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2007-12-26

"アート・オブ・プロジェクトマネジメント" Scott Berkun 著

書店で立ち読みしていると、ある言葉に引き寄せられる。アートという言葉は、なんとなく癒してくれる香りがする。サブタイトルに「マイクロソフトで培われた実践手法」とある。これにはちょっと引っ掛かる。そうこうしているうちに第一章を読み終わった。ちょうどその時、カウンターから鋭い視線を感じる。なかなか可愛いお姉さんだ。どうやらおいらに気があるらしい。話かけるチャンスをあげよう。「この本を頼む!」とドスの利いた声で迫る。お姉さんは決まりきった営業台詞であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

MSと言えば、ソフトウェアの品質を恐ろしく低いものにし、これを社会認識として標準化したというイメージがある。ユーザを飼いならしたのだ。しかし、本書はそうした固定観念を無視すればおもしろい。アル中ハイマーにもプロジェクトマネジメントの経験があるので、この分野に多少なりと興味がある。といってもそれほど多くの経験があるわけではない。規模も5人から10人ぐらいの小規模である。おいらは、マネジメントを体系化できるものとは信じていない。プロジェクトの前提は、人員や技術レベルなど、あらゆる面で異なるからである。本書は、例題を組み込みながらも哲学を優先しているところに感銘を受ける。ただ、読めば読むほど相槌を打ちながら、本に向かって話しかけている自分が怖い。妙な仲間意識でも芽生えたのだろうか?今日は、なんとなく愚痴りたい気分である。ついグラスの氷に話しかける。「君って冷たいね!」
今から述べる物語はフィクションである。

エピソード1 「刻まれた作業」
通りがかりにおもしろいスケジュール表を見かけた。そのプロジェクトは1年近く続いており、リリースまであと1週間と迫っていた。ちょうどコーヒーを入れて席に戻ろうとした時、ふと会議室を覗くと、おいらは目を疑った。マネージャはホワイトボードに線表を書き始めた。なんと10分単位で刻まれている。それも直接ホワイトボードで管理されている。そこは殺気だっていた。つい悪戯書きの衝動にかられる。
1時間後にトイレに立った時、ちらっと会議室を覗くとホワイトボードが炎上していた。刻まれたのは時間ではなく作業の方だった。きめ細かいスケジュール表を作成することに命をかけるマネージャがいる。何事も計画どおりにはいかない。きめ細かいものが精度が高いとはいえない。ただ、このマネージャはそういうレベルではない。彼の口癖は「死守!」である。この期に及んで、明日のためのスケジュールを時間単位で練っていた。
「明日はきっーと。なにかあるー。明日はー!どっちだあ...」

エピソード2 「1分と持たない会議資料」
会議で召集されるのはいいが、事前に何をするのかはっきりしない会議は実に多い。1時間の会議をしようと思うと主催者は下準備に半日ぐらいはかかるものである。会議をするということは担当者の作業を止めるということである。だらだらとした会議は作業者のストレスを招く。だから効率良くやろうと気配りする。
ある日、突然呼び出された。何をするのかわからない。事前資料もない。とりあえず議題を提供するために、疑問点や検討内容を事前資料として送付した。さあ、会議だ!いきなり大前提が変わったと発表がある。用意した資料は1分と持たなかった。おまけに状況がかなり複雑化している。そして意見を求められた。わけがわからないので考える時間をくださいと発言して会議は即終了!アル中ハイマーは頭が悪いので事前に考える時間がないと議論に参加できない。ほとんどの場合、事前準備の要領が悪い人の説明は異常に難しい。何をするのかシミュレーションできていないのだ。会議では、お偉いさんの勉強会になることもよくある。単語の意味すら通じない。そもそも事前資料に目を通さない。会議とは議論するところである。前提を出席者に浸透させておくのも主催者の務めである。

エピソード3 「嫌がらせの納品物」
初めての取引先に、試しにモジュール設計を外注したことがある。HDLで1000行ほどのコードに、キングファイル3冊にも及ぶタイミングチャートだけの検証報告書を納品された。初めての付き合いだったから、大量のデータでアピールするつもりだったのだろうか?製本されていて見かけは美しい。ブックエンドにでもしようと思ったが分厚過ぎる。これは嫌がらせに違いない。結局、検収できないのでマネージャ自身がやり直した。これはおいらの責任なので誰かにやってくれ!とは口が裂けても言えなかった。簡単なモジュールだからと言って意思疎通を怠ってはいけないという教訓を得る。そもそも、こんなモジュールを外注したおいらが悪いのである。

エピソード4 「マネージャ力石」
かつて失敗したことがないと自負するマネージャに出会ったことがある。失敗するような仕事を任せられていないか、失敗したことに気づいていないのだろう。成功、失敗の基準は人によっても違う。お金を回収できたという意味で失敗していないのかもしれない。いや!本当にそうなのかもしれない。だって、目の前で彼の仕事が炎上しているのだ。それも見事な燃えっぷりである。完全に焼き尽くして失敗した痕跡すら残らないほどに。
「ブスブスとそこいらにある見てくれだけの不完全燃焼とはわけが違う。ほんの一瞬にせよ。まぶしいほどに真っ赤に燃え上がるんだ。そして後には灰だけが残る。燃えかすなんか残りゃしない。真っ白な灰だけだ!」

エピソード5 「政治に支配された仕様」
ある日、モジュール設計を請け負った。その要求書には目を疑った。超スーパー間接アドレッシング・ミレニアムとでも呼んでやろう。これは笑った。論理的にも物理的にもイメージできない。一つのアドレスにRAMやらレジスタやらがビット単位でバラバラに存在する。おまけに1ビットの意味合いも複雑に絡み合う見事なスパゲッティ仕様の上にスパイシーなミートソースがきいている。わざわざ仕様確認のためのスペシャル仕様書を作ったものだ。こんな複雑なことになっているとは誰一人として気づいていなかった。思想の違う過去の仕様を組み合わせたことは明白である。おまけに部署間の政治力が遺憾なく発揮されている。当然のように決定事項なので変更できないと主張している。仕様決定は早いもの勝ちという体質も手助けしている。最初から日程が遅れることを見越して、責任逃れのための言い訳を準備している。そして実際に遅れると責められるのは政治力の弱い部署である。官僚体質で硬直化した組織の課長さんには同情する。上流工程はスケジュールの精度に影響を与える。よく検討された仕様は精度を高める。この仕打ちは、プロジェクトそのものを潰したいという裏の政治力が働いているに違いない。

エピソード6 「呪われた黒箱」
流用モジュールと聞くと呪文のように聞こえる。「実績がある」という言葉は人間不信に陥れる。ある仕事で、政治的に流用するように仕向けられたモジュールがあった。見るからに異様な香りが漂う。黒箱には黒幕が潜んでいるのだ。この香りだけでメンバー全員が拒否反応を起こす。おいらは、メンバーをやる気にさせるために、どうあってもこの異様な黒箱を葬り去るしかない。と言っても対処は簡単である。政治に屈するぐらいなら仕事自体をチャラにすればいい。政治的に仕向けるからにはモジュール説明会を要求した。そしてコードの説明が始まる。if... then... もし条件が成り立てばこれこれする。そのまんまじゃん!このモジュールがどういう振る舞いをするか、使う時の注意点などを質問しても一切答えがない。更に強烈なのはこんな会議に3日間缶詰にされたことだ。拷問とはNOをYESと言わせる手段である。だいたい流用モジュールで使えるかどうかは仕様書を見れば想像がつく。断固拒否したお陰で無事リリースできた。仕事の後のブラックコーヒーは美味い!余韻に浸りながらぶらぶらしていると、あれ?会議室が炎上している。どうやら、この黒箱を流用したプロジェクトがあったらしい。政治的陰謀に陥った連中がいた。気の毒に!噂によると提供されたソースが最新版ではないというのが1年経った今になって明らかにされた。

エピソード7 「ふるせー奴ら!」
メンバーにヤクザのあねさんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
ただ、スケジュール管理は簡単である。あねさんが一言。「今度の連休はオーストラリアに行くのよね!」これで連休前にプロジェクトは完了する。これはどんな政治力もおよばない。自然災害でさえ無力だ。あねさんの趣味はダイビングである。某サイトではダイブ100回記念の写真が公開されているが、いまいち本人確認ができない。面がわれるとヤバいようだ。ちなみに、とっとと鮫に喰われちゃえ!と面と向かって言ったY氏は消息不明である。本人から博多湾の埋立地にアドベンチャーな会社を起こすという知らせがあったが、そのまま埋立地に埋まっているという噂もある。詳しい話はルーマニアのgさんに聞くといい。鉄砲玉だったM氏は韓国人女性と一緒のところを雑餉隈でパクられた。彼は大阪でもパクられたが、その相棒S氏はウクライナで匿われている。一世風靡したSMコンビも今となっては懐かしい。おいらは、というと一時中国に飛ばされたが、今では頭からビールをかけられて可愛がられている。
メンバーにおかまのIちゃんがいると緊張感は半端ではない。
間違っても背中を見せられない。いつタマを取られるかわからない。
彼の席は、おいらの隣であったが無事だった。ちなみに、向う隣のO氏はやられた。その証拠に会社を辞める時、彼は内股で歩いていた。示談で済んだと聞いたが、手切れ金をいくら払ったかは定かでない。ただ、O氏はそれを資金にして中洲でおかまバーを経営している。その店でアレックスを指名するとIちゃんが登場するというから恐ろしい。ショータイムにはパンティーとYシャツ姿でメキシカンダンスを踊るという。
メンバーに16進数がわからない奴がいると緊張感がなくなる。
痛みを伴わないと理解しないだろうと、ある日、お宅の16進数で1万円とおいらの10進数で1万円を交換しようと持ちかけた。しかし、これは損な取引である。奴は16進数で数えられない上に損得勘定はできるのだ。あんまりなので、O氏の店に放り込んでやったら、翌日アレックスとできていた。

おっと!飲みすぎた。スピリタスという酒には96%の現実を仮想空間へ追いやってしまう力がある。仮想空間では、アル中ハイマーは評判が悪い。お陰様であちこちの会社で出入り禁止をくらっている。アル中ハイマー病とは現実と仮想空間をさまよう病である。

いつのまにか本題がどっかへ飛んでしまっている。本書についても付け加えておこう。仕様書の記述や作業の文書化を行うにあたって万能の作法などないと断言している。仕様書は常に最新版に維持され、メンバーから信頼されなければ機能しない。神聖な存在であると共に、いつでも最適化できる柔軟性を兼ね備えてこそ機能する。実行するのは難しいが、実行しないと破綻する。Joel Spolsky氏著の「Joel on Software」で「仕様書は生きている!」というフレーズを思い出す。
本書は、更に仕様書の位置付けをコミュニケーションの一形態として捉えている。大規模なプロジェクトであろうと仕様書の著者は一人に限定すべきであると述べられるが、果たして可能だろうか?おいらが担当するような小規模なプロジェクトではマネージャが一人で作成してメンテナンスするべきである。担当者からいつも文句を言われ、悪者になったり、アホ面をするのもマネージャの務めである。アル中ハイマーはいつも酔っ払い扱いされるので、メンバーは文句を言いやすいようだ。実は酒に弱く、わざと酔っ払った演技をしていると言っても誰も信じてくれない。ただ、その演技力はリアルである。

本書を一言で要約すると、本文中にちょうど良いのが見つかった。
「プロジェクトマネージャの実力は、チームメンバーの人間関係で評価されると言っても過言ではない。」
エンジニアの中には気難しい人も少なくない。アル中ハイマー自身が人見知りが強く、気難しい人間である。チーム内を円滑にするために、笑いネタにできる人間が一人ほしい。Mタイプである。馬鹿を演じられる人間は貴重である。実は賢いと認められた人間の成せる技である。マネージャ自身の馬鹿げた行動を暴露するのもいい。チームには常に笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。目的はただ一つ。仕事を楽しもうとしているだけなのである。しかし、どうしても合わない人間はいる。そういう場合は一緒に組まないのが一番である。アル中ハイマーが担当してきたプロジェクトは運良くメンバーに恵まれてきた。それなりに楽しくやれてきたからである。失敗もあるが今では笑い話にできる。
マネジメントの仕事は辛い。一つとしてクビをかけずにやった仕事はない。いつも机に忍ばせていた辞表は、捺印済みで、後は日付を書き込むだけの状態にしていた。しかし、こんなものを用意しておくのは良くない。人間は衝動にかられるものである。酔っ払ってつい出ちゃったじゃん!明日から生活どーすんだよ!スピリタスでも飲んで96%忘れるしかない。以上、遠い昔の出来事である。

2007-12-23

ホンダのリコール CBR1000RR

実は、さっきまで、鴎外通り付近の行付けのバーに、年末の挨拶まわりをしていた。うまい葉巻もいただいて、ええ気持ちである。ただ、一軒だけ混んでいて門前払いをくらったのは心残りである。いや!実は空いていたのかもしれない。もしかして乗車拒否?週末には必ず現れるというトップガンの兄さんにロックオンしてもらおうと思ったが、残念ながら時間が合わなかったようだ。もちろん、クラブ活動にも余念がない。黒木瞳風のホットな女性に癒してもらった。少なくともベロンベロンにはそう見えた。「君に酔ってるぜ!」。さあ!次週は中洲方面の挨拶まわりだ。ちなみに、本部と呼ばれる某大将の店に、最終日5時に行くとベロンちゃんに会えるという噂だ。どうも酔っ払わないとブログ記事を書く気がしないから困ったもんだ。そんな言い訳はどうでもええ!

先々週、CBR1000RRの「フューエルタンク交換」というリコール案内が届いた。フューエルタンクのエアベントパイプが、特定のエンジン回転数で共振して亀裂が発生し、燃料漏れを起こす恐れがあるというものだ。丁寧に対応してくれたスタッフの方々には感謝である。その時、カラーリングの相談を持ちかけたら、こけたら考えたらとあっさり流された。アル中ハイマーには、笑い話には期待にこたえないと気が済まないところがあるが、これだけは勘弁である。ちなみに、歴代の購入バイクでこけていないのは、これだけだ。一つ前のバイクは、買ったその日に立ちごけしたというおまけつきである。おいらは猫に弱い。見つめられると、どっちに避けていいか迷ってしまい、ついこけてしまう。ちなみに、クラブでも子猫ちゃんに見つめられると、いちころだ。ついでに08式のパンフレットを見せてもらった。来年はフルモデルチェンジの年である。ディーラーの店長は、フルモデルチェンジの度に買い換えているらしい。つまり、二年おきである。マフラーの配置は右へ戻っているが、デザインは斬新だ。フルパワー改造も大変そうだ。重量は、2kgほど軽量化したらしい。装備重量、199kg。



いつも思うのだが、乾燥重量という表記がある。今回は装備重量で示している。乾燥重量といって、実際に走れない重さを表示されても困る。そもそも、どこまで乾燥にするのか?オイルは基本的には全部抜くべきだろうが、ダンパーオイルとかも?メーカーによってまちまちのようだ。そこで、装備重量で表示してくれるのはありがたい。ただ、燃料は満タンと思っていいみたいだが、各種オイルは走行に必要分なのか?これも、メーカーによってまちまちなのか?やっぱり、両方表示してほしい。こうした表記は業界で統一できないものなのだろうか?今まで思惑をめぐらせていたメーカーほど統一には反対するだろう。それが政治というものだ。いずれにせよ、アル中ハイマーはヘタッピなので、数キロぐらい違っていても関係ないのだが、体が小さいので、なるべくなら軽いものを選びたい。

教習所では右回りが苦手だった。右回りの練習では、左手一本で右手はシートの後ろ左側に置いて体を内側に開いて、ずっとグルグル回ったものだ。大型バイクはアクセルを握らなくても勝手に進むから楽である。しかし、峠だと右コーナーの方が好きだというのも不思議である。そういえば、カートも右ヘアピンの方が下手である。へその位置がずれているのかもしれない。今宵は、サトウキビ系のアルコール燃料によって、アル中ハイマーの思考は限界ラップ中にある。コーナリングでは、Gを感じながらアンダーステアとオーバーステアの狭間にある。どんどん燃焼させて、「右曲がりのダンディ」と言わせてやるのだ。

2007-12-20

"ボーイング747はこうして空中分解する" Carl A. Davies 著

読んだ記憶もなければ、買った記憶もない本を見つけた。しかも、古いカバンの中にある。このカバンはニ年以上使っていない。本書はニ年以上眠っていたことになる。きっと誰かにもらった本だろう。いや!神様の贈り物かもしれない。いや!ホットな女性からのクリスマスプレゼントに違いない。今年中に処理してすっきりさせよう。

本書は、ボーイング747の墜落事故にまつわる物語である。747といえば通称ジャンボ、機首が卵型で頭でっかちなやつだ。この機首部分をセクション41といい、重要な欠陥があったという。著者は、ボーイングレポート(秘密修理文書)を入手し、更に数々の証拠を分析した結果、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便の墜落原因は、この欠陥によって引き起こされたと主張する。そして、1988年12月21日のパンナム機爆破事件を中心に取り上げる。マスコミはパンナム103便をテロ事件として報じた。この事件はリビアによる報復事件として扱われる。
本書は、素人にも読み易すいように意識しているせいか?肝心なところが大雑把である。また、話が飛ぶので少々読み辛いところもある。それでも、政治的な話はまあまあおもろい。

1. 747の欠陥
初期型747の抱える問題は、飛行中にセクション41が胴体から外れるというものだ。まれに地上走行中でも機首が落ちるという報告があったというから笑わせてくれる。ボーイングレポートは、まさに構造修理を必要とする部分として示していると語る。事故後、パンナム103便、TWA800便、エア・インディア182便は、3機とも機首部分が他の残骸から何キロも離れた場所で見つかっているらしい。原因は、金属疲労と破断であるが、問題とされるのは劣悪なアルミニウムにある。1970年代初頭、数々の産業が苦難する時代、航空業界も例外ではなかった。コスト削減を強いられる中、アルミニウムのコストは馬鹿高い。そんな中でボーイング社は、低価格で納入するメーカーを旧ソ連で見つけたという。一般的に旧ソ連のアルミニウムの品質は悲惨なくらい劣悪なのだそうだ。ちなみに、初期型とは747-100、747-200、747-300を指す。ANAのサイトによると、747-400は活躍中のようだが、初期型は使ってないようだ。JALのサイトによると、747-100Bは、2006年に退役してる。747-200、747-300はまだ現役っぽいなあ。どっかの掲示板によると、747-200、747-300は、2009年に退役を控えているらしい。

2. なぜ陰謀説に?
なぜリビアによる報復事件として扱われたのだろうか?本書はテロリズムの根源についても触れる。それは、迫害され続けたユダヤ人国家であるイスラエルを建国したところから始まる。アラブ人の不満は、イスラエルがパレスチナの地に建国されたことにある。イスラエルはアメリカの後ろ盾により元気づくが、パレスチナは戦力で圧倒されゲリラ戦を余儀なくされる。よって、イスラエルを支援するアメリカは敵国である。これが現在のテロリズムであると語る。歴史的には宗教紛争はずっと以前からあり、その中で体当たり行為もあっただろう。これをテロリズムの根源とするのは、もう少し検証が必要だと思われるが、面倒なのでとりあえず、ここでは本書の説を受け入れておこう。こうした背景では、まずアラブ人を疑え!となる。パンナム103便事件の発端は、米軍がイラン航空のエアバスをイラン軍戦闘機と誤認して撃墜したことにある。ホメイニ師は、その報復にアメリカ航空機の撃墜を秘密裡に命じる。攻撃の実行を元シリア陸軍士官アフメド・ジブリルに委任する。彼はフランクフルトで実行しようとする。フランクフルトはアメリカの航空機にとって重要なハブ空港である。パンナム103便も、フランクフルトからロンドンを経由してニューヨークへ向かうはずだった。しかし、その作戦はドイツ警察に押さえられ失敗しアラブ人が逮捕される。その時、東芝製ラジオの中に爆弾を仕掛けたが、この型と同じラジオがパンナム103便の残骸から見つかったという筋書きである。この論理では、アフメド・ジブラルの関与ということになりそうだ。そしてシリアとイランに疑いをかけた。それがいつのまにかリビアになっている。まあ、リビアもアラブ社会であるのだが。イラクがクウェートに侵攻した時、ブッシュ大統領はイラク攻撃を開始し湾岸戦争が勃発した。ちょうど、イランと共謀してパンナム103便を爆破したとされていたシリアが多国籍軍に参加する。湾岸戦争には、普段アメリカと敵対していたアラブ諸国の支援も必要だったのである。ブッシュ大統領は、急遽、シリアの代わりにリビアの避難を始めた。なんでもかんでもカダフィ大佐のせいにしたのである。その後、二人のリビア人が指名手配される。リビアのせいにする論理も簡単である。レーガン大統領は1986年トリポリをはじめとするリビアを爆撃した。これに対する報復だとすればいいのである。リビアはドイツのディスコ「ラ・ベル」での爆弾テロに関与したとされているがいまだ不明である。

3. なぜ政府は747の欠陥を隠したのか?
無理やりテロ事件にしなくても、アメリカ政府はなぜボーイング社の問題を隠すのだろうか?747の問題に対処するためには大規模な修理が必要だった。莫大なコストもかかる。下手すると運行停止である。これは世界的な大混乱にもなりかねない。航空会社側も消極的になる。特にTWAは何度も倒産の危機に陥っていた。修理コストの負担など不可能だった。この問題は、航空業界、アメリカ連邦航空局、アメリカ政府も知っていたのだろう。クリントン=ゴア組は1996年の再選運動資金として航空業界から献金を受けているという。しかし、単純に747の欠陥を揉み消すためだけに献金したとは考えにくいのだが。
欠陥の問題については、航空業界の体質もあるだろう。欠陥の修理やメンテナンスは最終的には航空会社の責任となる風潮にも問題がある。

今宵のアイリッシュ・ウィスキーは不味くはないのだが奇妙な味がする。なんとなくつぶやきたい気分だ。
著者は、アメリカ政府や、それに関わる高級官僚は嘘つきであると語る。これは間違いである。こんなことはアメリカ政府に限った話ではない。どこの国も政府、高級官僚は嘘をつく。逆に、彼らは反論するだろう。全て国のためだ。国の面子のためだと。正確には、業界も含めた彼らの既得権益のためであるとした方が現実である。少なくともくだらない陰謀を施すよりは、国の理性を見せる方が国益というものである。冷戦構造も終わり、アメリカは自らの理念に従い、強大な軍事力を楯に世界の警察官を自認している。そして、様々な紛争に介入してきた。その理想主義はある意味すばらしい。しかし、一部の情報を隠蔽し、警察行動が世論で操作されるならば、あるいは司法の判断が世論に流されるならば、いくらでも支配できることになる。裁判官が有罪を下した以上、論理的な説明をする義務がある。ましてや、一国家に疑いをかけたのだ。これは、国際法から、個人を裁くものまで全て同じである。そうでなければ誰が警察行動を信用できようか。また、充分な検証もなしで、一国の行動を支持することは無責任である。これが世論操作によるものであれば、間違った世論を助長することになり、もはや同罪である。
おっと、悪酔いしたみたいだ。寒くなると理屈っぽくなるのよねえ。お前、誰やねん?ちなみに、アル中ハイマーは二重人格症である。その証拠にいつも物が二重に見える。

2007-12-14

"日本マスコミ「臆病」の構造" Benjamin Fulford 著

電車で移動中、暇つぶしにキオスクで買った本である。著者は20年間日本に滞在し外国人の目で日本を観察してきたジャーナリストである。アル中ハイマーは、昔、著者の本を読んだ記憶がなんとなくある。外国人にしてはなかなかの観察力だと感心したような気がする。そう言えばテレビで見かけなくなったなあ。著者は、政、官、業、ヤクザの「鉄の四角形」が日本の支配構造であると指摘する。そして、日本社会では書けないタブーが驚くほど多いと語る。本書はもともと単行本で発刊されたらしい。新たに文庫化してくれるのは移動中に読むのにありがたい。

本書は、マスコミの報道姿勢から日本人の特徴をよく観察している。9.11テロ報道は米国内においてさえその硬直ぶりを露呈した。そんな中、日本のマスコミも米国の統治下になったと語る。バブル崩壊後の経済不況の長期化にもマスコミの責任があるだろう。形式的な経済政策批判を続けたおかげで、政、官、業、ヤクザの癒着はより強固になった語る。誰一人として良いとは思わない記者クラブの制度についても疑問を呈してる点は注目したい。また、情報ソースの信頼できる順には考えさせられるものがある。外国人記者にとって、最も信用できるものは右翼の街宣車。続いて雑誌やタブロイド版夕刊紙。最大の嘘つきはメディアの本流をいく大新聞であるという。これは一般的な日本人の感覚からは逆の順ではないだろうか。おいらは、右翼の街宣車が駅前の銀行でぶちまけているのを、おもしろくて小一時間聞き入ったりする。ただ、大新聞が信頼できないのはわかるが、雑誌を馬鹿にしていたアル中ハイマーには衝撃である。今宵は悪い酒を飲んだせいか、思いっきり愚痴りたい。この季節は寒さが寂しさを助長するのである。

1. マスコミの構造
本書は、マスコミの情報ルートを解明してくれる。例えば、住専問題で、国会が何十億ドルもの税金を投じながら、住専から借りたまま返さない多くの暴力団を無罪放免している。日本の新聞はこれを全て知っていながら絶対に触れない。当時、右翼の街宣車が財務省を取り囲み、政治家の実名を叫んだ。このような事例は山のように挙げられるという。日本が民主主義国家とは言えないことはうすうす気づいているが、もはや法治国家であることも疑わしい。情報力だけを比較すると、最強の報道機関は、NHK、朝日、読売を筆頭とする新聞社であるという。やや矛盾しているようだが、仕掛けはこうだ。規模と取材体制が最も充実していても縛りがきつい。だから、彼らは絶対に書けない記事を、しばしば雑誌にリークする。それだけではない。政治家や官僚に、雑誌の動きをしっかりリークする。これはダブルスパイである。最後の駆け込み寺が、外国メディアかインターネットになる。皇室報道に至っては、情報に詳しいのは宮内庁記者クラブだけである。彼らはそれを書けないため週刊誌にリークする。週刊誌でも書けない内容は海外の新聞にリークする。英語の記事が出ると、それを後追いする。発信源である新聞が、わざとらしい調子で海外で言っているんだから間違いないだろうと報道する。新聞と週刊誌と海外メディアの共犯で成り立つこのシステムの歴史は古いらしい。そもそも海外のマスコミが皇室情報を得ることが難しいことは、素人でもわかりそうなものである。このような海外メディアが日本の記者の駆け込み寺になっているケースはたくさんあるようだ。他のメディアに代弁させるような手法は卑怯である。

2. 企業報道
日本の企業情報は、投資情報としてもニーズは高い。しかし、時折メディアにとって、企業記事は最大のタブーとなることもあるという。経済記事は、事実関係も大切であるが、優先順位がが最も重要である。素人が見てもスポンサーには逆らえない構図は想像がつく。金融機関の最大のスポンサーは政府であろう。破綻すれば公的資金が流れるようになっているからである。しかし、政府のスポンサーは国民であることは、しばしば忘れがちのようだ。本書は、宣伝部と編集部は物理的に距離を置くのが出版社としての常識であると語る。当然だろう。ところが、日本では宣伝部が編集部に口を出すのが当たり前なのだそうだ。よほど正義感の強い人でなければ編集部は務まらないということか。W.リップマンは著書「世論」の中で、ジャーナリズムの本質は人間の理性にかかっていると悲観的に結論付けていた。

