2023-05-28

"Beautiful Visualization" Julie Steele & Noah Iliinsky 編

シリーズものでは、コレクションしておきたものがある。それで読まれず、書棚の片隅で専門書どもが愚痴ってりゃ、しゃあない...

オライリー君のビューティフル・シリーズでは、まずコードに誘われ、アーキテクチャ、セキュリティ、データとくれば、データの続編がビジュアライゼーション。
こうして外観していると、「美しい」という表現もなかなか手ごわい。主観的な像として現れるだけに、さらに手ごわい。見た目だけでなく、構造的な合理性や設計思想の一貫性といったものにも現れる。そして、デザインされるものには、デザイン哲学なるものが露わになる。哲学とは、まさに美学だ!
コードでは、シンプルでエレガントな振る舞いに、それを見、ソフトウェア・アーキテクチャでは、信頼性、移植性、再利用性を保持する構造化手法に、それを見た。セキュリティでは、善悪の両面からそれを見、侵入の手口が鮮やかならば、それをさりげなく葬り去るのも鮮やか。データでは、収集、分析、処理、さらに可視化によって新たな視界が広がり、データの自己発見パラダイムにそれを見た。
そして、ビジュアライゼーションでは、データの視覚化に絞って、アートの領域へといざなう。やはり、設計には芸術性を求めたい。とはいえ、可視化の技術だけで、これほど多くを語れるとは。人が見た目に惑わされるのも無理もない...

視覚情報は、脳を刺激しやすい。グルグル検索に好みのキーワードをかけて、画像情報を見て回るだけでも刺激される。YouTube の自動再生機能にキーワードをかけて、演奏動画を垂れ流すだけでも刺激される。空間イメージが広がれば、思考も広がりそうな気分になれる。気のせいかもしれんが。思考空間には照明効果も絶大で、壁紙の色を変えるだけでも気分は変わる。気のせいかもしれんが...
そうなると、まったく違う分野に造詣を持つことにも意味があろう。美術品を観賞すれば、潜在意識が活性化されるかも。気分が変われば、新たなアイデアを生み出す機会ともなろう。論理的なデータに視覚的な作用が加わると、違った意味が見えてくるかも。全体像を見えやすくする視覚効果は、総合的な判断をしやすくさせる。
例えば、古典的な視覚化データに元素の周期表がある。周期的に出現する元素の複雑な特性をシンプルに二次元配列し、これほど有用なビジュアライゼーションもあるまい。マトリックス表現の叡智とでも言おうか。ランタノイドやアクチノイドの拡張表現では苦労しているようだけど...

注目したいのは、ビジュアライゼーションでは空間意識に目を奪われがちだが、時系列との関係にも触れている点である。空間と時間は、カントがアプリオリな概念として提起したものでもあり、人間の存在意識に深く結びつく。つまり、ビジュアライゼーションに美しさを求めるということは、多分に自己意識が強調されるということだ。
ただ、データの本質は、主観性をできるだけ排除し、客観性を見出すことにある。人間ってやつは、何事においても、やりすぎる感がある。理想が高ければ、尚更。新たな技術を身に着け、新たな知識を獲得すると、すぐにそれを曝け出したくなる。新規性を強調するあまり、静的なビジュアライゼーションに動的なアニメーションを導入し、それでデータ構造を破綻させては本末転倒。設計では、設計思想の破綻を避けることが第一の方針となる。さりげなさを、さりげなく演出する。それが芸術というものか...

本書は、視覚化されるデータの美しさに、四つの要因を挙げている。「新規性、伝達力、効率、そして、芸術性」である。
また、ビジュアライゼーションは、「データマイニングと車の両輪」だという。
インターネットの世界では、データの群れが巨大な集合知として押し寄せてくる。こうした状況下で、データを効率的に解析し、合理的に処理することは至難の業。ビジュアライゼーションを複雑系の分析法として、あるいは、問題解決やリスク低減を目論むための方法論として眺めれば、なかなか興味深い。
ここでは、20 もの事例が紹介され、目移りしてしまう。アスキーアート、地下鉄路線図や飛行機の航路図、国勢調査や選挙の投票状況、無秩序なソーシャルパターンの洞察、オンライン事典のデータ管理手法、検視や法医学研究、ネットワークトラフィック、サイバー攻撃をリアルタイムに監視するインシデント分析センター(nicter)など、画像データを眺めるだけでも、何かのヒントになりそうな...

