2011-10-30

"電子回路の基礎" 北野正雄 著

前記事の「新版 マクスウェル方程式」では、新たな視点を与えてくれたことに感謝したい。そして、本棚を眺めていると...なんと北野正雄氏の本がもう一冊あるではないか。何かの講座で買わされたのか???この機会に、基本に立ち返るのも悪くない。我が家の本棚を秘密の宝庫にしてしまうところに、アル中ハイマー病患者の幸せがある。
「回路方式を天下りに与えるのでなく...」と前置きされるところに、なんとなく共感を覚える。三角関数と複素数の関係、すなわちオイラーの公式の実践の場として、電子回路ほど適した分野は珍しいかもしれない。それを学生時代に感じられなかったことが悲しい。

電子回路の世界は、ほとんど実践の場と言っていいだろう。技術者の中には、実践できなければ意味がない!といった理論に対して懐疑的な風潮がある。職人の世界でありながら、小学生の科学の延長のような、動きゃええ!みたいなところもあるのだけど。今でこそコンピュータ技術の進化によって、手軽にシミュレーションしながら理論的な解析も盛んだが、ちょいと前までは、ハンダゴテを握らずして回路技術もあったもんじゃなかった。パラメータを手探りで設定しながら、ひたすらカットアンドトライ!という伝統的思考がある。そして、我武者羅にやっているうちに、いつのまにか自己流の法則に辿り着き、それが有名な法則の変形だったりすることがよくある。参考文献では実践例がもてはやされ、理論を扱う教科書となると補助的な意味合いでしかないのは、今も大して変わらないか。
しかし、本書は、その実践の場にあえて数学的理論を持ち込む。その厳密性には感服する。コンデンサやコイルなどの受動素子は、その特性に時間成分や位相成分を持ち、微分方程式を抜きにしては語れない。おまけに、オペアンプや半導体などの能動素子ともなれば、電子の振る舞いという不確定性という物理現象までも扱う。そぅ、電子回路理論とは、応用数学や物理数学を避けては通れない世界なのだ。だから、とっとと逃げ出し、論理的な、いや屁理屈的なデジタル技術に駆け込んだ。それでも、論理回路の集積化が進めば複雑なアルゴリズムと対峙することになる。結局、数学からは逃れられず、落ちこぼれる運命は変えられないのであった。
ところで、電子回路において最も基本的な物理量と言えば、電流と電圧である。ただ、電流は電子の流れる量として物理的にイメージしやすいが、電圧となるとイメージしずらい。おまけに、電圧が生じたからといって電流が流れるとは限らない。数十ボルトで感電死するかと思えば、1万ボルト近い肩こり治療器があるとは、これいかに?
電流が流れる状態とは、電子の活性化状態と捉える。対して電圧の状態は、潜在的なポテンシャルエネルギーと捉えればよかろう。人間社会には様々な電磁の場があり、電子の活性化状態を体感することができる。ホットな女性に囲まれれば、心の電子が騒ぎだし微力な磁場が形成される。この段階では、心に期待が膨らむだけで刺激はいまいち!いわゆるモヤモヤ気分、これがある種の電圧状態なのだ。そこに女性がちょいと熱視線を注げば、ソレノイドが形成され、たちまち体中に電流が走る。これがイチコロというやつだ。この磁場を、ある業界の専門用語で「夜の社交場」と呼ぶらしい。そして、電流と電圧の違いとは何か?と問えば、それは、シビレるかシビレないかの差なのさ。

本書が最終的に扱う物理現象は、非線形性である。だが、想定した入力に対して予測した出力を得るためには、ほとんど線形性を必要とする。そこで、用途に合った範囲内で線形性が得られる素子や技を選んで組み合わせることになる。すべての周波数や振幅の範囲をカバーできるような特性を持った素子は存在しないし、万能な増幅特性が得られる夢の技も存在しないだろう。もし存在すれば、電子回路技術は技術ではなくなりそうな気がする。電子回路技術者は、それが数学的な厳密性などではなく勘であったとしても、無意識に非線形性と対峙している。そして、いかに線形性に持ち込んで議論するかに傾注する。
交流状態では正弦波が対象となり、振幅や周波数や位相で特徴づけられる。実効値の有効性は、平均値を示すことによって直流的な視点を与えることである。もちろん最大値との関係を考慮する必要があるけど。皮相電力とは、実効値電圧と実効値電流の積であり、名前どおり表向きの電力というわけだ。直流成分を扱うならば、キルヒホフの法則やオームの法則が使える。だが、交流成分となると複素振幅や複素インピーダンスといった概念を導入する必要がある。周波数や位相を扱うには複素空間が便利だからだ。
また、伝搬遅延や媒体特性が無視できなければ、時間や空間に関する微分方程式が必要となる。周波数特性の解析には、ラプラス変換などを用いた伝達関数や、フーリエ変換などの重ね合わせの原理を使う。雑音のような不規則な特性では、振幅の2乗平均、相関関数、パワースペクトルなどを統計量として扱い、確率論的に眺める。
こうした思索や技は、厄介な非線形の現象に対して線形性の視点を与えようとしてきた努力である。人間社会にとって、非線形性よりも線形性の方が居心地がいい。だからリニア回路という用語がもてはやされるが、どんなに頑張ってもリニア区間は限定される。宇宙原理にとって、線形性よりも非線形性の方が自然ということであろう。

1. 半導体
いまや、半導体は電子機器の中心的存在である。ちなみに、半導体業界の景気動向は経済指標としても用いられるほどだ。
発明当初は、電子の流れを制御しようというのだから、尋常な発想ではなかっただろう。今日、電子スピンの位相を制御しようとする量子素子なるものが話題になっているが、これまた尋常な発想ではない。
半導体デバイスの基本構成はpn接合であり、その特徴は結晶とバンド構造にある。シリコンやゲルマニウムといったIV族元素は、隣接する4つの原子と共有結合で結ばれ、ダイヤモンド構造の安定な結晶を作る。最外殻電子に対応するエネルギー準位は2組のバンド構造、すなわち価電子帯と伝導帯に分かれる。それぞれの準位に対応する電子の状態、すなわち波動関数は、特定の原子近傍に局在するのではなく、結晶全体に広がる。バンド間の準位のない部分が禁制帯で、そのエネルギー幅がバンドギャップとなる。そして、外部から熱や光あるいは磁場や電圧といった刺激を与えることによって電気特性が得られ、絶縁体や導体になる。pn接合では、空乏層をめぐって、順バイアスと逆バイアス、あるいは拡散電流とドリフト電流が対称性を示す。
半導体には、抵抗やコンデンサやコイルなどの素子はないが、その特性を解析するために等価回路でモデリングする。真空管やトランジスタなどの能動素子では、増幅特性を「制御電源」という抽象化モデルを用いて等価回路が示される。しかし、半導体の特性が理想的な線形性を示すわけではなく、動作領域を考慮する必要がある。想定内の信号が入力されれば、モデルどおりの動作をするだろう。逆に言えば、想定外の信号が入力されると、とんでもない代物になる。いまや、集積回路ではギガスケールのゲート素子が組み込まれ、ほとんど無限に近い多段トランジスタ回路を構成する。となれば、一か所でも想定外のノイズが紛れ込むと、とんでもない怪物に変貌する可能性がある。今日では、自動車から旅客機まで半導体制御されないものは存在しない。つまり、こんな不確定なものに命を預けているわけだ。

2. トランジスタ
トランジスタは、バイポーラトランジスタと電界効果トランジスタ(FET)に大別される。トランジスタにおける電圧と電流の関係もまた非線形で、しかも指数関数的である。
npn型バイポーラのような単純な構造の中に、ベース・エミッタ間のpn接合は順バイアスで、ベース・コレクタ間のpn接合は逆バイアスされるという見事な対称性を示す。この構造はベースの少数キャリアの振る舞いに支配される。
対して、電界効果トランジスタは、バイポーラとはちょっと違った原理で動作する。ゲート電圧の絶対値が大きくなると、pn接合の空乏層の幅が大きくなり、チャネル幅の実効値が狭くなるため、ドレイン・ソース間に流れる電流は減少する。そして、ゲート電極に加える電圧でチャンネル電流を制御できる。逆バイアスのためゲートにほとんど電流が流れないのが、その特徴である。
バイポーラが常に電流を流すのに対して、CMOSはスイッチングの瞬間にしか電力を消費しないというわけだ。その分、静電気のようなものでも誤動作しやく、周辺のバタバタする信号は瞬間ノイズでうるさい。ちなみに、新人時代、CMOS回路の奇妙な不安定動作を突き止めるのに徹夜したものだ。プローブをあてると完全に眠るのだが、放すと微妙に動作しやがる。主信号系のノイズが原因だと思ったら、実は配線されていなかったというオチだ!端子の解放状態とは恐ろしいものだと実感したものだ。
デジタル屋さんは、トランジスタを単なるスイッチと見なすため、遮断領域と飽和領域だけを議論すればいい。そして、ベース電圧の変化にしたがってコレクタ電流が変化する活性領域は、応答時間として考慮する。対して、アナログ屋さんは、本当の意味でのトランジスタ特性を利用して、活性領域を存分に使いこなすだろう。物理数学に蕁麻疹が出るとなると挫折するしかあるまい。

3. トランジスタ増幅回路
安定した増幅特性を得るためには、接地方式やバイアスの原理が役割を演じる。ここではバイポーラ型で議論される。基本的にトランジスタは、電圧制御電流源で、電流源の内部コンダクタンスは十分小さく、ほぼ理想的と見なしていいという。それは、コレクタ電流やエミッタ電流がコレクタ電圧にほとんど依存しないことを意味する。実際には、アーリ効果によって、コレクタ・エミッタ間電圧やコレクタ・ベース間電圧を増加させると、これらの電流もわずかながら増加するのだけど。ちなみに、ベース・エミッタ間電圧は数学的に約0.6Vとなるが、この数値は無意識に叩き込まれ、疑問を感じないほど思考が硬直化してしまっている。
バイポーラ型の欠点は、ベース電流はベース電圧に比例せず、指数関数的に変化することである。ベース電流はエミッタ電流と比例関係にある。その比例係数、すなわち電流増幅率が、あの忌々しい hfe だ。本書は、βで表される。ベース電流をゼロと仮定すれば、βは無限大となり、理想的な増幅素子と見なせる。しかし、実際にはベース電流の存在が、トランジスタの動作を理解する上で大きな障害になっているという。その分、CMOSではゲート電流が無視できるので設計が楽になる。βは、エミッタ電流やコレクタ電圧に依存する。特に、コレクタ電圧の上昇は、コレクタ・ベース間の逆バイアスを深め、空乏層の幅が広がるとベース幅を小さくし、βを大きくする。その変化は小さく、実用上は一定と見なす場合が多いという。βと逆飽和電流は、同じ型番のトランジスタであっても製造条件などでばらつき、特にβのばらつきは回路設計上の問題になるという。
そして、ベース電流を考慮しながら接地方式を検討することになる。ベースが入力でコレクタが出力となるエミッタ接地が最も一般的であろうか。電圧、電流ともに増幅されるし。ベース接地は、ミラー効果が少なく高周波領域で好んで利用されるという。コレクタ接地は、実際には接地ではなく、コレクタに一定の電圧をかける。エミッタ電圧が入力電圧に追従することから、エミッタフォロワとも呼ばれる。