3. 日本人の体質
日本人の体質の恐ろしいところは、下が上をまともに監視しない。不公平、不平等に対するアンテナが鈍く、上に従うという体質が恐ろしく根強いと語る。実に頭の痛い指摘である。著者がよく言われる言葉に、「外国人だから書ける」というのがあるらしい。日本人記者には、外国人記者が知りえないような重大な数字や、それだけで政権がぶっ飛ぶくらいのインパクトのある政治家の秘密を知っているくせに、なぜ書かないのか?知っているのに書かないのは、嘘より重い罪であると語る。
日本の社会システムで最も抜けているのは監視機構である。互いにこんな悪いことをするわけがないという楽観論が根強いからである。それも悪い感覚ではないのだが、過信してはいけない。また、面倒臭いという体質もある。民主主義やら自由というのは、実は自己管理を要求される面倒なシステムである。社会保険は役所任せで、サラリーマンは税金ですら組織に管理を任せている。酷い政治にも程度があるが、その境界線を政府も国民もなんとなく理解している。こうしたバランス感覚を外国人に理解することは難しいだろう。ただ、そのバランスも壊れている。醜い程度も閾値を超えている。マスコミの攻撃的な論調は、弱い立場の人間、情報を持たない人間に対してのみ厳しい姿勢で追及する傾向にある。

4. ジャーナリストとは
ジャーナリストは本来組織ではなく個人であると語る。会社の名刺がなくなった時、私はジャーナリストですと胸を張って言える人がどれほどいるだろうか?と疑問を投げる。これはエンジニアにも言えるだろう。エンジニアは比較的会社を移動する人が多い。おいらの周りがたまたまそうなのかもしれないが、技術を磨くのに、一つの凝り固まった文化に染まるのは好ましくない。独立して個人でやっている人も多い。今年も周りに何人増えたことだろう。もし、楽しそうだと勘違いしているとしたら、きっと後悔することになるだろう。いや!勘違いではない。人生に酔っ払うのは幸せなのである。職人の世界では、大工さんのような一人親方制度というのは悪くないと思っている。ジャーナリストもある種の職人と言えるだろう。

著者の取材経験から、外国人記者には裏情報が集めやすい傾向があるという。日本のマスコミには全く対応しない人物が、英語インタビューだと応じてくるケースも少なくないらしい。これは、外国人記者がエキゾチックで珍しいからではなく、日本のマスコミに対する失望や嫌悪、不信であると語る。日本人でも日本のマスコミに不信を抱いている人は少なくない。そんな事は、ほんの少しネットサーフィンすれば伝わってくる。記者クラブというギルドを形成し、政、官、業と馴れ合い関係を持っていることは言われなくても感じる。こうしたマスコミとの癒着構造がいいわけがない。ジャーナリストの連中でさえ悪い制度だと公言している。にも関わらす廃止できないでいる。誰もが否定する制度や組織がゾンビのように君臨している例は多い。これが日本社会の現実である。マスコミの存在意義とは何だろうか?もし独立した中立機関であるとするならば、真っ先に改革すべきであろう。記者クラブでさえ解散できないような連中が、組織や個人を攻撃している姿は滑稽に見える。

2007-12-08

"自壊する帝国" 佐藤優 著

「国家の罠」がまあまあおもしろかったので、ついでに本書も読んでみた。こっちの方がおもろい。前記事でも書いてが、本当は歴史の興味からラスプーチンが読みたいのだ。それも、しばらくおいておこう。アル中ハイマーは人生の道草が好きである。

本書は、著者が外交官としてソ連崩壊を目の当たりにした時の回想録である。どうやら、内容の波長と文章のリズムがアル中ハイマーには合うらしい。一晩で読見切ってしまった。出会った学生や神父、政治に関わった人々との会話や随想をまとめた一種の紀行文のようだ。おいらは、紀行文のような趣向(酒肴)を好む。どんな立派な主義主張よりも、事実をありのままに伝える方が説得力を感じるからである。また、ところどころに散りばめられた歴史や宗教の知識も参考になる。更に、外務官僚への皮肉もブレンドされているところが、ウォッカのようなクリスタル感を醸し出す。それにしても、やたらウォッカを一気に飲み干す場面が登場する。それも一人5本とか。こっちまで二日酔いになりそうだ。

本書は、バルト三国で高まった改革意識を中心に物語る。元凶はソ連共産党による極端な中央集権である。マルクス・レーニン主義の限界が訪れると新しいイデオロギーを提起する必要があった。これがペレストロイカである。これは表向き改革を掲げているが、実はソ連体制の維持を目的としていた。この矛盾した目的の二重構造を突いて市民が決起する。そして、ゴルバチョフ派を打倒したエリツィン派が登場する。ここで語られるペレストロイカは、一般的に西側で宣伝されている印象とは違うようだ。ゴルバチョフはノーベル平和賞を受賞している。
大部分の日本人は、日本国が崩壊するとは考えてもいないだろう。大企業でさえ倒産するとは考えていなかった。しかし、現実に起きている。程度の違いはあれ、なんとなく似た状況を感じる。日本も民主主義とは名ばかりの中央集権国家である。現在は、政治家のスキャンダルなどで表面化していないが、霞ヶ関の実態が明るみになれば、真の改革意識が加速するかもしれない。監督すべき立場の金バッチの現状からして、遠い道のりではある。ただ、市民はうすうす気づきはじめている。当時のアル中ハイマーは、ソ連という大国が崩壊するなどと考えもしなかった。国家とは、ある日突然崩壊するものなのかもしれない。

1. ソビエト社会主義共和国連邦の姿
当時のソ連は、ロシアが親分でその他の共和国が服従するという印象がある。この見方は間違っていたようだ。本書は、スターリンがロシア人の血が入っておらず、ひどい訛りのロシア語を話していた事実からしても、ロシア人が少数民族を抑圧していたという単純な図式では説明がつかないと語る。中枢はソ連共産党中央委員会であり、絶大な権限を持ってロシア人を含めて支配していた。この中央委員会は絶対に責任を追わない体質を持っているという。中央委員会がソ連外務省に指令するという構図である。成果を上げれば両者でその成果を分配し、失敗すれば外務省を叱責して責任を押し付ける徹底的な無責任体制が確立していたという。ソ連政府は弱みのある聖職者が大好きなのだそうだ。例えば、独身を誓った高位聖職者で女にだらしない者もいる。女性が子供の認知を求めるとKGBが揉み消す。こうしてKGBに貸しを作ると後が恐ろしい。ちなみに、カトリック教会の聖職者は独身制をとっている。プロテスタント教会は地上に聖なる人はいないと考えるので、聖職者という概念がない。よって、牧師は結婚して家族が持てる。ただ、カトリックの独身制にも合理性がある。家族を優遇するような間違った意思決定をさせない。中国やオスマントルコの宦官制度は、官僚が世襲制にならないように去勢された。脂ぎった金バッチもパイプカットするといい。
ロシア正教はもう少しややこしいようだ。司祭には黒司祭と白司祭がある。黒司祭は独身制を誓い修道院長や総主教になる。白司祭は結婚し家族をもち、黒司祭よりも地位は低い。黒司祭は、教会政治、研究活動に没頭できる。一方で、家庭の悩み事に応じるのは家庭を持つ白司祭の方が現実的である。こうした司祭の二分は、組織機能を合理的にするのである。

2. モスクワ大学の二重構造
モスクワ国立大学には、西側のために、わざとロシア語を上達させない特別コースがあるらしい。しかも、ロシア語の自由会話の授業で、日本政府を批判するような画策もあり、ロシア語を学ばせる意欲自体を減退させるような思惑もあったという。ソ連体制は、国民への思想抑制、特に大学あたりでの監視体制は半端ではないことも想像がつく。反体制論文を広めるには、わざと学生に発表させてそれを教授が叱責する。実はその教授が反体制派である。思想を広めるためには発表する機会が必要である。著者はそうした態度に最初戸惑ったという。また、反体制を批判する授業をするからには、反体制主義も勉強しなければならない。つまり、ソ連体制以外の勉強をしたければ、表向き批判するように見せかければいいのだ。禁じられた思想の文献を広めるには、まずイデオロギーの闘争は重要だと主張し欧米思想を紹介する。そして、共産党やレーニン思想から引用を散りばめて、けしからんとできるだけ説得力の無い作文をする。このような文献が、良書なのだそうだ。読者もそれを心得ているというからおもしろい。本書は、日本の外務省の先輩外交官たちが、モスクワ大学は共産主義に汚染されて学問レベルが低いと反応するが、表面的なものしか見ていないと指摘する。ソ連体制では、子供も幼稚園の頃から、表と裏の顔を持つように訓練されていく。虐げられる世界では、幼いなりに防衛策を自然と身につけるものらしい。人間とはたくましいものである。

3. ロシア人のアルコールへの執念
ウォッカなしでは、ロシア人は生きていけないらしい。ゴルバチョフが反アルコールキャンペーンを展開すると、まず食料品店から砂糖とイースト菌が消えた。砂糖を溶かして、イースト菌を入れて発酵させ密造酒を作るのである。街中から砂糖が消えると、次はジャムとジュース類が消えた。更に、果物の缶詰、瓶詰も消える。最後には歯磨き粉までも消えた。歯磨き粉でも酒が造れるのだそうな。ここまでは人体に悪影響がないらしい。ほんまかあ!歯磨き粉はええんかあ?挙句の果てに、化粧品店からオーデコロンが消える。アル中はこんなものまで飲むらしい。そして、死者も出る。これでもまだ終わらない。アル中は靴クリームまで食べた。日本で禁酒法が施行されたら、アル中ハイマーも末恐ろしい。
ロシア人にとってウォッカは人間性を調べるリトマス試験紙になるという。通常の時と酔った時の言動で極端なギャップがある人間を信用しない。アル中ハイマーの台詞は、酔っても酔わなくても「君に酔ってるぜ!」ロシアでは、ウォッカやコニャックなどの酒をちびちび飲むのはルール違反だそうだ。必ず一気に飲み干さなければならない。アル中ハイマーはロシアにだけは行かないと堅く誓う!

4. 自壊の始まり
ある学生の見解は、ゴルバチョフはもう終わっていると語る。歴史を作る力を持っているのはエリツィンだと主張する。ソ連には宗主国がない。ロシア人こそ虐げられている。その本丸は共産党中央委員会。しかし、ソ連共産党を潰すとソ連はなくなってしまう。共産党というシステムは、部分的に自由化や民主主義を受け入れることはできない。ゴルバチョフはそのことがわかっていないという。そして、新しい戦略が展開される。ソ連では主権国家が自発的に連邦を作ったという建前になっている。その締結国は、ロシア、ウクライナ、白ロシア、ザカフカス連邦。ザカフカス連邦は、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアに分かれる。バルト三国を占領した時、エストニア、ラトビア、リトアニアは連邦に加入する手続きをとっていない。これは法的な欠陥である。ゴルバチョフが法の支配を権力基盤にしている以上、バルト三国はスターリン時代の植民地政策に過ぎないという矛盾が生じる。この矛盾を逆手にとる。具体的な行動は、エストニアの首都からリトアニアの首都までは600キロ。一人1メートルとして60万人が集まれば人間の鎖ができる。1989年「人間の鎖」行動は、最大200万人、場所によっては二重三重の鎖が出来た。ここで学生は、日本の北方領土返還についても有利に働くだろうと指摘している。バルト三国にしても北方領土にしても、スターリン時代の負の遺産だからである。当時エリツィンは日露平和条約の締結に前向きだった。それも、お家騒動をかかえていたから止むを得ないだろう。しかし、日本政府はそのチャンスを逃した。

5. ゴルバチョフの軟禁
いよいよゴルバチョフはバルト三国へ軍事介入しようとするが、西側の世論に屈して手が出せなかった。ただ、西側の報道はゴルバチョフ一辺倒だったように記憶している。著者は、ゴルバチョフ派の官僚に霞ヶ関と同じ臭いを感じると語る。権力者の動向や目先の利益には敏感だが、信念がない。エリツィン派やロシア共産党は、それぞれ世界観や政治路線は対峙しているが、両者とも発言と行動がともなっているという。当時のアル中ハイマーの印象は、ペレストロイカという言葉のインパクトが強く、ゴルバチョフは良い人、エリツィンは悪い人という感覚しかなかった。エリツィン更迭は正解だと思っていた。1991年のクーデター未遂事件で軟禁から解放されたゴルバチョフは、もはや大統領の威厳がなくなっていた。着替える暇も与えずぼろぼろな姿でテレビの前に出されたのも、国民に無力を示す演出だったという。権力はもはやエリツィンに移っていたが、本人だけは、それに気づいていなかった。それまで、かたくなに拒んでいたバルト三国の独立を認め、寛容な新しいソ連体制ができたことをアピールしたが、政治的実効性を失って滑稽に見えたと分析している。

6. 情報屋としてのプロ意識
本書の中で、ところどころに著者が情報屋としてのプロ意識に芽生える様がうかがえる。モスクワの日本人記者は外交特権もないので、情報収集の際のリスクも外交官より格段に大きい。大使館が大勢でフォローしているのに、記者は数人で取材し分析している。にも関わらず、大使館のとれない情報をとってくる。そうした様を悔しそうに語る。
「本当の情報操作とは嘘に基づくものではない。部分的事実を誇張して相手側に間違った評価を与えることである。」
これだけ大きな変動がおきている場面では、国際政治や国際法の知識はほとんど役に立たない。むしろ、教会史や組織神学の知識の方が役立つと語る。本書はあらためて政教分離を考えさせられる。宗教は遠くから眺めてこそ見栄えがする。富士山は遠くから眺めると美しい。近くを登るとゴミが散乱している。

本書は、キャリア制度に疑問を持たせてくれる。著者はノンキャリアである。キャリアとノンキャリアで身分差があるのもおかしい。キャリア組は、専門職を恐れて最初から優位性を誇示したいのだろう。波長が合う先輩との会話で、わざわざ大使館を離れた場所に行って愚痴る場面がある。内部の足の引っ張り合いやら、醜い出世競争の渦がまいている。日本人にはソ連体制を嫌う人も多いだろうが、長く付き合うと体制まで似てくるといった話まで飛び出す。有能なキャリアはノンキャリアに対する扱いが丁寧であるらしい。優位性を誇示する必要がないのだろう。むしろ人間的にうまく付き合うことで、専門職の能力を有効に活用できるという論理的思考が働く。一方でキャリアでも明らかに能力の劣る者が、威張り散らすらしい。トイレ掃除を命じる輩までいるそうだ。昼メロ級である。
本物語には、学生やら知識人の見解が頻繁に登場する。その分析レベルは高度である。アル中ハイマーは、若い頃はもちろん現在においても、そんなレベルで物事を考えられない。社会に危機感がないと、優秀な知識人は生まれないのかもしれない。平和ボケでぬるま湯にどっぷりつかった社会では、せいぜ出世争いをするのがオチなのだろう。

2007-12-02

"国家の罠" 佐藤優 著

おいらは歴史の興味からラスプーチンが読みたいだけなのだ。それも古典風の。ところが、アマゾン検索は奇妙な答えを出す。最初にひっかかるのがなんと日本人。外務省のラスプーチン、佐藤優氏である。他をあたってみると、これまたしつこい。喧嘩を売ってんのか。そして、ドスの利いた声でつぶやく。「しょうがねーなあ。買ってやろうじゃねーか!」目的と違うからといって目くじらを立てることもない。人生とは寄り道である。こうして、アル中ハイマーはネット民主主義に屈っするのである。

著者のことは昔マスコミ報道で見かけた覚えがある。鈴木宗男氏との疑惑で捕まったダーティーなイメージがある。鈴木宗男氏と田中眞紀子女史の対立なんて聞きたくもない。アル中ハイマーには、マスコミ報道の固定観念が染み付いている。ところが、読んでみるとなかなかおもしろい。著者は情報屋で、それも凄腕のプロである様がうかがえる。その中で、プライドこそが情報屋の判断を誤らせる癌であると語る。また、神学や宗教哲学にも通じていて人間分析にも長けていそうだ。
本書は、外務省の陰謀や、政治家の足の引っ張りあいといった単なる政界の暴露本かと思っていた。前半はそうした部分もある。アマゾンでもそのような論評も多い。しかし、読みつづけると、そう簡単には片付けられるない。本書の主題は国策捜査である。国策捜査という言葉は流行りなのか?便乗したジャーナリストの問題提起した本が散乱しているようだ。民主国家において、政治の体制や方針を転換するには国民世論を必要とする。そのためにマスコミの支援は不可欠である。新旧体制の対立構図はワイドショーにできる。旧体制の象徴をスキャンダルに追い込めば、新体制への移行も容易となる。そこで、象徴的なターゲットに犯罪を作り上げ、その穴に落とし込む。これが国策捜査である。これは冤罪とは根本的に違う。冤罪は犯人を間違って罰するが、国策捜査はターゲットを葬る。元検事田中森一氏が告白本「反転」で、特捜が手がける事件は全て国策捜査であると語っていたのを思い出す。

本書の中で感銘を受けたのは、検事である西村氏の扱いである。敵対する相手を賞賛し、優秀な検事と被疑者の奇妙な関係を物語る。敵は外務省で、政界や霞ヶ関は「男のやきもち」の世界と、子供じみている。仕事は与えられた範囲でやればいいが、一線を越えると陥れられる。それが外務官僚の正体だという。本書はマスコミ不信も募る。著者の主張にはそれなりに説得力を感じるからだ。一流の情報屋にしてみれば酔っ払いを手玉に取るのは簡単だろう。おいらはニュースをあまり観ないようにしている。血圧が上がるからだ。事件に悲観しているのではない。著名なジャーナリストやタレントが正義感ぶって感情的な論調を繰り返すことに信憑性を感じないのである。ジャーナリストの口癖は、国民の知る権利を妨害してはならないと主張する。著者は、国民の知る権利は事実を知る権利であると主張する。アル中ハイマーは、迷惑な報道で悪酔いさせないでおくれと主張する。
本当の政治犯は、傲慢な官僚なのか?いや!それを監視する偉そうな政治家なのか?いや!それを選出する無知な国民なのか?いや!世論を扇動する無責任なマスコミなのか?ぐるぐる回って、ウォッカの力はついに闇の正体を教えてくれる。黒幕はダースベイダーなのだ。

本書は外務省の構図もわかりやすく説明してれる。外務省には学閥は存在しないが、「スクール」と呼ばれる研修語学別の派閥が存在するという。アメリカンスクール、チャイナスクール、ジャーマンスクール、ロシアスクールなど。また、業務による派閥もある。法律畑を歩んだ「条約局マフィア」、経済協力に関しては「経協マフィア」、会計専門は「会計マフィア」。近年は主要国首脳会議の裏方を担当する「サミットマフィア」もあるという。人事はスクールやマフィア内で行われ、情報も漏らさないため省内には閉鎖した小社会が形成される。これが良い方に出れば特出した専門家集団となり、悪い方に出れば不正の温床となるわけだ。本書は、著者が活躍したロシアスクールを中心に展開する。

1. ロシアの情報源、イスラエル
イスラエル建国を最初に認めたのがスターリン。もちろん理念を支持したのではなく、単にイギリスからの独立を支援したに過ぎない。冷戦構造とともにイスラエルはアメリカ陣営となる。国交断絶後、ソ連に在住するユダヤ人の出国は不可能となる。しかし、ユダヤ人は屈しない。抑圧政策を改めるようにロビー活動を展開する。これが米ソ問題まで発展しユダヤ人の出国を緩和させる。当時ソ連にイスラエル大使館は無かったのでオランダが代行していたらしい。出国希望のユダヤ人がオランダ大使館に殺到する。イスラエルの人口20%がロシア系だった。ちなみに、ソ連のオランダ大使館と日本大使館の距離は徒歩2分だったという。こうした背景で、著者はイスラエル人との関係を深めている。エリツィン大統領がチェルノムィルジン首相を解任したことが全世界で衝撃を受けたが、日本はいち早くこの情報を入手していたらしい。その情報ルートがイスラエルだったという。チェチェン問題も、プーチンが素早く制圧して国民の支持を得る。この時もイスラエル人のゴロデツキー教授から情報を得ている。これまで日本の政府関係者で、イスラエルの持つロシア情報に目をつけた人はいなかったらしい。ところが、ゴロデツキー教授に便宜をはかったことが、背任罪で逮捕されるきっかけとなる。

2. 北方領土問題
北方領土問題は、東西ドイツの分裂や東欧社会主義圏の成立と同様、第二次大戦の産物である。よって、解決する機会はベルリンの壁崩壊からソ連崩壊の間に最もチャンスが巡っていたと主張する。確かに、まともな論理に思える。その後にもチャンスは訪れているようだ。日露平和条約を締結するには、北方領土問題解決というのが互いの前提だったという。エリツィン大統領は、2000年までに平和条約に前向きだったらしい。その頃、自民党の大敗と、エリツィン大統領の健康悪化が重なった。小渕首相に至っては、北方領土問題の解決に熱心だっただけに、無念であることが語られる。ソ連崩壊で窮地に追い込まれた北方四島へのディーゼル発電機供給事業が行われる。ちょうど平和的に日本化が進む中、著者が偽計業務妨害容疑で逮捕される。これはクレムリンの陰謀か?ロシアの高級官僚にも領土縮小を快く思わない人がいるだろう。現在の外務省のロシア専門家は、アメリカのロシア研究については熟知しているが、西欧、イスラエルの研究にはほとんど関心を払っていないと指摘する。もはや、日露問題については絶望的なのだろうか?もし、その時代に北方領土問題が解決して日露平和条約が締結されていれば、当時ロシアの影響力が強かった北朝鮮との問題にも影響があったかもしれない。酔っ払いには、プーチンの時代では問題は悪化するように思える。というのもプーチンの資源帝国主義はかつての超ソ連の復活を目指しているように思えるからである。ソ連崩壊でKGBは解体されたが、プーチンの取り巻きは大部分を元KGBとFSBで固めているという噂だ。彼らに逆らう者は容赦なく消す。陰謀と暗殺のお国柄である。そういえばラスプーチンと似た名前だなあ。酔っ払いには、表向きの資本主義と旧共産体制が二重に見える。

3. 国策捜査
西村検事は、本件を国策捜査であると明言している。本件が鈴木宗男氏をターゲットにしたことは疑いの余地がない。ではなぜ、鈴木氏がターゲットにされたのだろうか?小泉政権では大きく二つで変化が現れた。
一つは内政である。競争原理を強化し経済を活性化する。ケインズ型公平配分路線からハイエク型傾斜配分路線への転換である。自民党政治の伝統は日本的な社会主義であることは、ほとんどの人が気づいているだろう。それを、経済的な強者が弱者を牽引し、弱者の生活水準も向上させるという方針に転換する。これは、かつてIMFと世界銀行が手がけた戦略に似通っているように思える。投機的なホットマネーを煽る金利政策や通貨政策をとり、世界レベルで経済的な弱者は強者の餌食になった。東アジア危機では多くの銀行を倒産させ、旧共産圏では市場経済へ移行する際、強烈なインフレを呼び込み庶民の財産価値を奪った。結果、世界中で貧困層を増大し不平等は拡大した。ホットマネーのリスクは現在でも市場を賑わしている。経済学者スティグリッツ氏は、グローバリズムに向かうのは自然の流れだが、この手法には社会的リスクという概念を無視していると警告していた。おいらは経済学は胡散臭いと思っているが、彼の本は何冊か読んでいる。中でも社会学的にアプローチしている点に感銘を受けている。おっと!ウォッカのせいで脱線してしまった。
国民の支持率が権力基盤である小泉政権は、競争原理の強化は地方を弱体化することや、金持ち優遇で傾斜配分が国益になるとは公言できない。そこで公平配分路線の政治家を血祭りに上げた。つまり、橋本元総理や森元総理でもよかったというのである。
二つは外交戦略である。国家意識、民族意識の強化。多角的外交路線から親米主義一本化へ。国際協調主義から排外主義的ナショナリズムへの転換であるという。安部元総理の「美しい日本」というのは、ナショナリズム高揚の道具なのだろうか?鈴木氏は、国際協調路線から北方領土問題を解決しようとした。四島一括返還以外は国是に反するとして、二島返還や先行二島返還は私的外交と非難される。そして、内政、外交の両面から攻撃対象として鈴木氏が適任だったというのである。この見解は、西村検事と著者で一致したようだ。国策捜査は突然終幕。最後に森元首相につながるということで検察庁は躊躇する。結局、ディーゼル発電機供給事業に関わった三井物産の社長は引責辞職。丸紅は入札に加わらない対価として5千万円を得た。これは税金である。しかし、鈴木氏との関わりは三井物産なので、丸紅は刑事責任を終われていない。本事件の勝者は、外務省執行部であると語られる。

4. 西村検事
西村検事は、国策捜査は「時代のけじめ」をつけるために必要であると皮肉っている。かなり激しい取り調べが展開されたかと想像していたら、心温まる話が多い。検事と被疑者が一緒に事件を分析しているあたりは、とても拘留されている話とは思えない。事件後、西村氏は水戸へ左遷されたという。官僚の世界では出世する奴の方が頭がおかしいのかもしれない。著者は西村検事についてこう評している。
「上司に媚を売るようなタイプではなく職人気質な検事である。人間として本当に勝負をかけている感じがする。誠実で優れた、実に尊敬に値する敵であった。」

せっかくだからスキャンダル沙汰も少しだけメモっておこう。
田中眞紀子女史は、9.11テロ事件の数時間後、米国務省の緊急連絡先を記者団に漏らすという大失態を演じた。また、突然人事課に乗り込み一室に篭城し、人事異動命令書をタイプさせるという暴挙にでた。米国務長官との会談をドタキャンした事件も非難の対象とはなるが、眞紀子イジメだとする感情論に支配された。ジャンヌ・ダルクと思っていたら西大后だったというオチである。

ここで著者とエリツィンが一緒に酒を飲んだエピソードを付け加えておこう。
ロシアでは友情を交わすのに3回キスするのがしきたりで、3回目には舌を軽く入れてくるのが親愛の証だそうだ。エリツィンもこのしきたりに従って酔うと男同士でキスをする。もう少し高いレベルの親愛もあるらしいが、日本の文化では想像に辛いという理由で紹介してくれない。もしかしたら著者はエリツィンにやられているのかもしれない。最後にうまいフレーズもメモっておこう。
「霞ヶ関と永田町は隣町だが、その距離は実はいちばん遠い。なぜなら、地球を反対側に一周しなくては行き着けないからである。」

2007-11-30

"SIX NOT-SO-EASY PIECES" Richard P. Feynman 著

先日、「SIX EASY PIECES」と「SIX NOT-SO-EASY PIECES」の二つをお借りした。本書は、ファインマン教授の講義録がCDで収められている。偉大な物理学の講義をオリジナルで聴こうなんて発想は、アル中ハイマーの英語力からは考えられない。そんな英語音痴でも些細な努力はしている。昔は、会社に隠れて英会話学校に通ったこともある。使わなければ元の木阿弥。ちなみに、只今一世風靡中の駅前留学ではない。外人経営のマイナーな学校である。なになに学校ってのは性に合わないのだが、なんとなく先生の人格に惹かれてしまった。ある日、ローカル番組の街頭インタービューで、流暢な日本語で答えているのには驚いた。彼が日本語を話しているのを見たのはそれが最初で最後である。今は、海外ドラマNCISを教材にしている。なぜかって?アビーにいちころなのだ。その前はX-ファイルだった。なぜかって?モルダーにいちころなのだ。歳を取ると字幕を追いかけるのが面倒になる。なかなか良い傾向だ。ようやく英語の周波数が合い始めていると錯覚している。ただ、この波は脳細胞には干渉しない。そもそも酔っ払った脳とはそういうものだ。日本語にしても言語というものは同期しないのである。今宵のアル中ハイマーは、気分良く英語の勉強と称して外人パブへ出かけるのである。

このCDは重厚だ。ノーベル賞学者の偉大な講義を酒の肴にできるとは、なんと贅沢な時間だろう。英語の勉強で文章を追いかけるような無駄は止めよう。不快な思いをするのは大先生に失礼だ。ファインマン調を味わって幸せになろう。
物理学では、追いかけるものは逃げていくという法則がある。それは、ホットな女性はつかまらないことで証明される。
始めてみると意外に文章が拾える。英語のリズムだけでも楽しめるではないか。クールな人物をイメージしていたが、語りが熱い。なかなかの名調子。人間性も伝わる。驚くべきは、語りだけでほとんどの説明がなされることだ。編集してんのか?これは漫談か?式を書くことに命をかける教授とは随分違う。偉人の講義とは思えない親近感もある。バックグランドでチョークが走る。時より発する学生の咳が生々しさを醸し出す。冗談も飛び出す。学生と一緒に笑いたいがタイミングを逸する。悔しい!そこだけリピートだ。いつのまにか目的がすり替わって笑うタイミングを計っている。ドリフの大爆笑やんけ!
物理学では、目的はすり替わるものという法則がある。それは、国のお偉いさんたちの行動が証明している。

何を血迷ったか。not so easyの方から聴き始めた。何を隠そう、こちらだけ聴いて片付けるつもりでいた。こんな難しいものが理解できるわけがない。そう思っていたからである。ベクトルや対称性から相対性理論へ話が及ぶ。当然アインシュタインも登場する。ちなみに、ファインマン先生は「Curved Space」が一番のってるようだ。おっと!聴いてるうちに目の前の空間が曲がってきた。いつのまにか6時間が過ぎている。さすがに、ずっと同じ姿勢ではケツが痛い!

