2012-01-29

"父の国 ドイツ・プロイセン" Wibke Bruhns 著

およそタイトルから、想いもつかない物語に出会うことがある。
著者ヴィプケ・ブルーンスは、イスラエルの通信員となり、祖国に向かって主張しようと学んできた。その彼女が、なにげなくドキュメンタリー番組を見かける。ヒトラー暗殺未遂事件に関与した廉で処刑された父ハンス・ゲオルクの姿が映った裁判フィルム、そぅ、あの忌々しいフライスラー率いる民族法廷のワンシーンだ。この映像から11日後、父は吊るされた。プレッツェンゼーの処刑場で食肉を吊す鉤にかけられて。物心ついた時、父は亡い。家族も口を噤んできた。父にいったい何が起こったのか?どんな人物だったのか?ヴィプケは、大量に保管された父母や祖父母の手紙、日記、写真を読み解きながら、史料や資料を渉猟していく。本書は、プロイセン王国からナチス政権下に渡って、あるドイツ人一家に起こったことを綴った物語である。ハンス・ゲオルクをHGと称しているあたりに、ナチ党の父と距離を置きたい著者の気持ちがうかがえる。それでも、最後には身内としてその立場を受け入れようと努力する。
ところで、伯爵シュタウフェンベルク大佐が実行した事件については、今もなお、その意義について議論が絶えない。1944年の時点でヒトラーの悪魔性を知っていた者は軍部の一部にしかなく、ドイツ国民の大半はまだ気づいていない。やれることがあるとすれば、暗殺ぐらいであろうか。だが、批判も少なくない。あまりにも計画が不備だったこと、放送局や通信網の占拠の遅れ、国防軍に影響力のある将軍の不在、ヒトラーに代わる政治家の不在...といった指摘が聞こえてくる。ヒトラーをより一層狂気に向かわせたという見解もある。実際、処刑されたのは加担者とその関係者だけでなく、理不尽にも、ただ疑われた者や反政府分子などにまで及んだ。加担者たちも実現性に疑問を持っていたかもしれない。ただ言えることは、命を懸けて狂気に立ち向かった人々がいたということである。それが自由意思か運命かは別にして。

ヒトラーと国家主義者を倒し、それとともにドイツとヨーロッパを蛮行の危険から救うため、すべてのことを為そう、それこそが我々の義務であり、名誉となるであろう。
...トレスコウ少将と首謀者たち

なんでもいいから変革してくれ!という国民の態度は、大きな危険性を孕んでいる。第一次大戦の敗北で誇りが傷つけられ、おまけに到底不可能な賠償が課せられドイツ経済は瀕死の状況にあった。国家社会主義の正体がどんなものかも分からないまま、国民にはなんとなく新しいものが到来するように映ったことだろう。それでも、ユダヤの星や強制移送される光景を目撃した者もいたはず。もっと早くから懐疑的な者も少なくない。
1931年、父ハンスと祖父クルトは好奇心でゲッペルスの演説を聞きに行き、「お笑い種の集会、父も同様に拒否」と感想を残す。にもかかわらず、父ハンスは親衛隊に入り、母エルゼはアーリア系の血筋であることを誇らしく署名している。この事実にヴィプケは困惑する。ユダヤ人襲撃事件「水晶の夜」には、さすがに母もドイツ人であることが恥だと嘆いている。戦争に突入すると、新聞にユダヤ人に対する蛮行が掲載されても、日記にはその言及が見つからなくなる。無関心病か?民族裁判の時にゲシュタポが押収して、肝心なところが見当たらないのかもしれない。
なにもナチ党員だからといって、悪魔を容認したとは言いきれない。多くのユダヤ人を救った実業家オスカー・シンドラーもナチ党員だった。ハンスも実業家だったので共通点があるかもしれない。ヴィプケは父に対する激しい批判を現代女性の感覚で綴っていくが、やがて父を弁護する気持ちも合わせ持つようになる。いや、信じたいと言った方がいいだろう。いずれにせよ、激動期に向かって、世代間を越えようとした彼女の冒険には感服する。
ところで、歴史を現代の価値観だけで批判することは危険であろう。単純に過去を否定できるということは、究極の価値観に到達したことを自認したことになりはしないか?過去に狂気を経験したからこそ、今の感覚が持てる。人類の歴史は、人の思い上がった価値観の繰り返しであった。いつも過去は現在に蔑まれ、いずれ現在も未来に蔑まれるだろう。我が国においても、今現在、狂気していないと言い切れるだろうか?首相がころころ変わり、政治が機能しないこの時代を。

国民が一斉に狂気した時代を検証することは難しい。我が国にも、平和論を唱えようものなら非国民と罵られる時代があった。
ちょいとドイツの歴史を紐解くと、「全権委任法」を通すかと思えば、「大平和演説」で全世界から喝采を浴び、はたまたジュネーブ軍縮会議と国際連盟からの脱退を表明して民族意識を高揚する。不平等なヴェルサイユ条約やルール地方における嫌がらせなどで、ずたずたにされた民族の誇りを復活させれば、反ユダヤ主義などちっぽけな問題にしか映らない。平和主義者なのか?軍国主義者なのか?などと議論している隙に巧みにヒトラー教へと導かれる。その間、莫大な賠償やハイパーインフレによる大失業で暴動が頻発しているのを、アウトバーン建設など大規模な公共投資によって経済問題をあっさりと解決する。そして、自動車税の撤廃で庶民はそこそこの価格で自動車が買えるようになる。国民の中にある懐疑的な思考を凌駕するほどの経済復興を成し遂げれば、ヒトラーは救世主とされた。
更に、1934年ヒンデンブルク大統領が死去すると、大統領と首相の双方の権限を掌握して総統を名乗る。しかも、再度の国民投票を実施して90%近くの支持を得た。そぅ、国民は合法的に独裁者を歓迎したのだ。現代感覚に照らせば、全権委任法が通過した時点で終わっている。ヒトラーを神として崇めなさい!と法律で定めれば、法治国家を放棄したようなもの。ドイツ国民に軌道修正のチャンスがあったとしても、ヒトラーに対抗できるほどの政治家がいたであろうか?
ただ、ヒトラーが掲げた大ゲルマン思想は真新しいものではなく、既にヴィルヘルム2世によって宣言されていた。反ユダヤ主義にしても古くから根強くある。少なくともマルティン・ルターあたりであろうか。ヴィプケの知るかぎりではリヒャルト・ワーグナー以降だという。このような歴史背景もあって、本書がプロイセン王国時代に遡ってヒトラー政権を考察しようとする試みは興味深い。ヒトラーはヴィルヘルム2世の時代を繰り返しただけという印象か。

1. クラムロート家
父ハンスと娘ヴィプケは、クラムロート家の一族。クラムロート家は神聖ローマ帝国時代から市代表団の一員だったという。1790年、商人ギルドの流れからハルバーシュタットにIGクラムロート商事会社を設立。19世紀、プロイセン王国商業顧問官に任命される。IGクラムロートは、帝国主義とともに繁栄してきた。
祖父クルト・クラムロートは一族で初めて軍務に就いたという。商人出身となると、騎兵中隊の一員ぐらいにしかなれない。クルトは、金の力で馬、式服、士官クラブへの出入り、武闘の修得をし、やがて将校まで昇進する。富裕市民層が貴族の称号を求めてユンカー化していく時代でもあるが、クルトはその典型というわけか。
クラムロート家には正統な血統を守る伝統があるという。ユダヤ人、黒人、アラブ人との結びつきを拒絶し、南ドイツ人でさえ拒否する。クルトは、カール大帝を家系図に取り込むための調査で労力を注ぎ込んだとか。神聖ローマ帝国の亡霊に憑かれているのか?これがプロイセン気質というものか?おまけにヒトラー時代には、クラムロート親睦会の基本法にアーリア民族主義の条項を加えている。これにはヴィプケも呆れる。

2. 第一次大戦
当時のドイツは、誰もが戦争を望んだという。早期に解決すると楽観的で、改革や利益を得るには戦争が手っ取り早いという風潮がある。ヴェルヘルム2世の掲げる「ドイツ国民のための生活圏」「大ゲルマンの中央ヨーロッパ」という謳い文句は、そっくりヒトラーに受け継がれることになる。
クルトは、甥の戦死を知っても、いささかの驚愕の気配も見せない。家族の命よりも名誉が重んじられた時代である。血気に逸るハンスも入隊。しかし、東部戦線の泥沼化は、前のナポレオンごとく、後のヒトラーのごとく。そして国民総力戦へ。パンは配給制、路面電車や軍事工場は女性の職場となる。英雄ヒンデンブルクまでも占領地域の住民から毟り取れ!と命令する。
皇帝ヴィルヘルム2世のもとには、企業主ヴァルター・ラーテナウ、船主アルベルト・バリン、銀行家マックス・ヴァルトブルクといった「皇帝ユダヤ人」がいたという。ヴィルヘルム2世は、彼らユダヤ人の経済知識を高く評価したが、保守的なキリスト教徒で生涯反ユダヤ主義であり続けた。やがてヴェルヘルム2世の権力は軍部に削られていき、ヒンデンブルクと幕僚長ルーデンドルフによる軍部独裁となる。戒厳令がしかれ、出版の検閲、集会の監視、任意の逮捕、即決裁判が実施され、行政機関にも軍部が介入する。
1917年、ロシア革命でニコライ皇帝が追われるとブレスト・リトフスク和平交渉が始まる。しかし、翌年ロシアの全権トロツキーが和平交渉を打ち切ると、バルト海沿岸のドイツ人を赤軍から解放するという名目で、エストニアとリーフラント(ラトビアあたり)に侵攻する。ハンスはバルト海沿岸の住民たちがドイツ軍に熱狂する様子を興奮気味に記している。だが、クルトは大人だ、彼らはドイツ軍を歓迎しているのではなく、独立を願っていると諌めている。

3. ドイツ革命とヴェルサイユ条約
イギリスの海上封鎖に対して、皇帝が巨大おもちゃを出し惜しみ、遊んでいる艦隊がある。1918年、海軍提督ラインハルト・シェアを中心に決起し、イギリス海軍へ自殺的な特攻を命じる。しかし、ヴィルヘルムスハーフェン港の水兵たちが反発して革命の発端となる。海軍将校たちにとってみれば名誉の死を求めても、水兵たちには関係ない。抵抗運動は、またたくまにベルリンに達し全ドイツに広がる。社会民主党員フィリップ・シャイデマンが国会の窓から独断でドイツ共和国を宣言。マックス・フォン・バーデン公爵が宰相となり、フリードリヒ・エーベルト大統領が就任。ここからワイマール共和国が始まり、休戦協定に調印した。
しかし、クルトとハンスは、この動きに冷ややか。ドイツ全人口に占めるユダヤ人の割合は1.5%に過ぎないが、政府の80%はユダヤ人であり、ユダヤ・フリーメイソンによる世界陰謀説だとしている。ルーデンドルフはというと、スウェーデンへ亡命し、後にヒトラーと組むことになる。しぶとい野郎だ!
終戦後、社会主義を唱える集団が入り乱れて、論争が頂点に達する。右寄りの急進的義勇軍が、左寄りのマルクス主義によるスパルタクス団の蜂起を粉砕。ローザ・ルクセンブルクとカール・リープクネヒトは暗殺される。ドイツは内乱状態へ突入。政情は右へ右へ。ヴェルサイユ条約に対して、ドイツ全土で異口同音に憤激の叫び。現実味のない莫大な賠償金、軍備は制限され潜水艦と空軍の保有禁止。おまけに、戦争にあまり関係のない国々までイギリスに同調して、ヴェルサイユ条約に乗り込んできた。ヴェルサイユ条約の発効から二ヶ月後、カップ一揆が発生。政府はゼネストに活路を求める。