4. バイアス回路
一般的にトランジスタ増幅回路の入出力特性は非線形である。帰還によって線形性が改善されている場合でも、入力が0V近辺では遮断され、そのまま信号を加えると大きく歪む。そこで、バイアスを用いた線形化が必要となる。ただ、温度特性が利得を変動させるという厄介さがある。ベース電圧バイアス法がうまく機能しない理由は、コレクタ電流のベース電圧に対する指数関数的敏感さと、トランジスタ特性の温度依存性にあるという。逆に、コレクタ電流を一定に保てば、安定なバイアスが期待できる。
ここでは、エミッタ側に定電流源を接続するエミッタ電流バイアスと、ベース電流とコレクタ電流の比例関係を利用してバイアスをベース電流として与えるベース電流バイアスの二つの方法が紹介される。バイアス方式の中では、エミッタ電流によるものが安定性に優れているようだ。これらのバイアス回路では、いくつかのコンデンサが用いられるが、直流信号であればコンデンサは解放と見なせばいいし、十分周波数が高い場合は短絡と見なせばいい。しかし、周波数の低い信号に対しては、インピーダンス特性に制限がある。増幅率の安定性は、入力信号に対する周波数特性を考慮する必要があり、どうしても遮断周波数なるものが出現する。

5. 電力増幅
電子回路では、伝統的に電圧増幅と電力増幅という分類がなされるという。前者は、センサー出力のような微小な電圧信号を、ノイズの影響を受けない領域にまで増幅すること。電流を信号として増幅することもあるので、より正確には「小信号増幅」と呼ぶべきだという。一方、後者は、スピーカ、送信アンテナ、モータなどを負荷として、信号電力を送り込むための増幅のこと。増幅方法では、お馴染みのA級、B級、C級がある。
A級増幅は、バイアスを活性領域の中央に設定して、活性領域に動作範囲を限定する。
B級増幅は、過激にバイアスをゼロに設定して、信号の正の領域だけを取り出す。負の領域も同じように増幅して合成すれば、全体で線形性を得ることができる。
C級増幅は、もっと過激にバイアスを負側に設定して、信号のピーク付近のみを増幅する。波形は著しく変形するが、共振回路と組み合わせて正弦波を取り出すことができる。周波数逓倍にも使える。
ところで、素直に増幅するA級では、無負荷でもコレクタ電流が流れ続けるため消費電力が大きくなる。その欠点を補うためにB級増幅では、お馴染みのプッシュプル回路がある。入力が正の場合は上のトランジスタが、負の場合は下のトランジスタが動作するような対称的な構成だ。入力電圧が0の場合はどちらもオフする。そのままだと0.6Vまでどちらのトランジスタもオンしないので、クロスオーバー歪が生じる。そこで、バイアスで無負荷状態でも少しコレクタ電流が流れるように工夫する。
また、電力用のトランジスタは、一般用よりも周波数特性などの点で劣っている。特に電流増幅率が小さい。そこで、二つのトランジスタを多段に構えて一つのトランジスタに見せかけるダーリントン接続という技を用いる。
更に、B級増幅の応用的な発想から生まれたD級増幅がある。B級増幅で振幅が電源電圧に等しい矩形波の場合は効率が100%になる。この場合、トランジスタは遮断と飽和を繰り返すスイッチとして働く。この矩形波の場合の効率の高さを任意の波形に適応する方法が、D級だという。信号よりも周波数の高い三角波を用意してコンパレータを通せば、信号値に応じたパルス幅が変化する矩形波が得られる。いわゆるPWMだ。パルス幅変調された信号でトランジスタをスイッチとして動作させれば、原理的には消費電力を0にできるという。エアコンや洗濯機などのモータを使った家電製品で用いられる可変電圧可変周波数インバータは、D級増幅の原理に基づいているという。

6. オペアンプ
オペアンプは、差動入力の直流増幅器として構成され、外付けのバイアス回路を必要としないように、静止時の入出力電圧が0になるように設計されているという。また、大量の負帰還によって良好な特性が得られるように、大きな利得を持っている。入力インピーダンスを高く、出力インピーダンスを低く設定されているのも特徴だ。IC化によって、差動増幅やカレントミラーに用いるトランジスタ対の特性を揃えることもでき、温度差を小さくしてドリフトの少ない設計が可能となった。電圧利得は非常に高く100dB以上だが、そのまま使うことは稀で、通常は負帰還をかけて利得を小さ目にする。
オペアンプ自体にはグランド端子がなく、入出力の電位の基準は、電源の正負の間にとられる。非常に高い周波数まで利得を持っているので、高い周波数領域まで電源のインピーダンスを低く保つ必要があり、そのためにコンデンサが正負電源端子とグランドの間に挿入されるという。コンデンサは、高い周波数に対する電源として働くわけか。理屈なしで条件反射で挿入していたような気がする。
しかし、実際のオペアンプの利得は周波数特性を持っており、スルーレートと対峙することになる。負帰還は増幅器の特性や改善などに役立つ。そして、一巡利得を大きくすれば、その効果は大きいだろう。だが、一巡利得が大きいと、増幅器の動作を安定させるための負帰還が、逆に不安定要因になることがある。能動素子でありがちな周波数特性に起因する位相のずれが大きくなると、負帰還のはずが正帰還になってしまい、ついには発振しやがる。
ところで、電圧利得が1倍の増幅回路でも馬鹿にはできない。測定器などでは、信号の出力インピーダンスよりも、測定側の入力インピーダンスを十分高くする必要がある。こうした場合にボルテージホロアがインピーダンス変換に役立つ。

7. 発振回路
ここまでは、いかに線形性を保つかに注目したが、非線形性を積極的に利用するのが発振回路である。最も単純な構成は、LC共振回路であろう。コイルの巻数抵抗Rを加えれば、LCR共振回路になる。これは、コイルとコンデンサが、それぞれ周波数成分を持っていることを示している。ちなみに、ファン・デル・ポルの方程式は、もともと真空管の発振回路の解析用として考案されたものだそうな。自律的な発振現象の本質をうまくモデル化しているために、電子回路に限らず幅広く応用されるという。
LC発振器の構成は単純なので、1つのトランジスタで実現できそうなものだが、やってみると意外と難しい。入力電圧を増加した時に、電流を多く流すような電圧制御電流源があるとありがたい。だが、エミッタ接地では、相互コンダクタンスの極性が逆でうまくいかない。ベース接地では、極性が適合しても、入力インピーダンスが低く、共振回路の損失が大きくなる。そこで、コレクタ接地と組み合わせて、入力インピーダンスを高く保つ。
コルビー回路は、ベース接地とコレクタ接地を組み合わせた共振回路の例として紹介される。あるいは、エミッタ接地とトランスを組み合わせたトランス結合発振回路の例が紹介される。更に、コイルの中間から帰還するようなハートレイ発振器は、トランスの直列接続と見なせば、トランス結合の発展型と見ることもできそうだ。また、コイル側ではなく、コンデンサ側を分割したコルピッツ発振器もある。
LC発振器は、LとCの値で決まり、それも電極などの物理的サイズに依存するので、精度はそれほど期待できない。そこで、水晶発振器が、高精度の電子機器の発振回路としてよく用いられる。水晶発振器を等価回路で示せばLCR発振回路となり、コルピッツ発振器のLを水晶に置き換えたものがピアス発振回路である。
本書は、CMOSインバータを増幅素子としたピアス回路の例が紹介される。また、電圧で発振周波数を制御するのがVCOである。ダイオードの接合容量がバイアス電圧によって変化するのを利用したもので、LC発振器のCの一部を可変容量ダイオードに置き換える。水晶発振器においても、Cを可変容量ダイオードに置き換えれば、若干の周波数を変化させることができる。これがVCXOである。VCOやVCXOのよく利用される方法はPLLといったところであろうか。

2011-10-23

"新版 マクスウェル方程式" 北野正雄 著

マクスウェルと言えば電磁気学...おぞましい赤点の記憶が甦る。当時の大学の講義では、電界や磁界を扱うための数学の道具としてベクトル解析から始まり、ガウスの定理やストークスの定理を経由して、クーロンの法則やビオ・サバールの法則が中心的な存在であった。ちなみに、電子工学では電界や磁界と呼ぶが、理論物理学では電場や磁場と呼ばれる。電子回路の実践という立場からすると、これらにオームの法則やジュールの法則を加えるぐらいでほとんど説明できるだろう。マクスウェルやローレンツとなると、最後の方でちょろっと登場しただけであった。
しかし、これらの偉業がおまけの存在では、科学や哲学の観点からすると不幸であろう。しかも、ひたすら複雑な演算過程が黒板に示され、それが正しいかなどアホな学生に検証できるはずもなく、有無を言わせず暗記科目に仕立てられた。科学が単なる暗記科目になり下がると悲劇だ!いや、喜劇だ!おかげで、電磁のスピン的現象を、数学の複素空間で角周波数的特性と適合することを感じる間もなく、ひたすら数式の霧の中をさまようしかなかった。著者の言葉を借りるならば、「天下り的な」思考ということになろうか...

本書は、そんな赤点小僧にも新たな視点を与えてくれる。その試みは感動モノだ。
マクスウェル方程式から始まり、大学の講義とは逆向きのアプローチがなされる。従来の講義では、電磁場の記述がスカラーとベクトルの範疇に留まるために本質的なことが見失われがちだと指摘している。そして、「テンソル」「双対空間」という概念を積極的に導入している。特に、数学的な意味と物理的な意味を区別することに注意が払われ、「物理的次元」というものをかなり意識している。スカラー積やベクトル積で演算が規定できればありがたいが、そのために物理的次元が無視され、変換系の整合性がとれないということらしい。そもそも物理的次元が違えば、演算そのものが成り立たないような気もするけど...
まず、「計算的経済性よりも概念的合理性を重視する」と宣言される。電磁場を記述するには、その位置によって様々なエネルギー現象が生じるので厄介である。そこで電磁ポテンシャルを解析することになるが、反対称性が線形性を維持しながらうごめきやがる。反対称性の演算となれば、直観的には行列式のような記述が向いてそうだ。演算表記では、添え字で多次元が表現できるテンソルが有効であろう。変換行列の直交性が空間を同一視できるという考えは、データ解析の基本的な思考である。なるほど、点電荷のような3次元空間の物理現象を扱うには、2階のテンソルで記述するのが適しているというわけか。反対称性にもよく適合するようだ。
また、ベクトル表記にこだわれば直交基底の制約を受けるが、現実には非直交基底と対峙しなければならない。そこで、抽象度を高めるために双対基底を導入している。ある線形のベクトル空間に線形関数によって作用を施せば、新たなベクトル空間が形成される。更に、同じ線形関数によって作用を施せば、元のベクトル空間に戻る。これが「双対空間」というものらしい。双対とは、2回対称性という意味のようだ。
有限次元において線形的な作用が認められれば、系の変換もイメージしやすい。MRI(磁気共鳴画像装置)のように体内が撮影できるのは、磁場という物理量で空間の方向や位置を測定できるからであり、それも双対性のような関係によって系の変換ができるからである。反対称性テンソル場は、電磁気学の数学的、幾何学的側面において中心的存在であるという。そして、反対称テンソル場は微分形式ということになる。微分形式とは、微分方程式を幾何学的に捉えようとした共変テンソル場といったところであろうか。よって、幾何学的にイメージさせてくれる grad, curl, div といった微分演算子との関係が重要となる。こうした幾何学的思考が、マクスウェル方程式をエレガントに魅せてくれる。

マクスウェル方程式が生まれた当時は、まだ電磁波が発見されておらず、ましてや光が電磁波の一種などという認識もない。だが、マクスウェルが導入した変位電流密度項 ∂D/∂t は、波動的な解を与える。その伝搬速度 1/√(ε0μ0) が、光速の実測値とよく符合したことから、光が電磁波であることが確信されたという。ε0, μ0 は、それぞれ電気的、磁気的な定数であり、光とはまったく無関係に見える。しかし、マクスウェル方程式には光速の不変性が示され、後に相対論との間で論争を繰り広げることになる。
運動の相対性と光速の不変性の矛盾を解決する原理では、ローレンツ変換がその役割を果たす。光速が不変と主張したところで、現実には赤方偏移や青方偏移といったドップラー効果が観測される。となれば、相対論との矛盾を回避するために、変数を別に求めなければならない。そこで、別の慣性系において時間の進み方が変わるということになる。いわゆる「同時性の破れ」というやつだ。「ローレンツ短縮」とは、運動する物体の長さが、別の静止系から眺めると、運動方向に短縮して観測される現象である。光速に近づけば、時間が短縮し、空間が歪むというわけだ。この統一見解の立場から、電磁気学はローレンツ短縮に帰着するという考えが広くあるようだ。本書は、ローレンツ変換の近似であるガリレイ変換を用いて直観的な考察を味あわせてくれる。

