2009-04-26

"クラシック名盤この1枚" 中野雄 他多数著

本屋を散歩していると、懐かしい風が吹いてくる。なにやらマニアたちがクラシックの名盤について熱く語っている。昔々、美少年だったアル中ハイマーはクラシックばかり聴いていた。その思いに耽りながら立ち読みしていると、すでに三分の一ほど読み終わっている。ちょうどその時、カウンターから鋭い視線が突き刺さる。振り返るとお姉さんと目が合った。どうやら気があるらしい。そして、ドスの利いた声で「この本をたのむ!」と話しかけると、お姉さんは決まりきった営業文句であっさりとかわす。どうやら照れ屋さんのようだ。

本書は、600曲近く凝縮されるので、クラシックの字引としても使えそうだ。それも、実に多岐に渡る人々によって語られる。プロの演奏家、レコード製作者、評論家、大学教授、ジャーナリスト、アマチュア音楽家、実業家、あるいは、普通の会社員、教員、悠悠自適で隠退生活を謳歌している人などなど。曲名だけを追えば、半分以上は聴いたことのある有名な曲ばかり。しかし、彼らの造詣は、演奏者と指揮者はもちろん、録音時期までも組み合わせるという徹底振りだ。ここで紹介される名盤は、著者たちが「生きる糧」として聴きぬいてきた選りすぐりのものだという。そして、アナログ盤、CD、LD、DVDが連なり、廃盤、現役盤を問わず掲載される。中野雄氏は、後書きで次のように記している。
「音楽の本質は瞬間芸術、流れる時間のある瞬間に人を感動させ、本体が消え去ったあとに思い出を永遠に残す、華やかにしてはかない行為。」
アル中ハイマーは、このフレーズにいちころなのだ。

おいらが、初めて音楽に目覚めたのは何を隠そうクラシックである。幼少の頃、TV放送で聴いた交響曲に感動してレコード屋に買いに行ったが、その曲名が分からない。困った挙句、ジャケットのオーケストラの写真の格好ええものを選んだ。それがドヴォルザークの「新世界から」、ユージン・オーマンディ指揮、ロンドン交響楽団 (オーマンディ「音」の饗宴1300 Vol.9)。第四楽章の冒頭には鳥肌が立った。その感覚はいまだに条件反射として残っている。今、このLPを前にして記事を書いている。レコードプレーヤは20年ほど前から倉庫で埃をかぶったままだ。そこで、久しぶりにプレーヤを復活させることにした。既にレコードの音はボロボロだが、そこが懐かしくていい。老人が蓄音機を前にして懐かしんでいる光景とは、こうしたものだろうか。何かちょっと聴いて元気をつけようと思った時、原点に戻ってみるのもいい。人は、生きているうちに自分のテーマ曲のような存在を見つけるだろう。すっかりクラシックを聴く機会が少なくなったが、本書によってクラシック熱が蘇りそうな予感がする。

一つの曲でも、演奏家や指揮者が違うことで、どちらが良いかという判断はおいらにはできない。違うのは分かるのだが、どちらも違った良さがある。しかも、その日の気分によって好みがころころと変わる。その統計を取っていけば、多数決で軍配を上げることはできるのだろうが。
初めて聴いた曲で、その良さを理解できないことがよくある。それが、ある日その曲を気まぐれで聴いてみると、感動して虜になることがあるから不思議である。こうした感覚は、音楽に限らず芸術の分野ではよくある。これも、感性が人生経験によって変化している証であろうか?若い頃は、自分の感性に合わないものには批判的な態度をとったものだが、それが感動できる時が突然やってくるから摩訶不思議。そして、だんだん批判している自分に疑問を持つようになった。

本書は、突然開眼した体験話や、文学的でつい読みいってしまうものや、あまりにもマニアック過ぎて理解の難しいものなど、盛沢山である。芸術では、奥深いがために、鑑賞者の理解を邪魔することがある。エネルギッシュで考えすぎない素朴な方が素人には分かりやすい。芸術家は円熟した領域で一層のパワーを見せつけるが、なかなかついていけないものだ。だからといってがっかりすることもない。理解できないことが多いということは、探求する喜びも多いということだ。指揮者の人間像や、その汗臭い表情までも熱く語ってくれる様は、理解できなくてもなんとなく楽しい。
不思議に思えるのは、クラシックの感想って酒の感想に似ていることである。主語を曲名から酒の銘柄に置き換えれば、そのまま使えそうな表現が随所に現れる。音楽の本を読んでいるようで、名酒辞典を読んでいるような錯覚に陥る。なるほど、音楽も酒も五感を磨くという意味では、同じ分野に属すと言っていい。酒の色、香り、味は、視覚、臭覚、味覚に愉悦感を与え、グラスに触れる冷たい感触にも喜びが涌き、ボトルから注がれるトクトクという音にも情緒が現れる。酒を楽しむということは五感を総動員することだ。クラシック音楽を聴く時も、作曲家の人生の思い入れを感じながら味わう。聴覚を刺激するのはもちろん、空間から醸し出される空気の流れのようなものに歴史的背景が加われば、五感を総動員せずにはいられない。リスナーたちのこだわりは酒に対する造詣と同じように、音楽を語りながら人生を語っている。

マイブームは、ヨハン・パッヘルベルの「カノン」である。これをオルゴールで聴くのがいい。数年前、「オルゴールミュージアム門司港」でちょいといいやつを買ってきた。数万円以上するものは、勝手に触れることができない。そこで、職員にお願いして聴き比べさせてもらった。なるほど、そこそこ高価な物でないと良い音が出ない。貧乏人には辛いがここは奮発しておこう。ちなみに、この館には、約100年前に作られたというヨーロッパのアンティークオルゴールがあり、その演奏会を体感することができる。オルゴールを買ったからか?入館料をおまけしてくれたので、貸し切り状態で拝聴できたのは幸せである。もし、内緒のはからいだったら、お喋りな酔っ払いをお許しください!

1. 「名盤」の定義とは
本書は名盤の条件として、名曲、名演、名録音の三つを挙げている。まず、名曲であるには名演が伴わなければならない。当初、好評でなかった名曲も、後に名演奏家によって蘇らせた例は多い。バッハの名曲「マタイ受難曲」は、指揮者でもあるメンデルスゾーンによって初演から100年後に蘇ったという。ただ、名演の基準は難しい。聴く側の主観に委ねられるからである。したがって、名演の判断に演奏の歴史が必要であるという。だが、時代と共に名演の基準も変わる。少なくとも、名曲という素材があるからこそ、名演へと導かれる。
また、名盤として世に出るには、製作者の感性と収録技術がかかわる。昔の製作者の情熱や執念には驚嘆させられるものがある。映画でも、昔の特撮技術は、偽物と分かりつつも迫力を感じるものだ。逆に、最新のCG映像でも、単に見映えが良いだけで違和感を感じるものもある。昔のテクノロジーは現在に比べて乏しいが、その分、想像する空間を与えてくれるのがいい。音楽プロデュースの世界にも、映画と似た感覚があるようだ。本書によると、現在はプロデューサが企画したプログラムを別のディレクターが現場で指揮をとり、演奏家とはゆかりもない録音エンジニアが収録するという。その一方で、一流の製作現場は、最高責任者であるプロデューサは全工程にくまなく付き合うため、実際の演奏とCDの音楽が別物になることは珍しいという。また、音楽プロデュースという仕事は、音楽の専門知識はもちろん、楽器演奏にもそれなりの力量が求められるという。ただ困ったことに、演奏家の多くはオーディオに無智かつ無関心で、再生された自らの音楽を真剣に聴こうとしないと指摘している。おまけに、一流の音楽家ほど多忙で、編集作業に付き合う時間が取れない。そして、CDが登場して、発売点数は増えたが、名盤の比率が減っていることを嘆いている。なるほど、愚痴っぽい話ではあるが、音楽プロデュースの裏話が聞けるのもおもしろい。

2. ベートヴェン
「モーツァルトを聴いていると、名曲聴いて、旨い物食べて、酒飲んで寝て、一度しかない人生楽しんで生きて、なに悪かろうという気になる。ベートーヴェンを聴くと逆に、そんな遊び呆けていては駄目だ、人間として生まれたからには、何かを成さなければならない、成すために君はここに生をうけたのだと、そのように言われているような気持ちにさせられる。小生にとっては、ハタ迷惑な暑くるしい作曲家である。(井上雅之 著)」
これは、ベートヴェンの「運命」について語っている節である。重荷を背負う感じが、これをアレクサンドル・ガウク指揮で聴くと、軽い運びになると絶賛している。

