2021-05-30

"犯罪" Ferdinand von Schirach 著

なんとも煮え切らない、朦朧たる作品の群れ。ミステリーらしくないミステリーとは、こういうものを言うのであろうか。それでいて、どこか不気味で、心理描写はまさにミステリー!
フェルディナント・フォン・シーラッハは、ドイツでは高名な刑事事件弁護士だそうな。彼は現実の事件に材を得て、異質な罪を犯す人間の哀愁を物語る。刑罰とは何か。なぜ罰を科すのか。最終弁論でそれを見出そうとするところは論理的で哲学的。これがドイツ流か...


理論は山ほどある。刑罰が威嚇し、再犯をためらわせ、社会に秩序をもたらし... 等々。だが、ここに紹介される刑事事件は、いずれの理論でも解決しえない。そして、陪審員の裁量に委ねられることに...
ちなみに、ドイツの裁判では、参審制が採用されているという。参審制とは、一般市民から選ばれた参審員が職業裁判官とともに裁判を行う制度で、日本の裁判員制度もこの制度を参考にしているらしい。ただ違うのは、参審員は、裁判ごとに選出されるのではなく任期制になっているとか。彼らにはある程度の目利きがあり、感情に流されることも滅多にないとさ...
「まちがった物言い、感情の吐露、まわりくどい言いまわしなどはマイナスに働く。大げさな最終弁論などは、前世紀のものだ。ドイツ人はもはやパトス(情念)を好まない。これまでうんざりするほど大量に生みだされてきたからだ。」


尚、本書には、「フェーナー氏」、「タナタ氏の茶盌」、「チェロ」、「ハリネズミ」、「幸運」、「サマータイム」、「正当防衛」、「緑」、「棘」、「愛情」、「エチオピアの男」の十一作品が収録され、酒寄進一訳版(東京創元社)を手に取る。


ところで、この世に、嘘をつかない人間がいるだろうか...
人に嘘をつかなければやって行けない生き方もあれば、自分に嘘をつかなければやってられない生き方もある。現実逃避に、嘘は欠かせない。なにしろ、現実ってやつは残酷だ。実に残酷だ。対して、嘘ってやつは優しい。すこぶる優しい。女に嘘をつこうとしない野郎は、女心に対する思いやりに欠けるというものよ。
現代社会は仮想化社会と呼ばれるが、それは仮定の世界であり、夢想の世界であり、いわば、嘘で固められた世界。嘘が人間を廃人にするのか。嘘が嘘を呼び、やがて自分の嘘に潰されていく自我。それでも、嘘はやめられない。おそらく、嘘ってやつがなければ、人生は退屈きわまりないものとなり、現実に絶望するほかはあるまい...


では、裁判が真実を行使する場というのは、本当だろうか...
少なくとも、建前ではそういうことになっている。真実を語ることは馬鹿でもできるが、うまく嘘をつくにはかなりの頭がいる。相手が法なら尚更。証人は嘘をつくし、自供もあてにならない。真実を知る者は当事者だけ。いや、当事者だって、事実関係が分からないこともある。自分が殺人者の汚名を負ってでも隠し通したいってこともあれば、第三者であるはずの証人が注目されたいがために大袈裟に語ることも。真実と嘘の区別がつかなければ、嘘発見器もあてにならない。そもそも、人間の認識とはそうしたものだろう。意識は朦朧とし、記憶なんてものも曖昧きわまりない。いまや、指紋まで偽装できる時代、やがて DNA だって。海外ドラマ NCIS のように、ドラマチックな科学捜査を期待するわけにはいかんよ。
結局、裁判は、物的証拠、動機や背景、自供などを頼りに判断するしかなさそうだ。となれば、冤罪はある確率で生じることになる。それは、不確定性原理に看取られた生死確率を論じるようなもの。ネコは殺されたのか、あるいは、どこかで生きているのか、と。そして、嘘が現実に...


「私たちが物語ることができる現実は、現実そのものではない。」
... ヴェルナー・K・ハイゼンベルク


1. フェーナー氏
生涯愛し続けるという誓いに縛られ、離婚もできず、日々の罵声に耐えながらも、ついに殺っちまった老医師。誰よりも献身的で律儀であるがゆえに。それでも、愛は不滅だそうな...


2. タナタ氏の茶盌
大金持ちの邸宅から、骨董品の茶盌と高級腕時計と金を盗んだ若造たちは、茶盌と腕時計と金の五割を格上にせしめられる。これが裏社会の掟。しかし、被害届は茶盌と腕時計だけ。しかも、これをせしめた連中は亡き者にされ、若造たちは命拾い。公にできない金か。どっちが裏社会の人間やら...


3. チェロ
記憶を失いつつある弟は、姉がチェロを弾く時だけ昔の暮らしが感じられる。やがて言語機能も失うと診断され、絶望の淵に。腕に包まれながら、浴槽で静かに溺死。介護疲れの一端を見るような...
「さあ、櫂を漕いで流れに逆らおう。だけどそれでもじわじわ押し流される。過去の方へと...」


4. ハリネズミ
何世代も前から、いとこ同士、甥姪のあいだで結婚しあう犯罪者一家。その中で一人、独学で推測統計学と積分法と解析幾何学を会得した弟は、殺人容疑のかかった兄を助けるため、瓜二つの別の兄がやったと証言する。しかも、その論理展開が複雑怪奇。兄は八人もいて、みな前科者とくれば、故郷のレバノンへ入れ替わりで出かけるときた。馬鹿馬鹿しいほど複雑で、立証は不可能とくれば、推定無罪が機能する。
ちなみに、古代ギリシアの詩人アルキロコスの寓話に、狐とハリネズミについての物語があるそうな。
「狐は多くを理解するが、ハリネズミはただひとつの必勝の技がある。」
多角的な観点に立つか、一つの強みに絞るか、生き方の問題ではあるが、裁判がそんなものに左右されては、かなわんよ...


