよう。官僚体質は、会社が事業で成功すればするほど拡大する自己増殖システムと言うこともできる。
そう言えば、ベンチャー企業で働いている時は、個人でストライキを起こす輩がいた。おいらもその一人であるが、出勤と同時に「今日は休む!」と宣言して、とっとと帰宅したりもした。その意識が経営者と労働者の間に緊張感を生む。くだらない命令を出す前に経営者も多少なりとも考えるだろう。こうした行動は周りに自由を意識させる効果もある。我儘できると勘違いする人もいるが。いずれにせよ、首をかけた緊張感がある。こうした行動も結構楽しいものだ。これによって経営者と仲が悪くなるわけでもない。おそらく嫌われていただろうが。

5. 孔子の解釈
政府官僚制の歴史は、紀元前エジプトや中国に遡る。日本の官僚制は中国から輸入されたと言えよう。その悪の根源は科挙であろう。科挙は、高級官僚をペーパーテストで募集する仕組みを母体とする。一見公平そうに見えるところに落とし穴がある。こうしたシステムは、貴族社会のような身分制度の確立した体制では有効となろうが、平民社会では悪しき慣習となる。換言すれば、他に人員を補充する手段がない硬直した組織が出来上がる。社会的経験が少ない上に社会の実態に対する目利きがなく、出世競争に囚われる。まさしくキャリア官僚がこの呪縛に嵌る。
秦の始皇帝が官僚制に則った統一国家をつくる300年も前、孔子は小国の乱立を調整し周王朝を復活することを提唱した。孔子は、このような大王朝は君主が優れた人材を登用して、自己の利害を排除し、人道に則った「礼」を率先する場合にのみ、実現されると考えたという。孔子の考えた政治は、徳治であって、官僚制を前提としているわけではない。だが、孔子の「礼」は一種の不文法で、儒教の教えは官僚制と矛盾するわけでもない。孔子の解釈は様々であろうが、本書の解釈はおいらに近いように感じる。とはいっても、「論語」を読んだのは20年ぐらい前で記憶があるはずもないが。いずれにせよ、「礼」を無条件な忠誠と解釈して世襲制が蔓延るのもおかしな話である。中国は1300年にも渡って科挙を廃止してきたが、いまだにその亡霊に憑かれている。日本は急速にその亡霊を追いかけている。

2009-05-10

"あと千回の晩飯" 山田風太郎 著

「アル中ハイマー」という言葉を誰が言い出したかは知らん。本書には「アル中ハイマーの一日」という作品が登場する。そして、この言葉は著者の造語だと語る。この言葉を最初に公にしたのは著者かもしれん。しかし、ちょっと駄洒落の好きな人なら、どこの飲み屋でも使っていそうだ。少なくとも、おいらはずーっと前からそう呼ばれているような気がする。アル中ハイマーを自称する?いや!周りにそう言われている人間にとっては、避けては通れない本である。

「あと千回の晩飯」は、朝日新聞に1994年から連載されたエッセイである。その他に雑誌や新聞で連載された「風山房日記」、「風来坊随筆」、「あの世の辻から」も収録される。本書は、山田風太郎氏の老人病随筆集といったところだろう。風太郎という名前からも、自然に揺られながら生きる様、あるいは風狂の哲学といった印象を与える。著者の座右の銘は、強いて言えば「したくないことはしない」という。ちなみに、おいらの座右の銘は、「そこに酒があるから...」。

「いろいろな兆候から、晩飯を食うのもあと千回くらいなものだろうと思う。」
著者は人類65歳引退説を唱える。そこには、漠然と自らの余命を晩飯の回数に喩えならがら、70歳を過ぎた著者の虚しさがある。そして、糖尿病とパーキンソン病で入院し、その闘病生活も語る。糖尿病やパーキンソン病は、直接痛みを伴わないらしい。苦痛がないからテレビを観ながら日常を送るといった気楽さがある。ほとんど悲壮感を与えず、あっけらかんとした文章で心境を綴り、社会風刺や政治情勢をユーモアたっぷりで語ってくれる。
「七十を越えて意外だったのは、寂寥とか、憂鬱とかを感ぜず、むしろ心身ともに軽やかな風に吹かれているような感じになったことだ。」
いつかは老いた現実を受け入れなければならない。その時、こんなはずではないと思うかもしれない。超人的な人間ほど狼狽が甚だしいであろう。詩人は老化の非情を大げさに煽る。いざその状況が訪れると、その大げさな表現も身にしみるだろう。おいらには60代も70代も大して変わらないように映る。だが、本書は大きな違いがあるという。60代は緩やかなカーブで下がっていく感じで、70代に入ると階段状になるという。それも、一年毎ではなく、一ヶ月毎、いや一日毎だそうな。そうした感覚は、やがて感傷的な光景が、死と対峙する憂鬱へと変化するのかもしれない。人間の最大の恐怖は老衰であろう。本書は、その恐怖へ立ち向かう心構えを教えているような気がする。