3. モーツァルト
おいらにはモーツァルトの好きな逸話がある。ただ、本書では紹介されないのが残念だ。それは、オペラ「後宮からの逃走: K384」に関するものだと思う。皇帝ヨーゼフ2世が「我々の耳には音譜が多すぎるようだ。」と言うと、モーツァルトは「音譜はまさに必要とされる量でございます。」と食って掛かった。芸術家は、精神を解放しながら鑑賞者の気づかない細部にまでこだわる。そして、自らの信念への素直さと頑固さを見せる。ここに、器用な職人で終わるか芸術家になるかの分かれ目があるだろう。
本書は、モーツァルトを人間のもっともプリミティブな魅力に敏感な音楽家であると評している。
「人間の喜怒哀楽を音に結晶化することにおいて、彼以上の才能はない。(三木茂 著)」
自然に同化した芸術作品は永遠である。物事の本質を求めるとは、よりプリミティブを求めることなのかもしれない。科学は宇宙を解明するために原始粒子を探求する。芸術は精神を解明するために自然を探求する。精神の中にある「笑う」という感覚は幸せを与える。なるほど、箸が転がるだけで笑える感覚にこそ、精神の本質がありそうだ。したがって、女子高生に弟子入りして逆援助交際を目論むのがよかろう。そして、アル中ハイマーは、プリミティブな感覚を求めてジゴロになるのであった。

4. フルトヴェングラー
ワーグナーといえば、フルトヴェングラーというイメージがある。それも、ナチスに利用された暗いイメージを拭えない。おいらは、芸術の理解が乏しいので、つい歴史や逸話に翻弄されてしまう。
「科学的筆跡学のクラーゲスが、フルトヴェングラーの筆跡から「これはおそらく宗教界の教祖でしょう。芸術家だとはまず考えられない。悲劇作家ならまだしも」と述べたのは、そのフルトヴェングラーの本質に触れていることの証なのだろう。(鈴木智博 著)」
これは、彼の晩年について語ったものである。自らの死を悟った時、格段のパフォーマンスで魅了する芸術家がいる。フルトヴェングラーの晩年にもそうしたものを感じるといった意見が多いようだ。

5. バッハ
「人はバッハに始まり、バッハに還っていく。(藤倉四郎 著)」
この記事をバッハに関する名言で締めくくろう。
「バッハを知らない人は幸せである。人類至宝の扉を開ける幸せを持っているのだから」

2009-04-19

"ピープルウェア 第2版" Tom DeMarco & Timothy Lister 著

マネジメントとは肩の凝る仕事である。首を賭けねば勤まるものではない。とはいっても、滅多に首になるわけでもないが、それだけの覚悟がなければ思い切った判断は下せないということだ。ましてや優秀な人材を簡単に手放すはずもない。ちなみに、おいらの場合は簡単であった。昔、捺印済みの辞表を机の奥に忍ばせ、日付を書き込めば即提出できる状態にしていた。しかし、こうした行為は危険である。人間はつい衝動に駆られてしまうのだ。
プロジェクトマネジメントには失敗はつきものである。もし「失敗したことがない!」と発言するマネージャがいたら、それは失敗するような仕事を任されていないか、失敗したことすら気づいていないかのどちらかであろう。失敗の規準は個人によっても違う。プロジェクトの成功は、偶然性やその人の生まれ持った何かによっても微妙に左右される。マネジメントは、成功例よりも失敗例によって学ぶことが多く、極めて社会学的な領域にある。こうした性質が、マネジメントに体系化した黄金手法などないと信じる理由である。
また、組織戦略には長期的な視野が求められる。その中で重要な要素は人材であろう。目先の成果のみを追求して邁進しても、完了した途端に人材が逃げるのでは大失敗である。技術者にとって大切な精神はプロ意識の持続である。技術者は革新的な精神を望み、自らの成長を願う。マーケティング戦略で生産物の品質を妥協せざるをえないことはよくある。だが、技術者に仕事の質を大幅に劣化させるように要求することは危険である。プロ意識の持続とは難しいもので、マネージャの仕事のほとんどがメンバーの精神と対峙することになる。
おいらは「プロジェクトの必殺仕事人」と言われることがある。実に不本意だ!いくつかのプロジェクトを抹殺してきたのは事実であるが。失敗すると分かっているなら、無駄な予算を計上せずに早く潰した方が良い。メンバーの意欲が涌かない仕事は恐ろしく質を劣化させる。失敗しても、やってみる値打ちのある仕事を見出したいものだ。
などと思いに耽りながらグレンリベットを飲んでいると、本棚の一冊に目が留まった。おそらく10年ぐらい前に読んだ本である。コクのある酒はコクのある本を読み返したくなる気分にさせる。アル中ハイマーは「ピープルウェア」のファンである。本書はプロジェクトマネジメントの名著と言っていい。1989年に初版が刊行されベストセラーになった。ここではソフトウェア業界を題材にしているが、技術業界一般で共有できる。今読むと、古く感じられるところもあるが、それはそれで懐かしさがあっていい。本質が語られていれば、簡単に廃れるものではない。ところで、おいらに出会ったがために無駄な時間を過ごしたメンバーも多いことだろう。人生は短い。この記事を運の悪いメンバーに謝罪を込めて捧げる。

技術チームのマネジメントは、マーケティング戦略や技術能力の管理と考えがちである。悩みが技術的なものであれば、まだ健全である。マネージャが人間面よりも技術面に注意を払うのは、それが重要だからではなく解決しやすいからであろう。メンバーはあらゆるストレスの中にいる。意気消沈したり、愚痴っぽくなったりと微妙な変化を見せる。マネージャの仕事は技術的な助言も必要であるが、メンバーの精神状態に応じて対処することの方がはるかに重要である。プロジェクトは生き物のようにうごめく。よって、流れ作業的な手法など通用するはずがない。優れたマネージャは自然にコミュニティを形成できるようだ。その振る舞いは仕事として意識されるわけでもない。マネージャの真の仕事は人間を知ることなのかもしれない。満足のいくコミュニティを形成して成功したチームには、人を惹き付ける何かがある。プロジェクトの完成で得られる達成感は金銭的なものより得難い。むしろ芸術の完成に見る喜びと似ている。

本書はプロジェクトの失敗は見事に呪縛に嵌ると指摘する。そこには数々の「チーム殺しの技」が紹介される。チーム殺しの大部分は、仕事を蔑むかメンバーを蔑むことによって効果的にダメージを与えるという。ヤル気を出させるための規定は、見事にヤル気を削いでしまう。ワークシートといった愚行は管理部門による嫌がらせであり、電話による割り込みや職場の騒音は技術者の集中力を妨げる。また、技術業界に人材派遣業が蔓延するのは、まさしく技術者を部品扱いしている証であろう。中には、営業マンなのか区別できないマネージャがいる。顧客の要求をそのまま技術者に伝える伝言板役に徹する。そして、双方の機嫌をうかがいながら、決まったことだから仕方が無いと政治的に丸め込む。こうした行為は無神経なだけに余計に罪が重い。プロジェクトを成功させたければ、重要なのは部下を管理することではなく、上層部と喧嘩する覚悟を持つことである。
プロジェクトは常にストレスに見舞われる。技術的課題、突然の仕様変更、厳しい日程など、要因を挙げると切りが無い。ストレスが増せば、人間関係もぎくしゃくする。問題発生は常に想定しておくべきである。チーム内には笑いのネタにできる人物が一人ほしい。馬鹿を演じられる人間は貴重で、実は賢いと認められた人間の成せる技である。また、チーム内にいつも笑いを起こせる共通のネタを仕込んでおきたい。おいらは自分自身を笑いネタにするために夜の武勇伝を大げさに公表する。ほとんど作り話であるが、メンバーは素朴なもので信じてしまう。経営者は従業員よりも商売戦略を優先する。これも理解できる。ただ、中間管理職が経営者と同じ立場に立てばパワーバランスは崩れる。
そもそも、技術者が組織に所属する必要があるのだろうか?日本型の組織が税金から何もかも面倒をみてくれるのはありがたいが、サラリーマン馬鹿に飼い馴らされる。そこで、大工さんのような一人親方の制度は技術者向きに思う。一人一人が企業と契約し、棟上げなど忙しい時に集まって、後は一人でコツコツと家を建てる。必要な人材を揃えられるのは、信頼関係から得られる。固定された部署単位に仕事を作る方が、人材確保という意味では安定する。また、少々の人員不足は派遣を利用すればいいと考える。だが、技術レベルの確保という意味で健全なのだろうか?社内に一緒に仕事をしたいマネージャがいれば、個人的に売り込むのもいいだろう。つまり、社内の就職活動によってチームを形成する。逆に、マネージャからメンバーへ誘うのもありだ。会社の看板に寄り掛かった技術者と交流したいとは思わない。技術畑では所属部署を超えた文化交流は必須である。