5. 幸運
戦争、そして、廃墟となった戦後を女の身ひとつで生きていくには、相当な覚悟がいる。ある男と出会い、二十五年に渡って政界で活躍した女性の自慢話が始まる。ある日、公園でバラバラ死体が発見された。デブが腹上死?監察医は、死因を心筋梗塞と断定し、切断されたのは死後ということで、殺人ではないことが実証された。彼女の証言によると、愛ゆえの遺体損傷だとさ。美女ゆえにパトロンがついて幸運。不要になったら死んでくれて幸運。そして、こんな助言をくれる人がいるのも幸運ってか...
「これからは生き方を変えなくっちゃ。」


6. サマータイム
ホテルのスイートルームで女子大生が、頭を殴られて殺害された。鉄製のスタンドが顔に突き刺さって。容疑者となった紳士は、とても乱暴するような人間ではないが、残された体液が DNA 鑑定で一致。駐車場の警備カメラに写った時間も一致。証拠は十分すぎるほどに十分。
一方で、被害者が貢いでいた男は、嫉妬深く、ホテルの前まで後をつけたことは認めている。動機は十分すぎるほどに十分。
しかし、動機は決定打にはならない。そこで弁護士は、証拠の穴探しに没頭し、ついに見つけた。カメラの時間設定は、夏時間に補正されていなかったとさ。紳士は無罪放免にはなったが、離婚は避けられない...
「血のついたナイフを持って死体にかがみ込んでいれば、その人物が犯人扱いされる。たまたま通りかかり、助けようとしてナイフを抜いたなどという言い分を信じる警官はひとりもいない。事件の真相は簡単なものだという刑事事件の鉄則は刑事ドラマの脚本家の発想でしかない。実際はその反対だ。自明と思えることも推測の域を出ない。大抵の場合がそうなのだ。」


7. 正当防衛
傷害事件や暴力沙汰を繰り返す二人の男は、人が恐れるのを笑って楽しむ。女をからかい、真面目な会社員をカモにし。経理係風の紳士は、彼らに目もくれずにいる。この態度にムカついてナイフを振り回すと、逆襲を喰らい心臓を一突き。もう一人の男が金属バットを振り上げると、急所の頸動脈洞を一突き。正確無比は、まさにプロの技。これは、正当防衛か、過剰防衛か。紳士は、メガネをかけ直し、足を組むと、タバコに火をつけ、逮捕されるのを待った。ただ、別の場所では、まったく同じ手口の殺人事件が発生していたとさ...


8. 緑
羊の死骸が、またもや運ばれてきた。目玉がくり抜かれ、18箇所の刺し傷。この数字に意味があるのか。伯爵家の御曹司は、人間や動物が数字に見えるという。牛は 36、カモメは 22、裁判官は 51、検察官は 23... 18 は悪魔の数字だとか。6 が 3 回で 18。666 はヨハネの黙示録に出てくる数字。

「ここに知恵が必要である。賢い人は、獣の数字にどのような意味があるかを考えるがよい。数字は人間を指している。そして、数字は六百六十六である。」
...ヨハネの黙示録、13章18節

御曹司は、羊の目を恐れていたという。そんな時、彼と親しくしていた娘が行方不明。巷では、殺害が噂される。倒錯はすぐにエスカレートする。これまで犠牲になったのは羊だけだが、いつ人間に変わっても... と世間は考える。そして、君の数字はなんだい?との質問には、「緑」と答えた。数字じゃないんかい!?
うん~... こんなオチじゃ、眠れそうにない。ちょいとググってみると、ドイツ語の慣用句にこんなものを見つけた。

"Ach, du grüne Neune!"

驚いた時やびっくりした時に使うフレーズだとか。英語で言うところの、Oh my God! のような感じであろうか。トランプで縁起の悪いカードがスペードの 9 とされ、"grün neun" と言うらしい。つまり、自分を悪魔と言ったのか。緑の九ちゃん!


9. 棘
彫像「棘を抜く少年」は、裸の少年が岩に腰掛け、前かがみになって左足を右膝にのせ、右手で足裏に刺さった棘を抜いている。古代ギリシアの彫刻をローマ時代に模したもので、特に価値あるものではなく、複製品が無数にある。博物館警備員は、この彫刻の棘を探すが、どうも見つからない。ルーペを忍ばせ、くまなく調べるも。些細なことってやつは、気になり始めると、収まりがつかなくなる。この苛立ちを、悪戯で満たそうとは...
靴屋で靴底に画鋲を忍ばせると、試しに履いた客たちは悲鳴を上げる。棘を抜く少年にあやかって、画鋲を抜くなんとやら。人の不幸を見て幸福に浸ろうとは。やがて、気が狂ったように彫像を破壊した。異常な精神状態も、彫像が砕けて治癒したとさ。
こんなもの、最初からなけりゃよかったのに... と思うことはよくある。あの時なぜ、こんなつまらないことにこだわったのか... と思うことも。しかし、人間の意欲なんてものは、そんなことの積み重ねかもしれん。そして今、何にこだわって生きているだろうか...