しかしながら、これらの事例に法則性は見当たらない。すべては様々な試行錯誤から生まれたアイデアで、多様な世界をさまようかのように。
マルチモーダルな知の結集は、まさに五感の総動員。データに問いかけ、文脈を読み取り、物語を語る。物語を語れば、時系列が見えてくる。時系列が見えてくれば、説得力が増す。美しいビジュアライゼーションとは、データで物語を語ること、とでもしておこうか。
とはいえ、客観的に物語を語るというのは、どうであろう。芸術における客観性とは、普遍性を意味するのであろうが、それでは理想が高すぎる。情報理論の父と呼ばれるクロード・シャノンは、情報の意味を無視し、ひたすら情報の量に着目して数学理論を構築した。情報の意味を解するのは、その送り手と受け手に委ねるほかはない。データもまた然り。ビジュアライゼーションもまた然り。「美しい」という表現は、やはり手ごわい...

2023-05-21

"Beautiful Data" Toby Segaran & Jeff Hammerbacher 編

こいつを入手したのは、十年ぐらい前になろうか...
買ったはいいが、それで満足しちまう。そんな専門書どもが本棚の片隅で、たむろしてやがる。シリーズものではコレクションしておきたものもある。それで、もったいない病が疼けば、しゃあない...

オライリー君のビューティフル・シリーズでは、まずコードに誘われ、アーキテクチャ、セキュリティときて、そして今、データに手を出す。コードには、それこそ美しいものがあり、コード哲学が露わになる。では、データはどうであろう。
例えば、言葉を集めただけの国語辞典に美しさを感じるだろうか。笑える語釈にでも出会えば、そんな感覚も湧くやもしれんが、データそのものは数字や記号と類似で無味乾燥、ただそこに存在する。
コードを書く行為は主体的で能動的だが、データは、収集し、分析し、処理するといった一連の行為に見舞われ、客体的で受動的である。解釈できる点では、統計とも似ている。
データは、それを活用する人によって生き生きし始めるのであって、誰にでも美しく見えるものではあるまい。これを美しく見るには、データとうまく付き合う必要がありそうだ。
数学も無味乾燥とされるが、方程式には美しいものがある。オイラーの等式は、超越数のπと e が、虚数を介して冪乗で絡むと自然数に収束することを告げ、ここに新たな世界観を感じずにはいられない。データにも、こうした感覚を持つ人がいるのだろう。活用する側から見れば、関連付けや階層といったデータ構造に哲学を見ることはできる。整理の美学と言うべきか。
本書を眺めていると、構造化されたデータの集合体が図書館に吸い込まれていくかに見える。データ構造がデザインされれば、そこにデザイン哲学が露わになる...

「データの美しさは、奥深いところにある。美しさは、それまで隠れていた構造やパターンが姿を現したときに出てくる。パターンの出現で、データに関する新しい考えや疑問がわく。アイデアがひらめき、探索してみようという気になる。物事の本質を見抜く力が与えられる。そして、空間的な広がりのあるところに、地理的な美しさが現れる。... 美しさとは、広い意味で実体が与える喜び、意味、満足感といった特徴を表すものだ...」

今日、データ駆動型(Data Drivenn)が盛んに議論され、開発設計の場でも、問題解決のための意思決定プロセスで重要視されている。データの収集、分析、処理、さらに可視化によって、以前と異なる光景が見えるようになれば、新たな価値観を生み出すであろう。本書は、データの自己発見パラダイムを紹介してくれる。
ちなみに、キェルケゴールは... 人間は精神である。精神とは自己である。自己とは、それ自身の関係に関係する関係の...などと支離滅裂なことをつぶやいた。相対的な認識能力しか発揮できない知的生命体が自己を認識しようとすれば、その周囲の関係から迫るしかあるまい。データの自己発見もしかり。データが別のデータと関連づけられ、その連鎖が新たな価値観を生む。そして、データは検索される宿命を背負う。誰が検索するかって?もはや人間は無用のようだ...

「美しいコードは、リストを並び替え、連立一次方程式の解法、フーリエ変換の実行といった非常に明確な目的を持つ場合が多い。コードの美しさは、どれだけ目的に合っているかによる。美しいデータの場合は、このような目的はそれほど明確ではないかもしれない。データの探索は、科学的試みの重要な部分を占め、これによって洞察、検証すべき仮説、従来の理論の検証が導かれる。美しいデータには探索が必要である。このようなデータにはパターンや構造、例外が含まれる。これらは、探索してもすぐには見つからないが、内側の奥深くに潜むものを掘り当てた褒美として現れる。」