1. 天下り的な概念
「廃棄されるべき概念」として紹介される永久磁石の例は興味深い。磁化をつくる要素は小さい環状電流である。しかし、一般的には、電気双極子のアナロジー的発想から正負の磁荷の対、すなわち磁気双極子なるものを想定する。その最たるものは、小学校の理科で習うアレだ。N極とS極は色分けまでされて、別の物質が存在するかのような印象を与える。子供の頃、N極とS極の境界はどうなってるんだ?って考え込んでしまった覚えがある。思考の節約という単純な動機で用いられる物理モデルの典型である。これを脱却することはできまい。小学校の理科の象徴のようなものだから。だが、電磁気学の立場から、環状電流モデルで示されるべきだと指摘している。永久磁石の中で、電荷がサイクロトロン運動をしている様子は、とても磁極モデルなどでは説明ができないというわけだ。
また、電場と磁場を対称的に捉える立場として、電荷に対して磁荷を持ち出すケースが多いが、本書は相補的に捉えるべきだという立場を通している。

2. マクスウェル方程式
 div D = ρ
 curl H - ∂D/∂t = J
 div B = 0
 curl E + ∂B/∂t = 0
 (E:電場, B:磁束密度, D:電束密度, H:磁場の強さ, ρ:電荷密度, J:電流密度)

分極P, 磁化Mを用いると、
 D = ε0E + P
 H = (1/μ0)B - M
 (ε0:磁気定数または真空の誘電率, μ0:電気定数または真空の透磁率)

真空中(ρ = 0, J = 0, P = 0, M = 0)で方程式を解くと、
 c = 1/ √(ε0μ0)
これが電磁場の擾乱(変化)する速度で、真空中の光速ということになる。
真空のインピーダンスは、Z = √(μ0/ε0) で定義される。
速度vで運動する電荷qが、電場、磁場から受ける力Fは、
 F = qE + qv × B
これがローレンツ力である。

3. 電場と磁場
物理量が空間の各点に割り当てられた状況が「場」であり、それが室内の温度分布であれば温度場ということになる。ちなみに、ホットな女性の熱視線が渦巻くところは「夜の社交場」と呼ばれる。
ある点における場の量は、その点における微小変位ベクトルとして捉える。それは、点、線、面積、体積...などの次元に相当する、点スカラー場、力線ベクトル場、束密度ベクトル場、電荷密度場、密度スカラー場を対応させるイメージである。
領域の境界を∂で表すと、曲線Lの両端(P2, P1)では、P2 - P1 = ∂L、曲面Sの周辺の曲線では、L = ∂S、体積Vの表面では、S = ∂V となる。
∇ = ∂/∂x は、場の性質を持ったナブラ演算子で、何かのベクトル場を掛けることによって結果が得られる。こんな感じで...
  • ナブラにスカラー場φ(関数)を掛けると,関数の勾配場が得られる。
     ∇φ = grad φ
  • ナブラとベクトル場Aのスカラー積をとると,場の湧き出しや吸い込みがあるかが得られる。
     ∇・A = div A
  • ナブラとベクトル場Aのベクトル積をとると,場の回転量(rot, curl)が得られる。
     ∇×A = curl A
渦は回転(rot, curl)、湧きだしは発散(div)といったイメージであろうか。ちなみに、ラプラシアンは、∇^2 (2階の偏微分)をΔと表記して一般化したものである。ラプラス変換と聞いただけで蕁麻疹が...
マクスウェル方程式には、4つの場(E, D, B, H)が含まれている。D, Hは、純粋な電磁的な量だけではなく、媒質にも関係したハイブリッドな量である。4つの場は、電荷密度によってDが生じ、電磁場中のEによって力が生じる、あるいは電流密度によってHが生じ、電磁場中のBによって力が生じる、という関係がある。この場合、D, Hを「源場」、E, Bを「力場」と呼ぶことがあるという。電場のエネルギーは、コンデンサのように電場に逆らって電荷を移動させるのに要する仕事で、磁場のエネルギーは、コイルのように磁場を増加させる際に電流を維持するにの必要な仕事、ということはできそうだ。なるほど、回転楕円体の媒質で生じる磁場を眺めれば、帰還回路が形成される様子やループ利得が見えてくる。

4. ガウスの定理とストークスの定理
ベクトル解析の中心は、ガウスの定理とストークスの定理である。
力線ベクトル場の空間変化は、スカラー場として表される。
 ∫A・dL(境界は∂S) = ∫∇×A・dS(境界はS) ... ストークスの公式
力線ベクトル場Aから導かれる ∇×A は「渦場」と呼ばれる。渦場は束密度ベクトル場である。これは、2形式場 ∇ΛA (Λ: 反対称積)と見ることもできるという。
また、束密度ベクトル場Bの空間変化は、体積場として表される。
 ∫B・dS(境界は∂V) = ∫∇・B dV(境界はV) ... ガウスの公式
束密度ベクトル場Bから導かれる ∇・B は「湧き出し場」と呼ばれる密度スカラー場である。これは、3形式場 ∇ΛB と見ることもできるという。
こうして眺めていると、階数が1だけ異なる場が、微分積分によって関連づけられる。こんな感じで...
  • 点スカラー場は階数0で、式φ(x) = ∫grad φ・dL によって、力線ベクトル場の階数1となる。
  • 力線ベクトル場は階数1で、式∫A・dL = ∫curl A・dS によって、束密度ベクトル場の階数2となる。
  • 束密度ベクトル場は階数は2で、式∫B・dS = ∫div B dV によって、密度スカラー場の階数3となる。
gradは、点スカラー場に作用するが、密度スカラー場に作用させることはできない。同様に、curlは力線ベクトル場、divは束密度ベクトル場のみに作用させることができる。

5. デルタ関数
点電荷とは、小さい領域に局在する電荷分布を理想化したもので、原点で電荷密度が無限大になるという特異性を持つ。この特性は超関数のデルタ関数を用いると、うまく適合する。あの忌々しいインパルス応答だ。
デルタ関数は、ディラックによって量子力学の定式化のために導入されたという。原点で連続な関数f(x)に対して、
 ∫f(x)δ(x)dx = f(0)
を満たすものと定義される。インパルス応答のように、∫δ(x)dx = 1 を満たす適当に滑らかな関数であれば、デルタ関数でモデル化できるというわけだ。これを電磁気学で用いるには、三次元に拡張する必要があるという。

6. クーロンの法則とビオ・サバールの法則
電場、磁場に関する基本法則は、それぞれクーロンの法則とビオ・サバールの法則である。点電荷が電場に対応するならば、点電荷の運動が磁場に対応すると考えればよさそうだ。ただ、点電荷といってもあくまでも概念的なモデルであって、それに相当する運動、すなわち点電流なるものも物理的に存在しないから厄介である。電流は導線の中を電荷が移動している状態である。よって、電束密度の変化量を積分するようなイメージになる。電荷の積分を統計的に用いるとでも言おうか...
クーロンの法則では、磁場が生じない「静電場」を想定する。電荷分布が時間的に変化しない時、磁場は存在せず、時間的に変化しない電場だけが存在することになる。
一方、ビオ・サバールの法則では、電場の生じない「定常電流による磁場」を想定する。電流分布が時間的に変化しない場合の磁場を考えて、電荷分布を0と仮定する。この状態は、しばしば「静磁場」と呼ばれるそうな。しかし、「磁場は運動する電荷に付随するもので、本質的に動的なものであり、相応しい呼び方とはいえない。」と指摘している。
電荷が一定速度で運動すれば、やはり電場を形成するだろうし、磁場だけが存在するような状況を想定することは難しい。そこで、電流の流し方を工夫する。面の閉路に沿って電流をループさせることを考え、微小面積の総和(積分)として捉える。点電荷が閉路で等速運動すると考えれば、運動の慣性系で捉えることができそうか。マクスウェル方程式の時間依存部分は、静電場と定常電流の磁場の二つの系から眺めることができそうだ。

7. 電磁気学と量子論の関係
マクスウェル方程式は、量子論の発見に貢献した。アインシュタインの光量子仮説からディラックの量子電気力学に至るまで。本書は、量子論との深い関係として、荷電粒子を量子論的に扱うために必要なハミルトニアンとアハラノフ - ボーム効果を紹介してくれる。
ハミルトニアンとは、全エネルギーに対する物理量を抽象化するようなもので、通常の物体では運動エネルギーとポテンシャルエネルギーの合計として想像できる。だが、量子の世界となると、波動的な要素が加わり、想像もできない現象が生じる。量子論の解析では、このハミルトニアンが重要な役割を果たすそうな。
電磁場の解析では電磁ポテンシャルを調べるわけだが、量子力学における電磁ポテンシャルの重要性を示す典型例が、アハラノフ - ボーム効果だという。なんと!荷電粒子が存在する領域において、電場や磁場が存在しないにもかかわらず、電磁ポテンシャルの影響を受けるというのだ。磁気単極という状態が存在しうるというわけか。

2011-10-16

"世界でもっとも美しい10の物理方程式" Robert P. Crease 著

「展覧会の絵のように鑑賞する!」シリーズ第二弾、科学実験に続いて物理方程式の登場だ。しかし、原題は「偉大な方程式 - 科学で起こったブレークスルー、ピタゴラスからハイゼンベルクまで」とある。著者ロバート・クリースの選択基準は「美しい」ではなく「偉大な」であったわけか。優れた方程式というものは数学的な美を具えているもので、本書の邦題でも違和感はない。但し、シュレーディンガー方程式は、波動関数で抽象化しなければ美しく見えないけど...
「美しい」とはいっても、数学的な知識とセンスがなければ味わうことすらできない。その感覚は主観性の領域にあり、科学が得意とする客観性と真逆に位置するところに面白さがある。偉大な科学者には、世界を知ることのできる方程式に驚嘆の念を保ち続ける知性と感性があるのだろう。羨ましい限りだ!