4. ナチスの台頭
1923年、フランスとベルギーによるルール地方の占領が本格化する。ドイツが木材と石炭の引渡しを履行しなかったという口実で、10万の兵が進駐。政府がルール地方におけるすべての賠償行為を停止すると宣言すると、途端にルール地方は麻痺する。鉱山労働者はフランスの命令に従わずストライキ。彼らの賃金は国家が保障しなければならない。国立銀行は湯水のように資金を送り続け、国家財政は悪化の一途。インフレはギャロップで駆け込み、とうとう兆の単位へ。なんとステーキが1兆マルク!
そして、エーベルト大統領が死去すると、ヒンデンブルクが返り咲く。ヒンデンブルクとくれば戦争を神格化し、前大戦で敗れたのを彼のせいにする人は一人もいないという。
トーマス・マン曰く、「わが民族が先史の勇者を引っぱりだしてきて元首に選ぼうなんて気を起こさなかったら、私もこの民族は政治に関しては躾がなっていると誇れるのだが」
この頃からヒトラーたちが先導し、愛国的な蜂起を頻発させる。ミュンヘン一揆では、ヒトラーとルーデンドルフの独裁者同士が手を結ぶ。この騒動が鎮圧されると、今度は合法的に政権を奪取することを目指し、ナチ党は選挙で躍進する。ルーデンドルフが選挙イメージに悪いと思ったかどうかは知らんが、ヒトラーとの関係は悪化する。更に、レーム事件が発生。政権を掌握すると、レーム率いる突撃隊のような粗暴な連中が邪魔とばかりに粛清する。レームたちは親衛隊によって抹殺されたわけだが、ハンスも親衛隊から身を引いている。その理由は会社の負担だとしている。
ヒトラーユーゲントで労働義務が制定されると、ハンスの子供たちも入団する。次女ウルズラは、BDM(ドイツ女子青年同盟 = ヒトラーユーゲントの下部組織)」のグループリーダーになり、600人の少女団員を率いる。ニュルンベルク党大会では、「オートバイは見ものだよ、800台のフォーメーション走行。すごい!!!」と興奮する。

5. 第二次大戦
1938年、オーストリア併合は、投票の99%をもってドイツとオーストリア双方の国民が歓喜する。ノルウェーの新聞は、こう書いている。
「これがオーストリア人の凌辱であるなら、オーストリア人はたぶん凌辱されるのが好きなのだ」
ミュンヘン協定後、大半のドイツ人は、ヒトラーがちょいと脅すだけで領土を差し出してくれると思っている。しかし、ハンスとエルゼは、海外紙を読んで戦争になることを予感している。もし、海外紙を読まずに国内だけに目を向けていたら、一緒にはしゃいでいたのだろう。
1939年、ポーランド侵攻。当初、ハンスは、ポーランドのやつら!と呼んでいるが、やがて互いに勇敢に戦ったとして、やつら!とは呼ばなくなる。後方では、親衛隊がユダヤ人やポーランド人の教師、弁護士、牧師、地主などエリート層の抹殺にかかる。別の方角からはソ連が侵入してきてポーランド将校を殺害、あの悪名高いカティンの森の虐殺である。そして、ゲットーが新設される。ハンスは、目を覆いたくなるようなワルシャワの破壊ぶりにショックを受ける。
1940年、ハンスは特別任務を命じられる。穀物商人という文民の身分でコペンハーゲンへ。カナリス提督の国防軍防諜部の作戦で、デンマークとノルウェー占領に向けた諜報活動である。商売上デンマークの社交界に知人が多く、デンマーク語も堪能、妻エルゼがデンマーク人という、うってつけの人物なのだ。占領作戦「ヴェーザー演習」が始まると、デンマークは戦うことなく進駐され、ノルウェーもあっけなく占領される。続いて、中立国オランダ、ベルギー、ルクセンブルクを侵略。小国が中立であろうとする葛藤の隙を狙って、電光石火のごとく侵略。後ろ盾のイギリスには有無も言わせない。
ここで注目したいのは、デンマークの占領政策は他の国と違って緩やかなものだったという。憲法を有効のままとし、国王、政府、議会も継続され、軍政もしかれなかった。軍隊も無傷で武装解除されなかった。これは、一つの実験である。被占領国に自治を許した方が公安の節減にもなる。デンマークの農作物は重要で、ドイツの食糧総需要の10%ないし15%を占めていたという。
1941年、バルバロッサ作戦とともに、ハンスは東部戦線へ。ハンスの又従兄弟ベルンハルト・クラムロートは、次女ウルズラと結婚。この娘婿は、後にハンスとともに処刑場で吊るされることになる。この頃、ヒトラーと意見の合わない将校たちが一斉に罷免され、その将校の多くが暗殺未遂事件に関与している。
1943年、スターリングラードで第6軍が降伏すると、国民はショックを受ける。エルゼも呆然。前線のハンスはベルビチンが必需品だと訴える。泥沼の軍隊は覚醒剤に頼る世界へ。国内でも睡眠薬に頼る人が続出。
「誰も彼も病気です、でも、どうしろと?戦争が病気であり、国が病気なのです。どうして人間が健康でいられるでしょう。」

6. 1944年7月20日の暗殺未遂事件
10日前、ハンスは、シュティーフ少将、フェルギーベル通信兵大将、シュタウフェンベルク大佐、そして娘婿ベルンハルトと会合をもったそうな。これをゲシュタポは見逃さない。娘婿が加担者というだけで充分な証拠だ。フライスラーは、北欧神話の戦士ベルゼルケルのような振る舞いで、大声でわめき、罵る。人民裁判では、どんなに反論しようとも、敗北主義者!裏切り者!と呼ばれるようにできている。この不快極まる見せ物は、ティーラック法務相ですら威厳が損なわれたと嘆くほど。
二人が拷問を受けたのかは分からない。ベルンハルトはあっさりと罪を認たので、受けていないようだ。ハンスは、受けていないことを祈るばかり。だが、最高裁検事長エルンスト・ラウツの起訴状が断片的に得られたところでは、ハンスには非常に手こずったとある。先鋭化する拷問がどんなものかは知らんが、トレスコウ少将の副官シュラブレンドルフがそれを描写している。睡眠略奪、疲労運動、鞭打ち...そんなものを自分の父親に重ねたくはないだろう。判決文は涙なしには読めないと。1944年8月15日、二人は絞首刑を宣告される。ベルンハルトは爆弾調達の廉で、ハンスは密告しなかった罪で。
ヒトラーの命令は「屠られた家畜のように吊るせ!」...そのように事は運ばれた。受刑者は、死を確実にするために20分間吊るしておくことが決まりだそうな。しかも、ゆっくり締めることになっているという。その光景は、細い輪をかけ、腰まで服を脱がせ、持ち上げて鉤に吊るしたとある。死と格闘している間、ズボンをつかんで下に引っ張るのだそうな。まだ死に至っていないうちに、薄ての黒いカーテンが引かれ、次の死刑が執行される。ヒトラーが見た写真には、絞首刑になった人たちは裸にされていたという。即座に銃殺された実行犯たちの方が、まだしも幸せだったというわけか。
被害は家族にも及ぶ。著者の兄ヨッヘンは、国防軍から追放され「懲罰部隊666」に放り込まれた。ハンスの弟で教育省上級参事官クルト・ジュニアは、悪名高い「ディルレヴァンガー部隊」へ転属、民間人への虐殺、略奪、婦女暴行などの蛮行に走り、国防軍はおろか武装親衛隊の間でも嫌われた部隊である。財産は家財道具、書籍、絵画、そして子供のおもちゃまでゲシュタポに押収される。
娘は父に問う。「どうしても理解できないのは、どうすればあなたみたいな人がナチスの手に落ちることができたの?」
確かに、時代が違う。だから、思い上がって過去を蔑んでいるのかもしれないけど...

2012-01-22

"ナチの亡霊(上/下)" James Rollins 著

推理小説はまるで麻薬だ。今宵も寝不足が辛い。誰か止(泊)めて、そこのお姉さん!神よ、廃人になる前に愛人を!

前記事「マギの聖骨」に続くシグマフォース・シリーズ第二弾、正式名を「Black Order」と言う。Black Orderとは、ナチ親衛隊の別名でハインリヒ・ヒムラーの息のかかった幹部たちを指す。当初、親衛隊はアドルフ・ヒトラーの私的ボディーガードとして設立された。SS(シュッツシュタッフェル)には独立護衛隊という意味がある。それが後にオカルト化し、Black Orderへと変貌する。ヒムラーがオカルトに憑かれていたという説は広く知られる。彼のオカルト思想とは何か?どんな研究がなされていたのか?これが本書のテーマである。そして、進化論、知的デザイン説、遺伝子工学、量子論から、北欧のルーン文字やアフリカ奥地の怪物伝説に至るまで、知識とウンチクのオンパレード。尚、ここに提示される科学的議論は、すべて事実に基づくという。事実は小説よりも奇なり!とはよく言ったものだ。

意識とは何か?生命の起源を量子論的に組み立てれば、こういう図式になるらしい。
 アミノ酸 >> 最初のタンパク質 >> 最初の生命 >> 意識
本書は、人間の意識を一種の量子現象としている。
現在、人類は量子コンピュータを次世代コンピュータと位置づけ模索している。その正体を、仮に意識現象を扱うものと定義するならば、念力が通じるという恐ろしい結果を生むかもしれない。科学は人間の欲望から生じる。そして、人間社会を豊かにしてきたと同時に大量破壊兵器をも生んできた。科学者は、善悪はそれを用いる者の心の中にあると訴える。これは詭弁であろうか?人間の欲望には大きく二つのものがある。知性を求める純粋な欲望と、支配欲や物欲に満ちた脂ぎった欲望だ。だが、純粋な意欲で動機づけたところで、知識の優位性を意識した途端に脂ぎった意欲へと変貌する。となると、相対的認識しか持てない人間に、邪悪な意識を消し去ることなどできようか...結局、絶望論に帰着するのか。
人間は、神になろうとしているのか?悪魔になろうとしているのか?それともその両方か?二つの状態を量子論的確率に結びつけるならば、「シュレーディンガーの猫」と似たような状況になる。その解決策に、知的デザイン説を持ち出せば、デザイナーの正体は誰か?という素朴な疑問が湧く。知的デザイン説とは、知性ある何かの存在によって生命や宇宙の精妙なシステムが設計されたとする説だ。その答えを宗教に求めるならば簡単、そぅ、神だ!だが、量子論に求めるならば、人為的操作に結びつくかもしれない。ここで言う人為的とは、ちょっとニュアンスが違うので注意されたい。それは確率的誘導とでも言おうか、まったくの偶然性では説明できないという意味だ。
では、確率を左右する要因とは何か?それが意識であり、祈りというわけだ。願いと言った方がいいかもしれない。ただし、より美しく、より優れた、より強くといった欲望と、ちと違う。突然変異の無作為性では、先天性の欠陥が超人的な能力を発揮させる例がある。サヴァン症候群は、左脳が障害を受けて、右脳がその埋め合わせをした結果、計算能力が超人的に高められると聞く。眼が不自由となれば、その能力を補うために聴覚を研ぎ澄ます。これが量子論的進化論と言うべきものであろうか?つまり、量子論から眺めた知的デザイン説のデザイナーとは、自己であり、自我であり、進化しようという本能的意志ということになろうか。実は、本書の扱う最大のテーマは、この問題提起ではなかろうか。アリストテレス曰く、「狂気の要素のない偉大な天才は、未だかつて存在したことがない。」

