2016-02-28

"続 ルネサンス画人伝" Giorgio Vasari 著

ルネサンス風の詩文とは、こういうものを言うのであろうか...
前記事「ルネサンス画人伝」では、絵画の写真がほんのわずかしか掲載されず、文章で美術を語り尽くす酒肴(趣向)に魅せられた。もはや続編へ向かう衝動は抑えられない。ジョルジョ・ヴァザーリのトスカーナへの想いは、ガウディのバルセロナへの想いに似ている。どちらも地中海に面した地域だが、優雅なデッサンの力や鮮やかな発明の才、あるいは、村落風景や人間物語の語り手となる資質... こうしたものを育む土壌でもあるのだろうか。そこには数多の歴史の背景や条件が融合し、調和という形で露わになる...

ルネサンスという時代が、これほど多くの画人を輩出したとは...
達人の手にかかれば、静の手段をもって動よりもはるかに動的な物語を語らせる。絵画が精神空間の投影であるならば、再生や復活といった思想回帰に縋らなければ生きることの難しい時代であったのか。現在に絶望すれば、美化した過去を懐かしみ、根拠のない未来に希望を託す。人の心は移ろいやすい。特に希望ってやつは危険だ。甘美であるがゆえに依存症に陥れるのだから。
本書には、画家たちの豊かな個性と発想力に対して、彼らが選んだ題材の崇高な共通性が配置される。いわば、多様性と普遍性だ。この二つの価値観は一見相反するように映るが、中庸の哲学の下で調和をもたらす。キリスト物語に執念を抱きながら幾多の寓意を創出し、思い上がりの情念と対照に、哲学、天文学、幾何学、音楽、数学といった学問を擬人化する。あるいは、聖人聖母の誕生と受難、死と昇天、あるいは愛徳と博愛、謙遜と節度に対して、悪徳と享楽、欺瞞と嫉妬を配置。さらに、主要な福音だけでなく、マイナーな福音をも引き出し、壮大なカノンを奏でる。画家たちに集団的な意志などあろうはずもない。しかし、個性の集団が時流に乗った時、集団的な意志が生起する。もはや技巧の継承などでは説明がつかない。意志の継承だ。この時代に、量子論的な進化論を重ねずにはいられない。芸術家たちの集団エネルギーの蓄積が、突然変異として開花する様子にである。人類の歴史には、普遍的な何かを求める意志が働いているのか?これらの芸術は、そこから外れた人生を浪費だと教えているのか?真理へ向かわないものは、すべて浪費であると... そうかもしれん。
ところで、真理ってなんだ?これまた一神教のごとく、一つの教義で定義できるものなのか?はたして人類は、個性に裏付けられた多様性を求めているのか?あるいは、個人を超越した普遍性を求めているのか?いずれにせよ、斬首刑は、大衆の忌み嫌う価値観を、斬首するかのごとく振る舞う...

 自然に対して法を定め適用し
 国と時代を制する者から
 すべての善がやってくる
 とはいえ、悪も適度には許されて、生き長らえる
 そこで、この姿を見ればわかるだろう
 着実な足取りで、一つの世紀が前の世紀に取って代わるのを
 そして、悪なるものが善となり、
 善なるものが悪と代わるのを。

悪魔の巡礼の旅が始まる...
神様の最大の敵は、悪魔だと聞かされてきた。好敵手がいなければ、神の存在も締まらない。相対的な認識能力しか発揮できない人間どもが、崇高なものを描こうとすれば、その対極に何かを配置せねばなるまい。となれば、絵描きにとって悪魔は手強い対象となろう。聖人聖女を描くために、まず悪魔の正体を描かねば。身体の腐蝕を嘆き、憐れな精神を嘆き、様々な醜い姿から目を背けるわけにはいかない。そして、絵画に描かれれば永遠に伝えられる。内面は悔恨で渦巻き、精神を破綻させ、やがて始まるて死人の遠吠え!これが昇天する姿だというのか。まるで道化だ。狂気しなければ、真理にも近づけないのだから...
「才能を持つ人間につきまとう危険、その人間が実生活のなかで直面する不都合に思いを馳せると、才能などを天から与えられることなく、才能から遠ざけられている人の方が無難ということになろう。持って生まれた才能から、華やかな天才が生まれ出すとしても、なかには、常人とは異なった変わり者も出てきて、日常生活から逃げ出し、ひたすら孤独な生活を愛するようになる。自分に都合の良いものを見つけようとしても、実生活では不都合なことにばかり当たることになる。何をしてもうまくいかず無気力感に捉えられている時でも、ちゃんとした自分自身の哲学を持って行動するのだが、やっていることは一般人にとってみればむしろ悪ふざけである。」