あらゆる現象を数学で説明できれば、感情的になりやすい精神に平静をもたらし、真理へと向かう力を与えてくれるだろう。ただ、数学は無味乾燥な学問と蔑む意見も少なくない。あるいは、科学は自然法則の発見であって、発明ではないという意見も聞かれる。その通りかもしれない。発見を成し遂げた人も、既にそこにあったものにたまたま出会ったと感じるものらしい。
しかし、だ!方程式の美を探究する過程を観察すれば、これほど情緒的で創造的なものがあろうか。偉大な科学者たちは、狂気じみた思考を好む。というより、難題に遭遇すれば、極端に逸脱した発想を試みるところまで追い詰められるのだろう。天才たちには、科学への信念と宗教的な感情との間になんら障壁もなく、矛盾すら感じないのかもしれない。いや、矛盾を自然に受け入れながら楽しんでいるのかもしれない。狂信者でもなければ、人生を賭けてまで結論があるのかも分からない研究に没頭することはできまい。そして、宇宙原理のもとで誰からも強制されない独自の神を構築する。こうしてみると、科学もなかなかの宗教だ!
数式は単なる記述である。しかし、不確定性原理に到達する過程は、もはや単なる記述だけでは片づけられない。世代間を超えた純粋な知への渇望によって獲得した結果は、芸術の喜びを味あわせてくれる。方程式には、現象を簡潔に記述するところから詩と似た性質があって、多くの原理や哲学的な意味が内包されている。偶然一般化された方程式であっても、後に本質的な解釈が施される。したがって、数学は哲学だ!と強く主張したい。
あらゆる学問において体系化が試みられるが、数学における体系化の純粋さは格別だ。
ガリレオ曰く、「自然の書物は数学の記号によって書かれている。」
概念とは、決定的なものではない。せいぜい方向性を示すぐらいなものか。科学者たちは、概念的理論を数式で武装し、単なる空想で終わらせないように努力してきた。ここに、精神領域に留まった哲学と、数学的に解放された哲学との違いがある。しかし、ハイゼンベルクが不確定性原理を発見すると、科学は再び精神領域へと引き戻される。むしろニュートン力学や相対性理論が適応される世界の方が、自然界において特殊なケースだったのだ。
人類は、重力の存在をその概念が発見されるずーっと前から、なんとなく感じてきただろう。これほど存在を意識させる物理量もあるまい。古典物理学が重力を中心に発展してきたのも道理というものだ。やがて、アリストテレス的エーテル説をめぐっての論争が激化すると、ニュートンの「運動の相対性」とマクスウェルの「光速の一定性」が矛盾するように見えてくる。ならば、光速を一定量と仮定し時間と空間の方を可変量にすれば、相対性にも矛盾しないんじゃないか、とアインシュタインが時空の曲率で統合した。ここまでは、認識空間が歪んでいるとはいえ、まだ古典物理学風の存在認識は保たれている。
ところが、量子の存在を確率論でしか説明できないとし、不確定性が普遍の原理だとすれば、シュレーディンガーの猫と似たような状況となる。つまり、あらゆる存在の可能性は重ねあわせでしか説明できなくなり、自己の存在も疑わしくなる。哲学は古くから実存認識に疑いを持ってきたが、ここにきて...科学よ、お前もか!
もはや、科学は感受性のないドライな世界などとは言ってられない。人間の客観的能力は、いまだ精神の檻に幽閉されたままなのだ。科学の目的は技術を裏付けして社会を豊かにすることになっているが、実は人間の認識能力の限界を教えようとしているのか?人間の持つ合理性は、主観性と客観性の調和によってのみ実現できるというわけか。

さて、どんな分野でもトップテンを選ぶとなると揉めるものだ。ここに選出されたものにまったく異論はない。ただ、革命的な思考をもたらしたゲーデルの不完全性定理も挙げたいところだが、方程式で表現するにはちょっと苦しいか。物理学への影響もいまいちか。また、数学の未解決問題「リーマン予想」が証明されたならば、ゼータ関数がランキングしてくるだろう。なにしろ、素数の法則と純粋ランダム性を解く可能性があるのだから。
となれば、代わりにどれかを除外せねばならんが...んーそれも難しい!マクスウェルの四つの方程式をセットにしているから、ニュートンの運動法則と万有引力を一つにまとめるという手もありか。
更に、トップワンを選ぶとなると、知名度の高い E = mc^2 という意見が聞こえてきそうだ。歌姫マライア・キャリーにいたっては「E=Mc2」なんてアルバムもある。さりげなくイニシャル(MC)を埋め込んで。
しかし、おいらはオイラーを推したい。複素空間における指数関数と三角関数の関係は、急激に増大し発散する世界を周期的な閉じた世界に等しいとしたのだから。おかげで、記憶のない虚時間の概念によって千鳥足でぐるぐる回る店間経路を説明できるし、アルコール濃度が急激に増大すると同じ台詞を繰り返しながらホットな女性を口説く現象も説明できる。

1. ピタゴラスの定理 : c^2 = a^2 + b^2
「ピタゴラスの定理」の発見者は不明だそうな。その時期もピタゴラスよりもはるか昔だとか。直角三角形の辺の比がピタゴラス数になる三角定規の存在を古代の職人たちは経験的に知っていた。航海術や天文学で用いられれば、たちまち宗教と結びつく。宗教は宇宙の真理に飢えているのだろう。石工のギルドから生まれたとされる秘密結社フリーメイソンは、この定理をシンボルに用いて真理の象徴とした。
古代インドでは、「シュルバスートラ(縄の経)」という書にブッタの「聖なる数」というものがあるという。この書は祭場を設営するための指示書で、幾何学的知識が満載でピタゴラスの定理の応用例まで記載されるそうな。
また、中国最古の天文学と数学の書「周髀算経(しゅうひさんけい)」にも、ピタゴラスの定理らしきものが記されるという。この書は、「地球は平らだとする宇宙観を、論理的に基づき完全に数学的に説明した唯一の書物」として有名だそうな。
「シュルバスートラ」が宗教的目的で、「周髀算経」が天文学的目的で書かれたが、証明がはっきりと示されるわけではないらしい。そして、定理として証明してみせたのが「ピタゴラスの定理」ということになる。知識を知っていることと、それを証明することでは意味が違う。結果よりも真理に辿り着くプロセスこそ信頼を裏付ける。無条件に信じるかどうか、ここに宗教と科学の隔たりがある。ピタゴラスの定理は、人類史上最初の科学だったのかもしれない。

2. 運動の第二法則 : F = ma
学生時代、「力の概念」とエネルギーは何が違うのか?と困惑したものだ。この方程式には、質量とエネルギーが等価であるという洞察は含まれない。実際の現象についてではなく、抵抗がまったく存在しない架空の世界を記述している。それでも、あまりの単純さゆえに批判的な意見をも黙らせてしまう。「力の概念」の意味とは、説得する力なのか。ニュートンは、力、質量、運動を定義すると同時に、経験によって発見した検証可能な関係を述べた。
運動とは、人間が生まれながらにして体験する最も身近な物理現象である。押したり引いたりすれば自然に筋肉が動き、なによりもそこに居るだけで体重を感じる。女性の嫌がる現象のようだ。人間は、あらゆる現象を説明する時に、本能的に力関係を想像するところがある。政治の力学しかり、金銭の力学しかり。
だが、力の概念は分かりやすいようで、いまいち捉えどころがない。ガリレオは「力」を何と呼んでいいか分からず、インペトゥス、モーメント、エネルギー、フォースなどの用語を使ったという。ガリレオ著「天文対話」でも慣性の法則らしきものが語られるが、いまいち自信なさそうで、質量についても、おぼろげな認識しかなかったようだ。一方、ニュートン著「プリンシピア」は、力、質量、加速度を体系的に述べ、いまや運動の存在論の基本要素となっている。

3. 万有引力の法則 : F = G・m1・m2/r^2
「すべての物体は、質量の積に比例し、距離の二乗に反比例する力によって互いに引き合う。」
ニュートンは、あらゆる物体には普遍的な引力が存在するとして、地上の物理学と天空の物理学を統合した。当時、物体の運動はなんらかの接触媒体によってもたらされるとして、エーテル説のような思想が支配的であった。ガリレオ以前からアリストテレス的世界観への疑いはあったが、具体的に反証してみせたのが万有引力の法則である。落下運動は日常の当たり前の現象で、重力の存在が科学的に証明されなくても直感的に認識できる。だが、干潮現象や天体の円運動とは無関係だと信じられてきた。そこに、統一見解を示したのだから科学的大革命と言えよう。あの有名なリンゴが落ちる物語が、聖書のエデンの園で「知恵の樹」の果実であるリンゴを人間が初めて手に取った物語と重ねながら伝説化するのもうなずける。
ニュートンは、重さと質量を区別する思考から、引力の概念に到達したという。物体の力は内部から強制的に動かすインペトゥスのようなものという考えから、物体の運動は外部から作用する力によって起こるという考えに変わったという。力が距離とともに変化することから、重さと質量を区別する必要があったわけだ。重さは、地球の表面からの距離に応じて変化するが、物体が本来的に運動を決定づける質量は変化しない。ニュートンの研究はケプラーの法則によって動機づけられ、ガリレオの実験の舞台を法則の舞台へと押し上げた。
ただ、曲線軌道運動の解析における求心力と慣性に分解する方法は、ロバート・フックの影響によるものだという。ちなみに、ニュートンはフックを毛嫌いして王立協会でしばしば対立したとか。フックはこの方程式を先に導いたと主張したが、相手にされなかったという。フックは逆二乗法則を提案したが、それは特定の場合であってニュートンはその普遍性を示したというから、抽象度ではニュートンの方が優っているようだ。

4. オイラーの等式 : e^iπ + 1 = 0
これほど、「展覧会の絵のように鑑賞する!」に相応しい数式があろうか。ネイピア数と円周率を含みながら、気味が悪いほど単純化してやがる。
ただ、個人的には、e^iπ = -1 の形の方が説得力を感じる。なにしろ、無理数と虚数を組み合わた指数関数が、その成分がうまいこと相殺し合うと整数と等価になると主張しているのだから。自然界では、有理数、無理数、虚数が、調和の中で存在しているというわけか。
ガウス曰く、「オイラーの等式を見て、自明と感じない人は数学者ではない」
尚、e^iθ = conθ + i・sinθ の形で学んだ印象が強いが、θ = π とすれば同じだ。この形も哲学的意味は大きい。指数関数的な増大が、三角関数の無限周期と等価であると主張しているのだから。オイラーは、あらゆる現象を周期的なもので扱うことができれば、どこかに収束する可能性を示した。まさに解析学の思考原理だ。近似法において数学の直交性を利用して三角関数などの周期性を利用するのも分かる。近似法とは、複雑な現象の中から無理やり法則性を見出して、抽象化の概念に押し込んで誤魔化す方法論というわけか。
無理数を扱う必要性から「虚数」という名称を提案したのはデカルトだという。連続体の研究では微積分学でライプニッツやニュートンが功績をあげているが、更に、解析学として体系化したのがオイラーだ。彼は「ケーニヒスベルクの橋の問題」を解決して、位相幾何学も先駆けている。もっとも位相幾何学という分野が認めらたのは、その百年後であるが。

5. 熱力学第二法則 : S' - S ≥ 0
S'はしばらく時間が経ってのエントロピー、Sはある時間におけるエントロピー。
「エントロピー増大の法則」としても知られるこの法則は、世界のあらゆる現象において本質的な意味を持っている。アインシュタインは、「エントロピーはすべての科学にとって第一の法則」と言ったとか言わなかったとか。
エントロピーは、よく「乱雑さ」と訳されるが、その意味するものは簡単には片付けられない。金属のように一つの物質内では熱の伝搬が一応に広がり均衡化していくが、社会現象では均衡化というより複雑化を示す。それが、エネルギー保存則と深い関わりがあることは、なんとなく感じる。だが、エネルギーの正体も様々で、熱エネルギーであったり、運動エネルギーであったり、はたまたポテンシャルエネルギーであったりと捉えどころがない。熱がエネルギーに変換されることが分かっても、いつ、どのように変換されるのか?そして、変換効率が議論される。
理想の可逆サイクルとしてカルノーサイクルは有名だが、実現不可能とされる。そして、熱機関の立場はカルノーの「熱の保存論」とジュールの「熱の変換論」で割れた。クラウジウスは、ギリシャ語の「変換」を意味する言葉をもとに「エントロピー」と名付け、次のように定式化したという。
「世界のエネルギーは一定である。そして、世界のエントロピーは最大値に向かって常に増加し続ける。」
学生時代、熱力学の第一法則と第二法則は直感的に矛盾しているように見えたものだ。第一法則はエネルギー保存則であり、必ず系における状態が一定ということは、なんとなく可逆性をイメージさせる。だが、第二法則の左辺がプラスになるということは、不可逆性を宣言している。なんと気持ち悪いことか。となれば、不可逆現象を元に戻すには、時間を逆転するしかない。これが「時間の矢」の原理だ。つまり、熱力学第二法則の意味するものは、「後悔先に立たずの原理」というわけだ。

6. マクスウェルの方程式 : 電磁気学を完全に記述する四つの方程式
 ∇・E = 4πρ : 電磁がどのように生み出されるか
 ∇ × B - (1/c)∂E/∂t = (4π/c)J : 電流と変化する電場がどのように磁場を生じるか
 ∇ × E + (1/c)∂B/∂t = 0 : 変化する磁場がどのように電場を生み出すか
 ∇・B = 0 : 磁気単極子は存在しない