そして翌日、引き続きeasyの方を聴く。んー!録音状態が悪い。昔の政治演説みたいだ。この講義は飛ばそう。次の講義からは状態も悪くない。一安心!物理学の概要の話をしているのだと思うが抽象的でよくわからない。諦めかけていたら、物体のエネルギーで引き戻される。ケプラーも登場して、んー!やっぱり聴き取れない。量子論はかなり怪しい。the uncertainty principleってなんだあ?出たあ!ハイゼンベルグ!不確定性原理やんけ!とうとう止めを刺された!締めくくりは、正確に測量できない世界がある。それでも統計的には把握する手段がある。不確定性原理とはそうした場合に有効な道具だ。とかいったことを哲学的に語ってくれているような気がする。漫談屋が真面目に語っても、冗談にしか聞こえない。偉大な人間が語ると冗談も哲学に聞こえる。人間は、耳を傾ける側の心構えでなんとでも聞こえるものだ。

酔っ払いのことだから、ほとんどを勘違いして聴いていたことだろう。物理の基本法則だから、なんとなく伝わった気になれるのかもしれない。アル中ハイマーには、なんとなくnot so easyの方が周波数が合う。歴史を感じるとアルコール濃度も上がる。さて3度目を聴こう!それにしても、こんな英語の楽しみ方があるのかあ。以上、アル中ハイマーの初体験でした。

2007-11-28

"ソフトウェア開発に役立つマインドマップ" 平鍋健児 著

本書は先月某氏にいただいた。もっと勉強しろ!という意味だろう。その証拠に会うといつも説教される。いや!アル中ハイマーが謝り上戸の上に、説教され上戸なのかもしれない。仕事が落ち着いたところで読んでみることにしよう。今週は雑用週間にしよう。本職が雑用だから代わり映えがしない。

マインドマップとは、キーワードを放射状につないでいく表記および発想法で、トニー・ブザン氏が開発したとされている。アル中ハイマーはこれに近い発想を学生時代からやっていたような気がする。もともと思考の手段でお絵書きする癖がある。それも頭が悪いので、問題意識を全体像の中からイメージできないからである。こうした図解で重要なのは、自分で軌跡を描くことだと思っている。一人でぶつぶつと独り言を言いながら軌跡をたどり、自分自身に説明する。これが記憶を助け、いつでも頭に描けるので風呂の中や、電車の中でも考え事ができる。ただ、酔っ払いの発想だから、学術レベルとは程遠いだろう。

本書は、右脳の得意とするビジュアルな刺激と左脳が得意とする論理的な情報をミックスして配置して一枚の絵にするとある。んー!真新しいものを感じない。具体的な表記は明確にルール化されているのだろう。ルールは、集団で議論するためには必要であるが、そのためにわざわざ教育が必要ならばカルト教団による布教のなにものでもない。まあ、そう畏まらずに大雑把に構えていればいいだろう。特徴は、プレイバック効果、一覧性、速記性、容易性、半構造(構造を柔軟に変更できる)を持つ。また、ブレインストーミングでも役立つとある。まあ、その通りだろう。UMLよりは簡単なので容易に導入できそうだ。
UMLとの融合ツール「JUDE」の試用版が付いている。付録にはテンプレートのおまけ付きである。少しは遊べるが、もうええや!ただ、マインドマップ用に特別なツールが必要なのかは疑問である。本書は、マインドマップの紹介書という位置付けなのだろう。雑誌の記事ぐらいで充分な気がする。これで2,200円かあ。お返しに一杯おごるとしよう。
あれ!なんだっけ?アル中ハイマー病とは、空白行があるだけで記憶細胞が空っぽになる病である。

2007-11-25

"Life Hacks PRESS" 田口元 他6名 著

人生は時間との闘いである。やりたい事は次から次に現れる。少しでも欲を満たすためには、生活効率、仕事効率を上げなければならない。lifehacksとは、こうしたことへの改善術を意味するらしい。アル中ハイマーも酔っ払いなりに優秀な方々の改善術を参考にしてみよう。本書は雑誌感覚で電車などの移動中に読むのにちょうど良い。時間もかからない。これぞlifehacksである。
それにしても、なになにhacksという本が散乱している。hacksという言葉には、技術レベルを高めてくれるような異様な響きがある。そのうちhacks教の教祖が現れるかもしれない。

1. lifehacks
おいらのTo Doリストにはいつまでも居座る奴らがいる。それだけで憂鬱な気分になる。優秀な方々でも同じ現象が起こるらしい。少し安心するのである。本書は、このやっかいな奴らを片付ける提案をしてくれる。結局、心理的対策しかないようだ。
また、突然発生する細切れな時間を有効に使う方法を提案してくれる。細切れな時間が発生する要因は、メール、電話、メッセンジャー、通勤時間などである。おいらは携帯電話と携帯メールは最優先である。もしかしたら夜のお誘いかもしれないからだ。最近は、メッセンジャーは止めている。メールにもうんざりさせられることが多い。細切れな時間を有効に使うには、頭の切り替えが難しい。アル中ハイマーには苦手である。昔は、本書に書かれているようなことを実践していた。少しでも余裕を持ちたいから、隙間の時間になんでも押し込んでいた。そんな時、笑うセールスマンに出会った。今となっては「喪黒福造」の名刺が懐かしい。細切れな時間には、周りの景色を眺めたり音を味わったりと和める瞬間がある。知的労働にはリラックスすることが重要である。忙し過ぎると見えるものも見えなくなる。何事も長続きさせることが難しい。肩のこることは嫌いである。常に自然体を心がけたい。通勤時間は仕事とプライベートを区別する貴重な時間であると考えていた頃もあった。しかし、効率性が優った。通勤してようが寝てようが、仕事が頭から離れない。問題を抱えていれば尚更だ。おいらは風呂に入っている時が集中できる。知的労働に残業時間など計算できない。そして、いつのまにか仕事とプライベートに境界をつくる必要はないと考えるようになった。仕事の効率化ができても、プライベートをだらだらと過ごしていては、無駄は解消されない。どちらも貴重な時間である。仕事から学ぶものもあれば、プライベートから学ぶものもある。どちらも同じ人生の時間軸にある。そのうち、また考え方が変わるだろう。気まぐれとは、不確定性原理の中にある。

2. GTD
GTDは、David Allen氏の著作「Getting Things Done」の頭文字をとった仕事術である。特徴は、手法や機能性だけではなく、感情面に配慮していることである。方法論というものは心理的影響を無視したものが多いが、これは興味が持てそうだと直感的に思う。ある企業にいた時は、プロジェクト管理ですらツールを強制されたものである。おいらは、何を管理するにしてもテキストベースが楽である。アプリケーションやツールに依存する手法は嫌いである。自由に無理なく実践できるというのがいいのだ。
GTDの大まかな流れは、やるべき事を管理し、それらの具体的なアクションを定義し、定期的にレビューする。定期的なレビューは、仕事のできる人の最も重要な習慣だという。ここでいうレビューとは、自分で監視機能を装備することである。スケジューリングの意味合いもありそうだ。なるほど、参考になるかもしれない。おいらは、レビューというと社内会議を思い出してしまう。会議ほど嫌いなものはない。奇妙な会議を経験しすぎると、奇妙な固定概念がしみついてしまう。おいらの場合、意識改革から始めなければならない。

3. マインドマップ
マインドマップとは、思考の記録ツール、図解のことだそうな。トニー・ブザン氏が提唱した図解表現技法の一つで、右脳と左脳を同時に活性化させるという。アル中ハイマーは図を書くのが好きである。会議中にスケッチする。というより、頭が悪いので論理的に逐次記載されたものが理解できないだけのことである。ドキュメントなど、解かり易さや、全体を見渡すのに、図解は良い手法である。しかし、厳密性を表現するには論理的な記述も必要である。そのバランスが難しい。昔から悩んでいるテーマである。本書では、単語を散りばめて関連付けていく図などを紹介してくれるが、見かけだけでは似たようなことをやっているような気がする。ただ、アル中ハイマーのレベルとは違って科学的に深いことをやっているに違いない。FreeMindも紹介してくれる。ただ、専用ツールを使うようなことなのか?図をスケッチする時には、手が動く軌道も重要であり、芸術的な要素を含んでいる。手の動きが脳を働かせるリズムでもあると思っている。まあそう言わずに、喰わず嫌いではいけない。ツールでも使って遊んでみよう。修正も簡単だしおもしろそうだ。

仕事をする時に難しいのは取っ掛かりと精神の持続である。
何が嫌かって一歩を踏み出すのが面倒なのだ。アル中ハイマーは半端な不精ではない。プログラムを書き始めて一旦集中すると、禅の世界へ導いてくれる。こうした状態では本能に任せればいい。美味い酒を飲んでいる時の幸福感は本能のままだ。そういえば、アル中ハイマーは脳が働かず、口が勝手に喋っていることがしばしばある。きっと他人が喋っているに違いない。翌日、目が覚めると仕事は終わっていたことがよくある。酔っ払うと二重に見えたりするが、それは錯覚ではない。美味い酒には、人員をコピーして人手不足を解消する魔力があるのだ。ただ、魔法がとけると自分のやったことを覚えていない。そりゃそうだ、だってコピーがやってるんだから。

2007-11-18

"高校数学でわかるシュレディンガー方程式" 竹内淳 著

本書は、前々記事、前記事に続き、「高校数学でわかる!」という呪文の三つ目の罠である。高校まで数学が得意だったと錯覚していたアル中ハイマーは、このブルーバックスの企画にいちころである。

前書きに、量子論でやさしさを追求した本は、シュレディンガー方程式に触れられないのが普通であるという。一方、シュレディンガー方程式を解説する本では、難し過ぎる傾向があるとも述べている。どうやらこの分野では、シュレディンガー方程式までたどり着ける人は限られるようだ。本書は、シュレディンガー方程式をマスターしないと量子力学を理解したことにはならないと主張し、この方程式をやさしく解説することに挑戦している。ちなみに、アル中ハイマーは量子論を専攻したわけではない。通りすがりのずぶの素人である。それでも、シュレディンガーの名前ぐらいは聞いたことがある。波動関数という言葉の響きには、強烈なウォッカ気分にさせる魔力がある。本書は、こんな酔っ払いでも、なかなか読ませる量子力学の入門書である。ただ、アル中ハイマーには、不確定性原理の意義や、シュレディンガー方程式の本質まではいまいち迫りきれない。とうとう三冊目にして、本当に呪文の罠に落ちてしまった。お陰様で、この分野に少々興味を持ってしまうのである。これからは「量子論」というキーワードを検索キーに加えておこう。

1. 量子力学の幕開け
プロイセン国の宰相ビスマルクの時代、ドイツが急速に工業化を進める。「鉄は国家なり」と言われ、近代国家が生まれた時代である。良質の鉄を作るために、溶鉱炉の温度を正確に把握する必要があった。科学者は分光器を発明する。鉄に光をあてると反射した光は、温度によってスペクトルの形が変わる。こうして光を使って物質を解析する時代が始まった。
20世紀初頭、ほとんどの科学的問題は解決済みと考え、たとえ解決していなくても、ニュートン力学とマクスウェルの電磁気学を駆使すれば解けると信じていた。そうした時代にプランクが登場する。光エネルギーは、振動数の定数(プランク定数)倍であるという理論を唱える。この理論では、波長が短くなるとエネルギーが強くなるので、赤、オレンジ、緑、青、紫の順にエネルギーが大きくなることを意味する。ちなみに、紫より波長の短い紫外線は、遺伝子に影響する大きさで、正常な細胞をガン化させることもある。後に、プランクは、光のエネルギーは振動数の定数倍だけでなく、更にその整数倍をとることに気づく。この式が量子力学の幕開けとなる。

2. アインシュタインの登場
光が波なのか粒子なのかという論争はニュートンの時代からある。ニュートンは粒子説を唱え、ホイヘンスは波動説を唱える。20世紀初頭、ヤングの干渉実験で波動説が有力となる。更に、マクスウェルが、光は電磁波の一種であると主張し後押しする。そんな時代にアインシュタインは再び粒子説を持ち出した。粒子説は光電効果を説明できる。金属に光をあてて電子を取り出す現象である。波長の短い(振動数の大きい)光をあてると飛び出す電子のエネルギーは大きくなる。照射する光を強くすると飛び出す電子の数が増えるが、一つ一つの電子のエネルギーは変わらない。現在、光は粒子と波の二つの性質があるとされている。ド・ブロイは、電子もこの二重性をもつと提唱した。現在ではこれも実証されている。電子が波の性質を持つとすると、波を表現する方程式が存在するのではないかと考えたのがシュレディンガーである。

3. シュレディンガー方程式
古典力学では物体の位置が時間とともに変化していく様子をニュートン方程式で解析することで物体の運動を表す。しかし、ミクロの世界、つまり量子力学では、位置ではなく波動関数を使う。波動関数は雲のような空間に広がった分布関数のようなもので、無限に発散するような関数は取れないし、物体が存在しない場合は0でなければならないなどの制約がある。シュレディンガー方程式は、この波動関数が時間とともに変化していく法則を示す。つまり、電子が原子の中にどのように分布するかを知るためには、シュレディンガー方程式を解けば良いというのである。ちなみに、「量子」という言葉は、量が変化する際の最小単位であって、その値が飛び飛びに変化するという特徴が語源となっているらしい。
ここで、ハイゼンベルクの不確定性原理について触れられる。このあたりはアル中ハイマーには頭が痛い。不確定性原理では、位置と運動量や、時間とエネルギーは同時には正確に測定できないというものだ。物理学の世界では不確定性の要因も多いだろう。というよりどんな世界にも不確定性はつきまとうものだ。ただ、ハイゼンベルグはこの不確定性そのものが本質であると唱えている。ニュートン力学では、位置と運動量の両方の情報がないと物体の運動は正確には計算できない。よって、この不確定性原理は論争の的となる。この主張に強く反対した一人にアインシュタインがいる。アインシュタインの「神がサイコロを振るはずがない」という言葉は、不確定性の対極にある。アインシュタインは不確定性の影響を受けない実験を次々に提案する。その都度、ハイゼンベルクは不備を見つけ出し、量子力学の世界では不確定性から免れないことを明らかにする。現在においても不確定性をくちがえす物理法則を見出した科学者はいない。不確定性原理は、波をいくつか足し合わせるとパルスになるという数学的性質にもつながると語られる。これは、なんとなくフーリエ変換を暗示しているようだ。おかげで少し理解できる範囲に取り戻せる。パルスの時間幅を短くするとエネルギーは大きくなるというのは、実は不確定性原理を表しているという。短い時間を測定しようとすれば、不確定性原理によってエネルギーの分解能が悪くなる。
んー!やっぱり、不確定性原理は、アル中ハイマーにはスピリタス級である。短いパルスの時間幅でウォッカすると、エネルギー効率は最大化され悪酔い度は96%まで高められる。

2007-11-11

"高校数学でわかるマクスウェル方程式" 竹内淳 著

本書は、前記事に続く二つ目の呪文の罠である。ブルーバックスの企画もなかなか憎い。高校まで数学が得意だったと錯覚していたアル中ハイマーには、「高校数学でわかる!」という言葉にいちころである。本書でも、高校物理と大学物理には断層があると語ってくれるあたりは、少しは慰めになる。幼少の頃、小学館だったか?科学実験を体験できる雑誌があった。おもしろく遊んでいた記憶がなんとなく甦る。なぜかそうした懐かしい感覚で読んでいる。

電気磁気学は電子工学を専攻すると必須科目である。赤点を取った嫌な記憶も甦る。なんとか丸暗記で誤魔化したものである。以来、マクスウェルという言葉の響きには、どんな酒でも学生時代に飲んだレッドの味わいに染める魔力が潜む。そんなアル中ハイマーでも、本書の世界に入るとレッドな気分をホワイトな気分にさせてくれる。なによりも法則の意味合いを大事にしているところがうれしい。そこには、
「電気磁気学の法則 = マクスウェルの4つの法則 + ローレンツ力」
が記される。これぞ学生時代に出会いたかった入門書である。
もっと早く出会いたかった本は、なぜか昔出会った女性を思い出させる。一人の女性がいるとそこには磁場が発生する。そこには引力あるいは斥力がある。この微力な磁場を強力にするには、男性が回りを囲めばいい。これがソレノイドである。目をつけた女性の視線は直進性が高い。これも一種の電磁波である。電磁波は永遠に進み続ける。これでアル中ハイマーはいちころである。これが「夜の社交場の法則」というものである。

生物の神経で情報伝達に電気信号も使われていることは20世紀になって明らかになった。例えば心電図は心臓で生じる電気を拾ったものである。ところで、電磁波をあびると女の子が生まれるという説は本当だろうか?昔ある企業に所属していた頃、テレビ設計者の子供は女の子が多いという話を聞いた。言うまでもないが、当時のテレビはブラウン管である。確かに先輩たちを見るとその傾向はあった。電磁波はXY染色体に影響でも与えるのだろうか?実験室には、股間用の防磁グッズがあったのを思い出す。ただ、Hが下手だと女の子が生まれるという説もある。こちらの方が説得力を感じたものだ。

1. 歴史を振り返る
日本では、平賀源内が1751年オランダから幕府に献上された静電気発生装置「エレキテル」に興味を持ったことから始まる。これは、ガラス管と金属の摩擦によって帯電する単純な装置である。アメリカの政治家フランクリンも1746年にこの装置に興味を持つ。彼は雷が電気であることを発見する。雷の巨大なエネルギーに対して、電気を溜めることができる最大の入れ物は地球(アース)である。この時、彼が電気のプラスとマイナスを決めた。
この2つの微力を測定したのがクーロンである。互いの電荷が増えれば増えるほどクーロン力は増し、その力は距離の2乗に反比例する。これは、万有引力の、互いの質量が大きいほど引力は増し、その力は距離の2乗に反比例する関係に似ている。違いは、電荷はプラスとマイナスに帯電するため、引力と斥力ができるところである。クーロンは、更に磁石を使って磁界においても法則が成り立つことを発見している。クーロン力と万有引力の類似性から、多くの科学者は二つの法則を統一しようと試みたが、現在に至るまで誰も成功していないようだ。
クーロン力と万有引力はいずれも離れたものの間で働く力であり、遠隔作用である。ファラデーは、音が空気を通じて伝わるように、クーロン力も媒体が伝える近接作用として捉える。この媒体がエーテルである。当時、エーテルは全宇宙に充満していると唱える科学者が多かった。エーテルの存在を確かめる実験に挑んだのが、マイケルソンとモーリーである。結局エーテルは存在せず、真空中でも電気や磁気の力が伝わるという遠隔作用説に戻ったようだ。しかし、ヘルツによる電磁波の実験は近接作用説に基づく学説になったという。そこで、クーロン力を伝えるのは空間そのものであるという解釈に到達する。その場に電荷があれば、その周りの空間には電界が存在するということである。
歴史は、電荷、磁界、電流、力の重要な関係に辿り着く。アンペールの磁界と電流の関係がそれである。磁界の方向に右手を置くと親指の方向に電流が流れる。電流の回りに右回りの磁界が発生する。拡張した解釈がビオ・バザールの法則で、コイルに発生する磁力を示している。ファラデーは磁界と力の変化によって電流が生まれる電磁誘導に成功する。この法則で電池に頼らなくても電流を生み出すことが可能になる。人類は、力学エネルギーを電気エネルギーに変換することに成功したのである。

2. マクスウェルの法則
この時点では、まだ電磁気学としての全体像は明らかになっていない。電磁気学を体系化する役割を果たしたのがマクスウェルである。彼は、ファラデーやアンペールらが明らかにした電場や磁場の関係を数学的に表すことに取り組み、1864年に20個ほどの式にまとめた。後年、絞りに絞って4つの式にまとめられる。

(第1式: クーロン力を表す式 = ガウスの法則)
クーロンの法則はガウスの法則と等価である。「点電荷のまわりの電界の強さが、表面積に反比例して減少する性質」を自然に認識できる点でガウスの法則を採用しているのだそうだ。ガウスの法則の数学的証明なんて悪酔いするだけである。本書でその証明を割愛しているのは正解である。ただ、ガウスの法則のありがたみは感じさせてくれる。それはコンデンサーの例で示している。平面状の電極に電荷が一様に分布している場合、電極からいくら離れても電界の強さは同じである。これは、平面状に広がった照明と光の強さの関係に例えて語られる。

(第2式: 電磁誘導の法則を表す式)
電磁誘導の法則は、磁束が時間変化すると、そのまわりに磁界が生じることを示す。

(第3式: 磁石のN極とS極は必ずペアで存在する)
N極は磁束線の吐き出し口で、S極は吸い込み口として働くので、必ずペアで存在する。しかし、単極の磁石が存在しないという物理的確証は、実は無いのだそうだ。

(第4式: 電磁石を表すアンペールの法則)
ソレノイド内部の磁界の強さはコイルの巻き数が大きいか、電流が大きい場合に強くなる。これは、電流によって電線のまわりに磁界が生じることを示している。マクスウェルは更に、電流が流れるまわりだけでなく、電極の間の電界の強さが変化すると、そのまわりに磁界が発生するところまで拡張している。例えばコンデンサーでは電荷が蓄えているだけで電流が流れない。それでも磁界は発生する。

3. ローレンツ力
マクスウェルの方程式が完成した時点では、電子が発見されていなかった。何かがプラスからマイナスに流れると解釈しているために、「電流はプラスからマイナスに流れる」と表現する。その後、J.J.トムソンがブラウン管で電子を発見する。実際は、マイナスの電荷(電子)がマイナスからプラスに流れる。ここで、磁界の中にある電荷に働く力。ローレンツ力が重要になる。これで、電流を駆動するための力、電圧、つまり起電力の説明ができる。著者は、これをマクスウェルの方程式に加えないのは謎だと主張している。電磁波の方程式が、時間軸に対して三角関数で表現されるのは、微分しても積分しても三角関数に戻る。つまり、永遠に波である。電界と磁界が互いに一方を生じながら無限に伝播することを意味する。この仮定は、電荷や電流や磁極が存在しないとしての話である。電磁波の速度は、光の速度と同じで30万km/sである。マクスウェルは光も電磁波の一種と考えた。目に見えるかどうかは単に波長の違いである。現在もこれが通説で、電気から光を取り出す技術は進化している。発光ダイオードや半導体レーザーがそれである。

4. おまけ、国際会議における日本人
西洋では、哲学者ソクラテス以来、議論して真理に近づくという伝統がある。よって、発表よりも質疑応答を大切にする。一方、日本人は発表を丁寧にして質疑応答が苦手というのが多い。これは、日本人が海外で評価されにくい理由の一つであると語る。また、誉められない特徴として発表態度にあるだろう。欧米人が聴衆に向かって発表するのに対し、日本人は背中を向けてスクリーンに向かって発表する。これは、伝統的態度と言えるだろう。政治指導者が紙を読み上げて討論している姿からもうかがえる。学校教育の影響もあるだろう。聴衆の前で意見を披露する訓練を受けていない。また、議論には言論の自由が必要不可欠であるとも語る。科学者が自身の主張によって不利益を被った例は多い。宗教的あるいは政治的弾圧を受けてきた。ソクラテスでさえ死刑になっている。欧米諸国にはこうした苦い経験がある。現在においても、変わった意見を発言すると討論番組やマスコミによって血祭りに上げられる。特に日本人どうしの議論は、感情的になりやすい傾向がある。科学的議論であってもいつのまにか人格対人格の闘いになっている場合が少なくない。もう一つ重要なものに発想の自由がある。特に日本人は自由の概念を忘れがちだという。「科学の大きな役割の一つは、人間の思考から迷信を取り除き、合理的に問題を解決する思考方法を与えることである。」と締めくくる。

2007-11-04

"高校数学でわかる半導体の原理" 竹内淳 著

アル中ハイマーは高校まで数学が得意だと錯覚していた。ところが、大学であっさりと挫折してしまう。以来数学は嫌いだ。「高校数学でわかる!」なんて、ブルーバックスもなかなか憎い企画である。酔っ払いは、三度もこの呪文の罠に嵌ってしまう。

おいらは半導体業界との付き合いがある。ちょうど先月から仕事が迷い込んできた。独立する前は、この業界にお世話になっていたこともあり、その流れで今でも年に一、ニ度ほど関わることがある。主な業務は、回路設計と検証環境の構築である。今、検証環境を作り終わって一息ついたところである。あれ?今月末完了って見積もったような?いや!まだ夜の社交場からのアクセスをテストしていない。それも、ほど酔い気分という暗号語はセキュリティレベルの調整が難しい。テスト中、うちの酔っ払いマシンは「君に酔ってるぜ!」とかぬかす始末。やはり月末までかかりそうだ。
アル中ハイマーは元来ハード屋なので、ハードボイルドに生きることをモットーにしている。しかし、昔から雑用係になることが多いため、多少コミカルな態度をとる。これもハードに生きる人間の隠蓑で、世を欺くための演技である。