10. 愛情
彼女を膝枕して、詩を朗読していた。そして、リンゴの皮を剥こうとナイフ取ると、背中に激痛が。彼女は、飛び上がって逃げた。あれは事故だ!弁明したくても、連絡がつかない。彼女の背中を見ればわかる。肩胛骨がくっきりと浮かび、肌は白くツルツルで、金色の産毛。バカンスで、海辺に寝そべった時、つい強く噛んでしまったこともある。
ちなみに、カニバリズムにも、いろいろな動機があるらしい。飢えを満たすため、儀式のため、だが、多くは性的衝動ゆえの人格障害だという。ハンニバル・レクターのような人物はハリウッドの産物などではなく、人類史はじまって以来、ずっと存在するという。
「十八世紀に、パウル・ライジンガーはシュタイアーマルクで、"処女の痙攣する心臓"を六つ食べた。彼は九つ食べると透明人間になれると信じていた。ペーター・キュルテンは犠牲者の血を飲み、ヨアヒム・クロルは一九七0年代に少なくとも八人を殺して食べた。それから一九四八年に自分の妹を食べたベルンハルト・エーメという人物もいる。」
そして、彼はウェイトレスを殺しちまったが、その動機はまるで分かっていないとさ...


11. エチオピアの男
男の人生は、残酷なメルヘンそのもの。捨て子で、孤児院、養子縁組、図体はでかく、顔は醜い。子供の頃からからかわれ、二度落第。工場のロッカーで窃盗事件が発生すると、無実なのに解雇される。底辺を生きる人々には、いつも苦難がつきまとう。これが人間社会というもの。銀行強盗をやって、エチオピアへ逃れるが、この地にも、人生に破れた人々がたむろする。売春、軽犯罪、貧困、物乞い、道端で憐れみを乞う手足のない障害者、ストリートチルドレン... この世は、ゴミの山だ!
そして、コーヒー農園で敗者復活を賭ける。売買ルートの立て直し、村の子供たちの識字率を上げ、結婚のおかげで心も穏やかに... 村は豊かになったとさ。
しかし、銀行強盗で当局に目をつけられ、強制送還。彼を弁護するため、エチオピアの村からビデオが送られ、彼の名を連呼する子供たちの笑顔が映し出される。裁判では、なかなか見られない光景だ。だからといって、参審員たちの心が刑罰を逃れさせるはずもない。そして、刑期を半分終えて仮釈放となり、再びエチオピアへ。現地の国籍を取得して、今は幸せだとさ。逃げる場所があるということが、いかに救われるか...

2021-05-23

"科学と仮説" Henri Poincaré 著

かのニュートンは、仮説を嫌ったと伝えられる。科学者の立場であれば、仮説の公表をためらうのも頷ける。
しかし、だ。仮説ぬきで思考することは可能であろうか。前提ぬきで、推論ぬきで、そして、解釈ぬきで、それは可能であろうか。ポアンカレ予想を提示したアンリ・ポアンカレは、仮説の重要な役割を堂々と論じて魅せる。直観の偉大さのようなものを...
尚、 河野伊三郎訳版(岩波文庫)を手に取る。


ユークリッド原論には、五つの公準が記される。それは、これ以上証明のやりようがない純粋な命題であり、言うなれば直観によって成立したもので、カントが唱えたア・プリオリな認識に通ずるものがある。
数学者たちは、公準を基軸にしながら、あらゆる論理の組み立てを演繹によって企ててきた。公準の存在を認めるということは、論理的思考の限界、つまりは人間の能力の限界を認めることになる。
それだけに、公準には常に懐疑の目が向けられてきた。天動説を仮定しなければ、地動説への展望は開けなかったであろう。ニュートン力学を仮定しなければ、相対性理論も、量子力学も編み出されることはなかったであろう。マクスウェルは、エーテル仮説を信じて、電磁場を記述する偉大な方程式を導き出した。この方程式で、エーテルの存在が否定されたわけではない。存在しなくても成り立つってことだ。第五公準が覆されて非ユークリッド幾何学の可能性を認めたのも、健全な懐疑心が働いたからであろう...


あらゆる思考法において、演繹だけに固執せず、帰納によって補完することも怠るわけにはいくまい。
それにしても、古典を読むのは楽しい。いまさらだけど... 科学は日進月歩、獲得した知識もすぐに古びてしまうが、それでも楽しい。いまさらだけど... アリストテレスも、ガリレオも、ニュートンも... 彼らの記述が色褪せないのは、それが人間の思考原理を物語ってくれるからであろう...


幾何学的な認識は、そのまま精神空間に投影される。しかも、この空間はユークリッド幾何学とすこぶる相性がいい。カントは、空間と時間をア・プリオリな認識とした。つまり、これ以上説明のやりようがない純粋な認識に位置づけたのである。
しかし、だ。その空間認識がユークリッド幾何学だというのは、本当だろうか。確かに、物心ついた時から、精神ってやつはユークリッド幾何学に看取られているような気がする。だがそれは、先天的な認識などではなく、自我が目覚める前の、まだ無意識のうちにある経験が、そのような感覚を獲得させたということはないだろうか。
仮に、自我の目覚める前に空間認識めいたものがあるとすれば、それはどんな幾何学であろう。人間の認識領域は、無意識の占める部分があまりに広大で、自我を覗き見するだけでも、よほどの修行がいる。しっかりと意識できるということは、すでに経験的であり、もはや純粋な認識ではない、ということになりはしないか。非ユークリッド幾何学の出現は、それを示唆している... などと解するのは、ただの考え過ぎであろうか...