マクスウェルは、空間を通って伝搬する電磁波の存在を予言し、ニュートン力学で予測されていない電磁場を記述した。「アンペールの法則」は、導線の環に沿う磁力の総和は、その環を貫通して流れる電流の総和に等しいことを示す。ファラデーは、電磁誘導とファラデー効果を発見した。電磁誘導とは、運動する磁石が導線に電流を生じさせ、変化する電流が別の導線に新たに電流を生じさせる現象である。ファラデー効果とは、偏光した光が磁場の存在のもとでガラスを通過する時、その偏光面が回転するという現象で、磁気は光に影響を及ぼすことを意味する。
当時、電気は、導線を流れる粒子としてニュートン力学で議論されていた。ファラデーは、電気も磁気もエーテルの歪みから生じ、エーテルによって伝搬すると信じていたという。そして、力線を用いて磁気を実験的に説明する。小学校の理科で、磁石の周りで砂鉄が曲線を描くアレだ。これを数学的に説明したのがマクスウェルで、電磁気学という新分野を切り開いた。彼は、磁気ベクトルポテンシャル(電磁ポテンシャルの磁気部分に当たるベクトルポテンシャル)と微分方程式を用いて、変化する磁場でどのように電流が生じるかを説明する。
「磁場が光の偏光面を回転させられるなら、力線上のそれぞれの点は、回転する小さな分子の渦のようなもので、その渦は、傍を通過するあらゆる光の波に、自らの回転の一部を与えることになる。」
磁場が回転する多数の「セル」でできていると仮定すると、磁場が強いほどセルの回転は速くなるというわけだ。そして、電磁現象の媒体はある程度の弾性を持っていることを示した。ここで注目すべきは、弾性を持つものはすべて、エネルギーを波動性によって伝えるということである。電磁場では、反射、屈折、干渉、偏極の現象があるというわけだ。
実は、マクスウェルはエーテル説に憑かれていたようだ。音波であれば、風が吹くとその媒体である空気の流れる方向によって異なる速度で伝わる。ならば、エーテルにもわずかなドリフトがあって、光の方向にも速度の違いが生じるのではないかと考える。マクスウェルは、電磁波なるものの存在を予感させる。そして、電磁波を発見したのがハインリヒ・ヘルツ。結局、マイケルソン・モーリーの実験でエーテルの存在は否定されることになるが。
ところで、マクスウェルが定式化したベクトルポテンシャルAと静電ポテンシャルΨに基づいた表現は、悪評だったそうな。複雑過ぎて実用的でないというわけか。そこで、アマチュア科学者のオリヴァー・ヘヴィサイドが、電気力Eと磁気力H、電気と磁気の流れをDとBを使って書き直し、一気に四つの方程式に凝縮されたという。測定したいものはポテンシャルではなく、電場の強度と磁場の強度ではないか、というのが彼の言い分だそうな。この思想は、ヘルツをはじめ著名な電磁気研究者に歓迎されたという。

7. E = mc^2
「運動の相対性」と「光速の一定性」との間に矛盾が生じると、物理学界はニュートン力学かマクスウェル理論のどちらかに間違いがあるだろうと考え困惑した。そこで、やけくそになった人物がローレンツだという。彼は、静止系と運動系との間には時間の長さの違いが生じるとした。ローレンツ変換は、二つの慣性系の間の時間と空間を結びつける線形変換である。観測系が光速に近い運動をすれば、時間や空間が縮むというわけだ。すなわち、絶対空間や絶対時間なるものを認めない。ローレンツは、エーテルの存在を仮定して、時間の収縮が起こるというローレンツ収縮を導き出した。
実は、ローレンツはエーテル説を救おうとしたという。対して、アインシュタインは、エーテル説を仮定しなくても相対性と光速一定が両立できるという立場から、同じ結果を導く。二つの慣性系における時間と空間の長さの違いを、ピタゴラスの定理によって収縮係数を求めたのだった。アインシュタインは、相対性原理をマクスウェルの方程式と組み合わせると、質量は物体の中に含まれるエネルギーを直接表す量でなければならないことに気づいたという。そして、光は質量を運ぶものということになる。つまり、ある物体がエネルギーを放出すると、E/c^2 だけ質量が減るというわけだ。
この方程式には、「質量とエネルギーの等価性」という概念が記述され、宇宙の基本的な骨格が示されている。質量とエネルギーは低速度ではほぼ一定だが、光速に近づくにつれて変化するというわけだ。後に、原子核が発見され、更に中性子が発見されると、質量とエネルギーの等価性の原理は、宇宙の最小スケールから最大スケールまで、あるいは原子構造から恒星の爆発まで説明できるようになる。

8. 一般相対性理論の方程式 : Gim = -κ(Tim - 1/2・gimT)
この時空の曲率を表す場の方程式には、アインシュタインの重力定数κ が含まれ、空間は重力場の近辺で湾曲するというのだから、まさにニュートン力学の普遍性に修正が加えられた偉業である。
慣性質量と重力質量という二つの現象があったとしても、自由落下している物体が外部からの作用によるものなのか、重力場の影響なのかを区別することはできるだろうか?運動している物体自体はそれを区別することができない、ということが何を意味するのか?
ニュートン力学では、軽い物体よりも重たい物体の方がより強く引き付ける。だが、重たい物体の持っている慣性質量によって、重力の引き付ける力にちょうど同じ強さで抵抗し、結局すべての物体は同じ加速度を持つことになる。この現象は一つの共変性を示している。共変性とは、いくつかの物体がある系で運動している時、一つの変化が共通して変化しているように見えるが、別の系から眺めると異なって見えるということである。しかも、その異なり方は、系の変換によって具体的に記述できるとした。
アインシュタインは、共変性を拡張して加速する系にも当てはめることを考えたという。基準座標系が加速しているとしたら?と。この定式化によって特殊相対性理論から一般相対性理論を構築するに至ったという。特殊相対性理論が等速運動の系を記述したとすれば、一般相対性理論は加速度運動の系を記述したというわけか。アインシュタインの重力理論に扉を開かせたのは、ヘルマン・ミンコフスキーの影響だという。ミンコフスキーは、物体の三次元座標(x,y,z)に時間軸を加え、ピタゴラスの定理を適応したという。
 S^2 = x^2 + y^2 + z^2 - (ct)^2
四つ目の項は時空を示していて、今日ではテンソルと呼ばれる形式で座標変換される。数学者の思考では、時間もまた通常の次元と平等に扱うわけだが、数学上のテンソルは階数によって複雑さが格付けされる。階数とは、物理学では次元に相当するのだろう。ミンコフスキーはテンソルによって時空までも統合したというわけか。
ところで、美しさという意味では、明らかに E = mc^2 に劣る。アインシュタイン自身も「半分は高級大理石でできているのに、もう半分は粗悪な材木でできているようなものだ」と嘆いたという。そして、残りの生涯を賭けて、その修繕にかかったが無駄な努力に終わる。そんなわけで、この難解な方程式をほとんどの人は鵜呑みにするしかない。自然界の理解という観点からすると幸か不幸か?ニュートンを超えたのか?超えていないのか?アル中ハイマーには分からん!

9. シュレーディンガー方程式
 d^2U/dr^2 + 2(a + 1)/r dU/dr + 2m/K^2 (E + e^2/r)U = 0 ...なんじゃこりゃ?

「ある粒子がある位置で検出される確率として解釈された系の量子状態は、時間とともに変化する。」
プランクは、黒体輻射にも古典論を適応するために、量子という概念を持ち出した。光を吸収したり放出したりする振動子のエネルギーは、ある特定のエネルギー量の整数倍になるような波長の光量だけを選択すると仮定すると、古典論がうまく適応できるという。アインシュタインも、光電効果で量子の概念を拡張して、エネルギーが量子の整数倍という離散数でのみやり取りされるのは、振動子がそのように選択しているからではなく、光そのものが粒子的だからだと説明したという。
古典物理学では、電子はエネルギーを放射しながらいずれ原子核に落ちることになる。だが、そうならないのはなぜか?ボーアは、「電子は、特定の離散的な量でしか輻射を放出したり吸収したりできない」と仮定すれば説明できるとした。原子内部では、電子は限られた軌道や状態でしか存在できないし、そのような状態どうしで飛び移るのに要するエネルギー分しか吸収したり放出したりできないというわけだ。
しかし、状態やエネルギーが離散的に変化するというのも奇妙な話だ。量子飛躍なんて聞くと頭が痛くなる。だから、学生時代から「元素の周期表」なんてものが大嫌いだ!どう考えたって、人工衛星は徐々に地球に近づいて落下するし、その軌道が飛躍するなどとイメージできない。電子軌道が波長の整数倍でしかありえないとはどういうことか?宇宙戦艦ヤマトが時間の波の頂点と頂点の間をワープするようなものか?
現象を確実に説明できないとなれば確率論に頼るしかない。マクスウェルもアインシュタインも仮の措置として統計論を用いる。そして、統計論を普遍的な原理に押し上げたのはハイゼンベルクとシュレーディンガーだという。ハイゼンベルクは、行列力学によって量子力学を計算するが、すこぶる使いにくいツールだそうな。対して、シュレーディンガーは、古典的なツールである連続関数による波動方程式を使い、時空の中で連続的に展開するプロセスを記述したという。つまり、波動で示すことによって視覚化可能なものとした。シュレーディンガー方程式は、未知の波動関数ψを含み、波長を運動量に、振動数をエネルギーに結びつける。ψは状態の確率を示すわけで、つまりは粒子の存在確率を示すことになりそうだ。但し、本書の式はψで表現されてない。

10. ハイゼンベルクの不確定性原理 : ΔqΔp ≥ ħ/2
「空間の小さな領域のなかに粒子の位置を特定すると、その粒子の運動量は不確定になり、また、逆に運動量を特定すると位置は不確定になって、全体としての不確定性は、ある特定の量に等しいか、それより大きくなる。」
量子の世界では、運動量と位置が同時に決定できないことを主張している。尚、pは電子の運動量、qはその位置。
「量pが平均誤差p1で表される精度内で特定できる場合...qを同時に特定しようとすると、q1 ≈ h/p1 という平均誤差で表される精度内でしか与えられないというのがその性質だ。」
量子の世界では、通常の乗法が成り立たない。掛け合わせる順番が違えば、経路も変わってくる。古典論では必ず ab = ba が成り立つが、量子論では、ab ≠ ba という場合があり、交換則が成り立たない。そこで、数学では行列式が強力な道具となる。行列は次元を一般的に表現でき、行列どうしの乗算はその順番が問題となるからだ。行列で一般の四則演算が可能なのは、対角行列のような特殊なケースのみ。
ハイゼンベルクは、覚悟を決め時空を放棄したという。原子の領域では、粒子や物体という概念を消し去るところから思考が始まる。それはニュートン的存在論の否定である。シュレーディンガー方程式が波動力学で示したのに対して、ハイゼンベルクは行列力学で示した。物理学者にとって、波動関数の方が馴染があったようで、当初はシュレーディンガーの方が優位にあったようだが、どうしても離散的な現象がひっかかる。シュレーディンガーとハイゼンベルクの論争は連続性と離散性の対立とも言えそうだ。精神の存在を説明しようとすれば、連続性では無理があり、あるかないかの離散性であるのだけど...
E = mc^2 の方がはるかに知名度は高いが、その式が成り立つのは限定された条件下だけということになる。抽象度の観点からすれば、不確定性原理の方がはるかに高いレベルにある。それは、科学と精神の融合であり、ある意味、主観と客観ですら抽象化しているのかもしれない。精神の最も高度なレベルは不確実性であり、最も崇高なものが「気まぐれ」というわけか。ハイゼンベルクは、「気まぐれ」ですら数学で証明したのか?
彼は「中間的リアリティ」という言葉を使ったという。不完全で半ば抽象的な存在ってことか?現実や実存といったものは単なる象徴概念であって、本質的な存在は人間の認識できない領域にあるのかもしれん。最初から、視覚化できない!認識できない!ことを覚悟すれば、心地よい世界へと導かれるのであろうか?