ハードな世界も言語による設計が進み、随分ソフトになったものである。20年前、アル中ハイマーが社会人になった頃、まだまだアナログ全盛で増幅回路が分からないと馬鹿にされたものである。おいらはオペアンプなどのリニアICに逃げ込んでものだ。物理数学の苦手な人間には辛い分野である。その頃CPUが流行だした。プログラマブルデバイスも登場しベテランの技術者を混乱させていた。大した知識ではないのだが、論理式やアセンブラ言語に拒否反応を起こしている。こうした背景もあって、おいらはディジタルへ逃げたのである。しかし、いまや論理だけでは対応できない。線形数学の中に放り込まれている。アル中ハイマーは、いつまでも数学に追いまわさる運命にあるのか。

デバイスの話も苦手であるが、完全に避けていたわけではない。昔、Behzad Razavi著の「アナログCMOS集積回路の設計」を読んだ時は、それなりに理解したつもりである。ただ、いつもながらリフレッシュサイクルが追いついていかない。ある産学連携の企画で、アカデミック価格で開催されたアナログ回路の講義をこっそり受講したりもしていた。こうした企画は貧乏人にはありがたい。無駄な努力を面白半分にやっていたものである。本書は、そうした時代を懐かしく思い出させてくれる。そこには、半導体の基礎知識、ショットキーとPN接合、トランジスタ開発のドラマが語られる。高校数学でもなかなか難しいレベルもある。どうせアル中ハイマーの能力では厳密に理解することなどできない。しかし、その難しい部分でさえなんとなく理解した気分にさせてくれる。なかなか気持ち良く酔える味わい深い再入門書である。

本書は大半が科学の話であるが、トランジスタの発明については、そのいきさつにも触れている。ちょっとメモっておこう。
トランジスタは、PN接合を組み合わせることにより電気信号を増幅できる素子である。AT&Tベル研究所のウォルター・ブラッテン、ジョン・バーディーン、ウィリアム・ショックレーらのグループにより発明が報告される。
リーダーのショックレーは有能な研究者であったが人格的に問題があったという。自分自身の能力に自信をもっていて協調性を欠いていたらしい。優秀な人材には時々見かけるパターンである。
ショックレーが目指したものは、電界効果トランジスタのタイプ。半導体の両端に2つの電極を付け、中間にもう1つの電極を付けて、中間の電極に電圧をかけることにより両端に電流の経路を作るといったものである。当時は、この経路ではなかなか増幅作用が得られなかった。これをバーディーンとブラッテンが実験により克服する。半導体もシリコンからゲルマニウムを採用する。ゲルマニウムとプラスチックの三角形の頂点を押し付けられることから点接触型トランジスタと呼ばれる。1947年、真空を使わずに固体だけで増幅装置を実現したのである。
尚、バーディーンは、この実験にはショックレーの貢献はないと語っている。トランジスタの発明が公表されたのは1948年。ベル研究所はチームワークの勝利であると公表。記者会見ではショックレーが質問に答えたので発明の中心人物として映った。その後、特許論争でショックレーと二人の間に溝ができた。点接触型トランジスタは製造が難しく、量産しても不良の山を作る。力学的にも壊れやすいなどの欠点を持っていた。
ショックレーは、トランジスタの開発を主導してきた自負心の一方で、点接触型トランジスタの実験には関わっていない後ろめたさがあったのかもしれない。休暇を返上し、わずか1ヶ月後に接合型(バイポーラ)トランジスタを発明した。バーディーンとブラッテンは、特許からみても増幅作用がなぜ起こるかの明確なイメージを持っていなかったという。一方、ショックレーは、P型からN型、そしてP型へと戻る電流の経路から増幅作用が得られるという本質を見抜いていた。
1955年ショックレー半導体研究所が設立される。これが後年のシリコン・バレーの起源となる。順調にスタートしたかに見えたショックレー半導体研究所も、間もなく部下との対立が始まる。その中の、ゴードン・ムーアとロバート・ノイスはインテル社を設立する。ノイスは集積回路の発明者としても有名である。ムーアはムーアの法則を提唱した人である。ムーアは、ショックレーは半導体の中の電子の動きを直感的に把握する優れた能力を持っていたが、人を動かすのは下手だった。と評している。
ショックレー研究所は、やがて経営に行き詰まるが、シリコン・バレーという米国半導体の中核を生み出した貢献は大きいと語られる。

2007-10-28

"世界史の流れ" Leopold von Ranke 著

ある歴史小説を読んでいるとランケに触れられていた。なんとなく昔の記憶が蘇る。ランケの「世界史」が未完に終わったという話を知ったのは学生時代である。当時、ランケの全集に挑戦しようと大学の図書館をあさったものだが、思うように見つけられなかった。その頃を思い出してアマゾンを放浪する。岩波文庫の「世界史概観」あたりが中古で出ている。んー!いまいち酔えない。実は他にも探している歴史古典がある。アル中ハイマーが読みたい本はロングテールの法則にも従わないようだ。とりあえず本書でも読んでみよう。

時代は、フランス革命、ナポレオンを経て、君主制から共和制、そして人民主権へと流れる。1854年バイエルンの国王マクシミリアン2世は、ランケに世界史の連続講義を依頼する。国王にとっては、ヨーロッパで革命の気運が高まる中、君主制の危機に迫られてのことだろう。本書はその19回におよぶ講義録で、古代ローマからその時代までのヨーロッパ史を展望する歴史叙述である。キリスト教やイスラム教が生まれてヨーロッパで宗派が確立した時代でもある。本書を概観すると、ヨーロッパの歴史は宗教に基づいた歴史でもあることがうかがえる。著者は、ヨーロッパ諸国はキリスト教諸民族を一体化した一つの国家として考えられるべきであると主張している。なんとなくEU統合を予感させるような発言である。

著者は、世界史を講義するにあたって、どこまでさかのぼるべきか?という考えを大切に扱っている。要するに歴史から何を学び、現在をどう生きるかをテーマとしなければ意味がない。まず、時代の価値を考察する上での哲学から述べられる。歴史の講義はこうでなくてはいけない。そして、当時、影響が強かった古代ローマ帝国までさかのぼることへの意義が語られる。古代史はローマへ流れ込み、近代史はローマから流れ出ると評している。全ての道はローマへ通ずるというわけか。
学校教育にも歴史科目があるが、決まって石器時代やら猿人までさかのぼる。歴史から何を学ばせるかという課題は、教える側の腕の見せどころでもあろう。にも関わらず、受験に追われ必ず現代はおろそかにされる。全てを概観すれば中身が薄れるのは当然である。歴史は次から次に生まれてくる。現代人はますます苦悩が増える。ついには歴史をつまらないものにする。

講義は、精神の進歩における哲学から始まる。精神の進歩は個人では限界がある。人の寿命は短い。より高い精神を求めるならば、人類として受け継がなけらばならない。ただ、悲観的な話もある。著者は、人間の精神は常に進歩するわけではなく、精神の向上は歴史では説明がつかないと主張する。繁栄を極めた後に野蛮に立ち戻った例も多い。歴史は個々の時代で、その固有の価値を認めるべきだと語られる。
哲学では、プラトンやアリストテレスを凌駕した例を知らない。政治学では、基本原理は古代人によって示されている。歴史も同じで、トゥキュディデスより偉大な歴史家はいないと述べている。しかし、古代人よりも豊かな経験から、いろいろな試みができるのは確かである。歴史からは「進歩」という概念は否定されるべきであるという主張には、説得力がある。
では、歴史の復習を兼ねて泡立ちのよさそうなところを章立てて見よう。なぜかって?そこに泡立ちのいいビールがあるから!

1. ローマ帝国の評価
ローマ帝国はアレクサンドロス大王やその後継者たちによって建設されたギリシャ的、マケドニア的、東方的帝国である。その中でも東方主義の最も重要な諸要素をとり入れた帝国であると評している。東方とは、宗教上の対立が見られるユダヤ人とエジプト人、あるいはアッシリアやバビロニアと接している諸国である。東方では宗教上は対立していたが、政治的には一致してギリシャを敵と見なしていた。ペルシャは巨大な王国として君臨し、その支配を免れたのは遠方のカルタゴ人ぐらいなものである。ローマ人はユダヤ人と対立したが、ユダヤ人の中から世界宗教の理念が出現する。ユダヤ人は神を唯一性という理念を保持したが、それよりもむしろ一つの国民的な神とみなしたキリスト教が現れた。キリスト教はローマ帝国を席巻する。キリスト教を世界的言語で広め、世界宗教の地位に押し上げたローマの功績は大きい。しかし、本書は、世界的にローマの政治、法律などが広まったのは、二つの民族の侵入によるところが大きく、むしろ征服された後に開花していると述べている。民族の侵入とはゲルマン民族の移動と、アラビア人の侵入である。

2. 民族進入によるローマ文化の広がり
ゲルマン人については、世襲的忠誠の原理を評価している。主従関係こそローマに見られない強固な団結力であるからである。ゲルマン民族の移動は、最初のはずみはゴート族から生じる。黒海沿岸でフン族と紛争を起こす。フン族は東ゴート王を倒し、西ゴートを圧迫する。西ゴートはローマ帝国に避難所を求め、ローマはこれを拒まなかった。西ゴートは、ローマ属州が提供した食糧と引き換えに小児や家畜を取り上げられて紛争を起こす。そして、ローマ皇帝ヴァレンスは殺され、ゴート族が勝利する。この大混乱の間に、ゲルマン諸族はそれぞれなんらかの運動を開始する。ゲルマン民族の侵入によりローマ帝国は破壊されたが、属州民はなんらかの形で平和裡に征服者と結びつき新しい諸国民が生まれた。ゲルマン民族の侵入は、東方から完全に分離し近世ヨーロッパの原形を成す。
アラビア人の侵入については、イスラム教徒の影響を物語る。6世紀に、ユダヤ教やキリスト教、その他の宗教にも親しもうとしない一派が生まれた。マホメット率いるイスラム教である。彼らは、東ローマとペルシャの両方と戦いを続ける。東方では、イスラム教に屈従するのが原則で、イスラム信仰を公言しない者は国政にも軍事にも参与できない。西方では教会と国家が国民化されるが、東方では国家も教会も人民の低層にまで及ばない。東方の発展に対して西方が優勢になったのは、この点が大きいと考察している。東方も栄華をみせたが西方の発展は実質的である。キリスト教の活動は比較的低階層の人々においている。これが近世ヨーロッパと、トルコを含む中東の二つの基本社会の枠組みである。

3. 皇帝と教皇の争い
カノッサの屈辱は、神聖ローマ皇帝、と言っても強固なドイツから選ばれているので、ドイツ皇帝とローマ教皇の意地の張り合いである。結局皇帝側が頭を下げるのだが、イギリスにおいても、教会と皇帝の間で似たような覇権争いが起こり、教会側が勝利している。ヨーロッパ各国で教会側の覇権が強い時代となる。11世紀になると西欧キリスト教の指導者は皇帝ではなく教皇であった。かつてイスラム教が侵略勢力として登場し、ローマ帝国の領土を席巻したことを思い浮かべて、侵略された地域を奪還しようという考えが生じる。これが十字軍である。十字軍の意義は、西欧の諸帝国の東方に対する偉大な共同事業であると考察している。エルサレムを征服し一連のキリスト教公国が建設されると、教皇の権力を著しく増大させた。しかし、二次、三次と十字軍は全アジアに一致して抵抗されたため、パレスティナは再び失われる。十字軍の失敗は、むしろ教皇たちにとって好ましい結果だったのかもしれない。というのも、引き続きヨーロッパを動かす理由を持ちつづけることができるからである。15世紀から17世紀にかけて、大航海時代に入るが、いずれも宗教的に制覇しようとしたもので、いずれイスラム教の地を挟み撃ちにでもしようと企んだものである。ゲルマン風西方宗教と、アラビア風東方宗教の争いの歴史である。その中で皇帝と教皇の覇権争いは、西方キリスト教の内部紛争である。ヨーロッパの歴史は、政治や宗教の歴史であり、歴史的にみても政教分離とは程遠いもの思える。

4. ルターの本質
現代においても、カトリック派とプロテスタント派は、国連決議などで意見が対立するのをよく見かける。プロテスタントの源流を作ったのはルターであるが、その本質を語ってくれる。カトリックの教権の基礎をなす教説、すなわち教皇の決定や宗教会議の決議には直接神の考えが現れるという教説に反対していただけで、教権は聖書に基づくべきであると主張したにすぎない。ルターは聖書を重んじただけであり、なにも伝統に反対したわけではない。もちろん新しい宗教を興そうとしたわけでもない。教皇組織の横暴な振る舞いに対して聖書に立ち返り、改革しようとしたものである。また、聖書を現実化しようとしたのでもなく、聖書に反するものを除こうとしただけである。最初から一つの教会を樹立しようとしたものではないと語られる。
カトリック教会は横暴さは科学にも向けられる。科学者も一つの異端教徒とでも考えたのだろう。天動説を否定したガリレオは処刑された。

5. 列強の登場
17、18世紀になると宗教の争いから哲学や自然科学へと進展する。精神は神学から離れる傾向をとる。自由で制約を受けない立場で物事の本質を研究する時代がくる。スペイン無敵艦隊は、カトリックの発展と振興を主目的としていた。その意図が失敗に終わって次第に崩壊する。その頃オランダが通商貿易によって台頭する。通商や産業はスペイン人にとって性に合わない。この頃スペインを屈服させたフランスが列強となる。フランスは、かつてヨーロッパにない君主制を発展させる。ルイ13世が君主制の確立者である。ルイ14世は、全ヨーロッパにわたって侵略をほしいままにした。彼はフランスの堅固な国境を作ろうとし、優れた実務家でもあり、その功績は大きい。自制というのは何人も抵抗することのできないような絶対的独裁権力にとっては危険な存在である。ルイ14世はこの自制を問題にもせず自らの利害の欲するままに行動した。著者は、以下のように評している。
「もしルイ14世にして、度を過ごすことがなかったならば、あらゆる時代の最大の偉人の一人として仰がれたであろう。」
この頃は、5つの列強が肩を並べた時代でもある。カトリック的君主制の原理に立つフランス。ゲルマン的、海上的な、また議会制の原理に立つイギリス。スラブ、ビザンツ的原理に立ち、物質的な面で西欧文化を摂取しようとしたロシア。カトリック的、君主的、ドイツ的原理に立つオーストリア。ドイツ的、プロテスタント的、軍事的、官僚的原理に立つプロイセン。

6. 改革の時代から立憲政治へ
君主制から共和制に移り変わるころ、権力は下から生じるべきものという意識が高まる。世襲的権利から大衆から生まれる権利への転換期であり、アメリカ独立戦争やフランス革命として育てられる。フランス革命時に、反対派はことごとく処刑される。意見の合わないものも処刑する。まさしく恐怖政治である。人民主権は一見耳に優しい響きであるが、実体は少数派を弾劾するなど、人間の本質である残虐な集団心理が働いた結果である。そして、一度大幅に振れた振り子は元に戻ろうとする。ナポレオンの登場で君主制の復活を見る。彼は王政復古など考えもせず自ら皇帝となる。ナポレオンの失脚後、ヨーロッパで君主制と民主制の対立しない国はなくなった。君主制と民主制、上からの世襲的傾向と下からの自治的傾向、これら二つの原理を結びつける努力が始まる。こうして生まれたのが立憲政治である。この頃、ブルボン家が立てた旧憲法では秩序を維持することはできなかった。

ランケは、人民主権のみを主流的傾向として捉えるべきではないと主張する。君主制と人民主権の二つの原理の緊張感にこそ、これからの政治の傾向があると見なしている。君主は人民権を育て、人民の主張が君主の意識を高める。そこには、政治と宗教の関わりもある。民主主義の発達のみが、人間の精神を高めるものではない。時代が後になれば道徳的に程度の高い人間が増えるということは必ずしも認められない。現世代が前世紀よりも知性の高い人の数が多いとは思わないと語る。
最後にランケの言葉をメモっておこう。
「人は、歴史に過去を裁き、未来の益になるよう同時代人を教え導くという任務を負わせた。しかし、本書の試みはそのような高尚な任務を引き受けるものではなく、ただ、事実は本来どうであったかを示そうとしたに過ぎない。」
感情論に支配された歴史には、どんな重大事項であれ色あせてしまう。水のような原酒にこそ味わい深いものがある。ただ、アル中ハイマーはこれに「熟成」という概念を加えたい。

2007-10-21

"ゲルマーニア" タキトゥス 著

歴史の叙述というのは、アル中ハイマーが昔から好む分野である。岩波文庫の古代叙述はなるべく読みたいと思っているが、絶版などで入手の難しいものもある。中古品ではべら棒な値がついているものもある。酒と同じで熟成されると価値は上がるようだ。本書は、ゲルマン民族の大移動が現在のヨーロッパの原形を成したという意味で、昔から注目していた。ただ、古文風で読みづらい印象があるのでいまいち踏み込めないでいる。それも読書の秋にまかせて読んでみることにする。ところが、印象とは随分違って簡潔な表現で読みやすい。むしろ、本文よりも注釈の方がやや複雑で読み辛い。覚悟して挑んだが拍子抜けである。

タキトゥスは古代ローマの歴史家である。
本書には、ローマ側から観察した北方地方ゲルマーニアの報告書風の感がある。ゲルマン民族の野蛮性を暴くと同時に強力な敵として一目置いており、いずれローマの災いとなることを予感しているかのようである。素朴なゲルマーニアと対比して腐敗したローマを嘆いているようでもある。ローマの軍隊は厳しい軍律に基づくが、ゲルマーニアの軍隊は人格的世襲的な忠誠の原理を基盤としている。主従関係こそローマには見られない強固な団結力であると評している。帝政ローマが、繰り返しライン川を東へ渡り、ゲルマーニア侵攻を試みたのも、この地の平定が必要に迫られたいた様がうかがえる。
そして歴史は、ローマ帝国を滅ぼすことになるゲルマン民族の大移動を見ることになる。

ゲルマーニアというと単にドイツ系種族をイメージしてしまう。しかし、本書ではその限りではない。ここで叙述しているゲルマーニアの領域は厳密に規定されていない。その定義は、ゲルマン語を使用し、ゲルマン風の習俗を持ち、しかも自立的でローマの主権に従っていない民族である。その住地は、今のフランス地域に住んでいたケルト族から小アジアまでも含まれ、その解釈は幅広い。もともと移動性に富む彼らの住地を規定することはできないようだ。あまりに多い諸族の存在に地図を眺めるだけでもアル中ハイマーはベロンベロンに酔ってしまう。

1. 容姿
アル中ハイマーには、ゲルマン民族は勤勉で誇り高く容姿も整っているという印象がある。本書は、異民族との通婚による汚染を蒙らず、身体の外形が同じ純粋な種族と述べている。鋭い空色の眼、ブロンドの頭髪、堂々とした体格で、労働には忍耐がなく、渇きと暑熱には少しも堪えることができないという。勤勉なイメージとは異なるようだ。ただ、寒気と飢餓には、その気候と風土のためによく訓化されているという。ローマ人からみて容姿に憧れている様もうかがえる。

2. 経済
金銀に対してそれほど執着をもっていない。牛の数が唯一にして最も貴重とする財産であると分析している。それでも、ローマ帝国の近くに住んでいる人々は金銀の価値をわきまえているなど交易もあったことがうかがえる。

3. 統帥
王を立てるには門地をもってし、将領を選ぶには勇気をもってすると述べられる。王には無限の権力はなく、将領も権威よりは自ら模範となる人物でこそ人を率いることができるという。規律のある集団であることがうかがえる。そして高度な政治理念を有すると評している。勇気を重んじ、戦死を恐れるのは恥辱であり、戦列を退いて生を全うすることを恥辱と考える。よって、永い平和で英気を喪失している場合、進んで戦争を行うために部族を求めて出かける。アングロサクソン系もゲルマン人がグレートブリテン島に渡ったのが源流のようだ。このあたりはローマにとっての脅威を物語っている。強壮にして好戦的であるが、平和時には、生活を女性や老人に任せ自ら怠惰を求め無為に過ごすという。この性質を不思議な矛盾であるとも評している。

4. 住居
都市を作らない。住居が互いに密接することを好まない。泉、野、林がその心に適うままに、散り散りに分かれて住居を営むとある。ドイツの地名で泉 -born、川 -bach、野 -feld、林、森 -waldを末尾に持つものが多く残っているのは、この特徴からもうかがえると注釈されている。建造技術が発達していない点も指摘している。家屋のまわりに空地をめぐらすのは、敵襲による兵火の災害を小さくするためでもある。常に他部族の襲来を前提としており、密集型のローマとは反対の光景が語られる。

5. 女性の地位
女性の地位は意外と高い。また、貞操感は強く夫を一人と決めて未亡人でさえ再婚は珍しいという。人口の巨大さにも関わらず姦通は極めて少ない。その処罰もたちどころに執行され夫に一任される。一旦貞操を破ると、鞭を打って村中追いまわそうが、髪を切って裸にしようが、無惨な行為がなされる。
奴隷への扱いも、鞭打ったり、鎖でつながれるなどはごく稀であると語る。奴隷については、様々な能力から評価をランクされるなど合理的な様子もうかがえる。

アル中ハイマーが、こうした歴史叙述を好むのは、現在の情景に照らし合わせながら読めるところである。これは、人間の道徳観や価値観が古代から進歩していないからであると考えていた時期もあった。しかし、古代の残虐さや傲慢さがそのまま現在の価値観と比較できるはずもない。いくら女性の地位が高いとか自由な精神とか語られたとしても奴隷制の時代である。
しかし、文章だけ読むと現在においても違和感がないのはなぜだろう?
そもそも人間扱いされていない種族や奴隷は残虐に扱われるのが当たり前で記述すらされないだろう。人間は相手をどの位置付けにするかで態度も豹変する。相手を人間ではないと認めれば残虐な態度も平気でとることは歴史が示している。民族間紛争や宗教紛争も、自分の種族、自分の宗派が優れているという認識が根底にある。自分よりも見下したいとか、自分を持ち上げたいという意識は人間の本質なのだろうか?向上心や努力というものは、人を見下すための行為なのか?自分を人の風上に置きたいと思う意識とはなんだろう?
身分の上下関係にしても、時代によって相対的には大して変わっていないかもしれない。おいらが言う身分の上下関係とは、税を徴収する側とされる側である。そうとでも考えないと、現在においても、不平等な予算、不適切な資金流用、不透明な会計システムがまかり通ることへの説明がつかない。
人間の過剰なエリート意識とは、見下せる人間の存在を意識することなのだろうか?どんな立派な理念が語られた時代であっても、記述すらされない非道徳なタブーな世界が存在する。30世紀あたりには、人間の価値観は20世紀前後まで進歩しない時代であり、社会堕落と道徳観もない野蛮な時代として語られているかもしれない。
おっと!小さな哲学という酒には、自問自答上戸というわけのわからん酒癖を宿らせる呪術力がある。

2007-10-14

"文章読本" 三島由紀夫 著

アル中ハイマーには文学センスが全くない。それも幼少の頃から諦めている。特に日本文学は、句読点すらつけない!妙なカタカタ表現!と難しいテクニックを披露してくれる。意地悪されているような気分にすらなる。海外ものばかり読むと翻訳語に毒されていく。もはや、なにが日本語かもわからない。アル中ハイマーとはそうした病である。それでも、読書の秋だ!たまには日本文学を嗜むぐらいのことをしてもいい。と思っていると、ある系譜を思い出す。

日本文学に「文章読本」という書物の系譜があることを知ったのは何年前だろう?偶然にも、中条省平氏の「文章読本」を読んで思い出した。
「文章読本」とは、著名な作家が自ら名文と評した文章を集めて解説をほどこしたものである。戦前の谷崎潤一郎に始まり、菊池寛、川端康成、伊藤整、三島由紀夫、中村真一郎、丸谷才一、井上ひさし、向井敏と名を連ねる。中条氏は、近代日本に口語体を提供できたのは、明治維新以後の小説家の貢献であると述べている。現代の口語文が、日本古来の文章体と輸入された西欧語の文脈とが互いに融合した結果であることは容易に想像がつく。日本語の伝統が蝕まれる時代に、文章とはいかにあるべきかという問題意識を持ちつづけた作家たちの苦悩がうかがえそうである。とは言っても、さすがにこの系譜を全部追っていく元気はない。気が向いた時にでも一つ一つ読んでいければそれでいい。谷崎潤一郎氏に始まるものは「いかに書くか」を説いているらしい。そこにはプロの真髄が凝縮していると想像している。対して、三島由紀夫氏は「いかに読むか」という視点に立っているらしい。素人に、なまじな文学の書き方など伝授するにはおよばないと考えたのだろう。アル中ハイマーが小説を書くことなどありえない。読者の立場から三島氏を読んでみることにしよう。

本書は、日本語文章史の概観を巡ってくれる。
日本文学の特質は女性的文学と言っていいようだ。平仮名で綴られた平安朝の文学は、ほとんどが女流であることからもうかがえる。平安朝時代には、漢字が男文字で、平仮名が女文字と言われていたようだ。
通念では、女性は感情と情念が豊かで、男性は論理と理知を重んじる傾向があると言われる。日本の歴史からして、論理と理知は外来思想に頼ることが多く、純粋な伝統文学という観点からは女性の文化であるという。日本人が論理的思考に弱いと言われるのは、こうした背景があるからかもしれない。政治や外交戦術で意義主張を叫ぶわりには決定的な論理の裏付けがない。数字を出せば証明できると勘違いしている人もいる。数字の信憑性は論理で武装しなければ説明できない。感情論に持ち込みやすい分、世論扇動しやすい国民性なのかもしれない。逆に、季節の移り変わりを情緒的に楽しんだり、五七調の韻律を楽しむ特質があると言える。言語の持つ特性はその民族の特性を表現する。
日本人は外国文学や外国文化の概念が一つ一つそのまま日本語に移管できるという幻想を抱いているという。日本ほど翻訳の盛んな国はないだろう。これも感性に自信がある表れかもしれない。いまや翻訳文の乱立で、どこまでが本来の日本語の文章かを区別することは難しい。アル中ハイマーは翻訳本を読むことが多い。日本文学が読み辛いと思うのは、既に翻訳調に毒されていると言える。ある小説はおもしろいという感想は持てても、この文章はすばらしいという感想を持つことはあまりない。文章を味わう習慣が無いということが認識できたことはありがたいが、ちょっと寂しい。

文章表現で難しいのはリアリティの追求ではないだろうか。
その技術として修飾語の使い方や、比喩などがあると思っている。これが技術論文や専門文献ならば、厳密性が要求されるので意識することはない。本書は、良い文章とはどんなものかを、森鴎外の知的文体と、泉鏡花の感覚的文体を対比して語る。
「明瞭な文体、論理的な文体、物事を指し示す修飾のない文体、ちょうど水のように見える文体にひそんでいる詩には、実は全体的な知覚がひそむ。」
現代風の修飾をベタベタと貼った文体は悪い文章であると言っている。では、その対極にある比喩や隠喩は否定されるべきものなのか?これも伝統的手法に思えるし、韻律の効果、文字の凸凹による視覚効果もまた文学的テクニックに思える。本書は、そうした文体を批判しているわけではない。
「物事を直接指し示すよりも、物事の漂わす情緒や、事物のまわりに漂う雰囲気を取り出して見えるのに秀でている。流れを持続し、その流れに読者を巻き込む性質がある。」
こうした技術は文学的伝統を感じるとも言っている。くどくど過ぎる文体も悪いのだが、うまく芸術の域に達するバランスもある。それぞれの立場は、文学者によって意見が分かれるところだろう。形容詞は最も古びやすいものと言われている。森鴎外の文章が古びないのは形容詞を節約している効果であろう。しかし、形容詞は文学の華でもあり、比喩的表現と親しい関係にある。こうした手法は文学的価値を高める効果もあるので一概には否定できないだろう。