優れたマネージャは、仕事をいくつか分割して、その都度メンバーに達成感を味あわせるという。打ち上げ効果と言おうか。そんな意図を考えたことがないが、おいらはしばしば飲む口実を作る。メールのサブジェクトには「最重要会議」と銘打つ。おいらにとってプロジェクトの成功は二の次である。失敗しても、いずれ笑い話とできるならばそれでいい。何よりも人生を楽しみたいだけなのだ。そもそも、酔っ払いには会社という枠組の概念がない。過剰な管理は「俺を簡単に管理できると思うなよ!」といったひねくれたプライドを生む。これは単なる反発であって個性を表現しているに過ぎない。管理職が自己の不安から服従を要求するのは、自然の権威に逆らっている。そもそも管理の必要があるのか?おいらはスマリヤン流タオな考えが好きなのだ。
そういえば、こんな事はよく起こる。あるメンバーが技術的に悩んでいた。どうやら考えすぎて混乱しているようだ。そこで、「みんなで少し考える時間を作ってみないか」と持ちかける。彼は効率良く説明するために問題を整理しなけらばならない。そして、説明しているうちに、いつのまにか悩んでいる本人が解決策を考案していた。おいらが問題を把握した頃には既に議論は終了。一番理解しているのは担当者なので自然の成り行きではある。ただ、マネージャの存在感がないことがちょっと寂しい。他のメンバーも、議論に参加して役に立たなかったからといって文句一つ言わない。ワイワイガヤガヤを楽しみながら気分転換のひとときを過ごす。これも、優秀なメンバーに恵まれたお陰である。

本書は、チームワークの良いプロジェクトのマネージャは、お荷物的な作業者に対して怒鳴りたい気持ちを我慢しているという。おいらの場合、お荷物はマネージャの方なので、メンバーは怒鳴りたい気持ちを我慢しているに違いない。楽しく働くためには、時間の効率性は重要である。時間の効率性は、仕事にリズムをつくり、メンバーの精神を安定させる。中でも会議には非常に気を使う。よく見かける光景は、会議がお偉いさんの勉強会になることだ。こうしたgさんは、人が集まることがチームワークを作るぐらいの発想しかできないので、参加を強制しやがる。1時間の会議をしようとすると、主催者は下準備に半日以上かかるものだ。会議中はメンバーの作業を止めることになり、時間が延びれば人数倍の時間を無駄にすることになる。なんといっても、だらだらとした会議は作業者のストレスを招き、その精神的ダメージは計り知れない。会議に限らず時間の無駄をなくすということは、自分の領分でしっかり時間を使うということだ。

さて、しつこい前戯はこのぐらいにして本題に入ろう。ちなみにアル中ハイマーは本番もしつこい!

1. 捨てるつもりでシステムを作れ
大規模なシステム開発に従事したことのある人は、「捨てるつもりでシステムを作れ」という格言が身にこたえるという。政治的に資産の流用を強要される場合もあるが、そこにはコスト削減という甘い罠が潜んでいる。検討を重ねるうちに流用のリスクが大きいことに気づけば、政治に屈するかどうかが鍵となる。根本的に欠陥を抱えたモジュールを修正して誤魔化すよりも、新規設計した方が効率が良く、結果的にコストダウンとなる。

2. マーケティング戦略の懐疑
機会を失えば商売が成り立たないと脅し、無理な納期を押し付ける光景をよく見かける。しかし、本当に機会を失うのだろうか?むしろ社内評価を意識したものではないのか?無謀な日程は、品質を落とせと命ずるのと同じである。技術者は自らの技術に誇りが持てなければ意欲を失う。目先のマーケティング戦略は、人材を失うという恐ろしいリスクを犯している。キーマンが辞めると開発者が集団で退職するケースも珍しくない。
ソフトウェア業界には、製品の品質を落として、ユーザを飼い馴らしてきた歴史がある。かつて、プログラムは技術オタクによって求められた。少々バグがあっても、使えこなせないユーザの無能さが強調されたものだ。そこには、オタク魂をくすぐるというマーケティング戦略がある。今日では、どんな製品にもプログラムが組み込まれるので、こうした戦略は通用しない。しかし、馴らされた感覚は慣習化する。これは技術者がユーザを飼い馴らしたわけではなく、マーケット戦略で飼い馴らしたのである。技術者は、自らの技術を高めたいという本能を持っている。それは品質抜きでは語れない。オープンソースの世界ではテストに喜んで参加する人が多い。そこで現れる「永遠のベータ版」という思想が悪いとは思わない。むしろ、市民運動として機能している。その一方で、この思想に乗っかりながら、しっかりと高い金をとる企業が存在する。

3. ミスは犯罪ではない
頭脳労働者がミスをするのは、真面目に仕事をしている証である。しかし、仕事上のミスを犯罪扱いする組織がある。すると、ミスをぎりぎりまで隠蔽する。間違いを許さない空気では、技術者は挑戦的になれない。ミスを素早く公表できる雰囲気を作りたいものだ。そのためにマネージャが自らドジであることを公表するのもいい。「管理とは尻を蹴飛ばすこと」と割り切るマネージャがいる。しかし、ヤル気のない人間を強要しても無駄だ。むしろ、働きすぎないように気を配る方が効果がある。もっともプロ意識を持とうとしない人間は相手にしない。

4. 規定の災い
本書は、鈍感なマネージャほど部下の反乱を恐れ、個性ほど厄介なものはないと考えるという。逆に、優れたマネージャは、個性を歓迎しチーム内に不思議な作用が起こることを知っているという。また、形式に固執したスローガンは、チーム殺しの引き金になるという。品質、創造性、チームワークといった美徳を並べても、逆に人間は現実と乖離した思想に反発する性質を持っている。経営者というのは不思議なもので、誉めちぎった言葉が好きな輩が多い。倫理観をも謳ってしまえば、社員に倫理観がないと侮辱しているようなものである。優れた組織には優れた作業規定が存在すると主張するマネージャがいる。そこには宗教じみたコーディング規定などを見かける。技術レベルに個人差があるのは自然である。そこで、ある程度の品質を確保するために、明確な規定や標準化は有効である。しかし、なんでも標準化すればいいと考えるのは愚かである。その一方で、優れた規定は意外と抽象的だったりする。それは、技術魂には自由度が大切であることを理解しているからであろう。うるさい規定は責任転換にもなる。悪いのはマニュアルだと。こうなると脳死状態に陥る。細かく規定した分厚いマニュアルを頭に入れるのも大変だし、バージョンアップ毎に混乱する。作成コストも馬鹿らしい。あくまでも、規定は共通意識を高めるための補助手段である。重要なのは共通意識であり規定ではない。

5. 自由電子
本書は起業家症候群を紹介している。組織に属さず、直接会社と取引している連中のことである。プロジェクトが終われば、制約が無くなり自由に遊びまくる。これは、大企業の管理職から見ると目障りな存在であろう。こうした連中は生意気扱いされ、従業員には見せたくない見本となる。一方で、組織に属しながら自由に仕事を見つける連中がいる。会社から大まかな課題が与えられると、具体化して自由に活動する。その発展型が社内起業家である。本書はこうした連中を「自由電子」と呼ぶ。彼らの貢献は給料とは比べものにならないほど大きいという。大抵の人は上司からの明確な指示を期待する。与えられた目標を達成すれば、それで成功したと解釈するからである。したがって、部下から見ると、優れた上司は具体的な指示ができる人間となる。確かに具体的な指示があれば楽である。スキャンダル報道では、規定や指示通りにやっていたという言い訳は実に多い。本書は、優れた上司は抽象的な指示を出して部下に自由にさせるという。だからといって、上司がビジョンを持たなくてよいということではないが。