1. 続 画人伝
1550年、ジョルジョ・ヴァザーリは「画家・彫刻家・建築家列伝」を出版した。「ルネサンス画人伝」では、その中から代表的な15人が描かれていた。この続編では、さらにヴェネツィア派とシエーナ派の41人が紹介される。
尚、本書で偉大とされる画家たちは、今日の評価と必ずしも一致するわけではない。ヴァザーリ自身がフィレンツェ派の画家で、それよりも二百年前のシエーナ派についてはよく知らず、重きを置いていないようである。これだけ丁寧でありながら、シエーナ派の記述は短く、誤りも多いそうな...
ピエートロ・ロレンチェッティ、ブオナミーコ・ブッファルマッコ、アンブロージョ・ロレンツェッティ、シモーネ・マルティーニ、ドゥッチョ、マゾリーノ・ダ・パニカーレ、アントネルロ・ダ・メッシーナ、アレッソ・バルドヴィネッティ、アンドレーア・ダル・カスターニョ、ドメーニコ・ヴェネツィアーノ、ジェンティーレ・ダ・ファブリアーノ、ピサネルロ、ベノッツォ・ゴッツォリ、ロレンツォ・コスタ、エルコレ・デ・ロベルティ、ドメーニコ・ギルランダイオ、アントーニオ・ポルライウオーロ、ピエーロ・ポルライウオーロ、フィリピーノ・リッピ、ピントゥリッキオ、ピエートロ・ペルジーノ、カルパッチョ、ルーカ・シニョレルリ、コルレッジョ、ピエーロ・ディ・コージモ、フラ・バルトロメーオ・ディ・サン・マルコ、ロレンツォ・ディ・クレーディ、ボッカッチーノ、アンドレーア・デル・サルト、ポルデノーネ、ジローラモ・ダ・トレヴィーゾ、ロッソ・フィオレンティーノ、パルミジャニーノ、パルマ・イル・ヴェッキオ、ロット、ジューリオ・ロマーノ、セバスティアーノ・デル・ピオンボ、ヤーコポ・ポントルモ、ヴェロネーゼ、ソードマ、ブロンズィーノ。

2. 裸体と戯れる!
裸体を題材にするのは、ある種の自然回帰であろうか。すべてを脱ぎ捨て、すべての情念をさらけ出し、ありのままの姿を描く。聖体への憧れを、露出狂に求るがごとく。それでいて、遠近法を用いて少し距離を置く。しかも、少し斜めから観察する。露出狂と正面から向かい合うのは、ちと恥ずかしいと見える。遠近法で奥行きをつけ、明暗法で影を背負わせ、心の闇を暗示することでリアリティを演出する。人生とは、まさに明と暗で構成される。詩に焦がれ、死に焦がれるのは、自己の廃墟を描くようなもの。ならば、すべてをチャラにして、身を清めるようと願うのも道理か。芸術に触れることの意義とは、自分の心を洗う手段としての洗礼へ導くことか。
本書は、良運とともに徳を身につける精進がなければ、結果を生み出さないという。だが、その良運に恵まれない才が実に多い。運だけに信頼を置く者は、やがて運に欺かれるであろう。凡人は運に溺れ、見返りを求めれば真理の道は途方もなく険しくなる。ならば、見返りを求めず、純粋に精神を解放することを望めば、真理の道は心地良いものになるというのか?相手の殺気を消したければ、自ら隙だらけになって、自己の殺気とともに飲み込む。春風駘蕩の奥義とはそういうものであろうか。ただし、純真な凡人は間違いなく身ぐるみ剥がされる...

3. 悪魔も捨てたもんじゃない!
優れた才能を持つ芸術家が、自然に対して負うところは大きい。では、鑑賞者が芸術作品に対して負うところとは、なんであろう?天才ならではの細かい配慮は、鑑賞者の側から高みに登らなければ、到底理解することはできない。凡人は、目の前にある幸せにも気づかない。いかに日常の幸福を浪費していることか。近づきすぎて調和が見えないとすれば、少し距離を置くことに意義を求めるのが遠近法ってやつか。画家の遠近法は客観性の眼を与え、明暗法をもって人生の明暗をあぶり出す。
しかしながら、芸術家にも悪辣きわまる嫉妬羨望の情念があろう。人間の徳の裏腹に悪徳が孕む。なにも聖なる世界を描くのに、聖人である必要はない。才能は、嫉妬やコンプレックスから覚醒することもあれば、憎悪と憤怒がやがて忍耐と謙遜へ導くこともある。寒さ、飢え、不憫、羞恥、嫉妬、抑圧、疲労... こうしたものをもろともせず、反発する力が潜在意識を覚醒させたりする。金持ちだからこそ、裕福だからこそ、満たされているからこそ、閉ざされる偉大な道がある。真理への野心には曇りがなく、権力への野心のような揺るぎはない。根源的な自由精神を存分に解放し、やがて権力欲や金銭欲を凌駕するのを待つ。
とはいえ、いくら仏門に入ろうとも、本当に正直者でいられるだろうか?罪悪を知らずして、純真な、清廉潔白な、ましてや聖人などと。だから、神に縋るというわけか。悪い奴ほどよく眠るというが、悪い奴ほど神に縋るというのは本当かもしれない。そして、もっと悪い奴は、悪魔に縋る...
「非常の才能を身に備えているのでないくせに、運命に助けられる人が数多く世にいる。そしてちょうどその逆に、才能を身に備えていながら逆運にいじめられて泣く人も数限りなく多い。それだから運命の女神が寵愛する子供というのは、まったく才能の助けなしに、運命の女神にすがるものだということがよくわかる。」