古くから、長寿薬やら不老不死伝説のような迷信がまかり通っていた。現代では、それに替わるかのように健康ブームが台頭する。不老とは、人間の永遠の願望であって、最大の恐怖から逃れるための憧憬であろう。日本は世界一の長寿大国である。だが、長寿という願望を最も享受しながら、高齢化社会で悩まされ、なにか隙間風を感じる。しかも、自殺大国だ。文明が高度化すると人間は神経衰弱になり、生きることへの虚しさを感じるのだろうか?長生きするがゆえに、自らの死を認識できず、他人の死を軽んじるような風潮が現れるのだろうか?かつて、栄養失調で命を失う時代があった。今では、糖尿病のような贅沢病で入院する。「命が最も大切だ!」と叫びながら、最も命を大切にしていない時代なのかもしれない。これが長寿国の定めなのか?
ところで、男と女では、なぜ寿命に差があるのか?女は子供を産むという男には信じられない苦痛を体験する。どう見たって脂肪も多い。その分、神経が図太いのか?酒を飲まないからか?いや、そんなことはない。知人で大酒飲みといえば、決まって女である。くだらない夢を追わないから長生きするのか?「夢を描く男性が好き!」と言いながら、しばらくすると「いつまでも夢ばっかり追っかけてんじゃないわよ!」と豹変する。そのわりに化粧や美容には異常なほど執着する。これも、現実から目を背ける能力か?ちなみに、化粧とは、化生に変身することか?これは、もののけや妖怪の類か?最も長生きする日本の女性は、地球上で最も恐ろしい生き物なのかもしれない。どうりで、男は何も悪いことしていないのに、蛇にでも睨まれたようになるわけだ。

1. 目糞やら鼻糞やらの政治家
「ここ、一、二年の政治家の行状は常軌を逸している。背信、虚言、変節、貪欲。以前から政治の世界は、そういうものが横行するものであったが、それにしても近年は異次元の世界の様相をおびている。金権腐敗を弾劾して立った新権力者が、自分も得ていた怪しき金の出入の説明がつかず、それを弾劾するのがこれまた金権党だなんて、目糞やら鼻糞やらわからない。」
マスコミの仕事は他人を弾劾することのようだが、それがマスコミ自身に向けられることはない。首相に辞めろ!と呼応して、いざ首相が辞めると無責任と呼応する。マスコミは強者に弱く、弱者に強い。そして、道徳を訴えながらいじめ報道を繰り返す。いつの時代も、政治や報道というものは、子供の教育に最も悪影響を及ぼすようだ。したがって、報道番組はR-18指定するがよかろう。
誰にでもその性格に似合った職業がある。大げさに言えば天職といったものだ。研究が好きだから科学者になる。文章の虜になるから作家になる。自然と戯れたいから芸術家になる。真理を探究したければ哲学をすればよかろう。説教をしたいから教育者にもなろう。噂を広めたいからマスコミという職業が生まれる。「火のないところに煙は立たない」と言うが、自ら油をまいてマッチを持ってまわる放火魔もこの職に属す。では、腹黒い人間には、どんな職業があるというのか?神はその救済に政治家という職業を用意したのであった。