ここで、文学を嗜むのも酒を嗜むのも似ていることに気づかされる。
限りなく水に近い純粋な原酒もあれば、分量が絶妙で混じりあったカクテルもある。文章に酔うにしても、いろいろな酔い方がある。熟成した香り、カストリの癖、スイートからドライまで、低級な悪酔いもあれば、高級過ぎて酔っているかもわからないものなど。また、人にはいろいろな酔い方がある。気持ち悪くなる者、笑い上戸、泣き上戸、説教も始まる。ちなみにアル中ハイマーは謝り上戸である。初対面の人にさえも。よほどの悪戯を働いているのだろう。酔っ払いの潜在意識を覗くことなどできない。
本書は、評論も立派な文学作品であると語る。気軽にブログを書いているアル中ハイマーには頭が痛い。古い格言に「文は人なり」というのがあるが、これは真理だと語られる。文章が人となりを表す。酔っ払って誤魔化す文章も人となりというものである。

2007-10-07

"鴎外随筆集" 森鴎外 著

10月はいつもよりハッスルする月である。それもアル中ハイマーの誕生日という大イベントがあるからだ。それにしても不思議である。通常誕生日というものは祝ってもらうものではないのか?なぜか出費が多い月でもある。金の切れ目が縁の切れ目ということか?アル中ハイマーは悲しい男の性と奮闘する運命にある。
夜の社交場へ行く時は、いつも「鴎外通り」を通る。お気に入りの隠れ家がこの辺りに集中しているからだ。昨夜飲み歩いていてふと思う。森鴎外を記事にしないのは失礼な話ではないか。記事にする方が迷惑だと知りつつも無理やりこじつける。というのも読書の秋はやはり文学作品に浸りたい。せっかく秋らしくなってきたのだ。全く文学センスのないアル中ハイマーは、こうした動機でもないと文学作品など読もうはずもない。中でも明治の文豪となると旧文章体にイライラさせられるのでまず読むことがない。それでも「舞姫」は学生時代に読んでいる。明治の文豪に手を出すのはそれ以来だろう。20年以上?そう思うと力んで純米酒のピッチも上がる。

本書には、随筆18作品が収められている。
その中で1899年, 1900年に書かれたものが4つほどあるが、古い文章体で読むのが辛い。これぞ芸術の域というものなのだろう。他の作品は、1910年前後のもので現代風の口語体に近く普通に読める。これにはいささか驚かされる。口語調が急速に庶民化した時代ということだろう。そこには社会風刺や論評が綴られるが、現在にそのまま置き換えられる主張がなされることに感動してしまう。言わんとすることに余分な飾り付けをしない明瞭な文章であることが息の長いものにしているのだろう。鴎外流は写実主義と言う評価がなされているが、そう簡単には片付けられない。アプローチは語学的、哲学的、社会的、心理的などあらゆる方面から知的で、ひとことで言ってかっこええ!明治の文豪がこんなにおもしろく読めるとは思ってもみなかった。もしかしたら、アル中ハイマーの中に文学センスが育ちつつあるのかも?と錯覚してしまう。一冊読んだだけで、酔っ払いの勢い恐るべし!今宵の純米酒は一味違う。

1. 近代化する礼儀
近代化の中で礼儀に対する形式と意義の乖離を嘆いている。葬礼を例にあげて、神葬もあり、仏葬もあり、キリスト教の葬式もある。それはそれで自由信仰だから良いのだが、人それぞれの信仰ではなく事に応じて選択されている様を嘆いている。
「人生のあらゆる形式は、その初め生じた時に意義がある。礼をして荘重ならしむるものはその意義である。」
日本人のおもしろいのは、普段信仰心すらないのに葬式になると突然信仰心が現れる。重病に喘いでいる人に、インフォームド・コンセントなんて言っても、日本人には理解が難しい。命が最も重要!死んだらお終い!と強調されれば、自分の命が最も重要で他人の命は二の次、三の次となる。そのようなエゴから不治の病を告知すれば、される側とする側で互いに惨さを助長する。また、子供の教育にお寺さんが説教すれば、きっと良い話を語ってくれるだろう。こういう役割を医療機関や教育機関が担うだけでなく、お寺さんにも加わってもらえばきっと癒してくれるような言葉をかけてくれるはずだ。お寺さんが、なまもの(生きた人)は扱いません!では、もはや火葬仏教、葬式仏教である。
どんな世界でも、伝統を重んじると称して形式にこだわる風習を良く見かける。喪服一つにしても大正時代は旅立ちの衣装として白装束を着ていたではないか。伝統とは、受け継がれた道徳観や倫理観を表現するものであり、意味もわからず従う形式ではないと、アル中ハイマーが発言したところで酔っ払いの戯言でしかない。

2. 東洋と西洋の調和
ある学者が、日本人はアーリア人種であると論断したものがある。こんな軽率な事を言っていいのかと呆れているくだりはおもしろい。ちょうど東洋文化と西洋文化が衝突して渦巻いた時代がうかがえる。著者自身がドイツ留学の経験からか、作品にもドイツ色が見え隠れする。東洋と西洋それぞれの文化に長けた学者は多いが、二つを調和した学者が必要であると力説している。
「東洋学者に従えば保守になりすぎる。西洋学者に従えば急激になる。」
二次大戦前からドイツ一色に突き進んだ時代があった。今では親米色が濃い。一つの国一色に突き進む傾向は危険な香りがする。グローバル化とは一つ国に肩入れして突き進む政策ではないだろう。

3. 嘲を帯びた義憤
ある国民にはある言葉が欠けている。それはある感情が欠けているためであるという。その例は感動ものである。アル中ハイマーは「当流比較言語学」と題したこの随筆が一番のお気に入りだ。
ドイツ人は「Sittliche Entrustung」という言葉を使うらしい。訳すと道徳的(Sittliche)憤怒(Entrustung)となるのだが、嘲を帯びた意味で使うという。これを鴎外流では「義憤」という言葉にあてている。例えば、ある議員に不祥事沙汰があると、必ず「けしからん」と捲くしたてる連中がいる。この「けしからん」が「義憤」である。日本人はよく義憤で世間を賑わす。しかし、人の事言えるほど道徳心がおありか?言えないのに言っているとしたら嘲笑されるだけである。こうした意味の言葉をドイツ人は持っているが、日本人には欠けている。日本人はそんな感情は当り前に持っており、道徳上の裁判官になる資格を持っているのだろうと皮肉っている。当時は、新聞の社説や雑報に「けしからん」という文字が乱れ飛んだ光景を絶妙に表現している。
国民には欠けた感情の言葉が存在しないという話では、ある映画のシーンを思い出す。映画「誇り高き戦場」で、アメリカ人捕虜がドイツ人将校に向かって、ドイツ人は相手に苦痛を与えることによって性的快感を味わうと皮肉る。その将校は、サディズムの語源はフランスでありドイツ語にはないと反論する。日本語では加虐性愛とか訳すようだが、いまいち表現しきれていないような気がする。ちなみに、おいらはMである。

4. 芸術主義
鴎外自身、芸術に主義というものは本来ない。芸術そのものが一つの大なる主義であると述べている。その中に、思うがままに書いてきた様子がうかがえる。言うならば自然主義ということなのだろう。この時代には新しい風潮が流れ始めている様子も伝わる。個人主義への論説では、芸術そのものは個人的であって、個人主義が家族や社会を破壊するものではない。利己主義は倫理上排斥しなければならないが、個人主義という広い名の下に排斥するのは乱暴であると主張している。あらゆる概念を破壊して、自我ばかり残すものを個人主義と名づけるという社会風潮を批判している。
「学問の自由研究と芸術の自由発展とを妨げる国は栄えるはずがない。」
いつの時代でもこのような風潮はある。いろいろと枝分かれする思想を一つの言葉で一緒くたにする手法は、世論を扇動する側にとって処理が簡単である。

本書のような、自然体で説得力を感じる文章を読むとある映画のシーンを思い出す。映画「小説家を見つけたら」で文章の書き方を伝授する場面がある。
「とにかく書くんだ。考えるな!考えるのは後だ!ハートで書く。単調なタイプのリズムでページからページへと。自分の言葉が浮かび始めたらタイプする。」
という台詞を吐きながらショーンコネリーがタイプライタをリズミカルに叩く。アル中ハイマーはこの前後5分ぐらいのシーンが好きである。

2007-09-30

"C++ Coding Standards" Herb Sutter & Andrei Alexandrescu 著

じっくり読もうと思っていても肌が合わなくてパラパラっとめくって終わるものもあれば、その逆もある。本書はその逆のパターンである。それもいい感じで酔えるからである。
アル中ハイマーは、規則を固めるよりもメンバーの意識を共有できる方が効果が高いと思っている。特に、大組織に支配されるような宗教じみたコーディングルールに縛られることは嫌いである。それは、規則を守りたくても守る能力がないからである。アル中ハイマー病とはそうした病である。ただ、メンバーに共通意識を持たせるための手段としてガイドラインを提示するのは良いだろう。手段を目的と勘違いしていることはよくある。前書きにこう記されている。
「良質のコーディング標準は、単なるルール以上の良い習慣や原則を育てる。」
本書は、C++言語固有の作法に留まらず、組織運営、設計スタイルなど、チームの共通意識として持っておきたい事なども記されている。アル中ハイマーには昔からのC言語の癖がしみついているようだ。こうした古臭い作法にも気づかされる。かなり高度なものもあるが、酔っ払いでも参考にできる部分が多い。
また、当り前かもしれないが、前記事のスコット・メイヤーズ著「Effective C++ 第3版」と重複している項目も多い。では、せっかくのアドバイスを忘れないうちに、ざっとメモっておこう。

1. 時期尚早な最適化は行わない
どのコードが速くあるいは小さくなるか?どこがボトルネックになっているか?といった判断をプログラマはひどく苦手にしていると語る。CPUは複雑化しており、その上にコンパイラがいる。コンパイラもハードウェア性能を引き出すよう最善を尽くす。このような複雑な仕組みの頂上にプログラマがいる。よって最適化は測定と分析が必要である。また、CPUのみならず、メモリ、ネットワーク、周辺装置、データベースなど周辺環境も含めて総合的に判断しなければならない。部分的に最適化されても、全体としての効果がなければ意味がない。まずは、すっきりしたコードを書くことに専念すべきである。

2. 実行エラーよりも、コンパイルエラーとリンクエラーを歓迎する
コンパイラがチェックしてくれるようなコードを書くように薦めている。動的チェックも大切だが、静的チェックも利用しようということである。

3. 変数は全て初期化しよう
配列も、char path[MAX_PATH] = {'\0'}; 全ての文字を0で埋める。

4. 基本クラスとして設計していないクラスからは継承しない
子供ができることを好まないクラスもあるだろう。といっても、誰かに勝手に継承されることはある。完全に避妊する方法ってあるのだろうか?クラスの設計とは、型(子供)を設計しているようなものである。

5. 安全なオーバーライドを見に付けよう
オーバーライドは明示的にvirtualを指定して再宣言する。基本クラスにあるオーバーロードが隠蔽される場合もある。派生クラスにusing宣言すれば隠蔽されたものが使える。

6. 静的ポリモフィズムと動的ポリモフィズムを賢く組み合わせよう
動的ポリモフィズム?コンパイラが判断するのだから静的ではないのかい?
動的ポリモフィズムは、仮想関数を持つオブジェクトをポインタや参照により間接的に操作する形で生じる。アル中ハイマーは、どんな型がこようとも、発酵型だろうが蒸留型だろうが受け付ける。特に熟成型に弱い。

7. STLコンテナは決まった目的がなければ、まずvectorを使おう
更に、シーケンスに要素を追加する時は、どこでもいいならpush_backを使おう。いきなり唐突な表現である。このぐらいの言い分の方が、ド素人のアル中ハイマーにはありがたい。おいらが使うのも、vectorかstringぐらいなものである。

これで、今月の目標だった、積みあがった専門書20冊ほどの処理が終わった。すっきりした気分で温泉旅行に行けるというものである。真面目に読んだのは数冊だったような気がするのは、酔っ払いの錯覚である。呪文を唱えてスピリタスを一気に飲み干せば96%の仮想空間は現実となる。

2007-09-23

"Effective C++ 第3版" Scott Meyers 著

目の前に積みあがった専門書の中で一冊の本に目が留まった。パラパラっとめくってみると、落ち着いた色合いでなんとなくピート香がする。これはシングルモルト気分で飲めそうだ。
本書は、C++でプログラミングするためのガイドラインを提示してくれる。そこには、一般的なデザインやC++の使い方などが記されている。例えば、テンプレートと継承、public継承とprivate継承、メンバ関数と非メンバ関数、値渡しと参照渡しなど、それぞれどちらを選択するかについてのヒントを与えてくれる。また、奇抜なテクニックなどなく、むしろ基本から抑えられている点は感銘を受ける。哲学風な要素も含まれ、最近のプログラム思想も味あわせてくれる。但し、あくまでも効率的に使うためのアドバイスであり、よく吟味して使わないと味が薄れるであろう。アル中ハイマーには、いい感じに酔える本である。

C++を概観すると、複数言語の連合であると語られる。大まかな領域は4つである。1つはC言語の領域。2つはオブジェクト指向としての領域。3つはテンプレート。4つはSTL。
アル中ハイマーが関わっているのは、2つ目までの領域である。テンプレートは悪酔いのもとであり、STLはコンテナを使うぐらいなものである。
では、せっかくのアドバイスを忘れないうちに、ざっとメモっておこう。

1. プリプロセッサよりもコンパイラを使おう
#defineよりも、const、enum、inlineを薦めている。
#defineで定義したリテラルは、コンパイラが持つシンボル表には登録されないので、コンパイルエラーで混乱することもある。シンボリックデバッガでも同じことになる。
これは、高林哲氏著の「BINARY HACKS」でも、最近のプログラム手法として、#defineはなるべく使わないようにすると記されている。そこでは理由は記されてなかったが、本書では明確に記されている。

2. なるべくconstを使おう
constは、特定のオブジェクトについて「こうしてはいけない」という制約を明確にできる。メンバ関数へのconstには、物理的な不変性と論理的な不変性の意味がある。物理的な不変性は、オブジェクト内部が1ビットも変更しない場合にconstを付けるべきであると主張している。この長所はコンパイラが知らせてくれるのでルール違反もわかる。

3. オブジェクトを使う前の初期化
コンストラクタで初期値を代入しても、オブジェクト生成時に初期化されるわけではないのでオーバーラップした動作を定義していることになる。したがって、メンバ関数の初期化リストを使うと無駄な動作が省ける。

4. コンストラクタ、デストラクタ、コピー代入演算子
コンストラクタ、デストラクタ、コピー代入演算子は、宣言しなくてもコンパイラが自動生成する。もし、コンパイラが自動生成することを禁止するには、対応するメンバ関数をprivate宣言すれば良い。例えば、コピー代入演算子をprivateで宣言しておけば、このオブジェクトはコピーできない。

5. リソース管理
メモリ確保には必ず解放が必要である。よって、new/deleteは一式で使うことになるが、途中で例外処理が発生したりして解放を忘れることもある。この場合、スマートポインタなどのオブジェクトを使うと良い。そして、リソース管理クラスには、リソースへのアクセスする方法を提供しておく。つまり、メモリ解放時は、デストラクタで自動的に破棄させるように仕向ける。

6. 関数と変数の受け渡し
値渡しより、const参照渡しの方が効率的である。
関数にオブジェクトを渡したり、関数からオブジェクトを受け取る場合、関数の仮引数は、実引数のコピーとして初期化され、戻り値はコピーを受け取る。これはC言語から受け継いだもので、おいらの嫌いな性質である。これらのコピーはコピーコンストラクタによって生成されるので、参照渡しの方が効率が良い。但し、組込み型とSTLの反復子、関数オブジェクトには適用されない。これらは通常値渡しが適当である。

7. カプセル化の思想
データをなるべく遠ざけることにより、変更の柔軟性と機能拡張性を増すことがカプセル化の思想である。よって、データの近くにメンバ関数を置くよりも、メンバでもfriendでもない関数を使うと良いという。こうすれば、変更は限られたクライアント以外に影響を与えない。
個人的には、データを扱うメンバ関数は、データの近くに置くのが整理しやすいと考えていたが、カプセル化の主旨からは外れていると指摘されてしまった。この助言も分からなくはないが、その按配も状況に応じて考えたい。

8. 継承とオブジェクト指向
オブジェクト指向で最も重要なルールは、「public継承はis-a 関係を意味する」であると語る。基底クラスに適応できるものは、全て派生クラスにも適用できるようにしなければならない。コンポジションは、has-a関係と実装関係になる。非仮想のメンバ関数を派生クラスで再定義しない。継承された関数のデフォルト引数値を再定義しない。
おいらは、コンポジションを多く使う。というより自然とそうなってしまう。それと、public継承ぐらいしか使わない。酔っ払いには、この2つで充分である。

9. テンプレートのジェネリックプログラム
操作しているオブジェクトに依存しないジェネリックプログラムが脚光を浴びているようだ。例えば、STLのfindやmergeなどがそれである。テンプレートは進化している。もともとは、コンテナのためだったのだろうが、多様な使われ方をしている。ジェネリックプログラムやコンパイル時にコンパイラ内で実行できるメタプログラミングの手法など。もはやコンテナはテンプレートの一部に過ぎない。ますます悪酔いしそうな世界へと広がる。アル中ハイマーはどう転んでもテンプレートプログラマになることはなさそうだ。

2007-09-16

"C++標準ライブラリの使い方 完全ガイド" 柏原正三 著

買ったはいいが、まだ処理してない専門書がいくつかのグループに分かれて積みあがっている。中でも一番隅っこにあるグループは、なんとなく異様な香りを漂わせている。その中で一番近寄り堅い分厚くて真っ黒なところから処理するとしよう。アル中ハイマーには、美味いところを後に残す癖があるのだ。

いきなりサンプルコードのless()は、std::lessとぶつかるなあ。名前空間で逃げとこう。名前空間は嫌いな機能ではない。ただ、無名の空間で、データをグローバル化するのは肌に合わない。スコープは明確に、しかも狭められた方が好きである。のぞき穴から局所的に覗くからハッスルできるのだ。

もともとはコンテナの情報が欲しくて購入した本である。大量データを扱うにはコンテナは便利である。一見良さそうな本だと思ったんだけどなあ。リファレンスとしてもいまいちかなあ?妙に詳しく書かれた部分もある。読んでみると、なんとなく波長が合わない。だんだん読むペースが速くなる。というよりめくるスピードが上がってくる。アルゴリズムにおもしろそうなものがある。収穫はこのあたりかあ。それにしてもSTLは随分と多様化したものだ。
どうせ読むならBjarne Stroustrup著「プログラミング言語C++(第3版)」を読み返すべきだった。まあ、そう悲観しなくても辞書として使えばいいのだ。ネット検索でもええような気がするのはきっと悪酔いしたせいである。
著者の経歴に経済学部卒とある。へー!おもしろそうな人生を送ってそうだ。アマゾンでは、高い評価をしている人が多い。優秀な方々が読む本のようだ。無能なアル中ハイマーが読む本ではないのかもしれない。皆さんのお邪魔虫にならないように心がけなければならない。
これでSTL嫌いが更に進行しないことを祈りたい。
ああテンプレート!悪酔いさせるテープレート!これ以上おいらに呪文をかけないでおくれ!

この積みあがっていた専門書のグループは直感的に避けていた領域かもしれない。人間の直感は案外正しい!というのをどっかの本で読んだ覚えがある。
ということで、このグループは読んだことにしよう。いや、読んだのだ。
呪文を唱えてスピリタスを一気に飲むと、96%の仮想空間は現実となる。

2007-09-09

"The Art of UNIX Programming" Eric S.Raymond 著

立ち読みしていると、おもしろい酒肴(趣向)を見つけた。
「Unixは口承文学だ!」アル中ハイマーはこの宣伝文句にいちころである。本書は専門書風哲学書である。おいらはUnixオンチであるが、勉強意欲がわく。哲学書はこうでなくてはいけない。ただ、美しい思想ばかりではない。醜い部分もさらけ出してくれる。哲学書はこうでなくてはいけない。

文化を語るには、その歴史を振り返るのが一番である。
Unixは幾度となく危機に直面する。BSDとSystemVの内部紛争に始まり、かつてMac文化にユーザ思想を持ち込まれ、今や豊富な物量を武器にMS文化に圧倒される。パソコン市場を支配するMS信望者からは、カルト集団という差別扱いを受けている。しかし、現在ではLinuxを始めとするオープンソースの逆襲は見逃せない。Linux自体はUnixの系譜とは違って最初から書き直されたOSだが、本書では、Unix標準と同じ動作をするという意味で同列に扱っている。
本書は、Unixの生命力の長さは初期段階で開発者達が下した設計上の判断が正しかったことを意味すると語る。また一方で、古いUnixコミュニティが失敗してきた罪も見逃さない。IBMやAT&Tと同じくらい将来見通しを欠いていたこと。旧来の企業組織、金融資本、市場論理の命令機構を全て受け入れたために、プロフェッショナルの自覚を失ったこと。などが語られる。

Unix思想を表す有名な言葉は、
「K.I.S.S.」Keep It Simple, Stupid!
Unixというよりはソフトウェアエンジニアの心得が語られている。
どんなOSにも文化的偏向が見られるだろうが、ここで簡単に特徴を挙げてみよう。
・APIの基本思想で最も重要なのは「すべてはファイル」という考え方。
・マルチタスク機能をサポート。
・プロセス間通信が簡単でパイプやフィルタを可能にする。
また、Unixは、第三者ユーザの入りこむ余地を防いでいる。
・MMUによるアドレス空間の侵入を防ぐ。
・マルチユーザをサポートするための特権グループが存在する。
・重大な影響を及ぼす特権的プログラムを限定している。
ここで、Word, Excel, PowerPointなどのプログラムは互いの内部構造にベタベタの知識を持っていると皮肉っている。Unixでは具体的な通信相手を想定することなく通信できることを前提としている。Unixだからというわけではないが、アル中ハイマーがプログラムI/Fを考える時、基本はテキストストリームである。酔っ払いは単純なものしか受け入れられない。頭が悪いからモジュール構成も簡単である必要がある。よって、単純なコマンドストリームは好きである。
本書では、GUI環境が整っていないOSは問題であるということに異論を唱える人はほとんどいなくなった一方で、CLI環境が整っていないのは、GUI環境が整っていないのと同じくらい問題な欠陥であると語られる。
この見解は同感である。よって、おいは、WindowsにまずCygwinをインストールしている。

データ駆動プログラムとオブジェクト指向の違いについて語られる。
正しいデータ構造を選びうまく構成できればアルゴリズムはほとんど自明なものになる。プログラムの中心はアルゴリズムではなくデータ構造である。こうしたデータ構成が中心である考え方は共通であるが、オブジェクト指向と混同してはいけないと述べている。データ駆動プログラムは、データは単にオブジェクトの状態であるのではなく、実質的にプログラム制御を定義している。オブジェクト指向がカプセル化に関心を持つのに対し、できる限り固定されたコードを少なくすることだ。Unixの伝統はオブジェクト指向よりも深いものをもっていると語る。

本書は言語の紹介もしている。
アル中ハイマーは、すっかり、CやC++でプログラミングする機会が無くなった。最近は面倒なのでスクリプト言語で済ませる。酔っ払いには、動的な記憶管理などランタイムに任せるのが身のためである。
シェルについてはUnix伝統でもあり触れられるのは当然である。ただ意外な一言があった。
「これらの中でもっともよく知られているのは、おそらくcshだが、これはスクリプトを書くのに適していないことで悪名高い。」
へー!おいらはbashを主に使っているが、周りにcshを使っている人も少なくない。
Perlは、行指向のテキストをパターン処理する組み込み機能は強力である。この点はPerlを凌駕するものは今のところないようだ。おいらも時々使う。ただ、表現が醜い。自分で書いたコードでさえ暗号文に見える時がある。そこで、Pythonに興味を持っている。本書でも紹介しれくれる。
Pythonはモジュール化のための優れた機能を持ちクリーンでエレガントな設計になっているそうだ。Perlと比べても癖は強くないらしい。これだけで勉強してみる価値がありそうだ。標準Pythonディストリビューションには、インターネットプロトコル(smtp,pop3,ftp,imap,http)のクライアントクラスとhtmlのジェネレータクラスが含まれているという。ネットワーク管理ツールの構築に適しているようだ。これで更に興味を持つ。その分重そうでもある。
Javaは一度勉強したことがある。ただアル中ハイマーは政治的な話が嫌いである。SCSL(Sun Community Source License)には多くのプログラマが失望しているようだ。OSに依存しない独自環境というのは魅力があるので再挑戦したいと思っている。しかし、Java1.2とJ2EEEで分裂の話を紹介してくれるだけでもやる気は失せてしまう。
Emacs-Lispは、Emacs上でmewを動かすために数十行書いた程度で全く勉強したことがない。Paul Graham著の「ハッカーと画家」では、Lispの魅力を述べている。Lispハッカーはデータ構造を柔軟に持つことの価値を知っているという。アル中ハイマーには、こうしたリスト型言語を避けてきたところがある。一度は踏み入れてみようという意欲がわく。
makeの話も出てくる。おいらの好きなツールの一つだ。ただ、許せないのがコマンド行の先頭にタブを置く思想である。これは、Unixの歴史で最悪の設計ミスの1つだと認めてくれている。そうだろう!そうだろう!
インターフェースの醜さでは、アル中ハイマーはもう一つ言いたい。正規表現がそれである。まるで暗号文である。慣れれば良いとしても、ものによって微妙に表現が違うのは許せない。

Unix文化の問題点も明記している。
そこにはコミュニティ問題としてエリート主義の克服が語られる。Unixはもともと専門家相手に発展してきた経緯がある。特に年長者は自分の方が賢いという強い意識があるらしい。一方、Mac文化はエンドユーザが限りなく素人であることを念頭においている。ただ、恐ろしくインフラストラクチャーが脆弱である。Unix文化はインフラストラクチャーが全てである。Mac文化はUnix文化を取り入れ始めている。Mac OS X はUnixを基盤としている。逆に、Unix陣営は、これからはMac文化の一意的な合理性を認められるかどうかであると述べている。オープンソースの世界では、GNOMEやKDEなどのプロジェクトに力を注いでいる。これらの文化は融合されていくように見える。
Unix文化は、あまりに長い時間、非技術系のユーザを無視してきたために、MS文化がソフトウェアの品質の標準を酷く押し下げる横行を許した。
「今までは、Unixのハッカーの負けに賭けると短期的には賢く、長期的には愚かだという結果になってきた。」と締めくくる。
本書のおまけに、Master Fooの話もある。これは禅の世界へ連れて行ってくれる。哲学書はこうでなくてはいけない。

本書はUnixの話だけに留まらない。中でもオープンソース運動には魅力がある。ベンダーが握っていた主導権から市民権を獲得した感がある。道徳とは、コミュニティの中で育つ規定であり、一部のエリートが定めた法からは生まれないのである。自然のコミュニティから生まれた暗黙の規定にこそ説得力がある。技術者は上司に押し付けられた規定よりもエレガントなものを取り入れたがる。そして、良いものはコミュニティを通して広がる。
おいらは、使うツールまでもが規定されるような宗教じみたコーディングルールに縛られることを嫌う。それは、ルールを守りたくても守る能力がないからである。アル中ハイマー病とはそうした病である。