2016-02-21

"ルネサンス画人伝" Giorgio Vasari 著

ルネサンス期... この時代が、宗教弾圧から宗教改革へ、さらには対抗宗教改革へ導かれる一連の流れと重なるのは偶然ではあるまい。思想弾圧に対抗して過激な自由運動で応戦すれば、弾圧はより強化され、社会全体が過激派の坩堝と化す。神を一つに定義すれば、悪魔がいかに多様であるかを思い知らされる。残虐や迫害の連鎖の中では、運命論に身を捧げるしかないのか...
「絶え間なく襲い来る凶事の洪水は、哀れなイタリアをおし流し溺死せしめるに至り、およそ建築と呼ぶに値する建築をことごとく破壊したばかりでなく、芸術家をひとり残らず消滅に追いやってしまった...」
この文化運動が、いや精神運動が、地中海貿易で繁栄したトスカーナ地方、特に大都市フィレンツェに端を発したのも、経済活動が自由精神と相性がいいということがあろう。詩人ダンテがフィレンツェを追放され、流浪中に「神曲」を書き上げたのも、ちょうどその頃。本書に登場する画人たちにも、ダンテの影響が強いことが伺える。そして、ビザンチン帝国のコンスタンティノープル陥落(1453年)の時期に、多くのギリシア知識がイタリアへ避難し、一神教の窮屈な教義から、多神教の自由な神々の時代を懐かしむ土壌が育まれていった。
「画家は自然に対して多くを負うている。自然のなかから一番良いところ、一番美しいところを取り出して、たえず自然の模写と再生につとめる画家たちに対して、自然はいつも模範の役割を果たしてくれる...」
ダ・ヴィンチやミケランジェロをはじめ、この時代に多くの万能人を輩出したのは、芸術だけでは人々は救えない、そして自分自身をも救えない、という境地に達したからであろうか。しかも、互いに切磋琢磨し、互いに協調しあうとは。より普遍性を求め、より真理に近づき、自然の殉教者となった画人たちの旅路が、そこにある。かつてのアテナイがそうであったように、かつてのアレクサンドリアがそうであったように、この時代にあってはフィレンツェが知の宝庫となっていく。叡智の相乗効果とは、こういうものを言うのであろう...
「いかなる分野の仕事であれ、秀でた人物が出現するとき、多くの場合たった一人だけでないのが自然の摂理である。」

1550年、ジョルジョ・ヴァザーリは「画家・彫刻家・建築家列伝」を出版した。この書は、ルネサンス期のイタリア美術研究家の間では、聖書に次ぐバイブル、そして、ダンテの「神曲」と肩を並べると評されるそうな。そこには、絵画の写真がほんのわずかしか掲載されず、言葉によって美術を語り尽くす凄みがある。ヴァザーリ自身は画家であり、建築家であったが、文章家としても名高いことが伺える。時代に隠された本音とやらを垣間見るには、政治的な思惑から距離を置く芸術活動こそ、うってつけ。これも、ある種の遠近法と言えようか。画家の職人気質が文学と融合した時、絵画の遠近法は精神の遠近法を覚醒させる。ちなみに、彼には、妻よりも遠近法を愛したという逸話もあるそうな。
「もし僕がいつも遠くに離れているのが君の気に入らないのなら、親愛なる妻よ、それはやはり僕の気にも入らず、僕の嘆きの種である。この僕の心の苦しみがおさまらぬうちは、太陽が空にも上がらず、また地にも沈まぬようにと祈る次第だ。」
遠近法とは、二次元空間に人間の視覚をおしどどめる技法であり、いわば視覚の欺瞞である。それは、事象を精神空間へ投影する手段であるが、芸術が精神の投影ならば、まさに自分自身を描いていることになる。伝記とは、遠近法に幽閉された人物の描写か。いや、文章家によって踊らされる人物像と言うべきか...

ところで、芸術とは奇妙なものである。描かれた自然の対象物には興味すら寄せないのに、描いた人工物には最高の称賛を与えるのだから。それは、自然を支配することが不可能であることを暗示しているのか。それとも、自然への嫉妬がそうさせるのか。威厳をもって描こうとするうちに、自己の内に沈潜していく。天国へ導かれることで活力を満たしてくれるように、自分の芸術でもって自分の芸術以上の境地に達することは、ありうるだろうか。そこに、芸術の弱点がありそうだ。哲学愛好家が、自己存在にも疑問を投げかけなければならぬように。自己矛盾の脆弱性から逃れる方法があるとすれば、それは無力を悟ることか。確かに、圧倒的な芸術の前では、無力感こそが心地良いものとなる。まるで自然に征服されたかのように。逆に、人工物に征服される無力感ほど気分の悪いものはない。ラファエロが、ダ・ヴィンチやミケランジェロの域に達し得なかったことを自覚できたのは、幸せだったのかもしれない。では、普遍性へ向かわない人生は浪費だというのか?真理へ向かわない人生は、すべて浪費だというのか?ミケランジェロは、こう呟いたそうな。
「金持ちでありたがるかぎりは、ずっと貧乏でありつづけるさ!」