6. 西洋の二つの価値観
昔から西洋には二つの価値観があるという。一つはスペイン流で、地球上には一定量の価値しかなく、豊かになるには民衆からいかに絞り取るかと考える。もう一つはイギリス流で、価値は発明と技術で創造すると考える。その結果、スペイン人は植民地を求め、イギリス人は産業革命を起こした。スペイン流の価値観は、現在の管理職にも受け継がれるという。本来、生産性は単位時間にどれだけ多くのものが作れるかで計測する。しかし、現実には単位時間当たりの賃金からどれだけ絞り取るかという意味にゆがめられる。そこで、技術者の賃金はプロジェクトベースにすればいいだろう。前年度をベースに年俸制にするのもいい。そもそも残業という概念がおかしい。サービス残業を利用して生産性を上げようなどと考えるのは、まさしくスペイン流の価値観である。おまけに、その成果をマネージャの評価とするのは詐欺である。時々、部下を脅して「納期を死守せよ!」と叫ぶマネージャを見かける。納期が遅れたところで世界が終わるわけではない。頭脳労働者に軍隊用語は合わない。ただ不思議なことに、こうしたチームほど納期が守れない。

7. 「パーキンソンの法則」の誤解
イギリスの作家C.ノースコート・パーキンソンは、次の説を唱えたという。
「与えられた仕事をするのに時間はいくらあっても余ることはない。」
パーキンソンにはユーモアのセンスがあったという。この言葉は真実を表しているのではなく、皮肉が利いて面白いから人気を得たらしい。にもかかわらず、この法則にご執心なマネージャが多いと指摘している。そこで、おもしろい実験結果を紹介してくれる。それは、管理者が目標値を与えるよりも、担当者が目標値を設定した方がはるかに高い生産性を示したという。もう一つの例では、目標値を全く設定しなかった場合で、最高の生産性が得られたというのだ。これも、なんとなく分かる。技術者魂を呼び起こすことが、なにものにも変えがたい効果となる。
ここで、あるリリース間近のプロジェクトで、週末に仕様変更の依頼があった時のことを思い出す。日程からすると一週間以上ずれこみそうな内容だ。経験的には、週末に仕様変更がくることが多い。大企業は週末に会議することが多いからであろうか?おいらは、変更内容を厳密に検討し、仕様書の変更を徹夜で行う。翌日メンバーに効率よく仕事をさせるためだ。メンバーも、おいらの辛さを理解している。そして、出番を待つかにのようにとっとと帰宅して英気を養う。勤務規定など無視だ。もちろん許可している。そして、おいらの作業が終了すると、メンバー達は自らの作業分担を宣言して、設計修正、検証修正など指示する間もなく始まる。時間帯も、各々の担当者が、最も効率の良いタイミングをはかる。深夜に出社する者、早朝出社する者、各々の作業ログを確認しながらピンポイントで作業する。おまけに人間の休憩時間はコンピュータ君の出番だ。こうした連鎖反応は互いのコミュニケーション無しでは成り立たない。普段からチームの精神状態が安定しているからこそ体力的な無理もきく。そして、週明けには作業完了。顧客もビックリ!作業は大変であるが、その連帯感は心地良いものがあった。おいらが経験するプロジェクトのメンバーは大抵そのまま飲み仲間となる。飲めない人も食べる方で参加する。学生じゃないんだから無理に酒を勧めることはない。「俺の酒が飲めねーのか!」と絡む酔っ払いがいるが、おいらは「俺の酒を飲むな!」と絡む。

8. 雑音と音楽
頭脳労働者にとって、割り込みを入れさせないことは重要である。技術者が理想とする精神状態はフロー状態である。プログラムを書いていると、時空を超えた一種の心地よさを感じることがある。無我の境地とでも言おうか。一旦集中してしまえば音など耳に入らないが、集中する手前ではリセットされる。電話のベルが鳴ろうものならイライラしてなかなか集中できない。電話のない時代、研究者は手紙でやりとりしていた。頭脳労働者にとって技術革新は粗悪な環境をもたらすのだろうか?メール受信のポップアップですら鬱陶しいが、自動受信を止めればいい。メールとはおもしろいもので、即返信するとなぜか?また即返事がくる。まるでチャットだ。ビジネスマンはせっかちなのだろう。そこで、わざと時間を置いて返信することにしている。鬱陶しいのはメッセンジャーであるが、ほとんど切っているので気分転換ツールと言った方がいい。それにしても、やたらと電話をかけてくるマネージャがいる。ほとんどメールを活用しないのだ。こういう輩は技術者を部品ぐらいにしか思っていないのだろう。発言したことが証拠に残るのを嫌っているのかもしれない。ちなみに、割り込みの最優先は携帯メールだ。お姉ちゃんからのメールを優先せずして、人生で何を優先するというのか!
複数のプロジェクトを掛け持ちしていた頃は、一日に200通以上のメールの処理が要求された。逆に言うと、何一つ仕事をこなしていない。本書はプロジェクトの掛け持ちをするべきではないという。まったくだ!それだけで人生を無駄に過ごした気になる。メンバーも優先順位を考慮して「緊急!」とか「重要!」といったサブジェクトで気を引こうとする。しかし、中身は酒の誘いだったりで笑わせてくれる。気遣っているのか?邪魔しているのか?よくわからん連中だ。
ところで、音楽を聴きながら作業をすると効率が下がるというのは本当だろうか?本書はおもしろい実験結果を紹介してくれる。プログラムのような論理思考は左脳が働き、音楽のような直感的なものは右脳が働くので、影響がないという。しかし、技術者は、突然のヒラメキによって独創的に問題を解決することがある。右脳が音楽に占有されるとヒラメキの余地が無くなるので、やはり音楽は邪魔になりそうだ。とはいっても、音楽は精神を安定させる効果がある。そこで、精神をリラックスさせることが優先か、思考することが優先かは、状況によって使いわければいいだろう。独立した空間を一人で占有できるならば、音楽は特権である。しかし、チームで職場を共有するならば、無音環境が良いに決まっている。

9. オフィスレイアウト
昔、研究所で働いていた時代、我がグループのレイアウトだけは奇抜な形をしていた。外から見ると、どこから入ってよいか分からない迷路になっていた。しかし、無駄な空間を削り、一人当たりの空間を確保する効果があった。それでも良い環境とはいえないが、現実的な対策であり秘密基地でも築いたような子供心が湧いたものだ。しかし、こうしたケースは珍しい。ほとんどの職場は学校配列のように規格化されている。まるで上司が先生であるかのように。オフィスレイアウトを見ただけで、社風を垣間見ることができる。管理職は自らオフィスを仕切っていると信じている輩が多い。つまらない管理者ほど、つまらないことで権威を誇示したがるもので、無秩序を必要以上に恐れる。本書は、オフィス環境で重要なのは、一人当たりの空間と、静かな環境と、プライバシーの確保であるという。オフィス環境も生き物のように動的なもので、人員が変われば最適な環境も変わるだろう。

10. 人材
超優秀な人材が集まるよりも、そこそこ優秀な人材が集まる方がまとめやすいだろう。型にはまった組織では個性溢れた人材を遠ざける。マネージャが付き合い方を知らないからであろう。人間は、自分の基準から大きく外れた人種に対して、ある種の不安感を抱くものだ。それは、友人を選ぶ時のプロセスにも現れ、一種の進化論的な防衛本能と言えるだろう。経験的には、技術者は第一印象の悪い人が多い。職人気質があり、癖があり、無愛想でどこか冷めている。おいらも神経質で人見知りするタイプだ!と言っても誰も信じてくれない。
ところで、景気が悪くなると、人件費削減を目標に、退職金を上積みし、希望退職を募るケースが現れる。しかし、辞められては困る人から集まるものだ。革新的な人材から逃避し組織の官僚化を加速させる。本書は、形式的な規定によって硬直する管理システムは大企業でよく見られ、若い活動的な企業ではあまり見られないという。これも、組織がエントロピー増大の法則に従った現象なのかもしれない。
また、賢いマネージャは、担当者が自主的に動くように仕向けるという。その行動を管理者が誇るのではなく、担当者自身が誇れるようにする。そして、曲芸師を雇うのに曲芸を検分するが、技術者を雇うのにその常識が成り立たないと皮肉る。なるほど、面接は履歴書とインタビューに、くだらないペーパーテストで実施される。なぜ?プログラムや仕様書といった生産物のサンプルを検分しないのだろうか?
個人事業をやっていると、時々、不思議な現象に出会う。初対面にもかかわらず「信用しています!」と近寄ってくる輩がいるのだ。こちらは怪しい零細業者に映るはずだが、どこで噂を嗅ぎつけるのやら?そして、人員不足と言いながら営業的に仕事を押し付けてくるが、実は社内の技術者が避けている仕事である。見事に丸投げ体質を露呈しているが、少し突っ込むと今度は「技術交流したい!」と言う始末。余裕のある時に交流して信頼を築いておくものだが、そこは怪しい者同士!類は友を呼ぶということか?