2011-10-09

"禁断の市場" Benoit B. Mandelbrot & Richard L. Hudson 著

フラクタルの父と呼ばれるベノワ・マンデルブロ氏。彼が亡くなったと大々的に報じられたのは一年前のこと(2010.10)。実は、彼の著書「フラクタル幾何学」を探していたのだが...まぁいい、人生行き当たりばったりよ!
マンデルブロ氏は、インタビューで経済学者を名乗り、金融工学は科学的に未熟で、過信すればすぐに破綻すると指摘した。そぅ、偉大な数学者が経済学に殴り込みをかけたのだ。その予想は的中し、世界はリーマンショックを皮切りに金融危機を経験することになる。1929年の世界恐慌以来、おそらく経済危機の伝統は受け継がれていくだろう。いまだ人類は、市場という複雑系を科学的に解明できるほどの有効な分析ツールを見つけられないでいる。せめて最大リスクを回避するための手段はないものか?本書は、まさしくその手段を提唱する。

ここで、古いジョークを一つ。
技術者と物理学者と経済学者が、海で遭難しましたとさ。
やっと辿り着いた無人島は砂ばかりで、食べられる物といえば豆の缶詰一つだけ。さて三人の意見は?技術者は石で缶に穴を開けて豆を取り出そうと言った。物理学者は缶を太陽熱で膨張させて破裂させようと言った。そして経済学者は、考えた末に「まず、我々が缶切りを持っていると仮定しようじゃないか...」と語り始めた。

運の委ね方にもいろいろあろう。確率論もその一つだが、賭けるものが大きくなれば客観的な視点は失われる。経済人には最大利潤を求める価値観があるが、その根底に安全運用という思考が働かなければギャンブル性を高める。企業家は従業員の生活に責任を負い、真っ先に倒産のリスクを計算する。一方、金融屋はわざわざリスクを複雑にして、世間を欺瞞する金融商品を続出させる。金融理論では、グローバル市場における暴落の可能性を過少評価し、専門家よりも一般の人々の方が危険性を直観的に感じているように映る。
金融理論が金儲けのツールとしてほとんど役に立たないことは、過去の市場経済が証明してきた。しかし、ちょいと視点を変えてリスク管理ツールとして眺めれば、そこそこ活用できることも確かだ。市場価格の分析では、絶対価格を追い求めるよりボラティリティを観察する方がずっと現実的であろう。それは、相対的な価値観にしか到達できない知的生命体の宿命であろうか。はたして、市場を完全に理解するということが、どれほど現実味を帯びているのだろうか?
数学者コルモゴロフ曰く、「サイコロを振るような過程でも、集合として全体を見ると、本当に美しい法則がある。そのような法則から生じる運を見積もることに、確率論の存在価値がある。」
政治や経済の最も重要な役割は、好景気に導いてみんなを裕福にすることではない。いかに経済的危機を避けるか、いかに耐え難い格差を抑制し基本的人権を守るかである。したがって、その視点はリスク管理にかかっているはず。一時的に景気を煽ったところで、その反動で不況の波が必ずやってくる。瞬間的に誘導した資本の流れは、経済循環に歪を生じさせるだろう。ある産業で景気を良くしようと企てたところで、別の産業にシワ寄せがくるだろう。それが経済サイクルというものである。

あらゆる現象を分析する上で、統計学の果たす役割は大きい。だが、数学の中でも少々異質に見え、肌が合わない。それは、いかに分布モデルに当て嵌めるかということに囚われ過ぎるように映るからである。ド素人感覚で言うならば、関数の直交性や対称性から地道に解析すればいいのに...と思うのだが、おそらく複雑系を相手取るような分野では、なんらかの法則や型に嵌め込んで近似する方が現実的なのだろう。そのアプローチでは、まず正規分布を仮定するのが一般的で、平均値や分散だけで統計モデルを決定しようと考える。そこで必ず例題として用いられるのが、学業成績や身長分布である。確かに、最も単純なところからモデリングするのが筋道であろう。しかし、自然界を眺めると正規分布をする方が珍しい。
そもそも「正規」ってなんだ?身近な現象では、突風のゆらぎ、金属の断面のギザギザ、凸凹した海岸線、地震の揺れなど... 物理現象では、ブラウン運動、熱伝導、フリッカー雑音、太陽黒点の変動など... ほとんど変則的で乱流的な性質を持っている。乱流の間欠性は、物理学では空洞実験などで古くから知られており、むしろ、ランダム性の方が「正規」と呼ぶに相応しいのではないか。経済学においても、伝統的に正規分布を仮定したモデルで金融理論を構築してきた。だが、市場経済もまたランダムウォークしやがる。おまけに、自然現象だけでなく、人間の思惑まで絡むという複雑怪奇!
そこで、フラクタルの登場だ!それは、図形の部分が全体と自己相似形になっているような幾何学的概念である。マンデルブロ氏は、人類にとって絶望的とも思える複雑系の中にフラクタルという法則性を見出した。根底の考えには「ベキ分布」があり、そのスケールは想定外で発生することを盛り込む。ちなみに、ベキ分布とは分布関数がベキ乗則に従うようなやつだ。正規分布では平均所得層が最も多いことになるが、ベキ分布では多くの富がほんの少数の富裕層に集中することが説明できる。
その分析方法は極めて単純だ。図形の部分と全体が相似形になる基本パターンを抽出し、そのパターンも数か所の点を持つ折れ線グラフを用意するだけ。あとは、パターン図形の拡大縮小率や縦横比率を調整したり、反転や左右対称などの幾何学的操作と組み合わせて近似する。これが「マルチフラクタル」の概念である。単純とはいえ、折れ線グラフは傾きや折れ曲がる場所をパラメータとするだけで無限のパターンが生成できるので、実際にはそう簡単にモデルを決定することはできないだろう。
カオス理論は、数値シミュレーションで想定した値にほんの少し誤差があるだけで、結果が大きく変わることを教えてくれる。この思考方法は微分に似ている。最も単純な折れ線グラフは三角形であるが、三角形で微分しているようなイメージだ。したがって、統計学というよりは解析学に近い、いや!幾何学と解析学の融合と言った方がいいかもしれない。自己相似性を用いて解析するとは、総体としての自己を根源的な自己で見つめ直すということに通じるような...自然法則が無限循環論に嵌り自己矛盾に陥るとすれば、これは自然学的な発想なのかもしれない。ちなみに、フラクタルという名のカクテルがあってもよさそう...酔えば酔うほどフラフラくたる...ランダムウォークとは千鳥足のようなものよ!

1. 異端の科学者
マンデルブロ氏はユダヤ人の家庭に生まれ、戦争体験から派閥に属さず独自路線を歩んできたという。プリンストン高等研究所では、フォン・ノイマンの最後の教え子となる。その後、IBMのトーマス・J・ワトソン研究所に勤務し、コンピュータの通信エラーの統計解析を行う。ついでに、社長の依頼で株式市場の価格変動を解析したという。1962年、金融工学の標準的モデルを否定する論文を発表し、正統派経済学と真っ向から対立する。
「経済学は流行りすたりのある学問分野です。自然科学でも似たようなところはあるのですが、特にこの学問のなかでは何が正しいのか、どんな研究が博士論文に値するのかについては、多数の合意、あるいは流行で決められる傾向があります。」
マンデルブロは、経済分析にベキ分布を取り入れた最初の人物だそうな。価格分布でファット・テールと呼ばれる長い裾野があるという考えは、今では広く受け入れられる。彼の提唱したベキ分布の理論は、安定分布、パレート分布、レヴィ分布、レヴィ=マンデルブロ分布など、様々な名で呼ばれるという。非整数ブラウン運動という確率過程と、その根底にある非整数階の微積分という概念も、近年、計量経済学の技術として用いられるという。また、市場がいかにバブルを生み出すかを定量モデル化しているという。後の研究者の手柄にされているようだけど...
彼は、マルチフラクタル・モデルを提唱し、「経済物理学」という新たな分野を切り開いた。そして、経済学の影の功労者として殿堂入りするに相応しい人物だという。

2. フラクタル幾何学
その名称は、「分解された」、「壊された」を意味するラテン語を元にした造語だそうな。例えば、樹木の枝やカリフラワーの小房、川の分岐などは、自然界に存在するフラクタルの代表である。
フラクタル幾何学では、ランダム性を単純な方からマイルド、スロー、ワイルドの三状態で分類するという。従来の金融理論では、単純なマイルド型が想定されている。それはコイン投げの確率と同じモデルである。確かに、コインを投げて表と裏が出るグラフを作成しても、株価チャートと見分けがつかないような傾向が見られる。本書は、実際の市場は最も複雑なワイルド型であると指摘している。マイルド型では一人の人間が歴史に影響を及ぼすことはないが、ワイルド型ではたった一人が歴史を大きく変える可能性があるという。そして、ホワイト・ノイズや熱エネルギーによる電子の動きは比較的予測可能でマイルド型、コンピュータの通信エラーや1/fノイズはワイルド型だとしている。
フラクタル幾何学では、全体と部分で繰り返しの構造に注目するので、分析と統合が同時に行われるという。基本は、イニシエータ、ジェネレータ、代入の規則、この三つがセットになってフラクタルのコードが構成される。最も単純なフラクタルは、ユークリッド幾何学の基本図形から出発する。三角形、直線、球がイニシエータで、フラクタルを作るための雛形になる単純な幾何学パターンがジェネレータである。どの方向にも同じスケールで拡大や縮小をすると元の形が現れる。この性質が自己相似性だ。ジェネレータはいくつか用意しておき、使う順番を乱数で決めたりする。
しかし、価格変動モデルでは、縦軸が価格で横軸は時間を表しそれぞれの性質は異なるので、縦軸と横軸の拡大率を変えないと同じ形が見えてこない。このような軸方向性を持つような相似性を「自己アフィン」と呼ぶそうな。更に、基本パターンごとに拡大縮小率を変え、左右対称、上下対称、スケールの相似といった組み合わせでマルチフラクタルを形成していく。

3. マルチフラクタル・モデル
市場予測では時間を横軸とするのが普通である。注目すべきは、物理時間と精神時間を区別して導入しているところである。ニュースが飛び交って売買注文が殺到する時もあれば、際立ったニュースもなく穏やかな時もある。そこで、一定に刻まれる物理時間ではなく、取引活動に基づいた「トレーディング時間」を想定する。時間方向と価格変動方向を分解するようなモデルを導入するわけだ。
フラクタルでは全体を一定の割合で縮小すると部分が再現できるのに対して、マルチフラクタルでは一つのパターンの中に複数の拡大縮小の特性を持っている。また、二つのパターンの特性を引き継ぐようなパターンをデザインすることもできるという。本書は、父親パターンと母親パターンから、それぞれの特徴を引き継いだ子供パターンの幾何学的な作図法を紹介している。これは感動ものだ!
母親パターンには物理時間を横軸にしたランダムウォークを用意し、父親パターンにはトレーディング時間に変換したランダムウォークを用意する。そして、その二つの特性を融合したマルチフラクタルが得られるという寸法だ。ここでは、フラクタル市場の立方体までが紹介されるが、次元は好きなだけ増やすことができそうだ。
時間の伸び縮みの処理方法は、数学的には「乗算カスケード」と呼ばれるそうな。ここでは、金鉱石を産出する地域の解像度を次第に上げていくようなイメージが紹介されるが、ウェーブレット変換に似ている。ウェーブレット変換は、思いっきり単純な関数の直交性を利用して成分を分解する。フーリエ変換にしても、正弦波と余弦波の直交性を利用して成分を分解する。なるほど、思考の原理は同じかぁ。ただ、マルチフラクタルは、幾何学的に何次元でも拡張できそうな予感がする。
更に、複雑系の現象として、突然現れる危機的な現象と、周期的に見える長時間相関の二つの激動の形を考察している。価格の大きな変動が一度現れると、ある程度持続する傾向もあれば、同じ方向の変動が単純に続くこともある。あるいは、それらの傾向が突然止まることもあれば、変動が逆向きになることもある。過去の事象が長時間相関の記憶効果によって、どの程度影響を与えるのかはまるで気まぐれだ。
そこで、この二つの形を検証する手段として、ハースト指数(H)と指数アルファ(α)を紹介してくれる。Hは、0から1の値をとり、0.5より大きければ持続性を示し、0.5より小さければ持続性を示さない。αは、値が低い時は突然の変動を起こす可能性があり、値が高い時は標準モデルに近い振る舞いをする。Hはトレンド性が見えやすくなり、αは市場リスクが見えやすくなるというわけか。