2. 介護と尊厳
老人は、強情や短気になったり、本人にそのつもりがなくても自然と嫌味を口走るようになる。ゴーツクバリを発揮し家族の手を焼かせるうちはまだいい。介護をしているうちに病を背負う人もいる。病は肉体的なものばかりではなく、精神的に蝕まれて自ら命を絶つ場合もある。高齢化が進めば、痴呆症に悩まされるケースも増えよう。裕福な家庭は老人施設へ入居させればいいが、そうもいかず介護と正面から対峙する家族も増える。
本書は、介護で苦しむ家族で最も深刻なのが排泄物の問題だという。知人の話を聞いて、糞まみれになった光景を想像するだけで何も言えなくなる。自分自身がこうした介護の対象にはなりたくないと思うのも、自らの尊厳が失われることへの恐れであろう。叔父が亡くなる間際、オムツをされている姿を見られて、「俺は人間失格だ!」と呟いたのを思い出す。体が不自由になれば、自らを置物とでも考えるのかもしれない。いくらコスプレが好きでも、オムツプレイは勘弁だ。いくらモーツァルトのような天才が、スカトロ気があったと噂されても、この領域には踏み込めない。誰もが痴呆症になるわけではない。介護が必要になったからといって、誰もが糞まみれになるとは限らない。中には、豪華な老人施設や、最高の介護援助を受けられて幸せな人もいるだろう。人生が長いか短いか、どちらに感じるかは、その人次第である。そして、人生とは何か?といった哲学的な問題と対峙する。人生とは、自らの尊厳を守るために闘う歴史である。それも、運命とも言うべき確率に支配される。

3. 死の格付
人間が死を恐れる理由とは何か?死に伴う肉体的苦痛、志半ばへの無念、あとに残す愛する者への執着、自分一人で旅立たねばならない不安、といったところだろうか。死を一人旅と表現すれば、冒険のような感じがする。文学者は、ガンとの闘いを「壮絶な死」などと表現する。他人の死を詩的に表現すれば美しく感傷に浸ることもできる。当人にしてみればそんなものでもないだろうが、その人の死を惜しんで美しく表現したくなる気持ちも分かる。死の表現が、残った者に心の安らぎを与えるならば、死んだ人もうかばれると信じたい。
本書は、人間の死に方を「人生と密着した死に方」と「人生と分離した死に方」に大別している。ただし、本人の意志とは無関係な事故死などは除く。「人生と密着した死に方」とは、自らの仕事を全うし、関わった人々への思いを背負い全生涯を傾けながら死ぬことである。「人生と分離した死に方」とは、病などで自らの死を悟った時、残した仕事を他人に委ね、自らは空虚な安穏な世界へ導いて死ぬことである。これは、死病の公表を禁じ、葬儀や告別式を辞退するようなところでも見られる。いずれの死に方にも、運命を背負った生き様を感じる。死は平等に訪れる。もし、人間が自らの死を認識できるならば、どんな死に方をしても、なんらかの理由付けをして、人生を完結させるだろう。
ところで、葬式に参列する人の多さで、その人の人生の重みが分かると発言する人がいる。それは本当だろうか?少なくとも、形式ばった人間付き合いの量は測れそうだ。
親父の田舎では、墓を建てる土地の確保に躍起になっている。昔からの慣習で、一世帯に一つ墓を建てなければならないらしい。なんとなく滑稽である。この慣習を守るならば、永遠に墓を建て続け、日本の国土は墓だらけになってしまう。みんな一緒の墓に入れば、賑やかでええではないか。土地は生きた者のために残したい。生きた者は生きた者同士で付き合えばいい。死んだ者は死んだ者同士で付き合い、生きた者にその眠りを邪魔されたくない。おいらは海が好きなので遺骨は海にまいてもらいたい。
著者は、無葬式論者だという。消費税に目くじらをたてる人々が、なぜ冠婚葬祭に金をつぎ込むかは理解に苦しむ。葬式の明細にも驚く。ちょうちん一個3万円?この古びたやつかあ?しかもレンタルだ。おまけに、なんと戒名代の高いこと。戒名なんていらない。生前の名が受け入れられないなら名無しでええ。普段、宗教に馴染んでもいないのに、なぜか葬式の時だけ割り込んでくる。お寺さんは、ナマモノを扱うのが苦手なのだろう。だから、死んでから、おいでというわけだ。仏教が葬式宗教と言われるのも道理である。そもそも、葬式のできない苦しい家庭もある。人間社会とは滑稽なもので死人をも差別する。だが、生き残った人間が勝手に格付けしているに過ぎない。