進化は生物学の根幹を成すものであり、それによって生物学が新たに発展した理論に基づく科学という位置づけを得たとすると、これは科学なのだろうか、それとも信仰なのだろうか。...チャールズ・ダーウィン

信仰心を持たない科学には行き着く先がない、科学的視点を持たない信仰心には見る目がない。...アルベルト・アインシュタイン

私が神から特別に保護されていないという証拠はあるのか。...アドルフ・ヒトラー

今宵は、科学と宗教の境界、あるいは化学と生命の境界なるものを必死に追いかけているような気分になる。それは、いきなり登場するダーウィンが所有したとされる聖書が物語っている。つまり、進化論を唱える科学者と敬虔な信仰者を結びつけているわけだ。
古来、物体と精神、あるいは肉体と魂は分離できるのか?そこに境界はあるのか?という哲学的論争がある。実存論的思考では、人間の実体は精神であって、固体である肉体にはなんの意味もないと主張する。一方、モナド的思考では、物質の最小単位は原子のような物的存在ではなく、けして分離できない固体と魂が対になった形而上学的存在だと主張する。本書の立場は後者に近いか。それは、量子論を根底から支える概念、すなわち粒子性と波動性で説明してくれる。素粒子の世界では、この二重性をけして切り離すことはできない。
世の中には、境界が明確に説明できないにもかかわらず、区別されるものが実に多くある。その区別によって、互いに意思疎通ができているから人間とは不思議な生き物だ。意思疎通ができていると信じているだけのことかもしれんが。有限と無限、意識と無意識、主観と客観、創造と破壊... これらすべての境界を明確に説明できる人はいないだろう。数学の記号で定義することができたとしてもだ。実は、対となって存在するものは、すべて分離できないのでは?意識や認識とはそういうものかもしれん。その証拠に、酔っちまえば夢も現実も同じよ!

1. あらすじ
物語は、三ヶ所で発生する事件が同時進行しながら、最後に一本の線で結びつくという展開を見せる。
まず、コペンハーゲンで開催されたオークションで、ダーウィン所有の聖書が出品される。調査に訪れたシグマフォースのグレイソン・ピアース隊長は、謎の暗殺者に命を狙われる。手がかりは、聖書が手に渡ってきた来歴に隠されていた。聖書を入手すると、そこに書かれたルーン文字の暗号を追って、ドイツのヴェーヴェルスブルク城を訪れる。
同じ頃、ネパールの僧院で奇病が発生する。調査を依頼された女医リサ・カミングズは、狂気した僧たちと奇病に感染したシグマフォースの司令官ペインター・クロウと出会う。二人は隠蔽を企てる謎の組織に捕らえられ、ヒマラヤ山中のグラニートシュロス城(花崗岩の城)に軟禁される。場所はシャングリラ伝説があったとされる辺り、そこには謎の装置「釣鐘」があった。
一方、南アフリカ共和国では、英国諜報部MI5が、大富豪ワーレンベルク家の不自然な資金の流れを追っていた。諜報員として潜入した生物学者マルシア・フェアチャイルドとポーラ・ケインは、シュルシュルウエ・ウンフォロージ動物保護区にあるワーレンベルク邸をマークする。ある日、動物保護区で原住民ズールー族に伝わる謎の怪物ウクファが目撃された。怪物が殺した動物は、食べられた形跡がない。空腹でもないのに、快楽のためだけで殺すような肉食動物が、自然界に存在するだろうか?たった一種類いた。それは人間だ!
これら三つの展開を、要約するとこんな感じであろうか...
まず、ドイツでは、聖書に記される暗号の意味を、歴史の面から迫る。その鍵は、狂気的進化論から眺めたヒムラーの優越人種論、すなわちアーリア民族説にある。
次に、ヒマラヤ山中では、研究が実施されてきた事実を元に、科学の面から迫る。その鍵は、人体実験と動物実験における遺伝子操作を、量子論から眺めた知的デザイン説にある。
最後に、南アフリカで現実を目の当たりにした時、生命とは何か?知性はどこへ向かっているのか?と、哲学的な議論に踏み込むことになる。そして、人間の意識の正体とは何か?それは量子コンピュータに答えがあるのでは?といった議論まで展開される。
最後の最後では、ヒムラーの恐るべき不愉快な野望が明らかになる。それはワーレンベルク家の家系図にあった。また、スパコンでも解読できなかった6つのルーン文字の暗号とは、なんと!それぞれの文字を回転させて正しい向きと場所に配置していくとある記号が浮かび上がる。
更におまけで、量子論から誕生した「完璧な人間」の姿も垣間見せてくれる。尚、完璧とは平凡ということかは知らん。

2. 「釣鐘」は実在した ...歴史的事実!
第二次大戦後、英米仏露の間でナチの科学技術争奪戦が繰り広げられた。「ペーパークリップ計画」では、V2ロケット製造に関与した何百人ものナチ科学者が秘密裏に米国へ移送された。英国は、暗号名「Tフォース」(テクノロジーフォースの略)のもとに5千人の兵士と専門家を派遣した。Tフォースの創始者は、イアン・フレミングという指揮官。そう、「ジェームズ・ボンド」を書いた小説家だ。つまり、チームの隊員をモデルにした小説というわけか。
対して、ナチも黙っちゃいない。終戦間近、科学者や研究所を抹殺し、連合国の手に渡るのを阻止した。第三帝国復活の夢を見つつ...その研究所は数百ヶ所にものぼり、ドイツ、オーストリア、チェコスロバキア、ポーランドなど各地に散らばる。その中で最も大きな謎に包まれていたのが、ポーランドの要塞都市ブレスラウ郊外にある元鉱山だという。
そこで行われていた研究は、暗号名「ディー・グロッケ(釣鐘)」。記録によると、奇妙な光を目撃したという住民たちの証言や、原因不明の病気や死亡例などがあるという。鉱山にはソ連軍が一番乗りしたが施設はもぬけの殻、発見されたのは研究に携わった62名の科学者の射殺死体だけだったという。歴史的事実として言えることは、ただ一つ「釣鐘」は実在したということである。

3. オカルト思想とアーリア民族思想 ...事実との境界はかなり微妙か!
ナチは、ミッシュリングという概念を用いてユダヤ系ドイツ人を分類し、命の保障の代わりに忠誠を誓わせたという。秘密研究に尽力したミッシュリングの科学者も多くいたらしい。本書は、ヒムラーとミッシュリングの関係に迫る。ミッシュリングの科学者が娘宛に遺した手紙には、次のようにある。
「あまりに美しい真実が、このまま日の目を見ずに終わるのは惜しい。だが、あまりに恐ろしい真実が、世の中に解き放たれるのは危険だ」
ヒムラーは、トゥーレ協会という狂信的な愛国主義グループの会員だったという。彼らは、ユーバーメンシュ思想、すなわち超人思想に憑かれていた。古代ゲルマン民族のチュートン人がローマ軍を撃退した時の森林地帯のあたりに秘密の集会場を設け、チュートン人こそ失われた優越人種の子孫だと信じていたという。また、ルーン文字の魔力を信じていた。ナチはルーン文字を記号として巧みに利用している。SSのマークで、稲妻が二本並んだような形もルーン文字だ。そして、ヴェーヴェルスブルク城に迫るのだが、そこはナチ親衛隊長官ヒムラーの拠点だった。
ナチは、国家社会主義ドイツ労働党と称していたが、実はカルト教団だった。盲目的な服従を要求する精神的指導者、同じ征服に身を包む弟子たち、秘密裏に行われる儀式と血の誓い。崇拝の対象となる偶像ハーケンクローツ(鉤十字)は、十字架やダビデの星のような役割を担う。ナチは思想の持つ潜在能力を理解していた。国民を洗脳する力が、どんな武器よりもはるかに強力であることを。
ヒムラーは、ザクセン朝ドイツの初代国王ハインリヒ1世の生まれ変わりだと信じていたという。そして、数千年も前のインドの古代ヴェーダ語の聖典を研究していたという。そもそもの始まりは、アーリア民族という言葉を最初に使ったブラヴァツキー夫人に遡るらしい。彼女は、仏教の僧院で研究していた時、今の人類はある優秀な人種が退化したもので、いつの日か再び進化を遂げる人種が蘇ると考えた。いわゆる支配者民族説だ。その100年後、グイード・フォン・リストがブラヴァツキー夫人の説とドイツ神話を組み合わせて、架空のアーリア民族が北欧人種系であるとの説を唱えた。ドイツ国内に多く点在したオカルト結社が、その説に飛びつく。トゥーレ協会、ヴリル協会、新テンプル騎士団など。しかも、第一次大戦で敗北の屈辱を受けていたドイツ国民は、その説をすんなりと受け入れた。ヒムラーは、これらの研究を踏まえて、アーリア民族の発祥の地はヒマラヤ山中だと確信したという。つまり、アーリア民族を蘇らすためには、ヒマラヤ山中しかないというわけだ。ナチはヒマラヤ山中に調査のための遠征隊を送り込んだという。ヒムラーは、ヴェーヴェルスブルク城をドイツ国内に建設すると、ヒマラヤ山中にもそれを模した城を建てた。それがグラニートシュロス城だという。

4. 相対論 vs. 量子論
20世紀初頭、物理学会では二大理論体系の論争が巻き起こった。西側諸国はアインシュタインの相対性理論を指示し、アメリカはマンハッタン計画を実施した。ちなみに、アインシュタインは量子論が受け入れられなかったと言われる。
対して、ナチは量子論を選んだ。理由は簡単、アインシュタインがユダヤ人だから。そして、ハイゼンベルクやシュレーディンガーらの理論に基づいて研究を進めた。中でも、量子論の父マックス・プランクが最も重要視されたという。現在では「零点エネルギー」と呼ばれる研究である。物質が絶対零度まで冷却されると、すべての原子運動は停止する。つまり自然界の活動がゼロになる。だが、そんな状態であってもエネルギーは残っている。存在するはずのないバックグラウンド放射線が観測できる。そのエネルギーの存在は、伝統的な理論体系では説明できないが、量子論だったら可能である。絶対零度になると粒子は運動しないが、粒子自体の発生と消滅を繰り返すことによって、エネルギーを生じる可能性がある。完全静止から生じるエネルギーとなれば、その潜在性は無限大というわけか。

5. 量子論的知的デザイン説 vs. 自然的進化論 ...この論争は見物だ!
カンブリア紀という比較的短い時期に、無脊椎動物などの新生物が爆発的に誕生したという説を紹介してくれる。つまり、「単なる偶然にしては、生物の進化は速すぎる」ということらしい。DNAは隕石によって運ばれたという説もあるけど。
最近の例として紹介される事例は興味深い。ある研究者が、ラクトースを消化できない大腸菌の生成に成功したという。そして、その大腸菌を培養してから、栄養がラクトースしかないシャーレの中に入れたら、どんな現象が生じたか?ラクトースが消化できないのだから、大腸菌は餓えるしかない。ところが、98%は死滅しながらも、2%は生き延びたという。そぅ、たった一世代で2%も遺伝子を変異させたというのだ。この突然変異は驚くべき確率だ。確かに無作為性とは言いにくい。
更に、原始のスープの時代、すなわち生命の起源まで遡る。単細胞生物の前には何が存在していたのか?生物をどんどん分解していくと、どこまでを生命と呼べるのか?DNAは生きていると言えるのか?染色体は?タンパク質や酸素は?いったいどうやって化学物質から細胞へと飛躍できたのか?太古の地球の大気は、水素、メタン、水分に満ちていた。そこにエネルギーの刺激を何度か与えれば、例えば落雷によって、ガスが単純な有機化合物を形成した可能性があるという。これらの化合物が原始のスープの中に浸され、やがて自己複製可能な分子を形成する。これは実験でも証明されているそうな。
瓶に詰めた原子のガスからはアミノ酸を含む液体が生じる。アミノ酸はタンパク質の基本構成要素で、そこから生命が始まる。十分な量のアミノ酸が混じり合ううちに、自己複製可能なタンパク質を生成するための正しい組み合わせになる。アミノ酸が偶然正しく結合してタンパク質が生成される確率は、10の41乗分の1だという。この確率は世界中のすべての熱帯雨林に存在するタンパク質を集めて、そのすべてをアミノ酸の液体に分解したとしても、その中でタンパク質を生成するための正しい組みわせを一つだけ作るには、その5千倍のアミノ酸が必要だという。これで生命の誕生が、単なる偶然で説明できるのか?と問うている。