1. 画人伝
本書は、「画家・彫刻家・建築家列伝」の中から15人が厳選される...
チマブーエ、ジョット、ウッチェルロ、マザッチョ、ピエーロ・デルラ・フランチェスカ、フラ・アンジェリコ、フィリッポ・リッピ、ベルリーニ、ボッティチェルリ、マンテーニャ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ジョルジョーネ、ラファエルロ、ミケランジェロ、ティツィアーノ。
中でも、ダ・ヴィンチへの讃辞が最上級であることは間違いない。
「この上なく偉大なる才能が、多くの場合、自然に、ときに超自然的に、天の采配によって人々の上にもたらされるものである。優美さと麗質、そして能力とが、ある方法であふれるばかりに一人の人物にあつまる。その結果、その人物がどんなことに心を向けようとも、その行為はすべて神のごとく、他のすべての人々を超えて、人間の技術によってではなく神によって与えられたものだということが、明瞭にわかるほどである。人々はそれをレオナルド・ダ・ヴィンチにおいて見たのである。」
しかしながら、ミケランジェロへの思いは特別に熱い。紙面に割く量も、ダ・ヴィンチの20項、ラファエルロの50項に対して、130項と厚い。ヴァザーリは、生きている者の伝記を書かなかったそうな。年老いた者も例外ではない。しかし、ミケランジェロだけは違っていた。そして、ミケランジェロに一冊を献じると、自作ソネットを送ってくれたと嬉しそうに語る。

 君は筆と彩色をふるい
 その技芸を自然の域まで達せしめた
 むしろ自然からその誉れを感じさせた
 自然の美以上の美を描くから

 そしていま 君が学の手で
 文筆の高貴の業を始めれば
 かつては不可能の 自然の価値を奪い去る
 人びとに新たな生命(いのち)を与えるのだ

 かつていつの世も 美しい作品で
 自然と技を競っても とかく道を譲るもの
 限りある結末に行くのが事の常だから

 けれど失せし人らの記憶をゆりおこし
 かくある生命を与えれば 君はまた
 自然の定めにかかわらず 永遠に生きながらえる

ミケランジェロは、友人の僧侶から「妻を娶らないのは罪ですよ。たくさんの子供を得たら、彼らにすばらしい多くの作品を残せるのですよ」と言われた時、こう答えたという。
「私には芸術というたいへんな妻がいるのですよ。それがいつも私を悩ませるです。私の息子は、私の残す作品です。」
これが、独身貴族の美学というものか。子供を残したところで、財産は売り払われる。真の芸術は、血縁なんぞで受け継がれるものではなく、人類の宝物として受け継がれるものでなければなるまい...

2. 孤独の摂理
芸術に憑かれる者の常として、孤独を愛するということがある。芸術は、ただ一人で思索に耽る者を要求する。そのために、人付き合いを避ける性癖を背負い込む。だが、それを空想とか異様とか考えるのは間違いであろう。どんな研究分野であれ、専心する者が良い仕事をしようとすれば、余計な心配事や煩わしさから遠ざかろうとする。
とはいえ、その事をわきまえ、時には積極的に人と向かい合うことも大切である。キリスト物語を描く人物が聖人である必要はない。善良で温和な性格の持ち主と評されても、聖人を自称する者などいない。エロスを覗き、恋多き、多感さを発揮しなければ、心の豊かさを欠くだろう。だからといって、けして俗世の罠に嵌らない。真理とは、それほど心地よいものなのか...
ダンテ曰く、「死せる者は死せる者のごとく、生ける者は生ける者のごとくなりき」
死者の復活を描くのに、どういう境地に達しているというのか?大地なるものから骨や肉を、いかに取り戻すというのか?こうした試みは、ある種の欺瞞である。それでもなお人々を感動させるのはなぜか?芸術とは、恐ろしいものだ。だからこそ、政治的な野心家どもの道具とされる。
「恐ろしいほど研究に打ち込む人間が自己本来の自然の性に無理強いをする者であることは疑いない。それだから、一面では天分を鋭敏に研ぎ澄ますことができるとしても、そうした人のすることはどれもこれも、どうしても素直な優雅さに欠けるものである。それに反して、慎重に配慮して、節度を心得、しかるべき点にしかるべき力を注ぐ人は、ある種の鋭利な芸を避けるから、かえって自然に素直で優雅な作品を作ることができる。細かい芸や工夫というのは、時が経つとたちまち、作品になんともいえぬ努力した、という重苦しい、無味乾燥な感じを与えるが、そうした拙な方法は見る人々の同情を呼ぶことはあっても、見る人々を感嘆させるということはない。というのも、天分が作動するのは、知性が作用し、かつ感興に火がともる時のみだからである。」