4. 先天的な死の願望
そもそも、自らの死を望む人間はいるのか?一時的な自殺願望に囚われるのは認める。現実に自殺者がいる。だが、自殺に追い込まれる事態を取り除けば、自殺願望も消滅するだろう。
ところが、本書は、人間世界には何の外因もないのに、先天的に死に憑かれた人々がいるという。著者自身も意識の底にいつも死が沈殿しているのを感じるという。芥川龍之介や太宰治や三島由紀夫などは、そうした人種なのだろうか?彼らは、生よりも死に憧憬を持ったのだろうか?多くの偉大な数理論理学者は、複雑な事象を単純化することに命をかけ、ついに生きることよりも死ぬことの方が単純であることを悟る。彼らは、人より早く歳をとり、成人を迎えると無情な早さで衰える。いくら平等を唱えたところで、人間は、個性の差、能力の差、境遇の差などあらゆる格差の中にある。生きている間は、どんなに近づこうとしても決して同じになることはできない。そこで、死を受け入れることによって、同化することができるとでも考えるのだろうか?それが「悟り」というものの正体か?本書は、「あの世」への親近感などないが、「この世」への違和感ならあるという。厭世観というやつだ。しかも、これが大酒飲みの原動力になっているそうな。

5. 責任ある年齢
老化とともに記憶力は衰え、頭の回転も悪くなる。その一方で、揺ぎない長老の知恵、熟練した精神というものがある。精神は年齢を重ねるとともに成長する。ただ、精神は熟成を増すだけではなく、熟成し過ぎて腐ることもあろう。本書は、70歳になると無責任の年齢に入ったという。そして、70歳を過ぎれば、責任ある言動をすることが、かえって有害無益になると語る。責任ある年齢とは何歳までを言うのだろうか?死ぬ間際まで責任を全うする立派な人もいる。こうした例は尊敬できるが、真似できるものではない。去り際を見極めれる人は偉大である。大抵の人は自らの存在価値が実感できないと不安になる。だから、権力や肩書きに固執し、不要な意見を取り付けて自らの存在感を強調する。自らの存在が無視されると激怒する。そして、人間社会にはコネがつきまとう。だが、自らの存在感を薄くできる人ほど偉人のように映る。

6. 朝酒晩酌の人生
著者は酒と煙草を50年以上切らしたことがないらしい。毎晩、ウィスキーのボトル3分の1ほど2時間ぐらいかけて飲み、一睡して夜中に目覚め朝まで起きている。そして、朝酒で眠って昼頃起きるという生活。
入院時のエピソードでは、食事が不味く食欲がないのは、酒を断っているせいだと医者に相談を持ちかける。酒を断っても手が震えるわけでもなく、まったく禁断症状がでるわけでもないと。すると医者は「アルコールを飲まなければ食欲がないのは、それが禁断症状です。」と答えたという。
朝酒晩酌の人生は、おいらにも似た生活がある。おいらは酒をそれほど多く飲むわけではない。週末以外は、寝る前にウィスキーのオンザロックを一杯も飲めば満足だ。そして、週末は朝酒で純米酒をやる。毎日ちびちびやるのがいい。晩飯は、焼酎に焼き魚と大根おろしがあれば十分。ただ、朝は5時前からステーキハウスへ出かける。5時を過ぎると、朝食メニューに替わりステーキがメニューから消えるからだ。おいらは学生時代、酒が全然飲めなかった。未成年だから当り前である。おいらは歩く六法全書なのだ。それが、不思議なことに30歳過ぎてから急激に飲むようになった。飲まないとやってられないような仕事に追われていたかは定かではない。なぜか?どんなに飲んでも酔わない時期があった。その頃出会ったバーテンダーは、いまだに勘違いしている。学生時代はヘビースモーカーだった。ちなみに、歩く六法全書は、しばしば六法全書の置場所を忘れる。当時、お前の部屋は煙草が原因で火事になることはないと言われた。フィルタが焦げて、自然に火が消えるまで吸っていたからだ。貧乏性は残さず綺麗にたいらげる。それが、煙草の量を減らそうと思ったこともないのに、いつのまにか減った。1箱あれば4, 5日はもつ。量が減ったのは、煙草の美味さが理解できるようになったからかもしれない。昔は手持ち無沙汰で吸っていたが、頻繁に吸うとそれほど美味いとは感じなくなる。ただ、いまだに煙草の有害説には無理やり難癖をつけ、脳の活性化に効果があると信じている。とはいっても、直観的に煙が体に良いわけがない。すっかり愛煙家は世の中から迫害されてしまった。主治医は、おいらの煙草を止めさせるのが目標だと宣言している。なんと無駄なことを!と呟いても、医者の目標を失わせて落ち込ませるのも悪い。著者は、たとえ体に悪くても止めない理由は、実は長生き願望が強くないのではないかと分析しながら、「七十三まで生きて、何を言っとるか!」と自らにつっこみを入れる。おいらも、体に悪いと思いながら、毎月定期検診を受けている。人間の精神は、矛盾の概念をもご都合主義で凌駕できるものである。