2009-04-12

"至福の超現実数" Donald E. Knuth 著

タイトルには、数秘術のような占いの香りがする。副題には「純粋数学に魅せられた男と女の物語」とある。どう見ても避けて通りそうなものだが、奇妙なことに専門書コーナーに並んでいる。なるほど、クヌース先生の本なのかぁ。パラパラっと捲ってみると、なんとなく文学的な世界が広がる。おっと!これは数学の証明ではないか。なんだ!このアンバランスさは!アル中ハイマーは、初めて味わう酒に誘われるがごとく、買ってしまうのであった。

本書は、もともと好田順治氏の訳で「超現実数」として出版されたものを、松浦俊輔氏の訳で少々装いを変えたものらしい。訳者の名前はあまり意識しないが、本棚を眺めていると意外と松浦氏の本読んでいることに気づかされる。後書きには次のように記される。
「実は、本書を喜んで読んでくれる人は、実は本書を必要としない、数学にスリリングな部分をすでに知っている人たちではないか。」
確かにそうかもしれない。どんなものでも、その世界の住人にしかそのおもしろさは理解できないだろう。しかし、おいらのように既に数学に挫折した人間でも味わうことができそうだ。ただ、ハードカバーで、その装いもなんとなく硬い感じがする。しかも、専門書コーナーに埋もれているのはもったいない。偶然にも、前記事でクヌース先生の本を読んだばかりだったので手に取ることができた。もし、学生時代に出会えていたら、もう少し数学に興味を持ち続けられたかもしれない。いや!いい女とは、若い頃に出会ってもその魅力を理解できないものだ。
数学の歴史は抽象化の歴史である。もともと数学の対象は「数」であり、それは自然数に始まる。自然数の欠点は、引き算や割り算を行うと、答えが自然数の系からはみ出すことである。算術によって系が閉じられないという現象は、「数」の概念を、自然数、整数、有理数、実数、複素数へと拡張させてきた。本書は、整数の集合から無限を匂わせ、左集合と右集合の大小関係のみで数論の本質を語っているように映る。つまり、数とは、必ず左集合と右集合の間にできるもので、この性質はどんなに小さい数でもどんなに大きい数でも定義できることを意味している。

数学の対話には、ハンガリーの数学者アルフレッド・レーニイという人の著作に「数学に関する対話(1967年)」というのがあるらしい。これは、次のような3篇からなるという。
第一話、ソクラテスを登場させ数学の本性を語る。
第二話、アルキメデスによる数学の応用を語る。
第三話、ガリレオが科学と数学との関係を語る。
著者は、この物語に刺激されて、創造的な数学探求の本性を浮かび上がらせようとしたと語る。本書からは数学の楽しさと喜びが伝わり、現在の教育制度で欠けている深刻な問題を皮肉でちりばめられる。
「探求できる数学、あるいは独創性を求めた数学というものに触れることができる学生は、たいていが大学院になってからだという問題がある。」
本書は、ジョン・ホートン・コンウェイの数の概念を扱い、数を定義するという最も基本的な原理から始まる。それも、数学の根本的な精神を伝えるには、最も効果的であると考えたのであろう。その目的はコンウェイの理論を教えることではない。数学への情熱を伝えようとするものである。そして、誰にでも懐かしく理解できるところが、文学小説としても際立たせる。数学で重要なことは、定理の証明を教えることではなく、自発的に論ずることだということを教えてくれる。著者は次のように指摘する。
「現代の数学教育には二つの弱点がある。創造的思考の訓練が足りないことと、専門的な文章を書く訓練が足りないことである。」

数学の証明を文学風に表すと、なぜか癒しの空間を与えてくれる。そこには、集合論の基礎とも言える世界がある。数の定義から始まり、演算を経由して、やがて無限の世界が姿を見せる。アルファベットのAに相当するヘブライ文字アレフが登場するあたりは、なんとなくカントールを思い浮かべる。毎日の時間は同じように刻まれるが、科学の進歩は一日の時間をだんだん短くする錯覚へと陥れる。進歩の速度が限りなく増せば、時間の感覚は限りなくゼロに近づく。だが、いくら極小の数を定義しても無限小の実体を掴むことはできない。無理数が見え隠れすると、精神は哲学へと引き戻され、おまけにアレフの出現が宗教へと迷い込ませる。謎は無限に存在するが、人間が生きる時間は有限である。ただ、人間はその有限の時間すら認識できないのではなかろうか?人間は自らの死を感じることができないだろう。死を感じるということは、死の瞬間を認識できなければならない。そうなると、有限の時間という意識すらどうでもよくなる。そもそも有限と無限に境界線があるのだろうか?あらゆる物事で境界線を設けて区別するのは、人間自身が優位性を保ちたいと願っているだけのことかもしれん。本書を読んでいると、数学と文学の境界線もどうでもよくなる。有限の概念すら得体が知れないのに、無限の概念を理解しようなどとは到底無理な話であろう。しかし、数学者は帰納法という魔術で無限をも手なずけ、見ることもできない世界までも証明してしまう。まず初期値を指定し、次にk番目の数を定義し、更に(k+1)番目の数を定義できれば、無限の数列が現れる。無限より大きな数は、無限足す1, 無限足す無限, 無限掛ける無限などと続ける。逆に、無限引く1ってなんだ?無限の半分ってなんだ?ついに、数学者は、無限の無限?寿限無!寿限無!...と呪文を唱えて、無限濃度までも定義してしまった。しかし、そこに現れる無限の実体とは何か?依然としてその正体を見せようとはしない。なるほど、「君を無限に愛してるんだ!」という台詞には、「君への愛は実体がない!」という気持ちがこめられているのだ。

「コンウェイの数の規則はセックスみたいなもんだね。左集合と右集合が交わって...」なるほど、1 + 1は、2ではなく、妊娠すると3 になることだってあるわけだ。
本書は、子供に物事を教えるのに、自分で見つけた方が面白いという意見と、何もかも自分で見つけるのは難しく何らかの補いは必要であるという意見を戦わせる。
「ものを覚えるということは、本当は自分で発見する過程じゃないのかなあ。」
また、純粋数学の素敵なところは、その証明自体は何の役にも立たないという。なるほど、純粋数学の定理から爆弾を作ることはできない。しかし、数学は様々な解析を可能にする。しかも、好奇心があるから進化する。やがて、純粋な好奇心は強力な道具となり濫用される。科学は善の道具にも悪の道具にもなりうる。これが人間の本性である。本書はこうした人間社会を暗喩しているかのようでもある。

1. 岩の発見
主人公はアリスとビルの二人で、なんとなくエデンの園のような光景が広がる。二人は、文明社会から逃避して海辺で長い休暇を過ごしていた。この設定は、現代社会の風習を嘆いているかのようでもある。その風習からは純粋な数学を見出すことが難しいと指摘しているかのように。社会システムが嫌になって、自分を見つけるための旅に出たくなる衝動は常につきまとうものだろう。しかし、この生活にも二人は退屈する。単純でロマンティックな生活だけでは物足りない。そんなある日、ヘブライ語で刻まれた岩を発見する。なんともロゼッタ・ストーンのような展開である。岩に書かれているものは、コンウェイなる数の造り主が、左集合、右集合なるものを定義している。出だしは、旧約聖書のように始まる。
「初め。すべては空虚だった。」
そこには、数の創造の記録が残されていた。やがて、二人はクロスワードパズルよりも、ずっとおもしろいことが分かってくる。
「麻薬よりもいい感じで、脳は薬なんか使わなくても、自然に刺激できるものだ。」