1. 定義と規定の役割
そもそも、幾何学は、どうやって規定されるのであろう。ユークリッド幾何学は五つの公準で規定され、非ユークリッド幾何学は五つ目の公準から解き放たれ時に規定された。幾何学とは、単なる規定や制約、あるいは、単なる定義ということか。体系とは、そうしたものなのだろう。
学問するからには用語の定義が必要で、これを前提にしなければ、思考を展開していくこともままならない。
数学の定理は、最も単純な加法や乗法の規定によって組み立てられてきた。つまり、結合性、交換性、分配性、等価性といった数学的関係性の洞察によって。実に単調なやり方ではあるが、これこそがまさに最も高度な推論原理といえよう。数学は、数や体系の抽象化はもとより、その関係性においても抽象化の道を辿ってきた。その最たるものが群論である。
物理学の基本対象に、物質の構造と力学がある。力学は、物質の関係性を洞察するもので、まさに数学的推論に適合する。これを人間学に持ち込めば、人間の関係性においても数学的な洞察が可能となろう。
ところで、あらゆる命題が論理形式で引き出されるとしたら、大規模な同語反復に陥りそうなものだが、実際はそうはならない。人類は、うまいこと矛盾を回避する術を会得してきた。それが、定義や規定という術か。それは、人間のご都合主義か。
演算を得意とするコンピュータにしても、矛盾を回避する手段を与えなければ、システムが暴走してしまう。実際、実数演算は近似で誤魔化しているし、もし浮動小数点演算で答えが合わないと騒ぐ新人君を見かければ、IEEE754 の意義を匂わせてやればいい。
哲学という学問にしても、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけ、といえばそうかもしれん。だが、人間の思考能力で、それ以上に何ができよう。真理への道は、これら単調な道を突き進むほかはあるまい...


2.力とエネルギーの規定
力について考え始めたら、哲学をやることになる。関係あるところに、なんらかの力学が働くのだから。政治の力、金の力、愛の力などと...
そもそも、力とはなんであろう。古来、力の表記では、インペトゥス、モーメント、トルク、エネルギー、フォースなどの用語が乱立してきた。それだけ得体の知れない存在ということか。
アインシュタインは、あの有名な公式で、質量とエネルギーの等価性を示し、力は質量を通じてエネルギーで記述できるようになった。
では、エネルギーとはなんであろう。力学的エネルギーは、運動エネルギーと位置エネルギーの和で記述される。運動する物体がエネルギーを持つことは、感覚的にも分かるが、位置がエネルギーを持つとはどういうことか。物体が存在するということは、空間のどこかに位置するわけだが、それは相対的な位置関係でしかない。
しかも、地球の重力を基準に計測され、運動エネルギーも、ある単位系を規定して記述される。つまり、力学的エネルギーの総体は、関係性において規定しているに過ぎないってことか。
光速にしても、粒子性と波動性の二重性に見舞われ、量子の世界では存在確率で記述される。となれば、エネルギーもまた、記述の規定に従っただけのことで、得体の知れないままってことか。
得体の知れない存在について考え始めたら、やはり哲学をやることになる。物理学という学問もまた、「A は A である」という命題を回りくどいやり方で大層に語っているだけなのか。学問とは、そうしたものかもしれん。専門用語を編みだすだけの。だから、用語を知らないヤツをバカにせずにはいられないってかぁ...
「科学が到達し得るのは、素朴な独断論者が考えているような物自体ではなくて、ただ物と物との関係だけである。この関係意外には認識し得る実在はない。」

2021-05-16

"現代物理学の思想" Werner Heisenberg 著

いつの時代にも、科学には解釈の問題がつきまとう。いや、科学でさえも...
ある物理現象に遭遇すれば、それに疑問を持ち、原因を探り、解釈を加えずにはいられない。そして、解釈の余地がなくなるまで精査し尽くすと、また新たな解釈を求めてさまよう。疑問が解釈を呼び、解釈が疑問を呼ぶ。こうして科学は進歩してきた。仮説嫌いのニュートンだって、そうやって思考してきたはず。思考のレベルは、疑問のレベルに比例するであろう...

物理現象の最も基本的な疑問は、二つに集約できよう。一つは、物質を構成する素材はどこまで微小かということ。二つは、物質の間で作用する力の正体は何かということ。前者は、古代の四元素から周期表を経て素粒子物理学に議論が受け継がれ、後者は、重力、電磁気力、核力のメカニズムを担う強い力、放射性崩壊のメカニズムを担う弱い力の四つの統一理論を夢見ては、論争を繰り返す。解釈というからには、主観の域を脱し得ない。疑問が持てなければ思考停止に陥るが、不毛な問答を繰り返すのでは同じこと。宇宙が一つの物理法則ですべて説明がつくとすれば、そこに住む知的生命体は退屈病を患うであろうし、そもそも知的生命体に進化することはなかったであろう...