6. 釣鐘の正体 ...もちろんフィクション!
釣鐘は、優越人種を製造するために開発された。具体的には、量子レベルで遺伝子を刺激する装置である。どんな薬も治療法も効かない領域で細胞に損傷を与えることができる。DNAサンプルがあれば、ピンポイントで個人を抹殺することだってできる。
当初、釣鐘はエネルギー発生装置の実験だったという。燃料として未知の物質「ゼーラム525」を使用していた。ゼーラム525は、零点エネルギーの研究の副産物だという。釣鐘が回転すると強力な電磁波の渦が生じ、ゼーラム525をこの渦にさらすと奇妙な量子エネルギーが発生する。ナチの科学者は、生物細胞に悪影響を与えるだけでなく、向上させる効果があることも発見したのだった。カビの急激な成長、シダの巨大化、ハツカネズミの反射神経の向上、ラットの知能向上など。しかも、高等動物になるほど、より有益な結果が得られるという。そして、人体実験を行うと、驚異的なIQ、鋭い反射神経などが観測される。有害が発生する可能性は確率論に持ち込まれる。奇形が生じるのも、やむなし!とするのが量子論的思考かどうかは知らん。
ナチは、「完全な人間」を製造することに成功していたという。第一号はポーランドのブレスラウ近郊の研究所で誕生した。戦後、釣鐘はヒマラヤ山中に渡るが、情報は完全には残っておらず再現できない。当初、人体実験をしていたが、やがて人体に悪影響を及ぼすことが分かると、計画は動物実験に切り替えられる。
釣鐘から生まれた人間は、「ゾネンケーニヒ(太陽王の騎士)」と呼ばれた。尚、ゾネンケーニヒは二種類ある。計画が盛んに進められていた時期に誕生した者は、王のような待遇を受け、「リッター・デス・ゾネンケーニヒ(太陽王の騎士たち)」と呼ばれ尊敬された。ところが、欠陥があると分かり計画が頓挫すると、「レープラケーニヒ(癩病の王)」と呼ばれ軽蔑された。シグマフォースの隊員たちを襲う暗殺者たちはゾネンケーニヒで、大柄で俊敏で超人的な能力となれば、敵うはずもない。釣鐘は放射線病の治療にも使えるという。完全に放射能を制御できればだけど...
研究は、南アフリカの方がヒマラヤ山中よりも、はるかに開発が進んでいて、完成に近づきつつあった。そこにはハイエナの化け物、体毛がない知性的なゴリラ、真っ白な毛のライオン、螺旋状の角をした縞模様のアンテロープ、骸骨のように痩せ細ったジャッカル、アルマジロのような鱗甲板で覆われたアルビノ種のイボイノシシなどの奇形動物ばかりが飼育されていた。人間どもは時々化け物の餌にされる。
釣鐘の開発の副産物はまだある。それは量子爆弾だ。アインシュタインの相対性理論からウラン原子の持つエネルギーを利用した核爆弾が製造されたが、プランクの量子論に隠されたエネルギーの持つ威力は比べ物にならない。なにしろ、ビッグバンに結ぶつく理論なのだから。

2012-01-15

"マギの聖骨(上/下)" James Rollins 著

推理小説は麻薬だ。手をだしたら最後、もう誰にも止められないぜ!
その魅力といえば、緻密に組み立てられる論理性と、それを観察する立体的視点が鍛えられるところにあろうか。論理性に隙あらば、たちまち色褪せてしまう。シナリオの脆さを露呈しやすいだけに作者の気配りも繊細である。そして、完成度の高いシナリオに出会った時、一字一句見逃せない緊張感へと誘なう。おまけに歴史が絡めば、事実と創作の境界を彷徨することになる。事実は小説よりも奇なり!まさにそんな作品である。

「マギの聖骨」は、シグマフォース・シリーズ第一弾。
シグマフォースとは、DARPA(米国国防省高等研究企画庁)直属の秘密特殊部隊である。隊員たちは、レンジャー部隊やグリーンベレーからスカウトされ、科学分野の専門知識を習得した「殺し屋の訓練を受けた科学者」とも言うべき存在だという。もちろん創作だ。ただ、DARPA自体は実在するし、それに相当する組織がないとは言い切れないけど...
ちなみに、Σ(シグマ)記号は数学では総和を意味する。ここでは、物理学、化学、考古学、神学などの専門知識に加えて技術力と戦闘力の統合という意味があるようだ。これだけでも、本書がアクション物ということが分かるだろう。しかし、フィクションとはいえ、登場する美術品、遺跡、カタコンベ、財宝などはすべて実在し、科学技術もすべて最新の研究に基づいているという。
ジェームズ・ロリンズは、アメリカではずっと前から歴史ミステリー作家の地位を確立していたものの、この作品が「ダ・ヴィンチ・コード」の大ヒット後ということもあって、人気にあやかろうとしたという批判も少なからずある。同じキリスト教を題材にしていることもあろう。映画化を意識している感は否めないけど...
しかし、その着想は10年前に遡るという。なるほど、ヘタな歴史書よりも知識が深く、考察も鋭い。まさに地中海文明をめぐる壮大な歴史紀行へと導いてくれる。これは第二弾へ向かう衝動を抑えられそうにない。しばらく寝不足が続きそうだ...

物語は、およそ結びつきそうもないキーワードが、見事に一本の線に結びつくという展開を見せる。そのキーワードとは、古代の世界七不思議、アレクサンダー大王、カトリック教会の陽と陰、最先端技術の超電導である。しかも、これらを結びつける鍵が、錬金術とキリスト教の発祥というあたりに摩訶不思議な世界がある。
最大のテーマは、古代の錬金術師たちが既に現代科学を凌駕していた可能性を示唆していることであろう。具体的には、m状態にある金属に潜在する空中浮揚の技術と無限エネルギーの解明である。これはハルマゲドンか?古代文明の謎がいまだに解明できない理由がこのあたりにあるのかもしれない。現代人は、いまだバビロンの空中庭園の仕組みを明確に説明できないでいるのだから。
更に、これら科学知識が、なぜ巧妙に隠蔽されてきたのか?その背景をキリスト教の伝統思想である秘密主義と結びつけている。現代人には、それを手にするにはまだ早すぎるということか?アインシュタインは、重力の正体を時空の歪で説明した。そのエネルギーによって空間と空間が重なり合えば、互いに行き来できる可能性もあるとされる。だが、人類はまだ過去も未来も自由に往き来する資格がないのかもしれない。マンハッタン計画を主導したオッペンハイマーは、古代インドの聖典「バガヴァッド・ギーター」を引用して「我は死神なり、世界の破壊者なり」と語った。
「古代の人々が財宝とともにどこへ消えたのかはわからない... 過去かもしれないし、未来かもしれない。だが、我々には現在だけで十分だということなのだろう。」

本書で注目したいのは、キリスト教の入門書にもなっていることである。それは、正統派とされるヨハネと反正統派とされるトマスの対立に遡る。そして、キリスト教に多くの福音が点在したことを紹介してくれる。それだけ多様で柔軟な思想だったということらしい。それ故に、古代ローマ時代、カルト宗教として弾圧されたにもかかわらず、却って信者を増やしていったのだろう。あのナザレの大工の悴は、噂されるほどの高貴な御人だったに違いない。その思想を特定の福音書だけで縛り付けるから、思考を硬直化させてしまう。各々の福音を一般の書として自由に解釈を与え、キリスト哲学として眺めれば宗教も解放されるだろうに...
信じる者は救われるとすれば、精神は楽になれるが思考は停止する。逆に、真理は知への渇望にあるとすれば、悩みは増えるが思考は解放される。前者がヨハネ派で、後者がトマス派ということになろうか。泥酔した反社会分子は、条件反射で反正統派に肩入れしてしまう。案の定、トマス派は迫害されてきた。ただ、どちらがより過激な思想でテロリズムに近づきやすいかといえば、トマス派であろう。それは、知識を独占したいという欲望によって、知的優位性から支配民族思想が見えてくるからである。他より優れていると狂信した時、自我の横暴さを露出させる。どこぞのアーリア民族思想のように。そこに、科学の進化が結びつくと恐ろしいことになる。遺伝子工学の進化は狂信者にとっても都合がいい。古代遺跡からDNAを抽出して王族を復活させようと試みるかもしれないし、クローンによるイエスの復活なんてことを夢見るかもしれない。復活したところで宇宙法則がどうかなるわけでもないとなれば、神も見過ごしてくれるかもしれない。人間優越主義は永遠に不滅ということか。そして、「科学 + 宗教 = オカルト」という構図が見えてくる。

1. あらすじ
ドイツのケルン大聖堂でのミサの最中、修道服姿をした侵入者たちが司祭と出席者の84人を惨殺した。ペルシャ風のエキゾチックな紋章を持つ連中だ。その惨殺死体は、奇妙なエネルギー場によって感電死したという謎の手口。犯人の目的は、黄金の聖骨箱や貴重な美術品ではなく、中身のマギの聖骨だけだった。それは、キリストの生誕を祝いに訪れたとされる東方の三博士の遺骨である。聖骨だけが目的ならば、なにも大勢の前で盗む必要はない。カトリック教会への復讐か?
事態の収拾に追われるヴァチカンは、イタリア国防省警察レイチェル・ヴェローナ中尉に調査を依頼した。だが、一介の警察組織ではこの奇怪な事件に心もとない。そこで、米国国防省内の機密組織シグマに応援を要請する。シグマの司令官ペインター・クロウは、グレイソン・ピアースを隊長とした科学者と特殊部隊の隊員から成る即席チームを編成し謎の解明に当たらせた。
マギの聖骨がケルンに渡った経緯は、12世紀の神聖ローマ帝国によるミラノ略奪に遡る。だが、遺骨の一部がミラノに返還されていた。その成分を調査すると、骨ではなく白い粉末だった。m状態と呼ばれる純金の新しい元素状態で、透き通ったガラス状をしている。この物質は、極めて純粋な超電導体で、世界を一変させるほどのエネルギーが秘められていた。マギの聖骨とは、マギの死骸の骨ともとれるが、マギが作った骨ともとれる。
では、製造したのは誰か?白い粉末の歴史を辿ると古代錬金術につながる。最古の記録はエジプトにつながり、アレクサンダー大王へ結びつく。そして、謎解きの地はミラノからアレクサンドリアへ。大王の墓に謎解きの鍵でもあるのか?アレクサンダー大王の誕生から死去までの歴史を辿ると、古代の世界七不思議との関係が見えてくる。地図上で七不思議の作られた順番に線を引くと、三角形を上下に並べた図形になる。すなわち、砂時計の形だ。砂時計とは、時の流れを表す道具、しかも発明されたのが意外にも遅く14世紀だという。それは、ヴァチカンの対立法王の時代と重なる。その時代に誰かが意図的に隠蔽したということか。そして、砂時計の北と南の極を結んだ延長線上に最終目的地が示されていた。最後の謎解き地は、対立法王の時代に正統な法王が亡命していたアヴィニョンにあるゴシック建築物フランス法王庁だ。
それぞれの謎解き地には、同じく謎を解明しようとする犯人グループが待ち構えていた。その名はドラゴンコート。キリスト教のグノーシス派の流れを汲む一派で、錬金術師と暗殺者の秘密結社である。テンプル騎士団やフリーメイソンの匂いがする。また、正統な血筋を信じて世界支配民族を自称している。彼らは、先祖が残した偉大な知識を回収しようとしていた。ドラゴンコートがマギの聖骨を手に入れようとする目的はただ一つ、狂信者のみが夢想しうる恐るべき計画を実行するためである。
尚、断っておくが、インペリアル・ドラゴンコートは実在するヨーロッパの組織で、その歴史は中世に遡るという。貴族階級が会員になっている儀式を重んじる慈善団体で、本書に登場する過激派は創作だという。ドラゴンコートは現在でも活動を続けており、その主権はEU内でも認められているという。ちなみに、マルタ騎士団が国連でオブザーバー資格を持っているのと同じようなものだそうな。その正体は謎の部分も多く、欧州王子理事会、テンプル騎士団、バラ十字団などと関連があるという噂もある。