2007-09-02

"BINARY HACKS" 高林哲 他4名 著

憂鬱である。買ったはいいが、処理しきれていない専門書が20冊ほど積みあがっている。アル中ハイマーにはネット注文でついでに専門書をもぐらせるという悪い癖がある。更に悪いことに専門書を読むのがおもいっきり遅い。1ページを理解するのに下手すると半日かかることもある。右脳は酔っ払っているが左脳はもう死んでいる。論理的思考などはるか彼方へいってしまっているのだ。
本屋ではこんな行動パターンもある。高価な分厚い専門書を立ち読みしていると欲しい情報を数ページ見つける。これだけのために一冊買うのはもったいない。必死に目に焼きつける。帰って実践すると微妙に記憶が辿れない。そして、翌日買いに行く羽目になる。記憶プロセスもはるか彼方へいってしまっているのだ。
温泉旅行の前に数冊でも片付けないと落ち着かない。まずは目の前のオライリー君を本棚深く沈めてしまおう。
ただ、アル中ハイマーにとって専門書の良書をブログの記事にするのは最悪だろう。だって、自分自身の無能ぶりをさらけ出すようなものである。だからと言って隠し立てをすることもないだろう。もっと恥ずかしいことを普段からさらけ出しているではないか。あんなことや、こんなことまで。それを記事にすると思えば、恥ずかしさなどはるか彼方へいってしまうのだ。どっかの本ではないが、歳をとると鈍感力が養われるものである。

それにしても、なになにhacksという本が随分と増えたものである。hacksという言葉は、技術レベルを高めてくれるような異様な香りがする。しかし、こう多いとありがたみを感じないものである。
本書は低レイヤ(ハードウェアに近い領域)のプログラミング技術を紹介してくれる。gccの最適化手法からセキュアプログラミング、OSやプロセッサの機能を利用したものなど満載である。ただ、ド素人のアル中ハイマーがここまではやることはないだろう。
西田亙氏の「GNU Development Tools」を読んだ時はなかなか味わいがあった。本書はなかなかこくがある。
さっそく忘れないうちに、思い立ったところを摘んでおこう。

1. gccのビルトイン関数による最適化の項
文字列リテラルへポインタを宣言する時の注意点として、即値が埋め込まれずに高速化されない場合の例を示してくれる。
その中で気になる一文がある。
「最近のプログラム手法として、#defineはなるべく使わないようにする。というものがある。」
なぜだろう?その理由は書かれていない。確かに、マクロ展開そのものはエラー診断をわかりにくくしたり、引数があると意図した形に展開されないなど注意はいろいろとありそうだ。

2. TLS(スレッドローカルストレージ)という技を紹介
複数のスレッドで同じ名前の変数を共有しても、格納する場所はスレッド毎に独立できる。

3. ヒープ上に置いたコードを実行できる
最近のプロセッサやOSはメモリ保護がしっかりしているから、まずやることはないだろう。
ただ、mprotectシステムコールを使えばやれる。その延長上で自分自身の挙動を書き換えるプログラム例を紹介してくれる。ちょっと遊んでみると、これがなかなかおもしろい。アル中ハイマーは調子に乗って作ったものをウェブで公開しようと思ったが、こんなもんはメモリリークのテロリストのようなものだ。

4. プロセッサのメモリオーダーリングの話はおもしろい
複数のスレッドがクリティカルセクションに入る時、CPUの仕組みによって同時進入の可能性を紹介してくれる。最近のプロセッサではほとんどの場合問題になるようだ。パフォーマンス向上のために命令順とは異なるメモリアクセスを認めているからである。メモリアクセスのためのWAR,RAWなどの機構がそれである。これはマルチスレッドのプログラムを作る時は意識しなければならない。対処方法として、メモリバリア、アトミック命令を使った例を紹介してくれる。現在では、C/C++言語レベルではインラインアセンブラや組み込み関数でしか対応できないようだ。今後言語レベルやAPIでサポートされることを期待するとある。

5. ランタイムHack
elfバイナリが実際に実行されるまでの手順や、システムコールの呼び出し手順などを解説してくれる。このあたりは読み物としてもおもしろい。

本書は全般的に知っていて損はないだろう。アル中ハイマーが避けていたマルチスレッドの勉強でも、少しはやってみようかと思ってしまう。スレッド間のメモリ共有などは酔っ払いには辛い。まさしくチャンポンで悪い酔いしそうである。
また、細かいところで、アル中ハイマーは結構抜けたことをやっていることに気づかされる。もしかしたら、過去に作ったものの中に偶然動いてるものがあるかもしれない。なんとなく煙臭い。いや、そこに熟成されたスコッチがあるからだ。

2007-08-26

"クラウゼヴィッツの戦略思考" ボストン・コンサルティング・グループ 訳

クラウゼヴィッツはプロイセン国の軍事学者でありナポレオン戦争を生きた人である。プロイセン国は戦争に負けるのだが、軍事論を古典的名著「戦争論」に記した。そういう意味では敗者から見た自己変革論である。こういう背景はアル中ハイマーの好むところである。
軍事論と言えば、東洋の孫子、西洋のクラウゼヴィッツと評される。アル中ハイマーは血気盛んな頃「孫子の兵法書」やら「戦争論」を読んだものである。
「戦争とは、他の手段をもってする政治の延長にほかならない。」
とは、有名な格言である。これは、「戦争論」が戦争を政治の道具と表したものと解釈されたため非難されてきた原因でもある。
本書は、よくありがちな戦争からビジネス論を学ぼうという主旨であるが、ハウツウものではない。「戦争論」は時代背景に照らし合わせて、まさしく現代と同じ激動の時代を生き抜くための意思決定論を磨くものであるとして、ボストン・コンサルティング・グループが独自に編集したものである。
しかし、アル中ハイマーにはそんなことはどうでもよい。単にクラウゼヴィッツの名前を見て懐かしさを覚え「戦争論」を読み返したかっただけなのである。ただ、「戦争論」はあまりにも重い。そこで手軽に本書を手にした。少々目的を異にするが、ついでに、マネジメントの勉強ができれば一石二鳥というものである。

おいらが「戦争論」を読んだのは、多分学生時代だから20年前のことである。当時は、ナポレオンの本も読んだことを記憶している。それもジョゼフィーヌへのラブレターばかりたっだような記憶しかない。困ったものである。
本書を読んで「戦争論」の印象が多少違っていた。本書の目的は、ビジネスとして活用できる部分を抜き出そうとしているところから、多少の印象が違っても不思議はない。そこには戦略に潜む不確定性をセットに考えなければならないことが語られる。戦争で起こる事象は、常に不確定であることは言うまでもない。自然現象を対象とした学問には理論の影響力は大きいが、人間の活動を対象とした理論には、しばしばいらいらさせられる。社会現象や経済現象がそれである。戦略を実行することは、人間を理解する必要があり、まさしく行動ファイナンスのようなことが記されている。

本書は、一般的に戦争からビジネス論を語られることを好まないと述べている。いきなり本書の主旨と矛盾から始まる。そもそもビジネスと戦争とは違う。企業間の競争を「戦い」と表現することがあるが、それはジャーナリスト特有の誇張であるという。確かに、ビジネスと戦争には共通する要素が多いが、それぞれの原動力は本質的に融和しえないものである。もたらす結果もまったく異なる。戦争の図式をビジネスにそのまま当てたいと思う人も多い。戦国武将をモデルにした指南書をよくみかけるのは、その証拠である。図式には必ず歪が生じる。それは互いに対応しない独自の要素が含まれるからである。
しかし、戦略というただ一点にのみに着目するのであるならば、戦争論の検討は意義深いと言い訳している。
そんなに長々と言い訳しなくても、アル中ハイマーならば、そこに哲学があるからと一言で片付けてしまう。手法や戦術は時代とともに廃れるが、哲学の時間軸は長い。時代の流行があっても人間の行動は、そんなに短い時間で傾向を変えるわけではない。もし急激な変革が起こっても、そこには物理法則のごとくエネルギーの蓄積がある。アル中ハイマーはのんびり屋なので哲学ぐらいゆっくりとした時間でないと悪酔いするのである。

戦略思考というからには、戦術と戦略の違いぐらいは触れておこう。
「戦争論」では、その違いをこのよう記している。戦術は、個々の戦闘を計画し指揮すること。戦略は、戦争を勝利するために戦闘を束ねること。戦術と戦略は区別しなければならないが、そこに一貫性がないと成り立たない。戦争を始める前には事前準備が欠かせない。とは当り前のように思われるかもしれない。しかし、戦争前に計画を練ることは大変危険であると主張する。戦場では、こちらからは制御できない敵の意思や偶然、過ちといった不確定性に支配されるからである。
ドイツの軍規にこのように記されているらしい。
「戦争指導は一種の芸術であり、科学的根拠を元に創造性を自由に発揮できる活動にほかならない。」
戦略は常に現場と共にあるのは言うまでもない。だからと言って、事前準備がいらないと言っているわけではない。戦略にはある程度融通が必要であると言っているのである。戦争では、戦略的意思決定の方が、戦術的意思決定よりも、はるかに強い意志を要する。戦術ではその瞬間の柔軟性が重要で、戦略では比較的ゆっくりと時間が流れる。よって、戦略では、疑念や反対意見をめぐらせたり、他者の意見に耳を傾けるゆとりがある。過去の失敗をふと思い出して後悔する時間すらある。そして、そのような想像や推測から自信も揺らぐ。こうした根拠のない恐怖にとらわれ、行動すべき時期を逸してしまう。
現在においても、不確定性を持った社会での戦略が失敗したからといって、その責任者を責めることができるだろうか?もちろん分析による原因究明は必要である。どんな成功者でも、失敗経験があるはずである。失敗経験がないと発言する者は、もともと不確定性の中に身を置いていないか、あるいは、失敗を自覚できないでいるかである。責任を逃れるために何もしないでいる者は一番の大罪人である。

おいらは、戦略論を議論する時、いつも疑問に思うことがある。
何のための戦略か?戦略の上の次元にある目的は何か?ビジネスであれば売上増加やシェア拡大は戦略目標である。収益性や株価上昇が高次の目的とは到底思えない。いったい何のためにビジネスをやっているのだろうか?何のために企業が存在するのか?
本書を読んでも、その答えが得られるものではない。その答えは一般的に得られるものではない。その場に応じて考えるものなので書物などに期待などしない。もし、そんな書物があるとしたら布教本であるに違いない。
疑問を高めていくと、人間は何のために存在するのか?などと宇宙に放り込まれる。
戦略論の高次の目的とは、一般に言われるビジョンということになるのだろう。社会貢献など、それらしいことを掲げる組織をよく見かける。しかし、そのビジョンはビジネス戦略の延長上にないと意味がない。本書では、戦争は何のために行うのかという高次の政治目的がなければならないと語る。「戦争論」では戦争は政治活動の手段であると語られるからである。
ビジネスにおける戦略で最も重要なのは継続だろう。高次の目的がはっきりしないと継続性も難しい。何事も継続するためには高次の目的が存在しないと難しいのである。

本書を読み終わって、どうも中途半端である。「戦争論」を理解したければ、地道に原書を読むべきである。それには相当な勇気が必要である。今、「戦争論」が目の前であざ笑うがごとく構えている。クラウゼヴィッツが、お前のような酔っ払いが読むには100年早いぜ!と言わんばかりに。
畜生!アル中ハイマーには焼酎を舐めながら傍観するしかない。

2007-08-19

"ヤバい経済学[増補改訂版]" Steven D. Levitt & Stephen J. Dubner 著

頭痛に悩まされて2週目である。酒とたばこも断って精神衛生にも悪い。医者に処方してもらった薬も痛みは無くなるが薬が切れると痛みは倍化する。ますます酷くなるようだ。もう我慢できない。酒を飲む。久しぶりに満足感でぐっすりと眠る。今朝は妙に頭がすっきりだ。痛みは軽減した。酒は百薬の長とはよく言ったものだ。その分異常に肩が重い。誰かが乗っかっているようだ。いや、本当に誰かが乗っかっているに違いない。きっと綺麗なお姉さんだ。妙に気持ちいい疲労感だからである。つまり、頭痛の正体は綺麗なお姉さんを肩車していたのだ。
これから得られる教訓は何だろうか?現象からは本質を見抜くことが難しいということである。本書は、そうしたネタである。

「ヤバい経済学」はずっとマークしていた本である。いまいち踏み込めなかったのはタイトルがダサい。サブタイトルに「悪がき教授が世の裏側を探検する」とある。なんとなく陰謀めいておもしろそうでもある。そこそこ人気もあるようだ。そうこうしているうちに、ちょうど「増補改訂版」が発行された。宣伝文句に「おまけが100ページ以上追加」となっている。アル中ハイマーはバーゲンに弱い。ついショッピングカートをクリックしてしまうのである。

本書の第一印象は経済学の本ではない。様々な社会現象の相関関係と因果関係について分析している。その分野は、犯罪、教育、スポーツ、政治、ギャング、出会い系、子育て、犬のうんこまで飛び出す。著者自身が本書にはテーマがない、この研究を雑学とギリギリのところだと言っているぐらいである。最初アル中ハイマーは社会学だという印象を持っていた。ここで「経済」を我が家の辞書で調べてみると、意外と多くのことが書かれている。その中で目を引いたのが、「人間の生活に必要な物を生産・分配・消費する行為についての一切の社会的関係。」とある。社会的関係?んー。もうちょっと視野を広げる必要がありそうだ。
本書は、ここで扱う経済学の定義を説明している。
経済学はインセンティブに人々がどう反応するかを統計的に測る学問である。こうした手段を社会現象に応用してもいいだろうということである。そもそも経済学とは、決まった対象があるわけではなく方法論の集まりであるという。なるほど、個人の欲求と社会規範の衝突から生まれる行動パターンの分析であると捉えられる。アダム・スミスは、利己的な人間が自分の利害と社会の道徳とを区別できるのはなぜか?ということを問題意識していたらしい。
本書のフレーズに
「道徳が望む世のあり方についての学問だとすると、経済学は実際の世のあり方について学ぶ学問である。」
とある。やはり経済学の真髄がここにありそうだ。
アル中ハイマーにしてみれば、自然科学や数学は哲学で、社会学は心理学を束ねたもので、経済学だって一種の統計学だと思っているぐらいで、無理にボーダーラインを引くこともないだろう。
混ぜ合わせてシェイクすれば美味いカクテルができるかもしれない。どんな世界も混ぜ合わせる分量しだいで味はどうにでもなるのだ。ということで、アル中ハイマーは本書を名酒事典に分類するのである。

本書は、人間の行動には、経済的インセンティブ、社会的インセンティブ、道徳的インセンティブが働くという。経済学者は、相関関係を調べても、そこから因果関係までを分析しきれていないと批判している。確かに、人間の行動原理に、あまりにも経済的インセンティブを強調し過ぎるきらいは感じる。本書は、こうした表面的な分析から踏み込んで様々な社会現象から因果関係を暴こうする。

1. 犯罪の減少
中でも大きく取り上げているのは全米における犯罪者の大幅減少に対する考察である。いままで増加傾向にあった犯罪件数が1990年を境に大幅に減り始めた。アル中ハイマーは、好景気が社会不安を解消すると思っていた。本書も、一般的にはそう思うだろうと、いかにも見透かされたように語る。それも一理あるのだが、経済的な犯罪の減少という傾向は無く、どんな犯罪も減少傾向にあることと、その減少幅からして決定的な説明がつかないという。では、警察力の強化はどうか?これも十分効果はあるが、同じく減少幅からして説明不足である。そもそも、警察力を強化するということは、犯罪が増えている時なので、厳密な測定は難しい。刑の強化も、もちろん意味はあるだろう。ただ、死刑制度は、実質執行される確率が低いためあまり抑止力は働いていないという。また、人口の高齢化により犯罪率が減るというのもあるだろう。人間はまるくなるのである。「文明の衝突」の著者サミュエル・ハンチントンが同じようなことを言っていたのを思い出す。若年層人口が20%以上を占めると社会的に不安定になるといった話である。しかし、実際は若年層の絶対数が減ったのではなく、医療技術の進歩などで寿命が延びているのである。
では、その真相は何か?それは中絶の合法化である。親から望まれて生まれたのではない人間の犯罪率に着目している。1990年代は、法律の施行から、ちょうど生まれてくるはずだった人間がティーンエイジャーになる頃である。つまり、犯罪率の最も高い年代にさしかかる頃である。これは、ルーマニアの独裁者チャウシェスクが中絶禁止をした時の話と対比している。チャウシェスクは、国力アップのために人口を増やす政策を取った。そして、中絶を許可していれば、生まれてこなかったはずの子供達の反乱によって失脚することになる。アル中ハイマーは、この結論には妙に納得させられる。しかし、学者やメディアから道徳的な理由で思いっきり攻撃された様も語られる。それも想像はつくのである。

なんの本だったか忘れたが、他でも読んだ昔話も登場するのでメモっておこう。
「あるとき王様は、国中で疫病が一番よく起きる地方にはお医者さんも一番たくさんいると聞きました。王様がどうしたかって?すぐさま医者をみんな撃ち殺せとお触れを出しましたとさ。」

2. 選挙へ行く心理
投票には、時間や労力がかかるだけで生産的なものはない。国民の義務を果たしたという漠然とした感覚がなんとなくあるぐらいである。どこの国も民主主義が安定すると投票率が下がる傾向にあるようだ。その中でスイスの例はおもしろい。スイス人は投票が大好きらしい。それでも長い期間で見ると投票率が下がる傾向のようだ。そこで、郵送での投票という新しい方法を導入した。投票用紙が郵送されてくるので、それに書き込んで返送すればよい。投票所へ行く手間を無くせば投票率が上がるという考えであるが、投票率はおうおうにして下がっていった。最近ではインターネット投票という案もよく耳にする。インターネット投票にすると手間がかからず投票率が上がると主張する評論家も多い。おいらもインターネット投票の方がありがたい。しかし、スイスの例は投票コストが下がっても投票率には影響しないことを示唆している。投票する人は社会的インセンティブが働いているだけなのかもしれない。
一部の大学の経済学部では、経済学者は投票所にいるのを見られると恥ずかしいという説があるらしい。合理的な人間ならば、一票が選挙結果に与える影響を考えると無駄な行為であると判断しそうである。では社会的インセンティブへ誘導する手段はあるのだろうか?三十路も過ぎれば、だいたいが凝り固まった概念に支配されて考え方を変えるのは難しい。向上心でもあれば突然目覚めたりする可能性はある。概念が固まる前となると教育がものを言いそうだ。宗教色の強い集団は奇妙なインセンティブが働くのか?団結力も強い。そのおかげで自由意志を持った人々は余計に一票の無力感に襲われる。社会風潮で誘導することはできないだろうか?少なくとも、金バッチの選挙戦術とそれを扇動するステレオタイプでは逆効果であるのは間違いない。

3. 完璧な子育て
子育てでは親馬鹿のアルゴリズムを暴いてくれる。優秀な子供ができる相関関係とは、家に本がたくさんあるとか、初産が30歳以上だとか、経済的地位が高いとか、様々な条件を考察している。例えば、本がたくさんある家には優秀な子が多いが、親が毎日本を読んでやったり、美術館に連れて行ったりといった行為は無駄であるなどである。つまるところ親自身の教育や知識レベルが重要であって子育ての段階では手遅れであることが語られる。親がどんな人生を歩んできたかが問題であるというのが真相のようだ。ちなみに、アル中ハイマーの親が読書している姿を見かけたことはかつてない。英才教育に頼る人は、自分自身を誤魔化しているということかもしれない。むしろ親が自分自身を堂々とさらけ出して、ぐうたらであるならば反面教師にもなりうるかもしれない。何事も誤魔化しと卑怯が一番ひどいのである。優れた親と優れた環境が完璧な子育てにつながるとは限らないと思うのだが。また、遺伝子の影響もあるだろうということは容易に想像できる。産みの親と育ての親では、どちらの影響が強いのだろうか?もし遺伝子に支配されるとしたら、うちの家系を見ているだけでぐれるしかないではないか。ここでアル中ハイマーは科学的にある可能性を提起する。生物遺伝子の突然変異である。

本書の仮説は、専門家に思いっきり批判された様も語ってくれる。もちろん支持者も多い。著者は、現実の世界で人々がどんな行動をとるかについて筋の通った考え方を持つことを求めている。本書を読んで得られる効果は何だろう?お金が儲かったりするのだろうか?著者は多分ダメだろうと言っている。ただ、今までの通念を疑ってかかるようにはなるだろう。物事を見かけの現象から少し離れたところで分析できればありがたい。しかし、アル中ハイマーには無理である。それもこれもDNAのせいである。そして、甲高い声で叫ぶのだ。「こんな酔っ払いに誰がした。遺伝子の馬鹿やろう!」

2007-08-12

"アメリカ経済終わりの始まり" 松藤民輔 著

アマゾンを放浪していると、お薦め品の中に本書があった。タイトルからして経済界の陰謀めいた話を期待しつつ衝動買いするのである。その実体は、投資理論と資産運用論を語った経済学書であるが、アメリカ経済の悲観論や政治陰謀などリズミカルに読める部分も多くストレス解消によい。もしかしたら、ちょうどサブプライム問題とマッチしているかもしれない。ただし、日本経済の底力については信じたい面もあるが、やや評価し過ぎのように感じる。本題である投資理論の部分は、概念的には分かりやすく書いているが、実践となるとアル中ハイマーは途方に暮れるしかない。資産運用の考え方は参考にできそうだ。

冒頭から「種の起源」のダーウィンの言葉から始まる。
「生物史の中で勝ち残ったものは、頭のいい生物でもなければ、強い生物でもなかった。それは変化に順応する生物だった。」
個人でも企業でも国家であろうと、自己変革を忘れたものに未来はないと語られる。そして、いまやアメリカで残る世界産業はIT業界を除いて金融業だけであると続く。金融業は雇用に貢献もしなければ、資金はボーダーレスで世界を動き回る国籍がない業種である。国内経済がどうなろうと関係ない業種であると語られる。

1. 金の役割
本書は、いずれ金が世界の基軸通貨として役割を果たすと主張している。今更、金本位とはなんだ?本書のいまいちわからないところである。ただ、今後アメリカ市場の暴落とBRICsの破綻を予想している点は興味がわく。アメリカ市場が暴落すれば、その市場規模からして受け皿となりうるのが日本市場だという。しばらくは、アメリカ市場に追従するだろうが、数年で日本経済の底力が発揮されるという。確かにアメリカの市場規模からして簡単に受け皿になりうる市場は限られる。暴落すれば、短期的なドル暴騰となりうるだろうが、やがて下落に転じる。その結果、ドル暴落後の世界基軸通貨が金になるというのである。
ユーロじゃないのか?本書のように日本経済の底力を信じるならば、円じゃないのか?アメリカの市場規模で暴落すれば、どこの通貨も信用できない事態になっているかもしれない。それで貨幣価値が無くなるというのは一理ある。
本書は、もはや米国債は紙切れ同然であると述べている。日本政府は相変わらず買いつづけている。日銀はFRB同様会計監査を必要としないのはよく聞く話であるが、国債にしても時価でなく取得価格で計算してよいことになっているらしい。アメリカの戦費は米国債から賄っているのは周知のとおりである。日本が米国債を買うのを止めれば世界平和が訪れるかもしれない。

2. ゼロ金利政策の意味
日銀のゼロ金利政策は、円が世界の基軸通貨になったことを意味するという考察はおもしろい。NYダウの上昇、不動産価格の上昇、短期金利が上昇しても長期金利が低いままで推移、これ全て、日本の資金がアメリカに流出した結果である。つまり、日本のゼロ金利のおかげでアメリカ経済が崩壊しないで済んでいるという。アメリカ人の慢性的な消費体質は債務超過の傾向がある。これは日本人の貯蓄体質と対比してよく言われるが、もはや債務超過は国家財政にまでおよび、いつ金融恐慌が起こっても不思議ではない。
金利は信用度のモノサシであり、歴史的に見ても格付の高い国ほど金利は低い。金利が低くても資金調達ができるからである。市場税を無くし自由営業を許すとは、織田信長の楽市楽座であると語られる。

3. BRICs
中国の最大のリスクは共産党政府であろう。民主化が進めば、かつての日本の高度成長など凌駕できるかもしれないが、急激な方針転換は経済混乱を招く。資金の流れだけならば、物理法則に従い逆流することもあるだろう。しかし、技術の流出は悩みの種である。政府により簡単に接収されかねない。本書では、この点を一国の指導者が3000億円も蓄財する国家とはどんな国か?と語られる。この金額を聞いただけで、隠された政治腐敗、ビジネス腐敗が想像できるだろう。中国に限ったことではないが、大金持ちがいるということは、地べたに這いずり回るその他大勢がいるということだ。
ここで、LTCMについて少し触れているところに目が留まった。アル中ハイマーは興味を持ったことがある。ノーベル経済学賞2人を擁したドリームチームが破綻した話である。コンピュータがはじき出した破綻確率300万から800万分の1を信じて、ロシアへ投資した結果である。ちなみに、歴史的に世界で借金を踏み倒したのは、ロシアと中国の清だけだと述べている。へー!もっと多いかと思っていた。

4. アメリカの凋落
アメリカ凋落の原因は、90年代にものづくり精神が失われた結果であり、アメリカによる世界の一極集中はもう崩れており日本に移転し始めていると語っている。工学専攻の優秀な学生がメーカに就職するよりも、金融業界に流れる傾向がある。アル中ハイマーは、アメリカ凋落については否定はしないが、日本が受け皿になるとは疑問に思う。ものづくりの精神が失われつつあるのは、日本でも似たようなものである。人材派遣業の発達がそれである。堂々と人材派遣を看板にしている会社のみならず、エンジニア会社と称していても実体は人材派遣業というのはよく見かける。しかも、どういう基準で審査されているかわからないが、そこに出資している金融機関がある。アル中ハイマーが関わっている業界では、技術者を大量リストラしている企業も少なくない。しかし、人材不足という矛盾を抱える。これを補うために人材派遣業を利用する。現場は見かけの経費節減を余儀なく強いられる。中間管理職は大変である。技術蓄積も人材育成も難しい状況にあり、レベル、質ともに低下傾向にある。最終的にシステムとして仕上げる意欲が低下し、奇妙な分業体質ができてしまう。

5. 日本のエネルギー効率
天然資源をほとんど持たない日本は、原油価格の高騰は深刻であると主張する経済学者も少なくない。アル中ハイマーも素人ながらそのように思う。しかし、本書は、日本ほどエネルギー効率が優秀な国はないという。原油価格が200ドルになったとしても国家として生き残れるのは日本だけだという。天然資源を持たないから、エネルギー効率を上げようとする努力は伝統的になされてきたのかもしれない。あらゆる規制に日本企業は立ち向かってきた。これも政治に足を引っ張られたことにより、自然と鍛えられた底力なのかもしれない。エネルギー対策は、まともな国家戦略と噛み合えば恐ろしい底力を見せるかもしれない。しかし、そんなに楽観できるとは思えない。