2. 数の定義
まず、左集合と右集合を定義し、双方とも空集合から始まる。そして、左集合は、右集合よりも大きくも無く、等しくも無いと定義される。この関係から二人は、数の「大小」や「同等」の関係を解読していく。その中で、ゼロが正数と負数の境界となる。また、「a < b かつ b < c ならば、a < c である」といったことを反証しようと遊んでいるうちに、推移律が正しいことを確かめる。そして、どの数もそれ以前にできた数から創られることが示される。更に、最初の数がゼロであることを依拠する論法「帰納法」が加わると、二人は、どんな数にも左集合と右集合が存在し、そこには、必ず「大小」あるいは「同等」という関係が成り立つことを理解する。しかし、帰納法と証明したいことの否定を元にすると、既にわかっていることと矛盾する結果が現れる。こうして背理法までもが登場する。

3. 演算の定義
ところで、この岩に書かれているものは、本当に「数」の定義なのか?もしそうならば、四則演算もできるはず。そうした演算の定義は書かれていないのか?碑文には、まだ続きがあるかもしれない。そして、二人は、他の岩を捜し、碑文の後半部分が書かれているものを発見する。そこには、足し算、引き算、掛け算の規則があった。まず、足し算の定義は、左集合の二つの数の和は左集合に属し、右集合の二つの数の和は右集合に属する。そして、負数はその数の反対であることが定義され、引き算は負数の足し算とする。足し算の交換法則から、数にゼロを足しても変わらないと書かれた碑文を証明し、空集合の正体を明かす。また、足し算の結合法則と、左辺と右辺に同じ数を足しても大小関係は変わらないことを証明し、引き算の正体も明かす。掛け算の定義は、二つの数が同符号ならば結果は正の符号に属し、異符号なら負の符号に属すといったことが書かれる。演算が定義されれば、やがて無限集合なるものが姿を現す。アレフの登場である。数は、有理数から実数へと拡張され、更に無限大と無限小が定義される。

2009-04-05

"コンピュータ科学者がめったに語らないこと" Donald E. Knuth 著

本屋をぶらぶらしていると、なんとなくクヌース先生の講義が受けたくなった。ここに掲載される内容は、1999年、神とコンピュータに関する講義シリーズの一環として行われたものである。その副題には「信仰とコンピュータの相互作用」とある。コンピュータ科学では宗教や感情を議論することはタブーとされるが、あえて真逆なテーマを扱うところがいい。そして、論理的で客観的な領域にも、感情的で主観的な部分があることを教えてくれる。また、宗教や美学を語りながら著者自らの生き様をさらけ出す。おそらく、おいらが20代に読んでも、そのおもしろさは、それほど感じないだろう。それも、若い頃は論理的思考を重視する傾向にあった。論理的ではないことに目くじらを立てて立ち向かうことさえあった。だが、今読むと感情的なものや情緒的なものに、なにやら懐かしいものを感じる。若さとは、感情的になりやすい分、精神は論理性や客観性を求めるのかもしれない。では、だんだん歳を重なると客観的に見えてくる分、精神は感情的なものを求めるのだろうか?なるほど、歳をとると涙もろくなると聞く。

コンピュータの専門家だからといって、パソコン入門を教えるのに適しているわけではない。逆に、宗教の専門家ではないからといって、独自の宗教論が語れないわけでもない。むしろ、専門家ではないことが分野に特化した様式に囚われず、雑念の抜けた純粋な思考が現れるだろう。討論の場では「この分野について、よく知りもしないくせに!」と罵倒する輩を見かける。最初から、純粋な意見に耳を傾ける気がなければ、議論する時間は無駄というものだ。だが、往々にして、こういう発言をする人に限って、自らの場を理解できていない。完全にその世界のカルトに嵌ってしまって、それすら気づいていない。宗教は神に対する定義に専念させて儀式を重んじる。それは人間のために語られているのかも疑わしい。神を形式化し、死後の世界を用意してくれるような親切な宗教ほど胡散臭いものはない。一方で、科学者が研究の挙句に神学に憑かれるケースは多い。彼らは神の形式に囚われず独自の宗教論に到達しているかのように映る。これは科学もイケてる宗教の証なのかもしれない。科学者が語る宗教は、宗教家や神学者が語るものよりも、よぽど哲学的に思える。宗教家は、何の根拠もないのに信じることを強要する。この強要こそが宗教の最大の特徴であり弱点である。信仰の自由を唱えながら、自らの信仰を強要し、自らを矛盾の渦へと誘い込む。科学者が語る信仰は、自らの理屈で勝手に語っているだけである。

神学の研究が、科学に直接影響を与えることはないだろう。しかし、著者は科学のアイデアをより理解することに役立つと主張する。昔々、科学と神学がそれほど隔たりのない時代、アイデアの源泉を信仰に求めていた。やがて、科学は宗教的思考が中心だった人間社会に、冷静に思考する機会を与えた。今日、科学と神学の隔たりが大きくなったことで、逆に、科学に人間性を求める役割を与えるのだろうか?科学の進歩が絶頂の時代には、人間はあらゆる自然現象を科学で解明できると狂信していた。しかし、多くの解明できない科学的問題の出現によって人間の傲慢さを認識させられる。コンピュータ工学に接している人々は、宗教とは無縁ではないことを実感しているだろう。プログラム言語には、熱心な布教活動があり、狂信的な信者が出没する。プログラム構造には、コーディングルールが存在し、中にはカルト化したものもある。フレームワークやツールに依存性の高い設計手法が登場すると、宗教じみた開発方法や組織文化に支配される。人間社会の複雑化にともない世界はますます専門化が進む。その中で、物理学者と数学者が違った考え方をするように、同じ数学者でも離散性と連続性で相反する立場がある。更に、アルゴリズムを研究するコンピュータ科学者も、彼らとは違った考え方をする。代数学では無限を神に崇め、解析学では自然数を神に崇めるように、それぞれの宗教的立場に違った神が存在する。おもしろいのは、コンピュータが単なる道具であるにもかかわらず、コンピュータ工学という独立した学問が生まれたことだ。これは、コンピュータ構造、あるいはプログラミング構造が、人間の思考方法に他ならないからであろう。こうした同じアナロジーを理解する人々が、知識を構造化し共有している。本書は、コンピュータプログラミングの説明として、作家ドロシー・セイヤーズの言葉を紹介している。
「創造物の存在したいという欲求が優勢なときにはいつでも、他のあらゆるものが道を譲らざるを得なくなる。創造者は、それ以外のすべての呼び声を脇へ押しやり、喜びと憤りが入り混じった気分でその仕事に取り掛かる。」
著者は、これはほぼ完璧な説明であると絶賛している。創造性とは常に疑問を持ちつづけることであろう。一つの問題を解決すると新たな問題が発生する。次の疑問を持たなくなった時、あるいは解決方法がパターン化してしまった時に思考は停止する。人間は、凝り固まった思考を破壊し、新たな創造を求め、永遠にこれを繰り返す宿命を背負っているかのようである。

1. ランダム性の概念
ランダム性には公平性と平等性の概念があると語られる。ところで、真の乱数って存在するのだろうか?完全に無作為な自然科学的なランダム性ってなんだろうか?こういう疑問には、どうしても素数分布の本質が潜んでいるとされるリーマン予想と重ねてしまう。人間は、多くの知識を身に付けようと努力しても、その勉強方法や行動には限りがある。そこで、本書は時間を使う有効手段として「ランダムサンプリング」を紹介している。例えば、多くの本から良書を選択する方法で、何ページ目を読むか決めて判断するといった話をよく耳にする。著者は「ヨハネによる福音書3:16」が気に入っていることから316ページ目を読むそうな。選挙運動では、最も効果的な資金の使い方は、無作為に選ばれた市民を招いて懇意になることとしている。世論調査が、無作為に選ばれた人々によってなされるならば、これもランダム性による効率化と言える。だが、人間は無作為に行動するのが苦手である。サイコロを振るにしても、なんとなく力の加減が変わる。コンピュータに実装されるランダム関数にしても、作成者の作為がなんらかの形で影響するかもしれない。システムの構造的な性格によって、作為的に作用することもあるだろう。ただ、擬似ランダムであっても、実用レベルでは大した問題にはならない。現実に、コンピュータの実数演算は近似で誤魔化されているが、実用性に困ることはない。インターネットの検索方法のように、優れた計算アルゴリズムの多くはランダム性に基づいている。ランダム性を要求しても、その方法を選ぶのは人間である。では、第三者による作為ならば、より純粋なランダム性へと近づけるのだろうか?政治家は事あるごとに第三者委員会を設置するのがお好きだ。しかし、その委員会のメンバーは誰が選ぶのか?その選出も第三者か?第三者の第三者の...が永遠に続けば「ランダム性」は「無限」の概念にも通ずる。これは、社会システムが妥協によって成り立つことを示しているようなものだが。人間の感情や気まぐれもランダム的である。もしかしたら、真のランダム性が解明された時、人間の感情や社会システムや宇宙モデルといった複雑系を説明できるのかもしれない。だが、神は真のランダム性を永遠の課題として与えているように映る。