2. マギの聖骨... おとぎ話の世界から歴史の舞台へ
マギとは、キリストの生誕を祝いに訪れたとされる東方の三博士。その人数には諸説があるという。直接の記述があるのはマタイの福音書だけで、それもぼかした言い方をしているという。ちなみに、聖ペテロの墓の絵には2人、ドミティッラの地下聖堂の絵には4人が描かれているそうな。3人と考えられるようになったのは、持参した贈り物の数がもとになっている。それは、黄金、乳香、没薬の三つ。その上、3人の王と呼ばれるものの、王でなかった可能性すらあるという。
マギという言葉は、魔術師を意味するギリシャ語の複数形マゴイ(magoi)が起源。その語は魔法という意味ではなく、むしろ人々の知らない知識を実践するという意味があるらしい。今では、ペルシアかバビロニアから来たゾロアスター教の占星術師と推測されているようだ。
マギは星の動きを読み、ある一つの星が天に昇ったのを見て、西方に王が誕生することを予言したとされる。これがベツレヘムの星で、その子供が新たな王としての資質を持っていると考えた。その話を聞いたヘロデ王は、新王が生まれるであろう場所をヘブライ語の預言書で特定し、マギをスパイとして送り込んだ。マタイの福音書によると、マギがベツレヘムに向かう途中で再び星が現れ、子供のもとへ導いたとされる。マギは天使のお告げによって、ヘロデ王に子供の素性も居場所も教えなかった。その結果、ヘロデ王の幼児虐殺が起こる。だが、マリアとヨセフとその子供は、天使の警告を受けて既にエジプトに逃れていた。マギの3人の名は、ガスパール、メルキオール、バルタザールとして伝わる。その後の消息は、マルコ・ポーロの「東方見聞録」に少し触れられているという。それによると、幼子イエスからマギに偉大な力を持つ石が贈られたという。その石をもとに、マギは深遠な知識を守るために秘密結社を創設したとされる。後に「聖なる石」とされるものであろうか?
さて、聖骨がヨーロッパに渡ったのは、キリスト教を最初に公認したコンスタンティヌス帝に遡る。コンスタンティヌス帝は聖遺物を収集するために、母の聖ヘレナを聖地巡礼の旅へと送り出した。最も有名な発見はキリストが磔にされた十字架だが、その信憑性については論争が続いているという。それはさておき、聖ヘレナがエルサレムよりさらに遠方へと足を伸ばしたことは、あまり知られていないらしい。彼女は、大きな石棺とともに戻ってくると、三人のマギの遺体を回収したと主張したそうな。この遺体は、コンスタティノープルの教会に保管されていたが、コンスタンティヌス帝の死後ミラノに移送され、どこかの教会に埋葬されたという。
更に、1162年のミラノ略奪の際、バルバロッサ帝(神聖ローマ帝国フリードリヒ1世)が遺体を盗んだという説がある。それも噂の域を出ない情報がいくつも交錯するようだが、いずれにせよケルン大聖堂のライナルト・フォン・ダッセル大司教に渡った。これに対して、ミラノ市は何世紀もの間、返還を要求してきた。ようやく決着がついたのは1906年、マギの聖骨の一部が返還され、サンテウストルジョ教会に納められたとのこと。

3. トマスとヨハネの対立... キリスト教入門 (その壱)
ドラゴンコートは、古代グノーシス派の経典を拠り所にしているという。グノーシス派はカトリック派よりも歴史が古い。「gnosis」という言葉には「真理を求める、神を見つける」という意味があり、トマス派の流れを汲むという。
本書は、その歴史を二人の使徒ヨハネとトマスの確執にまで遡る。そもそもキリスト教は異端宗教とされ、当時いくつも存在した新興宗教の一派でしかなかった。ただ、金銭を要求した他の宗教とは違っていて、キリスト教徒は進んで金銭を出し、孤児に食糧や家を与えたり、病人に薬を与えたり、貧しい人のために棺の代金を払ったりしたという。底辺で苦しむ人々を支えたことで、異教徒の烙印を押されながらも信者を増やしていったというわけか。
初期のキリスト教は秘密厳守が重視され、洞窟や地下の聖堂などで密かに礼拝が行われたという。そのために、同じキリスト教でも他のグループとの接点がなくなっていく。最初は、アレクサンドリア、アンティオキア、カルタゴ、ローマなどを中心に大きな宗派が形成されたという。宗派間の交流がないために、固有の儀式や教義が生まれ、各地でいくつもの福音が説かれた。正統派とされるだけでも、マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの四つの福音書がある。他には、グノーシス派関係のヤコブの原福音書、セトの書...更に、マグダラのマリア、フィリポによる秘密の福音、真理の福音、ペテロの黙示録...と枚挙にいとまがない。キリスト教は誕生して間もなく分裂したわけか。
2世紀、リヨンの司教聖エイレナイオスの著書に「異端反駁」、正式には「誤った知の破壊と打倒」というのがある。この書によって、グノーシス派は正式に除外され、四つの福音書以外を異端とした。
「世界は四つの地域があり、四つの風があるように、教会には四つの柱があればいい」
では、なぜこの四つが選ばれたのか?マタイ、マルコ、ルカの三書は同じ話を伝えているが、ヨハネの書はまったく異なることが書かれているという。キリストの生涯をとってみても、他の三書と年代が合わないらしい。それでも、ヨハネの書が加えられた理由は、使徒仲間トマスとの対立にある。キリストが復活したとの知らせを受けても、自分で見るまでは信じないという使徒の話で「疑い深きトマス」というレッテルを貼ったのだ。他の福音書はトマスを崇めているのに、ヨハネの福音書だけがトマスを信仰心に欠けるとした。ヨハネはトマスの信用を傷つけようとした。正確にはトマス信者たちの信用を傷つけようとした。当時、トマスの支持者は数多くいたという。今日でも、インドではトマス派のキリスト教徒が一大勢力を誇っているそうな。
しかし、トマスとヨハネの福音書の間には、根幹に関わる違いがあるという。その違いとは、聖書のそもそもの始まり、創世記の冒頭の一文に関係している。「光よあれ」の部分だ。ヨハネもトマスも、イエスをこの原始の光、すなわち創造の光と同一視している。だが、その先の解釈が大きくずれている。ヨハネは、唯一キリストだけが光を持っているとし、人も含めて世界は永遠に暗闇の中にあると説いた。救済のために光を浴びるには、キリストを信じることによってのみ得られるから、ひたすら祈りなさいというわけだ。一方、トマスは、光は万物の中にもあるとし、それぞれの人の中にも隠れていて、光が見出されるのを待っていると説いた。誰もが神を見出す可能性を持っていて、そのために信じる必要はなく、ひたすら自己を見つめなさいというわけだ。どちらも一長一短があるし、好みもあろう。しかし、一方が正統派と認定されれば、他方は弾圧される運命にある。なんと了見の狭い世界であろう。ちなみに、マタイ福音書第七章七節には、「求めよ、されば与えられん」とあるそうな。これはトマスの解釈に近い。
ある歴史書によると、トマスは東方へと伝道の旅に出て、インドまで到達したという。何千人もの人々に洗礼を施し、教会を建て、信仰を広め、ついにはインドで亡くなった。また、トマスは、インドで三人のマギを洗礼したことでも知られる。本物語は、聖トマスとグノーシス派、更に「聖なる石」という三つの流れを結びつけている。

4. ヴァチカンと対立法王... キリスト教入門 (その弐)
すべてのカトリック教会の祭壇には、聖なる遺物を納める決まりがあるそうな。世界各国で新しい教会や礼拝堂が建てられるたびに、聖人の骨の欠片などの遺物が送られるという。ローマ市内には、素晴らしい遺品から常軌を逸した物体まで、あちこちに聖遺物が散らばっているらしい。マグダラのマリアの足、聖アントニウスの声帯、聖ヤン・ネポムツキーの舌、聖クララの胆石... サンピエトロ大聖堂には、法王聖ピウス10世の全身が、青銅に包まれて安置されているという。最も驚くべき聖遺物は、カルカテの寺院に保存されるイエス・キリストの陰茎の包皮だという。まるでオカルトや。
また、ローマの古い建物には、建物の上に別の建物が建てられることが珍しくないそうな。12世紀、聖クレメンスに献納されたサンクレメンテ教会は、4世紀に建てられた別の聖堂の上に建造されたという。更に、4世紀の聖堂の下には、1世紀にまで遡る古代ローマ時代の異教徒の建物が埋もれているという。ある宗教が別の宗教を覆い隠すといった意図があるらしい。石畳に刻まれた沈黙は、石造の重さとともに闇の歴史の重みを表しているというわけか。
ところで、法王と対立法王が争ったキリスト教の分裂によって、いくつかの秘密結社が組織されたという。対立法王とは、カトリック教会の最高位に就いたが、後に選出そのものが無効だと宣言された者たちである。対立法王が誕生した背景は様々だが、王や皇帝の後ろ盾を得た強硬派によって、正統な法王が地位を追われたり、亡命を余儀なくされた場合が多い。3世紀から15世紀にかけて、40人の対立法王が君臨したという。一番の騒乱期は14世紀で、正統な法王はローマからフランスへと追いやられた。70年間にも渡って、法王たちは亡命生活を送り、その間ローマは腐敗した法王に支配される。8世紀、カール大帝は「聖なる教会」の名のもとヨーロッパを制圧し、自然崇拝を異教として弾圧し、カトリックに改宗させた。
12世紀になると、グノーシス派のような神秘主義の思想が復活する。かつて彼らを弾圧した皇帝たちが、今度は密かに神秘主義を信奉するようになった。教会が、今日知られるようなカトリックの教義へと移っていく一方で、皇帝たちはグノーシス派の教えを守り続け、次第に両者の間で亀裂が深まっていく。そして、14世紀の末に亀裂が表面化する。フランスに亡命していた法王が、ヴァチカンに戻ってきた頃だ。神聖ローマ皇帝ジギスムントは、関係を修復するためにヴァチカンの政治的な後ろ盾となり、庶民の間でのグノーシス派の信仰を禁止すると発表した。だが、貴族階級は除外される。皇帝は、民衆に神秘主義を禁じておきながら、ヨーロッパの王族を対象とした錬金術と神秘主義のための秘密結社を設立した。こうしてできた一派がドラゴンコートの前身かどうかは知らん。

5. アヴィニョンのゴシック建築とテンプル騎士団... キリスト教入門 (その参)
20世紀の初め、フルカネリというフランス人が「大聖堂の秘密」という著書を出したという。その本によると、ヨーロッパ各地にあるゴシック様式の大聖堂に、秘密のメッセージが埋め込まれているという。大聖堂は失われた知識を現代に伝えるもので、「賢者の石」の作り方をはじめとする錬金術の奥義が隠されているという説だ。フランスのアヴィニョンに集中的にゴシック建築物があるのは、石造りの暗号の集まりということらしい。そのゴシック建築にメッセージを埋めこんだのは、テンプル騎士団ということになろうか。
1307年、フランス王と法王は、テンプル騎士団を異端と宣言し、死刑宣告した。これには、秘密の知識や財宝を奪うためではないかという説が有力だという。しかし、2001年に発見された文書「シノンの羊皮紙」によると、1308年、法王クレメンス5世はテンプル騎士団の赦免と解放を宣言したとある。不幸なことにフランス王フィリップは、この宣言を無視して騎士団員の虐殺を続行した。これでテンプル騎士団の歴史は終焉し、一緒にかつてのトマス派、すなわち、グノーシス派も消滅したことになっている。それにしても、法王クレメンス5世は、なぜ方針を変更したのか?秘密の奥義の匂いでも嗅ぎつけたのか?