6. 陰謀説
アメリカの戦略は、各地でいかに平和的に緊張感のあるまま保持したいかということだろう。そうすることでアメリカの相対価値が高める。テポドン発射も、日本にミサイル防衛システムを買わせるためである。アメリカは日本が独自の資源外交を展開した田中角栄をロッキード事件で失脚させたという話にも触れる。
9.11テロ事件では、アメリカ自作自演であるかも?と勘ぐる。ワールド・トレード・センターの52、53階には、米国債のメイン取引会社があったらしい。投資銀行のコンピュータシステムも吹っ飛んで米国債の残高と持高が一瞬にして消えた。デリバティブには米国債を使う。つまり、膨大なデリバティブ損失を隠蔽したのではないかという疑いである。9.11陰謀説については、10年ぐらい先に鋭い考察が発表されることだろう。

7. 日本人の投資行動
ここ数年、マスコミや証券業関係の宣伝は、日本人に積極的なリスクへの挑戦を呼びかけている。しかし、本書は、むしろリスクを取らず預貯金に邁進してきた日本人の投資行動を高く評価している。同感である。なんでも周りの動きに惑わされてしまう日本人の風習からしてリスク投資を続けていれば、とっくに破産していた家庭は多いだろう。日本の企業でさえも伝統的に高値を掴まされ続けているのである。
まったくその通りと思わされる例がアル中ハイマーの目の前にもある。
母親は預貯金が習慣である。貧乏の悲しい性である。これは団塊世代の前の世代の特質だろうか?いくつかの金融機関に資産を長期で眠らせていた。それも20年や40年の単位である。最近でこそ金利が低いので回収する方向であるが、元本からして複利による優位性をまざまざと実証している。逆に、支出する時は大胆である。食品などを買う時はバーゲンでないと手を出さないが一気に買い占める。消費行動も極めて計画的である。いつも馬鹿だと思っている母親だが、預入金利と貸出金利のバランスを無意識に実践しているのだ。まさか、右肩上がりの経済が破綻することを予測していたわけではないだろう。金利の有利な時期を有効活用しようと考えたとは到底思えない。物がない時代を生きたのだろうが、だからといって、この世代が節約主義ということにはならない。その対極にいるのがギャンブラー父である。せっかくの利息を父親はサラ金で喰い潰した。そのせいで母親の行動はいつも隠密である。この影響からか?おいらも金利の動きにはうるさい。車を買うにしてもローンなど絶対に組まない。ただ10年以上前、固定資産の購入には税制面の配慮が足らず失敗した。そういえば、昔、パソコンの購入にボーナス分割払いしている奴がいた。半年もしないうちに性能アップしたマシンが半額で売り出されていた。案外、投資活動の真髄とはこうしたものかもしれない。というのもアル中ハイマーは、ある光景と照らしあわしている。数々の金融商品の金利を天秤にかけ、これにより物理法則のように資金が流れ、一旦バブルが崩壊すると、途端に大バーゲンセールされた企業体に海外投資家が群がるような光景である。

最後に本書は資産運営の考え方にも触れている。
将来、金利が6%から8%に上昇するまでに、それなりの資産を蓄え管理できるよう準備しておきたいと促している。これはアル中ハイマーの考えと似ている。ただ、ターゲット金利は5%である。

2007-08-05

"新しい金融論" Joseph E. Stiglitz & Bruce Greenwald 著

今日は二日酔いで朝から気持ちが良い。財布の中身はすっからかん。何軒はしごしたかは記憶がない。ただクラブ活動が楽しかったことは、なんとなく覚えている。恋愛論を闘わせたような気がする。男と女の関係は信用の駆け引きということらしい。いや、金の切れ目が縁の切れ目である。
本書は、金の世界に信用をブレンドしたようなネタである。

金融論と言えば、金利や為替レート、支払準備率など貨幣量をめぐった議論が多い。ここ数年、経済学の書物を見ていると「信用」というキーワードを目にするようになった。経済の活性化とは流通量で決まる。その中で行われる取引は信用無しでは成り立たない。ド素人のアル中ハイマーにはごく自然のように思えるのだが、これが新しいパラダイムなのだそうだ。こうしていくつかの本を放浪しているうちに本書にたどり着いた。

本書を取り上げた理由は、信用の役割を取り入れた理論をネタに、著者の一人 J.E.スティグリッツが2001年にノーベル賞をとっていることである。つまり、この著者が言い出しっぺだと思ったからである。
アル中ハイマーにはノーベル賞の経済学部門というのは胡散臭いイメージがある。これもLTCMの影響だろう。その場の状況を一定の原理に無理やり当てはめるかのように、効用関数やら生産関数やらを持ち出して、いかにも立派そうに見えるからである。これでは、たかだが酔っ払いごときがノーベルさんに対して失礼である。本書によって少し頭をほぐしてくれることを期待するのである。

それにしても2001年とは歴史が浅い。停滞していた経済学がようやく進化し始めた時代なのだろうか?本書は、一般的なエコノミストの主張や経済政策に対して批判する立場をとっている。こうした態度は、アル中ハイマーのような天の邪鬼にはストレス解消におもしろく読めるのである。
四半世紀前にマクロ経済で訓練を受けたエコノミスト達は、信用という変数に注意を怠ってきたという。恐ろしいことに現在の経済界を牛耳っている世代である。今日でも、多くのマクロ経済学の教科書で「倒産」という用語が登場しないと指摘している。笑えると共に、ド素人でも勉強するにはいい時代に生きているかもしれない。

本書は、金融政策の効果について疑問を呈している。
そもそも金融政策とは、直接銀行に働きかけ経済全体への波及効果を期待するものである。財務省短期証券の金利や貸出制約の調整により起こるメカニズムである。本書は、そのような効果を全面否定するものではない。むしろ、従来の経済学が指摘する効果は、経済が正常な時は効果を生むと言っている。しかし、金融政策を必要とする場面は、経済危機や激しいインフレに直面している時である。
金融理論の伝統的考え方には、経済の誘導はひとえにマネーサプライの操作であり、マネーサプライと名目所得との間には単純な関係がある。つまり、マネーサプライを増減にGDPも比例するというものである。
アル中ハイマーも一般教養で、特定の金利である財務省短期証券金利や公定歩合の調整は金融政策として有効であると習ったものだ。
本書は、経済の異常時には、マネーサプライと信用との関係、あるいは財務省短期証券金利と貸出金利の関係は弱くなると指摘している。そして、貨幣量を調整するような金融政策の有効性は著しく低下することを警告している。本書を読んでいると、規制政策と規制緩和政策のバランスが必要に思えてくる。
多くのエコノミストは金融の量的緩和政策を強化することがデフレ脱却の有効政策であると主張する。酔っ払いは、マスコミが主張する「規制緩和」や「自由化」という言葉になんとなく踊らされてしまう。

アル中ハイマーは金融庁の存在に疑問を抱いている。
日銀があるのになぜ独立した金融庁という機関が存在するのだろう?マクロ経済を担うのが日銀だとすれば、金融機関を監視する役割が金融庁と認識している。しかし、本書は、マクロ経済に対する金融政策は、銀行業システムに与える影響とその振る舞を一緒に考慮しなければならないと主張している。
ということは、マクロ経済と銀行業の監視が独立した機関で管理されている日本のシステムはヤバイ?本書の指摘が鋭いと感じるのは、ノーベル賞の重みかもしれない。

ここで、アル中ハイマーは単純な疑問にもぶつかる。
なぜ銀行は破綻するのだろう?
世界中で、政府は経済の他のセクターにもまして金融機関を規制している。銀行システムの破綻は社会不安や経済の混乱を起こすからである。よって、必然的に政府の費用により銀行救済がなされる。本書は、こうした状況は、不適切な貸出慣行が根源であるという。まったく簡単な答である。世間は過度なリスク負担をもたらし、詐欺的行動へと発展もするだろう。最終的に国民を犠牲にした銀行による略奪となる。
では、なぜ銀行は過度に危険な貸出を行うのだろうか?
ハイテク業界のベンチャー系への出資額など信じられないことを時々見かける。はたして事業内容を明確に審査しているのだろうか?この疑問への回答も、本書はあっさりと片付ける。銀行が被る私的費用が、社会的費用よりも小さいというのが、その答えである。これは、税金で生きている官僚全てにあてはまることである。銀行は官僚なのか?銀行が破綻すると国が破綻するぞ!と脅迫しているようなものである。銀行の純資産が臨界水準を下回ると、銀行はリスク回避型からリスク愛好型に変貌するのだそうだ。自己資本比率規制は、リスク回避姿勢を保つために多少は役立つのだろうが、実際には、社会的リスクが私的リスクを上回るようなことを完全に防ぐことはできないという。このような市民をアル中にさせる経済システムを考えた連中はある意味天才である。

本書は過去の金融政策についても考察している。
特に、東アジア危機に対する考察はおもしろい。
1970年代から1980年代の東アジア各国は急激な経済成長を果たしたが1990年代に破綻する。これは、発展時には外国からの資金が洪水のように流入し、その反動で突然巨額の流出が起こった結果による経済失速である。これが金融危機へと向かう。
その時の米国財務省やIMF、また多くの外部アドバイザーの東アジアにおける助言には驚かされる。自己資本の乏しい銀行を速やかに閉鎖するように誘導し、インドネシアでは16の銀行閉鎖と、その後の銀行閉鎖の予定を公表し、更に預金者の保護もなされないと発表したという。言うまでもなく取付騒ぎが起こる。こうした助言をタイも忠実に受け入れた。一方、韓国とマレーシアは無視した。当然だろう!
IMFは半導体産業が抱える過剰設備などの資産を売却すべきであると主張したが、韓国はこれを無視し景気回復の原動力にしている。
日本についても少し触れている。
本書の著者達は、企業再生に公的資金を使うべきではないと論じたという。しかし、米国財務省の高官には日本政府に供与されるファンド(宮沢イニシアティブ)の相当部分を再生資金のファイナンスのために確保すべきだと強く主張する人たちがいた。皮肉にも、ごの議論が再生を遅らせることになった。その原因は、外部資金に期待して、債権者、特に外国からの債権者による対応の遅れを助長したという。高官たちは、なぜ外国の貸し手による救済策が広範に実行されないかの理由を考えられないと断言している。ただ、アル中ハイマーには高官らを誘導している世界的な陰謀説が頭をよぎる。ただの推理小説の読み過ぎである。
ここで、おもろい昔の格言をメモっておこう。
「銀行家とは、資金を必要としない人たちに貸したがる連中のことを言う。」
どこかの中央官庁主導で行われる公共事業や第三セクタの類である。ちなみに某元市長は引退して次の選挙に出馬せず中央官庁へ行ってしまった。これを「天上り」というのだろうか?

本書は最後に「本書の論じてきた理論は完璧とは程遠い。」と謙遜して締めくくる。新しいシステムを生み出すよりも、維持し続けようとするシステムを改革する方がはるかに難しい。官僚機構の改革が進まないのは、既存のシステムで満足できる立場の人々がいるからである。経済学理論が停滞するのは従来の経済学を否定されては困る人々がいるからであろう。本書は、従来理論に刺激を与えたという意味で価値あるものなのだろう。
いつもシングルモルトを飲みつけていても、たまにはブレンデットを飲みたくなる。
それでも全く違和感がなく気持ちええ。これが熟成された世界というものである。

2007-07-29

"世論(上/下)" Walter Lippmann 著

今日は選挙である。所詮参議院であるが既に期日前投票に行っている。
アル中ハイマーにもまだ社会的インセンティブが働くようだ。
投票を済ませたからには朝からベロンちゃんである。
アル中ハイマーには既に道徳的インセンティブは働かないようだ。
ブログの記事もそれらしいものを選びたい。と思っているとちょうど良い本を見つけた。既に読んだ本を読み返すのも経費の節約になる。
アル中ハイマーの経済的インセンティブは健在のようだ。
本書は本棚奥深く眠っていた。読んだ記憶が薄っすらとある。ちょうど読み返したいと思っていた名著である。読んだのは社会人になったばかりの頃だ。
現在16進数で20代だから。。。なーんだ!5年ぐらい前のことかあ!尚、年齢表記にはアルファベットを要する。

本書の冒頭には、執筆した動機は第一次大戦後の混乱を解明することにあったとある。いかにも、アル中ハイマーが喰いつきそうな台詞である。「世論」は1922年に刊行された歴史的な名著古典と言われるだけあって当時の洞察力には感心させられる。分類すると社会学になるのだろうが、心理学の面かもら考察され、時には歴史を感じ、哲学にも通ずる。何よりも凄いところは、現代に照らし合わせてもまったく違和感がない。世論を動かす情報のあり方や民主主義の特性などがよく描かれている。リップマンが将来予測をしていたかどうかはわからないが、今生きていたら自画自賛していたことだろう。本書のように昔から名著として読まれつづけているものは真理を語っているからであろう。古典に親しむのもなかなかおもしろい。有名な本だけに、著名なジャーナリストや社会学者、政治家が読んだことだろう。その結果できたものが、今の情報社会であり政治社会ということかあ。なんとも皮肉に思えて酔っ払いには理解できない世界である。本書の内容を記事にまとめるのは至難の業である。重たい本だからである。しかし、記事にしてみると意外とシンプルになってしまった。そもそもアル中ハイマーに重たいものを記憶できようはずもない。
では、少し酔いが覚めたところで気まぐれで章立ててみよう。

1. 擬似環境
本書は、人の行動と心理のメカニズムを「擬似環境」という言葉で関連付けている。それは、事実から乖離したイメージ環境のようなものを作り上げるということである。世界の出来事などは、情報の時間差もあれば、発信者の主観が入り込むなどの要因から擬似環境が生じる。人の行動は、この擬似環境に影響を受けるが、現実との乖離が大きいほど矛盾が生じる。人間が物事をイメージする際、見て定義するのではなく、定義してから見ると語られるあたりは、説得力のある考察だと感心する。人間は、体験から虚構な世界を作りあげる性質があるのだろう。おいらのような馬鹿には、まず情報を解読する前に下準備が必要である。即座に反応できないからである。その時点ですでに虚構の世界をさまよっている。人間は単純な性質を好む。ほとんどの事柄について自己分析した結果、単純にモデル化してしまいがちである。

2. ステレオオタイプ
人間がイメージをつくる際、ある種の固定概念によってイメージが左右されることはよくあることだ。こうした状況を社会学ではステレオタイプと呼ぶ。多くの人々が、同じ考えや態度や見方を共有している状態になり、ある種の紋切型態度をとってしまう。この固定概念が擬似環境と結びついて、都合の良い情報を取り入れたり偏見が生じるといった、世論が加速する状態を生み出す。世論はステレオタイプに初めから汚染されているものと考える必要がありそうだ。しかし、ステレオタイプは政治情報の乏しい一般人にとって時間を節約してくれる役目もある。盲目とは、時間を節約して気楽に酔っ払えることを意味している。本書は、このような特性を古い世代の経済学者によって無邪気に規格化されてきたと、当時の経済神話を語ってくれる。また、歴史上の考察もおもしろい。歴史上の善悪を語ったものに、過去を客観的に考察しているものはほとんどないと述べている。民族間で起きた揉め事が感情的に言い伝えられるのは、時間観をご都合主義にしている典型であろう。当時の出来事を今の道徳観で裁定することはよく見かける。もしアル中ハイマーに、歴史上の条件がそのまま降りかかったとしたら、果たして当時の人間の行為を批判できるような行動を取れるだろうか?仮に最新鋭の道徳観で武装していたとしてもである。

3. 民主主義
本書は、当時の民主主義のあり方や風潮を語ってくれる。当時は、人々が公共の事柄について有効な意見をもっていなければならないという夢物語のような社会が弁じられていた様が語られる。民主主義者たちは、報道界こそ、こうした補完機能を持つものだと信じていたようだが今と変わっていない。
著者曰く。
「私は主張したい。政治とふつう呼ばれているものにおいても、あるいは産業と呼ばれるものにおいても、選出基盤のいかんによらず、決定を下すべき人々に、見えない諸事実をはっきり認識させることのできる独立した専門組織がなければ、代議制に基づく統治形態がうまく機能することは不可能である。」
当時のジャーナリズムは、適切な世論作りには不完全であり、むしろ健全性が損なわれていると攻撃している。果たしてマスコミが第三者機関になりうるだろうか?現在もまた、自己主張を煽り、正義の味方を気取るマスコミや評論家連中がいるように感じるのは、きっとアル中ハイマーが世の中に悪酔いしているからに違いない。

4. 結び
著者は、本書の結びの章で、世論の発生がいかに政治や社会を正常化する方向に結び付けられるか、数々の問題に対する結びとして最後に何を語るべきか、について悩んだ様を語ってくれる。アル中ハイマーも、これほどの重たい本の結末をどう処理するか期待していたところである。いろいろとネタを用意していたようだが、結局「理性」に訴えるしかない。と片付けている。最も単純で最も難しい結論に達しているように思える。確かに、真の政治家や指導者というものが判別できれば、理性という言葉には説得力がある。しかし、その判別は所詮無理であろう。本書も政治に理性を求めるのは不可能であると悲観的見解を述べている。と同時に、希望を持つべきであると励ましているかのようにも思える。思ったより簡単に片付けられているのは拍子抜けである。しかし、これだけ重たい文献に対して、「理性」の一言をぶつけるあたりは、逆に本書の価値を高めているように思える。生物遺伝子は突然変異するものである。現在が悲観的だからといっても、もしかしたら人間が突然変異し楽観的な結論に達するかもしれない。コクのあるスコッチも酒樽で長く眠っている間に熟成される。社会だって熟成されて突然変異する可能性だってないとは言えない。

最後に、題目「世論」について、酔っ払いの見解も語らずにはいられない。そもそも世論はどうやって発生するのだろう。人間は、あらゆるものに興味を持つ。退屈しない生活を求めるのである。意外性があってはじめてニュースの価値が上がる。よって、世論が盛り上がるのも、その変化に富んだものに向けられ、慣れ親しむと廃れてしまう。世論が維持される期間は極めて短いのである。政治家やマスコミが正義感たっぷりに主張する時、例外なく主語に「国民は」という言葉を添える。まあ、国民という言葉は幅広いし、議員や、マスコミも国民であることに間違いはない。ここで、ジャーナリズムの本質について語っていると思われる個所があったので付け加えておく。
「ニュースのはたらきは、一つの事件の存在を合図することである。真実のはたらきは、そこに隠される諸事実に光をあて、相互に関連付け、人々がそれを拠り所にして行動できるような現実の世界を描き出すことである。これらが一体化した時、世論の力が発揮される。」
健全な世論の形成はありうるだろうか?一つは子供の頃からの教育にかかっている。ということは、大人では変化できないということか。いつのまにか本書と同じ悲観論に達している。
ということで結論は、世論は擬似環境に左右されつつ、あっちの店が良いか、こっちの店が良いか揺れ動く。千鳥足でさまよった挙句、虚しく帰路につく。目が覚めると記憶が辿れない。そこには、携帯番号付きの妙な名刺が目の前に散りばめられている。こうして擬似環境は忘れられていく運命にある。

2007-07-23

"Fedora7で作る最強の自宅サーバー" 福田和宏 著

いつのまにか名前がfedora coreからfedoraになっている。
extraパッケージがcoreと一体化したからのようだ。アップデートするのも面倒だけど、LiveCDとかいうのにつられて買ってしまった。インストールしなくてもCDで起動して遊べるからおもしろい。でも飽きちゃった。どうせインストールするからどうでもええのである。

では、!さっそくインストール!
ありゃ!GUIで任意のポートのセキュリティレベルが反映されないぞ!
まあー!コマンドでやりゃええんだけど。
おおー!バグジラに情報が載っている。
ほおー!セットアップ時の設定は反映されるんだ。
ほんで!これをインストール後に動かすには。これで良さそうだ!
なんか!SELinuxの思想が変わってそうだなあ。
んんー!今のところKernel Panicが出ない。機嫌はよさそうだ。
ちなみに、おいらの頭はいつもKernel Panic !!!である。

本書は入門書でとても丁寧に書いてくれるので、アル中ハイマー病にはうれしいのである。ただ、ほとんど読んでいない。いままでの設定で動かないはずもなく、困った時にはきっと活躍するだろう。
さあ、サーバテストをしよう。やはり夜の社交場から覗かないとテストとは呼べないのである。

2007-07-22

"あやつられた龍馬" 加治将一 著

本書は「石の扉」に続いてフリーメーソンの物語である。
著者は、幕末の志士達とフリーメーソンの関わりを示した歴史書のつもりかもしれないが、アル中ハイマーには推理小説ばりでなかなかおもしろい。そこには、坂本龍馬がなぜ暗殺されたか?仕組んだ奴は誰か?その状況証拠を順に暴いていく。
龍馬といえば幕末時代。日本の大改革の時代として語られる文献も多い。ただ、アル中ハイマーはこの時代にいまいち興味がもてない。昔読んだ本の影響だろう。無理に美化された印象があり説得力を欠くからである。政治の泥臭い部分をさらけ出して歴史のこくが出るというものである。本書は、そうした印象を違った角度から見直させてくれるのでアル中ハイマーには意義深い。

物語は、龍馬暗殺事件で一般的に語られる歴史に矛盾を呈するところから始まる。龍馬には二階奥の部屋に陣取り刺客対策をしているなど危機管理意識があった。にも関わらず抵抗した形跡がないなど不自然なところが多い。周囲の証言も矛盾だらけだという。これは、誰も真相が語れない大きな力が存在するのではないかと示唆している。
そして、龍馬の行動を追っていく。龍馬の脱藩は特殊任務であり諜報活動であったことが語られる。武士の世界では、脱藩は重大犯罪であり罪は家族にまで及ぶ。しかし、土佐藩からはお咎めなし。藩内にも自由に出入りできた。これはいかにも奇妙である。また、龍馬のような下級武士が、いきなり歴史の表舞台に現れること自体が疑問であるという。幕末の志士に歴史のロマンを感じたり憧れを描いている人は衝撃を受けるかもしれない。ただ、明治維新のような時代に数々の陰謀が取り巻いてもなんら不思議はないのである。

時代背景は、幕末の志士達は欧州列強から国を守ろうとした。自由貿易で近代文化を取り入れる必要があり開国へと走った。英国もまた自由貿易により影響力を増したかった。英国から見れば、幕末の志士達は反体制テロリストにでも見えたことだろう。武士の魂を葬り東洋の島国を転覆させようなどと考えていただろう。いずれにせよ、双方とも攘夷派を一掃しようと考え利害関係は一致していた。これは一般的な歴史が示している通りである。数々の歴史本では、幕末の志士達は西欧の自由や平等という価値観に憧れたことが語られるが、フリーメーソンが持つ神秘性となんとなくつながりそうだ。また、同じ島国でもある世界最強の大英帝国に学びたいと憧れたりもしただろう。大英帝国こそ大日本帝国の産みの親かもしれない。
では、その黒幕とは?「石の扉」でも取り上げたトーマス・グラバーである。幕末の志士達が英国へ留学できたのもグラバーの支援による密航であると語られる。

幕末当時活躍した藩と言えば、薩摩藩と長州藩だろう。おいらは、幕末の大改革に、なぜ遠く離れた薩摩藩が主役になれたのかという疑問を持っていた。江戸時代の藩の収入は石高で決まる。貿易でも収入を得ていた薩摩藩は自由貿易の大切さを知っている。外国と密かに交流していたからには情報の優位性もあったであろう。薩摩藩と言えば、西郷隆盛が主役で、島津斉彬、大久保利通などとつづくが、大阪実業界トップにも君臨した五代友厚の扱いは地元では低いらしい。本書では、五代がグラバーの秘密工作員だったという仮説を述べている。グラバー邸は、倒幕の志士たちの隠れ家となっており、五代もその一人であるという。実は幕府と倒幕派には秘密ルートがあったこと、倒幕派でも武闘改革派と無血改革派があり、これら全てがグラバーで結びつく様子が語られていく。

五代の活躍に生麦事件の処理を紹介している。
薩摩藩の大名行列に英国人が通りかかったところを藩士が無礼打ちした事件である。この代償に軍船を明渡した疑いがある。西洋の近代兵器と戦ったところで勝ち目がないと見て、頑固な薩摩藩の意地を立てて密かに英国と取引したものである。
長州藩については下関事件を取り上げている。
歴史では、和平交渉が決裂し英仏米蘭の連合艦隊に一斉砲撃したことになっている。しかし、実は和平交渉は儀式であり英国側の真意は攘夷派撲滅の口実がほしかっただけだったという。平和を求めたが蹴られたという既成事実を完璧に演出したのである。これは欧米の伝統的手法なのか?酔いがまわってきたせいか真珠湾とイラクを思い重ねてしまう。

やはり外交手法については、日本は伝統的に遊ばれているようだ。日本の政治が三流と言われる原因は外交交渉だけではないだろうが、民主主義の世界では、政治的に優位に運ぶためには要望だけでは戦術にならない。無理やりにでも何らかの正当と思わせる理由が必要である。それが議会を動かす力であり他国への説得力である。理由付けを作る諜報活動も民主主義が生み出した高等技術と言えるだろう。現に英国は幕府側の人間ともうまく情報交換していたらしい。表向きは中立の立場をとっていたが諜報活動に余念がない。結果的に幕府側は英国の術中に嵌った。さすが最先端の民主主義国家である。英国政府は、誇り高き武士に気づかれなぬよう、あくまでも秘密裏に事を起こしている。本書は、明治維新を起こさせたグラバーとアーネスト・サトウの英国諜報ラインを暴いた感じである。各藩を倒幕派に走らせた駐日英国公使ハリー・パークスの巧みな倒幕工作と合わせて語られる。日本中を軍艦で脅し回って、残ったのは会津、長岡、南部、二本松などいずれも内陸で英国軍艦を目撃できない所か、海に面していても英国軍艦が立ち寄れない小港をかかえる藩である。歴史は英国の武力に屈した感がある。

いよいよ、龍馬暗殺事件の結末に迫る。
本書は、薩長同盟における坂本龍馬の影響がどれほどあったのか?疑問を投げる。そもそも脱藩した下級武士がそれほどの仲介ができるのか?やはり黒幕はグラバーということになる。
歴史では、坂本龍馬と中岡慎太郎の2人は京都近江屋に滞在中、京都見廻組に襲撃されたことになっている。免許皆伝の凄腕の二人が反撃の間を与えずに暗殺されている。龍馬に至っては拳銃を撃つ暇も与えていない。また、隊長がやられたというのに事件直後陸援隊も海援隊も騒いでいない。本書は改革派が分裂していた仮説を持ち出す。無血改革派と武闘改革派の対立である。目的が一致しても方法論をめぐって対立することはよくある。
まあ、そんな内輪揉めはいいとして肝心の2人を暗殺した奴は誰やねん?
なにー!ジェフリー・アーチャーばりじゃん!
なぜそう思ったかって?たまたま「ケインとアベル」を観ただけのことで特に意味はない。

本書は、幕末の志士の誰がフリーメーソンだったかという証拠はないが、フリーメーソンによって影響されたのは確かであると語られる。いったい明治維新とは日本人にとってなんだったのか?「君が代」の元曲でさえ英国人の作曲であるとしめくくっている。
日本は大英帝国にあやつられて近代化した様子が語られているのだが、見解はもう一つあるだろう。日本が大英帝国を逆利用したとは取れないだろうか。この時代、西欧のご都合主義で、植民地化が進む中国人は正直者で、自立を目指した日本人は信用ならないというのを昔本で読んだのを思い出す。
W.リップマンは書籍「世論」の中で、陽気なアイルランド人、論理的なフランス人、規律正しいドイツ人、無知なスラブ人、正直な中国人、信用ならない日本人、などの固定概念を持っていると記している。
本書を読んで日英同盟までの歴史は描かれた筋書きのように思える。英語が国際語となったのは第二次大戦で米英が勝ったからと言う人も多いだろうが、キリスト教の宣教活動とフリーメーソンの役割は大きいだろう。本書で語られる数々の仮説が全ての矛盾を解明しているとは到底思えない。ただ、一般的に語られる歴史よりも説得力を感じるのは、アル中ハイマーがただの酔っ払いだからかもしれない。