ところで、高度な情報化社会は、本当に進化へと向かっているだろうか。ネット上に情報を公開すると深刻な結果を招くことは、ユーザがよく知っている。スパム、炎上、ID盗難、ジャンクメール... おそらく進化の過程は、単純増加ではなく、退化の時代もあったであろう。では、現在は?
データの設計とは、信頼をデザインすることでもあるはず。しかしながら、いまや個人データを保護することは難しい。ネット通販で商品を購入すれば、まったく関係のない広告メールがわんさと飛んでくる。新型コロナに感染し、行政サービスに携帯電話番号を登録すれば、アルバイト勧誘のショートメッセージがすかさず飛んでくる。
あらゆるサービスがデータ化されれば、犯罪もまた然り。無味乾燥のデータに、データ以上のものが見えてくる。データは人生を表し、データが物語を語り始める。まさに高度なデータ化社会!現代人は、データに右往左往させられるばかり...

「そう遠くない昔のこと、ウェブは情報の共有、発信、配布の場だった。しかし時代は変わった。ウェブはいま、個に向かっている...」

2023-05-14

"πと微積分の23話" 寺澤順 著

πと言えば、円周率。こいつが、どんな値になるか、古代人は正確には知り得なかったであろう。無理数だから無理もない。
だが、数直線上で、直径 1 の円を転がせば、その周の長さが 3 より、ちょいと大きいぐらいは小学生でも分かる。
三千年記を迎えた今日でも、πに魅せられる人は少なくない。何万桁も暗唱して、ギネスに挑戦する人たちまで。
スパコンで計算中とはいえ、その精度となると、IEEE754 に従って暗黙に定義せざるをえない。要するに、実際に用いるには、近似するしかないってことだ。無理数だから無理もない。
無理数の存在が、極限へ迫ろうという数学者たちの野望を目覚めさせ、挫折感を喰らわせてきた。
一方で、図形を眺めながら極限へ迫ろうとした数学者たちがいた。アルキメデスに発する微分や積分といった思考法である。ここに、数学者という人種が、微積分学を通じて、πと戯れる物語が始まる。おいらも、おっ!パイと戯れたい...

代数学が等式で関係を記述すれば、解析学は不等式で関係を記述する。連続関数において明確な答えが見つからなければ、その前後で大小を比較しながら、より目ぼしい値へと近づいていく。それは、ε-δ論法が告げてやがる。おいらを数学の落ちこぼれにした奴が...
相対的な認識能力しか持ち合わせていない知的生命体が真理を探ろうとすれば、その周辺の関係から迫るしかあるまい。数学の極限に、人間の認識能力の極限を見る思い。
そして、微分方程式が解けない場面にちょくちょく出くわせば、近似法に縋る。本物語は、極限に迫るための裏技として、漸近的近似、テイラー展開、フーリエ級数などに触れ、極限に迫る数学的性質では、一様収束、連分数、ゼータ関数、ガンマ関数などに注目する。近似法でπが演じる重要な役割を暗示するかのように...

コーシー列の収束性を魅せつけられれば、こいつを近似に利用しない手はない。代数の循環性もまた然り、2/π に見るヴィエタの公式に見惚れ、π/2 に見るウォリスの公式に見惚れ、その背後に二大巨匠と謳われるオイラーとガウスの手招きを感じずにはいられない。
そして、連分数に見る黄金比に見惚れるのであった。曲線と戯れる数学者たちの曲芸に、人生の曲芸を見る思い。混沌とした物理現象を目の前にして最も有用となる理論は、近似法といってもいいだろう...

1. 古代の叡智にπを見る!
古代エジプト人たちは、「9分の1法則」なるものを編み出したという。直径 d の円の面積を求める時、d から 1/9 を引いたものを平方するという近似計算である。

  π(d/2)2 ≒ (8d/9)2

そして、πは...

  π ≒ (16/9)2 = 3.16049...

アルキメデスは、単位円に正 6 x 2n 角形で、外接と内接の両面から近づくことを考えたという。単位円の円周の長さ 2π に対して、正 6 角形をベースにすれば、内接する周の長さは、6辺 x 1 = 6 となり、こうなることは一目瞭然。

  2π > 6、つまり、π > 3

あとは、n を限りなく増やしていくだけ。そう、取り尽くし法ってやつだ。
円の面積が分かれば、楕円の面積も簡単に導ける。xy 座標において、半径 (a, b) の楕円には、円の面積を b/a 倍すればいい。

  b/a・πa2 = πab

しかし、楕円の周の長さとなると、かなり手ごわい。楕円関数論という理論体系が生まれるほどに...