6. 錬金術の歴史と白い粉末
紀元前1450年、ファラオのトトメス3世は、最高の職人を集めて「偉大なる白き協会」を設立したという。それは白い粉末の研究である。粉末は金から精製され、ピラミッド型の塊をしていたと言われる。それは「白きパン」 と呼ばれ、ファラオのために食用として製造された。能力が高まると信じられたのだ。近代の研究においても、高スピン状態の金属の特性は、主に金と白金で体内に摂取すると内分泌系が刺激され、感覚が研ぎ澄まされるという。最古の記録では、エジプトの「死者の書(アニのパピルス)」に記される。その物質の名は、ヘブライ語では「Mana(マナ)」。マリファナにも聞こえてくるのは、気のせいか?
旧約聖書によると、モーゼに導かれてエジプトから逃れる人々が飢え苦しんだ時、マナが天から降りてきたとされる。モーゼは、優れた知識と高度な技能から、エジプト王位の後継者の資格があると見なされたという。尊敬を集めたために、エジプトの秘密の奥義に触れることができたのかもしれない。旧約聖書では多くの名で記され、マナ、聖なるパン、供えのパン、存在のパン....などと呼ばれるという。旧約聖書には、モーゼが金の子牛の偶像を燃やした場面の描写がある。だが、溶けてどろどろの塊になるのではなく、粉末となってイスラエルの民の聖なるパンとした。モーゼは、白きパンの製造をパン屋に頼むのではなく、ベザレルに頼んだという。ベザレルは金細工職人で、聖約の箱を制作した人物。つまり、パンの正体は金属だったということか?ユダヤ教のカパラにも金の白い粉末に言及している箇所があるという。
「粉末は魔法の力を持つが、良い目的にも悪い目的にも使用されうる」
紀元前6世紀、ユダヤの資料の多くは、ネブカドネザル王がソロモン神殿を破壊した時に知識とともに失われたとされる。
次に白い粉末が登場するのは、アレクサンダー大王の時代。大王の集めた資料には、「天国の石」という物質について記した書があるという。その書には、固体の時は金として本来の重量となるが、粉末に砕かれると羽根よりも軽くなって宙に浮くと記されるという。こうして粉末は、白いパン、天国の石、マギの石...という名前で伝わった経緯がある。
しかし、聖書より後の時代になっても、錬金術の歴史の中で新たな不思議な石が登場する。あの有名な「賢者の石」で、鉛を金に変える石と誤解されたやつだ。17世紀の哲学者エイレナエウス・フィラレテスは、その誤りを指摘しているという。
「純度を極度にまで高めた金であり...固体であるがゆえに石と呼ばれ...最高度に純粋な金よりもさらに純粋であり...外見はきわめて微細な粉末状をしている」
また、仮説の嫌いなニュートンまでも錬金術を研究していたという。彼は、エイレナエウスの同僚だったという事実は、あまり知られていない。同じくニュートンの同僚ロバート・ボイルも、金の精製研究に取り組んでいたが、途中でやめたと断言したという。「人類の秩序を乱し、世界が大混乱に陥る」と。何か恐ろしい現象でも発見したのか?

7. m状態と呼ばれる超電導体
m状態と呼ばれる金属は、まったく新しい元素状態だという。個々の原子レベルにまで分解された金属で、単原子を意味する言葉 monatomic から、m状態と呼ばれる。その粉末を熱すると、溶けて澄んだ液体になり、温度が低くなると再び固まって透明な琥珀色をしたガラス状になるという。ただ、どんな状態においても完全な不活性状態になるため、世界最高レベルの分析装置でも検出は難しいらしい。このような状態になるのは金だけではなく、白金、ロジウム、イリジウムなど、周期表にある遷移金属はすべて可能性があるそうな。つまり、単なる分解ではなく、物質の性質を失い化学反応性がなくなるまで成分分解するということらしい。
m状態の金属は、個々の原子とマイクロクラスターに分けることができるという。物理学的には、逆向きにスピンする2つの対になる電子が原子核に結合し、それぞれの原子が隣り合った原子との化学反応を失った時、このような状態が生じるという。原子が互いにくっつき合うのをやめるってことか?量子間の引力や斥力も失うってことか?んー、難しい...
化学反応性を失っているとはいえ、原子そのものが持つエネルギー量はかなりのものがあるという。それは、エネルギーが原子核を変形させ楕円形に引き伸ばすようなもので、「非対称的高スピン状態」と呼ばれる。隣り合う原子と反応するために必要だった全エネルギーが、自分の内部に溜め込んだようなものか。高スピン状態の原子は、エネルギーを失うことなく他の原子へエネルギーを移動させることができるという。つまり、超電導というわけだ。超電導体へと送られたエネルギーは、力を失うことなく物質の中を流れ続けるらしい。完全な超電導体ならば、エネルギーは無限なのか?
純粋な超電導体は、電磁場に曝すとマイスナー磁場が発生するという。それは、内部磁場をゼロにするから、無限のエネルギーが得られるということらしい。強力なエネルギーのもとでは、マイスナー磁場の中に磁束管が生じ、重力に影響を与えるだけでなく、空間を歪ませる力があるとも言われているそうな。
更に、興味深い研究を紹介してくれる。1984年、アリゾナ州とテキサス州で行われた実験では、単原子の粉末を急速に冷凍すると重量が4倍に増えたが、再び熱すると重量はゼロ以下になったという。ゼロ以下ってどういう意味?天秤の皿に粉末が乗っていない時の方が重いということらしい。つまり、空中浮揚だ。
他の研究では、脳細胞間の交信にある種の超電導が関与しているという説がある。シナプスを通して行われる化学的な伝達だけでは、速すぎる交信スピードが説明できないらしい。超電導によるエネルギーの形態として、あるいは光として、記憶を保つこともできるという。夢の量子コンピュータか?

8. アレクサンダー大王と古代の世界七不思議
世界七不思議を最初に記したのは、紀元前3世紀のアレクサンドリア図書館の司書を勤めたキュレネのカリマコスだそうな。アレクサンドリア図書館といえば、大王の麾下プトレマイオス1世によって建設された。大王の誕生は紀元前356年7月20日とされるが疑わしい。というのも、同日にエフェソスのアルテミス神殿が焼失している。古代の世界七不思議の一つで、プロパガンダ説もある。
また、父親はマケドニア王フィリッポス2世、母親はオリンピアということになっているが、複数の説があるという。大王自身は父がゼウス・アムモーン神だと信じ、半神半人と称している。ゼウスはギリシャの最高神、アムモーンは古代エジプトの太陽神、それらを合体させた信仰である。カリステネスという作家は、大王はフィリッポス2世の子ではなく、エジプト宮廷の魔術師ネクタネボの子と主張したという。大王の両親が不仲だった話は広く知られる。フィリッポス2世の暗殺にオリンピアが裏で糸を引いていたという説もある。
大王は、酒を飲んではしばしば癇癪を起こす一方で、戦場では緻密な戦略家。同性愛の気もあったが、ペルシアの踊り子とペルシア王の娘の二人と結婚した。33歳の若さで世を去ったとはいえ、世界を征服した偉人。征服した地には、古代の世界七不思議がすべて含まれている。短い生涯の間に、ペルシアのダリウス王を滅ぼし、アレクサンドリア市の建設、バビロニア侵攻。ついにはインドまで到達し、パンジャブ地方を支配下に置いた。聖トマスが三人のマギに洗礼を施した地である。大王は、インドの学者と長時間に渡って哲学的な議論を闘わせたという。師アリストテレスの教えだけでは物足りず、知識に貪欲だったとか。
そして紀元前323年バビロンの地で世を去る。死因は不明、病死の説もあれば、毒殺の説もあるし、病原菌に感染したという説もある。大王は、死の床でバビロンの空中庭園を眺めながら死んだという説がある。大王の遺体はバビロンからアレクサンドリアまで移送されたことが、多くの文献に残されるという。3世紀の初め、ローマ皇帝セプティマス(セプティミウス)・セウェルスは、防犯上の理由から大王の墓の一般公開を禁止した。その後、ユリウス・カエサルがアレクサンドリア図書館に火をつけたり、度々アレクサンドリアは攻撃に曝された。軍隊だけでなく地震の影響もあって、4世紀には街の一画が海中に没し、クレオパトラの宮殿や王家の墓などのあったプトレマイオス朝の王宮も破壊されている。7世紀には図書館も跡形がなくなった。アレクサンダー大王の墓も海中に没したという説があるという。

2012-01-08

情報悪魔説

人間界では、ノイズが増幅される現象を「増すゴミ」と呼ぶそうな。もっとも、俗世間では濁らずに「マスコミ」とスマートに呼ばれる。その特徴は、言論の自由を大声で叫びながら、他人の意見を迫害する。そして、なによりも正直者である。けしてデマを流すわけではなく、些細な事実を思いっきり盛り上げ、重大な事実をささやかに報じる。よって、彼らの情報操作は超一流だ!おまけに、クラブとやらを形成しながら、強き者に媚を売り、弱き者をくじく。したがって、落ち目の政治屋は徹底的に叩かれる運命にある。ちなみに、アル中ハイマーも夜のクラブ活動に余念が無い。
...アル中ハイマー著「情報屋理論」より抜粋。

俗世間の圧倒的多数は、残念ながらアル中ハイマーのようなあまり思考しない人々であろう。人間は基本的に面倒で厄介な事を嫌う傾向がある。これだけ情報インフラが発達しながら、いまだにテレビの影響力が強いのは、人間の受動的な性質によるところが大きい。ちなみに、放送とは「送りっ放し」と書く。
情報社会では、情報の質の微妙な差が結果に大きく影響を与える。そして、情報手段が巧妙化し、その手段が目的と化す。大護送船団を形成する大新聞たちが最も洗脳性が高いのは、太平洋戦争時代と大して変わらない。いや、大本営の乱立はむしろ質ちが悪いか。民衆が従来のマスメディアに幻滅し、ソーシャルメディアに走るのも無理はない。だが、そこにも多くのノイズが紛れる。混乱をきたす情報は、欺瞞を目的としたものだけでなく、善意からも生じる。勘違いや誤謬からも偽情報が拡散される。実際、大震災時にかなりのスパムやチェーンメールが出回った。ウォルター・リップマンは、著書「世論」の中で「ジャーナリズムの本質は人間の理性に頼るしかない。」と悲観的に締めくくった。ステレオタイプという現象は人間社会の本質なのかもしれない。かつて情報は、君主制をはじめとする政府側の所有物であった。そして今、民主化が進む中で皮肉にも情報屋の所有物と化す。
ただ、そんな悲観的な状況にあっても言えることがある。それは、情報屋に支配された情報社会を市民が奪い返そうとしていることである。実際、北アフリカや中東で起こった民主化運動は、ソーシャルメディアが引き金となった。肥大していくソーシャルメディアが隠蔽情報を露呈させ、情報の民主化を加速させるだろう。そして、情報発信者が庶民化し、地位や名声といったものに意味がなくなるだろう。ソーシャルメディアは、従来の価値観を破壊するかもしれない。その最終的な目標は、旧体制の破壊であろうか?ただし、人類はむかーしから新しいものに過大な期待をかけてきたけど...