「自然は人間より前からあるし、人間は自然科学より前から存在していた。」
... カール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカー


これは、量子力学をめぐる解釈の物語である。量子力学は、相対性理論と並ぶ現代物理学の根幹をなす存在で、その研究では二つのアプローチがある。行列力学と波動力学が、それだ。前者は、ハイゼンベルクの不確定性原理で威光を放ち、後者は、シュレーディンガーの波動方程式で幅を利かせる。
量子の性質には、粒子と波動の二重性がある。光や電子には、光電効果のような粒子を放出させる現象もあれば、回折や干渉のような波を思わせる現象もある。となれば道は二つ。粒子性から迫るか、波動性から迫るか。
注目すべきは、まったく異なる二つの発想が、数学的には等価だということ。しかしながら、その解釈となると、二つの巨星にとどまらず、多様な説が飛び交う。コペンハーゲン派の解釈が主流かどうかは知らんが、ハイゼンベルグの立場はそういう位置づけになろうか。
主観で議論するからには、デカルトの存在論やカントの直観論とも交わる。ボーアの解釈では「相補性」が語られ、粒と波が互いに存在を補い合っていると捉える。いや、不確かな存在は、解釈で補うってか。粒のようで粒でない... 波のようで波でない... ベンベン!
それで、シュレーディンガーの猫が生死にかかわらず、どんな状態にあるかは知らんが、なんとなく存在してそうな気がする。チェシャ猫のように薄ら笑いを浮かべて...
仮に、量子が波だとすると、それを伝える媒質が存在するはず。音波が空気を伝わるように。マクスウェルは、エーテルという架空の媒質の存在を信じて、電磁場を記述する方程式を編み出したが、媒質の必要性は否定された。それは、エーテルの存在が否定されたわけではなく、存在しなくても構わないってことだ。光速は媒質に影響を受け、真空中で最大になるというから、これを基準にすれば、存在しないに等しいというわけである。なので、古典論で絶対真空と呼ばれる宇宙空間に、何も存在しないとは言い切れまい。それが、ダークマターってやつかは知らんが...


物理学における解釈の問題は、観測の問題でもある。不確定性原理は告げる。量子の観測では、厳密な位置と運動量を同時に決定することができない... と。しかも、これら二つの不確かさの積は、プランク定数を粒子の質量で割ったものよりも小さくはならない... と。
存在するが、存在の仕方までは理論的に決定づけられないとしたら、その存在はいかようにも解釈できる。人間にとって、存在なんてものはそんなものかもしれん。そもそも、魂や精神の存在が不確かさに覆われている。デカルトが定式化した「我」も、カントが唱えた「悟性」も、道徳屋が説く「理性」も、政治屋が焦がれる「正義」も、博愛主義者が崇める「愛」も...
いずれにせよ、人間は、リアリティの中でしか生きられない。デカルトの思惟も、カントのアプリオリも、リアリティな認識に裏付けられている。哲学は、リアリティとの葛藤から発展してきた。
ただ、リアリティは、リアルとは違う。現実とはちと違う。現実っぽい... と言うべきか。現実と正反対であることすらある。だから、目の前の幻想や夢に惑わされる。現実社会では、確率関数が幅を利かせ、近似や誤差の概念が大手を振り、自己存在までも確からしさの度合いに呑まれる。
だから、自分探しの旅は、いつの時代もお盛んときた。人間のできることといえば、現実を前にして思惟することぐらい。デカルトの言葉は、まんざらでもなさそうだ。
アインシュタインのあの有名な方程式は、質量あるところにエネルギーが存在することを告げている。エネルギーあるところに、なんらかの存在が規程できるとすれば、霊感ってやつも観測できるやもしれん...


古来、自然哲学の歴史は、存在をめぐる論争の歴史であった。それは、物質的な原因を問い、理に適った解釈を求め、一つの原理に帰着させること。哲学は言語による定義を要請する。数学が公理を要請するように。だが、厳密な言語は息苦しい。解釈の余地は、その息苦しさを和らげてくれる。不確定性原理は、その役割を担おうってか...
言語は偉大である。コミュニケーションや思考の手段だけでなく、リアリティまでも現実のものにしちまう。量子力学は、その新たな言語を担おうってか...
解釈は批判される運命にあり、批判する行為もまた解釈によってなされる。どちらの解釈がより合理的か、その優位性を競うのが人間社会。科学でさえ、健全な懐疑心を持ち続けるには、よほどの修行がいると見える。思考実験がパラドックスを育み、思想へといざなう。思想とは、解釈の問題か。人類は、原子自体について語る言語を、いまだ獲得できていない。ならば、なんでもあり...
尚、河野伊三郎、富山小太郎訳版(みすず書房)を手に取る。

2021-05-09

"責任と判断" Hannah Arendt 著

「凡庸な悪」をめぐる物語。それは、「凡庸な善」と背中わせにあったとさ...

小惑星の名になったハンナ・アーレントは、ヒトラー時代を生き抜いたユダヤ系女性。彼女が提示する悪は、邪悪でない人々が画一化し、全体主義的な傾向を強めていく中で浮かび上がる悪である。
どんなに良い事でも、同じ事をする人が多過ぎると、なにかと問題になる。それが人間社会というものか...
どんなに良い人でも、同じ考えの人が集まり過ぎると悪魔に変貌する。それが集団社会というものか...
人間ってやつは、自分自身を見つめることを忘れちまうと、人間性までも見失うらしい。そんな大衆社会にあって、個人の責任はどこまで問われるだろうか、個人の判断はどこまで当てになるだろうか。これがハンナの問い掛けである...
尚、中山元訳版(筑摩書房)を手に取る。


やはり、大衆は臭い!そこには、誹謗中傷の嵐が吹き荒れる。正義を振りかざす人ほど言葉を強め、中庸な人ほど言葉を弱める異様な言語空間。言葉ってやつが、人を攻撃的にさせるのか。アイヒマンのような怪物が実は凡庸であったと指摘し、人間が潜在的に持つ悪魔性について言及すれば、非難に晒される。語ってもいないことを攻撃する輩がいれば、語ってもいないことを擁護する輩まで論戦に加わり、まるで SNS 上で繰り広げられる誹謗中傷の連鎖。現代社会の抱える病理が、こんなところに...