2. 聖書の数秘術
それにしても、「ヨハネによる福音書3:16」の3:16という数字は凄い。3は三位一体を表し、16は完全平方、しかも3.16の二乗は約10になる。聖書では、数のパターンの偶然性を多く発見することができる。しかし、章と節の数は聖書が書かれたずっと後に付加されたもので、数秘術に陥らないことだ。アラビア数字が登場する前は、ヘブライ語とギリシア語の文字で数字を表していた。そこに隠される偉大な意味が見出されるのも、数秘術を得意とする宗教の作為がある。なるほど、聖書は暗号で満ちている。聖書は実に多くの書き写しによって伝えられたものであり、多くのバリエーションが混在し、どれがオリジナルなのかも見分けられない。もし翻訳できたとしても、ニュアンスまでも再現された完璧な複写などありえない。そこには翻訳家の作為がある。

3. 言語翻訳
プログラム言語は一種の形式言語であり、コンパイラが機械語へ完璧に翻訳する。一方で、自然言語は形式言語よりもはるかに翻訳は難しい。ただ、自然言語でも、専門分野の論文は、限られた単語を使う傾向があるので、まだしも手に負える。これが聖書となると想像すらできない。ところが、本書は、数学的思考方法から、ヘブライ語やギリシア語を知らなくても、翻訳できる可能性を示している。しかも、言葉の出てくる順番が分かれば、思考の流れも分かるというのだ。しかし、詩や隠喩などの文学的表現もあり、更に韻律のリズムや言語間のニュアンスの違いも現れる。やはり、形式的には完全な翻訳は無理なようで、著者の誤った例も紹介している。技術者の中には、翻訳ができても喋れない人は多い。しかし、翻訳能力を持った人は尊敬できる。こうした翻訳能力にはプログラム的思考を見せてくれる。ただ、文章の形式だけを追っかけるのでは、そこに隠された思想を解釈することはできない。著者は次のように語る。
「自分が理解できないことを明らかにするための紛れもなく最良の方法は、自分自身の言葉で表現してみようとすることです。」
おいらは、日本語の文献でさえ、そのニュアンスをうまく読み取ることができない。そもそも、文学作品が苦手なのは、こうした思考が劣っているからである。本は単に読むだけではダメ!自らの思考に加工できないとダメ!と指摘されているようで頭が痛い。

4. 美学
翻訳には「最高」とか「優れた」という基準がないという。それはあくまでも個人の基準であって、最高のプログラムは存在しないのと同じであると語られる。優れたプログラムには、作成者の美学を感じる。コーディングルールは、生産性の品質をある程度の基準に保つには有効であるが、それが最高というものではない。それを理解した上で規定するべきで、聖書も同じように神に崇めるものではない。このぐらいの心構えが具わった時、聖書を一度読んでみるのも悪くないかもしれない。著者の研究の根底には、芸術と美学といった美の概念があるという。そして、自分のしていることに美しさを感じ、誇らしく楽しい気分になるという。そこには一種のこだわりを感じる。美をテクノロジーと結びつけ、右脳と左脳が同時に働く世界を熱く語ってくれる。美の概念は、主観の領域にあり、客観性を追求する科学には相容れないところがある。感情的で非理性的なものを、理性的な手段で解明しようとしても難しい。どんな人間でも、美学を持った生き様があるだろう。美学と真理の共存があってこそ、楽しく生きられるのかもしれない。ここで昔から持っている疑問が蘇る。「芸術には完成形なるものがあるのだろうか?芸術家にはそれが見えるのだろうか?」美学や生き様は永遠に完成を見ることはできないだろう。そして、疑問の形が変化する。「そもそも、精神の領域にあるものに完成形を見出す必要があるのだろうか?」論理の領域にあるものでさえ、人類は完成形に到達していないではないか。科学に完成形を見ないことが、人類の傲慢さを抑制しているとも言える。もし、科学に完成形を見たら、人類は無限に支配欲を持ち、自らを神だと信じるだろう。芸術の目的は、感情を伝えることである。芸術家は、感じたことのない何かを人々に体験させてくれる。一方でコンピュータプログラムでも、芸術性を見せてくれる優秀なハッカーがいる。プログラムが感情を伝えるものとは思えない。それでも、優れたプログラムを読むと、そのエレガントさに感動したりする。そこには、文学のような美とは違って、プログラム構造の思想やコーディングテクニックなどに思考の本質を感じるような発想力がある。CPUの構造にしても、全ての命令セットが同一サイクルで動作するならば、並列パイプラインの構想は美しい。その一方で、オペランドによるアドレス指定で複雑化する間接アドレッシングなどは見るに堪えない。

5. 「自由意志」対「決定論」
あらゆる科学理論は、コンピュータによってモデル化しようとする。プログラムの作成自体が小さな宇宙の創造と言える。人口知能では、作成者はプログラムによってどんな結果が得られるかを知らない。ライフゲームでは、ほんの数個の条件を与えるだけで、生き物のように進化する。そこには、極めて決定論的な世界がある。そして、エントロピーは増大し、やがて無限へと広がる。偶然性と必然性、これが宇宙を創造している。しかし、そこから目的を作り出すことはできない。レイモンド・スマリヤンは、短編「Planet Without Laughter」で次のように語ったという。
「人間は子供のようだ。彼らに何かをさせることができる唯一の方法は、おこなっているのが彼らだと思い込ませることである。彼らのプライドはあまりに高いから、自由意志の幻想がなければ、彼らは決して取り掛かろうとせず、結局何もしない。」
この言葉とは反するが、本書は、自由意志は幻想ではないという立場をとる。量子理論は、ある観察結果が個別にはランダムであり、宇宙の全く異なる部分で同時に起こったとしても、その結果は一致しなければならないことを主張しているという。そこに確率的モデルが存在したとしても、自由意志を作り、物理学法則に違反することなく、結果が得られるという。んー!なんとなく不確定性原理を語っているようでもある。ところで、量子コンピュータは、霊とか魂とかいったものを説明できるのだろうか?意識に関する研究は、科学的にはほとんど解明されていない。その有力なアプローチに、意識を一種の遺伝子アルゴリズムとする考え方があるらしい。ライプニッツは、可能性があるすべての世界のうちで最高の世界に人類は生きていると主張した。自然法則は、最善の方向へ収束するようにできているのか?それが、ランダム法則なのか?神が、将来予見しうる世界を見渡したら、それほど多くの世界は見当たらないということか?

6. コンピュータと自由意志
コンピュータ科学の中心はプロセスの研究である。その中で、プロセスの記述方法であるプログラム言語の研究があり、プログラムに意図を持たせるセマンティクスの研究がある。記憶領域にあるデータは、ただ存在するだけであるが、目的のために使われた時に存在意義を発揮する。人間社会の構造が、プログラム構造のヒントになることはよくある。著者は、単純なRISCコンピュータ用チップをデザインしていた時、驚くことに気づいたという。それは、最も簡単で最適な方法が、後で必要のないものも含めて、全て処理させることだという。クロックサイクル毎に、内部演算は同時に処理を始める。加算、減算、乗算といった演算が同時に発生する。そして、一つの結果を選択して、次のステップで使用される。指示するまで演算をしないとか、余分な演算を抑制するなどの処理を組み込めば、ハードウェアに大きな負荷をかける。こうした仕組みは、人間社会に関するメタファに感じられる。科学は、実に多くの研究者によって様々なケースを試行する。その中から、わずかな有効な結果のみが次世代に受け継がれる。人間の存在意義とは、そうしたものなのかもしれない。世界は実に無駄な時間を過ごしている人々で成り立っている。その無駄の結集が、大衆の叡智となり、真理へ近づくプロセスを形成しているのかもしれない。チューリングマシンは、単に状態を遷移させていく計算の道具である。では、その状態遷移を引き起こすきっかけは?効果的に計算させるための方法は?そこには、人間の目的や意識、自由意志なるものを感じる。