3. 万能人の不完全な哲学
「よく知られていることだが、レオナルドはその知性的な技倆により多くのことをはじめたが、何も完成しなかった。彼にとっては、思い描いていたさまざまなものに必要な完璧なる技倆に、自分の手腕が達していないと思われたのである。彼の観念においては微妙にして驚嘆すべき困難な事柄が形成され、彼の手がいかにすばらしいものであっても、それを表現することができないのであった。その上彼の移り気は多方面に向かい、自然の事物について哲学的思索にふけり、草花の特性を理解しようとしたり、天空の動き、月の軌道や太陽の運行を観察しつづけた。」
神の思し召しのままに為せる境地とは、いかなるものであろうか?全身全霊を捧げようとも、真理の道は不完全のまま残され、真理を貫く信念は、生前よりも、むしろ死後に開花させようとは。出来上がった作品が作者自身の理解を超え、鑑賞者の理解によって独り歩きを始める、ということもある。不完全であるが故に、移り気も激しいというのか?いや、真理への執念が、多彩な知識へ向かう衝動を抑えきれないのであろう。驚嘆すべきは、けして完成しないと知りながらも、希望を絶やさぬ持続力である。成熟してもなお、学び足らぬというのか。天才たちの葛藤が、死後の天上において報われるのかは知らん。ただ、ミケランジェロの晩年のソネットが、いつまでも時代を奏でる...

 私の人生はいま港にたどりつく
 はかない小舟で荒海を渡って
 悪行善行の申し開きをしようと
 すべての人が降りねばならぬあの港へ

 芸術が私には偶像や君主であるという
 あの親愛なる想いが
 いかに誤りであるかをいま私は知るのだ
 人それぞれの望みに反することを

 虚しくもうれしかった恋の思い
 私が二度死ぬばそれも何が楽しかろう
 最初の死は確かなら第二の死が脅かす

 もはや絵画も彫刻も魂を静めてくれず
 魂は神の愛へと向かい
 愛は我らを迎えんと腕を十字架に拡げたもう

2016-02-14

"チェッリーニ自伝(上/下)" Benvenuto Cellini 著

イタリア・ルネサンスが生んだ名彫金師ベンヴェヌート・チェッリーニ。彼は、58歳にして自伝の執筆を思い立つ。晩年の空白を埋めるかのように...
「いかなる種類の人間であろうと、なんらかの実力の業、あるいはまさしく実力とまごうかたなきことを成し遂げたならば、誰でも、正直で誠実な人であるかぎり、みずからの手でおのれの生涯を書き記すべきであろう。とはいえ、それほど大事なもくろみであれば、四十歳を越える前にはとりかかるべくもあるまい。」

老獪な法王やメディチ家に渦巻く陰謀、ライバルとの確執や女性関係、戦争、殺人、投獄... 数多の不正不義を掘り起こしてまで語らずにはいられない心境とは?ある種の老人病が、そうさせるのか?ストレートにぶちまける文面!ここに政治的な意図は感じられない。獄中で書かれたカピートロ詩はなかなかで、ローマ掠奪の戦闘、聖城からの脱出、ペルセウス像の鋳造といった場面が劇的に描かれる。
しかしながら、牢獄という非道な運命から解放されてもなお自由奔放な書きっぷりに、自分自身を清廉潔白で誠実な人間であることを強調する独り善がり... 読んでいるこちらの方が恥ずかしくなる。馬鹿正直のなせる技か?あるいは、ルネサンスという自由精神の時代が、そうさせたのか?断末魔の苦しみを味わえば、もう少し孤独を謳歌してもよさそうなものだが、人間の本性は変えられそうにない。所詮、完全な孤独を求めているわけではないということか?孤独愛好家は、どこかに逃げ道を確保し、自分の不幸を舐めるように愛しながら書く。無論、幸せな人間ではあるまい。そもそも幸せな人間が、自伝文学など書けるはずもない。この書が自伝文学の傑作と評されるからには、よほど深みがあるのだろうが、文学オンチのおいらには文学的価値がよく分からない。むしろ心理学的価値として興味深い。
チェッリーニは、マニエリスムの代表的な芸術家とされるが、まさか本人が、私はマニエリスムの芸術家だ!などと思って日々を送っていたわけではあるまい。考えるより先に口の動きに任せて言葉を発した、時代を超えた暴露本の様相を呈する。醜い復讐劇を堂々と目論み、心の隙間を埋め尽くすかのように鋳型に青銅を流し込む。偶像によって死者を蘇らせようと企てるのは、自我を取り戻さんがためか。壊れた自我、自我の肥大化といったものが、いかに手に余る存在であるか。とはいえ、凡人には自己を肥大化させる力もない。彼は... 神の声を聞いたと信じこみ、その錯覚に酔いしれ、自己陶酔する自我とやらを率直に描写した... ただそれだけのことかもしれん。