人は誰もが、自分の属すカテゴリに対して敏感に反応する。それは、自己存在を強烈に意識させるからで、いわば本能的な反応。所属するグループが他のグループを優越できれば、これほど心地よい居場所はない。
しかし、だ。残虐な迫害行為がなされ、それを目の当たりにし、それでも心地よくいられるだろうか。悪魔の所業は、どんな心理状態で容認されたのか。歴史学者グイド・クノップは、アイヒマンやメンゲレなどの恐るべき事務的処理を指摘していたが、ハンナは、官僚主義が生み出す非人間性を指摘する。
おそらくヒトラーは、巨大官僚機構こそが、人々が思考することを放棄させ、機械的に、事務的に、つまりは、最も忠実な実行部隊に仕立て上げることを熟知していたのだろう。独裁者である自分自身を神格化できればそれに越したことはないが、こっちの方が手っ取り早いことを。民衆の心を操るプロパガンダ効果も含めて。大衆社会という形態は、この時代に基礎づくりがなされたとも言えそうか...


1. 官僚主義がもたらす「義務」という脅迫観念!
義務ってやつは、ある時は出世の道具に、またある時は強迫観念に、意志を持たない人ほどハマりそうな。これと瓜二つの観念に「常識」とやらがあり、どちらも疑問を持つことを忘れさせる。
義務の恐ろしさは「責任」という観念にいとも簡単に転嫁されるところにある。あらゆる行為が自発的でなされるならば、義務やら、責任やら、そんなものを意識せずに済むはずだが、自発性は個人の問題である。集団の中では協調性がより重要視され、自発性と協調性はしばしば反目する。そのために、統治者は、意志をしっかりと持ち、自発的に行動する人が煙たくもなり、逆に自発的な人は、所属するグループが息苦しくもなる。
そして、ボランティア的な社会活動でさえ誰かの命令でやらされてしまい、誰かの指示がないと仕事も見つけられない。換言すれば、官僚主義は「義務」や「責任」といった用語で支えられている。いや、縛られていると言った方がいい。これらの用語をどう解釈するかは別にして...
但し、官僚主義は公務員の専売特許ではない。組織あるところに、なんらかの形ではびこる。命令する側にとって、イエスマンほど都合のいいヤツはいない。命令だから、規則だから、法律だから、と言い訳できれば、思考せずに済む。非人間性ってやつは、思考することの面倒臭さからくるのだろうか。形式や儀式に固執し始めたら、その前兆かもしれない。
いずれにせよ、扇動者にとって、思考しない連中が思考しているつもりで同意している状態ほど都合のよいものはない...
「こうした官僚機構で支配するのは、法でも人間でもなく、非人格的な役所やコンピュータです。まったく人間の手から逃れた制度による支配は、これまで経験されてきた独裁政治のもっとも法外な専制よりも、人間の自由と最低限の礼儀に対する脅威となりかねないものです。」


2. 良心や定言命法ってやつは、当てになるか?
道徳を根底から支えるものに、良心ってやつがある。良心は、責任や義務にも深く関与する。良心はきわめて主観的な領域にあり、主観的であるからには個人的な資質に関わる。道徳が個人的な問題だとすれば、集団社会においては悲観論にならざるをえない。ソクラテスの黄金律だけでは不十分。何か別のものが必要ってことだ。
ハンナは、古代ギリシアから培われてきた道徳法則に、「カントの定言命法」を加えて補完を試みる。仮言命法は、ある目的を実現するために提示される命令で、道徳的な意味はあまりない。対して、定言命法は、目的を考慮せずとも提示される命令で、義務の意味合いが強い。ただし、目的を考慮せず... というのが問題で、無条件で思考を放棄してしまっては本末転倒。常に、自己の中にある良心に耳をすます、といったところか。
しかしながら、自らに照らして吟味する性格のもので、主観的な領域は脱しえない。となれば、あとは共通認識に期待するぐらいか。善と悪の基準は人それぞれ。それでも、人間なら誰もが苦痛を感じ、喜びを感じるような意識がある。それが、普遍性ってやつか。普遍性に従った判断力は、共同体の中で期待できる最後の砦となりうるだろうか。それは、基本的人権とも深く関わる問題である。
とはいえ、良心に期待するのも心もとない。良心の限界、理性の限界、道徳の限界を心得てこそ、節度の心理が働く。自分の理性に自信を持ち、自分の道徳認識に自信満々になれるということは、すでに自己の中で理性が暴走を始めたと見るべきであろう...
「客観的な原則の表象は、これが意志を強制するかぎりで、理性の命令と呼ばれ、この命令の形式は命法と呼ばれる。」