1. 情報量と冒険心
情報社会が高度化すれば、それだけ情報量が増え知識も増えるのだから、賢くなってもよさそうなものである。有識者どもは、世界へ飛び出し、多くを見よ!と助言する。確かに、多くを見聞し、多くを経験することは大切である。旅をすることで、新たな境地を開き、新たな価値観を覚醒させることもあろう。だからといって、現代人が古代人よりも精神が成熟していると言えるのか?古代人よりも知性や理性が優れていると言えるのか?古代よりも、移動手段が豊かになり、情報手段も豊富になったにもかかわらずだ。おまけに寿命まで延びている。ソクラテスの「善く生きる」よりも優れた政治哲学を披露した政治家を、いまだ知らない。アメリカのある大学では、押し寄せる留学生たちの盗作論文に悩まされていると聞く。情報が溢れれば、思考する必要がなくなり、猿真似でも通用するとは、これいかに?冒険の経験から新たな境地を見出せなければ、それは単なる経過に過ぎない...などとアル中ハイマーな貧乏人は僻みを言う。
一方で、建築家ガウディはバルセロナというただ一つの地に留まり作品を集中させた。世界をかけめぐることなく世界を一転させたところに凄みがある。中途半端に世界を知るぐらいなら、足元を徹底的に探求した方が得られるものがあると言わんばかりに。近代社会が生産性を高めてきたのは認めよう。おかげで便利な社会になった。だが、創造性や独創性は孤独より生じ、芸術心は孤独を求める。孤独から思考を発展させる過程は、本質的に変わらないはずだ。

2. 高度な社会と精神の試練
人間社会では、伝統的に社会情勢の変動を察知するために、情報の分析能力が問われてきた。かつて情報を得ることが難しい時代には、情勢の些細な変化を見逃さないために微分的思考が要求された。そして今、瞬時の変化よりも、ノイズに惑わされないために積分的思考が求めれる。
絶え間ない情報の山積が忙殺に追い込み、思考する隙間すら与えず精神を麻痺させる。しかし、自然のリズムは、精神が意図した切れ目切れ目の無音状態を欲する。もし、精神が意図する間もなければ、必然的に絶望という無音状態が訪れる。それはあまりにも静かな状態で、思考すること自体を鬱陶しくさせ、生きる渇望をも失わせる。なぜなら、どん底を知る者のみが生の全貌を知ることができ、死と正面から対峙するようになるからである。芸術的天才たちは、こうした無音状態の反動を利用して、精神を高めるのであろう。そして、思考の深さを測るために、孤独の殻に籠もる。騒がしい社会になるほど孤独愛好家が増えるのも道理というものか。
仲間意識を高めるには、情報の共有ほど効果的なものはない。だが、芸術精神は馴れ合いからは、けして生じない。情報を処理することと、思考することはまったく違うのだ。高度な社会では、生きる者に高度な要求を課す。実体がはっきりと認識できた時代では、感覚的に生きてもなんとかなった。だが、仮想化が進むと、実体がつかめないだけに生き方も難しくなる。そして、しっかり個人を持ち、哲学的思考を持ち、感性を磨きながら直観を信じて生きていくしかあるまい。見識のある専門家の固定化した思考よりも、純粋なガキの直観の方が想像は、はるかに拡がるはずだ。なんにでもなぜ?と喰いつくガキは、最も素朴な哲学者なのだから。

3. 利便性の悪魔と依存症
インターネット接続を権利としている国も珍しくない。基本的人権に崇めている国までもある。確かに、技術は権利を獲得するための手段である。しかし、特定の技術すなわち手段を崇めれば、いずれ誤ったものを尊重するようになろう。なにも、ネット社会が特別に高度な社会というわけではない。社会の一形態であって、社会問題の性格は根本的に変わらない。いくら科学や技術が進歩しようとも、人間精神は置き去りにされたままだ。したがって、特に崇める必要もなければ、特に蔑む必要もない。
新技術に馴染めないオヤジたちが難癖をつけるのも、人間社会の伝統である。一方で、ネット情報を「大衆の叡智」と崇める風潮がある。だが、それも怪しい。真理が多数決に支配されると悲劇だ。いや喜劇か。現実にウィキペディア崇拝者は少なくない。情報の利便性は、エセ情報を拡散させやすく犯罪行為を助長させる。情報の利便性は、思考することよりも検索することに目を奪われ、目的よりも手段を優先させる。ネットに疑問を投げれば、即座に誰かが80点ぐらいの回答をしてくれる。実際、学生が宿題を投げているのを見かける。こうなると、教育の場も宿題の概念を見直す必要があろう。そもそも日本の教育は、思考することよりも生産性を重視してきた。そして、暗記能力が試されてきた。疑問は思考の原点であるはずなのに、わざわざその機会を奪ってどうする。なるほど、思考しない方が幸せというわけか。
社会では、過程をまったく無視して結果だけに目を奪われる風潮がある。ほとんど占い師の思考だ。すぐに結論に飛びつく癖がつくと、ちょっとした想定外にも対処できなくなる。現実に直面する問題には、ほとんどのケースで一般解が存在しない。答えは自分でその場で導くしかない。思考の過程を放棄すれば、情報依存性になるだろう。なるほど、依存できるものがあるだけ幸せというものか。
思考を放棄して情報に振り回されれば、世間は鬱陶しい存在となろう。そして、社会嫌いになり人間嫌いになる。こうして、無理性なアル中ハイマー病患者はアルコール依存症になったとさ。

4. IT系コンサルたちの脅迫観念
高度な情報社会では、情報の優位性を失わせ均衡しそうなものだが、実際には情報格差を助長する。かつて情報は一方的に流されたが、今では情報選択も容易になり、意欲的な個人が知恵として蓄えていく。情報が氾濫すれば、有益な情報を得ることも難しくなり、情報に対する嗅覚という新たな能力が要求される。そして、情報能力は認識格差となる。逆に言えば、認識の立ち遅れを指摘さえすれば、扇動もしやすいわけだ。
利便性の背後には、セキュリティ対策に無防備な人々を蔑む風潮が現れ、自己責任という社会意識が強迫観念にまで高められる。そして、セキュリティ業界が不況になれば、自らウィルスもどきもをばら撒けば存在感を強調することもできる。通信業界の横暴も目立つ。通信サービスは、課金される方向に誘導され、面倒くさがり屋の年寄りが餌食となる。通信契約込みで、iPadなどの端末を無料で配るという誘惑は、しっかりと高額な通信費が請求される仕組みになっている。外部通信を遮断してWiFi端末化しておけば、元はとれそうだけど...ゴホゴホ!いずれにせよ、知らないユーザがボラれる構図は変わらない。
ITコンサルたちは、フォローされなければ意味がないとか、上位にランクされなければ存在すらしないなどと脅しやがる。コンサルを「混乱させる猿」と誰が言ったかは知らん。いや、「混乱する猿」だっけ?
しかし、日記という文化はネットのない古き時代からあった。誰に見せるわけでもなく、誰に読まれるわけでもなく、ひたすら自己満足に浸る世界だ。自己啓発のために書く人もいるだろう。注目数にこだわる、つながりにこだわる、精度にこだわる、完成度にこだわる、はたまた愚痴のはけ口にする、これすべて自己満足の世界である。そぅ、人間は自己満足の世界を生きることぐらいしかできないのだ。匠たちは、自己満足のレベルを最高度に求めるように自らに課すことのできる、純粋な知性の追求者と言うことができようか。
仮想化社会は、友人の概念までも変えつつある。いまや顔を知らない仲間が大量に創出される。フォロー数で友人の数を競い、フォローがなければ孤独に苛む。しかし、人生において、たった一人の親友を得ることが、どれほど難しいことか。少数の強い結びつきは、多数の弱い結びつきで補われる。なるほど、エネルギー保存則としては等価というわけか。都合が悪くなれば、さっさと縁(線)を切ればいい。もともと無線か。人間嫌いには、実に都合のいい社会である。

5. ヤラセの専売特許は誰のもの?
原発事故後、某電力会社の原発世論を誘導するヤラセ問題が明るみになると、大手マスコミはこぞって大批判を展開した。確かに、けしからん!だが、ヤラセという手法は、昔から積み重ねてきたマスコミや企業広告の得意技である。ネットの売れ筋やオススメといった統計情報も怪しいもんだ。なるほど、報道屋は自分の専売特許を侵害されたことに憤慨しているのか。
大手マスコミは、自分に向けられる批判を最小限にしか報じない。いや、もみ消す。あるいは、現在進行中の民衆にとって不都合な情報を知りながら、ずっと後になってから知らなかった振りをして大批判キャンペーンを展開する。なにも真相が週刊誌やネットなど他のメディアにリークすることは驚くに値しない。それが彼らなりの正義なのだから。そもそも、民主主義の根幹的手段となっている選挙がヤラセではないか。テレビが政治屋たちの選挙運動に協力しているではないか。

2012-01-01

人間悪魔説

親鸞曰く、「善人なほもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

所詮、人間ってやつは誰もがゲスでね。大金を前にすれば目が眩む。保身のためならなんでもやる。人間ってやつは思ったより善ではない。だが、思ったより悪でもない。自己の存在に罪を認めるような人でなければ、理性なるものは獲得できないのかもしれん。となれば、社会を理性へ導くはずの政治屋どもが、悪徳を尽くすのも道理というものよ。
悪の力は善の力よりも強い。どんなに物が満たされようとも、どんなに知が満たされようとも、自己満足は一瞬のうちに過ぎ去り、精神ってやつはけして満たされることはない。人の世とは、まるで狂気の沙汰よ!精神が空想へ向かえば欲望は無限となり、実体なきものは真に実体なきものへ回帰する。
しかし、精神の天才たちは欲望を匠へと向ける。修羅の妄執がごとく自らを芸術の域へ導く。永遠に到達できないことを覚悟しながら、孤独を怖れる様子もない。これが微分学の美学というものか。人間というものは、理論よりも本能が優先する。本能を潰してまで正論を導くなら悪魔の眼が必要となる。故に、芸術的天才たちは概して狂人となろう。
善人は気楽なものだ。相互関係に安眠しながら、社会制度に安住しながら、平然と死んでいく。人間ってやつは官僚体質に陥りやすい。権威主義に陥りやすい。政治も、役所も、企業も、そして、個人も。常に防衛本能が働き、安住したい、楽をしたい、という衝動が働く。避けられない現実には目を背け、保留の思考が働く。これが悪魔の思考ってやつだ。よって、常に思考の検証が必要となる。それは死ぬ瞬間まで続く。そう運命づけられているだけのことよ。
一旦、悪徳を了解しちまえば、悪魔はいつでもハーデスの門から誘惑してくる。その証拠に、夜の社交場の門をくぐれば、自己陶酔者は小悪魔にイチコロよ。ちなみに、医学には「疾病失認」という用語があるという。自分が病気だと気づいていない状況を指すのだそうな。まさに悪魔は、脳の中に亡霊のごとく隠れ住む。
...アル中ハイマー著「自我失認論」、序説「ハーデスからの使者」より抜粋。