7. 科学と信仰
聖書に限らず思想の解釈には中途半端なものが多く、しかも、それが主流となっている。歴史では、徹底した研究による解釈がなされないまま、後世に伝えられる例は実に多い。現在ですら、部分的な言葉の揚げ足による報道で、実体が伝わらないか、あるいは正反対の情報を伝えているではないか。聖書というものは、神の視点からものを言っているかのように伝えられるが、言っているのは司祭たちである。宗派をめぐって争いが起こるのも、各々の神は共存できないことの証である。ならば、まだしも無宗教の方がいい。宗教に対する人々の態度は多様であり、解釈も多様である。人々を精神の苦悩から解放してくれるならば、宗教に頼るのも一つの選択肢である。ただ、宗教に頼らなくても、自らの信仰や思想で苦悩から逃れることができる。司祭たちはなぜか?その解釈を統合しようとする。そもそも、宗教とは人々の苦痛を取り払うためのものではないのか?異教徒というだけで、なぜ相手に苦痛を与えようとするのか?不都合なことが起これば、全てイエスのせいにでもするかのように。不都合な行いを、全て宗教のせいにすればいいと考えるのは楽である。人間には、自分自身が良いと思うものを他人に勧めたいという衝動が付きまとう。成功者が、自らの体験談を広めたいと思うのも、そうした心理が働くのだろう。真似をして成功するならば、全員が成功して、もはや成功という言葉の意味も無くす。人間は少なからず信仰を持つ。いや信仰を持たないと生きてはいけない。信仰を宗教に頼る人々がいる一方で論理的思考に求める人々がいる。果たして、人間に完全な論理の組み立ができるだろうか?論理は人間の都合により捻じ曲げられ、利己的な立場へと進化する恐れがある。そして、無理やり感情を遠ざけようと躍起になり、やがて強情となる。どうせなら、感情を取り入れるゆとりを持ちたい。自らの感情を認めなければ、感情の冷静な分析などできない。古い時代、物理学者は自然哲学者と呼ばれていた。再び科学は哲学へ引き戻される感がある。

2009-04-01

酔っ払いの持つ合理性とは

さてエイプリルフールだ!今年のネタは何にするか?毎日エイプリルフールな生活を送っているようなもんだが。よって、天邪鬼は今日ぐらい真面目に過ごすとしよう。などと堅く決意していたところ、恒例の「桜祭り」の案内状が届いた。律儀で精神の揺るがないアル中ハイマーは、ドスの利いた声で「夜の社交場が俺を呼んでるぜ!」と呟きながら、真面目に和服鑑賞へ出かけるのであった。

1. 精神の合理性
「物事を客観的に観察して判断する」とは、よく聞かれる台詞である。数学的公理のような考察が可能であれば明らかに客観的判断と言えよう。だが、深い思考を呼び込むためには主観的考察も疎かにはできない。最初から客観性だけに頼っていては、現象をただ羅列するだけの貧弱な考察で終わるであろう。単なる現象の羅列からは、せいぜい最寄の事象の関連付けぐらいしかできないのだから。そもそも、人間精神の解明において弁証法なるものが現れるのも、精神が持つと信じられる客観的悟性が完全ではないと疑っている証ではないのか。成功のプロセスには偶然性が潜む。結果的にうまくいけば判断能力があると評価される。だが、純粋な判断力の存在を説明できるわけではない。一人の人間の理念には、一つの精神によって一つの宇宙が形成される。人間社会における客観性は、ほとんど個々の主観性に基づいた多数決によって支配される。そして、人間は永遠に占い師であり続けるのかもしれない。永遠に結果論で理由付ける評論家であり続けるのかもしれない。そもそも、認識そのものが主観性の強いものである。ある事象を認識し思考を働かせた時点で精神は主観の領域に入り込む。法律は客観的であるが、人間が解釈した時点で主観的となる。精神では主観性が強い分、客観性を強調するぐらいでちょうど均衡が保てるのであろう。そして、主観と客観の双方を統制する更なる高尚な価値観の構築が必要なのかもしれない。それが理性ってやつか?ただ、高尚な理性を構築するには、人生はあまりに短すぎる。神は人間を永久に不完全なものに留めておきたいのかもしれない。まるで神自身が優位性を保つかのように。強靭な理性の持ち主は精神を死の恐れから解放させ、死までの時間を静かに待つことができるという。ただ、欲望という本能も捨てたものではない。理性を獲得するには知性への欲望を必要とするのも確かである。皮肉にも強靭な欲望は、理性の欠乏を補って精神の安定をもたらすという不思議な関係も成り立つわけだが。
ちなみに、象の知能と感情の豊かさには定評があるらしい。
「象はなぜ?死を覚悟した時、群れから離れ、死に場所を探す旅にでるのだろうか?俺にはできない。一人孤独のまま姿を消すことはできそうにない。」
...映画「象の背中」より...

2. 運命の支配力
デカルトが人間の持つ知覚を「私は存在する」という一言で抽象化してしまったことには感服せざるを得ない。これは、人間の知覚は空間に関係し、一切のものは空間に存在すると言っているようなもので、まさしく先験的実存論を表している。ただ、認識できるものがすべて実存するとなれば、愛という妄想をどう説明するのか?「言葉のキャッチボール」は、いずれ「言葉のドッジボール」へと変貌し、ついには「言葉のビーンボール」が頭をかすめる。愛情が愛憎に変わるのに、大して手間はかからない。ちなみに、完璧な仕事の依頼料は300万ドルが相場だという噂だ。
「ゴルゴ13、奴を狙撃しろ!」
そして、暗殺を恐れた独身主義者は、実存主義者の「なぜ結婚しないのか?」という問いに、裏返った声で「それは理性を失わないからさ!」と錯覚論を展開するのであった。なるほど、スピノザは、誤謬の原因は人間認識の欠乏によって生じると語った。どうりで、「できちゃった!責任とってね!」と迫られると、唯物論者は唯心論者へ鞍替えするわけだ。
錯覚論者であるアル中ハイマーは、九連宝燈...国士無双...大三元...と呟きながらスーパーヅガンな人生を謳歌する。ちなみに、ゲーテは、想像力は芸術によってのみ制御されると語った。そう、芸術にこそ合理性が潜み、玄人(バイニン)技にこそ運命を操る支配力がある。中でも、飛び切りの芸術は「積み込み」である。そして、絶望論者は起死回生を願って呪文を唱える。「天が味方するから天和(テンホウ)なんだが...さて、明日も晴れるかなぁ...」

3. 酔っ払いの持つ合理性とは
物事の持つ合理性とは何か?それは、物事の本質を見抜くことであり、その本質の持つ合理性にこそ王道がある。
では、人間の持つ合理性とは何か?精神には、気まぐれや直感と、これに反するかのように好まれる論理的思考の両面がある。いわば、主観と客観の共存、欲望と抑制の共存、感情と理性の共存。主観性には、精神の高まりを呼び起こし、思考の深さを牽引する役割がある。客観性には、理性を研ぎ澄まし、精神と知性の均衡を保つ役割がある。この両面を凌駕することこそ、人間の持つ合理性に近づくことができると信じている。
人生はギャンブルか?ギャンブルの本質は確率論に持ち込まれる。この確率論には運と能力が微妙に絡む。ギャンブルで勝利したければ、時には奇策を用いるのも悪くはない。だが、ギャンブルの持つ本質にこそ合理性がある。確率を無視しては、神に逆らうようなもの。本質という合理性を否定していては、いずれ長いギャンブルに敗れるだろう。
そして、アル中ハイマーは人生のオーラスで地獄の単騎待ちに賭ける。しかも、海底(ハイテイ)だ!そう、不合理性に身を委ねてこそ、酔っ払った人生というものだ。

「誰かが金を無くすから博奕になるんだが、まあ、勝ったり負けたりってとこだろうよ!」
「勝ち続ける人もいるでしょう!」
「いるかもしれねぇ。だが、そういう奴は金の代わりに体無くしてる!そういうもんだ!」
「勝ち続けて丈夫な人もいるんじゃないの?」
「そういう人はきっと、人間を無くすんでしょうなぁ!」
...映画「麻雀放浪記」より...