3. ヒトラーの教皇
ロルフ・ホーホフートの戯曲「神の代理人」は、ユダヤ人虐殺を黙視したローマ教皇ピウス12世の戦争責任を告発し、多くの論争を呼んだ。人道的な立場から、なにゆえナチスを批判しなかったのか、あるいは、できなかったのか、という議論は現在でも燻る。ヨーロッパにおけるローマ教皇の精神的権威は大きく、ローマ皇帝でさえ教皇に頭を下げてきた歴史がある。当時のドイツにも多くのカトリック教徒がおり、その影響力は大きかったはず。なのに... そして、ピウス12世は「ヒトラーの教皇」と呼ばれた。
しかしながら、21世紀の今では、逆の見方が優勢であろうか。実際、表向きナチスと親交をもちながら、多くのユダヤ人を救ったという逸話が数多く残され、映画やドラマにもなっている。人種的な、イデオロギー的な立場をカモフラージュしなければ、そうした行為もできない。そのために、戦後、不本意な告発がなされ、無知な大衆の餌食にされた事例も少なくない。
では、ピウス12世の場合はどうであろう。ナショナルジオグラフィックでも特集をやっていたが、バチカンの敷地には多くにユダヤ人が匿われたそうな。ユダヤ教の礼拝中にドイツ軍が近づけば、アヴェ・マリアを歌ってカトリックを装う。教皇が沈黙していたから、静かに匿うことができたとも言える。
ピウス12世はヒトラー暗殺計画にも関与していたという説もある。ヒトラーもローマ教皇を目の上のたんこぶと見ていた節があり、教皇の誘拐計画を企てたが、実行部隊がわざと時間をかけて防いだといった話も。
また、当時のヨーロッパには二つ悪魔がいて、互いに警戒しあっていた。一つは、ヒトラーの国家社会主義、二つは、スターリンのボリシェヴィキ。バチカンにとっては、後者の方が危険であろうか。ドイツにも多くのカトリック教徒がいたし、ヒトラーはユダヤ人だけでなく共産主義も目の敵にしていた。ただ、地理的にはヒトラーの方が目障りで、西ヨーロッパのほとんどの領土を支配していた。
こうした情勢の中で、堂々とヒトラー批判を展開すれば、バチカンは残虐な報復攻撃を受けたことだろう。ハイドリヒ暗殺でリディツェ村が抹殺されたように。正論は、しばしば悪魔の口実にされる。戦後の当事者の証言にしても、あまり当てにならない。自分を正当化しようと必死なのだから。
そして、ドイツの大衆はヒトラーにすべての責任を負わせ、敵国の大衆は一介の市民にまで責任を負わせようとする。戦争責任を問うことは難しい。その範囲を問うことは、さらに難しい。クラウゼヴィッツ風に言えば、戦争は政治の一手段であり、その責任は政治指導者が負うべきであろうが、その指導者が選挙で選ばれた人物なら、国民にまったく責任がないとも言えまい。我が国にも、戦時中に平和論を唱えようものなら、非国民と罵倒された時代があったが...


4. 善行の逆説
カントは、毎日、同じ時間にケーニヒスベルクの街路を散歩したという話は聞いたことがあるが、散歩中に乞食に施しをする習慣があったという逸話はあまり知られていない。いつも新しい硬貨を用意し、使い古しのみずぼらしい硬貨を与えるのでは、乞食を侮辱すると考えたとか。乞食たちが群がり、カントは散歩の時間を変えなければならなかったが、その理由を告げるのを恥じて、肉屋の店員に乱暴されたからという話をでっちあげたという。本当の理由は、施しをする習慣が道徳的な格律にふさわしくなかったということらしい。すなわち、「施しをねだる人には誰にでも与えよ」という格律から...
善をなす誘惑はどこにでも転がっているが、悪をなすには手間がかかるし、知識もいる。道徳を学ぶには、悪をも学ばなければ...
すると、善行の逆説が薄っすらと浮かび上がる。ナザレの御仁は、善を行う者は、その行為を他者からだけでなく、自分自身からも隠せ... というようなことを告げた。右の手のすることを左の手に知らせてはならない!という言葉が、それだ。善を行えば、それを人にアピールしたくなるものだが、それこそ独善者というわけである。真の善人は、善人ぶることはないだろう。真の悪人こそ善人ぶるだろう。無私性を問えば、自ら孤独へ導くことに。そして、孤独のうちに十字架を背負ったのだろうか...


5. 孤独と孤立、そして孤絶...
人間ほど孤独を恐れる動物はあるまい。寂しがり屋な性癖がそうさせるのかは知らんが、誰かと繋がっていないと心配でしょうがない。
そこで、ハンナは、孤独と孤立の違いを指摘し、「孤絶」という概念を持ち出す。思考は、孤独の状態を前提とし、自己との対話によって可能になる。孤立は、自己との対話すらできず、思考することもできない状態。孤独は自己の中にあるが、孤立は自己の中にも、人里離れた山奥にもなく、むしろ集団の中にあるというわけか。そして、最も深刻な状態が孤絶ってやつで、それは騒々しい大衆の中にあるってか...
エジソンは、こんな言葉を残した... 最上の思考は孤独のうちになされ、最低の思考は騒動のうちになされる... と。
ハンナは主張する。善を為す者は、それが善行であることを他者に誇ってはならないだけでなく、自らも意識してはならないと。行為を為す者は、単独で神と向き合っていなければならないと。
とはいえ、これを実践するには、よほどの修行がいる。下手すると自己にも無関心になりそうな。自己に無関心な自己とは、どういう状態であろうか。それはそれで危険な香りがする。いずれにせよ、最も危険な状態は、自己に問い掛けることを忘れ、自己を見失うことであろう...