「狂ったこの世で狂うなら気は確かだ。」...シェイクスピア「リア王」より。

「正義」という言葉に照れくささを感じるのは、自我に悪魔が住み着いた証しであろうか。おろらく潜在的には、自分のことは自分が一番よく分かっているのだろう。厄介なのは、自己は都合の悪いことから目を背ける習性があることだ。けして悪性を認めようとしない。それは、自己の存在そのものを否定することになるからである。知り尽くしていれば、欺瞞するポイントもよく心得ている。そして、自己に盲目となる運命からは逃れられない。元FBI捜査官クレオン・スクーセンは、どんな凶悪な犯罪者も自分が悪いとはけして思わないと語った。どんな悪事も何かのせいにすることができる。ある時は生い立ちのせいに、ある時は社会のせいに、何事も正当化しながら自己完結させるのは容易い。自己が自己を冷静に観察できないのであれば精神の合理性を欠く。精神は永遠に自己評価できないだろう。自分が愚かだと薄々気づきながら、それを悟るのは精神にとって最も難しい試練である。そして、自己を欺きながら、傲慢に振舞うことが自己の存在を確認する手段と化す。俗世間の泥酔者に自己犠牲など無縁というわけだ。
人間が悪魔へ邁進するとなれば、腐敗した文明を一旦リセットすることが、氷河期の役目であろうか?神にもチャラにしたいものがあるらしい。そこで実践的方法として、自我は第三者の指摘を必要とする。だが、他人からの指摘にも欺瞞が紛れ込む。結局、何を信じていいのか分からず、精神は意志の強さと頑固さの狭間で揺れ動く。精神に憎悪の性質があるのは、自我投影に対する恐怖心の裏返しであろうか?だとすると、悪魔が真理を悟れば自ら命を絶つしかあるまい。自殺とは悪魔を退治することなのか?天才たちはそれを悟ったというのか?
人間は、自然界において存在する。にもかかわらず、「自然」に対して「人工」という言葉を編み出したのは、人間が無意識に悪魔を自覚しているからであろうか?人工物が愚行の記念碑に過ぎないことに気づいているからであろうか?自我の征服は、自然の征服と同じぐらい難しい。いずれ自然界が、自我も悟れない悪魔を抹殺するだろう。ちなみに、天文学では、月の軌道は地球から徐々に遠ざかっているという。人類のツキもだんだん遠ざかっているのかもしれん。

1. 悪魔どもの忘年会
忘年会とは、その年の苦労や失態をきれいサッパリ忘れましょうという美しい会である。なのに、忘年会での失態は、いつまでも忘れてくれない。もう十年にもなるというのに。武勇伝は永遠に語り継がれるというのか?せっかく理性ある酔っ払いを演じてきたのに、そりゃ、悪魔にもなろうというものよ!よって、忘年会とは、その瞬間をけして忘れない!遺恨を引きずる醜い会なのであった。

2. 悪魔進化論
生きた化石と呼ばれる生物は、地球の究極の環境変化による大量絶滅の時代を幾度となく生き延びてきた。それは、これ以上進化する必要がないという究極の自己満足を獲得した結果であろうか?人類は、生きた化石の生命領域を侵してまで、進化しようとしている。これは悪魔への進化か?だが、生きた化石と呼ばれる生物たちのようには、大量絶滅の時代を生き残ることはできないだろう。
「商売は儲けすぎてはならない、欲を持ちすぎてはならない」という価値観は、既にシルクロードの東西交易で活躍したソグド人の時代に記録として残されるという。だが、人類は三千年もの古い価値観といまだに対峙している。歳を重ねたからといって、物分かりが良くなり、他人のことを考え、欲望がおさまるとは到底思えない。むしろ、確実にあさましくなっている。人間社会には最も功利的な毒々しい計算がつくされる。他人から許されたいがために、他人を許そうとするなど、子供同士の馴れ合いのような道徳律がまかり通る。はたして人間精神は成長しているのか?草食系人種は絶滅してきたのか?あるいは自殺してきたのか?エントロピー増大の法則とは、悪魔への片道切符を意味しているのか?
巨大な富を獲得した成功者が、突如として巨額の寄付をしたり慈善団体を設立したりする。散々周囲を蹴飛ばしておきながら慈善家を気取る。こうした行為は、過去への償いであろうか?欲望の限りを尽くした時に、理性なるものが見えてくるというのか?となると、大人たちはますますモンスター化するしかあるまい。なるほど、歳を重ねれば、足が臭くなり、口が臭くなり、酒の席で醜態を演じながら、精神が腐っていくのを感じる。

3. 悪魔のセールスマン
社会には、人類愛や博愛を叫ぶヒューマニストたちがいる。人間を自然の姿で愛する者、人間を教説で導かないと気が済まない者。はたまた、同意を得て救済しようとする者、意に反しても救済しようとする者。おまけに、生を愛する者、死を愛する者などなど。ヒューマニストたちは互いにいがみ合う。それは、個人としてであって人間としてではない。彼らは等しく有識者と呼ばれる。ヒューマニストたちが、癒し系の言葉で感傷に浸りながら、人間中心主義を生み出すとは皮肉だ。その典型が友愛型政治屋で、正義のセールスマンを自負する。彼らは隣人愛や友愛を善とし、なにびとも愛せよ!と叫ぶ。なのに、浮気だけが特別に軽蔑されるのはなぜか?そこに性行為を伴うからか?いや、教祖様はなにびとも肉体的に愛するではないか。聖職者とは、生殖者か?性色者か?なるほど、政界を裏で牛耳ったとされるラスプーチンと同じ遺伝子を受け継いでいるようだ。ダンテは「地獄への道は善意で舗装されている」と言ったとか言わなかったとか。悪魔ほど善人づらをしているものだ。
ところで、正義とは何か?悪をやっつける奴が正義だと定義すれば、悪が存在しなければ正義は成り立たない。そして、正義が存在しなければ悪魔も成り立たない。互いに存在を助け合うわけか。したがって、宗教家や有識者どもが、悪魔のセールスマンとなって正義を演じるのも道理というものである。なるほど、神の代理人と称する人間がわんさといるわけだ。

4. 悪魔の自己増殖
人類は、精神を獲得した自己を崇め、それ以外の動物をケモノやケダモノと呼んで蔑む。だが、人間は獣を食して生き長らえている。そぅ、自ら蔑んだ無能な生き物たちによって身体を形成しているのだ。ならば、人間自身を獣の類いと蔑んでも不思議はあるまい。どうして脂ぎった欲望を捨てられようかと。だからといって、いまさら植物だけを食しても無駄だ。どうせ遺伝子からは逃れられない。ちなみに、ヒトラーは菜食主義を宣言した後に大悲劇を実施した。
動物や植物は自然との関係から数が抑制されるが、人間のみが数に制限を与えない。日夜、不老長寿を願い、永遠の生命までも欲する。健康ブームはいつの時代も大盛況だ。おまけに、少子化問題を大声で叫び、些細な人口減少を民族滅亡かのようにはしゃぐ。わざわざ少子化担当大臣という女性用ポストを設けることに、なぜフェミニストたちは目くじらを立てないのか?世帯を持つことを奨励し、いや、持たないと自立できない者と蔑み強迫観念を押し付ける。子供を産んだ女性は、勝ち誇ったように独身女性を見下す。大人たちは若年層のひきこもりや働く意欲を見せないことを嘆くが、現実に若年層の求人率が低いままというのをどう説明するのか?おまけに、定年延長で職場を圧迫すれば、自発的失業者をますます必要とする。
一方で、情報化が進み、債券や物価などあらゆる価値が柔軟に変動する時代に、労働賃金だけが今なお硬直化したままだ。現実に、社会保障を自ら放棄する非正規労働者の存在が経済に柔軟性をもたせている。なのに硬直化した正規労働者の方が大きな顔をするとはどういうわけか?人口増殖が産業を枯渇させ、社会を困窮に追い込んでいる。人類はいまだ、人口を抑制する術を戦争か疫病ぐらいしか知らない。住みにくい社会ともなれば、草食系と呼ばれる人種が現れる。これは古くからある社会現象で、いつの時代にも、社会の様を嘆き、政治の様を嘆き、学問に救済を求めてきた人々がいた。少なくとも、バブルの脂ぎった時代に出世した連中よりも、就職難で苦しむ若者たちの方が、物事を深く考えているだろう。
はたして、人口を増加させようとすることが理性的な思考なのか?はたまた、人口を抑制しようとすることが理性的な思考なのか?俗世間の泥酔者にはさっぱり分からん。ただ、理性があるとされ、有識者と呼ばれるほとんどの輩が少子化問題を口にする。長寿大国日本!それは最も欲望を享受している国ということではないのか?伝統的に「今の若い奴は...」と説教されてきた。今では「今の年寄りは...」とつぶやかれる(tweetされる)。

5. 悪魔の政治
国家の在り様には、根源的に二つの思考がある。一つは、人間は生まれながらにして善人であるとする考え、二つは、人間は生まれながらにして悪人であるとする考え。前者は、人々に自由裁量を求めた挙句、無法な振る舞いが横行する。後者は、規制で縛りつけた挙句、堅苦しい世の中となる。どちらも、思考が悪知恵へと進化し、重苦しい世の中になるのは同じか。精神を獲得した知的生命体は、生まれた時から思惟するように宿命づけられる。そして、より生活を楽にしようとし、より幸せになろうとし、多くの道具を編み出しながら生産性を高めてきた。生産を余儀なくされてきたのは、消費の裏返しであり、欲望の顕れである。歴史を振り返れば、多くの種族が困窮と飢餓によって死滅し、同時に強力で貪欲な種族が弱肉強食という競争原理を生き残ってきた。そして今、ほんの一握りの強力で貪欲な経済人たちが富裕層を形成している。なぁーに、支配層が君主から経済人に移っただけのことよ。
人類の経済政策は、いまだ消費拡大と人口増加を煽ることしか知らない。しばしば偉大な才能が過ちに利用され、その能力の程度に人類の負の遺産を生みだしてきた。そこには、君主の暴走や官僚的腐敗など、必ず政治との結びつきがある。いまや、政治が必然的存在なのかも疑わしい。社会人類学者レヴィ=ストロースは、原始文化の研究において「首長の政治力は、共同体の必要から生まれたものではないように思われる」と語った。ニーチェ風に言えば、余計な人々というわけだ。政治屋は政界だけに存在するのではない。集団社会の存在するあらゆるところに寄生する。比較的ましな世の中にしたければ、才能豊かな人々の創造力に委ねて、凡人が邪魔をしないことだ。だが、凡人ほど知識で武装して、存在感を強調する。乏しい能力ほど他人に認めさせようという欲望が働く。これが政治屋気質というもので、ここに人間社会の矛盾の根源がある。
政治の歴史を眺めれば、純粋な観念の持ち主が決定的な役割を演ずることは稀である。18, 19世紀には独裁制の醜態を曝け出し、20, 21世紀には民主制の醜態を曝け出す。どんな政治体制もいずれ腐り果てるであろう。では、人類が次に改良した政治体制を獲得するのは何百年先であろうか?既に、人類滅亡へのカウントダウンが始まっているのかもしれない。いずれにせよ、自然法則に逆らう現象は葬られるであろう。政治には絶えず毒を以て毒を制すの原理が働く。