1. 異端書とされた「自伝」
この書は、黄金の時代を生き、栄光の余韻に浸りながら、悠々と過去を振り返って書いたような代物ではない。65歳にして結婚するも、芸術家としての精力は失われ、寂しい末路。だからこそ執筆を思いたったのか。パリに渡り、寛大なフランソワ1世に仕えると、生気を取り戻す。
しかし、やむなくフィレンツェへ戻り、主君コージモ・デ・メディチ公爵よりペルセウス制作の注文を受けると、またもや鬱病の捌け口を求める。全身全霊を傾けた作品に、公爵の不興を被ったのだった。法王や有力者どもを敵に回せば、検閲官に禁書とされるは必定。弾劾の箇所は表現を和らげ、差し障りのない書へと改編される。チェッリーニは、著作「フィレンツェ史」で文名高いベネデット・ヴァルキに草稿を送り、校正を求めたという。ヴァルキは、こうお墨付きを与えたとか。
「生涯の素朴な話が他人の手で推敲され手直しされるよりは、いまの率直なままのほうがはるかに満足がゆく。」
お墨付きというより、乱暴な文章に呆れたか。あるいは、宮廷人としての保身をはかる深謀遠慮か。当時の芸術家、文章家たちから敬遠されたようである。法王、枢機卿、君主、君侯たちのお定まりの肖像群に対して、裏舞台を語り、見事なアンチテーゼを打ち立てたのだから。となると、この書は反ブルジョワジー文学の先駆け、という見方はできるかもしれない。

2. ヴァザーリへの対抗意識
この書には、ジョルジョ・ヴァザーリへの対抗意識が秘められているようである。「画家・彫刻家・建築家列伝」の著者だ。しかし本文に、その名は見当たらず、ほんの一瞬形容されるだけ。
「この悪だくみを働いたのは、アレッツォ生まれで画描きのジョルジェット・ヴァッセッラーリオであり、たぶん私が施してやった恩に対する彼の返礼がこれなのであった...」
このヴァッセラーリオというのが、ヴァザーリのことらしい。チェッリーニが突っかかって書きおろすのに対して、ヴァザーリは次のように冷静にいなしているそうな。
「やることなすことにおいて意気高く、自信満々で、精力的で、まことに抜かりなくまことに恐るべきもので、君侯の方々とのやりとりを述べることにかけてはあまりに達者なほどの人物であって、それは本業の事柄において彼の両手と才智が揮うのにまさるとも劣らないほどなので、これ以上述べることはない...」
ヴァザーリが、まだ出版されていない「自伝」にどうやって接したかは不明のようである。ヴァルキを通じてか?いずれにせよ、当時のフィレンツェ芸術の構図で、チェッリーニが厳しい位置づけにあったことは想像に易い。本音をズバリ書くことの憚られた時代でもあろう。ヴァザーリの壮大なヴィジョンに比べれば、チェッリーニでさえ群れをなす一頭の羊に過ぎず、ダ・ヴィンチやミケランジェロと比べるべくもない。それは、本書でも、神のごときミケラーニョロと形容され、チェッリーニも心得ている。
ただし、評論家からは、殺人をめぐる正当化など、事実と違う点が多く指摘されているらしい。擲弾兵のごとく勇ましく、毒蛇のごとく復讐心に燃え、思いっきり迷信深く、奇矯さと気紛れに満ち、たまたまそこに居合わせた人物の仕草を証人に仕立てる... などと。最大限に個人主義を押し通し、自分の名誉に反することを排除して、好都合な材料を華々しく語る... と。「まことに恐るべき」というヴァザーリの表現は的を得ているようである。おかげで、ヴァザーリの大作へ向かう衝動は抑えられそうにない...

3. 翻訳の哲学
本題から少々外れるが、解説の中で翻訳者古賀弘人氏は、翻訳の哲学を披露してくれる。
「翻訳者は原作者の書いているとおりに、原テクストの意味するとおりに訳すという態度、方針しかとりえない。翻訳者が原書のここの箇所は表現が舌たらずなので云々... という指摘をしている例を見るが、もっての外である。舌たらずならば舌たらずなのがその文のもっているニュアンス、表現力ではないか。原文にないものをつけ加えることは許されない。また原文にあるものを削ったり落としてもならない。これが翻訳者のとりうる唯一の態度である。それを放棄するならば、意訳に名を借りた誤訳への広い道が開けるであろう。」
本書は、チェッリーニ語の音色をそのまま再現しようとする。ミケランジェロをミケラーニョロと記述し、フィレンツェをフィオレンツォと記述するなど、チェッリーニの独壇場に必死についていこうと。
なるほど、言葉の使い方を強制することはできない。語の連なりである文章は、口から発する音声とともに、人それぞれ固有のもの、生得のもの、自然のものなのだから。言語に柔軟性があるからこそ、いまだ正体の掴めない精神ってやつを合理的に表現しようと努力する。これが文学者の役割、ひいては翻訳者の役割なのであろう。
「言語は万人のものであるという言いかたと、言語は一人ひとりのものであるという言いかたのいずれもが正しいと思う。そしてこの二つの言いかたは手をつないでいる。ひとりのものである固有性と万人のものである普遍性は互いに保証しあっている。」