2021-05-02

お引越し、BD 2枚でピストン輸送... おいらは流れに弱い!

この春、Jcom さんの流れがいい!雨でも降るんじゃない?もう二十年かぁ。長いこと使ってりゃ、いいこともあるってかぁ...


ネットコースを、320M から 1G へアップしたばかり。瞬間スピードも 800Mbps を超え、まあまあ...
そこに、CATV チューナの交換ときた。モノは、Pioneer BD-V302J から 住友電工 XA401 へ。サービス名も変わり、Smart J:COM Box(スマートテレビサービス)から、J:COM LINK へ。


我が家の BD レコーダは Sony BDZ-E500、十年前の代物だ。こいつは、サイトに公開される LAN 録画の対応機種表にはない。ただ、一応 DLNA 対応機器なので試してみると、十分に使える。こいつで OK! なら、たいていの機種はいけそうか...
内蔵 HDD が 500GB と貧弱で、すでに枯渇気味。ちょうど買い替えを考えていたところに、チューナの交換というタイミングの良さ。おいらは流れに弱い!


1. さて、次の機種は?次のメーカは?
この手の問題では、まずデータのお引越しが悩ましい。メーカ依存は避けたい。BDZ-E500 は、パナからの乗り換えであった。今度も乗り換えのつもりで、久しぶりに家電量販店に足が向く。
すると、Sony BDZ-ZW1700 が三万円ちょっとで叩き売りしていた。まさか展示品?在庫は二つ、どうやら新品のようだ。5月に、新製品 ZW2800/ZW1800 が出たばかり。録画機能などがアップしてそうだが、余計な機能はいらない。むしろ、型落ちの方がありがたい。ZW2700 は内蔵 HDD が 2TB で、これなら即決しそうだが、ZW1700 は 1TB で、ちと寂しい。店員によると、ZW2700 は先週売り切れたという。
また Sony では芸がない!文化に染まるのも、よろしくない!、と一瞬踏みとどまるものの...


2. 結局、衝動買いかよぉ...
うん~、店内で30分考えた挙げ句、おいらは流れに弱い!
要するに、メインの記憶デバイスをどこに配置するか。メーカ依存を避けるなら、SeeQVault 対応の HDD/SDD あたりか。時期尚早な気もしなくはないが...
いずれにせよ、BD レコーダが SeeQVault 対応でなければ、話にならない。ちなみに、ZW1700 は対応している。メインを外付に配置するなら、4TB は欲しいところ。内蔵を一時退避場所に位置づけるなら、1TB は贅沢な領域となる。DLNA 対応機器ならパソコンからも覗けるし、NAS を立ち上げることも視野に入れて、SeeQVault のサーバソフトも検討してみたい。そもそも、BD/DVD といった記録媒体が必要なのか?BD レコーダの地位も下がっていくかも...
などと考えを巡らせているうちに、衝動買いしちまった。結局、問題は先送り。1TB が枯渇するまでに、まだ時間はある。
そういえば、家電量販店で機器を購入するのは何年ぶりだろう。通販サイトがコロナ禍や配送業者でドタバタ劇を演じる中、意外と穴場やもしれん...


3. お引越しは、BD-RE 2枚でピストン輸送!
ZW1700 の HDD は 1TB でちと寂しい... と書いたが、E500 の 500GB のお引越しとなると、かなり辛い。最近の機種は、お引越しダビングなんて機能があるが、E500 の時代にそんなものはない。
ムーブ + ムーブバックを、ちまちまやるしかないか。BD-RE が 2 枚あれば、ムーブとムーブバックを同時にカバーできる。単純計算で、50GB の BD-RE で10回。1回に要する時間は、90分から 120分で、だいたい2時間置きに様子を見ては作業するといった感じ。なんと時代錯誤な!まぁ、500GB なら被害は小さい...


4. 録画そのものが、バカバカしい行為かも...
時代とともに画質が改善されるたびに、新たな記録媒体で録り直し。VHS に始まり、DVD/BD、さらに、4K/8K と続くだろう。どうせ録り直すなら、いま録る必要があるのだろうか?それでも、やっちまう。手元に現物がないと落ち着かない。ただそれだけのために...
情報ってやつは、大量に押し寄せてくると鬱陶しくなるが、録画データにも似たところがある。録画という行為は奇妙なもので、一旦録画しちまうと、なかなか観ようとしない。いつでも観られるという安心感からか。
となれば、録画という行為そのものがバカバカしくなる。ダイレクトにストリーミングすりゃいいものを...


学生時代は、もっと、もっと、バカなことをやっていたっけ...
レンタルビデオ屋さんから大量に VHS を借りてきては、持ち寄ったビデオデッキでダビング。ビデオデッキを二台所有できるのは、金持ちのボンボン!新古品の売出しに徹夜で並んで、1万円ポッキリでゲット。1万円でも高価だった。情報を聞きつけたヤツらが、おいらの部屋にビデオデッキを持ち込んで徹夜でダビングを始める。アダルトビデオを大量に借りてくるヤツもいた。
おまけに、大学の真向かいのアパートで、チャイムが鳴ってから家を出ても講義に間に合う。おいらの部屋には、代わる代わる学生がやってきて、プライベートはぐちゃぐちゃ!俺の青春を返せ!
今つくづく思う。録画という行為が、いかにバカバカしいか。しかし、バカバカしいことをやり続けるのが人間である...