2009-05-03

"新編 悪魔の辞典" Ambrose Bierce 著

「悪魔の辞典」で知られるジャーナリストのアンブローズ・ビアス。そこには、薬草の香りがプンプンする笑劇の世界が広がるとともに、絶望感に苛まれるニヒリズムがある。辞典形式による風変わりな試みは、社会の反抗分子であるアル中ハイマーのストレス解消に効く。今宵は、ビターズをたっぷりと効かしたジンベースの辛口カクテルを味わっている気分である。

本書は、ビアス著の「冷笑家用語集」と「悪魔の辞典」に、アリゾナ州立大学名誉教授アーネスト・ジェローム・ホプキンス編著「増補版 悪魔の辞典」を加えた三冊の中から、訳者西川正身氏が厳選したものだそうな。ちなみに、レイモンド・スマリヤンは、その著書「天才スマリヤンのパラドックス人生」の中で、「悪魔の辞典」の中のお気に入りとして、論理学の定義を紹介している。
「論理学とは、人間の誤解の限界と無能力性について、厳密に推論および思考する学問。論理学の基礎は、大前提、小前提、結論から構成される三段論法である。一例を挙げよう。
大前提: 60人の人間は、1人の人間の60倍の速度で仕事ができる。
小前提: 1人の人間は、60秒で1個の穴を掘ることができる。
結論: 60人の人間は、1秒で1個の穴を掘ることができる。」
おいらは本書の訳より、こちらの方が好きだ。

本書で登場する意味や用例は、当時の社会事情を理解していないと、分かりにくいものもある。著者は、社会風潮やジャーナリズムの動きを通して、近代文明に疑心を抱いているかのようだ。時代は20世紀の夜明け、急速に発展した近代文明が、やがて戦争と殺戮の世紀へ向かう予感を覗かせる。また、著者自身が結婚でうまくいかなかったせいか、女性蔑視も現れる。その一方で、人生論を語り、ビアス哲学を垣間見ることができる。それは、文明の終結や人生の終結は必ず訪れることへの心構えといったところだろうか。自らの思考で、前提があって結論に辿り付くことができるならば、まだ幸運である。だが、思考の多くは、前提もなく結論に辿り付くことさえできない。人間の生は不公平で不平等にできている。だが、人間の死は公平で平等に訪れる。そして、死はその人独自のものである。人生の意味を躍起に探求したところで見つかるものではない。どんなに学識のある人間でも、物事を理解している人間などいない。本書は、物事を知らないことを自覚しているぐらいでちょうどいいと教えてくれる。

ところで、「辞典」とは何か?その役割とは?
本書は、辞典の役割が、もはや記録を残すことを超えて、柔軟性を硬直させ言葉の成長を妨げていると辞典編纂者を痛烈に批判する。その体系を機械的なものにしようとする有害な野郎と!
「ある一つの言語の自由な成長を妨げ、その言語の弾力のない固定したものにしようと案出された、悪意にみちた文筆関係の仕組み。とはいうものの、本辞典に限り、きわめて有用な製作物である。」そして、「たわごと」「すばらしい出来映えの本辞典に対して唱える異議の数々。」と定義している。
辞典を完成させた者は権威者とみなされる。まるで一種の司法権があるかのように。しかも、世間はそれが法令であるかのように位置付ける。辞典には、その時代に意味する事柄を記録として留める役割がある。とはいえ、言葉は発達していくもので、辞典を掟とすることもできないだろう。辞典が優れた単語に「廃語」の刻印を押したら、それで最後、もはや一般の用語として復活することは難しい。辞典を神のように崇めた時、かくて言語の貧困化は促進され堕落の一途を辿るのかもしれない。言葉の使い方も、人によって様々である。そのニュアンスも微妙に違う。「赤い」という形容をひとつとっても、情熱を感じる人もいれば、血なまぐささを感じる人もいる。アル中ハイマーはブラッディ・マリーが飲みたくなる。ちなみに、鏡の向こうの住人は、赤い顔をしてなにやらつぶやいている。