2. レムニスケートに単位円の同型を見る!
楕円積分では、「レムニスケート」ってやつがある。リボンのような形をした摩訶不思議な図形である。
本書は、こいつに、単位円の円周の長さ 2π との同型を感じさせてくれる。
x軸とy軸に対して線対称で、原点と交わる接戦は、y = x と y = -x となり、特に、x軸と交わる √2c, -√2c を標準形とする。




その極座標方程式は...

  r2 = 2c2 cos 2θ

この図形に対して、数学者たちは、ϖ= 2.622...(パイ・スクリプトと読む)という定数を定義し、その全長を 2ϖで表記した。しかも、πも、ϖも、超越数というから、意味深げ。これらを同型と見るなら、新たな非ユークリッド幾何学が創設できそうな...

3. ビュフォンの針... 確率論にπを見る!
確率問題に、「ビュフォンの針」というのがある。
机上に一定間隔 d で区切られた多数の平行線を引き、そこに長さ L < d の針を無作為に落とす。この時、針がいずれかの直線と交差する確率に、なんとπが顔を出すというから摩訶不思議!

  P = 2L/πd

宇宙がこのような姿になった確率は、πに看取られているのか。そりゃ、パイに見惚れるのも無理はない...

4. スターリングの公式... 漸近的な近似に超越数を見る!
n! という数は、n が少し大きくなっただけで爆発的に大きくなり、なかなか正体が掴めない。これの近似となると、πと e(ネイピア数) という超越数が絡むから摩訶不思議!

  n! ~ √(2πn)・(n/e)n

超越数とは、無理数の中でもとびっきりの存在で、代数的な解にもなりえない数だ。カントールは集合論によって、大部分の実数が超越数であることを証明した。これには、数学者たちを驚愕させたことだろう。宇宙は、超越数に看取られているのか。そりゃ、大部分の微分方程式が解けないのも無理はない...

2023-05-07

"気まぐれ数学のすすめ" 森毅 著

穏やかな春風に誘われ、いつもの古本屋を散歩していると、ある言葉に足止めを喰らう。気まぐれ... おいらはこの言葉に弱い!

こいつぁ、数学の書か。いや、数学者が世を問うた書と言うべきか。題名で期待を外しておきながら、内容で期待に応える。これぞ、論理学の極意というものか。いや、屁理屈の極意というものか...
随筆はいい!達人の書く随筆はいい!書きっぷりは、まさに気まぐれ!
戦時中を回顧しながら、軍事教練をのらりくらりとかわした非行少年期を振り返り、逍遙学派のごとく、散歩でもするかのように様々な論議に首をつっこむ。文化論に、進化論に、反戦論に、教育論に、受験のあり方に...

数学教師の目線で、高校が中学化し、大学が高校化していく現代社会に苦言を呈し、その天の邪鬼ぶりも見逃せない。
受験戦争には、ホドホド派とカリカリ派がいるという。社会風潮が、受験は歯を食いしばって、カリカリせねばならぬ!と煽り、みんなで苦しみを共有して不安から逃れ、教師も親も生徒をカリカリさせることで安心できる。まさに、戦時教練と同じ構図か。
数学の授業では、分かる派と楽しい派に分類できるという。ただ、楽しいといっても、人それぞれ。命令されるのが楽しい、管理されるのが楽しい、ド M ともなれば、イジメられるのが楽しいってのもある。いずれにせよ、楽しいだけでは長続きしない。著者は「易しさよりも優しさ」を強調する...

「数学の力というのは、その数学が自分の心のなかの景色として、どれだけひろがっているかだと思う。まちがったときは、その景色にそぐわない。迷ったって、だいたいの見当がつく。しかし、この力は、迷ったり誤ったりするなかでつく。地図の正しい道だけでは、正しい道から迷ったり、つまずいたりしたときには、回復できない。『正しい道』は通れるが、『正しい道』しか通れない。数学の得意な学生を見ていると、迷ったりまちがったりするのがうまい。それは、だいたいの景色の見当がついているからでもある。その見当がつくようになったのは、迷ったりまちがったりしたからだろう。この点で、自分の世界が貧しいと、こわくて地図以外の道が通れなくなる。『正しい道』だけにしがみついて、景色がますます見えなくなる。」

人間の文化で最高のものの一つに「数」があり、人間の思考原理の一つに「数える」という行為がある。それは、存在意識と深く結びついてきた考えであり、物事が複数で存在しなければ、数なんて必要ない。
おまけに、一つ、二つ... と数え上げる序数(順序数)と、1, 2... と量を測る基数(集合数)とでは、ちと性格が違う。人類は、数えるという行為によって自然数、整数、実数などと数の体系を拡張してきた。だが、数への思い入れは人それぞれ。