2016-02-07

"告白(上/下)" 聖アウグスティヌス 著

書の歴史を振り返ると、自伝の類いは枚挙に遑がない。ローマ帝国時代にあってはアウレリウスの「自省録」、ルネサンス期にあってはチェッリーニの「自伝」、啓蒙時代にあってはルソーの「告白」等々。紀元前に遡ると、司馬遷の「史記」の末尾に「太史公自序」なるものが添えられると聞く。いまだ人類は、人間自身を語り尽くしていないということか。そもそも言葉なんぞで語れる代物ではないのかもしれん...
自我ほど手に余る存在はあるまい。この手の企ては、自己欺瞞や自己嫌悪との葛藤を強いられ、最も手強い自己愛を相手取ることになる。人生とは、臆病を隠しながら恥の中を生きるようなもの。自分自身の弱点を曝け出せば、どんな醜態にも弁明せずにはいられず、美化や正当化の誘惑を断ち切るのは至難の業。無知に自省の魂を売ったところで、自制の魂を呼び覚ますことができようか。
とはいえ、酔いどれ天の邪鬼ですら、昔は随分と間違ったことをしてきたものだ... などと思うことがよくある。懺悔というほどの意識はないものの。あと十年もすれば、今やっていることも同じように思うのであろう。アバンチュールな性癖の持ち主は、永遠に神の祝福を受けられそうにない。盲信者が無神論者より幸せだというのは本当かもしれん。酔っ払いが、しらふより幸せだと言うように...

ヒッポのアウグスティヌスは、若き日の過ちを告白する。熱狂、不義、姦淫、窃盗... そして低い志と低レベルの友情に隷属していた様を。人格の形成は、記憶と経験に負うところが大きい。過去を原点に据えなければ、現在も未来も展望が開けないというわけである。ならば、記憶力がなければ過去はチャラにできるってか。おいら幸せ!
アウグスティヌスは、生まれた時からキリスト教と異教の間で葛藤に巻き込まれてきたようである。北アフリカのタガステというところで生を受け、母モニカはカトリック教徒、父パトリキウスは異教徒。父はカトリック教徒となって死んでいったという。
当初、アウグスティヌスはマニ教の熱心な信者で旧約聖書を嘲る立場。カルタゴで修辞学の学校を開くが、後にミラノへ渡り、プラトン派の書を漁る。影響を受けた書に、キケロの「ホルテンシウス」やアリストテレスの「範疇論」を挙げている。アカデメイア派の態度を尊重し、建設的な懐疑心を育むものの、知識は開けたが、同時に傲慢さも増長させたと回想する。そして、これらの知識だけでは霊的なものを語れないと気づき、キリスト教を目覚めさせていく。特にパウロを読んで、闇を一掃したという。回心後は、マニ教を激しい論敵とし、罪深い生活から真の道へ導いてくれた神の恩寵を讃える。マニ教を攻撃するならば、キリスト教の弱点も受け入れなければなるまい。これが回心というやつか...
本書に示される思考過程は、主観的な見識だけでは宗教は危険な存在であることを暗示している。そして、哲学的、科学的な書物を経て、いよいよ旧約聖書へと突入していく。啓蒙とは、蒙(もう)を啓(ひら)いて、そこから救い出すということ。ここに啓蒙思想の発端を見る思いである。
しかしながら、聖書の解釈では、寛容性という問題を若干抱ていることは否めない。宗教が抱える最大の問題は、まさしく寛容性であろう。大罪人が告白によって赦され、両手を広げて迎えられるというのに、異教徒には迫害の仕打ち。異教の方が残虐行為よりも罪深いというのか。ならば、無関心な態度の方がましではないか。無神教の方がましではないか。
こうした反応は、なにも宗教に限ったことではない。とかく思想観念ってやつは、それを否定しようものなら、自己存在の否定と直結し、感情を剥き出しにするものである。解釈とは、人間の主観的行為であり、そこに多様性が生じる。対して、普遍の真理とは、一神教なんぞで定義できるものなのか?アウグスティヌスは、キリストのみが真実の仲保人としているが...
無限が偉大に感じられるのは、人間の理解を超越しているからである。学問に熱中することによって無我の境地に達し、そこに自己の無存在が感じられることも、自己の理解を超えている。もし、多様性と普遍性が相反するものだとすれば、人間は神という無限の存在に永遠に近づくことはできまい...

1. 無知の告白
聖人ともなれば、神に告白する特権が得られるのかは知らん。自己を非難できる自己を求めて、神に祈るのもいい。罪は無知にあるとすれば、ソクラテス哲学に通ずる。だが、まだ知り得ないものを知るには、神に縋るしかないというのか?呼び求める神が心の内にあるというなら、心の内にないものをどうやって求めるというのか?そして、凡人は自己の無知を神のせいにできる。
回心によってしか悟ることができないと知れば、ますます悪事を知り、ますます悪徳を知り、悪魔になろうとする。これは、必要悪の類いか?全能者が善しか創造しないというなら、悪もまた善を意識させるためにこしらえたとでもいうのか?
アウグスティヌスは、「悪は実体からではなく、意志の背反からおこる」としている。すべての悪の根源が人間の意志にあるとすれば、やはり人間は悪魔の意志を受け継いでいると言わねばなるまい。そんな強烈な意志に対抗して、人間の良心がどこまで揺るぎない意志を持ち続けられるだろうか。自分自身を欺瞞する以上に、神への冒涜があろうか。
... などと思い巡らしていると、神に告白するというより、告白することを神に命じられていると言うべきか。となると、告白という行為は、本当に能動的な態度であろうか?神に仕えるとは、聖書に仕えることなのか?人間は何かの奴隷になることを欲す。アリストテレスの唱えた「生まれつき奴隷説」は、人間そのものを語っていたのかもしれん...