2007-07-15

"石の扉" 加治将一 著

立ち読みをしていると、なんとなく懐かしいキーワードにぶつかった。フリーメーソンである。フリーメーソン、ユダヤ、世界大金融といえば、陰謀めいたものを感じて一昔前に興味を持ったことがある。
本書は陰謀説とは少し離れて柔らかい感じがする。フリーメーソン紹介書といったところだろう。冒頭から事実に基づくとある。信憑性があるかどうかは意見が分かれそうだが、読み物としてはなかなかおもしろい。記事にするからには買ってしまうのだ。

フリーメーソンは、世界最古にして最大の秘密結社である。
思想は、自由、救済、真理、平等、友愛。思想信条を一つにすることもなく強制もない。宇宙には人間の及ばないなにか至高なるものがあって、それを神と呼び、その存在を信じている。どこの宗教の信者も問わない。守るべき戒律はない。
アル中ハイマーは、なんとなく高度な理性と秩序に支配された世界であるという印象を持っている。宗教の香りもするが、宗教は愛も育てるが憎しみも育てるので簡単には説明がつかない。
なぜ、秘密組織が何百年も続いているのか?なぜフリーメーソンが世界を動かしていると噂されるのか?世界に400万人のメンバーを有し共通の掟を持っている。そんな大人数で何をやっているのか?
世界征服、ユダヤの陰謀、カルト教団、更には宇宙人の侵略などいろいろと噂される中で、本書はこれらの陰謀めいた話を否定する。フリーメーソンというだけで暗号やサインで互いに分かち合えれば、世界各国で要人を紹介してもらったり、VIP待遇もあるというから興味を持たざるをえない。さっそく、酔っ払い気分で勝手に章立ててまとめてみることにしよう。なぜかって、そこに泡立ちの良いビールがあるから。

1. その語源
フリーは自由。メーソンは石工。欧州の街並みは、城、教会、家などの建物から、道路、橋、水道というインフラまで石造りで埋め尽くされる。石こそ国家の要であり、石工は重要な位置付けにあった。城などは国家の最新鋭防衛システムであり、石工のマスター(親方)は国防の重要人物である。石工のマスターを束ねるグランドマスターは国防長官といったところだろう。あの荘厳なゴシック建築を見れば圧倒される。石工も馬鹿にはできないのである。言い伝えによると、初代グランドマスターは世界一栄華を極めていたイスラエルの王、ソロモン王だったらしい。ただし、史実上の裏づけがなくメーソンの経典に書いてるだけである。こうした話から、ユダヤ教を崇拝し、ユダヤ陰謀説などとこじつけられる材料とされるのだろう。いずれにせよ、ユダヤ教、キリスト教の影響を受けているのは確かなようだ。また、フリーは自由と訳すよりは、免除と訳すべきらしい。税金の免除など、数々の特権が与えられたという意味で捉えるべきのようだ。よって、フリーメーソンとは、上級資格をもった石工という意味である。

2. その原形
国家事業として建設を行う場合、石工職人を募る必要がある。この時、資格制度があれば職人の区分けが容易い。これがフリーメーソンの原形であるという。職人の区別は階級で管理される。この資格を売買する輩もいたので極刑で管理されていたようだ。この管理体制、階級体制がピラミッド型になっている。こうしたことから、ピラミッドはフリーメーソンが建設したと主張する人もいるようだが決定的証拠はない。本書もピラミッド建設にフリーメーソンが関わっているという仮説を支持している。そもそもフリーメーソンの性格からして証拠が残されている方がおかしいという。
しかし、統制が確立している組織とは、だいたいがピラミッド型の管理体制になっていると思うのはアル中ハイマーだけだろうか?
ピラミッドは王の墓ではなく公共事業であったという考えはほぼ定着している。では何のために?本書は、何かの儀式を行うための館だったのではないかという仮説をたてている。フリーメーソンのロッジは世界中に散らばっているが、エジプトゆかりの名前を冠したものが多く見られるらしい。なんとなく古代エジプトとの関わりはありそうだ。

3. 十字軍との関わり
素人目に見ても、宗教との関わりがありそうなことは薄々感じる。イスラム教もキリスト教も古代エジプトのイシス信仰を受け継いでいるので関わりがあるだろう。本書でも、イスラム教対キリスト教の構図として十字軍を取り上げている。騎士団は12世紀以降のヨーロッパで発生した強固な結社であり、背景はいずれも反イスラムである。三大騎士団と言えば、テンプル騎士団、聖ヨハネ騎士団、ドイツ騎士団。テンプル騎士団は、なぜ秘密結社という形態にこだわったのか?彼らの儀式や集会の秘密性。これは独特な世界観を植え付ける心理的作用があるという。武士でも似た面があるが、騎士としての気品の高さだろうか。人間は、あらゆる面で他人より高貴であると思いたいのだろう。ブランド志向や、社会的地位を求めるなどはその典型である。高貴と言われる世界には必ず儀式が存在する。天皇家に見られる儀式も、日常からは遮断されているがゆえに気品が保たれていると言っていいかもしれない。気品とは一般人との差別意識ということか?差別化の度合いは一般社会との乖離度に比例すると述べている。例えば、ゲリラや犯罪組織など、儀式が反道徳的であればあるほど仲間の結束も固い。ロッジを創ることは、餓鬼の頃、仲間で秘密の隠れ家などを作って遊んだ感覚と似ている。本書は、フリーメーソンとテンプル騎士団の共通性について語り、深い関わりを持っていたのではないかという仮説を立てている。十字軍は、ユダヤ人勢力も目障りであった。イスラム教だけでなく、その矛先は旧約聖書を掲げるユダヤ教にも向けられた。ゆえに、ユダヤ人は秘密裏に集会を行い、フリーメーソンという隠蓑を使って差別主義をかわしたという仮説も立てている。

4. 明治維新との関わり
本書は、坂本竜馬の雄大にしてトリッキーな行動はいったいどこから生まれたのか?と疑問を投げる。幕末から明治にかけて活躍した西郷隆盛、高杉晋作、伊藤博文、桂小五郎、五代友厚、岩崎弥太郎らを追っていくと同一人物に辿り着くというのである。ちなみに勝海舟ではない。竜馬が日本初の商社を長崎に設立したことにしても小曾根英四郎の援助があったからで竜馬の人間性をかったとものの本では片付けられるが本書はそうはいかない。竜馬が長崎に滞在した期間から会社設立までの期間が異常に短いこと、竜馬の知名度からして行動のスケールが大きすぎることから、黒幕の存在を指摘する。長崎といえばグラバー邸。明治維新最大の黒幕はトーマス・グラバー。グラバーの封建社会打倒という理念から利害関係が一致したので竜馬を利用したと語られる。著者は、グラバーの生地はスコットランドで、彼はフリーメーソンであると確信していると熱く語る。このあたりは、一生懸命証拠立てして解明しようとしている苦労が伝わるので推理小説のように読める。ちなみに、黒船で来航したペリーもフリーメーソン。終戦のミズーリ艦で調印した時、ペリーが掲げた星条旗を持ち込んだのも、マッカーサーがフリーメーソンだからであると述べている。日本の首相にも。。。あらゆるところにフリーメーソンはいる。プロスポーツ界にも多い。

5. 1ドル札
1ドル札にピラミッドが描かれている。他国の文化遺産がなぜ米国の紙幣に使われるのか?これぞフリーメーソンの象徴なのだという。これは「全能の目」という章で語られているが、その解釈はおもしろい。1ドル札にラテン語でつづられた以下の文章。
「NOVUS ORDO SECLORUM」 新しい世紀の秩序!
「ANNUIT COEPTIS」 我々の計画に同意せよ!
という意味らしい。この2つの文章がピラミッドを囲んで円を描くように配列されている。そこにダビテの星を描くと、ちょうど星の5つの頂点にM,A,S,O,N (メーソン)が重なる。へー!
本書は、アメリカ合衆国、EUも総じてメーソン国家で、フィリピン、ブラジル、アルゼンチンもそうだと言っている。スウェーデンに至っては王室とメーソンがダブっているとまで言っている。歴代の米国大統領にフリーメーソンが多い。ナポレオンもフリーメーソンだったのではないかという歴史家がいる。

本書は全般的にフリーメーソンの行儀の良いところを取り上げている。しかし、これだけの人数がいる以上は、行儀の悪い面もあるはずである。その一つを紹介してくれる。P2事件(プロパガンダ2)。これはイタリア映画「法王の銀行家」で公開されているらしい。複雑に絡み合った陰謀を銀行家を通して描いているのだそうだ。おいらは観ていない。
集団には、その理念がどんなにすばらしくても一部で傲慢な連中が育つ。エリートと称して思い上がって世界金融を支配しようと思っても不思議ではない。時々、フリーメーソンと世界金融の支配を重ねて論じるものを見かける。本書でも、秘密主義で自分達をエリートと思い上がり傲慢になる危険性を述べているが、世界征服など物理的に不可能だと言っている。確かにそうかもしれない。ただ、物理的に不可能だからといって抑止力にはならない。思い上がれば可能性を肯定するだろう。これはフリーメーソンだからというのではなく、秘密主義を共有しエリート集団であると自己認識したときに傲慢さが生まれる。これは人間の真理だろう。こうしたタイプの人間は、特に政治家や官僚など地位のある所に多いように思える。俺が世話してるんだ!俺が金出してるんだ!人間とはそのように変貌するものだ。
特にアル中ハイマーは秘密の会合で有頂天になりやすい。フリーメーソンの理念を見習うべきである。さっそく秘密の場所に行って酒を酌み交わし情報交換をするとしよう。
ただ、その場所をロッジとは言わない。クラブと言っている。
ちょうど案内状が届いている。そこには暗号文で「浴衣祭り」と書いてある。

2007-07-08

"獄中からの手紙" ローザ・ルクセンブルク 著

本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。前記事ではその中から「絞首台からのレポート」ユリウス・フチーク著を取り上げたが、本書もその中の一つである。見つけた場所からして、同じく20年ぐらい前に読んだのだろう。本書は100ページ超と薄く、手紙であるため手軽に読める。
そのためか自宅でありながら、つい立ち読みしてしまう。アル中ハイマーには、立ち読みの方が緊張感があって気分が出るようだ。ついでに、カウンタがあって美しいお姉さんから凝視でもされたらもっと集中できるのだが。

ローザ・ルクセンブルクは、マルクス主義の政治革命家で、本書は、投獄中、リープクネヒトの妻となった友人宛てに書いた手紙集である。
そう言えば学生時代、マルクス主義やら独裁者の思想などの本ばかり読んでいた時期があった。あまりにも暇だったのだろう。ただ、この頃読んだ本の内容はほとんど覚えていない。当時は、アル中ハイマーには政治思想など理解できないと諦めたものである。
しかし、本書は政治色を微塵も感じさせない。ローザは、政治犯として投獄され、いずれ虐殺される運命にある。そうした暗い人生を加味して読んでも、獄中で書かれたものとは信じられないほどの穏やかさがある。自然の風景が語られ、詩の朗読があり、思い出が語られ、時折、囚われの身の心境を覗かせる。読書しているというよりは、風景画を鑑賞しているかのようだ。人間は自分の運命を悟ると、その瞬間を大切にするだろうか。風景を描写する表現力に文学的な価値がありそうなのは、おいらのようなド素人にでもなんとなく伝わる。
ただ、アル中ハイマーにはこの作品の論評ができない。到底およびもしない高度な文学的領域であるように思えるからだ。当時は難し過ぎて記憶できなかったのかもしれない。そもそも本当に読んだのかも疑わしい。今、スコッチを味わいながら当時を思い出そうとしている。そして、だんだんいい感じになってきた。あー気持ちええ!えーっと!今、何してたんだっけ?そうだF1を観るんだった。

2007-07-01

"絞首台からのレポート" ユリウス・フチーク 著

久しぶりに本棚を整理していると、読んだ覚えのない本をたくさん見つけた。本書もその一つである。見つけた場所からして、多分20年ぐらい前に読んだのだろう。一度読んだ本を読み返すなど専門書でもない限り絶対にやらなかったことであるが、気まぐれはよくある。読んだ本を思い出せないとは、なんのための読書かわからない。時々昔の本を読み返してみることにしよう。その時期感じた感覚とは違う発見があるかもしれない。なかなかおもしろそうだ。このような気分になれたのもブログ効果かもしれない。自分の書いたブログも後に読み返せる日がくるのを楽しみにするのである。

著者フチークはチェコのジャーナリストで、ナチス占領下のプラハで政治犯とて捕らえられた。彼は、すさまじい拷問に耐え目前の死に向かいつつも抵抗の記録を書き遺した。本書は、歴史的には政治文書として評価されてきたようだが、アル中ハイマーにはなかなかの文学作品である。まるで詩のようなさわりが、あちこちにちりばめられている。そして、個人の描写が勝っていて政治色などあまり感じられない。
前書きに、ゲシュタポが使っていた屋内拘禁室を「映画館」と、誰が名づけたかわからないが、その中で、著者は「私の生涯の映画を百回も観た」と表現している。アル中ハイマーは、人間の生涯とは映画を観るようなものと語られる、この表現が好きである。
これほどの書物を、一度は読んでいるはずなのに覚えていないとは、アル中ハイマー病に犯されているとはいえショックを受けるのである。

アル中ハイマーは、チェコという国に昔から少々興味があり、一度訪れてみたいと思っている。チェコの作曲家ドボルザークの交響曲「新世界より」は、小学生の頃始めて買ってもらったレコードである。また、リディツェ村の話を知ったのが中学生の頃である。ナチス占領下、ラインハルト・ハイドリッヒ暗殺の代償として、リディツェ村の住民を老若男女問わず殺害され村の存在そのもが抹殺される。そして、戦後リディツェと名のる町があちこちに登場する。ハイドリッヒ襲撃事件については本書でも一瞬だけ触れられる。

本書は、まず尋問に抵抗して拷問されている様を描写する。
まだ自分が死ねないことを母親に丈夫に産んでくれたことを嘆いたり、逆に、限りなく遠いところから愛撫のように気持ちよく、やさしい落ち着いた声が聞こえてくる。など、もうろうとした意識、幻想的な感覚といった、夢でも見ているかのような生々しい表現が続く。また、自分自身の危機に対する描写だけではない。周りの人間が死んでいく様も描いている。自分の人生が無駄ではなかったことを自身で励ますかのように、そして、その終わりを台無しにするようなことはしたくないという誇りと意地を張る様子が語られる。

アル中ハイマーには文学的センスが全くないので文章テクニックはわからないが、本書はいたるところに文学的表現がちりばめられ心を穏やかにしてくれる。その例を一つ紹介しよう。下記は拷問に耐えぬいて、やや気力が戻った時の様子を表現している。ちょっと長いが気に入ったのでそのまま引用する。
「復活とはいささか奇妙な現象である。名状しがたいほど奇妙な現象である。よく眠ったあとの晴れた日、世界は魅力的である。ところが、復活の日には、まるでその日がかつて一度もなかったほどよく晴れわたり、またかつて一度もなかったほどよく眠ったような感じがするものである。あなたは人生の舞台をよく知っているような気がしているかもしれない。ところが復活というのは、まるで照明係りがすべての照明灯に明るいレンズをはめ、あなたの目の前に完全照明の舞台を一度に現出させたようなものである。あなたは自分で目がよく見える、と思っているかもしれない。ところが、復活はまるであなたが望遠鏡を当て、同時にその上に顕微鏡を重ねたようなものである。復活とは春さながらの現象で、ごくありふれた環境にも、思いもかけぬ魅力がひそんでいることを春さながらに見せてくれるのである。」

戦時中の囚人の気持ちとはどういうものなのだろうか?そこには、ゲシュタポに逮捕された時点で死を覚悟しているとあるが、希望と絶望の繰り返しの様がうかがえる。ファシズムの死と自分の死のどちらが先か?こうした忍耐競争が世界中で問われたことだろう。また、ファシズムが死ぬまでに、まだ何十万という人の犠牲が必要であることも覚悟しなければならない時代である。そもそも彼らが捕まった理由など何もない。ハイドリッヒ襲撃事件に触れているところで、おもしろいことに、事件が起きる二日前に検挙された人々の罪状が、ハイドリッヒ暗殺に荷担したというのである。処刑するのに理由はいらない。殺す人間のことなど調べる手間が無駄である。目的は民族の抹殺である。そうした時代にあっても人間は希望的観測がつきまとう。戦争の終わる時期について、バラ色の観測が毎週のように生まれる様が語られる。人々はそれを信じる。ここで、もう一つ文章表現に目が留まった。
「人生は短い。それでいてここではあなたは、その人生の一日一日がはやく、よりはやく、この上もなくはやく過ぎ去ることを強く願っているのである。あなたの寿命を刻一刻ちぢめている。生きて帰らぬ時、とらえがたい時が、ここではあなたの味方なのである。なんと奇妙なことだろう。」
本書は人間観察についても鋭い。それは囚人仲間はもちろん、看守から刑務所長に及ぶ。信念を持ちつづける者。裏切る者。ドイツ人看守の間の友情を、互いに監視しあい、互いに密告しあう緊張感のあるものとして描いている。密告により地位を確立する者もいるが、その密告の信憑性など一体誰が調べるものか。陰謀は渦巻く。

本書を読んでいる時、途中で数々の疑問がわいてくる。
死への恐怖から、正気を取り戻すために、記録を遺したのかもしれない。
迫りくる死に向かって遺せる文章とは?
拷問に耐えられず裏切る者もいる。それなのに政治的信念とは何か?
自分自身が死んでいるのか?生きているのか?わからない局面の心理とは?
かすかな痛みと喉の渇きのようなものが、生きていることを実感できる状態とは?そのような極限状態で、抵抗しつづけるとは?
誇りを持ち続けるということは?
しかし、アル中ハイマーはいつのまにか答えを出すことを放棄している。せっかくの文学作品に理屈などいらない。いつのまにか、そうした心持で読んでいる。

本書が世に出回ることができたのは、監房に紙と鉛筆を持ち込み、書いている間ずっと見張りをし、原稿を獄外へ持ち出した看守がいるからである。本書では、その看守の様も語られる。最初、ドイツ人看守が紙と鉛筆を持ってきた時は、話がうま過ぎて信用できなかったとある。その看守は、ドイツ人と名乗っているが実はチェコ人であった。後書きには、この原稿がゲシュタポの家宅捜索から逃れた様を解説してくれる。

それにしても、昔読んでいるはずの本の記憶が全くないというのは幸せにしてくれることもある。自分の本棚が新鮮に見えるのである。今、更におもしろそうな本が埋もれていないか探している。宝はアマゾンの中だけにあるのではない。灯台もと暗しである。本棚を眺めているだけで一杯やれるとは、のどかな一日である。

2007-06-24

"人を動かす「韓非子」の帝王学" 中島孝志 著

昨日は久しぶりにカート三昧である。土砂降りの中、10ヒート以上は走っただろう。路面は超ウェットだが、もちろんタイヤはスリック、気分はドライである。アル中ハイマーはウェットが得意である。だが思ったようにタイムが出せない。久しぶりとはいえ平凡なタイムではフラストレーションがたまる。近いうちにリベンジだ。とりあえずドライマティーニでリベンジしよう。
今日は腕の付け根と背中が痛い。腕はアンダーステアなのでキーを叩くのがしんどい。よって、本日のブログネタは簡単に処理できるものを選びたい。

本書は、ハードカバーの単行本で200ページ超あるが、字は大きく隙間も大きい。いかにも年寄り向きの作りで、最近小さい字を読むのが億劫なアル中ハイマーにはありがたい。
また、構成は各章とも、1. 原文をくだいた文章、2. 原文っぽい古文風、3. 解説、と、内容が3回繰り返されているので実質読む量も少ない。よって一気に読めるので手軽である。たまにはこういう本をネタにしないと息切れしてしまう。

本書は、一言で言うと、"人をマネジメントするには、人間通になれ!"ということだろう。宣伝文句には、「人を思いのまま動かす悪のノウハウ満載」とある。なんとなくアル中ハイマーが喰いつきそうなフレーズである。ただ、マネジメントの失敗続きで、なぜうまくいかないのかという解を、本書に求めても無駄だろう。人を動かすとは、そう簡単なものではない。ハウツウものにできるほど体系化できるものではないのだ。そもそも本から教訓を得て実践してもぎこちないだけである。優れたリーダーは自然と振舞うものである。むしろ、本書を読んでうまくいく人は元々人間掌握の資質がある人だろう。または、そこそこうまく振舞っている人間が自己確認のために読むのにおもしろいだろう。普段の人間性こそ重視すべきである。アル中ハイマーは、あらためて人の上に立つことの難しさを感じさせられるのである。

1. 独裁者。
本書では、善いリーダー像の対極的な人間像として独裁者をいたるところに鏤めている。独裁者やワンマン経営者の組織では秩序がなく、その場でころころと指針を変える。こうした組織では、リーダー1人の心中を推し量ることだけが幹部の仕事である。上り坂では直感が当たりカリスマと崇められるが、下り坂では地獄へ真っ逆さま。資金力もなく総合力に劣る組織が、ライバルに挑むにはゲリラ戦に持ち込む。こうした状況では、一人一人の人材パワーに負うところが大きいにも関わらず、無視するリーダが多い。リーダーがワンマンであればあるほど、その周りにはイエスマンばかりはびこる。本書は、特に日本の企業社会はイエスマンが増殖しやすい傾向にあるという。過度の忖度社会を指摘している。それはそれで良い面もあるのだが一理ある。ただ、理不尽なことまで押し付けられるのは、忖度ではなく脅迫である。これを過度の忖度と表現しているのだろう。理不尽に対抗する人ほと去っていく。そういう人ほど戦力であり他社でも通用するから、なおさらである。よほど気を引き締めないと裸の王様になる。会議ではワンマンショー!偉い方は部下が馬鹿に見えてしょうがないのだろう。

2. 人気と人望は違う。
「いくら部下が優秀であっても、年上であっても、彼らが"さすがだ"と一目置くものを指導者は持たなければならない。だからといって全ての能力が部下を凌駕する必要はない。1つか2つでよい。その最低限、熱意は必要である。自分以上の集団の中でリーダーシップを発揮するには人望がなければならない。人望のある人物は損得では動かない。」
酔っ払いも負けじと主張するのだ。人を褒めることは、人を叱ることができる人の権利である。人を雇うことは、人を首にする勇気を持った人の権利である。可哀想だからといってやたら仕事を受けたり、人を受け入れたりすると破綻する。責任を負わされた先任から去っていく。

また、かつて功労があったからといって、その礼に人事をするととんでもないことになると語られる。功には碌で報いて、地位、ポジションで報いるものではないという。褒めることは簡単だが、叱るのは難しい。更に難しいのは人を切ることである。更に難しいのは自分を抜擢してくれた恩人に対するリストラである。歴史の長い上場企業や伝統企業にはびこる老害はすべてここに原因がある。功績のある会長や相談役というポジションに居座る人物を解任できない理由がここにあると指摘している。

3. 部下の一生は最初の上司で決まる。
「一人目の上司で7割が決まり、二人目の上司で9割が決まる。本人が切り開くのは1割しかない。」
これは、思いっきり反論したくなる。あまりにも他力本願過ぎるからだ。本書が言いたいのは、それだけ心して新人を育てよ!という意味だろう。また、こうも述べている。
「新人教育で重要なのは仕事のスキルやノウハウではない。取り組み姿勢。心の部分。価値観である。スキルやノウハウはリーダよりも優れた人材は多くいるし、本人の勉強意欲でも対応できる。重要なのは、いつの時代でも価値観である。」
なるほど、これならば反論する気持ちが静まってしまう。あるバーテンダーのジントニックを無理やり飲まされた後に、店長のサイドカーを食らった気分である。
アル中ハイマーは先輩に恵まれている。いつも厳しい先輩が、おいらが大失敗した時、怒られると思ったら妙に寛大だった。余計に失敗を恥じたものである。また、別の先輩は、「初めてやった技術だから失敗した。なんてのはプロの台詞じゃない!」と言った瞬間は、かっこええと思ったものだ。馬鹿なおいらを根気強く論文の指導をしてくれた大先輩。もちろん夜の社交場も、手取り足取りと。それぞれ分野別に恵まれたものである。恩返しで後輩の育成に務めなければならないのだが、なにしろ短気が災いして、数多い優秀な人材の芽をつんできたことだろう。福沢諭吉曰く。「実学とは一流の人と出会うことである。」同感である。

4. モルトケ
本書は、世界最高の軍師と歴史上名高い、プロシア国の参謀モルトケを紹介している。一番の要職に就ける人材とは、能力が高くて欲のない人間。無益な欲得にとらわれないで課題を突破することに知恵を絞るので、リーダにうってつけというわけだ。二番目は、能力もないし、欲もない人間。こういう人は人畜無害。三番目は、能力も欲もある人間。しかしリーダには向かない。特に、この手の人間は周りの人間が馬鹿に見えるから自信過剰で人の意見を聞かない。更に、いったんポストを与えると独断専行しがちである。最も悪い人事は、能力がないのに出世意欲だけは異常に強い。これ以上、組織にとって人畜有害なものはないだろう。

5. 本書は、本音をやたら表に出すものではないという。
相手の様子を伺いながら、人を説得するには相手の目線にあわせることであると述べている。まったく、その通りである。しかし、とっとと本音をぶつけないと会議が早く終わらない。アル中ハイマーは長時間の会議が大嫌いである。1時間が限界である。交渉は肩が凝る。そもそも相手を説得しようとは思わない。本音をぶつけて合意できなければ無理に交渉を進めることはない。金儲けをしたければ、あらゆる仕事に手を出せば良いが長続きする気がしない。重要なのは長続きさせることである。しばしば本音を利用され損をすることもある。それはそれで良い。どうせ、それっきりの付き合いである。この点は、アル中ハイマーは頑固おやじである。よって評判も悪い。しかし、この一本気で強がっている酔っ払いは、ただ能力がなくて何もできないことを隠しているに過ぎない。

6. 最終的には人徳かなあ。
結局、人間掌握するには誤魔化しはきかない。人徳が重要ということになりそうだ。本書でも、数箇所に人徳という言葉が登場する。そう言えば、おいらは会話で人徳という言葉を使ったことがない。
人徳を持った人は言うだろう。「私は人徳を持っていない。」
人徳を持っていない人は言うだろう。「人徳とは。。。こういうものだ。」こうして説教が始まる。
アル中ハイマーは言うだろう。「人徳って焼酎の銘柄かい?」
おいらがこの言葉で唯一思い出せるのは戦国シミュレーションゲームで、武将のパラメータに人徳度というのがある。この数字が高いとゲームを有利に展開できるので、なんとなくすげーものだという意識がある。その数字を高めるには官爵を得ることである。どうやら地位と名誉に比例するものらしい。なんとなく本書とは違うもののようだ。
やっぱりアル中ハイマーには、人徳という幻の焼酎を探してさまよう方がお似合いである。ということで、秋は酒蔵めぐりの旅を計画することにしよう。