自然数の捉え方だけでも、ゼロを含めるか含めないかで流儀が分かれる。人類は数直線を編み出し、連続体という概念を生み出した。数直線上にゼロが配置されなければ、なんとも締まらない。連続体とは、無限への道であり、この道においてアキレスはいつまでも亀に追いつけずにいる。
お経の文句にも、「ガンジス河の砂の数だけのガンジス河があったとして、その砂の数ほどの...」ってのがあるそうな。無数の砂粒に無限のアトムを見、不定形の平方ガンジスを想起するとは、お釈迦様も洒落てやがる...

「発生的認識論では、序数は系列性に起源をとり、基数は類別に起源をとる。系列の順序での位置をしるすのが序数であり、類のなかでの個の多さをしめすのが基数である。... 歴史的にも、十九世紀は序数主義の色彩が強いし、二十世紀は基数主義の色彩が強い。... ポアンカレは序数主義に傾斜し、ラッセルは基数主義に傾斜していた。」

思考法の進化過程を辿れば、魔術的な想像力が、論理的な創造力を覚醒させてきた。占星術と天文学の明確な線引きは難しい。錬金術と化学の境界は未だぼやけたまま。かのニュートン卿が錬金術に執着したのも無理はない。ライプニッツも最初、古代の叡智として魔術を駆使した秘密結社「薔薇十字団」に所属していたそうな。
医師だって魔術師のようなもの。かつて名医たちは、瀉血を信仰し、血を抜き、知を抜いた。水銀を与えては下痢をさせ、嘔吐させたうえに皮膚に熱いカップを押しつけて血を含んだ水膨れをつくり... そして、ジョージ・ワシントンは死んだ。
では、三千年紀を迎えた現在はどうであろう。インチキなオカルトが、インチキな科学を利用する構図は変わらない。
いや、インチキとは言い切れないところもある。科学にはまだまだ未知数が多く、宇宙の 90% 以上は暗黒物質に覆われたままだ。現実主義者のデカルトも、神秘主義者のパスカルも、未だ輝きを失わずにいる。
そもそも、ホモ・サピエンスが魔術的な存在なのやもしれん。いや、悪魔的な存在か。だから、神を夢想し、自らこしらえた虚構に恋い焦がれるのか。現代人が仮想空間に身を投じるのも無理はない...

著者は、非国民の反戦論をぶちまける。国家ってやつが、たわいもないものだということを、あの戦争で誰もが知ったと。戦争ってやつは、愛国心と正義がセットでやって来る。ならば、まず国民ではなく、市民であること。市民に国境はない。ネット社会ともなれば尚更。わざわざ海外へ行かなくても、世界を知ることはできる。正義は、強いモラルによって高揚する。むしろ弱い心を認める方が、当てになりそうである...

「戦争というのは人殺しだから、人間の生死に関する感覚は鈍くなるものだ。焼跡で人間の死体を蹴っ飛ばしても、鼠の死体と変わらんような感覚になる。それを戦後になって、『戦争の悲惨』と言うのは、なにかピッタリこない。空襲警報が出て空襲がないと、台風警報で台風が来なかったような気分である。それでいて、ぼくなど勇壮と縁どおい臆病者で、そのうえに国家政策に背を向け、意味もなく殺されるアホラシサに、だれにも遠慮せずにガタガタふるえて卑怯に逃げまわっていたのだけれど。」

また、「パラノ対スキゾ」という見方が、いろいろと便利だと教示してくれる。パラノとは、パラノイア、つまり偏執症のこと。スキゾとは、スキゾイド、つまり分裂症のこと。
例えば、本を読むにしても、論理の展開に多少なりと怪しげなところがあると、目くじらを立てるのがパラノ人間で、そんなことを気にせずに読むのがスキゾ読書法というものらしい...

「現在の学校化社会がパラノ社会であることは確実だろう。ぼく自身はスキゾ人間らしいが、パラノ人間にとってもスキゾ人間にとっても、この二つの型について考察しておくとよい。だだしスキゾ人間はパラノ人間を理解できるが、パラノ人間はスキゾ人間を認めたがらないのが、パラノイアたるゆえんであって、これが困ったところでもあるのだが。でも、学校がパラノ社会であるからには、なんとかしてスキゾ過程を導入しないと困る。それに、教師とは本来スキゾ人間が向いているはずなのに、とかくパラノ人間が幅をきかすのも困ったものだ。」