2. 言葉の迷走
読書しない者は字が読めないに等しい... と言ったのは誰だったか。年に一冊も本を読まない者が肩書を持てる組織があると聞く。多忙という威厳をまとった言い訳こそ、怠惰の源泉。組織を堕落させ、ただ命じるがままに組織を存続させているということか。
 然るべき時に然るべき言葉を発せないのは無知に等しい... と言ったのは誰だったか。しかしながら、人は黙するべき時にこそ言葉を発する。神が沈黙されているのは、然るべき時はまだ訪れていないというのか?
俗人は律法を必要とし、神の意志を具体的に記した聖書を必要とする。では、具体的な言葉を欲しているのは人間どもだけか?四足獣や鳥獣類はどうだろう?人間自身が言葉を編み出し、神の代弁者になろうとは畏れ多い。誤謬から多くの虚言が生まれるのは、神の言葉だけではない。人間社会そのものが虚言で渦巻いている。
「知性の欠乏は、とかく多言を弄する。」
虚言は、聞く者がいなければ自然に廃れるであろう。虚言が旺盛なのは、それを聞く者がわんさといるからであろう。扇動者がキャッチフレーズのような分かりやすい言葉を好むのも道理である。
人間は信仰と希望を頼みとしてやまない。神の言葉を欲するあまり、天体現象や自然現象に比喩的な解釈を求めてやまない。そして、数々の出来事を神格化してきた。人間社会には、神の名を語る人間どもの迷信が渦巻いている。
「みずから迷わされ、人を迷わし、みずから欺かれ、人を欺く。」

3. 見返りの原理
神からの見返りを求めなければ、道徳を行えないのであれば、理性も地に落ちたものである。才能に恵まれないくせに、運命に救われる者が多くいる一方で、才能に恵まれながらも、運命に泣かされる者が多くいる。そして、運命を自ら切り開こうとしない者ほど、運命の女神に寵愛されることを乞う。
人間ってやつは、一部の人々が不幸を被ることに対しては人を憎むが、みんなで一緒に不幸を被ることに対しては容認できるものらしい。道徳は理性のみで実践されるだけでなく、脂ぎった道徳というものがある。常に苦労した分の見返りを求め、見返りが保証されない限り面倒事を避ける。神がどんな見返りを求めて、十字架を背負われたというのか...
「悪意のある善意というものがあるとするなら、ほんとうに心からあわれむ人は同情するために、あわれな人びとの存在を望むこともある。それゆえ、是認されるべき悲しみもあるが、けっして愛されるべきではない。それゆえ、魂を愛する主であられるあなたは、わたしたちよりも、はるかに清く純粋に魂を愛されるのである。」

4. チャラの原理
天地創造の前、神は何をしておられたというのか?地獄でもこしらえていたのか?地上から悪魔が出現することに備えて...
アウグスティヌスは、大胆にもこう断言する。「神は天地の創造以前になにも造られなかった」と。時間が創造される以前も、いかなる時間も創造されなかったと。過ぎ去るものがなけば過去は存在せず、到来するものがなければ未来も存在しない。存在するものがなければ現在も存在しない。現在という時間は、過去と未来の間にあって、初めて意識することができる。時間とは意識の産物ということか。意識が時間に幽閉されていることをいいことに、あらゆる行為がスケジューリングされ、納期に忙殺される。人間の認識能力ってやつは、何かに幽閉されていないと落ち着かないものかもしれん。そして、最大の納期は寿命であり、こいつに怯えながら生きるという寸法よ。
「未来も過去も存在せず、また三つの時間すなわち、過去、現在、未来が存在するということもまた正しくない。それよりはむしろ、三つの時間、すなわち過去のものの現在、現在のものの現在、未来のものの現在が存在するというほうがおそらく正しいであろう。」
過去も未来も、はたまた現在も、現在における解釈に過ぎないということか。確かに、存在認識は現在という瞬間にしかない。では、過去の自分はいったい誰だ?時間ってやつは、魂になんらかの変化をもたらし、この現象は「成長」と呼ばれる。
ただし、時間は一方向性しか示さず、この方面でエントロピーの力は絶大である。過去を悔いても、神は「おとといおいで!」と嘲笑う。すなわち、退化もまた成長と同じ方向にある。無学な奴だと侮っていても、数年後には大人(たいじん)の風格を備えているかもしれない。数年前に借金した人格は、現在では違った人格になっているかもしれない。したがって、借金の取り立てに会えば、今の俺は昔の俺とは別人なんだ!帰ってくれ!と追い返すこともできるのだ。自己破産法とは、この別人論に則ったものである。したがって、法の裁きが求める反省には、チャラの原理が内包される。