本書には、洞察力のある人が辞典に載っていない単語を使うと、批難を浴びせかけるような様子が描かれる。ビアスの生きた時代に、ちょうどジャーナリズムに絶望するような転換期があったのだろうか?そう言えば、次の世代を生きたウォルター・リップマンは、その著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的に結論付けていた。ビアスは、社会風潮を嘆きながら「悪魔の辞典」を誕生させたのかもしれない。

本書の中で、特に気に入った問答がこれである。
「好み」の中の一節。「古代の哲学者が、生は死と同様、無価値なものだ、という確信を説いて聞かせたところ、それではなぜ死んでおしまいにならないのですか、と弟子の一人がたずねたので、答えて曰く、死が、生と同様、無価値なものだからだ。ただし、死は生よりも長続きするものである。」

それでは、なんとなく辛辣の効いたところを軽く摘んでみよう。なぜかって?辛さの効いたカラムーチョをつまみに飲んでいるから。尚、以下の分類は気まぐれである。本書は五十音順であるところに少々読み辛さを感じる。

1. 哲学
エピグラム...散文あるいは韻文を用いた辛辣な寸言のことで...
ここでは、ジャムラック・ホロボム博士の記したものを紹介している。その中で気に入ったところを摘む。
「男はよく言う。妻を選ぶのだと。馬はよく言う。持主を選ぶのだと。」
「君は自分を傷つけた女を殺すことは許されない。だが、女は1分ごとに年をとって行くものだと思考することは一向に禁じられていない。こうして君は1日に1440回も仕返しができるというものだ。」
「女と最も折り合いよくやって行けるのは、女なしでもやって行くことが最もよくできる男。」
「私は誰でしょうか?と目を覚ました死者の魂が尋ねた。それだけはここでは知ることを許されていないのだ。と天使は微笑しながら答えた。何しろここは天国なのだからな。」
「我々は天上の学園を二度、目にする。青春時代にはそれを人生と呼び、老年時代にはそれを青春と呼ぶ。」


過去...
「過去と未来は、永遠の二大区分であるが、その性質は完全に異なっていて、前者は片時も休まずに後者を抹殺しつづけている。前者は悲しみと失望とで暗く、後者は繁栄と喜びとで明るい。だが、過去は昨日の未来であり、未来は明日の過去であって、結局、両者は同一のもの。」


真理...
「願望と見掛けとを巧みに合成して作り出すもの。真理の発見は哲学が唯一の目的とするところであるが、その哲学たるや、人間の精神の営みの中で最も古くからあるものであるばかりでなく、今後もいよいよ活発さを加えながら、時の終わりまでも存在しつづけそうな見込みが十分にある。」


聖職者...
「自分は天国に至る道のインコースを走っている者であると主張し、かつその道を通る者に通行料を課したいと思っている紳士。」


黙示録...
「使徒ヨハネが自分の知っていることは全部隠してしまって、何一つ書いていない書物。啓示なるものは、まるで物を知らぬ注釈者の連中がやった仕業である。」


無宗教...
「世界中の偉大な信仰の中で最も重要な信仰。」


理性...
「偏見に対する偏った好み。」


2. 社会
議論...
「他の人びとの思い違いをいよいよもって強固なものにしてやる方法。」

そう言えば、朝まで生...とかいった深夜の討論番組があったような。あっ!思い出した「朝まで生ビール」だ。

殺人...
「殺人には四種類ある。すなわち、凶悪な殺人、ゆるすべき殺人、正当と認め得る殺人、賞賛に値する殺人。だが、どの種類に属しようとも、殺される当人にとっては大きな問題ではない。かような分類は、もっぱら法律家の便宜のために設けられているのである。」