4. 凸凹とフラクタル次元
100年ほど前、リチャードソンという研究者は国境線の長さの矛盾を指摘したという。スペインとポルトガルの国境線の長さは、スペイン側は987km、ポルトガル側は1214kmとしているそうな。オランダとベルギーの国境線の長さも、オランダ側は380km、ベルギー側は449kmとしているそうな。正確な微分ができなければ近似するしかないわけだが、基準の物差しを短くすると海岸線の長さがどんどん長くなる。
この現象を特徴づけるために導入されたのが、「フラクタル次元」だという。直線ならばフラクタル次元は1となる。しかし、イギリスの海岸線は1.25、オーストラリアの海岸線ではもう少し滑らかで1.13、南アフリカの海岸線は1.02、といった具合に半端な数字になる。分岐を繰り返す気管支の先に広がる肺胞の表面積は、テニスコート一面分もあり、肺の表面のフラクタル次元は3に近い値になるという。肺の中の気道はきわめて入り組んでいて、ほとんど3次元空間を埋め尽くすというわけか。
フラクタル次元とは、図形の凸凹の様子を定量化する量ということになる。そして、あらゆるランダム性をフラクタル次元で表すことができるかもしれない。音楽や絵画や...精神も...

5. 金融理論も捨てたもんじゃない!
本書は、正統派金融工学が生み出した三つの理論の優れた点を考察している。それは、CAPM(資本資産価格モデル)、MPT(現代ポートフォリオ理論)、ブラック=ショールズの公式である。これらは、経営学修士(MBA)を取得するのに必須科目だという。
銘柄ごとに平均と分散などのグラフを描けば、リスクの高い銘柄と低い銘柄が見えてくる。そして、リスクとリターンの按配から、好みの銘柄を集めて独自のポートフォリオが作成できる。この概念は分かりやすく、投資をする上でまず勉強するところであろう。株式だけでなく債券や為替などを盛り込むこともできる。
CAPMは、ポートフォリオ理論を単純化したもので、株式指数型投資信託の概念を生んだ。
更に、ブラック=ショールズの公式の登場で、市場と同様にオプション価格を随時計算できるようになった。金融派生商品の価格づけに現れる確率微分方程式を編み出し、リスクに値段を付ける仕掛けを作ったわけだ。これらの理論が、投資をギャンブル性から工学へと持ち込んだ。フラクタル分析は、このあたりの理論の発展形と捉えることもできそうだ。
ところで、リスク管理のために世界中の銀行で使われるVaR理論というものがある。それは本当に機能しているのか?まさか、みんなが同じリスク管理思考に陥っているから、一斉に金融危機として現れるということはないよなぁ?BIS規定のような国際基準を設けるのもいいが、リスク分散には多様性に鍵があるような気がするけど。重要なのは規定ではなく、運用状態の情報の透明性である。危険な運用者がいたとしても、まともに情報が開示がされていれば、金利が上昇するだけのこと。市場には危険を好むギャンブラーが多いのも事実であり、彼らを単純に否定することもできまい。金融機関がいかに安全運用しているか、その努力で競争の原理が働くように誘導しなければ、規定は言い訳にされるだけであろう。

2011-10-02

"巨大企業が民主主義を滅ぼす" Noreena Hertz 著

前々からノリーナ・ハーツ女史の書を読んでみたいと思っていたが、なんと絶版中ではないか!いつでも入手できると侮っていたら...てなわけで図書館へ。
今日、どこの民主国家でも選挙の投票率は低下傾向にあるらしい。それは民衆の無言の抗議を示しているのか?それとも政党政治の限界を示しているのか?いまや政治不信は世界的風潮となりつつある。社会人類学者レヴィ=ストロースは原始社会の研究において、政治的首長は社会の必然から生じるものではないという見解を示した。ニーチェ風に言えば、政治家は余計な人々というわけか。これは真理かもしれない。グローバリズムの真の姿とは、政治家不要説ということか?...そんな予感をさせてくれる一冊である。

巨大化する多国籍企業が巨額な政治献金を行えば、政治家の行動を縛ることになる。民間企業がなんの見返りもなく資金提供するとは考えにくい。アメリカのように国民皆保険の設立を夢見たところで、反対派の保険業界から多額な献金を受けていては骨抜きにされるのも仕方があるまい。政治家がどんなに立派な公約を掲げようとも、選挙を介さない連中によって政治が動かされる現実がある。
本書は、「企業による無言の乗っ取り!」の実態を暴き、資本主義とグローバリズムの行き過ぎが引き起こす民主主義の衰退に警鐘を鳴らす。そして、政治や企業に対して市民の新たな関わり方を提唱する。これは反資本主義を唱えたものではない。過去に資本主義が富を生み、自由の尊さを教えてくれたのは事実である。資本主義以上の社会システムが模索できない今、このシステムに改良を続けていくしかあるまい。
ただし、我が国はこのようなレベルで経済政策や国家政策を議論できる土壌が、まだできていないことは虚しい。政策が悪いという前に将来計計画がない。善悪はひたすら結果論で評価され、その場のギャンブルに委ねられる。政治屋は、数の派閥を利かせるには、無思想、無理念のチルドレン議員を多く輩出することが最も効果があることを知っている。そして、次の政策には反省を盛り込むことすらできず、問題先送りの泥沼に嵌り込んでいく。これは、世論調査ばかりを気にする日和見政権が長期化することの悲劇であろうか。説得する政治は、いまだ見ることができない。将来ビションに対する説得がなければ、なんで増税議論ができようか。

民主政治にとって選挙が絶対的な制度とは思わない。それでも、現時点で人類が編み出した最も実践的な制度であることは確かだ。政治家たちは選挙制度を自らの手で機能不全に陥れてきた。そもそも選挙制度を国会で決めることに矛盾がある。現制度で当選した連中が、わざわざ見直すだろうか?「泥棒が刑法を作っているようなもの」とは、よく言ったものだ。おまけに、国対が存在するとは憲法違反ではないのか?憲法第41条に「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と記されているにもかかわらずだ。
政治支援団体は資金をちらつかせ、政治屋はその資金で選挙戦略を練る。いわば脅し屋とたかり屋の構図がある。もはや「清き一票」を信じる人は少数派であろう。支援団体や献金の規模の違いはあれど、どこの民主国家でも原理は同じだ。
しかし、献金する企業が悪いとばかりは言えない。現実に、実業家の中には慈善活動に従事する人々がいる。彼らは、その成功が不必要な格差を生じさせたと罪を感じ、懺悔心でも抱くのだろうか?実業家は現場を知っている。そうでなければ事業は成功しない。現場に則した実践的な政策立案のできる能力やマネジメント能力を持っている。政治家のように上辺の政策とは根本的に思考水準が違うはずだ。もし、彼らが倫理観に目覚めることができれば、これほど政治的に役立つ連中はいないだろう。
「行政が後ずさりすれば、企業は新たなチャンスだ。政治はこれまでになく曖昧にブランド化された商品となり、企業は社会と環境に対する責任を負うことによって、道徳的というありがたい評価を得るとともに、実際のビジネス面でも利益をあげることができる。」
とはいっても、企業の本来の性格は利潤を求めることにある。経営不振ともなれば、生産効率の悪い部門から削られ従業員は解雇される。慈善活動は余裕のある範疇でしかできない。対して、政府は耐え難い格差や不公平社会を抑制するために存在し、ボランティア的な性格がある。だが、財界と政界が癒着するならば、どうして資本主義や自由主義の暴走を防ぐことができようか。

では、企業を倫理的に導くことはできるだろうか?反社会的な領域に及ぶ利潤追求は、透明性のある情報公開によって抑制することができるだろう。近年、内部情報の漏洩や内部告発が企業イメージを失墜させ、その存続を脅かす。ただ、社会的制裁は情報の正確性があってはじめて機能するもので、エセ情報が流布したおかげで非のない企業にダメージを与えることもある。
では、情報の正確性を誰が検証できるのか?マスコミは信頼できるのか?マスコミもまたスポンサーに逆らえないし、大企業や政府の圧力を受けやすい組織であることは周知の通りである。いまや報道屋は政治屋と同じくらい、いやそれ以上に胡散臭いとされるが、そんな疑惑をマスコミ自身が報じるわけがない。近年、インターネットは、大手マスコミが語ろうとしない情報が得られる点で社会的役割が大きい。現実に、北アフリカや中東でソーシャルメディが改革運動を高めた。だが、欺瞞やエセ情報が流布しやすいのも事実だ。
んー...どこにも浄化作用が見当たらない。
本書は、個々の自由意志で参加する民衆運動を訴えている。マスコミにも、政府にも、企業にも、民衆の眼で圧力をかけようというわけだ。これが具体的で最も現実的な方策であろうか。不買運動やボイコットといった民衆運動や消費者運動は社会的意義が大きいので、大企業や政府も無視できないはず。ただ、民衆が偽情報で扇動されると厄介なことになる。人間は個人では冷静でいられても、群衆化すると感情論に煽られ暴徒化しやすい。となれば、個人の能力として情報の目利きが要求され、個々で思考して行動することが求められる。
...などと言えば、民主政治とはなんと難しいシステムであろうかと絶望感に苛まされる。やはり、シャングリ・ラのような超高齢化社会でもなければ、精神が成熟できず実現できそうにない。
んー...人間の悪魔化を抑制する手段は、それぞれの業界の緊張的関係しか思いつかない。競争の原理とは、「毒を以て毒を制す」を意味するのか。

1. 諸悪の根源
本書は、英国でサッチャー政権が米国でレーガン政権が誕生したあたりに諸悪の根源があるとしている。新自由主義と叫ぶ連中が「レッセフェール!」を布教しながら市場シェアを拡大したために、市場は制御不能な怪物と化したと。「小さな政府」をスローガンにWTO、IMF、世界銀行が世界各国に圧力をかけてきたことは周知の通り。そこで決まって福音されるのが、「富裕層が貧困層を牽引して、経済を回復させる...」だ。しかし、富裕層が潤った頃に景気は再び後退局面に向かう。これが経済サイクルというものか。
株価が上昇したところで、庶民の生活が向上するわけではない。だが、株価が暴落すると思いっきり庶民の生活を圧迫する。この一方向性はなんなんだ?エントロピーの法則なのか?容認できない二極化は、かつての貴族社会のように階級を固定化する。財産という優位性によって、富裕層の子孫たちが明日のリーダーを担うような社会がまともなのか?
経済学者アマルティア・セン曰く、「穀倉が作物いっぱいなときでも、飢饉が起こりうる。」
冷戦構造が終結し、イデオロギー対立による軍事的脅威が収まると、政治の主な役割は経済に向けられた。むかーし、社会主義や共産主義は福祉の分配に成功していたかに見えた。だが、腐敗から巨大官僚主義が蔓延るまでに時間はかからず、結局、貧民から搾取するシステムとなった。そして今、資本主義が同じ轍を踏んでいる。冷戦構造は、資本主義の暴走を抑制するために、ある程度機能していたのだろう。単一のイデオロギーしかない世界では、民主主義は自身の本質を見失うのだろうか?かつての共産主義圏ですら資本主義や自由主義の成功に憧れて、欧米式の経済コンサルタントを受け入れた。その最たるものは、ノーベル賞経済学者を擁したドリームチーム「LTCM」だ。その結果、世界規模の経済危機を招き入れ、市場経済への信頼を失墜させた。そして残されたものは、耐え難い格差社会と不公平社会であった。これがグローバリズムの正体か?小さな政府は、なんでもかんでも民間に委託すればいいと考える。そして、国家防衛の要である軍事を専門とする企業が出現した。次は、政治を専門とする民間企業の出現か?