責任...
「自分の肩から取り下ろして、神なり運命なり宿命なり廻り合わせなり、あるいは隣人なりの肩へ容易に移すことのできる重荷。占星術が行われた時代には、星に肩代わりをしてもらうのが普通だった。」


平等...
「政治では、想像上の一つの状態を指して言うが、その状況の下では、脳味噌ではなくて頭蓋骨が重要視され、功績はくじで決定され、昇進という形で罰せられる。この原理の論理的帰結は、結局、官職に就くのも刑務所に入るのも、交代制が必要となる。人はすべて投票する権利が平等に与えられているのだから、官職に就く権利も平等で、有罪判決を受けるのも平等でなければならない。」


批評家...
「自分の機嫌を取ろうとしてくれる者が一人もいないところから、おれは気難しい男だと自負している輩。」


豚...
「食欲がすばらしく旺盛な点で、人類に極めて近い動物。ただし、その食欲の範囲は人類に劣る。豚を食べることだけは躊躇するから。」


3. 政治
愛国者...
「部分の利害の方が全体のそれよりも大事だと考えているらしい人。政治家に手もなくだまされるお人好し。征服者のお先棒をかつぐ人。」


海賊...
「征服者の一種。ただし、その仕事の規模はささやかなもので、併合ないし略奪しても、規模宏大な場合とは違って、その行為が正当化される特典は与えられていない。」

なるほど、これが国家ならば正当化されるわけだ。植民地時代を暗示しているような。

全権を有する...
「完全な権限を持つ。全権公使とは、けっして行使しないという条件で、絶対権を持つことになった外交官。」


戦争...
「平和の策略が生み出す副産物。」

本書は、政治情勢が危機に直面するのは、国際親善の時期で、「治に居て乱を忘れず」という言葉は、深い意味があると語る。なるほど、変化こそが永久普遍の法則であり、平和の土壌は戦争の種が一面に蒔かれた状態で、いつ芽が育つか分からない。

先例...
「法律関係で一定の成文法がないところから、裁判官がその欲に欲するままに勝手な効力と権威とを賦与し、仕事を簡易化することのできる慣例。裁判官は自分の利害に反する先例は無視し、自分の欲求と一致する先例を強調すればそれですむ。先例が発明されたおかげで、法律による裁判は偶然に頼る試罪法という低い地位から、自分の思うところへ持って行ける裁定という高潔な態度にまで高められることになった。」


保守主義者...
「現存する弊害を新たな弊害をもって代えたいと願う自由主義者に対して、現存する弊害に魅せられている政治家。」


仲裁...
「問題のそもそもの発端である論争の代わりに、その論争をどのような方法で解決に委ねるか、その方法について当然起こらざるを得ない数多くの意見の相違を持ち出すことによって紛争をかえって助長させる近代的な工夫。」


歴史...
「大抵は悪者である支配者と、大抵は愚者である兵士とによって惹き起こされる、大抵は重要でない出来事に関する、大抵は間違っている記述。」


4. 経済
ウォール街...
「ありとあらゆる悪魔が批難攻撃する罪のシンボル。ウォール街は盗賊の巣窟なりとするのは、成功を収め得ない盗賊にとっては、そのいずれ者にも、天国に行ける望みの代りをつとめてくれる信念であって、かの偉大にして善良なアンドルー・カーネギーでさえ、そのように信じると公言している。」


銀行預金...
「銀行を支えて行くために行われる慈善の寄付。」

なるほど、銀行屋は他人資本を自己資本と言い換えて、自己資本比率などという指標を使う。

金銭...
「そいつを手放す場合を別にすれば、いくら持っていても、何の利益ももたらさないという結構な代物。教養のしるし、また、社交界への入場券。持っていても苦にならない財産。」


土地...ちょいと長いので要約すると。
「土地は完全に個人の所有権および支配権の下にある財産なりとする説は、近代社会の基礎をなす。だが、論理的帰結では、この説は、一部の者に他の者が生きていくのを妨げる権利があるということになる。所有する権利とは、独占する権利を意味するからである。事実、土地の所有権が認められている所では、どこでも不法侵入の法律が設けられている。土地を所有しない者には存在する場所すらない。そもそも生まれてくる場所すらない。」

儲かる...
「商品を卸で盗んで、小売で売る。」