2. 無言の乗っ取り!
今日、経済政策は消費主義と同一視され、政府は相変わらず消費を煽る。経済循環は消費に見出すしかないのか?人類が相対的な価値観しか見出せないならば、経済循環も相対的なものとなるはず。絶対的な経済循環というものが認識できなければ、循環は欲望とともに拡大を続けるしかないだろう。
いまや国際的巨大企業の力は、中小国家を凌ぐほど強大化している。ヘッジファンドなどの投機家の資金力は、国際経済に影響を与えるほど怪物と化した。金融市場は、続々とデリバティブやオプションを発明していき、新しい金融商品は爆発的なキャピタルフローを生み出す。それに通信コストやコンピュータ処理の低コスト化が輪をかけ、もはや政府は海外投資に規制をかけることもできない。
しかし、増え続けたのはポートフォリオ投資だけではない。80年代あたりから、企業は生産拠点をより効率のいい場所に移し、前例のないペースでグループ企業が設立された。
本書は、最大規模の多国籍企業100社で、グローバルな外国資産の約20%を支配していると指摘している。最大規模の多国籍企業6社のそれぞれの年間売上は1110億から1260億ドル。GDPで上回るのは21か国に過ぎないという。ウォルマートは、ポーランド、チェコ、ウクライナ、ハンガリー、ルーマニア、スロバキアを含むほとんどの中央ヨーロッパ、東ヨーロッパ諸国よりも収入が多いそうな。この傾向は21世紀になっても衰えず、多国籍企業は合併を繰り返す。そして、政治と癒着し、選挙とはまったく無関係に国家を乗っ取るほどの力を発揮する。各国はIMFや世界銀行に門戸開放政策を押し付けられたが、利益を得たのは多国籍企業だけではない。多国籍企業が進出した相手国政府と腐敗した役人、外国企業に就職できた幸運な人々などがいる。
本書は、第三世界では売国奴となりさがる政治屋が蔓延り、不正行為に慣れっこになったと指摘している。政治屋は、選挙資金を盾にこのゲームに積極的に参加したというわけか。正義、公正、権利、環境、さらに国家安全の問題でさえ、なおざりにされたという。
自国の企業利益が絡めば、軍事独裁国家や人権侵害国家ですら援助し、もはや民主国家の誇りすら感じられない。ここには、経済が政治よりも重んじられ、市民は単なる消費者とみなされ、人権など無視される実態がある。しかし、企業に道徳観念がないわけでもないという。社会的責任、持続しうる経済循環、環境への配慮などを訴えるのは、むしろ政府の大臣よりも企業のCEOであろうという。政治家は、企業の暴走を抑制するというよりは、むしろ助長する側にいるのかもしれない。

3. 最後のシャングリラ?
人口約60万のブータン王国は、最後の独立ヒマラヤ公国で、チベットとインドの間に位置する。一人当たりの所得550ドルといえば貧困国とされるが、この数字だけでは誤解を招きそうだ。国民の85%が自給自足農業に従事し交換取引が当たり前だから、衣食足りてホームレスがほとんどいないそうな。成功は、環境、倫理、精神の発展に基づいて決定され、道徳性と教養は物質的富にまさるとされる。入国する旅行者は6000人(1998年)と少なく、旅行客の一人一人に行動規範が渡されるらしい。チップを渡さないこと、現地の子供たちに物を与えないなどは、物乞いをさせないためだとか。商業施設や宿泊施設も、環境破壊につながるとして建てられない。ブータンの仏教はエコロジーを重んじるそうな。
C・ドルジ計画相の言葉が紹介される。
「わが国は、何でも現代的なものを無批判に受け入れる、ということはしません。過去に発展の道を歩んだ人たちの経験に頼り、私たちの能力と必要にふさわしい足取りで、じっくり現代化に取り組むつもりです。そうしてわが国の文化、伝統、価値体系と制度を持っています。」
しかし、グローバリズムの波はこの国にも及んでいるようだ。バスケットは国技となり、NBAが人気を博すという。インターネットも普及し、農家は農作物を売り外貨を得ているという。シャングリ・ラのような価値観を持った国は、ごく少数派として俗世間から隔離しないと実現できないのだろうか?ジェームズ・ヒルトンの小説のように、250歳ぐらいまで生きないと到達できない価値観なのか?

4. 産業スパイ
1947年、ソ連を監視するために米英の諜報機関が組んで「エシュロン」を組織した。後に英語圏のカナダ、オーストラリア、ニュージーランドが加わる。
しかし、ソ連崩壊後も電子機器を使ったエシュロンの監視は続く。自由主義を脅かす国に向けられるのではなく、米英の同盟国の事業を傍受する商業活動に変貌したという。あらゆる通信が傍受され、他国の企業活動の情報を自国企業に流していた。この驚愕な事実が表面化したのは2000年。機密扱いを解かれたアメリカの防衛関連文書がインターネットに公表された。政府が営利目的で動けば、企業は政治資金を差し出すであろう。ドイツでは発明や開発計画が盗まれたことが明るみとなり、その損失は年間100億ドルに上るという試算もあるとか。もちろん日本企業も餌食にされ、東南アジアで受注されるはずの契約がアメリカ企業にかすめ取られたという。クリントン大統領は産業スパイもCIAの任務だと明言したという。
「ボーイングにとってよいことは、アメリカにとってもよいことだ。」
そもそも、産業スパイを企てない国の方が珍しい。欧州連合の報告書は、フランスとドイツが共同して、北米と南米の双方を盗聴していることを明らかにしたという。中国は海外留学生と科学者に商業的機密を本国に回すように奨励しており、日本は産業スパイの達人だという。かつて総合商社が、日本企業の情報戦略として機能したことも確かであろう。そうでなければ、政治が三流でありながら経済大国にまで伸し上がった理由が説明できない。しかし現在は、海外勤務を拒む商社マンが多いという噂を耳にする。

5. カネがなければ選挙にならない!
「贅沢な資金が手に入る人しか立候補できないのに、どうして自由で公平な選挙ができるだろうか。」
政治家は、優秀なコンサルタントや、マーケティング、マネジメントのプロを雇い、効果的なメディア戦略を練る。アドバイザーや広告業者は、政治家よりも有名となる。いまでは、政治屋がバラエティ番組に出演して選挙運動をするといった現象まである。政治理念の相違点がはっきりしなければ、単純に資金力の差がものをいう。そして、企業にとって良い投資先となる。税制においても、政治家にとって必ず有利な方向に働き、継続的な癒着をもたらす。この論理からすれば、政治は腐るしかないではないか。
対して、企業側もうかうかとはできない。政治資金を提供しなければ、すぐにでも独占問題で非難の的にされる。実際、アメリカ政府がマイクロソフトの独占を問題視したのは、ビル・ゲイツがしかるべき時期に政治献金をせず、時流に乗ったロビー活動にも参加しなかったことが原因だと言われる。なるほど、ある業界に有利な法案が通る時は、その方面から多額な企業献金がなされたと思えばよさそうだ。かつて煙草産業の宣伝広告塔とされたF1マシンだが、F1界の実力者バーニー・エクレストンが献金すれば、イギリスは煙草企業による自動車レースの後援に反対しなくなった。政治献金の方法は、どこの国でも法律すれすれのグレーゾーンで行われる。そして、怠ればスキャンダル沙汰かい。

6. 消費者運動
「多国籍企業の間では政府は弱い、国民国家はもはや世界における力の中心ではない、政治家にはもはや企業をリードできず、企業のほうが政治家にできることとできないことを教えているのだ -- こう思った今では、もう政治家に働きかけるのをやめている。その代わり、新たな政治的権力、企業に対してストレートに動こうとする人々が増えている。」
政治的行動を起こすために最も効果的なやり方は、スーパーマーケットや株主総会で直接意思表示することだという。民主的先進国では、人々は投票する代わりに買い物をする。そして、非倫理的企業に抗議するには、企業イメージを非難し、その製品を買わないことだと。ただ安いからといって飛びつく消費行動が民主主義を崩壊させるというわけだが、生活が苦しければ誘導することも難しい。それに、民衆が企業情報をいかに正確に入手できるかにもかかっている。となれば、そこで暗躍できるのがメディアということになる。民主主義社会では、メディア支配の社会になりやすい。
「ニュースの消費者として、他の業界を監視するようにメディアを監視することは不可能だ。メディアが独立した外部の力に対して説明する責任を負わなければ、民主主義の死活にかかわる報道の自立性が危険にさらされることになる。」
政治や企業にとって、主要なジャーナリストと仲よくなるのが効果的というわけか。報道倫理に関する委員会なるものが、どこまで第三者機関として機能するだろうか?検証機関というものは、世論の非難を避けるために組織され、政治力が思いっきり働いて弱い者いじめをする傾向がある。伝統的なメディア、政府、企業、シンクタンク、研究機関から提供される情報と誤報が錯綜する中、消費者にとって新たな情報源が必要であろう。NGOや圧力団体の活躍に頼るのも一つの方法であろうが、彼らもまた暴走する可能性がある。民主主義の根幹は、情報の信頼性と透明性ということになろうが、あまり透明過ぎても国家戦略が機能しない。
近年、情報漏洩や内部告発が頻繁に起こるのは、社会への不満と無関係ではあるまい。警察が機能しなければ自警団が組織されるが、社会が機能しなければ民衆的な自主運動が盛り上がるというわけか。

7. 大慈善家でも知られるソロス
ジョージ・ソロスといえば、「イングランド銀行を破産させた男」として有名な大投資家。むかーし、この有名人の伝記的物語を読んだ時、金融界のデリバティブ商品に問題があると指摘していたことに共感した。ソロスは、ポンドがヨーロッパの為替相場メカニズム(ERM)から脱退することに賭け、見事に10億ドルの利益を稼いだ。結局、イギリスはポンドを切り下げてERMからの脱退を余儀なくされた。いわゆるブラックウェンズデー(1992.9.16)である。結果的に、ソロスはポンドをERMから解放し、慢性化したイギリス経済に回復のチャンスを与えたという見方が多い。実際、ソロスがハイリスクで得た資金は慈善寄付へと流れているという。また、ドラッグ規制からセルビア人の攻撃に対するサラエボ防衛まで、アメリカ政府がためらった分野で高邁なプロジェクトを次々と立ち上げたという。その活躍ぶりは称賛と非難の両方に及ぶ。
ソロスはハンガリーで育った。彼の父はユダヤ人弁護士だが、一家はキリスト教徒を装って強制収容所送りを免れたという。大戦後、共産主義国で過ごした後にロンドンへ渡り、哲学者カール・ポパーの「開かれた社会」という概念に感化されたという。彼は、アービトラージ(裁定取引)の達人となり、ヘッジファンドのプロとして開化する。
しかし、1970年代後半から金儲け以外のことに目を向けたという。結婚が破綻し家族を顧みなかったことに気づき、まもなく自責の念と羞恥心が大きな位置づけとなり寄付活動を始める。1980年代、ハンガリー全土にコピー機を供給したのは、コミュニケーションを促進して検閲を難しくすることで、民主化運動を直接支援するためだったという。更に、共産圏から民主化のために欧米に働きかけたが、それは実らなかったらしい。ナチスと共産主義を生き抜いた経験が、民主化への情熱を掻き立てたようだ。
しかし、アメリカでは「過剰な個人主義」と非難される。ソロスは「制限のない市場資本主義は共産主義と同様、オープン・ソサエティにダメージを与えうる」と警告したという。